放課後、授業が終わった所で、美里花からメッセージが届いた。
「月也の家に行く」
短いメッセージに、俺はこの時が来てしまったかと、緊張を感じた。
もちろん、俺はここで、美里花と部屋でいわゆる初めての体験をするとか、そういった妄想をするほど愚かではない。
まあ一瞬そういう事を連想してしまったのは、高校生特有の暴走という事で許してほしい。
実際の所、美里花がそういった行為を恐れている事は分かっているし、美里花には、そういう種類の魅力がなくても、十分お前は素晴らしい女の子なんだって事を理解してほしい、というのが俺のスタンスだ。
だから、俺はたとえそういった妄想が一瞬、そう一瞬だけ脳裏をよぎったとしても、それを一切表に出す事はなく、美里花に「いいぞ」と冷静に返事をする事が出来た。
俺の本能は血の涙を流しているかもしれないが、これは必要な犠牲なのである。
「小説書いてる所、見てみたい」
だがその返事に、俺の心に一気に暗雲が立ち込める。
――もしかすると美里花を悲しませる事になるかもしれないな。
そう思いながらも、俺は無意識のうちにこう返事をしていた。
「ごめん、それはまだ無理だ。悪いけど、今日は別々に帰ろう。また明日」
打ってしまってから、激しく後悔した。
だが、止まらなかった。
俺は怖かった。
小説を書けなくなった小説家である自分を、美里花に見られるのが、とにかく怖かったのだ――
そのまま、俺は逃げるように一人で家に帰った。
鬱屈とした気分のまま、ノートパソコンを起動し、学習机代わりのこたつに座って、なにか執筆をしてみようとする。
――今回は、言葉が浮かばないわけでは、なかった。
手を動かせば、何らかの言葉は紡がれていく。
前回は書き始める事すらできなかったので、進歩はしていると思い、それを勢いとして、なんとか執筆を進めていく。
俺は、自分なりに、今まで読んだ技法書などの記述を思い出しながら、ああでもないこうでもないと考えを巡らせ、自分の文章を批評しながら、ゆっくりと書き進んでいった。
だが、気付けば、その先に詰まっている自分がいた。
それは無限の牢獄に捕らえられた囚人になったような気分。
この世が終わるよりも、書き手にとって辛い瞬間といっていいかもしれない。
「……ダメだ。今日は無理だ」
もちろん実際の所、「今日は無理」ではなく「今日も無理」である。
そんな当たり前の現実からさえ逃避しながら、俺は黙って本棚からライトノベルの新刊を手に取って、積読を崩し始める。
ライトノベルは、まあまあ面白かった。
いや、まあまあという表現は、こんなまともな文章さえ書けなくなっているゴミみたいな書き手が口にするには、あまりに失礼なものだろうな。
そう思い、より鬱屈とした思いを深める結果に終わるばかりだった読書を終え、俺はベッドの上に、大の字になった。
「……はぁ。どうしてこうなっちゃったんだろうな……」
俺は絶望していた。
「……美里花に、なんて言って会えばいいんだよ……」
美里花はきっと、俺の心中も良く分からず、突き放されたと感じて、ひょっとすると寂しがっているかもしれない。
俺は、美里花があまり絶望しすぎていないといいなと、今更思いつつも、美里花に連絡を取る事も出来ずにいた。
そんな時だった。
ピンポーンとインターホンが鳴る。
「……なんだ?」
配達か何かかと思い出ると、画面に映ったのは、美里花だった。
「……月也、入れて」
「……どうして来た。ダメだ」
「ダメ、入れて。入れてくれないなら、死ぬから」
そんな無茶な、と思うが、こいつならマジでやりかねないと思わせる実績が美里花にはある。
「……おじゃまします」
俺は無力を感じながら、美里花が家に上がるのを死んだ目で眺めていた。
そのまま部屋の前へと美里花を案内した俺は、そっと扉を開ける。
「……入っていいぞ。嫌だけど」
美里花が、興味津々といった様子できょろきょろ辺りを見回しながら、後ろに続いて中に入ってくる。
俺の部屋は、まあ平均的な高校生の部屋に、ちょっと多めの本棚と、だいぶ多めのライトノベルや少々の文芸小説、小説やシナリオの技法書、資料にしたいと思って買った歴史や中世ヨーロッパの生活関連の本などなど、といった顔ぶれである。
「……本がいっぱいだ。仲間だね」
「……そうだな」
南向きの窓から曇り空がカーテンに隠されながら覗いていて、その下にはシンプルなベッドがあり、ベッドの横にはこたつが置かれているスペースがある。そんな様子を、美里花は順々に見つめていく。
俺はこたつに座布団を隣り合うように用意すると、「とりあえずこのへん座ってくれ」と左側の席を美里花に勧める。
それから遅れて俺も美里花の右に座る。閉じたノートパソコンが席の前には置かれたままだ。
「……小説」
「……なんだ?」
「小説書いて」
「……書けないんだよ」
そう話す俺を、美里花は真剣な、食い入るような視線で、隣から見つめてくる。
「いいから書いてみて。わたしが見てるから」
見てるから何なんだよ、と思いつつも、また死ぬなどと言われては叶わない。
仕方なくパソコンを開いて起動して、すぐに立ち上がった画面にキーを入力してデスクトップ画面にする。
「そっか、小説はパソコンで書くんだね。そりゃそうか」
「まあそうだな。手書きにも良さがあるとは思うけど、直し入れたり、編集したりするときに不便すぎるからな」
俺は、このまま書かないといけないという現実から少しでも遠ざかるべく、一度立ち上がって、
「……ちょっと飲み物用意してくる。待っててくれ」
と美里花に伝えて部屋を出た。
それから、なるべくゆっくりとした動きで歩き、1階のリビングでのっそりと麦茶を2つのコップに入れて、両手に持って2階にのんびりと戻る。
扉を開けると、美里花は俺がベッドの下に隠しているはずのアイドルの写真集を眺めていた。
「いや、待て、美里花……! お前、なんでそれ見て……! やめろって……!」
俺は、すっかり元気をなくしていたのも忘れて、慌てて美里花を止めにかかる。
だが美里花は俺の静止も聞かず、食い入るように真剣な表情で、写真集を眺めていた。
「いやぁ、なるほど、こういうのか……こういうのがいいのかぁ……」
美里花が見ているのは、よりによって美里花と同じく茶髪をサイドテールにしたアイドルの写真だった。
アイドルは、制服を上だけしっかり着用して、スカートは大胆にはだけさせて、下に着た下着のように見える水着を露わにしながら、瑞々しい太ももで浮き輪を挟んでいる。写真集の持ち主である俺が言うのもあれだが、かなり煽情的なポーズだった。
「顔自体はわたしの方が可愛い気がするけど、このスタイルは凄いなぁ……さすが本職って感じだね……それにこのポーズはちょっと恥ずかしすぎて躊躇うな……月也もこういうポーズしたら、わたしに夢中になってくれるの?」
最後、いきなり美里花がこちらを向いて、上目遣いでそんな事を聞いてきたものだから、俺は思わずドキリとしてしまった。
美里花はそのまま立ち上がると、「こんな感じかなぁ……」とこたつの横でアイドルのポーズを真似し始めて、なんと本当にスカートをはだけさせ始めたものだから、俺は慌てて、「待て待て待て待て……!」と止めはじめる。
スカートのジッパーを下ろしたくらいで何とか止めたものの、布の隙間から水色の下着がちらりと見えて、俺は理性を保つのにかなり苦労する羽目になった。
「えへへ、ドキドキした? 月也の好きなアイドルみたいに見えたかな?」
「マジで止めてくれ……心臓に悪い……」
俺はとりあえず美里花の前に麦茶を置いて、ついでに写真集を没収する。
「月也、そんなに写真集が欲しいなら、代わりにわたしが水着着て写真送ろうか?」
ぐらりと、理性がぐらつくのを感じた。
美里花の水着姿……正直、見たい……
俺はそんな様子を表に見せないように苦労しながら、とりあえず写真集をベッドの下に封印しなおす。
それから振り返り、やっとの事でこう注意する。
「自分の写真なんてうかつに男に送るなよな。お前、俺が悪い奴だったら、めちゃめちゃ悪用とかされるからな? うっかりネットに上がったりしたら、取り返しつかないんだからな? 俺はこれでも、お前を心配してるんだぞ?」
そう言うと、美里花はしゅんとした様子で、
「そっか……ごめん……」
と謝ってくれたので一安心する。
「それに、前言った通り、俺は、お前がそういう可愛いとかエロいとか、そういう魅力があってもなくても変わらずに凄い女の子なんだって事を分かってほしいんだ。それなのにお前の写真をそういう目で見てたりしたら、ダメだろう?」
「そっか……うーん、なんか騙されてるような気もするけど、そうかも……」
まあ、俺は事実として今の美里花の魅力にかなりヤられてしまっているので、写真を送られた所でその事実が変わるわけではないのだが、いちおう最低限のケジメとしてそういう事にしておく。
「ほ、ほら、そろそろ小説を書いてみるぞ。スランプ中のダメ作家の執筆だから、あんまいい文章は出ないかもしれないけど、頑張ってみるから」
俺は話題を逸らすため、しぶしぶながらも小説を書き始めざるを得なくなってしまった。
「お、やったー。月也の書く所、ずっと見てみたかったんだー」
パソコンの前に座りなおすと、美里花はその横から俺の肩に頭を乗せて、画面を見始める。
「み、美里花……距離が近いんだが……?」
俺は、主に背中に押し当てられた美里花の小さくない胸にめちゃくちゃ動揺しながら、美里花にそっと注意しようとするが――
「……いいでしょ?」
美里花が、肩の上から俺の瞳をまっすぐに見つめてそう囁くように呟いてくると、俺は圧されて、
「あ、ああ……」
と言う事しか出来なかった。
――完全敗北である。
仕方なく、なるべく背中や肩に感じる感触を忘れるようにしながら文章を書こうとし始めるが、なかなか筆は進まない。
「うーん……」
とりあえず、先ほどの執筆は忘れて、前から書こうと思っていたファンタジー物の物語の冒頭を書き始めるが、いまいち進みが遅い上に、内容のクオリティもいまいちな気がしてしまう。
「おおー……」
美里花も肩の上で、俺が書く所を感心したように見つめているが、中身を理解してくると、
「うん……?」
と首をかしげだしてしまう。
「……うーん、ダメだ、全然いい出来にならない」
十数分ほど書いた後、俺は投げ出すように両手を後ろに伸ばして、後ろに寝ころんでしまった。
頭の置き場を失った美里花の顔が俺のお腹の辺りに置かれて、こちらの顔をじっと見つめる。
「色々、考えてはみてるんだけどな。いざ本文を書こうとすると、これはダメだとか、ああした方がいいんじゃないかとか、色々考えちゃって、ぐちゃぐちゃになる感じだ」
美里花は、そんな情けない嘆きを口にする俺を、じっと見つめ続ける。
「ダメなんだ……俺はさ、ダメな奴なんだよ……デビュー作も、ネットとかじゃ、めっちゃ酷評されててさ……本当に、ダメなんだよ……」
俺は、気付けば美里花にずいぶんと情けない泣き言を漏らしていた。
「……月也」
美里花は、いつになく真面目な表情で、そんな俺の瞳を射抜くように見つめた。
「……なんだ?」
愛想でも尽かされたかな。
そんな絶望的な予測をしながら、俺は力なさげに返事をする。
「わたしは小説を書いた事があるわけじゃないから、的外れな事を言うかもしれない。でも、わたしなりに月也を見ていて、思った事がある。それを、聞いてほしいんだけど……」
幸い、愛想を尽かしたわけではないようで、俺はとりあえず一安心した。
美里花の表情の真面目さに、俺は襟を正す思いで、美里花の顔を真っ直ぐに見つめ返した。
「……頼む」
「うん、じゃあ、まず……えい」
そういうのと同時、美里花は、寝転がっている俺の上にまたがるように乗っかってマウントポジションを取り――
――あろうことか、俺の服の中に手を入れて、全身をくすぐりだした。
「ちょ……まて……やめろ……あはは……! あははははっ……!」
美里花はそのまま容赦なく、俺をくすぐり続ける。
「あははっ……! あははははっ……あはははははははっ!」
いったい何を考えてこんな狼藉に及んだのかは分からなかったが。
それは本当に苦しい拷問で、俺はただ、悶え、笑い続けた。
「あははっ! あははははははっ! ひぃっ……あはははははっ! ひぃっ、ひぃっ……」
必死に美里花をどかそうと身をよじるが、ポジショニングが上手く、全然どかせない。
「あはははっ! あははっ! あははははははははははははっ! ひぃっ……ひぃっ……」
「ふぅ、ま、こんな所かな」
美里花がそう呟いてくすぐるのを止めるまで、俺は無限の拷問に苦しみ続けたのだった。
「はぁ……はぁ……何しやがる!」
俺は、マウントポジションを取ったままの美里花を睨み、当然の怒りを表明する。
すると美里花はにっと笑ってこんな事を言った。
「そうそう、そういう感じが欲しいんだよね」
正直いって、意味不明だった。
「……はぁ? どういう意味だよ?」
俺は素でキレてしまいそうになっている自分を抑えながら、美里花に問い返す。
「月也はさ。頭であれこれ考えてるみたいだけどさ。書いてる間、全然ハートが動いてる感じがしないんだよね。そうやって、笑ったり怒ったりしてさ、まずハートを動かさないと、いい文章は書けないと思うよ」
「……っ!」
その指摘は驚くほど的確で鋭く、途端、俺は心をナイフで抉られたような痛みを感じた。
「なんていうかさ、人にどう見られるかとか、読まれたら何を言われるかとか恐れ過ぎて、縮こまってる感じっていうのかな。もっと伸び伸びと、大草原を旅するような、大海原に漕ぎだすような気持ちで書かないと、ダメだと思うんだ」
「…………っ!」
うっ、と胸が苦しくなるのを感じた。
それは、ずっと見ないようにしていた自分の弱さを、無理やりこじ開けられたような苦しみだ。
「月也のさ、デビュー作のレビュー、わたしもこっそり見たよ」
その言葉に、俺はまたしても衝撃を受け、目を見開いてしまう。
「大体が、ぼろくそに書かれててさ、わたしまで泣きそうになっちゃった。あんなの見たら、そりゃ書けなくもなるよ」
美里花に俺のペンネームが、作品が、ばれていたなんて……
まあ、高校では噂になっていたようだから、確かに知っていてもおかしくはない。
だが俺は、美里花にだけは知られたくなかったなと、そう思ってしまっていた――
「月也……色々言ったけど、わたしが伝えたいのはさ……」
だが次の瞬間、そう言いながら美里花は、俺の方に倒れかかってきて――
「月也はさ、大丈夫なんだって事なんだ……」
俺の顔全体を、美里花の少女らしい胸で包み込むようにして、ぎゅっと抱きしめるようにのしかかってきた。
「…………!」
あまりの事に、俺は驚きすぎて声も出なかった。
だが、続く美里花の言葉は、彼女の胸と腕の中で抱き締められた俺の耳に、沁み渡るように響いていく――
「わたしはさ、月也が一生懸命作品を書いて、少しずつ良くしようとしてるって、ちゃんと分かってる。月也の書く文章が、ちゃんと人を喜ばせようとして書かれてるって分かってる。だから月也はさ、書くのを怖がる必要なんて、まったくないんだよ。わたしはさ、月也の事が大好きだから……月也の言葉が、大好きだから……だから、怖がらないで……わたしは、月也には、いきいきと、自分の言葉を紡ぎだしてほしい……」
――気づけば、両目からぽろぽろと涙が落ちて、そのまま美里花の制服に染み込んでいた。
その瞬間――
俺が今までずっとずっと感じてきた、悲しみ、辛さ、絶望、自殺願望――
そういった物がまぜこぜになった思いが、全て一気に溶けだして、奔流となって溢れ出していた――
「うぅ……うう……ぅううううううううううううううううううううっ……!」
絞り出すような泣き声が、美里花と俺しかいない自室に響き渡る。
美里花は、そんな情けない俺を、ぎゅうっと抱き締め続けて、頭を撫でるようにしてくれていた。
「辛かったよね……怖かったよね……でも大丈夫。月也にはさ、わたしがついてるから。わたしはさ、絶対月也の事が、大好きだから。だから、大丈夫。わたしはさ、月也にはさ、自由な心で、感じたままに、神様みたいな表現を、作り出してほしいんだ……それがわたしの願い……それで、その表現で、わたしや、読んでくれたみんなを、幸せにしてほしいんだ……」
「うう……うぅう……うぅうううううううううううううううううううううううううっ……!」
自分では涙を流すのを止めようがないほどの、激しい感情の奔流が俺を襲っていた。
嬉しかった。
どうしようもなく、嬉しかった。
何が悲しくて、何が嬉しくて泣いているのか、さっぱり分かっていなかったが――
間違いなく、人生で今までに体験した事がないほどの、熱い喜びを、俺は感じていた。
それは、一種の儀式だった。
俺という未熟な少年が、一人の物書きに生まれ変わるために必要な、二人だけの儀式――
その儀式は、間違いなく俺の人生に計り知れないほど大きな爪痕を残すと確信できる、そんな、鮮烈で、歓喜に満ちた、とんでもないもので――
「ありがとう……! 美里花っ……! 本当にありがとう……! ううっ! ううううううううっ……!」
俺は泣いた。
この状況を用意してくれた美里花に、感謝し、感激しながら、泣き続けた。
「ううっ……うううっ……うううううぅうううううううううううううっ!」
ただただ泣き続ける。
今までの全てのマイナスの感情、刻み込まれたトラウマを吐きだしきって――
物書きとして、新たなスタートを切るために――!
「月也の家に行く」
短いメッセージに、俺はこの時が来てしまったかと、緊張を感じた。
もちろん、俺はここで、美里花と部屋でいわゆる初めての体験をするとか、そういった妄想をするほど愚かではない。
まあ一瞬そういう事を連想してしまったのは、高校生特有の暴走という事で許してほしい。
実際の所、美里花がそういった行為を恐れている事は分かっているし、美里花には、そういう種類の魅力がなくても、十分お前は素晴らしい女の子なんだって事を理解してほしい、というのが俺のスタンスだ。
だから、俺はたとえそういった妄想が一瞬、そう一瞬だけ脳裏をよぎったとしても、それを一切表に出す事はなく、美里花に「いいぞ」と冷静に返事をする事が出来た。
俺の本能は血の涙を流しているかもしれないが、これは必要な犠牲なのである。
「小説書いてる所、見てみたい」
だがその返事に、俺の心に一気に暗雲が立ち込める。
――もしかすると美里花を悲しませる事になるかもしれないな。
そう思いながらも、俺は無意識のうちにこう返事をしていた。
「ごめん、それはまだ無理だ。悪いけど、今日は別々に帰ろう。また明日」
打ってしまってから、激しく後悔した。
だが、止まらなかった。
俺は怖かった。
小説を書けなくなった小説家である自分を、美里花に見られるのが、とにかく怖かったのだ――
そのまま、俺は逃げるように一人で家に帰った。
鬱屈とした気分のまま、ノートパソコンを起動し、学習机代わりのこたつに座って、なにか執筆をしてみようとする。
――今回は、言葉が浮かばないわけでは、なかった。
手を動かせば、何らかの言葉は紡がれていく。
前回は書き始める事すらできなかったので、進歩はしていると思い、それを勢いとして、なんとか執筆を進めていく。
俺は、自分なりに、今まで読んだ技法書などの記述を思い出しながら、ああでもないこうでもないと考えを巡らせ、自分の文章を批評しながら、ゆっくりと書き進んでいった。
だが、気付けば、その先に詰まっている自分がいた。
それは無限の牢獄に捕らえられた囚人になったような気分。
この世が終わるよりも、書き手にとって辛い瞬間といっていいかもしれない。
「……ダメだ。今日は無理だ」
もちろん実際の所、「今日は無理」ではなく「今日も無理」である。
そんな当たり前の現実からさえ逃避しながら、俺は黙って本棚からライトノベルの新刊を手に取って、積読を崩し始める。
ライトノベルは、まあまあ面白かった。
いや、まあまあという表現は、こんなまともな文章さえ書けなくなっているゴミみたいな書き手が口にするには、あまりに失礼なものだろうな。
そう思い、より鬱屈とした思いを深める結果に終わるばかりだった読書を終え、俺はベッドの上に、大の字になった。
「……はぁ。どうしてこうなっちゃったんだろうな……」
俺は絶望していた。
「……美里花に、なんて言って会えばいいんだよ……」
美里花はきっと、俺の心中も良く分からず、突き放されたと感じて、ひょっとすると寂しがっているかもしれない。
俺は、美里花があまり絶望しすぎていないといいなと、今更思いつつも、美里花に連絡を取る事も出来ずにいた。
そんな時だった。
ピンポーンとインターホンが鳴る。
「……なんだ?」
配達か何かかと思い出ると、画面に映ったのは、美里花だった。
「……月也、入れて」
「……どうして来た。ダメだ」
「ダメ、入れて。入れてくれないなら、死ぬから」
そんな無茶な、と思うが、こいつならマジでやりかねないと思わせる実績が美里花にはある。
「……おじゃまします」
俺は無力を感じながら、美里花が家に上がるのを死んだ目で眺めていた。
そのまま部屋の前へと美里花を案内した俺は、そっと扉を開ける。
「……入っていいぞ。嫌だけど」
美里花が、興味津々といった様子できょろきょろ辺りを見回しながら、後ろに続いて中に入ってくる。
俺の部屋は、まあ平均的な高校生の部屋に、ちょっと多めの本棚と、だいぶ多めのライトノベルや少々の文芸小説、小説やシナリオの技法書、資料にしたいと思って買った歴史や中世ヨーロッパの生活関連の本などなど、といった顔ぶれである。
「……本がいっぱいだ。仲間だね」
「……そうだな」
南向きの窓から曇り空がカーテンに隠されながら覗いていて、その下にはシンプルなベッドがあり、ベッドの横にはこたつが置かれているスペースがある。そんな様子を、美里花は順々に見つめていく。
俺はこたつに座布団を隣り合うように用意すると、「とりあえずこのへん座ってくれ」と左側の席を美里花に勧める。
それから遅れて俺も美里花の右に座る。閉じたノートパソコンが席の前には置かれたままだ。
「……小説」
「……なんだ?」
「小説書いて」
「……書けないんだよ」
そう話す俺を、美里花は真剣な、食い入るような視線で、隣から見つめてくる。
「いいから書いてみて。わたしが見てるから」
見てるから何なんだよ、と思いつつも、また死ぬなどと言われては叶わない。
仕方なくパソコンを開いて起動して、すぐに立ち上がった画面にキーを入力してデスクトップ画面にする。
「そっか、小説はパソコンで書くんだね。そりゃそうか」
「まあそうだな。手書きにも良さがあるとは思うけど、直し入れたり、編集したりするときに不便すぎるからな」
俺は、このまま書かないといけないという現実から少しでも遠ざかるべく、一度立ち上がって、
「……ちょっと飲み物用意してくる。待っててくれ」
と美里花に伝えて部屋を出た。
それから、なるべくゆっくりとした動きで歩き、1階のリビングでのっそりと麦茶を2つのコップに入れて、両手に持って2階にのんびりと戻る。
扉を開けると、美里花は俺がベッドの下に隠しているはずのアイドルの写真集を眺めていた。
「いや、待て、美里花……! お前、なんでそれ見て……! やめろって……!」
俺は、すっかり元気をなくしていたのも忘れて、慌てて美里花を止めにかかる。
だが美里花は俺の静止も聞かず、食い入るように真剣な表情で、写真集を眺めていた。
「いやぁ、なるほど、こういうのか……こういうのがいいのかぁ……」
美里花が見ているのは、よりによって美里花と同じく茶髪をサイドテールにしたアイドルの写真だった。
アイドルは、制服を上だけしっかり着用して、スカートは大胆にはだけさせて、下に着た下着のように見える水着を露わにしながら、瑞々しい太ももで浮き輪を挟んでいる。写真集の持ち主である俺が言うのもあれだが、かなり煽情的なポーズだった。
「顔自体はわたしの方が可愛い気がするけど、このスタイルは凄いなぁ……さすが本職って感じだね……それにこのポーズはちょっと恥ずかしすぎて躊躇うな……月也もこういうポーズしたら、わたしに夢中になってくれるの?」
最後、いきなり美里花がこちらを向いて、上目遣いでそんな事を聞いてきたものだから、俺は思わずドキリとしてしまった。
美里花はそのまま立ち上がると、「こんな感じかなぁ……」とこたつの横でアイドルのポーズを真似し始めて、なんと本当にスカートをはだけさせ始めたものだから、俺は慌てて、「待て待て待て待て……!」と止めはじめる。
スカートのジッパーを下ろしたくらいで何とか止めたものの、布の隙間から水色の下着がちらりと見えて、俺は理性を保つのにかなり苦労する羽目になった。
「えへへ、ドキドキした? 月也の好きなアイドルみたいに見えたかな?」
「マジで止めてくれ……心臓に悪い……」
俺はとりあえず美里花の前に麦茶を置いて、ついでに写真集を没収する。
「月也、そんなに写真集が欲しいなら、代わりにわたしが水着着て写真送ろうか?」
ぐらりと、理性がぐらつくのを感じた。
美里花の水着姿……正直、見たい……
俺はそんな様子を表に見せないように苦労しながら、とりあえず写真集をベッドの下に封印しなおす。
それから振り返り、やっとの事でこう注意する。
「自分の写真なんてうかつに男に送るなよな。お前、俺が悪い奴だったら、めちゃめちゃ悪用とかされるからな? うっかりネットに上がったりしたら、取り返しつかないんだからな? 俺はこれでも、お前を心配してるんだぞ?」
そう言うと、美里花はしゅんとした様子で、
「そっか……ごめん……」
と謝ってくれたので一安心する。
「それに、前言った通り、俺は、お前がそういう可愛いとかエロいとか、そういう魅力があってもなくても変わらずに凄い女の子なんだって事を分かってほしいんだ。それなのにお前の写真をそういう目で見てたりしたら、ダメだろう?」
「そっか……うーん、なんか騙されてるような気もするけど、そうかも……」
まあ、俺は事実として今の美里花の魅力にかなりヤられてしまっているので、写真を送られた所でその事実が変わるわけではないのだが、いちおう最低限のケジメとしてそういう事にしておく。
「ほ、ほら、そろそろ小説を書いてみるぞ。スランプ中のダメ作家の執筆だから、あんまいい文章は出ないかもしれないけど、頑張ってみるから」
俺は話題を逸らすため、しぶしぶながらも小説を書き始めざるを得なくなってしまった。
「お、やったー。月也の書く所、ずっと見てみたかったんだー」
パソコンの前に座りなおすと、美里花はその横から俺の肩に頭を乗せて、画面を見始める。
「み、美里花……距離が近いんだが……?」
俺は、主に背中に押し当てられた美里花の小さくない胸にめちゃくちゃ動揺しながら、美里花にそっと注意しようとするが――
「……いいでしょ?」
美里花が、肩の上から俺の瞳をまっすぐに見つめてそう囁くように呟いてくると、俺は圧されて、
「あ、ああ……」
と言う事しか出来なかった。
――完全敗北である。
仕方なく、なるべく背中や肩に感じる感触を忘れるようにしながら文章を書こうとし始めるが、なかなか筆は進まない。
「うーん……」
とりあえず、先ほどの執筆は忘れて、前から書こうと思っていたファンタジー物の物語の冒頭を書き始めるが、いまいち進みが遅い上に、内容のクオリティもいまいちな気がしてしまう。
「おおー……」
美里花も肩の上で、俺が書く所を感心したように見つめているが、中身を理解してくると、
「うん……?」
と首をかしげだしてしまう。
「……うーん、ダメだ、全然いい出来にならない」
十数分ほど書いた後、俺は投げ出すように両手を後ろに伸ばして、後ろに寝ころんでしまった。
頭の置き場を失った美里花の顔が俺のお腹の辺りに置かれて、こちらの顔をじっと見つめる。
「色々、考えてはみてるんだけどな。いざ本文を書こうとすると、これはダメだとか、ああした方がいいんじゃないかとか、色々考えちゃって、ぐちゃぐちゃになる感じだ」
美里花は、そんな情けない嘆きを口にする俺を、じっと見つめ続ける。
「ダメなんだ……俺はさ、ダメな奴なんだよ……デビュー作も、ネットとかじゃ、めっちゃ酷評されててさ……本当に、ダメなんだよ……」
俺は、気付けば美里花にずいぶんと情けない泣き言を漏らしていた。
「……月也」
美里花は、いつになく真面目な表情で、そんな俺の瞳を射抜くように見つめた。
「……なんだ?」
愛想でも尽かされたかな。
そんな絶望的な予測をしながら、俺は力なさげに返事をする。
「わたしは小説を書いた事があるわけじゃないから、的外れな事を言うかもしれない。でも、わたしなりに月也を見ていて、思った事がある。それを、聞いてほしいんだけど……」
幸い、愛想を尽かしたわけではないようで、俺はとりあえず一安心した。
美里花の表情の真面目さに、俺は襟を正す思いで、美里花の顔を真っ直ぐに見つめ返した。
「……頼む」
「うん、じゃあ、まず……えい」
そういうのと同時、美里花は、寝転がっている俺の上にまたがるように乗っかってマウントポジションを取り――
――あろうことか、俺の服の中に手を入れて、全身をくすぐりだした。
「ちょ……まて……やめろ……あはは……! あははははっ……!」
美里花はそのまま容赦なく、俺をくすぐり続ける。
「あははっ……! あははははっ……あはははははははっ!」
いったい何を考えてこんな狼藉に及んだのかは分からなかったが。
それは本当に苦しい拷問で、俺はただ、悶え、笑い続けた。
「あははっ! あははははははっ! ひぃっ……あはははははっ! ひぃっ、ひぃっ……」
必死に美里花をどかそうと身をよじるが、ポジショニングが上手く、全然どかせない。
「あはははっ! あははっ! あははははははははははははっ! ひぃっ……ひぃっ……」
「ふぅ、ま、こんな所かな」
美里花がそう呟いてくすぐるのを止めるまで、俺は無限の拷問に苦しみ続けたのだった。
「はぁ……はぁ……何しやがる!」
俺は、マウントポジションを取ったままの美里花を睨み、当然の怒りを表明する。
すると美里花はにっと笑ってこんな事を言った。
「そうそう、そういう感じが欲しいんだよね」
正直いって、意味不明だった。
「……はぁ? どういう意味だよ?」
俺は素でキレてしまいそうになっている自分を抑えながら、美里花に問い返す。
「月也はさ。頭であれこれ考えてるみたいだけどさ。書いてる間、全然ハートが動いてる感じがしないんだよね。そうやって、笑ったり怒ったりしてさ、まずハートを動かさないと、いい文章は書けないと思うよ」
「……っ!」
その指摘は驚くほど的確で鋭く、途端、俺は心をナイフで抉られたような痛みを感じた。
「なんていうかさ、人にどう見られるかとか、読まれたら何を言われるかとか恐れ過ぎて、縮こまってる感じっていうのかな。もっと伸び伸びと、大草原を旅するような、大海原に漕ぎだすような気持ちで書かないと、ダメだと思うんだ」
「…………っ!」
うっ、と胸が苦しくなるのを感じた。
それは、ずっと見ないようにしていた自分の弱さを、無理やりこじ開けられたような苦しみだ。
「月也のさ、デビュー作のレビュー、わたしもこっそり見たよ」
その言葉に、俺はまたしても衝撃を受け、目を見開いてしまう。
「大体が、ぼろくそに書かれててさ、わたしまで泣きそうになっちゃった。あんなの見たら、そりゃ書けなくもなるよ」
美里花に俺のペンネームが、作品が、ばれていたなんて……
まあ、高校では噂になっていたようだから、確かに知っていてもおかしくはない。
だが俺は、美里花にだけは知られたくなかったなと、そう思ってしまっていた――
「月也……色々言ったけど、わたしが伝えたいのはさ……」
だが次の瞬間、そう言いながら美里花は、俺の方に倒れかかってきて――
「月也はさ、大丈夫なんだって事なんだ……」
俺の顔全体を、美里花の少女らしい胸で包み込むようにして、ぎゅっと抱きしめるようにのしかかってきた。
「…………!」
あまりの事に、俺は驚きすぎて声も出なかった。
だが、続く美里花の言葉は、彼女の胸と腕の中で抱き締められた俺の耳に、沁み渡るように響いていく――
「わたしはさ、月也が一生懸命作品を書いて、少しずつ良くしようとしてるって、ちゃんと分かってる。月也の書く文章が、ちゃんと人を喜ばせようとして書かれてるって分かってる。だから月也はさ、書くのを怖がる必要なんて、まったくないんだよ。わたしはさ、月也の事が大好きだから……月也の言葉が、大好きだから……だから、怖がらないで……わたしは、月也には、いきいきと、自分の言葉を紡ぎだしてほしい……」
――気づけば、両目からぽろぽろと涙が落ちて、そのまま美里花の制服に染み込んでいた。
その瞬間――
俺が今までずっとずっと感じてきた、悲しみ、辛さ、絶望、自殺願望――
そういった物がまぜこぜになった思いが、全て一気に溶けだして、奔流となって溢れ出していた――
「うぅ……うう……ぅううううううううううううううううううううっ……!」
絞り出すような泣き声が、美里花と俺しかいない自室に響き渡る。
美里花は、そんな情けない俺を、ぎゅうっと抱き締め続けて、頭を撫でるようにしてくれていた。
「辛かったよね……怖かったよね……でも大丈夫。月也にはさ、わたしがついてるから。わたしはさ、絶対月也の事が、大好きだから。だから、大丈夫。わたしはさ、月也にはさ、自由な心で、感じたままに、神様みたいな表現を、作り出してほしいんだ……それがわたしの願い……それで、その表現で、わたしや、読んでくれたみんなを、幸せにしてほしいんだ……」
「うう……うぅう……うぅうううううううううううううううううううううううううっ……!」
自分では涙を流すのを止めようがないほどの、激しい感情の奔流が俺を襲っていた。
嬉しかった。
どうしようもなく、嬉しかった。
何が悲しくて、何が嬉しくて泣いているのか、さっぱり分かっていなかったが――
間違いなく、人生で今までに体験した事がないほどの、熱い喜びを、俺は感じていた。
それは、一種の儀式だった。
俺という未熟な少年が、一人の物書きに生まれ変わるために必要な、二人だけの儀式――
その儀式は、間違いなく俺の人生に計り知れないほど大きな爪痕を残すと確信できる、そんな、鮮烈で、歓喜に満ちた、とんでもないもので――
「ありがとう……! 美里花っ……! 本当にありがとう……! ううっ! ううううううううっ……!」
俺は泣いた。
この状況を用意してくれた美里花に、感謝し、感激しながら、泣き続けた。
「ううっ……うううっ……うううううぅうううううううううううううっ!」
ただただ泣き続ける。
今までの全てのマイナスの感情、刻み込まれたトラウマを吐きだしきって――
物書きとして、新たなスタートを切るために――!