マジックアワーでおわらせて


寒くなってからは、空き教室で昼ごはんを食べることが多くなった。
夏輝くんはガタガタの椅子に座って、ぱくりとからあげを一口で頬張る。絶対いれすぎ。

「夏輝くん、もう大学決まってるんですか!?」
「うん。推薦もらったから」
「へ、へえ~……」

ていうかこの人、やっぱ頭いいんだ?噂では聞いたことあったけど、ほんとにそうなんだ?

「まあ結果はまだだけど。でも校内通れば大体決まりっていうし」
「ああ、そういいますよね」
「これで落ちたら笑えないけど……」

いや夏輝くんなら大丈夫な気がする。なんか持ってる星の人じゃん。

「律は?進路とかもう考えてたりするの?」
「……いや、まだ」
「そっか。じゃあ今はとりあえず勉強だね」

進路、ねえ……。いやな話題だ。

「テスト前は水曜日のデート、勉強会にしよっか」
「えっ」

困る困る。運動音痴なうえに勉強もできないなんて、夏輝くんに知られるわけにはいかない!!

「いや勉強は自分でやります」
「なんでぇ」
「一人のほうが集中できますから」

どの口が……自分で自分に嫌気がさすな、本当。

夏輝くんみたいになんでもできる人にとって、俺ってどう映るんだろう。理解不能、要領悪い、どんくさい、とか?
夏輝くんにかぎって直接的にそうは言ってこないだろうけど、心の中じゃ呆れてたりするんだろうか。不安……。

「俺が一緒にやりたいんだけど、だめ?」

でたよ、この押しの強さ。その目力。やめろって。

「……いや、やりません」

でも今回は屈しないぞ。だって俺の名誉がかかっている。

「じゃあ水曜日は?会えないの?」
「……あ、会えないとかそんな…」
「じゃあいいじゃん」
「いや……」

名誉が…かかって……

「……早めに帰りますけど……それでいいなら」
「やった~」

あーあ、もう!!俺!!

だいたい、夏輝くんの顔面ってずるくないか?あの顔でねだられて、断れる人間いないだろ。しかもなんだ、夏輝くんって不思議な力があるっていうか、人を従わせるのがうまいっていうか。

ぱちんっと両手を合わせた夏輝くんの、ごちそうさまの合図。

「律、明日のお昼も一緒にたべよ?」
「明日はちょっと」
「ええ~」
「用事があるんです」
「そっか…じゃあしょうがないね」

絶対、しゅんとしてる。もう声色で想像がつく。だから俺は見ない、絶対に見ないぞ!!


うちの高校には、なぜか音楽室が三つある。

一つは普段から授業で使う教室。もう一つは、第三棟にある昔からあって今は使われてない教室。もう一つは、先生たちの準備室みたいなところ。

「ああ、律くん。今日も使う?」
「いいですか?」
「もちろん。今度の県コンクールは出るのかい?」
「いや……出ないです」

吹奏楽部の顧問を務めている幡野(はたの)先生は、昔通っていた音楽教室の先生の旦那さん。小さい頃から家族ぐるみで仲良くしてもらっていて、今でも音楽教室の定期演奏会に呼んでもらったりしている。

いっつもにこやかなんだけど、一度吹奏楽部の練習をのぞいたときには、まるで別人だった。なんかそれからちょっと距離を見直して、今はこんな感じ……。

「そうか、まああれだよな。ピアノだけじゃないっていうか」
「はあ……」
「律くんには律くんの世界があるよな」

俺には俺の世界。その言葉をわかってて言っているのか、ただ慰めなのか、俺にはわからなかった。だから返事に困る。幡野先生に漏らしてしまったら、めぐりめぐって母さんの耳にも入りかねないし。

「ピアノ、お借りします」
「はいはい、どうぞ」

第三棟の音楽室のピアノは、錆びている。たまに俺とか先生が手入れしてるけど、いい音とはとても言い難い。でも俺は、ここで弾く誰にも聴かれないピアノが結構気に入ってたりする。……いや一度だけ、有馬にバレて聴かれてしまったことはあったか。

誰のためでもない、自分のためですらない、音。頭のなかの音をそのまま奏でるのは、すごく気持ちいい。譜面通りに弾くコンクールのピアノも、昔はやってたけど。父さんも母さんも、みんなが喜んでくれたから。上手に弾けばみんなが褒めてくれたから。笑顔でいてくれたから。

……父さん、元気にしてるのかな。

「えっ律!?」
「……は?夏輝くん?」

がらっと無造作に開けられた扉の向こう、立ち尽くす彼氏(仮)の姿に目を疑った。なんでこんなとこに夏輝くんがいるんだ。

「待って、いまのピアノ、律?」
「いやあの」
「えっえっすご!!もっと弾いて!!」
「だから……」
「楽譜とかなくて平気なんだ、すっげー!」

でた、夏輝くんのこれ。白岳山の帰り道みたい。目きらきらさせて好奇心のかたまりってかんじ。

「あの!」
「ん?」
「なんでここ……」
「ああ、呼ばれててさ~資料室」

第三棟の資料室といえば、告白のど定番スポット……、夏輝くんの言うことには信憑性しかなかった。

「ちゃんと断ったよ?」
「……そうですか」

ああもう、聞いてないのに。なんでわかるかなぁ。

「ね、弾いてよ」
「ええ」
「お願い!なんでもいいから~」

俺は夏輝くんのお願いに、どうしてこうも弱いのか。というか押しに弱いのか?

しかたなく、よくコンクールで弾いていた『乙女の祈り』を弾いてみる。少しくらい夏輝くんも知っていたりするんじゃないだろうか。ちらりと視線をやったときの夏輝くんは、俺の鳴らす音に目を細めてみたり、体を揺らしてみたりしてた。本当、表現の豊かな人。

「うっわ~……!すごい。律すごい!!」

弾き終わったあと、拍手より先に夏輝くんに飛びつかれた。まるで犬。大型犬にとびかかられた気分。いい匂いのする大型犬だ……。

「ちょっと!」
「ごめんごめん、だってすごいんだもん」
「別にすごくないです、小さい頃からやってただけ」
「なんでよ、すごい特技じゃん」

……特技って、そんないいもんでもないけど。でもなんでかな、夏輝くんに言われるとそんな気がしてくる。

「そういうの、クラシックっていうんだっけ」
「まあ、はい」
「なんか俺の知ってる曲も弾いてほしい!」
「いいですけど、俺あんまり最近の曲とかわかんないです」
「これとかは?毎朝聴いてるよ俺」

夏輝くんのスマホで流してくれた、なんとかってバンドのなんとかって曲は、案の定聴いたことのない曲だった。

……でも夏輝くんはこういうの好きなんだな。ちょっと新たな発見。

「知らない曲だけど、たぶん弾ける……ニュアンスだけど」
「え、なにそれ」
「んー…ちょっともう一回だけ、サビのとこ聴かせてください」

ポップスとかロックとか、昔のは聴いたりするけど流行りのはよくわからない。というか追いつけない……。でも音の幅を広げるには色んなジャンルを聴いてみてって、昔、幡野先生にも言われたことを思い出した。

「っし、いきます」
「お願いします」

………うーん、これ、ラブソングか?歌詞よく聞き取れなかったけど、なんか切なくなってくる。Bメロの入り、たまんないな。……これ、あってるのかな。おそるおそる、夏輝くんの顔を覗き見たその瞬間だった。

最近ずっと聞こえなかった音が、鮮明に強烈に、頭に響く。

「……こんなかんじ?」
「すっげええ……!この曲知らなかったんだよね?やばくない?」
「あってました?」
「いや最高にあってた」

日本語おかしいけど、まあいいか。こんな子どもみたいに無邪気な笑顔、俺にひとりじめさせてくれてるんだから。

「……なんかうれしい」

俺の音楽じゃないけど。俺のピアノで笑顔になってくれる人、まだいたんだ。

「ええ?俺のが嬉しいよ」

夏輝くんが、ぽーんと一音鍵盤を鳴らした。

「ああ、その音」
「ん?」
「……ううん、なんでもない」

その音、いいな。夏輝くんの音だ。


あれから夏輝くんとのお昼休みは、弁当を早々に食べ終えて、この第三棟音楽室にくるのが決まりになってしまった。

「ねえ夏輝くん」
「ん~?」
「つまんなくないの」
「全然?むしろ最高?」

大袈裟だな、この人は。興味もないのにずっとクラシック聴いてて、なにが楽しいんだか。

「今日はこの曲お願いしたいです」
「はい」

そんな罪滅ぼしになっているかもわからないけど、俺の気晴らしの最後にはいつも、夏輝くんのリクエストを弾くことになっている。そのおかげで俺も、ポップスのレパートリーが増えてきた。

「律さぁ、音楽やるの?」
「将来ですか?」
「そう」

弾き終わったあと、上機嫌に隣に座った夏輝くんの質問は、俺こそが知りたいことだ。自分でもわからない。ただ、ピアノはもう、やりたくない。

「……わかんないです」
「そっか。じゃあバンドとかは?よくない?」
「俺、人と関わるの苦手ですよ」

音楽となれば、なおさら。個人プレーが過ぎる俺が、誰かとなんて地獄絵図だ。

「でも俺、律のピアノ好き。どっかでずっと弾いててほしいよ」

……この人は、本当に。そうやって軽~いかんじで、とんでもない爆弾を落としていく。どれだけ俺の心を爆破したら気が済むんだ。そもそも音楽で食べていくって容易なことじゃないんだぞ、まして夏輝くんみたいになにかを持ってる人間でもないんだし。

「そんなの、わかりません」

だいたい、どっかで、ってなんだよ。

拗ねたような口調になってしまったことは反省するけど、そもそも言い出したのは夏輝くんのほうだからな。ほんとに夏輝くんは、なんにもわかってない。

「テスト終わったら、休みの日デートしようよ」
「……え?」
「たまにはいいじゃん〜水曜日は勉強しかしてないんだし」
「まあ、はい…」
「どこ行きたいか、考えといて~」

また、頭二回ぽんぽん。それ、くせになったら困るからやめてほしいんだけど……。


どこに行きたいかって言われても、俺が思いつく場所なんて一つしかなかった。

「おはようございます」
「おはよ。晴れたね~」
「でも山入ったら結構冷えますよ。防寒着持ってきました?」
「持ってきました、律にあれだけ言われたからね」

テストが終わり、夏輝くんと俺は山へ来ていた。

白岳山は一度登ったから、今回は少し足をのばして、同じくらいの難易度で滝が見れる三代山(みしろやま)にした。
ケーブルカーで途中駅まで行き、そこから滝まで三十分、山頂まではさらにそこから一時間程度のお手軽コース。

「そうだ、ごめん。コンビニ寄っていい?」
「いいですよ」

夏輝くんはコンビニに入ると、おにぎりと菓子パンを手にしようとしていた。あれ俺、言ってなかったっけ?それともこれがおやつだったりするのか?

「俺言いませんでしたっけ」
「ん?」
「お昼なら持ってきてますよ」
「?うん、そっか?」
「ん?」
「え?なにどういうこと?これ俺のよ?」
「だからお昼持ってきてますって」

たまに夏輝くんとは、こういうやり取りが起きる。お互いに言葉足らずなんだろうな。

「夏輝くんのお昼も、持ってきてます」
「!?なんで!!」
「え?だから山頂でカップラーメン食べようって話しましたよね?」

この前のお昼休み、山に行きたいと言ったときにその話したじゃんか。

「したけど、それは律がってことかと思ってた」

えええ、そう受け取ってんのか。

「なんで一緒に行くのにわざわざ俺だけ……俺だけのためにお湯沸かすんですか」
「ええ~そうだったの……」
「嫌ならいいですけど別に」
「なんでよ、食べたいに決まってんじゃん!ありがと!!」

いそいそと陳列棚に商品を戻しに行くその後ろ姿に、うらめしい視線を送った。

俺は結構楽しみにしてたんだ、一緒にカップラーメン食べるの。これはもう寒い日の醍醐味だし、だからいつもより少し重いリュックだって……

…って、なに言ってんだ俺。

「律ごめんね、行こ?」
「……はい」

あーあ……重いなぁ……。


紅葉シーズンも終わって、山は静かだった。それほど人気の高い山じゃないのもあって、人はまばらだし、木々も葉を落としてすっかりさみしいかんじになっている。

夏輝くんはケーブルカーを目の前にまず大騒ぎして、乗ったら乗ったで大騒ぎして、ケーブルの駅に着いたら今度は景色に大騒ぎしている。
こんなさみしげな山には、夏輝くんの存在は必要不可欠に思えた。だって全然、もの悲しさとか感じさせないもん。

「夏輝くんは感性豊かですよね」
「なに急に。先生みたいなこと言うじゃん」

先生て。なんの先生だよ。

「いいなと思って。なんにでも感動できるの才能ですよ」
「ええ~なんかばかにされてる?」
「なんでそうなんの」
「うそ。ありがと」

たぶん、夏輝くんならできるんだろうな。会ったこともない昔の人に思いを馳せて、その思いを汲むこと。俺がその感性を持ってこの指を動かすことができたなら、もしかして立派なピアニストになれていたんだろうか。

……なんてことを考えてしまうくらいには、俺は夏輝くんのこういうところが、すごく、うらやましい。

「うっわ、すげー!!滝じゃん!!」
「滝ですね」
「マイナスイオンだっけ、浴びてるかんじするよ」
「……水しぶきじゃないですか?」
「風情~~」

ああでも、夏輝くんといるときの俺は、結構いいんじゃないかと思ったりする。

三代山の滝、何度も見たことあるのに。今日はやけにそれが迫力あるなぁとか水の音けたたましいなぁとか、感情が少しだけ動くかんじがする。たぶん、夏輝くんに引っ張られてるんだ。

「律は本当、山が好きなんだね」
「普通ですよ」
「デート誘って、山のプレゼンされたの初めてだよ」

それは……そうなの?一般的なデートってもっとこう、雰囲気あるとこだったりするのか??俺なんにも考えないで、自分の行きたいところそのまま言っちゃったよ。

「すみません……慣れてなくて」
「いいよ、俺もまた律と山行きたかったし」

「俺一人じゃまたおかしなことしそう」と夏輝くんは頭をかいた。最近はあんまり思い出さなかったけど、あの日の夏輝くんは史上まれにみるポンコツだった。

「あの日の夏輝くん、今と別人みたいでした」
「でしょうよ。傷心中だもの」
「ふふ……おにぎり、落としたり」
「だーっ!忘れてよ!」

照れてんのかな。めずらしく焦った声。前歩いてて顔は見えないけど、なんかそんなかんじする。

「もうすぐ山頂ですよ」
「はぁい」
「あとちょっと、あとちょっと」
「えなにその掛け声」
「え?」

なにって、励ましてるつもりなんだけど……?そんな盛大に笑われることか?

「なんで笑うんですか」
「だって律、子どもみたい」

なっ……!!その台詞、そのまんまお返ししますけど!?さっきまでケーブルカーにおおはしゃぎして、滝からマイナスイオンがどうたらとか言ってたくせにさ。

「夏輝くんのが子どもでしょうよ」
「え~俺先輩だけど~」
「先輩って言ったら怒るくせに」
「なんだって??」

くるりと向いた顔、いたずらっぽいその笑顔、俺しらない。

また頭のなかが音で溢れてく。夏輝くんといると、俺の頭はだいたいうるさい。音で溢れてる。でもそれは、綺麗な音ばっかりじゃなくて、しかも突然聞こえなくなったりもするし、それが最近はちょっと気持ち悪かったりもするんだけど。

「ついた〜」
「やっっほ~?」
「やまびこ好きですね」
「ここなら返ってくる?こない?」
「どうかな、うーん」

俺はリュックから、ガスバーナーとクッカー、それにペットボトルの水を取り出した。

「律、そんな大きいペットボトル背負ってたの?」
「はい?お湯沸かす用ですよ?」

二リットルのペットボトル、飲むと思ってんのかなこの人。

あっ!?そういえば夏輝くん、コーヒー飲めるのかな、なにも聞かないで普通に二人分持ってきちゃったけど……でも前甘いの苦手って言ってたよな?

「夏輝くん……コーヒー飲めますか?」
「え?うん」

よかった……セーフ。俺は本当、相手に聞くってことを覚えないといけないな。

「よかった。ごはん食べ終わったらにします?それとも先飲みたいですか、寒いし」

とぽとぽとクッカーに水が注がれる音が、やけに優しく響いていた。……俺の話、またおかしなかんじで伝わっちゃってる?

「夏輝くん?」

顔をあげたとき、夏輝くんはたしかに俺を見ていたはずだ。だって瞬間目が合ったもん。なのになんで逸らす?ていうか、質問の答えは…?

「…?あっ、コーヒー夏輝くんの分もあります」

これか?また俺の主語がなかったから??

「ねえ律」
「はい」
「いつもなに食べてる?」
「……は?」

なに言いだすんだこの人は。

「なに食べたら律みたいになんの」
「俺みたいとは……?」
「やさしい。優しすぎて俺は今とてもやばい」

は………?な、な、なんて???え???

「……なにを……言ってんですか……?」
「だって普通にやばいでしょ、水とか絶対重いじゃん」
「重くないですよ、いつものことです。もっと重いこともあるし」
「いやいやでもさ、俺のリュック超軽いよ」
「夏輝くんは初心者ですし」
「ほらぁ~それ~~」

「そんなに甘やかさないで」とこっちを向いてくれた夏輝くんは、二つ分のカップラーメンの封をきってくれた。

甘やかしてなんかないけど、むしろそれは俺のほうだし。罰金制度のやつだって、結局夏輝くんが水曜日に倍返ししてくれちゃうし、昼休みのピアノだってそうだ。俺が憂さ晴らしにやってることに付き合ってくれて、しかも俺の欲しい音をくれる。言葉をくれる。

全然、俺のほうが甘やかされてるのに。

「ごはん先でいいんですか」
「ハイ」
「あ、おにぎりありますよ。潰れてないといいけど」
「おにぎり……?」

なんだ、今度は……?なにが好きかわかんないから、あの日と同じ鮭にしちゃったんだけど、まずかったか?そんなに大きな目を向けられると、まったく自信がなくなる。

「鮭とすじこ……どっちか食べれるのありますか?」

今日でよくわかった。俺はとにかく、一人で突っ走りがちなんだ。相手の意見を聞く余裕をもて……!

「好き」
「はあ、ならよかった。俺ちゃんとこれからは事前に聞きますね」
「すきです」
「ふふ。俺もすじこ好きで。父の実家が山形で、祖母から送られてくるんですよ」
「なるほどぉ……」
「あ、お湯沸いた」

醤油味のカップラーメンと、この塩味たっぷりのすじこのおにぎり、本当合うんだよな~。夏輝くんも好きになってくれたらいいな。俺にとってこの組み合わせは、冬登山の定番だから。

「いただきます」
「いただきますっ!」

湯気もっくもく。吐く息とまざって、ほんわかした気分になる。いやめちゃくちゃ寒いは寒いんだけれども。

「うまっ!」
「ね、山頂で食べるカップラーメン最高なんですよ」
「これやみつきになっちゃう、最高」
「よかった」

登山なんてムードもなにもない……デート……?だけど、少しは楽しんでくれてるかな。俺だけじゃないといいな。

「律のおにぎりおいしい!」
「俺のって。ただ握っただけですけど」
「前もらったときも思ったの、まじうまいよ」

なんの変哲もないただのおにぎり、そんなにほめてくれなくたっていいのに。本当、大袈裟な人だ。

「……むう……」
「どした?」
「たしかに、おいしい」
「だろ?律のおにぎり売れるよ」

なんでだ?たしかにおいしいぞ。山形のばーちゃんから送られてくるすじこ、別名『贖罪すじこ』がこんなふうに活躍するとはな。家で俺しか食べないんだし、今度夏輝くんにもおすそわけしようかな。今回の本当おいしい。

山頂からの景色は感動するほどの絶景ではないし、山の木々ははげちゃってさみしいかんじだし、もっといい時期の三代山、知ってるのにな。なんか今日の三代山はすごく、いい。帰りたくなくなる。

「律、おにぎりもいっこ食べてもいい?」
「どうぞ」
「ありがと~」

誰かと山登るの久しぶりだから、それでかもしれない。一人より二人のほうが楽しいって、父さんもよく言ってた。

「……夏輝くん」
「ふぁい」

口もごもごして。入れすぎだよ。

「今日、一緒にきてくれてありがとう」
「!?なに、急に」
「なんとなくです」
「そんなの、俺のほうこそだよ。全部用意してくれて、ほんとにありがと」

夏輝くんの手、つめたっ。ほんの少し頬に触れただけなのに、びくっと肩をすくめてしまうくらいに冷えている。

「……っ!?コーヒー、はやく淹れましょう。寒いですよね」
「いいよ、まだ」
「でも」
「いいから〜」

………手、ださないって言ってなかったか?

夏輝くんの大きな手が、俺の手に重なっている今これ。『手をつなぐ』って言うんじゃなかったっけ……?

うわ、まただ。頭のなかの音が、めちゃめちゃになる。


年が明けて二日。夏輝くんと会うのは終業式の日以来だ。

「あけましておめでとう」
「おめでとうございます。今年もよろしくお願いします」
「こちらこそ~」
「というか、ほんっとうにすみませんでした」
「あは、クリスマス?」
「です」

俺でも知ってる。恋人たちの一大イベント、クリスマス。(仮)とはいえ、夏輝くんと俺も一緒に過ごす約束だったんだ。なのに、俺ときたら……。

「風邪は誰でもひくよ、しゃーない」
「すみません……」

前日に四十度近い高熱を叩きだし、予定をドタキャンする始末。夏輝くん、イルミネーションが綺麗なイベント探してくれてたのに。本当、自分で自分を呪った。

「律の弱った声聞けたのはレアでしょ」
「弱ったって……俺よく覚えてませんし」
「なのにわざわざ電話くれるなんてね〜?」

にやりとわざとらしく見つめられると、ぐうの音もでない。俺が一番びっくりしてる。意識朦朧とするなか、まさか夏輝くんに自分から電話してるだなんて。恥ずかしすぎて消えたい……。

「ほらお賽銭用意しときな?もうすぐ順番だよ」
「……ハイ」

財布にたくさん入れてきた小銭から、五円玉を一枚とって、ようやく目前に見えてきた賽銭箱に狙いを定めた。

行列に並ぶ間も結局夏輝くんと話してて、お願いごと決められなかった。そもそも、神頼みってあんまり好きじゃないし、でも夏輝くんは毎年ここへ参拝するっていうから……。

「どうしよ、夏輝くんもうお願いごと決めたんですか」
「え?ううん」
「え!?」
「お願いごとって俺ないんだよね~だから今年もよろしくっていつも言ってる」

神様に今年もよろしくって言うの……??……ふうん……?

「俺もそうしよ」
「律はお願いごとあるでしょ」
「え?」
「背が伸びますように」

な……っ!?そのいたずらっ子みたいな顔、やめてほしい。身長いじりもな。

「まだ成長期なんですけど」
「長い成長期だなぁ」
「っ!自分がちょっと背が高いからって……」
「んん?なんだって??」

最近の夏輝くんは、ちょっと意地が悪い。意地悪っていうより、意地が悪いってかんじだ。

「背が伸びますようにっ」

やけくそに俺が口に出すと、夏輝くんは「声にだしたら叶わないんじゃない?」なんてしれっと言いやがる。

本当に、本当に……っ!!

「意地が悪い……!!」
「いじわるって言わないとこがかわいいんだよな〜」

何食わぬ顔で、なんてこと言ってるかわかってんのか、この人??

背が高いほうではないとはいえ、もうすぐ170cmだぞ、別に特別小さいわけでもない。顔だってかわいい系とは真逆じゃん。いっつも冷たそうって言われる。そんなやつに。このぬぼっとした冴えない男に向かって。

かわいい、って、おかしいだろうが。

「夏輝くんはやっぱり変だ」
「あんだって?」
「変な人」
「言うじゃん、やっちゃうよ?」

なにをやるってんだ、そんな綺麗な顔して、まったく。

参拝の列を抜けて、おみくじやお守りが売っている場所まで出ると、そこは一層人でごった返している。

そんなにここに留まる理由がさっぱりわからないが、あちこちで「せーのっ」なんて浮ついた声や、鈴の音が聞こえるのだから、たぶん俺がおかしいんだろうな。

「おみくじ引く?」
「夏輝くんはいつもどうしてるんですか?」
「ひかない。むだに運使いたくないもん」
「……ふふっ。一緒」
「律も?じゃあいっか、ここ抜けて出店んとこまでいこ~」

なんか、こういうの、たまらない気持ちになる。ずっと知らない場所で知らない人と生きてきた知らない人だったのに、こう……重なる瞬間、っていうのかな。

ああだめだ、俺はやっぱり言語化が壊滅的。いつもかわりに頭のなかで音が鳴ってくれるのに、夏輝くんといるとなんだかそれもままならないし。

「え、ちょ」
「迷子にならないよーにね」
「……子どもじゃないんですけど」
「ん、俺が。俺が迷子にならないように~」

あーあ、かなわない。しかたないよな。背も高いし手も大きいし背中も大きいし、全然、迷子になったってすぐに見つけられそうだけど、まあしかたない。この人は抜けてるところあるし、危なっかしいからな。

手、繋いどいてあげるか。


三学期が始まり、いつものように第三棟の音楽室で一生どうでもいいような会話を交わしていたときだ。

夏輝くんは、いつのまにか大学に合格してたらしい。俺が聞くまで教えてくれなかったのは、ちょっと不満。

「なんで言ってくれないんですか」
「だって律、大変そうな時期だったんだもん。おまけに熱だすし」
「それは……そっか」

クリスマスの前には、幡野先生の音楽教室のクリスマスコンサートに呼んでもらっていたし、やっと身体が空いたと思えば熱を出したのは俺だ。……気つかわせちゃったな。でも一応彼氏(仮)なんだから、一言くらい報告欲しかったけど。

「リベンジしたいんですが」
「なんの?」
「クリスマスですよ!」
「ええ、リベンジって」

ずっと考えてたことだ。夏輝くんがイルミのイベントの候補をいくつも出してくれたの、たくさん調べてくれたからだろ。それ全部俺が無駄にしちゃったわけだし。おまけに大学も決まったんなら、なおさら。

「クリスマス兼夏輝くんの合格祝いです」
「いいよ、そんなの。大した大学でもないんだし…」

ぽーんと夏輝くんが鍵盤をたたく。レの音。そのあとずっと、ドレミを繰り返している。夏輝くんの音は、ドレミなんだな。

「……俺がしたいんですけど」

ドレミドレミ……チューリップのうた、弾きたいのかな。

…………あ、俺いま、なんか言った??

夏輝くんの大きな目がこちらを向いている。たぶん言ったんだ俺。とんでもないこと。心の声を。

「や、あの」
「律の食生活、まじで真似しようと思ってんだよね」
「だから……」
「ありがと。じゃあお願いしよっかな」

あーあ、もう!!夏輝くんにまた余計な気を遣わせてる!!ばか!!俺のばか!!押しつけがましい!!

「ご、ごめんなさい俺」
「なんでぇ。嬉しいよ」
「……」

そんなこと言ってくれるけど、眉毛、八の字になってるじゃん。頭ぽんぽんってやってくれるの、いつもより長いじゃん。いたたまれないんだろ、(仮)の分際でお祝いとかリベンジとかさ……。

「……きえたい…」
「はあ?なに病み期?」
「有馬……お前はいいな、快活だ今日も」

じめじめした俺とはまるで正反対……。
クラス中に聞こえそうなくらいの声量でわははと笑い声をあげた有馬に、ばしんと左肩を叩かれた。声もでかいし、力も強すぎ、こいつ。

「いって」
「結木は最近あれだな、情緒不安定だな!」
「やめろ」

女子みたいじゃんか。まあ自分で思わないこともないが……。

「もしかして、ナツ先輩絡み?最近よく一緒にいるよな」

ぎくっとした。最近、明け透けになっているのは俺も薄々感じていた。昼休みだってほぼ毎日になってしまっているし、水曜日はいつも時間をずらして帰っていたのに、三学期に入ってからは普通に同じ時間に帰ってしまっている。

右手に持ったシャーペンを無意味にくるくると回してみる。全然、なんにも焦ってませんよってアピールのために。

「ああ~ピアノ好きみたい?」

嘘では、ない。

「そうなんだ、意外だな。ナツ先輩って派手だから、結木といるの結構話題になってるし」
「もうやめろ、お前それ以上しゃべるな」
「なんで!?」

これ以上情緒乱されたくないからだよ……っ!!

「この間だって女バスの後輩が言ってたぜ。推しカプになりそうなんだって」
「?おしかぷってなに」
「な、俺も聞いた!推しのカップルだって!」

か、か、か、かっぷる………!?
明け透けどころの騒ぎじゃなさそうだ。一刻も早く夏輝くんに報告しないと……!

「なんだろな~じめっとした湿度がいいのかな~いや結局顔?」
「はあ?」
「結木の隠れファンって多いじゃん、俺もファンほしいんだよ!!」

こいつ、さっきからどうした。頭のネジ一本落としてねえか?バスケ強豪チームの主将のお前が、モテないわけないだろうが。記憶喪失??

「有馬、しょっちゅう告られてんじゃん」
「告られるのと!ファンは!ちがうでしょうが!!」
「なに言ってるのかわかりません」
「俺は付き合うとかじゃなくて、応援してほしいの!陰でキャーとか言われてたいの!」
「……変わった性癖なんだな」
「性癖じゃねーよ!」

有馬も疲れてるんだろうな、おつかれ。病み期は俺だけじゃないってことか。安心したわ。

……じゃなくて。夏輝くんに言わないと。(仮)とはいえ、バレたら絶対迷惑かかるもんな。

みんなの憧れが、こんな湿度の高いぬぼっとした男と、そんなおかしな関係になってるなんて。

「ええ、律、それはちょっと違うんじゃ……」
「え?」
「カップルってカップルだけど、その……本気のやつじゃないっていうか」
「本気と冗談のカップルがあるんですか」
「えっとなんて言えばいいんだ……?」

夏輝くんは散々頭を悩ませたあと、「コンビみたいな?」と非常にわかりやすく教えてくれた。

「なるほど、コンビ愛ってやつですね」
「うん?まあ、そうかな?」
「コンビか……それならまあ、合点がいくというか」

俺は最強の引き立て役になれてる自信がある。夏輝くんの輝きがいっそう増して見えるだろうな、俺が隣にいたら。

「でもそうだよね、律に迷惑かけちゃってるね」
「え?」
「ちょっと俺も気ぬけてた、ごめんね」

ごめんねって、別に俺はいいんだけど。困るのは夏輝くんじゃん。

「それより夏輝くん、行きたい場所考えてくれましたか」
「急に本題入るじゃん」
「あ、すみません」

だって、待ち遠しくて。よく考えてみたら、俺は夏輝くんの好きなもの全然知らなかった。クリスマスプレゼントだって、当日会って一緒に選ぶしかないって結論に至るくらい、考えてもなんにも浮かばなかった。

夏輝くんがいつも俺に合わせてくれてたことに気がついたら、いてもたってもいられなかったんだ。

「水族館、なんて、どうでしょうか」
「……水族館」
「あ、いや、あんまりなら別のところも考えてて」

水族館か……!

「俺、行ったことないです」
「え!?」
「めっちゃ行ってみたい」
「よかった~。じゃあ行こうよ」
「はい。あとは任せてください」
「え、いいよ、一緒に決めよ」
「いやいや」
「いやいやいや」
「だってこれリベンジですし、合格祝いですし」
「クリスマス任されてたのは俺ですよ」
「……いやいや」
「いいじゃん、一緒に決めるの楽しいじゃん絶対」

絶対、って言いきってくれるところがさすが夏輝くんだ。そしたらもう俺、これ以上なにも言えないもんな。夏輝くんが言うならそうなんだろうなって、納得しちゃう。

「……じゃあ、お言葉に甘えて」
「甘えてこ、甘えてこ」

本当、かなわない、この人には。


家から電車で二時間。夏輝くん一押しだという島原水族館は、調べたところによると、あの白岳山から見える海の近くらしい。

たった二時間で来られるなら、もっと早く来てみればよかったな。山から見下ろすと遥か遠い場所みたいに見えるのに、案外近いもんだ。

ホームの階段をのぼり、言われたとおりの南口改札を見つけようと顔をあげたときだ。『南口』という看板を見つけるよりも先に、出口がわかった。

改札前の一番端っこの柱にもたれかかってるあの人。放つオーラが常人じゃない。俺の彼氏(仮)。

デートのときは決まっていつもそうだ。夏輝くんは絶対、改札の中で待っててくれる。俺はそれがどうしようもなく嬉しかったりするけど、それ言ったらまた大袈裟とか笑われるから、結局たぶん最後まで、言えないままなんだろう。

「夏輝くん」
「あ、おはよ~」

まだ眠いのかな、いつもより語尾の伸ばしが長い気がする。

「眠いですか?」
「いや…まあ、ちょっとだけ?」
「朝早かったですね、お昼くらいにすればよかったかな」
「違う違う。昨日あんまり寝られなかったの」
「引越しの準備?」
「ちーがーうー」

なんだ、もう。そんな勿体ぶって。オール自慢でもするつもりか?

「……今日、たのしみだったから」

………………ほう……?

真っ白な頬がほんのりピンクにみえるのは、たぶん俺の願望。それか照明のせいとか。あと今日すごい寒いし。な。

「な、な、なるほど」

なるほどって。おい俺、どもるな。なに引っ張られてんだ。

「じゃ、じゃあいきましょう、ね」
「はぁい」

結局最後に笑われるのは俺のほうだ。まったく、本当に!!

「律〜?いこ?」

マフラーに顔を埋めた夏輝くんが、俺のほうを振り返ってくれる。それで当たり前みたいに手、差し出さないでほしい。反射で握っちゃうじゃん。だってもう何度も、そうしたんだから。

「……はぁい」

どうして夏輝くんは、俺に手を差し出すんだ。俺と手つなぐの嫌じゃないの?繋ぎたいの?そんな顔向けられたら、俺、勘違いしそうになるよ。


「律!あれ見て!」
「ん?どれ?」
「あの岩のとこ、うねうね泳いでるドット柄のやついるじゃん!」
「ああ、はい、いますね」
「エポーレットシャーク!かわいくない?あの子岩場に隠れがちであんまり会えないんだよ!」

……エ、エポットシャーク?シャークってことはサメ?正直それっぽいの今目の前にもいるんだけど、たぶん違うんだよな?俺、見分けつかないんだけど……。

「あの顔がかわいいんだよなぁ」
「夏輝くん」
「ん?」
「これ……これはなに?なんとかシャークとは違うの?」
「え、うそでしょ。これトラフザメだよ、全然違うじゃん」

全然違う言われたが。え、ほぼ一緒じゃない?個体差レベルの違いじゃない??

「ほら、展示の写真見てごらんよ」
「はい」
「まず模様が違う。エポーレットシャークはこの大きい丸模様がかわいい。あとはトラフザメより小さいくてにょろっとしてるんだよ、ほら、またあそこ、でてきたよ」
「ああ……なんとなくわかるかも」
「でしょ、かわいいでしょ」

かわいいかは……別問題だけど。どちらかといえば夏輝くんがかわいいことになってるぞ。やたら詳しくて目キラキラさせて、博士ちゃんか。

「あとほら、あれ。電車で行ける範囲の水族館だと、ここでしか見れないんだよ」
「ほお」
「あのひげみたいなのあるじゃん、あれがさ……」

いやまあ、正直全部似たり寄ったりで、たぶん一人で来たらわからないんだけど。でも夏輝くんがこんなに饒舌なの、滅多にないだろう。許されるなら動画にでも収めておきたいくらいだ。

「だあっ、ごめん」
「ん?」
「俺オタク化してたね…」

いまさらしゅんとしたって、もう見ちゃったし、手遅れっていうか。

「オタクっていうか飼育員さんでしたよ」
「はっっず」
「魚類を『あの子』って言うの、飼育員さんぽい」
「魚類て……その呼び方、血も涙もないな」
「魚類でしょ、魚だもん」
「やめてよ、うちのかわいい子たちに」
「ふははは」

夏輝くん、魚が好きだったんだなぁ。それにしても、かなりマニアックな知識持ってる。小さい頃から好きなのかもしれない。さっきあっちにいた、小さい図鑑持って水槽の前に張り付いてた子に、夏輝くんの幼い頃を重ね合わせてしまう。

大きな水槽の中を悠々と泳ぐ魚たち。それを子どもたちと同じ目で追ってる夏輝くん。学校では派手なグループの真ん中にいて、いつも華やかな人たちに囲まれてる、秋風みたいに爽やかな人気者。

……俺の隣にいるときだけ、こうだったらいいのに。

「律やばいよ!イルカショー場所取りいこ!」
「そうでした、いきましょう」

ずっと、こうだったらいいのになぁ。


「ねえ夏輝くん!びっしゃびしゃ!どうしよ!」

もはや笑えてきた。なにイルカって、すっごい意図的に水ぶっかけてくるじゃん……!

「あはは!しょっぱ!」

そうか、あれ海水か。ってことはつまり……

「……べったべた」

海に飛び込んだのと一緒だもんな……。いや、なんとなく予感はしてたんだ。だって売店でカッパ売ってるしさ。でも夏輝くんが言ったんだよ。

『大丈夫大丈夫!ここならギリ濡れないって!』

……どこがだ!!

「めずらしく律が擬音ばっかり……」
「誰のせいだ」
「あは、すみませ~ん」
「絶対思ってないですよね、知ってたでしょ」
「うーん、微妙なラインを攻めてみたんだけど、今日は張り切ってたんだろうね」
「だれが?」
「イルカが」

びしゃびしゃになったロンTのすそをぎゅっと絞れば、びちゃびちゃと水がしたたり落ちる。まだまだ絞れそう。

思い返せば水族館に入ったときからおかしかった。「中は暑いかもだから上着預けちゃおうよ」……寒がりの夏輝くんが言いだしたんだもんな。

こんな真冬に、なんで海水まみれにならなきゃいけないんだか。髪の毛だってぱりぱりになりそうだし。

「……ふっ、はははは」
「やべ、怒らせすぎた?」

ほんとだよ、まったくさ。

「おかしいよ、真冬にこんな濡れてんの。夏輝くんのせいだ」
「ごめんて~着替え持ってきてるから~」
「ならカッパ買えばいーじゃん、もう」

本当、変な人だ。夏輝くんは。

「だって、見たかったんだもん。律がびっくりする顔?」

俺は夏輝くんといると、大抵驚かされてるよ。気付いてないの?だいたい、初めて会ったときからそうじゃん。ずっと、本当にずっと、夏輝くんの隣は刺激的だよ。

「……へんなの」

夏輝くんが貸してくれたパーカーは、たぶん、あの日のグレーのやつだ。


「ねえ律。海いかない?」
「?近いんですか」
「すぐそこだよ」

一日水族館を満喫して、夜ご飯の前に海に行くだなんて、これが本物のデートってやつか……。俺の登山プレゼンとはそりゃ大違いだ。はずかし。

夏輝くんに手を引かれるまま着いた海岸は、まあ、とにかく……

「さっっっむ!」

言いだしっぺがそれ言うか。

「やっぱかえろっか……」
「……いや、ちょっとだけ。海、久しぶりにきました」
「そう?じゃあ……なんかごめんね」
「イルカショーに比べれば全然ですよ」
「ごめんて!!」

自分が巻いてたベージュのマフラーを、俺に巻こうとしてくれる夏輝くん。ふわっと香る夏輝くんの匂いが潮の匂いとまざって、なんていうかすごく、もどかしい。

「いいですよ、夏輝くん寒いじゃないですか」
「いーの。俺も前に律からカイロもらったじゃん」

ああ、そんなこともあったな。

「律、あのカイロまだあるって言ってたけど、全部くれたでしょ?帰り、手真っ赤になってたじゃん」
「……そうでしたっけ」
「そうでした~」

そんなこと、まだ覚えててくれるんだ。

波の音をBGMに、手を繋いで砂浜を歩く。俯瞰でみればドラマのワンシーンみたいなんだろうけど、現実はスニーカーの中にたまってく砂が不快でしょうがないし、波の音はかなり騒々しい。

そんなこと、今日まで知らなかった。海水浴以外で海を訪れるなんて選択、俺にはなかったからな。

やだな、夏輝くんの体温が残ったマフラーは、妙な気持ちにさせてくる。

「この海なのかな…ちゃんとわかんないですけど、白岳山のあの場所から見える海、ここらへんらしいですよ」
「え、そうなの」
「……まさか、あの海に自分が行くことがあるだなんて思わなかった」

夏輝くんといると、そんなことばっかり起こる。自分では鳴らしようもないような音が、簡単に鳴る。

「俺、この海はよく家族できてたんだ~。昔の話だけどね」
「そうなんですか」
「兄貴と父親と、あっちの岩場でカニとかつかまえてさ」
「夏輝くん、野生児だったんですね」
「野生児!?そんなんじゃないけど、夏はよくきたんだよ。父親がそういうの好きで。釣りとか」

ああ、それで、魚?

「俺んち母親いなくて。男三人で、朝から日が暮れるまでずっとここにいたの」

まるでその言葉を再現するみたいに、水平線に太陽が沈もうとしていた。海岸が真っ赤に染まる。

「なんか……うまく言えないや。でも俺もそうだよ。またここに誰かと来れるなんて、思ってなかった」

夏輝くんの綺麗な横顔が、その赤を背負っている。俺の嫌いな赤が、すごく綺麗だ。また全然しらない音が、頭のなかで鳴り響く。

「律のおかげ。ありがと」

ああ、全部、このまま閉じ込めておきたい。

「……こちらこそなんですけど」
「ツンデレかよ」
「ふふっ…はい、これ」
「え?」
「お祝いとか言えるような物じゃないですけど、よかったら」
「……あけていい?」
「えっやです。帰ってからにしてください」
「なんでぇ」

だってそんなの。目の前でハズした反応されたら、どんな顔したらいいかわかんないじゃん……。

つい自分のものみたいに、夏輝くんのマフラーに顔を埋めてしまった。やばいやばい、べたべたくっついたら困る。

「律~~」
「なんですか」
「……りつ?」
「え、なに」

プレゼントを渡すためにいったん離した手が、また繋がれた。

……どうして、そんな目で、縋るみたいな目で、手を繋いでくるの。そんな目されたら俺……。

「……気付いてる?」
「…………はい」

「今日で、三か月だね」


日が沈んで、真っ赤じゃなくなった海岸が薄暗くなってきていた。なのに空の色が、おそろしいくらいに綺麗だったんだ。

これは何色っていうんだろうな。山で見る朝焼けとも違う色。濃い紫のグラデーションみたいな。魔法みたいな色。

「……マジックアワーっていうんだって」
「え?」
「これ。空の色。太陽が沈んで暗くなるまでのほんの少しの時間」
「マジックアワー……」

まじで魔法じゃん。

「兄貴が絵描く人なんだけどさ、よくこの時間狙って連れてこられた」
「絵描く人なんですか」
「そう。もうすげーよ、俺は芸術とかわかんないから、兄貴の絵はぜんぶ阿修羅にみえる」
「阿修羅って」

こうやってずっと……いやずっとは欲張りか。まだあとちょっと、(仮)でいられるかなって思ってたんだけどな。終わっちゃうのかな、この時間。

でもどうして、手、離さないんだよ。夏輝くん。

いま、どんな顔してるんだよ。

ありったけの勇気を振り絞って、俺は夏輝くんの方に顔を向けようとした。



「あれっ?結木じゃね?……え、ナツ……?」

その瞬間すれ違った男の人は、俺の名前の次に夏輝くんの名前を呼んだ。呼び捨てで呼んだ。

「……神山先輩?」

高校の二つ上の先輩。元バスケ部部長。有馬の先輩。何度か遊んだこともある…半ば無理矢理、有馬に連れられてだけど。

神山先輩……神山……

「ソウジくん……」

……そうだ。神山総二。

「なん、え?なんでナツと結木?お前ら繋がりあるんだ?」
「あ~いや……」

ソウジ、くん。あの日、夏輝くんが空に叫んでた人の名前。捨てようとしてた人の名前。偶然の一致なんてことは、まあ、ないだろうな。

「後輩だもん、そりゃ繋がりあるでしょ~」

そうだよな。一瞬で離された手が、答えだよな。

「ナツが後輩の面倒みてるの?意外すぎる……しかも結木じゃん」
「……お久しぶりです」
「有馬、元気にしてる?大学決めてないならうちこいって、何度も言ってんだけどさぁ」
「ああ……。有馬、バスケは高校までって言ってましたけど」
「なぁ。もったいないよ、俺はまだ諦めてないんだけど……」

あんたが諦めるか諦めないかは関係ないだろうが。

「ナツは?大学決まった?」
「まあ、うん」
「どこ?」
「言わな~い」
「なんでだよっ」
「それより、彼女。ほったらかしにすんなよ」

一瞬で離れた、夏輝くんと俺の手。しょうもない会話の間にも、固く繋がれたままの神山先輩と彼女の手。

「ナツ」
「なに~」

あーあ、もう。見てらんないよ。神山先輩はわかんないのかな。誰が今この人にこんな顔させてるのか。

「俺、ほんとに」
「てか寒すぎない?もう帰ろうよ」
「俺ほんとに悪かったって思ってて……!」

「先輩。彼女さん、鼻まっかですよ」
「あ、ごめん!!寒いよな!!」
「いいよ、久しぶりに会ったんでしょ?てか総ちゃんの友達にこんなイケメンがいるって、あたし聞いてないし~」

彼女さん、もっと言ってやれ。そうなんだよ、この人、谷野夏輝くんは、綺麗でイケメンで優しくて周りのことよく見てるし、おもしろくて一緒にいて飽きないし、包容力の権化で、いろんな音をくれる、ほんとに、ほんとにいい男なんだよ。

「総二くん。俺はほんとにもう大丈夫だから」
「ナツ……」
「じゃあ、ここで解散で。有馬に一応伝えときますね」
「あ、おう!ありがとな!」

ねえ夏輝くん。俺あの日のこと、後悔してるよ。

「……ごめんね、夏輝くん」

捨てなくていい、なんて、残酷なこと言ったんだな俺。

こんなの捨てたほうがいいに決まってた。夏輝くんのあんな顔、知りたくなかった。

あの日捨てられてたら、きっとそんな顔しなかったんだよな?

俺はなんにも、本当になんにも、わかってなかった。

「なんで律が謝るの~」
「……」
「てかうけるね、総二くんと律が知り合いだなんて思わなかったよ」
「……」
「……律?ご飯、食べ行こうよ。カニだよカニ」
「……カニ…」
「うん、カニ。あとは~小龍包とか」
「……フカヒレ……」
「あるある、中華だもん」

俺は本当に、なんにも、わかってなかった。ごめんなさい夏輝くん。しかもなんで今、俺がなぐさめられてんだ。ごめんなさい、ごめんなさい、夏輝くん。

あの日、ちゃんと捨てさせてあげられなくて、ごめんなさい。

まっくらになった海岸。手を繋がなくてもはぐれないのは、もう俺たちは大人だから。手を繋ぐ理由なんて、俺たちには最初からなかったんじゃないの?


「おいしかったね~」
「食べ過ぎました」
「律な!めっちゃ食ったね。小龍包好きなんだ?」
「あのフカヒレの小龍包おいしかったです」
「ふふっ、よかったね~」

やわらかい笑顔、ぱんぱんの腹、暖房の効きすぎた電車内。頭がぽーっとする。

「……夏輝くん、食べ方綺麗ですよね」
「ん?そう?」
「はい」
「はは、ありがと」
「あと……猫舌」
「だね、小龍包なんて鬼門だよ」

いちいちワードセンスがおもしろいなぁ。夏輝くん。

「夏輝くん」
「はぁい」

ああ、この返事のしかた、夏輝くんだなぁ。

「夏輝くん」
「なに~?」

もう、夏輝くん、だな。『ナツ先輩』なんて呼んでたの、ずっと昔のことみたいだ。

「席空いたよ、座ったら?」
「……ううん、いい。夏輝くんどうぞ」
「えー…いいや。俺たち若いしね」

このままがいい。ドアの端っこで、夏輝くんに隠されてるみたいなの。最後なんだからこれくらい、いいよな?もう今日が終わったら、この匂いも声も音も、なんにもなくなっちゃうんだから。

あーあ、もうすぐ着いちゃう。もっと遠くにご飯食べに行けばよかった。

最後……ちゃんと、言わなきゃな。

暗くなった外の景色は、嫌ってくらいに夏輝くんと俺を窓に映しだしている。自分がどんな顔してるのか、おそろしくて見られなかった。

「三か月間、ありがとうございました」
「こちらこそ。すげーたのしかった」
「俺もです」
「……楽しいこと、いっぱいしたね」
「はい」
「少しは力になれたかな」

力になれたかなって言われて、ん?って一瞬思ってしまった。この変な関係が始まったの、そもそも俺が『感情的になりたい』とか中二病みたいなこと言いだしたからなのに。もうそんなこと、すっかり忘れちゃってたな。

「……今日、海綺麗だなって思ったんです」
「うん、綺麗だったね」
「魚のこといっぱい教えてもらって。おいしそうって思わなくなったし」
「それは今までがどうかしてるねぇ」
「ふふっ……なんていうんだろう」

うまく、言葉にできない。ずっと頭のなかはうるさいのに。夏輝くんにこのまま聴かせたい。俺がいま、どう思ってるのか。言葉よりずっと上手に伝えられそうなのにな。

「形容詞を使う機会が増えました」
「どゆこと」

絞り出した言葉に、夏輝くんは歯をみせて笑ってくれた。最後にこの顔見れてよかった。

夏輝くんがみせてくれた、景色、色、味、感触、匂い、音。ぜんぶ。

「……宝物にします」

「律は大袈裟だなぁ」
「夏輝くんのがうつりました」
「俺ぇ?そんなことないでしょ」
「『デッドオブ』見に行ったときも、大袈裟なくらい驚いてました」
「ねえそれ忘れて!?」
「はははは」
「はははじゃないのよ」

あの映画、まだシリーズ続くのになぁ。
見るたびにきっと思い出す。あの日、みんなの憧れが隣でびくびく肩を震わせていたこと。
俺のニットを握りしめて、寝息をたてていたこと。
長い足が窮屈そうだったこととか。

きっと、一生、忘れられないんだろうなぁ。

「じゃあ」
「ん、気をつけてね」
「先輩も」

これで、終わりかぁ。



夏輝くんとの(仮)の関係が終わって、俺の情緒はおそろしいほどに落ち着いていた。

「結木、今日部活に神山先輩くるけど、お前も顔だす?」
「ぜっったいやだ」
「?お前かわいがられてたじゃん。この前も会ったんだろ?」
「偶然な」

神山先輩はなんにも悪くない。わかってるそんなことは。でも会いたくないもんは、会いたくない。「ナツは元気?」とか平気で聞いてきそうなんだもん、あの人。

同じ学校とはいえ、学年が違えば教室のフロアも違うわけで、しかも夏輝くんたち三年生はもうあまり学校にも登校しないから、本当に顔を合わせる機会はないまま。

偶然見かけたら挨拶くらいはできると思ってたけど、それもできないまま、夏輝くんは大学生になるらしい。……ああ、卒業式があるか。でもまあ、あの人気者だからな。卒業式に身体が空くことはないだろう。

あの日からずっと、俺の頭は静かだ。なんにも鳴らない。それも夏輝くんと出会う前に戻っただけのことだ。あの期間が異常だっただけ。すじこと鮭のおにぎりを食べて、第三棟の音楽室までわざわざ出向くのも、今までと同じ。ただ隣に夏輝くんがいないだけのこと。

「ああ、律くん。今日も?」
「はい……というかすみません。曲まだできてなくて」
「いいのいいの。焦らなくていいから。気軽な演奏会なんだしさ」

幡野先生は目を糸みたいに細くして、錆びれたピアノでショパンを弾いた。

「……先生は、ショパンの気持ちがわかるんですか」
「ええ?ちっともわからないよ?」
「え」
「ああでも、遺言の話は同情するけどね」
「出版されてない作品は捨ててほしいってやつですか?」
「そうそう。僕たちはおかげで名曲に出会えたわけだけど、ショパンの身になったら、不憫だよね」

幡野先生ががたんと席をたって、俺の方へ近づいてくる。

「じゃあ鍵ね。終わったら職員室へ」
「……はい。ありがとうございます」

ショパンの死後、彼の遺言は叶えられず、未出版だった作品は友人のフォンタナの手によって世に出る。

俺はこの話、ショパンのかまってちゃんなのかと思ってた。あんな名曲を捨ててくれだなんて、壮大なフリかよ、とか。けど、幡野先生はそれを不憫だと言った。それでその意味が、今はちょっとわかる……ような気がする。

誰にも気づかれず、捨てたいものってあるんだと思う。それが他人からみてどんなに綺麗なものだったとしても。

「……はあ…」

きっとあの日の夏輝くんも。ひっそり捨ててしまいたかったんだ。誰にも暴かれることなく。

でも俺はそれを暴いてしまったあげく、「捨てなくていいんじゃないか」とか言っちゃったわけだ。無神経すぎて反吐が出る。ていうか普通に、恥ずかしい。

自然と指が動いてしまう。夏輝くんが好きだって言ってたバンドの曲。

そんなものばかり弾いたって、俺の曲は完成しないし、誰にも届かないのに。夏輝くんはもう、ここにいないのに。

「ばかみたいだな……」

音が、鳴らない。


幡野先生の音楽教室主催のバレンタインコンサートが、すぐそこまで迫っていた。

「有馬~」

部活に向かう途中の有馬の背中を呼び止める。前から言われていたから、一応、な。

「お!結木!」
「演奏会やるよ」
「ん!?」
「前に次は誘ってって言ってたじゃん」
「え、まじ!?まじで誘ってくれんの!?」

なんだよ、まじじゃなかったのかよ。律儀に誘っちゃったじゃねえか。

「いややっぱいいや」
「なんでなんでなんで!?」
「うるさ……社交辞令だと思わなかったんだよ」
「いや社交辞令じゃないんだけど!?」
「……二月十四日。十一時からだけど」
「バレンタインじゃんっ」
「予定あるなら別に……」

じとっとした目で俺を睨む有馬。

「ないですけど?悪いですか?」
「お前最近カツカツだな」

彼女欲しいなら作ればいいのに。ああ、違うのか。この男、変わった性癖なんだった。

「結木のピアノさ、一回ちゃんとしたとこで聴いてみたかったんだよね」
「大したもんじゃないけどな」
「よく言うよ、楽しみにしてるな!!」
「……ん。よろしく」

有馬がどうして俺のピアノに興味をもってくれるのかは、いまだによくわからない。でもあいつの気持ち悪いくらい真っ直ぐな言葉は、俺の枯れ果てた自己肯定感を、ほんの少し潤してくれる。まあとりあえずやってみるか……くらいの気持ちにはさせてくれる。

あと少しのところで、まだ足りない俺の音楽。頭の音が鳴らなくなってから、その続きがずっと書けずにいる。何度書いてもなんとなく堂々巡りみたいな音になってしまう。……それでこういうことをうまく言語化できないから、先生にもアドバイスもらえないっていう、俺の悪いところな。

冬山……久しぶりに行ってみようか。『冬山なんて危ない!』って母さんが騒ぎ立てる姿は想像に容易いし、そうなると母さんが仕事の日にこっそり行って帰ってくるしかない。往復の時間を考えると、白岳山か三代山が妥当。三代山、今なら氷瀑みれるかもしれないな。

………山、なぁ……。


「さっっっむ……」

地元から二時間。降り立った真冬の海岸は、当然冷たい風がびゅーびゅー吹き付けて、寒いったらない。

どうしてわざわざ……でも、山じゃなかった。こんなこと初めてだ。よっぽど海に魅せられてしまったのか、俺は。

ぺとぺとと、なるべく濡れた部分の砂浜を歩いてみる。それでもやっぱりスニーカーのなかには、どんどん砂がたまっていく。

はあ……きもちわるい。

この辺りで知っている場所といえば、この海岸と島原水族館だけだ。

「おとな一人」
「二千百円です」
「ペイペイで」

ちゃりん、という電子音で我に返ったけど、もう遅い。

ほんとに俺、なにやってんだろな……。

「エポ…レットシャーク…」

エポーレットシャーク!とはしゃいでいた夏輝くんの顔が思い出される。夏輝くんの言うとおり、普段はあまりでてこないらしい。自分じゃ見分けがつかなくて、飼育員さんに聞いたらそう言われた。

夏輝くん、やっぱり飼育員さんじゃん。「岩場に隠れがちで~」って物言い、まんまだったぞ。

「イルカショー開演まであと十分で~す」

陽気な声に誘われそうになったが、これはやめとこ。今日濡れても着替えとかないし、カッパ買うのも馬鹿らしいし。またべとべとになるのは勘弁だ。

「くらげ……」

なんか言ってたよな夏輝くん。めずらしいクラゲがいるって。ああ、なんて名前だったかな……やばい全部そうっぽく見える。

あーあ。一人できたら、なーーんにもわかんないや。


結局、そううまくはいかない。当たり前だ。夏輝くんに会うまでだって、ずっとそうだった。

朝の海岸を散歩して、水族館に一人で入って、また夕暮れの海岸を眺めてみたって、音は一つも鳴らない。むしろ日が沈むときの真っ赤な海岸は、夏輝くんが隣にいないと普通に嫌いな赤だった。

赤はいやだ。なんとなく、終わりを連想させる。

夏輝くんは、今頃どうしてるんだろうか。まあ普通に、引越しの準備とか入学の準備とかか。

髪の毛、染めたいって言ってた。あの綺麗なつやっつやの黒髪、ちょっともったいないのに。ピアスもあけたいって言ってたっけ。俺にあけろって言ってたけど、その約束はまだ有効なんだろうか。ピアス……俺もあけたいなとか、思っちゃってたんだけど。

…………いや……いやいやいやいや。おれ、普通にきもくね……?

帰ろう、いますぐに。早急に現実へ。

慌てて帰りの電車に飛び乗った。……夕暮れ時の海は危険すぎるな。



そういえば今日は、あの魔法みたいな空にならなかった。マジックアワーだっけ。

条件があるのか調べてみようとスマホを手にしたが、『わかりやすく解説!』っていうページの冒頭でつまずき、そっとページを閉じたとき。

最寄駅の一つ前の駅に電車がついた。二つくらい向こうのドアから入ってきた人は、とてもオーラがあった。ごく自然に、そっちを向いてた。


………夏輝くんだ。


久しぶりにみた夏輝くんは、黒いマフラーを巻いてた。髪の毛は変わってなかった。左手の人差し指に指輪をはめてた。隣には、夏輝くんよりも少しだけ背の高い男の人がいた。

神山先輩だった。

『ソウジくんのばかーっ!!キスくらいさせろーっ!!』

あの日、そうやって叫んでたもんな。よかったね、夏輝くん。高身長同士、お似合いじゃん。

家に帰ったら、母さんはまだ仕事から戻ってなかった。ちょうどいいや、防音室こもれる。

音が溢れてとまらなくなった。

欠けてたところ、ようやく埋まりそう。いつも弾いてて思ってた。盛り上がりのない俺の曲。なんかわかった気がする。

「………できた」

早朝四時。やっと、できた。俺の曲。

音でぐちゃぐちゃだった頭のなかが、すっと晴れた。



「……ねえ律くん。これ、本当にあなたが?」
「え、はい」
「お母さんにはみせた?」
「いえ」
「そう……」

幡野先生(奥さんのほう)は、困ったとき口元に手をもってく癖がある。今もそれだ。だめっぽいな。

「律くん、これ演奏会で弾いてくれるのよね」
「先生がよければですけど」
「うん。最高。すっごく。楽しみにしてるわ!」

あ、そっち?最高のほうのやつなの??

「よかった……がんばります」

……うん。がんばろう。

バレンタインコンサートの日、母さんは仕事が終わり次第行くと言って、いつもより随分早くに休日出勤していった。そこまでしてこなくたっていいのに。俺は母さんの望むものにはなれないって、言ってるのにな。

「結木~!」
「あ、有馬」
「なに、すんごい決まってんじゃん!」
「そりゃ演奏会だから」
「かっけー!!ちょ、写真とらね?」
「やだよ」
「なんでだよっ」

決まってるって言ったって、コンクールじゃないしそこまでかちっとした服装じゃない。ただカッターシャツにジャケット羽織ったくらい……あ、髪か?さすがにぬぼっとしたいつもの感じじゃ失礼だから、多少流したりはしてるけど。

でも普通に、有馬のジャケット姿のほうが決まってる。……背が高いって、やっぱずるい。

「がんばってな!」
「おう……?ありがと」

有馬となぜかグータッチを交わし、ステージ裏へと向かう足取りは少し重い。先生は褒めてくれたけど、自分の曲を人前で演奏するのは今日がはじめてだから、やっぱり多少は緊張する。

でも、できたんだ。やっと。俺の、俺だけの音楽が。

スポットライトを浴びるのは、不思議と嫌いじゃない。俺とピアノだけに視線が注がれる時間は、結構特別に感じたりする。

『次はOBの結木律くんです。曲は、自身で初めて作曲に挑戦した「マジックアワー」』

ぺこっと頭を下げると、観客席から拍手が浴びせられる。それがやんで静まり返る会場に、俺が椅子を引くぎぃっという音が響いた。

この瞬間。俺が鳴らす一音で、この静寂を破る瞬間は、何年経ってもかわらずドキドキする。



ピアノは、いかに『俺』という人間が薄っぺらなのかを、何度だって突きつけてきた。譜面通りに弾くんじゃだめ、あなたなりの解釈は?どうして今、その音なの?……そんなん、しるか。

バッハ?モーツァルト?シューマン?ベートーヴェン?知らない、知らない。会ったこともなければ、同じ時代を生きたわけでもない。

同じ家に住む血を分け合った家族のことさえわからないのに、わかってくれないのに、太古の偉人の気持ちを汲むことなんて、できっこないだろ?

だけど、わかろうとすることが大切なんだと、幡野先生が言ってた。理解したいと思うことが、想像してみることが、大切なんだと。……さっぱりわからなかった。俺はバッハのことをわかりたいとも、知りたいとも思わない。バッハの音楽はそのままで素晴らしいのに、どうして俺なんかの解釈をいれるのか、さっぱりわからなかった。

ああ、なんか俺、欠落してんだなぁと悟った、中一の冬。母さんの眉間には深いしわができていて、父さんはまるで逃げるように、ヨーロッパの山に旅立った。

人として、たぶんすごく重要らしいなにかが欠落してる俺に、夏輝くんは何度も『やさしい』と言ってくれた。……ほんと、人たらし。あの人寒がりなのに、空調入ってない音楽室に、毎日毎日付き合ってくれた。やさしいのはどう考えても、夏輝くんのほうだ。

魔法みたいな色の空、マジックアワー。

あのとき俺、実はちょっと期待しちゃってた。

繋いだ手、ずっと離してくれなかったから。いつも引くくらい俺の顔のぞきこんでからかってくるくせに、あのときは、目、真剣だったから。いつだって俺よりひんやりしてた手が、ずっとあったかかったから。

でも、手は一瞬で離れた。どうせおわりなら、もっとすぱっとさくっと終わらせてくれたらいいのに。律儀に夜ごはんまで予約してくれてるしさ、そんなの、思い出にいらないんだよ。

……ていうかもしかして夏輝くんは、俺を思い出にもしてくれないのかもしれない。あっという間に忘れ去られて、神山先輩とか他の誰かにぜんぶ塗り替えられちゃうのかも。

あの二人が並ぶと、まるでモデルみたいだった。背が高くて、顔がしゅっとしてて、爽やかでからっとしてて。

わりと俺を肯定してくれる有馬にさえ、『湿度が高い』と言われている俺なんかじゃ、到底むりだ。夏輝くんにカビを生やしてしまいかねない。だからあれでいい。あるべき姿、あるべき場所に戻っただけだ。


なのに俺のなかにはずっと、濃い霧がかかったみたいな気持ちがある。その正体がわからなくても、この気持ちがなんとなく無様なことだけはわかってた。


こんな旋律を書けるのかと、自分でも驚いた。初めて浮かんだ、こんな感情的なの。

弾いてて、息がくるしくなる。心臓握りつぶされてるみたいに、ぐうって痛くなる。

まるで自分じゃないみたいな音楽。

夏輝くんは、俺にいろんな感情を与えてくれた。それはずっとわかってて、でも、こんなみじめな感情まではいらなかったのになって、ちょっとだけ恨んでる。

それもここで発散すれば、昇華すれば、きっとぜんぶ元通りになる。いらいらしたり、じめじめしたり、情緒不安定にならなくてよくなる。いつもの俺に戻れる。



…………あれ。この音じゃ、ない。

頭で鳴ってるの、この音じゃない。



ほんの一瞬、指がとまった。

『レ』夏輝くんのレ。なんの変哲もないただの『レ』。何度もたしかめるように、それを弾いた。

なんの変哲もないただの『レ』、レの音。


なんでこんなに、特別な音がすんの?


脳裏によぎる、あの日、夏輝くんにチューリップのうたを弾いてあげたときのこと。これなら弾けそう!ってうれしそうに、俺の指についてきた夏輝くんの長い指。

予鈴鳴っちゃって、慌ただしく教室に戻っていたとき、階段から転げそうになった俺を、いとも簡単に抱きとめてくれたこと。

ステージの隅に飾られた赤い花。赤。俺の嫌いな色。あの日、真っ赤な夕焼けと海を背負った夏輝くんは、綺麗だった。ずっと見てたいと思った。それでこのまま、閉じ込めておきたいと思った。

ずっと、あのままがよかった。



――……そっか。俺があのままがよかったんだ。


俺は、夏輝くんのとなりにいたかったのか。



演奏の途中で席を立った。客席に向かって勝手に一礼をした。この先は俺が鳴らしたい音じゃない。まだ俺は、なにも、一つも夏輝くんに伝えてない。

案の定、拍手してくれたのは一人、二人くらい。でもそれでよかった。勝手したことはあとでちゃんと幡野先生に謝ろう。

今日の天気は午後からの雪予報。どんよりとした空の色が、いまにも雪を降らせそうだった。なのに俺は、ばかみたいだ。ジャケット姿のまま、会場を飛び出していた。

はやく、夏輝くんに伝えたい。さむいってわかってる。でも俺の足は、鼓動は、止まってくれない。俺は恋すると、走り出したくなるタイプだったらしい。足遅いくせにな……。

『夏輝くん!』

三コール鳴る前に繋がった電話。もしもし、と電話に出てくれた夏輝くんの声は、少しかすれているようなかんじがした。

『夏輝くん、いまどこ?会えない?』

なんて一方的なセリフ。痛々しくってもう、目も当てられない。わかってるのに、とめられない。身体も心も、自分のものじゃなくなったみたいだ。

履きなれない革靴の音が、冬空に響いていた。

『律!』
『……えっ』

コツコツという革靴の音は、どうやら俺のものじゃなかったらしい。その音がどこから聞こえてくるのかも理解できてなかった。

振り向いた視線の先、夏輝くんがいた。


「なっ、えっ!?なんで?」

白いタートルネックのニット姿の夏輝くんは、ホールの入り口に立っている。あんまりにも儚げな雰囲気と信じがたい光景に、まじで幻覚かと一瞬疑った。

「有馬くんが誘ってくれたんだよ」
「ありま……?」

なんでそこで有馬がでてくるんだ、とハテナを浮かべてすぐに『総二くん』が思い浮かぶ。

「そうですか」

……じゃなくて。拗ねるな俺。言うんだろうが。

「律」「夏輝くん」

だあっ、声被った。

いつもなら先にどうぞって言うだろうな。でも今日は言ってあげられない。なんかきっと、ろくなこと言われない気がする。夏輝くん、そういう雰囲気ぷんぷんさせてる。ちょっとよれよれしてるし。

「夏輝くん、俺、」「演奏っ」

な、めずらしい……。お互いに譲らないなんて、今までにないパターンだ。たぶん夏輝くんも同じこと思ってる。目、まんまる。

「演奏、よかった」
「あ、はい……ありがとうございます」

冷静に考えてみれば、あの曲、あの演奏、夏輝くんに聴かれてたって結構まずいな。題名『マジックアワー』ってまんまじゃん。はっっっず。

「……いや!よくないですよ。俺途中で弾くのやめちゃった」
「ね。びっくりしたよ」
「……夏輝くん、俺、」
「待った」
「むがっ」

夏輝くんの大きな手に口を覆われてしまった。なんだよもう!はやく言いたくてしょうがないのに……。

「……言わないで」

………は?

「律のこと好きだよ」

……………は??

「だから律には、普通に幸せになってほしい」

………………はあ????

「ふぁふきくん」
「あ、口、ごめんね」

ようやく夏輝くんの手から解放された口元に、きんっと冷えた空気を感じる。いまの、あったかかったんだなとか思ってしまった。

「待って、普通にってなに?」
「普通に恋して、普通に幸せになってってこと」

……やばい、夏輝くんの言ってる意味ぜんぜんわかんない。

「俺が夏輝くんを好きなことは、普通じゃないの?」

今まで史上、いちばんわかんない。普通ってなんだかもわかんないし、俺の幸せは俺が決めることだろ。

それに俺が普通じゃないって言うなら、夏輝くんだって大概だ。お試し三か月で恋してみようとか誘ってきたの、そっちだろ。どう考えても普通じゃないよ。

「……律は恋愛経験ないから勘違いしちゃってるんだよ」
「はあ?ばかにしてる?」
「してない」
「俺は夏輝くんが好き、以上」
「おわらないで~」

そうやってすぐ気の抜けた喋り方するの、好きだよ。

「律の隠れファンが多いの、球技大会のとき知ったんだよね」
「あれただの冷やかしですよ、ださかわいいってやつでしょ」
「かわいいもん律」
「はあ?夏輝くんのほうが全然かわいい」
「………なんの話してんだこれ……」

口に詰め込みすぎな食べ方、かわいいよ。神様によろしくって言う男子高校生、夏輝くんくらいでしょ、かわいいじゃん。

「だから、俺が夏輝くんを好きだって話ですよ」
「ちーがーうー」
「なんもちがくない。てか俺の演奏聴いてました?わかりますよね、聴いてたなら」
「……わかりません、ぼく芸術肌じゃないので」
「ふざけないで」
「すいません」

そのしゅんっとした迷子の子犬みたいな顔、好きだもん。目が離せなくなる。わかんねえな、これじゃだめなの??

「……男同士じゃん」
「まあ、はい」
「俺、総二くんにキスできないって振られたんだよ」
「そうですか」
「やっぱり男同士は男同士だったって」
「へえ」
「え、律、聞いてる?」

聞いてますよ、一応ね。でもまじでどうでもいい。神山先輩の話、今する必要あんのか。苛立ってしかたない。

………ああ、ちがうな。違うんだった。また俺の悪い癖だ。一人で突っ走ろうとしてる。相手に聞く余裕をもてって、前に自戒しただろうが。

夏輝くんの不安げな顔をみて思い出した。

「……聞きます、どうぞ」
「律も、きっといつか思うよ」
「?」
「かわいい女の子のほうがいいって」
「……なっ、はあ……?」

落ち着け。この人の言ってること全然わかんないけど、とにかく落ち着け。ここでがーっとなるのはきっと違う。考えろ俺。夏輝くん、なにが言いたいんだ。俺にどうしてほしいんだ。俺のこと好きって言ってくれたじゃん。

普通……普通の幸せ……恋……女の子……?

え待って、この人もしかして、海岸で神山先輩が彼女といたの見て、そういうこと言ってる?俺もああなるよってことが言いたいのか??でもそんなの……

「そんなの、夏輝くんだって一緒じゃないですか」
「え?俺は女の子は……」
「そうじゃなくて」

男とか女とかじゃなくて、俺以外に目移りするって意味だよ。

「夏輝くんだって違う人好きになるかもじゃん。女でも男でも」

そんなの気にしてたらキリないじゃん。

「それは……まあ……そうかもだけど」
「俺のこと信じてほしいんですけど」

あーあ、あの意志のある目はどこいっちゃったんだ。すっかりしょぼくれて、かわいいことになっちゃてる。

「信じてないとかじゃなくてさぁ……」

だいたい夏輝くん、普段は後先考えずに行動するくせに。なんで今は理性的な大人みたいな顔しちゃってんだ。あれか、恋愛上級者だからか?先輩風吹かしてるのか??さっきもなんか『恋愛経験がないから~』とかばかにされたもんな。

曇り空からは、とうとう湿った雪が降り出していた。
夏輝くんはタートルネックを鼻まで被せて、いやに顔色が白い。

「上着、着てくださいよ」

夏輝くんがずっと右脇に抱えていたダウンジャケットを着せようとすると、全力でそれを拒まれた。

「律が着な」
「いや、いいです」
「律が着ないのに俺が着るとかない」
「なに言ってるんですか、風邪ひきますよ」
「身体は丈夫なほうです」
「いーから、着てって」

頑なに着ようとしないじゃん、もう。
奪い取ろうにも、俺の貧弱な身体ではこの人に力で勝てるわけもない。

まじで、寒い。そろそろほんとに寒い。

夏輝くん、もう一回言ってよ。好きだって。そしたらもういいよ、ホール戻ってあったまろうよ。このままじゃ戻れないよ。

「夏輝くん」
「ん?」
「俺、これでも考えました。人の気持ちとかよくわかんない……ていうか自分の気持ちも鳴らしてみないとよくわかんないけど、でも夏輝くんのことはわかりたいって思ってます」

バッハもベートーヴェンも父さんや母さんのことだって、わかりたいなんて思ったことはないけど。

でも夏輝くんのことはできればぜんぶ、わかってあげたいって思ってるよ。……希望な、希望。

「だから、ちゃんと教えてほしい。俺にどうしてほしいのか」

たぶんきっと、俺の能面面だと伝わりにくいんだろうなとは思ってる。それに加えて言語化が壊滅的だし。なに考えてるかわかんないってのも、言われ慣れてる。

でも、夏輝くんには俺のことわかっててほしい。だからどれだけかっこ悪くても、ちゃんと伝えたいって思ってるよ。

それじゃだめ?信じられない??

「好きだよ夏輝くん」
「……おれだって、すきだけどさぁ……」

夏輝くんのタートルネックの首元を引き寄せた。そうしないと、悔しいけど届きそうもなかった。

「!?」

氷みたいに冷えた唇。やっぱ寒いんじゃんか。……でもなんか、思ってたのとちがう。これ氷みたいなのたぶん、夏輝くんだけじゃなくて、俺もだ。

夏輝くんはうっかりぽろっと落ちてしまいそうなくらい、目を見開いてた。ふふ、傑作。

「考えるより先に行動しちゃうのが、夏輝くんのいいところじゃないんですか?」

ざまあみろ。いつまでもぐちぐちしてるからだ、俺だってこれくらい……これくらい、余裕なんだからな!


「な、なに……律っ!!」
「はぁい」
「なに、なにして……」
「神山先輩はキスできないって言ったんですよね、俺はできますけど」
「それは口で言ってくれればいいだろ…!」
「『口』でいいました」
「そうじゃなくて!!」

かわいい……こんな慌ててる顔、はじめて見た。いっつも俺がそっち側だったのに、ちょっといい気味だ。

「好きです夏輝くん」
「……はい」
「俺と、ふがっ」

なに!?また!?意味わかんないけど、俺の息でちょっと手あったまったりしたらいいなって、はーっと口をあけて息を吐いてた。

「言うから……どうしてほしいか。てかまじかっこわる~…」

……あ、この目。いつも俺がかなわない、この意志のある目。大好きな目。

「俺と、付き合ってほしいです」

湿った雪が、夏輝くんの長いまつ毛にじわっとついては溶けてく。それがあんまりにも儚くて綺麗だったこと、きっとこの先雪が降るたびに、思い出すんだろうな。

「……はい!」

あーーさっっっむ!!!




バレンタインコンサートの日のこと、幡野先生に謝りに行ったときだ。先生は涙を流していた。大変なことをしでかしたと思った。

『先生、本当にすみませんでした。たくさん面倒みてもらったのに、あんな……』
『違うの、律くん』
『え?』
『演奏、今までで一番だったわ』

納得はいかなかったけど、理解はできた。今までと違ったことといえば、それは感情が乗っていたこと以外に思い当たらない。

自分で書いた曲だからでもあるし、思い浮かべていたあの人のおかげでもある。でも、納得はしてない。

幡野先生にそう言って許してもらえたことは、本当にありがたかった。演奏会出禁になっても足りないくらいの無礼だったのに。

恋っていうのは、おそろしいことだと思った。あんな衝動が、自分にあるとは思いもしなかった。

長年お世話になった幡野先生夫婦、音楽教室のみんな、演奏を聴きにきてくれたお客さん。有馬、母さんもそうだ。いろんな人をぜんぶ捨ててもいいと思ってしまった。

夏輝くんのことばかり想って、たった一人のためだけに弾いて、それで自分だけのために弾くのをやめたピアノだった。

あの日の雪は大雪になって、一週間経った今もまだ、道の片隅に白いかたまりが残っている。ここでは結構めずらしい風景だ。

そのかたまりを見かけるたびに、俺の口元はだらしなく半開きになってしまう。

「りーつっ」
「えっ!?」
「今日一緒にかえろ」
「えっ、な、なん……え!?」
「あはは、びっくりしてらぁ」

当たり前だろ、ここ、俺のクラス!
しかも今日半日の日だし、三年生の登校日じゃないし……みんな、見てるし。いいの?そんなの。

「いいですけど……」
「迎えこよっか」
「いい!俺が行く」
「律~~」
「頭ぐりぐりすんのやめてください」

夏輝くんは、今日もみんなの注目の的だ。みんなの憧れ『ナツ先輩』。爽やかで秋風みたいな人。

「なあ、ナツ先輩ってあんなだった?」
「あんなって?」
「でろ甘じゃん」

そう。それで、俺のことをでろでろに甘やかしてくれる、特別な人。

「そのワードいいな」
「でろ甘?」
「うん」

歯を見せないようぎゅっと口を結んでも、口角がぴくぴくしちゃってるのが自分でわかる。有馬にも「きも」って言われたし。

「なあ。演奏会の日、夏輝くんのこと誘ってくれたんだろ」
「ああ。偶然会ったからさ。音楽室の前で」
「……は?」
「泣いてたから声掛けたんだよ」

……有馬を演奏会に誘った頃には、夏輝くんとの(仮)の関係はもうおわってた。曲を完成させられなくて、うだうだ音楽室にこもってたあの頃。

夏輝くん、きっとまた告白されたり、してたんだよ。すっごいビンタされたとかさ……って、あの人に限ってそんなことはないか。

だめだ。自惚れてしまう。

「……泣いてたんだ」
「なんかあの人、こう……助けてあげなきゃ!ってなるよな」
「……あ?」
「えっなに!?」

有馬の言うことは誰より自分が一番わかってる。俺だって夏輝くんに手を差し伸べちゃった一人だ。……でもなんかやだ。こいつに言われるから?

「ピアノ好きってお前から聞いてたから、誘っちゃったんだよ。勝手にごめんな」
「……いや。むしろありがとうまである」
「あ、そう?ならいっか?」

あの日の演奏、夏輝くんが聴いてなかったら、どうなってたんだろう。もっと拗れてうまくいかなかったり、したのかもしれない。わかんないけど。俺もぜったい引きたくはなかったし。でも……

「俺、夏輝くんと付き合ってる」

でも、有馬にはちゃんと言っておきたいかも。

「えええええっ!?!?」

でっけえ声をあげて、有馬はそのままの意味で後ろにぶっ倒れた。椅子、きこきこしてるからだよ、あほだな。小学生か。

「大丈夫か」
「だいじょばないわ!!え、なに!?なんて!?」
「だーかーらー」
「いや!いい!わかったけど!!」
「お前のおかげ……も、ちょっとはあるから。ありがと」
「なっ……ええなに?おま、誰だよ?」

失礼なやつ。こっちがお礼言ってんのに。絵にかいたように驚いてた有馬は、椅子に座り直してから、俺の両手をむんずと握った。きもちわるい、何??

「なんだよ、はなせ」
「おめでとうな!!」
「……はあ?」

なんで俺のことで、お前がそんな嬉しそうに笑うんだよ。意味わかんねー。……わかんないけど、まあ、うん。

「……ありがと」

素直に受け取っておいてやるか。


放課後の三年生のフロアは、予想通り静かだった。自由登校で登校する生徒なんて、本当に稀だと思う。俺だったらぜったい行かないもん。

夏輝くんのクラス……三年C組も、案の定夏輝くん以外の人の姿はなかった。

「あ、律だ」

ちゃんと机に向かってる夏輝くん、初めて見たな。教室にいる夏輝くんも、初めて見た。それできっと、これが最後になる。

「……なんか泣きそうです」
「情緒やば~」
「……」
「おいで?」

長い腕をめいっぱい広げて、俺を呼んでくれる夏輝くん。椅子に座ったままの夏輝くんの腕のなかに飛び込むと、つむじがみえた。超レアな光景じゃん。

夏輝くんと同じ制服着れるの、あと何回だろう。こうやって学校で会えるのだって、あと何回あるんだ?やっと彼氏になれたのに。こんなことならもっとたくさん、一緒にお昼食べておくんだった。放課後デートだって、もっとたくさんしておけばよかった。

「だめだ、俺。引くほどセンチメンタルになってる」
「うける。なんで律がセンチメンタルになんの」

「卒業するの俺なのに~」って、相変わらず夏輝くんは語尾を伸ばして言った。ほんとそうだよ。

「夏輝くんが卒業しちゃうのさみしいみたいです」
「他人事だなぁ」
「だってさみしいとか思ったことないから、よくわかんない」
「ふふ、そっか。さみしいんだね~」

頭二回、ぽんぽんってするやつ。……あー……俺は本当、もうおかしいな。

「……もっとしてください」
「ん、なんだって!?」
「なんだってってなんですか、もう」
「だってあの律が……ちょっともう、勘弁して~」

それ、ぽんぽんじゃなくてわしゃわしゃじゃん。俺の直毛、目に刺さるって……!

「りーつっ」
「?ん?」

右目つむって顔を覗き込んだとき、夏輝くんの口が、俺の口に触れた。

「……ええ、ずる……」
「律よりは正攻法です~」

………今日のはちゃんと、感覚あったな……。

噛みしめるほど、じわっと頬が熱くなってくのが自分でもわかる。夏輝くんはそれをおもしろがってるんだろう、ふにふにと俺の唇をつっついてみたり優しく撫でてみたり、楽しそうだ。

「ふふっ……胸ぐら掴まれてキスされたのなんて、初めてだったなぁ」
「!?もういいから、その話……」
「意外と大胆だよね、律」

ばかにされたし、もういい加減に唇から手を離してほしくて、夏輝くんのつむじを親指でぐっと一押ししてやった。「うわっ」と怯んだ夏輝くんの後ろの席……ちょっとだけ、お借りします。

「同じ教室に夏輝くんがいるって、こんなかんじかぁ」

横顔、好きだなぁ……。机におさまりきってない長い脚、かわいいなぁ……。

「……夏輝くん、俺と付き合ってくれてありがと」
「あなたはまたそういう……俺までセンチメンタルになっちゃうでしょうが」
「ふふふ。卒業式、泣いてくれてもいいんですよ」
「ぜってーやだ」

なんか、信じらんないんだよ。いつもこの学校の中心にいた夏輝くんが、いなくなるなんてさ。

「あ、そういえば引越しね、来週先にしちゃうから」
「へ」
「まあ近いけど~。引越し屋さんも早い方が安くしてくれるんだってさ」
「は……そうなんですね……」

県内の大学へ進学する夏輝くんは、卒業したらすぐに一人暮らしを始めるらしい。別に、片道何時間とかの距離じゃない。むしろお互いの家は、今より二駅近くなるし。だけど『一人暮らし』というワードがひどく大人のワードに聞こえてしまって、ちょっとつらい。ちょっとだけな。

「……律ってさ」
「はい?」
「ほんとはずっといろいろ考えてるでしょ」
「?」
「俺のことも、進路のことも、ピアノのことも」
「いや……そんなことは……」
「それで急に爆発すんだよな~」

そう言われて思い当たらないわけでもなかった。……だって夏輝くんに気持ち伝えた日の俺、まじで自分じゃない、別人みたいだったもん。でも考えてるのかって言われたら……よくわかんない。ただ最近、頭のなかはからっぽだ。

「俺も、律のことわかりたいって思ってるからね」

夏輝くんの大きな手が、俺の顔をふわっと包んでくれる。大丈夫だよって言ってくれてるみたいに。

この気持ちって、なんて表現したらいいんだろう。音鳴らないからわかんない。うれしい?大好き?なんかそんな簡単な言葉じゃない、なんだろこれ。

「……なんていえばいいんだろ」
「なんも言わなくていいですよ」

でも伝えたいんだよな、この気持ち。

「夏輝くん」
「はぁい」
「もっかいキスしたいです」
「んふ、いーよ」

……カップルたちが所構わずちゅっちゅしてるのって、こういうかんじなのかな。なんかいまならわかるよ。言葉で伝えられないくらいの最上級の気持ちって、究極これでしか伝えられないような気がする。


夏輝くんと駅前のファミレスでお昼ご飯を食べて、ドリンクバー何回もおかわりしながら、大学の話とか、一人暮らしする部屋の話とか、今日有馬に話したこととか、いろんな話をした。なにを話しててもずっとたのしくて、時間なんてあっという間だった。

「そろそろ帰ろっか」
「ええ」
「ええって、もう十九時だよ」
「……え!?」
「夜ごはんの時間です」

嘘だろ、あっという間だよ、「あ」っという間の本当の意味を今知ったよ……!

「律んち、夜ごはんいつも何時くらい?」
「うちは二十時くらいが多いかも。夏輝くんちは?」
「俺んちもそんくらい。てか結構食べなかったりもする」
「ああ、わかる。俺も。一人だとまあいっか、ってなっちゃう」
「ね~あるあるだよね~」

ファミレスを出て、駅の改札までのほんの少しの距離、夏輝くんが手を差し出してくれるのが、たまらなくうれしい。ほんのちょっとの距離でも手を繋いでくれるの、カップルってかんじがする。

「律はこういうの、嫌じゃない?」
「えなに、また神山先輩の話?」
「違うよ、普通に!一般的な話!人前で手繋ぐの嫌とかないのって」
「……ぜんぜんない」

いやてか、相手によるんじゃ?母さんと手繋ぐのはそりゃ嫌だけどさ……。夏輝くんは彼氏じゃん。好きな人と手繋ぐの嫌とか、思う人いるの??

「夏輝くんはいや?」
「……いいえ!」
「声でか」
「ごめんごめん」

だってほら、そんなかわいい顔してくれるのに、手はなすとか選択肢にないでしょうよ。

「律ってすごい」
「え?」
「こっちの話~」

……あーあ、浮ついてんな、俺も、たぶん夏輝くんも。手の繋ぎかたが、変わった。


家に帰ると、まだ母さんは帰ってないみたいだった。なら夜ごはんはいっか、なんてさっき夏輝くんと話したことを思い出してはむふっとしている。もし隠しカメラなんてあった場合には、非常に気味悪い挙動だろうな。……え、ないよな……??

バレンタインコンサート以来、母さんとはまともに顔を合わせていない。母さんは今が繁忙期だから意図的ってわけではないと思うけど、どこか顔を合わせにくいのは、俺も同じだ。なにから話せばいいのか、今もまだまとまってない。

ただ一つ絶対に言わなきゃいけないことを、どうしても言い出せずにいる。

「ただいま」

風呂からあがったら、リビングにちょうど帰ってきた母さんがいた。疲れがピークに達したときの母さんは、黒い服しか着なくなる。ここ最近ずっと、黒い服をまとった母さんしか見送った気がしない。そんな母さんに、言えるわけ、ない。

「おかえり。お疲れ」
「うん……ご飯、ごめんね」
「いいよ。人と一緒だったし」
「めずらしいじゃない。クラスの子?」
「ううん」

谷野夏輝くんっていう、一つ年上の高校の先輩。学校中の憧れでめちゃくちゃ華のある人だよ。優しくておもしろくて、俺を大切にしてくれる人。俺の彼氏。

……って話を、したいんだけど。母さんにこういう話をするのは、ちょっと地雷な気がしてる。

「母さん」
「うん?」
「あのさ……いつか、仕事、落ち着いてからでいいけど。話したいことある」
「……そう」
「時間ほしい」

仕事で疲れてるせいもあるんだろうけど、本当に母さんは感情が顔にもろに出る。俺とは正反対。今にも泣きだしそうな顔して、力なく頷いている。俺は母さんのこの顔を、何度見ないフリしてきただろう。

「ごめんね、律」
「……え?なにが?」
「母さんのこと、もう本当に、気にしなくていいのよ」

気にしなくていいって言いながらそんなしおらしくされて、わかりました!とかならないだろうよ。俺だってもう高校生だ、親が一人の人間だってこと、ちゃんとわかってるよ。だけどさ、母さんは……ああ、だめだ。やめよ。

「おやすみ」

今日はそれを言うので、精一杯だ。


母さんは元ピアニストで、俺が幼稚園に入園するまでは活動を続けていたらしい。何枚かCDを出していたりもするし、こうして俺の家には防音室なんてものが作られていたりもするわけだから、まあ母さんの人生はピアノ一色だったんだろう。

それでたぶん、それを変えてしまったのは、俺なんだと思う。その張本人がピアノやらないって言うんだから、そりゃあ母さんがあんなふうになるのも、無理ないのかもしれないけど。

待ち合わせの駅の改札内、やっぱり夏輝くんは今日も、端っこの柱に立って待っててくれる。「もろもろ買いに行くから一緒にいこーよ」って誘い方、今までにないパターンでぎゅっとした……。

「夏輝くん、おはようございます」
「おはよ~今日あったかくね?」
「ですね」

はあ~…今日もだいすきだ。

「ベッドは実家から持ってくんだけど、食器とか鍋とか持ってけないじゃんか」
「そうですね。夏輝くん、料理するんですか?」
「まあまあ。てか父親あんま家いないから、俺と兄貴でやらなきゃいけないのに兄貴はもう、こうだから」

こう、と言いながら筆で絵を描く真似をしてみせてくれる。お兄さん、絵を描く人だって言ってたもんな。

「芸術家ってやっぱ集中力すごいんですね」
「あー…そうね。兄貴は三日三晩寝ず食べずでも絵があれば生きていけそう」
「愛だ」
「ね~。でも律もそっち側じゃない?」

俺は……そこまでの情熱はないな……。

「いやないですね、食べなくてもいいけど寝たい」
「それはそう、一緒だね」

そう言ってはにかんだ顔、甘すぎてとけそう……。

もう俺……夏輝くんと付き合ってから語彙がまじできもくなってる。『好きすぎてやばい』ってテンプレをそのうち口に出しそうでこわい。

「いいな、一人暮らし」
「俺もずっと憧れてたから超うれしい〜」
「ですよね、めっちゃ自由じゃないですか」
「兄貴の面倒みなくていいしね」

この夏輝くんが面倒みるっていうんだから、お兄さん相当ゆるゆるな人なんだろうな……。

「ちょっと見てみたいですけど」
「ん?」
「面倒みてる夏輝くん。全然想像つかない」
「はあ?いつも律の面倒みてるのだれですか?」

なんだって??面倒みられてるの、俺??

「いやいやいや、それはない」
「それはないって失礼すぎ、つむじ押すぞ」
「やーめー……」

ぐわっと肩を抱き寄せられ、まじでつむじ押されそうになったそのときだ。

「律……?」

後ろからした声は、呆然と立ち尽くす母さんのものだったらしい。

「母さん……どうしたの、仕事は?」

極力冷静に聞いてるけど、母さんのほうが全然冷静を装えてなかった。本当にわかりやすい人。そんな目で夏輝くんのこと見るの、ほんとにほんとにやめてくれ。これ以上、母さんのこと軽蔑したくないんだよ。

「律のお友達?」
「……は、」
「ちがうよ」

おい夏輝くん。なに「はい」って言おうとしてんだ。友達じゃないだろ俺たち。

「恋人だよ」

母さんの目からとうとう涙がこぼれた。どんな感情で流す涙なのか俺にはさっぱりわからないけど、こんなみじめな母親の姿を夏輝くんに見られてしまったことが、本当に情けなくてかっこわるくて、最悪の気分。

「律……お母さん泣いて、」
「いいよ、よく泣く人だから」

自分でもびっくりするくらい、冷えた声がでた。それも母さんにはたぶん届いてない。泣いてるときの母さんは自分の世界にこもっちゃってて、俺の声も父さんの声も、全然耳に入れてくれなかった。

「夏輝くん、ごめんね」
「いや俺は……」
「ごめん。ぜったいやな気持ちにさせた」

あの目。あれと同じ血が流れてると思うと吐きそう。どうして母さんはいつもそうなんだ。いつもいつもいつも。

いっっっつも、自分のことばっかり。

俺の気持ちも、父さんの気持ちも、なんにも、一つも、わかろうとしてくれない。いつも自分のことで手一杯。なんでそれで母親ぶっていられるんだよ。自分が息子のピアノの犠牲になったから?だから自分はいい母親だとか思っちゃってんのかよ。頼んでねえよそんなの。押しつけてくるなよ。なんで、なんで……

「律、律っ」
「……っはあ、ごめん。いこ」
「や、でも、」
「いい。こうなると人の話なんにも聞こえない人だから」

どうして俺の母親は、母さんなんだよ。


ショッピングモールで出くわすとは思ってなかったけど、ちょうどよかったのかもしれない。いずれああなってた。ただ一つ、夏輝くんにいやな思いをさせてしまったことだけが、ずっと俺の胸の奥で火を燃やしてる。

「夏輝くん。ほんとにごめんなさい」
「謝られるようなことなんも起きてないよ」
「……なんでそんなやさしいの」
「どう考えても律のがやさしいだろ~」
「そんなことない」

モールの外階段は、下の遊具で遊ぶ子どもたちの声はにぎやかなのに、人気はあまりなくて、ちょうどよかった。

春風がかろうじで俺の気持ちを鎮めてくれるし、こうして夏輝くんにくっついていても、あんまり目立たなくて。

「嬉しかったよ、恋人って言ってくれて」
「夏輝くん、友達って言おうとしててびびった」
「ほんとに律は……いっつも俺の気持ち、ぜんぶすくい上げてくれる」
「そんなの俺のほうこそだよ」

夏輝くんは俺のピアノで笑顔になってくれた。すごい特技だねって言ってくれた。俺にとってピアノは爆弾みたいなものだったのに、俺の音楽が完成したのは、ぜんぶ夏輝くんのおかげだよ。

「夏輝くんがいればほんとに俺、それだけでいい」

この人が隣にいてくれれば、本当にそれだけで。家族もピアノも音楽も、ぜんぶいらない。

「……律?」
「はぁい」
「なんだその気の抜けた返事~」
「えっ夏輝くんの真似ですけど」
「俺そんなん言ってる?」
「言ってますよ、いっつもふにゃふにゃじゃん」

もたれかかってた肩から身体を起こして、ふにゃふにゃの夏輝くんの顔を見上げてみる。

あんなに気圧されてた夏輝くんの目が、ひどくやさしくて、もうぜんぶ渡したいような気持になってしまった。俺のぜんぶ。……そんなの重いか。

「しんどかったら逃げてきていいよ」
「……うん」
「ずっと、そばにいるからね」

なぁんにも聞かないんだ、この人。あんな下衆な目で睨まれたことも、俺が母親を泣かしちゃったことも、それを置いてきたことも、なぁんにも聞かないんだ。隣で、ずっとあっためてくれるだけなんだ。逃げ道用意して待っててくれるんだ。なんだよ、この人。仏?釈迦?包容力えげつないだろ。

「……それだれにも言わないで」
「言うわけなくない?」
「ぜったいですよ」
「律にしか言わない~」

「大好き、夏輝くん」

好き、よりもっと好きって大好きであってんのかな。でも好きも大好きもだいたい同じくらいな気もする。それより上って、なんて言うんだろう。愛してる?……なんかちょっとキザじゃない??やっぱまだまだ、この気持ちは俺には表現できない。

今度は正攻法で、夏輝くんの口に口をくっつけてみた。

「……りつ」
「はぁい」
「外ですよ……」
「やば、ほんとだ」

もうキスと変わんないくらい、ゼロ距離でくっついてるけどな。おかしくて笑ってたら、夏輝くんのおでこがごちっと俺の頭にぶつかった。



夏輝くんはあのあと、お揃いのマグカップを買ってくれた。なんかこう、見るからに恋人同士♡みたいなマグカップじゃなくて、シンプルな色違いのやつ。色の名前がかわいくて、これがいいねってなった。
夏輝くんのは『甘色』で、俺のは『深海』。淡いベージュの土っぽい質感のと、俺のはつるっとした深い青。ちょっと大きめで、たくさん注げそうなやつ。

その二つを、夏輝くんの新居に置いておいてくれるらしい。「合格祝いのお返し~」なんて言ってくれたけど、それじゃお祝いにならないじゃん、とは思った。……でも、すっごいうれしかった。

帰り際、手を離すその瞬間に、夏輝くんは「いつでもきていいよ」って言ってくれた。このあとに待つであろう修羅場を、当然夏輝くんもわかってて、俺にこれでもかってくらいの逃げ道を用意してくれたんだ。ほんとにあの人には、一生かなわないと思う。

俺と母さん。昔は父さんも。たった三人で住むには異様にでかいこの家。おばあちゃんの土地。おばあちゃんの遺産。おばあちゃんのピアノ。もう姿かたちもないはずなのに、俺の家にはいまでも『おばあちゃん』が至るところにいる。

玄関の鍵をあけたとき、ドアがあかなかった。ああ、母さん、帰ってるんだなと瞬間わかった。

大きな溜息ひとつ。そのあと、三回くらい深呼吸。

「……ただいま」

俺の居場所は、ここだけじゃない。俺は母さんを捨てられる。父さんを捨てられる。夏輝くんの存在が、これは依存的なのかもしれないけど、でも、今はその存在が、ただただ俺を支えてくれていた。

「……律……」

リビングのテーブルに突っ伏した母は、飲めないお酒を飲んでいるようだった。こういうところが、本当に、本当に、大嫌いだ。

「どうして酒飲んでんの」
「どうしてって……やってられないじゃない」

それはこっちのセリフだよ。話し合おうとか、微塵も思わないのかよ。

「なんで男の子……しかもあんな大勢の目に触れる場所で……」

そのテーブルをひっくり返してやろうかという衝動を、深呼吸でなんとかやり過ごす。この人の思うつぼだから。事を荒立てればそれで肝心なことはなぁなぁになると、この人は知っている。父さんともいつもそうだった。

「母さん」
「……」
「母さんはかわいそうだよ」
「なっ……」
「かわいそうだから、一緒にいてあげたんだ。でももう、同情じゃ一緒にいられない。限界だ」

母さんは、なんでそんなこと、と何度も何度も同じことを言って、わんわん泣いていた。……本当に、かわいそうな人。

「父さんに連絡した。春休みに山形で会うことになってる」
「なに勝手にそんな……!」
「学費のことも話した。父さんは自分が払うって言ってくれてるけど、俺は公立に転校してもいいと思ってる」
「待って律、勝手に話進めないで」
「待たないよ」

もう、待たない。待ってやらない。

「俺の大切な人をあんな目で見る人、親なんかじゃない」

声をあげて泣く母。まだ話はそれだけじゃないっていうのに、感情で話を遮ってくるところが、本当に嫌い。

「……母さんはいつも、自分のことばっかりだよ」

俺の話も、父さんの話も、全然聞いてくれない。今もたぶん「私はかわいそう」「誰もわかってくれない」「全部犠牲にしたのにひどい仕打ち」とか思ってるんだろうな。わかりたくないのに、母さんのそういう感情は手に取るようにわかってしまう。

「ピアノ、何度もやめたいって言った」
「……っ!!結局やめたじゃない!!」
「でも進学するとき、幡野先生のとこ以外はだめだって言ったじゃん」

音楽科に進学しないと言った中三の夏。母さんはひどく取り乱した数日後、清澄のパンフレットを机においた。ここ以外は認めない、と言った。そこには幡野先生の旦那さんがいたから。結局ずっと俺をピアノに縛り付けようとしてただろ。

「なんでよっ……なんでそんなにピアノを嫌うの……」

長い髪をぐしゃぐしゃにかきむしって、山姥みたいだなぁとか、ぼーっと思ってた。あんまりにもいまさらなこと言ってて、心がすうっと冷えていくのを感じる。なんで嫌うかって、俺、何度も何度も言ったよ。

「……誰も、聴いてないからだって」

その話さえ、母さんは一度も聞いてなかったんだな。


本当は俺だって、父さんと一緒に逃げたかった。母さんからもピアノからも逃げたかったよ。でも、母さんが泣くから。ああこの人、かわいそうだなって思った。だから日本に残った。

「母さん」

呼びかけても、母さんの耳に俺の声は届かない。

もういいかと思った。どうせ一生わかりあえない。このまま親子をやめたら、その方がお互いに幸せなのかもしれない。でも不思議だった。なんで今?って思う。からっぽだった頭のなかに、音が鳴る。

………結局この人に伝えるには、これしかないのか。

泣きじゃくる母さんの腕を引っ張って、半ば無理矢理、防音室に押し込む。本当はいやだ。弾きたくない。でも、この人の耳には『音』しか届かないんだ。

「律……?」
「ちゃんと聴いてて」

俺は『マジックアワー』を弾いた。あの日途中で止めてしまった続き、すらすらと出てくる。音が溢れて、止まらなくなる。

湿った雪が夏輝くんのまつ毛にとけてく一瞬、かじかんだ手、ただのモノみたいに感覚を失った唇、夏輝くんが俺の名前を呼ぶ焦った声。

わかりたい。わかってほしい。祈りみたいな気持ち。

夏輝くんのつむじ、学校指定のセーターの背中、収まりきってない長い脚。

『あ』っという間にすぎてく時間、指を絡めるようになった手の繋ぎ方。

『甘色』のマグカップ、子どもたちのはしゃぐ声、春の匂い。


―― 愛おしい、だ。


夏輝くんが愛おしい。


……でも、愛おしいって、直接は言えないよな。さすがにちょっと恥ずかしい。

ああ、だからやっぱりそうなんじゃん。

だから恋人たちは、キスするんじゃん??



母さんは相変わらず泣いてるけど、少しは理性的な泣き方をしていた。笑っちゃうけど、さっきまであんなに声を荒げていたくせに、最後の音のあと拍手とかしちゃって。どこまでもピアノに忠実な人なんだろうな。

「……ごめんなさい……」
「……うん」
「律に……そんな旋律あったのね」
「夏輝くんに出会ってからだよ」

むかつくなぁ。俺がいくら話しかけたってちっとも届かないのに、ピアノを弾くと母さんと会話ができるだなんて。

「本当に……ごめんなさい」
「……俺も、さっきは言い過ぎた。ごめん。」

母さんは目をまあるくして、ぽろぽろと涙の粒をおとしている。ごめんね、と何度も何度も繰り返している。

「俺は……ただ普通に、父さんと母さんと家族でいたかった」

三人で山登りしたり、コンクールで入賞したらお祝いに焼肉食べに行ったり、たまには水族館行ったりもしてみたかったな。そういう普通の……ただ普通の家族でいたかっただけなんだよ。

俺のピアノが上手くいかないと母さんは不機嫌になる。防音室から出してもらえなくなる。それを見た父さんが俺を山へ連れ出してくれては、その夜、母さんの怒鳴り声が、この無駄にでかい家に響き渡った。

俺が上手く弾ければ、母さんの満足のいく演奏ができていれば、この家はおかしくならなかったのかもしれない。

元はといえば俺のせいかもしれない。でも、もう、限界だよ母さん。俺も母さんも父さんも、このままじゃもう無理だよ。

「……律は覚えてないかもしれないけどね……」
「え?」
「公園からの帰り道に言ったのよ、『すべりだいはシシラド~だね』って」
「すべり台……?」

あ、音だ。頭のなかで鳴る音のことか。

「あたしそのときね、ユマだって思ったの」
「ユマ叔母さん?」

こくりと頷く母。ユマ叔母さんは母さんの妹で、プロのチェリスト。海外で生活していてもう随分会ってないけど、母さんとは似ても似つかない、明快な人だ。なんで、ユマ叔母さんがでてくるんだ?

「ユマも同じだったの、頭で音が鳴るって言ってた」
「えっ……」
「あの子は天才だった。あたしとは全然違う、感性で音楽ができる子」

防音室に飾ってあるおばあちゃんの肖像画を、じっと見つめる母さん。

「律も……絶対そうなのよ。感性で音楽ができる子」
「俺はちがうよ」
「それはきっと、あたしのせい。律の感性を潰しちゃった」

いつもの「そんなことないよ」待ちかと思ったけど、母さんはめずらしくこちらを覗うことなく、話を続けている。

「あたしができなかったこと、きっと律にはできるんだって思ってたはずなの」
「……うん」
「それがいつの間にか、できるようにしなきゃ、なんでできないの、もっとやらせなきゃって」


「ごめんね……律。全部母さんが悪いの。ずっと……ずっと、ごめんね」


すぐに泣く母さんが嫌いだった。ピアノを弾けって言うくせに、目をつむって眉間にしわをよせて聴いてる母さんが嫌いだった。ピアノの話のとき以外、大して俺を見てない冷たい目が嫌いだった。ピアノを弾いてるときの母さんは幸せそうだった、だから余計に嫌いだった。

「……ピアノは……もうやらないと思う。でも、ぜんぶを恨んでるわけじゃないから」

ピアノがなかったら、俺はきっと夏輝くんへの気持ちに気付けなかった。いやもっと前……あの音が鳴らなかったら、たぶんお試し三か月なんておかしな提案にものらなかっただろう。夏輝くんと始まりさえしなかったかもしれない。

母さんの目が、こわいくらいに真っ直ぐ俺を捉えている。唇をぎゅっと噛みしめて、とても母親らしくない情けない顔で見ている。

「ごめん……ごめんなさいっ……」
「……春休み、ちゃんと話したい。父さんと三人で」

嗚咽をもらした母さんが頷いた。何度も何度も頷いている。

もう手遅れかもしれない。でもそれならそれで、いいと思えた。このままでいるよりずっといい気がした。

「………本当に……全部、夏輝くんのおかげなんだ」

いつか幡野先生が言ってた言葉、いまならすんなり心に落ちてくる。わからなくても、わかろうとすることが大切なんだってやつ。

わかりたいって言ってくれる人がいる。それだけでこんなにも心強いことを、俺はずっと知らなかった。

「だから、いつか……わかってほしい。わかってくれたら嬉しい」

泣きやむ様子のない母さんだったけど、俺のその言葉には、ふっと息を漏らしていた。

「……あんなラブソング聴いたらわかるわよ……」
「え?」
「あんなの律に書かせるんだもん、たくさん愛してくれる人なのよね」

「……母さん、ほんとに言語がピアノなんだな……」

母さんだって十分、感性で音楽やってけるよ、ほんとに。

「いつか、あなたたちがいいって思ってくれたら……ちゃんと謝らせてちょうだい」


その夜、日付が変わってしまうくらいの時間なのに、夏輝くんはすぐに電話にでてくれた。なんかきっと、すぐ気づくようにしてくれてたのかなとか、自惚れたりした。
「がんばったね」って球技大会の日みたいに褒めてくれたとき、ああ電話でよかったぁと心底思ったり、した。

『母さんが、いつかちゃんと謝らせてって言ってた』
『ええ!いいよ、謝られるようなことないし』
『……夏輝くん、仏だよね』
『ほとけ!?』

夏輝くんってほんとにすごい人だ。ゾンビみたいだった俺を、こんなにも無敵にしてくれるんだもん。



卒業式の予行練習がはじまった。はじまってしまった。
明日、夏輝くんはこの学校を卒業する。

「ナツ先輩って大学どこ行くの?」

名前順では真逆のところにいる有馬は、ちょうど俺の真ん前のパイプ椅子に座っていた。足を横に投げ出して、そんなことを聞いてくる。

「旭台の文学部だって」
「うわまじ!?俺もそこ狙ってんのよ!」
「ばか、お前声でけーよ」

反対側に座る先生たちが、声の出所を探して立ち上がっていた。有馬はぴっと前を向いて座り直している。こういうところ真面目なんだよなぁ……。

「結木も旭台行くの?」

今度は顔は前を向いたまま、背をやや後ろに傾けて小さな声でそう話しかけてくる。あとで教室戻ってから話せばいいものを。

「……わかんない」
「そっか~。ライバルになっても手加減しないからな?」
「お前に勝てるわけないだろ」

運動神経抜群、成績優秀、品行方正……こういうときの無駄話はちょっと減点かもだけどな。
対して俺は、部活をやってるわけでもなければ、赤点がまったくないってわけでもないし、先生に気に入られるようななにかがあるわけでもない。指定校を貰えるのは、どう考えても有馬だろ。

「俺さ、ライターになりたいの。音楽ライター」
「……は?音楽?お前が?」

言葉にしてから、結構失礼なこと言ったなと思って、一言ごめんと続けた。でもこんなスポ根だぞ?なんでそれで音楽……イメージになさすぎる。

「バスケも楽しいし、たぶん上手いほうなんだろうけど?でも俺はやっぱ音楽が好きなんだよ」
「へえ……有馬が音楽……」

思い返せば、やたらと俺のピアノに興味を示してくれていたのは、そういうこと?

「クラシックが好きなの?」
「いや~色々!結木のピアノ聴いてからクラシックもよく聴くようになったけど」
「……俺の?」
「?うん?」

気持ち悪いくらい真っ直ぐな奴が、俺のピアノを聴いて、それからショパンを聴いたりしてるわけだ?……ふうん。

「それはさ……ちょっと嬉しいわ」
「!?お前やっぱなんか変わったな!?」
「ばっ!!」

「有馬!結木!静かにしろ~」

馬鹿野郎……!!しかも名指しかよ!!

「最っ悪……!」
「ごめん~」

ごめんじゃねえよ、夏輝くんに聞こえてたらどうすんだよ!かっこわる!!


全体練習が終わって、体育館から教室へと戻る渡り廊下。人波のなかに夏輝くんの後姿を探すけど、たぶんいないんだろうな。夏輝くんがいる場所は、もう一目でわかるからな。

「あ、先生に怒られてた結木くんじゃん」
「ひっ!?」
「ナツ先輩、ちわーっす!」
「ちわ。有馬くんも怒られてたね」
「すんません!!」

いやいやいや、いいの?夏輝くん?みんな見てるよ…!?背後から回された長い腕を、それとなく振り解こうとしても、なかなかそれが許されない。

「律?どうかした?」
「や、だって……いいんですか」
「?なにが?」
「みんないるのに」

そう後ろを振り向いたとき、鼻をぎゅっとつままれた。夏輝くん、すごい楽しそうに笑ってやがる。

「なづぎぐん!」
「はははは!見て有馬くん。鼻ちっちゃくてかわいいね」
「いやあの、いちゃいちゃに巻き込まないでください……!!」

おい有馬ぁぁぁ!!いちゃいちゃとか言ってんな、夏輝くんに迷惑が……

「かわいいな~律~」

…………終わった……。

なにこの人、抱き締めてくれちゃってんの、え??どういうあれで??きゃあって声、聞こえたもん。絶対見られてるもん。いいんか、この人。最後の最後にこんな汚点残して……。

結局そのまま教室まで見送られ、とにかく帰りのHRまでずっと有馬にガードしてもらって過ごした。どんな顔したらいいかわかんないし、言っていいのか夏輝くんに確認とってないし……。

もう!!夏輝くんのばかやろう!!いいか悪いか先に言ってからああゆうことしろよ!!


「……伴奏……?」
「そう。弾く予定だった子ね、病院行ったらインフルだったんだって」
「いや……俺ぇ……?」
「もう明日だしさ。律くんしかいないと思って」

幡野先生は目を糸みたいに細くする。でもその顔が鬼になるのを俺は知っているし、なによりバレンタインコンサートではとんでもない無礼をはたらいたわけだから、そう極端に拒否することもできない。

「頼めないかなぁ」

……明日の卒業式。在校生から送る歌。たぶん弾けるよ、弾けるけどさ……。

「俺、泣いちゃうよ」
「あっははは、律ほんとおもしろ~」
「なんもおもしろくないですけど」

結局引き受けてしまった伴奏の件。帰り道に夏輝くんに報告したら、それはそれは無邪気な顔で笑われた。俺はこんなにも情緒がおかしなことになってるっていうのにさ。

この制服で隣を歩くの、もう今日で最後じゃん。明日はきっと友達と帰るよな、最後だもん。センチメンタルにもなるでしょうよ。

「ていうか夏輝くん。学校であんなのいいんですか」
「ああ、バックハグ?」
「なんて言い方を……まあそうですけど……」
「えっだめだった?」
「だって夏輝くんに迷惑かかる…」
「なんでぇ」

こんなぬぼっとした冴えないやつが相手だなんて、きっと夏輝くんのファンの子たち卒倒するよ。最悪って罵られても俺、甘んじて受け入れるもん。

「湿度高いし、冴えないし、能面みたいだし」
「能面!?」

中学のクラスメイトが社会科の授業中、教科書を持ってそう言ったのだ。『これ、結木に似てね!?』ってな。

「うける、能面……」

やっぱりそう遠くないみたいだ、夏輝くんまだ笑ってやがる。

「でも俺、律の顔好きなんだけど」
「は……?」
「能面か、ちょっと調べてみよ。俺能面にときめくのかな」
「いやいやいや……」

この人、ほんっと変だよ。
俺の顔が……顔……ええ………??

「ええ、能面より律のが全然いけめんじゃん」
「なっ……!?夏輝くん……」
「ん?」
「すき……」

ばかだなぁ、もう、俺。真に受けちゃって、はっっず。

「俺も好き〜だいすき〜」

甘くってでろでろで、とけちゃいそう。しあわせだなぁ俺。今人生のピークだな、これ。

ぎゅっと繋ぎ合わせた手をぶんぶん振り回して、夏輝くんと俺の最後の制服デートは、夕焼けの赤に消えてく。



卒業式の定番ソングの伴奏は、正直なんてことはないんだ。なんてことないのに、おかしい。手が震える。

三月九日、私立清澄高等学校卒業式。
夏輝くんは今日、この学校からいなくなる。

それで俺は、夏輝くんへ……じゃなかった、卒業生へ贈る歌の伴奏を任されてる。

それだけのことがこんなにも俺の手を震わすんだから、やっぱり恋っておそろしい……。


『卒業生、入場』

A組、B組の拍手とは圧倒的に熱量の違う拍手が、C組に贈られる。その理由はもちろん、谷野夏輝くんの存在に他ならないわけで。

『ナツ先輩〜』と囁く声が、俺の耳にも届いていた。……俺だって、正直呼びたい。でも俺が呼ぶなら『夏輝くん』だ、と誰にも届かないところでひっそりマウントをとってみる。

『ヤノ』だから出席番号順の後ろのほうに並んだ夏輝くんは、花道側にいる下級生たちに手を振ってあげたりしてる。あんなんファンサじゃん。

「ナツ先輩やばいな、アイドルじゃんもう」
「……黙って前向いとけ」
「こわっ同担拒否かよ!」

茶化してくる有馬に、ほんの少し感謝した。ほんの少しな。花道とは反対側の端っこ、夏輝くんみたいに背が高いわけでもないし、俺が見つけても、夏輝くんは俺を見つけられないと思う。

きらっきらの夏輝くんが、もうすぐ俺の列の横を通る。

あの黒髪、明日には染めちゃったりするのかも。そのブレザー姿も今日で見納めだし。別にこれからだって会えるよ、全然。わかってるけど、やっぱり、学校でみる夏輝くんは特別じゃん。

白岳山で出会う前から知ってた、秋風みたいに爽やかなナツ先輩のこと。
(仮)が始まった最初の頃は、理不尽な罰金制度でよく自販とか購買に走らされたこと。
人気のない校舎裏で、思い出せもしないようなくだらない話をしたこと。
保健室で頭を撫でてくれたこと。第三棟の音楽室でピアノを鳴らしたこと。三年C組の教室での、二人だけの思い出とか。

ここには、夏輝くんとの思い出がありすぎる。

拍手にいっそう力を込めてた。もしかしたら、あの人なら、気づいてくれるかもって。

長い前髪をかきあげた夏輝くん。あの横顔、好き。

その横顔が、ちらっとこっちを向いた。

「りつ」

こっちを見て、たしかにそう口が動いた。笑ってる。シンバル叩くみたいな真似して、後ろの先輩につっこまれてる。

「……おれ、あんな拍手してないし」

こみあげてくるなにかを、何度も何度も飲み込んだ。


お決まりの校長の挨拶やら来賓挨拶やらがだらだらと長ったらしく続き、隣のクラスのやつが在校生代表の送辞をそつなくこなしたあと。

『答辞、卒業生代表、三年C組、谷野夏輝』

呼ばれた名前に、会場がざわついた。全体の予行練習では明かされなかった、卒業生代表挨拶。

「夏輝くんなの……」

いや俺には教えてよ……!

夏輝くんは前髪をきゅっと耳に掛けながら、舞台への階段を一段とばしにあがってく。脚が長いって、それはそれで大変そうだ。

『卒業生代表、三年C組、谷野夏輝です』

マイクを通した、夏輝くんの声。堂々としてて変なかんじだ。いつものふにゃ具合じゃ全然ない。

夏輝くんの声で読まれる、先生たちや保護者、学校関係者への感謝の言葉。なんか別人みたいにしっかりしてた。……そりゃそうか。卒業生代表だもんな。

『私は清澄で、たくさんの友に出会いました。仲間に出会いました』

『投げやりになっていた自分に、手を差し伸べてくれる存在に出会いました』

『清澄で過ごした日々はどれもかけがえのない……生涯捨てることのできない、大切な思い出です』

『クラス一丸となって臨み総合優勝を勝ち取った球技大会、』

『校舎裏で他愛もない話をした昼休み、音楽室で鳴らしたピアノ、卒業旅行ではゾンビの仮装をして肝試しをしたりしましたね』

夏輝くんの紡ぐ言葉の節々に、自分を感じようとしてる。夏輝くんの三年間の話だろ、俺だけがひとりじめしてたわけじゃないんだから。

……わかってるのに、こみあげてくるなにかを、口から吐き出してしまいたかった。

我慢しようとすればするほど、それは喉を焼くように熱くしてくる。

『在校生のみなさん』

一層はっきりと聞こえた、夏輝くんの声。

『三年間はあっという間です。やりきれない日も、なにもしたくない日もあると思いますが、この清澄で過ごした日々を""捨てたくない大切な思い出""と呼べるよう……肩の力を抜きながら、がんばってください』

ペコリと頭を下げた夏輝くん。

………なにあの人、かっこよすぎるよ。このあとにピアノ弾けとか、どんな拷問?無理だよ無理。だってもう俺……

「ほらティッシュ!」

有馬にポケットティッシュ差し出されるくらい、鼻水垂れちゃってんだもん。


『在校生より卒業生へ』

行事に力を入れる清澄らしい計らい。合唱曲は在校生のアンケートによって決まる。大体が定番のポップスで、合唱祭の歌唱曲と被らなければ、なんでもいいってことになってる。

『伴奏、二年A組、結木律』

名前が呼ばれて、今日顔を合わせたばかりの指揮者の女子と二人、舞台への階段をあがる。俺の短い脚じゃ、別にこの階段も特に窮屈ではないのがちょっと悔しい。

一礼して、第三棟の音楽室のものとは比べ物にならないくらい丁寧に磨かれたピアノの前に、腰をおろす。ぎぃっという椅子を引く音。演奏会と同じ静寂のなか、指揮にあわせて、俺は鍵盤を鳴らした。

まだ鼻がつんっとしてる。プールのあとみたい。たぶん、この歌唱曲の歌詞に耳を傾けてしまったら、もうだめだと予感してる。だからなるべく演奏にだけ集中した。だめだよな、本当は。卒業生に贈る歌だもんな。わかってるんだけど。

俺の頭には、たった一人、夏輝くんのことしかなかった。夏輝くんのことだけを想って、ピアノを弾いてる。

ありがとう、夏輝くん。
捨てたくない思い出に俺をいれてくれて、ありがとう。
俺の捨てたくない思い出になってくれて、ありがとう。
だいすき。だいすきだよ、夏輝くん。
俺の手をとってくれて、ほんとにありがとう。

喉の奥が熱くてしょうがなくて、生唾を飲み込んで誤魔化しては唇をきつく結んで、なんとか伴奏を終えた。


『卒業生、退場』

いよいよ卒業式がおわってしまった。伴奏が終わってからの記憶はあんまりない。卒業生の歌は泣かせにきてるから、ちょうどよかったかもしれないな。

「おい!結木っ!」
「ん……?」
「あっち!ほら!!」

有馬が指差すほう、花道には、大きく手を振る夏輝くんの姿。騒ぎ立てる周りの悲鳴にも似た歓声。

………は?

「ちょ、え!?」

なに、あの人、なにして……

目があうと夏輝くんは、出会った日と同じ指ハートを俺におくってきた。

なんだよあれ、なんだよ、もう……!!

「……はずかしぬ……」

滲んでよく見えない視界だったけど、たぶん、夏輝くんも俺の目一杯の指ハートに、笑ってくれてたと思う。


「ねえ結木くん、どうしてナツ先輩と…」
「結木くん、ナツ先輩の連絡先知ってる!?」
「結木くん」「結木くん」

……まあ、こうなるよな。予行練習の日だって、有馬がいなきゃこうなってたんだ。あいつがかなり上手いこと捌いてくれたからな。

有馬は当然部活の先輩のところに行ってるから、俺は一人、この答えていいのか微妙な質問を浴びている。嘘はつきたくないけど、夏輝くんの価値をだだ下がりにするのはもっといやだ。

「……ごめん、幡野先生に呼ばれてて」

微妙に嘘だけど、俺はそれだけ言って職員室へと逃げ込んだ。

「律くん!伴奏よかった、本当にありがとうね」
「いえ、こちらこそです……弾けてよかったです」

きっと、俺が人前で弾く最後の演奏だった。それが夏輝くんの晴れ舞台に花を添えられるなんて、よく考えてみればそんな幸せなことってない。

「ふふ。律くん、すごくいい顔してる」
「……そうでしょうか」
「うん。律くんの顔だ」

幡野先生はその言葉とともに、第三棟の音楽室の鍵を渡してくれた。まだ、なんにも言ってないのに。

「弾きたくなったら、いつでも言ってね」

糸みたいに目を細めた幡野先生が、俺の背を押してくれる。

「……ありがとうございます」

人の気持ちって、いまでもわからない。わかりたいと思う人だって、片手で数えられるくらいなものだし。だけど俺は、知らないうちにこうやって、いろんな人にわかろうとしてもらっていたんだろうな。思い返せばたぶん、幡野先生が作曲を教えてくれたのだって、そうだったんだと思う。……そんなことずっと気が付かなかったけれど。

第三棟の音楽室のピアノ。俺にとって唯一無二のピアノ。

「いままで、ありがとな」

ピアノに声を掛けるだなんて、俺にしてはずいぶんメルヘンな話。でもこいつは、相棒みたいな存在だったからな。たったひとり、俺の感情のぜんぶを、俺よりも理解してくれてた相棒。

俺、こんな曲を書けるようになったんだぜ。どうよ、なかなかよくない?ラブソングだよ。

半音ずれた音でも、なんだかそれがかわいく思える。俺の特別だ、おまえは。

「やっぱり律だ」
「夏輝くん……」

なんとなく、わかってた。今日ここへ夏輝くんがきてくれること。

わかってた……じゃないか、期待してた、だ。

「あれ、めずらしくびっくりしないじゃん~」
「なんとなく、きてくれるかなって思ってました」
「げえ。読まれてたか」

すとんっといつもの場所に腰をおろす夏輝くん。

「いまの、バレンタインのときのやつだ」
「……はい」
「マジックアワー」
「……はっっっず」
「あは、なんでぇ。俺この曲好きだよ」

「ていうか、俺への曲、でしょ?」

……この目。出会ってからずっと翻弄され続けてるこの目。

「大好き」

溢れてとまらなくなった。

夏輝くんのその目から視線を外し、鍵盤を目に映す。あの日の続き。まだ母さんにしか聴かせてなかった。

夏輝くんが愛おしいって旋律。夏輝くんは芸術なんてわかんないって言ってたけど、なんとなく、届く気がしてる。届かなくても、まあ、俺が言えばいいし。

最後の音のあと、夏輝くんの拍手が耳を癒してくれる。破裂音が弱めの拍手の音。夏輝くんの音。

「夏輝くん、俺ね」
「うん」
「ピアノ、やめる」
「そっか」
「……俺のピアノ好きって言ってくれて、ありがとう」

誰も聴いてくれなかった俺のピアノ、夏輝くんだけはずっと、まっすぐに受け取ってくれて、ありがとう。楽しそうに身体を揺らしてくれて、驚いたように目を輝かせてくれて、嬉しそうに笑ってくれて、ありがとう。

「律にプレゼントがあります」
「いきなり」
「ふふふふ」

不敵な笑みを浮かべた夏輝くんは、ブレザーの胸ポケットにピン留めされた造花のブローチを、俺の胸ポケットに差してくれた。
彼氏彼女、片思いの人にこれをもらうってのは、清澄の卒業式の定番みたいなやつ。第二ボタンよりももっと、外への主張強めな。

「え、いいの?」
「当たり前でしょ、あとこれね」

そのブローチのついでみたいな言い方で、手のひらサイズの四角い箱が、ピアノの鍵盤の上にそっと置かれる。

「なんですか……ええ……」

知ってる、このアウトドアブランドのロゴ。最近SNSで話題の『山でも街でも使える』ってキャッチフレーズの。……これ、がちのプレゼントじゃんかよ。

「ちょっと早いけど、バレンタインのお返し」
「俺なんもあげてないです……あっ」
「ふふふ。もらいました〜」

曲のことかよ……もうやめてくれ、恥ずかしぬ……。ドヤ顔で書いてドヤ顔で演奏してたって、今のなんの武装もない俺には、ただただ気恥ずかしさしかないのに。

夏輝くんはいつもそうやって、俺をからかってあそぶ。

「ほらあけて〜」とゆるく急かされて、その巾着をおそるおそる開けた。

「……キーケース?」
「兼ミニ財布?」
「えお金入るの?」

ぱっとそのキーケース兼ミニ財布を手に取って、マジックテープをびりっとはがしたときだ。
カラビナについた一本の鍵が顔をだした。

「……これ……」

それに続く言葉が、ひとつもでてこなかった。人って最上級の感情を抱くとき、なにも言えなくなるんだなって最近よく思う。うれしいとかありがとうとか、たくさん言いたい。でもどれもしっくりこないんだよ。そんなんじゃ足りないんだよ。

「……なづきぐん」
「うわ、ぐじゃぐじゃじゃん」
「だっで……ええ……」

溢れて、とまらなかった。

「いつでもおいでって言ったじゃん、前」
「……ゔん」
「鍵なきゃこれないなって思ったの」
「ありがどぉっ……」
「だから泣かないよ~ほらぁ」

俺、泣いてるんだ、人前で。いやさっきもそうか、夏輝くんの答辞にも、指ハートのファンサにも泣いてたわ。

人前で泣くとか、そんなこと、俺の身に起きるんだ。

ずっとなんにもなかったのに。ただただ息を吸って吐いてたまに山に登って、それだけだったのに。

この人の手で頭を撫でられるのが好きだ。この人の腕のなかが落ち着く。この人と繋ぐ手はすごく特別に思える。あれだけ手を大事しなさいと言われても、ちっとも大事にできなかったのに。

「夏輝くん」
「ん~?」

「卒業、おめでとう」

この人とするキスしか、知らなくていい。


ぜんぶ、この人が教えてくれた感情だ。

もう俺の頭のなかに、きっと音は鳴らない。



「ていうか夏輝くん」
「ハイ」
「なんで卒業生代表だってこと教えてくれないんですか」
「律びっくりするかな~とか思って」
「またそれだよ」

イルカショーのときとおんなじこと言ってる。

「まあ……俺だってちょっとはかっこつけたかったんですよ」
「?夏輝くんはいつでもかっこいいですけど。なにいまさら」
「ね!!そういうとこ!!」

追い剥ぎにあったみたいにワイシャツとズボン以外なんにもなくなった夏輝くんと、校門で待ち合わせして一緒に帰る。ワイシャツ一枚じゃまだ寒い、春の匂いがしはじめた頃。

「カイロありますけど」
「えちょうだい~」

子どもみたいに無邪気な顔でじゃれついてくる寒がりなこの人は、俺の彼氏。

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オフ・ザ・ボール

総文字数/68,446

青春・恋愛6ページ

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