千里の家は丘陵の上にあるホームタウンの一角にあった。こぢんまりとした洋風の一軒家で、車庫とちいさな芝生の庭、それに一坪ほどの広さの敷石で囲まれた花壇が備えられている。
深秋という季節のせいか、花の姿はない。石垣の隙間からは龍の髭が無造作に伸びていた。
「和也くん、どうぞ遠慮しないで上がって」
「おじゃまします」
僕は脱いだ靴を玄関の端にそろえて家に上がる。千里は僕の靴を中央にずらし、自分の靴を端に置いた。ああ、そこが彼女の定位置なのか。同じ場所に白杖を立てて置いたので僕は気づいた。
白杖の手元には小熊のストラップが付けられている。思えばほかの生徒の白杖にも違ったストラップが付いていた。たぶん、ストラップの手触りが名札代わりなのだろう。
廊下の壁には腰から膝の高さまで、浅黒い筋がついている。千里が壁に触れて廊下を歩くと、指先は壁の筋の一番高いところをなぞっている。どうやらそれは千里の獣道であり、高さは成長の軌跡のようだ。
千里の後ろ姿を見て、指先がまるで猫の髭みたいだなと思い、滑稽な比喩に笑いそうになるのをこらえた。
「あたしの部屋、こっち。楽しめそうなものはないけど」
そう言って千里は僕を部屋に案内した。女子の部屋に足を踏み入れたことのない僕にとっては、どっと手に汗握る急展開。かたや千里は警戒心の欠片もなく、子供時代の延長線上にいる雰囲気だ。
千里の部屋は一階の、リビングの反対側にあった。部屋にベッドはなく、マットレスの上に布団が敷かれている。ほかには座椅子とハンガーラックにちいさなタンスがひとつ。
邪魔な家具は足を傷める原因にしかならないのだろう。中学生女子の部屋のイメージとはかけ離れた、あまりにも閑散とした空間だった。
「布団の上、座っていいよ。疲れたなら寝っ転がってもいいよ」
「いやいやそれはさすがに厚かましすぎるでしょ」
「昔だったら、敷布団の下に潜るか、どこかに隠れるかしていたくせに、なんかつまんないなぁ~」
僕がお客さんらしく遠慮して腰を下ろすと、千里は露骨に不服そうな顔をした。視覚的に相手の反応をうかがえないせいか、遠慮なくあからさまな表情を見せる。
「それじゃさっそくなんだけど、ほんとうに和也くんかどうか確かめていい?」
「え?」
千里は獲物を狙う猫のように、そろりと僕に近づいた。僕は身構えて息をひそめる。千里の指が伸びてきて、僕の頬にそっと触れた。緊張したけれど、千里にとっては日常の行為なのだろうと察し拒否するのを諦めた。
千里の指先に感じる熱は僕の輪郭をなぞってゆく。過敏になっていた神経はさらに昂る。
それから広げた両手のひらで顔全体を慎重にまさぐる。彼女はそうやって、僕を脳裏に具現化しているのだろう。冷静ぶって微動だにしなかったが、僕の拍動は伝わってしまっているかもしれない。
「ふむふむ、やっぱり和也くんだね」
「やっぱりって、ほんとうに覚えていたの? 僕のこと」
「うん。だって、あたしの中でビジュアルがある男の子、っていったら和也くんしかいないもん」
そうか、千里にとって僕の記憶が明瞭な理由が納得できる。けれど、それでは千里の中での僕の立ち位置があまりにも重すぎる。
だというのに、千里の主張はまるで遠慮がない。
「だから再会できて嬉しいよ。和也くんは特別だよ」
「僕は特別な存在じゃないよ。同級生にも男の子いるでしょ」
「むぅ、でもあたしは女の子だよ? エスコートとかしてほしいもん。和也くんはあたしを見て手を引けるでしょ?」
しだいに期待が込められてゆく口調に警戒し、千里を引き離しにかかる。
「この街はちょっと遠いよ。それに、これから受験勉強があるから」
「ふーん、じゃあ今日はなんで会いにきてくれたの?」
千里は探るように尋ねるが僕は答えあぐねた。僕が呼ばれたように感じたのは、自分自身の思い込みだったのだろうか。千里には僕が抱いた不思議な感覚の心当たりがあるのだろうか。
「じつは……合唱祭で聴いていたとき、歌っているのが千里だとは気づかなかったんだよ」
「えっ、それなのにどうして?」
「でも僕は、きみに呼ばれた気がしたんだ」
笑われるのを覚悟で正直にそう告白した。千里はまぶたを閉じたままのすっとんきょうな顔で僕の顔を見上げる。
「あたしが……呼んだ? 和也くんを?」
「うん、千里は歌の中で僕を呼んだりしなかった?」
「ええっ、あたしの歌、そんな変な歌詞に聞こえたの? ……はぁ、やっぱり発音悪かったんだ」
がっかりしたような反応だったので、僕はあわてて否定する。
「いや、そういう意味じゃないよ。歌の中に僕へのメッセージが織り込まれているようだったんだ。千里の魂が宿っているみたいだった」
「へぇー、そんなふうに感じたのかぁ。でもあたし、いつも誰かに届けたいって思って歌っているよ」
「だけど、呼ばれたように感じたのは僕だけだった」
千里はすこしだけ考え込む素振りをし、それからそろりと僕に尋ねる。
「もしかすると、和也くんは『エンパシー』が強いのかもね」
「エンパシー? テレパシーじゃなくて?」
「うん。相手の立場になって気持ちを汲み取る能力のこと。あたしたちは視覚の情報がないから、言葉だけじゃなくて声色や呼吸、それに雰囲気で相手の気持ちを汲み取る訓練をしているの」
「へえ、難易度高そうなスキルだね。僕にはよくわからないや」
「だけど、自分が呼ばれているように感じたっていうことは、和也くんはきっとエンパシーに長けているんだよ。他人の気持ちを自分のことのように取り込んじゃうから。困っている人を助けたいと思う人って、そういう能力のある人が多いんだって」
その言葉を聞いて僕は驚いた。まるで僕の心の中を言い当てているように思えたからだ。両眼を失った千里は、ほんとうは僕も気づいていない心の奥底を見抜く千里眼を持っているんじゃないか。
僕は千里が僕自身を肯定してくれているように感じた。けれど、今の僕はあまりにも無力で、千里の日常に手を差し伸べることなんて到底できそうにない。
「世の中には困っている人を助けたいって思っている人、たくさんいると思う。きっと誰かは力になってくれるよ」
「うん、きっとそうだよね。でも……」
それから一拍、間を置いて千里はそっとこぼす。
「……あたしたちはほんとうに弱い存在なの。どんなに自立しようと頑張っても、やっぱり限界があるの。悪い人に目をつけられて、ひどい経験をする子だっているんだって。だから身を護って生きていくために、『エンパシー』が必要なの」
……そうなのか。
僕はつくづく、子供で世間知らずだと思う。千里のような障害者の現実は、まるで想像すらできていない。でも僕だけじゃない、健常人にとって不自由を抱える人の苦労は、所詮、対岸の火事にしか過ぎないのだ。
「だけど、和也くんはちゃんと信用できる人だよね~」
「んー、まぁ、聖人じゃないけど、悪いことは考えていないかな。でも、千里の先輩たちは学校を出たあと、どうやって生活しているんだろう」
「高校ではマッサージとか英会話とか、そういう技能を身につけるための実習があるみたい。でも、あたしは将来、歌で生きていけたら最高かな、って思う」
「音楽で生きるとなると、『風が吹けば桶屋が儲かる』のことわざみたいだね」
「えっと、それ、風が吹くとどうなっちゃうの?」
千里はあどけなく、小首をきゅーっとかしげた。
深秋という季節のせいか、花の姿はない。石垣の隙間からは龍の髭が無造作に伸びていた。
「和也くん、どうぞ遠慮しないで上がって」
「おじゃまします」
僕は脱いだ靴を玄関の端にそろえて家に上がる。千里は僕の靴を中央にずらし、自分の靴を端に置いた。ああ、そこが彼女の定位置なのか。同じ場所に白杖を立てて置いたので僕は気づいた。
白杖の手元には小熊のストラップが付けられている。思えばほかの生徒の白杖にも違ったストラップが付いていた。たぶん、ストラップの手触りが名札代わりなのだろう。
廊下の壁には腰から膝の高さまで、浅黒い筋がついている。千里が壁に触れて廊下を歩くと、指先は壁の筋の一番高いところをなぞっている。どうやらそれは千里の獣道であり、高さは成長の軌跡のようだ。
千里の後ろ姿を見て、指先がまるで猫の髭みたいだなと思い、滑稽な比喩に笑いそうになるのをこらえた。
「あたしの部屋、こっち。楽しめそうなものはないけど」
そう言って千里は僕を部屋に案内した。女子の部屋に足を踏み入れたことのない僕にとっては、どっと手に汗握る急展開。かたや千里は警戒心の欠片もなく、子供時代の延長線上にいる雰囲気だ。
千里の部屋は一階の、リビングの反対側にあった。部屋にベッドはなく、マットレスの上に布団が敷かれている。ほかには座椅子とハンガーラックにちいさなタンスがひとつ。
邪魔な家具は足を傷める原因にしかならないのだろう。中学生女子の部屋のイメージとはかけ離れた、あまりにも閑散とした空間だった。
「布団の上、座っていいよ。疲れたなら寝っ転がってもいいよ」
「いやいやそれはさすがに厚かましすぎるでしょ」
「昔だったら、敷布団の下に潜るか、どこかに隠れるかしていたくせに、なんかつまんないなぁ~」
僕がお客さんらしく遠慮して腰を下ろすと、千里は露骨に不服そうな顔をした。視覚的に相手の反応をうかがえないせいか、遠慮なくあからさまな表情を見せる。
「それじゃさっそくなんだけど、ほんとうに和也くんかどうか確かめていい?」
「え?」
千里は獲物を狙う猫のように、そろりと僕に近づいた。僕は身構えて息をひそめる。千里の指が伸びてきて、僕の頬にそっと触れた。緊張したけれど、千里にとっては日常の行為なのだろうと察し拒否するのを諦めた。
千里の指先に感じる熱は僕の輪郭をなぞってゆく。過敏になっていた神経はさらに昂る。
それから広げた両手のひらで顔全体を慎重にまさぐる。彼女はそうやって、僕を脳裏に具現化しているのだろう。冷静ぶって微動だにしなかったが、僕の拍動は伝わってしまっているかもしれない。
「ふむふむ、やっぱり和也くんだね」
「やっぱりって、ほんとうに覚えていたの? 僕のこと」
「うん。だって、あたしの中でビジュアルがある男の子、っていったら和也くんしかいないもん」
そうか、千里にとって僕の記憶が明瞭な理由が納得できる。けれど、それでは千里の中での僕の立ち位置があまりにも重すぎる。
だというのに、千里の主張はまるで遠慮がない。
「だから再会できて嬉しいよ。和也くんは特別だよ」
「僕は特別な存在じゃないよ。同級生にも男の子いるでしょ」
「むぅ、でもあたしは女の子だよ? エスコートとかしてほしいもん。和也くんはあたしを見て手を引けるでしょ?」
しだいに期待が込められてゆく口調に警戒し、千里を引き離しにかかる。
「この街はちょっと遠いよ。それに、これから受験勉強があるから」
「ふーん、じゃあ今日はなんで会いにきてくれたの?」
千里は探るように尋ねるが僕は答えあぐねた。僕が呼ばれたように感じたのは、自分自身の思い込みだったのだろうか。千里には僕が抱いた不思議な感覚の心当たりがあるのだろうか。
「じつは……合唱祭で聴いていたとき、歌っているのが千里だとは気づかなかったんだよ」
「えっ、それなのにどうして?」
「でも僕は、きみに呼ばれた気がしたんだ」
笑われるのを覚悟で正直にそう告白した。千里はまぶたを閉じたままのすっとんきょうな顔で僕の顔を見上げる。
「あたしが……呼んだ? 和也くんを?」
「うん、千里は歌の中で僕を呼んだりしなかった?」
「ええっ、あたしの歌、そんな変な歌詞に聞こえたの? ……はぁ、やっぱり発音悪かったんだ」
がっかりしたような反応だったので、僕はあわてて否定する。
「いや、そういう意味じゃないよ。歌の中に僕へのメッセージが織り込まれているようだったんだ。千里の魂が宿っているみたいだった」
「へぇー、そんなふうに感じたのかぁ。でもあたし、いつも誰かに届けたいって思って歌っているよ」
「だけど、呼ばれたように感じたのは僕だけだった」
千里はすこしだけ考え込む素振りをし、それからそろりと僕に尋ねる。
「もしかすると、和也くんは『エンパシー』が強いのかもね」
「エンパシー? テレパシーじゃなくて?」
「うん。相手の立場になって気持ちを汲み取る能力のこと。あたしたちは視覚の情報がないから、言葉だけじゃなくて声色や呼吸、それに雰囲気で相手の気持ちを汲み取る訓練をしているの」
「へえ、難易度高そうなスキルだね。僕にはよくわからないや」
「だけど、自分が呼ばれているように感じたっていうことは、和也くんはきっとエンパシーに長けているんだよ。他人の気持ちを自分のことのように取り込んじゃうから。困っている人を助けたいと思う人って、そういう能力のある人が多いんだって」
その言葉を聞いて僕は驚いた。まるで僕の心の中を言い当てているように思えたからだ。両眼を失った千里は、ほんとうは僕も気づいていない心の奥底を見抜く千里眼を持っているんじゃないか。
僕は千里が僕自身を肯定してくれているように感じた。けれど、今の僕はあまりにも無力で、千里の日常に手を差し伸べることなんて到底できそうにない。
「世の中には困っている人を助けたいって思っている人、たくさんいると思う。きっと誰かは力になってくれるよ」
「うん、きっとそうだよね。でも……」
それから一拍、間を置いて千里はそっとこぼす。
「……あたしたちはほんとうに弱い存在なの。どんなに自立しようと頑張っても、やっぱり限界があるの。悪い人に目をつけられて、ひどい経験をする子だっているんだって。だから身を護って生きていくために、『エンパシー』が必要なの」
……そうなのか。
僕はつくづく、子供で世間知らずだと思う。千里のような障害者の現実は、まるで想像すらできていない。でも僕だけじゃない、健常人にとって不自由を抱える人の苦労は、所詮、対岸の火事にしか過ぎないのだ。
「だけど、和也くんはちゃんと信用できる人だよね~」
「んー、まぁ、聖人じゃないけど、悪いことは考えていないかな。でも、千里の先輩たちは学校を出たあと、どうやって生活しているんだろう」
「高校ではマッサージとか英会話とか、そういう技能を身につけるための実習があるみたい。でも、あたしは将来、歌で生きていけたら最高かな、って思う」
「音楽で生きるとなると、『風が吹けば桶屋が儲かる』のことわざみたいだね」
「えっと、それ、風が吹くとどうなっちゃうの?」
千里はあどけなく、小首をきゅーっとかしげた。