「……はぁ、はぁっ」

 俺は息を切らせて、自転車を全力で漕いで美里花の家に向かった。

 ――美里花。

 ――どうして……

 ――どうして、いつもお前はそうなんだ……

 ――どうしてそんな風に限界を超えるまで、俺に相談してくれないんだよ……!

 ――なぁ、美里花……!

 美里花の家に着くと、俺はすぐさまインターホンを鳴らす。

「……月也? また来てくれた……嬉しい……入って……」

 鍵が遠隔で開けられた音がして、俺はそのまま扉を開けて、家の中に入っていく。
 だいぶ慣れてきた、美里花の家の閑散とした廊下を通り抜け、階段を登って2階の美里花の部屋の前に到着する。

「入るぞ……」

 恐る恐る部屋の扉を開けると、美里花は制服姿のまま、ベッドの上で携帯端末を顔の上に乗せて寝ころんでいた。
 その両目からは涙が垂れた跡があって、俺は美里花がさっきまで泣いていたのだと分かった。

「美里花……大丈夫か……?」

 俺は美里花に近づき、ベッドサイドに片膝を立てるようにしてしゃがみ込むと、美里花のベッドから投げ出された左手をそっと手に取り、膝の上で包み込むようにする。

「う……うぅ……うううううううううううっ……!」

 途端、美里花が再び泣き出してしまう。携帯端末が顔の上から右側のベッドに落ちて、泣き顔が完全に露わになった。

「美里花……」

 俺は、その手のひらをぎゅっと握る事しか出来ず、ただ、美里花が泣き止むのを待った。

「……はぁ……はぁ……月也は、本当に、優しいね。わたしがこんなんでも、聞いたりせずに、待ってくれて。本当に、優しい……はぁ……」

 やがて泣き止んだ美里花は、よろよろと上体を起こして、ベッドの後ろの壁にもたれかかるような体勢になった。

「美里花……大丈夫か……?」

「大丈夫じゃ……ない……」

 美里花は、本当につらそうな表情で、後ろの壁に体重を預けて、首をだらりと曲げている。

「美里花……もし辛かったら、俺はいつまででもこうしてる。だけど……」

 言いながら、俺はぎゅっと、美里花の左手を包み込む手に力を込める。

「……もし良かったら、話してくれないか? 美里花が何を悩んで……何に苦しんでいるのかを、俺に……」

 言い終えると、美里花は再度泣き始めてしまった。

「うう……うぅう……うぅううううううううううううううううっ……!」

 美里花の泣く声が、夕焼けの差し込む部屋の中に響く。
 再び美里花が泣き止むまでには、短くない時間を要した。

「……あのね……もしかしたら、わたしの考えてる事は、すごく、馬鹿らしい事なのかもしれない。月也にとっては、理解不能かもしれない。でもね、わたしは今、月也にそれを聞いてほしいと思ってる……聞いてくれるかな?」

「……ああ」

 俺は、こちらを恐る恐る見つめてきている、といった様子の美里花を、安心させるように頷く。

「そのね、わたしさ……月也といるとき以外、まったく楽しくないんだ。本当に、微塵も、楽しくない」

 俺は、まずはあまり考えてる事を表情に出さないようにしつつ、美里花の話を聞き続ける事にした。

「……そっか」

「そうなの……わたしさ、月也といる間、最高にテンションが上がっててもさ、別れた瞬間に、もう思っちゃってるんだよね。寂しいな……死にたいなって」

 俺は黙って、美里花の話を聞き続ける。

「それでね、ずっとそのままでいると、なんていうか、自分の中に穴が空いてるっていうのかな。その穴から、月也との楽しかった想い出みたいなのがどんどん出ていって、結局何も無くなっちゃうんだ。で、月也と会う前の、詩が書けるようになる前の、何も無かった頃のわたしに戻っちゃうんだ」

「……そっか」

 やっとの事で、俺はそんな相槌を打った。

 頭の中は、混乱していた。

 俺は、美里花が美里花なりに、俺と遊びに行ったりしたことを、楽しいと感じてくれていると思っていた。
 そして、家に帰った後も、今日は楽しかったなとか、ドキドキしたなとか、色々な事を思ってくれていると、無邪気に信じていたかもしれない。

 だが、実際は違ったのだ。
 俺が美里花に与えていた、朧げな光のような楽しさでは、美里花の抱える深すぎる闇を癒すには、まったくもって光量が足りていなかったのだ。

 俺はそこまで理解して、はじめてそんな美里花がいったいどんな気持ちで俺と接していたのか、どんな気持ちで俺と別れた後を過ごしていたのかを、想像する事が出来た。

 ――辛いだろうな。

 ――辛すぎるだろうな。

 俺には、美里花にはそれなりに大切に思われているという、そんな自負のようなものがあった。
 そうでなければ、ああやって俺を抱き締めてまで、俺を絶望から救おうとは思わなかっただろう。
 だが、美里花はそんな俺と別れた瞬間、俺との思い出まで闇の中に吸い込まれてしまい、虚無の中に囚われてしまうのだ。

 ――地獄だろうな。

 ――それは地獄すぎるだろう。

 なにせ、自分の大切な人と、まるで感情を共有できていないのだ。

 相手は完璧に楽しいと思っていて、その想い出を大切にしているのに、自分は想い出があっという間に風化して、さらさらと風に砂が吹かれるように消えて無くなってしまうのだ。

 そして、その辛さに加えて、自分が元いた場所にあった闇の中に囚われ続ける絶望がずっと続くのだ。

「……辛かったな……つら、かったな……!」

 俺は、気付けば泣いてしまっていた。

 美里花がそこまで追い詰められていたのに気づけなかったという悔しさ。

 美里花の気持ちを想像して想像して、その結果起こった深すぎる感情移入からの哀しさ。

 それらをまるで理解しないまま、人生の絶頂だと浮かれてした自分への怒り。

 そういったあれこれがないまぜになって、ぐちゃぐちゃになって、瞳から溢れ出てしまっていた。

「美里花……ごめん……! 俺は、あんだけお前の事を大事に思っているとか言っておきながら! 全然、お前の事、分かってなかった! お前も俺との時間を楽しんでくれてるのかなとか、馬鹿みたいな事ばっか考えてた! お前がそれどころじゃない、深い、本当に深い絶望の中にいたのに! まったく、微塵も気づけてなかった! 本当に、ごめん……!」

 俺は、ボロボロに泣き崩れた顔を美里花の肩に押し付けて、ぎゅっと美里花を抱き締めた。

「ごめん……! 美里花……! ごめん……!」

 強く、強く、抱き締めて、なんとか美里花に想いを伝えようとする。
 少しでも、絶対零度のように冷え切った美里花の心に、熱を灯そうとする。

「月也……月也ぁ……!」

 美里花も、泣いていた。
 今まで吐き出せなかった辛さをまとめて吐き出すように、涙を両目から零していた。

「うわぁああああああああああ……! つらいよぉ……! 月也ぁ……!」

 その言葉が、つらかったよぉ、ではなく、つらいよぉ、なのに、俺は美里花の底知れない闇を感じた。

 そうなのだ。
 美里花は、俺にこうやって絶望を共有したからといって、まったくもって、救われたわけではないのだ。
 今のは、ただ、美里花の辛さに、俺が共感しただけ。
 美里花も、今だけは少しは楽になったかもしれないが、また俺がいなくなれば、元の闇の中へと逆戻りしてしまうだけなのだ。

「うわぁあああああ……! うわぁああ……! うわぁあああああああああああああああっ……!」

 美里花は、そのまま俺の胸の中で泣き続ける。
 ――なんとかしないといけない、と 思った。
 美里花をこの深い深い闇から救い出してあげたいと、俺は、心の底から願っていた。

 ――だが、どうすればいい?
 ――どうすれば、美里花をこの地獄から救い出せる?

 正直言って、分からなかった。
 こんなに深い闇を抱えた心を救い出す方法なんて、一介の高校生に過ぎない、ちょっと小説が書けるだけの俺には、まったくもって分からなかった。

 だが、救わないといけない。
 美里花は、俺を救ってくれた。
 普通の人間では到底救う事が出来ない深みから、俺を助け出してくれた。
 だったら、どんなに困難な道のりであろうと、俺は美里花を救わないといけないだろう。

 しかし、どうすればいい?
 どうすれば……
 どうすれば救える?

「……ひっくっ……うえぇ……ひっくっ……うええぇええええ……」

 俺はずっと泣いたままの美里花を抱き締めながら、考え続けた。
 人生でこんなに真剣に物を考えた事はないと間違いなく言えるほど、考え続けた。

 ――そうして辿り着いたのは……
 ――原因は、間違いなく美里花の過去にあるという事だった。
 ――美里花の、俺もまだ知らない過去の中に、間違いなく美里花を苦しめる原因がある。

 気付けば俺は、その閃きに突き動かされるように、美里花にこう叫んでいた。

「……美里花っ! 今は泣いていい! いっぱい泣いてくれ! だけど、泣き止んだら、教えてほしい! 俺に、お前の過去を! この前は話してくれなかった、お前の過去を、話してくれないか!?」

 必死に、細い身体を強く抱き締めながら、想いを伝えるように、叫んでいく。

「俺はお前を救いたいと思ってる……! お前が今いる、その深い闇から引っ張り出して、お前を幸せに暮らせるようにしてあげたいと思ってる……!」

 ――頼む、伝わってくれ……!

 そんな願いの篭もった抱擁を、行い続ける……!

「俺にお前を救うための、材料をくれないか……! 俺はお前の過去に、お前を救うための鍵があると思ってる! だから……! 俺にお前を救わせてくれないか……!?」

 そこまで叫び切ると、あとは美里花から身体を引き、祈るように彼女の左手を包み込むようにする。
 美里花は、気付けば泣き止んでいた。
 まだボロボロに崩れた顔ではあったが……
 その瞳には、確かに微かな光が宿っていた……!

「月也は……わたしを救ってくれるの……?」

 その問いに、俺は、力強く頷く。

「ああ……!」

「そっか……分かった」

 美里花は苦しそうにしながらも、頷いて見せる。

「わたしは月也を信じる……信じてみる」

 それからそう言って、わずかな笑みを浮かべた。

「それじゃあ……長くなるかもだけど、聞いてほしいな……誰にも話したことない、わたしの幼い頃の話を……」

 俺は、そのまま静かに美里花の話に聞き入った。