辛い。
辛い辛い辛い。
何をしていても辛い。
何もしていなくても辛い。
何をしていても、何もしていなくても、お腹の辺りに空いた暗い穴のようなものが、わたしから、生きる力を、生命の力のようなものを、無慈悲に全て奪っていく。
月也と話していたあたりまでは、もしかしたら、と確かに希望を持った瞬間もあった。
だが、月也がいなくなると、やっぱりもうダメだ。
わたしは死ぬしかないんだ。
わたしに幸せになるなんて、無理なんだ。
そう思うしかなかった。
わたしは真っ暗な部屋の中で、少しでもこの辛さから逃れようと、スマートフォンの明かりを頼りに、ベッドサイドの哲学書を取り出して読み始める。
だが、内容は全く心に響かず、上っ面の理論ばかりで、わたしの心を救ってくれるものではなかったと感じた。
――救いって、どこにあるのかな……? わたし、どれだけ本を読んでも、結局それがさっぱり分からなかったよ。月也……
どうしてこうなったんだろう。
わたしは、何が悪かったんだろう。
詩を詠まなくなっちゃったのが悪いのかな。
良く分からない芸能人とか洋服の知識をつけている時間を、詩を勉強する時間に費やしていれば、何かが変わったのだろうか。
それか、中学校あたりで、誰か男の子と付き合ってみればよかったのだろうか。
そうすれば、男の子が、どうにかしてわたしを救ってくれたり――
――それが、ありえない事だと気付くのに、時間はかからなかった。
月也しかいないのだ。
月也くらいしか、わたしの内面に興味を持って、深くまで探って、それを癒そうとしてくれるような人はいないのだ。
月也くらいしか、わたしを救おうと、あんなに必死になってくれる人はいないのだ。
――月也……
月也の事を考えると、100パーセント真っ暗な世界に、1パーセントだけ、僅かに光を感じた。
真っ暗な部屋にスマートフォンの光だけが輝く、今のこの部屋みたいだと思った。
だが月也の光は、スマートフォンの光とは違い、無機質ではなく、生きていて、暖かい。
わたしはその暖かさにすがるように、虚空に手を伸ばす。
――月也……
――月也ぁ……
――月也ぁあああ……!
わたしは泣きながら、心の中で月也を呼び続けた。
それだけが、わたしの心の中に、1パーセントの光を灯し続ける方法だった。
そうしている間だけは、わたしはまだ、生きる事を諦めないでいられる。
――でも月也……
――わたしは、もう持たないよ……
――助けて……
真っ暗な世界の中で、わたしは、月也の幻に縋り続けるしかなかった。
*****
その日の授業の事は、何も覚えていない。
俺はただ、美里花に何と言って、どのように詩を渡すか、それだけを考え続けた。
美里花は、間違いなく今も、虚無の闇の中に囚われたままだろう。
俺はそこから、美里花を本当に救わないといけない。
出来るのか、不安に思いたくなる理性を必死に抹消する。
今、俺は理性ではなく勇気を持つべきだと思った。
不安を越えて、ただやるべき事をやりきる、そんな勇気を。
放課後になった後も、17時まではやや時間がある。
俺はそれまで、教室で自分が書いた詩を読み返しながら過ごした。
そしていよいよ、美里花の待つ屋上に向かう事にする。
ここに至っては、もはや何も考えは浮かんでこなかった。
ただ、無心で階段を登り、無心で窓を越える。
美里花は、屋上の柵の向こうで、静かに空を眺めているようだった。
俺は静かに歩いていき、黙って自分も柵を越える。
死の気配が足元から吹きつけてきて、背筋が冷えるのを感じる。
美里花は、俺が来たのを察知しても、ただ、空を眺め続けていた。
一面の青が少しだけオレンジ色に染まりだす、どこか幻想的で、魅入られるような空だった。
そんな空を一瞥したのち、俺は美里花の方を向いて立つと、美里花にこう切り出した。
「美里花。俺は、今日、お前を救いに来た」
「……月也。来てくれてありがとう。でも、正直言って、わたしはもう無理だと思ってる」
美里花は、こちらを向くと、ふっと弱々しく笑った。
「無理なんだよ……月也と会ってる間はどんなに幸せでも、月也がいなくなった瞬間、わたしには何も無くなっちゃう。何にもない世界で、ただ暗い所に沈んでいく……そんな人生が続くなら、最後に月也と会えた幸せのまま、わたしは死にたい。死にたいんだよ、月也……」
俺は、美里花にそっと近づくと、静かに美里花の右手を両手で握る。
「美里花……俺はそれでも……それでも諦めたくないんだ……もし、お前がわずかでも……わずかでも俺と一緒にこれからも生きていきたいと思うのなら……これを受け取ってほしい」
俺は、数枚のルーズリーフに記した、美里花のための、美里花のためだけの詩を、渡す。
*****
「これは……詩……? 月也が、書いたの……?」
わたしは驚いた。
月也が、わたしのために、まさか詩を書くなんて。
月也は詩なんてろくに書いた事も無いはずだ。
そんな月也が、わたしのためだけに、詩を書いてくれたのだ。
「……そうだ。俺が、書いた。お前のために、書いたんだよ。美里花……」
わたしは思わず、それを抱き締めるように胸元で抱いて、慈しむようにする。
「……嬉しい。嬉しいな。本当に嬉しい」
「良かったら、死ぬ前に、読んでみてほしい。俺がお前を救うために、出来る事はしたと思ってる」
――そうなのか。
――月也は、この詩で、わたしを救うつもりなのか。
そう思うと、胸元に抱いたルーズリーフが、不思議な力を帯びているように感じた。
その重みが、月也がわたしに対して抱いている想いの重量として、感じられる気がした。
それは月也の、愛の重みといっていいだろう。
わたしはそんな愛の魔法を、これから披露されるのかもしれない。
「……読んでみるよ、月也。ありがとう」
「……お礼を言うのは、読んでからでいい」
月也は、月也なりに、この詩に対して自信を持っているらしい。
だが、それ以上にわたしは、月也は必死なのだな、と感じた。
月也は文字通り、この詩に、わたしの命を、わたしの人生を賭けている。そう感じた。
わたしは、その想いの強さを疑うわけではないが、本当に詩の一篇だけで、わたしの心を救えるのかと疑問を持った。
わたしがあれだけ苦しんで、あれだけ考えても、全然対処法が分からなかった、この虚無感。
全てを吸い込むブラックホールのような虚無感を、本当に月也は退治できると思っているのだろうか?
わたしは正直に言えば半信半疑、それほど期待していない状態で、いよいよ詩を読み始める事にした。
*****
「天使の歌」
その天使は、あなたが可愛い赤ちゃんとしてこの世に生まれた瞬間から、あなたを見守っていました
いま、あなたは、おぎゃあ、おぎゃあと元気に泣きだします
それはあなたが、確かに生きてこの世に生まれたという、尊い証でした
天使は喜びました
あなたが元気にこの世に生まれた事を、心から喜びました
天使はあなたを祝福する天使の歌を唄いました
その歌は、誰にも聞こえない所で唄われましたが
天使は、あなたの事を愛している、と想いを込めて、独りで歌を唄いきりました
今日も、天使はあなたの事が大好きです
それから、あなたはすくすくと育ちます
ですが、お父さんも、お母さんも、あなたをあまり愛していないようでした
あなたは毎日一人でテレビを見ては、空しさを感じます
毎日一人で積み木のお城を作っては、空しさを感じます
あなたの心の中は、空っぽでした
ぽっかりと小さな暗い穴が空いていて、そこに他の感情を吸い取られているかのようでした
この年頃の子供としてはとんでもなく空しい日々を、独りっきりで過ごしていたのです
ですが、あなた自身は、自分が不幸であるという事すら、分かっていませんでした
天使はそんなあなたを見て、あなたを救おうとします
天使はあなたの心の中には、本来、途方もない寂しさがあるべきだと、気付いていました
あなたは、お父さんやお母さんに、遊んでほしいと、泣きじゃくってしかるべきでした
天使は考えます
どうすればあなたが救われるのか、必死に考えます
天使は、そっとあなたを手助けして、あなたに「遊んで」とお願いする勇気を与える事にしました
ですが、あなたに激怒したお母さんは、あなたを平手打ちし、さらに足で腹を蹴り上げます
あなたの心は、痛みと、苦しみと、恐怖でいっぱいになりました
あなたは謝りました
何が悪いのかもわかっていないのに、何度も何度も謝りました
とんでもなく辛い体験でした
あなたの心に、大きな傷ができました
天使は悲しみました
あなたのためを思って手助けしたのに、報われなかったあなたを悲しみました
天使はあなたを慰める天使の歌を唄いました
その歌は、誰にも聞こえない所で唄われましたが
天使は、あなたの事を愛している、と想いを込めて、独りで歌を唄いきりました
今日も、天使はあなたの事が大好きです
それから、あなたは妖精の詩集と出会います
お父さんの本棚の片隅に眠っていたその本は、あなたに、特大の興奮と喜び、幸福感をもたらしました
あなたは何度も何度も詩を音読し、妖精たちの冒険のすべてを覚えてしまいます
冒険への渇望は抑えきれなくなり、勇気を出してお母さんに外に出る許可をもらいます
お外の世界では、瑞々しい緑の公園が、あなたを待っていました
あなたは木々のささやきを詩に詠み
木の葉に這うかたつむりを詩に詠み
池に咲く蓮の花を詩に詠みました
天使はそんなあなたを見て、あなたを喜ばせようとします
天使にとってもその詩は、誰かに認められてしかるべき、とっても素晴らしい詩でした
天使は考えます
あなたに、生きる喜びを知ってほしいと、必死に考えます
天使は、そっとあなたを手助けして、あなたに詩を歌として歌わせました
歌を聞いた優しいお爺さんが話しかけてくれた事で、あなたに初めての友達ができました
あなたの心は喜びでいっぱいになりました
あなたは幸せでした
何が幸せなのかもわかっていないのに、とっても幸せでした
とんでもなく幸せな日々でした
あなたの心に、大きな想い出が出来ました
天使は喜びました
あなたのためを思って手助けした結果、その詩と歌を認められたあなたを喜びました
天使はあなたを歓喜する天使の歌を唄いました
その歌は、誰にも聞こえない所で唄われましたが
天使は、あなたの事を愛している、と想いを込めて、独りで歌を唄いきりました
今日も、天使はあなたの事が大好きです
それから、あなたは小学校に入ります
小学校の授業は、暗く、陰気で、とってもつまらない物でした
ろくに友達もできないまま、退屈な授業を受け続けて、1年といくらかが経ちました
あなたはある日、湧き上がる衝動のまま、ついに授業中にあなたの歌を唄います
それはとっても解放感があるできごとで、その歌は天使の歌そのものでしたが
先生はあなたを悪魔の子とささやきだし、周囲の子もあなたをいじめました
あなたは結局転校する事になります
天使はそんなあなたを見て、あなたを救おうとします
天使はあなたの周囲には、素敵な友達がいてしかるべきだと、気付いていました
あなたは、友達になってほしいと、周囲の子供たちにお願いしてしかるべきでした
天使は考えます
どうすればあなたに友達が出来るのか、必死に考えます
天使は、そっとあなたを手助けして、あなたに周囲と話が合うような情報を与えました
ですが、友達の出来たあなたは、興味のない情報を使って空虚な会話をするばかり
あなたの心は、次第に虚無でいっぱいになりました
あなたは空しくなりました
何が空しいのかもわかっていないのに、何度も何度も空しくなりました
とんでもなく空しい体験でした
あなたの心から、詩を詠む心が失われました
天使は悲しみました
あなたのためを思って手助けした結果、あなたが詩を詠めなくなった事を、悲しみました
天使は、あなたを救済する天使の歌を唄いました
その歌は、誰にも聞こえない所で唄われましたが
天使は、あなたの事を愛している、と想いを込めて、独りで歌を唄いきりました
今日も、天使はあなたの事が大好きです
それから、あなたは中学校に入ります
中学校では、あなたは大変異性に人気がありました
その結果、同性の先輩に憎まれたあなたは、またしてもいじめられてしまいます
自殺すら考えたあなたは、屋上の柵を越えた先で、その空の美しさに惹かれます
それから、屋上の柵の先は、あなたの居場所になりました
高校に入ってからも、屋上の柵の先は、変わらずあなたの居場所でした
天使はそんなあなたを見て、あなたを救おうとします
天使はあなたには、あなたを救ってくれる、あなただけの王子様がいるべきだと思っていました
天使は考えます
天使は、あなたを救う王子様と恋をしてほしいと、必死に考えます
天使は、そっとあなたを手助けして、あなたの屋上に、一人の男の子を招待しました
男の子を仲間だと思ったあなたは、男の子と仲良くなり、あなたに初めての大切な人ができました
あなたの心は、幸せでいっぱいになりました
ですが、男の子がいなくなると、あなたは虚無の中に戻ります
あなたは闇の中にいました
何が闇なのかもわかっていないのに、何度も何度も闇の中に引きずり込まれました
とんでもなく不幸な体験でした
あなたの心から、大切な人との想い出が失われました
天使は悲しみました
あなたのために手助けした結果、あなたが自分の中にある途方もない闇に気づいた事を、悲しみました
ですが天使は、今度ばかりは、歌を唄いません
もう、あなたを救うのは、天使ではなく、あなただけの王子様だと見定めているからです
そう、あなたの大切な人は、あなただけの王子様になるのです
天使はただ、あなたに教えます
あなたのその闇は、あなたが、ただ無償の愛を欲しているがゆえであると
あなたは両親から、無償で、何もない所から生まれる愛を、貰わないといけなかったのだと
ですが、あなたはその無償の愛があってしかるべき日々を
ただただテレビと積み木の間を往復して過ごし
遊びたいという心からの叫びにも、あまりに酷い暴力が返ってきて
結果として、心の中に、深い、深い虚無を育ててしまいました
じゃあ、どうすればいいの?
あなたのその疑問は、もっともです
ですが、あなたがどうすればいいかは、今、あなたの目の前にいる、大切な人が教えてくれます
あなたの大切な人は、あなたを愛しています
深く、深く、愛しています
あなたは、すでに愛されているのです
大切な人は、あなたのために、この天使の詩を、必死に、必死に書きました
この詩が、あなたの大切な人の、愛の証明です
あなたを救いたいと心から思っている事の、証明です
あなたはただ、王子様に聞けばいいのです
幼い子供が親に質問するように、純粋な心で質問してください
どうすればいいの? と
王子様は、すでに答えを知っています
あなたはそれを、ひよこが親鳥を信じるように、無邪気に受け止めればいいのです
あなたが救われる時は、もうすぐそこまで来ているのです
あなたが救われた時、天使は最後の歌を唄います
その歌は、誰にも聞こえない所で唄われますが
天使は、あなたの事を愛している、と想いを込めて、独りで歌を唄いきります
今日も、天使はあなたの事が大好きです
*****
その長い、とても長い詩を読んでいて、わたしはなぜだか分からないが、両目から涙が溢れてくるのが止まらなかった。
この詩に描かれた自分を見守る天使のイメージが、自分の深い、とても深い所に響いてくるのを感じていた。
わたしにも、こんな素敵な天使が、確かに見守ってくれていたのかなと思うと、無性に救われた気がした。
この詩を、月也が自分だけのために書いてくれたのが嬉しかった。
月也が、これほどまで深く、自分の事を理解してくれている事に、感謝していた。
そうした思いの数々が、複雑に混ざりあって、わたしの心の中を煌びやかな色彩で満たしていた。
「……どうすれば……どうすれば、いいの……? 月也ぁ……」
気づけば、わたしは泣きながら月也にそう質問していた。
それは、月也の詩を読み終わった感動と衝動のまま、その想いをぶつけるように――
そして――
月也はわたしに近づいてきて――
「ずっと、いつまでも、何が起きても、愛してる」
そう言って、わたしの唇を奪った。
「……っ!」
わたしの目が、見開かれる――
――人生でこれ以上驚いた事はないというくらい、驚いた。
――だが、驚いている以上に、嬉しかった。
月也の気持ちが、月也の行動が、どうしようもないくらい、わたしの中の暗い穴を、ぴったりと埋めてくれていた。
わたしは両目から涙を流しながら、月也の優しいキスを、受け止めた。
そこには、性的なものは一切感じなかった。
それは純粋なる愛のみから行われていると、はっきり理解できた。
その愛は、月也の言葉から、態度から、行動から、詩から、月也の全てから、伝わってきた。
嬉しかった。
わたしは、本当に嬉しかった。
月也と出会えて。
月也と仲良くなれて。
月也が救おうとしてくれて。
月也がわたしを知ってくれて。
――ついに、月也が救ってくれた。
その事が、わたしは、本当に、本当に、嬉しくて、たまらなかった。
そうなのだ。
王子様のキスが、お姫様を救うのは、物語の常だが。
まさに今、わたしを救ってくれたのは、やっぱり王子様のキスだった。
わたしはその美しい物語へも、大変に興奮していた。
月也のシナリオは、凄いなと思った。
こんな凄いシナリオを描ける月也なら――
きっといつか、とんでもなく凄い小説を書くだろうなと、無邪気に信じられた。
ただ、今は――
これ以上何も考えず、月也とのキスを味わいたいと思った。
唇を合わせれば合わせるほど、悪い呪いが解けるように、わたしの心の暗い穴が小さくなっていき――
唇を合わせるほど、わたしの中に、熱い血潮のような恋心が育っていくのを感じた――
そう――
気付けばわたしは、月也の事が、これまでとは比べ物にならないくらい好きになっていた。
――胸が、熱い。
心臓から、ドクンドクンと、熱い鼓動とともに、恋心が全身に送られていくような感覚――
その恋心が、わたしの胸を火のような興奮で満たし、お腹の中を熱湯のような幸福感で満たし、手足を電流のような痺れで満たし、脳を月也が好きだという純粋な愛で満たしていく――
これが、恋――
本物の、恋――
――すごい、と思った。
――人は、人を、ここまで好きになれるんだ……!
恋とは、人智を超えているものなのだと感じた。
愛とは、宇宙に繋がっているものなのだと感じた。
もう何を言っているのかも良く分からなくなってきたが――
とにもかくにも、こうしてわたしは、わたしを救ってくれた王子様と、恋に落ちたのだった。
*****
どれくらい時が経っただろう。
永遠にも思える奇跡を終え――
やっとの事で、どちらからともなく、唇が離れる。
「あ……」
美里花が、どこか寂しそうな表情で、そんな声を上げるのが分かった。
美里花は俺の唇を、何か大切な宝物が自分から離れていくかのような顔で、じっと見つめ続けた。
その反応に、俺はやりたかった事がきちんと出来たんだと、ようやく理解する事が出来た。
この作戦の鍵を握るのは、結局の所頭脳や理性なんてものではない。
ハートなのだ。
美里花の心臓が、俺に恋をして、俺を欠落した両親の愛情の代わりを埋めて余りあるような存在と出来るか。そういう勝負だったのだ。
「美里花……俺はお前を、救えたかな……?」
「うん! うんっ! うんっ……! 月也、好きっ! 大好きっ……!」
俺はどうやら、賭けに勝ったようだった。
美里花は確かに、俺に恋をしてくれているようだった。
その事自体、同じく彼女に恋をしている男としては、純粋に嬉しくもあった。
だが、これで間違いなく、美里花は彼女の暗い虚無を、埋められただろう。
その事は、美里花の様子の明らかな変化を見るだけで、確かに感じられた。
「美里花……お前はもう、決して与えられない愛を求め続けるだけの幼子じゃない。俺はお前に、お前が求めるよりさらにずっとたくさんの愛を与えてやる! だから、美里花……本当に、お前はもう、大丈夫だ。思う存分、俺に甘えてくれ……」
「うんっ! うんっ……! 大好きっ! 月也、大好きっ……!」
美里花は俺に抱き着いて、俺の胸に頬ずりをしてくる。
こんな危険な場所で、なんて大胆な、と少し冷静になっていた俺は今更肝が冷えるが……
それもまあ本当に、今更の話だ。
「美里花……向こう側に戻るぞ。こっち側にいるのは、これで最後だ」
「……うん」
俺は美里花と一緒に、屋上の柵を超えて、安全地帯へと戻る。
そうしてみると、一気に日常に戻ったなという感じがして――
俺は美里花と、安心したように笑い合い――
「……美里花、俺と、付き合ってほしい」
「……うん!」
そんな告白も、美里花を救うという大事業から比べれば、なんだかちょっとしたおまけのような扱いで、そのままオーケーされたのだった。
*****
それから、数日が過ぎ――
美里花は、日常を過ごしていても、虚無以外の感情をしっかりと感じられるようになったらしい。
――そう。俺は確かに、美里花を救えたのだ。
「月也! すごいよ! わたし、授業を受けててもなんかちょっと面白いと感じるくらい、今、なんでも面白いよ!」
美里花は本当に嬉しそうに、その事を俺に報告してくれた。
また、それから俺は美里花と毎日のように手を繋いで登校しているが――
美里花の俺への入れ込みようが、尋常ではなくなっている事に、俺は気づかざるを得なかった。
「月也、今わたしから視線を逸らしてあっちの女の子を一瞬見た。なんで? どうして? わたし、可愛いよね? ちゃんと可愛いよね? 月也のために、なんだってしてあげてるよね? なんで? どうして?」
美里花は、俺が他の女子に視線を向けたりするだけで、異様に反応するようになってしまった。
教室で前の席の女子と話している時に美里花が来た時なんかは本当にヤバかった。
美里花は一言、こういった。
「月也と話したら、殺すよ?」
俺はそんな美里花を宥めるのに、大変苦労する羽目になった。
そんな美里花の豹変に困らされつつも、俺はそれでも幸せだった。
なにせ美里花と――
あれだけ好きだった美里花と、俺は正式に付き合える事になったのだ。
今では、一日に五回はキスをしている気がする。
それくらい、美里花の方から、キスを求めてくるのだ。
美里花はキスをすると、自分の中の暗いものが全て溶けてなくなって、明るいエネルギーに変わっていくような快感を感じるらしい。
俺はまだ、美里花の中には暗い思いが消えてなくなったわけではないのだなと感じ――
それが全て無くなるまで、いくらでもキスをしてあげようと、思っている。
そして、話は俺の小説に移る。
俺は学校を終えた後、編集の人と会いに行き、土下座をして、1か月だけ待ってほしいと頼んだ。
それは、なんとしてでも1か月で1冊書き上げて見せるという決意の表明だったが……
編集は、俺が苦悩していた事は分かっていたようで、俺の様子を見て、
「その様子なら、もう大丈夫そうですね。締め切りは、それほど気にしなくていいですよ。もともと、単なる高校生には過分な要求ですし、こちらも余裕を見てスケジュールを組んでますので」
と言ってくれた。
「先生の次回作、今書いてある分を読みましたが、本当に同じ人が書いたのかってくらい、見違えた文章になっていますね。若者の成長は恐ろしいなと、素直に思いましたよ。先生に期待して、賞を与えた甲斐があるというものです。頑張ってください」
なんて、暖かい言葉もかけてくれた。
俺は涙が出そうになるのを抑えながら、
「……ありがとうございます!」
とお礼を言ったのだった。
俺が辟易としたのは、その後美里花の家に遊びに行った時の事だ。
俺の編集は女性なので、その香水の香りが服からしたらしく、美里花にそれを大変咎められた。
「月也はわたしの事、嫌いになっちゃったの!? 月也、月也! 月也がいないと、わたし、ダメなのに! 月也ぁ! お願いだから見捨てないで! なんでもするから、見捨てないで!」
美里花がこんな風にダメダメになるのも、既に見慣れた光景だ。
俺は美里花がこうなるたびに、美里花を抱き寄せて、キスをする事にしている。
「……美里花……そんなわけないって、分かったか?」
「……うん」
美里花は俺とのキスという行為を非常に特別視しているようで、これをするだけで素直に頷いてくれる。
正直、めちゃくちゃ可愛い。
そもそも美里花は、何度でも言うが、めちゃくちゃ可愛い。
そんな子が俺を求めてダメダメになって、キスをするだけで素直になってくれるのは、もうこれより可愛い生命体は地球に存在しないんじゃないかと思ってしまうレベルだ。
美里花は、あれから部屋にあった心理や哲学の本を全て捨てた。
そうした物に求めていた救いは、すべて俺が満たしてくれたから、らしい。
――可愛いじゃないか。
――めちゃくちゃ、可愛いじゃないか。
そんな事を考えながら、今、俺は、もう一度美里花にキスをする。
彼女を、ずっと、いつまでも、何が起きても愛し続けると、誓った身として――