あれから夕食を取り、なんだか集中できない中でイラストの作業をしたり風呂に入ったりしてからベッドに入った僕は、眠れない夜を過ごしていた。

 五花の部屋は、何の因果か僕の隣の部屋だった。五花が部屋の配置を聞いてから、ここがいいと宣言したからだ。

 僕は薄い壁一枚隔てた先で、五花が寝ている姿を幻視していた。

 五花は、その蠱惑的な身体つきを、先ほど見かけたピンク色の可愛らしいパジャマで包んで、ベッドで布団を抱き締めて眠りについている事だろう。

 それは五花の事が未だに気になってしょうがない僕にとって、到底無視する事は出来ない想像だった。

 五花はどうして隣の部屋を選んだのだろう。

 隣というのは、一番僕の部屋を訪れやすい配置であるともいえる。

 五花は僕の部屋を訪れて、何かをするつもりなのだろうか。

 あの地獄のような夏の日々、僕が五花に散々されていたような事を、またするつもりなのだろうか。

 そう想像の翼を広げていくと、僕は気づくと興奮して、我慢ならない心境になっていた。

 僕はそっとスマートフォンを起動すると、あの夏の日々に五花から戯れに送り付けられた、黒色のミニスカートの下から桃色の下着が見えている五花の自撮り画像を開いてしまう。

 今日まで絶対に開かないように鉄の意思で封印してきたその画像は、いざ開いてみると、本当に魅力的な美しい肢体が表示されていて、それがあの五花のものだと認識すると、僕の劣情を痛いほど刺激した。

 そのまま僕はその劣情を発散しようと、一人で行為に及ぼうとして……

 コンコン、と突然部屋の扉がノックされる。

 ドキリと、心臓が痛いほど高鳴った。

 そして、許可した覚えもないのに、訪問者が部屋へと入ってくる。

「こんばんは、たっくん。なんか寝れなくて、遊びにきちゃいました」

 暗い部屋にうっすらと月明かりが差して、その微かな光が五花の憎らしいほどに可愛らしい顔を幻想的に照らした。

 それを見た僕は慌ててスマートフォンの画面をブラックアウトさせて、そのまま布団の中へと隠す。

「あれ、なんだか怪しいご様子ですね? スマートフォンをわざわざ布団の中に隠すなんて。ちょっと見せてくださいよ」

「い、いやだ!」

 僕は気の利いた反応も出来ず、とっさに自分を守ろうと、そんな愚かな発言をしてしまう。

「へぇ? たっくんの分際でわたしに逆らうんですね? そういう事を言うなら……」

 五花は僕が寝転がっているベッドに近づくと、「えい」と声を出しながら身を投げ出して僕のベッドの中に突撃してきた。

「ちょ、待って……! マジでダメだって!」

 僕はそう言いながら抵抗しようとするが、暗い部屋の中で突然密着する事になった五花の身体の感触とか、髪の毛から漂ういい香りとかにやられて身体がフリーズしてしまい、五花はその隙に僕の布団の中から目的の物を奪取する。

「えへへ、ゲットです~♪ どれどれ~」

 五花がくるりと身体を回してベッドの上で僕に背を向けながら僕のスマートフォンの画面を起動すると、そこに映っていたのは、当然、先ほどまで表示していた罪の証、五花のセクシーな自撮り画像だった。

 終わった、と思った。

「ふふ、ふふふふふ、なるほど~♪ なんか嬉しいなぁ♪ あの時の写真、こんなに後生大事にまだ持っててくれたんですね? それもこんな暗い部屋で夜に一人で眺めて……いったい何をしようとしていたんでしょうね~?」

 五花はこちらを顔だけ振り返り、至近距離でその可愛らしい顔の魅力を僕に容赦なく浴びせながら、楽しそうな表情でテンションを上げている。

 マジで、いっそ殺してくれ、と言いたかった。それぐらい僕のちんけなプライドは危機に瀕していた。

「しかし、この写真がいいんですね? 他にも何枚か顔写真とか胸を強調した写真とか送ったと思うんですけど……なんだかたっくんの性癖が見えた感じがして、楽しいですね?」

 そんな事を言われても、僕はちっとも楽しくないし、はやくこの終わらない悪夢から覚めたい気持ちで一杯だ。なんか都合のいいスイッチとかがあって、それを押すと全てなかった事になる、そんな妄想に僕は浸っていた。

「たっくん、可愛いです……可愛いなぁ……でもでも、せっかくなら写真より実物の方が嬉しいんじゃないですか?」

 五花はそう言うと、僕の布団の中でごそごそと下半身に手をやりもぞもぞと動く。
 いったい何をしているのかと嫌な予感を感じていると、突然、僕の目の前にピンク色の大きな布が投げつけられた。

「はぁ!?」

 布が僕の顔に覆いかぶさって、僕は突然の事に混乱して声が出てしまい、そのまま息が荒くなった。そうすると、桃とココナッツを混ぜたような独特のいい匂いがその布から吸い込まれてしまい、ますます僕の心は荒ぶっていく。

 なんで、こんないい匂いがするんだ、この布は!

 そんな心境でひとまず手を顔の前にやり、布を掴んで離すと、月明かりに照らされたそれは五花のパジャマのズボンだった。

 五花はズボンを脱いでいたのだ!

「ば、馬鹿か五花は! なんで、ズボン、脱いで!?」

「いやぁ、たっくんなら喜んでくれるかなって思いまして。とってもいい反応が見れて、良かったですよ」

 ちょっと待ってほしい。俺の目の前にズボンがあるという事は、今も僕の眼前にある五花の可愛らしい顔から下をたどれば、そこにあるのは下着姿の五花の下半身だという事だ。

 五花はパンツ姿で僕と同じベッドで同衾しているのだ。

 その事実を認識した瞬間、ドクン、ドクンと心臓が熱い血流を僕の脳に次々と送り込んで、興奮を司る脳内ホルモンの分泌が止まらなくなっていく。

 僕なんていう存在は、普段は絵なんかを描いたり賢しげな事を言ったりなどしているけども、ただ五花が服を脱ぐだけで、もう純粋な獣に成り下がってしまうんだ。
 僕なんていうのは、そんなちっぽけな存在にすぎないんだ。
 そんな諦めのような感情が脳裏をよぎって、そのままそこから離れなくなる。

「い、五花……その……僕は……」

 何を言っていいのかも分からず、何を言いたいのかも分からないまま、そんな弱々しい声が口から勝手に出てくる。

「……たっくん、だめですよ? わたしたちは付き合っているわけでもなければ、今や他人ですらない、たった二人の兄妹じゃないですか。それをいったいどうしたいと思ってそんな言葉を出しているんですか? ねぇ、はっきり言ってみてくださいよ?」

「う、うう……だって、それは五花があまりにも……」

「わたしはただお兄ちゃんに甘えているだけですよ? それで、ちょっとした可愛い悪戯をしているだけです。なにもやましい事なんてありませんよ? それともお兄ちゃんは、わたしにこうやってすり寄られただけであさましく興奮しちゃうような、いけないお兄ちゃんなんですか?」

 そんな言葉を囁く五花からは今も、甘い異性を感じさせる香りが漂い続けている。そして五花は僕の身体にそのふとももを伸ばして、僕の脚にその素足を絡めるようにしてきているのだ。

「ううう……僕は……僕は……」

 何もかも限界だった。
 
 あまりに高まり過ぎた欲望というのは、もはや人の制御を軽く超えて、勝手にどこかに飛んでいってしまおうとするものなのだ。

 そして、僕はこのままこうしていても、五花がその欲望を鎮めてくれる事など決してないと知っている。

 だから――

「くそ! 僕は逃げる!」

 僕はそう叫びながらがばりと起き上がり、素早く絡みつく五花の柔らかい身体から抜け出すと、足と腕のばねを利かせてベッドから飛び上がり、そのまま部屋の外へと逃げ出した。

「あはは! あはははは! 飛んじゃいました! あはははは!」

 五花は驚きのあまり先に笑いが来たといった様子で、そんな僕を背後から笑いながら、少し遅れてパジャマのズボンを履きながら追いかけてくるのが分かった。

 僕は長い廊下を走ってトイレまで逃げ出すと、鍵を閉めて荒れ狂う欲望を解き放とうとするが……

 すんでの所で、そのトイレの扉に足が差し込まれ、そのまま扉がこじ開けられる。そういえば五花は足が速かった……!

「ダメですよたっくん。可愛い妹をおいて、一人で気持ちよくなろうなんて……」

 もはやホラーだ、と僕は思った。

 紛れもなく、五花は、僕にとって、恐怖の象徴になっていた。

 いやだ……!

 僕はこの欲望を解き放ちたいんだ……!

 どんな犠牲を払ってでもそれを成し遂げないと、もう限界なんだ……

 そんな心の中の悲痛な叫びも空しく、五花は僕の力の抜けた身体を絡めとるように抱き着くと、そのまま部屋まで引っ張っていく。

「はーい、お部屋に帰りましょうねー」

 僕は全てを諦めて、部屋まで連行されるに任せた。五花からは、相変わらずとんでもなく魅惑的な香りがしたが、僕の脳にはもう劣情が貯まり過ぎていて逆にどうでも良かった。不思議な心情だった。

 部屋に戻る途中、僕たちの歩みがゆっくりだった事と、廊下の道のりにはある程度の長さがあった事から、しばし会話に空白が生まれた。

 五花は表情を読ませない微笑みを浮かべながら、静かに僕を連れて歩いた。

 そうして十数秒の無言の時を経て、僕たちは僕の部屋の前に到着する。その間に、僕の興奮は少しだけ落ち着きを見せていた。

 部屋に入ろうとしたとき、僕の部屋の扉に、最近僕の描いたイラストが貼られているのが目に付いた。

 五花もそれに注目したようで、何かコメントをする事にしたらしい。

「これ、さっきもちらっと見ましたけど、なんだかよく見ると、無性に寂しくなる絵ですね」

 僕の貼ったイラストは、幻想的な夜の丘の頂上で、狼の耳を生やした少女が、一人で雄たけびを上げている様子を描いたものだ。

 僕が最近描いた絵の中ではかなり気に入っている一枚で、少女の雄たけびを上げるポーズが本物の狼を想起させるかのような力強さで描かれていて、そしてその表情にはどこか悲痛な孤独が泣き顔として表現されている。

 五花は気づけばその絵に見入ってしまったようで、目を見開いて、じっとその絵を眺め続けている。

「すごいですね……わたしはこういうイラストみたいなのは描いた事がないんですけど……なんていうか、差し迫ったものを感じる絵です……たっくんが描いたんですよね……?」

 五花は素直に感動してくれている様子で、僕はそれをなんだか狐につままれたような表情で見つめていた。

「そうだよ」

「なんだか、まるでわたしを見てるみたいな感じがします……」

 五花の表情はどこかぼうっとしていて、それでいて熱に浮かされたような興奮を感じさせた。

 僕はそんな五花の表情が、なんだか先ほど誘惑されていた時より遥かにずっと魅力的なものであるかのように感じた。
 
 それはどうにも放っておけない、危うさを感じさせる、そんな表情で……

「五花は、寂しいの?」

 僕の口から、気付けばそんな言葉が口を突いて出ていた。

 それは、まったく思考を差し挟む隙なく、僕の精神の奥深くから神様の悪戯でたまたま出てきたかのような、ある種の奇跡のような一言だった。

 そしてその奇跡は、五花の身体をびくりと震わせてその目を見開かせる程度には、衝撃を与えてしまったらしい。

「……どうして……どうしてたっくんは……」

 五花は、衝撃を受けながら、言葉を慎重に吟味するようにして、話そうとしていた。

「いやだ、こんなのわたしじゃない……」

 だが直後、何かを否定するように、小さくそんな独り言を呟く。

「大丈夫?」

 僕は素直に心配になって、そんな言葉を投げかけるが……

「……大丈夫です。わたしは大丈夫。大丈夫なんです……」

 僕は五花のそんな様子が不安でしょうがなくて、気付けば自分の中の劣情も忘れてこう言っていた。

「五花、部屋でちょっと落ち着いて話そうよ。あ、今度は服は着ててね」

 場を和ませるつもりでもなかったが、僕がそういうと五花はくすりと笑って、

「ふふ、たっくんもそういうユーモアがあるんですね。それ、ちょっと好きかもです」

 と言って、なんとなく照れ臭い空気になってしまった。

 とにもかくにも、そうして僕らは部屋に入って、五花がベッドに座り、僕が床に座って、改めて向き合って話を始めたのだった。