四角いテレビ画面と、丸い窓から見える景色。
 それが、僕の世界の全てだった。

 
 僕の生まれた場所は、"嘘のない街"と呼ばれていた、らしい。
 らしい、としか言えないのは、ほとんど外の状況を知らずに育ったからだ。

 二階建ての、質素な家。
 その家の、狭くて暗い屋根裏部屋が、僕の居場所だった。

 家族は母親だけ。父親は知らない。
 母さんは昼間、学校の先生として働いていて、夕方に帰ってくると夕ご飯を作って屋根裏部屋まで持ってきた。
 休みの日には読み書きや、いろんなことを教えてくれた。僕が退屈しないよう、定期的に新しい本も持ってきてくれた。
 けれど、トイレとお風呂以外、僕がこの部屋から出ることを決して許さなかった。

「もう暗いから、テレビは消しなさいね」

 夕食の食器を下げる時は、決まってそう言う。
 テレビを点けていると、窓から光が漏れて、外から見えてしまうからだ。

 灯りのない屋根裏部屋は、テレビを消すと真っ暗になる。窓から差し込む月明かりだけが、部屋を仄かに照らした。
 それを見上げるように寝転がり、月がゆっくりと動いていくのを眺めている内に、眠ってしまうことが多かった。
 

 僕は、"存在しない存在"。
 母さん以外には知られていない、居ないはずの人間。
 ……いや、恐らく人間ですらないんだ。

 本で読んで知っていた。
 僕みたいに黒い羽が生えた者を、『悪魔』と呼ぶことを。
 母さんも、テレビの中の人も、窓の外の子どもたちも、羽なんか生えていない。

 僕だけ。僕だけが違う。
『悪魔』は悪い存在。
 だから、この部屋から出てはいけないんだ。

 そんな風に、ずっと自分に言い聞かせ……
 ここから出ることを、諦めていた。



 ――僕が外の世界について知ったのは、十歳の時だった。
 終戦記念日の特集番組で、ここ以外にも様々な街があることを知ったのだ。

 十一歳の誕生日、僕は母さんに、「世界のことがわかる本が欲しい」と言ってみた。
 自分からプレゼントを欲しがるのは初めてだったので、母さんは渋りながらも全ての街が載ったガイドブックをくれた。

 そこに描かれたこの街の地図を見て、僕は感動した。
 部屋の窓から見えるものが"クレイダー"という列車の線路で、自分の家がどのあたりで、母さんが勤める学校がどの辺りにあるのかがわかったからだ。

 まるで、空の上から街を見下ろしているような気分。
 この時僕は、初めて思ってしまった。

『外に出て、歩いてみたい』と。

 ふと、窓の外を見る。
 そこには、学校を終えて遊び回る子どもたちや、母親と手を繋いで歩く子どもの姿がある。

 ……どうして僕は、あそこにいないんだろう。
 答えは決まっている。僕が、悪魔だからだ。



 ――それから僕は、毎日飽きもせずにこの街の地図を眺めた。

 向かいの家の男の子は、この道を使って学校へ通っているのかな。
 母さんは、このお店で買い物をして帰って来るのかな。
 僕だったら、この道をこう通って、ここまで行って……

 そんな答えのない遊びに、時間が過ぎるのも忘れて夢中になった。

 地図の横には、この街の紹介文が載っていた。
『嘘のない街』。
 正直に生きたい人・本音で語りたい人におすすめの街。
 住む上でのルールはただ一つ。
 決して、嘘をつかないこと。

「…………」

 僕はガイドブックを持ち上げ、その紹介文の続きを読み始める。
 その時、家の呼び鈴が鳴ったので、驚いてガイドブックを床に落としてしまった。
 一階にいる母さんが「はーい」と言いながらドアを開ける音がする。続けて、来客者らしき人の声が聞こえてきた。

「こんにちは、先生。休みの日にごめんなさいね」
「あ……大家さん、こんにちは」
「なんか屋根裏の方から音がしたけど……ねずみでもいるのかしら?」
「あ、いえ……さっき授業の資料を整理したので、本が倒れたのかも」
「そう、ならいいんだけど。先日話した通り、この家を貸したい人がいるのよ。知り合いの息子さん夫婦なんだけど……転居の件、前向きに考えてくれた?」
「え、ええ……まぁ……」
「先生にはここよりも築年数が浅い綺麗なアパートを紹介するから。家賃も安くなるし、職場も近くなるし、悪くないでしょ? それに、一人暮らしなのにこんな一軒家、かえって寂しいんじゃないかって申し訳なく思っていたの。本当よ?」
「お気遣いいただきありがとうございます」
「いえいえ。じゃあそういうことだから、今月中に結論出してちょうだいね。それとこれ、おすそ分け。ピクルスを漬けたから、よかったら食べて」
「いつもすみません」

 そんなやり取りの後、ドアがバタンと閉まる音がして。

「………………」

 しばらくして、「パリーンッ」という何かが割れる音。
 そして、母さんのすすり泣く声が聞こえてきた。
 
 ……母さんは、『正直』とか『本音』とは正反対の性格をした人だった。
 家に来る人への対応や電話でのやり取りを聞いていて、母さんはいつも相手の顔色を伺い、相手に合わせた言葉でしか話せない人なのだということを知っていた。

 僕はそれを、『優しさ』とか『思いやり』だと思っていた。
 だけど……それはきっと、間違いだったんだ。



 * * * *



 ある晩。
 僕がいつものように、月明かりを頼りに地図を眺めていると、母さんの声が聞こえてきた。

「ええ……ええ……それじゃあ明後日、こちらに着くのですね」

 誰かと電話しているようだ。
 僕は地図に目を落としながら、なんとなくそれを聞いていた。

「そうなんです……今月中に家を明け渡さなくちゃいけなくて……見つかると厄介なことになるので……ええ」

 僕は、大家さんと母さんとの会話を思い出す。
 この家を、別の夫婦に貸すという話。
 あの後何回か大家さんが来たようだけれど、母さんは転居を断りきれなかったようだ。

 そうなると、僕を隠しておく場所がなくなってしまう。
 そうなると……『厄介なことになる』。
 今しているのは、つまりそういう話だろう。

「……では、宜しくお願いします。はい。夜中の内に引き渡しますので」

 胸の鼓動が、どんどん速くなる。

 母さんは、僕の存在をひた隠しにしてきた。
 はぐらかしながら、嘘をつきながら。
 でも、この『嘘のない街』で、僕という"悪魔(うそ)"を隠し続けることは難しい。

 だから、転居を機に『引き渡す』ことにしたのだろう。
 僕の身柄を、知らない誰かに。

「…………っ」

 背中を、冷たい汗が伝う。
 全身が震えるのを自覚しながら、僕は母さんにもらったガイドブックを、ぎゅっと胸に抱いた。