わたしは海斗くんが去った後のアトリエで、一人絵に向き合いはじめていました。

 海斗くんには大口をたたいてしまったわたしですが、絵に関してはもう初心者も同然という気持ちから始めないといけません。

 それくらい、絵という多大な技術力を必要とする世界では、わたしのブランクという奴は大きいはずでした。

 わたしは絵筆を持つのにも、油絵具を準備するのにも、キャンパスをビジョンに合わせて下塗りするだけの工程にも、非常に勇気が必要になるのを感じます。

 正直にいえば、一人で何メートルも高さがある場所で綱渡りをしに足を踏み出すような心境でした。

 怖かったです。

 震えそうになるくらい怖かったです。

 自分にはもう才能の欠片なんて、何一つ残っていないかもしれない。

 そんな恐れから手が止まりそうになったとき、わたしの脳裏には、たっくんのあの全てを見通すような優しい瞳が浮かびました。

 海斗くんの人生に、最後になんとか救いを与えてあげたいという、そういう強い感情も浮かびました。

 わたしは頑張れると思いました。

 そうです。

 いまよりわたしの頑張りが求められている場面なんて、わたしの人生で経験した事もないでしょう。

 わたしは今、初めて、人生で初めて、自分の意思で、心から自分が描きたいと思った絵を描こうとしているのです。

 それはきっと、すごく怖くて、すごく勇気がいる事でもあるけど――
 すごく楽しくて、すごく達成感があって、すごく尊い、そういう行いでもあるはずです――

 だから――

「……お願いします」

 わたしは幼い頃に絵画教室で教えられた習慣を思い出し、描く前の簡単な挨拶を虚空に向かってしてから、勇気を出して一筆目を入れます。

 それはわたしが幼い頃から自分の武器としてきた、流線形の丸みを帯びた、独特のタッチの筆遣いで――

 わたしはその一筆目が自分の理想通りに描けたのを見て――

 世の中には奇跡みたいな事がたくさんあるのかもしれないと思い――

 無邪気に、そのままその奇跡に浸る事を選んだのでした――




 *****




 それでも流石に、製作は順調とはいきませんでした。
 
 何度も何度も、自分の思い通りに筆が動かない瞬間が訪れます。

 それは、なにかくだらない雑念に支配されて、集中が途切れた瞬間だったり――

 本当に繊細な技術を要する難しい箇所で、緊張して力んでしまったり――

 自分の身体の感覚を、幼い頃の小さな身体のままだと勘違いしてしまったり――

 わたしの技術力の限界、ブランクの大きさをまざまざと感じさせられるような失敗ばかりでした。

 そういう時、わたしは一度落ち着いて、精神を統一しないといけない事を、過去の経験から知っていました。

 失敗は、失敗を呼びます。

 だからこそ、失敗したときこそ、一度休憩を入れてでも、もう一度精神を集中させられるようにならないといけない。

 わたしは、幼い頃から、精神を集中させるための自分なりの方法論として、呼吸に集中するという技を身に着けていました。

 これは、いわゆるマインドフルネスとか言われて世間で実践されているような、瞑想という奴に近いと思います。

 わたしが通っていた絵画教室の先生は、絵でパリに留学していた事もあるような本格派の先生で、こういう精神論みたいな部分にも詳しく通じている人でした。

 幸運にも近所に住んで教室をやってくれていたその先生の教えを、ひねくれていたわたしは完全には吸収できていませんでしたが――

 それでも、呼吸に集中すると、自分の中心に集中している状態、いわゆる無我の状態を作りやすくなる事は、わたしの実体験として確かでした。

 だから、わたしは自分のそれまでの体験を信じて、もう一度呼吸に集中します。

「すぅーー。はぁーー」

 息が吸い込まれ、鼻の中、喉の奥を通って、首、胸の中へと空気が循環する様を思い描き、その感覚だけに集中します。

 息を吐き、同じような場所を一つ一つ通って、鼻先から空気が出ていって、わたしの身体から離れていくのを感じます。

 何度も何度も、無心でこれを行います。

 そうすると、自分の中心というものが意識できてきます。

 ただ呼吸を眺め、呼吸を感じているだけの、自分の本当の中心。

 そこに還ったとき、人は本当の集中力を獲得できます。

 いわゆる、無我の状態という奴でしょう。

 わたしはただその無我を捕まえようと、優しく包み込むように、その自分の中心を、受け入れて、愛していきます。

 それはわたしの本能的な、何も考えずに行っていた心理的動作でしたが――

 不思議とこれが上手くいく事を、幼いわたしは確かに知っていて、今のわたしにも、これはまだ行えるようでした。

 しばらく、無心で呼吸します。

 もう何も怖くない。

 素直にそう思える心理状態を、わたしは回復します。

「……行ける」

 わたしは再び書き始めます。

「――お願いします」

 絵画教室の先生の教え通り、その先に何があるのかを予想せず、期待せず、ただ目の前の絵だけに、集中して――




 *****




 そんな製作活動を、わたしはおよそ1ヶ月にわたって続けました。

 毎日、学校がある日は学校が終わってから夜遅くまで、学校が無い日は朝から晩まで、海斗くんのアトリエに通いました。

 大きな失敗をしてしまい、書き直しになってしまった事もありました。

 普通ならすごく打ちのめされるような出来事です。

 それでも、わたしは、不思議とその失敗を恐れる事がありませんでした。

 元々ダメで、当然。

 何年ブランクがあると思っているんだ。

 むしろ、確かにこのまま上手くいけば成功するという感覚があるだけ、救われる。

 そんな想いをバネに、わたしは再び白紙のキャンパスを買ってきて、作業に取り掛かりなおしました。

「――お願いします」

 描きます。

 描きます。

 ただ描きます。

 それは無限にも感じられる、長い長い創造の時間でしたが――

 本当に高い集中力を発揮できていたわたしの精神にとっては、ある意味で一瞬にも感じられる時間でした。

 そんな一瞬を、毎日のように積み重ねて――

 わたしの絵は完成に向かっていきます。

 わたしは、その間、海斗くんとも、たっくんとも、ほとんど話をしませんでした。

 ただ作品だけに集中していたかったから。

 その集中力を維持するために、誰とも話したくなかったのです。

 そうして、描いて、描いて、描き続けて――

 ついに――

 ついに、わたしの絵は完成します――

 残された海斗くんの余命は1ヶ月。

 海斗くんは、いよいよ病状が悪化して、病院に入院してしまい、学校には来なくなっていましたが――

 わたしは、次にお見舞いに行くときは、絵が完成したときと決めていました。

 ついにわたしの絵を、海斗くんに見せられる時が来ます。

 わたしは、ただ、その事を感慨深く見つめていました。

 ――描けた。

 ――わたしにも描けた。

 ――こんな凄い絵が、まだ描けた!

 その何とも言えない達成感と興奮は、無上にして無二のものでしたが――

 本番はこれからです。

 わたしはこの絵を、海斗くんに見せて――

 そこで、何か凄い物を感じてもらわないといけないのです。

 これを見た海斗くんが何を感じるのか――
 それは正確には海斗くんにしか分からない、海斗くんだけの大切な感情ですが――

 わたしはその感情の湖に、確かに大きな石を投げ込む事が出来るだろうことは、実をいうともう、確信していました――