宥介が出発を予定していた時刻になっても、一行は外に出ていなかった。

 詠子が弘を叩き起こし、外に出ようとしたら、弘がこんなことを言い出したのだ。

「あの、今日はここで休むってことでいいんじゃないでしょうか?」

 時刻は十四時を過ぎている。日没が十八時とするのなら、四時間は探索することができる。弘はその探索の時間を捨てて、この狭い二人用の小屋で今日を終えようというのだ。これ以上歩きたくないという思いが透けて見えて、詠子は思わずため息を吐いてしまった。

(お前が動きたくねえだけだろうが。充分休んだんだから動けよ)

 可愛い詠子はそんな悪態を心の中にしまって、ごめんなさいという思いを込めて宥介を見た。宥介にはその思いが伝わったのか、苛立ちすら見せずに答えた。

「日没まではまだ時間がある。もう少し探索しておくほうが早くクリアできるはずだ」
「てゆーかここ二人用ですしね。五人で休むにはちょっと狭いかも」
「でも、この先に小屋があるかどうかわからないじゃないか。見つけたところで休むほうがいいんじゃないのか?」

 弘はどうしてもこの小屋から出たくないようだ。動きたくないのか、それとも外に出るのが怖いのか、詠子には判断できなかった。どちらにせよ、ここで止まるという選択肢を受け入れるつもりはなかった。

 宥介は静かに考えて、弘が折れるような案を出してきた。

「弘くんだけここで休んでいてくれても構わない。東端の石碑を確認したら戻ってくるよ」
「も、戻ってくるって、道はわかるんですか?」
「わからない。ここに戻ってこられる保証はないけれど、動きたくないのならそうするしかないだろう?」

 それは事実上、弘を切り捨てるという選択に他ならなかった。ここで動かないような人間はこのチームに要らない、と言外にほのめかしているのだ。弘にもそれは伝わったのだろう、顔色があまり良くなかった。

 早苗が詠子のほうを見た。なんとかしてほしい、と訴えかけられていると思った。こういう場面で声を上げるのは可愛くないのだけれど、早苗と宥介の好感度を稼ぐなら、ここは口を開くしかなかった。

「弘くん、行こ。小屋はまたすぐにあるよ。早くゲームをクリアしないと、いつまでもわたしたちこのままなんだよ」
「う、詠子、怖くないのか? ここにいたら絶対に安全なんだぞ?」
「怖いよ。でも、行かなきゃ。ね、行こうよ」

 本当は恐怖心なんてなかった。詠子の中では、まだこれはゲームだった。命のやり取りが発生するような、恐ろしいゲームではなかった。ただの宝探しのようなものだ。

 詠子は弘の手を握り、弘の瞳を見つめた。弘は明らかに怯えていた。

「大丈夫だってばぁ。先頭を歩くわけでもないし、ちょっとした山登りだと思えばさぁ」
「そ……そうか。詠子は、行きたいんだな」

 弘の顔には落胆の色が見えた。詠子は自分の味方をしてくれると思っていたのかもしれない。

(手間かけさせんなよ。行くっつってんだからさっさと行く準備しろよな)

 詠子は心の中で悪態をつきながら、表面上はにこやかに笑う。弘は俯きながら、ゆっくりと首を縦に振った。

「わかった。行くよ」
「うんうん、それがいいよ。宥介さん、みんなで一緒に行きましょ」
「そうか。じゃあ、出発しようか」

 宥介は急いでいるように感じられた。日没までの時間を気にしているのかもしれない。

 五人で揃って小屋から出て、また森の中を歩く。太い木の根が道まで伸びていて、下を見ていなければ躓いて転びそうになる。詠子は相変わらず最後尾で、全員の様子を見ながら宥介を追いかけていた。

 弘と菜美の速度はやはり遅い。あるいは、宥介が速すぎる。登山の経験でも豊富にあるのかと思ってしまうくらい、宥介はひょいひょいと歩いていく。救いなのは、自分が早いということを自覚していて、時々振り返って立ち止まってくれることだった。おかげで詠子が声を張り上げて宥介を呼び止める必要がなくなる。

「弘くん、大丈夫? いったん休憩する?」

 早苗が弘に優しく声をかけている。弘は嬉しそうな笑顔を浮かべながら応えた。

「いや、大丈夫だよ。早苗ちゃんは体力あるんだね」
「そんなでもないよ。さっき小屋で休憩したから、それで回復したのかな」
「そうかあ。俺も寝たんだけど、そんなに回復できなかったなあ」
「ぐっすり寝ていたね。やっぱり疲れているんだよ」
「普段こんなに歩くことないからなあ。早苗ちゃんは運動部なの?」

 彼女である自分を差し置いて、可愛い早苗とでれでれしながら話している弘の姿を見ると、天罰でも当たればいいのに、と詠子は思ってしまう。自分よりも早苗のほうが可愛いのは認めるけれど、だからってそんなに露骨に早苗とばかり話さなくてもいいのに。

 詠子が苛々しながら歩いていると、宥介が足を止めて地面を見下ろしていた。その視線の先には宝箱があった。開けてくださいと言わんばかりに、銀色で縁取られている宝箱は目立っている。

 宥介は開けるかどうか悩んでいるようだった。詠子が近づくと、宥介は詠子のほうを一瞥して、尋ねてきた。

「詠子ちゃん、どう思う? こんな罠っぽい宝箱、開けるか?」
「何か仕掛けられてそうですよねぇ。でも、何かいいもの入ってるかも」
「開けるか。詠子ちゃん、離れて」
「宥介さんが開けるんですか?」

 今こそ弘が役に立つ時だと思った詠子は、宥介に問いかける。宥介は笑みすら浮かべずに言った。

「ぼくしかいないだろう。詠子ちゃんに開けさせるわけにもいかない」
「や、ほら、弘くんだっているじゃないですか」
「開けたがらないだろう? 説得する時間がもったいないよ」

 そう言って、宥介は宝箱を器用に蹴り開けた。その瞬間、宝箱の中から水が噴射される。宥介は腕で首を守るようにして、水が首輪にかからないようにした。宥介の胸から下腹部までがびしょ濡れになってしまった。しかし首輪が濡れなかったためか、宥介に水濡れのペナルティが宣告されることはなかった。

「ゆ、宥介くん、大丈夫?」

 菜美が慌てて宥介に駆け寄る。しかし宥介が見ているのは宝箱の中身だった。

「コンパス、か?」

 宝箱のサイズに見合わない、小さな方位磁針のようなものが入っていた。宥介が手に取ると、針がぐるぐると回り、一か所で止まる。それは確かに方角を指しているようにも見えた。

「これで東に行きやすくなったな。このコンパスが正しいなら、ぼくたちが進んできたのは東で合っているはずだ」

 宥介は珍しく高揚しているようだった。ゲームクリアのための重要なアイテムを入手したからかもしれない。地図とコンパスがあれば、探索がぐっと楽になるのは間違いなかった。

「行こう。足元、木の根が出ているから注意して」

 宥介は菜美にそう言って、自らどんどん進んでいく。コンパスを手にしたことで、宥介のスピードがますます上がってしまっていた。弘はついていくのが精一杯どころか、少し遅れ気味になってしまう。

「弘くん、少し休もう? そのほうがいいよ」

 早苗が弘のことを気遣って、荒い息をする弘の背中を撫でる。それは本来彼女である詠子の役目のはずなのだが、詠子はその役目を放棄してしまっていた。早苗がやってくれるのなら、自分は全体を見る最後尾の役割に徹することができる。弘のケアをしながら宥介との距離を測るなんて、それはなかなか難しいことだ。

「ち、ちょっと、休みたい。宥介さん、早いよ」

 弘が泣き言を言ったので、詠子は仕方なく宥介を呼び止めた。

「宥介さーん、ちょっと休憩しましょー!」

 詠子が声を張り上げると、宥介はすぐに足を止めた。菜美を連れて戻ってくる。

「ごめん、少し速かったかな」
「うぅん、あたしは平気だったんですけどねぇ。弘くんがちょっと」
「すんません。俺、体力なくて」
「いや、いいんだ。とにかく少し休もう。それからまた出発すればいい」

 宥介が言い終わらないうちに、弘はその場に座り込んでしまう。女子である早苗や菜美がそうなるならともかく、男性である弘がいちばん最初に音を上げるというのは、どうなのだろう。自分が付き合っていた男はこんな奴だったのか、と詠子は思った。

 各々、飛び出ている木の根や切り株に腰を下ろし、休息する。宥介だけが座ることもせずに周囲の木を調べていた。詠子はその様子が気になり、宥介のところに行った。

「宥介さん、何してるんです?」
「一度通ったかどうかを調べるための目印をつけているんだ。こうしておけば、迷ったとしても何度も同じ道を通る必要がなくなるだろう」
「わ、さっすがぁ。宥介さん、絶対こーゆーの慣れてますよねぇ」
「慣れてないって。詠子ちゃん、休まなくて平気なのか?」
「はい。あたし体力には自信あるんですよ。まだまだ平気ですっ」
「足を挫いたりしないようにね。怪我人を庇いながら歩くのは難しそうだ」
「はぁい。気をつけまぁす」

 詠子が少しおどけた様子で応えると、宥介はほのかに笑った。

「そぉいえば宥介さん、服乾きました? さっきめっちゃ濡れましたよね?」

 宝箱を開けた時の水トラップで、宥介の服は濡れてしまっていた。まだ乾いたようには見えない。

「これくらい、大したことないよ。濡れていたからって寒いわけでもないし」
「外が冬じゃなくてよかったですよね。ちょうど秋くらいを想定してるんですかね?」
「そうだろうね。暑くも寒くもない、適温を維持しているんだろう」

 森の中は多少涼しいくらいで、寒いというほどでもない。宥介の言う通り、人間にとって適温を維持するようにプログラムされているのだろう。これが酷暑や極寒でなくてよかったと詠子は思う。

 宥介は腕時計を確認する。詠子がちらりと覗き見ると、もう十六時を過ぎようとしていた。

「そろそろ小屋を探したほうがいいかもしれないな」
「そぉですね。日没は何時なんでしょう?」
「六時くらいじゃないかと思っている。それまでに見つけられればいいけれど」

 まだあと二時間はある。小屋を見つけることくらいはできるだろう。詠子は楽観視していた。

「みんな、行こうか。小屋を探したい」

 宥介の呼びかけで全員が立ち上がる。弘は渋々といった感じで。

「地図に小屋は書いてないんですかぁ?」
「書いていない。歩きながら探すしかないね」
「うぅん、残念。仕方ないですよね、行きましょ」

 宥介が先頭を歩き、弘、早苗、菜美と続いて、また最後尾が詠子になる。これも宥介の好感度のためだと自分を納得させて、詠子はその隊列のまま進む。

 森の中は景色がほとんど変わらず、同じところをぐるぐる回っているような気がしてしまう。それは詠子だけではないようで、菜美が不安そうに詠子に話しかけてきた。

「ねえ、ここ、さっきも通らなかった?」
「似てますよねぇ。宥介さんに訊いてみます?」
「う、ううん、そこまでじゃないから、大丈夫。宥介くんはきっとわかってるから」

 それが遠慮なのか、嫌われたくないからなのか、あるいはその両方なのか、詠子には推し量れなかった。菜美は思ったことをそのまま口に出せないタイプの人間なのだろう。ストレスを溜め込んでしまいがちな人種だ。詠子にはその気持ちがわからない。

 進めども進めども広がるのは森で、森の出口すら見えてこない。時間だけが過ぎていき、体力と気力が奪われていく。辺りは次第に暗くなってきて、足元の木の根を判別するのが難しい時間帯になってきていた。まだ小屋は見えてこない。

「まずいな。日没が近い」

 宥介が珍しく焦りを感じさせる声で言った。その焦燥感は一瞬で全員に伝播する。

 さらにその焦りを増幅させるように、サイレンが響き渡った。一度目の、警告のサイレン。

「や、やばいよ、サイレンだ」

 弘が過敏に反応して周囲をきょろきょろと見回す。宥介は弘を落ち着かせるように言う。

「まだ一度目だ。急いで小屋を探そう」

 宥介は後ろを振り返ることなく歩いていく。遅れないように弘と菜美が必死に付いていこうとする。早苗は最後尾の詠子と一緒に歩く。

 小屋はない。木々の向こう側から小屋が現れることを期待して覗いてみても、小屋は出てこない。この一帯には小屋がないのではないかと思ってしまう。

 宥介は後続が自分を見失わないぎりぎりのラインまで先へ進み、小屋を探している。弘と菜美はついていくので精一杯だろう。早苗と詠子も小屋を探してみるが、それらしい建物は見つからない。

 詠子は徐々に焦りを覚えつつあった。二度目のサイレンが鳴れば、本当に殺されてしまうかもしれない。そんなのは嫌だ。まだやりたいことはたくさんあるし、こんなところで死にたくない。早く、早く、小屋を見つけなければならない。

「うわっ!」

 弘が木の根に躓いて転倒した。舌打ちしそうになったところを堪えて、詠子は弘を助け起こす。早苗も近くまで来てくれて、二人で弘を立ち上がらせた。

「弘くん、大丈夫? 足捻ってない?」
「あ、ああ、大丈夫。ちょっと転んだだけだよ」
「よかったぁ。じゃ、急ご」

 暗くなってきた森の中を走りだす。まだ辛うじて宥介の姿を捉えることができていた。詠子が手を大きく振ると、宥介がそれに気づいて手を振り返してくれる。宥介なら、互いの距離感がどれくらいなのか測ってくれることだろう。

 宥介を先頭に、日の光が入らなくなってきた森を進んでいく。まだ小屋は見つかっていない。

 そこで、無情にも二回目のサイレンが鳴った。腹に響き渡るような、不快な音だった。

「ど、どうすんだよ、バケモノが出てきちゃうだろ」
「弘くん、走って! 宥介さんについていかなきゃ!」
「ひ、ひいっ、俺まだ死にたくねえよ!」

(誰だってまだ死にたくねえよ! いいからさっさと走れ馬鹿野郎!)

 五人は縦に長く並んだ隊列で走る。宥介は時折詠子の姿を確認して、そのまま走り続ける。詠子でさえもついていくのがやっとだった。次第に息が切れてくる。

 がさがさ、と音がする。自分たちが走っている音ではない。もっと別の方向から聞こえてくる、草木を分ける音。

 生い茂る木々が割れた隙間、それが姿を現した。

 白い仮面を被り、白い装束を着た人間。仮面は耳まで口が裂けた模様が描かれており、頭の頂には二本の短い角が生えている。手にしているのは、水鉄砲。それだけがミスマッチにも思えるが、このゲームでの水鉄砲は凶器になり得る。まさに、プレイヤーを殺すために来たバケモノだった。

「う、うわああああ!」
「きゃあああああ!」

 弘と菜美が同時に悲鳴を上げる。早苗は悲鳴こそ上げなかったものの、恐怖と驚きで言葉を失ってしまっているようだった。

 これが、バケモノ。詠子は嫌でもその姿が目に焼き付いてしまった。

 バケモノが水鉄砲を構える。誰を狙っているかは定かではないが、要するに首に当たらなければよいのだ。詠子は足が止まっている三人を追い立てた。

「早く! 走って走って!」

 詠子が早苗を押すと、早苗は我に返ったように走り出した。問題は弘と菜美だった。二人はバケモノを見つめたまま動こうとしなかった。

(何やってんだよグズ! 逃げなきゃ殺されるんだぞ!)

 そう言いたい気持ちをぐっと堪えて、詠子は早苗に指示した。

「早苗ちゃん、菜美さんを!」
「う、うん! 菜美さん、行きましょう!」

 早苗が菜美の腕を引っ張っていくのを見届けて、詠子は弘の手を引いた。

「弘くん、行くよ! 逃げるの!」
「に、逃げるって、どこに行くんだよ!」
「わかんないけど、逃げるの! 早く、ほら、行くよ!」

 詠子は無理やり弘の手を引いて走り出した。そのすぐ後ろでばしゃんと音がして、水鉄砲が噴射されたのだと悟る。やはり、あの白いバケモノはこちらを殺す気なのだ。

 バケモノは機敏な動きで木の根を乗り越え、迫ってくる。幸いなのは、水鉄砲では飛距離がさほどないということと、首輪に当たらなければダメージにならないというところだった。逃げ続けていれば、殺されることはなさそうだった。逃げ続けることができるのなら、の話だが。

 詠子が振り返ると、白い仮面のバケモノはまだついてきていた。詠子も息が切れてきて、最初と同じようなスピードを出すことができなくなってくる。対してバケモノは、疲れた様子も見せずに迫ってくる。

 逃げきれない? ここで終わりなのだろうか。詠子は浮かんだ考えを振り払い、懸命に足を動かして逃げる。

「小屋だ! みんな、頑張れ!」

 宥介の声が遠くから聞こえた。宥介は豆粒みたいに小さく、そこまでの距離の遠さを感じさせる。しかし小屋があったというのなら、そこまで逃げればこちらの勝ちだ。詠子は自分の足に鞭を打って、がむしゃらに走る。

 白い仮面のバケモノが水鉄砲を放ったのか、詠子の背中が濡れた。あと少し上だったら、首輪が発動していたところだろう。詠子は死の恐怖を感じた。源大の苦しみながら死んでいく様がありありと思い出させられた。

(こんなところで死んでたまるかよ。ふざけんじゃねえ)

 木々の間を抜け、開けた場所に出る。そこには一階建ての小屋があった。既に宥介は中に入っており、早苗と菜美が今辿り着いたところだった。

 行ける。間に合う。詠子は足を動かして、弘を半ば引きずるようにしながら、小屋の入口へと向かっていく。

 弘が我先にと小屋へ入る。詠子も滑り込むようにして小屋に入った。宥介が素早く扉を閉めて鍵をかける。びしゃん、と水がかかる音がした。けれど、バケモノが小屋の中に入ってくる様子はなかった。絶対に安全というルールは守られているようだった。

 誰もが荒い息をしていて、その息遣いだけが小屋の中に響いていた。

 詠子は放心状態だった。バケモノに命を狙われたということが、詠子の中での認識を大きく変えていた。これはただのゲームではない。命のやり取りが発生するゲームなのだ。可愛くいようとか考えていたら死んでしまうかもしれない。ここでは、可愛さを考えるよりも生き残ることを優先するほうがよいのかもしれない。

 小屋は二人用の設備だった。タオル類だけ六人分用意されているが、ベッドは二つしかないし、ダイニングテーブルの座席も二つだけだった。ロッキングチェアが一つある程度で、ベッドに座らなければ全員の座席はなかった。アイランド型のキッチンとダイニングが一体化していて、その先にリビングがあり、ベッドが並んでいる。

 宥介が壁に寄りかかりながら口を開いた。全員が荒くなった息を整えていた。

「あれがバケモノか。普通の人間だったな」
「変な仮面被ってましたね。武器も水鉄砲でしたし」
「出会っても逃げられることはわかったね。それだけでも収穫だよ」

 宥介は食料が備蓄してある棚から水を取り、口に流し込む。ふう、と一息ついて、全員の顔を見ながら言った。

「今日はここで夜を越そう。少し狭いけれど、仕方ないね」
「はぁい。ベッドはどうします? 二つしかないですけど」
「ぼくは要らない。四人で決めてくれればいいよ」
「だって。弘くん、どうする?」

 詠子はわざと弘に話を振った。男が辞退する流れができていると思っていた。弘が遠慮して、菜美、早苗、詠子の三人で使う流れがベストだろうと考えていた。

「じゃあ、じゃんけんにしよう」
「えぇ?」

 だから、詠子は思わず声を出してしまう。昨日もベッドを使っていて、昼にもベッドを使っているくせに、今夜も譲らないつもりなのだ。そんなことが許されるのか。

「私はいいよ、じゃんけんで」
「うん、わたしも」

 菜美と早苗は了承してしまう。やむなく、詠子もその流れに乗る。

「じゃーんけーんぽんっ」

 じゃんけんの結果、早苗と弘がベッドを使うことになった。

 詠子は納得がいっていなかった。じゃんけんの結果とはいえ、また弘がベッドで眠るのだ。役に立っているわけでもないのに、どうして弘がベッドを使うのだろうか。

 けれど、ここで文句を言うのは可愛くない。公正な勝負の結果を受け入れるべきだ。詠子は自分にそう言い聞かせて、弘のほうを見ずに宥介のところへ行った。弘と今話したら苛立ちをぶつけてしまいそうだったからだ。宥介なら穏やかな気持ちにさせてくれると思った。

 宥介はキッチンで湯を沸かし、レトルト食品のカレーを温めていた。妙に生活感のある風景に、詠子は少しだけ現実に引き戻された気がした。

「詠子ちゃんも食べる? 今なら一緒に温めるよ」
「あっ、じゃあお願いしまぁす」
「甘口と激辛と超辛があるけど」
「じゃあ甘口で」

 どうして中辛のように間を取った辛さがないのだろうか。甘いか辛いかの二択しかないのなら、甘口を選ぶほかない。

「詠子ちゃん、辛いのは苦手なんだね」
「や、激辛と超辛に戦いを挑む勇気がなかっただけです。宥介さんは?」
「ぼくは超辛だよ。このシリーズはそこそこ辛くておいしいんだ」

 涼しい顔でとんでもないことを言っているが、詠子は拾わないでおいた。

 パックの白米を電子レンジで温めて、レトルト食品のカレーをかける。朝の味気ないパンとは違い、しっかりとした味の温かいものを食べることができることが嬉しかった。

「俺、シャワー浴びてきますね」
「はぁい。いってらっしゃーい」

 弘がシャワールームへと姿を消す。菜美と早苗は話していて、まだ夕食を摂るところではないようだった。詠子は宥介と二人でカレーを頬張る。甘口のカレーは子ども向けのような味で、詠子には少し甘すぎた。しかし贅沢は言っていられない。

 カレーを食べていたら、不意に宥介が詠子に尋ねた。

「詠子ちゃん、本当に弘くんと付き合っているのか?」
「はい? そうですけど、どうしてですか?」
「いや、そう見えなかっただけだよ。もう長いの?」

 何か裏がありそうだとは思ったが、詠子は問われたことに答えることにした。

「半年くらいですかねぇ。向こうがしつこくアタックしてくるから、じゃあ付き合ってみるか、って感じで」
「ああ、弘くんからなのか」

 宥介は何か得心したようだった。もしかしたら弘に強く当たっているところを見て、関係が悪くなったと思われてしまったのかもしれない。今一度、気を引き締めなければならない。

 可愛く、可愛く。誰から見ても、どんな時でも、可愛くしなければならないのだ。

「宥介さんは彼女いないんですかぁ?」

 詠子はいないと知りながら尋ねる。いるのなら菜美がラビットハントに誘うはずがない。

「いないよ」
「いたことは?」
「あるよ。もう別れてしまったけれどね」

 宥介は苦笑していた。あまりよい話ではないのだろうと察して、詠子は話の先を変えた。

「菜美さんとはどーゆー関係なんです?」
「同じ学部でね。講義を受けている席が近くて、それで仲良くなったんだよ」
「一緒にラビットハントに来るくらいですし、かなり仲良いんですね」
「そう、かもしれないね。菜美がどう思っているのかは知らないけれど」

 菜美さんはあなたのことが好きですよ、と伝えたくなってしまう。なんとか無事に二人をゴールさせて、告白を成功させたかった。そのためにも、まずはこのゲームをクリアしなければならない。

「でも宥介さん、モテそう。バレンタインデーとかすごいんじゃないですか」
「そんなことないよ。詠子ちゃんだって今は弘くんがいるだろうけれど、モテるんじゃない?」
「へっへー、実はそうなんですよぉ。意外とモテるんですよねぇ、あたし」

 普段から可愛く見えることを意識している結果だと詠子は思っている。弘と付き合う前は別の男子と付き合っていた。中学生の頃から彼氏が途切れることはほとんどなく、別れれば次の男が声をかけてくる、というサイクルだった。弘のことも別に好きだったわけではなく、その熱意に押されて承諾したのだ。

 モテるんじゃないか、と訊かれたということは、少なくとも宥介にとっても自分は魅力的な女子に映っているのだろう。詠子はそこに安堵した。宥介の前ではあまり可愛い女子を演じられていなかったから、どういう評価になっているか気になっていたのだ。

「弘くんの精神的なケアは任せるよ。少し、疲弊しているようだから」

 宥介は小さな声で言った。詠子は小さく頷くだけに留めた。

(めんどくせえなぁ。飯食って寝てすっきり、ってなってくれりゃいいのに)

 弘がそんな単純な人間でないことは詠子も知っている。弘は昔の失敗や嫌だった記憶を思い出して、掘り返してぐちぐちと悩むタイプなのだ。精神的なケアをしろ、と言われるのも拒否することはできない。

「宥介さんはすごいですねぇ、みんなの様子もちゃんと見てて」
「そういう性格みたいなものだよ。細かい男なんだ」
「宥介さんがこのチームにいてよかったです、ほんとに」
「そう。ぼくも、詠子ちゃんがいてよかったよ」

 二人で微笑みを交わす。その様子を菜美が見ていたことを、詠子は知らない。