――ひどく気分が悪く、吐き気がする。
曖昧な意識の中で、紗依は自分が粗末な木の床に寝かされていることに気付いた。
しかも、ただ転がされているのではない。後ろ手に縛られ、戒められている。
ささくれた木の床に一瞬玖瑶家で暮らしていた頃を思い出すが、すぐに違うと裡に呟く。
ぼんやりとしていた視界が少しずつ確かになっていくにつれ、そこが見たこともない小屋の中であるとわかる。
一体ここは何処なのか。何故、自分は此処にいるのか。
機を失う前に何があったのかを思い出そうとして頭に痛みを感じ、顔をしかめたその時。
「ようやくお目覚め?」
聞き覚えのある……叶うならばもう聞きたくないと思っていた女の声が聞こえた。
そして、その声とは別の忍び笑いも聞こえて、紗依はその場にいるのが一人ではないことに気付く。
蒼褪めながら視線をそちらに向ければ、そこにいたのは。
「美苑に、苑香……?」
母を追いやり後釜に座った女と、異母妹が暗い笑いを浮かべながらそこに立っていた。
見れば、小屋の中には荒んだ風体の男達の姿もあるではないか。
何が起きているのかと改めて呆然とした紗依は、次の瞬間頬に激しい衝撃を感じる。
「美苑『様』でしょう!」
美苑が激して叫んだと思った瞬間、共に紗依の身体は一度、二度床を転がった。
次いで、上から何度も何度も打ちつけるような痛み。
頬を打たれ、足蹴にされたのだと気付いたのは、次々と襲い来るあまりに馴染みのある焼けつくような感覚からだ。
臓腑を打たれる苦しさとせり上がってくるもの。口の中に拡がっていく錆びた味。
全てに全て覚えがあって。しばらく続いた穏やかな日々に忘れかけていた玖瑶家での日々が嫌になるほど鮮やかに蘇る。
ただひたすらに苦痛の嵐が過ぎるのを待ち耐え続けた記憶は、あまりに今の痛みと相まって紗依の呼吸を奪う。
「分不相応な暮らしにすっかりのぼせ上って。弁えるべき礼儀も忘れてしまって、良いご身分だこと」
紗依を蹴りつけ続ける母の傍らで、苑香は歪んだ微笑みを浮かべながら言う。
紗依の纏う着物を面白くなさそうに見る顔には、隠そうとも隠しきれない紗依への憎悪が滲んでいた。
「わたくしの誇りを傷つけておいて呑気なものね。忌まわしい呪い子に相応しい扱いを思い出されるといいわ」
苑香の声に宿る、煮え滾るような怒り。紗依はあの日の……玖瑶家の訪問の時のことを思い出す。
求められていたのが祭神の妻であると知り、紗依と苑香のすげ替えを狙った父と美苑。
美しく強い異能を持つ自分が選ばれぬわけはないと確信すらしていた驕った苑香。
けれどそれは矢斗の固い拒絶にあい、彼女の矜持は微塵に打ち砕かれた。
きっと、苑香はあの日のことをずっと恨み続けていたに違いない。だからこそ、こんなことを……。
殴られ蹴られる痛みの中、思考だけは嫌に冷静になっていく。紗依は、次第に何があったのかを思い出しつつあった。
矢斗が部屋を去った後、紗依は意を決して部屋を出た。
けれど、当然ながら複雑な面持ちの紗依が門を臨む場所に出た時には、既に矢斗たちは出立してしまった後だった。
見送りの家人たちの姿とてない閑散とした場を見て、何をしているのだろうと苦く思う。
あれだけ矢斗を拒絶したというのに、姿を見られたらと思うなんてと自らを心の裡で責める。
聞いた話では、時嗣達が戻るのは夜になるというので、紗依は部屋に戻ることにした。
そして、部屋に戻った紗依は、机の上に何かの紙が置かれていることに気付く。
それは、一通の電報だった。
――ハハキトク、スグニコラレタシ
『……お母様が……⁉』
母が居るという療養所からの知らせに、全身の血の気が引く思いがした。
慌てて再び部屋を飛び出した紗依に、その場に居合わせた下女中の一人がどうしたのかを声をかけてきた。
まずはサトに相談しようとした紗依だったが、その女中の言葉によると生憎サトは手の離せない用にて取り込み中であるという。
紗依のただならぬ様子に事態を知った女中が、電報の住所まで行ってくれるよう俥を手配しますと言ってくれ、蒼褪めた紗依は一も二もなく頷いていた。
女中にサトへの言伝を頼んで、半ば無意識にお守りとしてあの簪を胸元に仕舞って。
とるものもとりあえず呼んでもらった俥に乗り込み、慌ただしく出立した。
俥に揺られること暫し。
随分寂れた場所にさしかかった、と思った次の瞬間には何か寒気を感じ、次いで女の笑い声が聞こえたような気がした瞬間に意識が遠のいて……。
気が付いた時には、この何処かもわからない粗末な小屋に手を縛られ寝かされていた。
あの電報が罠だったと今気づいても遅い。自分の迂闊さを悔やむばかりである。
苑香は事態を理解するにつれ紗依の顔に浮かぶ後悔の色を察したのか、愉快そうに嗤う。
「お姉様のせいで罰を受けて。奥女中から下女中に格下げされた女を見つけて、お金を握らせたの」
目を見張り、思わず声をあげそうになる。
ああ、そうだ。あの下女中は…‥紗依と千尋を侮辱して罰を受けた、元は奥女中だった女だ。
紗依のことを異能持たぬ呪い子と蔑み、千尋を平民と蔑み。時嗣の逆鱗に触れて北家を追い出されかけていた、あの。
母の危篤という言葉に気を取られすぎて、行き会った女中があの女であることになど気づかなかった。
苑香は女中に、北家当主夫妻と矢斗が屋敷を空け、紗依が一人になる日を探らせた。
そしてその日が来ると知ると、偽の電報を紗依の部屋に忍ばせ。慌てた紗依を、美苑の息のかかった破落戸が扮する車夫が引く俥に乗せるように指示したのだという。
紗依を北家の屋敷からおびき出す為に手を尽くしたのよ、と無邪気なまでに笑う苑香の前で、美苑はなおも紗依を足蹴にし続ける。
「呪い子なんて産んだ不吉な女の癖に、正妻面して偉そうにしていて……。いつも自分は上の立場だという顔で、慈悲深い奥様を気取って……!」
美苑の口からは、いつしか紗依の母に対する怨嗟が呪詛のように紡がれていた。
長い年月に培われた深い恨みに満ちた言葉に、紗依はふと伝えきいた話を思い出す。
父は花街の芸者であった美苑に熱烈に惚れ込み、妻にしてやると言って落籍させた。
けれど父は入り婿であって。母がある限り、それは叶わない約束であり。美苑は日陰の身に甘んじ続ける。
それでも母は、美苑に対して辛くあたることもなく、むしろ折に触れての気遣いをしていたという。
祖父は父が美苑を妾として囲うことについては目こぼししていたが、子が出来たのを知った時は始末させろと命じたらしい。
妾に子を持たせても火種にしかならない、と渋る父を叱る祖父を止めたのが母だった。
生まれてくる子に罪はない。そう言って、子を産ませてやるように祖父を説得したのだという。
美苑は、恐らく長らく母を恨み続けてきたのだろう。
母の情け無くしては成り立たない立場に立たされ続けたことの咎は母にはないというのに、自らを貶めたのは母だと歪んだ憎悪を抱き続けてきた。
だからこそ、漸く留飲の下げられる機会……祖父亡き後、紗依を口実に母が離縁されると、これでもかと母を甚振り続けた……。
長い間に歪みに歪んだ憎悪を叫び続けながら更に紗依を害そうとした美苑へ、傍らの娘が声をかけた。
「ねえ、お母様。そろそろ止めましょう? あまりに見苦しくなりすぎては、売り値が下がってしまうわ」
「そうね……仕方ないわ」
鬼を思わせる程に歪んだ表情で荒い息をしていた美苑は、娘の言葉に未だ収まらない負の感情の奔流を何とか収めようとしている。
ようやく止んだ痛みの嵐に安堵の息を吐きかけたが、ふと聞こえた言葉に紗依の眉が寄った。
「売り値……?」
どう聞いても不穏でしかない響きを帯びた言葉に怪訝そうに呟いた紗依を見て、苑香は口元に手をやって軽やかな笑い声をたてる。
自分がこれからどうなるのかをその言葉から徐々に察して、紗依の顔から血の気が失せていく。
紗依の表情が変わり行く様を見て、倒れた姉を覗き込むようにしながら苑香は朗らかな声音で告げた。
「お姉様は、これから人買いに売られるのよ。帝都から遠く遠く離れた北の地にある遊郭の、一番ひどい見世に売ってもらうように手配したの」
これから姉に慶事があるようにさえ言ってのける苑香に愕然としながら、紗依は自分が感じた恐れが現実となることを知る。
そこまでして、と愕然とする紗依を、小屋にいた男達が下卑た笑みを身ながら見ていた。
苑香達親子が紗依を目障りに思っていたのは知っていたけれど、こんな真似に及ぶほど憎まれていたのかと思えば寒いものが背筋を伝う。
このまま自分は為す術もなく遠い地へ売られるしかないのか。
紗依の顔からすっかり色は失せていた。
震えださないように必死に自分を叱咤していたけれど、愕然とした面もちのまま何ひとつとして返す言葉を紡げない。
恐らくサトにした言伝は、あの女が無かったものとしているだろう。
北家の人々にすれば、紗依は何も言わずに姿を消したことになる。
何も残すことなく自分が姿を消したとしたら、母は。北家の人々は、矢斗は。
抱いた申し訳なさや様々な感情で歪む紗依の顔を見て、苑香はなおも笑って告げる。
「分不相応な立場を申し訳なく思ったお姉様が、自ら姿を消した……という置手紙をしてあるから。安心して生き地獄を味わってね」
残酷なまでの明るさと無邪気さで紡がれた悪意に、紗依は唇を噛みしめて異母妹の顔を見た。
華やかで人目を奪う程に美しい苑香は、歪んだ矜持を毒として込めた壮絶な笑みを浮かべて姉を見下ろしている。
「さあ、貴方達。さっさとこの目障りなものを連れて行って頂戴」
美苑の言葉に、それまで黙って事の成り行きを見守っていた男達がゆるりと動き出す。
手を戒められたままの紗依を乱暴に立ち上がらせると、肩を掴んで小屋の外へと無理やり引きずり出す。
不確かな地面に足を取られそうになりながら歩かされ聞いた男達と美苑達のやり取りからして、この後女衒が到着し紗依は引き渡されるのだという。
相手は男が複数に、殊に強い異能を持つ苑香が居る。どうあがいても勝ち目のない状況に、逆らう気力すら失せて行く気がした。
自分は、このまま売られてしまうのだ。遠く離れた地に追いやられてしまって、もう誰にもあうこと叶わぬまま、地獄のような日々を送ることになるのだ。
そう、誰とも。
母にも。千尋にも時嗣にも、サトにも。
矢斗にも、もう会えないまま……。
その言葉が脳裏に浮かぶと共に、哀しみ滲む笑顔の矢斗の面影が過る。
その瞬間、紗依の中で何かが弾けた気がした。
同時に、胸元に仕舞っていた簪が熱を帯びる。
熱に呼応するように裡から湧き上がる生じるものがあって、気が付いた時には紗依は自分でも思わぬ行動に出ていた。
簪から湧き出る力に後押しされ裡から生じた思いのまま、渾身の力を込めて自分を引きずる男に体当たりをしたのだ。
全く予想もしていなかった反撃に驚いた男は、更に足元の小枝や石に足を取られてその場に倒れ込む。
他の男達も一瞬呆気にとられ咄嗟の対応ができない内に、紗依は必死の形相で駆けだしていた。
自分の中にこんな力があったのかと思うほどの力で、手を戒められたままぼろぼろの身体で紗依は薄暗い林の中を駆ける。
足元は不確かで先も見えない。
背後からは美苑の甲高い怒声が聞こえ、闇の向こう側で男達が紗依を追いかけ始めた気配を感じる。
異能を持たないこの身に何ができるというのか。どう見ても勝ち目のない相手から、どこまで逃げ続けられるというのか。
ともすれば諦めが生じそうになるのを、必死で抑える。
紗依は地の利もなければ身体の状態とて最悪で。数でも負けている。
けれど、諦めたくない。諦めて何もできないまま終わりたくない。
紗依の内を占めるのは、会いたい、という思いだった。
矢斗に会いたい。
まだ矢斗に何も伝えてない。伝えられないうちに、終わりたくない。
あの時、矢斗が何を言おうとしていたのかを知りたい。どんな顔をしていたのかを、確かめたい。
矢斗は自分の言葉で、一生懸命に伝えようとしてくれていたのに。紗依はそれを拒絶するばかりで、聞こうともせず、伝えようともしなかった。
今はただ、矢斗の言葉が聞きたい。
例えそれが残酷なものであったとしても、彼の口から語られる本当のことを知りたい。
矢斗の、あの言葉を信じたい。
愛しいと思うのは貴方だけだと言った矢斗を信じる為に、彼から真実を聞きたい。
無様でもいい。みっともなく足掻いて笑われようと構わない。それでも自分はここで終わりを受け入れたくない。
聞いて、伝えたい。
自分が矢斗に対して感じている思いを。矢斗を、どう思っているのかを……!
必死に駆けて、駆け続けて。
紗依は弾かれたように身を強ばらせ、足を止めてしまう。
足元で乾いた音を立てて石が崩れて転がり、落ちて暫く後に水に吸い込まれた音を響かせる。
走り続けた紗依は、いつの間にか切り立った崖に追い詰められていた。
遥か下に流れる川は、顔色無からしめるほどに激しく。そこから切れ切れにのぞく切り立った岩を見ればさらに血の気が引く。
どう見ても、落ちて助かる高さでもなければ水の勢いでもない。落ちたらまず、命は無いだろう。
「そこから飛びおりるの? それはそれで悪くないけれど、それじゃあ面白くないのよ」
背後を見れば、息を切らせた苑香と美苑。それに男達が追いついてきていた。
じわじわと、殊更ゆっくりと紗依の逃げ場を立つように迫って来る男達に、紗依は後退ろうとする。
だが、紗依が際の際まで追い詰められてもなお、男達の足は止まらず。やがて笑いながら伸ばされた手が、再び紗依を捕らえようと迫り。
その様子を、薄笑いを浮かべて見守っていた苑香の顔が、次の瞬間驚愕に歪んだ。
――紗依が、崖から跳んだからだ。
命を失うことになったとしても、再び捕らえられるよりは。紗依は唇を噛みしめて地を蹴った。
魂は千里を駆けるという。だからどうか、せめて魂となっても、迷わず矢斗のもとへ行けたならと強く願う。きっと、簪が導いてくれる。
矢斗にもう一度会いたい。例え刹那の間となったとしても、どうか、どうか――!
紗依の心の裡から湧き上がる想いに応えるように。まるで、紗依の心が現に影響を及ぼしたかのように。
その場の全てを打ち倒さんとするような荒ぶる風がその場に吹き、居合わせた者達は目を空けていることができず地に膝をつき、或いは倒れ伏した気配がする。悲鳴が聞こえる。
吹き荒れる風の中、紗依は温かな感触を覚えて不思議に思う。
懐かしくて優しい、紗依が今何よりも焦がれていた……。
不意に、吹き荒び荒れ狂っていた風が沈黙した。
紗依は自分を包む温かな腕を感じながら、目を閉じていた。
これは夢だろうか。夢だとしたら随分幸せな夢だ。会いたいと望んでいたひとの腕に再び抱かれているように思えるなど。
夢なら覚めないで欲しい。
多分自分は死んだのだろう。最後に束の間であっても幸せな夢を見せてやろうとする、神の慈悲かもしれない。
ふわりとした心地にあった紗依を引き戻したのは、悲痛なまでの想いに満ちた現の響きだった。
「紗依……大丈夫か……!」
耳を打つ確かな声音に、そのまま遠ざかりかけた意識が一気に引き戻される。
見つめる先には、泣きだすのではないかという程哀しげに顔を歪めた矢斗の顔。
何時までも続くかと思われた暴風が止んだ後には――紗依を守るように抱き締めて宙に浮かぶ破邪の弓の姿があった。
何時しか紗依の日々に無くてはならなくなっていた。心の裡にあまりに大きな存在となっていた、弓の付喪神が自分を腕に抱いている。
その場にいる誰もが、何が起きたのか分からないと言った風に狼狽し。けれども、呼び覚まされた畏れに慄く中。
それが夢幻ではなく現実であると理解していくにつれ、紗依は呆然と目を見開く。
「……矢斗……? どうして……?」
「紗依が、私を呼んでくれたから。……聞こえたのだ。紗依が抗い、私を呼ぶ声が」
震える声で問いを紡ぐ紗依を、矢斗は更に深く抱きしめた。
自分を優しく捉える広い腕の中で、紗依は言葉を紡ぐことなどできず、ただ頷くしかできなかった。
矢斗がここに居る。自分を抱き締めてくれている。
もう打たれ続けた痛みも、駆け続けた身体が訴える苦しみも、何も感じない。
矢斗がここにいてくれること。それだけが、今の紗依の全てだった。
抱き合う矢斗と紗依を愕然とした面もちで見つめていた苑香だったが、すぐに周囲の異変に気付く。
鈍い音と呻き声に苑香が弾かれたように振り向けば、そこには。
「なかなか思い切ったことをするな、紗依殿……」
北家の家人と思しき者達に打ち倒され戒めを受けようとしている男達と、それを率い自らも喚く美苑を捉える北家当主の姿があった。
呆れているのか感心しているのかわからぬ苦笑いを浮かべ、宙にある祭神と紗依を見ていた時嗣は視線を苑香へと向ける。
時嗣の眼差しに、苑香は顔色を失い震えだす。
そこには、一かけらの温度もない……罪人を断じる鋭い意思しかなかったからだ。
「流石に、今度はもう見逃してやるわけにはいかないな」
怜悧な時嗣の言葉に、苑香は唇をわななかせた。
異能を以て抗ったとしても、到底叶わない程の圧を感じる相手である。
その相手が、もはや容赦をしないと眼差しで告げ。一分の隙も無く構えて相対している。
追い詰めていたはずが、今や追い詰められたのは自分であるという事実に。苑香は醜悪な表情で凍り付いたまま、その場に糸が切れたように膝をついた――。
夜更けて、紗依を連れて矢斗達は北家の屋敷に帰還した。
蒼褪めた顔で待っていた千尋達は、紗依の傷ついた姿を見ると涙しながら縋りついた。
危険な目に合わせた事を嗚咽交じりに詫びる千尋に、無断で抜け出した挙句に心配をかけたことを詫びる紗依もまた涙が止まらなかった。
紗依は手当を受けながら、あの下女中の女がかどわかしの片棒を担いだとして滅多に使われることのない牢に籠められていることを知る。
恐らく、今日捕らえられた者達共に然るべき筋に突き出されるだろうということだった。
美苑と苑香、その手下である男達は一先ず北家に厳重な監視付きで留め置かれている。
時嗣達は、以前から玖瑶家の……とりわけきな臭い動きをしていた美苑達を探っており、監視をつけていたらしい。
紗依が姿を消したと聞いてまず二人の関与を疑っていると、母娘が人目を忍ぶようにして屋敷を出たという報告を受けた。
そして追った向かった先で。紗依が心の裡にて矢斗を呼ぶ声が簪を介して矢斗に伝わり、窮地に間に合ったのだと教えられる。
玖瑶家に事の次第を説明する使者を送ってまもなくして、慌てに慌て、血相を変えた玖瑶家当主が北家の門を叩いた。
暫しして。北家の座敷には物々しい雰囲気が漂う中、此度の騒動に関わる者達が集うこととなった。
千尋とサトが手当してくれたものの、あちこちに包帯が巻かれた傷浅からぬ様子の紗依は、矢斗の隣に座している。
先程まで紗依を抱き締めて離さなかった矢斗も、険しい表情の時嗣に諭され、悪意の眼差しから庇うような位置に座るに留めていた。
上座に位置する時嗣の傍らには千尋が、そして彼が鋭い眼差しを向ける先には平伏して震える紗依の父。
その後方には縄を打たれこそしないものの異能封じの戒めを受け、北家の家人に両脇を固められた美苑と苑香の姿がある。
父はもはや顔色を無くし冷や汗を流しながら詫び続けているけれど、時嗣の表情には少しの変化もない。
紗依は傍らの矢斗の表情を伺い見た。
矢斗の顔には感情と思しきものは全く浮かんでいないように見えるが……。
違う、と紗依は感じた。
暴発しかねない程の激しい感情を必死に押し隠しているのが、時折陽炎のように揺らめく片鱗から伝わってくる。
しかし、それに全く気付くこともなく。何を言っても逆効果であることにも気づかず、父は妻と娘に対する情けを請い続けている。
「……まだ続けるのか?」
それを打ち切らせるように、大仰な溜息交じりに告げたのは時嗣だった。
「下らん口上をいくら並べても、当家の祭神の妻に対してそちらの二人が犯した罪は然るべき形で問う。覆すことはない」
紗依が強張った表情で見つめる先で、父は縋るように紗依に眼差しを向けてくる。
口から泡を吹きかねない勢いで、紗依を見ると媚びるような表情と声音で語り始めた。
「さ、紗依……! お前からも何か申し上げろ……! 苑香は、お前にとっては唯一人の妹だろう……!」
その言葉を聞いた瞬間、心がすっと温度を失ったのを感じる。
父は、自分が頼めば紗依が苑香達を放免するように取りなしてくれるだろうと思ったのだろうか。
母を裏切り貶め、紗依と共に不遇に置き続けて。二人がどれだけ美苑達に虐げられていても見て見ぬ振りをしていた人が。
脳裏に巡る、玖瑶家での日々。そして、誘拐され売られかけ。死を覚悟した先程までの出来事……。
父はなおも玖瑶家の体面の重要さを説き、自分が玖瑶家から捨て去った紗依にそれを守ることを求めている。
この人は、痛々しい姿の紗依を見ても。それでも尚も自らの保身と今の妻子のことしか考えていないのだ。
「貴様が。紗依を見捨てた貴様が、それを……!」
紗依が僅かに目を伏せた瞬間、瞬時に何かが膨れ上がるような気配と共に、怒りに満ちた言葉と何かが空を切るような音が聞こえて。
気付いた時には、情けない叫び声をあげながら、父は後方へと吹き飛び転げた。
恐れで凍り付いた表情のまま倒れ伏した父を見て、美苑が悲鳴をあげる。
視線を傍らに向けたなら、滾る怒りの片鱗を滲ませながる矢斗が、父を睨みつけていた。
手が何かを薙ぎはらったかのような様子であり、それを見て漸く矢斗が父を払ったのだと気付く。
そのまま父に掴みかかりかねない勢いだった矢斗を、低く重い時嗣の声が制する。
「紗依殿の前で死人を出す気か。あれでも一応、紗依殿にとっては血縁であることに変わりはない」
鋭い声音で、時嗣は淡々と事実を指摘する。
激して立ち上がりかけていた矢斗は、怒りと悔しさに顔を歪め。僅かな逡巡の後、唇を噛みしめて元の通りに座した。
よろめきながら何とか上体を起こした父の顔には、拭い難い恐れが張り付いてしまっている。
「……妹だと、思いたかったです……」
紗依は、父を哀しみとも憐みともつかない複雑な眼差しで見据えながら、それだけを告げた。
偽りではない。
苑香を妹と思いたかったこともあった。世に在る姉妹のように仲良く過ごせたらと、望みを抱いたことだってあった。
けれどそれは、他でもない苑香の悪意によって粉々に打ち砕かれ、踏みにじられてしまったのだ。
だからこそ、紗依はそれ以上の言葉を口にできなかった。
紗依がもはや自分を、そして苑香達を助けるように嘆願する意思がないことを悟った父は、呆然としたまま続く言葉を失ってしまっている。
そんな父にもはや目をくれず、時嗣は一つ息を吐くと今度は美苑と苑香の母娘に視線を向けた。
「あんな置手紙で誤魔化せると良く思ったな」
紗依が分不相応な暮らしを申し訳なく思い姿を消した。
二人は、その旨を紗依が綴った置手紙を偽造したのだが。
「この屋敷で、あんな嘘と悪意が沁みついた代物で騙しとおせると思ったのか」
手紙を見つけたサトが、まずこれは偽りだと断じた。
北家の遠縁にあたる老女中は異能こそ弱いものの、良くないものを感じ取ることに長けている。
これは悪意しか感じない。紗依の書いたものではないと訴える手紙を、次いでみたのは千尋だった。
「……あれは紗依様の字ではありませんでした。偽りを紡ごうとするなら、もう少し似せる努力をするべきでしたね」
日頃の穏やかさや嫋やかさはどこへ消えたのかという程に、千尋はひどく冷静であり、努めて抑えた声音で告げた。
紗依の手習いを見守り、時には師として教えていた千尋には、偽の置手紙が紗依の手によるものではないと瞬時にわかったという。
筆跡を似せるにしても、苑香も美苑も恐らく紗依がどのような字を書くかすら知るまい。
注がれる感情の失せたような冷たい眼差しに、美苑はもはや顔をあげることすらできずに俯き震え。
苑香は尚も時嗣達を、矢斗を、そして紗依を。射殺せるのではないかと思うほどに激しい憎悪の籠った眼差しで見据えている。
そんな苑香の様子にまた一つ溜息を吐いて、時嗣は続ける。
「悪いが、お前たちが何をしたのかについては探らせてもらった。何をどう言われようと、考えを変えるつもりはない」
その瞬間、破裂するような甲高い笑い声が座敷に響き渡った。
紗依は一瞬呆然としたものの、すぐにその声の源へと視線巡らせる。
気が触れたかと思うほどにけたたましい笑い声の主は、黙したままだった苑香だった。
苑香はおかしくて堪らないと言う風に笑っていたかと思えば、時嗣へと血走った目を向ける。
「ねえ。全てをご存じなら、あの女が『何処』にいるのかご存じなのでしょう⁉ お姉様に教えてさしあげたら⁉」
悪意に満ちた言の葉を耳にした瞬間、時嗣と千尋が顔を見合わせる。
二人の顔色が僅かに蒼褪め、険しくなったことに気づかぬ紗依ではない。
そして、苑香がいう『あの女』が誰であるのかにも。
「……お母様は、療養所に」
「居ないわよ! そう、居ないの! 療養所どころか、この世の何処にもね!」
その場の雰囲気が、そして居並ぶ者達の表情が、瞬時に凍り付いた。
紗依は咄嗟に言葉を返したくても、喉から零れるのは掠れた呻き声だけで。意味のある言葉は一つとして紡がれない。
今、苑香は何と言った?
紗依の母は、療養所には居ないと言った。
それどころか、この世の何処にもいないと。それでは……それでは、母が、まるで。
顔色を無くして言葉を失った紗依を見て美しい顔に醜悪な笑みを浮かべた苑香は、自棄と言える様子で叫んだ。
「何処の診療所にいるのかも知らなかったくせに! もう、とっくの昔に死んでいるのよ! 貴方の母親は!」
苑香が何を言っているのか、すぐには理解出来なかった。
紗依の母が。
何時かまた暮らせる日を願いながら、今は療養所にて穏やかに静養しているはずの母が。もう既に、この世の人ではないと。
すっかり色の消え失せた顔で、呆然としたまま紗依は緩く首を左右に振り続ける。
嘘だ、嘘だ、嘘だ。
心の中を埋めつくすのはその言葉だけ。
ぐらりと傾いだ紗依の身体を、矢斗の確かな腕が咄嗟に支えてくれる。
茫洋とした眼差しの先、矢斗もまた蒼褪めているのが見えた。
制止する父や美苑の声すら振り切って、もはや捨て鉢の苑香は禍々しいとすら言える笑みを浮かべながら、尚も言い募る。
「自分の食い扶持も稼げない役立たず。しかももう用済み。生かしておいても仕方ないもの! お姉様が居なくなってすぐ、屋敷から出して始末させたのよ」
あの女には療養所なんて過ぎたことと、苑香は嗤った。
震えながら何か言葉を返そうとする紗依を、更に愕然とさせる言だった。
母は病で亡くなったわけではない。存在を不要とされ……殺されたのだと、今、苑香は言ったのだ。
屋敷から連れ出され、密やかに。まるで不用品を捨てさるように。
嘘だ、とただ一言が裡を埋めつくし、意識すら遠のきかけた自分を必死に叱咤して、紗依は苑香を見据える。
「あの、手紙は……」
「家に残っていた手紙や日記から、筆跡を真似て書かせたの」
呻くようにして絞り出した声は、ひどく掠れてしまっていた。
切れ切れの言葉を聞いた苑香は、鼻で笑って見せながら問いの答えを返す。
時折、文字が揺れているように見えたのは。言葉の端に違和感を覚えたのは、気のせいではなくて。
それなら、紗依がいつも心待ちにしていた……紗依にとってよすがの一つであったあの手紙は。
「偽物の手紙を、本物と信じていたのでしょう⁉ まったくおめでたいわね!」
漸く留飲が下がったとでもいうように、紗依を指さして嘲笑い続ける苑香を両隣の家人が取り押さえようとする。
それに必死に抗いながら、苑香は更に笑いながら叫ぶ。
「貴方は、亘のことそれなりに信じていたから、亘を通させれば信憑性が増すと思ったのよ! あっさり騙されていたあの子もあの子だけど!」
母の手紙はいつも弟を通してやり取りしていた。
一瞬、亘もまた母や姉の謀に手を貸していたのかと思いかけたが、苑香の言葉で生じかけた疑念は消える。
弟は裏切っていなかったというのは救いではあったけれど、あまりにもささやかすぎた。
信じられない。信じたくない。
母が、もうこの世に居ないことも。偽物の手紙にて、もう二度と訪れない何時の日かを信じていたことも。
何も、何も。
「……何で」
何でそんなことをと、紡ぎたかった。
けれど乾いて張り付いてしまったような喉からは、空気が漏れるような音しか零れない。
何故、何故、何故――!
もはや震えながら掠れた呻き声をあげるしかできなくなっている紗依を、矢斗が必死に支えてくれている。
言葉をかけたくともかけられない、みつからない。そんな悲痛な想いが伝わってくるようだった。
満ちかけた沈黙を消し去り、邪悪と言っていい笑みを浮かべる苑香を見据えながら言葉を発した者があった。
「……援助を引き上げられない為だろう」
時嗣だった。
低く重い声音で淡々と紡ぐ言葉の端には、抑えなければ爆発しそうな怒りを必死に耐えている様子が揺らめき見える。
紗依は呆然としたまま時嗣が語るのを聞いていた。
苦い表情で一つ息を吐いた時嗣は、自分達が辿り着いた可能性について触れる。
「紗依殿が紗紀子様の生存を疑ったとしたら、うちにまず訴えるだろう。それで真相に辿り着かれたら、もらった援助を引き上げられるとでも思ったんだろう」
もしも紗依が、母が亡くなったことを知ったら。それが、不自然な……人為的なものであったことを察してしまったら。
苑香達は、紗依が取る行動を予想して……邪推して。自分達の利益が損なわれない為に、偽りに偽りを重ねることを選んだ。
あまりに非道で、身勝手で。怒りの矛先が揺れて定まらずにいる紗依へと、苑香は胸元から何かを取り出して投げつけた。
「ほら。これが証拠よ!」
軽い音を立てて紗依の目の前に落ちたのは、一つのお守りだった。
それが何であるか気づいた紗依は、目を見張って唇を震わせた。
亡き祖父母がそれぞれに持っていた対の守り。
祖母が持っていた方の守りは紗依が。そして祖父の持っていた方の守りは母が。
これがある限り、私達はどこにあろうと繋がっているのです、と言って渡してくれた、大事なお守りだった。
間違いない。これは、母が持っていたお守りだ。何があってもけして手放さないと涙ながらに誓ってくれた、あの。
それが何故、苑香の手にあったのか。
理由は、唯一つだけ……。
紗依の中で、何かが大きく揺らぎ、跳ねる。
身体の内に、生き物でもあるかのように。紗依の意思ならざる何かが蠢き、紗依という殻を突き破ろうとでもいうように。
腕の中の紗依の尋常ではない様子に矢斗が険しい形相で紗依の名を呼んでいる。
時嗣達もまた、紗依がおかしいことに気付いたようで、叫んでいる。
けれど、もう。
力強い腕で支えられているのに。地面が、世界が、揺れに揺れている。
紗依の中から、あの声がする。
『さあ、そろそろ良いだろう』
何かが渦を巻くように、ゆらりと回り、渦巻き始める。
皆が顔色を失う程現にも明確な変化が生じ始めているのに、それにすらもはや気づかぬ様子で。狂ったように笑いながら、苑香は箍の外れた叫び声をあげる。
「束の間でも夢を見られたのよ。感謝して欲しいわ!」
夢。そう、夢だった。
幸せな……幸せすぎる、夢だった。
私が、自分の幸せだけに気を取られすぎていて。
自分だけが幸せなことに、何も感じないから。
幸せに埋もれすぎて、お気楽に浮かれて気づけなかったから。
だから。だから、お母様は――!
声が聞こえる。
自らを責める紗依に呼びかけるように、その声は紗依の内側からやってきて、裡を埋めつくす。
お前が気づかなかったから――私が気づかなかったから。
お前が幸せでありすぎたから――私が幸せでありすぎたから。
お前が幸せに目が眩んでいたから――私が幸せに目が眩んでいたから。
だから、失ったのだ――!
「紗依……!」
内側からの何かの奔流は、ついに自らを抱き留めてくれていた腕をも弾き飛ばし、紗依の身体を宙に浮き上がらせる。
「……! 守りを敷け……!」
紗依の身体から放たれようとしている『何か』に気付いた時嗣が、妻と家人に必死の形相で命じる。
矢斗が紗依を呼ぶ。
時嗣も、千尋も、紗依を呼んでいる。声を限りにして。
けれど、それすら遠く聞こえる程に紗依の意識は裡から生じるものに囚われ、埋もれていこうとしている。
『さあ、外に出してもらおうか……!』
「紗依……っ!」
何かが叫び、矢斗が叫び。
その瞬間、紗依の内にあったものは、現に形を生じた――。
あらゆるものを吹き飛ばす圧倒的な力の奔流が、その場に居たすべての者を襲った。
咄嗟に敷かれた守りの力を以てしても打ち据えられ、地に伏したものが多数の有様で。
誰もが凍りついたように動きを止め、言葉を失っていた。
紗依は、自分が浮いているのを感じた。
何かに囚われているような感覚があり、手も足も動かせなくて。
辛うじて動かせた視線を巡らせたら、自分の腕に何かがからみつくものが見えた。
それは、動物の毛皮のようでもあり、蛇や爬虫類のものにも見える醜悪な触手のようなものだった。
向こうが微かに透けているならば、現の形を持たないはずなのに。触れる感覚はあまりに確かすぎて。
紗依を捕らえるそれは、不思議なことに紗依の内側から生じているのだ。
一体何が起きているのかわからなくて、紗依が呆然として呻くことすらできずにいると。
紗依の悪夢の中だけにありつづけたあの声が、ぼんやりとした夢ではない……現の響きを伴って耳に届いた。
「ようやく、少し出られたか。ああ、長かった」
それは不気味でありながら、どこか精悍な男の声のようにも聞こえる。
一部であっても、長い戒めから解き放たれたことを喜び。清々しい程に愉快そうに嗤っている。
その声に聞き覚えがある気が……あの夢の中だけではなく、確かに現で聞いたような覚えがして。
何とか紗依が巡らせた視線の先で、顔色を無くし強張った面もちの矢斗が、愕然とこちらを見ている。
「久しいなあ、弓神」
「お前は……」
現に転じた声は、馴染みにでも声をかけるように矢斗を呼ぶ。
対する矢斗の声は、形容しがたい感情に震えかけ、掠れている。
信じられないものを見た、という様子だ。
居てはならないものを見た、と言わんばかりに矢斗の顔は蒼白である。
揺れる眼差しの底には、暗く深い感情……怒りとも憎しみともとれる激しいものが潜んでいる。
僅かに呻きながら、紗依の裡から生じたものを見据えていた矢斗は、顔を歪めてそれに告げた。
「……彼女と共に、お前も巡っていたのか……鵺……」
鵺、と矢斗の口から紡がれた名に、紗依は愕然とする。
我が耳を疑い、俄かには信じられずに小さな呻き声をあげてしまう。
それは、かつて矢斗が巫女と共に対峙し、愛する女を失う原因となった怪異。
都を混乱させ恐怖に陥れた、大いなる禍々しいもの。
その怪異こそが自分の内から湧き上がり生じているものであることに、紗依はただ凍り付き、目を見張るばかりだった……。
矢斗の言葉に、周囲の者達が言葉を失った気配を感じる。
半ばおとぎ話のような遠い存在であったはずのものが、今目の前にある現実を。しかも、紗依の内側から生じている事実を受け入れきれていないのだろう。
それは紗依とて同じことだ。
矢斗が自らの存在を失うほどの思いをした出来事。その元凶とも言える存在が、よりにもよって自分の中にあったなど信じたいわけがない。
何故、怪異は自分の内側にあったのか。裡を問いや様々な感情が鬩ぎ合い続ける紗依の前で、怪異と険しい表情の祭神は対峙している。
「当たり前だろう。我は滅し、この女だけ巡ったとでも思ったのか」
紗依を捉える怪異が実に愉快だと言った様子で言うと、矢斗の顔が見てわかる程に口惜しげに歪む。
やり取りの意味がわからない。
巡るとは一体どういうことで、何故怪異が自分と共にあったのか、全く。
――本当に?
水面に落した一つの雫のように、不意に、その言葉が紗依の中に波紋を呼んだ。
本当に、自分は分からないのか。
鵺が自分の中にあった理由、それは。
『死を持たぬものに死を与える為には。これしか方法がないのです……!』
誰かが叫んでいる。
その叫びは、遠い時の彼方のものであるけれど。不思議な程に近くて……まるで、紗依の裡にあるように感じる。
かつて『私』はその結論に至った。
困難に直面し悩んだ末に。傷つけることになるとわかっていても、それしかないと。
使命と想いの狭間に苦しみながら、決断した……。
「矢斗、あれは……」
「……私が、弦音と共に討伐したはずの、鵺だ……」
呆然とした様子の時嗣が、矢斗に躊躇いがちに声をかける。
その傍らでは、千尋が怪我人や周囲の被害を抑える為の対応を家人に慌ただしく采配している。
矢斗の言葉にやはり、といった様子で苦々しい表情をした時嗣は一つ大きく息を吐いた。
「そうか……。紗依殿は、異能を持って『いなかった』のではなかったのか……」
暫し無言で紗依を見て。何かに気づいたといった風な複雑な面持ちで紡がれた言葉に、紗依の目が見張られる。
異能を持たない呪い子と言われたこの身に異能が備わっていたと。今、時嗣は言った。
それは何故と問いたいけれど、怪異に囚われたままの状態では声をあげることすら侭ならず。戸惑いの表情を浮かべる痛ましげに見つめながら、時嗣は重い声音で続けた。
「おそらく、紗依殿は自分でも知らないうちに、持てる力で鵺を封じていたんだ。封じ続ける為に全ての異能を費やさねばならなかったから、発現できなかっただけだ……」
時嗣の言葉に、紗依はふと自分の中に先程とは違う感覚が生じていることに気付く。
怪異のものとは違う不可思議が自分の身体に満ちているのを感じる。
これが、紗依の異能なのだろうか。
今までこれが発現できなかったのは……感じることすら叶わなかったのは、この強大な怪異を封じ続ける為。
紗依が異能を持たぬと断じられた赤子の頃から、つまりは生まれた時からこの怪異は紗依の内側にあり続けたのだ。
共に巡ったと、怪異は言っていた。
自分は……鵺と共に生まれてきた。いや、生まれる前から、自らの内に鵺を封じ続けていた……?
それは何故。
裡に生じた紗依の問いを読み取ったように、鵺は何処からか生じさせた人の手で紗依の顔を掴み、そして矢斗を嘲笑うように告げる。
「かつて、お前は望んで我を内に招じ入れた。自ら、我を己に封じた」
勿体ぶった様子で、含みのある声音で。怪異はかつてあった出来事を言葉にしていく。
自ら……紗依自身が、鵺を内に招き入れ、自らに封じた?
そんな覚えなどない。今に至るまで、紗依は鵺の存在に触れることなく過ごしてきた。
あの悪夢を見るようになるまでは、何かが自分の中にいるなどと思いもせず生きて来たはずだ。
けれど、その言葉に嘘だと告げられない自分がいる。
声を出せない故ではない。怪異の言葉をかつてあった事実として、紗依はどこかで受け入れている。
何故、いったいどうして。
揺れる心で見つめた先には、矢斗が居る。
自分を見つめるあまりに悲痛な眼差しが、ひどく哀しく懐かしい。
そんな顔をさせたくはなかった。けれど、他に選ぶ術を持たなかった。許して欲しいと願いながら、必死に自分は手を伸ばそうとした……。
違う、それは『紗依』の記憶ではない。
自分はどうしてしまったのだろうか。怪異に取り込まれつつあるが故に、錯乱しつつあるのだろうか。
過去と現在が。紗依ではないものと、紗依が。複雑に入り交じり絡みあい、何かに導かれようとしている。
けれど、それを確かめる時間はもう残されていないと紗依は感じた。
鵺は封じられていた紗依の内側から、紗依を浸食しながら徐々に徐々に更に現へと這い出ようとしている。
叶う限りの力を以て抗いたくても、その思いを嘲笑うように怪異は紗依の裡を埋めつくしていく。
世に出たならば恐るべき災いを齎すとされる怪異が、少しずつ紗依を現の器として世に放たれようとしている。
矢斗が自らを呪う程に傷ついた過去が、蘇ってしまう……!
「……私を、ころして」
「……紗依⁉」
それだけは、と思った瞬間。紗依の唇からは掠れた一つの願いが零れ落ちていた。
紗依の呟きを耳にした矢斗の顔からはすっかり色というものが消え失せ、続く言葉が紡げぬ様子であり。
怪異の気配に惹かれて集まってきた悪しきものに対し表情を険しくしていた時嗣も。惑う人々を叱咤し逃げ延びさせていた千尋も、弾かれたように紗依を見た。
それぞれに蒼褪め凍り付いたような表情で、聞いたことが真実であるかと疑うような、愕然とした面もちのまま紗依に揺れる眼差しを向けている。
必死に絞り出すように紡いだ言葉は、紗依にとって、今抱く唯一つの願いだった。
「このままじゃ……。鵺が、私を全て食い尽くしてしまったら……私が、鵺になってしまったら。大変なことになってしまう……!」
封が途切れて異能が身体に戻りきたからか、それとも本能的なものなのか。どちらかはわからないけれど、刻一刻と危機が迫りつつあるのを痛い程に感じる。
この怪異は、解き放たれてはいけないもの。鵺は、けして世に出てはならないもの。
鵺は紗依を内側から食い尽くし、紗依の身体を現世での器に作り変えて、完全に軛から解き放たれようとしている。
そんなことになったら一体どうなるか。想像するだけでも恐ろしくて、血の気が引いていく。
このままでは、駄目なのだ。このままでは、自分は皆に害を為すものとなってしまう。
だから、その前に。鵺が人である紗依の中にある内に。
「矢斗、お願い。……私を撃って……! 私が人であるうちに、私を殺して……!」
もはや自分では指先一つ動かすことができない状態では、自ら命を絶つことは出来ない。
だからこそ、哀しい顔をさせるとわかっていても矢斗に願うしかなかった。
終わるならばせめて矢斗の手で。鼓動を止めるならば矢斗の放つ矢に貫かれて逝きたい。
あれだけ紗依が願いを伝えることを待ってくれていた矢斗に対して、抱けた最初であり最後の願いがその手での死、というのは哀しいけれど。
紗依の身体はまだ人のままだ。そう、心の臓が鼓動を止めれば死を迎える身体の中に、鵺は封じ込められている。
ならばまだ完全に変質してしまう前に。人であるうちに紗依の命を絶つしかない。
完全に作り変えられる前に死を与えられたなら、鵺は封じられたまま、目的を遂げられずに終わるだろう。
そう、世に災いを放たない為には、それしか方法がなかった。
鵺は死というものを持たない怪異。その怪異に死という終わりを与える為の唯一の方法、それは。
そう、あの時だって私はそう思って……。それ以外、課せられた使命を果たす術が。人々を怪異から救う術がなかったから。
――だから『私』は、矢斗に願ったのだ。
唇から紡いだ願いが、閉じられていた魂の奥底を開こうとしていた。
紗依の中に、彼女のものではない、彼女の記憶が蘇ろうとしている。
掠れた呻き声を零しながら、流れ込むようにして戻りつつある古き日々に、紗依は目を見張る。
その時、自分が『何』であったのかが蘇りつつある紗依の耳を、遥かな昔に聞いたのと同じ哀しみの声が打った。
「嫌だ……。同じ事を、繰り返すなど……」
鬩ぎ合う過去と今の狭間にて呆然としていた紗依は、ゆっくりではあるが視線を向ける。
儚い眼差しの向こう側で、矢斗が涙するのではないかと思うほど悲痛な表情で紗依を見つめていた。
震える眼差しと、必死に紗依を見つめていようとする真っ直ぐな眼差しが交差し、結びつく。
その眼差しと、言葉が。紗依の奥底の封印を静かに、緩やかに紐解き。隠されていた真実を浮かび上がらせた。
そう、もしも矢斗が紗依を射たとしたならば、それはかつての刻の繰り返し。
あの日に起きた、哀しい終わりの再現……。
「現世でも貴方を……。貴方を、この手でまた失うなど!」
封の解かれた記憶は緩やかに紗依の中に染みわたり、戸惑いでしかなかった現と過去を静かに一つにしていく。
あの時、自分は随分と酷い願い事をしてしまった。
それしかないと知っていたけれど、この優しい弓神に終わりを願ってしまった。
今のように内に怪異を封じて。死を持たない怪異に終わりを与えるために。使命と想いに揺れながら、この男性の手で命を終える事を願ってしまった。
矢斗の哀しみと苦しみに満ちた表情が、過ぎし日のものと重なる。
自分の最期の願いを叶える為に、遂に己の本体である弓を引いた矢斗。
矢斗が、私の名を呼んでいる。
そう、私の名は。
いえ、私がかつての日々を生きていた時に名乗っていた名は――。
「私は、今度こそ貴方を守ると……。今度こそ、貴方に……弦音に、幸せになって欲しいと願っているのに……!」
血を吐くような矢斗の叫びに、頬を透明な雫が一つ伝って、落ちていく。
矢斗は、紗依を弦音と……彼が愛した女性と伝えられた巫女の名で呼ぶ。
あの日、彼女が震える手を伸ばした先にあった、哀しい表情で。
紗依は戻り来た全てに涙しながら、目を伏せる。
そう、私はかつて弦音と呼ばれていたもの。
北家の祭神である付喪神と共に鵺の討伐を使命とし。身の内に鵺を封じたまま弓神に射抜かれ死んだ、巫女であったもの……。
争いに次ぐ争いに揺れた世から幾星霜。
安寧が齎され、人々が平らかな世を謳歌する時代にて。
二人の記憶は、いつも花の庭と共にあった。
うららかな陽射しを浴びて咲き誇る季節の花に溢れる庭に、一人の娘の姿がある。
嬉しくて仕方ないといった様子で歌を口ずさみながら。蝶のように一つの花を愛でては次へ、また次へと微笑み巡る。
『弦音』
軽やかで踊るようだった足取りが、不意にかけられた男の声でぴたりと止まった。
『矢斗様! ……見てらしたのですか?』
娘が声に驚いてそちらを見れば、堂々たる体躯を持つ黒髪の美丈夫の姿がある。
常ならぬ霊威を纏う存在を目にした瞬間、思わず悲鳴をあげかけたが何とか堪えた。
弦音と呼ばれた娘は、いささか気まずそうな様子で視線を彷徨わせる。
自分でも些か浮かれすぎかと思っていたけれど、春の日差しの元で童のように花を見てはしゃいでいた姿を見られたのは恥ずかしい。
恐る恐る、何時から見られていたのだろう、と自身が矢斗と呼んだ男性を見つめて黙り込んでしまう。
『もう少し早く声をかけようと思ったのだが。その、あまりに愛らしくて』
すまないと謝りながらも優しく笑いながら言う矢斗を、ついつい少し膨れながら見つめてしまう弦音。
彼の言葉に裏も表もないことを知るからこそ、頬は我知らずのうちに赤みを帯びる。
しかし気を取り直すように一つ息を吐くと、殊更取り澄ました様子を作りながら再び口を開く。
『わ、わたくしは一族の巫女であります故。……はしたない行いは慎まなければなりません。どうか、今見たことはお忘れ下さいませ』
その言葉の通り、弦音はある名家において巫女とたたえられる立場にある者だった。
彼女の存在は家門にとって大きな意味を持ち、平素は顔を合わせることが出来るものとて限られている。
身を慎み、家の名を保つために尊くあること。それが弦音に課せられていることだった。
それが、花が美しくて心浮かれて子供のようにくるくると跳ねまわっている姿を見られたとあっては、何とも情けない。
『貴方は、そのままであるのが良いと思う。澄ましているより、余程好ましい』
ばつが悪そうに身を縮める弦音を見て、矢斗は優しい苦笑いを浮かべながら、ごく自然な声音で口にする。
またも飾ることも隠すこともない純粋で素直な好意に、弦音は思わず両手で頬を抑えて俯いてしまった。
『……夕星様は、すぐそのようなことを仰る』
『私の天乙女は、すぐそのように照れる』
恥じらいながら特別な名を呟く弦音に、同じく特別な名が返り、慈しみのこもった言葉がかけられる。
この方は、いつもこうだ。弦音は耳まで赤くなっているのを感じながら、裡にて呟く。
崇敬を受ける尊い立場にありながら、矢斗はいつも弦音へと飾らぬ温かな心と称賛を向けてくる。
本来であれば姿を見る事すら畏れ多い存在であるのに、いつも弦音にとっては温かく慕わしい存在であり続けるのだ。
そう、本来であれば定められた者以外が言葉を交わすことすら憚られるほどの御方であるというのに……。
『幸嗣が、弦音に占を頼みたいと言っていた。頼めるだろうか』
矢斗の口から聞こえた名は、聞き覚えのある名だった。
今は政権が武家の頂点のものとはいえ、長きにわたり繋がり人々の上に在り続けた万乗の存在に始まりより仕える名家。
四家と呼ばれる四つの家門のうちの一つ、北家の現当主の名である。
矢斗の口からその名が出ることは不思議なことではなく、彼が北家の当主の願いを携えてくることも不自然なことではない。
ただ。
『北家の祭神である貴方が、またそのように使い走りのようなことを……』
弦音は不躾にならぬように抑えつつも、溜息交じりに矢斗へと眼差しを向ける。
少しばかり困った風に笑う美しい男性は、人ではない。
始まりの帝が有しておられたという武具が人の形を取り転じた付喪神であり。北家が祭神として祀る偉大な存在なのだ。
如何に当主の願いとはいえこのように自ら足を運んで、頼みごとをするような立場ではない。むしろ、用向きがあるならば弦音に出向かせるべき方だ。
その理由が、如何に『口実』なのだとわかっていたとしてもつい口に出てしまう。
軽く咎めるような気配を感じた矢斗は、やはり困ったように笑っていたが。
やがて、弦音を見つめながら目を細め、静かに言葉を紡ぎ始める。
『偉そうにふんぞり返るのは性に合わない。それに……』
矢斗が柔らかな眼差しにひとひらの想いを滲ませ呟いた瞬間、不意に強い風が生じ。彼の言葉の続きはかき消されてしまう。
でも、弦音に聞こえたような気がした。
――貴方に、会いたかった。
風に攫われた愛しさこめられた言葉は、弦音の中にもある想いであり。
同時に、互いにけして伝えてはならない言葉でもあった――。
弦音は、とある古くから続く名門に生まれた娘だった。
強き異能をつたえてきたはずの家門は近年頓に異能者の数を減らし、傾き始めていた。
そんな中、弦音は目覚ましい程の強い力を持って生まれ、一族を支え導く巫女として祀りあげられた。
一族の神域とされる庭にある離れにて、接するものとて限られた中で暮らし。身を慎み、ただ一族の為に生きる日々を送る。それだけが弦音にとって許された全てだった。
しかし、ある時。狭く限られたものだった弦音の世界に、矢斗は現れた。
祭神が怪異を討伐する際の助力を願いたい、という北家の当主からの要請を受けて、弦音は初めて外の世界にでることを許され彼と出会った。
四家の一つ・北家が祀る尊き祭神である弓神が弦音を出迎えてくれた時に見せた、優しい微笑をきっと忘れることはない。
怪異討伐は恐ろしくはあったけれど、弦音は矢斗をよく助け、恙無く済んだ。
そしてその出来事以来、矢斗は折に触れて足繫く弦音の元を訪れるようになる。
矢斗が弦音の元を訪れる度に、募る想いがある。それは、時を追うごとに増していき、苦しい程に心を占めていく。
お互いに、それを口にしてはならぬことを知っている。
でも、互いに同じ想いがそれぞれの裡にあることも知っている。
――弦音は、矢斗に恋していた。
そして、矢斗もまた、弦音に想いを寄せてくれていることを知っていた。
矢斗は、弦音を己の伴侶に……『神嫁』と呼ばれる存在にと望んでくれていると伝え聞いたことがある。
けれど、彼女が一族の巫女という立場にあるからこそ。告げたとて弦音が受けられぬことを知るからこそ、矢斗が弦音に対してその申し出を口にすることはなかった。
そして弦音の家門もまた、如何に名誉な神の伴侶であるとしても、と言葉に依らずに拒み続けている。
凋落しつつある一族の権威を支える為に生まれた綺羅星を、他家に差し出すことなどできない。万が一に婚姻を許すとしても、それは家門の者相手でなければならない。
家の者達は、無言のまま拒絶を続けたという。
弦音が北家の者であったなら、例え巫女であっても特別の取りなしも出来ただろうが、何せ他家のこと。
北家の当主が家門の力を以て無理にでも話を通そうとしたのを、力を持つからこそ留まるべし、と制したのは他ならぬ祭神自身だという。
正式な『神嫁』の申し入れが為されることなかったが、その代わりのように矢斗は北家の主の願い事を携えて、弦音の元を訪れるようになる。
北家当主の願いを携えた矢斗を拒むことは、北家を拒絶することに等しい。
だからこそ苦々しく思う家の者も、矢斗の訪れを阻止することが表立って出来なかった。
或いは、閉じ込め籠の鳥にした娘への、せめても情けだったのかもしれない。
弦音と矢斗は、お互いがそれぞれの立場にあるからこそ、心の裡にあるものを伝えることが許されず。代わりに、巡る季節を弦音にとっての世界といえる奥庭にて共に過ごした。
春の彩の中で微笑みあい、夏の翠の中で軽やかに笑い声をあげて。
秋の紅葉の中で共に目を細めて、冬の白の中で黙したまま寄り添って。
ささやかな会話を愛おしく感じ、笑みには自然と笑みが返る。
言葉が無くとふとした拍子に互いの温かさと、結びついた心を感じる。
矢斗は、弦音を『天乙女』と呼び、弦音は矢斗の瞳を宵に輝く星になぞらえて『夕星』と呼んだ。
二人でいる時だけの特別な呼び名。それが、二人にとって許された全てだった。
ただそれだけで良かった。多くを望まないと……だから何時までもそんな日々が続けば良いと、二人が共に口に出さずに願っていた。
けれど、そんな淡い願いを嘲笑うかのような出来事が起きてしまう。
家門が傾きゆくことを認められず、現実を受け入れることを拒み。取りつかれたように再起を願った家門の者達が禁じられた儀式を行ってしまったのだ。
その結果……古き時代に封じられた大いなる災いである怪異――鵺が解き放たれたのである。
弦音は一族の巫女として制御を失った鵺と相対することを決意し。破邪の弓の現身たる矢斗は、時の帝の命により共に討伐にあたることとなった。
だが、鵺を倒すことは容易ではなかった。
何故なら、鵺は『死』を持たない。現に形を持たず、それ故に死という概念そのものを持たない怪異なのである。
矢斗は自らの本体である弓を以て鵺を射抜こうとするけれど、矢は鵺をとらえきることが出来ずに居た。
弦音も矢斗も焦れていた。
今はまだ、鵺は完全に解き放たれてはいない。だが、このまま彼らが消耗し続ければ、いずれ逃亡を許してしまう可能性がある。
それがわかるからこそ、鵺は敢えて本気を出さず、二人を嘲笑うのだ。
もし少しでも隙を突かれ、鵺の逃亡を許してしまったら。世は大きな災いに見舞われ再び乱れ、人々が苦しむこととなる。そうなってからでは遅いのだ。
この場から鵺を逃がすわけにはいかない。何とか、鵺に終わりを与えなければいけない。
恐ろしさに震えそうになる。矢斗の手を引いて、逃げだしてしまいたいとも思う。
けれど、使命を捨てるには弦音はあまりに巫女であり過ぎた。人の為にと、あり過ぎた。
目の前には、様々な獣の特徴が入り交じる禍々しい姿の怪異が、二人を嗤いながら揺らめいている。
現の器を持たないからこそ、決定的な一撃が与えられない。
鵺は、存在そのものがもはや概念のようなもの。故に一度解き放たれてしまえば、討伐することが容易ではない。
ならば、形を持たぬものに死という概念を与える為には。
その時、弦音の脳裏にある考えが浮かんだ。
今この場でとれる、最良にして最悪な。唯一といえる方法が。
再び封じることが叶えばよいだろうが、鵺を封じた祭具は怪異が制御を外れた段階で既に消失している。
ならば、封じる先を――。
とある選択肢に思い至った弦音は、動きを止める。
それを可能とする為の術は、弦音にはある。弦音の持つ異能と、覚えた秘術を以てすれば可能だ。
だが、恐らくそれを矢斗が知ったなら間違いなく止めるだろう。
だから。
『矢斗様。……どうか、お許し下さい』
『弦音……?』
一言、俯いたまま小さく零した弦音に、矢斗が怪訝そうな声をあげた次の瞬間。
弦音は全身全霊を以て、とある術を展開し始めた。
力が弦音に集うと同時に、弦音と、鵺を中心とした場所に不可思議の風が渦巻き始める。
矢斗が弦音の名を叫んでいるのが聞こえるけれど、弦音は応えない。
応えてしまえば、決意が鈍ると思ったから。だから、弦音は裡にある感傷や未練を断ち切るように振り向かず、鵺を見据えた。
『……お前は器を求めるのでしょう? なら、私の身体をあげる』
『何……?』
憎らしい程に余裕を崩さぬままだった鵺が、ようやく僅かに戸惑った声をあげる。
器を持たない鵺は、かつて度々仮初の器を手に入れては災いを引き起こしたという。
命を持つ器であったり、持たぬものであったり、言い伝えには様々語られている。
だが、自ら器となると言い出したのは、恐らく弦音が初めてであろう。
今の今まで自分と対峙していた女が告げた言葉に、さすがの怪異も動揺を見せる。
怪異と祭神、二人がほぼ同時に戸惑いの叫び声をあげたのが聞こえた。
それでも揺らがぬ眼差しを以て、弦音は鵺を見据えて告げる。
『けれどその代わり……もう、そこから逃げることは出来ない……!』
矢斗は、その言葉にて弦音が何を考えているのかに気付いたようだった。
今から弦音は、自ら鵺の器となる――そう、鵺にとっては最後の。
弓神は咄嗟に弦音を止めようとしたけれど……それよりも一瞬早く弦音の術は完成する。
次の瞬間、怪異があげたこの世のものとも思えぬ叫び声がその場に響き渡った。
鵺は激しく抗うけれど、弦音は鵺の抗いを全力で抑えつける。
激しい攻防が為され。やがて、ほぼ無理やりに弦音の中に鵺は招じ入れられ。
同時に、弦音の身体には強固な封が為され。
吸い込まれるようにして鵺は、弦音の身体に完全に閉じ込められていた。
渦巻き続ける風の最中に立つ弦音を、蒼褪め強張った面持ちの矢斗が言葉を失い見つめている。
多分、矢斗は気付いただろう。この後、弦音が何を望むのかを。
それを告げることでどれだけ彼が悲しむか知っていてもなお、弦音は哀しげに顔を歪めてそれを口にする。
『お願いです。このまま私を……私ごと鵺を、撃って……!』
内側にて、正気か、と漸く鵺の声に焦りが生じる。
そして、目に見えて鵺は弦音の内側にて暴れ始め、やがては弦音を裡から食い尽くそうとし始める。
逃れようともがいているのがわかるけれど、弦音は持てる全てを以てして自らの身体を封じ続けた。
死を持たぬものに、死という終わりを与えるには――それを持つ器に封じて、その器に死を与えるのみ。
そう、封じるだけではだめなのだ。
封じただけでは、鵺はやがて弦音の魂を喰い尽くし。この身体を新たな器として現世に顕現するだけ。
鵺を倒すには、鵺を封じ逃げ場を奪った後に器が……弦音が死なねばならない。
そして弦音が鵺を封じることに全てを費やしている今、それを為せるのはただ一人――。
『私に、貴方を殺せと……。それを、貴方が願うのか……!』
『死を持たぬものに死を与える為には。これしか方法がないのです……!』
目の前にある現実を拒むように、矢斗は頭を激しく左右にふり叫ぶ。
自らの手で共に戦いに望んだ仲間であり、唯一人と想う相手である者を殺せというのかと、愕然とした面もちで。
だが、鵺を解き放つわけにはいかないのだと、矢斗もまた痛い程に知っている。
使命を拒み弦音を選ぶには、彼はあまりにも神として人々を庇護する存在でありすぎた。
弦音は、一筋涙を零しながら矢斗の手による死を希う。
死を願いながら、心の裡にて呟く。
せめて、終わりは愛しい貴方の手でと望んでしまった私を。どうか許して下さいと……。
矢斗はそれ以上何も言わなかった……言えなかった。
激しい逡巡があったように思えた。果てない葛藤があったように感じた。
長い、長い。何時までも続くかと思われた長い沈黙の後。
遂に矢斗は矢を番え。弦音を己の本体である弓を引き、射抜いた――。
弦が弾かれる澄んだ音が弦音の耳に届いた瞬間、彼女の心臓を弓神の矢は過たず貫いた。
胸に焼けつくような激しい痛みを感じたのと同時に、弦音の中の鵺があげる断末魔の叫びが聞こえた。
内外に生じた奔流と苦痛に、激しく翻弄され、倒れ。気付いた時、弦音は矢斗に抱かれ、身体を抱え起こされていた。
弦音の内側で、悶え苦しむ鵺の気配が徐々に徐々に弱弱しいものに転じている。
破邪の弓の神威によって射抜かれた怪異は、現の器に封じられてしまったが為に逃げられず。器が――弦音が死に瀕しているからこそ、初めて死というものを知ろうとしている。
鵺が弱まりつつあると同時に、弦音の命の灯火も消えつつあった。
弦音は、静かに矢斗を見上げた。
血を流す程に唇を噛みしめながら。弦音を見つめる優しい弓神は、泣いている。
『なかないで、ください……。どうか……』
初めて腕に抱かれたことを何処かで喜んでいる自分を苦く思いながらも、弦音は切れ切れに呟いた。
彼の頬を流れる涙を拭いたいけれど、もう指先一つ動かせない。
そんな顔をさせてしまったことをどれだけ悔いても、もうそれ以上言葉を紡ぐこともできなくて。
薄れゆく意識の中。遠ざかる哀しみに満ちた矢斗へと、弦音はただ願っていた。
伝えたい。せめて、最後に。
どうか自分を責めないで欲しいと。貴方のせいではないのですと。
だから、どうか……――。
愛しい矢斗の涙が頬に落ちた感触。それが、弦音という娘の生の最期の記憶だった。
鵺は討伐され、都は怪異が齎す脅威から救われた。
だが、それを機に北家は祭神を失った。
矢斗は、愛する女の亡骸を抱いたまま姿を消した。
他を害することの叶う武器であった己の身を呪いながら。弦音の願いを叶える為とはいえ、彼女を射た自分を呪いながら。
矢斗は、ただ弦音を離そうとしなかった。
彼女の身体が朽ちて、塵となり風に消えても。腕から抱くものが消え失せても。
果ては自らが何であったかも無くなり、存在が希薄になっても。
やがて色を失い。そして現に形を失っても。矢斗はただ、その場に在り続けた。
やがては儚き小さな光となり、そのままただ消えゆこうとしていたある日。
ふと、何かを感じた。
おぼろげな感覚の中、誰かが泣いているような気がして、彼はふと声を上げた。
自らの意思を音にするのも随分久しぶりな気がする中で、その手は彼に触れた。
『あたたかい』
彼に触れた少女は、囁くように小さな声で呟く。
その声が、とても愛おしく思えて。泣きたい程に切なく、懐かしく感じて。
彼は……小さき光は、紗依という名の少女の手を温かいと思った。
そして光と少女は、二人しかしらぬ呼び名をもつ、友となった……。
紗依と共に時を過ごすうちに。紗依と心を交わし、想いを重ねるうちに。自らを失っていた小さな光は、己が何であったのかを取り戻していく。
少女との日々が、一つ、また一つと彼に真実を還していく。
彼女が誰であるのかも。かつて自分達の間に何があったのかも、全てを。
だからこそ、彼は花舞う日に約束を残し彼女の前を去った。
今度こそ守りたいと願って。もう二度と、失いたくないという想いを抱いて。
そして北家に戻り来た祭神は、時を越えて再び見出した愛する女を『神嫁』にと望んだ――。
失っていたものが還ってきた紗依の瞳からは、とめどなく涙が溢れ、頬を伝う。
身体に絡みつく鵺を不快に思うよりも、戻ってきた想いの痛みが勝って。言葉なくただ涙する紗依の耳に、揶揄を含んだ悪意が聞こえた。
「ようやく思い出したか、巫女よ」
「鵺……」
俯いてしまっていた紗依の表情が険しくなり、宙を睨み据えながら緩やかに顔をあげる。
先程まではただ自分を捕らえる触手のようなものしか見えなかったが、今なら確かにそこにあるのがわかる。
紗依に絡みつくようにしてある、数多の獣の集合体のような醜悪な姿が。その中央にある、紗依を嘲笑う猿のような顔が。
「自分に嫉妬して打ちひしがれる様は、実に滑稽だったぞ」
愉快で堪らないといった様子で呟かれた言葉に、紗依は表情を強ばらせる。
確かにそうだ。
矢斗には愛した女性が……弦音がいたことを知って、今もまだ愛される彼女に嫉妬した。
それ故に、自らに向けられる矢斗の情を憐みだと誤解した。
けれど、弦音は紗依だった。紗依の先の世の姿であり、紗依自身だった。
滑稽と笑われても咄嗟に返す言葉が見つからない。懊悩していた自分が滑稽と思えて、羞恥に唇を噛みしめてしまう。
しかし、次の瞬間躊躇いがちな響きを帯びた言葉が耳に触れ、目を瞬いた。
「紗依……」
そちらに眼差しを向ければ、期待と恐れを含んだ矢斗の琥珀の双眸がある。
紗依の名を呼ぶ声が、違う響きを伴って聞こえた気がした。
弦音、と。矢斗の心が紗依をそう呼んでいるような気がして、紗依の瞳にはまたも透明な雫が盛り上がり、零れる。
「ごめんなさい、矢斗。……ごめんなさい……」
伝えたい事は心の中で次々込み上がってきて溢れそうなのに。紗依の口から紡がれるのは、ただ謝罪の言の葉ばかり。
あの時、使命を果たす術としてあの方法しかなかったと思う。
けれど、それ故にどれ程の痛みを矢斗に強いてしまったのかと思えば、どの言葉も軽く思えてしかたなくて。
彼があの後どのように時を過ごしていたのか。自らの存在そのものを呪い、否定し。儚き光になり、ただ消えるに任せていたのか知ってしまったから。
どんな言葉も、その時間に対する償いにはならない。
涙しながらただ繰り返す紗依を見て、矢斗は暫しの間無言だった。
事の経緯を見守っていた時嗣達も、誰も言葉を紡げぬ時間が続き。響くのは愉快そうに嗤う鵺の声だけ。
沈黙したままの矢斗の次なる言葉を待つのが怖くて、俯きかけたその時。
「……それでも、私達はまた会えたのだから。泣かないでおくれ、私の天乙女」
弾かれたように紗依は顔を上げて、矢斗を見る。
痛みも哀しみも。裡にある数多の感情も、全てのみ込んで。矢斗は、少しだけ哀しげに。けれど、静かな微笑を湛えて紗依を見つめていた。
天乙女と呼んで、笑ってくれていた。
あの庭で二人、過ごした日々のように。
小さな光と友として過ごした日々のような、優しい声音で。
北家に迎えた紗依を守り慈しみ続けてくれた、温かな眼差しを向けて。
紗依の胸の裡に、熱い感情がこみ上げ満たしていく。止まりかけた涙が再び溢れ、頬を次々と伝う。
けれど、矢斗の名を呼び縋りたいと願っても、今それは叶わない。
その元凶とも言える怪異は、二人の様子に沈黙していたかと思えばけたたましく笑った。
「それで、我をどうする? 感動の再会の後は、また悲劇の別れを繰り返すのか?」
鵺の言葉に、紗依と矢斗、そしてその場にいる者達の顔が蒼褪め、険しくなる。
そう、鵺はまだ紗依の中にいるのだ。
一部綻びから外に這い出しかけてはいるが、その中枢とも言えるものは紗依の中に留められている。
鵺は紗依を浸食し内側から食い尽くし、いずれは紗依を器として現世に完全に顕現してしまうだろう。
それを阻止するには、あの時のように紗依の内に鵺が封じられている間に紗依を殺すしかない。
けれど、それではまた繰り返す。
弦音の後悔を。そして、矢斗の苦しみと哀しみを。
矢斗に尽きぬ悲しみを与えてしまったことを悔いるからこそ、もう二度と繰り返したくない。もう二度と、矢斗に己を呪って欲しくない。
再び出会えた今、もう二度と……!
その時、紗依は目を見張る。
誰に言われたからでもなく、誰かのためでもなく。紗依が自ら抱いた願い。
漸く矢斗に伝えられる……矢斗でなければ叶えられない、紗依の願い。
紗依は、自分の中にある強く揺るぎないただ一つの『願い』に気付いた。
だが、それを叶える為には、ただ願うだけでは駄目なのだ。
紗依は毅然とした面もちで宙に浮かび笑う鵺の顔を見据えると、身の内に宿る力を集中し、自身を捕える腕のようなものに向ける。
紗依の意思は光として形をなし、縛するものを打ち据えた。
次の瞬間、鵺の苦痛の呻きと共に、呆気なく思うほどすんなりと紗依を戒めるものは解けた。
未だ裡から鵺が湧き出ている状態には変わりないが、驚く複数の眼差しの中で、紗依は手足の自由を辛うじて取り戻す。
紗依自身も驚いていた。そして同時に、気付いてしまった。
一つの可能性に――鵺はまだ、かつての力を取り戻していない、と……。
弦音として対峙した往時の鵺のままであったなら、こうして仮初の自由を取り戻すこととて出来なかっただろう。
けれど、鵺は忌々しげに呻きながらも紗依の動きを封じていた戒めを失った。
死を持たなかったものが、知らなかった死を知ったことで受けた痛手はそう浅くはなかったのかもしれない。
或いは、死という概念を得たことにより、存在が何らかの変質を遂げたのかもしれない。
仮説は幾つでも思い浮かぶ。
ただ、一つだけ確かなことは、今の鵺にかつて程の力はないということ。
それならば、と紗依の脳裏に浮かぶ可能性が一つ。
今ならば……かつてのような大きな封ではなくとも、閉じ込めることができるのではないだろうか。
あの時は弦音の全ての力を以て、弦音自身を器として封じ込めなければならなかった。
だが今なら、何か……紗依の身体以外の何かに封じて、自身から怪異を切り離せるのではないかと思ってしまったのだ。
鵺の放つ禍々しい気は怒り狂い暴れだすけれど、矢斗や時嗣達が決死の思いで紡ぐ守りにて阻まれ。鵺は尚の事苛立ち、咆哮している。
再び自分を戒めようとする鵺の怒りを裡に感じながら、紗依は考え続けた。
鵺を自分から切り離し封じる。それならば、何処に? 何に……?
問いに対する答えを焦る紗依が唇を噛みしめたその時だった。
紗依の胸元にある何かが不意に熱を帯びたように感じた気がして、紗依は思わず目を瞬いて手をそこにやる。
そこにはあの日矢斗にもらった、矢斗が紗依の為に祈り、星の光を紡ぎ続けて作り上げた珠の簪があった。
破邪の弓である彼が想いを込めて祈りを捧げ、浄き天の力を形として凝らせた、祭具にも等しい守りが……。
目を見張ったまま、紗依は思わず声をあげそうになった。
確かに、この簪ならば。そして今の紗依の力と、この場に集った人々の力を借りたなら。
鵺を解き放つことなく、紗依から鵺を移すことが可能なのではないだろうか。
せっかく矢斗が紗依を想い、時間をかけて紡いでくれた珠を、鵺を封じる媒介にするのは心苦しい。
けれど、これしか方法がない。
紗依は今度こそ死ぬわけにいかない。そして、鵺に喰われてしまうわけにもいかない。
もう二度と、矢斗に哀しみの日々を与えたくないのだから――!
紗依は、胸元から静かに星の光が凝ったような珠を持つ簪を取り出した。
僅かに燐光を帯びたそれを目にした矢斗は驚愕に目を見張り、次いで紗依の意図を察した様子である。
傍らの時嗣に険しい表情で何事か囁き、それを聞いた時嗣達は強張った面持ちで、それでも頷いているのが見える。
鵺は殊更ゆっくりと、再び紗依を己の戒めに捕らえようとしてくる。
その様子に苛立ちを覚えながらも抑えて。努めて冷静に紗依は鵺を見据えた。
悲劇の別れを繰り返す? とんでもない。
心に強くその言葉を呟きながら、紗依は徐々に強まり行く光を帯びた珠を鵺に向けた。
そして、心からの願いと、強い決意を以て叫ぶ。
「もう二度とあの時を繰り返したりはしない。……終わるのは、貴方だけよ……!」
今までにない程に強き声音で紡がれた紗依の決意に、鵺の動きが僅かの間戸惑った風に止まる。
その隙を見逃す紗依ではない。
今の世の身体で、戻ったばかりの異能を使う負荷に身体は悲鳴をあげる。けれど、必死に歯を食いしばって紗依は遠い日の記憶に刻まれた術を紡ぎあげる。
星の光の珠に、暴れる怪異を封じ込める為に。
不意を突かれた形となった鵺は咄嗟に紗依に襲い掛かり、簪を奪おうとした。
怪異の動きと術の完成の差は刹那だった。
あやうく鵺の手が簪を掠めかけたより先、一瞬早く紗依の術が完成する。
紗依を再び戒めようと伸ばされていた鵺の腕が、不意に紗依の目前から消失する。
禍々しい怪異の影は、見る見る内に強気輝きを放つ珠へと吸い込まれるようにして見えなくなっていく。
体の中から、凄まじい勢いで何かが抜け出ていくのを感じながら、紗依は必死にその場に立ち続けた。
やがて、その奔流めいた感覚は途切れ。
怨嗟の叫び声をあげながら紗依の内側から図引きずり出された鵺は、抱いた慢心故の油断の所為で、逃れることも叶わず珠を新たな封じの器とさせられた。
封を破り外に出ようとした鵺を戒めるように、幾重にも紗依のものではない封じの力が被せられていく。
「封じに長けた術者を全て集めろ! 緩めることなく封じの術を紡げ!」
力の主である時嗣は余裕など殴り捨てた形相で家人に命を叫び。
強張った面持ちの家人は力を振り絞り封じを施し。或いは指示に従い、更なる封を施せる者を求めて駆けていく。
鵺は暴れ、咆哮し続ける。
玩具で遊んでやる程度の気持ちで居たのだろう。
紗依と矢斗が此度もまた悲劇を繰り返すのかとせせら笑っていたのだろう。
けれど今、怪異は弓神の想いの結晶とも言える珠に、紗依と、そして数多の人々の力を以て封じられている。
荒い息のまま、紗依は僅かに目を伏せた。
だが、まだ終わりではない、と。
そう。まだ、鵺と紗依は繋がっている。
紗依の魂と共に転生した鵺は、現には形を持たぬ見えぬ糸のようなもので紗依と魂が結びついている。
その繋がりを断ち切らない限り、その結びを綻びの媒介として鵺が封を破りかねないのだ。
紗依は限界を訴えようとする己の身体を叱咤して、今一度ある術を紡ぐ。
あるものを現実に具現化させる術……紗依の魂と鵺を結びつける『結び目』に現の形を与える術を。
やがて、糸と糸を結ぶ結び目のように見えるものが、誰の目にも見える姿を以て生じる。
僅かな安堵を感じその場に膝をつきかけたのを必死でこらえながら、紗依は矢斗を真っ直ぐに見つめた。
「矢斗、お願い。この結び目を撃って」
目に見えて矢斗の表情が強張り、顔色が蒼褪めたのがわかる。
躊躇うのも無理はない、と紗依は思う。
紗依が両手で抱えるようにして示す『結び目』の向こうには。
鵺と紗依を繋ぐ『結び目』の先には、紗依の心臓があるからだ――。
真剣な紗依の眼差しを受けながら、矢斗は唇を震わせ、頭を緩く左右に振る。
「私が、貴方をまた撃つなど……。また、貴方を射抜いてしまったら……」
矢斗はここではない何処かを見ているような、動揺しきった様子で口元を抑えてしまう。
きっと、思い出しているのだろう。
先の世で、弦音を射抜いた時のことを。願いを叶える為とはいえ、自分の手で想う相手を殺した時のことを……。
紗依の願いに応えて紗依を撃って。繋ぎ目を破壊するに留まらなかったら。再び、彼の放った矢が心臓を射抜いてしまったら。
己を呪う程の恐れを思い出させてしまったことを苦く思うけれど、これは矢斗にしか頼めない。
時嗣達は鵺が閉じ込められた珠の封じを確かにするために、全てを費やしている。
そして、怪異と紗依の魂との結びつきはあまりに特異。
破邪の弓である矢斗の力でなければ破壊出来ない程に、強く複雑に絡み合っているのだ。
だからこそ、また哀しい顔をさせたとしても、矢斗に願うしかない。
だが、あの時とは違う。
かつては終わりを覚悟して、自分を射るようにと言うしかなかった。
でも今は。
紗依の中に、あれ程形にならなかった『伝えたいこと』が確かなものとなって浮かび上がってくる。
それは純粋な紗依の想いであり、願いだった。
真っ直ぐに矢斗へと眼差しを向けながら、紗依は淡く微笑んだ。
「私は、貴方が好き。弦音だった私も、紗依である私も」
弦音が伝えてはいけないと戒めていた想いであり、紗依が自分には不相応なものであると戒めていた想いだった。
けれど今なら、裡を満たす温かなこの心を、素直に告げられる。
紗依が静かに向けた万感の思いの籠った眼差しを受けて、矢斗が目を見張る。
戸惑いの中に僅かに喜びが宿り。それは少しずつ、矢斗の表情に力を、失いかけていた色を還していく。
けして逸らすことなく愛しい弓神を見つめながら、紗依は静かに続けた。
「だから、貴方と幸せになりたい。私の『夢』を、貴方に叶えて欲しい」
それは、弦音が叶えることができずに終わった願いであり、紗依がようやく辿り着いた偽らざる純粋な願いであり。
そして、紗依が今に至るまで矢斗に返せぬ問いの答えだった。
「お母様が願って下さったから、じゃない。私が、矢斗と幸せになりたいの。矢斗と一緒に、これからを生きていきたい……! だから……!」
始まりは、母の願いだった。
紗依だけを大切にしてくれる人を見つけて結婚し、温かい家庭を築いて欲しい。愛し愛され、守られて。幸せになって欲しい。
母の願いを叶えることが紗依にとっては『夢』であり。それを知る矢斗は、自分ではそれを叶えられないだろうかと言ってくれた。
答えをだせずにいた言葉に、紗依はようやく答えを返した。
けれど、母が願ってくれたからではなく。母の為だけではなく。
他でもない紗依自身が矢斗と共にこれからを生きて幸せになりたい、そう想うからこそ紡いだ言葉だった。
呆然と見開かれていた矢斗の琥珀の瞳から、一筋涙が零れた。
揺れる心に言葉を紡げずにいる矢斗からけして眼差しを逸らさずに、紗依は心に思う。
信じている。
矢斗は、絶対に射てくれる。
共にこの先の日々を生きたいと思うからこそ、今一度撃ってくれる――!
また、激しい逡巡があったように思えた。果てない葛藤があったように感じた。
長い、長い。何時までも続くかと思われた長い沈黙の後。
矢斗はあの時のように、己の本体である弓をその手に呼び出した。
一切無駄のない、ともすれば武骨にも見える弓を手にした矢斗は、静かに矢を番えた。
けれど、あの時と違うのは――その眼差しに宿る、確かに未来を見据える強い光。
哀しい終わりを迎える為ではなく、二人でこれからの日々に幸せを見出す為に。
矢斗は、再び高き弦の音を響かせて、矢を放った。
飛来した矢は過たず具現化した紗依と怪異との繋がりを断ち切り。
鵺の悲鳴にも似た叫びが聞こえた気がして。
その場には、目も開けていられぬ程の眩い光と、その場にあるもの全てをなぎ倒さんとするような激しい衝撃が生じた……。
――気が付いた時、紗依は柔らかな感触を感じ、僅かに戸惑った。
どうやら自分は布団に寝かされているようだと感じた紗依は、先程までのことが夢だったのではないか、と一瞬思ってしまった。
けれど、確かに現実だったと紗依に告げたのは、見上げた先あった矢斗の必死な表情と。遠くに聞こえる、慌ただしく駆け回りながら叫ぶ人々の声だった。
おぼろげだった感覚が明らかになるにつれ、ここが奥座敷にある部屋の一つであることがわかってくる。
ひとまず起き上がろうとした紗依を、矢斗は最初こそ制したものの。やがて、根負けしたように紗依が状態を起こすのに手を添えてくれた。
紗依が目覚めたことで安堵した様子の矢斗は、紗依が抱く問いに一つ一つ答えてくれた。
怪異の力が放たれかけたことよって生じた屋敷の被害への対応や、出た怪我人の手当に屋敷の人々は皆慌ただしく駆け回っているという。
千尋やサトも忙しく動き続けていると聞けば、ここで寝ているのが申し訳なく思う。
紗依は起き上がり、すぐにでも手伝いに駆け付けようとしたが、矢斗が止めた。
皆様に申し訳ないと紗依は言ったけれど、他ならぬその皆……千尋達と時嗣達が「しっかり休ませてさしあげろ」と矢斗へ紗依の守りを言いつけて言ったのだという。
申し訳ないような、有り難いような。複雑な面持ちをしていた紗依は、ふとあることに気付いて表情を強ばらせた。
その表情を見て紗依の抱いた懸念を察したらしい矢斗は、安心させるように笑みを見せながら、穏やかに告げる。
「鵺の玉は。時嗣達が他家からも封じに長けた者を呼び寄せて、厳重に封印を施している」
時嗣は面子にこだわっている場合かと他家にも封じの術に長けたものを求めたらしい。
かつて猛威を振るった怪異を封印する為に、他の三家からだけではなく帝の膝元からも術者が遣わされているとか。
いずれ封じが確固なものとなったら、宮中の霊域に収められることになるだろう、と矢斗は教えてくれた。
それを聞いて漸く紗依は安堵したように息を吐いたが、すぐに哀しげに表情を曇らせてしまう。
どうしたのかと問う眼差しを向ける矢斗に、紗依は僅かな逡巡の後に口を開いた。
「ごめんなさい。せっかくの簪、駄目にしてしまって……」
矢斗が長い時間をかけ、紗依を待ちながら想いを込めて作ってくれた珠の簪は、鵺を封じる器としてしまった。
他にとるべき方法がなく仕方なかったとはいえ、彼の想いの籠った品を損ねてしまったことには変わりない。
哀しげに言った後に俯き沈黙してしまった紗依は、不意に身体を引かれて目を見張る。
気が付いた時には、紗依の身体は矢斗の逞しい腕の中にあった。
「構わない」
戸惑う紗依の耳に、優しさの底に万感の思いの籠った言葉が触れる。
温かで幸せな場所に、守られるようにして捉われていることをこんなにも嬉しいと。
裡に感じる想いと同じ想いを触れた場所から感じることが、これほどまでに愛しいと。
溢れるようにこみ上げてくる想いに、紗依は目頭が熱くなるのを感じた。
「また、貴方を想い、作るから。貴方に……また簪を贈るから。だから、どうか」
矢斗の鼓動と自らの鼓動が溶けあうような感覚に、咄嗟に言葉を返せない。
そんな紗依を更に強く腕に抱きながら、矢斗は確かな愛情のこもった声音で希う。
「どうか……私と共に生きてくれ。今度こそ守らせてくれ……。私の愛しい、天乙女……」
紗依の『夢』を叶えたいと言ってくれた時のように優しくも確かな声音で紡がれたのは、他でもない紗依自身が抱いた願いであり、矢斗自身の願い。
かつては、哀しい選択を強いて。そして、一度は伝えられぬまま別れ、互いを失って。
再びめぐり逢い想いを受けて、矢斗も紗依も、一番望んでいたものを取り戻した。
「勿論よ。私の、大切な夕星……!」
もう、こみ上げる想いが形となり、涙となり流れ落ちるのを止められない。
紗依は何度も頷きながら答えると、自らも静かに矢斗の背に手を回し、広く温かな胸に頬を寄せた――。