「い、五花……ははっ……キミだけには、今の話は聞かれたくなかったな……やられたよ」
海斗くんは、当然わたしがいる可能性がある事を知らなかったため、ずいぶんと驚き、戸惑っている様子です。
今の話は、それくらい海斗くんにとって、わたしには聞かせたくなかったのでしょう。
自分の最も深い恥部だと、海斗くんは思っているのかもしれません。
「海斗くん。海斗くんは、今、わたしの事を、もしかすると怖いと感じているかもしれないですね」
「五花。ああ、そうさ。怖いさ。こんな、誰にも見せてなかった、僕の一番弱いところを、無防備にも全部聞かれてしまって、しかもその子が、僕が一番好きな、しかも僕が一番嫌われる事を怖いと思っている、そんな女の子なんだから。怖くないわけがないだろう? ……ああ、だんだん開き直れてきたな……五花、僕は、キミの事が、ずっと怖かった」
「……そうですか」
海斗くんの告白は、とても真摯で、正直で、なんというか尊いものだと、素直に思えました。
わたしはそんな海斗くんへの尊敬を込めて、勇気を出してこれを告げる事にします。
「わたしは、海斗くんと同じくらい、海斗くんに今向き合っている事が、向き合おうとしている事が、怖いです。なぜだか分かりますか?」
「五花が、怖い……? ははっ、そんな想像をしたことはなかったな。五花は、いつも超然としていて、僕を弄ぶ側で、強者だと、無意識のうちにそう思ってしまっていたのかもしれないね……いったい、どうして怖いんだい? 教えてほしい」
わたしは、もしかすると海斗くんなら分かるかもなと一縷の希望を見ていましたが、残念ながら、不合格のようでした。
わたしは答え合わせをします。
彼にとって、残酷な答え合わせを。
「わたしが、海斗くんの事を心から愛していない、偽りの彼女だった事を告げる事が怖いからです」
海斗くんは、心臓をナイフで突き刺されたような、苦悶の表情を浮かべていました。
しばらく、ずっと黙って、苦しそうにして……
それから、諦めたように笑いました。
「知ってたよ……君はいつも、僕でない何かを求めていた。僕でない何かに縋ろうとしていた。その事に、気付かないフリをしていたのは僕の方だ。僕の、弱さだ。そういう意味では、謝らないといけないのは、僕の方なんだと思う。すまない……」
わたしは、それを、海斗くんが魂を振り絞って出した、真摯な答えだと思いました。
わたしは、この海斗くんなら、ちゃんと尊敬できる、ちゃんと愛せる、と感じました。
だから――
「海斗くん。確かに、わたしは海斗くんのことを、愛してはいなかったです。これからも、恋人として愛する事はできません。ですが、今の海斗くんの答えを見て、わたしは海斗くんの事を、恋人ではなく、一人の対等な人間として、心から尊敬できると、そう感じました。そんな海斗くんが、これから2ヶ月のうちに死に向かっていく事を、わたしなんていう愚かな人間に報われない恋をし、それを無念に思ったまま死ぬ事を、心から悲しいと感じています。これが、今のわたしの正真正銘の本心です。海斗くんは、そんなわたしの事をどう思いますか? 憎いですか? 殺したいほど憎くても、おかしくはないかもしれませんね……本当に、ごめんなさい……馬鹿で、ごめんなさい……うう……うううううっ……!」
話しているうちに、わたしは本当に海斗くんの事を尊敬できるのに、そんな海斗くんに無念の死を与えようとしている事が、途方もなく残酷な事に思えて、許されない事に思えて、海斗くんの事が可哀想でしょうがなくなって、泣いてしまっていました。
本当に身勝手な涙です。
つくづく馬鹿な女です。
ですが、わたしは馬鹿なりに、今ベストを尽くそうと思って、ここにいます。
だから、泣きながら、それでも言葉を絞り出します。
「ううう……! ひっぐ……! 海斗ぐんは……! 弱いところもひっくるめて海斗くんなんだと思いまず……! そこから、逃げてきたのは、わたしも一緒なんでず……! ひっぐ……! わだじは……! 絵を描く事も、母親に愛されでいながっだ事も……! 怖くで、怖くで、怖くで、怖ずぎで……! その怖さを、他の人間の人生を壊す方向に向けてしまいましだ……! わだじは、本当に、罪深すぎて、死んだら間違いなく地獄に堕ちるような、そんな女なんでず……!」
気づけば、海斗くんも泣いてくれていました。
海斗くんは、泣きながら、わたしの顔を真っ直ぐ見つめて、わたしの話を聞いてくれていました。
わたしは、その涙に、こんな女に貰い泣きしてしまう海斗くんのやさしさを、慈愛を感じました。
そんな海斗くんの事を、わたしは心から救ってあげたいと思いました……
海斗くんの、報われない人生に、救いを……
だから……
わたしは、涙をぬぐって、少し落ち着いて、それから、一生懸命この大事な大事な言葉を伝えようと、もう一度必死に叫びます。
「だからわたしは! 海斗くんのために! 海斗くんのためだけに! 一作の絵を描きます……! それをもって、わたしという人間が! 恋人としては海斗くんを愛せなくても! 確かに海斗くんの事を、大切な、尊敬できる友達だと思っていで! その死を心から悼んでいるという、証を立てまず!」
喋っているうちに、また涙がぽろぽろと溢れてきて、きっとわたしの可愛い顔は今大変な事になっていると思いました。
「五花……! 五花は、こんな風に泣くんだね……! こんな風に泣ける女の子だったんだね……! ごめんよ……! 僕の方だった……! 僕が、五花のそういう尊いところを、まったく引き出してあげられなかった! 本当にダメな彼氏だった! 本当にごめん! そしてありがとう……! 本当に、ありがとう……!」
海斗くんは、わたしの左手を両手で握るように手に取って、わんわん泣いていました。
わたしも、その海斗くんの両手に大粒の涙を落としながら、わんわん泣いていました。
たっくんは、そんなわたしたちを、同じく涙目になりながらも微笑んで、見守ってくれているようでした――
*****
それからわたしたちは、さんざんお互いに謝り合って、さんざんお互いに感謝し合ってから、やがてそっと手を離し、静かに向き合いなおしました。
「五花。本当にありがとう。五花が絵を描くと言い切る事は、僕には想像も出来ないくらい途方もない勇気が必要だったと思う。僕は、僕のためにそういう尊い勇気を出してくれる五花の事が、心から好きだ。それだけに、恋人として一生を全うできなかった事には、ちょっとだけ未練を感じるけど……」
「はい。それはわたしの罪だと思います。海斗くんは何も悪くありません」
「……いいんだ。単に恋人でいるだけではきっと普通の人は貰えない、もっとずっと大切な何かを、僕は五花から貰ったから。さらに僕のために、あの五花が絵を描いてくれるんだ。僕の一生に、これ以上望めるものなんてない。これ以上望んだら、それこそ天国に行けなくなっちゃうよ。ははっ……」
「そうですね。どんな絵になるかは、それこそ神のみぞ知るって感じでしょうが、言った事は守りたいです」
「うん。たとえどんな絵でも、僕の人生における最高の宝物になる事は間違いないよ。僕は、今の五花なら、僕も想像できないくらい凄い絵を仕上げてしまうんじゃないかって、なんとなく予想してはいるけどね」
「あんまりプレッシャーをかけるのはダメですよ、わたしだって、ただでさえ怖いんですから。でも、頑張ります」
「うん。卓も、ありがとう。卓が用意してくれたんだろ、この機会は?」
そう話を振られて、それまで黙って見守っていたたっくんが、笑って言いました。
「違うさ。僕は五花に、屋上で海斗と話すつもりだって伝えただけ。勝手にあんなところまで登って、勝手に降りてきて話を始めて、勝手にあんなとんでもなく素晴らしい演説をしでかしたのは、全部、こいつの功績だよ」
そういって、たっくんは、わたしの背中を乱暴に叩きました。
「いった……! ひどいですね! でも今の、なんか友達って感じがして良かったかもしれません。わたしはたっくんとも、本当は親友になりたかったのかもしれませんね」
「そうか、ずいぶんタチの悪そうな親友だね、そいつは」
「ひっど! もうたっくんとは口利きません。いきましょう、海斗くん」
そう言いながら海斗くんを見ると、海斗くんは、笑っていました。
「ははっ! はははっ! おかしいなぁ……! 本当に、おかしい……!」
海斗くんは、そう言ってから、優しく微笑んで、こういいました。
「卓、キミには叶わないよ、やっぱり。五花を、幸せにしてあげてくれ」
海斗くんの知性の前では、わたしたちの事はお見通しのようでした。
わたしはその話題は無意識に避けていたので、気恥ずかしさがありましたが……
「ふふっ、分かってる。大事にするよ。親友の親友でもあるからね」
そうたっくんが笑うのを見て――
わたしは、この二人が大好きだなと、心から思ったのでした――
その日の放課後、わたしは海斗くんに捧げる絵を描くため、まずは遥か昔に廃棄してしまった画材を買いなおすべく、画材屋に向かいました。
画材屋のおじさんはわたしが幼い頃にこの店を訪れた時と変わらない人で、幾らか年を取って白髪が増えた以外、その親切な説明も、優しさも、変わっていませんでした。
わたしが「久しぶりに絵を描きたいと思ったんです。しかも真剣な絵です」と事情を簡単に話すと、おじさんは喜んで色々画材を提案してくれた。
「しかし五花ちゃん、絵を描くのは辞めちゃったのかなと思ってたけど、また描く気になったんだね。しかもこんな可愛い女の子に成長しちゃって、おじさん二重にびっくりしたよ」
わたしはこの言葉を聞いて、素直にこのおじさんをいい人なんだなと思えました。
昔のわたしは、どこかひねくれていて、こういう優しさを真っ直ぐに受け止められていませんでしたが。
それはわたしの側の問題に過ぎなかったんだなと、今更になって思いました。
わたしはおじさんが提案してくれた画材を吟味し買い込むと、画材屋を後にします。
あの後海斗くんとたっくんと話をした結果、わたしの絵画制作は、海斗くんの自宅にあるアトリエを借りて行われる事になっていました。
彼氏のいる女の子が、他の男の子の家で、その男の子のために絵を描く。
それは世間一般的な常識からすれば、とても奇妙で、あまり良くない行為のようにも思われるかもしれませんが……
わたしたち三人の間に、そんな事を気にする人はもちろんいませんでした。
そして、わたしたち三人が認めていれば、わたしには、それで十分でした。
だから、わたしは買い込んだ画材を持って、海斗くんのアトリエに向かいます。
それは海斗くんの広い自宅の庭にある、古ぼけた蔵に作られたアトリエでした。
海斗くんは、いつもこの蔵で、数々の作品を生み出してきたそうです。
わたしは、今初めて、この海斗くんのアトリエに足を踏み入れます。
蔵の中は春にしては少しひんやりとしていて、油絵具の独特の香りが鼻につきました。
電気はついていて、中では海斗くんとたっくんが、二人でわたしの事を待っているようでした。
「五花、買い物お疲れさま」
最初に話しかけてくれたのは、たっくんでした。
「本当に、僕の画材で書いてくれても良かったんだけどね」
と済んだ話をまたしてきたのは海斗くんでした。
「わたしから海斗くんへのプレゼントですからね。海斗くんの画材で書いたら、なんか変な感じがするでしょう?」
「そうかなぁ? まあ、このアトリエは、本当自由に使ってくれていい。いつ来てもいいし、いつ帰ってもいい。両親には事情を軽く話して許可は取ってあるから、あとは、五花を信じて、任せるよ。よろしく」
そういって、海斗くんは頭を下げました。
「わたしが海斗くんに勝手にプレゼントするだけですから、そこまで気を遣わなくていいのですけどね。こちらこそ、アトリエは素直に有難いです。ありがとうございます」
わたしはなんとなく、そう言って頭を下げ返した。
「んじゃ、俺はいても何も出来ないだろうし、そろそろ行こうかと思う。海斗、五花が変な事しないよう、良く見張ってくれよ?」
「変な事ってなんですか! わたしの事より海斗くんの事を信じてるんですねー、たっくんは? たっくんなんか、知りません! さっさとどこかへ消えてください!」
「はいはい。じゃ、僕は行くよ。それじゃな、海斗」
「うん、卓。五花の事、信じて、任せてくれて、ありがとう」
「そんなの、当たり前すぎて、感謝するような事でもないよ」
そう言って去っていくたっくんは、痺れるほど格好良く感じて、胸がときめきます。
「ふふ、五花は本当に卓が好きなんだね」
海斗くんは、悔しい思いなど無いかのように、わたしを祝福するように、微笑んでくれていました。
わたしはそんな海斗くんに申し訳なさと恥ずかしさを感じ、改めて海斗くんに向き合うべく、ごほんとわざとらしく咳をします。
「えー、海斗くん。このプレゼントをするためには、まずわたしが習作を描いて絵の技術を最低でも昔の自分レベルにまで回復させないといけないのはご存じの通りです。ですが、それに加えてわたしは、わたしが描きたいと思っているモチーフのために、昔の海斗くんの事をもっと知らないといけないと思っています」
わたしがそう告げると、海斗くんは戸惑う表情を見せました。
「昔の、僕の事……そんな事を、話さないといけないのかい?」
海斗くんはそれに抵抗する姿勢を見せようとしていました。
まあ当然かもしれません。
まだ、怖いのでしょう。
自分の過去に向き合う事が。
自分の過去という恥部を、わたしに話す事が。
それが痛いほど分かっているわたしは、あえて明るく、海斗くんに強制します。
「ええ、もちろんです! これは、このプレゼントを最高のものにするためのわたしのわがままですけど、海斗くんはわたしの最高の親友ですから、親友の望みをもちろん叶えてくれますよね? ふふっ」
そう真っ直ぐに海斗くんの目を見つめて言うと、わたしの想いは伝わったようで、海斗くんは少し顔を赤くしつつも目を逸らして、こう諦めたように言いました。
「わかったよ。話せばいいんだろう、話せば」
顔を赤くしちゃうあたりに、まだわたしの事を完全にただの親友だと割り切れてはいない心理が透けましたが、わたしは敢えてそこに触れる事はなく、それに関しては海斗くんの努力を信じて、わたしのするべき事をする事にします。わたしは酷い女でしょうか? いえ、今更でしたね。
「そうです。海斗くんの事、全部教えてください。わたしが海斗くんを丸裸にしてあげます。良い所も、悪いところも、好きなところも、嫌いなところも、全部。だから、わたしの記憶の中で、海斗くんは生き続けるんです。たとえ海斗くんが死んだとしても、わたしの記憶の中では、海斗くんは色鮮やかなままです。これって、なんだか救われる気がしませんか?」
そう言うと、海斗くんは思いのほか琴線に響いたようで、なんだか目を潤ませて、感動したようにわたしの事を真っ直ぐ見つめました。
「ああ……キミは……本当に最高の、親友だな……あれだけ話すのが怖かったのに、それもどこかへ吹き飛んだよ。ありがとう」
そう言って、海斗くんは深く頭を下げました。
わたしはそれを満足気に見てから、再び頭を上げた海斗くんを、向き合うように見つめ、それから微笑みかけます。
「それじゃ、わたしを海斗くんのお姉ちゃんだとでも思って、海斗くんの昔の事、全部話しちゃってください。五花お姉ちゃんがこんなに優しく話を聞いてあげようとしてるんですから、海斗くんも、ちゃんと逃げずに全部話すんですよ?」
「……わかったよ。五花お姉ちゃん?」
海斗くんも、わたしの冗談に乗って、笑いかけてくれました。
そうして海斗くんの長い過去話が始まります。
「……わかったよ。五花お姉ちゃん?」
僕がそう冗談を返すように微笑むと、五花も再び僕に可愛らしい微笑みを返してくれた。
途方もない幸せを、その微笑みに感じた。
「ああ……」
「……どうしたんですか?」
「なんか、これだけで良かったんだなって。僕が本当に求めていたのは、こういうものだったんだ……急にそれが分かったよ」
「そうなんですか?」
「僕は今、途方もない安心感を、君との会話に感じている。本当に、幼い男の子がお姉ちゃんに甘えているような感覚かもしれない」
「ふぅん? まあ、良い事なんじゃないですか? わたしは嬉しいですよ?」
僕は、この安らぎを与えてくれる五花という少女の事を、やっぱり好きだなと改めて感じたが、もちろん今となっては叶わぬ話である。
しかし僕は不思議と、その事を悔しいとも感じていなかった。
この目の前にいる五花という才能は、様々な不幸がその心を、その行動を歪めていたとしても、なおその奥底にある輝きは、僕が子供の頃に五花の絵に感じたように、果てしなく広く、深い。
僕はそんな才能を僕だけで独占するなんて事は、許されていいはずがないと素直に思えていた。
こういうものは、恋人だの、結婚だのと、約束や形式、契約などといったくだらないもので束縛していい存在ではないんだ。
もっと尊いんだ。
本当に尊い何かというのは、ただ自分の所にその尊さが舞い降りる幸運を、神に感謝する事しかできない。そういうものなんだ。
それを捕まえようとしたり、自分のものにしようとしたりする試みは、すべて無駄で、愚かな行為だ。
それとずっと共にある何かがあるとするなら……
それは、それと同じくらい、尊く、気高い存在だけだ。
死期が近づくにつれ、なんだか僕はこういう事がすっと直感で分かるようになっていた。
人間的成長というのは、どうやら死と密接な関係があるらしい。
それはたぶん、死と生があまりにも密接な、両輪の関係にあるからだと思う。
僕は死を恐れる恐怖を徐々に克服しつつあるのだろう。
この五花と、卓という輝きに触れる事によって。
それが、僕の人間的成長に繋がって――
こういう世の中の真理といってもいいだろう何かに、気付けるようになってきた。
こういう事が分かっている今なら、きっと生を、もっとよりよく、もっと豊かに生きる事が出来るはずだった。
もっと生きたい。
もっと色々なものを味わいたい。
素直にそう思う一面もある。
だが、それが叶わないのも、また生というものの奥深さの一部なのだろう。
そういう意味で、僕はある意味今までで一番生を満喫していた。
「――だから今、こうしてやっと、五花に話す事ができる……この僕の、どうしようもない過去を。途方もなく恥ずかしい、くだらない、人に話したくない、そんな暗部を」
「……聞かせてください」
「最初に話さないといけないのは、僕が4歳のときのエピソードだ」
「はい」
「僕は、幼稚園で絵を描く時間があって、その時に描いた紫色をしたお魚の絵が、幼稚園で金賞という賞を取ったんだ。僕はもちろん4歳だから、4歳児が無我夢中で描いただけの作品なんだけど、僕がその賞を取ったと知ったとき、僕の母親はこう言った。さすが海斗ね。海斗はいい子だから、いい絵が描けるのね。これからもいい子でいないとダメよ。そう言われたんだ」
「……はい」
「母親は、いい子であるという言葉をよく使う人だった。子供むけのヒーローアニメなんかをすすんで観させて、海斗もこういういい子にならないとダメよって言うのが常だった。これ自体は、世間一般の家庭でもよくある範囲の、普通の教育の範囲だと思う」
「……はい」
「だけどその絵は、僕にとってもとってもお気に入りの、とっても楽しい作品だったから、それが僕がいい子だから描けたと言われたとき、僕の心の中に急になんだかぽっかり穴が空いたような闇が生まれたのを幼心に感じたんだ。もちろん、そんな風に言語化なんてできなかったけど、ただ、不安を感じていたんだ」
「……はい」
「この時の言葉は、幼い僕の心に何度も反響して、何度も僕を苦しめる事になる。いい子にならないといけない。いい子でないとダメ。いい子じゃないと、いい絵が描けない。それは有り体にいって、僕の恐怖だった。幼い僕が初めて感じた恐怖。それがこの、いい子という単語に詰まっていた。だって絵を描くのはあんなに楽しくて、いい絵ができるのはあんなに嬉しいのに、それがいい子でなくなった瞬間全部台無しになっちゃうんだ。それは幼い僕にとって途方もない恐怖で、いつしか僕は、いい子でなくなる事を強く恐れるようになっていた」
「……はい」
「僕は幼稚園での一挙一動が、いい子に見えるのかを気にするようになった。砂場で泣いている子供がいたら、手を貸し、何があったのかを聞く。それがいい子に見える行動だから。いい子でないのは怖いから。僕はそんな、幼い歪みを、徐々に抱えるようになっていったんだ」
「……はい」
「母親は、僕に絵の才能があるらしいと聞いて、近所の絵画教室に僕を通わせるようになった。僕はそこで、幼い子供にしては凄いとあちこちで言われるくらいには、メキメキと実力をつけていったよ。でもそれは、いい子でいるために過ぎなかった。母親の思ういい子は、絵も上手に描ける子だから、いい子でいるために、絵も上手に描けないといけない。僕を動かしていたのは、そんな黒い強迫観念だった」
「……はい」
「本当に恐ろしいのは、僕が、まるでいい子でいたいとは思えていないのに、周囲からいい子だ、素晴らしい子だと扱われだしてしまう事だった。僕はそれを見て、なんて簡単なんだろう、と思ったよ。いい子でいる事は、どうやら僕にとって難しい事ではないらしい。それは、周囲への嘲りとか見下しとなって、僕の心に残っていった。そうなんだ。僕は普段はいい子のフリをしているのに、心の奥底では周囲みんなを見下しているような、そんなどうしようもない子供だったんだよ」
「……はい」
「たとえば僕は、小学校で授業があるとき、率先して手を上げて、毎回のように正解を答えていた。そのためだけに、僕は教科書を先に読んで、先生が聞きそうな質問に対する答えをあらかじめ用意していた。それで、見事にこたえた僕の心の中にあるものといったら、ただ、こんな事も答えられない周囲の子供たちへの見下し、こんな簡単な事をわざわざ質問する先生への見下し、そんなものばかりだったんだ。僕はそんな、どうしようもなく歪んだ子供として育っていた」
「……はい」
「そうして、僕が表面だけのいい子として、表面だけの上っ面に過ぎない絵を描いて過ごして、数年が経った。僕はそれなりに成長して、小さなコンクールなどでは賞も取れるようになっていたが、全国的なコンクールなどではまだまだ遠く力が及んでいなかった。だが僕は、そこまで難しいコンクールは自分には必要ないと思っていた。いい子でいるため、という目的には過分な賞だと思っていたんだ。そんなある日、僕は市役所のホールで飾られていた、ある絵に出会った」
「……わたしの絵、ですね」
「そうだ。一目見て、何か途轍もないものと出会ってしまったと思った。僕はただ無我夢中で、そこに描かれた美に、自由に、自由への渇望に、ひれ伏す事しかできなかった。その絵の中にいたのは、僕だと感じた。僕が心の奥の奥でずっとずっと感じていたもの。それはこの、自由になりたいという強烈な願望だったんだと、全てを理解した気持ちになった。同時に、絵が凄すぎて、美しすぎて、わけが分からなかった。見ると、これを描いたのはわずか10歳の、僕と同い年の女の子で、この絵は全国的なコンクールで見事賞を取ったのだという。僕は、本当に才能がある子供という存在の凄さと恐ろしさを、本当にすごい絵というものが持つパワーを、人生で初めて、まざまざと体感した」
「……そうですか」
「僕は絵というものに関する認識を根本から悔い改めたよ。絵は、絵だけは、いい子でいるための道具なんかじゃない。もっと崇高で、気高い何かがそこにはある。だからこそ僕は、僕自身、全力で取り組んでみたい。そこにある崇高な何かを、手元に引き寄せてみたい。そう思った」
「……はい」
「それからは中学2年で卓に会った事と、中学3年で君と出会った事。その二つくらいだね。そこから先の事は、君も知っての通りさ。僕は愚かにも君の誘惑にメロメロになってしまって、性欲を晴らす事しか考えられない獣に成り下がっていたね。そんな僕が、獣に先祖帰りしてしまう奇病にかかったのは、ある意味皮肉かもしれない」
「……」
「僕はこれでも君の事が好きだと思っていた。そう思おうとしていた。だけど、違ったよ。結局僕はただ、君のその身体で、僕の醜い欲望を、晴らしたいだけだったんだ。僕はキミの本当の崇高な部分を、気高い気質を、まるで理解すらしていなかった。こんなの、彼氏なんて呼べるはずもない。僕は、彼氏失格、いや、人間失格かもしれない」
「……それは違うと思います」
「……え?」
「海斗くんの、わたしの絵を見たときの憧れは、わたしがいうのもあれな話ですが、本当に強烈な、鮮烈なものだったはずです。その感動は、わたしの誘惑ごときで消えてしまうほど、浅いものだったのですか?」
「……」
「海斗くんは、わたしがこないだ公園で泣きついたとき、泣いているわたしを慰めるのもそこそこに、絵の話ばかりしていました。本当にわたしとセックスがしたいだけなら、泣いているわたしをよしよしと慰めて、適当に表面だけの心の慰めを口にし続けていればよかったはずです。もしかすると、それに絆されたわたしが、海斗くんとエッチな事をしてくれるかもしれないんですから」
「それは……」
「違います? 違いませんよね? だって、普段海斗くんの家でデートしてるとき、海斗くんはわたしに対しても、いい子でいる以上の事は何も出来ていませんでした。それは、その時の海斗くんが、わたしに誘惑されて、性欲を炙られて、その事しか考えられなくなって、海斗くんの本質的な部分しか心に残っていなかったからだと思います……いい子でいれば、わたしが認めて、エッチしてくれるかもしれない。そんな幼い、どうしようもない感情で動いていた事は、今のわたしなら一瞬で分かります」
「うっ……それは……そうだ……そうだね……そうなんだよ……僕は本当にそれだけの、どうしようもない奴で……」
「だからこそ、海斗くんが、わたしが公園で泣きついたときという、ある意味恋愛的にいえばチャンスな場面で、絵の話ばかりしていた事には意味があると思います。海斗くんが、わたしの絵に感じた感動は、きっと本当に聖なるものでした。それは、どんなに誘惑されて、どんなに歪められたとしても、抑えきれない熱情として、海斗くんの中に残っていた。だからこそ、海斗くんはあの場面で、計算づくのいい子としてわたしを慰めるのではなく、心の赴くがままに、わたしに絵を描かせようとする事を選んだんです。それは無意識的にだったかもしれませんが、だからこそ、海斗くんの本質が出ていると、わたしは感じました」
「……!」
「そんな海斗くんだから……そんな海斗くん相手だからこそ、わたしは、今、心から海斗くんを憐れんで、海斗くんを救える絵を描きたいと思っています。海斗くんは、どうしようもない人間だと、自分の事をそう思っているかもしれませんが……それは幼い頃の小さな歪みが、やがて大きな歪みとなって、海斗くんの心の成長を、幼い頃のまま止めてしまったからに過ぎないと思います。海斗くんの中には、今もまだ、幼稚園で金賞を取ったときの、3歳児の海斗くんがいるんだと思います。そして、わたしの絵に海斗くんが感動したのは、その3歳児の海斗くんが、心から自由を求めていたからだと思います。だって、わたし自身が、そうだったんですから……!」
「……五花も、そうだったんだね……!」
「そうです! そうに決まってるじゃないですか! わたしは散々お母さんにコンクールで受ける絵だの大人が喜ぶ絵だのを強制されて、絵の方向性を歪まされて、怒っていた! 不満だった! 全てを壊したかった! それでもわたしは、お母さんにいい子だねって、愛してるよって一言、一言だけでも言って欲しくて……! それであの絵を描いたんです! あの絵には、わたしの自由への渇望が込められていました。本当に強い、心からの渇望です。この鳥みたいに、この鳥に乗る子供みたいに、自由に空を飛び回りたい。それが心からの本心だったからこそ、見た海斗くんの心を打ったのでしょう……思えば、わたしの絵の中でも、一番わたしの心が、わたしの心象風景が強く出ていた絵でした。それが海斗くんを感動させて、こうしてわたしに海斗くんのための絵を描かせるべく運命が動いたのは、それこそ、神様の思し召しという奴かもしれませんね……」
気づけば、僕は両目から涙が零れるのを抑えきれなくなっていた。
幼い五花の、怒りを、不満を、全てを壊したいという心を想像して、泣いてしまっていた。
「そうか……五花は……五花も……辛かったのに……それでも五花はあの絵を描いたんだなぁ……五花は、強いなぁ……」
「強くなんてありません! 事実わたしはボロボロで、あの絵を描いてちょっとした頃には、例の彫刻刀で絵の数々を引き裂いて回る事件を起こしたんですから……わたしは本当に弱くて……ありもしない母の愛を求めているだけの、どうしようもない、弱い子供でした……」
「でもその弱さが、僕の心を救ってくれたんだ。僕はキミに、やっぱり深く感謝しないといけない」
「そんなのは……そんなのは、海斗くんの中に、元々救われる種子があったからに過ぎません……」
「種子?」
「ええ……3歳の頃の、無我夢中で紫色のお魚を描いていた海斗くん。そんな海斗くんの自由で、喜びに満ちた絵を描ける健やかな心こそ、海斗くんの種子です。海斗くんは、その種子のまま、成長が止まっちゃってるんですよ」
「……!」
「だからわたしが、もう一度、その種子を芽吹かせる絵を、描いてみせようと思います。それが死にゆく海斗くんにとって、何よりも救いになると信じて」
「……っ!」
「だから、海斗くん。安心してくださいね? 五花お姉ちゃんが、可愛い海斗くんのために、ステキなお絵描きを見せてあげます」
「……っ! ううっ……! ううううううっ……! 君は、なんて……! ありがとう……! 本当にありがとう……! ううううううっ……!」
僕は泣いていた。
涙が止まらなかった。
それはずっと僕の心の奥の奥で抑圧されてきた、3歳の頃の僕の、喜びの涙だったのかもしれない……
「うううううっ……! ううううううううっ……!」
すべて浄化するような涙が、五花の優しさが、ゆっくりと、僕の心に溜まった澱を、洗い流してくれているかのようだった。
わたしは海斗くんが去った後のアトリエで、一人絵に向き合いはじめていました。
海斗くんには大口をたたいてしまったわたしですが、絵に関してはもう初心者も同然という気持ちから始めないといけません。
それくらい、絵という多大な技術力を必要とする世界では、わたしのブランクという奴は大きいはずでした。
わたしは絵筆を持つのにも、油絵具を準備するのにも、キャンパスをビジョンに合わせて下塗りするだけの工程にも、非常に勇気が必要になるのを感じます。
正直にいえば、一人で何メートルも高さがある場所で綱渡りをしに足を踏み出すような心境でした。
怖かったです。
震えそうになるくらい怖かったです。
自分にはもう才能の欠片なんて、何一つ残っていないかもしれない。
そんな恐れから手が止まりそうになったとき、わたしの脳裏には、たっくんのあの全てを見通すような優しい瞳が浮かびました。
海斗くんの人生に、最後になんとか救いを与えてあげたいという、そういう強い感情も浮かびました。
わたしは頑張れると思いました。
そうです。
いまよりわたしの頑張りが求められている場面なんて、わたしの人生で経験した事もないでしょう。
わたしは今、初めて、人生で初めて、自分の意思で、心から自分が描きたいと思った絵を描こうとしているのです。
それはきっと、すごく怖くて、すごく勇気がいる事でもあるけど――
すごく楽しくて、すごく達成感があって、すごく尊い、そういう行いでもあるはずです――
だから――
「……お願いします」
わたしは幼い頃に絵画教室で教えられた習慣を思い出し、描く前の簡単な挨拶を虚空に向かってしてから、勇気を出して一筆目を入れます。
それはわたしが幼い頃から自分の武器としてきた、流線形の丸みを帯びた、独特のタッチの筆遣いで――
わたしはその一筆目が自分の理想通りに描けたのを見て――
世の中には奇跡みたいな事がたくさんあるのかもしれないと思い――
無邪気に、そのままその奇跡に浸る事を選んだのでした――
*****
それでも流石に、製作は順調とはいきませんでした。
何度も何度も、自分の思い通りに筆が動かない瞬間が訪れます。
それは、なにかくだらない雑念に支配されて、集中が途切れた瞬間だったり――
本当に繊細な技術を要する難しい箇所で、緊張して力んでしまったり――
自分の身体の感覚を、幼い頃の小さな身体のままだと勘違いしてしまったり――
わたしの技術力の限界、ブランクの大きさをまざまざと感じさせられるような失敗ばかりでした。
そういう時、わたしは一度落ち着いて、精神を統一しないといけない事を、過去の経験から知っていました。
失敗は、失敗を呼びます。
だからこそ、失敗したときこそ、一度休憩を入れてでも、もう一度精神を集中させられるようにならないといけない。
わたしは、幼い頃から、精神を集中させるための自分なりの方法論として、呼吸に集中するという技を身に着けていました。
これは、いわゆるマインドフルネスとか言われて世間で実践されているような、瞑想という奴に近いと思います。
わたしが通っていた絵画教室の先生は、絵でパリに留学していた事もあるような本格派の先生で、こういう精神論みたいな部分にも詳しく通じている人でした。
幸運にも近所に住んで教室をやってくれていたその先生の教えを、ひねくれていたわたしは完全には吸収できていませんでしたが――
それでも、呼吸に集中すると、自分の中心に集中している状態、いわゆる無我の状態を作りやすくなる事は、わたしの実体験として確かでした。
だから、わたしは自分のそれまでの体験を信じて、もう一度呼吸に集中します。
「すぅーー。はぁーー」
息が吸い込まれ、鼻の中、喉の奥を通って、首、胸の中へと空気が循環する様を思い描き、その感覚だけに集中します。
息を吐き、同じような場所を一つ一つ通って、鼻先から空気が出ていって、わたしの身体から離れていくのを感じます。
何度も何度も、無心でこれを行います。
そうすると、自分の中心というものが意識できてきます。
ただ呼吸を眺め、呼吸を感じているだけの、自分の本当の中心。
そこに還ったとき、人は本当の集中力を獲得できます。
いわゆる、無我の状態という奴でしょう。
わたしはただその無我を捕まえようと、優しく包み込むように、その自分の中心を、受け入れて、愛していきます。
それはわたしの本能的な、何も考えずに行っていた心理的動作でしたが――
不思議とこれが上手くいく事を、幼いわたしは確かに知っていて、今のわたしにも、これはまだ行えるようでした。
しばらく、無心で呼吸します。
もう何も怖くない。
素直にそう思える心理状態を、わたしは回復します。
「……行ける」
わたしは再び書き始めます。
「――お願いします」
絵画教室の先生の教え通り、その先に何があるのかを予想せず、期待せず、ただ目の前の絵だけに、集中して――
*****
そんな製作活動を、わたしはおよそ1ヶ月にわたって続けました。
毎日、学校がある日は学校が終わってから夜遅くまで、学校が無い日は朝から晩まで、海斗くんのアトリエに通いました。
大きな失敗をしてしまい、書き直しになってしまった事もありました。
普通ならすごく打ちのめされるような出来事です。
それでも、わたしは、不思議とその失敗を恐れる事がありませんでした。
元々ダメで、当然。
何年ブランクがあると思っているんだ。
むしろ、確かにこのまま上手くいけば成功するという感覚があるだけ、救われる。
そんな想いをバネに、わたしは再び白紙のキャンパスを買ってきて、作業に取り掛かりなおしました。
「――お願いします」
描きます。
描きます。
ただ描きます。
それは無限にも感じられる、長い長い創造の時間でしたが――
本当に高い集中力を発揮できていたわたしの精神にとっては、ある意味で一瞬にも感じられる時間でした。
そんな一瞬を、毎日のように積み重ねて――
わたしの絵は完成に向かっていきます。
わたしは、その間、海斗くんとも、たっくんとも、ほとんど話をしませんでした。
ただ作品だけに集中していたかったから。
その集中力を維持するために、誰とも話したくなかったのです。
そうして、描いて、描いて、描き続けて――
ついに――
ついに、わたしの絵は完成します――
残された海斗くんの余命は1ヶ月。
海斗くんは、いよいよ病状が悪化して、病院に入院してしまい、学校には来なくなっていましたが――
わたしは、次にお見舞いに行くときは、絵が完成したときと決めていました。
ついにわたしの絵を、海斗くんに見せられる時が来ます。
わたしは、ただ、その事を感慨深く見つめていました。
――描けた。
――わたしにも描けた。
――こんな凄い絵が、まだ描けた!
その何とも言えない達成感と興奮は、無上にして無二のものでしたが――
本番はこれからです。
わたしはこの絵を、海斗くんに見せて――
そこで、何か凄い物を感じてもらわないといけないのです。
これを見た海斗くんが何を感じるのか――
それは正確には海斗くんにしか分からない、海斗くんだけの大切な感情ですが――
わたしはその感情の湖に、確かに大きな石を投げ込む事が出来るだろうことは、実をいうともう、確信していました――
ゴールデンウィークも全て海斗くんのための絵に捧げたわたしでしたので、絵を完成させて初めて迎えた土曜日は、わたしにとって久々の自由な時間となりました。
わたしはこの日、海斗くんに、わたしの絵を見せるつもりだと、たっくんや海斗くんに連絡していました。
約束の時間まではあと2時間ほど。
わたしは海斗くんの家の蔵に置いてある自分の絵を回収しに、海斗くんの家に向かいました。
海斗くんの蔵にあった大きな布をかぶせて隠してあったそのキャンパスの絵を、わたしは布を取り額縁に入れて、もう一度布をかぶせて、運びやすいように紐でくくりました。
布を取った瞬間、「これを自分が描いたのか」という新鮮な驚きがありました。
わたしはこの絵なら、きっと海斗くんの人生に何かを遺せると、そう素直に信じられました。
それから時間が余ったので、わたしは蔵で、一人鉛筆を弄んでいました。
小さなスケッチブックに、簡単なデッサンをしていたのです。
しばし、無心で、デッサンに集中します。
ですが描いているうちに思いの外のめりこんでしまい、気付けば時間がギリギリになっていました。
わたしは慌てて絵を持って、海斗くんの病院に向かいます。
海斗くんが入院しているのは、県有数の大学病院で、入るのには受付で病院側の許可を取る必要がありました。そのためには海斗くんの両親の許可も必要です。
許可が取れたのは、たっくんが海斗くんのお母さんやお父さんと話をしてくれたようでした。そして海斗くん自身も、病身にもかかわらず、両親を説得してくれたようです。
わたしは受付の人に感謝の気持ちを伝えてから、案内された海斗くんの病室に向かいます。
405という個室が、海斗くんの入院している部屋なようでした。
そこでは今、たっくんと海斗くんが2人でわたしを、わたしの絵を待ってくれているはずです。
急に、わたしは海斗くんの病状が怖くなりました。
だって後1ヶ月で死ぬような病人なのです。
海斗くんの病気についてわたしは調べましたが、ひょっとするともう人間の姿はあまり留められていないかもしれません。
わたしは今更になって、もっとお見舞いに行っていた方が良かっただろうかとか、後悔し迷う気持ちが浮かんでくるのを感じました。
こういう時、わたしは落ち着いて、たっくんのあの全てを見通すような目を、微笑みを思い出します。
すると、そうしたマイナスの感情は、すぅっとどこかへ消えていくのを感じました。なんだか奇跡みたいですが、愛というのはそういうものなのかもしれません。
わたしはこれから何を話すのかは、天に任せようと思いました。
こういう場面で、あれこれ計算して、演出するなんて、まがい物のやる事だと思いました。
ただ、わたしの想いを、真っ直ぐな想いを、真摯にぶつけるだけ。
どうなるかは、出たとこ勝負。
それでいいんだと、素直に思えました。
わたしは、勇気を出して、病室の扉を開けます。
「こんにちは、海斗くん」
わたしは海斗くんのベッドの脇まで視線を下にしたまま絵を持って歩いてから、思い切って、ベッドに寝ころんでいる海斗くんの姿を真っ直ぐ見ます。
海斗くんの顔は、口から牙が大きくなって出ていたり、なんだか毛むくじゃらになっていたり、目が鋭く見開かれていたりしていて、やはりもう人間らしい姿では無くなっていました。
まるで、あのたっくんが描いたイラストの、狼少女のようだなと思いました。
わたしはその衝撃を、その哀しさを、ただ真っ直ぐに受け止めて、それでも海斗くんを泣きそうになりながら見つめます。
「海斗くん、本当に死んじゃうんだなって、今その姿を見て思いました」
わたしのその言葉には、深い哀しみ、そして憐れみが詰まっていたと思います。
「そうか。よく来てくれたね、五花。なんだか、発話しにくくて、声が聞き取りにくかったら済まない」
海斗くんの声も、病気に合わせて変質していました。なんだか獣の唸り声のような声が、無理やり人間の言葉をしゃべっているような、そんな印象を持つ声でした。
わたしは改めて、これ以上ないほどの哀しみを感じました。
わたしの両目から、早くもぽろぽろと涙が出始めます。
「こんなになる前に、もっとお見舞いに来てあげればよかったです……! わたし、絵の事ばっかりに集中して、海斗くんがこんな風になってるなんて、ちゃんと想像できてませんでした! 海斗くん、苦しくないですか? 辛くないですか? わたしは、辛いです……! ううううぅ……!」
海斗くんは、そんなわたしに手を伸ばそうとしますが、なんだか痛みを伴うようで、途中で手を伸ばすのをやめて、苦しそうな表情を浮かべます。
「卓。五花を、抱き締めてあげてくれないか」
「……それは出来ないよ。この哀しみは、そんな風に紛らわせていいものじゃないと思うから」
「……そうか」
「ひっぐ……うええ……うえええええっ……!」
わたしは泣きました。
泣き続けました。
その間、海斗くんも、たっくんも、黙ってわたしが泣くのを見つめて、受け入れてくれているのを感じました。
そこに深い愛情を感じたわたしは、すこしだけ落ち着いてきます。
そんなわたしの様子を見て、海斗くんが声をかけてきました。
「五花。キミは本当に優しいね。僕のために、そんなに泣いてくれて、ありがとう。そんなキミだから、そんなキミだからこそ、僕はキミの絵を見てみたいと、心から願っているよ」
「……そうですね。わたしはこの絵を見せに来たんです。そのためだけに、この1ヶ月、ずっと準備してきました」
「……僕は、席を外すよ。これはきっと、すごく個人的なものになるから。きっと、海斗と五花の二人だけで、共有した方がいいプレゼントだ。五花、よろしく頼む」
たっくんは、どうやらわたしと海斗くんの二人っきりで、この絵を見てほしいようでした。
わたしはそのよろしく頼む、という言葉に万感の想いが詰まっているのを感じながら、たっくんに向かって、
「はい」
と短く頷きます。そこに篭もった想いを、たっくんならきっと拾ってくれた事でしょう。
そうしてたっくんが退室すると、わたしと、狼のような姿になった海斗くんは、2人きりで向かい合う事になります。
海斗くんは、とても辛そうでした。
あちこちから恐ろしい痛みが襲っているのだと思いました。
わたしは、ただ神様の操り人形にでもなったかのように、自分の中の神聖な何かに突き動かされて、言葉を口にします。
「海斗くん。海斗くんは、今、自分の事が好きですか?」
「自分の事、か……好きでは、たぶん無いね。色々醜い所があって、馬鹿な所があって、弱いところがあって……そういうダメダメな自分が、僕なんだなと、今は思っているよ」
そう話す海斗くんは、どこか力無さげで、弱々しく、生命力を感じませんでした。
「そうですか」
だからわたしはそこで、強く、強く視線を海斗くんに向けます。
まるで鋭い矢で、海斗くんを射すくめるように。
海斗くんは、わたしの雰囲気の変化に、びくりと身体を震わせました。
「わたしは海斗くん。あなたが好きです」
そしてわたしは、あえて、そんなわたしたちの禁忌に踏み込んだ言葉を口にします。
案の定、海斗くんは、衝撃を受けて、それだけはいけないと首を振りました。
「五花。いくら僕が死にかけだからって……それだけは……それだけはやめてくれ……僕に五花に愛される資格なんて、一ミリも無い。そもそも愛されているとも信じられない……死にゆく僕を哀れんでそんな言葉を口にしているなら……どうかやめてくれ……」
想像していた通りの反応を返してきた海斗くんに対して、わたしはふわりと、優しく、包み込むように微笑みかけます。
「ふふっ。何か忘れてませんか? わたしって、そもそも最低最悪のクソビッチですよ? 海斗くんみたいな純真な心を持った男の子を弄ぶのなんて、お手の物です。わたしは、ただ、わざと海斗くんを勘違いさせているだけなんです。というかそもそも、わたしが海斗くんの事を好きで、何がいけないんですか?」
「いけないに決まってるじゃないか! だって、僕はキミと付き合っているわけでも、キミに恋人として好かれているわけでもない。何よりキミには卓がいる。僕の大切な大切な親友の、卓だ! 僕は卓が心から好きだから! だから、キミへの恋心も全て忘れようとして……キミを親友だと思おうとして……最後に、キミからの絵を貰う事で、全て満足した事にしようと……」
「それですよ、わたしが不満なのは」
「え……?」
わたしは、思い切りよく真剣で斬り込むように、海斗くんの言葉を一刀両断しにかかります。
「このわたしが、最低最悪のクソビッチであるわたしが、なんだか良く分からないけど改心して、海斗くんのために1ヶ月を捧げて、正真正銘海斗くんのためだけの絵を描いてくれたんですよ? この大切な大切な絵を、なぜそんな偽物の満足のために使おうとするんですか? わたしの想いを馬鹿にしてるんですか?」
「ば、馬鹿にって……馬鹿になんてしてない……! してるわけないじゃないか……! 僕は、五花に、五花の熱い想いに、心から感激して、感動していて……!」
「そうですね。分かっていますよ。海斗くんは、心の底から、魂から、わたしの言葉と想いに、感激して、感動してくれていた。わたしはこれでも男心には詳しいですから、それくらい分かります」
「だったら、なぜそんな事を言うんだ……? 僕が君を馬鹿にしているなんて、そんな有り得ない事を……?」
「それはですね、わたしはわたしのクソビッチとしての悪戯心として、海斗くんにはわたしの事を好きなまま、そして、本物の、心からの満足をしたまま、死んでもらおうと思ってるからなんですよ」
「え……?」
「そもそも海斗くん、浮気がいけないんだったら、わたしは今頃死刑か懲役刑にでもなっているはずですが、現実にはそうなっていませんよね? これはどういう事ですか?」
「いやだって、確かに結婚もしていないのに浮気を禁止する法律はないけれど、それは世間の雰囲気というか、倫理的には許されない事で……」
「それは、海斗くんが死ぬという事より重いんですか? わたしの死にゆく海斗くんへの熱い想いより、大切な事なんですか?」
「……え!? だって……それは……」
「わたしは、人間にとって、死ぬより重い事って、たぶん無いなって今は思ってます。海斗くんは、この若さで、この世で何よりも重い出来事を経験しようとしているんです。それに比べれば、浮気とか、世間とか、倫理とか、本当くだらないですよ。海斗くんは、わたしがこの1ヶ月、どんな想いで海斗くんへの絵を描いていたか分かりますか? わたしは、本当に誠心誠意、海斗くんの事だけを想って、絵を描き続けていたんです。1ヶ月ですよ? これがクソビッチのわたしにとってどれくらい凄い事か、どれくらい一途な想いなのか、分かりますか? わたし、ずっと海斗くんの事を考えていたら、本当に海斗くんの事も好きになっちゃいました。人間の心って難しくて、制御できないものですね?」
「え……? だって……そんな事あるわけ……嘘に決まって……」
「ふふっ。そんな風に、他人を心から信頼できず、任せて委ねられない所も、愛しいです。わたしは、海斗くんのその、愛される資格がないと想っているところ……愛されていると信じられないところ……醜いところ……馬鹿なところ……弱いところ……そういうところ、全部ひっくるめて、全部が全部、愛おしいって、心から感じているんです……! 海斗くんの事が、全部大好きなんです……!」
「……っ!?!!? そんな……! そんな事、あるわけ……!」
「わたしは海斗くんの事が大好きだから、なんだったら、海斗くんに今までで一番すごいエッチな事をしてあげてもいいですよ? ちゃんとそのおバカな欲望を満足させてあげます。たっくんには少しだけ申し訳ないですけど、わたしが今したいと思ってるんですから、一番海斗くんのためになる事だと思っているんだから、たっくんにも止められないですよね? だって、死ぬより重い事なんて無いんですから……ああ、でももう海斗くんは病人だから、そんな事したら海斗くんの身体に障っちゃうか……それは海斗くんの事を心から想うわたしからすると、許せない事ですね……海斗くんはどう思いますか?」
「え……だからそんなのそもそもダメに決まって……!」
「……海斗くん」
わたしは、海斗くんに近づいて、ベッドの横に乗って、海斗くんの顔を、わたしの大きく育った胸で包み込むようにします。きっとふわふわの柔らかい胸に顔という敏感な箇所を包まれて、海斗くんは大変刺激的な状態に置かれ驚く事でしょう。
「……!?!?!!?」
反応は劇的でした。海斗くんは、混乱し過ぎて、良い感じに訳が分からなくなってくれたようです。良い感じですね。
「……これで、信じられますか? わたしは本当、わたしの身体の事とか、海斗くんにエッチな事をするとか、なんとも思ってないんですよ? 海斗くんが死ぬ事以外、すべてどうでもいいなって思ってます。海斗くんの事を心から想っているからです」
「うう……ううう……うううううぅっ……!」
気づけば、海斗くんは、泣いていました。
わたしの胸の中で、泣いていました。
なにが起こっているのか、わけも分からず、ただ泣いているようでした。
「ひっぐ……うえぇ……うえぇえええええええええええええ……!!」
わたしはそんな海斗くんも愛しいなと心から想い、海斗くんを抱き締め続けます。
「海斗くんは偉いです。親友のために、こんなにわたしが好きなのに身を引くところなんて、ゾクゾクしちゃいます。好きです。好きですよ、海斗くん。わたしは海斗くんが、心から大好きです。だから何も遠慮する事なんてありません。わたしが死ぬ前の海斗くんの心残りを、全て取り除いてあげます。大好きな海斗くんのためだからです」
「うわぁ……! うわぁっ……! うわぁああああああああああああああああ……!」
海斗くんは、感情が高まりすぎて、もはや絶叫する事しか出来なくなっているようでした。
愛しいなぁ……
本当に、愛しい……
わたしの心の中にあるのは、そんな、海斗くんの全てが愛おしいという人類愛そのものでした。
それが、純粋な恋心ではないのは、海斗くんにとっては残酷なネタバレかもしれませんが……
わたしはこれを、わたしがクソビッチであるからこそ出来る、逆にクソビッチでないと出来ない、わたしだけの、海斗くんへの救済だと思っています。
誰にも文句を言わせるつもりはありません。
というか、誰が文句を言おうと、気にもなりません。
だって、わたしは本当に、海斗くんの直面している死という問題に比べれば、すべて、わたしが恋をしているとかしていないとか、浮気をするとかしないとか、文句を言われるとか言われないとか、すべてすべて、些細な問題だと思っているからです。
それが今のわたしです。
世間とか、倫理とか、くそくらえです。
馬鹿じゃないですか?
人が死のうとしているんですよ?
わたしに出来るのは、ただ海斗くんを愛してあげる事だけです。
だから、海斗くんを、愛し続けます。
「好きですよ、海斗くん。本当に好きです。愛しています」
「うえぇ……! うえぇええ……! うえぇえええええええええ……!」
病室にいつしか差し始めた夕日の光は、どこか優しく、わたしと海斗くんの全てを慈しんでいるかのように、わたしには感じられました。
その光に安心して、わたしはさらに海斗くんを愛し続けます。
愛し続けます。
これは、そんな、世間からみれば禁忌でしかない愚かな行為ですが……
わたしと、海斗くんにとっては、何よりも神聖で、替え難い、絶対に無いといけなかった、そんな大切な大切な儀式でもありました。
「好きです。好きです。好きです。好きです。好きです――」
「うわぁああああああああああああああああ……!」
気づけばわたしは、ただ同じ四文字を繰り返し発し続けるだけになっていましたが……
一つ一つに心からの愛が込められているその四文字は……
海斗くんの心にあった禁忌という氷河を、優しく、優しく融かし続けたのでした……
そういえば、結局絵は使わなかったな……
わたしは、臨機応変に、タイミングよく見せるつもりで絵を持ってきていましたが……
まあ、世の中そんなものなのかもしれませんね。
あとで、海斗くんが落ち着いてから、ゆっくり見てもらいましょう。
今は、ただこの四文字を囁きつづける事が、何より大切な事だから――
「好きです。好きです。好きです。好きです。好きです。好きです――」
「……ありがとう、五花。本当に、ありがとう」
やがて海斗くんは、落ち着いてきたのか、ゆっくりとわたしの顔へとその瞳を向けて、わたしの胸の中から離れていきました。
わたしはその姿を見て、なぜか可愛がっていた雛鳥が一人巣立っていくときの親鳥のような気持ちになります。
そのままベッドの上で二人、抱き合うような至近距離で向かい合います。
「君は僕の天使だ。いや、女神かもしれない。なんにせよ、あまりに素晴らしすぎる体験だった。それに比べれば、君が本当に僕の事を恋人として好きなのかどうかなんて、些末な問題だね。だって君は、その言葉で、その行動で、何よりも尊い愛がここにある事を、実際に証明してくれているんだから。これは、単に恋人を得るとか、結婚するとかだけでは得られるとは限らない、本当に無上の愛だったと思う。それに比べれば、その心に恋心があるのかどうかなんて、僕の側のエゴに過ぎないんだね。やっとそれが分かったよ」
わたしはその言葉を聞いて、唯一のわたしの心残りを氷解させてくれた海斗くんの知性と優しさが嬉しくて、もう一度その顔をギュッと胸で抱き締めます。
「海斗くんはわたしなんかよりずっと頭がいいですから、わたしの愚かな考えなんて、お見通しだったかもしれませんね。それでも、こんなわたしにそういう言葉を掛けてくれる海斗くんの事を、わたしは本当に宝物のような存在だと感じました。好きですよ、海斗くん。本当に、好きです。愛しています」
「ああ……五花の胸は、本当に柔らかくて、気持ちいいな。でも不思議と、なんかもう興奮するとかしないとか、そういう次元を超越した何かを感じるんだよね。なんというか、腰のあたりからエネルギーのようなものが立ち上がってきてるのは確かなんだけど、それは僕が今まで感じてきたいわゆる性欲とはなんだか種類が違っていて……なんというか、こうしているだけで幸福で、こうしているだけで満足で……もしかすると、これが本物の愛という奴のもたらす作用なのかもしれないね」
「……そうですか。それはもしかすると、女性であるわたしが愛を感じている時の感覚に、近いのかもしれませんね」
「だから五花、本当にエッチな事をする必要なんてもう無いよ。僕は、今、心の底から満足している。本当に、心の底から。今死ねたらきっと一番幸せな人生だって、自信を持って言える。残りの人生、たぶんとっても苦しいばかりだけど、今キミがくれた本物の愛を思い返していれば、きっと苦しみだって乗り越えられると感じられるはずだ。それくらい、僕は偉大なものを貰った。ありがとう。本当に、ありがとう……」
海斗くんの言葉を聞いて、わたしの伝えたかったものがきちんと伝わったんだなと感じて、わたしは無性に嬉しくて、楽しい気持ちになりました。
だから、その楽しさがもたらしたクソビッチゆえの悪戯心という事にして、わたしは海斗くんの狼の毛が生えた頬に、キスをします。
「い、五花!?」
これにはさすがに海斗くんも驚いてくれたようで、頬を赤く染めて、わたしの事を目を大きく見開いて見つめてくれています。さっきまで胸に顔をうずめていたのに、どうして男の子というのはほっぺたへのキス如きでこんなに興奮するんですかね?
「あれ、どうかしました? なーんて……わたしはクソビッチなので、なーんか海斗くんには最後までわたしへの恋心で悶々としていてほしいなと思って、悪戯しちゃいました。わたしの事をあの世まで忘れられなくなったら、ごめんなさいですね?」
海斗くんはわたしのその言葉には、さすがに思わず目をぱちくりとさせてしまっていましたが……
それから、海斗くんは一人でに笑いだしました。
「ふふ……あはは……五花……君は最高の女の子だよ。君みたいな魅力的な女の子がこんなに尽くしてくれているのに、恋心の一つも感じていないなんて、逆に礼儀知らずかもしれないね」
海斗くんも、そんな事を冗談めかせて言ってくれるものですから、わたしはますます楽しくなってきてしまいます。
「そうですよ? 五花ちゃんはクソビッチなので、男の子の心を騙して弄ぶのが生きがいの、わるーい女の子なんです。わたしの事が好きだなって、心からわたしを想いながら、残りの人生を生きて、そして死んでください。そうすると、なんだかとっても凄い事をした気になれて、わたしが満足します。海斗くんの恋心には悪いですけど、大好きな女の子のお願いなので、従ってくれますよね?」
「ふふ……しょうがないな。ほかならぬ五花のお願いだ。従うとするよ。そもそも、よく考えたら、卓がいることと、僕が五花の事を好きなことは、関係なんてないね? だって、人を好きになる事は、人をこんなに好きになる事は、とっても素晴らしくて、とっても自由な、そんな尊い営みなんだから……相手が自分の事を好きとか、好きじゃないとか、実は関係ないんだ。僕が好きだから、僕が君を喜ばせたいだけなんだ。僕はそれを教えてくれた君が好きすぎて、おかしくなっちゃいそうだよ。こんなに恋心が燃え盛っていると、もう身体の痛みも、怖くないんだね。すごいな、恋って。僕はやっと、本物の恋を知ったよ」
「ふふっ、良かったです。では最後に、そんな大好きな五花ちゃんが、1ヶ月かけて海斗くんだけのために描いた、素敵なお絵描きを見てみましょうね~」
そういって、わたしは海斗くんからいったん離れて、ベッドの脇に置いてあった絵画を手に取ります。
「そうだった。君が丹精込めて描いてくれた作品……しかと、見させてもらうよ」
わたしは、絵画にかけられた紐をするすると外していき、絵画をくるむ布を、外していきます。
「これが、わたしの、海斗くんへの愛の結晶です。受け止めてくださいね?」
夕日の角度が少しずつ深くなる中で、わたしが最後に布を取り外すと、そこから現れたのは、一枚の人物画でした。
それは、一言でいうなら、大きく大きく描かれた、泣き顔の子供の絵でした。
その子供とは――お分かりかもしれませんね?――もちろん、3歳の頃の海斗くんです。
キャンパスの上では、3歳の海斗くんの両目からボロボロと涙の粒が垂れていく様が、油絵の特徴である立体感と、わたしの技術を生かした透明感をもって、芸術的に、見る者すべてに何かを感じさせるような気迫をもって、描かれていました。
海斗くんは、わんわんと泣いています。
片目が少し開かれて、もう片目は辛そうに閉じられたその表情は、その子供にとって本当に辛い事があったんだという事が見ただけでありありと分かるようになっていました。
そして、そんな強い印象を残す泣き顔の下、海斗くんの3歳児ゆえの小さな小さなか弱い身体を、ぎゅっと抱きしめている少女がいます。
恥ずかしながら、不肖、わたし、五花ちゃんです。
背景となっている一面の草原に女の子座りでぺたんと座り込んで、海斗くんの小さな身体をぎゅっとその大きな胸で包み込むように抱き締めている姿は、わたしが真っ白のワンピースという普段は着ないようなシンプルで清楚な格好をしているのも合わさって、芸術的にその絵画を引き立てていました。
絵画の中のわたしは、目を瞑って、ふわりと微笑んで、海斗くんを安心させるように抱きしめています。
どうでしょうか。
海斗くんには、この絵が、ちゃんと伝わったでしょうか。
この絵は、海斗くんを想って、海斗くんだけを想って、海斗くんのためだけに描かれた、特別な絵だから――
だから、伝わってほしい――
「うう……ううう……うわあああああああああああああああああああああああああああ……!!!」
海斗くんの両目からは、ボロボロと絵画の子供と同じように涙が零れ落ち、そして、絶叫するように咆哮しました。
それを見て、わたしは、伝わったんだな、と安心して、海斗くんに起こった反応をそのまま見つめつづけました。
「すごい……すごいよこの絵……すごすぎる……なんでこんなにすごいんだ……? すごすぎる……本当に、すごい……」
海斗くんは、語彙まで3歳児に戻ってしまったかのように、「すごい」以外何も言えなくなって、ただただその身に起こった感動をわたしに教えてくれていました。
「五花……すごいよ、この絵は……僕の最も深い、最も傷ついている、もっとも弱いところが、深く、深く癒されるのを感じた。慰められるのを感じた。同時に、その弱い部分を抱き締めてくれている君への、どうしようもなく強い愛を感じるんだ。すごい。すごいよ。本当に、すごい……」
「久しぶりに描いた絵なんですけど、上手に描けたみたいで良かったです。この絵は、海斗くんしか、海斗くんしか見えてないっていう心で描きました。現実のわたしは残念ながらクソビッチですが、この絵の五花ちゃんは、本物の天使です。海斗くんにはこの幻想の天使五花ちゃんを彼女と思って、死んでほしいなと思って描きました。少なくともこの絵の五花ちゃんと、この絵を描いているときのわたしは、海斗くんの彼女だと想ってくれても構いません」
「ふふ……あはは……おかしいな……本当におかしい……すごくおかしいことを言われているのに……なんだか、涙が止まらないや……」
海斗くんは、その言葉通り、両目からとめどなく涙を溢れさせて、絵画の3歳児の海斗くんと同様の、めちゃくちゃな泣き顔になっていました。
しかし、絵画の中の海斗くんと違って、現実の海斗くんは、その口元に笑みを浮かべていました。
それが、確かにわたしが海斗くんを救えたって事なんだろうなと思って――
わたしは、ふにゃっと微笑んで、こういいました。
「もう、死ぬのは、怖くなくなりました?」
海斗くんは、その踏み込んだ問いに、自信を持って、泣きながら笑って、こう答えました。
「ああ……もう怖いものなんて何もないみたいだ」
夕日がその狼みたいな海斗くんの泣き笑いを幻想的に照らしたその姿は――
どんな絵画よりも、どんな虚構よりも美しい現実だと感じ――
わたしは、ただ――
(ああ……)
ただ、その海斗くんが見せた魂の美しさに、身を震わせるのでした。
*****
海斗くんは、それから3週間後の日曜日、家族が見守る中で、その人生を終えたそうです。
その傍らにあった、わたしが描いた絵を、ずっと、ずっと見つめながら亡くなったと後日、海斗くんのお母さんに聞かされました。
わたしは、それを聞いて、やりきったな、と思いました。
わたしの大好きな海斗くん。
これでちゃんと天国に行けたに、違いありませんね?
もしかすると天国でも、わたしの事を想ってしまっているかもしれませんが……
クソビッチはわたしの可愛い欠点という事で、許してくださいね?
僕の隣では今、五花が一人で小説を読んでいる。
場所は僕のベッドの上。短いスカートから伸びた足をベッドの脇に座りながら伸ばして、集中して小説にのめり込んでいるようだ。
僕はといえば、同じく一人でイラストを描いている。
最近は、五花の事をある意味で空気のような存在だと感じるようになってきた。
こんな感じで各々好きな事をしているだけの時間も増えてきた。
もっとも、この空気のような存在は、時々自立して動いては、色々な事をする。
今は小説にのめり込んでいるが――
「ふぅ、読み終わりました! 凄い小説でしたぁ! わたし目が潤んじゃってヤバかったです。本当にすごい小説って、なんだか人の心を浄化するような力があって、本当に尊い美しさがあって、すごいですね」
そんな興奮した様子の五花に、僕は作業の手を止めて、振り向いて話しかける。
「何読んでたの?」
「『宇宙を目指す少女たち』ってライトノベルの1巻です。これすごいですよ。なんだか魂の洗濯をしたような読後感でした」
「それは何より。僕も聞いた事あるな、その本。誰かに勧められたの?」
「……これ実は、海斗くんの遺品なんですよ」
その言葉には、僕はさすがに驚かされた。
「え……?」
「わたし、わたしが海斗くんにプレゼントした絵を、海斗くんが亡くなったあと、これはもう役目を果たしたからって事で、受け取ってほしいと言われて、海斗くんの家に行ったんです」
「へぇ。僕にも言わずにそんな事を」
「あの絵は海斗くんとの二人っきりの秘密ですからね。いくらたっくんといえども、連れていかない方がいいと思いました」
そう、結局僕は、五花が海斗のために1ヶ月かけて書いた絵を、いまだに見せてもらっていなかった。
海斗の奴には、僕が来ている時には絵を隠すようにと伝えていたらしく、海斗はその五花の命令を、僕より優先して忠実に守ったのだ。本当に信じられない話だが、事実というのは時に想像より奇妙なものだ。
「それでその時に、海斗くんが死ぬ前に最後に読んでいた小説らしいって事で、この小説を受け取りました」
「……そうなんだ。そういえば結構前、なんとなく惹かれてるけど読む機運になってないみたいな話を海斗がしてた気がするよ、そのライトノベル」
「そうなんですね……これ、たっくんも読むといいかもしれませんよ」
「まあ確かに気になるけど……ちなみに理由は?」
「なんというか、海斗くんがこれをどんな気持ちで読んでたんだろうなって想像すると、ただでさえ素晴らしいこの小説を、二重に楽しめるかもしれません」
「へぇ」
「この小説、なんというか、主人公とヒロインが宇宙を目指す小説なんですけど、宇宙に行く事を、本当に危険に満ちたものとして表現してるんですよ」
「うん」
僕は五花がずいぶんと真面目な、それでいて熱の篭もった表情をしているものだから、後ろを振り向くのをやめて、椅子を回して姿勢を正して聞き始めた。
「それで?」
「なんというか、宇宙に行くのって、すごく死の危険と隣り合わせじゃないですか? ロケットが爆発するかもしれないし、宇宙空間で事故が起こるかもしれないし、大気圏突入時は高熱で死ぬかもしれないし……この小説だと、そのあとロケットから出されてパラシュートで地上に降りるんですよ? そこで変なところに堕ちたりして死ぬ事だってあるでしょう」
「うん。確かにそうだね」
「わたし、思うんですけど、海斗くんが最後に挑む事になる、自分が死ぬという試練……海斗くんは、この小説を読む事を通じて、その試練に対して、確かにとても大事な勇気を貰っていたんじゃないかなって、そう強く感じたんです」
「……なるほどね。そんなにいい小説なんだ」
「はい、素晴らしかったです。あんまり言うとネタバレになっちゃうんで、まあ今度読んでみてくださいね」
「分かったよ」
「……ああ、海斗くん……海斗くんは、天国で元気にしているでしょうか? それとも、わたしたち二人の事を、見守っていたりするんでしょうか?」
「それこそ、僕たちも死んでみないと分からないね」
「はい。わたし、思うんですけど……」
そこで五花は、急にぴょんっとベッドからバネのように飛び上がって、向かい合って座る僕の膝の上に跨ってきた。
「わたしたち、そろそろセックスしませんか?」
あまりに話題が急に転換したものだから、僕はすごい表情になったと思う。
「急だね? なんというか、どうしてその思考回路になったのか純粋に気になったよ。普通にドキドキする以上にさ」
「だって考えてみてくださいよ」
五花は、至近距離で、その眩しいくらい可愛い顔を真剣そうに僕に向けて、どこか怒ったように話し出した。
「わたしたちだって、死ぬんですよ。それは海斗くんに比べれば、残された時間は何年か、あるいは何十年かはあるかもしれません。でも、死ぬんです。だからこそ、わたしたちはそれまでの人生を、真摯に、楽しんで、気持ちよく生きないといけないと思うんですよ」
「まあ真摯に生きる必要があるのは分かるけど……楽しんで、気持ちよくというのは、結構意見が分かれるような気も……セックスという単語を聞いたあとだからそう思うのかもしれないけど……」
「何言ってるんですか? 人生って、楽しむためにあるんですよ? わたしたちはあれこれ無駄な事を考えて、堂々巡りに陥って、苦しんでばかりいましたけど……」
そこで五花は、僕にキスをした。
舌を伸ばして、ぺろぺろと僕の唇を催促するように舐めてくるものだから、僕は仕方なく、自分も舌を出して、五花の舌に絡ませる。
ただ、舌を無心で動かして、無心で五花の舌や唇の感触や熱、ぬめりを感じ続ける。
それは何とも言えない幸福感と興奮に満ちた、無上の体験だった。
「……ぷはぁ……わかりました? こうやって、何も考えずにキスする幸せに比べれば、親とか、学校とか、人間関係とか、全部全部くだらないと思いませんか?」
「……そうかもね。僕もいい感じにその気になってきたよ。さすがビッチだ」
「そうですよ? わたしはクソビッチですからね? でもそんなクソビッチが後生大事に守ってきた処女を、今日、今からたっくんにプレゼントするんです」
五花は、ぎゅっと僕を抱き締めるようにして、至近距離で僕を上目遣いで見上げた。その瞳はぱっちりと見開かれて、うるうると潤んでいる。
その瞳を本当に芸術的なくらい可憐だと感じて、改めて、僕はこの女の子の全てが好きだと感じた。それは貫かれるように襲ってきた愛情で、僕はたまらなくなって、五花を抱き締め返す。
「わたしの大好きな海斗くんにもあげなかった処女を、たっくんが貰うんです。この重み、しっかり理解して、一生大事にしてくださいね?」
「ああ。五花と離れるなんて、今の僕には想像もつかないよ。この先どうなるかなんて何も分からないけど、五花を大事にしたいという今の想いだけは真実だ」
僕たちは抱きしめ合いながら、ゆっくりともう一度キスをする。
その日、僕たちはそのままセックスをして――
生きるってこういうものかもなって、なんとなくすべてを理解した気持ちになったのだった――
五花のやつは、なんだかんだで正しい事しか言わないのだ。
*****
「……ああ、海斗くんとセックスしてあげなかったこと、本当に正しかったんでしょうか?」
「……僕の横でそれを堂々と言える君の勇気は、本当に賞賛に値するよ」
僕たちは二人、心地よい疲労感の中、裸でベッドに横になって、語り合いだす。その五花の話題のチョイスには、いささか疑問を感じざるを得なかったが。
「だって、わたし、本当に海斗くんを愛してたんです。海斗くんの深い深い、本当に深いところまで愛していたのに、海斗くんは、勝手に一人で満足して、わたしの愛なんてもう十分だと、一人で悟って、一人で逝ってしまったんです。これってなんだか、ある意味勝手な男だと思いませんか?」
「なんというか、僕はもう、何を言っていいのか全く分からないけどね。まあ、海斗が満足してたのなら、それでいいんじゃないか?」
「そうなんですけどね。なんというか、ちょっとだけ欲求不満、じゃないですけど、そういう展開を期待していた心理がどこかにあったというか……」
「……五花は本当に、どうしようもないビッチだね」
「ええ? ひどくないですか?」
「いや、本当にそう思った。五花のその奔放な性格は、たぶん魂レベルで刻み込まれてるよ。きっと、死んでも治らないんじゃないかな?」
「ひっどーい! あまりにひどいです! わたし、ちゃんとたっくんに処女あげたのに!」
「自分がいわゆる処女ビッチってやつだったのは、さすがに自覚あるよね?」
「うっ……たしかに……」
そこで、五花は、意気消沈したように布団の中にもぐりこんだ。
「まあ、でも、正直今は、なんでもいいんだよね」
「……そうなんですか?」
五花が顔をひょっこりと、布団から出してくる。
「うん。ビッチなのも五花の一面。なんか、そういうところも含めて、愛せるなって、素直に思うんだ。それで、五花の方も、なんだか僕の事を愛してくれているらしい。なんか、もう、人生ってこれだけでいいなって、そう思うんだ」
「……ふふっ」
五花は笑って、僕の顔まで顔を上げてきて、ほっぺたにキスをした。
「わたしのビッチ、いま治っちゃったかもしれません」
「へ?」
「なんかもう、たっくんが好きすぎて、愛おしすぎて、どうしようもないなってとこまで、わたしの中の愛情メーターが高まりました」
そう言いながら、五花は僕に口づけすると、そのまま僕の布団の下に潜り込んで、何やら性的な悪戯を始める。
「こ、こら! な、なにをしてるんだ!」
それがあまりに気持ちよくて、エロくて、僕はたじたじになって五花を宥めようとするが――
「ふふ、わたしのビッチは死んでも治らないらしいですからね、たっくんによると。まあ、ビッチらしく、搾り取ってあげますよ」
「いや、普通にもう無理だって! いや、本当やめて……」
結局そのまま僕たちは、"もう一回戦"する事になってしまったのだった。
まあ、色々言いたい事はあったけど――
なんだかんだで気持ち良かったので、いいか、と流されてしまうあたりが僕のダメなところなのかもしれない。
どうやら――
――僕の可愛い彼女、五花ちゃんのビッチは、当分治らないらしい。
――『五花ちゃんのビッチは治らない?』 完