目に見えて矢斗の表情が強張り、顔色が蒼褪めたのがわかる。
躊躇うのも無理はない、と紗依は思う。
紗依が両手で抱えるようにして示す『結び目』の向こうには。
鵺と紗依を繋ぐ『結び目』の先には、紗依の心臓があるからだ――。
真剣な紗依の眼差しを受けながら、矢斗は唇を震わせ、頭を緩く左右に振る。
「私が、貴方をまた撃つなど……。また、貴方を射抜いてしまったら……」
矢斗はここではない何処かを見ているような、動揺しきった様子で口元を抑えてしまう。
きっと、思い出しているのだろう。
先の世で、弦音を射抜いた時のことを。願いを叶える為とはいえ、自分の手で想う相手を殺した時のことを……。
紗依の願いに応えて紗依を撃って。繋ぎ目を破壊するに留まらなかったら。再び、彼の放った矢が心臓を射抜いてしまったら。
己を呪う程の恐れを思い出させてしまったことを苦く思うけれど、これは矢斗にしか頼めない。
時嗣達は鵺が閉じ込められた珠の封じを確かにするために、全てを費やしている。
そして、怪異と紗依の魂との結びつきはあまりに特異。
破邪の弓である矢斗の力でなければ破壊出来ない程に、強く複雑に絡み合っているのだ。
だからこそ、また哀しい顔をさせたとしても、矢斗に願うしかない。
だが、あの時とは違う。
かつては終わりを覚悟して、自分を射るようにと言うしかなかった。
でも今は。
紗依の中に、あれ程形にならなかった『伝えたいこと』が確かなものとなって浮かび上がってくる。
それは純粋な紗依の想いであり、願いだった。
真っ直ぐに矢斗へと眼差しを向けながら、紗依は淡く微笑んだ。
「私は、貴方が好き。弦音だった私も、紗依である私も」
弦音が伝えてはいけないと戒めていた想いであり、紗依が自分には不相応なものであると戒めていた想いだった。
けれど今なら、裡を満たす温かなこの心を、素直に告げられる。
紗依が静かに向けた万感の思いの籠った眼差しを受けて、矢斗が目を見張る。
戸惑いの中に僅かに喜びが宿り。それは少しずつ、矢斗の表情に力を、失いかけていた色を還していく。
けして逸らすことなく愛しい弓神を見つめながら、紗依は静かに続けた。
「だから、貴方と幸せになりたい。私の『夢』を、貴方に叶えて欲しい」
それは、弦音が叶えることができずに終わった願いであり、紗依がようやく辿り着いた偽らざる純粋な願いであり。
そして、紗依が今に至るまで矢斗に返せぬ問いの答えだった。
「お母様が願って下さったから、じゃない。私が、矢斗と幸せになりたいの。矢斗と一緒に、これからを生きていきたい……! だから……!」
始まりは、母の願いだった。
紗依だけを大切にしてくれる人を見つけて結婚し、温かい家庭を築いて欲しい。愛し愛され、守られて。幸せになって欲しい。
母の願いを叶えることが紗依にとっては『夢』であり。それを知る矢斗は、自分ではそれを叶えられないだろうかと言ってくれた。
答えをだせずにいた言葉に、紗依はようやく答えを返した。
けれど、母が願ってくれたからではなく。母の為だけではなく。
他でもない紗依自身が矢斗と共にこれからを生きて幸せになりたい、そう想うからこそ紡いだ言葉だった。
呆然と見開かれていた矢斗の琥珀の瞳から、一筋涙が零れた。
揺れる心に言葉を紡げずにいる矢斗からけして眼差しを逸らさずに、紗依は心に思う。
信じている。
矢斗は、絶対に射てくれる。
共にこの先の日々を生きたいと思うからこそ、今一度撃ってくれる――!
また、激しい逡巡があったように思えた。果てない葛藤があったように感じた。
長い、長い。何時までも続くかと思われた長い沈黙の後。
矢斗はあの時のように、己の本体である弓をその手に呼び出した。
一切無駄のない、ともすれば武骨にも見える弓を手にした矢斗は、静かに矢を番えた。
けれど、あの時と違うのは――その眼差しに宿る、確かに未来を見据える強い光。
哀しい終わりを迎える為ではなく、二人でこれからの日々に幸せを見出す為に。
矢斗は、再び高き弦の音を響かせて、矢を放った。
飛来した矢は過たず具現化した紗依と怪異との繋がりを断ち切り。
鵺の悲鳴にも似た叫びが聞こえた気がして。
その場には、目も開けていられぬ程の眩い光と、その場にあるもの全てをなぎ倒さんとするような激しい衝撃が生じた……。
――気が付いた時、紗依は柔らかな感触を感じ、僅かに戸惑った。
どうやら自分は布団に寝かされているようだと感じた紗依は、先程までのことが夢だったのではないか、と一瞬思ってしまった。
けれど、確かに現実だったと紗依に告げたのは、見上げた先あった矢斗の必死な表情と。遠くに聞こえる、慌ただしく駆け回りながら叫ぶ人々の声だった。
おぼろげだった感覚が明らかになるにつれ、ここが奥座敷にある部屋の一つであることがわかってくる。
ひとまず起き上がろうとした紗依を、矢斗は最初こそ制したものの。やがて、根負けしたように紗依が状態を起こすのに手を添えてくれた。
紗依が目覚めたことで安堵した様子の矢斗は、紗依が抱く問いに一つ一つ答えてくれた。
怪異の力が放たれかけたことよって生じた屋敷の被害への対応や、出た怪我人の手当に屋敷の人々は皆慌ただしく駆け回っているという。
千尋やサトも忙しく動き続けていると聞けば、ここで寝ているのが申し訳なく思う。
紗依は起き上がり、すぐにでも手伝いに駆け付けようとしたが、矢斗が止めた。
皆様に申し訳ないと紗依は言ったけれど、他ならぬその皆……千尋達と時嗣達が「しっかり休ませてさしあげろ」と矢斗へ紗依の守りを言いつけて言ったのだという。
申し訳ないような、有り難いような。複雑な面持ちをしていた紗依は、ふとあることに気付いて表情を強ばらせた。
その表情を見て紗依の抱いた懸念を察したらしい矢斗は、安心させるように笑みを見せながら、穏やかに告げる。
「鵺の玉は。時嗣達が他家からも封じに長けた者を呼び寄せて、厳重に封印を施している」
時嗣は面子にこだわっている場合かと他家にも封じの術に長けたものを求めたらしい。
かつて猛威を振るった怪異を封印する為に、他の三家からだけではなく帝の膝元からも術者が遣わされているとか。
いずれ封じが確固なものとなったら、宮中の霊域に収められることになるだろう、と矢斗は教えてくれた。
それを聞いて漸く紗依は安堵したように息を吐いたが、すぐに哀しげに表情を曇らせてしまう。
どうしたのかと問う眼差しを向ける矢斗に、紗依は僅かな逡巡の後に口を開いた。
「ごめんなさい。せっかくの簪、駄目にしてしまって……」
矢斗が長い時間をかけ、紗依を待ちながら想いを込めて作ってくれた珠の簪は、鵺を封じる器としてしまった。
他にとるべき方法がなく仕方なかったとはいえ、彼の想いの籠った品を損ねてしまったことには変わりない。
哀しげに言った後に俯き沈黙してしまった紗依は、不意に身体を引かれて目を見張る。
気が付いた時には、紗依の身体は矢斗の逞しい腕の中にあった。
「構わない」
戸惑う紗依の耳に、優しさの底に万感の思いの籠った言葉が触れる。
温かで幸せな場所に、守られるようにして捉われていることをこんなにも嬉しいと。
裡に感じる想いと同じ想いを触れた場所から感じることが、これほどまでに愛しいと。
溢れるようにこみ上げてくる想いに、紗依は目頭が熱くなるのを感じた。
「また、貴方を想い、作るから。貴方に……また簪を贈るから。だから、どうか」
矢斗の鼓動と自らの鼓動が溶けあうような感覚に、咄嗟に言葉を返せない。
そんな紗依を更に強く腕に抱きながら、矢斗は確かな愛情のこもった声音で希う。
「どうか……私と共に生きてくれ。今度こそ守らせてくれ……。私の愛しい、天乙女……」
紗依の『夢』を叶えたいと言ってくれた時のように優しくも確かな声音で紡がれたのは、他でもない紗依自身が抱いた願いであり、矢斗自身の願い。
かつては、哀しい選択を強いて。そして、一度は伝えられぬまま別れ、互いを失って。
再びめぐり逢い想いを受けて、矢斗も紗依も、一番望んでいたものを取り戻した。
「勿論よ。私の、大切な夕星……!」
もう、こみ上げる想いが形となり、涙となり流れ落ちるのを止められない。
紗依は何度も頷きながら答えると、自らも静かに矢斗の背に手を回し、広く温かな胸に頬を寄せた――。
躊躇うのも無理はない、と紗依は思う。
紗依が両手で抱えるようにして示す『結び目』の向こうには。
鵺と紗依を繋ぐ『結び目』の先には、紗依の心臓があるからだ――。
真剣な紗依の眼差しを受けながら、矢斗は唇を震わせ、頭を緩く左右に振る。
「私が、貴方をまた撃つなど……。また、貴方を射抜いてしまったら……」
矢斗はここではない何処かを見ているような、動揺しきった様子で口元を抑えてしまう。
きっと、思い出しているのだろう。
先の世で、弦音を射抜いた時のことを。願いを叶える為とはいえ、自分の手で想う相手を殺した時のことを……。
紗依の願いに応えて紗依を撃って。繋ぎ目を破壊するに留まらなかったら。再び、彼の放った矢が心臓を射抜いてしまったら。
己を呪う程の恐れを思い出させてしまったことを苦く思うけれど、これは矢斗にしか頼めない。
時嗣達は鵺が閉じ込められた珠の封じを確かにするために、全てを費やしている。
そして、怪異と紗依の魂との結びつきはあまりに特異。
破邪の弓である矢斗の力でなければ破壊出来ない程に、強く複雑に絡み合っているのだ。
だからこそ、また哀しい顔をさせたとしても、矢斗に願うしかない。
だが、あの時とは違う。
かつては終わりを覚悟して、自分を射るようにと言うしかなかった。
でも今は。
紗依の中に、あれ程形にならなかった『伝えたいこと』が確かなものとなって浮かび上がってくる。
それは純粋な紗依の想いであり、願いだった。
真っ直ぐに矢斗へと眼差しを向けながら、紗依は淡く微笑んだ。
「私は、貴方が好き。弦音だった私も、紗依である私も」
弦音が伝えてはいけないと戒めていた想いであり、紗依が自分には不相応なものであると戒めていた想いだった。
けれど今なら、裡を満たす温かなこの心を、素直に告げられる。
紗依が静かに向けた万感の思いの籠った眼差しを受けて、矢斗が目を見張る。
戸惑いの中に僅かに喜びが宿り。それは少しずつ、矢斗の表情に力を、失いかけていた色を還していく。
けして逸らすことなく愛しい弓神を見つめながら、紗依は静かに続けた。
「だから、貴方と幸せになりたい。私の『夢』を、貴方に叶えて欲しい」
それは、弦音が叶えることができずに終わった願いであり、紗依がようやく辿り着いた偽らざる純粋な願いであり。
そして、紗依が今に至るまで矢斗に返せぬ問いの答えだった。
「お母様が願って下さったから、じゃない。私が、矢斗と幸せになりたいの。矢斗と一緒に、これからを生きていきたい……! だから……!」
始まりは、母の願いだった。
紗依だけを大切にしてくれる人を見つけて結婚し、温かい家庭を築いて欲しい。愛し愛され、守られて。幸せになって欲しい。
母の願いを叶えることが紗依にとっては『夢』であり。それを知る矢斗は、自分ではそれを叶えられないだろうかと言ってくれた。
答えをだせずにいた言葉に、紗依はようやく答えを返した。
けれど、母が願ってくれたからではなく。母の為だけではなく。
他でもない紗依自身が矢斗と共にこれからを生きて幸せになりたい、そう想うからこそ紡いだ言葉だった。
呆然と見開かれていた矢斗の琥珀の瞳から、一筋涙が零れた。
揺れる心に言葉を紡げずにいる矢斗からけして眼差しを逸らさずに、紗依は心に思う。
信じている。
矢斗は、絶対に射てくれる。
共にこの先の日々を生きたいと思うからこそ、今一度撃ってくれる――!
また、激しい逡巡があったように思えた。果てない葛藤があったように感じた。
長い、長い。何時までも続くかと思われた長い沈黙の後。
矢斗はあの時のように、己の本体である弓をその手に呼び出した。
一切無駄のない、ともすれば武骨にも見える弓を手にした矢斗は、静かに矢を番えた。
けれど、あの時と違うのは――その眼差しに宿る、確かに未来を見据える強い光。
哀しい終わりを迎える為ではなく、二人でこれからの日々に幸せを見出す為に。
矢斗は、再び高き弦の音を響かせて、矢を放った。
飛来した矢は過たず具現化した紗依と怪異との繋がりを断ち切り。
鵺の悲鳴にも似た叫びが聞こえた気がして。
その場には、目も開けていられぬ程の眩い光と、その場にあるもの全てをなぎ倒さんとするような激しい衝撃が生じた……。
――気が付いた時、紗依は柔らかな感触を感じ、僅かに戸惑った。
どうやら自分は布団に寝かされているようだと感じた紗依は、先程までのことが夢だったのではないか、と一瞬思ってしまった。
けれど、確かに現実だったと紗依に告げたのは、見上げた先あった矢斗の必死な表情と。遠くに聞こえる、慌ただしく駆け回りながら叫ぶ人々の声だった。
おぼろげだった感覚が明らかになるにつれ、ここが奥座敷にある部屋の一つであることがわかってくる。
ひとまず起き上がろうとした紗依を、矢斗は最初こそ制したものの。やがて、根負けしたように紗依が状態を起こすのに手を添えてくれた。
紗依が目覚めたことで安堵した様子の矢斗は、紗依が抱く問いに一つ一つ答えてくれた。
怪異の力が放たれかけたことよって生じた屋敷の被害への対応や、出た怪我人の手当に屋敷の人々は皆慌ただしく駆け回っているという。
千尋やサトも忙しく動き続けていると聞けば、ここで寝ているのが申し訳なく思う。
紗依は起き上がり、すぐにでも手伝いに駆け付けようとしたが、矢斗が止めた。
皆様に申し訳ないと紗依は言ったけれど、他ならぬその皆……千尋達と時嗣達が「しっかり休ませてさしあげろ」と矢斗へ紗依の守りを言いつけて言ったのだという。
申し訳ないような、有り難いような。複雑な面持ちをしていた紗依は、ふとあることに気付いて表情を強ばらせた。
その表情を見て紗依の抱いた懸念を察したらしい矢斗は、安心させるように笑みを見せながら、穏やかに告げる。
「鵺の玉は。時嗣達が他家からも封じに長けた者を呼び寄せて、厳重に封印を施している」
時嗣は面子にこだわっている場合かと他家にも封じの術に長けたものを求めたらしい。
かつて猛威を振るった怪異を封印する為に、他の三家からだけではなく帝の膝元からも術者が遣わされているとか。
いずれ封じが確固なものとなったら、宮中の霊域に収められることになるだろう、と矢斗は教えてくれた。
それを聞いて漸く紗依は安堵したように息を吐いたが、すぐに哀しげに表情を曇らせてしまう。
どうしたのかと問う眼差しを向ける矢斗に、紗依は僅かな逡巡の後に口を開いた。
「ごめんなさい。せっかくの簪、駄目にしてしまって……」
矢斗が長い時間をかけ、紗依を待ちながら想いを込めて作ってくれた珠の簪は、鵺を封じる器としてしまった。
他にとるべき方法がなく仕方なかったとはいえ、彼の想いの籠った品を損ねてしまったことには変わりない。
哀しげに言った後に俯き沈黙してしまった紗依は、不意に身体を引かれて目を見張る。
気が付いた時には、紗依の身体は矢斗の逞しい腕の中にあった。
「構わない」
戸惑う紗依の耳に、優しさの底に万感の思いの籠った言葉が触れる。
温かで幸せな場所に、守られるようにして捉われていることをこんなにも嬉しいと。
裡に感じる想いと同じ想いを触れた場所から感じることが、これほどまでに愛しいと。
溢れるようにこみ上げてくる想いに、紗依は目頭が熱くなるのを感じた。
「また、貴方を想い、作るから。貴方に……また簪を贈るから。だから、どうか」
矢斗の鼓動と自らの鼓動が溶けあうような感覚に、咄嗟に言葉を返せない。
そんな紗依を更に強く腕に抱きながら、矢斗は確かな愛情のこもった声音で希う。
「どうか……私と共に生きてくれ。今度こそ守らせてくれ……。私の愛しい、天乙女……」
紗依の『夢』を叶えたいと言ってくれた時のように優しくも確かな声音で紡がれたのは、他でもない紗依自身が抱いた願いであり、矢斗自身の願い。
かつては、哀しい選択を強いて。そして、一度は伝えられぬまま別れ、互いを失って。
再びめぐり逢い想いを受けて、矢斗も紗依も、一番望んでいたものを取り戻した。
「勿論よ。私の、大切な夕星……!」
もう、こみ上げる想いが形となり、涙となり流れ落ちるのを止められない。
紗依は何度も頷きながら答えると、自らも静かに矢斗の背に手を回し、広く温かな胸に頬を寄せた――。