戸惑いの神嫁と花舞う約束 呪い子の幸せな嫁入り

 争いに次ぐ争いに揺れた世から幾星霜。
 安寧が齎され、人々が平らかな世を謳歌する時代にて。
 二人の記憶は、いつも花の庭と共にあった。

 うららかな陽射しを浴びて咲き誇る季節の花に溢れる庭に、一人の娘の姿がある。
 嬉しくて仕方ないといった様子で歌を口ずさみながら。蝶のように一つの花を愛でては次へ、また次へと微笑み巡る。

『弦音』

 軽やかで踊るようだった足取りが、不意にかけられた男の声でぴたりと止まった。

『矢斗様! ……見てらしたのですか?』

 娘が声に驚いてそちらを見れば、堂々たる体躯を持つ黒髪の美丈夫の姿がある。
 常ならぬ霊威を纏う存在を目にした瞬間、思わず悲鳴をあげかけたが何とか堪えた。
 弦音と呼ばれた娘は、いささか気まずそうな様子で視線を彷徨わせる。
 自分でも些か浮かれすぎかと思っていたけれど、春の日差しの元で童のように花を見てはしゃいでいた姿を見られたのは恥ずかしい。
 恐る恐る、何時から見られていたのだろう、と自身が矢斗と呼んだ男性を見つめて黙り込んでしまう。

『もう少し早く声をかけようと思ったのだが。その、あまりに愛らしくて』

 すまないと謝りながらも優しく笑いながら言う矢斗を、ついつい少し膨れながら見つめてしまう弦音。
 彼の言葉に裏も表もないことを知るからこそ、頬は我知らずのうちに赤みを帯びる。
 しかし気を取り直すように一つ息を吐くと、殊更取り澄ました様子を作りながら再び口を開く。

『わ、わたくしは一族の巫女であります故。……はしたない行いは慎まなければなりません。どうか、今見たことはお忘れ下さいませ』

 その言葉の通り、弦音はある名家において巫女とたたえられる立場にある者だった。
 彼女の存在は家門にとって大きな意味を持ち、平素は顔を合わせることが出来るものとて限られている。
 身を慎み、家の名を保つために尊くあること。それが弦音に課せられていることだった。
 それが、花が美しくて心浮かれて子供のようにくるくると跳ねまわっている姿を見られたとあっては、何とも情けない。

『貴方は、そのままであるのが良いと思う。澄ましているより、余程好ましい』

 ばつが悪そうに身を縮める弦音を見て、矢斗は優しい苦笑いを浮かべながら、ごく自然な声音で口にする。
 またも飾ることも隠すこともない純粋で素直な好意に、弦音は思わず両手で頬を抑えて俯いてしまった。

『……夕星様は、すぐそのようなことを仰る』
『私の天乙女は、すぐそのように照れる』

 恥じらいながら特別な名を呟く弦音に、同じく特別な名が返り、慈しみのこもった言葉がかけられる。
 この方は、いつもこうだ。弦音は耳まで赤くなっているのを感じながら、裡にて呟く。
 崇敬を受ける尊い立場にありながら、矢斗はいつも弦音へと飾らぬ温かな心と称賛を向けてくる。
 本来であれば姿を見る事すら畏れ多い存在であるのに、いつも弦音にとっては温かく慕わしい存在であり続けるのだ。
 そう、本来であれば定められた者以外が言葉を交わすことすら憚られるほどの御方であるというのに……。

幸嗣(ゆきつぐ)が、弦音に(せん)を頼みたいと言っていた。頼めるだろうか』

 矢斗の口から聞こえた名は、聞き覚えのある名だった。
 今は政権が武家の頂点のものとはいえ、長きにわたり繋がり人々の上に在り続けた万乗の存在に始まりより仕える名家。
 四家と呼ばれる四つの家門のうちの一つ、北家の現当主の名である。
 矢斗の口からその名が出ることは不思議なことではなく、彼が北家の当主の願いを携えてくることも不自然なことではない。
 ただ。

『北家の祭神である貴方が、またそのように使い走りのようなことを……』

 弦音は不躾にならぬように抑えつつも、溜息交じりに矢斗へと眼差しを向ける。
 少しばかり困った風に笑う美しい男性は、人ではない。
 始まりの帝が有しておられたという武具が人の形を取り転じた付喪神であり。北家が祭神として祀る偉大な存在なのだ。
 如何に当主の願いとはいえこのように自ら足を運んで、頼みごとをするような立場ではない。むしろ、用向きがあるならば弦音に出向かせるべき方だ。
 その理由が、如何に『口実』なのだとわかっていたとしてもつい口に出てしまう。
 軽く咎めるような気配を感じた矢斗は、やはり困ったように笑っていたが。
 やがて、弦音を見つめながら目を細め、静かに言葉を紡ぎ始める。

『偉そうにふんぞり返るのは性に合わない。それに……』

 矢斗が柔らかな眼差しにひとひらの想いを滲ませ呟いた瞬間、不意に強い風が生じ。彼の言葉の続きはかき消されてしまう。
 でも、弦音に聞こえたような気がした。

 ――貴方に、会いたかった。

 風に攫われた愛しさこめられた言葉は、弦音の中にもある想いであり。
 同時に、互いにけして伝えてはならない言葉でもあった――。

 弦音は、とある古くから続く名門に生まれた娘だった。
 強き異能をつたえてきたはずの家門は近年頓に異能者の数を減らし、傾き始めていた。
 そんな中、弦音は目覚ましい程の強い力を持って生まれ、一族を支え導く巫女として祀りあげられた。
 一族の神域とされる庭にある離れにて、接するものとて限られた中で暮らし。身を慎み、ただ一族の為に生きる日々を送る。それだけが弦音にとって許された全てだった。 
 しかし、ある時。狭く限られたものだった弦音の世界に、矢斗は現れた。
 祭神が怪異を討伐する際の助力を願いたい、という北家の当主からの要請を受けて、弦音は初めて外の世界にでることを許され彼と出会った。
 四家の一つ・北家が祀る尊き祭神である弓神が弦音を出迎えてくれた時に見せた、優しい微笑をきっと忘れることはない。
 怪異討伐は恐ろしくはあったけれど、弦音は矢斗をよく助け、恙無く済んだ。
 そしてその出来事以来、矢斗は折に触れて足繫く弦音の元を訪れるようになる。
 矢斗が弦音の元を訪れる度に、募る想いがある。それは、時を追うごとに増していき、苦しい程に心を占めていく。
 お互いに、それを口にしてはならぬことを知っている。
 でも、互いに同じ想いがそれぞれの裡にあることも知っている。

 ――弦音は、矢斗に恋していた。

 そして、矢斗もまた、弦音に想いを寄せてくれていることを知っていた。
 矢斗は、弦音を己の伴侶に……『神嫁』と呼ばれる存在にと望んでくれていると伝え聞いたことがある。
 けれど、彼女が一族の巫女という立場にあるからこそ。告げたとて弦音が受けられぬことを知るからこそ、矢斗が弦音に対してその申し出を口にすることはなかった。
 そして弦音の家門もまた、如何に名誉な神の伴侶であるとしても、と言葉に依らずに拒み続けている。
 凋落しつつある一族の権威を支える為に生まれた綺羅星を、他家に差し出すことなどできない。万が一に婚姻を許すとしても、それは家門の者相手でなければならない。
 家の者達は、無言のまま拒絶を続けたという。
 弦音が北家の者であったなら、例え巫女であっても特別の取りなしも出来ただろうが、何せ他家のこと。
 北家の当主が家門の力を以て無理にでも話を通そうとしたのを、力を持つからこそ留まるべし、と制したのは他ならぬ祭神自身だという。
 正式な『神嫁』の申し入れが為されることなかったが、その代わりのように矢斗は北家の主の願い事を携えて、弦音の元を訪れるようになる。
 北家当主の願いを携えた矢斗を拒むことは、北家を拒絶することに等しい。
 だからこそ苦々しく思う家の者も、矢斗の訪れを阻止することが表立って出来なかった。
 或いは、閉じ込め籠の鳥にした娘への、せめても情けだったのかもしれない。
 弦音と矢斗は、お互いがそれぞれの立場にあるからこそ、心の裡にあるものを伝えることが許されず。代わりに、巡る季節を弦音にとっての世界といえる奥庭にて共に過ごした。
 春の彩の中で微笑みあい、夏の翠の中で軽やかに笑い声をあげて。
 秋の紅葉の中で共に目を細めて、冬の白の中で黙したまま寄り添って。
 ささやかな会話を愛おしく感じ、笑みには自然と笑みが返る。
 言葉が無くとふとした拍子に互いの温かさと、結びついた心を感じる。
 矢斗は、弦音を『天乙女』と呼び、弦音は矢斗の瞳を宵に輝く星になぞらえて『夕星』と呼んだ。
 二人でいる時だけの特別な呼び名。それが、二人にとって許された全てだった。
 ただそれだけで良かった。多くを望まないと……だから何時までもそんな日々が続けば良いと、二人が共に口に出さずに願っていた。

 けれど、そんな淡い願いを嘲笑うかのような出来事が起きてしまう。
 家門が傾きゆくことを認められず、現実を受け入れることを拒み。取りつかれたように再起を願った家門の者達が禁じられた儀式を行ってしまったのだ。
 その結果……古き時代に封じられた大いなる災いである怪異――鵺が解き放たれたのである。
 弦音は一族の巫女として制御を失った鵺と相対することを決意し。破邪の弓の現身たる矢斗は、時の帝の命により共に討伐にあたることとなった。
 だが、鵺を倒すことは容易ではなかった。
 何故なら、鵺は『死』を持たない。現に形を持たず、それ故に死という概念そのものを持たない怪異なのである。
 矢斗は自らの本体である弓を以て鵺を射抜こうとするけれど、矢は鵺をとらえきることが出来ずに居た。
 弦音も矢斗も焦れていた。
 今はまだ、鵺は完全に解き放たれてはいない。だが、このまま彼らが消耗し続ければ、いずれ逃亡を許してしまう可能性がある。
 それがわかるからこそ、鵺は敢えて本気を出さず、二人を嘲笑うのだ。
 もし少しでも隙を突かれ、鵺の逃亡を許してしまったら。世は大きな災いに見舞われ再び乱れ、人々が苦しむこととなる。そうなってからでは遅いのだ。
 この場から鵺を逃がすわけにはいかない。何とか、鵺に終わりを与えなければいけない。
 恐ろしさに震えそうになる。矢斗の手を引いて、逃げだしてしまいたいとも思う。
 けれど、使命を捨てるには弦音はあまりに巫女であり過ぎた。人の為にと、あり過ぎた。
 目の前には、様々な獣の特徴が入り交じる禍々しい姿の怪異が、二人を嗤いながら揺らめいている。
 現の器を持たないからこそ、決定的な一撃が与えられない。
 鵺は、存在そのものがもはや概念のようなもの。故に一度解き放たれてしまえば、討伐することが容易ではない。
 ならば、形を持たぬものに死という概念を与える為には。
 その時、弦音の脳裏にある考えが浮かんだ。
 今この場でとれる、最良にして最悪な。唯一といえる方法が。
 再び封じることが叶えばよいだろうが、鵺を封じた祭具は怪異が制御を外れた段階で既に消失している。
 ならば、封じる先を――。
 とある選択肢に思い至った弦音は、動きを止める。
 それを可能とする為の術は、弦音にはある。弦音の持つ異能と、覚えた秘術を以てすれば可能だ。
 だが、恐らくそれを矢斗が知ったなら間違いなく止めるだろう。
 だから。

『矢斗様。……どうか、お許し下さい』
『弦音……?』

 一言、俯いたまま小さく零した弦音に、矢斗が怪訝そうな声をあげた次の瞬間。
 弦音は全身全霊を以て、とある術を展開し始めた。
 力が弦音に集うと同時に、弦音と、鵺を中心とした場所に不可思議の風が渦巻き始める。
 矢斗が弦音の名を叫んでいるのが聞こえるけれど、弦音は応えない。
 応えてしまえば、決意が鈍ると思ったから。だから、弦音は裡にある感傷や未練を断ち切るように振り向かず、鵺を見据えた。

『……お前は器を求めるのでしょう? なら、私の身体をあげる』
『何……?』

 憎らしい程に余裕を崩さぬままだった鵺が、ようやく僅かに戸惑った声をあげる。
 器を持たない鵺は、かつて度々仮初の器を手に入れては災いを引き起こしたという。
 命を持つ器であったり、持たぬものであったり、言い伝えには様々語られている。
 だが、自ら器となると言い出したのは、恐らく弦音が初めてであろう。
 今の今まで自分と対峙していた女が告げた言葉に、さすがの怪異も動揺を見せる。
 怪異と祭神、二人がほぼ同時に戸惑いの叫び声をあげたのが聞こえた。
 それでも揺らがぬ眼差しを以て、弦音は鵺を見据えて告げる。

『けれどその代わり……もう、そこから逃げることは出来ない……!』

 矢斗は、その言葉にて弦音が何を考えているのかに気付いたようだった。
 今から弦音は、自ら鵺の器となる――そう、鵺にとっては最後の。
 弓神は咄嗟に弦音を止めようとしたけれど……それよりも一瞬早く弦音の術は完成する。
 次の瞬間、怪異があげたこの世のものとも思えぬ叫び声がその場に響き渡った。
鵺は激しく抗うけれど、弦音は鵺の抗いを全力で抑えつける。
激しい攻防が為され。やがて、ほぼ無理やりに弦音の中に鵺は招じ入れられ。
同時に、弦音の身体には強固な封が為され。
 吸い込まれるようにして鵺は、弦音の身体に完全に閉じ込められていた。
 渦巻き続ける風の最中に立つ弦音を、蒼褪め強張った面持ちの矢斗が言葉を失い見つめている。
 多分、矢斗は気付いただろう。この後、弦音が何を望むのかを。
 それを告げることでどれだけ彼が悲しむか知っていてもなお、弦音は哀しげに顔を歪めてそれを口にする。

『お願いです。このまま私を……私ごと鵺を、撃って……!』


 内側にて、正気か、と漸く鵺の声に焦りが生じる。
 そして、目に見えて鵺は弦音の内側にて暴れ始め、やがては弦音を裡から食い尽くそうとし始める。
 逃れようともがいているのがわかるけれど、弦音は持てる全てを以てして自らの身体を封じ続けた。
 死を持たぬものに、死という終わりを与えるには――それを持つ器に封じて、その器に死を与えるのみ。
 そう、封じるだけではだめなのだ。
 封じただけでは、鵺はやがて弦音の魂を喰い尽くし。この身体を新たな器として現世に顕現するだけ。
鵺を倒すには、鵺を封じ逃げ場を奪った後に器が……弦音が死なねばならない。
 そして弦音が鵺を封じることに全てを費やしている今、それを為せるのはただ一人――。

『私に、貴方を殺せと……。それを、貴方が願うのか……!』
『死を持たぬものに死を与える為には。これしか方法がないのです……!』

 目の前にある現実を拒むように、矢斗は頭を激しく左右にふり叫ぶ。
 自らの手で共に戦いに望んだ仲間であり、唯一人と想う相手である者を殺せというのかと、愕然とした面もちで。
 だが、鵺を解き放つわけにはいかないのだと、矢斗もまた痛い程に知っている。
 使命を拒み弦音を選ぶには、彼はあまりにも神として人々を庇護する存在でありすぎた。
 弦音は、一筋涙を零しながら矢斗の手による死を希う。
 死を願いながら、心の裡にて呟く。
 せめて、終わりは愛しい貴方の手でと望んでしまった私を。どうか許して下さいと……。

 矢斗はそれ以上何も言わなかった……言えなかった。
 激しい逡巡があったように思えた。果てない葛藤があったように感じた。
 長い、長い。何時までも続くかと思われた長い沈黙の後。
 遂に矢斗は矢を番え。弦音を己の本体である弓を引き、射抜いた――。

 弦が弾かれる澄んだ音が弦音の耳に届いた瞬間、彼女の心臓を弓神の矢は過たず貫いた。
胸に焼けつくような激しい痛みを感じたのと同時に、弦音の中の鵺があげる断末魔の叫びが聞こえた。
 内外に生じた奔流と苦痛に、激しく翻弄され、倒れ。気付いた時、弦音は矢斗に抱かれ、身体を抱え起こされていた。
 弦音の内側で、悶え苦しむ鵺の気配が徐々に徐々に弱弱しいものに転じている。
 破邪の弓の神威によって射抜かれた怪異は、現の器に封じられてしまったが為に逃げられず。器が――弦音が死に瀕しているからこそ、初めて死というものを知ろうとしている。
 鵺が弱まりつつあると同時に、弦音の命の灯火も消えつつあった。
弦音は、静かに矢斗を見上げた。
 血を流す程に唇を噛みしめながら。弦音を見つめる優しい弓神は、泣いている。

『なかないで、ください……。どうか……』

 初めて腕に抱かれたことを何処かで喜んでいる自分を苦く思いながらも、弦音は切れ切れに呟いた。
 彼の頬を流れる涙を拭いたいけれど、もう指先一つ動かせない。
 そんな顔をさせてしまったことをどれだけ悔いても、もうそれ以上言葉を紡ぐこともできなくて。
 薄れゆく意識の中。遠ざかる哀しみに満ちた矢斗へと、弦音はただ願っていた。

 伝えたい。せめて、最後に。
 どうか自分を責めないで欲しいと。貴方のせいではないのですと。
 だから、どうか……――。

 愛しい矢斗の涙が頬に落ちた感触。それが、弦音という娘の生の最期の記憶だった。


 鵺は討伐され、都は怪異が齎す脅威から救われた。
だが、それを機に北家は祭神を失った。
 矢斗は、愛する女の亡骸を抱いたまま姿を消した。
 他を害することの叶う武器であった己の身を呪いながら。弦音の願いを叶える為とはいえ、彼女を射た自分を呪いながら。
 矢斗は、ただ弦音を離そうとしなかった。
 彼女の身体が朽ちて、塵となり風に消えても。腕から抱くものが消え失せても。
果ては自らが何であったかも無くなり、存在が希薄になっても。
やがて色を失い。そして現に形を失っても。矢斗はただ、その場に在り続けた。
 やがては儚き小さな光となり、そのままただ消えゆこうとしていたある日。
ふと、何かを感じた。
 おぼろげな感覚の中、誰かが泣いているような気がして、彼はふと声を上げた。
 自らの意思を音にするのも随分久しぶりな気がする中で、その手は彼に触れた。

『あたたかい』

 彼に触れた少女は、囁くように小さな声で呟く。
 その声が、とても愛おしく思えて。泣きたい程に切なく、懐かしく感じて。
 彼は……小さき光は、紗依という名の少女の手を温かいと思った。
 そして光と少女は、二人しかしらぬ呼び名をもつ、友となった……。
 紗依と共に時を過ごすうちに。紗依と心を交わし、想いを重ねるうちに。自らを失っていた小さな光は、己が何であったのかを取り戻していく。
 少女との日々が、一つ、また一つと彼に真実を還していく。
 彼女が誰であるのかも。かつて自分達の間に何があったのかも、全てを。
 だからこそ、彼は花舞う日に約束を残し彼女の前を去った。
 今度こそ守りたいと願って。もう二度と、失いたくないという想いを抱いて。
 そして北家に戻り来た祭神は、時を越えて再び見出した愛する女を『神嫁』にと望んだ――。
 失っていたものが還ってきた紗依の瞳からは、とめどなく涙が溢れ、頬を伝う。
 身体に絡みつく鵺を不快に思うよりも、戻ってきた想いの痛みが勝って。言葉なくただ涙する紗依の耳に、揶揄を含んだ悪意が聞こえた。

「ようやく思い出したか、巫女よ」
「鵺……」

 俯いてしまっていた紗依の表情が険しくなり、宙を睨み据えながら緩やかに顔をあげる。
 先程まではただ自分を捕らえる触手のようなものしか見えなかったが、今なら確かにそこにあるのがわかる。
 紗依に絡みつくようにしてある、数多の獣の集合体のような醜悪な姿が。その中央にある、紗依を嘲笑う猿のような顔が。

「自分に嫉妬して打ちひしがれる様は、実に滑稽だったぞ」

 愉快で堪らないといった様子で呟かれた言葉に、紗依は表情を強ばらせる。
 確かにそうだ。
 矢斗には愛した女性が……弦音がいたことを知って、今もまだ愛される彼女に嫉妬した。
 それ故に、自らに向けられる矢斗の情を憐みだと誤解した。
 けれど、弦音は紗依だった。紗依の先の世の姿であり、紗依自身だった。
 滑稽と笑われても咄嗟に返す言葉が見つからない。懊悩していた自分が滑稽と思えて、羞恥に唇を噛みしめてしまう。
 しかし、次の瞬間躊躇いがちな響きを帯びた言葉が耳に触れ、目を瞬いた。

「紗依……」

 そちらに眼差しを向ければ、期待と恐れを含んだ矢斗の琥珀の双眸がある。
 紗依の名を呼ぶ声が、違う響きを伴って聞こえた気がした。
 弦音、と。矢斗の心が紗依をそう呼んでいるような気がして、紗依の瞳にはまたも透明な雫が盛り上がり、零れる。

「ごめんなさい、矢斗。……ごめんなさい……」

 伝えたい事は心の中で次々込み上がってきて溢れそうなのに。紗依の口から紡がれるのは、ただ謝罪の言の葉ばかり。
 あの時、使命を果たす術としてあの方法しかなかったと思う。
 けれど、それ故にどれ程の痛みを矢斗に強いてしまったのかと思えば、どの言葉も軽く思えてしかたなくて。
 彼があの後どのように時を過ごしていたのか。自らの存在そのものを呪い、否定し。儚き光になり、ただ消えるに任せていたのか知ってしまったから。
 どんな言葉も、その時間に対する償いにはならない。
 涙しながらただ繰り返す紗依を見て、矢斗は暫しの間無言だった。
 事の経緯を見守っていた時嗣達も、誰も言葉を紡げぬ時間が続き。響くのは愉快そうに嗤う鵺の声だけ。
 沈黙したままの矢斗の次なる言葉を待つのが怖くて、俯きかけたその時。

「……それでも、私達はまた会えたのだから。泣かないでおくれ、私の天乙女」

 弾かれたように紗依は顔を上げて、矢斗を見る。
 痛みも哀しみも。裡にある数多の感情も、全てのみ込んで。矢斗は、少しだけ哀しげに。けれど、静かな微笑を湛えて紗依を見つめていた。
 天乙女と呼んで、笑ってくれていた。
 あの庭で二人、過ごした日々のように。
小さな光と友として過ごした日々のような、優しい声音で。
北家に迎えた紗依を守り慈しみ続けてくれた、温かな眼差しを向けて。
 紗依の胸の裡に、熱い感情がこみ上げ満たしていく。止まりかけた涙が再び溢れ、頬を次々と伝う。
 けれど、矢斗の名を呼び縋りたいと願っても、今それは叶わない。
 その元凶とも言える怪異は、二人の様子に沈黙していたかと思えばけたたましく笑った。

「それで、我をどうする? 感動の再会の後は、また悲劇の別れを繰り返すのか?」

 鵺の言葉に、紗依と矢斗、そしてその場にいる者達の顔が蒼褪め、険しくなる。
 そう、鵺はまだ紗依の中にいるのだ。
 一部綻びから外に這い出しかけてはいるが、その中枢とも言えるものは紗依の中に留められている。
 鵺は紗依を浸食し内側から食い尽くし、いずれは紗依を器として現世に完全に顕現してしまうだろう。
 それを阻止するには、あの時のように紗依の内に鵺が封じられている間に紗依を殺すしかない。
 けれど、それではまた繰り返す。
 弦音の後悔を。そして、矢斗の苦しみと哀しみを。
 矢斗に尽きぬ悲しみを与えてしまったことを悔いるからこそ、もう二度と繰り返したくない。もう二度と、矢斗に己を呪って欲しくない。
 再び出会えた今、もう二度と……!
 その時、紗依は目を見張る。
 誰に言われたからでもなく、誰かのためでもなく。紗依が自ら抱いた願い。
 漸く矢斗に伝えられる……矢斗でなければ叶えられない、紗依の願い。
 紗依は、自分の中にある強く揺るぎないただ一つの『願い』に気付いた。
 だが、それを叶える為には、ただ願うだけでは駄目なのだ。
 紗依は毅然とした面もちで宙に浮かび笑う鵺の顔を見据えると、身の内に宿る力を集中し、自身を捕える腕のようなものに向ける。
 紗依の意思は光として形をなし、縛するものを打ち据えた。
次の瞬間、鵺の苦痛の呻きと共に、呆気なく思うほどすんなりと紗依を戒めるものは解けた。
 未だ裡から鵺が湧き出ている状態には変わりないが、驚く複数の眼差しの中で、紗依は手足の自由を辛うじて取り戻す。
 紗依自身も驚いていた。そして同時に、気付いてしまった。
 一つの可能性に――鵺はまだ、かつての力を取り戻していない、と……。
 弦音として対峙した往時の鵺のままであったなら、こうして仮初の自由を取り戻すこととて出来なかっただろう。
 けれど、鵺は忌々しげに呻きながらも紗依の動きを封じていた戒めを失った。
 死を持たなかったものが、知らなかった死を知ったことで受けた痛手はそう浅くはなかったのかもしれない。
 或いは、死という概念を得たことにより、存在が何らかの変質を遂げたのかもしれない。
 仮説は幾つでも思い浮かぶ。
 ただ、一つだけ確かなことは、今の鵺にかつて程の力はないということ。
 それならば、と紗依の脳裏に浮かぶ可能性が一つ。
 今ならば……かつてのような大きな封ではなくとも、閉じ込めることができるのではないだろうか。
 あの時は弦音の全ての力を以て、弦音自身を器として封じ込めなければならなかった。
 だが今なら、何か……紗依の身体以外の何かに封じて、自身から怪異を切り離せるのではないかと思ってしまったのだ。
 鵺の放つ禍々しい気は怒り狂い暴れだすけれど、矢斗や時嗣達が決死の思いで紡ぐ守りにて阻まれ。鵺は尚の事苛立ち、咆哮している。
 再び自分を戒めようとする鵺の怒りを裡に感じながら、紗依は考え続けた。
 鵺を自分から切り離し封じる。それならば、何処に? 何に……?
 問いに対する答えを焦る紗依が唇を噛みしめたその時だった。
 紗依の胸元にある何かが不意に熱を帯びたように感じた気がして、紗依は思わず目を瞬いて手をそこにやる。
 そこにはあの日矢斗にもらった、矢斗が紗依の為に祈り、星の光を紡ぎ続けて作り上げた珠の簪があった。
 破邪の弓である彼が想いを込めて祈りを捧げ、浄き天の力を形として凝らせた、祭具にも等しい守りが……。
 目を見張ったまま、紗依は思わず声をあげそうになった。  
 確かに、この簪ならば。そして今の紗依の力と、この場に集った人々の力を借りたなら。
 鵺を解き放つことなく、紗依から鵺を移すことが可能なのではないだろうか。
 せっかく矢斗が紗依を想い、時間をかけて紡いでくれた珠を、鵺を封じる媒介にするのは心苦しい。
けれど、これしか方法がない。
 紗依は今度こそ死ぬわけにいかない。そして、鵺に喰われてしまうわけにもいかない。
 もう二度と、矢斗に哀しみの日々を与えたくないのだから――!
 紗依は、胸元から静かに星の光が凝ったような珠を持つ簪を取り出した。
 僅かに燐光を帯びたそれを目にした矢斗は驚愕に目を見張り、次いで紗依の意図を察した様子である。
 傍らの時嗣に険しい表情で何事か囁き、それを聞いた時嗣達は強張った面持ちで、それでも頷いているのが見える。
 鵺は殊更ゆっくりと、再び紗依を己の戒めに捕らえようとしてくる。
 その様子に苛立ちを覚えながらも抑えて。努めて冷静に紗依は鵺を見据えた。
 悲劇の別れを繰り返す? とんでもない。
 心に強くその言葉を呟きながら、紗依は徐々に強まり行く光を帯びた珠を鵺に向けた。
 そして、心からの願いと、強い決意を以て叫ぶ。

「もう二度とあの時を繰り返したりはしない。……終わるのは、貴方だけよ……!」

 今までにない程に強き声音で紡がれた紗依の決意に、鵺の動きが僅かの間戸惑った風に止まる。
 その隙を見逃す紗依ではない。
 今の世の身体で、戻ったばかりの異能を使う負荷に身体は悲鳴をあげる。けれど、必死に歯を食いしばって紗依は遠い日の記憶に刻まれた術を紡ぎあげる。
 星の光の珠に、暴れる怪異を封じ込める為に。
 不意を突かれた形となった鵺は咄嗟に紗依に襲い掛かり、簪を奪おうとした。
 怪異の動きと術の完成の差は刹那だった。
 あやうく鵺の手が簪を掠めかけたより先、一瞬早く紗依の術が完成する。
 紗依を再び戒めようと伸ばされていた鵺の腕が、不意に紗依の目前から消失する。
 禍々しい怪異の影は、見る見る内に強気輝きを放つ珠へと吸い込まれるようにして見えなくなっていく。
 体の中から、凄まじい勢いで何かが抜け出ていくのを感じながら、紗依は必死にその場に立ち続けた。
 やがて、その奔流めいた感覚は途切れ。
怨嗟の叫び声をあげながら紗依の内側から図引きずり出された鵺は、抱いた慢心故の油断の所為で、逃れることも叶わず珠を新たな封じの器とさせられた。
 封を破り外に出ようとした鵺を戒めるように、幾重にも紗依のものではない封じの力が被せられていく。

「封じに長けた術者を全て集めろ! 緩めることなく封じの術を紡げ!」

 力の主である時嗣は余裕など殴り捨てた形相で家人に命を叫び。
 強張った面持ちの家人は力を振り絞り封じを施し。或いは指示に従い、更なる封を施せる者を求めて駆けていく。
 鵺は暴れ、咆哮し続ける。
 玩具で遊んでやる程度の気持ちで居たのだろう。
 紗依と矢斗が此度もまた悲劇を繰り返すのかとせせら笑っていたのだろう。
 けれど今、怪異は弓神の想いの結晶とも言える珠に、紗依と、そして数多の人々の力を以て封じられている。
 荒い息のまま、紗依は僅かに目を伏せた。
 だが、まだ終わりではない、と。
 そう。まだ、鵺と紗依は繋がっている。
 紗依の魂と共に転生した鵺は、現には形を持たぬ見えぬ糸のようなもので紗依と魂が結びついている。
 その繋がりを断ち切らない限り、その結びを綻びの媒介として鵺が封を破りかねないのだ。
 紗依は限界を訴えようとする己の身体を叱咤して、今一度ある術を紡ぐ。
 あるものを現実に具現化させる術……紗依の魂と鵺を結びつける『結び目』に現の形を与える術を。
 やがて、糸と糸を結ぶ結び目のように見えるものが、誰の目にも見える姿を以て生じる。
 僅かな安堵を感じその場に膝をつきかけたのを必死でこらえながら、紗依は矢斗を真っ直ぐに見つめた。

「矢斗、お願い。この結び目を撃って」


 目に見えて矢斗の表情が強張り、顔色が蒼褪めたのがわかる。
 躊躇うのも無理はない、と紗依は思う。
 紗依が両手で抱えるようにして示す『結び目』の向こうには。
 鵺と紗依を繋ぐ『結び目』の先には、紗依の心臓があるからだ――。
 真剣な紗依の眼差しを受けながら、矢斗は唇を震わせ、頭を緩く左右に振る。

「私が、貴方をまた撃つなど……。また、貴方を射抜いてしまったら……」

 矢斗はここではない何処かを見ているような、動揺しきった様子で口元を抑えてしまう。
 きっと、思い出しているのだろう。
 先の世で、弦音を射抜いた時のことを。願いを叶える為とはいえ、自分の手で想う相手を殺した時のことを……。
 紗依の願いに応えて紗依を撃って。繋ぎ目を破壊するに留まらなかったら。再び、彼の放った矢が心臓を射抜いてしまったら。
 己を呪う程の恐れを思い出させてしまったことを苦く思うけれど、これは矢斗にしか頼めない。
 時嗣達は鵺が閉じ込められた珠の封じを確かにするために、全てを費やしている。
 そして、怪異と紗依の魂との結びつきはあまりに特異。
 破邪の弓である矢斗の力でなければ破壊出来ない程に、強く複雑に絡み合っているのだ。
 だからこそ、また哀しい顔をさせたとしても、矢斗に願うしかない。
 だが、あの時とは違う。
 かつては終わりを覚悟して、自分を射るようにと言うしかなかった。
 でも今は。
 紗依の中に、あれ程形にならなかった『伝えたいこと』が確かなものとなって浮かび上がってくる。
 それは純粋な紗依の想いであり、願いだった。
 真っ直ぐに矢斗へと眼差しを向けながら、紗依は淡く微笑んだ。

「私は、貴方が好き。弦音だった私も、紗依である私も」

 弦音が伝えてはいけないと戒めていた想いであり、紗依が自分には不相応なものであると戒めていた想いだった。
 けれど今なら、裡を満たす温かなこの心を、素直に告げられる。
 紗依が静かに向けた万感の思いの籠った眼差しを受けて、矢斗が目を見張る。
 戸惑いの中に僅かに喜びが宿り。それは少しずつ、矢斗の表情に力を、失いかけていた色を還していく。
 けして逸らすことなく愛しい弓神を見つめながら、紗依は静かに続けた。

「だから、貴方と幸せになりたい。私の『夢』を、貴方に叶えて欲しい」

 それは、弦音が叶えることができずに終わった願いであり、紗依がようやく辿り着いた偽らざる純粋な願いであり。
 そして、紗依が今に至るまで矢斗に返せぬ問いの答えだった。

「お母様が願って下さったから、じゃない。私が、矢斗と幸せになりたいの。矢斗と一緒に、これからを生きていきたい……! だから……!」

 始まりは、母の願いだった。
 紗依だけを大切にしてくれる人を見つけて結婚し、温かい家庭を築いて欲しい。愛し愛され、守られて。幸せになって欲しい。
 母の願いを叶えることが紗依にとっては『夢』であり。それを知る矢斗は、自分ではそれを叶えられないだろうかと言ってくれた。
 答えをだせずにいた言葉に、紗依はようやく答えを返した。
 けれど、母が願ってくれたからではなく。母の為だけではなく。
 他でもない紗依自身が矢斗と共にこれからを生きて幸せになりたい、そう想うからこそ紡いだ言葉だった。
 呆然と見開かれていた矢斗の琥珀の瞳から、一筋涙が零れた。
 揺れる心に言葉を紡げずにいる矢斗からけして眼差しを逸らさずに、紗依は心に思う。

 信じている。
 矢斗は、絶対に射てくれる。
 共にこの先の日々を生きたいと思うからこそ、今一度撃ってくれる――!

 また、激しい逡巡があったように思えた。果てない葛藤があったように感じた。
 長い、長い。何時までも続くかと思われた長い沈黙の後。
 矢斗はあの時のように、己の本体である弓をその手に呼び出した。
一切無駄のない、ともすれば武骨にも見える弓を手にした矢斗は、静かに矢を番えた。
 けれど、あの時と違うのは――その眼差しに宿る、確かに未来を見据える強い光。
 哀しい終わりを迎える為ではなく、二人でこれからの日々に幸せを見出す為に。
 矢斗は、再び高き弦の音を響かせて、矢を放った。
 飛来した矢は過たず具現化した紗依と怪異との繋がりを断ち切り。
 鵺の悲鳴にも似た叫びが聞こえた気がして。
 その場には、目も開けていられぬ程の眩い光と、その場にあるもの全てをなぎ倒さんとするような激しい衝撃が生じた……。


 ――気が付いた時、紗依は柔らかな感触を感じ、僅かに戸惑った。

 どうやら自分は布団に寝かされているようだと感じた紗依は、先程までのことが夢だったのではないか、と一瞬思ってしまった。
 けれど、確かに現実だったと紗依に告げたのは、見上げた先あった矢斗の必死な表情と。遠くに聞こえる、慌ただしく駆け回りながら叫ぶ人々の声だった。
 おぼろげだった感覚が明らかになるにつれ、ここが奥座敷にある部屋の一つであることがわかってくる。
 ひとまず起き上がろうとした紗依を、矢斗は最初こそ制したものの。やがて、根負けしたように紗依が状態を起こすのに手を添えてくれた。
 紗依が目覚めたことで安堵した様子の矢斗は、紗依が抱く問いに一つ一つ答えてくれた。
 怪異の力が放たれかけたことよって生じた屋敷の被害への対応や、出た怪我人の手当に屋敷の人々は皆慌ただしく駆け回っているという。
 千尋やサトも忙しく動き続けていると聞けば、ここで寝ているのが申し訳なく思う。
 紗依は起き上がり、すぐにでも手伝いに駆け付けようとしたが、矢斗が止めた。
皆様に申し訳ないと紗依は言ったけれど、他ならぬその皆……千尋達と時嗣達が「しっかり休ませてさしあげろ」と矢斗へ紗依の守りを言いつけて言ったのだという。
 申し訳ないような、有り難いような。複雑な面持ちをしていた紗依は、ふとあることに気付いて表情を強ばらせた。
 その表情を見て紗依の抱いた懸念を察したらしい矢斗は、安心させるように笑みを見せながら、穏やかに告げる。

「鵺の玉は。時嗣達が他家からも封じに長けた者を呼び寄せて、厳重に封印を施している」

 時嗣は面子にこだわっている場合かと他家にも封じの術に長けたものを求めたらしい。
 かつて猛威を振るった怪異を封印する為に、他の三家からだけではなく帝の膝元からも術者が遣わされているとか。
 いずれ封じが確固なものとなったら、宮中の霊域に収められることになるだろう、と矢斗は教えてくれた。
 それを聞いて漸く紗依は安堵したように息を吐いたが、すぐに哀しげに表情を曇らせてしまう。
 どうしたのかと問う眼差しを向ける矢斗に、紗依は僅かな逡巡の後に口を開いた。

「ごめんなさい。せっかくの簪、駄目にしてしまって……」

 矢斗が長い時間をかけ、紗依を待ちながら想いを込めて作ってくれた珠の簪は、鵺を封じる器としてしまった。
 他にとるべき方法がなく仕方なかったとはいえ、彼の想いの籠った品を損ねてしまったことには変わりない。
 哀しげに言った後に俯き沈黙してしまった紗依は、不意に身体を引かれて目を見張る。
 気が付いた時には、紗依の身体は矢斗の逞しい腕の中にあった。

「構わない」

 戸惑う紗依の耳に、優しさの底に万感の思いの籠った言葉が触れる。
 温かで幸せな場所に、守られるようにして捉われていることをこんなにも嬉しいと。
 裡に感じる想いと同じ想いを触れた場所から感じることが、これほどまでに愛しいと。
 溢れるようにこみ上げてくる想いに、紗依は目頭が熱くなるのを感じた。

「また、貴方を想い、作るから。貴方に……また簪を贈るから。だから、どうか」

 矢斗の鼓動と自らの鼓動が溶けあうような感覚に、咄嗟に言葉を返せない。
 そんな紗依を更に強く腕に抱きながら、矢斗は確かな愛情のこもった声音で希う。

「どうか……私と共に生きてくれ。今度こそ守らせてくれ……。私の愛しい、天乙女……」

 紗依の『夢』を叶えたいと言ってくれた時のように優しくも確かな声音で紡がれたのは、他でもない紗依自身が抱いた願いであり、矢斗自身の願い。
 かつては、哀しい選択を強いて。そして、一度は伝えられぬまま別れ、互いを失って。
 再びめぐり逢い想いを受けて、矢斗も紗依も、一番望んでいたものを取り戻した。

「勿論よ。私の、大切な夕星……!」

 もう、こみ上げる想いが形となり、涙となり流れ落ちるのを止められない。
 紗依は何度も頷きながら答えると、自らも静かに矢斗の背に手を回し、広く温かな胸に頬を寄せた――。
 その後、集った術者により鵺の玉には厳重な封印が施され。事態は緩やかに収束した。
 騒ぎの根源とも言える玖瑶家の責を問う声はあまりに大きく、中には家の取り潰しを叫ぶものもあった。
 だが帝と四家当主が討議した結果、跡継ぎである亘への代替わりを以て存続を許されることとなった。
 同時に、当主夫妻には辺境の地にて厳重な監視付きで隠棲すること。苑香には帝都より遥か離れた遠方へ嫁ぐことが命じられた。
 この世の終わりのように嘆く父や美苑。嫌だと泣きわめきながら引きずられていった苑香を見ても全く哀れと思わなくて。紗依は自らを薄情とも思った。
 けれどそれ以上に許せない思いは強く、これで終わりにしたいという気持ちが勝り。紗依は唇を引き結んで無言のままだった。
 固い表情のまま連れて行かれる父達の姿を見ていた紗依の手を、矢斗はずっと握っていてくれていて。
 その手の温もりが確かに共にあることが、ただ嬉しかった。


 鵺を封じた珠が宮中の霊域に収められて少しして。
 東家の任季である春から、南家の任季である夏に変わった頃。騒ぎにて被害を受けた北家の屋敷も、既に平穏を取り戻していた。
 いや、少しばかり『平穏』とは言えない状況である。
 祭神である矢斗と、その神嫁である紗依の祝言の支度に屋敷中が活気づいていたからだ。
 差し込む陽の光が穏やかなある日。
 屋敷の一室では絢爛豪華な沢山の反物が広げられた中、千尋やサト、それに女中達が紗依を囲んで真剣な顔で話し合っていた。
 お題は、紗依の花嫁衣裳についてである。

「紗依様には、こちらの花の文様のほうが似合います!」
「いいえ! この吉祥をちりばめたものの方がお似合いです!」

 ある者は紗依様にはこちらの文様が似合うといい。またある者は、紗依様にはこちらの文様のほうが似合うと主張する。
 実に和やかな話題でありながら、皆はそれぞれの主張を曲げようとせず。議論はなかなかに白熱していた。

「あの……。そのような立派なものは、私には、その……」
「では、こちらはいかがでしょうか?」

 どうしたものかと戸惑う紗依へ、千尋も嬉しそうに笑いながら違う反物を手にとって勧めてくれる。
 その手にあるものは柄こそ控えめに見えるが、恐らくこの場でも特段上等な品だ。
 北家での恵まれた暮らしに大分慣れたとはいえ、広げられた反物はどれもこれも一級品ばかり。
 向けられる心遣いには、大分謝罪ではなく感謝を返せるようにはなってきたと思う。だが、さりげなく与えられる贅にだけは慣れそうにない。
 北家の祭神の伴侶として、みすぼらしい姿でいるわけにはいかない。それは分かっているのだけれど……。
 慎ましく、なるべく質素なものをと思って控えめに伝えてはみるものの。そもそも、どの品も質素とは程遠いのだから、申し訳ないやら恐れ多いやら。

「千尋様! あの、その反物も私には身に過ぎたものかと……」
「まあ。婚礼の主役は花嫁ですもの。めいっぱい美しく装って、何を悪い事がありますか」
「そうでございます。紗依様の晴れの日ですから。最も素晴らしいお衣装を選ぶ必要がございます」

 思わず身を縮めてしまっている紗依に、千尋が優しく咎める様子で言うと、サトも頷きながら言葉に続いた。
 それを聞いて、周囲の女中達もまたそれぞれに自らの選んだ反物や考えを口にする。
 恐ろしい事件の後だから、尚の事慶事が嬉しいらしい人々は、揃って笑みを浮かべて会話に花を咲かせている。
 そして、その女性陣をやや遠巻きに見つめる位置に、時嗣と矢斗が居る。

「……場違いだという自覚はあるが、まあ見ていて微笑ましいといえば微笑ましい」
「何時の世も、女性は美しいものに強く焦がれるものなのだな……」

 主張に熱の入る女性達に少しばかり押され、男二人は置いてけぼりにされたような様子で。だが賑わう場を見てそれぞれ口元に笑みを浮かべながら眺めていた。
 矢斗は困惑交じりでも人々の輪の中にあり、自然とはにかんでいる紗依を見て心の底から嬉しそうに相好を崩している。
 紗依が己との婚礼の装束を定めようとしているのも、喜びの理由であるようだ。
 ただ、美しい紗依を見るのは嬉しいが、多くの人の目に……とりわけ男性の目に触れるのはやはり複雑らしい。
 それでも、減るから嫌だ、とは流石にもう言わなかった。
 有無を言わせぬ笑みの時嗣に釘を刺されたのもあるが。
矢斗も、この場でそのようなことをいえば、目の色を変えて真剣に議論を続けている女性達を敵に回すと理解しているようだった。
 婚礼衣装談義はその後も絶えることなく花が咲き、ひとまず中休みとしよう、という千尋の提案にて女中達は反物を片づけるとそれぞれに姿を消していく。
 その場に時嗣達とサト、そして矢斗と紗依だけになって。紗依は思わず力が抜けた、と言った風に大きな息を吐いた。
 千尋はサトに命じて茶と菓子の支度をさせ、その場には先程とは違う落ち着いた穏やかな空気が流れる。
 香しい茶でのどを潤して漸く安堵する。
紗依の隣に座した矢斗は、慈しみの満ちた眼差しで紗依を見つめ。眼差しに気付いた紗依は僅かに目を瞬いた後、喜びに満ちた眼差しを返し微笑む。
 その様子を、北家当主夫妻は黙したまま見守っていた。
 幸せだ、としみじみ紗依は思う。身に余るほどに恵まれ、与えられ。これ以上ない程に、幸せだと思う。
 それなのに、ただ一つだけ。一つだけ、紗依の心には消えない棘があった……。
 だが、それを表にだすことはできない。矢斗や、時嗣達の心遣いを損ねることになってしまう。だから、紗依は裡の小さな痛みを押し隠して微笑んでいた。
 暫くの間、他愛ない話題を挟みながら和やかな時間が流れたが、ふと入室を願う声が聞こえた。
 皆の視線が集中する中、許可を得てその場に現れたのは北家の家人の一人である。
 時嗣が当主となる前から仕えているというその男性は、時嗣と千尋に歩み寄ると何やら耳打ちしている。
 それを聞いた時嗣達は目に見えて表情を明るくし、頷き合った。
 そして時嗣は立ち上がりながら、不思議そうに首を傾げて二人を眺めていた紗依と矢斗に向かって言葉をかける。

「紗依殿に、合わせたい御方がいる。つい今しがた到着されたそうだ」
「私に……?」



 誰だろう、と思い千尋に問う眼差しを向けるけれど。千尋も、嬉しそうに微笑みながら案内するような仕草と共に夫に続く。
 紗依は思わず矢斗と顔を見合わせてしまう。
 しかし、時嗣と千尋の様子からして、紗依にとって何がしかの意味がある客人である様子だ。表情からして、恐らく良い客人なのだろうと思う。
 矢斗もまたそう思ったらしく、一度頷いてから立ち上がると紗依へと手を差し出した。
 ありがたく手を借りながら立ち上がった紗依は、裡に問いを抱いたまま、矢斗と共に時嗣達に続く。
 上機嫌見える時嗣と千尋に導かれた先にあるのは、確か日頃客人を通す際に使われている座敷だったはず。
『会わせたい御方』はそこにいるのか、と紗依は訝しみながらも足を進め。
 既にその場に先客がいることに気付いた紗依は、どなただろうと目を細め――そして、目を見張った。
 全身を雷に貫かれたような衝撃が走り、紗依は凍り付いたように動きを止めた。

 座敷には一人の女性と、それに従う従者らしき姿があった。
 女性は気品ある姿勢を崩さぬままに座して、静かに紗依へと優しい眼差しを向けている。
 紗依は、その女性に見覚えがあった。
 とても、とても懐かしくて、慕わしい女性だった。
 何時も会いたいと、共にまた暮らしたいと願っていた人だった。
 悪意にて失ってしまったと思っていた、大切な、大切な‥‥…。

「お母様……?」

 目の前の出来事が信じられないというように、恐る恐る。
 目の前にあるのは焦がれる心が見せた幻で、大きな声をあげたなら消えてしまうのではないかと恐れるように、小さな声で。
 紗依は震える声で、その女性を――あの日が永の離別となってしまったのだと思っていた紗依の母を呼んだ。

「紗依……」

 母は目に涙を滲ませながら、万感の思いを込めて紗依の名を呼ぶ。
 かつて自分を呼んでくれた、優しい声。大切なよすがだった、温かな声。
 耳に届いた震える声が確かに現の響きを伴っていることに気付いた瞬間、紗依は弾かれたように母に縋りついていた。

「お母様……っ! お母様、生きて……生きていらして……!」

 崩れ落ちるようにして縋りついた先に母の確かな感触を覚えながら、紗依は泣いた。
 夢かと思いながらまるで幼子のように泣く紗依を、母の温かな腕が抱いてくれる。
 夢じゃない。
 お母様はここに居る。生きて、こうして触れることができて、自分を抱き締めてくれている。
 母に縋り泣く幼子のような自分を、紗依はもう止めることはできなかった。
 母は窘める言葉を口にしているけれど声は震えていて。涙の気配が滲むものだった。
 二人の様子を見守っていた千尋は、そっと目頭を拭い。矢斗は少し茫然として、時嗣へと戸惑いと問いを含んだ眼差しを向ける。

「時嗣、これは……」
「紗紀子様を殺すように命じられた下男が、密かに自らの家に匿っていたんだ」

 紗依が北家に出された後。
もはや生かしておく必要はないとして、紗紀子は美苑の命を受けた者の手により玖瑶家を連れだされた。
 そのまま密かに殺されるはずだったが、小さな救いがそこにあった。

「何でも、昔病の母を助けてもらった恩義があったらしい。恩人を殺すわけにいかないと、紗紀子様の死を偽装したんだ」

 従者のように傍に控えていた男は、時嗣の言葉に頷きながら語った。
 彼の母がかつて病に倒れた際、薬を贖うことができずに絶望していたのを救ってくれたのが紗紀子だったと。
 紗紀子が、渋る夫を説き伏せ薬を買う金を援助してくれたおかげで男の母は持ち直した。
 大恩ある女性をどうして殺すことができようか。男に迷いはなかったという。
 しかし、ただ殺した、だけでは到底美苑達は信用しないと分かっていた。
 故に紗紀子の死を偽る為、心苦しくはあったが紗紀子の髪の一房と、彼女が何よりも大切にしていた守りを証として持ち帰ることにした。
 男の言葉と持参したものに美苑たちは納得したらしく、それ以上の追及はなかった。
 その後、男は妻の手を借りて紗紀子を自らの実家に匿い続けていた。
 そしてその事実に辿り着いたのが、あらゆる手を使って紗依の母親の行方を求めていた時嗣達だった。

「出来ればそのまま再会して頂きたかったが。紗紀子様の容態があまりよくなくてな。落ち着かれるまで少し時間がかかった」

 ただただ母の胸に抱かれ泣き続ける紗依を見て、少し苦笑いを浮かべながら時嗣は言う。
 すぐ紗依に引き合わせていれば、紗依が絶望し鵺に捉われかけることもなかっただろう。
 だがそれが出来ぬ程に、時嗣達が見つけ出した時の紗紀子の容態は思わしくなかった。一時は、生死の境を彷徨う程だった。
 このまま再会させたとしても、喜びはすぐさま絶望に変わりかねない。
 そう思った時嗣と千尋は腕の良い医者を集め、治癒に長けた者を呼び寄せ。各地から多くの薬を求めた。
 水面下にてあらゆる手を尽くし、生死の境にあった紗紀子を繋ぎとめることに成功した。
 そして北家の所有する別宅にて養生を続けてもらい。容態に関して医者の太鼓判を得て、漸く紗依を引き合わせることが叶ったのだという。
 童に戻ったように泣きじゃくる娘の背を撫でて宥める母は、自らも涙を抑えることができない様子だった。
 途切れることなく流れ続ける娘の涙を必死に拭いながら、一言一言を噛みしめるようにして紡ぐ。

「北家のご当主が、紗依を北家の祭神の花嫁に迎えて下さったと聞いて……。私の紗依が、幸せな結婚をするのだと、聞いて……」

 だからこそ、危うい死の淵にあってもこの世に留まり続ける力を得られたと、母は涙交じりに語った。
 母の願いは、紗依だけを愛し守ってくれる人と幸せな結婚をすること。そして、それを叶えることこそ、紗依の夢だった。
 けれど、母は不遇のまま殺されてしまったと聞いていて。母を安心させてあげることができなかった。悲しいまま、死なせてしまった。
 その事実が、紗依の中の消えない棘となっていた。
 涙を拭う母の細い指を感じる度、棘が塵となり消えていくのがわかる。
 今度こそ本当に、躊躇うことも憚ることもなく、幸せを感じることができる……。
 母は、紗依を愛しさの籠った眼差しで見つめる矢斗へと視線を向けた。
 玖瑶家の正しい血筋である母には、伝えずとも矢斗が誰であるのかわかった様子だった。

「この方が、貴方の……?」

 敬いの滲む眼差しを矢斗へと向けていた母は、紗依に問うように声をかける。
 母の言葉を聞いて、紗依は矢斗を見て。矢斗もまた、紗依を見つめ。
 視線を交わした二人は喜びに輝く笑みを交わしあった。
 そして。

「はい」

 紗依は、母へと向き直ると静かに頷いた。
 傍らに居住まいを正して座した矢斗と手を取り合い、お互いを慈しむように見つめ合いながら。
 愛する母へ、確かな声音でその言葉を紡いだ。

「この方が、私の愛する夫です……!」

 揺らぐことのない確かな愛の言葉が紡がれて、喜びの涙は、喜びの笑みとなり。 
 笑みに笑みが返り。そして、また一つ笑みが咲く。
 麗らかな日差しのもと、母と娘は再び互いを取り戻した。
 それはあまりに幸せと優しさに満ちた光景だった――。
 紗依と母が再会を果たして、瞬く間に日々は過ぎた。
 母は玖瑶家には戻らず、北家の敷地にある離れにて暮らすことになった。
 亘は正当な血筋である母に戻ってきてほしいと願っていたようだったが、母はそれを丁重に断ったのだ。
 嫌悪故の拒絶ではない。これから亘が玖瑶家を担っていくにあたり、母なりに新しい当主となった亘に対して気を使ったのだろう。
 病がちだったかつてが嘘だったのではと思える程に元気になった母は、千尋達と共に嬉しそうに紗依の婚礼の支度に勤しみ。矢斗はそんな母を『義母君』と呼び敬った。
 母は最初こそ畏れ多いと恐縮していたが、矢斗の真摯な態度と、紗依との仲睦まじい様子を見て次第に受け入れるようになる。
 幸せな慌ただしさに過ぎる日々の中、愛する矢斗と母と共にある紗依の顔には、いつも満ち足りた微笑みがあった。

 やがて、雲一つない晴れ渡った蒼穹が美しいある吉日。
 北家の祭神である矢斗と、その神嫁と求められた紗依との祝言が執り行われた。
 厳かに高砂が歌われ、花燭に照らされた広間に並ぶ大勢の人々は、北家縁の者ばかり。
 他家からも多くの祝福が寄せられていたが、全てを招くとしたらどれ程厳選したとしてもあまりに多すぎる。
 後日披露目の場を別に設けることとして、祝言は北家縁の者だけにしたとのことだった。
 目頭を押さえながら心からの喜びの笑みを見せる母に見守られ。
 温かい眼差しで見つめる時嗣と千尋が媒酌の労をとる中。
 皆が心を砕いて選んでくれた眩いばかりに美しい打掛に身を包んだ紗依は、北家にて祀られる破邪の弓である祭神の、正しく神嫁と呼ばれる伴侶となった。
 威厳ある佇まいにて皆の敬いの眼差しを集める矢斗の横顔を見た紗依は、少しばかり不安めいたものが過ぎったけれど。
 緊張に震えかけていた手に、そっと手が添えられて。温もりから、言葉に依らずとも互いの抱く想いは伝わってきて。
向けられた眼差しはいつもの矢斗の、優しく愛情に満ちたものであって。
紗依は同じく、心に抱く愛情と慈しみを込めた眼差しを返し微笑んだ。
 寄り添う二人が想い合い幸福そうな様子を、居並ぶ全ての人々心から祝い、喜びに見つめていた。
 もどかしいまま哀しく別れ。長い、本当に長い時を経て、再び出会い。
 そして漸く添う事が許された二人は、多くの人々からの祝福のもとに真の夫婦なることが叶ったのだった……。
 

 晴れて真実『神嫁』と呼ばれる者となった紗依の日常は、俄かに慌ただしいものとなる。
 矢斗に祭神としての務めがあるように、紗依にもまたそれを支える神嫁としての務めがある。紗依は時嗣と千尋から必死にそれを学び、夫を支え務めに勤しんだ。
 同時に、取り戻した異能を遣う為の修練も始まった。
 無いと思われていた紗依の異能は、人々が驚く程に強いらしい。
力を持つのならば、使い方を心得ねば周囲に悲劇を及ぼすことになる。
 ある程度は魂にある弦音の記憶を元に使うことができるが、全てが詳らかというわけではなく。靄がかかったように曖昧なところもある。
 また、玖瑶家由来の力が発現していることがわかった為、母の指導の元、紗依は懸命に鍛錬に励み。そんな紗依を、母は厳しくも優しく指導してくれた。
 務めに鍛錬に。それに加えて、祭神の婚姻を祝う様々な使者とのやり取り。
 時嗣達がうまく采配し手助けしてくれるが、嵐のような忙しなさが続いた為、流石に紗依は少しばかり疲弊してしまっていた。
 けれど、辛いとは思わなかった。むしろ、心身共に充実しているようにすら感じる。
 以前は、異能を持たない役立たずとして忌まれ、蔑まれ。そして価値なきものとして虐げられ続けていた。
 願いを抱くこともなく、日々をやり過ごすことに精一杯で。辛いと思っても、ただ耐えることしかできなくて。
 でも、今は違う。
 自らの出来ることを増やしながら、自分にしか出来ない役目を果たすことができている。
 それに大変だと思う時があっても、紗依の周りには多くの人がいる。助けを求めて声をあげたなら、躊躇うことなく手を差し伸べてくれる人々が。
 それに何より、愛しいひとがいてくれる。
 紗依はもう、一人で耐えたりはしない。
 辛いと感じた時は素直にそれを口にして助けを請い。申し訳ないという言葉を、ありがとうに。一人耐えるのではなく、声をあげるようにと変えていく。
 かつてどれ程そうあれと願っても変えられなかった日々を遠く思うほどに、紗依は自らに確かな変化が生じたのを感じることができていた。
 矢斗は、そんな紗依を傍らで守り続けてくれている。
 祭神として公の場にある時は相応の態度であるものの、一度私の場に戻ったなら紗依を片時も離そうとはしなかった。
 事あるごとに慈しみを込めて己の腕に捉えるのだ。まるで、紗依がそこにあることを確かめていたい、とでもいうように。
 時嗣が呆れ顔で窘めることもあったが、大抵の場合千尋に優しく止められていた。
 紗依もまた出来る限りの時を矢斗の側にいること、そして腕の中の囚われ人であることを望んだからだ。
 ……流石に、常に、となると些か気恥ずかしいけれど。
 矢斗の温もりを感じられる時間が……矢斗と再び出会えたこと、そして共にあるのだということを実感できる時間は、愛しくてたまらないと思う。

 その日、矢斗と紗依は久方ぶりに休日と呼べる日を過ごしていた。
 今日ばかりは水入らずでゆっくり休め、と時嗣達が采配してくれたからである。
 好意を有り難くうけとり、それならば、と二人は夏の庭をそぞろ歩くことにした。
 穏やかな色彩が美しかった春の庭とは趣の異なる、鮮やかな色彩の対比が見事な盛りの夏庭は二人の目を楽しませてくれる。
 微笑みあいながら一つ一つの花を眺めていた時、矢斗がふと思い出したように呟く。

「貴方は昔から花が好きで。あの時も、蝶のように花の間を行き来しては歌っていたな」
「……それは忘れてといったのに」

 矢斗の言葉を聞いて、紗依はやや気まずそうに顔を背けてしまう。
 過去の生において、花が美しいと童のようにはしゃいでいた姿を目撃された時のことを言っているのだとすぐに気付く。
 あまり見られたくないところだったのを思い出し、思わず不貞腐れたような表情になってしまう。

「忘れられそうにない。貴方はあまりに愛らしかったのだから」

 唇を僅かにとがらせた様子を見て、楽しそうに笑いながら矢斗は言う。
 その微笑みと共に紡がれた、やはり表も裏もない、ただ素直な賛美の言葉に。拗ねた様子だった紗依は、先とは違う意味で顔を背けている。
 頬が熱を帯びているような気がするし、頬どころか耳まで熱い。多分、耳まで赤くなっているのだろう。
 優しい苦笑いと共に、矢斗は機嫌をなおして欲しいと囁きを耳元に落しながら、紗依を優しく腕にとらえる。
 誤魔化されない、と心の中で呟いたけれど、それはあまりにも儚い抵抗だった。そもそも、抗う意思など本当のところありはしないのだから。
 温かで落ち着く場所に抱かれて、ゆるやかな沈黙が流れて。
 ふと、紗依は黙したまま何かを考えていたかと思えば、ふと細い両腕を伸ばし。そのまま矢斗の背に回し、自ら身を寄せた。

「……紗依?」
「私の手には、もうおさまらないわね」

 矢斗の問う声に、紗依の過去を慈しむような、様々な想いのこもった呟きが返る。
 紗依の脳裏に巡るのは、過去の花舞う庭。
 消えかけていた小さな光であった友と、願いを抱くことも誰かに頼ることも出来ずにいた小さくて悲しい自分。
 母を守る為に強く在らねばと気を張り続け、張り詰めた心を唯一許せる相手だった矢斗。
 あの庭で語り合っていた頃、矢斗は紗依の手のひらにおさまる程の小さな光だった。
 けれど、今はこうして、両腕を伸ばしても間に合わない。堂々たる体躯を持つ矢斗は、頼もしく確かな腕で自分を抱いてくれている。

 あの時から、随分歩いてきた気がする。
 多くの出来事があった。哀しいことも、つらいことも。別離も、再会も、様々に。
 すれ違いかけ、心が傷つき、絆が途切れようとした。
 己を責め苛み、呪い。消えかけるまでに辛い思いをさせてしまったことは、今でも悔いが蘇る。
 でも、だからこそ。こうして共にいられる日々が愛おしい。ふとした拍子に目頭が熱くなるほどに幸せだと感じる。

 紗依は、自分を抱く矢斗の手に僅かに力が籠ったのを感じた。
 ゆるやかに見上げた先にあったのは、宵の星のような輝きを持つ琥珀の双眸。
 そこには、紗依を愛しむ光が満ちていた。

「私は、いつまでも貴方の傍にいる。いかなる姿をしていても貴方の夫であり、そして友であり続ける」

 己を見上げる紗依の眼差しを真っ直ぐに受け止めながら、矢斗は言葉の一つ一つを噛みしめるようにして紡ぐ。
 紗依は、矢斗の琥珀の一対の中に自分の姿を見る。
 それを幸せで仕方なくて我知らずのうちに口元に笑みが浮かぶ紗依に、矢斗は願う。

「今度こそ、貴方を守り続ける。だから……どうか笑っていて欲しい。私の大切な天乙女」

 過去から今、そして未来に至るまで特別であり続ける、二人だけの呼び名。
 とびきりの愛しさを込めて呼ばれた名に、紗依は胸に熱いものがこみ上げてきて泣き笑いのような表情になってしまう。
 呼んでくれた名に込められた想いに、同じ想いを返したい。
 想ってくれるからこそ、同じ想いを抱くからこそ、それを返したい。
 紗依は、矢斗を見上げながら一度目を伏せて。そして、再び開いた時。
 表情に花が咲くようなこぼれる笑みを浮かべながら、告げた。

「私の愛しい夕星が、傍で輝いていてくれるなら。……貴方がいてくれるなら、私はずっと笑えるから」

 ――だから、どう私を離さないで欲しい。

 紗依がその言葉を口にした瞬間。一陣の風が吹き、花々を揺らし。美しい花弁がふわりと宙を舞う。
 もう二度と離れたくない。共に在り、共に幸せになりたい。
 神嫁が心から紡ぎ、心から望んだ新たな願いは。
 愛する弓神の応えを宿した唇に触れて、溶け。
 二人の未来を繋ぐ新たな約束は、新たな花舞う庭で静かに結ばれた――。

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