バレンタインコンサートの日のこと、幡野先生に謝りに行ったときだ。先生は涙を流していた。大変なことをしでかしたと思った。
『先生、本当にすみませんでした。たくさん面倒みてもらったのに、あんな……』
『違うの、律くん』
『え?』
『演奏、今までで一番だったわ』
納得はいかなかったけど、理解はできた。今までと違ったことといえば、それは感情が乗っていたこと以外に思い当たらない。
自分で書いた曲だからでもあるし、思い浮かべていたあの人のおかげでもある。でも、納得はしてない。
幡野先生にそう言って許してもらえたことは、本当にありがたかった。演奏会出禁になっても足りないくらいの無礼だったのに。
恋っていうのは、おそろしいことだと思った。あんな衝動が、自分にあるとは思いもしなかった。
長年お世話になった幡野先生夫婦、音楽教室のみんな、演奏を聴きにきてくれたお客さん。有馬、母さんもそうだ。いろんな人をぜんぶ捨ててもいいと思ってしまった。
夏輝くんのことばかり想って、たった一人のためだけに弾いて、それで自分だけのために弾くのをやめたピアノだった。
あの日の雪は大雪になって、一週間経った今もまだ、道の片隅に白いかたまりが残っている。ここでは結構めずらしい風景だ。
そのかたまりを見かけるたびに、俺の口元はだらしなく半開きになってしまう。
「りーつっ」
「えっ!?」
「今日一緒にかえろ」
「えっ、な、なん……え!?」
「あはは、びっくりしてらぁ」
当たり前だろ、ここ、俺のクラス!
しかも今日半日の日だし、三年生の登校日じゃないし……みんな、見てるし。いいの?そんなの。
「いいですけど……」
「迎えこよっか」
「いい!俺が行く」
「律~~」
「頭ぐりぐりすんのやめてください」
夏輝くんは、今日もみんなの注目の的だ。みんなの憧れ『ナツ先輩』。爽やかで秋風みたいな人。
「なあ、ナツ先輩ってあんなだった?」
「あんなって?」
「でろ甘じゃん」
そう。それで、俺のことをでろでろに甘やかしてくれる、特別な人。
「そのワードいいな」
「でろ甘?」
「うん」
歯を見せないようぎゅっと口を結んでも、口角がぴくぴくしちゃってるのが自分でわかる。有馬にも「きも」って言われたし。
「なあ。演奏会の日、夏輝くんのこと誘ってくれたんだろ」
「ああ。偶然会ったからさ。音楽室の前で」
「……は?」
「泣いてたから声掛けたんだよ」
……有馬を演奏会に誘った頃には、夏輝くんとの(仮)の関係はもうおわってた。曲を完成させられなくて、うだうだ音楽室にこもってたあの頃。
夏輝くん、きっとまた告白されたり、してたんだよ。すっごいビンタされたとかさ……って、あの人に限ってそんなことはないか。
だめだ。自惚れてしまう。
「……泣いてたんだ」
「なんかあの人、こう……助けてあげなきゃ!ってなるよな」
「……あ?」
「えっなに!?」
有馬の言うことは誰より自分が一番わかってる。俺だって夏輝くんに手を差し伸べちゃった一人だ。……でもなんかやだ。こいつに言われるから?
「ピアノ好きってお前から聞いてたから、誘っちゃったんだよ。勝手にごめんな」
「……いや。むしろありがとうまである」
「あ、そう?ならいっか?」
あの日の演奏、夏輝くんが聴いてなかったら、どうなってたんだろう。もっと拗れてうまくいかなかったり、したのかもしれない。わかんないけど。俺もぜったい引きたくはなかったし。でも……
「俺、夏輝くんと付き合ってる」
でも、有馬にはちゃんと言っておきたいかも。
「えええええっ!?!?」
でっけえ声をあげて、有馬はそのままの意味で後ろにぶっ倒れた。椅子、きこきこしてるからだよ、あほだな。小学生か。
「大丈夫か」
「だいじょばないわ!!え、なに!?なんて!?」
「だーかーらー」
「いや!いい!わかったけど!!」
「お前のおかげ……も、ちょっとはあるから。ありがと」
「なっ……ええなに?おま、誰だよ?」
失礼なやつ。こっちがお礼言ってんのに。絵にかいたように驚いてた有馬は、椅子に座り直してから、俺の両手をむんずと握った。きもちわるい、何??
「なんだよ、はなせ」
「おめでとうな!!」
「……はあ?」
なんで俺のことで、お前がそんな嬉しそうに笑うんだよ。意味わかんねー。……わかんないけど、まあ、うん。
「……ありがと」
素直に受け取っておいてやるか。
放課後の三年生のフロアは、予想通り静かだった。自由登校で登校する生徒なんて、本当に稀だと思う。俺だったらぜったい行かないもん。
夏輝くんのクラス……三年C組も、案の定夏輝くん以外の人の姿はなかった。
「あ、律だ」
ちゃんと机に向かってる夏輝くん、初めて見たな。教室にいる夏輝くんも、初めて見た。それできっと、これが最後になる。
「……なんか泣きそうです」
「情緒やば~」
「……」
「おいで?」
長い腕をめいっぱい広げて、俺を呼んでくれる夏輝くん。椅子に座ったままの夏輝くんの腕のなかに飛び込むと、つむじがみえた。超レアな光景じゃん。
夏輝くんと同じ制服着れるの、あと何回だろう。こうやって学校で会えるのだって、あと何回あるんだ?やっと彼氏になれたのに。こんなことならもっとたくさん、一緒にお昼食べておくんだった。放課後デートだって、もっとたくさんしておけばよかった。
「だめだ、俺。引くほどセンチメンタルになってる」
「うける。なんで律がセンチメンタルになんの」
「卒業するの俺なのに~」って、相変わらず夏輝くんは語尾を伸ばして言った。ほんとそうだよ。
「夏輝くんが卒業しちゃうのさみしいみたいです」
「他人事だなぁ」
「だってさみしいとか思ったことないから、よくわかんない」
「ふふ、そっか。さみしいんだね~」
頭二回、ぽんぽんってするやつ。……あー……俺は本当、もうおかしいな。
「……もっとしてください」
「ん、なんだって!?」
「なんだってってなんですか、もう」
「だってあの律が……ちょっともう、勘弁して~」
それ、ぽんぽんじゃなくてわしゃわしゃじゃん。俺の直毛、目に刺さるって……!
「りーつっ」
「?ん?」
右目つむって顔を覗き込んだとき、夏輝くんの口が、俺の口に触れた。
「……ええ、ずる……」
「律よりは正攻法です~」
………今日のはちゃんと、感覚あったな……。
噛みしめるほど、じわっと頬が熱くなってくのが自分でもわかる。夏輝くんはそれをおもしろがってるんだろう、ふにふにと俺の唇をつっついてみたり優しく撫でてみたり、楽しそうだ。
「ふふっ……胸ぐら掴まれてキスされたのなんて、初めてだったなぁ」
「!?もういいから、その話……」
「意外と大胆だよね、律」
ばかにされたし、もういい加減に唇から手を離してほしくて、夏輝くんのつむじを親指でぐっと一押ししてやった。「うわっ」と怯んだ夏輝くんの後ろの席……ちょっとだけ、お借りします。
「同じ教室に夏輝くんがいるって、こんなかんじかぁ」
横顔、好きだなぁ……。机におさまりきってない長い脚、かわいいなぁ……。
「……夏輝くん、俺と付き合ってくれてありがと」
「あなたはまたそういう……俺までセンチメンタルになっちゃうでしょうが」
「ふふふ。卒業式、泣いてくれてもいいんですよ」
「ぜってーやだ」
なんか、信じらんないんだよ。いつもこの学校の中心にいた夏輝くんが、いなくなるなんてさ。
「あ、そういえば引越しね、来週先にしちゃうから」
「へ」
「まあ近いけど~。引越し屋さんも早い方が安くしてくれるんだってさ」
「は……そうなんですね……」
県内の大学へ進学する夏輝くんは、卒業したらすぐに一人暮らしを始めるらしい。別に、片道何時間とかの距離じゃない。むしろお互いの家は、今より二駅近くなるし。だけど『一人暮らし』というワードがひどく大人のワードに聞こえてしまって、ちょっとつらい。ちょっとだけな。
「……律ってさ」
「はい?」
「ほんとはずっといろいろ考えてるでしょ」
「?」
「俺のことも、進路のことも、ピアノのことも」
「いや……そんなことは……」
「それで急に爆発すんだよな~」
そう言われて思い当たらないわけでもなかった。……だって夏輝くんに気持ち伝えた日の俺、まじで自分じゃない、別人みたいだったもん。でも考えてるのかって言われたら……よくわかんない。ただ最近、頭のなかはからっぽだ。
「俺も、律のことわかりたいって思ってるからね」
夏輝くんの大きな手が、俺の顔をふわっと包んでくれる。大丈夫だよって言ってくれてるみたいに。
この気持ちって、なんて表現したらいいんだろう。音鳴らないからわかんない。うれしい?大好き?なんかそんな簡単な言葉じゃない、なんだろこれ。
「……なんていえばいいんだろ」
「なんも言わなくていいですよ」
でも伝えたいんだよな、この気持ち。
「夏輝くん」
「はぁい」
「もっかいキスしたいです」
「んふ、いーよ」
……カップルたちが所構わずちゅっちゅしてるのって、こういうかんじなのかな。なんかいまならわかるよ。言葉で伝えられないくらいの最上級の気持ちって、究極これでしか伝えられないような気がする。
夏輝くんと駅前のファミレスでお昼ご飯を食べて、ドリンクバー何回もおかわりしながら、大学の話とか、一人暮らしする部屋の話とか、今日有馬に話したこととか、いろんな話をした。なにを話しててもずっとたのしくて、時間なんてあっという間だった。
「そろそろ帰ろっか」
「ええ」
「ええって、もう十九時だよ」
「……え!?」
「夜ごはんの時間です」
嘘だろ、あっという間だよ、「あ」っという間の本当の意味を今知ったよ……!
「律んち、夜ごはんいつも何時くらい?」
「うちは二十時くらいが多いかも。夏輝くんちは?」
「俺んちもそんくらい。てか結構食べなかったりもする」
「ああ、わかる。俺も。一人だとまあいっか、ってなっちゃう」
「ね~あるあるだよね~」
ファミレスを出て、駅の改札までのほんの少しの距離、夏輝くんが手を差し出してくれるのが、たまらなくうれしい。ほんのちょっとの距離でも手を繋いでくれるの、カップルってかんじがする。
「律はこういうの、嫌じゃない?」
「えなに、また神山先輩の話?」
「違うよ、普通に!一般的な話!人前で手繋ぐの嫌とかないのって」
「……ぜんぜんない」
いやてか、相手によるんじゃ?母さんと手繋ぐのはそりゃ嫌だけどさ……。夏輝くんは彼氏じゃん。好きな人と手繋ぐの嫌とか、思う人いるの??
「夏輝くんはいや?」
「……いいえ!」
「声でか」
「ごめんごめん」
だってほら、そんなかわいい顔してくれるのに、手はなすとか選択肢にないでしょうよ。
「律ってすごい」
「え?」
「こっちの話~」
……あーあ、浮ついてんな、俺も、たぶん夏輝くんも。手の繋ぎかたが、変わった。
家に帰ると、まだ母さんは帰ってないみたいだった。なら夜ごはんはいっか、なんてさっき夏輝くんと話したことを思い出してはむふっとしている。もし隠しカメラなんてあった場合には、非常に気味悪い挙動だろうな。……え、ないよな……??
バレンタインコンサート以来、母さんとはまともに顔を合わせていない。母さんは今が繁忙期だから意図的ってわけではないと思うけど、どこか顔を合わせにくいのは、俺も同じだ。なにから話せばいいのか、今もまだまとまってない。
ただ一つ絶対に言わなきゃいけないことを、どうしても言い出せずにいる。
「ただいま」
風呂からあがったら、リビングにちょうど帰ってきた母さんがいた。疲れがピークに達したときの母さんは、黒い服しか着なくなる。ここ最近ずっと、黒い服をまとった母さんしか見送った気がしない。そんな母さんに、言えるわけ、ない。
「おかえり。お疲れ」
「うん……ご飯、ごめんね」
「いいよ。人と一緒だったし」
「めずらしいじゃない。クラスの子?」
「ううん」
谷野夏輝くんっていう、一つ年上の高校の先輩。学校中の憧れでめちゃくちゃ華のある人だよ。優しくておもしろくて、俺を大切にしてくれる人。俺の彼氏。
……って話を、したいんだけど。母さんにこういう話をするのは、ちょっと地雷な気がしてる。
「母さん」
「うん?」
「あのさ……いつか、仕事、落ち着いてからでいいけど。話したいことある」
「……そう」
「時間ほしい」
仕事で疲れてるせいもあるんだろうけど、本当に母さんは感情が顔にもろに出る。俺とは正反対。今にも泣きだしそうな顔して、力なく頷いている。俺は母さんのこの顔を、何度見ないフリしてきただろう。
「ごめんね、律」
「……え?なにが?」
「母さんのこと、もう本当に、気にしなくていいのよ」
気にしなくていいって言いながらそんなしおらしくされて、わかりました!とかならないだろうよ。俺だってもう高校生だ、親が一人の人間だってこと、ちゃんとわかってるよ。だけどさ、母さんは……ああ、だめだ。やめよ。
「おやすみ」
今日はそれを言うので、精一杯だ。
母さんは元ピアニストで、俺が幼稚園に入園するまでは活動を続けていたらしい。何枚かCDを出していたりもするし、こうして俺の家には防音室なんてものが作られていたりもするわけだから、まあ母さんの人生はピアノ一色だったんだろう。
それでたぶん、それを変えてしまったのは、俺なんだと思う。その張本人がピアノやらないって言うんだから、そりゃあ母さんがあんなふうになるのも、無理ないのかもしれないけど。
待ち合わせの駅の改札内、やっぱり夏輝くんは今日も、端っこの柱に立って待っててくれる。「もろもろ買いに行くから一緒にいこーよ」って誘い方、今までにないパターンでぎゅっとした……。
「夏輝くん、おはようございます」
「おはよ~今日あったかくね?」
「ですね」
はあ~…今日もだいすきだ。
「ベッドは実家から持ってくんだけど、食器とか鍋とか持ってけないじゃんか」
「そうですね。夏輝くん、料理するんですか?」
「まあまあ。てか父親あんま家いないから、俺と兄貴でやらなきゃいけないのに兄貴はもう、こうだから」
こう、と言いながら筆で絵を描く真似をしてみせてくれる。お兄さん、絵を描く人だって言ってたもんな。
「芸術家ってやっぱ集中力すごいんですね」
「あー…そうね。兄貴は三日三晩寝ず食べずでも絵があれば生きていけそう」
「愛だ」
「ね~。でも律もそっち側じゃない?」
俺は……そこまでの情熱はないな……。
「いやないですね、食べなくてもいいけど寝たい」
「それはそう、一緒だね」
そう言ってはにかんだ顔、甘すぎてとけそう……。
もう俺……夏輝くんと付き合ってから語彙がまじできもくなってる。『好きすぎてやばい』ってテンプレをそのうち口に出しそうでこわい。
「いいな、一人暮らし」
「俺もずっと憧れてたから超うれしい〜」
「ですよね、めっちゃ自由じゃないですか」
「兄貴の面倒みなくていいしね」
この夏輝くんが面倒みるっていうんだから、お兄さん相当ゆるゆるな人なんだろうな……。
「ちょっと見てみたいですけど」
「ん?」
「面倒みてる夏輝くん。全然想像つかない」
「はあ?いつも律の面倒みてるのだれですか?」
なんだって??面倒みられてるの、俺??
「いやいやいや、それはない」
「それはないって失礼すぎ、つむじ押すぞ」
「やーめー……」
ぐわっと肩を抱き寄せられ、まじでつむじ押されそうになったそのときだ。
「律……?」
後ろからした声は、呆然と立ち尽くす母さんのものだったらしい。
「母さん……どうしたの、仕事は?」
極力冷静に聞いてるけど、母さんのほうが全然冷静を装えてなかった。本当にわかりやすい人。そんな目で夏輝くんのこと見るの、ほんとにほんとにやめてくれ。これ以上、母さんのこと軽蔑したくないんだよ。
「律のお友達?」
「……は、」
「ちがうよ」
おい夏輝くん。なに「はい」って言おうとしてんだ。友達じゃないだろ俺たち。
「恋人だよ」
母さんの目からとうとう涙がこぼれた。どんな感情で流す涙なのか俺にはさっぱりわからないけど、こんなみじめな母親の姿を夏輝くんに見られてしまったことが、本当に情けなくてかっこわるくて、最悪の気分。
「律……お母さん泣いて、」
「いいよ、よく泣く人だから」
自分でもびっくりするくらい、冷えた声がでた。それも母さんにはたぶん届いてない。泣いてるときの母さんは自分の世界にこもっちゃってて、俺の声も父さんの声も、全然耳に入れてくれなかった。
「夏輝くん、ごめんね」
「いや俺は……」
「ごめん。ぜったいやな気持ちにさせた」
あの目。あれと同じ血が流れてると思うと吐きそう。どうして母さんはいつもそうなんだ。いつもいつもいつも。
いっっっつも、自分のことばっかり。
俺の気持ちも、父さんの気持ちも、なんにも、一つも、わかろうとしてくれない。いつも自分のことで手一杯。なんでそれで母親ぶっていられるんだよ。自分が息子のピアノの犠牲になったから?だから自分はいい母親だとか思っちゃってんのかよ。頼んでねえよそんなの。押しつけてくるなよ。なんで、なんで……
「律、律っ」
「……っはあ、ごめん。いこ」
「や、でも、」
「いい。こうなると人の話なんにも聞こえない人だから」
どうして俺の母親は、母さんなんだよ。
ショッピングモールで出くわすとは思ってなかったけど、ちょうどよかったのかもしれない。いずれああなってた。ただ一つ、夏輝くんにいやな思いをさせてしまったことだけが、ずっと俺の胸の奥で火を燃やしてる。
「夏輝くん。ほんとにごめんなさい」
「謝られるようなことなんも起きてないよ」
「……なんでそんなやさしいの」
「どう考えても律のがやさしいだろ~」
「そんなことない」
モールの外階段は、下の遊具で遊ぶ子どもたちの声はにぎやかなのに、人気はあまりなくて、ちょうどよかった。
春風がかろうじで俺の気持ちを鎮めてくれるし、こうして夏輝くんにくっついていても、あんまり目立たなくて。
「嬉しかったよ、恋人って言ってくれて」
「夏輝くん、友達って言おうとしててびびった」
「ほんとに律は……いっつも俺の気持ち、ぜんぶすくい上げてくれる」
「そんなの俺のほうこそだよ」
夏輝くんは俺のピアノで笑顔になってくれた。すごい特技だねって言ってくれた。俺にとってピアノは爆弾みたいなものだったのに、俺の音楽が完成したのは、ぜんぶ夏輝くんのおかげだよ。
「夏輝くんがいればほんとに俺、それだけでいい」
この人が隣にいてくれれば、本当にそれだけで。家族もピアノも音楽も、ぜんぶいらない。
「……律?」
「はぁい」
「なんだその気の抜けた返事~」
「えっ夏輝くんの真似ですけど」
「俺そんなん言ってる?」
「言ってますよ、いっつもふにゃふにゃじゃん」
もたれかかってた肩から身体を起こして、ふにゃふにゃの夏輝くんの顔を見上げてみる。
あんなに気圧されてた夏輝くんの目が、ひどくやさしくて、もうぜんぶ渡したいような気持になってしまった。俺のぜんぶ。……そんなの重いか。
「しんどかったら逃げてきていいよ」
「……うん」
「ずっと、そばにいるからね」
なぁんにも聞かないんだ、この人。あんな下衆な目で睨まれたことも、俺が母親を泣かしちゃったことも、それを置いてきたことも、なぁんにも聞かないんだ。隣で、ずっとあっためてくれるだけなんだ。逃げ道用意して待っててくれるんだ。なんだよ、この人。仏?釈迦?包容力えげつないだろ。
「……それだれにも言わないで」
「言うわけなくない?」
「ぜったいですよ」
「律にしか言わない~」
「大好き、夏輝くん」
好き、よりもっと好きって大好きであってんのかな。でも好きも大好きもだいたい同じくらいな気もする。それより上って、なんて言うんだろう。愛してる?……なんかちょっとキザじゃない??やっぱまだまだ、この気持ちは俺には表現できない。
今度は正攻法で、夏輝くんの口に口をくっつけてみた。
「……りつ」
「はぁい」
「外ですよ……」
「やば、ほんとだ」
もうキスと変わんないくらい、ゼロ距離でくっついてるけどな。おかしくて笑ってたら、夏輝くんのおでこがごちっと俺の頭にぶつかった。