入学してからの僕は、水曜日に限ってはかたくなに口を閉ざすことにした。声を無駄に使いたくないからだ。学校をサボるわけにはいかないものの、水曜日だけは僕のすべてを千里に捧げようと決意していた。

 朝早く登校し、誰もいない屋上で本の朗読を練習する。休み時間も千里に読み聞かせる本に目を通し物語のイメージを固める。

 水曜日だけ誰とも口をきかないことはすぐさまクラスメートの話題となり、僕はさっそく変わり者扱いをされた。でも、それでも構わなかった。むしろ、友人が増えて放課後に誘われるほうが煩わしい。

 高校生活が落ち着いた頃、水曜日以外はアルバイトをすることにした。地元の駅前の商店街にあるちいさな古本屋で、募集のバイトが決まらないようだったのでそこにした。貼り紙に書かれていた時給は最低賃金未満で、足りない分は本で支払うという条件だった。バイトが見つからないのもうなずけた。

 採用してくれたのは銀縁眼鏡をかけた無精髭の店主で、最初は表情を失ったように無愛想だったから警戒した。けれど、「古本(ふるもと)だ、よろしくな」と挨拶したので、僕が「天職ですね」と答えたところ、鼻からふんと息がもれたので安心した。根は優しくて冗談が好きなのだろうと察する。少々腰痛持ちで、それがバイトを募集していた理由らしい。

 勤務時間は夕方の二、三時間ほど。仕事はおもに荷出しと陳列、それに棚の整理。親には水曜日もバイトをしているのだと話してアリバイを作った。

 アルバイトを始めたほんとうの理由は、今のうちから蓄えを作っておこうと思ったからだ。

 僕の高校生活は、千里と過ごす時間さえ得られていれば順風満帆と言えた。

 ところが、困ったクラスメートがひとり、現れた。それは隣の席になった男子だった。

「よう、俺、葉山陽一。サッカー部はいっているんだ。よろしくな!」

 年中快晴の彼は僕にやたらと話しかけてくる。

 趣味はなんだとか、特技はなんだとか、中学校はどんなところだったとか、お見合いで会った初対面の相手にしそうな質問から始まり、じわじわと僕が水曜日、喋らない理由に迫ろうとしていた。

 多勢同様、変わり者として一蹴してもらったほうが気楽だったのに、彼は勘が鋭いのか、水曜日の僕になにかあると詮索しているようだった。しかも、彼はそんな僕をリア充しているように見えるという。

 葉山が指摘した通り、僕自身、千里と過ごす水曜日は濃く生きている実感があったし、同時に呵責から目を逸らすことが許されない時間でもあった。そんな僕は、他人にはどのように映っているのだろうかとたびたび疑問を抱く。僥倖(ぎょうこう)なのか懊悩(おうのう)なのか。僕から尋ねたわけではないのに、葉山はこんなことを言いだした。

「いやさ、おまえが苦しんでいるんじゃないか、って言うやつだっているんだぜ」

 そんなふうに聞かされたのは、二学期に席替えとなり、僕は窓際、葉山は廊下側に移動した後だった。葉山は自分の席の前に座る女子にやたら話しかけているから、その女子が僕に対する印象をそう話したのかも、と推測した。

 僕はその女子と接点がないわけではなかった。

 水曜日、屋上で朗読の練習をしていると、必ず決まった時間に階段を駆け上る足音が聞こえてくる。すると彼女が姿を見せる。流れるような艶のある黒髪が屋上の風にさらりと揺れて、きれいな顔の輪郭があらわになる。いつも鈍く銀色に光るフルートを手にしていた。

 僕を見つけると必ずひとこと、挨拶をくれる。たとえば。

「おはよう、気持ちのいい朝だね」

 僕は言葉を発することなく愛想笑いを返し、そそくさと物語の世界に戻っていく。けれど、彼女は無言の僕に嫌な顔ひとつせず、自分のペースでフルートの練習をし始める。

 彼女の名前は、高円寺有紗。言葉遣いや仕草は上品で性格は穏やかに見える。父親の仕事は医者らしく、まさに良家のお嬢様といった印象だ。ちなみに高円寺さんの兄はこの高校の卒業生で医学部に進学したエリートで、在校生の中では有名人だ。

 でも、高円寺さんのフルートの演奏はお世辞にもすばらしいものとは思えない。技術的な問題というよりは、楽譜どおりの平坦な旋律でまったく印象に残らないのだ。千里の鮮烈な歌を聴いてしまったから、なおさらそう感じるのかもしれない。

 だから、朗読中に聴いても、物語の世界を邪魔することがまるでなかった。けっして居心地を悪くしない『そよ風のような女の子』、それが高円寺さんに対する僕の印象だった。



 水曜日の放課後、僕は千里の家へと向かう。現実から隔絶されたような時間を僕たちは過ごしていた。

 このちいさな世界には、ふたりの音さえあればじゅうぶんだった。千里の部屋で背中合わせに座り、互いの熱を感じ合う。僕は物語の世界を描き、その世界は千里の歌で幕を閉じる。

 障害者か健常者か、そんなことはなんの隔たりにもならなかった。脳裏に描かれる架空の世界では、僕らはきわめて平等だった。

 おばさんでさえ気を遣ってくれて、僕らに干渉することはない。決まった時間に飲み物とお菓子を用意してくれて、僕らは喉を潤すとまたふたりの世界に戻っていった。

 誰にも立ち入ることのできない、ふたりだけの水曜日。それは皮肉にも、僕の罪がもたらした神聖な時間だった。

 僕はそれがいつまでも続くものと信じていた。

 そう、願っていたのだ――。