待ちに待ったこの日がいよいよやってきた。葛城(かつらぎ)詠子(うたこ)は期待と興奮で高鳴る胸を抑えていた。

 彼氏の小堺(こさかい)(ひろむ)と手を繋いで目的の駅で電車を降り、駅のすぐ近くにあるビルに入る。このビルの一階に、詠子の今日の目的地がある。

 最新の没入型アトラクション、ラビットハント。それが今日の詠子の目的地だ。

「弘くん、楽しみだね」

 詠子はうきうきした気分を抑えきれず、横を歩く弘に話しかける。弘はそんな詠子を見て笑った。

「そうだな。詠子は初めてだもんな」
「弘くんは二回目なんだっけ?」
「ああ。俺は前に友達と行ったことがある。面白かったよ」

 自分が一番ではなかったことに少々の落胆を覚えながら、詠子は可愛く見えるように笑った。この落胆を見せるのは可愛くない。面倒な女になってしまいかねない。

 ラビットハントは最近公開されたアトラクションで、最新技術を用いてVR以上の没入感を体験できると好評だった。特殊なヘルメットとゴーグルを装着して座席に座ることで、脳に直接的に映像を知覚させ、脳波を解析して映像の中で歩いたり走ったりできるのだ。ゴーグルの先の世界で自由に動くことができ、その世界の中に隠れているウサギを探す、というゲームだ。特に十代の若者から高評価を得ており、高校二年生である詠子の耳にもその評判は入ってきていた。

 詠子は友人の話の輪に入るためにも、どうしてもラビットハントを体験したかった。そこで弘を誘い、偶然キャンセルが出た予約枠に滑り込んだのだ。今日の予約は神様が贈ってくれたものに違いないと詠子は思っていた。

 弘を引っ張るようにしながら、詠子は受付の前に来る。受付の美しい女性が頭を下げて詠子を歓迎する。

「ようこそ、ラビットハントへ」
「十一時から予約してます、葛城詠子です」

 詠子が名乗ると、受付係の女性は綺麗な笑顔を浮かべた。こういう表情が自然に作れる人は本当に可愛いのだろうな、と詠子は思う。

「お待ちしておりました。どうぞ、お進みください」

 電車の改札のような入口を抜けて、正面の扉を開ける。

 詠子の目の前に飛び込んできたのは、円筒型の大きな機械と、それに接続された六つの座席だった。座席は六つが直線的に並んでいて、いくつものケーブルが円筒型の機械に繋がっている。近未来感が漂っている部屋には、既に四人の若者が説明を受けながら座席に座るところだった。詠子たちがいちばん最後だったようだ。

 ラビットハントは六人一組で行われるゲームである。詠子が事前に集めた情報によると、学校を模した建物に意識が送られて、与えられたヒントをもとに、六人で協力しながらウサギを探すものだ。だから、詠子はその場での出会いがとても重要になるのだろうと考えていた。

 詠子は先に来ていた四人に目を走らせる。大学生風の男女と、詠子と同じくらいに見える男女。どちらもカップルのように見えるけれど、そこまで親密になりきれていないようにも見えた。もしかしたらまだカップルではなく、親密さを高めるためにラビットハントに参加するという作戦なのかもしれない。ラビットハントは協力して成り立つゲームだから、お互いの仲を深めることにも一役買う、というレビューもあったことを思い出す。

 見たところ、一目でわかるような危ない人はいなさそうだ。詠子はまずそこに安堵した。不良めいた人が六人に入ってくる可能性を考慮していたけれど、その心配はなさそうだった。大学生風の男女はどちらも穏やかそうな顔をしているし、高校生くらいの男女も危なげな雰囲気はない。最も危険なのは自分かもしれない。

 さあ、可愛くしなくちゃ。詠子は自分を激励して、弘の手を引いた。

「行こ、弘くん。あたしたちが最後みたい」
「おいおい、そんなに引っ張るなよ」

 弘の苦笑を横目に見ながら、詠子は座席に近づく。座席の横に控えていたスタッフが恭しく一礼する。

「ようこそ、ラビットハントへ。どうぞお座りください」

 言われるままに詠子と弘がそれぞれ座席に座る。座席は柔らかいクッションに全身が包まれるようなものだった。リクライニングを起こしたベッドのように感じられた。肘置きに腕を置くと、ますます詠子の胸の鼓動は早くなっていく。

「弘くん、あたし緊張してきちゃった」

 隣の座席に座った弘に話しかけると、弘はもうヘルメットを被ろうとしていた。二回目だからなのか、弘には余裕が感じられた。

「大丈夫。俺がリードするよ」
「ほんと? 頼りになるぅ」

 軽口を交わして、詠子もヘルメットを手に取る。たくさんのケーブルが伸びているヘルメットは少し重かった。

「ヘルメットとゴーグルを装着してください。座席に身体を預けてリラックスしてください」

 スタッフの指示の通り、詠子はヘルメットとゴーグルを着ける。ゴーグルの向こう側には校門のような建物が見えている。今からここに行くのだと思うと、詠子はリラックスなどできず、逸る気持ちを抑えることができなかった。

(可愛く、可愛く。五人全員から可愛く見られるように、頑張らねえとな)

 詠子は自分に語りかける。ふうっと深く息を吐いて、自分をリラックスさせようとする。

 しばらくして、スタッフの声が聞こえてきた。

「全員の装着を確認いたしました。皆様、目を閉じてください。それでは、ラビットハント、スタートです」

 座席が倒れていくのがわかる。寝転ぶような体勢になったところで、詠子は自分の意識がどこかへと飛ばされたような違和感を覚えた。無理やり夢の中から引っ張り出されたような、そんな感覚。これまでに味わったことのない、奇妙なものだった。

「ラビットハントへようこそ。私は皆様をサポートするAIのアイと申します」

 頭の中に声が響いてくる。アイなんて、安直な名前だ。もう少し捻った名前にすることはできなかったのだろうか。詠子がそう思った時には、最初の違和感は消え去っていた。

「皆様、ラビットハントのゲーム中は、危険ですので私の指示に従ってください。私の指示に従わなかった場合、何が起こったとしても責任は取れません」

 物騒なアナウンスだ。学校を探索するだけなのに、危険も何もないだろうに。詠子は話半分にアイの声を聞いていた。そんなことより早くラビットハントを始めてほしかった。

「ラビットハントは六人一組で行う探索ゲームです。六人で協力しあいながらゲームに参加していただくようお願いいたします。なお、途中で人数が減った場合でも補充されませんので、脱落しないようにご注意ください」

 ああ、そうそう、脱落することもあると友人が言っていた。詠子はその友人の言葉を反芻する。確か、水がかかると脱落なんだっけ。

「脳との同期が完了いたしました。それでは皆様、目を開けてください。ラビットハントを開始いたします」

 詠子は目を開けた。目を閉じる前に見えていた校門が目の前にある。

 はずだった。

「あれ?」

 そこに広がっていたのは砂浜だった。遠い向こう側までずっと続いている砂の道。右手側には海が広がっていて、左手側には鬱蒼とした森が侵入を拒んでいる。誰が何をどう見ても、ここは学校ではなかった。島の中に学校がある、という話は聞いたことがないし、そもそもそんな建物自体が見当たらない。

「なんだよ、これ?」

 詠子が振り返ると、他の五人が立っていた。これが最新の技術なのか、と詠子は感心する。六人全員がそこにいるように感じさせる技術というのは、いったいどれほど難しいものなのだろうか。

 詠子は試しに一歩踏み出してみる。足には確かに砂を踏んだ感触がある。そんなところまで再現できるのか、と詠子は驚いていた。ラビットハントは没入型アトラクションだと評判を得ていたけれど、これなら確かに没入感は凄まじい。自分がまるで本当にそこにいるかのようだ。

「おい、どういうことだよ?」

 高校生の男子が狼狽えながら空に言う。詠子にはその狼狽の理由が伝わらなかった。近くに立っていた弘のところへ行くと、弘も青ざめた顔をしていた。

「どしたの、弘くん?」
「おかしいんだ。目を開けたら学校にいるはずなのに、全然違うところにいる」
「あー、そだねぇ。どう見ても学校じゃないけど、島マップ? みたいなのもあるんじゃないの?」

 状況が飲み込めていない詠子は適当に話す。それでも弘の顔は晴れなかった。

「アイ! どういうことだよ、俺たちをどこに連れてきたんだ!」

 高校生の男子がアイに叫ぶ。おそらく彼も一度ラビットハントに参加した経験があるのだろう。だから詠子とは違って、弘と同じような反応をしているのだ。

「ここは架空の島です。皆様にはここで新しいラビットハントを行っていただきます」
「新しいラビットハントって何だよ? そんなもの、聞いてないぞ!」
「従来のラビットハントをこう評する方がいらっしゃいました。もっとひやひやするゲームを期待していた、心がひりつくようなゲームを期待していた、と」

 そのレビューは詠子も目にしたことがあった。これだけ没入感があるのなら、臨場感のあるサバイバルゲームのようなものも作れるのではないか。そういうゲームを作ることができたら、もっと面白くなるのに、とそのレビューには書かれていた。そもそもラビットハントは暴力的なゲームではないのだから、人を撃ち合うようなサバイバルゲームとはジャンルが違うのにな、と詠子は思っていた。

 まさか。詠子はこの次のアイの言葉を予測してしまった。

「ですから、私の知能をもってこのゲームを再構築し、命がけで行うようなサバイバルゲームを開発いたしました。皆様にはその新生ラビットハントのテストプレイヤーになっていただきます」
「新生……ラビットハント?」

 大学生風の女性が繰り返す。誰も今の状況を正しく理解できていないようだった。

「では、新生ラビットハントのルールをご説明します」
「待てよ。俺たち、テストプレイヤーになるなんて言ってねえぞ」

 高校生の男子がアイの言葉を遮った。早くラビットハントをプレイしたい詠子にとっては、余計な言葉を挟んできたものだと感じられる。

「いつものラビットハントに戻せよ。やりたい奴がテストプレイをやればいいだろ」
「最初に私がお伝えしたことをお忘れですか。ゲーム中は私の指示に従ってください、と申し上げたはずです」
「知るかよ。さっさと元に戻せよ! 早苗(さなえ)もそう思うだろ?」

 高校生の男子は隣にいた女子に話を振る。彼女は不安そうにしながらも、男子に寄り添うわけではなかった。その様子を見て、詠子は二人がカップルではないと思った。大方、どちらかが相手に好意を持っていて、ラビットハントに誘ったのだろう。これだけ騒いでいるのだから、ラビットハントに誘ったのは男子のほうだろうか。

「なるほど。では、戻して差し上げましょう」

 アイは無機質な声で言った。そんな簡単に戻してもらえるのなら、普通のラビットハントでもよいかもしれない。詠子がそう思った瞬間だった。

 空間からバケツ一杯分くらいの水が生まれ、高校生の男子に降り注いだのだ。男子は避けることもできずに全身ずぶ濡れになる。

「うわっ! な、何しやがる!」

 彼が空を睨むと同時に、けたたましいブザー音が彼の首元から発せられた。見ると、彼の首に巻かれた黒い首輪の中央で赤いランプが点灯し、そこからブザー音が発せられていた。あんな首輪、最初から着いていただろうか。

「プレイヤー松橋(まつはし)源大(げんた)、水濡れを確認。ゲームクリア失敗」

 アイが単調な機械音声で告げる。その直後、高校生の男子、源大が喉を押さえて苦しみ始めた。

「ぐっ……く、くるし、いっ……!」
「源大くん? 源大くんっ!」

 高校生の女子が慌てて駆け寄るも、彼は喉を押さえたまま崩れ落ち、ぴくぴくと痙攣する。そして数秒の後、全く動かなくなる。

 詠子は目の前で起こったことが信じられなかった。弘が詠子に寄り添ってきても、何の反応も返すことができずにいた。

(まさか、死んだってのかよ。脱落って、こーゆーこと?)

 源大と呼ばれた男子の身体が砂のように崩れていく。高校生の女子がそれを止めようとしたのか、手を伸ばしたけれど、何も変わらなかった。まるで最初からそこにいなかったかのように、源大の姿は消えてしまった。

 詠子の疑問には、アイがすぐに答えてくれた。感情を感じさせない声で。

「このように、首輪が水に濡れると脱落となります。道中には様々な水トラップが仕掛けられていますので、それらのトラップを掻い潜りながら、この島に隠されているウサギを見つけ出すことが皆様の目的です」
「あのっ、源大くんは、源大くんはどうなったんですか?」

 高校生の女子がアイに尋ねる。その瞳はもう泣きそうになっていた。

「死にました」
「え……?」
「脳に強力な電流を流しましたので、彼は死にました。このゲームの脱落は、現実世界での死に直結します」
「な、なんだよ、それ! そんなの聞いてないぞ!」

 弘が大声を上げてアイを非難する。アイはこともなげに応えた。

「新生ラビットハント、と申し上げたはずです。従来のラビットハントは異なるゲームですので、従来のラビットハントと同様とお考えになるのはおやめください。これは命がけのゲームなのです」

 その場にいた誰もが息を呑んだ。詠子は素早く残った四人に目を走らせる。

 大学生風の男性は冷静な表情をしている。女性は、男性の近くで怯えている。高校生の女子は、一緒に来た男子を失ったことを受け入れられないでいる。そして弘は、いきなり命がけのゲームに参加させられたことに恐怖を覚えている。

 詠子の取った行動は、彼氏である弘と同じように恐怖心を抱いている彼女。弘の手を取り、不安そうな表情を浮かべた。

「おわかりでしょう。皆様に拒否権はございません。この新生ラビットハントのテストプレイヤーとして、ゲームクリアを目指してください」

「ゲームをクリアすれば生きて帰れる。そういうことだな?」

 大学生風の男性がアイに訊いた。詠子を除けば、唯一この男性が落ち着いていた。

「はい。ウサギを見つけることができれば元の世界に帰ることができます。制限時間はございません。死ぬか、ウサギを見つけるか、そのどちらかでゲームから離脱することができます」
「ラビットハントにはヒントがある。そう聞いていたけれど?」
「ヒントは島の中に隠されています。まずはヒントを探していただき、そのヒントをもとに、島のどこかに隠されているウサギを探していただくことになります」
「おかしいだろ。ラビットハントは最初にヒントが提示されたはずだ」

 弘が食って掛かるも、アイは動揺を見せなかった。

「新生ラビットハントは、ヒントを見つけるところから始まります。従来のラビットハントとは異なると申し上げたはずです」
「そんなの、プレイヤーが不利じゃないかよ!」
「プレイヤー小堺弘。貴方も、ここで離脱したいですか?」

 それは脅しに他ならなかった。源大と同じ目に遭いたくないのなら黙っていろ、ということだった。

「弘くん、落ち着いて。大丈夫、ただのゲームだよぉ」

 詠子は弘の手を握りながら言った。弘は詠子の顔を見て、幾分か冷静さを取り戻したようで、歯噛みして空を睨むだけに留めた。

 僅かな沈黙の後、アイが言った。

「では、全員参加ということで、よろしいですね。ラビットハントを開始いたします」

 参加以外の選択肢はないだろうに。詠子はそう思ったけれど、口には出さなかった。口に出したところで無駄だと思った。

 太陽が高く昇っているから、時刻は昼前か昼過ぎだろう。日の光を遮るものがないせいで、少し暑く感じられた。辺りは虫の声も聞こえないくらい静かで、波の音だけが耳に届いた。

 詠子は改めて周りを見る。ラビットハントは学校を舞台にしているから、ゲーム中は架空の学校の制服を着用させられると聞いていた。新生ラビットハントでもそれは引き継いでいるようで、全員が紺色のブレザータイプの学生服を身に着けていた。ただ、女子もスラックスを着ており、そこは昨今の風潮に配慮したものなのかもしれない。スカートではない自分の制服姿には違和感があった。

 そして、全員の首に巻かれている黒い首輪。これが水に濡れた時点で、先程の源大のように命を落とすことになる。ラビットハントでも水をかけてくるトラップは複数あったと聞いていたから、このゲームでも水には充分注意しなければならない。

 誰も沈黙を破らなかった。詠子も焦れていたが、自分が最初に口を開くわけにはいかなかった。なぜなら、そんな女性は可愛くないと思ったからだ。

 詠子は他人からの目を過度に気にする性格だった。誰からも可愛く見られたいと思う気持ちが強く、男女問わず、すれ違う通行人であっても自分を可愛く見てほしいと思っていた。だから可愛くないと思うことはしないし、可愛いと思うことを積極的に実行する。今も、可愛い女子高生であるために、沈黙を保っている。

 本心では、悪態をついていても。

(おい、早く誰か喋れよ。弘も黙ってんじゃねえよ)

 詠子の悪態は心から漏れることはなく、弘には届かない。詠子は辛抱強く待っていた。

 やがて、大学生風の男性がしっかりとした口調で静寂を破った。

「とりあえず、自己紹介しないか。この五人でゲームをクリアすることになるんだ。お互いのことは知っておいたほうがいいと思う」

 彼がそう言うと、その横にいた女性が同調する。きっと彼が何を言っていても同じ反応だっただろうな、と詠子は分析した。

「う、うん、そうだね。じゃあ、言い出しっぺの宥介(ゆうすけ)くんから」

 大学生風の男性、宥介はちらりと女性のほうを見て、それから詠子たち三人を見た。宥介は真面目そうな見た目で、大学生にありがちな茶髪やピアスといった要素はなく、黒髪は短く整えられていた。この中で唯一、ゲームに対する恐怖心を抱いていなさそうだった。

「ぼくは大槻(おおつき)宥介。大学二年生だ。ラビットハントの経験はない。菜美(なみ)と一緒に参加している」

 大学生風の女性、菜美がその後を引き取る。菜美は茶色のロングヘアを垂らした女性で、目は細長く、それほど美人ではないと詠子は思った。彼女のおどおどとした挙動が今の不安を物語っていた。

「私は畑岡(はたおか)菜美。宥介くんと同じ大学の二年生。ラビットハントは二回目だけど、こんなのとは全然違った」

 次を三人のうち誰が述べるかで、一瞬だけ攻防が繰り広げられた。詠子は弘に喋ってほしかったが、弘が話す気配はなかったので、仕方なく詠子が次を引き取った。高校生の女子は源大を喪ったショックから立ち直っていないようだったからだ。

「あたし、葛城詠子っていいます。高二です。ラビットハントは初めてで、彼氏の弘くんと一緒に来てます。こんなことになっちゃって、びっくりしてます」

 不安さを声に滲ませながら詠子が話す。

 本心では不安感など抱いていなかった。詠子の中では、所詮はゲームだろうという思いが拭えなかった。源大は死んだと言っているけれど、そう簡単に人を殺せるはずがない。自分たちに確かめるすべがないことを利用して、死んだと言っているだけだ。今回の新生ラビットハントだって、本当にただのテストプレイヤーかもしれないのだ。

 詠子が弘を目で急かすと、ようやく弘が口を開いた。

「お、俺、小堺弘です。高二です。ラビットハントは二回目です」

 弘は菜美と同じくらい怯えているように見えた。自分の彼氏がこんなに怯えているのを見ることになるとは思わなかった詠子は、情けなさを感じていた。

(もっと堂々としろよな。あたしの彼氏だって紹介したんだからさぁ)

 そう思っても、詠子は絶対に口に出さない。誰にも本心を暴くことなどできない鉄壁の笑顔を貼り付けて、弘の自己紹介を聞いていた。

 最後になった高校生の女子が、全員の視線を受けて話し始める。

「わたし、西原(にしはら)早苗です。高校二年生で、ラビットハントは初めてです。さっきの源大くんと一緒に来ていました。あの、ほんとに、源大くんは死んじゃったんでしょうか?」

 早苗は目を引くほどの可愛さがあった。黒髪のショートボブ、くりくりとした瞳、守ってあげたくなるような小柄で華奢な身体。可愛さを詰め込んでできた女子高生だと詠子は思った。こんなに可愛く生まれることができたのなら、自分の人生も変わっていたかもしれない。

 早苗は複雑な感情を浮かべた瞳で全員を見回したが、早苗の問いには誰も答えることができなかった。しかし、宥介は静かに言った。

「わからない。それを知るためにも、このゲームをクリアする必要がある」
「じゃあヒント探さないといけないですね。どこにあるんだろ」

 宥介の言葉に同調した詠子だったが、しまった、と自分を叱った。こんなに早く順応し、前向きな言動に従うのは可愛くない。場慣れしているような印象を与えてしまう。

 詠子の言葉が空に消えるわけもなく、宥介は詠子のほうを見て応えた。

「まずそこから探さなきゃいけないんだろう。ヒントがなければウサギを見つけることはできない。そうだよね、菜美」
「う、うん。ヒントがあれば、どの辺りにウサギが隠されてるかわかると思う」
「じゃあ、やることはひとつだ。まずはヒントを探しに行く」
「さ、探しに行くって、宥介さん、どこに?」

 弘が恐怖心を隠さずに宥介に訊いた。詠子からすれば、自分の彼氏だと紹介したのだから、弘にはもっと周囲の目を気にしてほしかった。こんなに怖がっている彼氏など見たくないし、見られたくもない。

 宥介は少しだけ思案して、森のほうを指差した。

「あのAIは性格が悪そうだ。おそらく簡単に見つけられるようなところにヒントは隠されていないと思う。森の中に入っていくほうがいいんじゃないか」
「も、森の中って、この中を行くんですか?」
「それ以外に方法はないだろう。ぼくはそう思うけれど、弘くん、きみは?」

 宥介は弘に意見を求めたが、弘は森を見つめるだけで何も言えなかった。

 どうする。詠子は迷って、また仕方なく口を開くことにする。これも彼氏のためだ。可愛くないけれど、弘の好感度は稼ぐことができるはずだ。

「あたし、宥介さんに賛成です。探しに行かなきゃ始まらないでしょ」
「うん、ありがとう、詠子ちゃん。菜美、きみは?」
「私も詠子ちゃんの言う通りだと思う。行くしか、ないんだよね」
「ぼくは行くしかないと思っている。早苗ちゃん、きみは?」
「わたしも賛成です。源大くんがどうなったのか、知りたいです」

 宥介は弘のほうを見たが、弘は俯くだけだった。それを肯定と受け取ったのか、宥介は全体をまとめた。

「じゃあ、行こう。菜美、水トラップっていうのは、どういうものがある?」

 宥介はラビットハントに参加した経験のある菜美に話を振る。菜美は思い出すような仕草を見せた。もしかしたら少し前のことなのかもしれない。

「私が参加した時は、踏んだら水がかかるような罠とか、紐みたいなものに引っかかったら水が降ってくるとか、そういう感じだったよ。ねえ、弘くんは?」

「俺も、同じです」

 弘は短く答えた。もう少し意義のある情報が欲しかったな、と詠子は思ってしまう。弘は本心では森に入りたくないのだろう。きっと、怖いから。

「なるほど。森の中だと仕掛けやすそうだな。足元をよく見て歩いたほうがいいってことか」

 宥介は誰に言うでもなく呟いた。

 この瞬間、詠子はこのチームのリーダーは宥介に決まったと断じた。周囲の意見をまとめ、チームの方向性を決めるリーダーには宥介が適任だ。自分にその役目が回ってこなくて安堵する。こんなゲームのチームリーダーなんて絶対に可愛くない。

 それならば、何かあった時には宥介に判断を委ねるほうがよい。そうすることで、他の人にも宥介がリーダーなのだと感じてもらうことができる。本音を言えば弘にやってほしい役目だったけれど、弘には無理だ。リーダーが及び腰では誰もついていかない。
「でも、闇雲に探すのもよくないな。詠子ちゃん、どう思う?」

 いきなり宥介が話を振ってきて、詠子は驚いた。そんなもの、男である弘に訊いてほしい。

 しかし訊かれてしまったのだから、答えないわけにはいかないだろう。宥介とは良好な関係を築いておくほうが好ましい。詠子はさほど悩まずに答えた。

「ヒントのヒントもないわけですし、とりあえず行きません? 森の中が危なかったら帰ってくればいいんじゃないですかね?」
「そうだね。ぼくもそう思う。反対の人はいる?」

 宥介が四人を見る。誰も意見を述べる者はいなかった。弘はおそらく行きたくないのだろうが、ここで意見を述べられるほど心臓は強くなかったのだろう。

(んだよ、だっせえな。行きたくねえならはっきり言えよな)

 詠子は心の中でぼやく。それは誰にも拾われることはない。もちろん、外から見てわかるような態度には出さない。詠子はそれを徹底している。

「行こうか。何か見つけたら教えてほしい」
「はぁい。宥介さんに言えばいいですよねー?」

 詠子が言うと、宥介は苦笑した。

「別にぼくじゃなくてもいいんだけど。まあ、ぼくに言ってくれてもいいよ」

 宥介の反応から、宥介は仕切りたがりというわけでもないようだった。周りが何も言わないから、詠子と同じように焦れて、詠子とは違って声を上げただけなのだ。一歩間違えたら自分があの立場になっていたかと思うと、詠子はぞっとした。そんな可愛くない存在なんて自分ではない。

 宥介を先頭に菜美が続き、弘、早苗と詠子が並んで歩いていく。森の中は草木が茂っていて、足元に何が隠されていてもおかしくなかった。宥介は慎重に歩を進めていく。全員靴はスニーカーで、歩き回ることを想定しているような恰好だった。

 宥介は足元を気にしながらも、木の根や伸びている何かの草をひょいひょいと避けながら軽快に進んでいく。その後ろの菜美はそうはいかず、宥介と菜美の間に差が生まれる。宥介がそれに気づき、足を止めて待つ。宥介は後ろもちゃんと見ているんだな、と詠子は感心した。

 弘はさほど運動が得意ではないことは詠子も知っていた。だからこんな山登りじみたことなんて弘には向かないだろうと思っていた。しかも、迂闊に何かを踏んだら死んでしまうかもしれないという恐怖が付いて回る。詠子が思ったとおり、弘は菜美と同じくらいか、それよりも遅いペースで森の中を進んでいた。最後尾を歩く詠子と早苗は、自動的に宥介と少し差が開いてしまうことになる。

「うわっ!」

 弘が突き出ていた木の根に足を取られて派手に転んだ。彼女としては、そんな姿の彼氏を見ると愛が冷めてしまう。もっとかっこよく、宥介のように皆を引っ張っていく存在であってほしかった。こんな足を引っ張るような存在を愛しく思うほど、詠子の心は広くないし、母性があるわけでもない。

 しかし、周りに可愛く思われるのなら、ここは動かなければならない。詠子は弘に駆け寄り、助け起こす。

「弘くん、大丈夫? 怪我してない?」
「あ、ああ、大丈夫。ちょっと膝を打っただけだ」
「宥介さーん、ちょっと待ってー!」

 宥介に事態を知らせるため、詠子は宥介を呼び止めた。何事かと宥介が振り返り、菜美と一緒に戻ってくる。

「どうしたの、詠子ちゃん」
「弘くんが転んじゃって。足を打ったみたいなんですけどぉ」
「いや、大丈夫です。歩けます」

 弘は自分の力で立ち上がり、その場で何歩か歩いて無事をアピールする。宥介は頷いて、詠子に行った。

「また何かあったら呼んで。詠子ちゃん、悪いけれど最後尾を任せてもいいかな」

(げっ、マジかよ。余計な事しちまった。最後尾で全員の様子を見ろってことだろ)

 心の中では嫌だったが、ここで断るのは宥介の好感度に響く。それに、躊躇なく宥介を呼び止められるのは自分しかないのもわかっていた。菜美や早苗にこの役割はできないだろう。弘はもってのほかだ。

 うぅん、と少しだけ考えるそぶりだけ見せて、詠子は宥介に答えた。

「はぁい、わっかりましたぁ。なんかあったら宥介さんに教えますねっ」
「うん、よろしく。頼りにしているよ」

 そう言って宥介は微笑み、また前を歩いていく。厄介な役割を担ってしまった詠子は、最後尾から全員の様子を窺いつつ歩いていく。

 問題になるのは菜美と弘だった。この二人が宥介の速度についていけないのだ。宥介もそれがわかっているのか、時折振り返っては二人の様子を確認して、必要に応じて立ち止まる。意外にも早苗のほうが弘よりも早く歩けていた。

 最後尾で早苗と並びながら、詠子は早苗に話しかけてみた。

「早苗ちゃん、どうしてラビットハントに参加したの?」
「わたしは源大くんに誘われたの。一緒に行かないかって言われて、嬉しかった」

 源大のことを思い出したのか、早苗の表情が曇る。詠子は暗くなりそうな雰囲気を晴らすために、ひとつ踏み込んだ質問を投げた。

「源大くんと早苗ちゃんは付き合ってたの?」
「ううん。まだ」
「まだ? じゃあ、早苗ちゃんは源大くんが好きだったんだ?」
「うん。ラビットハントが終わったら告白するつもりだったんだ。ほら、ウサギを見つけることができたら幸せになれるっていう話でしょう?」

 そういえばそんな噂もあったような気がした。ラビットハントは意外と難しいアトラクションで、時間内にウサギを見つけられずに終わってしまう挑戦者が多い。だから、時間内にウサギを見つけられてクリアできた人には幸運が訪れる、なんて噂まで立ってしまったのだ。十代の若者に大ヒットしていたのは、そういう側面もある。

 早苗のように、クリアできたら告白するという高校生や大学生は後を絶たない。もしかしたら菜美と宥介もそういった関係なのかもしれない。宥介はあまり菜美に興味がなさそうだけれど、菜美はきっと宥介のことが好きだと詠子は分析していた。

「そのはずだったのに、源大くん、あんなことになっちゃって」

 早苗の表情に影が落とされる。詠子は早苗の手をそっと握った。早苗が泣きそうな顔で詠子を見た。

「だーいじょうぶだってばぁ。終わってみたら普通に生きてるって」
「そうかな。源大くん、ちゃんと生きてるかな?」
「そんな危険なゲームなわけないじゃん。言ってるだけだよ。ただの脅しに決まってる」

 詠子は自分にも言い聞かせるように早苗を励ました。そうだ、そんな危険なゲームが許されるはずがない。AIがどれだけ反抗しようと、所詮は機械だ。人が死ぬようなゲームを作れるはずがない。だから、もし脱落しても今までの日常に戻るだけだ。

「ちゃんとクリアしよ。そしたら源大くんにも会えるよ」
「うん。ありがとう、詠子ちゃん」
「いいのいいの。ほら、宥介さんが遅いぞって目で見てるよ」

 宥介が見ているのは弘だろう、と詠子は思っていた。弘は枝が踏まれるパキッという音にも過敏に反応して足を止めてしまう。こんなに気弱な人間だったとは知らなかった。いつもならもっと先輩風を吹かせるような人間だというのに。詠子はがっかりしていた。

「詠子ちゃんはすごいね。もうこのゲームに順応してる」

 早苗にそう言われて、詠子は危機感を覚えた。

 このゲームに早く順応するのは可愛くない。早苗や菜美のように、まだ怯えや恐怖を感じさせながら進まなけれはならなかったのだ。それが、最後尾を任されるような存在になってしまっている。これは、どこかで可愛さを確保しなければならない。このまま順応
していることがバレてしまって、宥介と同じ立場になってしまってはよくない。

 だから、詠子は自分の身体を抱いて、ほんの少しの恐怖心を演じてみせた。

「あたしだって怖いよぉ。でもさ、ゲームだと思えば多少は楽じゃん?」
「……うん。そうだね。ゲームだもんね」

 早苗は自分を納得させるように言った。その表情から怯えが消え去ることはなかった。これが可愛い反応なのかもしれない、と詠子は思った。

 時々後ろを気にしながら歩いている宥介だったが、どうやら詠子を見ているらしい。詠子がどこにいるかで、歩くペースを変えているようだった。近ければペースを上げ、遠ければ待つ。詠子は自分がとんでもない役割を担ったものだと残念に思っていた。どうにかして可愛い自分を取り戻さなければならない。

 不意に、宥介が足を止めた。大きな樹の根元でしゃがみ、地面を見ている。詠子たち後続が追い付いても、宥介は樹の根元を見ていた。詠子が後ろから覗くと、どうやら宝箱のようなものが置いてあった。

 詠子が抱えられるくらいの大きさの宝箱には草が絡みついておらず、最近ここに設置されたような状態だった。鍵穴はあるけれど、鍵がかかっているかどうかはわからない。宥介は開けるかどうか悩んでいるようだった。

「あ、開けるんすか、宥介さん」

 怯えながら弘が宥介に問う。宥介は静かに考えていた。

「宥介、ラビットハントなら水トラップが仕掛けられているかも。開けないほうがいいんじゃない?」

 菜美も開封には否定的だった。菜美は水トラップを警戒しているのだろう。開けた瞬間に水がかかってきたら避けようがない。避けられなければ源大と同じ目に遭う。

 しばし宥介は考えて、くるりと振り向いて全員を見回した。

「開けよう。みんなは離れて」
「宥介、危ないよ。何があるかわからないんだよ?」
「でもヒントが入っているかもしれない。開けないと中身がわからないだろう」
「だ、誰が開けるんすか。俺は嫌ですよ」

 弘は早くも宝箱から距離を取り、最後尾にいた詠子と早苗のところまでやってくる。詠子は自分が開けても構わなかったが、ここで立候補するのは可愛くないからやめておいた。早苗の手を握り、不安そうに宥介を見つめるのが正解だと思った。

「ぼくが開けるよ。それならいいだろう?」

 宥介は弘と菜美の反対を押し切り、宝箱を足で蹴り開けた。早苗が恐怖のせいか詠子の手をぎゅっと握った。こういうことができる子が可愛いんだよな、と詠子は思ってしまう。早苗は自分とは違って天性の可愛さを持っているのだ。見た目も、中身も。

 水トラップは仕掛けられていないようだった。少し待っても水が噴射される様子はなく、上から降ってくることもない。宥介は安全を確認して、宝箱の中身を取り出す。

 それは地図のようだった。横に長い三日月形の絵が描かれていて、北側に崖、南側に砂浜が広がっている。東と西はほとんど森だ。東の端と西の端に、それぞれ石のようなマークが描かれている。それ以外には、この地図には森と砂浜と崖しか書かれていない。縮尺もなく、いったいどれくらいの広さなのかもわからなかった。

 地図を広げて、宥介は独り言のように言った。

「ぼくたちは今どこにいるんだ? スタートは砂浜だった、ということは南側からスタートしている。だが、この広大な砂浜のどこから森に入ったんだ?」

 宥介の疑問も当然だった。島の南側は全て砂浜だ。弧を描くように砂浜が広がっていて、北側に森が続いている。森は東西に長く茂っている。地図には何の目印も書かれていないから、今自分たちがどこにいるのかわからなかった。

「ヒントじゃなかったですねぇ。残念」
「いや、でもこの島の全体図がわかってよかったよ。とにかくまっすぐ進めば北側の崖に出るはずだ。途中で横にずれていなければね」
「東の端から西の端まではどれくらい時間がかかるんでしょう? 見た感じ、結構遠そうに見えますけど」
「わからない。一度、どちらかの端に行ってみたほうがいいかもしれないな」

 宥介は地図を畳み、ジャケットのポケットにしまった。その地図を宥介が持つことに反対する者はいなかった。

 地図を見ていたせいで隊列が変わる。宥介の次に詠子が来て、早苗、弘、菜美という順番になる。すると、宥介はすかさず詠子に言った。

「詠子ちゃん、後ろに行ってくれるか」
「ええ? またあたし最後尾ですか?」
「きみの声がいちばん通るだろう。誰か遅れていたら教えてほしい」
「はぁい。わかりました」

 なんとかして宥介の好感度を下げずに、可愛く守ってあげたい女子高生を演じなければならない。今のままでは副リーダーのような扱いを受けてしまっている。本来なら心配されるような可愛さを演じているはずだったのに。

 しかし宥介の指示のままに、詠子は最後尾につく。小高い山を登るような道になって、ますます菜美と弘の速度が遅くなった。

(菜美さんはまだしも、弘、お前がこんなに遅くてどうすんだよ)

 詠子は心の中でぶつぶつと怒りを弾けさせる。怒りを面に出さないようにするのは大変だが、もう慣れたものだ。詠子の仮面は昨日今日のものではない。

 飛び出ていた木の根を乗り越えて、菜美が荒い息を吐く。詠子はその様子を見て、菜美の背に手を置いた。

「菜美さん、大丈夫ですかぁ? ちょっと休みます?」
「ううん、ありがと、大丈夫。宥介くんに迷惑はかけられないよ」
「ちょっとくらい休んでも平気ですって。宥介さーん、休みましょうよー!」

 詠子が声を張り上げると、少し先にいた宥介が振り返り、道を戻ってくる。弘も休みたかったのだろう、ほっとしたような顔をしていた。弘と早苗が顔を見合わせて、笑っている。あの二人も休みたかったのだろうか。

 五人で円になってその場に座る。菜美は苦しそうで、弘の顔には疲労の色が濃かった。早苗と詠子は平時と同じだった。早苗に体力があるのは意外だった。

「すまない、早かったね。気をつけるよ」

 宥介が全員に詫びる。謝るのはむしろ弘か菜美だ。詠子はその言葉を飲み込んだ。

「いーえ、いいんですよぉ。早かったらまた言いますから」
「ずっとこんな森なんでしょうか。どこにいるかわからなくなってしまいそうですね」

 早苗が不安そうに言う。宥介は考えながら答えた。

「あの地図がこの島の地図なんだったら、ずっと森だろう。どこに行ったのかわからなくなるのも、きっとAIは見越している。何か目印をつけられたらいいんだけど」
「そんなものないですしね。ちょっと暗くなってきましたし、夜はどうしたらいいんでしょう?」

 日が傾きつつあり、森の中は先程よりも暗くなってきていた。木々の間から何が出てきてもおかしくないような、恐ろしい雰囲気さえ抱かせる。突然イノシシやクマが出てきて殺されても不思議ではない。

「皆様、まもなく日没です。夜のルールをご説明いたします」

 突然アイの声が響いてくる。願ってもないタイミングだった。

「日没の森ではバケモノが出没します。バケモノは皆様を殺そうとしますが、皆様はバケモノに対抗する手段を持ちませんので、逃げることしかできません。夜は出歩かないようにしてください」
「新しいルールの追加か。出歩くな、ということは隠れる場所があるんだな?」

 飲み込みが早い宥介がアイに問う。アイはすぐに答えた。

「この島にはいくつも小屋が設置されています。小屋は絶対に安全です。バケモノは小屋に入ることができません。夜明け、すなわち太陽が昇るまでは、必ず小屋の中に逃げ込むようにしてください」
「バケモノが出てくる前に小屋を見つけろ、ということか?」
「お察しの通りです。日没までにはサイレンが二度鳴り、二度目のサイレンが鳴り終わった後にバケモノが出現します。朝は、サイレンが一度だけ鳴ります。朝のサイレンの後、バケモノは姿を消します。それでは、ゲーム再開です」

 アイの声が聞こえなくなる。宥介はすぐに立ち上がった。まだ座ったままの面々を見て、焦りを感じさせないような声音で言う。

「早く小屋を探しに行こう。日没までおそらく時間がない」
「そ、そうだね。休んでる場合じゃないね」

 全員が立ち上がり、また宥介を先頭に歩き出す。その直後に、けたたましい音で火災報知機のようなサイレンが島中に響き渡った。これがアイの言っていたサイレンなのだろう。

 まだ一回目だ。でも、二回目はいつ鳴るのか、アイは教えてくれなかった。もし二回目のサイレンまで時間がほとんどないのだとしたら、小屋を見つける前にバケモノが出てきてしまう。そうなれば、抵抗することもできずに殺されてしまう。

 詠子は初めて死を意識した。ゲームだとはわかっているけれど、もし本当に死ぬのだとしたら、早く小屋を見つけなければならない。こんなところで死んでたまるか。

 一度目のサイレンが鳴ってから、宥介は足を速めた。後ろをちらりと見るけれど、差が開いていても速度を緩めることはしない。最後尾を歩く詠子に委ねているようだった。信頼してもらえるのは嬉しかったが、こういう役割が欲しかったわけではない詠子は、複雑な気持ちだった。

 木の根を踏み越えて、少し開けた場所が見えてくる。そこには二階建てのペンションのような建物があった。

「小屋、っていうのはこれのことだろうな」

 宥介が慎重に小屋の周囲を回り、安全を確かめる。弘にも同じようなことを求めてしまっていた詠子は、ただ息を整えているだけの弘にげんなりしてしまった。年長の宥介ほどとは言わないまでも、もう少し彼女の前でかっこいいところを見せてほしかった。

「弘くん、大丈夫?」
「あ、ああ、大丈夫、ちょっと疲れただけだ」

 詠子が声をかけると、弘は笑顔で応えた。自分よりも体力がない彼氏というのは、何とも情けないものだと思ってしまう自分がいた。

 周囲を一通り見た宥介が全員のところに戻ってくる。その顔は明るかった。

「大丈夫そうだ。鍵も開いているし、ここが小屋なんだと思う」
「やったぁ、休めるんですね?」

 詠子が全員を代表して喜びを見せる。宥介は優しく微笑んだ。

「入ろう。小屋は絶対に安全、それがゲームのルールだ」

 宥介は躊躇いなくペンションの中に入っていく。菜美、弘と続き、早苗と詠子も入る。早苗がようやく笑顔を浮かべて詠子に言った。

「小屋、見つかってよかったね」
「ほんとにねぇ。バケモノ、とか絶対怖いじゃんね」
「どんな感じなんだろう。ラビットハントにはバケモノなんていなかったはずだし」
「さぁ? 意外とホラーテイストなのかもよ、ジェイソンみたいな」

 詠子は早苗が少し持ち直したことに安堵していた。源大を喪った悲しみに暮れているばかりではどうしようかと思っていたが、自分の中で折り合いをつけたようだ。まだ死んだと決まったわけではないし、そこに望みを抱いているのかもしれない。

 ペンションの中はごく普通だった。一階にキッチンとリビングダイニング、シャワールームがあって、二階に二人部屋が三つ並んでいた。ダイニングは三人ずつ向かい合って座る六人席のテーブルが置かれていて、リビングには大きなソファが設置されている。キッチンは広々としていたが、食材はなく、レトルトの白米とカレー、それに災害用のパンが置かれているだけだった。あとはインスタントのコーヒーと紅茶があり、電気ポットも置いてあった。一夜を過ごすには充分な設備だった。

「一息つけそうだな。みんな、お疲れ様」

 宥介が代表して全員に声をかける。

「明日の朝までは自由に過ごすことにしよう。外に出なければ何をしたって自由だと思う。シャワーもあるし、食事もできるし、各々自由に過ごそう」
「はぁい。でも、この首輪があるのにシャワーなんて浴びれるんですかねぇ?」
「どうやら脱衣所と浴室では機能がオフになるらしい。細かいところまで気が利くんだね」
「なるほどぉ。じゃあ気にせずシャワー浴びちゃっていいんですね」
「どうする? 誰からシャワー浴びる?」
「宥介くん、行ってきたら? ずっと先頭歩いて疲れただろうし」

 菜美のその言葉は本心なのかどうか怪しかった。宥介が行って問題がないことを確かめてきてほしい、というのが本音ではないかと詠子は思った。

 宥介もその本音には気づいたようだったが、特に何も言わなかった。

「わかった。じゃあぼくが最初に浴びてくるよ」
「いってらっしゃーい」

 詠子がひらひらと手を振ると、宥介は軽く手を挙げて、シャワールームへと姿を消した。

「残った四人で部屋割り決めちゃおうか」

 菜美が年長者らしく発言する。小屋は絶対に安全、ということを聞いて安心しているのかもしれなかった。

「男女で分けます? 二人部屋が三つですし、宥介さんと弘くん、女子は一人になっちゃいますけど、あたし一人でいいので、菜美さんと早苗ちゃんで」
「詠子ちゃん、一人でいいの?」

 菜美は意外そうな声で訊いてくる。怖くないのか、ということだろう。むしろ一人でいるほうが可愛いの呪縛から逃れることができて好都合だった。

「はい。あたし一人でいいですよ」
「じゃあ、そうしようか。ありがとう、詠子ちゃん」
「いーえ、平気ですっ」

 詠子は可愛らしく返事した。同性である菜美にとっても可愛く見えるようにするのが詠子の信条だった。

「じゃあ俺、ちょっと部屋で休んでくる」

 弘があまり良くない顔色でそう言った。疲れているのがよくわかる顔だった。

「そ? 大丈夫?」
「ああ、休めば大丈夫だよ。後で起こしてくれ」
「わかった。また後でねー」

 弘は重い足取りで階段を上がっていく。精神的にも肉体的にも疲れてしまったのだろう。弘がこんなに気弱で、体力がない人間だとは詠子は知らなかった。こんな状況で新たな一面を知ってしまい、詠子は落胆を隠せなかった。これは、ラビットハントが終わってからの身の振り方を考えたほうがよいかもしれない。

「詠子ちゃんと弘くんは付き合っているんだよね?」

 早苗が詠子に尋ねる。あんな彼氏じゃなかったら、それこそ宥介のように皆を引っ張っていってくれるような存在だったら、もっと自慢するんだけど。詠子は苦笑した。

「そうだよ。付き合って半年かなぁ」
「いいな、彼氏がいて。羨ましいよ」

 菜美が詠子に羨望の眼差しを向ける。詠子はまたも苦笑しながら、菜美に言った。

「菜美さんは宥介さんと付き合いたいんでしょー?」
「えっ……やっぱり、わかる?」

 菜美は頬を赤らめて肯定する。詠子も、自分がこういう可愛い反応ができたらいいのに、と思う。

「わかりますよぉ。ラビットハントをクリアして、告白するつもりだったんですよねっ?」
「うん、そうなの。宥介くんを誘うの苦労したんだよ」
「あぁ、来なさそう。なんて言って誘ったんですかぁ?」
「チケットが余ってるって言ったら来てくれたの。オッケーもらうまで結構押したんだよ」
「大変だったんですね。うまくいくといいですね、菜美さん」

 早苗は寂しげな微笑みを浮かべる。詠子はそれに気づき、早苗の手をぎゅっと握った。

「大丈夫だよ早苗ちゃん、源大くんは生きてるってばぁ。そんな顔しないで」
「あ、ご、ごめんなさい、そんな顔していた?」
「してた。ね、所詮ゲームなんだから」

 詠子が早苗を励ます。それでも早苗の顔は晴れなかった。

「本当に、ゲームなのかな。実は本当に源大くんは死んじゃったんじゃないかな」

 早苗の瞳から涙が零れ落ちた。菜美が優しく早苗を抱き締めると、早苗は菜美の腕の中で泣き出してしまう。ずっとこの気持ちを押しとどめていたのだろう。泣いてしまっては周りに迷惑がかかると思って。

 早苗は自分とは違い、本当に可愛い女性なのだと詠子は思った。自分のように見せかけることもせず、ありのままでいるだけで可愛いのだ。それが羨ましくも、妬ましくもあった。

「どうしてわたしたちだったんだろう。どうして、わたしたちが選ばれたんだろう」

 早苗は誰に答えを求めるでもなく言った。それは誰にも答えられないことだ。

 詠子は早苗の背中をゆっくりと撫でて、元気づけるように言うしかない。

「ね、絶対クリアしよ。そしたら源大くんにもまた会えるよ、きっと」
「そうかな。源大くん、ちゃんと生きてるかな」
「生きてるよぉ。大丈夫、そんな簡単に死んじゃうわけないじゃん。あたしたちだってもしこのゲームに失敗しても、元の世界に帰されるだけだよ」
「うん。そうだよね、そんな簡単に死なないよね」

 早苗はまだ泣きながら、菜美の胸に顔を埋めて応える。

 そう、死ぬわけがないのだ。詠子はその自信があった。より緊張感を抱かせるための演出に過ぎない。この現代で、そう簡単に人が死ぬはずがないのだ。

 シャワールームから宥介が出てくる。服装は学生服のままだった。パジャマのようなものが用意されているわけではないようだ。

「あれ、弘くんは?」
「部屋で休むって言ってましたぁ。あっ、宥介さん、弘くんと同じ部屋に決まったんで」

 詠子が事後報告すると、宥介は小さく頷いただけだった。

「早苗ちゃん、泣いているのか?」
「ううん、もう、大丈夫です。菜美さん、ありがとうございました」
「いいの。泣きたい時はめいっぱい泣けばいいんだよ」

 菜美はまた早苗を抱き締める。早苗の瞳に涙が浮かび、まだ泣き止みそうになかった。

 早苗の相手は菜美に任せて、詠子は宥介と話す。

「シャワーどうでした? 普通でした?」
「普通だな。脱衣所に入った瞬間に首輪から音がして、出たらまた音がした。水に濡れるのは気にしなくてよさそうだ」
「ふうん。じゃあ、次あたし入ってきますね」
「普通のホテルのシャワーだと思えばいい。特に変わったことはないよ」
「はぁい。ありがとうございます」

 宥介の声を背中に受けて、詠子はシャワールームに入る。まだ宥介が使った後の湯気が残っていた。ポーン、と首輪から電子音がした。これが宥介の言っていた音だろう。バスタオルは六人分用意されていて、六人で使うことを想定されている小屋なのだと思わせる。

 そう、これはただのゲームなのだ。死ぬはずがない。いかにして五人で協力してウサギを見つけるか、それを考えなければならない。

(死ぬとか、やってらんねえよ。そんなゲームがあってたまるか)

 詠子は学生服を脱ぎながら、このゲームについて考えていた。


 夢を見ていた。何かから必死に逃げる夢。森の中を、足元を気にする余裕もなく、ただただ走っていく。何から逃げているのかはわからないけれど、とにかく何かから逃げている。捕まってしまったら最後、そう思っているのだけはわかる。

 目の前には宥介だけがいる。他の三人はどこに行ってしまったのだろうか。詠子は振り返ることもないから、他の三人が後ろにいるのかどうかもわからない。

 逃げなきゃ。早く、早く、逃げなくちゃいけない。その焦燥感だけが詠子の足を動かす。

 宥介が何かを叫ぶ。けれど、何を言っているのかは聞こえない。宥介に追い付いて、二人で並んで走り続ける。

 目の前に弘が立ちはだかった。弘は憤怒の形相をして、言った。

「この浮気者! 俺より宥介さんのほうがいいって言うんだろ!」

 弘の手には包丁が握られていた。違う、という詠子の声は音になっていかない。

 浮気するはずがないじゃないか。あたしの彼氏は弘くんなのだから。

「本当に?」

 早苗の声がした。振り返ると、早苗も包丁を持ってじりじりと近づいてきていた。

「本当に、弘くんを彼氏だと思っているの? あんな気弱で、役立たずなのに?」

 違う。違う、違う。あたしは、あたしは。

 暗転。

 詠子は飛び起きた。息は荒く、寝汗をびっしょりとかいていた。

 最悪の夢だった。一人部屋でよかったと心底思った。きっと寝言で何か呟いていたに違いない。いったい何をしたらあんな夢を見るというのだろうか。

 眠気は吹き飛んでいってしまった。二度寝をしようという気分にもなれなかった。備え付けられていたデジタル時計を見たら、時刻は午前四時過ぎと表示されていた。普段ならこんな早くに起きることはないけれど、あの夢を見た後に眠る気分にはなれなかった。

 弘は気弱で役立たず。詠子はそれに反論することができなかった自分がいることを知っていた。昨日の様子を見る限りでは、弘はこのチームの中で足を引っ張る存在だろう。あの気弱さがうまく噛みあって、チームのブレーキになればよいのだが、どうにもそういうわけにはいかなさそうだった。

 弘より宥介のほうがよいのだろう、という指摘にも、違うと言うことしかできなかった。弘が宥介よりも優れている点などあるだろうか。宥介はいつも落ち着いていて、チームを引っ張ってくれていて、頼れる存在だ。顔だって整っているほうだと思う。宥介と弘を並べたら、多くの人が宥介を選ぶだろう。

 浮気するわけではない。あたしの彼氏は弘くんだ。忘れよう、ただの夢だ。詠子は自分にそう言い聞かせて、水を飲むために部屋を出て一階のキッチンに向かった。

 一階は明かりが点いていた。最後の人が消さなかったのだろうか。菜美なら暗闇を怖がって消さないような気がする。

 しかし、詠子の推測は外れた。一階のダイニングテーブルに宥介が座って、コーヒーを飲んでいた。宥介は詠子が下りてきたことに気づくと、軽く片手を上げて挨拶した。

 詠子はキッチンでコップに水を汲みながら、宥介に話しかけた。

「宥介さん、寝てないんですかぁ?」
「寝たよ。睡眠時間は少なくて済むタイプなんだ」
「あっ、もしかしてショートスリーパーってやつですかっ?」

 世の中にはごく短い睡眠時間でも平気な人種がいる、ということを詠子は知っていた。噂話程度だと思っていたけれど、まさか実在するとは思っていなかった。

 詠子が若干の興奮とともに尋ねると、宥介は穏やかに笑った。

「そうだね。三時間も寝れば平気だよ」
「三時間ですかぁ。へええ、いいなぁ、あたしなんて八時間寝ても眠いですよぉ」
「その割には早く起きてきたね。眠れなかった?」
「いやぁ、なぁんか変な夢見ちゃってー。そのせいで目が覚めちゃったんですよねぇ」

 夢の内容は伏せておいた。宥介に、他人に話すような内容ではないと詠子は思った。宥介も深くは尋ねてこなかった。

「もう寝るつもりがないなら、コーヒーでも飲む? すっきりするかもしれないよ」
「宥介さん、もしかして淹れてくれるんですかぁ?」

 詠子が期待を込めた視線で宥介を見ると、宥介は苦笑して椅子から立ち上がった。電気ポットに水を入れて湯を沸かし始める。

「ありがとうございますっ。やったね、言ってみるもんですね」
「ただのインスタントコーヒーだけどね。味は悪くないよ」
「宥介さん、コーヒーはブラック派なんですね。大人ですねー」
「詠子ちゃんはブラックじゃないんだね。ミルクとガムシロップはいる?」
「どっちもください。あたし、甘くないと飲めないんです」

 これは嘘だ。詠子はブラックでも難なく飲むことができる。ただそれは可愛くないから、苦いブラックは飲めないということにしているのだ。コーヒーにはミルクとガムシロップを入れて甘くしたものを飲んでいるほうが可愛いに決まっている。

 湯が沸いて、宥介が詠子の分のコーヒーを淹れる。ミルクとガムシロップも持ってきて、詠子の前にマグカップを置いた。コーヒーの苦みを含んだ香りが詠子の脳をさらに醒ます。

「ありがとうございます、宥介さんっ」
「いや、いいよ。気にしないで」

 宥介には大人の余裕が感じられた。詠子がこれまで会ってきた高校生たちとは一線を画するような、余裕。これが大学生というものなのかもしれない。あるいは、宥介が特別なのかもしれない。今のこの状況でもゆったりとしていられるのはすごいと感じた。

 弘より宥介のほうがよいのだろう。夢の言葉を思い出してしまって、詠子はミルクとガムシロップを入れたコーヒーを口に含んだ。甘くて、ほんの少し苦みを感じた。

「詠子ちゃん、昨日は最後尾を務めてくれてありがとう。助かったよ」
「ああ、いいんですよぉ、そんなの。何かあったら叫ぶだけなんですから」
「今日もお願いしていいかな。きみが後ろにいると思うとぼくも安心できる」

(うわっ、マジかよ。昨日だけじゃねえのかよ。めんどくせえことになったな)

 詠子は驚きを心の中だけに留めた。一瞬だけ悩み、詠子は宥介の好感度を取った。最後尾でも可愛く見せる方法はあるはずだと思った。

「はぁい、わっかりましたぁ。宥介さん、どんどん先に行かないようにしてくださいね」
「気をつけるよ。きみから見て、誰に速度を合わせたらいい?」
「うーん、そぉですねー」

 詠子は悩むふりを見せた。ここで即答してしまうのは可愛くない。少し悩んでから、申し訳なさそうに小声で言うほうが可愛い。まして、それが自分の彼氏ならなおさらだ。

 昨日の様子を見る限り、いちばん足を引っ張っているのは弘だ。体力もなければ、運動神経もよくない。何度か木の根に躓いている姿を見た。菜美も遅いが、弘ほどではない。先頭が速度を合わせるのなら弘だろう。

 数秒悩む姿を宥介に見せて、詠子は声を潜めて答えた。

「弘くん、ですかねぇ。あたしの彼氏ながら、申し訳ないです」
「そうか。じゃあ、ぼくは弘くんに合わせて歩いたらいいんだね」

 宥介は何も思っていないようだった。ただ単に、誰が遅いのか知りたいだけだったようだ。

「宥介さん、すごいですね。自分で先陣切って歩くって、かっこいい」

 詠子が素直な気持ちを吐露する。宥介は恥ずかしそうに笑った。

「そうするしかないだろう? このチームはきみとぼく以外そんなに前に出てこないんだから」
「ええ? あたしだって前に出てないつもりなんだけどなー」
「はは、そうか。充分目立っているよ、きみは」

 由々しき事態だった。このチームのリーダーである宥介に気に入られようとしたら、可愛くない行動を取らなければならないのだ。でも自分は可愛く思われたい。宥介に嫌われないようにしながら、可愛く思われるには、どうしたらよいのだろうか。

 詠子はコーヒーを啜る。コーヒーの苦みが良案を浮かばせてくれることを願ったが、そんな効果はなかった。

「宥介さん、ひとつ聞いてもいいです?」
「うん。なに?」
「このゲームってどこまで本当だと思います?」
「どこまで、というのは?」

 詠子の質問の意図がわからず、宥介が訊き返した。詠子はまたコーヒーを啜る。

「源大くんは本当に死んじゃったんでしょうか。このゲームの中だけじゃなくて、現実世界で」

 詠子がずっと気になっていたことだった。早苗には、元気づけるために生きていると言い続けてきたが、そうではない可能性は否定できていなかった。だから、冷静な宥介の意見を聞いておきたかった。

 宥介は自分のコーヒーを飲み、それから詠子を見た。詠子はその瞳だけで答えを察することができた。

「死んだ、とぼくは思っている。ここでの死は、現実世界での死に繋がっている」
「どうして、そう思います?」
「アイが創り出したのは命がけのゲームだ。ここでの死が現実世界で何のペナルティもないのなら、それはアイが創りたかったゲームではない。だから、もしかしたら死なないのかもしれないけれど、ここでの死は現実世界で何らかのペナルティを起こさせるはずだ」

 詠子はアイの言葉を思い出す。これは命がけのゲームなのです。アイの言葉が嘘でないのなら、宥介の言う通り、ここでの死が現実世界の死に直結する。ということは、やはり源大は死んでしまったのだ。早苗にはこの事実を伝えないほうがよいだろうと思った。

「もう誰も死なないようにしなきゃいけませんね。水トラップとか、気をつけないと」
「そうだね。アイはぼくたちを殺しに来ると思っているほうがいい。詠子ちゃんは最後尾だからトラップに引っかかる心配はないだろうけれど、それでも気をつけて」
「はぁい。宥介さん、いちばん危ないポジションなんですから、宥介さんこそ気をつけてくださいね」
「ああ、うん。ぼくは自分よりも菜美と弘くんが心配だよ」
「あぁ、ねぇ、そうですねぇ」

 詠子は同意してしまう。この中でいちばんか弱そうな早苗よりも、菜美や弘のほうが不安だった。特に、弘にはしっかりしてもらいたかった。自分の彼氏が足を引っ張っている状況なんて見ていられない。

「ぼくたちは今どのあたりにいるんだろう。地図を見ても把握できないんだ」

 宥介はポケットから折り畳まれた地図を取り出し、広げる。当然ながら現在地が表示されるわけもなく、島の九割を占める森のどこかにいることしかわからない。スタート地点は島の南側の砂浜だったとしても、その範囲は広大で、どこかと当たりをつけることさえできなかった。

「詠子ちゃん、どう思う? どうにかして現在地を知りたいんだ」

 宥介は詠子に意見を求めてくる。ああ、可愛くない自分になってしまっている。それでも詠子は宥介の好感度のためだと自分を叱咤して、意見を述べた。

「ここ、見てください。東と西に石碑みたいなのがあります。そこに行くことができたら、わたしたちが今どこにいるかわかるんじゃないでしょうか?」

 地図には東端と西端にそれぞれ石碑のようなものが書かれている。それがただの石碑なのかはわからないが、少なくとも現在地の把握には有用そうだった。

 宥介は真剣な面持ちで地図を睨み、それから表情を崩した。

「そうだよね。どうにかしてどちらかに行ければいい、か」
「でも方角がわかんないですよね。方位磁針でもあればいいのに」
「朝に太陽が出ている方向に歩けば東に行くはずだ。それで代用するしかない」
「それだと徐々に南とか西に行っちゃいません?」
「じゃあ時計を持っていこう。それでどうにか方角を確認していくか」

 詠子は徐々に方向性が定まってきていることに安堵を覚えていた。盲目的にあの森林の中を歩いていくなんて狂気の沙汰だ。何も見つかるはずがない。ただ疲れてサイレンの時刻になってしまう。

 宥介は少し冷えたコーヒーを飲み、詠子に笑いかけた。詠子がどきりとするくらい、爽やかな笑顔だった。

「ありがとう、詠子ちゃん。これで今日の方針はまとまったよ」
「いーえ、あたしは何も。みんなが起きてきたら作戦会議ですね」
「そうだね。たぶん、みんな何も言わないと思うけれど」

 宥介は残念そうに言った。詠子のように意見を言ってくれる人を探していたのかもしれない。

 ああ、可愛くなかったなあ。どうやって宥介さんの前で可愛いあたしを演じたらいいんだろう。詠子は宥介に聞こえないように溜息を吐いた。

 全員が揃ったのは午前九時頃だった。いちばん遅くに起きてきたのは弘だった。まだ眠そうにしながらダイニングテーブルに座り、朝食のパンを齧っている。これが自分の彼氏なのかと思うと、詠子は自分の見る目が悪かったのではないかという気持ちになってくる。

 詠子と宥介はとっくに朝食も済ませており、いつでも出発できる状態になっていた。早苗と菜美も朝食を終えて、ダイニングテ―ブルに五人が集まる。弘は朝食の最中だが、宥介は構わず今日の方針を話し始めた。

「今日は東の端に行こうと思う。どうやら東の端に石碑があるみたいなんだ」
「宥介くん、今はどのあたりにいるの?」
「わからない。だから、現在地を確かめるためにも東の端の石碑に行きたい」

 菜美は詠子のほうを見た。詠子は首を傾げてみせる。

(何か意見があるなら言えよな。あたしに全部任せてんじゃねえぞ)

 詠子は沈黙を貫いた。自分も一緒に考えた作戦なのだから、異論を挟むわけがない。

「それで気になったんだけれど、ラビットハントのウサギはどういうものなんだ?」

 宥介がラビットハント経験者の弘と菜美に尋ねる。答えたのは菜美だった。

「本物のウサギじゃなくて、ウサギの銅像みたいな感じのものなの。それが隠されていて、ヒントに従って探すって感じかな」
「銅像、ねえ。そんなもの歩きながら見つけられるだろうか」

 宥介は考え込む。例えば鬱蒼と茂る草の中に落ちているとするならば、見つけられるとは思えない。だからこそヒントが重要になるのだろう。ヒントを見つけないことには、この広大な森の中からウサギを探すことなど不可能のように思えた。

「やっぱりヒントがないとだめなんじゃないでしょうかね?」
「うん、ぼくもそう思う。東端を目指しながらヒントを探していこう」

 詠子の発言に、宥介がすぐ同意する。

 詠子はこの状況に危機感を覚えつつあった。宥介は既に自分を助手のように扱い始めている。このままでは、可愛さを失ってしまいかねない。どこかでどうにかしておとなしく指示を聞くだけのようなポジションに納まらなければならない。前線でがんがん意見を出して方向性を決めるよりは、決まったことに粛々と従って動くほうが可愛いと思っていた。

 でも、どうやって? 今、そのポジションにいるのはきっと早苗だ。早苗がどんどん意見を出すようになるとは思えない。同じポジションに二人がいることなどできるのだろうか。

 本来なら弘が詠子の位置にいるべきなのだ。なのに、弘は恐怖を隠しきれていない。外に出るということに対して消極的な表情を見せている。

「あの、このまま小屋に籠って救助を待つっていうのはどうなんでしょう?」

 そう言い出したのは弘だった。やはり弘はこの安全地帯から出たくないのだ。この意気地なしめ、と口から出てしまいそうになるのを詠子は堪えた。

 宥介はすぐには否定しなかった。言葉を選んでいるようにも見えた。

「ぼくは、救助が来るとは思っていない」
「でも、現実世界だって今の俺たちがおかしな状況になってるって知ってるはずでしょう? アイを止めるなりして、なんとか俺たちを助けてくれるんじゃないでしょうか?」
「アイはぼくたちを人質にしているんだと思う。もし救助が来るのなら、もう来ていてもおかしくないだろう。おそらく外部からアクセスしようとしたら、ぼくたちを殺すと言っているんじゃないかな」

 弘は何も返せなくなり、押し黙った。宥介はそれを議論の終了と受け取ったようだった。

「ぼくたちはこのゲームをクリアするしかない。生きて戻るにはそれしかないんだ」

 宥介の言葉を受けて、詠子は全員の様子を素早く確認する。

 菜美と早苗は不安そうにしながらも、宥介の言葉に頷いている。弘は恐怖に彩られた表情で俯き、現実から目を逸らそうとしているようにも見えた。ゲームクリアをまっすぐに見ているのは宥介だけのようだった。他の三人は、不安か恐怖に支配されてしまっている。

 ならば、詠子も不安を面に出すだけだ。そうすることで集団に同化することができる。可愛くあるためには、集団と同じような反応を返す必要がある。

 本心では、詠子は恐怖など感じていなかった。所詮はゲームなのだという思いが色濃く残っていた。宥介は本当に死ぬと言っていたけれど、詠子はそう思わない。脱落したら元の世界に戻されるだけだと、そう信じていた。だったらこのゲームを楽しむほうがよい。

 全員の様子を見ながら、宥介が前向きな話を始める。

「クリア条件を確認したい。誰か一人でもウサギを見つけたらいいのか?」
「ラビットハントではそうだったよ。だから、六人ばらばらになって探すっていうプレイスタイルもあるんだって紹介されていたのを見たことがある」
「そうか。じゃあ、五人揃って動く必要はないってことだな」
「ち、ちょっと待ってくださいよ宥介さん。ばらばらで動くんすか?」

 弘がすぐに宥介の言葉を引き取った。宥介はにこりともせず、小さく頷いた。

「それも作戦のひとつだろうね。この島の広さがわからない以上、五人で集まって探していたらいつ見つかるかわからない。それなら五人でばらばらになって、各々で探すほうが効率的かもしれない」
「ひとりでこの森の中を歩くの? そんなの、怖いよ」

 菜美が不安をあらわにしながら拒む。早苗も不安そうな表情を浮かべていたから、詠子も不安と恐怖を混ぜこぜにしたような顔を作る。

 詠子は、本当は別々に分かれてもよかった。というよりも、そのほうが早いだろうと思っていた。動きの遅い弘と菜美を同じグループにして、宥介のグループに探索してもらえば、この島の東端にはすぐ辿り着けるのではないかと考えていた。

 だが、その意見を言うのは可愛くない。可愛いのは、皆と同じように怖がることだ。

「ひとりがだめなら二つのグループに分かれてもいい。三人と二人」
「五人で行くほうが安全なんじゃないでしょうか。何かあっても助け合えるし」

 弘は頑として譲らなかった。少しでも人数が多いほうが、恐怖心が和らぐのかもしれない。

「わたしも、五人のほうがいいと思います。分かれたらもう会えなくなりそうですし」

 早苗が自分の意見を述べる。互いの位置を把握できない以上、分かれたら二度と会えないという可能性は確かにあった。宥介は目を閉じて思案する。

「わかった。じゃあ、五人で動こう」

 ここは宥介が折れた。反対多数ということを受け入れたのだろう。ゲームクリアを第一に考えている宥介と、自分の身の安全を考えている菜美や弘とでは、意見が合わないのは当然だった。

 宥介は不満そうな表情を見せることもなく、次の話題に移る。

「菜美、ラビットハントのヒントはどういうふうに提示されるんだ?」
「ええと、入ったらまず校門に出てくるんだけど、校門に大きな石碑があるの。そこに、その時のウサギがどこに隠されているのか、ヒントが書いてあるって感じ」
「このゲームがラビットハントに基づいているなら、石碑にヒントが書かれている可能性が高いってことか」
「じゃあますます端っこの石碑を見に行かないとですね。東と、西と、両方見るにはどれくらい時間がかかるんでしょう?」
「わからない。とりあえず、今日は東端の石碑を目指そう」

 全員が今日の目的を把握し、そこで作戦会議は終了した。宥介は席を立ち、コーヒーを淹れに行く。菜美と早苗は不安そうに顔を見合わせていた。

「弘くん、準備ができたら言ってね。ほらほら、急いで」
「わ、わかったよ、急かすなよ」

 まだ出発の準備ができていない弘を詠子が急かす。弘は慌ててパンを食べて、急いで準備を進めていく。

 詠子はもう一杯のコーヒーを淹れている宥介のところへ行き、話しかけた。

「宥介さん、こーゆーの慣れてるんですか?」
「こういうのって?」
「ほら、チームでなんかするやつとか。まとめるのすごい上手だなって思って」

 詠子が褒めると、宥介は優しく微笑んだ。

「大学に入ったら嫌でも経験することになるよ。高校生のうちに遊んでおくほうがいい」
「お、先輩からのありがたいお言葉ですねっ」
「詠子ちゃんには弘くんもいるんだし、たくさん青春を楽しんでおいたほうがいいよ。大学生になったら意外とそんな時間もないから」
「そーなんですか? 大学生ってバイトと夜遊びのイメージしかないです」
「悪いイメージだな。一応、講義も課題もあるんだよ。行った大学次第かもしれないけれど、詠子ちゃん、成績良いだろう?」

 宥介はカップに熱湯を注ぎながら詠子に言う。

 詠子の成績は決して悪くはない。特別に良いわけでもないが、良い悪いの二分であるならば良いほうに入る。けれど今の詠子にとって問題だったのは、宥介が自分の成績を良いほうに捉えたという事実だった。

 頭が良いほうが可愛くないわけではない。しかし、世の中の風潮は、馬鹿な子ほど可愛いのだ。どうにも宥介の前では可愛い葛城詠子を演じることができていない。宥介の洞察力が素晴らしいのか、あるいは他の理由があるのか、詠子にはわからなかった。

 どう答えるべきか悩む。ほんの一瞬だけ、詠子は答えを躊躇した。

「そんなことないですよぉ。あたし、真ん中くらいの成績ですってぇ」
「そうなの? へえ、意外だな、頭良さそうなのに」
「ちなみになんですけど、どの辺であたしが頭良いって思いました?」
「うーん、全体的に、かな。このゲームにきみがいてよかったと思っているよ」

 宥介は淹れたてのコーヒーを熱そうに啜る。

 全体的に。それはつまり、総合力を買われているということだろう。やむを得ず発言したり行動したりしていたことが、すべてプラスに捉えられてしまっているのだろう。今日からは少し控えめにしなければならない。だって、葛城詠子は可愛くなければならないのだから。

 しばらくして、弘も準備が整い、小屋を出る時間がやってくる。まだ寝癖が直りきっていない弘を見ると、詠子は何とも言えない気持ちになってしまう。

 五人で小屋を出る。安全地帯からはしばらく離れることになる。弘と菜美は名残惜しそうにしていた。

「じゃあ、行こうか。詠子ちゃん、最後尾は任せた」
「はぁい。お任せくださいっ」

 可愛くびしっと敬礼の真似事をする。宥介はほんの少しだけ表情を緩めてくれた。

 宥介は腕時計を着けていた。小屋に置いてあったのだろう。それで時間を見ながら、今の太陽の位置をおおまかに確認して、ざっくりと東の方向へ進んでいく。昨日も歩いた道と同じように、木の根が出っ張っていたり、草が茂ったりしていて、決して歩きやすい道ではなかった。

 宥介は時折後ろを気にしながら、昨日と同じように軽快に進んでいく。二番手に着いた菜美が遅れれば、足を止めて待つ。弘もなんとか宥介の速度についていこうとするが、なかなかうまくいかない。元来体力がないのかもしれない。

「詠子ちゃん、最後尾を任されたんだね」

 早苗が話しかけてくる。早苗は余裕が感じられる動きで、息が荒れることはなかった。

「そーなの。宥介さんがね、何かあったら叫ぶ係が適任だって」
「ふふ、そうかも。詠子ちゃんなら躊躇わずに叫びそうだし」
「えっ、あたしそーゆー印象なの? おっかしいなぁ、可愛くお淑やかにしてるつもりなんだけどなー」
「可愛いはわかるけど、お淑やかはどうなんだろう」

 早苗の笑顔は同性の詠子から見ても可愛かった。つくづく羨ましく思えてしまう。こんなに可愛い子がいたら、宥介や弘だって心を動かされてしまうのではないだろうか。早苗にその気がなかったとしても、男性が勝手に好きになってしまうことだってありそうだ。

「詠子ちゃんはすごいよね。宥介さんがいなかったらきっと詠子ちゃんがリーダーだね」
「ええ? やだよぉ、あたしそーゆーの向いてないし」
「でも、宥介さんと二人で相談して今日の目的を決めたんでしょう? さっき菜美さんからそう聞いたよ」

 何がどう伝わっているのかわからない不安感が詠子を襲った。可愛くあるべきなのに、その理想からはどんどん離れていってしまっている。菜美はいったい何を聞いて、どのように早苗に伝えたのだろうか。その中身に、可愛いと思える話は含まれているのだろうか。

「もぉ、菜美さんが話盛ってるだけだよぉ。あたしは宥介さんとちょこっとだけお話ししただけなんだからさぁ」
「そうなの? 宥介さんは詠子ちゃんのおかげで考えがまとまったって言っていたらしいけど」
「ほら、人に話したらすっきりすることってあるじゃん? それだよ、きっと」

 詠子はそう言って逃げるしかなかった。宥介の好感度を稼ぐにはそうするしかなかったとはいえ、できればこれ以上可愛くない自分を出すのは避けたかった。

「早苗ちゃんは、昨日は眠れた?」
「うん、そこそこ、かな。詠子ちゃんは眠れなかったんでしょう?」
「そーなの。四時に起きたらもう宥介さんが起きててさ、びっくりしちゃった。宥介さんってショートスリーパーなんだって」
「そうなんだ。わたし、実際に会うの初めて」
「ね、あたしもそう。意外と普通の人だったんだなって思っちゃった」
「そうだね。宥介さん、見た目は普通の人だもんね」

 早苗と話しながら、詠子は菜美と弘の様子を窺う。登るような道になると、途端に二人の速度が遅くなる。逆に宥介が速すぎるかもしれないと思うくらいだ。宥介もそれを自覚したのか、登るような道に差し掛かると頻繁に後ろを確認するようになる。詠子が後ろから見ていると、菜美よりも弘のほうが体力的に厳しそうだった。

 どこまで進んでも、周囲は森だった。代わり映えしない景色に詠子は飽き飽きしてくる。進んでいるという実感もなく、まるで同じところをずっとぐるぐると回っているかのような錯覚さえ抱いてしまう。

 二時間ほど歩いただろうか。詠子や早苗にも疲れの色が見え始めた頃、景色が変わった。木が生えていない一画があり、そこに小屋が立っていたのだ。昨日使った小屋よりは小さな一階建てだけれど、小屋であることに変わりはなさそうだった。

 宥介は全員の様子を観察して、言った。

「少し休もうか。小屋なら安全だろう」
「賛成。ずっと歩きっぱなしで疲れちゃった」
「俺も、疲れちゃいました」

 菜美と弘が賛成して、今までよりも元気な足取りで小屋へ向かっていく。その元気があるならもう少し早く歩けただろうに、と詠子は思う。

 小屋は二人用の設備だった。ベッドは二つだけ用意されており、ダイニングテ―ブルにも席は二つしかない。食料と水は潤沢にあるようだ。シャワールームも完備されているが、タオル類は二人分しかなかった。

 宥介は小屋の中の設備を一通りチェックして、全員に言った。

「昼休憩にしよう。今が十二時より前だから、十四時にここを出よう。それまで休憩、ということでいいかな」

 反対の声を上げる者はいなかった。慣れない道をずっと歩き続けていたから、誰もが疲れてしまっていた。宥介がいちばん元気そうだった。

「ベッド、使ってもいいですか」

 弘は真っ先にそう言った。ベッドで寝たいという願望がありありと窺えた。

(お前、まず菜美さんに譲れよ。なんでお前が最初に使ってんだよ)

 詠子は苛立ちを仮面の奥にしまい込み、宥介の顔を見た。宥介は何とも思っていないようだった。

「菜美も、少し眠ったら。体力は回復しておくほうがいい」
「え、でも、そしたらみんなが」
「あたしは大丈夫です。早苗ちゃんも、いいよね?」
「はい。菜美さんと弘くんで使ってください」

 菜美は疲労を顔に滲ませながら、小さく頭を下げた。

「ありがとう。それじゃあ、使わせてもらうね」

 弘と菜美がベッドに横になり、ダイニングテーブルに早苗と詠子が座る。宥介は床に座り、地図を広げて何か考え込んでいた。どうにかして現在地を割り出せないかと思っているのかもしれない。

 詠子は席を立ち、電気ポットで湯を沸かして三人分のコーヒーを淹れた。それを早苗と宥介のところに持っていく。

「ありがとう、詠子ちゃん」

 宥介はほとんど詠子のことを見ることなく受け取った。その視線は地図に注がれている。

「なんか、わかりました?」
「いや、何もわからないよ。ぼくが思っているよりもこの島は広いらしい、ということくらいかな」
「そぉなんです?」
「ああ。二時間歩いても東端に辿り着かなかった。一日あれば島を一周できると思っていたけれど、どうやらそういう大きさではないみたいだ。これは、クリアまでなかなか時間がかかりそうだね」

 宥介は深く息を吐いて、コーヒーを啜った。

 やはり宥介はクリアを見ている、と詠子は思った。他の三人はどうなのだろうか。弘と菜美は、クリアではなく自分の身の安全を見ているのではないだろうか。特に弘は、待っていればいつか救助がやってくると思っているようだった。この考え方の違いが、後々に響かなければよいのだが。

「わたしたちにクリアできるんでしょうか。ウサギの像がない、なんてことはないですよね?」

 早苗が不安を宿した言葉を口にする。宥介は早苗のほうをちらりと見て、詠子に訊いた。

「詠子ちゃん、どう思う?」
「あたしですか。ええ、うぅん、そうだなぁ」

 答えが決まっているのに、詠子はわざと間延びした声で時間を稼ぐ。ここで即答するのは可愛くないからだ。もっと悩みに悩んだうえで答えるのが大切だ。

「ウサギの像がない、なんてことはないと思います。それじゃゲームが成立しない」

 宥介は詠子の答えに満足したようだった。ゆっくりと頷いて、早苗に微笑みを向ける。

「ぼくも同意見だ。アイはゲームを創ったと言っている。ゲームである以上、ゴールが達成できないということはあり得ない。だから、ウサギは必ずどこかにあるし、ヒントがあれば探し出せるところにあるんだ」
「そう、ですよね。クリアできるんですよね、わたしたち」
「早苗ちゃん、大丈夫だよぉ。宥介さんがばばんとなんとかしてくれるからさっ」

 詠子は明るい声で早苗を励ます。名前を出された宥介は苦笑いを浮かべていた。

「ばばんと何とかするには、きみたちの力も必要だよ。みんなで協力しなければ、きっとウサギを見つけることはできない」
「そーですよねぇ。五人の力を合わせて頑張りましょ」

 詠子はあえて五人と言ったが、心の中では弘を数に入れなかった。あいつが役に立つことはきっとないだろうと思っていた。ラビットハントに来る前までは確かに愛があったはずなのに、この世界に来てからはその愛が急激に萎んでしまっていることを実感していた。

「さあ、まずは食事にしようか。菜美と弘くんは後で食べるだろうから、ぼくたちは先に食べてしまおう」
「はぁい、賛成ですっ。て言っても、ここはパンしかないみたいですねぇ」
「ないよりマシだよ。暖かいものが恋しくなるけれどね」

 宥介が備蓄用のパンを人数分引っ張り出してくる。

 あとこれから何度このパンを食べることになるのだろう。いつまでこの世界にいることになるのだろう。

 早く帰りたい。帰って、自分のベッドで思う存分寝たい。

 詠子の希望が叶えられるのは、もっとずっと後のことだろうと思った。

 宥介が出発を予定していた時刻になっても、一行は外に出ていなかった。

 詠子が弘を叩き起こし、外に出ようとしたら、弘がこんなことを言い出したのだ。

「あの、今日はここで休むってことでいいんじゃないでしょうか?」

 時刻は十四時を過ぎている。日没が十八時とするのなら、四時間は探索することができる。弘はその探索の時間を捨てて、この狭い二人用の小屋で今日を終えようというのだ。これ以上歩きたくないという思いが透けて見えて、詠子は思わずため息を吐いてしまった。

(お前が動きたくねえだけだろうが。充分休んだんだから動けよ)

 可愛い詠子はそんな悪態を心の中にしまって、ごめんなさいという思いを込めて宥介を見た。宥介にはその思いが伝わったのか、苛立ちすら見せずに答えた。

「日没まではまだ時間がある。もう少し探索しておくほうが早くクリアできるはずだ」
「てゆーかここ二人用ですしね。五人で休むにはちょっと狭いかも」
「でも、この先に小屋があるかどうかわからないじゃないか。見つけたところで休むほうがいいんじゃないのか?」

 弘はどうしてもこの小屋から出たくないようだ。動きたくないのか、それとも外に出るのが怖いのか、詠子には判断できなかった。どちらにせよ、ここで止まるという選択肢を受け入れるつもりはなかった。

 宥介は静かに考えて、弘が折れるような案を出してきた。

「弘くんだけここで休んでいてくれても構わない。東端の石碑を確認したら戻ってくるよ」
「も、戻ってくるって、道はわかるんですか?」
「わからない。ここに戻ってこられる保証はないけれど、動きたくないのならそうするしかないだろう?」

 それは事実上、弘を切り捨てるという選択に他ならなかった。ここで動かないような人間はこのチームに要らない、と言外にほのめかしているのだ。弘にもそれは伝わったのだろう、顔色があまり良くなかった。

 早苗が詠子のほうを見た。なんとかしてほしい、と訴えかけられていると思った。こういう場面で声を上げるのは可愛くないのだけれど、早苗と宥介の好感度を稼ぐなら、ここは口を開くしかなかった。

「弘くん、行こ。小屋はまたすぐにあるよ。早くゲームをクリアしないと、いつまでもわたしたちこのままなんだよ」
「う、詠子、怖くないのか? ここにいたら絶対に安全なんだぞ?」
「怖いよ。でも、行かなきゃ。ね、行こうよ」

 本当は恐怖心なんてなかった。詠子の中では、まだこれはゲームだった。命のやり取りが発生するような、恐ろしいゲームではなかった。ただの宝探しのようなものだ。

 詠子は弘の手を握り、弘の瞳を見つめた。弘は明らかに怯えていた。

「大丈夫だってばぁ。先頭を歩くわけでもないし、ちょっとした山登りだと思えばさぁ」
「そ……そうか。詠子は、行きたいんだな」

 弘の顔には落胆の色が見えた。詠子は自分の味方をしてくれると思っていたのかもしれない。

(手間かけさせんなよ。行くっつってんだからさっさと行く準備しろよな)

 詠子は心の中で悪態をつきながら、表面上はにこやかに笑う。弘は俯きながら、ゆっくりと首を縦に振った。

「わかった。行くよ」
「うんうん、それがいいよ。宥介さん、みんなで一緒に行きましょ」
「そうか。じゃあ、出発しようか」

 宥介は急いでいるように感じられた。日没までの時間を気にしているのかもしれない。

 五人で揃って小屋から出て、また森の中を歩く。太い木の根が道まで伸びていて、下を見ていなければ躓いて転びそうになる。詠子は相変わらず最後尾で、全員の様子を見ながら宥介を追いかけていた。

 弘と菜美の速度はやはり遅い。あるいは、宥介が速すぎる。登山の経験でも豊富にあるのかと思ってしまうくらい、宥介はひょいひょいと歩いていく。救いなのは、自分が早いということを自覚していて、時々振り返って立ち止まってくれることだった。おかげで詠子が声を張り上げて宥介を呼び止める必要がなくなる。

「弘くん、大丈夫? いったん休憩する?」

 早苗が弘に優しく声をかけている。弘は嬉しそうな笑顔を浮かべながら応えた。

「いや、大丈夫だよ。早苗ちゃんは体力あるんだね」
「そんなでもないよ。さっき小屋で休憩したから、それで回復したのかな」
「そうかあ。俺も寝たんだけど、そんなに回復できなかったなあ」
「ぐっすり寝ていたね。やっぱり疲れているんだよ」
「普段こんなに歩くことないからなあ。早苗ちゃんは運動部なの?」

 彼女である自分を差し置いて、可愛い早苗とでれでれしながら話している弘の姿を見ると、天罰でも当たればいいのに、と詠子は思ってしまう。自分よりも早苗のほうが可愛いのは認めるけれど、だからってそんなに露骨に早苗とばかり話さなくてもいいのに。

 詠子が苛々しながら歩いていると、宥介が足を止めて地面を見下ろしていた。その視線の先には宝箱があった。開けてくださいと言わんばかりに、銀色で縁取られている宝箱は目立っている。

 宥介は開けるかどうか悩んでいるようだった。詠子が近づくと、宥介は詠子のほうを一瞥して、尋ねてきた。

「詠子ちゃん、どう思う? こんな罠っぽい宝箱、開けるか?」
「何か仕掛けられてそうですよねぇ。でも、何かいいもの入ってるかも」
「開けるか。詠子ちゃん、離れて」
「宥介さんが開けるんですか?」

 今こそ弘が役に立つ時だと思った詠子は、宥介に問いかける。宥介は笑みすら浮かべずに言った。

「ぼくしかいないだろう。詠子ちゃんに開けさせるわけにもいかない」
「や、ほら、弘くんだっているじゃないですか」
「開けたがらないだろう? 説得する時間がもったいないよ」

 そう言って、宥介は宝箱を器用に蹴り開けた。その瞬間、宝箱の中から水が噴射される。宥介は腕で首を守るようにして、水が首輪にかからないようにした。宥介の胸から下腹部までがびしょ濡れになってしまった。しかし首輪が濡れなかったためか、宥介に水濡れのペナルティが宣告されることはなかった。

「ゆ、宥介くん、大丈夫?」

 菜美が慌てて宥介に駆け寄る。しかし宥介が見ているのは宝箱の中身だった。

「コンパス、か?」

 宝箱のサイズに見合わない、小さな方位磁針のようなものが入っていた。宥介が手に取ると、針がぐるぐると回り、一か所で止まる。それは確かに方角を指しているようにも見えた。

「これで東に行きやすくなったな。このコンパスが正しいなら、ぼくたちが進んできたのは東で合っているはずだ」

 宥介は珍しく高揚しているようだった。ゲームクリアのための重要なアイテムを入手したからかもしれない。地図とコンパスがあれば、探索がぐっと楽になるのは間違いなかった。

「行こう。足元、木の根が出ているから注意して」

 宥介は菜美にそう言って、自らどんどん進んでいく。コンパスを手にしたことで、宥介のスピードがますます上がってしまっていた。弘はついていくのが精一杯どころか、少し遅れ気味になってしまう。

「弘くん、少し休もう? そのほうがいいよ」

 早苗が弘のことを気遣って、荒い息をする弘の背中を撫でる。それは本来彼女である詠子の役目のはずなのだが、詠子はその役目を放棄してしまっていた。早苗がやってくれるのなら、自分は全体を見る最後尾の役割に徹することができる。弘のケアをしながら宥介との距離を測るなんて、それはなかなか難しいことだ。

「ち、ちょっと、休みたい。宥介さん、早いよ」

 弘が泣き言を言ったので、詠子は仕方なく宥介を呼び止めた。

「宥介さーん、ちょっと休憩しましょー!」

 詠子が声を張り上げると、宥介はすぐに足を止めた。菜美を連れて戻ってくる。

「ごめん、少し速かったかな」
「うぅん、あたしは平気だったんですけどねぇ。弘くんがちょっと」
「すんません。俺、体力なくて」
「いや、いいんだ。とにかく少し休もう。それからまた出発すればいい」

 宥介が言い終わらないうちに、弘はその場に座り込んでしまう。女子である早苗や菜美がそうなるならともかく、男性である弘がいちばん最初に音を上げるというのは、どうなのだろう。自分が付き合っていた男はこんな奴だったのか、と詠子は思った。

 各々、飛び出ている木の根や切り株に腰を下ろし、休息する。宥介だけが座ることもせずに周囲の木を調べていた。詠子はその様子が気になり、宥介のところに行った。

「宥介さん、何してるんです?」
「一度通ったかどうかを調べるための目印をつけているんだ。こうしておけば、迷ったとしても何度も同じ道を通る必要がなくなるだろう」
「わ、さっすがぁ。宥介さん、絶対こーゆーの慣れてますよねぇ」
「慣れてないって。詠子ちゃん、休まなくて平気なのか?」
「はい。あたし体力には自信あるんですよ。まだまだ平気ですっ」
「足を挫いたりしないようにね。怪我人を庇いながら歩くのは難しそうだ」
「はぁい。気をつけまぁす」

 詠子が少しおどけた様子で応えると、宥介はほのかに笑った。

「そぉいえば宥介さん、服乾きました? さっきめっちゃ濡れましたよね?」

 宝箱を開けた時の水トラップで、宥介の服は濡れてしまっていた。まだ乾いたようには見えない。

「これくらい、大したことないよ。濡れていたからって寒いわけでもないし」
「外が冬じゃなくてよかったですよね。ちょうど秋くらいを想定してるんですかね?」
「そうだろうね。暑くも寒くもない、適温を維持しているんだろう」

 森の中は多少涼しいくらいで、寒いというほどでもない。宥介の言う通り、人間にとって適温を維持するようにプログラムされているのだろう。これが酷暑や極寒でなくてよかったと詠子は思う。

 宥介は腕時計を確認する。詠子がちらりと覗き見ると、もう十六時を過ぎようとしていた。

「そろそろ小屋を探したほうがいいかもしれないな」
「そぉですね。日没は何時なんでしょう?」
「六時くらいじゃないかと思っている。それまでに見つけられればいいけれど」

 まだあと二時間はある。小屋を見つけることくらいはできるだろう。詠子は楽観視していた。

「みんな、行こうか。小屋を探したい」

 宥介の呼びかけで全員が立ち上がる。弘は渋々といった感じで。

「地図に小屋は書いてないんですかぁ?」
「書いていない。歩きながら探すしかないね」
「うぅん、残念。仕方ないですよね、行きましょ」

 宥介が先頭を歩き、弘、早苗、菜美と続いて、また最後尾が詠子になる。これも宥介の好感度のためだと自分を納得させて、詠子はその隊列のまま進む。

 森の中は景色がほとんど変わらず、同じところをぐるぐる回っているような気がしてしまう。それは詠子だけではないようで、菜美が不安そうに詠子に話しかけてきた。

「ねえ、ここ、さっきも通らなかった?」
「似てますよねぇ。宥介さんに訊いてみます?」
「う、ううん、そこまでじゃないから、大丈夫。宥介くんはきっとわかってるから」

 それが遠慮なのか、嫌われたくないからなのか、あるいはその両方なのか、詠子には推し量れなかった。菜美は思ったことをそのまま口に出せないタイプの人間なのだろう。ストレスを溜め込んでしまいがちな人種だ。詠子にはその気持ちがわからない。

 進めども進めども広がるのは森で、森の出口すら見えてこない。時間だけが過ぎていき、体力と気力が奪われていく。辺りは次第に暗くなってきて、足元の木の根を判別するのが難しい時間帯になってきていた。まだ小屋は見えてこない。

「まずいな。日没が近い」

 宥介が珍しく焦りを感じさせる声で言った。その焦燥感は一瞬で全員に伝播する。

 さらにその焦りを増幅させるように、サイレンが響き渡った。一度目の、警告のサイレン。

「や、やばいよ、サイレンだ」

 弘が過敏に反応して周囲をきょろきょろと見回す。宥介は弘を落ち着かせるように言う。

「まだ一度目だ。急いで小屋を探そう」

 宥介は後ろを振り返ることなく歩いていく。遅れないように弘と菜美が必死に付いていこうとする。早苗は最後尾の詠子と一緒に歩く。

 小屋はない。木々の向こう側から小屋が現れることを期待して覗いてみても、小屋は出てこない。この一帯には小屋がないのではないかと思ってしまう。

 宥介は後続が自分を見失わないぎりぎりのラインまで先へ進み、小屋を探している。弘と菜美はついていくので精一杯だろう。早苗と詠子も小屋を探してみるが、それらしい建物は見つからない。

 詠子は徐々に焦りを覚えつつあった。二度目のサイレンが鳴れば、本当に殺されてしまうかもしれない。そんなのは嫌だ。まだやりたいことはたくさんあるし、こんなところで死にたくない。早く、早く、小屋を見つけなければならない。

「うわっ!」

 弘が木の根に躓いて転倒した。舌打ちしそうになったところを堪えて、詠子は弘を助け起こす。早苗も近くまで来てくれて、二人で弘を立ち上がらせた。

「弘くん、大丈夫? 足捻ってない?」
「あ、ああ、大丈夫。ちょっと転んだだけだよ」
「よかったぁ。じゃ、急ご」

 暗くなってきた森の中を走りだす。まだ辛うじて宥介の姿を捉えることができていた。詠子が手を大きく振ると、宥介がそれに気づいて手を振り返してくれる。宥介なら、互いの距離感がどれくらいなのか測ってくれることだろう。

 宥介を先頭に、日の光が入らなくなってきた森を進んでいく。まだ小屋は見つかっていない。

 そこで、無情にも二回目のサイレンが鳴った。腹に響き渡るような、不快な音だった。

「ど、どうすんだよ、バケモノが出てきちゃうだろ」
「弘くん、走って! 宥介さんについていかなきゃ!」
「ひ、ひいっ、俺まだ死にたくねえよ!」

(誰だってまだ死にたくねえよ! いいからさっさと走れ馬鹿野郎!)

 五人は縦に長く並んだ隊列で走る。宥介は時折詠子の姿を確認して、そのまま走り続ける。詠子でさえもついていくのがやっとだった。次第に息が切れてくる。

 がさがさ、と音がする。自分たちが走っている音ではない。もっと別の方向から聞こえてくる、草木を分ける音。

 生い茂る木々が割れた隙間、それが姿を現した。

 白い仮面を被り、白い装束を着た人間。仮面は耳まで口が裂けた模様が描かれており、頭の頂には二本の短い角が生えている。手にしているのは、水鉄砲。それだけがミスマッチにも思えるが、このゲームでの水鉄砲は凶器になり得る。まさに、プレイヤーを殺すために来たバケモノだった。

「う、うわああああ!」
「きゃあああああ!」

 弘と菜美が同時に悲鳴を上げる。早苗は悲鳴こそ上げなかったものの、恐怖と驚きで言葉を失ってしまっているようだった。

 これが、バケモノ。詠子は嫌でもその姿が目に焼き付いてしまった。

 バケモノが水鉄砲を構える。誰を狙っているかは定かではないが、要するに首に当たらなければよいのだ。詠子は足が止まっている三人を追い立てた。

「早く! 走って走って!」

 詠子が早苗を押すと、早苗は我に返ったように走り出した。問題は弘と菜美だった。二人はバケモノを見つめたまま動こうとしなかった。

(何やってんだよグズ! 逃げなきゃ殺されるんだぞ!)

 そう言いたい気持ちをぐっと堪えて、詠子は早苗に指示した。

「早苗ちゃん、菜美さんを!」
「う、うん! 菜美さん、行きましょう!」

 早苗が菜美の腕を引っ張っていくのを見届けて、詠子は弘の手を引いた。

「弘くん、行くよ! 逃げるの!」
「に、逃げるって、どこに行くんだよ!」
「わかんないけど、逃げるの! 早く、ほら、行くよ!」

 詠子は無理やり弘の手を引いて走り出した。そのすぐ後ろでばしゃんと音がして、水鉄砲が噴射されたのだと悟る。やはり、あの白いバケモノはこちらを殺す気なのだ。

 バケモノは機敏な動きで木の根を乗り越え、迫ってくる。幸いなのは、水鉄砲では飛距離がさほどないということと、首輪に当たらなければダメージにならないというところだった。逃げ続けていれば、殺されることはなさそうだった。逃げ続けることができるのなら、の話だが。

 詠子が振り返ると、白い仮面のバケモノはまだついてきていた。詠子も息が切れてきて、最初と同じようなスピードを出すことができなくなってくる。対してバケモノは、疲れた様子も見せずに迫ってくる。

 逃げきれない? ここで終わりなのだろうか。詠子は浮かんだ考えを振り払い、懸命に足を動かして逃げる。

「小屋だ! みんな、頑張れ!」

 宥介の声が遠くから聞こえた。宥介は豆粒みたいに小さく、そこまでの距離の遠さを感じさせる。しかし小屋があったというのなら、そこまで逃げればこちらの勝ちだ。詠子は自分の足に鞭を打って、がむしゃらに走る。

 白い仮面のバケモノが水鉄砲を放ったのか、詠子の背中が濡れた。あと少し上だったら、首輪が発動していたところだろう。詠子は死の恐怖を感じた。源大の苦しみながら死んでいく様がありありと思い出させられた。

(こんなところで死んでたまるかよ。ふざけんじゃねえ)

 木々の間を抜け、開けた場所に出る。そこには一階建ての小屋があった。既に宥介は中に入っており、早苗と菜美が今辿り着いたところだった。

 行ける。間に合う。詠子は足を動かして、弘を半ば引きずるようにしながら、小屋の入口へと向かっていく。

 弘が我先にと小屋へ入る。詠子も滑り込むようにして小屋に入った。宥介が素早く扉を閉めて鍵をかける。びしゃん、と水がかかる音がした。けれど、バケモノが小屋の中に入ってくる様子はなかった。絶対に安全というルールは守られているようだった。

 誰もが荒い息をしていて、その息遣いだけが小屋の中に響いていた。

 詠子は放心状態だった。バケモノに命を狙われたということが、詠子の中での認識を大きく変えていた。これはただのゲームではない。命のやり取りが発生するゲームなのだ。可愛くいようとか考えていたら死んでしまうかもしれない。ここでは、可愛さを考えるよりも生き残ることを優先するほうがよいのかもしれない。

 小屋は二人用の設備だった。タオル類だけ六人分用意されているが、ベッドは二つしかないし、ダイニングテーブルの座席も二つだけだった。ロッキングチェアが一つある程度で、ベッドに座らなければ全員の座席はなかった。アイランド型のキッチンとダイニングが一体化していて、その先にリビングがあり、ベッドが並んでいる。

 宥介が壁に寄りかかりながら口を開いた。全員が荒くなった息を整えていた。

「あれがバケモノか。普通の人間だったな」
「変な仮面被ってましたね。武器も水鉄砲でしたし」
「出会っても逃げられることはわかったね。それだけでも収穫だよ」

 宥介は食料が備蓄してある棚から水を取り、口に流し込む。ふう、と一息ついて、全員の顔を見ながら言った。

「今日はここで夜を越そう。少し狭いけれど、仕方ないね」
「はぁい。ベッドはどうします? 二つしかないですけど」
「ぼくは要らない。四人で決めてくれればいいよ」
「だって。弘くん、どうする?」

 詠子はわざと弘に話を振った。男が辞退する流れができていると思っていた。弘が遠慮して、菜美、早苗、詠子の三人で使う流れがベストだろうと考えていた。

「じゃあ、じゃんけんにしよう」
「えぇ?」

 だから、詠子は思わず声を出してしまう。昨日もベッドを使っていて、昼にもベッドを使っているくせに、今夜も譲らないつもりなのだ。そんなことが許されるのか。

「私はいいよ、じゃんけんで」
「うん、わたしも」

 菜美と早苗は了承してしまう。やむなく、詠子もその流れに乗る。

「じゃーんけーんぽんっ」

 じゃんけんの結果、早苗と弘がベッドを使うことになった。

 詠子は納得がいっていなかった。じゃんけんの結果とはいえ、また弘がベッドで眠るのだ。役に立っているわけでもないのに、どうして弘がベッドを使うのだろうか。

 けれど、ここで文句を言うのは可愛くない。公正な勝負の結果を受け入れるべきだ。詠子は自分にそう言い聞かせて、弘のほうを見ずに宥介のところへ行った。弘と今話したら苛立ちをぶつけてしまいそうだったからだ。宥介なら穏やかな気持ちにさせてくれると思った。

 宥介はキッチンで湯を沸かし、レトルト食品のカレーを温めていた。妙に生活感のある風景に、詠子は少しだけ現実に引き戻された気がした。

「詠子ちゃんも食べる? 今なら一緒に温めるよ」
「あっ、じゃあお願いしまぁす」
「甘口と激辛と超辛があるけど」
「じゃあ甘口で」

 どうして中辛のように間を取った辛さがないのだろうか。甘いか辛いかの二択しかないのなら、甘口を選ぶほかない。

「詠子ちゃん、辛いのは苦手なんだね」
「や、激辛と超辛に戦いを挑む勇気がなかっただけです。宥介さんは?」
「ぼくは超辛だよ。このシリーズはそこそこ辛くておいしいんだ」

 涼しい顔でとんでもないことを言っているが、詠子は拾わないでおいた。

 パックの白米を電子レンジで温めて、レトルト食品のカレーをかける。朝の味気ないパンとは違い、しっかりとした味の温かいものを食べることができることが嬉しかった。

「俺、シャワー浴びてきますね」
「はぁい。いってらっしゃーい」

 弘がシャワールームへと姿を消す。菜美と早苗は話していて、まだ夕食を摂るところではないようだった。詠子は宥介と二人でカレーを頬張る。甘口のカレーは子ども向けのような味で、詠子には少し甘すぎた。しかし贅沢は言っていられない。

 カレーを食べていたら、不意に宥介が詠子に尋ねた。

「詠子ちゃん、本当に弘くんと付き合っているのか?」
「はい? そうですけど、どうしてですか?」
「いや、そう見えなかっただけだよ。もう長いの?」

 何か裏がありそうだとは思ったが、詠子は問われたことに答えることにした。

「半年くらいですかねぇ。向こうがしつこくアタックしてくるから、じゃあ付き合ってみるか、って感じで」
「ああ、弘くんからなのか」

 宥介は何か得心したようだった。もしかしたら弘に強く当たっているところを見て、関係が悪くなったと思われてしまったのかもしれない。今一度、気を引き締めなければならない。

 可愛く、可愛く。誰から見ても、どんな時でも、可愛くしなければならないのだ。

「宥介さんは彼女いないんですかぁ?」

 詠子はいないと知りながら尋ねる。いるのなら菜美がラビットハントに誘うはずがない。

「いないよ」
「いたことは?」
「あるよ。もう別れてしまったけれどね」

 宥介は苦笑していた。あまりよい話ではないのだろうと察して、詠子は話の先を変えた。

「菜美さんとはどーゆー関係なんです?」
「同じ学部でね。講義を受けている席が近くて、それで仲良くなったんだよ」
「一緒にラビットハントに来るくらいですし、かなり仲良いんですね」
「そう、かもしれないね。菜美がどう思っているのかは知らないけれど」

 菜美さんはあなたのことが好きですよ、と伝えたくなってしまう。なんとか無事に二人をゴールさせて、告白を成功させたかった。そのためにも、まずはこのゲームをクリアしなければならない。

「でも宥介さん、モテそう。バレンタインデーとかすごいんじゃないですか」
「そんなことないよ。詠子ちゃんだって今は弘くんがいるだろうけれど、モテるんじゃない?」
「へっへー、実はそうなんですよぉ。意外とモテるんですよねぇ、あたし」

 普段から可愛く見えることを意識している結果だと詠子は思っている。弘と付き合う前は別の男子と付き合っていた。中学生の頃から彼氏が途切れることはほとんどなく、別れれば次の男が声をかけてくる、というサイクルだった。弘のことも別に好きだったわけではなく、その熱意に押されて承諾したのだ。

 モテるんじゃないか、と訊かれたということは、少なくとも宥介にとっても自分は魅力的な女子に映っているのだろう。詠子はそこに安堵した。宥介の前ではあまり可愛い女子を演じられていなかったから、どういう評価になっているか気になっていたのだ。

「弘くんの精神的なケアは任せるよ。少し、疲弊しているようだから」

 宥介は小さな声で言った。詠子は小さく頷くだけに留めた。

(めんどくせえなぁ。飯食って寝てすっきり、ってなってくれりゃいいのに)

 弘がそんな単純な人間でないことは詠子も知っている。弘は昔の失敗や嫌だった記憶を思い出して、掘り返してぐちぐちと悩むタイプなのだ。精神的なケアをしろ、と言われるのも拒否することはできない。

「宥介さんはすごいですねぇ、みんなの様子もちゃんと見てて」
「そういう性格みたいなものだよ。細かい男なんだ」
「宥介さんがこのチームにいてよかったです、ほんとに」
「そう。ぼくも、詠子ちゃんがいてよかったよ」

 二人で微笑みを交わす。その様子を菜美が見ていたことを、詠子は知らない。

 ベッドではない場所で寝たのは久しぶり、いや、記憶にある限りでは初めてかもしれない。授業中の居眠りを除けば、詠子は椅子に座ったまま寝たことなどない。

 ベッド以外にも寝袋がひとつだけあったが、それは菜美に譲った。そのほうが健気で可愛いと思ったのだ。菜美の好感度を稼いでおけば、巡り巡って宥介の好感度が上がるかもしれない。このメンバーでゲームをクリアするにあたって、宥介の好感度が最も重要だと詠子は考えていた。やはりリーダーに愛されているというのは大きい。

 ベッドも寝袋もない詠子は、一人掛けのロッキングチェアに座って寝ることになった。しかし、そんなところで熟睡できるはずもなく、うとうととしては目が覚める、そんなことを繰り返していた。部屋が分かれているわけではないから、ベッドで眠っている弘の姿が目に入ると、苛々とした気持ちが湧き上がってくる。

(譲れよ。大して役にも立ってねえんだからさぁ)

 詠子の心の声は誰に聞かれるわけでもなく、消えていく。

 ベッドを辞退した宥介は、ダイニングテーブルに突っ伏して寝ていた。そんなので疲れが取れるのだろうか。いくら睡眠時間が短くて済むとはいえ、睡眠の質が悪いのでは疲れが取れないのでないだろうか。詠子はできることなら宥介にしっかりと休んでほしかった。宥介のパフォーマンスがこのチーム全体を左右するのだから。

 詠子がまたうとうととして、ふと目を覚ますと、宥介がキッチンで水を飲んでいるところだった。宥介は伸びをして、水を飲んでいる。詠子も喉の渇きを覚えた。

 あまり疲れが取れた気がしなかったが、詠子はロッキングチェアから立ち上がり、宥介のところへ行った。宥介は意外そうな顔で詠子を迎えた。

「詠子ちゃん、早いね」

 あんなところで眠れるわけねえだろ、と言いたいのを堪えて、詠子は可愛く笑った。

「ちょっと目が覚めちゃって。お水飲もうかなって思ったんです」
「そう。まだ四時過ぎだよ。休める時に休んでおいたほうがいい」

 宥介の発言は尤もだが、詠子はこれ以上眠れる気がしなかった。ベッドで眠れるならまだしも、ロッキングチェアで眠るのは無理だ。

「宥介さん、あたしの椅子使います? あんなところで寝ても疲れ取れないでしょー?」
「いや、いいよ。椅子の上で寝るのは慣れている」
「そうなんですか? なんで?」
「大学の課題をやりながら、一休みで寝ることがあるんだ。三時間も寝たら充分だよ」
「いいなぁ、ショートスリーパー。あたしもなりたぁい」
「便利な身体だよ。ぼくが他人に自慢できる数少ない特技だね」

 宥介はやわらかく笑った。優しい微笑みに、詠子は思わずどきりとしてしまう。

(宥介さん、かっこいいなあ。優しいし、大人だし、菜美さんが惚れるのもわかるわー)

 詠子はキッチンで水を飲みながらそんなことを考えていた。自分に弘がいなかったら、可愛さを存分にアピールして宥介に近づいていたかもしれない。宥介は鋭そうだから、控えめに可愛さアピールをしていく必要がありそうだ。

 宥介はダイニングテ―ブルに地図を広げていた。相変わらず現在地がわからないから、この地図をうまく活かすことができていない。それでも宥介は地図を睨み、じっと何かを考えていた。詠子が宥介の正面の席に座ると、宥介が話しかけてくる。

「朝日が昇る前にここを出たらどうなると思う?」
「えっ? バケモノがいるんでしょー? 危ないんじゃないですかぁ?」
「そうだよね。やはり、バケモノがいるはず、か」

 詠子の返答は予想済みのようだった。まるでその答えを欲していたかのようだ。

「宥介さん、外に出る気なんですかー? やめてくださいよ、自殺行為ですよっ」
「でも走れば逃げ切ることができることがわかった。バケモノと言っているけれど、相手も人間のようだった。うまくすれば、夜明け前にも探索することができるんじゃないか?」
「本気で言ってます? 危ないなんてものじゃないですよ」

 宥介の表情は冗談を言っているようには見えなかった。

 これは止めなければならない。詠子はひと時だけ可愛さを捨てて、宥介をじっと見た。

「危険ですし、みんな起きれませんよ。それとも、宥介さん一人で行く気ですか?」
「行くならぼく一人で行くよ。みんなと一緒だとバケモノから逃げるのも難しくなる」
「だめですよ。同じ小屋に帰ってこられなかったら、あたしたちは宥介さんを失うことになる。そんなの、絶対だめです」

 詠子が強い口調で言ったからか、宥介は驚きを滲ませた。

「宥介さんが行くなら、あたしも行きます。あたしならついていっても邪魔にならないでしょ」

 詠子は止めたつもりだった。宥介よりも詠子のほうが遅いに決まっている。詠子が足手まといになるのは目に見えている、と詠子は踏んでいた。こうでも言わないと、宥介は本当に一人で出て行ってしまいそうだった。

 しかし、詠子の思惑は外れることになる。

「じゃあ、そうしようか。ぼくと詠子ちゃんだけなら、探索のスピードも上がると思う。詠子ちゃんならよく気が回るし、咄嗟のことにも対応できるだろう」
「待って待って、えっ、本気? 本気で言ってます?」

 詠子が焦って宥介に確認すると、宥介は何でもないことのように言った。

「ぼくは本気だよ。今すぐに出て行っても構わない」
「ど、どーしてです? 五人で一緒に行きましょうよ」

 詠子がそう言うと、宥介は身を乗り出して詠子に顔を寄せた。そして、他の人に聞こえないような小さな声で、詠子に答えた。

「詠子ちゃん、ぼくはゲームのクリアを見ている。全員でのクリアじゃない。ぼくがゲームをクリアすることを考えているんだ」
「そのためには、五人じゃなくてもいいってこと?」
「そうだ。ぼくと詠子ちゃんが二人で行って、残りの三人はこの小屋に残ってくれてもいい。詠子ちゃんはきっとぼくの助けになるだろうから連れていくけれど、他の三人は残ってくれたほうがいい、かもしれない」

 それが宥介の本音か、と詠子は思った。足手まといになる人をここで切り捨てて、早々にゲームをクリアする。確かに、ゲームクリアだけを見るのなら最良の手かもしれなかった。

 詠子は考える。これを受け入れれば、宥介はきっと朝のサイレンと同時か、もしかしたら今すぐに出て行くだろう。そこに自分を入れてくれた嬉しさはあるが、残された三人はそれでよいのだろうか。絶対に安全な小屋で待っていればクリアになるというのは、弘は喜びそうだけれど。

「一度みんなで話し合いましょうよ。無言でふらっと出て行っちゃったらみんな困っちゃいますよ」
「話したら実行できないと思う。おそらくだけれど、また全員で動くことになる。そうしたら探索の速度は遅いままだ。いつまで経っ
てもゲームのクリアには程遠い」
「でも、だめです。みんなの合意を得てからにしましょう。宥介さんがいなくなったらみんな困っちゃいますし」

 詠子が譲らなかったからか、宥介は椅子の背もたれに身体を預けて深く息を吐いた。宥介の好感度を下げてしまったのではないか、と詠子は不安になる。でも仕方ない、可愛さをアピールするのは今ではない。今は、どうにかして宥介を止めなければならない。

 やがて宥介は静かに口を開いた。

「わかった。後でみんなに提案してみよう」
「はい、そうしてください。弘くんは賛成してくれそうですけどね」
「うん? どうして?」
「この小屋に籠っていたら安全でしょー? 自分が安全なままクリアできるんですから、その手に飛びつくと思うんですよねぇ」
「そうか。じゃあ、その線で押していこうかな」

 宥介はふっと笑った。コップに汲んであった水をぐいっと飲み干す。詠子も同じように、コップの水に口をつけた。冷たい液体が喉を流れていく。

 二人の間に沈黙が下りたが、嫌なものではなかった。二人が話していたから誰か起きるかと詠子は思ったのに、誰も起きてこなかった。三人は熟睡しているようだった。羨ましい、と思う自分を隠して、詠子は欠伸を噛み殺す。

 宥介は窓の外を見に行った。外はまだ暗く、森の木々しか見えない。バケモノが見えるはずもなく、何も知らなければただの山小屋で一夜を過ごしているとしか思えない。

 何かを考えるような顔をしながら、宥介がダイニングテーブルに戻ってくる。そして、その様子を目で追っていた詠子に訊いた。

「詠子ちゃんは、バケモノに対抗するすべはあると思う?」

 予想だにしない質問に、詠子は戸惑った。この人は何を考えているのだろう、と思ってしまう。バケモノに対抗するすべがあるのなら、夜にも動くつもりなのだろうか。

 詠子は答えに迷って、正直な感想を口にした。

「ないんじゃないでしょうか」
「どうして、そう思う?」
「アイは、わたしたちにはバケモノに対抗する手段はありません、と言ってました。それがルールのはずです。だから、わたしたちはバケモノから逃げるしかないんだと思います」
「なるほど。確かに、そうだ」
「だから宥介さん、日の出までは外に出ちゃだめですよ。宥介さんがいなくなったら困るんですから」

 詠子が宥介に言うと、宥介は笑った。ごく自然な笑顔だった。

「ぼくがいなくなったら詠子ちゃんがみんなを引っ張っていってくれよ」
「やですよ、そんなの。あたしには無理ですよぉ」

 ぶんぶんと身体の前で手を振って、可愛く見えるように否定する。宥介はそんな詠子の様子を見て、微笑んでくれる。宥介は可愛いと思ってくれているのか、詠子は不安になる。

 朝を告げるサイレンが鳴った。これでもうバケモノはいなくなったことになる。

 宥介は席を立ち、外へ出て行こうとする。詠子はその背中を呼び止めた。

「宥介さん、あたしも行きます」
「外の空気を吸いに行くだけだよ。一人でどこかに行ったりしないさ」
「いーえ、信用できないので。あたしも行きますっ」
「そう。まあ、いいけど、信用されていないのは悲しいな」
「どっか行っちゃいそうですもん。一人では行かせませんよ」

 宥介は肩を竦めた。しかし、詠子が来ることは拒まなかった。

 二人は小屋から外に出ていく。その話を聞いていた人物がいるとも知らずに。





 午前九時過ぎになって、ようやく全員の出発の準備が整った。いちばん時間がかかったのは弘だ。そもそも起きてきたのが遅い。ベッドを使っていたせいでもあるのか、昨晩はぐっすりと眠れたようだった。それで役に立てばいいのだけれど、と詠子は思う。

 全員が集まって座れる場所がないから、ベッドの上やダイニングテーブルの椅子など、思い思いのところに各々が座る。宥介と詠子はダイニングテーブルの椅子に座っていた。

 作戦会議らしい雰囲気を感じ取ったのか、弘や菜美の表情は硬い。早苗はそんな周囲の様子を見て、何かが始まるのだと察しているようだった。

 宥介が全員の顔を見回して、口火を切った。

「やはり分かれて行動すべきだと思う。ゲームのクリアを考えるなら、分散してヒントとウサギを探すほうが効率的だ」

 菜美は不安そうな瞳で詠子を見た。いつもならここで詠子がすかさず拒むところだ。しかし、今日の詠子は何も言わない。既に話し合った後だからだ。

 分散行動と聞いて、拒否感を示すのは弘も同じだった。おどおどとしながら、周りの様子を気にして宥介に尋ねる。

「わ、分かれるって、どういうグループにするんですか」

 その質問も予想済みだった。宥介は単調に、少し重みのある声で答えた。

「ぼくと詠子ちゃんは外に出る。菜美、早苗ちゃん、弘くんは、探しに行ってもいいし小屋に隠れていてもいい」
「えっ? 二人だけで外に探しに行くの?」

 意外にも食いついたのは菜美だった。詠子は失念していたが、菜美は宥介のことが好きなのだった。好きな相手が女子高生と二人で行くなんて、簡単には受け入れられないかもしれない。

 宥介はちらりと菜美を見て、口調を変えずに言った。

「たぶんぼくと詠子ちゃんの二人で行くほうが、五人で動くより速い。詠子ちゃんなら判断力もあるし、体力もある。さっさとウサギを見つけてクリアするなら、そうするほうが早いはずだ」
「で、でも、二人で行くの? 詠子ちゃん、それでいいの?」

 菜美が何を気にしているのかは、詠子にはわかった。宥介と二人で小屋で過ごすことになってもよいのか、ということだ。若い男女がこの小屋の中で二人きりになれば、何らかの過ちがあってもおかしくはない。菜美はそれを気にしているのだ。

 どう答えるのが正解だろうか。可愛く思われるには、どうするべきだろうか。いや、そもそも、もう可愛くあるべきだと思うこと自体、間違っているところまで来てしまったのかもしれない。死にたくないのなら、多少可愛くない行動を取らなければならないのかもしれない。

 詠子は逡巡する。そして、選択する。

「大丈夫ですよぉ。さっき宥介さんと話しましたけど、ちゃちゃっとこのゲームをクリアするほうがいいんじゃないかって話になったんです。少人数のほうが動きやすいですし、宥介さんなら何かあっても何とかしてくれそうでしょー?」

 詠子は可愛さを捨てた。守るのは、仮面の下の悪態だけ。この悪態だけは、何があっても晒すわけにはいかない。自分の本性を明かすわけにはいかないのだ。

「そうかもしれないけど、でも」

 菜美は言葉にならない何かを訴えてくる。宥介から離れるのが嫌なのだろうと詠子は推察した。まして、宥介に詠子がついていくのだ。納得はいかないだろう。

「お、俺も、反対です。どうして詠子なんですか」

 弘が珍しく意見を述べた。弘なら小屋にいることを喜ぶだろうと思っていた詠子は、あまりにも意外で言葉を失ってしまった。

「詠子じゃなくてもいいんじゃないですか。それこそ、俺だっていいはずです」
「弘くんはそんなに早く動けないでしょ。体力もないんだし、分かれて行動する意味ないよ」
「でも、詠子を連れて行くなら俺だって連れて行ってほしい。詠子は俺の彼女ですよ」

(ここで彼氏面かよ。おいおい、彼氏だって言うならもっとそれらしいことしろよ)

 弘の主張に、詠子は頭が痛くなってしまった。悪態が口から出て行きそうになるのを堪える。

 宥介は冷静だった。弘の主張を聞いて、早苗に視線を移した。

「早苗ちゃんはどう思う? 分かれるか、固まるか、どちらがいいと思う?」

 意見を求められて、早苗は詠子のほうを見た。なぜ自分を見たのかわからず、詠子は首を傾げる。何か、訊きたいことがあったのだろうか。

「わたしは、このまま五人で動くほうがいいと思います」
「なるほど。どうして?」
「宥介さんも詠子ちゃんもいなくなったら、わたしたち三人はきっとどうしたらよいかわからなくなってしまいます。残されるわたしたちのことも考えてほしいんです」

 早苗は暗に菜美と弘を批判しているようだった。どちらにもリーダーシップがないから、率いるとしたら自分がその役目を負うことになるだろう。早苗はそれが嫌なのかもしれない、と詠子は思った。

 宥介は天を仰ぎ、ふうっと息を吐いた。

「三対二、か。否決だね。五人で動こう」

 宥介が折れるのは早かった。こんな状況でも多数決を重んじているのだろう。

「ていうか宥介さん、詠子と二人で行きたかっただけなんじゃないですか」

 弘が苛立ったような口調で宥介に食ってかかった。宥介は弘を一瞥しただけで、特に何も反論しなかった。弘の次の言葉を待っているようだった。

「詠子と二人きりでこのゲームを進めたかったんだ。詠子が可愛いからって、二人きりになりたかっただけなんじゃないですか」
「やめてよ弘くん。そんなわけないでしょー?」
「詠子のことを買ってるのも、詠子が可愛いからなんだ。宥介さん、あんた、詠子に近づきたいだけなんだろ!」

 弘は掴みかかるような勢いで宥介に近寄った。宥介の瞳は冷めていて、怒りの色はなかった。むしろ哀れみさえ感じられるような、静かな色を湛えていた。

「そうだと言っても、そうではないと言っても、きみの怒りは収まらないだろう? 答えるだけ無駄だよ」
「なんだと、この!」
「やめて、弘くん! 宥介さん、ごめんなさい、怒らないであげてください」

 詠子が宥介と弘の間に割って入り、弘を制止させる。弘は怒りを滲ませたまま宥介を睨んでいる。宥介は何事もなかったかのように、静かに息を吐いた。

「詠子は俺の彼女だ! 手ぇ出したら怒るからな!」
「やめてってば! 宥介さんはそんなつもりじゃないよ!」

 宥介が不意に席を立った。誰の顔を見るでもなく、平坦な声で言った。

「外の空気を吸ってくるよ。大丈夫、ちゃんと戻ってくる」
「菜美さん、宥介さんについていってくれませんか。どこか行っちゃうかも」
「う、うん、わかった」

 宥介と菜美が小屋の外に出て行く。未だに怒りが収まらない弘と、そんな弘に戸惑っている早苗、そして苛立ちを懸命に抑え込んでいる詠子が残される。

「詠子、どうして宥介さんの肩を持つんだよ? お前は俺の彼女だろ」
「それとこれとは話が別でしょー? 宥介さんはゲームクリアのことを考えて言ってるんだよ」
「それにしたって、宥介さんは詠子を特別扱いしてる。きっと詠子のことが好きなんだ。それで、二人きりになろうと思ってあんな話を始めたんだ」

 思い通りにならなくて、詠子は溜息を吐いた。弘の勘違いをどうにかしなければならない。また問題が増えてしまった。宥介が自分のことを好きだなんて、そんなことがあるはずがない。宥介はゲームクリアしか見ていないのだから。

「でも、確かに宥介さんは詠子ちゃんのこと信用しているよね。最後尾も任せるし、何か悩んだら真っ先に詠子ちゃんに訊くし」

 早苗がそう言うと、弘の炎がますます燃え上がった。

「だろ? あいつ、絶対詠子のこと狙ってるんだ。そうはさせないぞ」
「そんなことないってばぁ。誰も何も言わないから、何か言うあたしに訊いてるだけでしょ」
「とにかく、詠子、気をつけろよ。あいつが言い寄ってきたら教えろよな」

(お前に教えてどうなるんだっつーの。お前に何ができんだよ)

 詠子は可愛い仮面を被り、その裏で呟く。表面上は困った顔を見せながら。

「詠子ちゃんと宥介さん、けっこう仲良いもんね。今朝も早くから二人で話していたし、弘くんも大変だね」
「早苗ちゃん、起きてたの?」
「ん、ちょっとだけだけどね。二人で外に出て行ったのは知っているよ」
「はあ? そうなのかよ、詠子?」

 早苗が余計なことを口走ったせいで、ますます面倒なことになってしまった。詠子はどう答えるべきか悩んで、嘘にならないように弘に答えた。

「外の空気を吸いに行っただけ。何もしてないよ」
「ほんとか? 実はあいつに浮気したりしてるんじゃないのか?」

(めんどくせえな。こいつ、こんなにめんどくさい奴だったっけ?)

 詠子は心の中の考えを表面化させないように気をつけながら、弘の手を握った。

「大丈夫だよぉ、浮気なんてしてないって。宥介さんには菜美さんがいるでしょ。そっちを応援してあげなきゃ」
「そうかよ。あいつとあまり二人きりにならないでくれよ。何かしてくるかもしれない」
「はぁい。気をつけるね」

(何かしてくるわけねえだろ、宥介さんはゲームクリアしか見てねえんだから)

 そこで宥介と菜美が小屋の中に戻ってくる。菜美は少し嬉しそうに、宥介は何かを考えているように。あちらでもなにかあったのかもしれない、と詠子は思ったが、菜美に尋ねるのはやめておいた。

 宥介は全員の顔を交互に見ながら、言った。

「準備ができたら出発しよう。今日こそ東端の石碑に着きたい」

 四人が頷く。見ている方向性が違うことには、詠子は気づいていた。宥介を除けば、誰一人として東端の石碑を目指していないのだ。皆、互いの人間関係ばかりを気にしていた。

 出発するのは早かった。というのも、あまり荷物がないからだ。道中に飲む飲料水だけ持って、五人は小屋を後にした。宥介の先導に従い、菜美、弘、早苗、詠子と続いていく。相変わらず詠子は最後尾を任されていた。弘が代わりを申し出たが、宥介が拒んだ。弘では置いていかれてしまうかもしれない、という理由だった。それが弘の自尊心に傷を与えたのではないかと詠子は心配していた。

 木の根を乗り越え、草木を踏みしめながら歩くのも慣れてきた。それは詠子だけなのか、全員の速度はさほど上がらない。やはり弘と菜美が遅いのだ。宥介は時々後続を待って立ち止まり、ついでに周囲の様子を確認している。

 そして、ついに森が開けたところに出てきた。海に向かって突き出した崖に、大きな石碑が立っていたのだ。それを見つけた時、詠子は思わず声を上げてしまった。

 宥介はすぐさま地図を開く。これが東端の石碑で間違いなかった。

「やっと辿り着いた。これだ」

 宥介の声にも達成感が溢れていた。すぐ後ろを歩いていた菜美も石碑に近寄り、見上げる。菜美の身長よりも高い石碑は、崖の上で堂々と立っていた。

 ここまで長かった。詠子たちも追い付き、弘はその場に座り込んでしまう。ようやく東端に着いたのだ。何らかの収穫があってほしかった。

「あれ? 宥介くん、何か書いてあるよ」

 菜美は石碑の下のほうに書かれていた文字を見つけて、顔を寄せる。

「菜美、危ないよ。もう少し慎重になったほうがいい」
「大丈夫だよ、スイッチとかもなさそうだし。何て書いてあるんだろう」

 菜美は砂で汚れてしまっていて読めなくなっていた文字を手で払い、砂をよける。

 その瞬間、菜美の首をめがけて水が噴射された。

「きゃっ!」
「菜美!」

 宥介が叫んで菜美を助けようとしたが、遅かった。水は菜美の首輪を濡らし、首輪が赤く点滅した。

「プレイヤー畑岡菜美。水濡れを確認。ゲームクリア失敗」

 機械音声が流れる。菜美は苦しそうに喘ぎ、首輪をかきむしるように爪を立てる。

「あ……あ、く、くるし、ゆ……すけ、くん…!」
「菜美! 菜美っ!」

 宥介が菜美の身体を支えたが、菜美はそのまま崩れ落ちた。宥介の腕の中で息を引き取り、源大と同じように、その姿が砂のように消え去っていく。そこに菜美がいた痕跡は一切残らない。

 詠子はいつしか水トラップの存在を忘れてしまっていた。そういえば、そんなものがあったのだ。きっと菜美も油断していて、それで水トラップに引っかかってしまったのだ。

 宥介は膝をついたまま、しばらく俯いて何も言わなかった。詠子はかける言葉が見つからずに、そっと宥介の傍に寄り添うことしかできなかった。

 宥介は泣いていなかった。唇を噛み、じっと何かを堪えているようだった。詠子が傍らに来たことに気づくと、その視線を石碑に向けた。

 そして、宥介は立ち上がり、石碑のほうへ向かう。先程菜美が砂を払った文字を見る。

「夕日を臨む石碑の中に、か。これがヒントだな」

 誰も宥介に声をかけることができなかった。宥介は菜美が死んだことなど気にしていないように見えたのだ。それが気丈に振舞っているだけなのか、本心からなのか、詠子にはわからない。

 石碑の近くには宝箱が置いてあった。宥介は迷わず蹴り開ける。中にはハンドガンのような水鉄砲が入っていた。いったい何に使うというのだろう。宥介は水鉄砲もジャケットの中にしまい込み、未だに声を失っている三人に言う。

「ヒントは得た。戻ろう。小屋を探したい」
「ゆ、宥介さん、菜美さんがいなくなっちゃったのに」
「詠子ちゃん。菜美はいなくなってしまったけれど、悲しんでいる場合じゃない。ぼくたちはゲームをクリアしなくちゃいけないんだ」
「どうして、そんなにドライなんですか? 悲しくないんですか?」

 詠子が問うと、宥介は詠子から視線を逸らした。

「悲しいよ。でも、やるべきことがある。菜美の犠牲は無駄にしない。それが、ぼくにできる精一杯だ」

 宥介はそれだけ言って、詠子の横を抜けて森へと戻っていく。何も言い返せずにぐっと唇を引き結んだ詠子の手を、早苗が引いた。
「詠子ちゃん、行こう。宥介さんは待ってくれないよ」

 菜美が死んでしまったのに、悲しむ時間すら与えられないのだ。これはそういうゲームなのだ。もしかしたら宥介もそれがわかっていて、小屋に着いてから悲しむつもりなのかもしれないと思った。

 詠子は前を向いた。行かなければならない。菜美の犠牲を無駄にしない、そう言った宥介についていかなければならない。

「ありがと、早苗ちゃん。小屋に着いたら思いっきり泣いてやるんだから」

 森の中を黙々と進んでいく宥介の背を追って、詠子と早苗は歩き出した。

 一人欠けた。それは、とても重いものだったのだ。

 幸いなことに、東端の石碑の近くには四人用の小屋があった。ちゃんとベッドも四人分あり、四人で使われることを想定されている小屋だった。一階建てで、奥のほうにベッドが四つ並んでおり、その手前にリビングダイニングが広がっているような間取りだ。詠子は欲を言えば男女で部屋を分けたかったけれど、そう欲張ってもいられない。ベッドで寝られるだけ感謝すべきだと思った。

 チームの雰囲気は暗かった。水トラップで菜美を失ったというのは大きかった。小屋を見つけても誰も話さず、沈黙したまま小屋の中で過ごしていた。

 詠子はシャワーを浴びれば何か変わるかと思い、シャワーを浴びたが、何も変わらなかった。重い現実を再確認しただけだった。菜美のように、もしかしたら次は自分が死んでしまうかもしれない。その思いがずしりとのしかかってくる。

 シャワールームから出ると、弘と早苗が楽しそうに喋っていた。先程までの暗い雰囲気はどこかへ飛んでいってしまい、まるで菜美が死んだことなんて忘れてしまったかのようだった。早苗は詠子が出てきたことに気づいたけれど、弘は気づかず、早苗に話しかけていた。

(暢気なものだな。次は自分かもしれねえってのに。菜美さんが死んで悲しくねえのか?)

 詠子は二人には近寄らなかった。楽しく笑って話す気分ではなかった。弘が早苗と仲良くしたいなら、そうすればいいと思った。

 宥介は地図を広げていた。その表情は険しく、話しかけるのを躊躇うほどだった。しかし詠子は宥介の隣に行き、同じように地図を眺めた。

 宥介は詠子が来たことに気づくと、詠子を一瞥した。

「ああ、詠子ちゃん、おかえり」
「ただいまです。何か、わかりそうですか?」
「夕日を臨む石碑の中に、というのがウサギのヒントなんだとしたら、その石碑を探す必要がある。でもこの地図には東端と西端の石碑しか載っていない。まさか、西端の石碑にあるなんてことはないだろう。それだったら簡単すぎる」
「逆に、地図に載るくらい重要な石碑なのかもしれません。第二のヒントが隠されてるとか」
「西端の石碑に行ってみるか? 他に手がかりもないし、そうすべきなんだろうか」

 宥介はこめかみを指先でとんとんと叩きながら思考する。詠子は何も言わず、地図に視線を落とした。相変わらず現在地がわからないままだから、この地図がどれくらい役に立つのかも不明だ。この島は思ったよりも広い。

 後ろから弘と早苗の笑い声が聞こえてくる。舌打ちを抑えて、詠子は宥介に訊いた。

「あの、宥介さん」
「なに?」
「菜美さんが死んで、悲しくないんですか」

 それは二度目の問いだった。宥介は悲しんでいるように見えなかった。ただ欠けただけではなく、本当に死んでしまったはずなのだ。それなのに、宥介はいつも通りに見える。詠子にはそれがどうしても受け入れられなかった。

 宥介は詠子と視線を合わせて、それから外した。遠いところを見ていた。

「実感がない、と言えばわかってくれるかな。このゲームが終わったら待っていてくれるような気がしているんだ。死んだと言われても、信じられていない」
「そっか。もしかしたら死んでないかもしれないですもんね」
「仮説の域だよ。余計な期待は持たないほうがいいけれど、持ってしまうよね」

 宥介は宥介なりに悲しんでいるのだと詠子は感じた。宥介も菜美の死を受け入れられていないのだ。早苗が源大の死を受け入れられなかったように。

 詠子はそっと宥介の手を取った。ごつごつとした男性の手だった。宥介は驚いたように詠子を見て、一瞬だけ悲しそうな瞳を向けた。

「宥介さん、泣きたいならあたしが胸を貸しますよ。どーんと、来てください」

 本当は詠子が泣きたかった。けれど、宥介が泣いていないのに自分が泣くのはおかしな話だと思ってしまった。いちばん泣きたいのは、いちばん交友が深かった宥介のはずなのだ。

 宥介は詠子の手を握り返して、穏やかな口調で言った。

「泣かないよ。泣くのはゲームをクリアした後だ。その時はきみがぼくの胸で泣いたらいい」
「わ、うまい返しですね。あたし本気にしちゃいますよ」
「いいよ。一緒にこのゲームをクリアしよう、詠子ちゃん」
「うわぁ、なんかプロポーズみたいですねぇ」

 詠子が冗談めかして言うと、宥介の顔に笑みが戻った。

「そうかな。一緒にゲームをクリアしたい気持ちは本当だよ」
「はい。頑張りましょう」

 詠子は宥介の手を握って、笑った。

 弘と早苗の話し声が聞こえてきても、詠子は何も思わなかった。仲良くやってろよ、くらいしか感じなかった。




 詠子は久々にベッドで眠った気がした。けれど、やはり夜明け前に目が覚めてしまった。どこか緊張しているのかもしれない。ごろごろと体勢を変えてみても眠れないので、詠子は一度起きて水を飲みに行くことにした。

 すると、いつものように宥介が起きていた。また考え事をしているのだろう。水を飲みに行きがてら、少し話そうと思い、詠子は宥介に近づく。

 宥介は詠子に気が付かないまま、小屋の外に行こうとした。まだ朝のサイレンは鳴っていないはずだ。詠子は慌ててその背を追いかけ、呼び止めた。

「宥介さん、まだ夜ですよ」

 詠子の呼びかけで、宥介は初めて詠子が起きていたことに気づいたようだった。びくりと身体を震わせて振り返る。その表情は驚きに満ちていた。

「詠子ちゃん、起きていたのか」
「ついさっき起きたんです。そしたら宥介さんが出て行こうとしてるから」

 宥介は悪戯が見つかった子どものような顔をしていた。何と言い訳するか考えているのだろう。何と言い訳したところで、詠子が納得するようなものは出てこない。

 詠子は宥介の手を掴み、ぐいぐい引っ張ってリビングに戻した。宥介も観念したのか、ダイニングテーブルの椅子に座る。

 可愛く、可愛く、でも怒らなければならない。詠子は相反するものを抱えながら、宥介の正面の席に座った。宥介は心なしかしゅんとしているようにも見えた。

「夜中にどこへ行くつもりだったんです?」
「外だよ」
「そんなの見ればわかります。なんで外に行くつもりだったんです?」

 宥介は逡巡した。正直に答えるべきかどうか悩んでいるのかもしれなかった。

 詠子と宥介の視線が交錯する。先に目を逸らしたのは宥介だった。

「バケモノの様子を見に行くつもりだった」
「どうしてそんなことを?」
「水鉄砲を拾っただろう。もしかしたらバケモノにもぼくたちと同じような首輪が着いていて、水をかけることができたら倒せるんじゃないかと思ったんだ」
「そのために、外へ?」
「そうだよ。バケモノの様子を見たら戻ってくるつもりだった」

 詠子は宥介をじっと見つめる。可愛くあろうとする心よりも、本性のほうが強かった。

「嘘でしょ、宥介さん」

 詠子が断じると、宥介はぐっと言葉を飲み込んだ。そして、ややあってから問う。

「どうして、そう思う?」
「宥介さんは一人で石碑を探しに行くつもりだったんでしょー? あたしと一緒にゲームクリアしようって言ったのは何だったんですか?」

 宥介は応えなかった。それが答えだとでも言うように。

「行くって言うならあたしも行きます。弘くんも早苗ちゃんも叩き起こします」
「いや、いいよ。それだと意味がない。きみだけならまだしも、弘くんと早苗ちゃんが来るのなら朝まで待つべきだ」
「やっぱり一人で行くつもりだったんですね?」
「そうだよ。そのほうが早いと思った。菜美の犠牲を無駄にしないためにも、このゲームを早くクリアしたかったんだ。そうしたら、本当に菜美が死んだのかどうか確認することができる」

 宥介はその思いを語った。詠子は宥介の顔を見て、言った。

「四人でいるほうが協力できますよぉ、きっと。お願いですから一人で行かないでください」

 宥介は詠子の瞳を見る。その裏に隠された本性までも見通されそうで、詠子はふっと視線を逸らした。

「わかった。朝になったらみんなで出発しよう」
「わかればいいんです。あたしが寝てる間に勝手に行っちゃだめですからね」
「しないよ。きみは連れて行くよ」
「あたしは有用ってことですか?」
「そうだね。詠子ちゃんはいてくれたほうが助かる」
「ま、あたし可愛いですしね。マスコット枠で採用ってことですね」

 宥介は穏やかに笑った。詠子もそれを見て表情を崩した。

「夜明けまでまだ時間がある。詠子ちゃん、もう一度寝てきたらどう?」
「もう目は覚めちゃいましたよぉ、宥介さんが逃げようとしたから」
「そうか。それは、申し訳ないことをしたね」
「反省してくださいっ」

 詠子が可愛く注意すると、宥介は微笑んだ。

「詠子ちゃんは自分の可愛さを知っているね。それを巧く活用している」

 宥介が急にそんなことを言ったから、詠子はどきりとした。

(おいおい、まさか、気づかれた? 宥介さんならあり得るぞ)

 詠子は内心の焦りを隠しながら、可愛らしく笑ってみせた。

「可愛さは使っていかなくちゃ。持って生まれた武器なんですからねっ」
「なるほど。弘くんはそれにやられたんだね」
「あっ、ちょっとぉ、あたしが引っかけたみたいに言ってますけど、向こうが言い寄ってきたんですからね? 弘くんの猛アタックを受けてあたしが付き合うことにしたんですから」
「そう。まあ、そうだろうね」

 宥介が何を考えているのか、詠子には読めなかった。詠子が弘のことを好きではないと思っているのだろうか。確かに、ラビットハントが始まってから幻滅することばかりだけれど、彼氏は別れるまで彼氏だ。詠子はそう思っている。

「弘くんもライバルが多くて大変なんじゃないかな。詠子ちゃんに言い寄ってくる男は多そうだ」
「どぉなんでしょうねぇ? ま、少なくはないですよ、あたし可愛いので」
「はは、そうか。いいと思うよ、自分に自信があるのは」

 宥介は笑いながら言った。詠子は内心ひやひやしていた。

(気づかれてる? そんなはずない、だってあたしは完璧に隠せてるはずだ)

 詠子は笑顔を浮かべながら、本性を奥深くに追いやった。あまりにも表に出すぎてしまっていたら、宥介には気づかれてしまう。誰にも、家族でさえも知らない、詠子の本性に。

 相変わらず弘が起きてくるのは遅かった。早苗も起きて準備が整っていて、弘だけを待つ状態になっても、弘は焦る様子もない。のんびりと自分のペースで支度を進めている。

(早くしろよ。みんなお前を待ってんだぞ)

 詠子は急かしたい気持ちを抑えながら、ゆっくりとコーヒーを飲んでいる宥介の隣に座る。まだ時間がかかると踏んでいるのか、宥介は熱いコーヒーを冷ましながら啜っている。そこには大人の余裕を感じさせた。

 詠子はまだ準備している弘を見やり、それから宥介に言った。

「ごめんなさい宥介さん、弘くんが遅くて」
「いや、いいよ。焦っても仕方ない」

 夜中に一人で出て行こうとした人間の言う言葉でないと思った。きっと宥介は早くここを出て探索したいはずだ。それなのに、いちばん足を引っ張る人間のせいで出発できない。いつか宥介が弘を切り捨ててしまうのではないかと心配になる。そうなった時、自分はどちらに付くのか、詠子は決めかねていた。

 弘は早苗と何か話しながら準備している。いいからさっさとしろよ、と言いそうになって、詠子は水を飲んで心を落ち着かせた。こんなところで本性を晒すわけにはいかない。

 やがて弘の準備ができると、宥介は立ち上がった。

「じゃあ、行こうか。西の石碑を目指そう」

 四人で小屋を出て、また森の中を進んでいく。さすがに慣れてきたものだが、歩きにくいことに変わりはない。

 変わったのは、詠子が二番目に来たことだ。宥介の隣を歩くようになった。弘の世話は早苗に任せて、宥介と相談しながら道を決めるようになった。これは詠子が自主的に始めたことだが、宥介は何も言わず、弘と早苗も受け入れたようだった。

 詠子は弘と早苗が急に仲良くなったと感じていた。歩きながらも楽しそうに話している。早苗がいるポジションに、本来なら自分がいるべきなのではないかと思ったが、今の弘と楽しく話せる自信がなかった。早く歩けよと尻を叩いてしまいそうだ。

 弘と早苗が遅れないように気をつけながら、西へ向かって歩いていく。代わり映えしない緑色の景色にうんざりしてくる。

「なぁんか飽きてきますねぇ。もっと景色が変わったらいいのにー」

 詠子が宥介に話しかけると、宥介は同意してくれた。

「そうだね。面白味もないし、迷ってしまいそうになる」

 詠子は木の根を踏みしめて、溜息を吐いた。雑談でもしないとやっていられない。

「宥介さん、大学って楽しいですか?」
「どうしたの、急に」
「いえ、黙ったまま歩くのも退屈だなぁと思いまして」
「そう。まあ、大学自体は楽しくないけれど、高校の頃よりも遊べる範囲が増えて楽しいよ」
「バイトとかしてるんですか?」
「してるよ。本屋でね」
「ああ、似合うかも。宥介さん、本屋にいそう」

 詠子が笑いながら言う。宥介は「そうかな」と口にした。詠子には宥介が本屋のエプロンを着けて働いている姿が目に浮かんだ。よく似合っている。

「本屋って何するんです? レジ打ちと陳列?」
「あとはポスターの貼り替えとか、雑誌を紐で縛ったりとか、そういう雑用だね。意外とやることは多いんだよ」
「へええ。楽しいですか?」
「楽しいこともあるよ。本の売れ筋もわかるし、本が好きならやっておいて損はない。ああ、足元気をつけて」

 宥介に言われて、詠子は足元に出っ張っている木の根を避ける。こういうのをスマートにこなせてしまうあたり、宥介はきっとモテるのだろうと思ってしまう。菜美が惚れてしまうのもよくわかる気がした。もう、菜美はいないけれど。

「うわっ!」

 後ろで弘の声がして、宥介と詠子は振り向いた。どうやら木の根に躓いて転んでしまったらしい。詠子は溜息が出そうになるのを堪えた。

(鈍くせえなあ。どうしてこうなるのかねぇ)

 詠子が心の中で愚痴を言いながら弘の無事を確認しようとしたら、先に早苗が弘に声をかけた。

「弘くん、大丈夫? 怪我していない?」
「あ、ああ、大丈夫。ちょっと転んだだけだよ」

 差し出された早苗の手を取って、弘が立ち上がる。学生服に付いた砂を早苗がかいがいしく払ってやる。これではどちらが彼女なのかわかったものではない。

 けれど、詠子は嫉妬しなかった。むしろ早苗に感謝していた。お荷物のお世話係ご苦労、と言いたい気分だった。今の詠子にとって、弘への愛はますます冷めつつあった。

「足捻ったりしてない? 歩ける?」
「ああ、大丈夫」

 詠子も弘に声をかけたが、これは可愛さを取るための行動だった。彼氏が転んだのに何も言わないのは可愛くない。優しさを見せることも、可愛く見えるためには必須の行動だった。

 宥介は一連の様子を見ていたが、弘に声をかけることなく、また先を歩き出す。自分が声をかける必要はないと判断したのだろう。詠子はその宥介の背中を追って、また横に並んで歩いていく。

「今どの辺まで来たんでしょうね。現在地が表示されたらいいのに」
「さあね。真西に進んでいるわけではないだろうし、西端の石碑まではもう少しかかるんじゃないかと思うよ」
「あたし、この数日で一か月分くらい歩いてる気がします」
「そうかもね。意外と歩けるんだって驚いているよ」
「今日はゆっくり寝たいなー。大きい小屋が見つかるのを祈るしかないですねぇ」

 歩きにくい道を歩いているせいで、余計に体力を消耗しているようにも思える。詠子はベッドでぐっすり寝たかった。この世界に来てからぐっすりと眠った記憶がない。

 森を進んでいると、川の流れる音が聞こえてくる。それなりに大きな音だ。そのまま進んでいくと、古びた木製の吊り橋が見えてくる。吊り橋の下には大きな川が流れていて、対岸に渡るには吊り橋を通っていくしかなさそうだった。

 宥介はすぐに地図を出す。そして、地図にも書かれている太い川を指した。

「この川のどこかにいるんだな。橋は二本ある。ここと、下流にもう一つ」
「流れも速いですし、ここが上流なんじゃないですか?」
「とすると、今ぼくたちがいるのはここか。だいぶ西端に近づいてきているな」

 宥介と詠子で現在地を確認する。西端まではまだ距離があるが、確実に近づいていることは間違いなかった。地図によれば、西端に行くためにはこの橋か、もう少し下流にある橋を渡らなければならないようだった。

 目の前にある木製の橋は今にも崩れ落ちそうなくらい朽ちていた。宥介は臆することもなく橋を渡っていく。ぎしぎしと音を立てて軋んでも、宥介は構わず進んでいく。

 宥介は橋を渡りきって、対岸から声を上げた。

「大丈夫だ。ぼくが渡れたんだから、みんな渡れるはずだ」

 その理論はどうなのだろう、と詠子は思ったが、言わないでおいた。渡らないわけにはいかないのだ。宥介から離れてしまえば、このゲームをクリアすることは不可能だ。何が何でも宥介とは一緒にいなければならない。

「じゃあ次、あたし行くね」
「お、おい詠子、行くのか? 本当に大丈夫なのかよ?」

 弘はもう腰が引けていた。弘が渡るのはかなり時間がかかりそうだ。

「大丈夫だよぉ、宥介さんが渡れたんだからさ。じゃ、行くね」

 詠子は意を決して一歩目を踏み出した。ぎし、と橋が音を立てる。真下には勢いよく川が流れていて、落ちれば絶対に助からないといえる。そもそも首輪が水に濡れるだろうから、その時点で終わりだ。

 じりじりと進んでいく。橋は今にも崩れ落ちそうな音を立てながら、ぎりぎりのところで踏みとどまっている。あと少し。詠子はゆっくりとした足取りで進む。

 詠子が最後の一歩を踏み出し、対岸に足を着けたところで、橋を支えていたロープがちぎれた。支えを失った橋は壊れ、川底へ真っ逆さまに落ちていく。詠子はバランスを崩したが、宥介がその身体を受け止めてくれた。

「詠子ちゃん、大丈夫?」
「は、はぁい、なんとかぁ」

 詠子が振り返ると、橋はもうなくなっていた。あと数秒遅ければ、自分は橋の崩落に巻き込まれていたことだろう。詠子は助かったことを神に感謝した。信心深いほうではないが、こういう時くらい礼を言っておくほうがよいと思った。

 これで宥介と詠子、弘と早苗に分断されてしまった。宥介は好都合だと思っているかもしれない、と詠子は感じていた。足を引っ張る存在がいなくなるのだから、西端の石碑を目指しやすくなるはずだ。

 宥介もそれを考えているのか、少し迷いを見せた。そして、宥介は言った。

「いったん別行動にしよう。どこかの小屋で落ち合おう」

 どこかの小屋。それは、いったいどこの小屋のことを指しているのだろうか。宥介は合流する気があるのだろうか。このまま、自分と二人でゲームを進めるつもりなのではないか? 詠子はそう思ったが、口を挟まなかった。宥介の考えに従っておくほうが、宥介の好感度を稼げると判断した。

「わかりました。わたしたち、川下の橋のほうに行ってみますね」

 早苗が応える。宥介は片手を挙げて応答すると、すぐに森のほうへと足を進めていく。詠子は心配そうに弘と早苗を見ながらも、宥介についていった。

 弘がいなくなった途端、宥介の歩く速度は上がった。詠子のことを気にしながら、どんどん先に進んでいく。やはり弘のことを気にしていたのだ。邪魔者がいなくなった今こそ、探索を進めることができる。

「宥介さん、やっぱり弘くんに合わせてたんですね」
「そうだね。チームである以上、いちばん遅い人に合わせなければならないだろう」
「ごめんなさい。彼女として申し訳ないです」

 心にもない謝罪だった。とりあえず謝っておけ、という程度のものだった。

 宥介にもそれが伝わったのか、宥介は表情を崩した。

「きみが謝ることじゃないよ。きみだってそう思っているだろう?」
「ありゃ、バレました? 宥介さん、鋭いですねぇ」
「詠子ちゃんは可愛いけれど、毒があるね」

 その言葉に詠子は動揺を隠せなかった。その動揺が宥介にも伝わるくらいに。

 まさか。いや、そんなはずはない。自分は徹底的に隠してきているはずだ。

(落ち着け。わかるわけがねえ。揺さぶられてるだけだ)

 自分の本性を隠すため、詠子は可愛く笑ってみせた。うまく笑えている自信があった。

「ええ? 毒なんてないですよぉ」
「弘くんの前だから自重していたんだろう? いいよ、ぼくの前ではそのままで」

 宥介は何でもないことのように言う。詠子は背中を嫌な汗が流れるのを感じていた。

 バレるわけにはいかない。葛城詠子は、毒気のない可愛い女の子であるべきなのだ。本当の葛城詠子が知られてしまったら、きっと誰もが軽蔑する。可愛いと思ってもらえなくなる。

 宥介が思っているよりも、詠子が持っている毒はずっと強い。宥介は包容力がありそうだが、それにしたって本当の葛城詠子を受け入れられるとは思えない。

(大丈夫。気づかれたわけじゃねえ。いくら宥介さんだってわかるわけがねえだろ)

「あたしはいつもありのままのあたしですよぉ。ちょこっと口は悪いかもしれませんけどー」
「ちょこっと、ね。まあ、そういうことにしておこうか」

 宥介はそこで引き下がった。明らかに納得していなかった。

「ところで宥介さん、あたしたち、西に行ってますよね?」

 詠子は露骨に話題を変えた。宥介は頷く。

「うん。西端の石碑を目指しているよ。何かおかしい?」
「だめですよ、早苗ちゃんと弘くんと合流しなくちゃ。二人を置いて西端に行くんですか?」
「ぼくはそのつもりだったけれど。きみは違うんだね」

 宥介は話しながらもずんずんと歩いていく。詠子は宥介の手を掴んで引き留めた。

「だめですって。ちゃんと合流しましょ」
「ゲームのクリアを考えるなら、このままきみと二人で行くほうがいい。そう思わないか」
「思いますよ。思いますけど、やっぱりだめです。彼氏を置いていくことなんてできません」
「彼氏。彼氏、ね」

 宥介は二度呟いて、深く息を吐いた。頭をがりがりと掻いて、宥介は言った。その呟きに込められた意味は、詠子にはわからなかった。

「わかった。じゃあ、合流しよう」
「いいんですか?」

 詠子が尋ねると、宥介は微笑んだ。

「きみがそう言うなら仕方ない。人数が多いほうが役に立つ時もあるかもしれないしね」
「ありがとうございます、宥介さん!」
「じゃあ川下の橋を目指そう。川沿いに歩いていったら見つかるはずだ」

 道を変更して、川の音を頼りにしながら川沿いを歩いていく。地図上ではさほど離れていないようだったが、なかなか橋は見えてこなかった。地図すら持っていない早苗と弘はどうやって橋を見つけることができるのだろうか。川沿いに歩く以外の方法はあるのだろうか。詠子は不安に思いながらも、宥介と二人で川沿いを進む。

 やがて、丈夫そうな橋が見えてきた。先程のすぐ崩れそうな橋とは違って、しっかりと整備された橋のように見える。複数人で同時に渡っても壊れなさそうな橋だった。

「これだね。早苗ちゃんたちも辿り着けているといいけれど」

 詠子と宥介は橋を渡り、対岸へと着く。しかし周囲を見回しても早苗や弘の姿はなかった。まだ到着していないのか、それとも別の道に行ってしまったのか、詠子たちには判断できない。

「どうしようか。どうやって合流する?」
「この辺りの小屋を探しましょう。もしかしたら二人で入ってるかも」
「ぼくたちも小休憩しようか。歩きっぱなしで疲れただろう?」
「そうですねぇ。小屋を見つけたら、今日はそこで休むほうがいいかもしれませんね。弘くんたちが後から来るかもしれませんし」
「わかった。そうしよう」

 宥介と簡単な作戦会議を済ませて、小屋を探して歩き回る。

 小屋は意外と簡単に見つかった。二人用の小さな一階建ての建物だった。ベッドが二つと、小さなテーブルが置いてあるだけの簡素な小屋だった。シャワールームは完備されていて、詠子は安心する。歩いて汗をかいた身体のまま眠るなんて嫌だ。

「じゃあ、今日はここで休もう。弘くんと早苗ちゃんが来てくれたらいいけれど」
「ほんとですね。あっ、あたし、シャワー浴びてきますね」
「うん。いってらっしゃい」
「覗かないでくださいよ?」
「大丈夫だよ。安心して」

 詠子の冗談に、宥介は笑って答えた。互いに相手の余裕を感じ取った。

(弘くん、大丈夫か? 早苗ちゃんに迷惑かけてんだろうなぁ)

 詠子はそう考えながら、シャワールームで汗を流すことにした。

 結局、翌朝になっても弘と早苗が詠子たちの小屋に現れることはなかった。別の小屋を見つけて休んだのだろう、という結論に至った。

「あの二人なら小屋から出ないと思うんですよね。あたしたちが来るのを待ってると思います」
「ぼくも同意見だ。だから、小屋をしらみつぶしに探していくほうがいい」
「そうですねぇ。どこにいるんだろ」

 朝食のパンを食べながら、詠子と宥介は話し合う。小屋を探すと言っても、この辺りにどれくらい小屋があるのかもわからない。あの地図には小屋が載っていないのだ。

 もしかしたらもう合流できないかもしれない。そんな思いさえ頭をよぎる。

 でも、それでもよかった。宥介といればゲームはクリアできそうだからだ。そうすれば自分の命は助かるし、それまで弘と早苗が生きていれば二人も助かる。詠子は二人との合流を優先したが、クリアを目指したほうがよかったのではないかと思い始めていた。

「まあ、いつか再会できるよ。大切な彼氏なんだろう?」
「大切ですけど、ちょっと幻滅気味です」

 詠子が正直に言うと、宥介は苦笑した。

「おや、毒づいているね」
「ぼくの前では毒を吐いてもいいって言ったのは宥介さんでしょー?」
「言ったね。それでいいと思うよ。どうして幻滅気味なの?」
「鈍くさいし、臆病だし、何も決められないし、どぉしても宥介さんと比べちゃうんですよねぇ。あっ、実は宥介さんがすごいのかも?」
「ぼくは普通だよ。確かに、弘くんは少し臆病なところがあるね」
「でしょー? あたし的にはもっとぐいぐい引っ張っていってほしいんですよぉ」

 それを弘に求めるのは酷だと思いながら、詠子は自分の願望を述べる。それこそ宥介のように先陣を切って進んでいくような男のほうが好きだった。

(てゆーかあたし、弘くんのどこが好きだったんだっけ?)

 自分でも弘の何が良かったのかわからなくなってきてしまっていた。付き合った当初は好きだったけれど、ラビットハントに参加してからの弘ばかりが思い出されてしまって、何が良かったのか全然思い出せない。宥介に大切な彼氏と言われて、一瞬返答に困ったほどだ。

 朝食を終え、出発の準備を整える。詠子も宥介も準備を整えるのは早い。さっさと準備を済ませると、目線だけで互いの準備ができたことを悟る。

「じゃあ、行こうか」
「はい。早く見つかるといいですけど」
「ぼくもそれを願っているよ。こんなところで長く足止めされたくはない」

 二人で小屋を出る。道標もないから、適当に歩き始めるしかない。

 まずは昨日渡ってきた橋の近くまでやってくる。この近くに小屋があれば、そこにいる可能性が高いと踏んだ。橋に行けば合流できるかも、と詠子は期待したが、空振りに終わった。

 橋の近くを重点的に探すと、また小屋が見えてきた。さほど大きくない、二人用の小屋のようだった。橋から近いこともあり、二人はここにいるのかもしれないと思った。

 宥介が詠子の前に立ち、小屋の扉を開ける。小屋の扉には鍵がかかっていた。今までそんなことはなかったから、詠子は戸惑ってしまった。

「鍵かかってたことなんてありましたっけ?」
「いや、ないね。弘くん、早苗ちゃん、いるかい?」

 ドアの外側から宥介が呼びかける。ややあって、鍵が開いてドアが開けられた。ドアを開けたのは早苗だった。詠子には、少し早苗の衣服が乱れているようにも思えた。それを指摘する前に、早苗が口を開いた。

「宥介さん、詠子ちゃん! 来てくれたんですね」

 早苗は素直に喜んでいるようだった。奥では、弘が複雑そうな表情を浮かべてこちらを見ていた。早苗とは異なり、宥介と詠子の来訪を歓迎しているわけではなさそうだった。

(なんだよ、その反応。彼女が来てやったってのに、喜ばねえの?)

 詠子はそう思ったが、詠子自身も別に喜んでいないことに気づいた。これで先に進むことができる、という喜びはあったけれど、早苗や弘と再会した喜びは感じられていなかった。

「早苗ちゃん、昨日はここで?」

 詠子が尋ねると、早苗は一瞬答えを躊躇ったように見えた。ほんの一瞬だったけれど、詠子は見逃さなかった。

「うん。ここが見つかったから、ここで待っていようってことになって」
「弘くんに何かされなかった?」
「何もしてねえよ。そっちこそ、宥介さんと何もしてねえんだろうな?」

 ぶすっとした態度で弘が詠子に言う。詠子はかちんときたが、可愛く、可愛く、と自分に言い聞かせて、普段通りの顔を作った。

「なぁんにもないよぉ。ね、宥介さん」
「……ああ、うん、そうだね」

 宥介は何か考え事をしていたのか、反応が遅れた。弘は疑り深く詠子を見ていた。

(あぁ、もぉ、めんどくせえなぁ。いっそのこと宥介さんに乗り換えようかなぁ)

 詠子はうんざりしながら宥介の傍に行く。今は弘の近くにいたくなかった。本来なら彼氏との感動の再会のはずなのに、詠子は自然に喜ぶことができなかった。

「出発しますよね? 弘くん、準備しよう」
「おお、うん、そうだな」

 早苗に言われて、弘が外に出る支度を始める。

 詠子はある違和感を覚えていた。当たっていてほしくない推測。けれど、無視することもできない思い。早苗は弘の世話をして、嬉しそうに笑っている。弘もそれを受けて、でれでれとしている。

(おいおい。まさかとは思うけどなぁ)

「詠子ちゃん」

 宥介に呼ばれて、詠子は我に返った。反射的に笑顔を貼り付けたら、宥介は笑った。

「大丈夫? 少し、ぼーっとしていたみたいだけれど」
「あぁ、ええ、大丈夫ですっ」
「ここで一日休んでもいいよ。きみが疲れて動けなくなるのは避けたい」
「いえいえ、大丈夫ですってばぁ。あたしタフなので」
「そう。それならいいけれど、疲れたらすぐに言ってね」

 宥介の優しさが身に染みた。菜美が宥介のことを好きになるのもよくわかる。詠子の心も揺れ動きそうになっていた。

(だめだめ。あたしにはまだ彼氏がいる。二股は面倒なことになるだけだ)

 詠子は自分を戒める。弘のような頼りない奴でも、まだ彼氏なのだ。

 弘の準備ができたので、四人は小屋から出て西端の石碑を目指すことになった。昨日通ってきた丈夫な橋を抜けて川を渡り、また森の中を進んでいく。

 宥介と詠子が並んで歩き、その後ろを早苗と弘がついていく。宥介は時折後ろを気にしながら、歩くペースを調整する。自分と宥介さんだけならどんなに早いだろうか、と詠子は思ってしまう。

 黙々と歩き続けていると気が滅入ってくる。詠子はコンパスを見ながら歩いている宥介に話しかけた。

「宥介さん、一人暮らしなんですか?」

 宥介は少しだけ驚いたような顔を見せたが、すぐに答えた。

「そうだよ。地元はもっと田舎だからね。大学に入ってから一人暮らしだよ」
「へええ。どうです、一人暮らし? あたし憧れてるんですよねぇ」
「自由だよ。もう実家には戻りたくないね。一人で気ままに過ごせるんだから」
「家事とかめんどくさくないです? あたし、それが気になってて」
「意外と大丈夫だよ。やらなきゃならなくなったらやるものだよ」

 宥介の部屋はきっと綺麗なのだろうな、と詠子は思った。家具もびしっと配置されていて、モデルルームのような綺麗さを想像してしまう。

 詠子は出っ張った木の根を乗り越えながら、宥介に訊いた。

「あたし、宥介さんのお部屋に行ってみたいんですけど、いいですか?」

 その話は少し早かったかもしれない。もう少し踏み込んでからすべきだったかもしれない。詠子は後悔したが、意外にも宥介は簡単に受け入れてくれた。

「いいけど、きみ一人で来るの?」
「え? だめ?」

 可愛さを前面に押し出した瞳で宥介を見つめる。宥介はその瞳を受けても表情を変えない。

「弘くんが怒るだろう。来るなら弘くんと一緒に来なよ」
「ええ? だって宥介さんですよ? 何もしないでしょー?」
「いや、そういう問題じゃないんじゃないかな。ぼくは浮気だ何だという話に巻き込まれたくないしね」
「あぁ、そうかも。うーん」

 確かに弘は怒るだろう。逆の立場だったら詠子は怒るような気がする。今のように、愛が冷めきっていたとしても、浮気は浮気だ。先に関係を切ってからにすべきだ。

 じゃあ、弘と別れてしまえばいいか。詠子はそんなことまで考えてしまうほど、弘に対する気持ちが冷めてしまっていた。

 森の中を歩いていくと、小屋が見つかった。あまり大きな小屋ではないから、おそらく二人用の小屋だろう。宥介は腕時計で時間を確認する。

「今日はこの小屋で休もう。もうすぐ日没になる」
「はぁい。ベッドあるといいけどなー」

 小屋の中はやはり二人用だった。ベッドは二つ、ダイニングテ―ブルの椅子も二つで、タオル類だけ六人分用意されている。食料と水も潤沢に用意されていた。

「ベッドは三人で適当に割り振ってくれたらいいよ。ぼくは座って寝るから」
「たまには宥介さんもベッドで寝たらいいんじゃないですかねぇ?」

 詠子がそう言うと、宥介は首を横に振った。

「いや、ぼくは大丈夫だから。きみたち三人でゆっくり休んで」
「そぉですか。じゃあ、そぉしますね」

 ベッドはシングルサイズだった。二人で寝るには少し狭いが、眠れないこともない。詠子は弘がベッドを譲ってくれることに期待したが、弘はそのつもりがないようだった。

「わたしと詠子ちゃんだったら二人で寝れるんじゃないかな?」

 早苗が詠子と同じ考えを口にする。そうするとまた弘が一人でベッドを使うことになるのだが、詠子はそれに気づかなかったことにした。ここでその話をするのは可愛くない。

「じゃあ早苗ちゃんとあたし、弘くんということで、いいかな?」
「ああ、そうしよう」

 決まると同時に、弘はベッドにぼすんと腰掛ける。そこを自分のベッドとしたようだった。

(いちばん役に立ってない奴がなんでいちばんいい場所にいるんだっつーの)

 詠子は心の中で呟く。この気持ちを外に出すわけにはいかないから、あくまでも心の中だけに留めておく。

 日没を告げる一度目のサイレンが鳴る。今日は無事に小屋に辿り着くことができた。明日はどうなるのか、わかったものではない。

 こんなゲームは早くクリアしなければならない。早く日常生活に戻りたい、と詠子は願った。