明け方、朝を告げるサイレンで詠子は目を覚ました。隣ではまだ早苗が眠っている。詠子は早苗を起こさないようにしながらベッドから下りて、もう起きている宥介のところへ行く。宥介はダイニングテーブルの椅子に座ってコーヒーを飲んでいた。詠子が来たことに気づくと、ふっと優しく笑った。
「相変わらず詠子ちゃんは起きるのが早いね」
「あたし、枕が変わると眠れないタイプだったのかもしれません」
「意外だね。枕がなくても眠れそうなのに」
「えぇっ、宥介さんの中でのあたしってそんなイメージなんですかぁ?」
笑いながら、詠子は自分の分のコーヒーを用意する。この世界に来てからは、朝はいつも宥介と二人でコーヒーを飲むのが習慣になっていた。今日もそうしようと思って、電気ポットで湯を沸かす。
そこで、詠子はふと思った。自分が抱いている疑念は、宥介も感じているのだろうか。
「宥介さん、ちょっと外に行きません?」
「外? ああ、サイレンも鳴ったし、いいよ。どうしたの」
「ええっと、ちょっと、ここじゃ話しにくい内容がありましてぇ」
詠子が濁すと、宥介はその内容を悟ったようだった。席を立ち、玄関のほうに歩いていく。詠子もその後ろに続き、外に出てドアを閉める。
先に話を始めたのは宥介だった。詠子が何か言うよりも先に、宥介が口を開いた。
「弘くんと早苗ちゃんのことだろう?」
「さっすがぁ。気づいてます?」
詠子が言おうとしていたことを宥介が言い当てて、詠子はその察しのよさに感心した。宥介ならば気づいていただろうと思っていた。
詠子が言いたかったのは、弘と早苗の距離感だった。前々からよく話しているというのは実感していたが、二手に分かれた直後から、弘が異様なほど早苗の近くにいるのだ。詠子が宥介と話しているというのを抜きにしても、弘はとてもよく早苗と話している。とても楽しそうに。
詠子は浮気を疑っていた。しかし、そう簡単に尻尾を出すとは思っていなかった。弘は馬鹿だろうが、早苗はそうではないだろう。おそらくは隠し通してくるはずだ。そこをどうにかして捕まえたい、というのが詠子の狙いだった。そのために宥介の知恵を借りようというのだ。
宥介も概ね詠子と同意見のようだった。やはり、あの二人は関係性を隠している。
「まさかこのゲームの中で浮気されるとは思いませんでしたけどねぇ。早苗ちゃん可愛いから、仕方なかったのかなぁ」
「まだ決まったわけじゃない。断定するのは早いよ」
「でも、もうほぼクロですよ。問い詰めたら自白するんじゃないですかね?」
「それはやめてくれよ。ゲームが終わってからにしてくれないか。チームに影響が出るよ」
「はぁい。じゃあ、そーゆーことにしますね」
詠子と宥介は小屋の中に戻る。詠子はもやもやした気持ちを抱えていた。
そこには、言い逃れのできない状況が広がっていた。
弘が早苗を押し倒し、キスをしていたのだ。早苗も抵抗する様子があるわけでもなく、弘の背に手を回してキスを受け入れている。ドアが開いた音で、二人は詠子たちが帰ってきたことに気が付いたようだったが、時は既に遅かった。
「なに、してるの」
詠子は呆然とした口調を装うことができた。本性が殻を破って出て行きそうになるのを必死に押し留めて、可愛い葛城詠子を演じた。心の中では、ああやっぱりなという気持ちと、何をしているんだという驚愕と、怒りがごちゃ混ぜになっていた。
「う、詠子ちゃん、これは、違うの、これはっ」
早苗が言い訳を口にしようとするが、いったい何をどう言い訳しても釈明にはならない。詠子は本性のままに激情を放とうとするが、すんでのところで抑える。
(ふざけんじゃねえぞ。こいつら、あたしと宥介さんもいるのに何やってやがる)
詠子は本性と仮面のせめぎあいで声を出すことができなかった。それが混乱から来るものだと誤解したのか、早苗はすぐに弘から離れて言った。弘もごまかそうとして必死になる。
「詠子ちゃん、ごめんね、あの」
「う、詠子、俺、その、あの」
「いったん落ち着こう、みんな。状況を整理しよう」
ここで冷静なのは宥介だけだった。宥介だけは当事者ではないのだ。宥介の声を受けて、沈黙が生まれる。詠子にはその沈黙がありがたかった。この間に本性を心の奥底に閉じ込めることができるのだから。
宥介は詠子をダイニングテーブルの椅子に座らせ、早苗と弘をベッドに座らせた。自分もダイニングテーブルの椅子に座り、静かに口を開いた。
「まず、訊こう。早苗ちゃんと弘くんは何をしていた?」
「な、何って、そりゃあ」
「正直に答えてほしい。きみは、早苗ちゃんと何をしていた?」
反論の余地を許さないような口調で宥介が問う。弘は口ごもり、声が出て行かない。
「キス、していました」
代わりに答えたのは早苗だった。俯いたまま、決して詠子のほうを見ようとはしない。
「弘くんは、詠子ちゃんという彼女がいながら、別の女性とキスをした。そういうことだね?」
「だって、詠子が冷たくするからだろ! 早苗ちゃんは優しくて、俺を受け入れてくれて!」
「あたしが悪いの? あたしが優しくなかったから浮気したの?」
可愛く振舞うなら、ここで涙を浮かべるべきだ。けれど、詠子の瞳に涙は出てこなかった。本性が激流のように渦巻いていた。許されるのなら、本性のままに弘を罵倒してやりたかった。でもここで本性を晒すわけにはいかない。可愛く、可愛く、可愛く。
詠子は弘を睨みつけた。弘はその視線に怯えて、詠子から目を逸らした。
ああ、だめだ。こんな顔をしたら可愛くない。可愛くないのに。
「詠子ちゃん。何か、言うことはある?」
宥介が穏やかな声で詠子に問う。言ってやりたいことは山ほどあったが、可愛い葛城詠子が言うような言葉ではなかった。この場に及んでも、詠子はまだ葛城詠子という仮面を外さなかった。
「別れて。早苗ちゃんと付き合えばいいでしょ」
「言われなくてもそのつもりだ。早苗ちゃんはお前と違って優しいんだから」
「詠子ちゃん、あのね、弘くんは」
「いいよ、早苗ちゃん。あたしは悲しくない。弘くんを支えてあげて」
詠子は早苗の言葉を遮り、小屋を出た。外の風を浴びたかった。そうでもしなければ、心の中で暴れまわっている本性が口から出て行きそうだった。
小屋の外に出ると、爽やかな風に包まれる。火照った頭が冷やされていく。
自分が悪かったのだろうか。もっと弘のことを考えるべきだったのだろうか。詠子は自問するが、別れて正解だったとも思っていた。このラビットハントを経て、詠子の中での弘の印象は大きく変わってしまった。参加する前のような愛情はなくなってしまった。だったら、これはよい機会だったのかもしれない。
やはり男は可愛い女の子に弱いのだ。早苗のように、外見も中身も可愛い女の子には敵わないのだ。詠子が精一杯努力したところで、限界はあるのだ。そう思うと、詠子は悲しくなって、涙が溢れてくる。弘と別れたことよりも、早苗の可愛さに負けたことのほうが悔しかった。
「詠子ちゃん」
名前を呼ばれて、振り向く。宥介が穏やかな表情でこちらへ来た。
そして、宥介は詠子を優しく抱きしめてくれた。
「泣きたいなら泣けばいい。ぼくはいい言葉をかけてあげることはできないけれど、傍にいることくらいならできるよ」
「宥介さん、優しいんですね。惚れちゃう」
「そんな冗談が言えるなら大丈夫だね。もう、いいのか?」
「もうちょっとだけ、こうしてていいですか?」
「いいよ。きみの気が済むまで」
詠子は宥介の腕の中で泣いた。宥介は黙ったまま詠子の頭を撫でてくれた。
やがて、詠子が宥介から離れる。荒ぶる本性はまだ完全に潜んだわけではなかったが、隠せないほどではなくなった。これならもう大丈夫だと詠子は思った。
宥介と詠子が小屋に戻ると、さすがに弘と早苗は距離を取っていた。二人とも詠子を怯えるような視線で見てくる。詠子は二人をねめつけた後、宥介に訊いた。
「宥介さん、これからどうします?」
「予定通り、西端の石碑を目指すよ。他に手がかりもないしね」
「はぁい。じゃ、行きましょっか」
全員が無言のまま準備して、小屋を出る。詠子は弘と早苗を置いていきたい気分だったが、それを宥介に提案すると宥介の好感度が下がりそうなので、やめておいた。森の中で二人とはぐれてしまえばよいと思った。
また森の中を進んでいく。チームの空気は重く、誰一人として口を開く者はいない。いつもなら後ろを気にする詠子だが、今日は一切後ろを見なかった。遅れてしまうなら遅れてしまえと思っていた。
「詠子ちゃん、待って。弘くんが遅れている」
宥介に呼び止められて、詠子は足を止めた。見れば、弘と早苗が少し遠くなっていた。
(早く歩けよグズ。菜美さんじゃなくてお前が死ねばよかったんだよ)
「宥介さん、あたしたちだけで行きません? そのほうが早いですよ」
「立場が逆になったね、詠子ちゃん。前はきみがぼくを止めていたのに」
「あの二人には小屋でラブラブしててもらって、その間にあたしと宥介さんでちゃちゃっとクリアしちゃいましょうよ」
「一度、提案してみようか。弘くんは賛成してくれるだろうしね」
「早苗ちゃんが反対したって、三対一で可決でしょー? ほら、いけますって」
詠子が推すと、宥介は苦笑した。
「今日の夜に提案しよう。いい小屋が見つかるといいけれどね」
「ほんとですねぇ。二人用の小屋だったら完璧じゃないですか」
詠子は嫌味たっぷりに言った。足手まといの弘を小屋に置いてこられるのなら、探索のスピードも上がるし、何より顔を見なくて済む。詠子にとってはそれが最大のメリットだった。もう弘の顔を見ることさえ嫌になってきていたのだ。
しかし、事態はそううまく運ばない。小屋が見つからないまま、一度目のサイレンが鳴った。それぞれの顔に焦りの色が浮かび始める。
「二回目のサイレンまで時間がない。どうにかして小屋を見つけないと」
宥介が呟く。自然と宥介の足が速くなり、詠子でさえもついていくのが精一杯になる。
「ゆ、宥介さん、待ってください!」
後ろから早苗の声がする。弘が遅れているのだろう。詠子は舌打ちしたい気持ちを抑えて、宥介の袖を引いた。
「宥介さん、後ろが遅れてます。ちょっと待ちましょう」
「わかった」
そう言いながらも、宥介は周囲に目を走らせて小屋を探している。辺りはどんどん暗くなっており、視界が効きづらくなってきている。バケモノが徘徊する夜の森など、詠子は歩きたいとも思えなかった。
少し遅れて弘が息を切らせながら追い付いてくる。それと同時に宥介は歩き出し、小屋を探す。しかし、小屋はどこにも見つからず、時間だけが過ぎていった。
そんなことを繰り返しているうちに、二回目のサイレンが鳴った。
「あ、ああ、やべえよ、二回目が鳴っちまった」
弘が怯えた声で言う。宥介は足を止めず、草木をかき分けて進んでいく。
詠子には自分たち以外の足音が聞こえた。何かが近づいてくる。隣を走る宥介を見ると、宥介も同じ足音を聞いているようだった。
「来ているね。ぼくたちを追ってきている」
「きっと、バケモノですよね? まるであたしたちの位置がわかってるみたい」
「どうだろうね。隠れてやり過ごすことなんてできるんだろうか」
「できなかった時がやばいですよね。逃げるしかないって感じですかねぇ」
「そうだね。とにかく、ぼくたちは逃げるしかない」
詠子たちは全速力でバケモノから逃げる。時々きいいと耳障りな声が森の奥から聞こえてくる。バケモノの声なのかもしれない。詠子たちを探して、バケモノが徘徊しているのだろう。
小屋はまだ見つからない。いつもならすぐに見つかるはずなのに、こういう時に限って見つからないのだ。詠子は心中の焦りがどんどん強くなっているのを感じていた。自分の余裕がなくなっていく。可愛い葛城詠子を演じている余裕がなくなってくる。
見つかれば殺される。小屋がないのだから、逃げ場はない。迫り来る死の恐怖がどんどん大きくなってきているのを詠子は感じていた。宥介のほうを見ると、宥介も焦りの色が見えた。
「うわっ!」
どさり、と音がして詠子が振り返ると、木の根に引っかかって弘が転んでいた。すぐさま早苗が助けに行く。宥介と詠子は、おそらくこの時同じことを思っただろう。
「弘くんっ!」
早苗が助け起こすと、弘は足を痛そうにしながら立ち上がった。しかし、思うように走ることができない。見かねた宥介が道を戻り、弘に訊いた。
「どうしたの、弘くん。足を捻ったのか?」
「そ、そうみたいです。痛くて、走れないっす」
「そんな……!」
早苗は絶句した。今のこの状況で走れないというのは、死ぬこととほぼ同義だ。小屋以外の場所で一晩中隠れて過ごすことなどできるはずがないだろう。
宥介は険しい顔をして、何かを考えている。きっと助ける方法を考えているのだろう、と詠子は思った。詠子とは全然違うことを考えているのだ。
「肩を貸そう。それでどうにか」
「もぉいいだろ。ここで隠れてろよ」
「う……詠子?」
詠子が言った言葉で場が凍り付いた。いや、それは、詠子の口調からだったのかもしれない。
可愛い葛城詠子の偶像を演じるのは終わりだ。今は、それよりも生き延びるほうが優先だ。
「行こ、宥介さん。こんな奴放っておけばいい」
「詠子ちゃん、弘くんを見捨てるって言うの?」
「死にたくねえんだよ、あたしは」
突き放すように言った詠子の声は、全員に深く突き刺さった。皆が知る葛城詠子がそこにはいないことを誰もが理解した。
「どうすんだ、宥介さん。あたしと逃げるか、そいつらと心中するか、選べよ」
「う、詠子、俺を助けてくれないのか? お前、俺を見捨てて逃げるのか!」
「逃げるっつってんだろうが馬鹿。早苗も、どうする? 選ぶ権利はお前にある」
きいい、と声がする。バケモノがすぐ近くまで迫っているのかもしれない。
詠子は宥介を見た。宥介はしっかりと詠子の目を見つめ返すと、立ち上がった。
「ぼくは詠子ちゃんと逃げる。ゲームクリアにはそうするしかない」
「宥介さんも、弘くんを見捨てるんですか」
責めるような口調で早苗が言う。宥介の表情は変わらなかった。
「ぼくが見ているのは、ゲームクリアだ。そのためには詠子ちゃんについていくしかない」
「早苗は残るんだな? じゃあ、ここまでだ。精々二人で仲良く死ねよ」
詠子はそれだけ言って歩き出した。もう一刻の猶予も残されていなかった。いつバケモノに遭遇するのかわからないのだ。一秒でも早く小屋を見つけて逃げ込まなければならない。
「恨んでやる!」
後ろから早苗の声がした。それでも、詠子も宥介も振り返らなかった。
「わたしたちを見捨てたこと、恨んでやるから! 絶対に、絶対に、許さないから!」
「そうかよ。知ったことじゃねえな」
詠子はぼそりと呟いて、無言でついてくる宥介と二人で小屋を探す。がさがさと木をかき分ける音がするたびに、詠子と宥介は身を屈めてやり過ごす。
木の間に隠れると、目の前を白い仮面をつけたバケモノが通り過ぎていく。気づかれなかったことに安堵して、詠子と宥介は再び小屋を探すために走る。
弘たちと別れてからしばらくして、詠子と宥介はようやく小屋を見つけた。二人用の小さな小屋だった。しかしこちらも二人なのだから、ちょうどよいサイズになってしまった。
小屋に逃げ込んで扉を閉めると、安心感が急に湧いてきて、詠子はそのままベッドに飛び込んだ。ぼふん、と柔らかい布団が詠子を出迎えてくれる。
「詠子ちゃん、お疲れ様。逃げきれてよかったね」
「ほんとですねぇ。いやぁ、一時はどうなることかと」
一度外した葛城詠子の仮面を被り直す。けれど、宥介はそれを見て笑った。
「今更取り繕ったって無理だよ、詠子ちゃん。きみの本性はあれなんだろう?」
「えぇ? 何の話です?」
「ごまかさなくていいよ。ぼくしかいないんだからさ」
宥介はやわらかく笑って言った。
詠子は観念した。もう、葛城詠子を演じることはできないのだ。
「んだよ、まさかバレるとはなぁ。親にだってバレてねえのに」
「ぼくしか知らないんだ?」
「そぉだよ、宥介さんしか知らねえよ。くそ、あんなことがなけりゃバレなかったのに」
詠子は弘を恨んだ。弘があんなところで転ばなければ、自分の本性が明かされることはなかったのに。浮気現場を押さえた時だって騙せたのだから、詠子は隠し通す自信があった。
これが詠子の本性だ。言葉遣いは荒く乱暴で、可愛さの欠片もない。この本性をひたすらに隠してきた。親にも、友人にも、誰にも気づかれてこなかった本性が、宥介に知られてしまった。詠子にとっては大きな事件だった。
けれど、宥介は意外な反応を見せた。
「そのほうがきみらしくていいと思うよ。今までのきみは、何か裏があるようだったから」
「そんなこと言われたことねえよ。みんな可愛い葛城詠子を可愛がってくれてる。本性なんて隠しておくほうがいいんだ」
「ぼくの前では葛城詠子を演じる必要はない。もう、知ってしまったからね」
「そーだな。ま、そーゆーわけだから、よろしく」
詠子が起き上がって宥介に言うと、宥介はにこやかに笑った。
「さて、まずは夕食にしようか。二人分だと用意が楽でいい」
「いい加減パンもカレーも飽きてきたよな。何か目新しいものはねえの?」
「牛丼があるね。これにしようか」
「お、いいねぇ」
詠子と宥介は食事の準備を始める。バケモノから逃げきったことで、二人の心にも余裕が生まれていた。その余裕は、心の隙とも呼べるものだった。
だから、気が付かなかったのだ。
「相変わらず詠子ちゃんは起きるのが早いね」
「あたし、枕が変わると眠れないタイプだったのかもしれません」
「意外だね。枕がなくても眠れそうなのに」
「えぇっ、宥介さんの中でのあたしってそんなイメージなんですかぁ?」
笑いながら、詠子は自分の分のコーヒーを用意する。この世界に来てからは、朝はいつも宥介と二人でコーヒーを飲むのが習慣になっていた。今日もそうしようと思って、電気ポットで湯を沸かす。
そこで、詠子はふと思った。自分が抱いている疑念は、宥介も感じているのだろうか。
「宥介さん、ちょっと外に行きません?」
「外? ああ、サイレンも鳴ったし、いいよ。どうしたの」
「ええっと、ちょっと、ここじゃ話しにくい内容がありましてぇ」
詠子が濁すと、宥介はその内容を悟ったようだった。席を立ち、玄関のほうに歩いていく。詠子もその後ろに続き、外に出てドアを閉める。
先に話を始めたのは宥介だった。詠子が何か言うよりも先に、宥介が口を開いた。
「弘くんと早苗ちゃんのことだろう?」
「さっすがぁ。気づいてます?」
詠子が言おうとしていたことを宥介が言い当てて、詠子はその察しのよさに感心した。宥介ならば気づいていただろうと思っていた。
詠子が言いたかったのは、弘と早苗の距離感だった。前々からよく話しているというのは実感していたが、二手に分かれた直後から、弘が異様なほど早苗の近くにいるのだ。詠子が宥介と話しているというのを抜きにしても、弘はとてもよく早苗と話している。とても楽しそうに。
詠子は浮気を疑っていた。しかし、そう簡単に尻尾を出すとは思っていなかった。弘は馬鹿だろうが、早苗はそうではないだろう。おそらくは隠し通してくるはずだ。そこをどうにかして捕まえたい、というのが詠子の狙いだった。そのために宥介の知恵を借りようというのだ。
宥介も概ね詠子と同意見のようだった。やはり、あの二人は関係性を隠している。
「まさかこのゲームの中で浮気されるとは思いませんでしたけどねぇ。早苗ちゃん可愛いから、仕方なかったのかなぁ」
「まだ決まったわけじゃない。断定するのは早いよ」
「でも、もうほぼクロですよ。問い詰めたら自白するんじゃないですかね?」
「それはやめてくれよ。ゲームが終わってからにしてくれないか。チームに影響が出るよ」
「はぁい。じゃあ、そーゆーことにしますね」
詠子と宥介は小屋の中に戻る。詠子はもやもやした気持ちを抱えていた。
そこには、言い逃れのできない状況が広がっていた。
弘が早苗を押し倒し、キスをしていたのだ。早苗も抵抗する様子があるわけでもなく、弘の背に手を回してキスを受け入れている。ドアが開いた音で、二人は詠子たちが帰ってきたことに気が付いたようだったが、時は既に遅かった。
「なに、してるの」
詠子は呆然とした口調を装うことができた。本性が殻を破って出て行きそうになるのを必死に押し留めて、可愛い葛城詠子を演じた。心の中では、ああやっぱりなという気持ちと、何をしているんだという驚愕と、怒りがごちゃ混ぜになっていた。
「う、詠子ちゃん、これは、違うの、これはっ」
早苗が言い訳を口にしようとするが、いったい何をどう言い訳しても釈明にはならない。詠子は本性のままに激情を放とうとするが、すんでのところで抑える。
(ふざけんじゃねえぞ。こいつら、あたしと宥介さんもいるのに何やってやがる)
詠子は本性と仮面のせめぎあいで声を出すことができなかった。それが混乱から来るものだと誤解したのか、早苗はすぐに弘から離れて言った。弘もごまかそうとして必死になる。
「詠子ちゃん、ごめんね、あの」
「う、詠子、俺、その、あの」
「いったん落ち着こう、みんな。状況を整理しよう」
ここで冷静なのは宥介だけだった。宥介だけは当事者ではないのだ。宥介の声を受けて、沈黙が生まれる。詠子にはその沈黙がありがたかった。この間に本性を心の奥底に閉じ込めることができるのだから。
宥介は詠子をダイニングテーブルの椅子に座らせ、早苗と弘をベッドに座らせた。自分もダイニングテーブルの椅子に座り、静かに口を開いた。
「まず、訊こう。早苗ちゃんと弘くんは何をしていた?」
「な、何って、そりゃあ」
「正直に答えてほしい。きみは、早苗ちゃんと何をしていた?」
反論の余地を許さないような口調で宥介が問う。弘は口ごもり、声が出て行かない。
「キス、していました」
代わりに答えたのは早苗だった。俯いたまま、決して詠子のほうを見ようとはしない。
「弘くんは、詠子ちゃんという彼女がいながら、別の女性とキスをした。そういうことだね?」
「だって、詠子が冷たくするからだろ! 早苗ちゃんは優しくて、俺を受け入れてくれて!」
「あたしが悪いの? あたしが優しくなかったから浮気したの?」
可愛く振舞うなら、ここで涙を浮かべるべきだ。けれど、詠子の瞳に涙は出てこなかった。本性が激流のように渦巻いていた。許されるのなら、本性のままに弘を罵倒してやりたかった。でもここで本性を晒すわけにはいかない。可愛く、可愛く、可愛く。
詠子は弘を睨みつけた。弘はその視線に怯えて、詠子から目を逸らした。
ああ、だめだ。こんな顔をしたら可愛くない。可愛くないのに。
「詠子ちゃん。何か、言うことはある?」
宥介が穏やかな声で詠子に問う。言ってやりたいことは山ほどあったが、可愛い葛城詠子が言うような言葉ではなかった。この場に及んでも、詠子はまだ葛城詠子という仮面を外さなかった。
「別れて。早苗ちゃんと付き合えばいいでしょ」
「言われなくてもそのつもりだ。早苗ちゃんはお前と違って優しいんだから」
「詠子ちゃん、あのね、弘くんは」
「いいよ、早苗ちゃん。あたしは悲しくない。弘くんを支えてあげて」
詠子は早苗の言葉を遮り、小屋を出た。外の風を浴びたかった。そうでもしなければ、心の中で暴れまわっている本性が口から出て行きそうだった。
小屋の外に出ると、爽やかな風に包まれる。火照った頭が冷やされていく。
自分が悪かったのだろうか。もっと弘のことを考えるべきだったのだろうか。詠子は自問するが、別れて正解だったとも思っていた。このラビットハントを経て、詠子の中での弘の印象は大きく変わってしまった。参加する前のような愛情はなくなってしまった。だったら、これはよい機会だったのかもしれない。
やはり男は可愛い女の子に弱いのだ。早苗のように、外見も中身も可愛い女の子には敵わないのだ。詠子が精一杯努力したところで、限界はあるのだ。そう思うと、詠子は悲しくなって、涙が溢れてくる。弘と別れたことよりも、早苗の可愛さに負けたことのほうが悔しかった。
「詠子ちゃん」
名前を呼ばれて、振り向く。宥介が穏やかな表情でこちらへ来た。
そして、宥介は詠子を優しく抱きしめてくれた。
「泣きたいなら泣けばいい。ぼくはいい言葉をかけてあげることはできないけれど、傍にいることくらいならできるよ」
「宥介さん、優しいんですね。惚れちゃう」
「そんな冗談が言えるなら大丈夫だね。もう、いいのか?」
「もうちょっとだけ、こうしてていいですか?」
「いいよ。きみの気が済むまで」
詠子は宥介の腕の中で泣いた。宥介は黙ったまま詠子の頭を撫でてくれた。
やがて、詠子が宥介から離れる。荒ぶる本性はまだ完全に潜んだわけではなかったが、隠せないほどではなくなった。これならもう大丈夫だと詠子は思った。
宥介と詠子が小屋に戻ると、さすがに弘と早苗は距離を取っていた。二人とも詠子を怯えるような視線で見てくる。詠子は二人をねめつけた後、宥介に訊いた。
「宥介さん、これからどうします?」
「予定通り、西端の石碑を目指すよ。他に手がかりもないしね」
「はぁい。じゃ、行きましょっか」
全員が無言のまま準備して、小屋を出る。詠子は弘と早苗を置いていきたい気分だったが、それを宥介に提案すると宥介の好感度が下がりそうなので、やめておいた。森の中で二人とはぐれてしまえばよいと思った。
また森の中を進んでいく。チームの空気は重く、誰一人として口を開く者はいない。いつもなら後ろを気にする詠子だが、今日は一切後ろを見なかった。遅れてしまうなら遅れてしまえと思っていた。
「詠子ちゃん、待って。弘くんが遅れている」
宥介に呼び止められて、詠子は足を止めた。見れば、弘と早苗が少し遠くなっていた。
(早く歩けよグズ。菜美さんじゃなくてお前が死ねばよかったんだよ)
「宥介さん、あたしたちだけで行きません? そのほうが早いですよ」
「立場が逆になったね、詠子ちゃん。前はきみがぼくを止めていたのに」
「あの二人には小屋でラブラブしててもらって、その間にあたしと宥介さんでちゃちゃっとクリアしちゃいましょうよ」
「一度、提案してみようか。弘くんは賛成してくれるだろうしね」
「早苗ちゃんが反対したって、三対一で可決でしょー? ほら、いけますって」
詠子が推すと、宥介は苦笑した。
「今日の夜に提案しよう。いい小屋が見つかるといいけれどね」
「ほんとですねぇ。二人用の小屋だったら完璧じゃないですか」
詠子は嫌味たっぷりに言った。足手まといの弘を小屋に置いてこられるのなら、探索のスピードも上がるし、何より顔を見なくて済む。詠子にとってはそれが最大のメリットだった。もう弘の顔を見ることさえ嫌になってきていたのだ。
しかし、事態はそううまく運ばない。小屋が見つからないまま、一度目のサイレンが鳴った。それぞれの顔に焦りの色が浮かび始める。
「二回目のサイレンまで時間がない。どうにかして小屋を見つけないと」
宥介が呟く。自然と宥介の足が速くなり、詠子でさえもついていくのが精一杯になる。
「ゆ、宥介さん、待ってください!」
後ろから早苗の声がする。弘が遅れているのだろう。詠子は舌打ちしたい気持ちを抑えて、宥介の袖を引いた。
「宥介さん、後ろが遅れてます。ちょっと待ちましょう」
「わかった」
そう言いながらも、宥介は周囲に目を走らせて小屋を探している。辺りはどんどん暗くなっており、視界が効きづらくなってきている。バケモノが徘徊する夜の森など、詠子は歩きたいとも思えなかった。
少し遅れて弘が息を切らせながら追い付いてくる。それと同時に宥介は歩き出し、小屋を探す。しかし、小屋はどこにも見つからず、時間だけが過ぎていった。
そんなことを繰り返しているうちに、二回目のサイレンが鳴った。
「あ、ああ、やべえよ、二回目が鳴っちまった」
弘が怯えた声で言う。宥介は足を止めず、草木をかき分けて進んでいく。
詠子には自分たち以外の足音が聞こえた。何かが近づいてくる。隣を走る宥介を見ると、宥介も同じ足音を聞いているようだった。
「来ているね。ぼくたちを追ってきている」
「きっと、バケモノですよね? まるであたしたちの位置がわかってるみたい」
「どうだろうね。隠れてやり過ごすことなんてできるんだろうか」
「できなかった時がやばいですよね。逃げるしかないって感じですかねぇ」
「そうだね。とにかく、ぼくたちは逃げるしかない」
詠子たちは全速力でバケモノから逃げる。時々きいいと耳障りな声が森の奥から聞こえてくる。バケモノの声なのかもしれない。詠子たちを探して、バケモノが徘徊しているのだろう。
小屋はまだ見つからない。いつもならすぐに見つかるはずなのに、こういう時に限って見つからないのだ。詠子は心中の焦りがどんどん強くなっているのを感じていた。自分の余裕がなくなっていく。可愛い葛城詠子を演じている余裕がなくなってくる。
見つかれば殺される。小屋がないのだから、逃げ場はない。迫り来る死の恐怖がどんどん大きくなってきているのを詠子は感じていた。宥介のほうを見ると、宥介も焦りの色が見えた。
「うわっ!」
どさり、と音がして詠子が振り返ると、木の根に引っかかって弘が転んでいた。すぐさま早苗が助けに行く。宥介と詠子は、おそらくこの時同じことを思っただろう。
「弘くんっ!」
早苗が助け起こすと、弘は足を痛そうにしながら立ち上がった。しかし、思うように走ることができない。見かねた宥介が道を戻り、弘に訊いた。
「どうしたの、弘くん。足を捻ったのか?」
「そ、そうみたいです。痛くて、走れないっす」
「そんな……!」
早苗は絶句した。今のこの状況で走れないというのは、死ぬこととほぼ同義だ。小屋以外の場所で一晩中隠れて過ごすことなどできるはずがないだろう。
宥介は険しい顔をして、何かを考えている。きっと助ける方法を考えているのだろう、と詠子は思った。詠子とは全然違うことを考えているのだ。
「肩を貸そう。それでどうにか」
「もぉいいだろ。ここで隠れてろよ」
「う……詠子?」
詠子が言った言葉で場が凍り付いた。いや、それは、詠子の口調からだったのかもしれない。
可愛い葛城詠子の偶像を演じるのは終わりだ。今は、それよりも生き延びるほうが優先だ。
「行こ、宥介さん。こんな奴放っておけばいい」
「詠子ちゃん、弘くんを見捨てるって言うの?」
「死にたくねえんだよ、あたしは」
突き放すように言った詠子の声は、全員に深く突き刺さった。皆が知る葛城詠子がそこにはいないことを誰もが理解した。
「どうすんだ、宥介さん。あたしと逃げるか、そいつらと心中するか、選べよ」
「う、詠子、俺を助けてくれないのか? お前、俺を見捨てて逃げるのか!」
「逃げるっつってんだろうが馬鹿。早苗も、どうする? 選ぶ権利はお前にある」
きいい、と声がする。バケモノがすぐ近くまで迫っているのかもしれない。
詠子は宥介を見た。宥介はしっかりと詠子の目を見つめ返すと、立ち上がった。
「ぼくは詠子ちゃんと逃げる。ゲームクリアにはそうするしかない」
「宥介さんも、弘くんを見捨てるんですか」
責めるような口調で早苗が言う。宥介の表情は変わらなかった。
「ぼくが見ているのは、ゲームクリアだ。そのためには詠子ちゃんについていくしかない」
「早苗は残るんだな? じゃあ、ここまでだ。精々二人で仲良く死ねよ」
詠子はそれだけ言って歩き出した。もう一刻の猶予も残されていなかった。いつバケモノに遭遇するのかわからないのだ。一秒でも早く小屋を見つけて逃げ込まなければならない。
「恨んでやる!」
後ろから早苗の声がした。それでも、詠子も宥介も振り返らなかった。
「わたしたちを見捨てたこと、恨んでやるから! 絶対に、絶対に、許さないから!」
「そうかよ。知ったことじゃねえな」
詠子はぼそりと呟いて、無言でついてくる宥介と二人で小屋を探す。がさがさと木をかき分ける音がするたびに、詠子と宥介は身を屈めてやり過ごす。
木の間に隠れると、目の前を白い仮面をつけたバケモノが通り過ぎていく。気づかれなかったことに安堵して、詠子と宥介は再び小屋を探すために走る。
弘たちと別れてからしばらくして、詠子と宥介はようやく小屋を見つけた。二人用の小さな小屋だった。しかしこちらも二人なのだから、ちょうどよいサイズになってしまった。
小屋に逃げ込んで扉を閉めると、安心感が急に湧いてきて、詠子はそのままベッドに飛び込んだ。ぼふん、と柔らかい布団が詠子を出迎えてくれる。
「詠子ちゃん、お疲れ様。逃げきれてよかったね」
「ほんとですねぇ。いやぁ、一時はどうなることかと」
一度外した葛城詠子の仮面を被り直す。けれど、宥介はそれを見て笑った。
「今更取り繕ったって無理だよ、詠子ちゃん。きみの本性はあれなんだろう?」
「えぇ? 何の話です?」
「ごまかさなくていいよ。ぼくしかいないんだからさ」
宥介はやわらかく笑って言った。
詠子は観念した。もう、葛城詠子を演じることはできないのだ。
「んだよ、まさかバレるとはなぁ。親にだってバレてねえのに」
「ぼくしか知らないんだ?」
「そぉだよ、宥介さんしか知らねえよ。くそ、あんなことがなけりゃバレなかったのに」
詠子は弘を恨んだ。弘があんなところで転ばなければ、自分の本性が明かされることはなかったのに。浮気現場を押さえた時だって騙せたのだから、詠子は隠し通す自信があった。
これが詠子の本性だ。言葉遣いは荒く乱暴で、可愛さの欠片もない。この本性をひたすらに隠してきた。親にも、友人にも、誰にも気づかれてこなかった本性が、宥介に知られてしまった。詠子にとっては大きな事件だった。
けれど、宥介は意外な反応を見せた。
「そのほうがきみらしくていいと思うよ。今までのきみは、何か裏があるようだったから」
「そんなこと言われたことねえよ。みんな可愛い葛城詠子を可愛がってくれてる。本性なんて隠しておくほうがいいんだ」
「ぼくの前では葛城詠子を演じる必要はない。もう、知ってしまったからね」
「そーだな。ま、そーゆーわけだから、よろしく」
詠子が起き上がって宥介に言うと、宥介はにこやかに笑った。
「さて、まずは夕食にしようか。二人分だと用意が楽でいい」
「いい加減パンもカレーも飽きてきたよな。何か目新しいものはねえの?」
「牛丼があるね。これにしようか」
「お、いいねぇ」
詠子と宥介は食事の準備を始める。バケモノから逃げきったことで、二人の心にも余裕が生まれていた。その余裕は、心の隙とも呼べるものだった。
だから、気が付かなかったのだ。