その日の放課後、わたしは海斗くんに捧げる絵を描くため、まずは遥か昔に廃棄してしまった画材を買いなおすべく、画材屋に向かいました。

 画材屋のおじさんはわたしが幼い頃にこの店を訪れた時と変わらない人で、幾らか年を取って白髪が増えた以外、その親切な説明も、優しさも、変わっていませんでした。

わたしが「久しぶりに絵を描きたいと思ったんです。しかも真剣な絵です」と事情を簡単に話すと、おじさんは喜んで色々画材を提案してくれた。

「しかし五花ちゃん、絵を描くのは辞めちゃったのかなと思ってたけど、また描く気になったんだね。しかもこんな可愛い女の子に成長しちゃって、おじさん二重にびっくりしたよ」

 わたしはこの言葉を聞いて、素直にこのおじさんをいい人なんだなと思えました。
 昔のわたしは、どこかひねくれていて、こういう優しさを真っ直ぐに受け止められていませんでしたが。
 それはわたしの側の問題に過ぎなかったんだなと、今更になって思いました。

 わたしはおじさんが提案してくれた画材を吟味し買い込むと、画材屋を後にします。

 あの後海斗くんとたっくんと話をした結果、わたしの絵画制作は、海斗くんの自宅にあるアトリエを借りて行われる事になっていました。

 彼氏のいる女の子が、他の男の子の家で、その男の子のために絵を描く。

 それは世間一般的な常識からすれば、とても奇妙で、あまり良くない行為のようにも思われるかもしれませんが……

 わたしたち三人の間に、そんな事を気にする人はもちろんいませんでした。

 そして、わたしたち三人が認めていれば、わたしには、それで十分でした。

 だから、わたしは買い込んだ画材を持って、海斗くんのアトリエに向かいます。

 それは海斗くんの広い自宅の庭にある、古ぼけた蔵に作られたアトリエでした。

 海斗くんは、いつもこの蔵で、数々の作品を生み出してきたそうです。

 わたしは、今初めて、この海斗くんのアトリエに足を踏み入れます。

 蔵の中は春にしては少しひんやりとしていて、油絵具の独特の香りが鼻につきました。

 電気はついていて、中では海斗くんとたっくんが、二人でわたしの事を待っているようでした。

「五花、買い物お疲れさま」

 最初に話しかけてくれたのは、たっくんでした。

「本当に、僕の画材で書いてくれても良かったんだけどね」

 と済んだ話をまたしてきたのは海斗くんでした。

「わたしから海斗くんへのプレゼントですからね。海斗くんの画材で書いたら、なんか変な感じがするでしょう?」

「そうかなぁ? まあ、このアトリエは、本当自由に使ってくれていい。いつ来てもいいし、いつ帰ってもいい。両親には事情を軽く話して許可は取ってあるから、あとは、五花を信じて、任せるよ。よろしく」

 そういって、海斗くんは頭を下げました。

「わたしが海斗くんに勝手にプレゼントするだけですから、そこまで気を遣わなくていいのですけどね。こちらこそ、アトリエは素直に有難いです。ありがとうございます」

 わたしはなんとなく、そう言って頭を下げ返した。

「んじゃ、俺はいても何も出来ないだろうし、そろそろ行こうかと思う。海斗、五花が変な事しないよう、良く見張ってくれよ?」

「変な事ってなんですか! わたしの事より海斗くんの事を信じてるんですねー、たっくんは? たっくんなんか、知りません! さっさとどこかへ消えてください!」

「はいはい。じゃ、僕は行くよ。それじゃな、海斗」

「うん、卓。五花の事、信じて、任せてくれて、ありがとう」

「そんなの、当たり前すぎて、感謝するような事でもないよ」

 そう言って去っていくたっくんは、痺れるほど格好良く感じて、胸がときめきます。

「ふふ、五花は本当に卓が好きなんだね」

 海斗くんは、悔しい思いなど無いかのように、わたしを祝福するように、微笑んでくれていました。

 わたしはそんな海斗くんに申し訳なさと恥ずかしさを感じ、改めて海斗くんに向き合うべく、ごほんとわざとらしく咳をします。

「えー、海斗くん。このプレゼントをするためには、まずわたしが習作を描いて絵の技術を最低でも昔の自分レベルにまで回復させないといけないのはご存じの通りです。ですが、それに加えてわたしは、わたしが描きたいと思っているモチーフのために、昔の海斗くんの事をもっと知らないといけないと思っています」

 わたしがそう告げると、海斗くんは戸惑う表情を見せました。

「昔の、僕の事……そんな事を、話さないといけないのかい?」

 海斗くんはそれに抵抗する姿勢を見せようとしていました。

 まあ当然かもしれません。

 まだ、怖いのでしょう。

 自分の過去に向き合う事が。

 自分の過去という恥部を、わたしに話す事が。

 それが痛いほど分かっているわたしは、あえて明るく、海斗くんに強制します。

「ええ、もちろんです! これは、このプレゼントを最高のものにするためのわたしのわがままですけど、海斗くんはわたしの最高の親友ですから、親友の望みをもちろん叶えてくれますよね? ふふっ」

 そう真っ直ぐに海斗くんの目を見つめて言うと、わたしの想いは伝わったようで、海斗くんは少し顔を赤くしつつも目を逸らして、こう諦めたように言いました。

「わかったよ。話せばいいんだろう、話せば」

 顔を赤くしちゃうあたりに、まだわたしの事を完全にただの親友だと割り切れてはいない心理が透けましたが、わたしは敢えてそこに触れる事はなく、それに関しては海斗くんの努力を信じて、わたしのするべき事をする事にします。わたしは酷い女でしょうか? いえ、今更でしたね。

「そうです。海斗くんの事、全部教えてください。わたしが海斗くんを丸裸にしてあげます。良い所も、悪いところも、好きなところも、嫌いなところも、全部。だから、わたしの記憶の中で、海斗くんは生き続けるんです。たとえ海斗くんが死んだとしても、わたしの記憶の中では、海斗くんは色鮮やかなままです。これって、なんだか救われる気がしませんか?」

 そう言うと、海斗くんは思いのほか琴線に響いたようで、なんだか目を潤ませて、感動したようにわたしの事を真っ直ぐ見つめました。

「ああ……キミは……本当に最高の、親友だな……あれだけ話すのが怖かったのに、それもどこかへ吹き飛んだよ。ありがとう」

 そう言って、海斗くんは深く頭を下げました。

 わたしはそれを満足気に見てから、再び頭を上げた海斗くんを、向き合うように見つめ、それから微笑みかけます。

「それじゃ、わたしを海斗くんのお姉ちゃんだとでも思って、海斗くんの昔の事、全部話しちゃってください。五花お姉ちゃんがこんなに優しく話を聞いてあげようとしてるんですから、海斗くんも、ちゃんと逃げずに全部話すんですよ?」

「……わかったよ。五花お姉ちゃん?」

 海斗くんも、わたしの冗談に乗って、笑いかけてくれました。

 そうして海斗くんの長い過去話が始まります。