五花ちゃんのビッチは治らない?

 五十鈴五花は、異常な少女である。

 その事は、付き合い始めてしばらくしてからようやく分かってきた。

 付き合い始めた当初、僕は彼女と学校にいる間は恋人らしい事が出来ないので、積極的に自宅に彼女を呼んで、イチャイチャしようとした。

 彼女は気まぐれな猫のような性格をしていて、最初はまったく理由もなく断る事が多かった。

 そのたびに、僕はもっと彼女に好かれなければと、大変に焦りを覚えるのだった。

 だが、ついに彼女を自宅に誘う事が出来た時――

 僕は、ただただ煮えたぎったマグマのような性欲を、彼女に弄ばれるがままになっていた――

「ねぇ、たっくん。ほらほら、手が止まってますよ? 今日は一緒に勉強するんですよね? せっかくわたしが手取り足取り教えてるんですから、ちゃんとやらないとですよ……!」

 僕が自室のこたつに座って教科書とノートを広げて勉強している中――
 
 五花は、僕の背後に座り、僕は彼女に抱きかかえられるような恰好で、勉強する事を強いられていた。

 僕のTシャツ一枚になった背中には、ブラウスの奥からでも激しく存在感を主張する彼女の胸がぴったりと押し当てられて、むにゅむにゅとした柔らかさを伝えてきていた。

 その感触を味わい続けていると、僕は自分の興奮が際限なく高まっていくのを感じた。
 
 そして、五花は足癖も悪かった。

 五花はその短いスカートから伸びた瑞々しい太ももを、僕の脚の上に置いて、時々、その足先で、僕のふとももや股間をくすぐるようにするのだ。

 それはもはや完全に性的な接触といっていいレベルに達していると僕は思った。

 僕は、そうされるたびに、今すぐこの野獣のような欲望を解き放ちたくてたまらなかった。

 だが、ダメなのだ。

 僕は彼女と、「彼女に何をされても、彼女に無理やりエッチな事をしない」と約束してしまっていた。

 それは、言い換えれば、五花は僕をいくら弄んでも、僕に襲われるリスクが無い事を意味していた。

 僕は実際に体験して初めて、その約束の本当の恐ろしさをまざまざと味わっていた。

 五花は、そもそも頭のいい天才肌の少女だったが、こと性的な事柄についても天才と言って差し支えなかっただろう。

 五花は常に絶妙なタイミングで僕の性欲を刺激し、ムラムラが止まらなくなったタイミングで無慈悲にも勉強に話を移し、僕が普段なら簡単に解ける数学の問題すら、悪戦苦闘しているのを見て、

「たっくんはダメダメですねぇ。やっぱりわたしがもっと面倒みてあげないとダメですね? ほら、ちょっと息抜きしましょうか。わたしの太ももに頭を置いて寝ころんでくださいよ? 膝枕してあげます。えへへ、なんだか恋人っぽいですね!」

 などと、またしても僕の煩悩を刺激しにかかるのだ。

 色々と言いたい事はあったが、僕は結局五花に抗う気力もなく、ただただ言われるがままに膝枕を享受する。

 膝枕されている間、頭で味わう彼女のぷにぷにとした柔らかい肉の感触と、目の前に広がった乱れた短いスカートに、面積の大きな肌色のふともも、その下から覗く桃色の下着のコンビネーションで、僕はもう本当に、これ以上は我慢できないという境地にまで至ってしまった。

 とにもかくにも、性欲を発散したい。

 そうしないと、僕は本当にこの大切な彼女を襲ってしまう。

 そう思った僕は、「ちょ、ちょっとトイレ……」といって席を立とうとする。

「……一人でエッチな事しちゃうんですか?」

 だが返ってきた彼女の言葉は、思った以上に直接的に、僕の行動を咎めるものだった。

「……ねぇたっくん、彼女と勉強してて、エッチな事が我慢できなくて一人エッチしちゃうのは、ちょっと男として格好悪すぎじゃないですか? オタク君ってそういう人の事を言うんですかね? わたし、自分の彼氏が、そういう格好悪い人なんだとは、思いたくないんですけど……」

 僕は、自分の情けない行動を馬鹿にされ、オタクである事も馬鹿にされたと思い、自分が情けなくてたまらなくなった。

「大丈夫ですよ、たっくん。わたしがちゃんと勉強できるように、サポートしてあげますから♪ ほら、トイレなんて嘘言ってないで、こっち座ってくださいよ♪ 彼女が密着して勉強教えてくれるなんて、滅多にない機会ですよ? それも成績優秀万能美少女の五花ちゃんが教えてくれるんですから♪」

 五花は情けない僕を見てどんどん機嫌を良くしているようで、楽しそうな口調と表情で僕を再び勉強机に座らせようとする。

 僕に、逆らう手立てはなかった。

 気分は、処刑台に向かう囚人だったが――

 それに抵抗する方策は、もはや一切残されていなかった。

 それからも、僕は散々弄ばれて、からかわれて、性欲は限界を超えて、股間がみしみしと痛くなっていたが、それでも解放してもらえず――

 彼女が飽きて勉強を終える頃には、僕は精魂尽き果てていた。

()()()勉強会でしたね! またやりましょうね! わたし、()()()()たっくんと付き合ってよかったです!」
 
 彼女を自宅の前で見送ってから、僕はダッシュで自室に駆け込んで、何度も性欲を発散した。だが、それでもどこかすっきりしないものが僕の中にくすぶっていたのだった。

 それから先も、五花の誘惑は形を変え何度も僕を襲った。

 そのたびに僕は疲労困憊し、彼女の言いつけを破って一人でしてしまいたい気持ち、彼女を襲ってしまいたい気持ちで一杯になりながら、必死に性欲と戦っていた。

 そんなある日――

 僕は彼女がトイレに行った際、彼女の鞄から手帳が落ちているのを見つけてしまう。

 僕はなんとなく、その手帳の開いたページが気になった。

 そして、見てしまう――

 今日の日付には、僕の名前がハートマークとともに記載されていて――

 明日の日付には、他のクラスメイトの男子の名前が、ハートマークとともに記載されているのを……!

「え……!?」

 僕は、愕然とした。

 よく見ると、他の日付には、さらなる他の男子の名前が、ハートマークと共に記載されている。
 それらは全て同じ学校の男子生徒の物と思われ――
 人数は僕含めて合計5人に及んでいた――

「……これはなんなんだ……五花……?」

 僕は帰ってきた五花に手帳を見せて、彼女の真意を問う事にした。
 それは愛しい彼女を失うかもしれないとても怖い行為だったが、今回ばかりは勇気を出してやらないといけないと思った。

「……ああ、まだ気づいてなかったんですね? 意外です。たっくんって、結構のんびり屋さんなんですね」

 だが、彼女はそんな僕の勇気を嘲笑うように、なんだそんな事か、といった様子で言葉を返してきた。

「……いったい、どういう事?」

「……え? 言わないと分からないんですか? しょうがないなぁ……」

 彼女は呆れた様子で、俺にこんな言葉を放った。

「わたしみたいな超絶美少女が、たっくん一人と付き合うわけないじゃないですか。これはそもそも浮気前提の話ですよね?」

 彼女は、それがまるで世界の理であるかの様子で、そう語りだした。

「言ってしまえばですよ――」

 五花は、その可愛すぎるほどに可愛らしい瞳に、時々彼女が垣間見せる漆黒の闇を浮かべて、こう話していく。

「わたしは、いわば女王蜂なんです。キミ達男子は、オス蜂ですね。オス蜂達は必死に女王蜂の気を引こうとダンスして、選ばれた男子だけが交尾できるんです。わたしはそれを上から眺めているのが、とっても好きなんですよ?」

 僕は愕然とした。

 そうだったのだ。

 僕にとって、彼女は、五十鈴五花は、かけがえのない、大切な彼女だったが――

 彼女の目からは、僕はたくさんいるオス蜂の一匹に過ぎず――

 彼女はそんなオス蜂達に、ダンスをさせて遊んでいるだけだったのだ――

「分かりましたか、たっくん? これが、大人の世界ってやつですよ」

 僕はそんな彼女の言っている事が正しいのかどうかも、もはや良く分からなくなり……

「わたしと別れたいなら、別れてもいいんですよ?」

 それでも、彼女とは別れたくなかった。
 
 さんざん性欲を弄ばれたせいかもしれないが……

 僕はもはや、彼女の容姿に、声に、性格にすら、魅了されきっており――

 彼女なしの人生を考える事すら出来なくなっていた――

「いや……これからも付き合って、欲しい、です……」

 そういうと、彼女はにっこりと可憐に笑って、こういった。

「うん、いいですね。すっごく情けなくって、すっごくわたし好みですよ、今のたっくん。ぞくぞくしちゃいました。帰ったら一人でたっくんでオナニーしますね」

 そんな言葉に、また僕は性欲をダイレクトに刺激されて、股間が痛くてもだえ苦しむのだった。

「あはは、笑えますね! 今ので股間、痛くなっちゃうんですね! あはははっ!」

 そうして彼女に笑われながら、性欲を我慢するのは、とっても辛かった。

 だが、これしか僕に道は残されていなかった。

 彼女無しでは到底生きてはいけないほどに、僕は彼女に恋焦がれていたのだから――

 だが、結局僕は、彼女のいう「オス蜂の競争」に勝ち抜く事は出来なかった。

 そもそも、どうすれば勝ち抜けるのかも良く分からない、ルール不明の競争なのだ。

 それも当然だった。

 もっと言えば、僕には競争に勝ち抜く元気も残っていなかった。

 ただただ、日々与えられる彼女からの性的な誘惑に、耐え忍ぶ事しか出来なかったのだ。

 それしか、僕には出来なかった。

 だから、僕に飽きた彼女が、別れを切り出すのも必然と言えた――

「なんか、最近のたっくん、やる気が感じられないですよね? ……別れましょうか。うん、決めました」

 そんな一言で、俺は彼女から切り捨てられた。

 僕はその時ですら、いまだに彼女に強い恋心を抱いて、なんとか大事にしたいと思っていたが――

 もう僕は、疲れていたのかもしれない――

「ああ……わかったよ……ごめんよ、五花。ごめん」

 そうして僕は彼女に振られ――

 僕は彼女を失った後の灰色の日々を、主に受験勉強とイラストで紛らわせていた。

 彼女と別れてからの方が、誘惑がなくなって勉強やイラストに集中できていたのは、皮肉な事だった。

 それから時は経ち――
 僕は高校一年生になっていた。
 前からたっくんは不思議な雰囲気を持った男の子だと思っていました。

 美術部に所属する朝森海斗という男の子と親友らしく、よく二人でマンガやアニメ、イラストなどの話をしているたっくんは、一見すると普通のオタクっぽい男の子です。

 わたしが近づいた時の反応も、普通。
 挙動不審になって、テンションが上がって、緊張して、ドキドキしてくれます。
 男の子の中でも、分かりやすい方なくらいです。

 でもたっくんは、わたしがそうやって心の中でたっくんの事を上から見下ろすように見つめていると、そんなわたしの瞳を覗き込んできて、まるでわたしと同じステージまで上がろうとしてくるような、そんな感じがします。

 そういう目をされるとき、わたしは落ち着きませんでした。

 自分のこの醜い本性が、バレているのではないかと不安だったのです。

 自分の良さをパラメータで表すとすると、わたしのパラメータは、顔の良さとか胸の大きさとか、そういう所に全振りしてしまっていると、わたしは思っています。

 もちろん普段は性格も魅力的な女の子であろうとしているつもりですけど、残念ながらそれは演技ですからね。

 もっとも、こんな演技も見抜けない馬鹿な男の子たちを騙して弄ぶのは、いまだにすごく楽しくて、なんというか、自分の中の欠けた何かが、その瞬間だけ埋められるような、そんな感覚を覚えます。だからやめられません。

 だけどもたっくんは、そんなわたしの欠けた何かがある穴まで、見通してくるような目を、時々してくるのです。

 河原で話した時は、特に不思議な感じがしました。

 普段だったら絶対話さないような、わたしの、わたしだけの内面を、たっくん相手だと不思議と話してしまったのです。

 あれは何だったんでしょう。

 正直言って、自分が分かりません。

 だからわたしは、そんなたっくんに、内心苛立っていて……

 普通の男の子より念入りに、たっくんがわたしにメロメロになるまで、誘惑し続けました。

 その甲斐あって付き合うようになってからは、付き合っているという状態を活かして近距離で甘く囁き続ける事で、たっくんは完全に堕ちてしまいました。

 たっくんは自分の性欲ばかりに夢中になって、それを晴らす方法しか考えられなくなっているようでした。

 たっくんは必死に、わたしに懇願するべきか、内心で葛藤しているのがありありと分かりました。

 そんな様子を見て、わたしはようやく、たっくんという良く分からなかったモノを支配した、と思いました。

 それは一種の達成感を伴う体験でしたが……

 同時に、わたしは自分が酷く失望している事を感じていました。

 いったい、なぜ?

 それは、その時のわたしには分からない事でしたが。

 もしかすると、わたしはわたしの中で、たっくんという存在に、何か可能性を感じていたのかもしれません。

 わたしの中に幼い頃から潜み続けるこの闇を、見事な手法で晴らしてくれるような、そんな可能性を――

 だけどもたっくんは、しょせんは普通の中学3年生の男の子に過ぎず、どんなに分かったような目をしていても、しょせんは性欲に勝てない愚かな男の子である事が証明されてしまいました。

 ――わたしはたっくんに、性欲に負けないでほしかったのでしょうか。
 わたしの魅了に負けず、わたしのいるこの暗闇まで、辿り着いてほしかったのでしょうか。

 正直言って、それは分からないです。

 分からないですが――

 わたしの浮気の証拠を発見したたっくんが、わたしにそれでも従い付き合うと言った時、わたしは確かに、言い知れぬ黒い快感を感じていて――

 わたしは宣言通り、その日の夜、たっくんでオナニーしました。

 想像の中で、たっくんは優しい表情ながらも、わたしの全てを見通すような目をしてわたしを責め、それは大変興奮したのですが――

 わたしが本気で誘惑すると、たっくんは結局は性欲に負けて、猿のようにわたしを犯してしまいました。そう想像したとき、わたしは自分の中で何かが冷めるのを感じて――

 わたしは、その見通すような目を続けてほしかったんだと、ようやく気づきました。

 だけどもわたしにたっくんがその目を向けてくれる事はついぞなく――

 たっくんは完全に余裕を失い、わたしのされるがままになってしまいました。

 たっくんを操り人形にするのは、最初は楽しかったですが、段々と飽きてしまいます。

 だから、わたしがたっくんに別れを切り出したのは、自然な成り行きだったと思います。

 そんなわたしに、何かを酷く諦めたような表情で、ごめんなと謝るたっくんは――

 なんだか私の心まで、酷く痛ませましたが、その痛みをわたしは無視しました。

 これでもわたしは、自分の事を真正のクズだと思っています。

 クズだからこそ、自分の快感には正直に、クズらしく生きていこうというのがわたしの人生方針なのです。

 そうして、それからしばらく、クラスメイトのたっくん以上につまらない男の子たちで遊びながら退屈な日々を過ごしていたわたしでしたが――

 ある日、たっくんの親友である男の子、朝森海斗くんが、一人で重そうな荷物を運んでいる場面に出くわしました。

 わたしは優等生の仮面を被って、海斗くんを助けます。

 ついでにべたべたとボディタッチをしてみると、海斗くんは顔を真っ赤にして照れていました。なんだか可愛いな、と悪戯心が芽生えました。

 そうですね。

 次は友人同士、セットで堕としてみるのも面白いかもしれません。

 たっくんには何か可能性のようなものはあった気がしましたし、もしかしたらその親友であるこの可愛い男の子にも、何か可能性はあるのかもしれないです。

 そう思うと、退屈が紛れそうな、そんな予感がしました。

 だから、わたしは――

「海斗くん。わたし、海斗くんと一緒にいると、なんかほっぺたが熱くなってきちゃうんです。これなんでですかね? なんでだと思います?」

 そうやって意識させ――

「ねぇ、海斗くん。こうやってくっついてると、なんだか楽しいですね。海斗くんは嫌ですか? え、嫌じゃないです? そうなんですね。ふぅん」

 胸の谷間を見せつけながら密着する事で、性欲を喚起させ、その興奮を恋心と錯覚させていきます。

 そうしているうちに、たっくんの親友はあっという間にわたしにメロメロになってしまって――

 告白してきたので、たっくんと同じ条件をつけて、付き合う事にしました。

 だが、付き合う事にしてから、気付いた事があります。

 彼の家には、美術部員らしくたくさんの絵が飾られていて、その多くは彼自身が幼い頃から描いてきた絵なのですが――

 その絵が、無性にわたしを苛立たせるのです――

 わたしは、出来ればその理由を最後まで見ないようにしたかったです。

 けども、さすがにわたしも馬鹿ではないので、気付いてしまいます。

 わたしは、海斗くんの事が羨ましかったのです。

 ――嫉妬、してしまっているのです。




 ――わたしはかつて、絵画というジャンルで、天才少女と呼ばれていた事がありました。

 わたしは幼い頃から、特に母親の強い期待を感じながら絵の英才教育を受け、複数の絵画コンクールで賞を取っていました。

 当初、わたしはすっかり天狗になっていました。
 自分は才能があるのだ。
 自分の絵は、母親や、父親や、周囲の大人たちを喜ばせる力があるのだ。

 そんな考えが、わたしの心をどんどん浮足立たせていきます。

 ですがそこまではまだ幸せな方でした。

 わたしの考えは、儚い幻想にすぎませんでした。

 いつしか、際限なく高まり続ける母親の期待と圧力が、だんだん物凄い負担になって、わたしの上に圧し掛かっていきました。

「そんな絵を描いちゃダメっていってるでしょう! そんなんじゃコンクールの人たちは喜ばないわ! もっと壮大で、芸術的で、子供らしさも演出した、そんな絵を描かないと!」

 わたしは自分のやりたい絵を描こうとするだけでとことん罵倒される環境の中で、社会に受ける絵、大人に受ける絵、コンクールで受ける絵というものを学ばされ、強制されていきます。

 それでもわたしは、描き続けました。
 幼いわたしは、母親に認められたかったのです。
 母親に、少しでいいから愛してほしかったのです。

 ああ、そういえば結局この人は最後まで愛しているとは言ってくれなかったな……

 それでもわたしは、描いて、描いて、描き続けて――

 ある日、限界を迎えたわたしの精神は、彫刻刀を持って、今まで描いてきた全ての絵画をズタズタに切り裂いてしまいました。

 それを知った父親は、それまで仕事が忙しく、あまり家庭に携わっていなかったのですが、わたしを愛する気持ち自体はあった事から、母親に激怒しました。
 
 二人は離婚する所まで行きつき、父親はどういう手法を使ったのか、親権まで勝ち取ってしまいます。

 わたしは絵を辞めて、平穏な暮らしを手にしたかに見えましたが、しばらくの間、わたしは自分のやりたい事をやる事に強いトラウマを感じ、人が喜ぶ事、人からやれと言われた事だけをやろうとする、そんな惨めな生き物に成り下がっていました。
 わたしは強い力に従う事が習慣になっていたのです。
 わたしは力を恐れ、その影響下に存在している事だけに安息を見出す子供に成り下がっていたのです。

 学校ではいい子のフリをして、先生の言う事を積極的に推進していく。そんな哀れな子供が、わたしでした。

 そんなわたしの転機が訪れたのは、小学六年生の時でした。
 その時、徐々に周囲が異性に関心を持ち始める空気の中、自分の事を好きだという男子に、わたしは告白されました。
 わたしはその男子の事が、特に好きではなかった事から、気まぐれでその男子にいじわるな命令をしてしまいます。

「わたしの事、好きなんですね。だったら、その大好きなカード、そこから投げてみてくださいよ。そしたら、付き合うか考えてあげます」
 
 そこは開放された小学校の屋上でした。眼下には一段下がった広場に置かれた貯水タンクの水面が広がっています。

 ――普通に考えたら、やるわけがない状況です。

 わたし自身、当初は断る言葉の代わりとして、そんな意地悪を言っていたつもりでした。

 ですが――
 驚くべき事に、その男子は、わたしの言葉にそのまま従ってしまい、小学生のお小遣いでは高額な部類に入るトレーディングカードのデッキを、貯水タンクに投げ落としました。

 その瞬間――
 わたしが受けた衝撃は、どれほどのものだったでしょう?
 
 ――そのときわたしが感じていたのは、紛れもない性的快感でした。

 力があれば、人を従わせられる。
 そして異性から見たときの自分の魅力というものは、すなわち力なんだ!

 それを自覚してから、わたしは変わりました。

 中学に入っても、絵画への未練のようなものはありつつも、絵画を描こうとはしないわたしは、美術部には怖くて近づけませんでした。

 部活は無難にバドミントン部を選びます。
 ほどなくして部活の先輩に告白されて試しに付き合う事になりました。
 
 それは実験と人間観察を兼ねていました。
 
 その中で、わたしは興味本位に始めたゲームをきっかけに、男を性的に弄ぶ事を覚えていきます。
 そうした中で、わたしはその先輩の心理を完全に掌握し、支配しました。
 わたしの性的ないじめのせいで、勉強に全く集中できなくなった先輩は、見事に受験に失敗します。
 その先輩は、家が貧しい事から私立高校には進めず、中卒として働き始める事になってしまいました。

 さらに、そんな先輩をこっぴどく振ってみると、先輩は人生に絶望して、貧しいのに仕事をやめて引きこもりになってしまいました。そんなの近いうちに死ぬしかなくなるだろうに、なんとも可哀想な事です。

 これは、わたしにとって新たな驚きを与える出来事でした。

 自分に他人の人生をこれほど左右するまでの力があるなんて思ってもみなかったのです。

 同時に、わたしは自分の事を、本物の、真正のクズなんだと、正しく認識しました。

 それは一種の新たなトラウマにもなりましたが――

 わたしはクズらしく、快感を追い求めて生きていこうと思いました。

 それからわたしは、クラスメイトの男子たちと複数浮気をして遊ぶ事を覚えました。

 そうして女王様を気取っていると、なんだかウキウキするような楽しさを感じる事もありましたが――

 結局の所、海斗くんの描いた見事な絵画を見るだけで、その楽しさは儚くも消えて散ります。

 海斗くんは、正しく天才でした。

 かつて挫折したわたしの、その真っ直ぐ進んだ遥か先にいる男の子でした。

 その事を思うと、わたしはこのたっくんの親友こそ、もっとも念入りに堕とすべき、最大の敵ではないかとも思えました。

 わたしがこのたっくんの親友を支配する時、きっと普段では得られない強い快楽が得られるに違いありません――

 そんな気がして――

 ふふっ――

 幸い、もうすぐ受験がある。

 この絵描きの少年は、わたしより頭がいい。

 だから、わたしはまずこの少年の成績を落としてやろうと思いました。

 それで、わたしが進学する高校と同じ高校に進ませるとか、楽しそうじゃないだろうか。

 そうと決まれば――

「ふひひ……」

 わたしは一人部屋の中で、そんな根暗な笑みを浮かべます。

 それは一人でいる時にしか見せない、わたしの本質が出たような、そんな醜い笑みでした。

 そうしてわたしは考えます。

 絵描きの少年で、どのように遊んで、どのように誘惑し、どのように堕落させるのか――

 そうしてそんな楽しい思考がふと、こんな風に発展する。

 ――これを知ったとき、たっくんは何を思うだろうな……

 たっくんは、この親友の事を心から大切に思っているようだった。

 そんな親友が、自分が恋い焦がれた少女に誘惑され、堕落させられていると知った時――

 たっくんは果たして、どんな感情を、どんな思考を抱いてくれるだろうか――

 そう思うと、わたしはより、この絵描きの少年を堕落させるのが楽しみになった。

 そうだな、絵を描くのもおぼつかないくらい、メロメロにしてあげよう。

 いや、誘惑に絵を絡めてみるのも、面白いかもしれない。

 考えていると、色々夢は広がりました。

 だから――

 わたしはこの夜遅くまで自分しかいない家の中でも、寂しくはないのです。

 この孤独は、わたし自身の挫折と、心の闇がもたらしたものだから、そもそも自業自得なのです。

「うぅ……うぅう……」

 ――突然、発作のように、辛さがやってきました。

 だがそれを収めてくれる存在は、他に何もありませんでした。

 そう、何もないのです。

「うぅ……うぅううう……うぅううううううううううううううううう!」

 わたしは苦しみました。

 まるで一人で神様に罰を与えられるように、苦しみました。

 だが誰もいません。

 誰もいないのです。

 寂しい。

 寂しいです。

 寂しいよぉ!

 そう叫びたくなりますが、その愚かさは自分が一番よく分かっています。

 その寂しさの果てに――

 わたしはふと、たっくんの笑みを幻視しました。

 たっくんは透き通るような微笑みを浮かべて、わたしの全てを見通すような目で、優しくわたしを見つめてくれています。

「ははっ……」

 わたしは、なんだかおかしかったです。

 こんな意味の分からないイメージで、自分が楽になっているのが、一番おかしかったです。

「たっくん……また遊びたくなってきたなぁ」

 少し元気を取り戻したわたしは、そう強がるような言葉を口に出します。

 そうする事で、わたしは、自分が、自分らしくいられるような、そんな気がしました――

 だから――

「父さんな、再婚する事にしたんだ」

 それから月日が経ち、高校に入学するのと同時、そんな突然の知らせと共に引っ越しをする事になり、そうして増えた同居人の顔を見たとき――

 わたしは、思わず笑っていました。

「ふひひ……」
 高校1年生に上がった僕は、親友であり、同じ高校に進学する事になった朝森海斗と一緒に、入学式に向かう道のりを歩いていた。

「受験終わった後の春休みは本当天国だったな。僕、溜まってたラノベとか漫画をめちゃめちゃ消化したよ。あと、イラストもだいぶ練習できたかな」

「……へぇ。卓はすっかり読書と芸術の春だったわけだ」

 そんな落ち着いた様子で微笑んで見せる海斗は、今日も格好良かった。なんというか、アンニュイな感じのイケメンなのだ、海斗は。
 髪型はさらさらとした黒髪をナチュラルな感じにスタイリングした、そこはかとないお洒落さのふんわりヘア。
 二重でぱっちりとしつつも少し儚い感じの瞳に銀縁の眼鏡をかけて、儚い系インテリイケメンというある種の女子には最強に受けそうな印象に仕上がっている。

「海斗は違うの? ま、海斗の成績だったら、この桜が丘高校に進学するのくらい、元々大して勉強しなくても訳ないだろうけど。というか本当に、もっと良い高校行かなくて良かったの?」

「うーん、まあ色々事情があってね……僕も悩んだんだけど、やっぱり大事にしたいものがあって」

「……へぇ。良く分からないけど、まあ海斗がそういうならそうなんだろうね」

 僕はこの海斗という友人の知性に、全幅の信頼を置いている所があった。

 海斗は本当に頭が良くて、どんな問題を出しても瞬時に正解を閃くような、独特の優れた感性を持っている所がある。

 その感性の良さは、中学で海斗が所属していた美術部に置いても十全に活かされていて、海斗は全国規模のコンクールで入選するほどの腕前を持つ。

 そんな海斗だから、僕が頑張ったら進学できる程度の高校――いわゆる中の上くらいの、ほどほどの進学校――を受けると聞いた時は驚いた。

 だが海斗は、何度聞いても、そのはっきりとした理由をはぐらかして教えてくれなかった。

 まあこういうのは無理に聞くようなものでもない。

 そう思い、これまで僕はあまり深くは突っ込まずにいたが……

「あれ、たっくんに海斗君ですね。おはようございます」

 そんな俺たちの登校風景に、一人の少女が現れる。

 五十鈴五花。

 僕がかつて一時期付き合っていた元カノにして――

 男を弄ぶ、最悪のビッチだ――

 だが表向きは付き合っていた事などない事になっている僕たちだ。

 僕は、彼女との約束くらいは守るべく、最低限の対応をする事を余儀なくされた。

「久々だね、五十鈴。キミも同じ高校とはね」

「そうですね、なんだか運命を感じちゃいますね。海斗君も、一緒になれて、嬉しいです」

 そういわれた海斗を見ると、なんだか切なそうな表情で、五花の事を眺めている様子だった。

(……?)

 海斗がそんな様子を見せる理由が良く分からず、俺は首をかしげた。

「五十鈴みたいな女の子にそういう事言われると、勘違いする男が出るからダメだよ」

 だが次の瞬間、海斗はいつもの調子を取り戻して、そんな返答を五花に返す。

 僕はそれを見て、気のせいかと思い、普通に会話に加わる事にした。

「五十鈴の事だし、勘違いしてる男を見て楽しんでるくらいの、いい性格してるんじゃないの?」

 俺の少し攻めた会話にも、五十鈴は余裕の笑みを浮かべたままだ。

「いやですねぇ、わたしの事なんだと思ってるんですか? こんな純粋で無垢なやんごとなき美少女なのに」

「鬼か悪魔」

「むかつきますねぇ!」

 そんな、表面上は、同じ中学から進学した男女の友達といった風の会話をしながら、僕たちは校門をくぐる。

 案内に従いクラス分けの表示を眺めた俺は、海斗とは隣のクラスに、五十鈴とは同じクラスになっていると知り、逆なら良かったのに、と心から思うのだった。

「あれ、たっくんまた同じクラスですね。なんだか縁がありますねぇ」

「嬉しくないけどね」

「ええ……最近たっくん冷たいですねぇ」

 そのまま僕と五十鈴は1年1組に、海斗は1年2組に向かう。

 そうして、学校のホームルームが始まり、僕たちは夢の高校生活の始まりを、静かに迎えたのだった。




 *****




 その日の夕方、家に帰ると母親がいた。

 母親は、片親で僕を育ててくれた結構な苦労人なのだが、それを全く感じさせない明るさが魅力の、いい人だと思っている。それなりに年を取っているが、いまでも結構美人の範疇に入るかもしれない。

「卓、今日は大事な話があるのぉ」

 その口調は、年をまったく感じさせない、むしろ幼い部類に入るようなものだ。

 水商売の仕事などをしていた時期もあるようだから、あまり社会経験というものに揉まれていないのかもしれない。今ではスーパーで正社員として働いているようだが、職場ではどうしているのかちょっと心配である。

「何?」

「わたし、再婚することになってぇ」

「……は?」

 あまりにも寝耳に水だった。

「そうなんだ。まあ、なんていうか、おめでとう?」

「ありがとー。それで、なんていうか、その相手の男の人と、その娘さんが、今日からこの家に住む事になっててぇ」

「……はぁ!?」

 思わず絶句してしまいそうになる衝撃が僕を襲う。

 当然だ。

 娘って、母さんと再婚するくらいだし、もしかすると、僕くらいの年なのではないだろうか?

 それって、なんというか、すごくライトノベルのラブコメにありがちな展開ではないだろうか?

 それは僕にとって、魅力的である以上に、一種の恐怖を感じさせる出来事だった。

「いやいやいや、いきなりすぎるでしょ。報告、連絡、相談、できてなさすぎ」

「そうねぇ、ごめぇん。なんか、言ったら怒られそうで、言うに言えなくてぇ」

「……そうか。本当に、来るんだね」

「そうよ、もうすぐ、来ると思う……」

 その瞬間、ピンポーンと玄関のチャイムが鳴る。

「お邪魔します」

「お邪魔します」

 成人した男性の声と、なんだかずいぶんと聞き覚えのある少女の声がした。

 え、この声は……そんな、まさか……

「こんにちは。君が卓くんだね。よろしくお願いするよ。五十鈴舞人と言う。こっちが、娘の五花だ」

「……あれ、たっくんですね」

「マジで……?」

 正直言えば、五十鈴、という珍しめの苗字を聞いた時点で、良くない予感はした。

 だが、まさか、本当にこんなラノベみたいな事が起こるとは……

「いやぁ、まさか()()()()()()と兄妹になるなんて偶然ですね! 改めてよろしくです、たっくん!」

 そこに現れたのは、誰あろう、五十鈴五花その人だった。

 どうやら、超絶美少女の元カノジョにして、超絶ビッチのクソ女が、僕の義妹になってしまったらしい――

「ふひひ……」

 五花は、見た事もない気持ち悪い表情で、なぜか僕を見て笑っていた。
 それから、部屋だけはたくさんあるこの家の空いている部屋のうち2つが五花の部屋と五花の父親の部屋に決まり、二人は引っ越し作業を進めていった。

 僕は五花の作業を手伝ってほしいと母親に依頼されたので、何の因果か彼女の勉強道具を出して机に並べるなどしている。

 五花はその後ろで何やら段ボール箱を開けてごそごそとやっており、どうやら小物の類を小物入れに整理して入れているようだった。

 部屋の中は二人っきり。

 父親と母親の作業している部屋はここからは遠く、僕たちが何をしようと二人には悟られない状態だ。

 僕はそのシチュエーションに、もう別れた彼女といるだけのはずなのに、なんだかドキドキとしてしまっていたが――

「たっくん、さっきから保健体育の教科書をじっと持ったまま、何をしているのですか? わたしに保健体育を教わりたいというメッセージですか? だとしたら笑えますね」

 気づけば五花の事ばかり考えていた僕は、恥ずかしい事に保健体育の教科書を持ったままフリーズしてしまっていた。

 思わずかぁっと顔が熱くなるのを感じる。

「いや、これは違くて! ただぼうっとしていただけで! 他意はないから! 本当に!」

 焦ったように僕が言うと、五花は我慢できないとばかりに大笑いしはじめた。

「あはは! ははははは! たっくん面白すぎますって! いくらなんでも焦り過ぎですよ。本当、変わってないなぁ……」

 五花は、僕との日々を懐かしんでいるかのような様子で、そんな言葉を口から漏らす。

「悪かったな、変わってなくて。大体別れて半年くらいじゃ、そんなに人間変わらないもんだろうに」

「そうですかね? 意外とその半年の間に、好きだったあの子は大人の階段を登っていたりするものかもしれませんよ? ――たとえば、わたしが彼氏の誰かとしちゃうとか……」

 その短い言葉で、僕の心には激流が吹き荒れた。

 五花が彼氏としちゃう。

 僕が出来なかった、あんな事やこんな事を。

 そんなの、そんなの……

「あはは! その様子だと、まだわたしに未練あるんですね? なんだか可愛いなぁ。ねぇ、わたしたち、また付き合いませんか? 一つ屋根の下で暮らすんだったら、前は出来なかったあんな事やこんな事が、簡単に出来ちゃうかも……なーんて♪」

 流石の僕も、その言葉が僕の尊厳を冒涜する意図で発されている事くらいは分かった。

「ふざけるなよ。キミとは二度と付き合わない。僕はそう決めたんだ。僕はもっとまともな、僕の事を尊重してくれて、お互いに優しく想い合えるような女の子と、ゆっくり距離を縮めて、それから付き合うんだ。あんな、悪夢みたいな恋愛、もうこりごりなんだよ……」

「へぇ? そのわりには……」

 五花が突然、着ていたTシャツを脱ぎ捨て、上は水色のブラジャー一枚になってしまう。

 僕の視線は半ば強制的に動かされて、彼女の胸元の膨らみ、谷間に釘付けになってしまった。そこに僕の意思は一切関係していないかのように感じた。なにせまずその本人が抜群に可愛い。そしてその可愛い女の子が、他では到底見られないほど蠱惑的なボディラインをしているのだ。

 そんな事を感じていると、きつめのジーンズを着ていたので股間にみしりと痛みが走る。そこまでの生理的反応が、彼女がちょっとした気まぐれを起こすだけで、あっという間に僕に強制的に引き起こされてしまう。僕はそれを、純粋に屈辱だと感じた。

「なんだか妹を見る目とはちょっぴり違った目つきをしているみたいですね? というかそのジーンズ、わたしの前では着ない方がいいんじゃないですか? 痛そうで笑えます」

 五花には全てお見通しのようだった。まあ、さんざん僕で遊んできた彼女なのだ。それも当然だろう。

「ねぇ」

 五花はそのまま、僕の方へとにじり寄ってきて、そのまま僕がいる壁際の壁を手で押すようにして、僕をその腕で抱き締めようとしているかのような格好になる。

「実はわたし、これでもたっくんの事、特別な男の子だと思ってるんですよ? わたし、たっくんと付き合ってから、たっくんでしかオナニーできなくて困ってるんです。なんでなんでしょう? たっくんのその、わたしの奥の奥まで見通してくるような目を見てると、お腹の中が熱くなって、思わずたっくんに身体を捧げたくなっちゃうんですよね。わたし、おかしいですかね? これも一種の恋という奴なんでしょうか? ねぇたっくん、何か言ってくださいよ?」

 至近距離まで来た半裸の五花の身体からは、桃とココナッツを混ぜたようないい香りがした。フェロモンという奴は人類には存在しないという学説を昔何かのテレビで見た事があったけども、そんなのは真っ赤な嘘っぱちだと僕は思った。その匂いを嗅いで、五花のとんでもない告白を聞いた僕は、ジーンズが破れてしまうんじゃないかと思ってしまう程度には、猿のごとく興奮してしまっていたのだから。

「い、五花……その……僕は……今でもキミの事を……」

 僕が超えてはいけないと定めたラインを超えて、彼女に真実の想いを話してしまいそうになったその時……

「卓、五花ちゃんの部屋の方はどうかしらぁ? ちょっとそっち行ってもいいぃ?」

 突然、僕の母親の声がして、僕はハッと正気に返った。

「五花、まずいって……」

 五花は落ち着いてにこりと笑うと、さっと後ろに跳ねるようにジャンプして、脱ぎ捨てたTシャツを着なおした。そのセクシーな仕草に、またしても興奮してしまっていた僕だったが、今から母親が来るとあっては、そんな様子はお首にも出すわけにはいかない。

「たっくん。同棲生活、楽しめそうですね」

 五花はそう小声でいって、外見だけなら天使のようなその相貌で、まばゆい笑みを浮かべた。だが僕にはその笑みは、タチの悪い悪魔に目をつけられたようにしか感じられなかった。
 あれから夕食を取り、なんだか集中できない中でイラストの作業をしたり風呂に入ったりしてからベッドに入った僕は、眠れない夜を過ごしていた。

 五花の部屋は、何の因果か僕の隣の部屋だった。五花が部屋の配置を聞いてから、ここがいいと宣言したからだ。

 僕は薄い壁一枚隔てた先で、五花が寝ている姿を幻視していた。

 五花は、その蠱惑的な身体つきを、先ほど見かけたピンク色の可愛らしいパジャマで包んで、ベッドで布団を抱き締めて眠りについている事だろう。

 それは五花の事が未だに気になってしょうがない僕にとって、到底無視する事は出来ない想像だった。

 五花はどうして隣の部屋を選んだのだろう。

 隣というのは、一番僕の部屋を訪れやすい配置であるともいえる。

 五花は僕の部屋を訪れて、何かをするつもりなのだろうか。

 あの地獄のような夏の日々、僕が五花に散々されていたような事を、またするつもりなのだろうか。

 そう想像の翼を広げていくと、僕は気づくと興奮して、我慢ならない心境になっていた。

 僕はそっとスマートフォンを起動すると、あの夏の日々に五花から戯れに送り付けられた、黒色のミニスカートの下から桃色の下着が見えている五花の自撮り画像を開いてしまう。

 今日まで絶対に開かないように鉄の意思で封印してきたその画像は、いざ開いてみると、本当に魅力的な美しい肢体が表示されていて、それがあの五花のものだと認識すると、僕の劣情を痛いほど刺激した。

 そのまま僕はその劣情を発散しようと、一人で行為に及ぼうとして……

 コンコン、と突然部屋の扉がノックされる。

 ドキリと、心臓が痛いほど高鳴った。

 そして、許可した覚えもないのに、訪問者が部屋へと入ってくる。

「こんばんは、たっくん。なんか寝れなくて、遊びにきちゃいました」

 暗い部屋にうっすらと月明かりが差して、その微かな光が五花の憎らしいほどに可愛らしい顔を幻想的に照らした。

 それを見た僕は慌ててスマートフォンの画面をブラックアウトさせて、そのまま布団の中へと隠す。

「あれ、なんだか怪しいご様子ですね? スマートフォンをわざわざ布団の中に隠すなんて。ちょっと見せてくださいよ」

「い、いやだ!」

 僕は気の利いた反応も出来ず、とっさに自分を守ろうと、そんな愚かな発言をしてしまう。

「へぇ? たっくんの分際でわたしに逆らうんですね? そういう事を言うなら……」

 五花は僕が寝転がっているベッドに近づくと、「えい」と声を出しながら身を投げ出して僕のベッドの中に突撃してきた。

「ちょ、待って……! マジでダメだって!」

 僕はそう言いながら抵抗しようとするが、暗い部屋の中で突然密着する事になった五花の身体の感触とか、髪の毛から漂ういい香りとかにやられて身体がフリーズしてしまい、五花はその隙に僕の布団の中から目的の物を奪取する。

「えへへ、ゲットです~♪ どれどれ~」

 五花がくるりと身体を回してベッドの上で僕に背を向けながら僕のスマートフォンの画面を起動すると、そこに映っていたのは、当然、先ほどまで表示していた罪の証、五花のセクシーな自撮り画像だった。

 終わった、と思った。

「ふふ、ふふふふふ、なるほど~♪ なんか嬉しいなぁ♪ あの時の写真、こんなに後生大事にまだ持っててくれたんですね? それもこんな暗い部屋で夜に一人で眺めて……いったい何をしようとしていたんでしょうね~?」

 五花はこちらを顔だけ振り返り、至近距離でその可愛らしい顔の魅力を僕に容赦なく浴びせながら、楽しそうな表情でテンションを上げている。

 マジで、いっそ殺してくれ、と言いたかった。それぐらい僕のちんけなプライドは危機に瀕していた。

「しかし、この写真がいいんですね? 他にも何枚か顔写真とか胸を強調した写真とか送ったと思うんですけど……なんだかたっくんの性癖が見えた感じがして、楽しいですね?」

 そんな事を言われても、僕はちっとも楽しくないし、はやくこの終わらない悪夢から覚めたい気持ちで一杯だ。なんか都合のいいスイッチとかがあって、それを押すと全てなかった事になる、そんな妄想に僕は浸っていた。

「たっくん、可愛いです……可愛いなぁ……でもでも、せっかくなら写真より実物の方が嬉しいんじゃないですか?」

 五花はそう言うと、僕の布団の中でごそごそと下半身に手をやりもぞもぞと動く。
 いったい何をしているのかと嫌な予感を感じていると、突然、僕の目の前にピンク色の大きな布が投げつけられた。

「はぁ!?」

 布が僕の顔に覆いかぶさって、僕は突然の事に混乱して声が出てしまい、そのまま息が荒くなった。そうすると、桃とココナッツを混ぜたような独特のいい匂いがその布から吸い込まれてしまい、ますます僕の心は荒ぶっていく。

 なんで、こんないい匂いがするんだ、この布は!

 そんな心境でひとまず手を顔の前にやり、布を掴んで離すと、月明かりに照らされたそれは五花のパジャマのズボンだった。

 五花はズボンを脱いでいたのだ!

「ば、馬鹿か五花は! なんで、ズボン、脱いで!?」

「いやぁ、たっくんなら喜んでくれるかなって思いまして。とってもいい反応が見れて、良かったですよ」

 ちょっと待ってほしい。俺の目の前にズボンがあるという事は、今も僕の眼前にある五花の可愛らしい顔から下をたどれば、そこにあるのは下着姿の五花の下半身だという事だ。

 五花はパンツ姿で僕と同じベッドで同衾しているのだ。

 その事実を認識した瞬間、ドクン、ドクンと心臓が熱い血流を僕の脳に次々と送り込んで、興奮を司る脳内ホルモンの分泌が止まらなくなっていく。

 僕なんていう存在は、普段は絵なんかを描いたり賢しげな事を言ったりなどしているけども、ただ五花が服を脱ぐだけで、もう純粋な獣に成り下がってしまうんだ。
 僕なんていうのは、そんなちっぽけな存在にすぎないんだ。
 そんな諦めのような感情が脳裏をよぎって、そのままそこから離れなくなる。

「い、五花……その……僕は……」

 何を言っていいのかも分からず、何を言いたいのかも分からないまま、そんな弱々しい声が口から勝手に出てくる。

「……たっくん、だめですよ? わたしたちは付き合っているわけでもなければ、今や他人ですらない、たった二人の兄妹じゃないですか。それをいったいどうしたいと思ってそんな言葉を出しているんですか? ねぇ、はっきり言ってみてくださいよ?」

「う、うう……だって、それは五花があまりにも……」

「わたしはただお兄ちゃんに甘えているだけですよ? それで、ちょっとした可愛い悪戯をしているだけです。なにもやましい事なんてありませんよ? それともお兄ちゃんは、わたしにこうやってすり寄られただけであさましく興奮しちゃうような、いけないお兄ちゃんなんですか?」

 そんな言葉を囁く五花からは今も、甘い異性を感じさせる香りが漂い続けている。そして五花は僕の身体にそのふとももを伸ばして、僕の脚にその素足を絡めるようにしてきているのだ。

「ううう……僕は……僕は……」

 何もかも限界だった。
 
 あまりに高まり過ぎた欲望というのは、もはや人の制御を軽く超えて、勝手にどこかに飛んでいってしまおうとするものなのだ。

 そして、僕はこのままこうしていても、五花がその欲望を鎮めてくれる事など決してないと知っている。

 だから――

「くそ! 僕は逃げる!」

 僕はそう叫びながらがばりと起き上がり、素早く絡みつく五花の柔らかい身体から抜け出すと、足と腕のばねを利かせてベッドから飛び上がり、そのまま部屋の外へと逃げ出した。

「あはは! あはははは! 飛んじゃいました! あはははは!」

 五花は驚きのあまり先に笑いが来たといった様子で、そんな僕を背後から笑いながら、少し遅れてパジャマのズボンを履きながら追いかけてくるのが分かった。

 僕は長い廊下を走ってトイレまで逃げ出すと、鍵を閉めて荒れ狂う欲望を解き放とうとするが……

 すんでの所で、そのトイレの扉に足が差し込まれ、そのまま扉がこじ開けられる。そういえば五花は足が速かった……!

「ダメですよたっくん。可愛い妹をおいて、一人で気持ちよくなろうなんて……」

 もはやホラーだ、と僕は思った。

 紛れもなく、五花は、僕にとって、恐怖の象徴になっていた。

 いやだ……!

 僕はこの欲望を解き放ちたいんだ……!

 どんな犠牲を払ってでもそれを成し遂げないと、もう限界なんだ……

 そんな心の中の悲痛な叫びも空しく、五花は僕の力の抜けた身体を絡めとるように抱き着くと、そのまま部屋まで引っ張っていく。

「はーい、お部屋に帰りましょうねー」

 僕は全てを諦めて、部屋まで連行されるに任せた。五花からは、相変わらずとんでもなく魅惑的な香りがしたが、僕の脳にはもう劣情が貯まり過ぎていて逆にどうでも良かった。不思議な心情だった。

 部屋に戻る途中、僕たちの歩みがゆっくりだった事と、廊下の道のりにはある程度の長さがあった事から、しばし会話に空白が生まれた。

 五花は表情を読ませない微笑みを浮かべながら、静かに僕を連れて歩いた。

 そうして十数秒の無言の時を経て、僕たちは僕の部屋の前に到着する。その間に、僕の興奮は少しだけ落ち着きを見せていた。

 部屋に入ろうとしたとき、僕の部屋の扉に、最近僕の描いたイラストが貼られているのが目に付いた。

 五花もそれに注目したようで、何かコメントをする事にしたらしい。

「これ、さっきもちらっと見ましたけど、なんだかよく見ると、無性に寂しくなる絵ですね」

 僕の貼ったイラストは、幻想的な夜の丘の頂上で、狼の耳を生やした少女が、一人で雄たけびを上げている様子を描いたものだ。

 僕が最近描いた絵の中ではかなり気に入っている一枚で、少女の雄たけびを上げるポーズが本物の狼を想起させるかのような力強さで描かれていて、そしてその表情にはどこか悲痛な孤独が泣き顔として表現されている。

 五花は気づけばその絵に見入ってしまったようで、目を見開いて、じっとその絵を眺め続けている。

「すごいですね……わたしはこういうイラストみたいなのは描いた事がないんですけど……なんていうか、差し迫ったものを感じる絵です……たっくんが描いたんですよね……?」

 五花は素直に感動してくれている様子で、僕はそれをなんだか狐につままれたような表情で見つめていた。

「そうだよ」

「なんだか、まるでわたしを見てるみたいな感じがします……」

 五花の表情はどこかぼうっとしていて、それでいて熱に浮かされたような興奮を感じさせた。

 僕はそんな五花の表情が、なんだか先ほど誘惑されていた時より遥かにずっと魅力的なものであるかのように感じた。
 
 それはどうにも放っておけない、危うさを感じさせる、そんな表情で……

「五花は、寂しいの?」

 僕の口から、気付けばそんな言葉が口を突いて出ていた。

 それは、まったく思考を差し挟む隙なく、僕の精神の奥深くから神様の悪戯でたまたま出てきたかのような、ある種の奇跡のような一言だった。

 そしてその奇跡は、五花の身体をびくりと震わせてその目を見開かせる程度には、衝撃を与えてしまったらしい。

「……どうして……どうしてたっくんは……」

 五花は、衝撃を受けながら、言葉を慎重に吟味するようにして、話そうとしていた。

「いやだ、こんなのわたしじゃない……」

 だが直後、何かを否定するように、小さくそんな独り言を呟く。

「大丈夫?」

 僕は素直に心配になって、そんな言葉を投げかけるが……

「……大丈夫です。わたしは大丈夫。大丈夫なんです……」

 僕は五花のそんな様子が不安でしょうがなくて、気付けば自分の中の劣情も忘れてこう言っていた。

「五花、部屋でちょっと落ち着いて話そうよ。あ、今度は服は着ててね」

 場を和ませるつもりでもなかったが、僕がそういうと五花はくすりと笑って、

「ふふ、たっくんもそういうユーモアがあるんですね。それ、ちょっと好きかもです」

 と言って、なんとなく照れ臭い空気になってしまった。

 とにもかくにも、そうして僕らは部屋に入って、五花がベッドに座り、僕が床に座って、改めて向き合って話を始めたのだった。
 先程は窓から差す月明かりが照らす暗い部屋でひと悶着あったわけだが、今は蛍光灯を灯している。そんな中、向き合って座ったお互いの顔を見つめながら、しばらく僕らは沈黙していた。

「……えっと、なんでこんな風に話をしようってなったんでしたっけ?」

 その末に五花から出てきたのは、なんとも気の抜けた言葉だった。

「まあ、その、僕が『五花は、寂しいの?』って聞いて、五花が変な風になって、僕が心配になったからだけど……」

 そう言うと、五花はまたしばらく沈黙してから、こう切り出した。

「……うん……そうですね……ぶっちゃけると、そうなんです……」

「そう?」

 僕の相槌のような問いをきっかけに、五花は自らについて語りだした。

「えっとですね。たっくんの部屋を訪れたのは、寝れなかったからって言ったじゃないですか? これ驚かないで聞いてほしいんですけど……わたし、寂しいから、寝れなかったんです。寂しいだけで、まったく寝れなくなってたんですよ。このわたしが。笑っちゃうでしょう?」

 僕は五花の話が続くのを、ひとまず黙って聞く事にした。

「わたし、無性に寂しくてしょうがなくなる発作みたいなのが、ちょこちょこ起きちゃうんです。馬鹿みたいですよね? こんな悪い事ばっかりやってるクズなのに、いっちょまえに寂しいんですよ? 本当、笑っちゃいます……」

 五花の独白は、自分で自分を嘲笑うような、自分で自分を傷つけるような、そんな内向きの悪意に溢れていて……

 だからこそ、これが彼女の、本心からの悲痛な叫びだと、僕は理解できてしまった。

 何かを言わないといけない。

 そんな衝動に駆られた。

「五花……五花は確かに悪い奴だし、見方によってはクズかもしれない」

 そう言うと、五花は打ちのめされたような表情で、弱々しく笑った。

「そうですよね。本当、そうなんですよ」

 僕は、そんな五花は見たくなかった。

 だから勇気を出して、今までになく踏み込んだ言葉を紡いでいく。

「でも、例えば五花が寝れなくなるほど寂しくて、それに本当に苦しんでるんだとしたら、僕はそんな五花をなんとかしてあげたいと思うんだ」

「いきなり何を……今更口説いてるつもりですか? だとしたら……」

「そうじゃない」

 僕は、身体を動かして五花に近づくと、五花の唇にそっと自分の人差し指を押し当てて、静かにするようにとメッセージを送る。

 五花は、目を見開いて、驚いたように僕の指先を見つめていた。

「五花には、こんな酷い事ばかりされてる僕でも、思わず救って見せたいと思ってしまうくらいの、何かがあるんだ」

 五花の目が、さらに見開かれる。

「それがなんなのかは、僕も未熟だから分からない。でもさ、とにかく僕は、五花を放っておけないと、そう感じてるんだ」

「たっくん……」

 五花は捨てられた子犬のような弱々しい目つきで、僕に縋るような視線を送ってきていた。

 僕はそんな五花がなんだか愛しく思えてしまって、こんな事を口にする。口にしてしまう。

「だから、五花は一人なんかじゃない。少なくとも、僕は今日から五花のお兄ちゃんではあるわけだし。妹が寂しくて寝れない時は、兄の部屋に入って、寂しさを紛らわしても、いいと思うんだ。僕の事を、頼ってくれよ。それで寂しさがどれくらい消えるかは、分からないけどさ」

「……」

 五花はしばらく僕の言葉を咀嚼するように、じっと味わうような沈黙を続けた。

 そしてその末に、こういった。

「わたし、たっくんの妹になれて良かったです……たっくんは、優しいですね。本当に、優しい……なのにそんなたっくんを、わたしは……わたしは、酷いことを……今まで散々……」

 喜んだ笑顔を見せたかと思えば、五花はとたんに表情を歪めて、辛そうな顔をする。

 その表情の変化に、僕まで感情を揺さぶられて、不安定になってしまう。

「たっくん。わたしに言いたい事とかないですか? あったらここで言って、すっきりしてほしいです。わたし、今まで他人の事、同じ人間として認めた事なかったんですけど、たっくんの事、今初めて認めちゃってるみたいなんです。だから、たっくんにだけは、対等な人間として認めてほしいです。そんな感じに、なってます。だから、なんでもいう事を聞く覚悟で、これを言っています」

 五花は真剣さを帯びた表情で、僕の左手を両手で掴んで、力を込めてそう言った。

 僕はその五花らしからぬ言動に驚きながらも、そこに右手を合流させて、逆に五花の左手を中心にぎゅっと握りかえした。ここは間違えてはいけない所だと思った。

「五花の事、教えてほしいかな。もう遅いし、今度でもいいけど。一緒の家で暮らすわけだし、お互いの事、もっと深く知ってもいいと思うんだ」

 そう言うと、五花は驚いたように目を丸くする。

「……そんなのしかないのですか? もっと、浮気した事を土下座して謝れ、とか、俺のたぎりにたぎった性欲を一回でいいから発散させろ、とかそういうのをぶつけてくる感じを想像していたんですけど……」

 僕は少し呆れて、こういった。

「そりゃ、そういう感情もゼロとは言わないけどさ……僕はこれでも、五花の事、好きだったんだぞ? それもめちゃくちゃ、超がつくくらい好きだったんだ」

 そして、自然と笑みを浮かべながら、こう言えた。

「男は本当に好きな女の子を前にすると、何よりもまず、笑ってほしいものなんだよ」

 ちょっと格好つけられたかなと思って五花を見ると、五花はぶるりと身体を震わせて、頬を赤らめて目を潤ませていた。

 あれ、この反応は……思った以上に、刺さった?

「うう、ううう、ううううう……! そんなのでたらめだって! そんなのバカみたいだって! そういってやりたいのに……!」

 五花は、気付けば泣いていた。

「どうしてこんなに嬉しいんですか! どうしてこんなに嬉しい事を、言えるんですか! わたしは! こんなの、でたらめにきまってるのに! どうして……! こんなに……」

 気づけば、五花はひっく、ひっくとしゃくりあげていた。

 僕は驚いていた。

 僕なんかの言葉が、あの五花という不可侵であるかのように思えた少女を、こんなにも変化させられたなんて。

 だが、驚く以上に、今は言ってあげたい言葉があった。

「五花。とりあえずさ。もう浮気なんてやめよう。付き合う男は一人にするんだ。それは僕じゃなくて構わない。でもその一人を、ちゃんと大事に、大事にして、愛を与えるんだ。そうすれば、必ずその男が、特大の愛を返してくれる。その愛が、五花のその寂しさを埋めてくれる」

「ひっく! うええ! うえええええええ! どうしてたっくんは! たっくんが! たっくんがあああああああ!」

 五花の言葉はもはや支離滅裂で、何が言いたいのかはよく分からなかった。

 だけど、確かにその言葉は、五花の心に何かの爪痕を残す事には成功したらしい。




 翌日、学校から帰った後、しばらく後に帰ってきた五花はこういった。

「……付き合ってる男は一人にしました。なんか、浮気とかダサいなってふと思いましたし。でもそれはたっくんじゃないですからね。たっくんじゃなくて構わないらしいですから」

 僕はその変化に、思わずあんぐり口を開けて驚き……

 五花はふんっと可愛らしくそっぽを向いてしまう。

 そして僕は――もし「僕じゃなくて構わない」なんて余計な事を言わなければ、五花に選ばれた一人は誰だったのだろうか、とそんなあらぬ妄想をしてしまうのだった。
 はじめてのたっくんがいる新しい家での生活はなにかと新鮮で、広い家にワクワクしたり、たっくんに引っ越し作業中ちょっかいをかけて楽しんだりしたが、たっくんの入った後の湯舟になんとなくドキドキしつつ入ってから、部屋に戻ってベッドに戻ると、いつもの発作が来た。

 それは自分の胸に突然大きな闇が現れたような感じだ。
 自分の心臓が無くなって闇に消えたかのようだった。
 心臓とはすなわちハートだ。
 それはわたしには、わたしのハート、あるいは魂のようなものがどこかに失われてしまったかのように感じられた。

 寂しい……
 寂しい寂しい寂しい……

 なにせ自分自身のハートが闇に置き換わってしまっているのだ。

 わたしには、いかなる安心も、いかなる共感も、いかなる愛も、永遠に与えられないものであるかのように感じられた。

 わたしはこの闇の世界で、一人孤独でした。

 それが辛くて、辛くて、辛すぎて、しょうがなかった。

 どうしてこんな穴が胸に空いているのだろう。

 そう思い返すと、わたしの心に、触れてはいけないものに触れたときのビリっとした黒い電流が走る。

 それ以上はダメ。

 それを思い出すと、わたしはバラバラになってしまう。

 そう思い、わたしは無意識に思考を止め、ただ、元の寂しい闇に集中する。

 それは黒い電流の痛みよりはましかもしれないが、辛くて辛くてどうしようもない事に変わりはなかった。

 そうして最初に脳裏をよぎったのは、海斗くんの絵だった。

 海斗くんの絵はどれも、個性的で、生き生きとしていて、熱情が籠もっていて、変わっていて、どれ一つとしてありきたりなものはなかった。
 いったいどれほどの修練を積めば、いったいどれほどの才能に恵まれれば、あれだけの絵が描けるようになるのだろう。

 それがなまじ自分との差分として想像できてしまうだけに、わたしはかつての自分との違いを痛いほど感じて、心が闇に沈んでいって、それが心臓にある闇に沈んでいくような心地よさがあって、わたしは「ふひひ……」と暗く笑う。

 特に海斗くんの絵で心が惹きつけられたのは、桜の絵だ。

 その絵は一見、丘の頂上で桜が咲いている、それだけの絵であるかのようにも思える。

 だがその絵の特徴は、桜を上空から描いている事だ。

 天空の視点から、桜を小さめに中央に斜めに見下ろす形で描きつつ、そこから草原が広がり、画面の端の所で森に合流している風景が描かれているのだ。

 わたしが凄いと思ったのは、2点ある。

 まず、中央に小さめに描かれた桜の木が、なんだかまるで雄叫びをあげる狼かなにかであるかのように、生き生きと生きて叫んでいるように感じられるのだ。

 この躍動感をこの小さめに描かれたサイズで表現するのは、並大抵の業ではない。
 はっきり言って、異常だ。
 これだけでも、朝森海斗は天才であると言えるだろう。

 そしてもう一つ凄いと思ったのは、タイトルだ。

 その絵には、「独り、叫ぶ」とタイトルがつけられていた。

 自分の描いた桜がなんであるのか、何を表現しているのかを完璧に理解して、あの少年はこの絵を描いたのだ。

 小さめに描かれた桜も、そこから広がる孤独の闇のような草原も、遠く離れた所に囲んでいる桜とは色が違う木々も、全て計算づくで配置されて、表現したいテーマを真っ直ぐに表現しているのだ。
 それが超絶技巧とでもいうべき、精緻なタッチの油絵で表現された日には、わたしはただただ惹きこまれる事しか出来なかった。

 その絵を脳裏に浮かべると、わたしは複雑な気持ちでいっぱいになった。

 絵から逃げているだけの自分。

 眩しい才能。

 その才能が表現した、孤独。

 寂しい。

 寂しい。

 寂しい。

 だんだん思考がぐちゃぐちゃになって、何を考えているのかもわからなくなって、それらが全て胸の位置に存在する闇に吸い込まれていくかのような感覚がした。

 残ったのは、ただの虚無。

 わたしとは空っぽであるという自覚。

 そう、わたしには何もないのだ。

 わたしのものであるという何か、わたしの美点であると言える何かなんて、男の子好きのするこの顔とか身体くらいしか存在しないだろう。

 そしてそんなものは、元々欲しかったものでもない。

 わたしが欲しかったのは、この闇を埋める何かだ。

 埋めてほしいのだ。

 だって、埋めてくれないと、辛くて、辛くて、泣いちゃいそうで、涙が出てきて、それでも辛くて、辛くて、辛くて……

 うう……

 ううう……

 ううううううううううッ……!

 あまりにその発作がきつくて、辛くて、わたしはしばらく微動だに出来なかった。

 やがてそれが治まると、今度脳裏に浮かんだのはたっくんの顔だった。

 ああ……

 その奥の奥まで見通す目だ……

 その目が、痛くて、怖くて、心地いいのだ……

 それは矛盾するような感覚に見えるかもしれないが……

 わたしの中では、それらは全て同時に成立しうる概念だった。

 むしろ、痛みこそが、怖さこそが、心地いいのだろうか?

 いや、心地よさはそれだけではない。

 たっくんの目には、何かがある。

 もしかしたら、わたしに何かをもたらしてくれるのではないかという……

 そう、儚い希望のようなものが、たしかに感じられる。

 そうなのだ。

 希望なのだ。

 たっくんが希望なのだ。

 たっくんだけが希望なのだ。

 わたしを救ってくれるのはたっくんしかいない。

 そんな妄想に取りつかれたわたしは、気付けばベッドを出て、部屋の扉を開けて、隣のたっくんの部屋に向かった。

 この部屋を選んだ時、わたしはたっくんの隣である以外の理由を一切考慮していなかった。

 それはたっくんで遊びやすいからだと思っていたが……

 もしかすると、わたしは単に、たっくんに縋っていたのかもしれない。

 コンコン、と部屋の扉がノックする。

 心臓がドキドキとする。

 そして、許可されないのが怖くて、わたしは勝手に部屋へと入っていく。

「こんばんは、たっくん。なんか寝れなくて、遊びにきちゃいました」

 それを見たたっくんは、なんだか慌ててスマートフォンを布団の中へと隠す。

「あれ、なんだか怪しいご様子ですね? スマートフォンをわざわざ布団の中に隠すなんて。ちょっと見せてくださいよ」

「い、いやだ!」

 たっくん、可愛いなぁ。そんなの奪ってくれって言ってるようなものじゃないですか。

 楽しくなってしまったわたしは、それと同時、すでにあれだけ辛かった寂しさを忘れている事に気づいていなかったのです。

「へぇ? たっくんの分際でわたしに逆らうんですね? そういう事を言うなら……」

「ちょ、待って……! マジでダメだって!」

「えへへ、ゲットです~♪ どれどれ~」

 わたしがウキウキでスマートフォンの画面を起動すると、そこに映っていたのは、わたしのセクシーな自撮り画像でした。

 エッチな何かかなとは予想してましたが、まさかわたしだったとは。

 正直そこまでだとは予想していなかったわたしは、結構戸惑っていました。

 たっくんは、背後で凄く陰鬱なオーラを発しているようです。

 ここはわたしが喜ばないと、いけないところですよね?

「ふふ、ふふふふふ、なるほど~♪ なんか嬉しいなぁ♪ あの時の写真、こんなに後生大事にまだ持っててくれたんですね? それもこんな暗い部屋で夜に一人で眺めて……いったい何をしようとしていたんでしょうね~?」

 たっくんを振り返ると、たっくんはこの世の終わりでも来たかのような表情をしていて、笑いそうになってしまった。たっくんは楽しいなぁ。

「しかし、この写真がいいんですね? 他にも何枚か顔写真とか胸を強調した写真とか送ったと思うんですけど……なんだかたっくんの性癖が見えた感じがして、楽しいですね?」

「たっくん、可愛いです……可愛いなぁ……でもでも、せっかくなら写真より実物の方が嬉しいんじゃないですか?」

 わたしはもっとたっくんで遊んであげようと、ごそごそと布団の下でパジャマのズボンを脱いで、それをたっくんの顔に放り投げます。

「はぁ!?」

「ば、馬鹿か五花は! なんで、ズボン、脱いで!?」

「いやぁ、たっくんなら喜んでくれるかなって思いまして。とってもいい反応が見れて、良かったですよ」

 たっくんを冷静に観察すると、たっくんはなんだか血走った興奮した目で、わたしの下半身の方をじっと見つめていました。

 それはたっくんが明らかに理性を失って、本能のままわたしを犯したいと思っている証。

 ああ、たっくんが獣になっています……

 それはたっくんという存在を私の魅力が支配した瞬間で……

 それがわたしはたまらなく快感なのでした。

「い、五花……その……僕は……」

 弱々しいたっくんの声が、本当に限界なんだなって感じで、愛しくて、可愛くて、どうしようもないくらい抱きしめたくなっちゃいます。

 でもでも、我慢我慢。我慢させればさせるほど、快感の味は大きくなるのですから。

「……たっくん、だめですよ? わたしたちは付き合っているわけでもなければ、今や他人ですらない、たった二人の兄妹じゃないですか。それをいったいどうしたいと思ってそんな言葉を出しているんですか? ねぇ、はっきり言ってみてくださいよ?」

 わたしは言葉で、たっくんを煽り、馬鹿にして、尊厳を傷つけていく。

「う、うう……だって、それは五花があまりにも……」

「わたしはただお兄ちゃんに甘えているだけですよ? それで、ちょっとした可愛い悪戯をしているだけです。なにもやましい事なんてありませんよ? それともお兄ちゃんは、わたしにこうやってすり寄られただけであさましく興奮しちゃうような、いけないお兄ちゃんなんですか?」
 
 そう言いながら、たっくんの足に、わたしの露出した足を絡めていくと、たっくんは目がとろんとして、混乱して、わけがわからなくなっているようでした。

「ううう……僕は……僕は……」

「くそ! 僕は逃げる!」

 たっくんはそう叫びながらがばりと起き上がり、そのまま飛び上がって部屋の外へと逃げ出してしまいました。

「あはは! あはははは! 飛んじゃいました! あはははは!」

 わたしは驚きのあまり先に笑いが来てしまいましたが、追いかけた方が面白そうだと、パジャマのズボンを一応素早く履いて追いかけていきます。

 たっくんは長い廊下を走ってトイレまで逃げ出すと、鍵を閉めようとしますが……

 すんでの所で、そのトイレの扉に足が差し込みます。
 徒競走は私の方がだいぶ速いんですよね。

「ダメですよたっくん。可愛い妹をおいて、一人で気持ちよくなろうなんて……」

 たっくんの身体に自分の身体を絡めて、わたしはたっくんを連行します。

「はーい、お部屋に帰りましょうねー」

 部屋に戻る途中、しばし会話に空白が生まれました。

 十数秒の無言の時を経て、たっくんの部屋まで到着します。

 そのとき、わたしの心には、再び寂しさが生まれていました。
 
 心臓に小さな闇が生まれて、それが広がっていこうとしていました。

 部屋に入ろうとしたとき、たっくんの部屋の扉に、イラストが貼られているのが目につきました。

 さっきは全然注目しなかったけど、この絵は……よく見ると……

「これ、さっきもちらっと見ましたけど、なんだかよく見ると、無性に寂しくなる絵ですね」

 たっくんの貼ったイラストは、幻想的な夜の丘の頂上で、狼の耳を生やした少女が、一人で雄たけびを上げている様子を描いたものだった。

 わたしは、その絵が、海斗くんの描いた桜の絵にそっくりである事にすぐに気づきました。

 狼と、桜、描いたものは違っても、そこに通底するテーマ、表現したいものは同じです。

 これは、海斗くんの絵を見て、影響を受けた一作なのでしょうか?

 しかしその絵の狼少女の雄たけびを上げるポーズは、強く伝えたい何かを伝えてくるかのようで、そしてその表情に浮かんでいたものは……

(わたしだ……)

 この少女は、わたしだ、とはっきり思いました。

 それくらい、少女に表現された孤独にはリアリティがあり、そのディテールはわたしの心の闇からくる魂の叫びを表現しているかのようにしか思えませんでした。

(それがなんで、こんな綺麗なの……)

 わたしはその絵に魅入られて、穴が空くほどその絵の少女の叫ぶ姿を見つめ続けます。

「すごいですね……わたしはこういうイラストみたいなのは描いた事がないんですけど……なんていうか、差し迫ったものを感じる絵です……たっくんが描いたんですよね……?」

 それはわたしが感じていた荒れ狂う激情からすれば、かなり控え目な表現でしたが……

「そうだよ」

「なんだか、まるでわたしを見てるみたいな感じがします……」

 わたしはまるでその絵に恋でもしてしまったかのように、熱に浮かされた目で、その絵を眺め続けました。

 そんなわたしに、突然爆弾が投げ込まれました。

「五花は、寂しいの?」

 わたしは、あまりにわたしを理解している一言だと思いました。

 それよりわたしが言ってほしい一言なんて、他に無かったからです。

「……どうして……どうしてたっくんは……」

 わたしは混乱と衝撃と喜びの中で、もがくように何かを掴もうとします。

「いやだ、こんなのわたしじゃない……」

 それがまるで自分ではないかのようで、わたしはそれがとっても嫌だと感じました。

「大丈夫?」

「……大丈夫です。わたしは大丈夫。大丈夫なんです……」

 わたしは自分に言い聞かせるように、そう大丈夫だと言い続けました。

 そんなわたしを、なんだか不安そうな目で見つめたたっくんは、

「五花、部屋でちょっと落ち着いて話そうよ。あ、今度は服は着ててね」

 なんて優しい一言をいってくれました。

「ふふ、たっくんもそういうユーモアがあるんですね。それ、ちょっと好きかもです」

 わたしはたっくんの言葉が素直におかしくて、ちょっとだけ心が落ち着いて、元気になるのを感じて、たっくんはなんだか暖かいなと、そう思ったのでした。




 部屋に入ったわたしは、たっくんのベッドに座りながら、目の前に見つめるたっくんを見つめて、そのまま沈黙していました。

 そうしているうちに、自分がなぜこんな事をしているのか分からなくなったような気持ちになって、

「……えっと、なんでこんな風に話をしようってなったんでしたっけ?」

 そんな言葉が口をついて出ました。

「まあ、その、僕が『五花は、寂しいの?』って聞いて、五花が変な風になって、僕が心配になったからだけど……」

 そうだよね。そうなんだよね。

「……うん……そうですね……ぶっちゃけると、そうなんです……」

「そう?」

 たっくんが穏やかに聞いてくれたので、わたしはそのまま話し続ける事が出来ます。

「えっとですね。たっくんの部屋を訪れたのは、寝れなかったからって言ったじゃないですか? これ驚かないで聞いてほしいんですけど……わたし、寂しいから、寝れなかったんです。寂しいだけで、まったく寝れなくなってたんですよ。このわたしが。笑っちゃうでしょう?」

 優しいたっくんは、一回頷いて、そのまま黙って聞いてくれます。

「わたし、無性に寂しくてしょうがなくなる発作みたいなのが、ちょこちょこ起きちゃうんです。馬鹿みたいですよね? こんな悪い事ばっかりやってるクズなのに、いっちょまえに寂しいんですよ? 本当、笑っちゃいます……」

 そう言ってしまうと、なんだか楽になった気がした。
 
 誰にも話せなかった悩みを、初めて話せたのがたっくんで良かった。

「五花……五花は確かに悪い奴だし、見方によってはクズかもしれない」

 そう言われたのは、正直言って、ショックだった。

「そうですよね。本当、そうなんですよ」

 たっくんにだけは、わたしを、わたしの本当の姿を、受け入れてほしかったから……

 でも、それに続くたっくんの言葉は、驚くべきものでした。

「でも、例えば五花が寝れなくなるほど寂しくて、それに本当に苦しんでるんだとしたら、僕はそんな五花をなんとかしてあげたいと思うんだ」

 わたしは本当に驚きました。

 あれだけ酷い事をしたわたしに、そんな事を言ってくれるなんて。

 わたしはもはや、強がる事しか出来ません。

「いきなり何を……今更口説いてるつもりですか? だとしたら……」

「そうじゃない」

 ですがそんなわたしの予想を遥かに上回る行動を、たっくんはとります。

 たっくんは、わたしにそっと近づくと、あろうことかわたしの唇にそっと自分の人差し指を押し当てて、しーっ、というハンドジェスチャーを行ったのでした。

 わたしは、驚いて、驚きすぎて、目を見開いて興奮してしまいます。

「五花には、こんな酷い事ばかりされてる僕でも、思わず救って見せたいと思ってしまうくらいの、何かがあるんだ」

 たっくんの予想外の言動は続きます。何かがある、と言われた瞬間、わたしは胸の奥に育とうとしていた闇が、たっくんの暖かな光で、埋められ始めるのを確かに感じました。

「それがなんなのかは、僕も未熟だから分からない。でもさ、とにかく僕は、五花を放っておけないと、そう感じてるんだ」

「たっくん……」

 わたしは嬉しくて、嬉しくて、でもそれが上手く表現できなくて、相変わらず胸の闇は残っていて、その結果として弱々しそうな声でたっくんに縋る事しか出来ませんでした。

 たっくんは、そんなわたしを、なんだか大切な物でも見るかのような目で見つめながら、こういいました。

「だから、五花は一人なんかじゃない。少なくとも、僕は今日から五花のお兄ちゃんではあるわけだし。妹が寂しくて寝れない時は、兄の部屋に入って、寂しさを紛らわしても、いいと思うんだ。僕の事を、頼ってくれよ。それで寂しさがどれくらい消えるかは、分からないけどさ」

「……」

 わたしは、たっくんのそれらの言葉を、脳内で反芻した。

 何度も、何度も反芻した。

 反芻するたびに、胸の闇に、光が差した。

 嬉しかった。

 嬉しくて、たまらなかった。

「わたし、たっくんの妹になれて良かったです……たっくんは、優しいですね。本当に、優しい……なのにそんなたっくんを、わたしは……わたしは、酷いことを……今まで散々……」

 だけど嬉しいの裏返しで、わたしは今まで自分がそんなたっくんにしてきた事を思い返して、どんどん惨めな気持ちになっていきます。

 たっくんはすごい。

 すごい人間だ。

 わたしは他人を同じ人間として感じた事すらほとんどなかったが。

 たっくんは、わたしよりすごい人間かもしれない。

「たっくん。わたしに言いたい事とかないですか? あったらここで言って、すっきりしてほしいです。わたし、今まで他人の事、同じ人間として認めた事なかったんですけど、たっくんの事、今初めて認めちゃってるみたいなんです。だから、たっくんにだけは、対等な人間として認めてほしいです。そんな感じに、なってます。だから、なんでもいう事を聞く覚悟で、これを言っています」

 わたしは少しでも真剣さを伝えようと、たっくんの左手を両手で握り、そう思いの丈を吐き出す。

「五花の事、教えてほしいかな。もう遅いし、今度でもいいけど。一緒の家で暮らすわけだし、お互いの事、もっと深く知ってもいいと思うんだ」

 たっくんは、そんなわたしの左手を、両手で握り返して、そういってくれた。完璧だった。あまりに予想外な完璧さに、わたしは心の底から驚いた。

「……そんなのしかないのですか? もっと、浮気した事を土下座して謝れ、とか、俺のたぎりにたぎった性欲を一回でいいから発散させろ、とかそういうのをぶつけてくる感じを想像していたんですけど……」

 わたしがそんな馬鹿な妄想を話すと、たっくんは呆れた様子で、こういった。

「そりゃ、そういう感情もゼロとは言わないけどさ……僕はこれでも、五花の事、好きだったんだぞ? それもめちゃくちゃ、超がつくくらい好きだったんだ」

 ドキリとした。
 ものすごく、ドキリとした。

「男は本当に好きな女の子を前にすると、何よりもまず、笑ってほしいものなんだよ」

 そしてその瞬間――

 ――わたしは恋に落ちてしまった。

 身体が、震える。
 
 顔が、熱くなる。

 言葉がうまく、出てこない。
 
 なんだこれ……

 いったい、なんだこれ……
 
「うう、ううう、ううううう……! そんなのでたらめだって! そんなのバカみたいだって! そういってやりたいのに……!」

 わたしは、気付けば泣いていた。

 嬉しすぎて、泣いていた。

「どうしてこんなに嬉しいんですか! どうしてこんなに嬉しい事を、言えるんですか! わたしは! こんなの、でたらめにきまってるのに! どうして……! こんなに……」

 わたしはひっく、ひっくとしゃくりあげて大泣きしてしまった。

 感情がぐちゃぐちゃになって、これ以上ないくらいめちゃくちゃになって、本当にわけがわからなかった。

「五花。とりあえずさ。もう浮気なんてやめよう。付き合う男は一人にするんだ。それは僕じゃなくて構わない。でもその一人を、ちゃんと大事に、大事にして、愛を与えるんだ。そうすれば、必ずその男が、特大の愛を返してくれる。その愛が、五花のその寂しさを埋めてくれる」

 そんなわたしに、たっくんはわたしという存在を塗り替えるような言葉を放ちます。

 それは新興宗教の洗脳儀式より鮮烈に、わたしの心を塗り替えましたが……

 一言だけ……

 一言だけ、絶対に許せない言葉が混ざってもいました……

「ひっく! うええ! うえええええええ! どうしてたっくんは! たっくんが! たっくんがあああああああ!」

 わたしの言葉はもうめちゃくちゃです。

 言いたかったのは、わたしはたっくんがいいのに、という事でした。

 どうして……

 どうして「それは僕じゃなくて構わない」なんて言っちゃうの……?

 馬鹿なの……?

 本当に構わないのかな……

 そうだよね、わたしとは二度と付き合わないって言ってたもんね……

 それはわたしの心に更なる混乱をもたらします。

 もうぐちゃぐちゃのめちゃくちゃのどろっどろです。

 気づけば、泣き疲れて部屋に帰って寝たのか、翌日になっていて……

 ふと、浮気は本当にくだらないなと思いました。

 たっくん以外、くだらない……

 放課後、一人を残して、全ての男に別れるとメールを送り、電話がかかってきたのをあしらい、諦めさせ、それらが全て済んでから家に帰りました。

 残す一人は、海斗くん以外考えられませんでした。

 だって、たっくんの親友だから。そして、彼の絵は、無性に気になるから。

「……付き合ってる男は一人にしました。なんか、浮気とかダサいなってふと思いましたし。でもそれはたっくんじゃないですからね。たっくんじゃなくて構わないらしいですから」

 たっくんの驚く顔は、結構痛快でした。

 同時に、たっくんが少しでも馬鹿なセリフを後悔してくれているといいなと、そんな楽し気な妄想を抱きながら、わたしはふん、っとそっぽを向いてみせたのでした。
 イラストなどを一生懸命描いていると、才能ってなんだろうって思う事がある。

 今の時代、ネットを見れば神絵師と呼ばれる人たちがたくさんいて、そういう人達の絵を描いている姿だって、人によっては動画などで上げていたりする。

 そういうのを見ると、確かに実際その人達は凄いし、その人達の絵も凄い。

 でも、それが実際の所どのように凄くて、何が凄いと思わせているのかという事を言語化しようとすると、話は難しくなる。

 僕がそれに関して自分なりに思うのは、そういう人達の絵は、「自然である」と同時に「その絵にしかない輝きがある」という事だ。

 絵というのは、自然である事が美しさを生むと僕は思う。
 不自然な絵というのは、例えば人物の骨格が不自然だったり、場面に合わない不自然な表情になってしまっていたり、どこかで違和感を生じさせて、見る人がその絵に没入するのを妨げてしまうものなのだ。

 自然な絵には、そういった不自然さは存在しない。
 全ての要素が、調和して配置されていて、あるべき姿で輝きを放っている。そういうものが、僕が思う自然な絵だ。

 とはいえもう一つの、その絵にしかない輝きがある事も、自然である事以上に重要だと僕は思う。

 多少不格好で不自然な所があったとしても、その絵にしかない輝き、人間や花や木や海や動物などの輝きのようなものを、まったく見た事もないような形で描いている絵は、唯一無二で、何よりも価値がある絵だと僕は感じる。そういう絵は、どんな絵よりも見た者の感情を強く動かしてくる。

 そしてそういう絵を描けるようになるためには、結局のところ、無心で絵を描くしかないのかなと僕は思っている。

 無心で、没頭している時が、終わってみると一番いい絵が描けているのだ。

 それを積み重ねて、少しずつうまくなっていく事で、いつの日か、僕にもそういう素晴らしい絵が描ける日が来ると、僕は無邪気に信じている。

 最近は、ネットにイラストを上げると、結構いい反応が貰える事も増えてきた。

 僕はそういうのに一喜一憂するのはそれほどいい事でもないと思っているし、いい反応も悪い反応もクールに対応できるくらいが、プロを目指すならちょうどいいと思っているが。

 それでも、やはり褒められて自然に嬉しくなる感情を止める事は難しい。

 だがそれまで貰ったどんな感想よりも、五花の心に僕の絵で何らかの影響を与えられた事は嬉しかった。

 僕の言葉で、五花が泣いてくれた事ももっと嬉しかった。

 僕は、本質的に他人の苦しみを無くしてあげたい人間なんだと思う。

 他人の苦しみを分かち合って、それを少しだけでも解かしてあげられるような、そんな作品が作りたいんだ。

 そういう意味では、単にイラストを描くだけではなく、もっと物語性やメッセージ性が強い、マンガや小説のようなものに手を出すのも面白いのかもしれないな。

 そのあたりはまったくやった事が無かったから、完全に未知の世界で、怖くもあるけれど。

 そんな事を考えていると、新学期が始まってまだ1週間だというのに、早くもかなり退屈に思えていた古文の授業が、気付けば終わっていた。一応ノートを取ってはいるが、内容は全く頭に入っていなかった。これは後々まずいかもな。

 ともあれ、今日はこれで放課後だ。

 僕はまだ部活というものに入っていなかったが、部活見学で海斗と一緒に美術部に行った時に、先輩方に僕のイラストを見せたら、結構熱心に誘われてしまっていた。

 僕は油絵とか水彩画とか、そういうちょっと高尚っぽいものに何となく苦手意識があるだけで、そういう絵自体は見れば普通に美しいと思うし、そういうものを自分が生み出す事に、興味がないといえば嘘になる。

 華の高校生活3年間を、部活にも入らず一人寂しく過ごすのも、つまらない話かもしれない。

 そう思って、僕はもう一度美術部に遊びに行ってみる事にしようと思った。

 まずは海斗を探そう。

 そう思い、僕は隣のクラスを訪れる。

「海斗」

 僕はちょうど鞄を持って教室を出ようとしていた海斗と出くわし、声をかける。

「卓。やあ」

 海斗はその端整な顔立ちをふわりと微笑ませて、声を返してくれた。相変わらず格好いい奴だと素直に思う。

「放課後、美術部にまた遊びに行ってみようかなって思ったんだけどさ。海斗は今日、行くか?」

 僕がそう問うと、海斗は表情を曇らせた。

「えっとね、行きたいのは山々なんだけど、今日はちょっと先約があるんだ」

「そっか。うーん、僕一人で行くのはちょっとハードル感じるなぁ」

「卓なら大丈夫だよ。行って来なよ。うちの美術部は、ガチな人はガチだけど、初心者にも優しく教える雰囲気があるみたいだから」

「まあ海斗がそういうなら。でも、用事ってなんなんだ?」

「うーん、秘密で」

 そういって、海斗は悪戯げに笑って見せた。

 なんだかその表情が少し辛い表情を押し隠しているようにも見えたのは、気のせいだったのだろうか。

 何となく気になったが、ひとまず僕は軽い言葉を返す。

「友達に秘密はほどほどにしてほしいけどね」

「こういうとき、詳しく聞かない卓が好きだよ」

 照れる事を言ってくれる。少女みたいな綺麗な顔立ちの海斗にそういう事を言われると、なんだか変な気持ちになってくるから止めてほしい。

「……ま、それじゃ、邪魔してもあれだし、僕は勇気を出して美術部に行ってみるよ。じゃあね」

「うん、それじゃあね」

 僕はそういって、美術部に向かおうとする。

 と、挨拶して後ろに振り返った海斗のポケットから、一枚のカードのようなものが落ちたのに僕は気づいた。

「海斗、落とし物だよ」

 僕はそれを拾うと、それは病院の診察券のようだった。

 この辺りでは一番大きな大学病院のもので、僕は不思議に思った。

 そんな大きな病院に世話になる用事っていったいなんだろう?

「……ああ、ありがとう」

 海斗は僕の疑問に気づいているのか、少し表情を硬くしながらも、僕からカードを受け取った。

 まあ、人のこういった事情を自分から詮索するのは、あまりよくないかもしれない。

 僕は海斗が自分から話すのを待つ事にした。

「実は今日は、病院に行くんだ」

「……そうなんだ」

「でも、その後にデートするんだよね、女の子と」

「え、マジ? 彼女いたの?」

 思わず周囲を振り返ってしまうが、幸い近くに人はいなかった。

「まあね。人に言いたがらない子だから、誰にも言ってなかったんだけど。なんとなく、卓には言いたかったんだ。みんなには秘密で頼むよ」

「ああ、分かったよ。でも、流石だな、海斗」

「なにが流石なんだか」

 僕はその海斗のサプライズ発表を、素直に祝福できた。
 
 そうだよな、海斗は格好いいし、頭もいいし、センスもいいし、何より性格がいい。

 これで彼女がいなかったら、逆に不自然ってものかもしれない。

「ま、そういう事なら余計邪魔すると悪いね。それじゃ、今度こそ僕は行くよ」

「うん。じゃあね」

 そういう海斗の微笑みには、やはりどこか何かが辛そうな色が隠れているようにも思われたが……

 僕はそれに気づかないフリをして、美術部に向かった。

 美術部では、油絵の基礎などを教わりながら、実際にキャンパスに向かい、花瓶の花を描く作業をしてみた。

 筆を持つのは授業以外では初めてなので、結構作業は不慣れな物になってしまい、正直描いている途中でも不格好になりそうなのが分かってしまったが。

 先輩や他の入部希望の新入生とちょっとずつ仲良くなりながら、雑談したりするのは結構楽しかった。

 これなら、入ってもいいかな。

 僕はそう思って、家に帰る。

 家に帰ると、五花はまだ帰宅していないようだった。

 それもそのはず、五花は今朝、僕とすれ違ったときに、

「今日はたっくんではない彼氏とデートをします。晩御飯までには帰るんですけど、遅めになるので、よろしくです」

 と言っていたのだ。

 その時僕は、「たっくんではない彼氏」とわざわざ言う意味が分からなくて、かなり混乱していた。

 そもそもなぜそれを僕に言うんだ。そんなのは勝手にすればいいだろう。

 そう言いたかったが、なんとなくそう言ってしまうのも大切な何かが失われるような気がして、僕は、

 「そう。いってらっしゃい」

 としか言えなかった。五花はなぜか不機嫌そうな顔になったが、正直手に負えない。

 ともあれ、おそらく今五花は彼氏とデートをしているわけだ。

 そう思うと、僕はなんとなく心が落ち着かない。

 先日の五花との会話は、今でも脳裏に焼き付いている。

 五花の涙は、素直に美しかったし、僕の心に鮮烈な印象を残していた。

 あの涙を、僕が流させたのだ。

 そう思うと、五花という不可侵で絶対的な存在に、なんらかの影響を与えられてしまった事への戸惑いのようなものを感じる。

 でも僕が感じているのはそれだけではない。

 あれで泣くという事は、五花は僕について、少なくとも平凡でどうでもいいそこらへんのモブ男Cみたいな感覚では見ていないと言えるのではないだろうか。

 そう思うと、僕は失われた自分への自信が回復しかけてくるのを感じたし、五花に重要と扱われているのだとしたら、それは素直に嬉しかった。

 そう思うと、僕はやはり、五花の事が今でも好きなのだろう。

 それは本当に認めたくない事実で、その事を考えるだけでも吐きそうになってしまうほど向き合いたくないトラウマが同居してもいたが。

 それでも、僕は五花が好きなのだ。

 だから、僕は五花が彼氏とデートしていると聞くと、落ち着かない。

 いや、正直に言えば、彼氏の事を八つ裂きにしたいとすら思っているかもしれない。

 僕はそんな野蛮で怒りに満ちた人間ではないつもりでいたが。

 人間の心というのは、こういう事が起こるまで、自分でも良く分かっていないものなのかもしれない。

 そして、そういう事を考えていると、あの夏の日々の苦しさや、浮気をされていた事への憎しみなども蘇ってきて、訳が分からなくなってくる。

 だから、僕はそうした混乱から現実逃避するために、イラストを描いた。

 下書きをして、おかしなところを訂正して、ペン入れを行い、色を塗り始める。

 作業に没頭する事で、そうした落ち着かなさは一時的に忘れられた。

「ただいまです」

 だが玄関から五花の帰ってきた声が聞こえた事で、僕は現実に引き戻される。

 五花は、何を考えているのか、自分の部屋に鞄だけ投げ込む音がしたかと思えば、その足でそのまま僕の部屋を訪問した。

 ノックの音に反応しないでいると、五花はそのまま僕の部屋に入ってくる。

 前もそうだけど、なんでこいつは許可なく思春期の男子の部屋に入ってくるんだろう? 僕だからだろうか? 僕が舐められているのだろうか?

「やっほーです、たっくん。お元気ですか?」

「ちょうど今、元気がなくなったところ。キミのせいでね」

 現れた五花の顔を振り返らず、僕はそのままイラスト作業を続けた。

「ひどいです、どうしてそういう事言うんですか? あ、もしかしてわたしが彼氏とデートしてたから、嫉妬してるんじゃないですか?」

 残念ながら完全に図星だった。五花はこういう事に関して驚くほど鋭い。

 そのまま五花は、僕の耳元まで顔を近づけると、こう囁いた。

「わたしが誰の家でデートしてたか、教えてあげましょうか?」

 僕は思わず、がばりと五花を振り返ってしまう。

 そんな僕に、その可愛らしすぎるほどに可愛らしい顔を天使みたいに微笑ませて、こう言った。

「朝森海斗くんですよ」

 その瞬間、世界が歪んで壊れてしまったかのように、僕は感じた。
「海斗……だって……」

 僕は本当に愕然としていて、やっとの事でそれだけを口にする事しか出来なかった。

「はい。朝森海斗くんです。どうもたっくんとは、仲良しみたいですね? そうなると、わたしはたっくんにとっては、親友の彼女で妹という事になるんですかね?」

 僕は五花が楽しそうにそんな話をする間、ゆっくりとその事実を脳内で咀嚼し、しかし飲み込めず、そのまま吐き戻しそうになってしまった。

「海斗くん、付き合ってみるとなかなか面白い男の子なんですよ。とっても賢くて、とっても性格が良くて、とっても格好いい。そんな男の子が、わたしの前だと無様な姿をさらすのが、面白くって、面白くって……」

 だがその言葉を聞いた瞬間、僕の中で焼け付くような怒りが燃え盛るのを感じた。
 同時に、ようやく現実を受け入れられた。
 半ば強制的な受け入れ方だったが。

「五花……キミが……キミが海斗まで滅茶苦茶にするのなら……僕は絶対に、一生かけてもキミを許さない……! 殺してやる……!」

 僕は止めようがないほど強い怒りに飲み込まれて、立ち上がりながら五花の襟首に掴みかかって、そのまま左の壁にドンっと五花の身体を押し付ける。

 僕はそれくらい、海斗という友人を尊敬していたし、大切な存在だと思っていた。

「いった……乱暴はやめてくださいよ。わたしが何をしたっていうんですか? 新しく出来た妹がたっくんの親友と楽しくお付き合いしているって、それだけの話じゃないですか?」

 五花は痛そうに顔を歪めながらも、僕を挑発的に見上げて笑みを浮かべる。僕にはその笑みが、悪魔の微笑みのように思えた。

「ふざけるなよ? キミが付き合ってる男にどんな事をしてるか、僕は一番分かってるうちの一人だと言ってもいい。それが海斗にとって、どれだけ惨めで、屈辱なのか、キミが理解してないはずないだろう? 海斗はな、キミみたいな奴が穢していい奴じゃないんだ! 才能の塊で、天才的な感性を持ってて、性格だって信じられないくらい良くて! 海斗は! 凄いんだよ! それなのに、僕みたいな奴と仲良くしてくれてる! 僕はそんな海斗に、普通に、幸せに生きてほしいんだ……」

 叫んでいるうちに、気づけば感情が高ぶりすぎて、僕の右目から涙が一滴垂れて落ちた。

 その涙は、五花の短めに丈を折られた制服のスカートを濡らし……

 五花は、それを見て両目を見開いて驚いた。

「たっくんは……わたしが思っていたより遥かにずっと、海斗くんの事を大事にしていたんですね……」

「そうだよ!!」

 僕は怒りをぶつけるように、叫び返す。

「だったら……」

 だが五花は、そんな僕の叫びに微笑みを浮かべ、こんな悪魔の誘惑で返してきた。

「たっくんが代わりに、わたしのおもちゃになってくださいよ?」

 今度は僕が両目を見開いた。

「五花……いったい……何を言って……正気か?」

 思わず、目の前の少女が本当に理解できなくて、後ずさってしまう。

 五花はそんな僕に向かって微笑みを崩さないままに詰め寄って、下から憎らしいほどに可愛らしい上目遣いで見つめてくる。

「正気も正気です。わたし今、浮気はくだらないなって事で、海斗くん一本に絞って虐めてるんですけど、それ別に海斗くんじゃなくてもいいんですよね。何なら、たっくんの方が、同じ家に住んでるし、面白いかもしれないです。いや、そっちの方がずっといいですね。ねぇたっくん、そうしましょう? 今日からわたしは海斗くんとお別れして、たっくんと付き合うんです。そうすれば、たっくんも海斗くんがこれ以上不幸にならなくて、嬉しいですよね? そうですよね?」

 僕は五花の言葉を聞いていると、どんどん目の前の輪郭がぼやけて、意識が遠のいていくのを感じた。

 それくらい五花の言葉は、僕にとって受け入れ難く、それでいて魅惑的で、僕の意識を混乱させるものだった。

 五花と付き合う……
 海斗を差し置いて……僕が……

 そう思うと、思い出すのはあの夏の日々だ……
 あのドロドロに煮えたぎった、マグマのような性欲を持て余した日々……
 僕はずっと……ずっとずっとずっと、あの無念の欲望を、晴らしたいと思っていた……
 五花と付き合えば、今度こそそういう機会も訪れる? 今回の五花は浮気もしていないと言う……

 分からない……分からない……

 そうしていると次に蘇るのが、海斗との想い出だった。

 あの狼の絵だって、元々は海斗の孤独な桜を描いた絵に感動して、インスピレーションを受けて描いたものだった。
 正直言って、海斗の絵に比べれば、平凡な作品だ。
 それでも、海斗の感性に揺り動かされた僕の心は、いつもの僕の限界を超えて、あの力作を生み出した。
 それくらい、海斗と言う存在は、僕にとって、尊敬できる天才で、誰よりも大切にしたい友達で……

 そんな海斗という存在から、僕が五花を奪ってしまっていいのだろうか……

 これは海斗という人間にとって、本当に幸せな事なんだろうか……

 それが僕にとって分からなくて……分からなくて……

「うーん、ずいぶん辛そうな、迷ってる顔になっちゃいましたね? そうやって現実から逃避していると、わたしみたいな悪い女の子に好き勝手されちゃいますよ?」

 途端、僕の唇を、柔らかく、ぬめりとした感触が襲った。

 そこから電流のような快感が生じて、僕は無理やり現実に引き戻される。

 五花が、僕にキスしていた。

 ファーストキスだった。

 僕はあまりの衝撃に、全ての思考を停止させてしまい、結果として、全ての意識が、目の前の五花が与えてくれている感触に集中する。

 それは思わず目をとろんとさせて、うっとりとしてしまうような、とんでもない快感だった。

 五花はちろちろと僕の唇に舌を這わせて、さらに太ももを僕の股の間に入れてきて、股間を持ち上げるようにして刺激してくる。

 そうして両手を僕の背中に這わせながら、自らの豊満に育った胸を、僕のお腹と胸の間辺りに押し付けてくるのだ。

 僕は何も考えられなかった。

 ただ、五花が与えてくれるものを、一ミリたりとも逃したくない、そんな本能だけに基づいた獣になっていた。

 五花が刺激する股間のあたりから、男性ホルモンなのか快楽物質なのか分からない何かの物質が、どくどくと分泌されてくるのを感じる。

 気持ちいい……

 気持ちいい、気持ちいい、気持ちいい……

 それは僕にとって、今まで人生で体験したどの瞬間よりも気持ちよく、そして性欲を高ぶらせる出来事だった。

 気づけば、五花は、キスを止めていた。

 五花はいったん唇を離して、そこでべろを「えーっ」と出して、何かを求めるような笑みを浮かべる。
 五花は挑発しているのだ。

 今度はお前から、来い、と。

 電流が脳を貫いて、背筋から身体を勝手に動かすのを感じた。

 僕はそのまま、その突き出された舌に、自らの舌を押し当てようとして……

「はいおしまいです」

 いつの間にか背中から離されていた五花の右手が、そんな僕の顔を押しとどめていた。

「続きはわたしと付き合ってから、ですよ? 恋人でもない女の子と自分からキスなんてしちゃだめです。当然ですよね、たっくん?」

 僕はそういわれると、何も言えなかった。

 というより、完全に理性を失っていた自分の行動に愕然として、ショック過ぎて、何も言う事が出来なかったというのが正しいだろう。

「わたしと付き合ってくれますよね、たっくん? わたし、これでもたっくんの事、好きなんですよ?」

 そんな五花の問いに、僕は――

 僕は――

 ――五花とは付き合えないと、そう思った。

「ごめん、五花。五花とは付き合えない」

 途端、五花は目の光を失ったように感じた。

 一瞬、絶望的な沈黙が生まれた。

 そして、その沈黙を破るように、五花は、僕の今の発言が受け入れられないと猛烈に抗議を始める。

「……どうしてです? ……どうしてなんです? ねぇ、どうして!? どうしてわたしと付き合ってくれないんですか!?」

 気づけば、五花の表情は、真剣そのもので、目に涙すら浮かんでいた。

 その表情を見て、僕は、五花が今の告白を遊びで言っていたわけではないのかもしれないと、うっすら思い、後悔しそうになったが――

「五花は結局僕をおもちゃにしたいだけなんだろう? それに、五花は義理とはいえ僕の妹だし、何より親友の彼女だ。僕はもし五花を親友から奪ったなんて事になったら、それこそ一生自分を許せそうにない」

「そんな……そんなの、違う……違います……違うんです……わたしは今度こそ、たっくんを……」

「……信じられない。五花はそれだけの事を僕にしたんだ。諦めてくれ」

 僕は心を鬼にして、五花を拒絶する。

 だって、そうだろう?

 きっと、海斗の奴は、この酷い女に散々弄ばれて、恋心を煽られて――
 ――きっと、ものすごくこいつの事を好きになってる。

 そんな海斗からこの女を奪えば、もしかしたら、海斗は二度と僕の事を許さないかもしれない。

 そんなのは、僕には耐えられない。

 耐えられないんだよ。

 だから、僕は五花とは付き合えない。

 たとえ、こいつが僕の事を、本当に好きになっていたとしても――

 まあ、そんな可能性は微粒子以下の確率でしか存在しないとは思うが――

 それでも、僕は――

「……そうですか」

 五花は、両目からぽろぽろ涙をこぼしながら、僕を憎々し気に睨んで、こういった。

「わたしはこのまま海斗くんと仲良くすればいいって事ですか。それがたっくんの望みなんだ。そうなんですよね?」

 五花は、こういう時も、やはり鋭かった。

 鋭すぎるほどに鋭い感性で、僕の心を読み取り、抉ってくる。

「……そうだ」

 だから、僕は頷く。

 頷く事で、彼女の心を抉り返し、僕という存在に失望させようとする。

「……最悪です。たっくんの事、ここまで嫌いになれるとは思いませんでした」

 五花は、そういって、僕を親の敵のように睨む。

「死んでください。うう……! ううううう……!」

 そして、五花は泣きだし、そのまま後ろを振り返ると、僕の部屋から走り去っていった。

 そうして僕は、ぽたり、ぽたりと、五花の涙が床に染みを作っている部屋の中、一人取り残されていた。

 ――いっそ本当に死んでやろうかな。

 そんな馬鹿な考えを一人弄ぶ事しか、出来ないまま――