アンハッピーな腐れ縁

自信たっぷりに断言すると、臣はゆっくりと身体を返し、どこかの大仏のごとく立て肘をついて頭を支えた。

「いや、違くて。俺をおんぶできんの?って話」
「はっ!? ……で、できる」

答えるまでに一瞬躊躇った。その間があまりにも意味深に思えて、顔が熱くなる。

「つかいちいち勘違いするような言い方すんな! オレは態度を変えるつもりないからなっ!」

カーテンで雑に臣の視線を遮ってから、保健室を出る。

臣は単に身長差をからかっただけだ。173センチのオレが、180センチの臣を背負えるのかって。それをオレが、勝手に想像してみただけで――。

怒りに似たもどかしさを踏み潰すように、保健室から足早に離れていく。

微かな足首の痛みでシップのことを思い出したが、戻る気にはなれなかった。



放課後、スポーツバッグを肩に提げて保健室まで来ると、腰に両手を添えて限界まで息を吐いた。そしてゆっくり呼吸を整え、トントン、と胸の中央を拳で叩く。

――いつもどおりやれば大丈夫。
試合の前は、必ずこうやって自分に暗示をかけている。

普通に。ふつうに。

「おっ、聡!」

ドアに手を伸ばしかけたオレを呼んだのは、ついさきほど、教室で一度挨拶を済ませた成弥だった。その歩き姿にあった違和感(●●●)を、成弥がするりと肩から外す。

「これよろしく」
「……臣の?」
「そ。2組の子から預かった」

2つのうちの1つ。成弥はまだ、学校推奨のスクールバッグを肩に持っている。

今日が雨じゃなかったら、この役目はたぶん成弥だった。たとえ帰り道が別方向でも、事情を知れば臣を家まで送り届けただろう。
それを今は、当たり前にオレにバッグを渡す。なにも訊かずに。

「じゃーな」
「あっ、おう! また明日」

今日がもし晴れていたら、オレは部活ではなく、臣と帰ることを選んだだろうか。

スッキリしないままドアを開けると、臣はベッドの上で上半身を起こし、ぼーっと固まっていた。焦れったくも行き場のない手で、肩口から下がる2人分のバッグの紐を握る。

「臣、帰るぞー」

入り口から声をかけたオレは、臣があくびをしながら動き出したのを確認して踵を返した。

昇降口で臣を待ちながら、空を見上げる。雨の勢いはだいぶ落ち着いているものの、仄暗い。部活終わりのような、日暮れを過ぎた色みたいだ。

臣が隣に並ぶと、傘を開いて下校の流れに加わる。
校門を出て駅までは友人たちといくらか会話を交わしたが、電車を降りたころには、お互いに何も喋らなくなっていた。

車が水を踏みながら走る音と、雨粒を弾くビニールの音が沈黙を埋める。オレにとって傘の内側は、考え事にはピッタリな空間だった。

「そういえば、昼休みに保健室来たのってなんで?」
「ん? ああ、体育のときバスケですっ転んでさ」

ははっ、と笑いながら、右足を蹴り上げて水を散らす。

「足?」
「うん。右の足首」

視線を足元へ向け――次の瞬間、天地がひっくり返った。
臣の足がオレの頭上にある。黒く濡れたアスファルトも、そこに開いたまま落ちている臣の傘も。
あまりに一瞬の出来事だったせいか、腹にある圧迫感で、臣の肩に担がれたんだと理解した。

「ちょっ、臣!? なに――」
「おんぶしようとしても拒否るだろ。だせぇポーズでずーっと待たされんのやだし」
「オレだってやだよ! 歩けるって! 下ろせ、ヘンタイッ!」

背中を叩いても動じない臣は、わかりやすくため息を吐いた。

「もう少し大事にしろよ。サッカー、3年も抜けて最後の1年だろ。また俺ん家に駆け込んで泣く羽目になるぞ」

呆れたような臣の声で、強張っていた身体から力が抜ける。

ここまでの道中、ぼんやりと考えていたことにひとつ答えが出た。
もし今日晴れていたら、オレは臣とは帰らなかった。きっと臣は黙って先に帰り、オレは部活のあとに苦情の電話をしたんじゃないだろうか。

「おろせ。……お……おんぶ、させてやる」

なんだそれ、と笑った臣は、オレを下ろして自分の傘を閉じた。

スポーツバッグを斜めに掛け直すと、臣の背中に半ば投げやりに覆い被さる。

オレの傘に2人で入って、なんでこいつは平然とおんぶできるんだよ。

――――悔しい。

悔しすぎて泣きたくなる。


小学2年の夏休み、サッカーを始めたきっかけは臣だった。公園で遊んだ帰りに臣が言ったんだ、下手なやつとやってもつまんねぇからもうやめる、って。
だからオレは、また一緒にサッカーができるように、クラブに入って練習した。

臣は要領がよくて、何でも卒なくこなす。当の本人はひけらかさず、涼しい顔で。初対面でこそ女の子と見間違ったが、知れば知るほどカッコイイやつだと思った。

幼稚な劣等感や嫉妬を乗り越えて、いまの腐れ縁があるのに――。

「ねぇ臣、体調は?」
「……まあまあ」

――それって“いい”寄りの? 悪いほう?
そんな疑問が脳裏に浮かんだとき、スマホが鳴った。臣の、着信音だ。おそらくブレザーのポケットのなか。

「とってやろうか?」
「いい。どうせ成弥だろ」
「なんでわかるんだよ、見てないのに」

オレの突っ込みに臣は答えなかった。

着信も絶えてしまい、また沈黙が戻ってくる。
ふと視線を上げると、見知った住宅地に違う世界が広がっていた。

オレの身長と大差なかった塀の中に、赤い屋根の犬小屋が見える。いままで意識したことがなかったが、街灯の電灯部分は半透明のガラスで覆われていたらしい。

これは、臣がいつか見る可能性はあっても、オレにはなかった景色だ。


高校に入って周りの人間も変わり、改めて思った。男女ともに一目置かれ、いまや学校のキングと並ぶことで絶対的なカーストを確立している臣の、その横に対等に立てる。この腐れ縁は、オレの自信だ。

臣のしなやかに伸びる黒髪を見つめ、ペシッと(はた)く。

「なんだよ」
「……なんか、ムカついた」
「はぁ?」

成弥から臣のバッグを手渡されたとき、嬉しかったんだよオレは。周りは臣と成弥が一緒にいることを当然のように思っていても、その成弥自身が、オレと臣の親しさをわかってくれている。

でも裏を返せば、そんなに臣を理解してるんだなと、ちょっと悔しかった。

――――こんなの、オレも片想いじゃん。
「はぁぁぁ」
「後ろでため息やめろ。なんなんだよ、まじで」
「…………」

ぜんぶ臣のせいじゃん、とは言えず、不満たっぷりに唇を尖らせる。

昨日よりももっと、臣のことがわからない。

今日1日で、恋人になってもいいことはないと身を持って知った。別れるどうこうの話じゃない。行くぞ!と手を引くことも、おんぶされることにも神経をすり減らして、どんどん不自由になるだけだ。

腐れ縁だと言えるほど気楽な関係だからこそ、ずっと一緒にいたいと思えるのに。なのに、なんで――?

臣の表情を確かめたくなり、頭を傾ける。その気配に気づいたのか、臣がいきなり顔を振ったことで、オレはビクッと仰け反ってしまった。

「おわっ! ……ぶねぇ」

ひょい、とオレの身体を浮かせて臣が体勢を整える。

「暴れんな」
「ご、ごめん」
「こっちもギリギリなんだよ、お前の心臓の音うるせぇし」

――――くそっ。

眼の前にある黒い頭に向かって、ゴンッ、と自分の額をぶつける。

「いてぇ」
「意識させるような発言すんな!」

額の痛みより、顔が熱い。

いまだけは背負われててよかった。もし隣を歩いていたら、変な勘違いをさせかねない。それだけは困る。



日曜の、秋晴れの空が目に痛い正午過ぎ。駅で待ち合わせた俺と成弥は、その足で大通り沿いにある2階建ての服屋へ入った。

クラッシーなアイテムが揃う店内を適当に回ったのち、スツールに腰掛け、組んだ足に頬杖をつく。

……いったい、いつ飽きるのか?
同年代らしき女子2人を横目に、ため息を吐く。さきほどから通路を行ったり来たり、チラチラ、ひそひそと。成弥に付き合うといつもこれだ。

当の本人に目をやると、成弥は素知らぬ顔で冬物アウターを物色していた。丸襟の黒シャツに、肩まで開いたワイドVネックトレーナーの重ね着、シンプルなシルバーネックレス。この装いだけで、“実店舗での買い物が娯楽”だと伝わってくる。

俺だって服もオシャレも嫌いじゃない。だが今日は気分が乗らず、パーカーにボリュームのあるジョガーパンツを合わせただけの、ラフを極めた格好で出てきた。

なんとなく、手持ち無沙汰でスマホの時刻を確かめる。

【13:12】
聡からの連絡はやはりない。


昨日の夕方、近所のコンビニへ行った際に、部活終わりの聡と偶然鉢合わせた。成弥から今日の誘いの電話があったのは、その帰り道だった。

断るのは必然。だって本来なら今日は、聡とゲームをする予定だった。

俺からすれば、先に約束した聡を優先しただけ。“(自分)友情(成弥)を天秤にかけた”と勘違いして怒る聡も、誤解が解けて俺に責任転嫁する聡も、純粋に微笑ましかった。

――臣のせいで。
不満げにそう言ってむくれる顔も、俺はきらいじゃない。

『意識すればいいじゃん』
『は? いちいち下心あるか疑えって?』
『いや、意識されてんのも悪くないっていうか』

俺の何気ない言葉に、聡が俯き、ピタリと足を止める。

『臣のそれって、オレを試してんの?』
『お前がスコップ持参でせっせと墓穴掘ってんだろ』
『……そうだよ。自滅するくらい、この腐れ縁が大事だ。好きって気持ちはオレのほうがデカイんだよっ! なんなら初恋だってオレが先だ!」

なんつー言い分だよ、と薄ら笑う間もなく、聡は真剣な眼差しを向けた。

『臣……オレも待つことにする。臣がオレを友だちだと思えるようになるまで、オレも待てるよ』

意味がわからない。俺がいつ、聡との友情を蔑ろにした?
あ然としていると、次第に怒りが胸の辺りに広がっていく。

いつになく凛々しい聡の後ろ姿を、俺は引き止める気になれなかった。
感情任せに好きだと突っ走れないのは、それ以上に大事なもんがあるからだ――。


「なぁ雅臣」

成弥が寄って来たので、頬杖のまま視線を上げる。

「今日はずーっとそういう感じ?」
「……なにが?」

たったワンラリーで会話が途切れると、飄々とした成弥との間に、温冷もしくは寛厳とも表現できそうな摩擦が生まれた。
先に口を開いたら負け。そんな感覚を抱きつつ、何が言いたいんだよと目で問う。

だが俺たちは、勝敗がつく前に臨戦態勢を解いた。

「あのっ……2人で買い物、ですか?」

どうやらチラチラ女子2人は、ようやく見ているだけでは飽き足らなくなったらしい。外見に気を遣っているわりに、控えめな、たどたどしい誘い方だと思った。

「うん、悪いね」

近づいてきた女子たちを、成弥がたった二言で遠ざける。
こっちはこっちで慣れすぎていて、微笑みまで胡散臭いけど。
「……臣、もう少し見たらご飯行こーよ」
「臣って呼ぶな」

俺が冷ややかに睨み上げても、成弥は何事もなかったように買い物へと戻った。

成弥は気まぐれに、俺をからかうように『臣』と呼ぶ。
……おそらく、バレている(●●●●●)

もちろん成弥に打ち明けたことも、逆に確認されたこともない。“暗黙の了解”というには頼りない、空気の読み合い。友人の勘。お互いそんなところだろう。

聡本人ですら先週のブラジャーの一件があるまで、それこそ俺がキスしても夢だと勘違いするほど、長年まったく気づきもしなかったのに――。


初めて聡を特別視したのは、たぶん小2の夏ごろ。
友人たちとサッカーをしていたとき、誰かが俺の側でぼそりと聡の悪口を言った。

『菊池のおかげで勝ててんのに、エラそうにしすぎ』

無性に腹が立った。もちろん友人として。

一緒に遊ぼうと周囲を巻き込むタイプの聡は、周りからは仕切っているように見えたのだろう。でもそれは俺にとって、自分にはない聡の良さとして映っていた。
聡と楽しく遊べるなら、他の友人たちは切り捨ててもいいと思った。


――――そういえば。

なんで聡にはキスのことがバレたんだ?

ふと改めて疑問に思ったものの、心当たりが一切ない。というより俺にとっても白昼夢のような出来事で、見当がつかない。

当時を振り返るとリアルな感覚が蘇り、俺は頬杖を口元までずらした。

遠目にショップ袋を提げた成弥が見えると、さすがに体裁優先で取り澄ます。

「飯さ、いつもんとこでどう? ハロウィンメニュー2週間限定だったじゃん?」

成弥が言ういつものところとは、高校近くにあるカフェのことだ。カフェとはいっても内装はほぼファミレス。家が逆方向の俺たちにとって、“とりあえず”で学校帰りに寄ることが多い。

ハロウィンまであと10日ほど。その期間のうちにまた行くかも、そのときに腹が減っているかもわからない。

俺は軽い気持ちで、スツールから腰を上げた。



カフェは最寄り駅から見て高校の裏側にある。電車を降り、駅通りを抜けて少しずつ人の往来が減ってきたころ、制服姿の生徒と数名すれ違った。そして街の喧騒も、高校へ近づくにつれて部活動に励む声で溢れていく。

校門へとのびる桜並木の手前で信号待ちしていると、これまではバラバラに鳴っていた管楽器の音が途絶え、吹奏楽部の軽快なメロディに替わった。

どれもこれも帰宅部には無縁の青春。とはいえ、シラけるほど遠い存在ってわけじゃない。
……もし聡がいなかったら、心象はガラリと違ったかもしれないけど。

「聡やってっかなー」

グラウンド横の道を歩きながら、木々の隙間を覗くように成弥が身体を揺らす。

「いねぇよ。今日は昼まで」
「あ、そ。じゃあ呼ぶか」
「好きにすれば。どうせ来ねぇよ」

最後の一言は余計だった。無意識とはいえ、意味深すぎるだろ。

「まぁ、そっか。部活早く終わんなら予定入れるよな」

――――なんだそれ。

正直、拍子抜けした。でもよくよく考えれば、自然な会話の流れに思えてくる。

成弥は訊かない。そして俺も、打ち明けるきっかけを必要としてこなかった。
いつだったか、外堀を埋めるのも大事だ、とクラスの女子たちが言っていた。そんなセリフが頭を過ぎるほど、密かに聡を想っていたときとはもう状況が違う。

「昨日、聡と喧嘩した」

隣を歩く成弥を意識しながらも、独り言のように切り出す。

「よくしてるイメージだけど?」
「違う。仲直りできるやつじゃなくて、なんていうか、すれ違った」
「へぇ」

成弥は笑みを浮かべただけで、根掘り葉掘り尋ねてこない。
会話が途切れても腹を探るような沈黙ではなく、静かな秋風を心地よく感じた。



事の顛末には触れないままカフェへ着くと、俺はパンプキンカレーを、成弥は真っ黒なよくわからないドリアを頼んだ。

「で? お前の願いはなに?」

なんの前置きもなく話を振られ、4人席の向かいに座っていた成弥をきょとんと見やる。すぐに聡の話題だと腑に落ちたが、また引き戻されたのは意外だった。

「聡にお前を推せばいいの? それか、俺が雅臣を好きなフリして焦らせるとか」

完全に楽しんでやがる。
成弥の不敵な笑みには、総数800名規模の頂点にそぐう絶対的自信が透けていた。

「……もし聡から相談されたら、のってやって」
「は? それだけ? それで聡が俺になびいたらどうすんの」

冗談とわかっているが、絶対にありえない、とは言えない。成弥と聡は1年から同じクラスだし、俺たちが絡むようになったのも聡を介してだった。
――でももしそうなったとしても、こいつに勝てばいいだけのこと。

「俺が事前に頼んどけば、いざ相談受けたときスルーしにくいだろ」

まじめな話、この類の悩みは人を選ぶ。誰彼構わず話せるわけじゃない。

成弥はぽかんと目を丸くしたのち、ははっ、と笑ってコップの水を飲んだ。

「聡が心配だって素直に言えよ。そしたら俺も、めんどくせぇし放っとこう、とは思わないかも」

いつもの軽いノリで言われると、どこまでが本心か読めなくなる。でもこのテキトーさがちょうどいい。関心を持たれ過ぎるのは苦手だ。……たぶん成弥も。

「てかさ、このあとは解散でいい? そのシケたツラが続くなら女の子の誘いにも乗れないじゃん?」

――――まじかよ。

思いがけない指摘を受け止めきる前に、若い女性の店員が料理を運んできた。ハロウィン限定メニューを頼んだからか、木製トレイの上には料理とコーヒーと、ジャック・オ・ランタンがデザインされたメッセージカードまで添えられている。

【お会計の際は、ぜひ合言葉を! 『トリックオアトリート』】

この謎メッセージを一目見て、話題の矛先が替わった――と、気が緩んだ。

「まぁ、お前が感情豊かなのは聡と一緒のときくらいか」

タチ悪すぎ。追い打ちをかけてきた成弥はこちらには目もくれず、カードを摘んで興味深そうに眺めている。

「……そんなわかりやすい?」
「さあ? バレバレならお前らの創作マンガとか出回ってるかもな」
「そんなん誰が読むんだよ」

一瞬だけしおらしくなった心を立て直し、俺はカレーを頬張った。

最近最終回したマンガ談義の傍ら、ふと嫌気が差す。
既に何度もカレーを口に運んでいるのに、具材がジャガイモではなくカボチャだと今更気づいた。ついでにさきほどの成弥の心境を代弁すると、わかりやすいか訊いた時点で、“わかりやすいに決まってる”。……はぁ。

気晴らしで成弥と出かけたつもりが、結局頭の中は聡のことばっかりだ。

成弥と別れた帰り道、物思いにふける時間は十分にあった。


小学3年か4年のころ、公園で遊具から落ちた女の子がいた。俺は大人を呼ばなきゃと辺りを見回してオロオロしていたのに、聡は真っ先に女の子に駆け寄った。

――大丈夫? どこがイタイ? 動ける?

女の子に向けられた聡の声は、俺まで落ち着くほど優しかった。どんなに記憶がおぼろげでも、まだ少し幼くて丸みのある声色だけは、いまでも鮮明に覚えている。

忘れられないといえば、中学のとき、男子たちの陰口を聞いたあとの聡もそれだ。

『なんであんなやつがモテんだよ、顔が綺麗なだけじゃん』

――なぁ臣、あいつら自分で褒めてんのに気づいてないな。

その発言が天然か気遣いかはわからない。ただ、気まずい雰囲気が聡の笑顔で一掃された。キレイな顔だと言われて動じなくなったのも、これがきっかけだった。

それからもうひとつ。ストーカーじみた女子が現れたときの聡のアホな提案は、頭にこびりついているどころか、もはや武勇伝だ。

――オレと靴箱入れ替えてみない? どれだけ臣のことが好きか確かめよ。

犯人がいつ気づくかと試すうちに、俺の靴箱はクラスメイトたちが日替わりで使うようになり、気味悪い贈り物のウワサも抑止力として広まった。
聡が事情を話し、協力を求めたから成せたこと。俺じゃ到底無理な解決法だった。


電車のドア窓をぼんやりと眺めていると、成弥の言葉が頭を過ぎる。
――俺の願いはなんなのか?

正直なところ、よくわからない。

誰に頼まれなくても、俺は聡を友だちだと思ってる。でも一方で、聡との思い出は自慢話をしている感覚になる。それくらい遠い存在だ。



家に着くと、特にやることもなく自室のパソコンを起動する。あっさりと帰ってきたわりには、時刻は16時半になろうとしていた。

俺と聡はまるで違う。それはお互いのゲーム環境も同じ。俺は家庭用ゲーム機を持っていないし、聡は自分のパソコンを持っていない。だからこそそれぞれの家に行く意味も、楽しみもあった。

でも、PCオンラインゲームは1台のパソコンで2人同時に遊べない。

今日やる予定だったシューティングゲームは、元々PCゲームとして配信されていた。それが家庭用ゲーム機(コンソール)版として正式リリースしたのは、昨日の午前0時。ようやく2人で遊べるはずだった。

「おねがいします」

ヘッドセットをつけて、ランダムに選出された仲間へ敬意を払う。

挨拶を返してくれる人、ボイスをオフにしてテキストで反応する人、それぞれのスタイルでメンバーが揃うのを待つ。世界的な大会も催されるビッグタイトルなだけあって、遊び方も飛び交う言語も様々だ。

1ゲームが終わると、また新たなマッチングを待つ。

『おねがいしまーす』

最後の一枠が埋まった直後、ヘッドフォンから聞こえた声にどきりとした。

……いや、気のせいかもしれない。

『ライト、小屋の裏に敵ツー』
「プッシング」
『サイドワン! ロー、ロー!』

声の聞き分けはできるが、俺のヘッドセットは格別いいものじゃない。それでも似ている。世界規模なら、聡とそっくりな声の主がいる可能性もあるけど……。

「あざました。GG」

1ゲームが終わってもよし次、とはなれず、俺は飲み物をとりに席を立った。
戻って真っ先に目についたのは、画面の右下にあったフレンド申請のポップアップ表示だった。半信半疑で承認すると、間髪入れずにパーティの誘いが届く。
俺は確信をもって、ボイスチャットの設定をパーティのみに切り替えた。

『なんで名前ちがうの?』

第一声から“宿題やった?”のノリで尋ねられ、フッと口元が緩んでしまう。もし人違いだったらとは思わないのか、こいつは。

『てか臣、ランクも落ちてるじゃん』
「あー、まぁ。地味に凹むから触れんなよ」

このアカウントは、聡と一からやりたくて先月のうちに作り直した。でも正直に言ってしまうと、聡がまた深読みしかねない。

ろくな言い訳ができなかったが、笑い声が漏れ聞こえてほっと胸を撫で下ろす。

「お前こそヘッドセット買ったの?」
『だって臣と遊ぶなら必要じゃん? だから昨日――』

聡の声が途切れたのは回線の問題じゃないだろう。

昨日鉢合わせたとき、聡はスポーツバッグの他に、もうひとつ紙袋を提げていた。それが何なのか訊く間もなく別れたが、ひとりで先に帰った聡は、どんな気持ちだっただろうか。

「……やる?」
『おうっ!』

聡の声が弾んでいる。その顔は見えないのに、つられて俺まで微笑んでしまう。

聡への想いを自覚したときから、拒絶される可能性はずっと頭の片隅にあった。でも傷つけるとか、悲しませるとか、怒らせるとか、そんな結果は想像になかった。

もういい。恋だ友情だと曖昧な境で悩んですれ違うくらいなら、友だちとして割り切る。そもそもこだわってはないし、どんな関係でも聡が大事なのは変わらない。

「聡いくぞ。スリー、ツー、ワン」
『ナイス臣っ!』

ろくに休憩も挟まず、2ゲーム、3ゲームと重ねていく。

成弥と一緒にいると、波長が合うと感じることが多々ある。ただ、息を合わせるとなると聡が1番だ。共に過ごした月日を、肌で実感する。

一度吹っ切れてしまうと、いつかの日のように、聡と遊ぶのがただただ楽しかった。



『んんっ』

伸びでもしているのか、聡の息遣いが耳をくすぐる。

時刻は20時になろうとしていた。とてつもなく早い3時間だったのに、それ相応の満足感と疲労感もある。

思えば、聡とこんなに長々と通話したのは初めてだ。

……明日になれば、またいつもどおり顔を合わせる。登校ついでに聡の家のチャイムを押して、おはよ、と言い合うことになる。
この恋心を引きずらないためにも、いまのうちにしっかりと切り替えたい。

「聡。なんでキスのこと気づいた?」

さらりと訊いた反動か、沈黙が緊張を煽る。
ヘッドフォンに閉塞感を覚えるほど、耳に神経が集中していく。

『……なんとなく、臣に名前呼ばれた気がしてた』

聡の声が聞こえると、相槌の代わりに、ついため息が零れてしまった。

『意識がはっきりしたら、その、キスした気がして。でもそんなわけないし、夢だと思ってた。なのにこの前、臣が夢と同じ呼び方したから』

この前というのは、ブラジャーの一件があったときだろう。それまでの2年間、幾度となく名前を呼んだはずなのに、なんで?

「……そんな違う?」
『違う。声だけでわかるくらいには、全然ちがう。……下心ある』
無意識だ。

聡が気まずそうに答えるくらいだから嘘ではないはず。でも、だとしたら、どうしようもないだろ。

「聡、好きだ。……たぶん、この気持ちは消えない」

いま恋愛を切り捨てたとしても、俺はきっとまた聡に惹かれる。何度も、何度も。

「お前の好きとは違うけど、」

俺の想いはここで途絶えた。ボイスチャットがぶつりと切れ、畳みかけるように、画面の右下に聡のログアウト表示が出る。

「ずっと一緒にいれたらいいなって、思ってる」

無意味な足掻きを終えるとヘッドセットを外し、天井を仰ぐ。

つい数時間前、聡の想いを優先しようと決めた俺はどこへいったのか。

――――また怒らせたよな。

ふーっと深く息を吐いて目を閉じる。
瞼の裏で、聡が睨みつけてくる。会話中は顔なんて見えていなかったのに、その表情はまるで――

言い知れない悔しさと葛藤していた最中、バンっ!と自室のドアが音を立てて開いた。突然現れた聡は一転して丁寧にドアを閉め、躊躇いがちに振り返る。

ほんの一瞬、泣いているのかと見間違った。

「もう無理! だってさ、耳元で臣の声が。しかも……とにかく無理ッ!」

えっと……。

俺があ然としている間も、何か言え、と聡が目で訴えてくる。自分よりも混乱しているやつを見ていると、冷静になるというか、段々と面白くなってきた。

「とりあえず外行くか?」

渋々と頷いた聡と一緒に部屋を出る。

今日は会えないと思っていた聡が、見慣れた白いスウェット姿で半歩ほど後ろをついてくる。どうやらまだ、ギリギリ見限られてはいないらしい。

この時間を大事にしたいと思うと、自然と足取りは緩やかになった。
とぼとぼ歩く聡を視界の端に捉えつつ、付かず離れずの距離を保つ。

友情か、恋か。そのどちらかを選ぶよりもしっくりくる表現が、ひとつある。

――聡は特別。
他の誰より、聡は特別な存在だ。

「……まじで最悪だよ。これでもう一緒にゲームもできない」

ぼそりと聡から零れた愚痴が、街灯を反射して光るアスファルトへ落ちる。

「聞こえてくるんだよ、臣の息遣いとかさ。耳元で」

そうだな、と内心頷く。なにか言葉を返すより、受け止めるべきだと思った。

「なんで臣は平気なんだよ」
「え……? あー、家を奇襲するほどお前にエロさは感じない」
「はあぁぁ? じゃあなんでキスなんてすんだよ」

勢い余って口走ってしまったのだろう。不機嫌さ丸出しでこちらを見上げた聡は、目が合った瞬間、またすぐに顔を背けた。

「あのときは、愛おしいなって思った」

包み隠さず答えると、聡が一段と俯く。

聡は黙ったまま、それでもひとりで帰ろうとはしない。

宛もなく出てきてしまった俺は、ひとまず近くの公園へ入った。
街灯の足元にあるベンチを素通りしてブランコへ座ると、聡も隣のブランコに腰を下ろす。互いが揃って手を伸ばさないと届かない、俺たちに適した距離だ。

じっとしていると夜風が少し肌寒い。良くも、悪くも。