争いに次ぐ争いに揺れた世から幾星霜。
 安寧が齎され、人々が平らかな世を謳歌する時代にて。
 二人の記憶は、いつも花の庭と共にあった。

 うららかな陽射しを浴びて咲き誇る季節の花に溢れる庭に、一人の娘の姿がある。
 嬉しくて仕方ないといった様子で歌を口ずさみながら。蝶のように一つの花を愛でては次へ、また次へと微笑み巡る。

『弦音』

 軽やかで踊るようだった足取りが、不意にかけられた男の声でぴたりと止まった。

『矢斗様! ……見てらしたのですか?』

 娘が声に驚いてそちらを見れば、堂々たる体躯を持つ黒髪の美丈夫の姿がある。
 常ならぬ霊威を纏う存在を目にした瞬間、思わず悲鳴をあげかけたが何とか堪えた。
 弦音と呼ばれた娘は、いささか気まずそうな様子で視線を彷徨わせる。
 自分でも些か浮かれすぎかと思っていたけれど、春の日差しの元で童のように花を見てはしゃいでいた姿を見られたのは恥ずかしい。
 恐る恐る、何時から見られていたのだろう、と自身が矢斗と呼んだ男性を見つめて黙り込んでしまう。

『もう少し早く声をかけようと思ったのだが。その、あまりに愛らしくて』

 すまないと謝りながらも優しく笑いながら言う矢斗を、ついつい少し膨れながら見つめてしまう弦音。
 彼の言葉に裏も表もないことを知るからこそ、頬は我知らずのうちに赤みを帯びる。
 しかし気を取り直すように一つ息を吐くと、殊更取り澄ました様子を作りながら再び口を開く。

『わ、わたくしは一族の巫女であります故。……はしたない行いは慎まなければなりません。どうか、今見たことはお忘れ下さいませ』

 その言葉の通り、弦音はある名家において巫女とたたえられる立場にある者だった。
 彼女の存在は家門にとって大きな意味を持ち、平素は顔を合わせることが出来るものとて限られている。
 身を慎み、家の名を保つために尊くあること。それが弦音に課せられていることだった。
 それが、花が美しくて心浮かれて子供のようにくるくると跳ねまわっている姿を見られたとあっては、何とも情けない。

『貴方は、そのままであるのが良いと思う。澄ましているより、余程好ましい』

 ばつが悪そうに身を縮める弦音を見て、矢斗は優しい苦笑いを浮かべながら、ごく自然な声音で口にする。
 またも飾ることも隠すこともない純粋で素直な好意に、弦音は思わず両手で頬を抑えて俯いてしまった。

『……夕星様は、すぐそのようなことを仰る』
『私の天乙女は、すぐそのように照れる』

 恥じらいながら特別な名を呟く弦音に、同じく特別な名が返り、慈しみのこもった言葉がかけられる。
 この方は、いつもこうだ。弦音は耳まで赤くなっているのを感じながら、裡にて呟く。
 崇敬を受ける尊い立場にありながら、矢斗はいつも弦音へと飾らぬ温かな心と称賛を向けてくる。
 本来であれば姿を見る事すら畏れ多い存在であるのに、いつも弦音にとっては温かく慕わしい存在であり続けるのだ。
 そう、本来であれば定められた者以外が言葉を交わすことすら憚られるほどの御方であるというのに……。

幸嗣(ゆきつぐ)が、弦音に(せん)を頼みたいと言っていた。頼めるだろうか』

 矢斗の口から聞こえた名は、聞き覚えのある名だった。
 今は政権が武家の頂点のものとはいえ、長きにわたり繋がり人々の上に在り続けた万乗の存在に始まりより仕える名家。
 四家と呼ばれる四つの家門のうちの一つ、北家の現当主の名である。
 矢斗の口からその名が出ることは不思議なことではなく、彼が北家の当主の願いを携えてくることも不自然なことではない。
 ただ。

『北家の祭神である貴方が、またそのように使い走りのようなことを……』

 弦音は不躾にならぬように抑えつつも、溜息交じりに矢斗へと眼差しを向ける。
 少しばかり困った風に笑う美しい男性は、人ではない。
 始まりの帝が有しておられたという武具が人の形を取り転じた付喪神であり。北家が祭神として祀る偉大な存在なのだ。
 如何に当主の願いとはいえこのように自ら足を運んで、頼みごとをするような立場ではない。むしろ、用向きがあるならば弦音に出向かせるべき方だ。
 その理由が、如何に『口実』なのだとわかっていたとしてもつい口に出てしまう。
 軽く咎めるような気配を感じた矢斗は、やはり困ったように笑っていたが。
 やがて、弦音を見つめながら目を細め、静かに言葉を紡ぎ始める。

『偉そうにふんぞり返るのは性に合わない。それに……』

 矢斗が柔らかな眼差しにひとひらの想いを滲ませ呟いた瞬間、不意に強い風が生じ。彼の言葉の続きはかき消されてしまう。
 でも、弦音に聞こえたような気がした。

 ――貴方に、会いたかった。

 風に攫われた愛しさこめられた言葉は、弦音の中にもある想いであり。
 同時に、互いにけして伝えてはならない言葉でもあった――。

 弦音は、とある古くから続く名門に生まれた娘だった。
 強き異能をつたえてきたはずの家門は近年頓に異能者の数を減らし、傾き始めていた。
 そんな中、弦音は目覚ましい程の強い力を持って生まれ、一族を支え導く巫女として祀りあげられた。
 一族の神域とされる庭にある離れにて、接するものとて限られた中で暮らし。身を慎み、ただ一族の為に生きる日々を送る。それだけが弦音にとって許された全てだった。 
 しかし、ある時。狭く限られたものだった弦音の世界に、矢斗は現れた。
 祭神が怪異を討伐する際の助力を願いたい、という北家の当主からの要請を受けて、弦音は初めて外の世界にでることを許され彼と出会った。
 四家の一つ・北家が祀る尊き祭神である弓神が弦音を出迎えてくれた時に見せた、優しい微笑をきっと忘れることはない。
 怪異討伐は恐ろしくはあったけれど、弦音は矢斗をよく助け、恙無く済んだ。
 そしてその出来事以来、矢斗は折に触れて足繫く弦音の元を訪れるようになる。
 矢斗が弦音の元を訪れる度に、募る想いがある。それは、時を追うごとに増していき、苦しい程に心を占めていく。
 お互いに、それを口にしてはならぬことを知っている。
 でも、互いに同じ想いがそれぞれの裡にあることも知っている。

 ――弦音は、矢斗に恋していた。

 そして、矢斗もまた、弦音に想いを寄せてくれていることを知っていた。
 矢斗は、弦音を己の伴侶に……『神嫁』と呼ばれる存在にと望んでくれていると伝え聞いたことがある。
 けれど、彼女が一族の巫女という立場にあるからこそ。告げたとて弦音が受けられぬことを知るからこそ、矢斗が弦音に対してその申し出を口にすることはなかった。
 そして弦音の家門もまた、如何に名誉な神の伴侶であるとしても、と言葉に依らずに拒み続けている。
 凋落しつつある一族の権威を支える為に生まれた綺羅星を、他家に差し出すことなどできない。万が一に婚姻を許すとしても、それは家門の者相手でなければならない。
 家の者達は、無言のまま拒絶を続けたという。
 弦音が北家の者であったなら、例え巫女であっても特別の取りなしも出来ただろうが、何せ他家のこと。
 北家の当主が家門の力を以て無理にでも話を通そうとしたのを、力を持つからこそ留まるべし、と制したのは他ならぬ祭神自身だという。
 正式な『神嫁』の申し入れが為されることなかったが、その代わりのように矢斗は北家の主の願い事を携えて、弦音の元を訪れるようになる。
 北家当主の願いを携えた矢斗を拒むことは、北家を拒絶することに等しい。
 だからこそ苦々しく思う家の者も、矢斗の訪れを阻止することが表立って出来なかった。
 或いは、閉じ込め籠の鳥にした娘への、せめても情けだったのかもしれない。
 弦音と矢斗は、お互いがそれぞれの立場にあるからこそ、心の裡にあるものを伝えることが許されず。代わりに、巡る季節を弦音にとっての世界といえる奥庭にて共に過ごした。
 春の彩の中で微笑みあい、夏の翠の中で軽やかに笑い声をあげて。
 秋の紅葉の中で共に目を細めて、冬の白の中で黙したまま寄り添って。
 ささやかな会話を愛おしく感じ、笑みには自然と笑みが返る。
 言葉が無くとふとした拍子に互いの温かさと、結びついた心を感じる。
 矢斗は、弦音を『天乙女』と呼び、弦音は矢斗の瞳を宵に輝く星になぞらえて『夕星』と呼んだ。
 二人でいる時だけの特別な呼び名。それが、二人にとって許された全てだった。
 ただそれだけで良かった。多くを望まないと……だから何時までもそんな日々が続けば良いと、二人が共に口に出さずに願っていた。

 けれど、そんな淡い願いを嘲笑うかのような出来事が起きてしまう。
 家門が傾きゆくことを認められず、現実を受け入れることを拒み。取りつかれたように再起を願った家門の者達が禁じられた儀式を行ってしまったのだ。
 その結果……古き時代に封じられた大いなる災いである怪異――鵺が解き放たれたのである。
 弦音は一族の巫女として制御を失った鵺と相対することを決意し。破邪の弓の現身たる矢斗は、時の帝の命により共に討伐にあたることとなった。
 だが、鵺を倒すことは容易ではなかった。
 何故なら、鵺は『死』を持たない。現に形を持たず、それ故に死という概念そのものを持たない怪異なのである。
 矢斗は自らの本体である弓を以て鵺を射抜こうとするけれど、矢は鵺をとらえきることが出来ずに居た。
 弦音も矢斗も焦れていた。
 今はまだ、鵺は完全に解き放たれてはいない。だが、このまま彼らが消耗し続ければ、いずれ逃亡を許してしまう可能性がある。
 それがわかるからこそ、鵺は敢えて本気を出さず、二人を嘲笑うのだ。
 もし少しでも隙を突かれ、鵺の逃亡を許してしまったら。世は大きな災いに見舞われ再び乱れ、人々が苦しむこととなる。そうなってからでは遅いのだ。
 この場から鵺を逃がすわけにはいかない。何とか、鵺に終わりを与えなければいけない。
 恐ろしさに震えそうになる。矢斗の手を引いて、逃げだしてしまいたいとも思う。
 けれど、使命を捨てるには弦音はあまりに巫女であり過ぎた。人の為にと、あり過ぎた。
 目の前には、様々な獣の特徴が入り交じる禍々しい姿の怪異が、二人を嗤いながら揺らめいている。
 現の器を持たないからこそ、決定的な一撃が与えられない。
 鵺は、存在そのものがもはや概念のようなもの。故に一度解き放たれてしまえば、討伐することが容易ではない。
 ならば、形を持たぬものに死という概念を与える為には。
 その時、弦音の脳裏にある考えが浮かんだ。
 今この場でとれる、最良にして最悪な。唯一といえる方法が。
 再び封じることが叶えばよいだろうが、鵺を封じた祭具は怪異が制御を外れた段階で既に消失している。
 ならば、封じる先を――。
 とある選択肢に思い至った弦音は、動きを止める。
 それを可能とする為の術は、弦音にはある。弦音の持つ異能と、覚えた秘術を以てすれば可能だ。
 だが、恐らくそれを矢斗が知ったなら間違いなく止めるだろう。
 だから。

『矢斗様。……どうか、お許し下さい』
『弦音……?』

 一言、俯いたまま小さく零した弦音に、矢斗が怪訝そうな声をあげた次の瞬間。
 弦音は全身全霊を以て、とある術を展開し始めた。
 力が弦音に集うと同時に、弦音と、鵺を中心とした場所に不可思議の風が渦巻き始める。
 矢斗が弦音の名を叫んでいるのが聞こえるけれど、弦音は応えない。
 応えてしまえば、決意が鈍ると思ったから。だから、弦音は裡にある感傷や未練を断ち切るように振り向かず、鵺を見据えた。

『……お前は器を求めるのでしょう? なら、私の身体をあげる』
『何……?』

 憎らしい程に余裕を崩さぬままだった鵺が、ようやく僅かに戸惑った声をあげる。
 器を持たない鵺は、かつて度々仮初の器を手に入れては災いを引き起こしたという。
 命を持つ器であったり、持たぬものであったり、言い伝えには様々語られている。
 だが、自ら器となると言い出したのは、恐らく弦音が初めてであろう。
 今の今まで自分と対峙していた女が告げた言葉に、さすがの怪異も動揺を見せる。
 怪異と祭神、二人がほぼ同時に戸惑いの叫び声をあげたのが聞こえた。
 それでも揺らがぬ眼差しを以て、弦音は鵺を見据えて告げる。

『けれどその代わり……もう、そこから逃げることは出来ない……!』

 矢斗は、その言葉にて弦音が何を考えているのかに気付いたようだった。
 今から弦音は、自ら鵺の器となる――そう、鵺にとっては最後の。
 弓神は咄嗟に弦音を止めようとしたけれど……それよりも一瞬早く弦音の術は完成する。
 次の瞬間、怪異があげたこの世のものとも思えぬ叫び声がその場に響き渡った。
鵺は激しく抗うけれど、弦音は鵺の抗いを全力で抑えつける。
激しい攻防が為され。やがて、ほぼ無理やりに弦音の中に鵺は招じ入れられ。
同時に、弦音の身体には強固な封が為され。
 吸い込まれるようにして鵺は、弦音の身体に完全に閉じ込められていた。
 渦巻き続ける風の最中に立つ弦音を、蒼褪め強張った面持ちの矢斗が言葉を失い見つめている。
 多分、矢斗は気付いただろう。この後、弦音が何を望むのかを。
 それを告げることでどれだけ彼が悲しむか知っていてもなお、弦音は哀しげに顔を歪めてそれを口にする。

『お願いです。このまま私を……私ごと鵺を、撃って……!』