久慈春嗣(くじはるつぐ)ことハルが智の存在に気づいたのは一年ほど前、二人が小学四年生の時であった。
 同じクラスになったことがないながらも、智の存在だけは認識していたのだが、あるときアジサイ同様、智が校庭の片隅に咲くパンジーをしゃがみこんだまま随分と長い間見入っていた。ハルは下校時、その一部始終を遠くから見ていたのだった。同学年の中でも頭一つ飛び出た長身、に似合わぬくりくりとした黒目がちの瞳とぷっくりとした頬は実年齢よりも幼さを残している。利発そうな眼差しは、いつでも真剣だった。ハルはこの頃やけに智が目につくなあと思っていたが、それは勝手に目につくようになったのではなく、ハルの目が無意識にいつも智を探してしまっているからなのであるが、ハル自身まだ気づいていなかった。

 そうして目で追うだけの期間が続いたが、あのアジサイの日、ついにハルは意を決して智に声をかけたのだった。雨に濡れていることもお構いなしにアジサイを見つめ続ける智に、傘を差し出すと言う口実と、濡れると風邪を引くよと声を掛ける口実、ふたつの大義名分があったから。
 緊張しすぎて予想外に乱暴な物言い、しかも思いのほか大きなボリュームになってしまって、ハルは自分でも驚いてしまったほどだ。初対面からこんな声かけをされて、智はなんと思っただろう。初めての接触としては大失敗だとハルは泣きそうになったが、返ってきたのはそんな不安な気持ちをも拭い去ってくれるような微笑み。そしてついに一緒に帰るという念願の野望を果たせたのであった。

「君は何年生?」
 智はハルの存在を知らなかったようだ。ただでさえ長身の智と、学年平均よりも身長が低いハルとでは、ぱっと見同級生に見えない。
「五年一組の久慈春嗣」
 ハルの口調はまたも想いに反してぶっきらぼうになってしまい、内心とても慌ててしまう。
「そうなんだ、僕も五年だよ! 僕は――」
「三組の永倉智、やろ」
「うん。知ってたんだ?」
「……う、ん」
 雨粒が傘を穿つ音が邪魔をして、互いの声が聞き取りづらい。けれどこの心臓の音を雨音がかき消してくれるから、真っ赤な顔を傘が隠してくれるから、今日が雨でよかったとハルは思った。
 やがて二人が別の方向に曲がる交差点に着いた。
「ま、また、話しかけてええ?」
「え? うん、もちろん」
 おかしなことを訊くなあ、というふうに少し驚いた様子で、首を傾げながら智は返事をした。
「じゃあまた明日、学校でね!」
 屈託なく手を振る智に、落ち着いていたハルの心臓がまたもうるさく騒ぎ出した。

「ハルお帰り、まだよう降っとった?」
「はぁ……」
 母の声にも無反応なまま、ハルは心ここにあらずという面持ちでふらふらと自室に籠もった。
 すごく緊張して、嬉しくて、ドキドキして、夢みたいな時間だった。勇気を出して話しかけて良かった、としみじみ思った。
 けれどハルはそれがどういう感情なのか全く理解していなかったし、どういうものなのかと答えを探すこともしなかった。ただ嬉しくて、いつまでも心が躍っていた。それが何故かはわからないし、わからないことにすら気づかないまま。