昼休み、俺は誰に言われることもなく、屋上に向かった。

 そこに行けば彼女――自称屋上の主――に会える気がしたからだ。

「……」

 案の定、美里花は、いた。
 美里花は屋上の柵の手前で、ぼうっと空を眺めているようだった。

「……あのさ」

 俺は、何から言おうと戸惑いながら、そんな切り出し方で話しかける。

「……なに? もう話しかけないつもりだったんだけど」

 美里花は振り返らず、そんな事を言って振り返らないまま空を見つめていた。

「……その、あのさ、ごめん!」

 俺は、思いのままに、叫んだ。
 今はそれしか出来ないと思った。

「お前の詩、読んだよ! 正直、すごかった。すごい滑らかで綺麗な文章だと思った。なんていうか、リズムがいいよな。内容も、幼い頃の詩の瑞々しさが伝わってきたり、その後の少女の苦しみが伝わってきたりで、すごく、心が動いたよ。俺、ライトノベルばっか読んでて詩とか詳しくないんだけどさ。詩もいいなって、お前の詩を読んで初めて思ったよ。すごかった!」

 恥ずかしさを無視して、素直に思った感想を伝え続ける。

「こんなすごい詩を書いた奴に向かって、酷い事いって、馬鹿にして、本当に思いを踏みにじる有り得ない行為だったと思ってる。マジで、ごめん!」

 一通り伝え終わると、俺は、じっと祈るように美里花を見つめる。

「うっ……ううっ……」

 美里花は、ぷるぷると震えて、背中を向けて顔を下に向けたまま、顔を上げようとしない。

「……その、どうした?」

 俺は恐る恐るそう聞く。

 ――またしても、俺は彼女を泣かせてしまったのか……?

 ――また彼女を悲しませてしまったのか……?

 そう思い、絶望しそうになったとき、美里花は、突然がばりと振り返って、真っ直ぐに俺を見た。

 その表情は、ぼろぼろに泣き崩れていながらも、美しい笑顔だった。

「う、うう、嬉しい! 嬉しいよ、東雲くん! 良かった! 読んでくれて、ありがとう! 感想をくれて、ありがとう! わたし、嬉しいんだ! 本当に、嬉しい!」

 美里花は、喜んでくれていた。
 俺なんかの拙い感想を、これ以上ないくらい、喜んでくれていた。

「……ありがと! 本当ありがと! ……なんか、このままだと、何言っちゃうか分かんないから! それじゃ!」

 やっとの事でそれだけ言うと、美里花はたったった、と足音を立てて走り去っていってしまった。

「……なんなんだあいつは」

 呟きながらも、俺はまったく彼女を責める気にはなっていなかった。

「……綺麗な涙、だったな」

 俺は、今の美里花の涙が、途方もなく尊い、とんでもなく美しいものに思えていた。

 美里花の可憐な表情が、深く脳裏に焼き付いてしまっていた。

 どくん、どくんと心臓が熱く鼓動するのを感じる。

 ああ、本当になんなんだ、あいつは。

 ――気づけば俺は、美里花の事ばかり考えていた。
 



 *****




 午後の授業は、まったく頭に入ってこなかった。
 かなり自由な校風のこの学校では、授業を聞かず自習しているような者も珍しくない。
 俺もその仲間入りをしているように見えたのか、幸い先生に突っ込まれることは無かった。
 俺は、立てた教科書に隠して、美里花から貰ったルーズリーフをずっと見つめていた。
 
 遠く幼いあの日、わたしは詩の天才だった
 
 ――ああ、そうなんだろうな。お前はきっと、本当に天才だったんだろう。

 瑞々しい若葉に一匹のかたつむりが這うのを見ては、
 その静謐さの中で確かに物事が動いている喜びを詠む
 池に蓮の花が開いているのを眺めては、
 幾重にも重なった美しい花びらが、わたしの心に神秘への畏敬を生み出す不思議を詠む

 ――この部分だって、なんともいえない美しさ、幼い感性への感動がある。
 
 日々のあらゆる遊びが、あらゆる出会いが、あらゆる冒険が、詩の源泉となって、無数のわたしだけの詩が生まれた

 ――お前の幼い頃の詩も、見てみたいよ。

 嬉しい
 嬉しいよ
 嬉しい
 嬉しくてたまらない
 自然の美しさが嬉しかった。
 美しさへの感動を真っ直ぐに表現する事が、嬉しかった。
 わたしは生きている事が嬉しくてたまらなかった
 遠く幼いあの日、生は喜びに満ちていたのだ

 ――読んでいる俺まで嬉しくなってくる、この躍動感。本当によくできている。

 だが、学校に入ると、そこは灰色に満ちていた
 みんなは詩を詠んだりはしておらず、つまらない寓話、つまらない計算、つまらない知識を身に着ける事に必死になっている
 ににんがし、にさんがろく、にしがはち
 そんな無機質な詩を一年かけて暗記するのは、子供たちの頭をおかしくするための闇の陰謀としか思えなかった

 ――そうだよな。学校って、つまらなくて、どこかおかしいよな。俺も、ずっとそう思ってたよ。

 わたしはその陰謀に抵抗すべく、詩を詠み、そしてそれを歌にして歌う事にした。
 花の美しさ、草木の瑞々しさ、小鳥の生命の輝きを、清らかな子供の歌声で歌う
 それは天使の芸術とでも呼ぶべきものだったはずなのに
 大人たちはわたしを、悪魔の子と呼び、隔離した

 ――精一杯幼い心で頑張ったんだろうな。なのに、大人たちは残酷で無機質な対応をしたんだろうな。ありありと想像できる。

 ねぇ知ってる?
 翼をもがれた鳥が一生をかけて味わい続ける苦しみを
 ねぇ知ってる?
 邪悪な敵意に晒され続けた天使の心は、いつまでも純粋ではいられないという事を

 ――痛い。美里花という少女をすでに見知って、そして心惹かれていた俺は、彼女の痛みを自分の事のように感じていた。
 
 わたしはもがいた
 もがき続けた
 息ができない陸で泳ぎ続けた魚の死体
 あるいは、からからに乾いた砂漠で干からびていった旅人のミイラ
 そんな生命のなれの果てがわたし
 気づけば、詩を詠む事もできなくなっていた

 ――悲しいと、素直に思った。詩に愛された少女が、詩を詠めなくなった時の絶望は、いったいどれほどだったろう。

 いやだ
 いやだよ
 こんなのいやだよ
 詩を詠む喜びのエネルギーは、すべてわたしを傷つける濁流へと転じて、わたしの心をぼろぼろにした
 わたしはすべてを封印して、押し込めて、ぎゅうぎゅう詰めにして、固く閉ざした

 ――それは一つのバッドエンドだ。この現代にありふれた、一人の少女のバッドエンド。

 それから幾年が経ち
 わたしは高校生とよばれる身分になった
 ここに救いは無く
 日々は静かな絶望に満ちていて
 わたしはただ待っている
 救いの王子様が、キスをして、わたしを救い出してくれる事を
 そんな王子様がいないってことを、わたしが一番よく分かっているのにね

 ――そしてこの、もの悲しい読後感の締め方。素直にいいなと思う。
 ――しかし、キス、か。作者のとんでもない美少女っぷりを知ってると、思わず想像してしまうな。

 俺は、美里花のあの思わず守りたくなってしまうような可憐な相貌に、そっと口づけする所を幻視した。

 美里花は眠っていて、だが少し頬が紅に染まっていて――
 あのぷるぷるとした小さな桃色の唇に、唇を触れ合わせる。

 それは奇跡的な瞬間だろう。

 唇を通して、俺は真の美とはなんなのかを理解するのだ。

 そして美里花は目覚め、微笑む――

 美里花――

 ああ、美里花――

 語彙が、足りないと思った。
 俺の陳腐な語彙では、この複雑な感情を到底表現しきれない。

 そう思った俺は、小説執筆用に鞄に入っている辞書を取り出し、残りの授業時間を本当に辞書を読んで過ごした。

 さらに、それでも衝動が抑えきれず、気づいたらへたくそなポエムを書いていた。

 ――俺はどこかおかしくなっているのかもしれない。