たとえば、ネットの掲示板やSNS。『幽霊巫女さんにお願いするスレ』や『幽霊巫女』とだけ書かれたアカウントに願い事を書き込めば、いつの間にか君の悩みは解決している。
たとえば、電話。スマホで『11011』に電話すれば、幽霊巫女さんが出て、君の願いを聞いてくれる。
たとえば、普通では辿り着けない『願いを叶える神社』。怪異に遭ったら、彼女を呼べ。そこに行けば、幽霊巫女さんは君を助けてくれる。
それが世に広がっている『幽霊巫女の噂』だった。
新條涼佑はもうほとほと参っていた。もう自分一人の力ではどうしようもない状況だった。いつ自分の命が絶たれてもおかしくない。毎日どうしようどうしようと考え込んで、とうとう友達の直樹に白状したのが昨日。そこで彼から聞いたのは、『幽霊巫女の噂』。ネットでも電話でも直接でも如何なる相談にも乗ってくれる不思議な巫女さんの話だった。
学校帰り、涼佑は近所の八野坂神社に向かっていた。その後を当然のように追う細長い影を引き連れて。八野坂神社に着くと、迷わず社務所に向かった涼佑だったが、そこには巫女なんていなかった。否、巫女どころか誰もいない。こんな時に出かけているらしい。焦りと死への恐怖から苛立ち混じりに「ああ、もうっ!」と吐き捨て、涼佑は再び境内に戻って来た。そこに追いついたらしく、あの影が涼佑に迫った。その正体はスマホの充電コードや文房具店から追ってきたマスキングテープやナイロンロープ、ありとあらゆる紐状の物達だ。その光景を見た途端、彼の口からは「ひ……っ!」と引きつった悲鳴が漏れる。
逃げようとした彼の首に我先にと誰かの充電コードが巻き付き、思い切り締め上げる。突然のことに涼佑は「がっ……!?」という声が出ただけで、助けを呼ぼうにも呼べなくなってしまった。呼吸が完全に遮断され、目玉が飛び出るような熱い感覚が涼佑を襲う。そんな彼の目の前には、いつの間にか真っ黒な影が佇んでいた。彼より幾分背の小さな少女の形を作っている『それ』は、彼が酸素を求めて、開けた口に徐に自分の片手を突っ込み、彼の首に絡まっている充電コードをほんの少し緩めてぬるりとその胃に収まった。
途端に心臓を直接焼かれるような激しい痛みが涼佑を襲う。首に巻き付いていたコードや追ってきたテープやロープは力を失い、地面に転がった。激痛に耐えようと地面を転がり、助けを求める涼佑。
誰か助けて欲しいと伸ばした手の先に、いつの間にかまた違う神社が建っていた。
ふと、涼佑は目が覚めた。てっきり自分は死んだのかと思ったが、どうやらそうではないらしい。ゆっくり立ち上がった涼佑の前には、やはり意識を失う直前と同じように八野坂神社とはまた違う様相の神社が建っていた。
社殿自体は八野坂神社より小さいものの、どこかこの世とはほんの少し違う清浄な空気に包まれている。どこか現実離れした状況と感覚に不思議に思いながらも、涼佑は神社を調べてみようと思った。何となく社殿へお参りし、制服のポケットから財布を取り出して五円玉を賽銭箱へ入れた。がこん、と大きな木箱の底に五円玉が当たる音を耳にしながら、涼佑は自分を助けて欲しいと願う。
「毎度ありぃ」
ふと、すぐ目の前で少女の声がした。その声に反射的に目を上げると、賽銭箱の上に頬杖をついて、こちらを見上げている巫女がいた。長い黒髪を無数のお札でポニーテールにした、勝ち気な笑みを浮かべている。まだ少女と言ってもいい年齢の巫女が突然、目の前に現れたことに涼佑は些か驚いて後退った。その行動にほんの少し気を悪くしたのか、巫女はむすっとした顔をする。
「なんだよ、そっちが私を呼んだんだろ」
「え? え? え? こ、ここは……? 君は……?」
まだ自分の置かれた状況が分かっていない涼佑に、巫女は微笑んで答えた。
「ここは『願いを叶える神社』。で、私がそこの『幽霊巫女』って訳だ」
死の間際にやっと辿り着けたのだと、とろとろと理解した涼佑は驚きのあまり「へ、ぁああああ……?」と実に間抜けな声を上げてしまう。そんな彼を見て、巫女はくすくすとおかしそうに笑った。口調や態度は勝ち気だが、ふと見せた年相応の笑顔は可愛らしい。軽やかに跳んで涼佑のすぐ前に来た彼女は、まじまじと涼佑の顔を見た。
「で、お前の願いは『助けて欲しい』、だったか。生憎とどう助けて欲しいのか言ってくれないと私には分からんぞ。次は気を付けろ。……まぁ、次があればの話だがな」
「『次があれば』……って、え? ど、どういうこと、ですか?」
巫女は「何を言っている?」とでも言いたげについ、と涼佑を指して言った。
「だって、お前。もう死んでるし」
今度こそ耳を疑う発言に、涼佑は驚愕の絶叫を上げた。彼の絶叫に巫女は「うるさっ」と自分の耳を塞ぐと同時に、二人の間に大きな影が割り込んで、涼佑は鳩尾に衝撃を受けた。賽銭箱の前から境内に吹き飛ばされ、痛みで悶絶する涼佑から目を離さず、静かに背後の巫女へ告げた。
「ご無事ですか、主人」
「童子……あまり手荒な真似をするな。折角の『客』だぞ」
「しかし、こやつが何か主人に悪事を働かないとも限りませぬ」
「相変わらず、真面目だなぁ。お前」
童子と呼ばれた影の正体は、額から二本の角が生えた大柄な男だった。巫女と色を揃えているような紅白の動きやすそうな和装に身を包み、地面に付きそうな程つやつやとした長い黒髪、白い肌には茶色の隈取に似た化粧がタトゥーのように施されている。その手には大振りの槍が握られていた。いつでも相手が立ち上がって向かってきても良いように構えているが、いつまで経っても涼佑が起き上がってくる気配は無い。
「おい、もしかしてさっきの一撃で失神したんじゃないか?」
主人の鋭い一言に、童子は厳かにゆっくりと槍の切っ先を天へ向け、ふぅと重い溜息を吐いた後に言った。
「なんと軟弱な」
「そうじゃないだろ。一般人がお前の蹴りに耐えられる訳無いから」
「いえ、距離を取らせる為に軽く蹴っただけのつもりなんですが」
「言い訳しない。ほら、童子。お前がやったんだから、責任持ってお前が介抱してやれ。社務所使って良いから」
主人に怒られた鬼・八坂童子は些かしゅんと肩を落としながらも、主人の言う通りにしようと涼佑を片手でひょいと担ぎ上げた。
涼佑がまた次に目を覚ました時、彼は温かい布団に寝かされていた。眠る前のことをよく思い出せず、ただ鳩尾の辺りが痛むなと思いながら、のそりと彼は上体だけを起こして周囲を見回した。普通の和室に普通の布団を敷いて寝かされていたようだ。傍らには座布団で丸くなっている猫が一匹と水の入った桶に清潔な手拭いが浸されている。誰かが介抱してくれていたらしい。どのくらい時間が経っているのか確かめようと、涼佑は制服のポケットに手を突っ込んだ。
「……あれ?」
無い。眠る前、確かにあった筈の財布も無くなっている。さっと血の気が引いて、全身をぺたぺたと触ってみるも、無い物は無い。なんでどうしてどっかで落としたかと彼が焦っていると、障子を開けて誰かが入って来た。はっとそちらへ振り返ると、そこには腰に刀を提げた巫女装束の少女が立っていた。
「お、起きたか。気分はどうだ? って言っても、気絶する前とそんなに変わらんか。童子に蹴られただけだし」
「あ、えっと……」
「なんかピンときてないみたいだから、一応、説明しとく。お前は『幽霊巫女』である私に助けを求めた。私が見たところ、お前は既に死んでいる身だが、あー……正確には生きてるとも死んでるとも言えないが、とにかく私に助けを求めた。だから、助ける」
「死んで――って……」
そこではっと涼佑は気絶する前のことを思い出した。気絶する前にも同じことを言われた、と。慌てて飛び起きた涼佑は巫女に迫った。
「あの、あの、オレ、死んでるってどういうことですかっ!?」
「おお、思ったより元気だな。う~ん……まぁ、死んでると言えば、死んでるし。生きてると言えば、生きてる、っていう感じなんだが」
涼佑の勢いに押されながらも、巫女から一言では説明できないと言われ、「取り敢えず、茶でも飲むか?」と訊かれたので、少し冷静さを取り戻した涼佑は「は、はい……」と近くにあったちゃぶ台に就いた。腰から刀を下ろして畳に置いた巫女は、座布団の上で丸くなっている猫に向かって当然のように言った。
「じゃ、そういう訳だから童子。お茶を出してくれ」
「は……?」
「――仕方ない。主人の命とあらば、やるか」
「え?」
座布団の上で気持ち良さそうに寝ていた黒白のハチワレ猫は、のっそりと起き上がって口を利いた。鋭い爪を立てて、くぁ、とあくびを一つすると、とてとてとハチワレ猫は開けられた障子へ向かいがてら、その躰を大きく変化させた。涼佑が気絶する寸前に微かに見た角の生えた長身の男の姿になり、面倒そうに頭を掻きつつ、廊下を歩き去って行った。
目の前で起こった有り得ない光景に青ざめた涼佑は、ぱくぱくと金魚のように口を開け閉めすることしかできない。そんな彼に巫女は何食わぬ顔で「ああ、鬼を見るのは初めてなのか」と言ってのけた。
「お、お、おに……? おに、って、あの鬼っ!?」
「他にどの鬼がいるんだよ。普段は猫の姿になってもらってるんだ。あいつ、図体デカいから可愛い猫の方が良いだろ。『客』ウケも良いし、あいつ自身、猫になってりゃ喋らなくていいしな」
「は、はぁ……」
他にどう答えていいのか分からず、涼佑はそんな情けない声しか出せない。「さて、じゃあ、茶を待ってる間にもう少しカウンセリングをしてやろう」と巫女は涼佑と向かい合わせにちゃぶ台に就いた。
「まずは互いに自己紹介が必要だろう。お前は私のことを知っているだろうが、私はお前のことなんぞ知らん。だから、簡単にで良いから教えてくれ」
「は、はぁ……分かりました」
そう言って涼佑はやや考えた後、丁寧に一礼してから簡潔に自分について述べた。
「えっと、ぼ……オレは新條涼佑、です。八野坂高校一年で、趣味は――ゲーム、かな? 今回はオレに取り憑いた悪霊を祓って欲しくて、来ました。よろしくお願いします……」
「お前、真面目なんだなぁ。こほん。では、私も一応、自己紹介しておこう。私はこの『願いが叶う神社』の管理をしている『幽霊巫女』。主な仕事は神社の維持・清掃・お守り販売・時々布教活動。戦いの神楽は大得意。そして――除霊や妖怪の調伏だ」
巫女は勝ち気で不敵な笑みを浮かべる。まるで勝負師のような表情に、涼佑は無意識に生唾を飲んだ。胡坐をかいた巫女は涼佑の顔を下から覗き込むように頬杖をついて、「で、今回、お前はそっちの『客』だな?」とにやりと笑った。その笑みにどこか人間離れした風情を感じて、涼佑の背中をぞっと怖気が走る。しかし、それも束の間、巫女と涼佑の間に割り込んだ大きな手が遮った。鬼がお茶を持って来たのだ。
「こら、あんまり『客人』を怖がらせるな、主人」
口では主人と呼んでいるのに、口調は保護者のそれで、敬意というよりは父性のようなものを感じる。それに巫女は不満そうに唇を尖らせて、幼い子供のように足を投げ出し、口答えした。
「なんだよぉー。ちょっとかっこつけてみたかっただけじゃんかよぉー」
「先程、一般人には手加減しろと己に言ったのは、主人では?」
「ちぇー」
「けちー」とよく分からない悪態を吐く主人に、鬼は仕方ない奴だと言いたげに溜息を吐いて涼佑に向き直る。正座をしている彼は丁寧に自分の腿に手を乗せて恭しく頭を下げた。
「『客人』、先程の非礼をお詫びする。いきなり、社殿の方から悲鳴が聞こえたもので、敵襲かと勘違いをした。そなたには迷惑を掛けてしまった故、願いは勿論のこと、何か詫びの品を差し上げたい」
「詫びの品って何渡すんだよ、童子。もう死んでる奴に持たせる物なんて、何も無いだろ」
「主人はもう少し柔らかい言い方というものを学んだ方が良い」
「ひっで。私、一応主人なのに」
ムスッとしかめっ面をする巫女に構うことは無く、鬼は涼佑に願いについて、詳しい話をするよう促した。
「して、そなたの願いとは?」
「あ、そうだった。えっと……助けて欲しいんです。あの…………女から」
どこから話そうかと少し悩んだ涼佑は結局、事の起こりから全て話すことにした。彼が一体の悪霊基、一人の女に執着され、悩まされ、追い詰められた挙句、この神社に至るまでに辿った道を。
一体何がきっかけなのか、涼佑にはよく分からない。だが、樺倉望にはきっとそう見えたのだろう。
八月も後少しで終わろうという頃、放課後に涼佑は空き教室に呼び出された。今時珍しく、机の中に入れられていた手紙で指定された教室に入ると、そこには一人の女生徒が待っていた。
その女生徒こそが問題の女、樺倉望だったのだ。顎までの短い髪に、押しに弱そうな光を宿した目、いつも自信無さげに手をもじもじさせている様は、時折周囲から憐れみを向けられるだろうな、と涼佑は思った。一見、大人しそうな樺倉望をこの時まで、涼佑は全く知らなかった。隣のクラスにいたらしいが、行事でも学校生活でも、話したことはおろか、顔すら覚えが無かった。おどおどした態度と俯きがちな姿勢は、普段からあまり目立たないタイプの女生徒だろうと簡単に予想できる。その小動物のような雰囲気に、涼佑は騙されたのだと主張する。
「最初は嬉しいってより、戸惑いの方が大きくて……今まで他人にそういう興味って、持ったことが無かったから」
「今時、珍しいな。――あ、いや、そうでもないか。最近はそういうことに興味が出てこない人間もいるらしいからな」
確か、アセクシャルとかノンセクシャルとか何とかと言う巫女に、涼佑は少々困ったような顔をした。おそらく、まだ自分が『そう』なのかどうか実感が湧かず、決められないのだろう。自分の性自認は置いておいて、彼は続けた。
「一瞬、これを良い機会として、女の子と付き合ってみるのも良いのかなって思ったん――です、けど。でも……」
「付き合わなかった、と。というか、涼佑。自分の話しやすい言葉で良いぞ」
「私は特に気にしない」と言う巫女に、涼佑は了承の意味で頷き、「あ、じゃあ……」とそのまま告げる。それまで正座していた足も崩していいと言われ、涼佑は素直に座布団の上で胡座をかく。
「……うん。そんな適当な気持ちで付き合おうとしている自分が嫌で、相手にも失礼だしと思って、断ったんだ。それからだよ、あの女に付き纏われるようになったのは」
告白を断った時、望はひどく傷付いたような顔をしていた。彼女との別れ際にそれを見て、些か心を痛めた涼佑は家に帰ってからも、果たして本当に断って良かったのかとずっと悩んでいたらしい。だが、彼一人が悩んでみたところで、既に結果は出してしまっているのだ。今更、自分が考えることも無いだろうと、半ば諦めてその夜は眠った。それに、望ももう諦めただろうという勝手な推測を持っていた。
手にしたお茶を一口飲み、お茶と一緒にちゃぶ台に置かれたおかきを一つ取って半分食べたところで、巫女は質問を投げかける。涼佑も彼女に倣って、出されたお茶を少し飲んだ。
「その時点で誰かに相談してみたりしたか?」
「いや、だって、こんなことで他人に迷惑をかける訳にもいかなかったし、こんなことになるとも思ってなかったし……してないよ」
「――そうか。それで?」
それからすぐに、八野坂町は近年稀にみる大型台風に見舞われた。以前から予報でこちらに来るとは分かっていたので、涼佑が通う八野坂高校も学校前の七津川が氾濫するかもしれないとして急遽、休校となった。学校が休みなので、この日は望に会っていない。幸い大型台風の足は速く、一晩で通り過ぎて行ってくれたので、大きな被害を被ることは殆ど無かったが、涼佑達の学校では犠牲者が出てしまった。
台風の話になると、それまで神妙な顔をして聞いていた巫女は、ぱっと表情が華やぐ。共通の話題を見つけた時の笑みだった。
「あの時の台風か。あれは凄かったなぁ、童子」
「ええ。しかし、幸い死者は出なかったと記憶しているが……」
「それが一人、いたんだ。樺倉望が……川で発見されたって」
上げられた遺体は水草や泥で所々汚れていたが、それより奇妙なのは、首に縦に裂かれたヒバカリという蛇の死骸が絡まっていたことだった。薄緑がかった茶色の蛇で、滅多に人を噛まない大人しい性格の無毒な蛇だ。それを頭だけを残して縦方向へ三つに裂いた後、簡単に解けないよう、しっかりと結んでいたようで、発見された当時、死骸には縛った時に付いた癖が残っていたらしい。大人達の噂話からそう聞いた時、涼佑は何とも不気味なものを感じたという。望の死因は事故死として片付けられたが、その日以降、涼佑の周りで妙なことが続いた。
学校にいるとふとした瞬間、どこからか誰かの視線を感じるようになった。何だろうと思ってそちらを見ると――
「『いる』んだ。そこに……あいつが。樺倉望が」
『それ』は最初、真っ黒い影のように見えた。まるで生気の無い目を見開いたまま、頭から水を被ったような、全身ずぶ濡れで涼佑をいつまでも見つめているのだ。
最初は気にしないようにした。気のせいだ、疲れてるんだ、幻覚だ。しかし、日を追うごとに『それ』は涼佑との距離を徐々に徐々に詰めていく。最初は帰りがけ、学校のベランダからグラウンドにいる涼佑を見つめていた。次の日は教室にいる時、引き戸越しの廊下から。その次の日は、階段を上がろうとしたその先に。そして、また次の日にはとうとう……。
「家に来た」
夜、何となく気配を感じて、その正体を確かめようと自室のカーテンを開けた時、窓を隔てているとはいえ、『それ』は間近で涼佑をじっと見つめていた。悲鳴を上げ、腰を抜かしても微動だにしないで、ずっと涼佑を見つめ続ける『それ』を、涼佑はどうしていいか分からなかった。ただただ存在が恐ろしくて仕方がない。どうにかして欲しい。一体、自分が何をしたというのか。彼は『それ』に付き纏われている理由すら知らないのだ。
この辺りの話になると、それまで興味深そうに聞いていた巫女の表情が神妙なものに変わった。傍らに座している鬼も険しい顔をしている。そんな二人の反応に、涼佑は不安を煽られた。
「……やっぱり、オレ、ヤバいのかな?」
「いや……続けてくれ。まだ分からん」
「まだってなに……!?」
「主人。――まぁ、その、なんだ。まだその妖の正体が分からん、という意味だ」
「あ、ああ。そういうことか」
思ったことを何でもそのまま口から発してしまう主人の発言を窘めつつ、鬼は上手く誤魔化して先を促した。ここまで緊張と恐怖からやや早口になっていた涼佑は、落ち着く為にもう一口お茶を飲む。
「その時点で友達に話はしないのか?」
「そんな体験しちゃったら、もうするしかないよ。それで、次の日になってから学校で直樹……友達に相談したんだ。そしたら、ここのことを教えてくれて……」
だが、その時には既に遅かった。影はとうとう涼佑に追いついてしまった。直樹から『幽霊巫女の噂』を聞いた涼佑は、放課後に試してみようと思っていたが、それより早く影の手が彼に迫った。影は涼佑を殺そうとあらゆる紐状の物を従えて襲って来た。学校の中で襲われ、そこから何もかも投げ出して、自分の命を守ろうと八野坂神社まで逃げ延びたが、捕まってしまったのだった。
「そこからは巫女さんに出会った通りで」
「ふむ……確かにその樺倉望とやらはお前の体内に入ってきたのか?」
「うん。あんなに心臓が熱くて痛かったことって無いし」
今でもあの影がぬるりと口を通った感覚がするような気がして、涼佑はぶるりと震えて無意識に口元を袖で拭った。巫女は真剣な面持ちで涼佑をじっと見ていたかと思うと、徐に立ち上がった。
「お前の話は分かった。取り敢えず、涼佑。脱げ」
「…………はっ!? な、なんでっ!!?」
思わずシャツの上から胸の辺りを腕で隠し、少し後退る涼佑に、巫女は呆れた顔を向けた。
「誰が男の裸になんぞ興味あるか。胸だよ、胸。痛んだところを見せろって言ってるんだ」
「――ああ、そういう……」
「私だって、どうせ見るなら童子のを見るわ」
「主人、せくはらというやつはお止め下さい」
ブレザーを脱いだ涼佑がそっとシャツの釦を外し、前を開ける。「中のシャツも上げろ」と巫女に言われながら、がばりとシャツを捲り上げられ、「そっ、そんないきなり……!?」と慌てるも、シャツの隙間から見えた自分の体に涼佑はぎょっとした。
「な、なんだよこれ!?」
彼の心臓の辺りには黒紫色の痣ができていた。大きさはどこかにぶつけたのかと思うくらい小さいもので、くすんだ汚れのような痣はよくよく見ると、カタツムリの歩みのようにゆっくりとじわじわ広がっている――ように見える。巫女が手で直接そこに触れると、少し冷たかったのか、「うひぃっ」と涼佑の口から情けない声が漏れた。
「…………中途半端な呪いだな」
「んえっ!? の、呪い!?」
「正式な手順を踏まずに、自身が呪いに変じたのか。――涼佑。はっきり言ってこれは現状、祓うのは難しい」
難しいと聞いて、涼佑は不安げに巫女を見る。少しさわさわと撫でてから巫女はシャツを元に戻し、涼佑とまた向かい合わせに座った。そのまま何やら思案を始めてしまった巫女に、涼佑はおそるおそる口を開く。
「オレ、本当に今、どういう状態なんだ?」
一瞬「死ぬのか?」と訊こうとした彼だが、自分が既に死んでいたことを思い出して益々、訳が分からなくなる。今この時、正しく死んでいるならば、どうしてここに存在していられるのだろうかと。涼佑の問いに難しい顔をしたまま、たっぷりとした沈黙を貫いた後、巫女は口を開いた。
「さっきも言ったが、お前は死んでいるとも言えるが、同時に生きているとも言える。要するに、臨死体験をしているようなものなんだが……」
そこで巫女は涼佑を見つめ、興味深そうな目つきをしながら「それにしても、本当に興味深い存在だな。お前は」とそのまま口にした。その発言にまた「主人」と鬼の叱咤が飛び、「はいはい」と巫女は両手を挙げて降参のポーズを取った。なかなか自分のことを教えてくれない巫女に、内心で苛立ちを覚え始めたが、顔には出さないようにして涼佑は続きを促す。
「臨死体験、っていうのはどういう?」
「ほら、よくあるだろ? 仰天なんたらっていう番組。再現ドラマとかで手術中に三途の川を見たとか、死んだ親に会ったとか。今のお前はああいう状態に近い」
「死にそうになってるってこと!?」
「しかし、今の状態の面白いところはな。普通の臨死体験ってのは、肉体から魂が一時的に半分抜け出ている状態のことを言うんだが、今のお前は肉体と魂両方、ちゃんと収まるべきところに収まっているのに、臨死状態に陥っているところだ。私も長年、幽霊巫女をやってるが、こんな事例は見たことが無い」
そう聞いても、涼佑にはよく分からない。困惑した顔で首を捻ると、どう説明したものかと言いたげに巫女は少々言葉に窮したが、考え考え言葉を続ける。
「小難しい言い方をしたが、簡単に説明するとな、涼佑。その身に宿した中途半端な呪いのせいで、お前は生きている身で『こちら側』に足を踏み入れ、戻れない状態って訳だ」
「いや、それじゃあ、オレは……へっ!? も、戻れないっ!?」
「ああ、今はな」
「なんでぇ!?」
困惑しきりで、ついには混乱し始めた涼佑を「どうどう」と宥めて、巫女は一つ一つ丁寧に説明を始める。
「正確には戻れない訳じゃない。戻れない訳じゃないが、そのまま現世に戻れば、確実にお前はすぐに死ぬ。今度こそ完全に死ぬ。その中途半端な呪いを解かない限りな」
自分の胸の辺りを指し示す巫女につられて、涼佑も思わず自分の胸を摩る。それ以上、シャツを脱いでいる状態に不安を感じて、制服のシャツを着直した。涼佑は未だ実感が伴わないまま、茫然と訊く。
「これ、何なの……?」
「本来、呪いとは正しい手順と材料を用いて相手に掛けるものだが、それとは違って、今回お前に掛けられたものは衝動的に強い『思い』をお前自身に直接打ち込んだものだ。普通の人間にできたとは正直、到底思えないし、思いたくないがな。己を人間という枠から大きく外し、ただただ最期に募らせた恨みと縁を辿って、お前を道連れにしようと樺倉望の魂は『妖怪』にまで変質したが、それより早くお前はここに来た。ここでは体の成長という概念は無い。あの世とこの世の狭間にあるからな。だから、涼佑。一歩でもこの神社から生者のまま外に出た瞬間、お前は全身を呪いに食い尽くされて跡形も無くなるぞ」
「さっきは簡潔に『死ぬ』と言ったが、実際は死ぬということすら、生温い『存在の消滅』に繋がる」という無情な巫女の宣告に、頭がパンク寸前の涼佑は、そのままの体勢で再びゆっくりと気絶した。
今日だけで一体、何回気絶したのか。涼佑が再び目を覚ました時、神社の外はとっぷりと暗くなっていた。また同じ布団に寝かされており、またゆっくりと起き出すと、一瞬、家に帰らなくちゃという帰巣本能が働きかけたが、すぐにまた気絶する前のことを思い出し、意気消沈する。帰りたくても帰れないのだ。自分の置かれた状況を思うと、どうしようもない不安が込み上げてくる。
「オレ、これからどうなるんだ……?」
「別にどうもならん」
最初に気絶した時と同じようにまた巫女が障子を開けて入ってくる。今度は鬼も一緒だ。部屋の電気を点けて、巫女は涼佑に問うた。
「そろそろ夕飯にしようと思うんだが、食うだろ?」
「え? あ……うん」
帰れないと思うと、急に母が作る夕飯が恋しくなってきた。昨日まで母の言うことがあんなに煩く感じていたのに、母の小言に調子に乗った妹のみきが余計なことを言って怒られる光景が、そこに帰ってくる父の姿が、もう見られないのだ。
泣くまい、と涼佑は思った。もう高校生なんだから、男なんだからと微かに滲む涙を無いものとしようとした。そんな彼に巫女は「泣きゃあ良いだろ」とだけ言った。ついそちらを見ると、彼女は当然のように言ってのける。
「耐える必要がどこにある? お前は何も悪くないだろ。むしろ、ただの逆恨みで不当な扱いをされてるんだ。泣きたくなったって良いだろ」
「むしろ泣いた方がすっきりするぞ」と言われたが、涼佑は泣かないことにした。同い年くらいの女の子の前で泣くのは恥ずかしいし、何よりここで泣いてしまったら、自分が無力な存在だと心身共に認めてしまうような気がして、嫌だった。微かに滲む涙を袖で拭い、「ううん、大丈夫だよ」と若干、震える声で巫女に返す。泣いたって仕方ないのだ。そう思って耐えていると、巫女が「あ、そうだ」と何か思い出したように声を上げて、鬼へ言った。
「童子、夕飯食べたら涼佑に浴衣出してやれ。制服じゃ寝づらいし、皺になるからな」
「は……? ですが、主人。ここには主人と己の着物しか……」
「うん。何とかしろ」
「こぉの……っ!」
怒ろうかどうしようか少し悩んで、意気消沈している涼佑が目に入った鬼は、昂った感情を落ち着かせようと深く息を吐き、「分かった。何とかしてみせよう」と承諾した。しかし、次いで放たれた言葉に巫女は「えー」と不満を露わにし、今度こそ怒られるのだった。
「その代わり、夕食は遅くなりますよ」
鬼が退室し、再び涼佑と巫女だけとなった和室の中で、彼女はまだ何かあるらしく「さて」と話題を切り替えた。
「それで、お前に掛かっている呪いのことだが」
「何か分かったのか?」
「いや、それはこれから探るんだよ。お前、夕方ここに来てまた気絶しちまったから、何もできてないんだ」
「あ……ごめん」
特に悪くないのに、涼佑は思わず謝ってしまう。その言葉に巫女は「別に、気にすんな」と軽く言って、ちょいちょいと手招きする。不思議そうな顔で近寄ってきた涼佑に、巫女は「ん」と廊下側の壁を指し示した。そちらに目を向けると、そこには丸く壁がくり抜かれ、嵌め殺し窓が填まっている。涼佑が窓を認識した頃を見計らって、彼女は説明した。
「呪いをどうするかはまだ『あれ』を見ていないから、どう扱って良いのか分からん」
「『あれ』、っていうのは……?」
「あれはこの神社を建てる時、覚達に造らせた特殊な窓でな。私は『サトリの窓』って呼んでる」
「それが……?」
「特定の人物を思い浮かべながらあの窓を覗くと、そいつの心が読めるんだ。つまり、あの窓から樺倉望の心を知ることができる。ある意味では、お前にとっての真実の一部が見られるという訳だ」
『真実』という単語に涼佑は、はっとして巫女に詰め寄った。その眼差しは大きすぎる期待に満ちている。
「え、え、じゃあ! どうしてオレにこんな呪いを掛けたのかってのも!?」
「あ、ああ。少しだけだが、分かる。覗いてみるか?」
「もちろん!」
何かこの呪いを解くヒントが見付かるかもしれないと思った涼佑は、巫女に飛びかかる勢いで迫っていたことに気が付き、はっと我に返って「ごめん」と少しだけ身を引いた。今の彼の状況を考えてみても仕方がないと、巫女は「いや」と言い、「んじゃ、見てみるか」と涼佑に立つよう言った。
『サトリの窓』を覗く時は必ず、巫女か鬼と一緒に覗くように言ってから、彼女は涼佑を窓へ導いた。巫女と手を繋いだ状態でひょいと気軽に涼佑が覗き込むと、外の景色が見える。すっかり日が落ち、庭にある柊の葉が風に揺れていた。なかなか外の景色以外のものが見えてこないので、訝しげな顔をする涼佑に巫女がぼそりと言う。
「お前、今、望のこと考えてるか?」
「あ」
「考えないといつまで経っても出てこないぞ」と言われ、少々嫌だが、涼佑は樺倉望のことを思い浮かべてみる。大人しそうだが、その実、物凄い執念の持ち主で、涼佑が現世に帰れなくなった原因で、はた迷惑な女だ。彼女自身を思い浮かべるというより、彼女への不満を募らせていく。それでも良かったのか、やがて窓の表面が曇っていき、段々とある像を結んでいった。霧の中に浮かび上がるようにして見えてきたものをよく見ようとして顔を近づけた涼佑は、にゅっと窓から伸びてきた手に顔を掴まれて引きずり込まれそうになる。それを見た巫女が慌てて彼の手を引っ張るが、何故か涼佑の体はそのまま窓の中へと吸い込まれてしまった。
「涼佑!?」
こんなこと、今まで前例が無いことだ。流石の巫女も驚き、慌ててどうすればいいのか分からず、とにかく助けを呼ぼうと鬼を呼びに和室を出て行った。
宙に浮いている感覚に、涼佑は自分が生きているのか、死んでいるのか、よく分からなくなる。体があるような、無いような、不思議な感覚だ。ふわふわとしながら、彼は無意識に手に触れたものを掴んだ。その途端、吸い込まれるようにそちらへ引っ張られ、錐揉み状態で涼佑は何かに吸われた。
ふわふわとした感覚は無く、しっかり地面に足がついたと分かると、涼佑は目を開く。そこは厭に薄暗く、狭い部屋の中だった。置かれている学習机や通学鞄から、女の子の部屋なのだと分かる。しかし、いつから掃除されていないのか、部屋の中は随分荒れて汚れていた。
「なんだ、ここ……」
状況がよく分からない涼佑が戸惑っていると、突然部屋のドアが開かれ、一人の少女が入って来た。涼佑と同じ学校の制服に身を包んだ少女は、入って来るなり、ベッドに倒れ込んで毛布を被った。部屋の惨状は目に入っていないのか、そのまま寝入ろうとした時、バンッと閉められた部屋のドアが勢い良く開け放たれた。現れたのは一人の男だった。涼佑より背が高く、神経質そうな痩せた体型なのに、どこか威圧感を覚える男だった。男は入ってくるなり、少女が包まっている毛布を無理矢理剥ぎ取り、まるで敵を睨み付けるような目で少女を見て言った。
「オメェ、さっきのはどういうつもりだ? ええ?」
男の問いに少女は答えない。否、恐怖で竦んで答えられないようだった。身を固くする彼女の髪を男は鷲掴みにし、無理矢理ベッドから引きずり下ろして、そのまま部屋の外へ連れ出そうとする。
「てめぇには躾が必要だよなぁ。親に舐めた態度を取るような奴はうちの娘じゃないもんなぁ!」
そう言って男は少女を足蹴にしようとした。事情はよく分からないが、暴力は良くないと涼佑は少女を守ろうと二人の間に入ろうとしたが、呆気なく彼の体はすり抜けた。何の手応えも無いことに一瞬戸惑い、もう一度蹴られている少女を守ろうと男に手を伸ばすが、やはりその手もすり抜ける。そこで涼佑は巫女が言っていたことを思い出した。
『サトリの窓』を通して見る景色は対象者の心を映したもの。心の一部を覗くことだと彼女は言っていた。だから、今の自分は彼らに触れることはできないのかと涼佑は考える。今、彼が見ている光景は所詮幻に過ぎないからだ。しかも、涼佑は先程助けに入ろうとしたところで、少女の顔を見た。見てしまった。
今も廊下に引きずり出されて足蹴にされている少女は、樺倉望の顔をしていた。助けるべきかどうしようかと考えているうちに、男は気が済んだのか、蹴るのを止めて「部屋片付けておけよ」と吐き捨てて行った。自身のことを『親』と言っていたので、おそらく今の男が望の父親なんだろう。廊下に丸虫のように縮こまっている望の手や足には痛々しい痣がいくつも出来ていた。それから目を逸らした先の壁に、涼佑は何やら血のように赤い文字が現れていくのを見付けた。
辛かった。苦しかった。誰かに気付いてもらいたかった。
その一文が現れると、涼佑はちくん、と心の奥底が痛むような気がした。
彼がその一文を読み終わると場面は変わり、望達家族が夕食を食べている光景が映る。望の父、母、望自身と家族全員で食卓を囲んでいることから「なんだ。何だかんだ言って仲が良い家族なんだな」と言いかけた時だった。並べられた夕食を見つめていた父親が突然、酒を注いでいた母に向かって言う。
「あのさぁ、オレ前に言ったよね? サラダの上に肉乗せんなって。三十年間ずぅっっっと言ってるよね? なのに、なんで乗せちゃうんですか? 頭悪いんですかぁ? 悪いんだろうね」
小馬鹿にしたような態度と口調で望の父親は彼女の母をなじる。それにびくっと怯えたように震えて彼女の母は「す、すみません」と頭を下げた。その頭に手を乗せたかと思うと、そのまま父親はテーブルの角に妻の額を思い切りぶつけさせた。ごんっと激しい音が響き、望が小さく悲鳴を上げて思わず立ち上がる。
「お母さん……っ!」
今度はその態度が気に入らなかったのか、父親は望へ視線を移し、「おい、なんだ? その目つきは。オレが悪いとでも言いてぇのか?」とチンピラのように望に迫った。そのまま望も為す術無く平手打ちをされ、その勢いで床に倒れてしまう。そのまま彼女の腹を蹴り付けながら父親は喚いた。
「オレがっ! 誰のために働いてやってると思ってんだ!? 全部、全部、テメェらの為だろうが! なのに、なんでこんなことがいつまで経ってもできねぇんだよ! このクズ! 低能! ゴミが!」
「やめてぇっ! やめてくださいぃ!」
望を守るように彼女の母が望に覆い被さって庇った。そのまま父親に蹴られ、踏みつけられている母を望は悔しげに見つめていた。ふと、涼佑の目の前にあるダイニングテーブルの表面にまた文字が浮かび上がる。
夕食の度にお父さんはお酒を飲んで暴れて、殴られたり蹴られたりした。
自分の無力さが恨めしかった。なんで私だけこんな目に遭わなきゃいけないんだろうと思わずにはいられなかった。
その一文だけで涼佑はまたぎりり、と心が痛くなる。けれど、やはりそれ以上見ていられず、目を逸らした。
また場面が変わり、今度は学校の廊下に移る。そこでは移動教室へ移動するらしく、筆記用具と教科書を持った望が教室から出てくるところだった。しかし、後から出てきた女子グループのうちの一人とぶつかり、望は転んでしまう。あっと思った涼佑は咄嗟に手を差し伸べようとして、そんな自分に我に返り、伸ばしかけた手を引っ込めた。そんな彼と同じように誰かが望の前にすっと手を差し伸べる。その人物を見た瞬間、涼佑はひゅっと軽く息を呑んだ。
そこには自分がいたからだ。「大丈夫?」と当たり前のように手を差し伸べ、落ちた教科書を拾ってあげている自分。いつ頃の記憶なのか、涼佑自身にもよく分からない。分からないが、この時既に自分は彼女と出会っていたのかと胸の内に衝撃を受けていた。幻の涼佑は拾った教科書を望に渡して「じゃあ」とすぐにその場を立ち去る。至って普通の対応だ。けれど、望の視線はその胸のネームプレートに注がれていた。
「新條、涼佑くん……」
あんな家庭環境を思えば、この時の望が薄ら頬を染めていた光景を見ても、涼佑は戸惑いより複雑な感情を覚えていた。
涼佑が窓に吸い込まれて暫くした後、巫女は鬼ともう一人、猿の面で目隠しをしている法被を着た柳のような人を連れて再び涼佑がいた和室に戻ってきた。『サトリの窓』へ近付くと、巫女は柳のような人へ「ここだ」と指し示す。柳のようとは体格がその通りの印象で、全体的に細身でなで肩なシルエットからは男なのか女なのか判別がつかない。その人は窓に近付き、「ほほう」と一言呟いて、手をかざした。少しの間そうしていると、その人は巫女へ向き直り、言った。
「こりゃあ、『心移し』に遭っちゅう。ちっくと厄介かもしれんぜよ」
「『心移し』……?」
巫女にもその単語に覚えが無いのか、その人は「う~ん……」と何事か考えつつ、言おうかどうしようかと逡巡して、彼女に座るように手招きする。巫女と鬼が横並びに座ると、その人は「実は巫女には縁が無いと思いよったが」と『心移し』について話し始めた。
『心移し』とは、心を読む妖怪サトリ達の中で時折、起こる現象なのだそうだ。他人の心を読むことに疲れたサトリ達は普段は目隠しをして過ごし、その能力を抑え込んでいるが、能力を使う時、ごくたまに陥る現象らしく、心を読もうとした者の現在だけでなく、その過去、時には未来ですら心の在り様を見られるという。
「何か他のサトリと違いはあるのか?」
「う~ん……そうやねえ。多くは、『感受性』や『共感性』が高い子が多いぜよ。他人の心に当てられやすい子達やね」
「そうなると、どうなるんだ?」
「他人の心に引きずられる。その多くは帰って来んぜよ」
それは言葉を濁してはいるが、『心を亡くす』と言っていた。それを聞いて、巫女は思わず『サトリの窓』を見る。そんな彼女に猿面の男は淡々と告げる。その声は男にしてはやや高い。
「もし、その人の子が帰って来ん時は、諦めた方が良い」
「……帰って来られると思うか?」
巫女が胸に渦巻く不安を押し隠しながらそう訊くと、猿面の男はこてん、と小首を傾げて当たり前のように言った。
「サトリですらほぼ無理やき? ただの人間が戻って来れるとは、到底思えん」
幻の自分が望の告白を断る場面で、涼佑は罪悪感に押し潰されそうになっていた。当時の自分は何も知らなかった。何も知らなかったからこそ、無常に断ることができたのだ。だが、今は違う。頭では彼女の事情など自分には関係無いとは分かっているのに、心がそれを否定する。お前も一度は関わったのだ。現実を見ろ、と。自分に告白を断られた望はその場から立ち去り、そのまま自分のクラスへは戻らず、トイレの個室にこもって泣いていた。彼女は学校でも思い切り泣ける環境ではなく、孤独だったのかと涼佑は哀れに思った。そんな彼の胸には彼自身が気付かぬうちに、黒紫の痣はどんどん広がっていった。
「どうすれば、こっちに引っ張ってこられる?」
「おまんも好きモノやねや。人間の一人や二人、おらんなっても現世には何の影響も与えんというに」
猿面の男はにやにや笑いを浮かべていたが、巫女が真剣な表情を崩さないところを見ると、笑みを引っ込め、「おんし、本気やねや?」と今一度、彼女の意思を確かめた。それに巫女は口を開く。
「私は人の味方をする『幽霊巫女』だぞ。ここであいつを見捨てたら、先祖にも父にも顔向けできん。何の為にサトリであるお前を呼んだと思ってる? 柳」
「何とかしろ」と幽霊・妖怪に対してどこまでも横暴な巫女に猿面の男、基サトリの柳は面白そうに笑みを浮かべた。
許せなかった。私を救ってくれると思った。
なのに、あいつは私を簡単に見捨てたんだ!!
学習机にそんな一文が浮かび上がる。涼佑が見ている前で、着々と望は彼を呪う作業を進めている。学校でも家でも一頻り泣き、絶望を味わった後、徐に立ち上がった彼女はただ一言「呪ってやる」とだけ呟いた。厳密に言えば、涼佑は悪くない。ただ運が悪かっただけだ。しかし、望にとってはそうではなかった。中途半端に手を差し伸べた涼佑が全て悪いのだと、逆恨みでしかないのに彼女はそれを自分の正義だと信じ込んだ。私を救ってくれないのなら、死ね。その命をもって償え、と庭先で捕まえた蛇の目に釘を刺し、暴れるその身をカッターで自身の指を傷付けながらも、縦に引き裂く。その一連の作業を敢えて壁に打ち付けたまましている間、望は無に近い怒りと憎しみをただただ蛇に刻み付けていた。望の顔はいつしか蛇の血で染まり、口元には醜く歪んだ笑みを浮かべている。時折、口から「ひひ、ひひひ」と漏れる笑い声が一層不気味さを醸し出していた。
「なんで……」
ずぐ、とまた胸が痛む。今度は明確に痛みを伴って涼佑を襲った。痛い、痛い、痛い、痛い、痛い……!
だから、呪ってやることにした。
私を見捨てたことを後悔させてやる!!
あの台風の日、七津川に架かる橋の上で、望が蛇の死骸を血塗れの手で三つ編みにし、自身の首に掛ける。
「死ね、死ね、死ね、死ね、死ね……っ!!」
何度も何度も涼佑の死を願い、歓喜に打ち震えているような、凍り付くような笑みさえ浮かべたまま、彼女は橋の上からどうどうと橋を薙ぎ倒す勢いで流れる七津川へ、その身を投げた。
「かはっ……!?」
胸が痛い。黒い血を吐きながら、涼佑はあまりの痛みにその場に倒れ伏してしまう。心臓を抉られているのではないかとすら思える痛みと苦しみの中、胸を押さえてそれに耐え続けている彼はここにいない誰かへと手を伸ばす。痛い、苦しい、助けてと終わりの見えない辛さから解放して欲しくて伸ばされた手に、不意に細い縄のような物が巻き付いた。それはぐいぐいと涼佑の体を引っ張り、どこかへと連れて行こうとする。これ以上何をさせたいのかと、ゆるゆるとその先を見ると、そこには温かくも小さな光が見えた。その光に近づくにつれて、胸の痛みは段々と治まっていく。あの光に触れれば、きっと助かる。助けてくれる。状況も訳も、何もかも分からないが、そんなことを考えている余裕は無く、涼佑は必死に小さな光へ手を伸ばした。
途中でまた痛みで気絶していたのだろう。数人の手が背中に触れたと感じると共に、涼佑はふっと目を覚ました。そこには巫女と鬼の顔があり、二人の顔を見た瞬間、「帰って来られたんだ」と涼佑は心から安心すると涙を滲ませる。そんな彼に同じように涙を浮かべた巫女は「なんだ、元気じゃないか。泣き虫だな、お前」と強がりを言った。
「心は喰われなかったみたいだな。ああ、良かった良かった。お前が窓に吸い込まれた時はどうしようかと思ったぞ」
「ごめん、巫女さん。心配かけて」
涼佑の冷たくなった頬に触れ、ぎゅっと彼の存在を確かめるように抱きついてくる巫女を受け止めながら、涼佑は見慣れない人がいることに気が付いた。
「あの、童子、さん。その人は……?」
まだどこか呆然としている涼佑に一瞬、痛ましいものを見るような視線を投げた鬼だが、それもすぐに逸らして「ああ、この方は……」と紹介しようとしたが、それより早く柳はさっと立ち上がって踵を返した。
「さて、坊も戻って来たし、うちはお暇するき。巫女ちゃん、その子のこと大事にせんといかんよ。心の優しい子やき、うちらみたいなのとはあんまり関わらん方がえいよ」
それだけ言うと、柳はさっさとその場から立ち去って行ってしまった。残された涼佑は訳が分かっていない顔をし、巫女は彼から離れると、「なんだあいつ。もう行っちまったのか」と零す。さっきの柳の発言は聞き逃さなかったらしく、鬼に「童子、そのうち柳のとこに菓子でも持って行くか」と言うと、鬼は「ううむ……」と考え、「あの者達が菓子など食うものだろうか、主人」と困惑していた。
それから『心移し』について巫女と鬼に聞いた涼佑は、ついさっき見た光景を思い出して、ぶるっと身震いをした。涼佑には『心移し』の危険性については伏せ、巫女は何食わぬ顔で「何か分かったのか?」と訊くと、涼佑は「あいつの、樺倉望の過去は分かった」と素直に答えた。実際、彼女の過去は分かったが、涼佑に落ち度があったかというと、甚だ疑問だ。涼佑の見たもの、体験したことを聞いた巫女は何事か考え、「じゃあ……」と切り出した。
「そもそも望が呪いとなった原因って、その父親のせいだっていうことになるよな? じゃあ、そいつの心を覗いてみるってのはどうだ?」
「そいつはまだ生きてるんだろ? だったら、気軽に見れるぞ」と言う巫女に、涼佑は露骨に嫌な顔をした。望の心を見た時でさえ、理解しがたい人物だったのに、またあんな光景を見るのかと思うと、気分が沈む。それを涼佑の表情から察した巫女は、「夕飯の後にするか」とだけ言うのだった。
夕食にしようという雰囲気になると、どこからかいつの間にか仕入れたのか、涼佑の前に鬼は浴衣を出してきた。高校生の涼佑には少々大人っぽい渋い黒一色の浴衣だったが、「ありがとうございます」と彼が素直に喜ぶと、鬼は「ああ」と照れ臭そうにそれだけ言って、夕食の準備に取り掛かろうと部屋を出て行った。鬼が出て行くと早速浴衣に着替えたいと思った涼佑は、傍らにいる巫女へちら、と視線を送る。視線を送られた巫女は「なんだ?」とぴんときていない顔をしていたので、堪らず涼佑はそっと言った。
「あの、巫女さん。オレ、着替えたいんだけど」
「おう、良いぞ」
「いや、『良いぞ』じゃなくて、出てくれない?」
そこまで言って漸く「あ、ああ、そうだな」と気が付いた巫女は、さっと廊下に出て障子を閉める。「サイズ合わなかったら言ってくれよー」と間延びした声が障子の向こうから聞こえてくる。それに返事をして、涼佑は制服に手を掛けた。
どうにかこうにか着られた浴衣は涼佑の体にぴったりだった。制服より楽で動きやすい。着替え終わったと巫女に声をかけ、入ってきた彼女に「おお、似合ってるじゃん」と言われて少し笑う余裕が出てきた。その時、開けられた障子から鬼が顔を覗かせ、夕食を載せた盆を持ってくる。巫女と涼佑の夕食がちゃぶ台に並べられていくのを見ていると、彼は素朴な疑問を口に出した。
「そういえば、童子さんのは?」
「ああ、こいつは式神だから、食事は要らん。嗜好品としては食うけど」
「式神? 巫女さんのってこと?」
「いんや。こいつは元々、私の先祖が昔から使役していた式神でな。今は父の式神として、私の世話を任されている」
「謂わば、守役だ」とキャベツとじゃがいもの味噌汁を啜りながら巫女が箸で鬼を指すと、「行儀が悪いぞ、主人」と鬼に注意された。涼佑も白いご飯と蓮根の挟み揚げを食べつつ、相槌を打つ。そんな二人に「今日のはどうだ?」と鬼が訊くと、二人はそれぞれ「うん。むっちゃ美味い」と「美味しいです」という感想を言う。それを聞くと、鬼は満足そうに笑んだ。
食事も半分程無くなった頃、「あ」と何か思い立った巫女は再び涼佑を箸で指して鬼に怒られるも、構わず言った。
「そうだ。お前も私の守役になったら、良いんじゃないか? 涼佑」
「んごほっ……!」
突然の提案に思わず、口をつけていた味噌汁を噴き出してしまう涼佑。それを見て「うわ、汚いな」と言いつつ、畳に零れた味噌汁をティッシュで拭く巫女。巫女の行動に呆れたような調子で鬼が「ああ、主人っ。それじゃあ、畳に染み込む……!」と台布巾で拭き取ろうとする鬼。どちらにしろ、零れた味噌汁は染み込んでしまったので、二人とも諦めた。涼佑も拭こうと取り出したティッシュを持ったまま、気まずそうに固まっていたが、巫女の提案に改めて「守役って……」と困惑する。そんな彼に、巫女は努めて明るい調子で言った。
「だって、これからその呪いが解けるまでお前は現世に帰れないんだぞ? だったら、これから長い付き合いになるってことじゃんか。だったら、ここの『客』じゃなくて、守役としてなら、いつまでもここにいられるし、対策も立てやすいだろ。なぁ、童子」
「お前も弟子欲しいだろ?」と呑気な巫女に、童子は一瞬「は……?」と戸惑っていたが、すぐに涼佑を見て、「ううむ……」と考え込んでから「しかし、主人」と忠告する。
「まだ呪いと対峙はしておりませんので、もしかしたらということもあるかと」
「ああ。まぁ、その辺はな。でも、帰れない可能性はあるだろ? もし、涼佑が本当に現世に帰れなくなっちまった時には、お前の弟子として迎えようと思っている」
「ほっぽり出すのは幽霊巫女としてできん」と妙なところでプライドを見せる主人に、鬼は仕方ないとでも言いたげに「承知した」と承った。が、しかし、涼佑自身はまだ納得していない。
「いや、巫女さん。童子さんの言う通り、まだ本格的に帰れない訳じゃないし、万に一つってこともあるじゃんか! もしかしたら、案外簡単に解けちゃったりとか――!」
「あのなぁ、涼佑。さっきも言ったが、お前に掛けられた呪いはそう単純なものじゃない。手順を踏まなかった呪いだからこそ、厄介なんだ」
巫女が言うには、正式な手順を踏んで掛けられた呪いは『呪詛返し』によって解呪が可能だ。しかし、涼佑の場合、そうではない。むしろ、純粋な恨みや憎しみが元である今回の呪いは解呪の方法すら分からないのだ。彼女の力で呪いを妖怪として具現化させて戦うことはできても、勝てるかどうかは実際に戦ってみるまで分からない。もし、万が一、彼女が倒せなかった場合は――
「責任が取れるのか? 小童」
童子の真剣なその表情に、涼佑は何も言えなくなってしまった。
「そ、れは……」
涼佑には何とも答えようが無かった。それはそうだ。彼自身にも何が起こるか分からないことだらけなのに、「責任はオレが取ります!」などと無責任なことを言える訳が無かった。言い淀んでしまった涼佑を見かねて、巫女が「いいよ、童子。どちらにせよ、一度は対峙してみないことには何も分からん」と宥める。その言葉に一瞬、何か訊きたそうな顔をした童子だったが、特にそれを言葉にすることは無く、涼佑に「よく考えておけ」と忠告だけしたのだった。
夕食を食べ終わってお茶を飲み、少し胃も落ち着いたところで、巫女は涼佑に「で、どうする?」と出し抜けに訊いた。
「どう、って……?」
「望の父親の件だ。見るか? 見ないでおくか?」
巫女の言葉に涼佑はそこで慎重に考え考え、それを口に出してみる。まだ確固たる自分の意見として自信を持てないでいるせいか、巫女に話しているというよりは自分の考えをまとめる為に話しているようだ。
「樺倉望が……こうなった、のは、オレには関係無い……と、思う」
「うん、そうだな。そこは私も同意見だよ」
「――でも、こいつにだって、こいつなりの理由があって、こうなっちゃった訳で……」
「そうだな」
「オレ……上手く、言えないけど。あいつがオレを恨むのは、間違ってると思うし、助かりたいっていうのは嘘じゃない。でも、あいつだって被害者なんだ。こんな姿になりたかった訳じゃないと思うんだ」
「うん」
「だから……」
そこで涼佑は、はっと気が付いて、次の言葉を口に出すことを少し躊躇した。しかし、巫女も特に何か言う訳でもなく、涼佑のその言葉を待っている。涼佑は言おうとしている言葉とここに来たばかりの時を比較して、そのおかしさにふと笑った。
「助けたいんだ。あいつのことも」
予想通り、否それ以上にお人好しな回答に、巫女は思わずからからと笑った。それまで成り行きを見守っていた鬼はそこで初めて巫女ではなく、涼佑に呆れたようだった。
「お人好しにも程があるだろ。自分を殺そうとした奴を助けたいなんてな……! はははっ! 気に入ったよ」
自分の膝をぱんっと叩いて、立ち上がった巫女は廊下に出ながら涼佑を振り返る。空には青白い月が出ており、柔らかな月光を降らせていた。月光に照らされて、巫女の輪郭が闇の中に浮かび上がる。
「ならば、私も協力しよう。『願いが叶う神社』の『幽霊巫女』として、必ずお前を救ってやる」
先程までの親しみを感じる雰囲気とは一転して、厳かでもあり、人外じみた、どこか狡猾さすら感じる笑みを浮かべて巫女はそう宣言した。そんな主人に鬼は珍しく何も言わず、同じように立ち上がる。
「そんじゃあ、今日はもう遅いから、呪いの件はまた明日な。あ、風呂は童子に訊いてくれ。私ももう寝る」
「あ、うん。分かった」
もう眠いのか、巫女は若干舟を漕ぎつつ、廊下の奥へと去って行った。残された涼佑に鬼も風呂の場所を教えると、主人の後を追うように同じ方向へ去って行った。開けっ放しの障子を閉めてから、涼佑は感慨深そうにぽつりと独り言を呟いた。
「幽霊って、風呂入るんだ……」
温かい湯に浸かって、体が冷えないうちに布団に入ると、途端にうとうとと眠気がやって来る。今日は何度も気絶したというのに、眠気が来るものなのかと半ば感心に近いことを涼佑が思っていると、ふと、細かなことに気が付いた。
「そういえば、財布もスマホも無くなってて……」
「明日、巫女さんに訊いてみなくちゃな……」とうつらうつら思いながら、涼佑は瞼を閉じた。
翌日、「おっはよう!」という掛け声と共に障子を開けて起こされた涼佑は、「んにゃ……?」と低血圧特有の間抜けな声を上げて、どうにかこうにか起きた。片手に持った白黒の可愛らしい小鳥のぬいぐるみを頬に押し付けられ、甲高い声で「七時! 七時!」と追加の目覚まし声を聴かされる。そんな起こし方をされたことが無かった涼佑は、「んぁああ……」とささやかな抵抗の声を上げた。
まだ少し寝ぼけている頭でただ時間だけを知らされた涼佑は一瞬、学校に遅れると思ったが、すぐに自分の状況を思い出して口に出すことは免れた。それより今は――
「やめて、巫女さん」
目の前の少女が持っているぬいぐるみを止めることだ。涼佑がぬいぐるみを持っている彼女の手を掴んで止めると、巫女はつまらなさそうに唇を尖らせる。
「なんだよ、可愛い鳥で起こしてやったんじゃないか。ちょっとは感謝しろよー」
「ん~……オレ、朝はその番組見てない……」
「マジか。鳥とアナウンサーの漫才が好きなの、やっぱり私だけか」
「オレ、兎のアニメが好きだから……」
「あれ好きなんだけどなぁ」と至極残念そうに呟いた後「朝ごはんだぞー」という呑気な巫女の声に「う~ん……」と相槌のような声で答え、涼佑は浴衣のまま、顔でも洗おうと取り敢えず、立ち上がった。背後から「じゃあ、後ろの家の方で待ってるからな~」という元気な声に生返事をしてすぐ、覚醒してきた涼佑の頭にある疑問が浮かんだ。
「後ろの家ってなんだ?」
昨日、風呂に入る為に鬼に示された方角へ歩いていると、昨日は考え事をしていて気が付かなかったが、社務所と融合するようにして、普通に住居スペースがあったことに気が付いた。そういえば、この段差あったな、と社務所と住宅の区切りに丁度ある段差を下りる。清々しい朝の空気の中、とぼとぼと歩いていると、ある姿を見つけた涼佑は思わず「あ」と声を上げた。
そこには朝の掃除をしている鬼の姿があった。巫女一人では手が届かない高所を雑巾で拭いている。涼佑に気が付くと、彼は一旦手を止めて声を掛けてきた。
「おお、はよう。涼佑殿。昨夜はよく眠れたか?」
「あ、はい。おはようございます。お陰様で」
「その様子では主人に起こされたな?」
鬼の鋭い指摘に涼佑は「へへ」と誤魔化すように笑う。「全く、主人には困ったものだ。後で己の方から言っておこう」と口では言いつつ、鬼が浮かべている表情は娘を見守る父のような優しい表情だった。しかし、それもすぐに引っ込み、涼佑へ「朝餉ができているぞ」と教えてくれた。それに「はい、ありがとうございます」と会釈する。
「昨日もご飯、ありがとうございました。凄く美味しかったです」
「なに。己は式神故、あのような些末なこと、負担にもならん」
「貴殿も主人もよく食うので、作りがいがある」と大きな手でわしわし頭を撫でられ、突然のことに涼佑は「んわっ」と変な声を上げた。身長差から何だか子供扱いされているようで複雑な気分だったが、怒る程のことでもないので、涼佑は甘んじて受けることにした。
一頻り鬼が満足するまで撫でられた後、涼佑は更にぼさぼさになった頭を直しに洗面所へ向かうのだった。
一通り身支度を済ませた涼佑が廊下に出て少し歩くと、彼の姿を見付けた巫女が近くの部屋から顔を覗かせて手招きする。
「涼佑、こっちこっち」
素直に従い、そちらへ向かうと、巫女に手を引かれて涼佑は隣に座らせられた。そこは涼佑がいた和室より少し広めの和室で、中央には大きく艶々した座卓に座布団、その前には大きめのテレビが鎮座している。今は巫女の好きな朝のニュース番組をやっていた。
座卓には既に朝食が用意されており、巫女は涼佑が来るのを待っていたようで、まだ手を付けていない。
「手合わせたか?」
「うん」
「いただきます」の声を合わせ、二人はそれぞれ箸を持った。
朝はよく焼けた鮭の切り身にふんわりと色の良い卵焼きとたこさんウィンナー、白いご飯に油揚げともやしの味噌汁。他にもご飯のお供が数種類。いつもパン食だった涼佑にとっては、久しぶりにしっかりした朝食だった。
今日の朝食も美味しく食べ終わった二人は、食器を片付けつつ、今後の話に移っていく。
「巫女さん、望のお父さんのことなんだけど」
「お、見る覚悟決まったか?」
「うん……でも、昨日みたいなことが起こらないかどうか、心配で」
「そうだよな。流石にそっちはキツそうだしな」
「何か予防する術とか無いかな?」と心配そうな顔をする涼佑と思案する巫女。そうして数秒後、納得したように頷いた彼女は涼佑に言った。
「サトリの窓のことはサトリに訊こう。それが一番手っ取り早い」
「それで、うちを呼んだち?」
結論が出てすぐに巫女は鬼を呼びつけて、猿面のサトリ・柳を呼び寄せた。彼としては、人間である涼佑にあまり関わりたくないからこそ、昨日の去り際に忠告をしたというのに、まさか次の日にも呼ばれるとは思っていなかったようで、訪問時に「まさか、また呼ばれるとは思うちょらざったよ」と苦笑していた。そんな柳を「まぁまぁ」と宥めて、巫女は涼佑の布団を片付けた客間へ通した。
話は既に通っているらしく、柳は座布団に座ってすぐ「それで、『心移し』を防ぐ方法やったっけ」と早く帰りたいのか、本題に入る。巫女が肯定すると、柳は考えるまでも無く、言いのけた。
「『心移し』を防ぐ方法は『とにかく見ん』。これに尽きるね」
「……え、それだけか!?」
「昨日もゆうたけど、ありゃあ見たいと思って見るもがやない。他人の心を見たがしまい、勝手に見えてくるものだ。防ぐ方法らぁて、こっちが知りたいわ」
辛辣に「こがなつまらんことで呼び出しやがって」と悪態を吐く柳に、巫女も涼佑も開いた口が塞がらない。鬼はこれを予想していたらしく、「やはりか……」と独りごちる。「けんど」と柳は涼佑を見据えて、勝気な笑みを口元に浮かべた。
「おんし、よおあこからもんて来れたな?」
「大抵は心を取られるってがやき」とあっさり言われて、涼佑も巫女も最初は理解できなかったが、数秒後には両者共はっとして、涼佑は巫女を見、巫女は勢い良く彼から顔を背けた。
「そんな危険性あるなんて、聞いてないけど!?」
「そ、そうだったかぁ?」
巫女の不誠実な態度にまた鬼から「主人」と圧力が放たれる。それに「分かったよっ」と観念した巫女は涼佑に向き直り、「済まなかった。余計な心労を掛けたくなかったからな」と謝る。彼女の気遣いを知って、涼佑も却ってバツが悪くなり、「別にいいよ」と許した。
「じゃあ、うちはこれで失礼させて頂きゆう」
「待て。まだ話は終わってない」
二人が本題から意識が逸れたところで、さっさと帰ろうとする柳を巫女は肩を掴んで止めた。それに一瞬だけ苦い顔をした柳は、愛想笑いを浮かべながら振り返る。しかし、その顔には「早う帰らして欲しい」と書いてあった。そんな彼の主張を分かっていながら、全く意に介さず、巫女は「対処法が分からんのなら、一緒に対策を考えてくれ」と申し出た。しかし、柳は少し思案した後、「あのねぇ」と続けた。
「うちじゃち、助けちゃりたいのはやまやまなんやけんど、分からんものは分からんがじゃ」
その反応で涼佑は、巫女と共にかなり無理なことを言っているのだと漸く理解したが、それでも何とか協力して貰えないだろうかと涼佑は頭を下げた。しかし、柳は頑として首を縦に振らない。
「頭なんか下げんとってよ。無理なもんは無理なが」
「私からも何とか頼むよ。この通りだ」
涼佑に倣って巫女も頭を下げ、柳はぎょっとして「おまさんまで頭下げんとってよ。うちが悪いみたいやないか」と狼狽えた。声を掛けても頭を上げる様子が無い二人に、やがて柳の方が折れた。
「分かった! 分かったき頭を上げてくれ!」
その言葉にぱっと頭を上げる二人。嬉しそうに巫女を見る涼佑と勝ったとでも言いたげに笑む巫女を見て、「やられた」と米神の辺りを押さえる柳。正直断りたいが、一度協力すると言ってしまった手前、すぐに撤回することもできず、柳は観念することにした。
「『心移し』に遭わん方法ねぇ……」
『心移し』とは能力でも技でも無く、偶発的に起こる現象だ。心を読むサトリの中でも『感受性』や『共感性』が一際高い個体が他者の心を覗く時に高確率で起こる現象で、実際に『心移し』に遭ったサトリの多くは他者の心に巻き込まれ、逆に心を亡くしてしまう。サトリにとってはこれ以上無い程、恐ろしいものだ。だから、柳は『心移し』なんかには関わりたくなかったのだ。それに自分の都合でしか物を考えない、人間という種族に嫌気が差していたということもあって、柳は涼佑には近寄りたくないと思っていたのだった。しかし、これが巫女の頼みとあっては別だ。
「しゃあないよなあ」
人間なんて嫌いだが、そう自分に言い聞かせて柳は誰にも気取られないよう、密かに渋い顔をした。
さて、『心移し』を予防するにはどうしたらいいか。なんて、柳にとっても初めて考えることだ。普段の彼は、『心移し』に遭った若者のケアをするのが主な仕事だが、今回は予防をするのだ。今までに無い策を考えなければならない。「ううむ……」と彼は考え込んだ。今までの対処法と言えば、『とにかく他者の心を見ない』。これに尽きるのだが、今回のケースは少々特殊だ。そもそも『心移し』が起こった者がサトリではなく、人間なのだ。柳にはますます対処法など見当も付かない。
「一つ、訊いてもえい?」
「一つと言わずにいくらでも良いぞ」
「そちらの人間さんは今まで『心移し』に遭うたことは?」
柳の言葉にふるふると首を振る涼佑。それを受けて、彼は少々興味を唆られたようで、少しだけ身を乗り出した。
「ほう? 今まで遭うたことが無い?」
「は、はい。正直、あんな体験、したこと無くて……」
「まぁ、人間やきねえ」と何か含みがあるような言い回しをしたが、そこには特に言及されなかった。しかし、良い機会かもしれないと柳は思った。ここで考えた予防策をこの人間で試して成功すれば、儲け物だと。多少の調整は必要だろうが、人間に通じれば妖怪にも応用は効く。
「ということは正真正銘、うちもおんしも初めてのことやねや」
涼佑の返答を待たずに柳は「じゃあ、やれることは全部やってみるかねえ」と覚悟を決めた。
『サトリの窓』を前にして、柳は「まず……」と懐から仮面を取り出した。彼と同じような目隠し用の可愛らしい猿面だが、彼と揃いの黄緑色ではなく、赤茶の物だ。木で作られた物で、猿の地肌部分は本来の木の質感と木目や色を残し、毛が生えている部分はまるで栗饅頭の皮のようなつるつるとして且つ、ぽっくりとしている塗装がされていた。やや幼い顔立ちに彫られたその面を柳は涼佑に差し出す。
「なんか……まだ子供みたいな面ですね」
「『みたい』じゃのうてそうなが。おんし、小猿みたいなもんだしなあ」
にやにやと嫌味な笑いを含んだその言葉で、やっと喧嘩を売られているのだと気が付いた涼佑だったが、相手にしてはいけないと思い、「それで、これを被るってことですか?」と話を進める。そんな彼の態度に気を悪くした様子は無く、柳は続ける。
「そうそう。まずはうちらと同じように目から入るがか、見てみんことには分からんきな」
それを付けて『サトリの窓』を見ろ、と言う柳の言葉通りに涼佑は「じゃあ……」と自分の顔に付けて巫女へ声を掛けた。
「巫女さん、付けてみたから窓まで連れてってくれ」
「あ、涼佑。その前にちょっと良いか?」
そう言って巫女は慎重に立ち上がった涼佑に「手首出してくれ」と言って出させると、そこに細い注連縄を巻き始めた。何をされているのか分からなくて、涼佑は「巫女さん?」と少し不安げに訊いた。巫女はしっかり注連縄を巻き付けた後、元気づけるように涼佑の背中を軽く叩く。
「もし、窓に吸い込まれそうになっても、これを引っ張って出られるようにしておいたから、大丈夫だ」
「なるほど。命綱って訳か」
注連縄の強度を確かめてから巫女は涼佑の手を引いて、『サトリの窓』の近くへ連れて行く。相談の結果、いきなり望の父親の心を見るのは止めにして、まずは安全な人物の心を見ることになった。
「現世で安心できる奴っているか? 涼佑」
「う~ん……安心、だったら、直樹かなぁ」
直樹とは、涼佑に『幽霊巫女の噂』を教えた張本人で、彼のお陰で涼佑は助かったとも言える。心身共に健康で、普段から声が大きく涼佑とは親友同士だった。そんな直樹の心を覗くことに罪悪感が無い訳では無かったが、望の父親の心に比べたら、多少は仕方ないとも思える。巫女は特に直樹個人のことは訊かずに、「じゃあ、それで良いか」とあっさり採用した。
『それ』と称されたことには特に言及せずに、涼佑は見えないながらも目の前に窓があると仮定して、直樹のことを思い浮かべた。すると、すぐにまた窓の方へ体が吸い寄せられるような感覚がし、ぬるりと片手が何かに入ったような感触がした。
「涼佑!」
巫女が慌てて注連縄を引っ張る。しかし、それだけでは涼佑の体は窓から離れられず、どんどん彼の手は入っていってしまう。仮面で視界が塞がれている中、涼佑も抵抗しようと空いた方の手を窓枠に掛けようと探ったが、上手く手を掛けられない。焦る二人の背後からす、っと割り込んだ柳の手によって涼佑は襟首を掴まれ、背後に投げられた。投げる必要性は無いと思うが、「いてて……」とぶつけた腰を摩りつつ、涼佑は仮面を外して巫女の方を見た。
「あ、ありがとうございます……」
「別にえいが。……巫女ちゃん。おまさん、ようこがな妙なの拾うたねや。一般的な『心移し』の対処法が効かんなんて、変な奴じゃ」
「気持ち悪い奴じゃ」とあからさまに不快感を表す柳に、巫女は「おい、私の『客』だぞ。口を慎めよ」と注意する。一頻り「気持ち悪い」と騒いだ後、柳は「しかし……」と話題を変える。
「この方法が通じんとなると、対処法なんて無いんやないか」
「いや、諦めんなよ」
もうお手上げだと言いたげに巫女をじと、と見つめる柳に、何事か思案していた涼佑が言い出した。
「あの、今まで『心移し』の対処法って、『見ないこと』でしたよね?」
「そうじゃ。じゃが、見ても見いでも変わらんなら、仕方ない」
「返せ」と言われて涼佑は素直に仮面を返す。返しながら、涼佑は初めて他人の心を覗いた時のことを思い出し、言った。
「目隠ししてもしなくても吸い込まれちゃうなら、オレ一度はこっちに戻って来られたし、次も大丈夫なんじゃ……」
途端、涼佑の胸倉を柳が掴み、ぐいと容赦なく自分の方へ引き寄せた。浴衣の筈なのに首が締まり、「ぐえ……っ」と涼佑の口から苦しげな呻きが漏れる。そんなことには一切構わず、柳は凄んだ。
「おんしゃあ、バカか? それとも阿呆か? どっちでもえいし、どうでもえいけんど、うちや巫女ちゃんの労力も考えろ。殺すで」
「ご、ごめんなさい……」
柳に凄まれて、一気にしょぼんと肩を落とす涼佑。しかし、当の巫女は「まぁまぁ、落ち着け。柳」と宥めてからすぐに言い放った。
「どちらにせよ、涼佑とは『客』としての契約はしてるんだ。こりゃあ、本格的に飛び込んでみるしか無さそうだな」
巫女のその言葉に、柳は堪らないとでも言いたげに涼佑を放り出して立ち上がる。
「なんで!? なんで巫女ちゃんがそこまでせんといけんが!? たかが人間らあの為に……!!」
「お前にとっては『そう』でも、私にとっては違うからだ」
ぴしゃり、と毅然とした態度で放たれたその言葉に、柳は黙り込んでしまう。有無を言わせない真っ直ぐな目に、また柳の方が折れることになりそうだ。柳が黙ったのを見て、それを「了承」と捉えた巫女は涼佑を助け起こして「で、だ」と口を開く。巫女の背後からこちらを睨んでいる――仮面で見えないが――柳から目の前の巫女へ意識を逸らしつつ、涼佑は聴いていた。
「涼佑。見なくても『心移し』が起こってしまうということは、今のところ対策のしようがない。だからもうぶっつけ本番で行くぞ」
「ぶ、ぶっつけ本番!? で、でも……」
「大丈夫だ。今までもこれがあれば、戻って来られただろ」
そう言って巫女が示すのは、手首に巻かれたままの注連縄。細いそれを何重にも巻き付けられている手首を見て、せめてと涼佑は言った。
「巫女さん。せめて手首じゃなくて、腰に巻いていいか?」
「良いけど、こっちから引っ張ること考えると多分、痛いぞ?」
巫女の尤もな意見に少し悩み、「じゃあ」と涼佑は代替案を出す。
「足首でお願いします」
「分かった」
手首から足首に巻き直したが、後で涼佑「やっぱ手首にしとけば良かった」と心の底から後悔したのは、また別の話だ。
もう一度、注連縄の強度を確認してから涼佑は『サトリの窓』に近寄る。今度は本番、樺倉望の父親の心を見るのだ。そろそろと意味も無く、慎重に窓へ近付き、望の記憶の中にあったあの男の顔を思い浮かべる。またぐにゅ、と手が窓に吸い込まれる感覚がして、涼佑は今度は一気に自分から頭を入れた。
窓を潜り抜けた先は、ひどく空気が澱んでいた。物理的に視界はスモッグに似た、黒い靄のようなもので所々覆われており、周りの景色が非常に見えにくい。これで匂いまであったら、大変だろうなと涼佑は口の端を引きつらせた。ここからどうやって望が呪いとなった具体的な原因を探ろうかと考えていると、不意に胸の辺りが気持ち悪い、ような気がする。
「うっ……」
段々と胸の中がムカムカしてきて、涼佑は思わず胸を押さえた。迫り上がってくる吐き気を押さえようと口を塞ぐが、その指の間からごぽ、と何かが無理矢理吐き出された。
「おぅえ……っ」
あまり見たくはないとは思いつつも、手の中に吐いたものを涼佑はちら、と見る。それは黒い液体に塗れた小さな黒蛇、のように見えた。自分が吐いた物の正体が信じられず、涼佑は呆然と「なんだ、これ」と呟いた。不思議と胸のムカつきも吐き気も無くなっており、嫌でも手の中に意識が向く。吐いて少し落ち着いた彼はふと、小蛇がどことなくぐったりしているように見えた。何だか元気が無い。自分で吐いたとはいえ、仮にも生き物が手の中にいると思うと、涼佑はちょっと心配になってきた。恐る恐る指先でちょいちょいと触ってみる。小蛇ひんやりとしていて、触るとぐに、とやや硬い感触がした。
「大丈夫か? 樺倉」
はた、と思った。何故今、自分はこの小蛇を「樺倉」と言ったのだろう。考えても答えは出ず、それより先に小蛇に動きがあった。ゆっくりぱちぱち、と瞬きを数回して小蛇は目を覚ましたようだった。ゆっくりと小さな頭を擡げ、涼佑をじっと見つめる。その赤い双眸はしっかりと涼佑を認識すると、まるで火に触れたようにびょんっと飛び上がって地面に落ちた。
「おわっ!? いきなり飛ぶなよ、危ないだろ」
地面に落ちた小蛇は相当焦っているらしく、逃げようとして却ってもたもたと身を絡れさせている。そのままでは誤って踏んでしまうそうだと思った涼佑は、細心の注意を払って捕まえた。両手で包むようにして捕まった小蛇は手の中でもわたわたと転がっている。そのぬめぬめとした感触に「おおー……っ!」と鳥肌になる涼佑。それでも両手をそのままにそっと隙間を作って覗いてみると、それまでずっと動き回っていた小蛇はぴたりと動きを止め、こちらの動向を窺うようにじっと涼佑を見つめ返していた。怯えているのかと思った彼は、努めて優しく語りかける。
「大丈夫だよ、樺倉。何もしないよ。ただ、ここから先は危ないから大人しくしててくれな」
果たして、言葉は通じるのだろうかと思ったが、それは杞憂だったらしく、小蛇は涼佑の手から肩へ登ってきた。心なしか、ぶるぶると震えているようだ。涼佑にというより、この空間に怯えているのかもしれないと思った涼佑は、指先で小蛇に優しく触れて「大丈夫だからな」と元気付ける。そうしていると、少しは安心したのか、小蛇は涼佑の指に頭を寄せて目を細めている。すっかり大人しくなった小蛇をそのままに、涼佑はこの澱んだ心象風景の中へ足を踏み入れた。
窓の中にずぶずぶと沈んでいく縄をじっと見つめ、引っ張るタイミングを図っている巫女に、柳は「なぁ、巫女ちゃん」と声を掛ける。それに視線は外さず「なんだ?」と返事をする彼女に、柳はある約束を持ちかけた。
「うちはな、はっきり言って、人間なぞどうでもえいと思っちょる」
「それはもう知ってる」
「やき、おまさんに言っておこう思っちょったやき、言うけんど。もし、巫女ちゃんがあいたぁの道連れになるようじゃったら、うちは迷いなくその縄、切ろうと思っちょる」
「本気じゃ」といつの間にか手に鋏を持っている柳に巫女は呆れたように溜息を吐いて、「本当に、お前の人間嫌いにはいっそ尊敬の念すら覚えるよ」と言うも、特に反応を返すことの無い彼に、「……心配してくれて、ありがとな」と返した。
「おまさんはぎっしりそうじゃ。他人にばっかりてごうて、自分を簡単に犠牲にしちょる。あいつらぁがおまさんに何を返した? ぎっしり一方的に願ってばっかりじゃか! その代償というもんを、よお考えもしやあせん!」
『心移し』の恐ろしさを知っているせいか、いつもとは違う一面を見せる柳に巫女は「まぁ、落ち着け」と言って座らせた。巫女も柳の気持ちが分からない訳ではない。それでも、自分には使命があると、彼女はもう何度も言っている台詞を口にするのだった。
「それでも、私が『幽霊巫女』である限り、人間を救わないなんて選択肢は無いんだよ。柳」
「お前の気持ちは嬉しいけどな」とやはりいつも通りの答えを返す巫女を、柳は納得がいかないと言いたげに見つめていた。
澱んだ空間の中を涼佑と彼の肩に乗っている小蛇は進む。望の心を覗いた時と比べると、相手は大人なせいか、なかなかそれらしい光景には辿り着かない。水の中ではないのに、この黒い靄のせいか、足が取られるような感覚が消えなかった。
「それにしても、どこに行けばいいんだ? ずっとこんな景色が続くのは御免だぞ……」
独り言のつもりだったが、涼佑の一言に意外にも小蛇が反応した。ぴょん、と彼の肩から飛び降りた小蛇は真っ黒な地面ーー地面と言っていいのかは不明だがーーを這い回っていたかと思うと、ある一点で動きを止めた。
「そこに何かあるのか?」
涼佑も小蛇の傍に駆け寄ると、小蛇はまた彼の手を伝い、肩まで登ってくる。慣れない感触にぶるりと僅かに震えつつも、それに耐えた涼佑は小蛇が指し示していた場所を手探ってみる。すると、そこには一枚の扉が靄に隠されていた。点検口のように鉄で出来ている扉には丸い取手があり、それに指を掛けて上に引っ張ってみる。見た目から重そうな印象は受けていたが、予想通り、否、それ以上に随分と重い。
「う……くぅっ……!」
思い切り力を込めて、涼佑はその鉄扉を開けた。気を抜くと、落として閉まってしまいそうな扉を、何とか彼自身が通れる程まで開けてから涼佑は扉の向こうへ視線を落とした。
赤い。毒々しい煮詰めたような赤い世界がそこには広がっていた。まるで、地獄のようだ、と月並みに思ってしまう。宙に漂っている靄も赤い。しかし、この下に降りなければ、解呪の手掛かりすら掴めない。降りようかどうしようか逡巡して、腰に巻いている注連縄が切れないか心配だったが、元より涼佑に選ぶ権利なんて無いも同然なのだ。戻れるかどうか不安だが、そっと慎重に足から扉の中に入れ、思い切って飛び込んだ。
幸い、扉が閉まって注連縄が切られるようなことは無く、着地できたが、降り立った瞬間、空間全体に響いてきた怒号に涼佑は思わず耳を塞ぎ、小蛇はびくっと身を縮こまらせて涼佑の懐の中に隠れた。
「なんでこいつはこんなこともできないんだよっ!!!! これじゃ、いくらオレが金稼いできても、意味無ぇじゃねぇかよぉっ!!」
いきなりのことに涼佑はそのまま辺りの様子を見ていたが、真っ赤な空間が続いているだけで、特に危険なものがある訳ではない。しかし、そんな不気味な景色の中、男の声だけがしきりに誰かを怒鳴っていた。
「望の奴もおんなじだよっ!! 勝手に死んで親に迷惑掛けやがって!! あいつにどれだけ金を注ぎ込んだと思ってるっ!! それがくだらない失恋ごときで全部パァだ!!」
「折角、厳しく躾けてきてやったのにっ!! あんなに可愛がってやっていたのにっ!!」と喚き散らす声を聴いて、涼佑は自分の耳を疑った。
「躾けた? 可愛がった? ――何を言ってるんだ、こいつは。樺倉に……望にあんなことしておいて……っ!」
「バカで使えないお前に似たから望もこうなったんだよ! 全部、全部、全部お前のせいだっ!! お前が家を壊してるんだよ!! 出てけ!! この家から出てけよ、クズがっ!!」
パリィンッと遠くの方で何か陶器のような物が割れる音がする。その音にも小蛇は大きく反応し、涼佑の懐の中でぶるぶると震えていた。しかし、涼佑は怒りを覚える傍ら、頭の隅の方では冷静に、この空間を観察していた。望の心を覗いた時とは違って、記憶の中の景色というものは一切現れてこない。ただ、不快な他責思考の言い分が空間全体に反響しているだけだ。聞いているだけでも頭にくるのに、望と彼女の母はこれに暴力が加わってくるのだ。女性の力では抵抗するにも難しいだろう。家を不幸にしているのはお前だ、と涼佑は思った。
彼の父親はどんなに仕事で疲れていても、仕事と家庭は別と考えている人で、仕事のストレスを家に持ち込んだことは殆ど無かった。元々穏やかな人柄だったこともあるが、それでも、涼佑は密かに尊敬していたのだ。そんな父親のことを知っているから、尚更、この子供じみた主張をする男に怒っていた。父親を名乗る資格すら無いと思った。
おそらく、望と彼女の母は毎日のようにこんなことを言われ、暴力を振るわれてきたのだろう。だからこそ、望はこいつから逃れたくて、涼佑に縋り、呪いとなった。ならば――。
「こいつへ復讐すれば、少しは望の心も晴れるんじゃないか……?」
その結論に至ってしまうのは、自然だろう。元はと言えば、この父親が自分の役割を全うしていれば、自分に呪いが降りかかることなんて無かったのだ。ぎり、と憎しみと怒りで奥歯を噛み締め、それらを抑える為に涼佑は拳を握る。
しかし、とそこで涼佑は思い留まる。それは倫理的にどうなのだろう、と。いくらこの父親が憎いとは思っても、涼佑自身には復讐に至るまでの力は無い。結果的には巫女に押し付ける形になってしまう。もし、ここでこの父親の心に巣食う幽霊や妖怪を見つけることができれば、また話は違ってくるのだろうが。そんなことを考えつつ歩いていると、涼佑の肩からまた小蛇が飛び降りようとした。咄嗟に両手で受け止めた涼佑は、変な掴み方をしてしまったので、ちょっと心配そうに両手を開いてみた。
小蛇は彼の手の中でちょろちょろと尻尾を振って逃れようとしていたが、彼が手を開くと、途端に大人しくなった。じっとこちらを見つめる小蛇の目は、どこかギラギラした光を宿しており、何か言いたげだが、言葉を話す訳でもない小蛇の言葉を解することは涼佑にはできなかった。その代わりに急激に涼佑の意識は薄れ始め、ついにはその場に倒れてしまった。
注連縄が何度か引っ張られ、合図が来たと思った巫女は縄を引っ張る。厭に重いとは思いつつもやがて、窓を通じてずるり、と現れた涼佑の体を縄から手を離した彼女はその脇に腕を回し、引き抜いた。と、彼の服の端に何か付いている。よく見ると、それは黒い小蛇だった。その正体を一瞬で看破した巫女は咄嗟に腰の刀に手を掛けようか迷ったが、すぐに大した力は持っていないと分かり、手が掛かることは無かった。代わりに小蛇を手に乗せてまじまじと観察する。
「――ふむ……。呪いから魂だけが抽出されたのか」
「なんやそれ」
不信そのものという目つきで小蛇を見る柳に、巫女は簡単に説明する。
「まぁ、あれだ。こいつは樺倉望の魂と善意の塊みたいなもんだな」
「ほう。……で、こっちの坊の方は? また気絶しちゅうが?」
「さぁ。何か手掛かりは掴めたのか、起こしてみないことには何も分からん。おーい、涼佑~。起きろー」
つんつんと涼佑の頬を指でつつき始めた巫女の袖を、小蛇が咥えて引っ張る。それに彼女が応じ、「なんだ?」と自分の方へ意識が向くと、小蛇はその小さな両目で『あること』を訴えた。
「――ほう? そうすれば、お前は協力してくれるのか?」
こくり、と小さな黒い頭が頷く。暫し何事か考えていた巫女だが、やがて「但し」と人差し指を立ててたった一つの条件を口にした。
「決して命を奪うな。お前の好きにして良いとは言ったが、殺しは駄目だ。それだけは守ってくれ」
「殺してしまったら、お前の魂が穢れてしまうからな」という巫女の忠告に、小蛇は「分かった」と言うようにこくんこくんと頷いて、和室を出て行こうと廊下へ這い、消えていった。
小蛇が消えると、漸く涼佑が目を覚ました。「お、起きたか」と巫女に声を掛けられて、まだあまり覚醒していない頭を振った。頭を振ると少しは覚醒が早まり、やがて小蛇のことを思い出した。
「あっ、そうだ! 巫女さん、その……小っちゃい蛇、見なかった!?」
「ああ、見たぞ」
「そいつ、樺倉望なんだ。何か、オレにもよく分からないけど、あの窓に入ったら何か急に吐き気がきて……」
涼佑から小蛇が現れた経緯を聞くと、巫女は「やはり、そうか」と自分の予想が当たっていたことに納得したように頷く。それからも巫女は望の父親の心に何か手掛かりが無かったかと訊いてきたが、涼佑は「全然」と素直に答えた。彼女の父親の心には、霊や妖怪のようなものは何一ついなかったと報告すると、巫女は「ふむふむ……」と何やら考えつつも、聞いているようだった。あまりにも巫女が落ち着いていて、自分の周りに小蛇らしきものがいないと分かると、涼佑は焦った様子で「樺倉はっ!? どうしたんだよ?」と巫女に迫った。
「まぁ、落ち着け。あいつなら、そのうち帰って来る」
「……帰って来る、って?」
彼女の話がよく分からない涼佑の言葉に、巫女は当たり前のように言った。その言葉に、涼佑は掛ける言葉が見付からなかった。
「ああ、自分で復讐したら、ここに帰って来るって言ってたぞ」
仕事を終えた男は、真っ直ぐ家路を急いでいた。我ながら、浮気もしないでよくここまで我慢できたものだと思いながら、途中で寄ったコンビニで缶ビールを買い、歩きながらそれに口を付けた。飲まなきゃ、あんな陰気な家でなんてやっていられない。自分で自分を健気な奴だなぁ、などと思いながらまた一口飲んだ。酒が入ると、気持ちが大きくなるせいか、段々不満と苛立ちが腹の底から込み上げてくる。ちっ、あんな不出来な娘なんぞ作るんじゃなかったと。
もう自分も妻も若くはない。妻はあの大型台風の日に行方不明となり、遺体で見付かった娘を見て半狂乱になり、すっかり憔悴しきっている。全く役立たずになった。一時期は自殺しようとするまでに至ったが、世間体もあるし、これ以上、近所から奇異の目を向けられることには耐えられなかったので、いつものように殴りつけて止めさせた。妻の奇行に誠心誠意付き合ってやってる自分は、なんて偉い奴なんだろうと思う。
そうして自画自賛しているうちに家に着いてしまった。ああ、嫌だなぁと思う。家に帰ってもいるのは根暗な顔をした妻一人だけ。こうなったら、どこかで可愛い彼女の一人や二人作ってみたいもんだが、生憎と男には風俗で遊ぶという趣味は無かった。確かに風俗店なら若くて可愛い女の子はたくさんいるだろうが、その場合、自分は完全に客として相手をされるだけだ。本気になってくれないのは面白くない。
重い溜息を吐き、相も変わらず電気すら点いていない家の玄関ドアの把手へ手を掛ける。いつも通りにがちゃり、と開けてリビングへ足を踏み入れると、男は有り得ないものを見た。
夕食の準備をしてテーブルに突っ伏して眠っている妻の背後に、何かいる。カーテンが閉じられていない掃き出し窓から月光が差し込んでいる中、『それ』ははっきりと男の目に映っていた。
「な、んだ、お前……っ!?」
無感情に妻を見つめている、少女の形をした真っ黒い影。人間と同じように目に当たる部分だけが白く浮かび、じっと俯きがちに見つめていた。『目だけがはっきり見える影』としか言えない様相の相手は男の存在に気が付くと音も無く、瞬きをする間に距離を詰め、目の前まで迫ってきた。男は迷わず、悲鳴を上げて妻を置いて逃げた。夜の閑静な住宅街を『影』はやはり音も無く、滑るようにして追いかけてくる。あれに捕まったら、自分はどうなるのだろう。一度、考えてしまうとどうしようもなく、恐ろしかった。
「お、お、お、オレが、何したってんだよ……っ!」
走って逃げている最中、丁度通りかかったタクシーを止め、男は背後を気にしながら車内に乗り込む。行き先なんてどこでも良い。あの『影』がいないところへ行ければ、どこでも良いのだ。タクシーが出発すると、怖さの余り背後を確認する。『影』はもうすぐそこまで迫ってきていたようだったが、流石にタクシーには追いつけないようだ。
みるみるうちに遠ざかっていく『影』を見てほっと胸を撫で下ろし、男は背後に向けていた体を正面に戻した。
すぐそこに『影』がいた。助手席の陰からこちらを恨めしそうに見つめている。丁度、助手席から半分だけ体を出し、人間では到底不可能な体勢で、こちらをじっと見つめていた。
「うわぁあああああああああああああああっ!!!!!!」
絶叫を上げ、男は目が覚めた。朝。閉められたカーテンの隙間から朝陽と共にちゅんちゅん、と雀の鳴き声が聞こえてくる。自分のベッドの中で、男は汗だくで飛び起きたようだ。いつ帰って来たのだったか、いつ眠ったのだったか、思い出せない。隣を見ると既に妻は起きているのか、布団は捲られたままだ。そこで漸く、さっきまで見ていた光景が全て夢なのだと男は理解できた。
「――なんだ、夢……」
起きようと自分が降りる方へ目を向けた時だった。目の前に『影』が立っていた。
男は今度こそ絶叫し、ベッドから転がるようにして逃げ出した。
小蛇が帰って来ると、巫女は「おう、お帰り」と迎えた。小蛇が戻って来たと知らされた涼佑は、慌てた様子で巫女が見ている方へ目を向ける。廊下にちょこんと小蛇がいて、こちらを見ていた。小蛇は涼佑の傍まで来ると、その手を伝って肩に登ってくる。
「ちゃんとしてきたか?」
巫女の言葉に小蛇はうんと頷く。彼女らのやり取りを呆然と見ていた涼佑だったが、はっと我に返り、小蛇と巫女に訊く。
「ほ、ほんとに、復讐……してきたのか? 樺倉」
その問いに、小蛇は嬉しそうに目を細めて頷いた。恐る恐る、巫女にも確認する涼佑に、巫女は「安心しろ」と小蛇との約束を話した。
「命までは取るなと言ってある。だから、殺人は起こっていない」
「で、でも……復讐、って……良いのっ!? 止めたりとかは――」
「? なんで私が止めなきゃいけないんだ?」
「え……?」
心の底から疑問に思っている巫女の表情に、涼佑は虚を突かれたようだった。あまりにも巫女の態度が堂々としているせいで、自分の方が何か間違ったことを言っているのではないかとすら、思えてくる。望の父親の心を覗いた時、あんなに悩んだのに、という思いもあった。未だ納得していない涼佑に、巫女が言う。
「何を悩んでいるのか分からないが、涼佑。これは望とその家族の問題だ。私達がどうこうできる問題ではないし、願われた訳でもない。最初からこいつの復讐に私達がごちゃごちゃ言う権利なんて無いんだ」
「でも……オレ……」
言い淀む涼佑を置いて、巫女は今一度、小蛇に「それで、どうしてやったんだ?」と確認する。小蛇は何度か瞬きをして頷き、巫女も何度か頷いて、話を要約してから涼佑に説明した。
「呪いとまではいかないが、自分の姿を目に焼き付けさせてきたらしい。――結果的にそれで死のうとも、自殺ってことになるから、望の魂に影響は無いな。良かった良かった」
巫女は「良かった」と言うが、本当にそれで良かったのだろうか、とどうしても涼佑は考えてしまう。いくら望や彼女の母親に暴力を振るったからといって、その子供である望に手を下させるというのは、本当に良かったのだろうか。涼佑は何ともやり切れない思いを抱えたまま、巫女に撫でられて目を細める小蛇を見つめるのだった。
「じゃあ、うちはこれで」
それだけ言って、そそくさと帰ろうとする柳を涼佑が止めようとしたが、まるでもう未練など一切無いと言い切っているかのような足取りで、気が付いた時には既に姿が見えなかった。その後を慌てて追いかける鬼の足音を聞いて、漸く巫女が先程まで柳がいた場所へ目を向ける。
「またすぐ帰ったのか、柳のやつ。すまんな、涼佑。悪い奴じゃないんだが、あいつ人間嫌いだからなぁ」
「いつもなら、二、三日余裕で泊まったりするんだが」と巫女が言っていることから、相当人間が嫌いなのだろうということだけが分かった。尚も小蛇と戯れている巫女に、諦めて座り直した涼佑は、ぽつりと訊いてみた。
「なぁ、巫女さん」
「なんだ?」
「……オレの方が間違ってる、のかな」
「いや? 私は涼佑の言うことも間違ってないと思うぞ」
不安げな彼に巫女はすぐさま、はっきりと言った。意外な言葉に、思わず俯いていた顔を上げる涼佑。巫女は小蛇を涼佑の肩の上に戻しつつ、元気づけるように続ける。
「私や望は既に現世における肉体を持たない。現世の人間と関わることはあっても、私達は再び同じ肉体を持つことはできないんだ。生き返ることなんて、できない。でも、お前は違うだろ?」
「……うん」
「現世に未練の無い私達に比べて、お前には帰るべき家があるし、場所がある。そんな奴が再び人間として生きていく為には、死者である私達と全く同じ考え方になっちゃいけないんだよ」
「だから、その考えは絶対に捨てるなよ」と言われて、涼佑は納得すると同時に、別に彼女達に拒絶された訳ではないと分かって安心した。ほんの少しだけほっとした顔をする涼佑に、巫女は「それに、悪いことばかりじゃないぞ」と励ました。
「見てみろ」と小蛇を指し示す巫女に倣って、涼佑は小蛇を手に乗せて見た。小蛇の尻尾の先を見てみろと言われてその通りにすると、よく見ないと分かりにくいが、尻尾の先がほんの少し白くなっていた。「なんか白くなってる」涼佑がそう言うと、巫女は満足そうに笑んで頷いた。
「おそらく、望が自分で復讐を果たしたから、恨みが少し浄化されたんだろう」
「浄化?」
そこからの巫女の説明は、涼佑にとって僅かな希望に繋がった。彼女が言うには、元々恨みというものは、人によって一定量というものが決まっていて、対象者が多ければ多い程、基本的には分散されていくものなのだという。
「人間社会そのものへの恨みは、また別の話になってくるが、個人の恨みというのは、そういうもんだ。最も恨みの深い者に対するものでも、最初の量というのは個人で決まっている。謂わば、涼佑。お前は負債を抱えている状態と同じようなものだな」
「……負債、っていうことはそれを返していけば――」
「いずれは呪いが解けて、現世に戻れるってことだ」
その結論に涼佑はぱあっと表情を明るくさせ、思わず巫女の手を取って喜んだ。その光景にはさして興味は無いのか、小蛇は欠伸をしてとぐろを巻き始めている。漸く見えてきた希望に小躍りでもしそうな勢いの涼佑を宥めて、巫女は「但し」と人差し指を立てた。それに思わず、背筋を伸ばす涼佑。
「その為には涼佑、望の恨みを浄化するには、望をよく知る必要がある。こいつをよく知り、話し合い、恨みを少しずつ浄化させていけば良い。その為の努力は怠るな」
「話し合う――って、言われても……。巫女さんはこいつの言葉が分かるみたいだけど、オレには分からないんだけど……」
「そこを含めて『努力せい』ってことだろ?」
「えぇ……」
なんかズルいと思いつつも、手の中でぷぅぷぅと眠り始めてしまった小蛇を見て涼佑は「どうしたもんかなぁ」と溜息を吐いた。そんな彼に助け舟を出すことは無いまま、巫女は「そいでだ、涼佑」と話を続ける。
「望の呪いが少しずつではあるが、解けると分かった。ので、お前には暫くの間、ここに滞在してもらうことになる」
「うん。…………あっ、もしかして、守役の話?」
ピン、ときた涼佑に巫女は「そうそう」と相槌を打ちつつ、「童子ー」と鬼を呼んだ。その呑気な声に応じてすぐ来た鬼へ、巫女は涼佑の今後のことを簡単に説明すると、「今日からお前の弟子だから、何か渡したい物あったら、持って来ると良い」と言うと、「ならば、少々待っていろ」と涼佑に言って、鬼は客間を通り過ぎて行った。その姿を見送りながら、巫女は涼佑の方へ振り返ると「後はそうだな……部屋移動するか。ここ客間だし」と涼佑に部屋を移ろうと合図を送る。彼女の合図に頷き、涼佑は取り敢えず、部屋の隅に寄せていた布団を移動させる為、掌で寝ている小蛇を布団より先に連れて行くことにした。
「歳も近いし、私の守役になるんだから、隣の部屋で良いだろ」
社務所の後ろにある住居の方に移った巫女は、一緒に来た涼佑に空いている部屋まで案内した。そこは巫女の私室の隣で、綺麗に掃除がされている洋室だった。他に空いている部屋は無いらしく「まぁ、空いてる部屋はここしか無いから選択権なんぞ無いが」と言われて、何故か涼佑の方が恥ずかしがった。
「いや、巫女さん。流石に女の子の隣の部屋はちょっと……」
「なんでだ? 嫌なのか?」
「嫌……っていうか、何か気まずい」
「いきなり入って来そうだし」と小さく呟かれた言葉は、しっかり巫女に聞こえていたらしい。「そんなに私はデリカシーが無いと思われてるのかっ!?」と心外そうに声を上げた。
「そんなことな……くも、無い、ぞ! うん!」
「自分でもちょっと思ってるんじゃないか」
弁明の途中で今朝の起こし方を思い出したらしく、言葉が詰まった巫女に涼佑が冷静に指摘したところで鬼が一振りの木刀を手に合流した。
「ここに居ったか、主人」
「ああ。今、部屋を移ってもらおうと思って案内してた。そしたらさぁ、涼佑のやつ、恥ずかしがって隣じゃやだって言い出してさ。ほんと困ってんだよー」
「オレ、そんな我が儘言ったかなぁ? 巫女さん」
それこそ心外だと言いたげに、涼佑は巫女を不信そうな目で見る。鬼の目には同い年の少年少女が戯れ合っているようにしか見えず、何とも微笑ましいものだと密かに巫女に友人が増えたことを喜んでいた。それを表情に出すような無様は晒さないが。
「部屋の件はお二人で話し合ってもらうとして、涼佑。己の弟子となったからには、そなたには新しい日課をこなして頂きたい」
「日課? 何ですか?」
鬼は涼佑の前へ木刀を差し出した。不思議そうな顔のまま彼が受け取ると、鬼は簡潔にただ一言だけ告げて去って行った。
「正式に主人の守役となったからには、これから毎日、これで素振りをしろ。百回だ」
「あ、分かりまし――え?」
それ以上質問は受け付けないと言うように、木刀を涼佑の手に握らせ、さっさと踵を返してしまった鬼の背へ「えっ!?」と涼佑は手を伸ばすが、とりつく島も無い。彼らのやり取りを静観していた巫女は、合点がいったという顔をして「ああ〜……」と零す。
「あいつも何だかんだ言って昔気質だからなぁ。ま、頑張れよ。涼佑」
「じゃあ、私寝るわー」と言って巫女もさっさと自分の部屋へ引っ込んでしまった。後に残された涼佑は、暫し呆然としていたかと思うと、はっと我に返って頭を抱えた。
「部屋の件、まだ納得してないんだけどぉ〜……!」
廊下で唸りながら頭を抱えていた涼佑だったが、やgていつまでもそうしていられないと諸々のことを諦めて、渋々部屋の中を確認しようとドアを開けた。
なんで。
いつでもどこにでも現れる『影』から逃げ続け、男は思う。なんでオレがこんな目に遭わなくちゃいけないんだと。早朝から家を飛び出し、会社に行くどころではなく、どことも知れぬまま走り続けた。逃げろ逃げろと、頭の中でいつまでもいつまでも警鐘が鳴り響いている。逃げろ。どこに? どこでもいい、あいつがいないところへ。いつまで? ――いつまでだろう。もしかしたら、永遠に……?
「うぁあああああ…………っ!!!!!!」
終わりの見えない鬼ごっこに、男は気が狂いそうだった。だから、その終わりが唐突に訪れたことで、男は漸く安心できたと同時に恨みを抱いた。必死に逃げて逃げて逃げて、いきなり体が宙を舞う感覚が男を襲った。すぐに全身を硬い地面に打ち付けられる痛みと衝撃。
「人が轢かれた!」
「誰か救急車を! 早く!」
正気を失っていた男には、周りを気にしている余裕など無かった。ただ何か壁のような物が横から全身を強かに打ち付けられ、気が付いたら倒れていた。ゆっくりと赤黒い血が流れていく。遠くで誰かが助けを呼ぶ声がしていたが、男には聞こえない。代わりに男の視界と聴覚を支配していたのは、理不尽に対する怒りだった。
どうして自分がこんな目に遭わなければならない。自分が何をしたというのか。目の前を流れていく血が信じられず、少し遠くに佇んでいるミラーに映った、地面に惨めに転がっている自分の姿が許せず、男はあの『影』を憎んだ。たとえ幽霊だろうが、それ以外だろうが、関係無い。オレをこんな目に遭わせたんだ。何としても捜し出して――
「ご、ろ……じで、やる……!」
人の目には見えない、黒い靄のようなものが男の体から立ち昇る。それは場違いな程青い空に不釣り合いで、やがて救急車で運ばれて行く男からぶちっと千切れて、グニャグニャと形を変えていった。
布団を移動させ、言われた通りに木刀で素振りを百回頑張った涼佑は、疲れ果てて眠っていた。もうとっくに昼過ぎだが、巫女も涼佑も起きてくる気配が無いので、鬼は下ごしらえだけ先に済ませていた。ふと、微かに妙な気配を感じた鬼は目だけで辿ろうとしたが、瞬時に大した力は持っていないと分かると、すぐに興味を失って冷蔵庫に入れるものにラップを軽くかけた。
どがんっと激しい打音のような音に驚いて、涼佑は飛び起きた。未だあまり覚醒していない視界で部屋の中の異常を捉えようとして、すぐに見つけた。自分のすぐ傍の壁に巫女が黒い靄のようなものへ刀を突き立て、暴れる巨大なそれを壁に縫い付けていた。涼佑が起きたと分かると、彼女は無表情のまま、目だけを涼佑へ向ける。
「涼佑、下がってろ。こいつは私が仕留める」
驚きと恐怖のあまり何も言えず、動けない様子の涼佑を見てすぐに判断を切り替え、自分が離れた方が良いと思った巫女は壁から刀を抜き様に靄へ体当たりして窓から外へ靄と共に落ちて行った。
「巫女さん……!!」
外へ落ちて行く巫女の姿を見て、漸く体が動き出した涼佑は必死に手を伸ばすも、その手が彼女に届くことは無かった。