「……はぁ」
翌日の学校で、俺はひたすら窓の外を眺めて、ため息ばかりついていた。
全てが虚無に包まれていると感じた。
――美里花との関係が終わってしまった。
その事実は、1日やそこらで受け入れるにはあまりに酷なものだった。
美里花……美里花……美里花……
未練の渦の中で翻弄されるがままの俺の心は、濁流に呑まれたように闇の中に消えていった。
俺は、クリアファイルに保管している美里花から貰ったルーズリーフを取り出す。
ペンギンの少年と少女が、水族館を訪れました
少女は、水族館に行くのは初めてで、少年にはしゃいだ様子を見せています
二人はとてとてと可愛らしく並んで歩きながら、水族館の生き物たちを見ていきます
――ああ。つい先日の事なのに、二人ではしゃいでいたのがもう遠い過去のように感じる。
ねぇ、あれはなに?
あれはくらげ。ふわっと海に浮いている、のんびり屋さんの生き物さ
ねぇ、あれはなに?
あれはうつぼ。いつも穴に潜んでいる、鋭い目つきのハンターさ
――美里花は、くらげにも、うつぼにも、まるで5歳の少女が初めて存在を知った時のような、新鮮な驚きを見せてくれていた。
少年は水の生き物にも詳しく、ペンギンの少女に一つ一つ、優しく教えてくれます
少女は、そんなペンギンの少年の横顔を見つめます
少年は、凛々しい瞳を知的に輝かせながら
優しく包み込むような目つきで
自分の事を見つめてくれていました
少女は少年の事をもっと知りたいと思いました
――美里花。俺の事を、お前はまだ全然知らないよ。
――もっと知ってほしい事が、いっぱいあったんだけどな。
――なぁ、美里花?
ねぇ、あなたはなに?
そういうと、ペンギンの少年は、困ったようにしながらこういいました
俺はペンギンの少年。ペンギンの少女をいつでも優しく見守っている、キミだけの王子様さ
――そうさ、俺は王子様になりたかったんだ。
――お前だけの王子様に、なりたかったんだよ。美里花……
それからペンギンの少年は、こう問いかけ返します。
ねぇ、あなたはなに?
ペンギンの少女は、嬉しさを隠すようにしながらこういいました
わたしはペンギンの少女。ペンギンの少年の事が大好きな、あなただけのお嫁さんです
――あぁあああああああああああああ……!
……発狂するかと思った。
美里花――
お前はどうして――
どうしてなんだよ――
俺の事が、好きなんじゃなかったのか?
あなただけのお嫁さん、なんて書いておいて、振るんじゃねぇよ。
美里花――
なぁ、美里花――
結局、その日も次の日の金曜日も、俺は茫然自失といった感じのまま、日々を過ごした。
休日も、家に引きこもって、小説などを読んでみるが、まるで内容が頭に入ってこない。
結局、俺は美里花のルーズリーフを取り出しては読み耽り、醜く未練を嘆くのだった。
*****
美里花の家に行ってから、1週間と少しが経った。
今日は金曜日で、明日は休日だが、喜びは一切なかった。
俺は相変わらず諦観と絶望の中にあって、徐々に迫りくる中間テストの対策も、何も行っていなかった。
――あいつは、勉強とかちゃんとやってんのかな。頭とか良さそうだし、意外といけるのかな。
気が付くと美里花の事ばかりを考えてしまう。
家に帰ってからも、虚無の中で、しばらく何もせず時間を過ごす。
ただ、ベッドに横になって、天井を眺めていた。
――いい加減、何かしないと。せめて、テスト勉強くらいは……
そう思いだしたものの、身体は動かない。
そんな時だった。
携帯が、一つの着信を知らせた。
幽鬼が腕を伸ばすような動作で携帯を手に取る。
そこには、美里花からメッセージが来ていた。
「……!」
急いで内容を確認する。
「月也へ。家に来てほしい。もう限界」
途端、燃え上がるように美里花への感情が奔流するのを感じた。
「……なんなんだ、こいつは本当に!」
言いたい事は山ほどあった。
――自分勝手を責めたかった。
――情報不足を責めたかった。
――どう考えても心配の掛け過ぎだった。
――頼むから死のうとしないでくれ……
だが、それ以上に、俺は希望が再び輝きだすのを感じてしまっていた。
――美里花は、まだ俺の事を必要としてくれている……!
その事実は、死にかけていた俺の心を復活させるのに、十分すぎるものだった。
「……ああ、ちくしょう!」
俺は急いで私服に着替えると、鞄を掴んで階段を駆け下り、玄関から飛び出す。
そのまま自転車に乗って、全速力で美里花の家に向かった。
到着した美里花の家は、相変わらず超高級そうな感じで気後れするが、思い切ってその目の前に自転車を止め、俺はインターホンを鳴らした。
「……良かった。来てくれたんだ。良かった……入って」
美里花のその言葉だけで、砂漠のように乾いた俺の心が、凄い勢いで潤っていくのを感じる。
そうか。「良かった」か。
――俺が来る事は、美里花にとって、まだ嬉しい事なんだ。
その事実が、さらに俺を勇気づけ、その勢いのまま美里花の家の扉を大きく開けた。
玄関に靴を揃えて置き、階段を上がって2階の美里花の部屋へと辿り着く。
一度深呼吸してから、そっとその扉を開ける。
――そこでは、いわゆる着る毛布を羽織った美里花が、ベッドサイドに座っていた。
その表情はどこか危うく、ギラギラと瞳が煌めいているように感じた。
「……美里花。久しぶり、だな」
「……うん。久しぶり」
美里花の方も、慎重に言葉を選んでいるような様子が伺えた。
「なんというか、その、大丈夫か、お前?」
そういうと、美里花はにへらと笑って、こういった。
「えへへ。大丈夫じゃないけど、大丈夫。月也が、来てくれたから」
そう言いおえると、美里花は自分の隣のベッドサイドをぽんぽんと叩いてみせた。
「こっちきてよ、月也」
俺は、美里花の言葉がとても嬉しかったのだけど、それ以上に何か近づいてはいけない危うさがあるような気がして、戸惑った。
だが、美里花の誘いを断るという選択肢は、今の俺にはもう無かった。
意を決して、美里花の方へと歩いていき、すぐ隣に腰掛ける。
美里花からは、いつも以上に、甘い桃のようないい香りがした。
ドクン。ドクン。心臓の鼓動が早くなるのを感じる。
逸らしていた視線を、ゆっくりと、横の美里花に向ける。
美里花の猫のような可憐な瞳が、切なそうに恋人を求めるような表情で、俺の事を真っ直ぐ見つめてきていた。
ドクン。ドクン。心臓の鼓動は、一瞬で最高潮に達する。
「ああ……月也……月也だ……良かった……もう会えないかと思った……」
美里花は、そんな俺の右手を両手で握るようにして、その感触を確かめるように、何度もにぎにぎとした。
すべすべとした美里花の柔らかい手の感触に、心臓が限界を迎えそうになるが、俺はそれ以上に混乱もしていた。
「……もう会えないかと思った、ってどういう事だ? 俺は、お前に振られたから、俺の方がもう会えないのかなと思ってたんだが」
「そうだよね。ごめん。わたしが馬鹿だったんだ。月也といるのがあんなに幸せだったのに、月也なしで生きていくなんて、わたしに耐えられるわけなかったんだ。わたし、毎日呆然としちゃっててさ。マジでなんもする気力湧かなくて。死のうとすら思えなかったんだ。本当に、虚無ってこんな感じなんだなって感じで……」
美里花は、美里花なりの思いを、一生懸命俺に伝えようとしてくる。
そして、そう話しながら、美里花は羽織っていた着る毛布をはだけさせた。
その下に着ていたのは、セクシーな白のネグリジェだった。
ネグリジェの下からは、ピンク色のブラやショーツまで、完全に透けてしまっている。
「……え?」
あまりの事に、まったく適切な反応を取る事が出来ないでいた。
本来であれば、目を瞑るか美里花の身体をもう一度隠すかするべきところ、俺は美里花の下着の透けた姿をまじまじと見つめてしまう。
そんな俺に、美里花はもたれかかってきて、そのままぎゅっと抱き着いてくる。
そして、うっとりしたような表情で、俺の腕に頬ずりを始めた。
「ああ、月也……月也……月也だ……ごめんね。わたしが本当、馬鹿だったんだ。わたし、月也なしで生きていくなんて、もう無理になっちゃってるのにさ」
美里花は、さわさわと、俺の腕や肩、背中や胸、お腹を、次々と慈しむようにさすっていく。
「本当、ごめんね。わたし、なめてたよ。月也の事がここまで好きになってるなんて、思ってなかった。月也と1日会えないだけで、わたし、完全にダメになってた。もう一日中、月也月也月也って、月也の事ばかり考えてた。月也、月也、ああ月也。わたし、今幸せだよ。月也とまた会えて、こうやって月也を感じられて、本当に、幸せ……」
美里花は、頬ずりをいったんやめると、俺の瞳に向かって、ぐぐっとその可憐すぎる顔を近づけてきて、唇と唇が触れ合いそうな位置で、囁くように声を出した。
「……ねぇ、月也? わたし、月也が恋人になりたいなら、なってあげるから。月也がわたしの身体でエッチな事をしたいのなら、なんだってさせてあげるから。だから、月也……お願いだからずっと一緒にいて? わたしが死ぬまで、ずっと一緒に」
その囁きが仮に彼女なりの渾身の誘惑なんだとしたら……
――もうこれより効果的な誘惑はないだろうというくらい、魅力的だった。
控えめにいって、一般に高校生男子の性欲というのは、到底理性で抑えきれるようなものではない。
ましてや、自分が狂おしいほど惹かれている女の子が、かわいらしい下着の透けたネグリジェ姿でもたれかかってきて、抱き着いているのだ。
そんな彼女が今、俺がエッチな事をしたいのなら、なんだってさせてあげると囁いてきている。
俺は、人生で全く味わった事がないほどの強い興奮を引き出され、美里花をめちゃくちゃにしたいと本能で思ってしまっていた。
――だが。
俺に残った、一抹の理性が、美里花を大切な宝物として扱いたいという気持ちが、それにストップをかけていた。
今の美里花の言葉をよく思い返せ。
――こいつは、恋人になるってことを、男が女にエッチな事をしたいからなるものだと、勘違いしてるんじゃないのか?
美里花の事ばかり考えていた俺だからこそ分かる深い洞察が、すんでの所で俺にブレーキをかけた。
「……美里花」
俺は美里花の両肩を掴むと、その柔肌の滑らかな細い感触にびびるものの、なんとか理性を取り戻すべく、いったん美里花を遠くに位置させるようゆっくりと押し返した。
「どうしたの……? 月也は、わたしとエッチな事、したくないの……? だったらどうしよう……わたし、可愛いくらいしか取り柄ないから……こうやって誘えば、月也だって喜んでくれるって思ったのに……わたし、要らないのかな……どうしよう……どうしよう……いやだよ、月也……」
だんだん冷静さを少しずつ取り戻していた俺は、美里花のあまりの不安定さに驚いていた。
美里花の危うさが、放っておけなくて、それをなんとかしてあげたくて、たまらなくなっていた。
「……要らないわけ、ないだろうが! 俺は、お前の事が本当に好きなんだ! 大好きなんだよ! 俺だって、お前とずっと一緒にいたいんだよ! なんでそれが、分かんないんだよ……!」
感情のまま、美里花の両肩を強くつかみながら、思いを伝えようと叫ぶ。
美里花は、両目を大きく見開いて、瞳を潤ませて、驚いたように俺の話を聞いていた。
「……でもさ、俺はさ、お前の事、まだまだよく知らないんだ。たぶんお前は、俺が恋人になりたいってのを、俺がお前とエッチな事をしたいからだと思ってるだろ? それがさ、俺に対してすごい失礼な考え方だってこと、お前、本当に分かってるか?」
そういうと、美里花はびくっと身体を震えさせて、不安そうに顔を歪めた。
「ご、ごめん……ごめんなさい……でも……だったらどうして……どうして月也は、わたしと恋人になりたいの……? 男はみんな、誰だってわたしとエッチな事がしたいんだって、そう思ってたんだけど……」
おそらく、美里花がそう思うに至るまでには、普段から感じる性的な視線とか下品な噂話などが、強く影響していたのだろう。美里花は、同じ男であれば思わずそんな事をしてしまう奴も多いだろうと思ってしまう程度には、とんでもなく魅力的な女の子なのだから。
もちろんそれは可哀想な事だと思うし、悲しい事だとも思う。
でも、一番ダメなのは、美里花自身に自尊心というものが全くもって足りていない事だと思った。
俺は美里花に自信をもって欲しかった。
お前は、そういう性的な魅力なんてあってもなくても関係なく、素晴らしい才能を持っていて、魅力的な人間性を持った、最高に素敵な女の子なんだってことを、理解してほしかった。
「……美里花。俺はさ、お前の全部が好きなんだよ。それはさ、お前が単にめちゃくちゃ可愛いとか、そういう所だって、もちろん好きだ。でもさ、たとえば普段明るいフリしてるのに、放っておけない危うさがある所とかさ。そういう美里花の普通なら良くないと思える所とか、そういう所まで含めて、俺は美里花が好きなんだ。本当に詩をやりたいと思ってる所も好きだ。その詩の中で、すげえ素敵な感性を発揮している所も好きだ。水族館で大はしゃぎするような所も好きだ。下手すると、カフェラテに砂糖をいっぱい入れる所だって、好きかもしれない。それくらいさ、俺はお前の全てが、西野美里花という人間のあらゆる所が、好きなんだよ」
そういうと、美里花は俺の胸に顔をうずめて、泣き始めてしまった。
「……う……うぅ……うぅううううううううううう! ……ずるいよ、月也。そんな事言われたら、もう月也なしじゃ生きていけないよ……うぅ……」
下着の透けたネグリジェ姿の美里花に抱き着かれるのはやはりすさまじく理性を消耗する出来事だったが、今は美里花の心を救うのに集中するんだと、鉄の心で本能を抑える。
「また月也が今回みたいにいなくなったら……! わたし、月也がいないと、たぶん死ぬことすらできない! 月也がいないと、何にもできないよ! 月也ぁ……月也ぁ……!」
「いいんだよ、今はそれでも。とりあえず、俺はいつでもお前の傍にいるから。いないときだって、携帯で連絡しあえばいい。改めて謝るけど、寂しい思いをさせてごめんな。お前がそんなに苦しむなんて、俺、全然分かってなかったよ。お互いさ、知らない事、分かってない事が、まだまだいっぱいあるからさ。そういうのを少しずつ話し合ってさ。ちょっとずつ、もっともっと、お互いを知りあっていこうぜ」
美里花は俺の言葉にいたく感銘を受けた様子で、
「……うん!」
と頷いてくれた。
どこか幼児帰りしたような美里花の様子には痛々しいものを感じなくもないが。
ひとまず、二人の関係が修復されたという事で、俺は良かったと思った。
「……美里花、とりあえずその毛布、羽織りなおしてくれないか? いい加減我慢するのもさ、キツいんだ」
美里花はかぁっと顔を赤くして、毛布を羽織りなおした。
「……は、恥ずかしい! 恥ずかしいよ、月也! なんでわたし、月也の前でこんな格好してるんだろ! バカなんじゃないのかな! あぁ、恥ずかしい……!」
今更になって美里花は恥の概念を思い出したらしく、強烈に恥ずかしがりだした。
美里花は急いで着る毛布を羽織り、美里花の柔らかそうなすべすべとした肌は、だいぶ覆い隠された。
ある意味一安心だが、寂しい気もしてしまうのは男の悲しい性だろう。
「……なぁ、美里花。お前の話をしてくれないか? お前は昔どんな子で、どういう風に育ったのか。そういうのが、聞いてみたいんだ」
だが、俺が勇気を出してそんなリクエストを出すと、美里花は悲し気に笑って首を左右に振った。
「なんかさ、わたし本当に怖いんだ。自分の事を話すのが、すごく、怖い」
そう言われてしまうと、俺は二の句が継げなくなってしまった。
「……だからさ、そう、月也の事を話してよ。わたし、月也のこと、もっと知りたい。月也が、子供の頃、どんな子だったとか、お父さんとお母さんはどんな感じかとか。どういう本が好きだったとか、お友達はいるのかとか、いつから小説書いてるのかとか」
美里花は、儚げに微笑みながら、一つ一つ確かめるように、俺について知りたい事を挙げていく。
「そうだな……俺も、美里花に俺の事を知ってもらえたら、嬉しいかもな」
俺はそういって、美里花に優しく微笑む。
美里花も安心したように笑ってくれたので、俺は良かったと思い、そのまま続きを話す事にした。
「そうだな……俺の小さい頃から話そうか……うちは共働きだったから、俺は結構一人で寂しくしてる事が多くてな。テレビとか見たり、絵本とかを読んだりしてる事が多かったかな」
「……わたしと一緒だ。なんか、嬉しいな」
「幼稚園に上がってからも、あんま友達とかいっぱい出来るタイプじゃなかったな。すみっこで一人で積み木で遊んでたり、絵とか描いてたり、そういうタイプだった」
「……そうなんだ」
「んで、小学校に入るんだけど、小学校も、なんとなく周囲や先生とかと合わなくて、すげぇ苦痛だったな。なんで教科書をいちいち音読しないといけないのかとか、なんで意味の分からない問題の解き方を覚えないといけないのかとか、全然分からない事だらけだった。先生とかには嫌われてたし、友達もろくにいなかったな」
「……なんか、シンパシー感じるな。月也も、そうだったんだ」
「その頃は、本とか読むのが凄い好きでな。学校の図書館に置いてあった本を、片っ端から読破してたよ。有名な漫画とかも、図書館にある奴はほぼ全て読んだ。好きな本もいっぱいあったな。冒険もののファンタジー小説とか、好きだった。んで、そういう事してたらさ、自分でもお話を考えたくなってな。ノートとかに、落書きみたいな妄想をいっぱい書いたりしてたな」
「……昔から、本が好きだったんだ」
「ああ……んで、中学に上がったくらいから、ライトノベルの新人賞に応募しはじめてたな。正直今見ると悲惨な作品だったから、1次選考とかで落ちてたけど。でも何回か出してるうちに、ちょっとずつ上に行けるようになってさ。高校に入ってしばらくしてから、晴れて受賞できたんだよ」
「……知ってる。噂になってたよ。実はわたし、噂を聞いて、どんな子なんだろうって見に行ったことあるんだ」
「マジか。美里花みたいな可愛い子に見に来られたら、気付きそうなもんだけどな」
「なんかね、一人でじっとメモ帳に何か書いてたよ。すっごい集中してた。わたしは、小説の事を考えてるのかな、って思って、なんかいいなって思ってたよ」
「はは。なんか、恥ずかしいな。そう聞くと」
「……月也は、初恋とかなかったの?」
「……そうだなぁ。まあ中学とかって多感な時期だし、好きな子くらいいたけどな。特に好きだと告白する事もなかったかな」
「……そっか。じゃあ、月也が面と向かって好きだって言った初めての女の子は、わたしなんだね」
ドキッとして、美里花の方を見る。
美里花は、にへらっと無邪気に笑っていた。
――ちくしょう、やっぱ可愛いなぁ、こいつ……
「……ま、まあそうだな。そうなるな。うん」
俺が盛大に照れながらそんな返事をすると、美里花は笑ってこう言った。
「あはは、月也、なんか可愛い」
「……うっせぇな」
俺は美里花のおでこを、ちいさくデコピンして弾いた。
「あいた……酷いなぁ」
「いいんだよ、そういう事言う奴には、これで」
「まったくもう……でも、そろそろうちの家族、帰ってくるかも。月也がなんか言われちゃったら嫌だから、帰った方がいいかも」
「……そうか。ま、大事な話は出来たし、今日は帰るよ」
「……ねぇ、月也。わたし、月也と一緒に学校に行きたいな。月也の家まで、朝迎えに行ってもいいかな?」
「……ま、いいぞ。住所は後で送っとく」
「やった。ありがと。嬉しいなぁ、えへへ」
照れながら喜ぶ美里花を眺めるのは幸せだったが、いい加減行かないといけない。
俺は静かに鞄を持つと、立ち上がり、美里花に挨拶して、家を出た。
「またな、美里花」
月也のいない1週間は、文字通り地獄の苦しみだった。
わたし、西野美里花は、最初の1日で、もう月也無しでは生きられない事を確信していた。
月也と話さない学校生活は虚無そのものだったし、月也ともう話せないというだけで、わたしの精神状態は容易に限界を迎えていた。
それから1週間を耐えたのは、我ながら頑張ったと思う。
月也の告白を断ったのは自分なのだから、わたしの方が音を上げるわけにはいかない、わたしから声をかけるのはあまりに申し訳ないという思いも確かにあったと思う。
だが一番の理由は、これで月也とまた連絡したら、もう月也に嫌われているのではないかという、純粋な恐怖だった。
わたしは月也にそれくらい酷い事をしたと自覚していたし、だからこそ、月也とまた連絡するのが怖かった。
だが、1週間も経つと、自分の精神がもう保たないとはっきり分かっていたし、その精神状態のあまりの酷さに、何か取り返しのつかない病気にかかってしまうのではないかという心配が現実的となっていた。
そこまで来てついに、わたしは月也に連絡をするという決断を下したのである。
いや、決断というよりは、無意識が勝手に助けを求めて手を動かしていたのに近いだろう。
とにもかくにも、わたしは月也を再び家に招待する事となった。
そこで考えたのは、わたしに月也が必要だとはっきり分かった以上、月也にもわたしを求めてもらわないといけないという事だ。
月也がわたしと恋人になりたいというのは既に分かっている事だ。
わたしと恋人になりたい男子が考えている事が、すべからくわたしとエッチな事をしたいという物であることは、これまでの自分に関する会話や噂をたびたび耳に入れていた事で知っていた。
「西野、マジでエロいよな。エッチしてくれ~」
みたいな会話をわたしに聞こえかねない所でしてしまうのが、中学やそこらの愚かな男子というものだった。それくらい、思春期の男子の性欲というものは、度し難いものなのだろう。
そしてわたしは、月也だって同じ男子である以上は、きっと同じ欲望に苦しんでいるのではないかと思ったのだ。
わたしは自問した。
――わたしは月也を性的な意味で受け入れられるだろうか?
答えは決まっていた。
――そんなの、月也のいない苦しみに比べれば、何万倍もマシだろう。
わたしはやはり、自分が性的にみられているという意識が普段から強かったせいで、自分の性的な側面、みたいなものがとても嫌いになっている所がある。
だから、正直に言って、たとえ月也であっても、悪戯に欲望を向けられてしまったら、嫌な思いをするだろう。それは月也が悪いわけではなく、100パーセント、わたし側の欠陥だが。
だが、それでも、わたしに希望をくれて、わたしの心を救ってくれた、あの月也が、わたしと恋人になりたいと言っているのだ。
だったら、そこで想いに応えないのは、いくらなんでもわたしが酷すぎるという事にはならないだろうか?
それに、エッチな事をした男女というものは、愛着、愛情、恋愛感情などでより強く結ばれると聞いたことがある。
もしエッチな事をしたら、月也はわたしの事を、より大切に思い、離さなくなるのではないだろうか。
錯綜する思いの中、わたしは決断する。
――月也を誘惑して、わたしに夢中にさせて、一生離れられなくしてあげよう。
そうと決まれば行動は早かった。
わたしは自分が持っている中で一番かわいい下着に着替え、普段は着ない白のセクシーなネグリジェを着て、月也を驚かせてあげようと着る毛布を羽織った。
そうして現れた月也を見た瞬間、わたしは嬉しすぎて泣きそうになっていた。
「……良かった。来てくれたんだ。良かった……入って」
それはわたしの心の底からの思いだった。
そして、それからわたしは、月也と再び会えた喜びを何度も確かめながら、月也に自分がいかに苦しんでいたのかを、分かってもらおうとする。
「そうだよね。ごめん。わたしが馬鹿だったんだ。月也といるのがあんなに幸せだったのに、月也なしで生きていくなんて、わたしに耐えられるわけなかったんだ。わたし、毎日呆然としちゃっててさ。マジでなんもする気力湧かなくて。死のうとすら思えなかったんだ。本当に、虚無ってこんな感じなんだなって感じで……」
それからわたしは、当初考えていた通り、月也を誘惑しにかかる。
誘惑するつもりが、つい本心が出て、月也の腕に頬ずりをする所から入ってしまったが。
「ああ、月也……月也……月也だ……ごめんね。わたしが本当、馬鹿だったんだ。わたし、月也なしで生きていくなんて、もう無理になっちゃってるのにさ」
それからわたしは、改めて月也に興奮してもらおうと、月也の身体中のあちこちを、次々とタッチして、さするようにしていく。
「本当、ごめんね。わたし、なめてたよ。月也の事がここまで好きになってるなんて、思ってなかった。月也と1日会えないだけで、わたし、完全にダメになってた。もう一日中、月也月也月也って、月也の事ばかり考えてた。月也、月也、ああ月也。わたし、今幸せだよ。月也とまた会えて、こうやって月也を感じられて、本当に、幸せ……」
わたしは、頬ずりを名残惜しみながらも終えて、月也の瞳に自分の瞳を合わせるように近づけて、今にもキスしそうな位置で、囁くように声を出した。それは、こういう事に不慣れなわたしなりの、精一杯の誘惑だった。
「……ねぇ、月也? わたし、月也が恋人になりたいなら、なってあげるから。月也がわたしの身体でエッチな事をしたいのなら、なんだってさせてあげるから。だから、月也……お願いだからずっと一緒にいて? わたしが死ぬまで、ずっと一緒に」
「……美里花」
だけど月也は、そんなわたしの肩を掴むと、ゆっくりと、しかし確実に、押し返してしまった。
わたしは急に怖くなった。
月也は、もうわたしと一緒にいたくないと思っているのだろうか。
月也は、わたしと恋人になりたいとは、もう思っていないのだろうか。
「どうしたの……? 月也は、わたしとエッチな事、したくないの……? だったらどうしよう……わたし、可愛いくらいしか取り柄ないから……こうやって誘えば、月也だって喜んでくれるって思ったのに……わたし、要らないのかな……どうしよう……どうしよう……いやだよ、月也……」
月也がわたしとエッチな事がもうしたくないのだとしたら、わたしは月也に何が出来る?
――いや、何も出来ないのではないだろうか?
――怖い。
――怖い怖い怖い。
わたしはパニックになりそうになったが、そんなわたしの両肩を強く掴みなおして、月也はこう叫んでくれた。
「……要らないわけ、ないだろうが! 俺は、お前の事が本当に好きなんだ! 大好きなんだよ! 俺だって、お前とずっと一緒にいたいんだよ! なんでそれが、分かんないんだよ……!」
わたしは衝撃を受けていた。
心の底から衝撃を受けていた。
そうなんだ。
月也は、こんなに一生懸命叫んでくれるくらい、わたしの事が好きなんだ。
「……でもさ、俺はさ、お前の事、まだまだよく知らないんだ。たぶんお前は、俺が恋人になりたいってのを、俺がお前とエッチな事をしたいからだと思ってるだろ? それがさ、俺に対してすごい失礼な考え方だってこと、お前、本当に分かってるか?」
え?
わたしは途端、不安で一杯になった。
月也はわたしの事が好きで、わたしと恋人になりたいけど、わたしとエッチな事がしたいからではない?
そんな事が、あるのか?
そんな人が、本当にいるのか?
わたしなんかを、エッチな理由以外で恋人にしたいと思うような人が。
「ご、ごめん……ごめんなさい……でも……だったらどうして……どうして月也は、わたしと恋人になりたいの……? 男はみんな、誰だってわたしとエッチな事がしたいんだって、そう思ってたんだけど……」
わたしは不安の答え合わせを求めるように、月也にそう問いかける。
月也の答えは、一生懸命で、愛情が籠もっていて、何より、わたしの事を普段から優しく見つめてくれている事が良くわかるものだった。
「……美里花。俺はさ、お前の全部が好きなんだよ。それはさ、お前が単にめちゃくちゃ可愛いとか、そういう所だって、もちろん好きだ。でもさ、たとえば普段明るいフリしてるのに、放っておけない危うさがある所とかさ。そういう美里花の普通なら良くないと思える所とか、そういう所まで含めて、俺は美里花が好きなんだ。本当に詩をやりたいと思ってる所も好きだ。その詩の中で、すげえ素敵な感性を発揮している所も好きだ。水族館で大はしゃぎするような所も好きだ。下手すると、カフェラテに砂糖をいっぱい入れる所だって、好きかもしれない。それくらいさ、俺はお前の全てが、西野美里花という人間のあらゆる所が、好きなんだよ」
――嬉しかった。
――途方もなく、嬉しかった。
――また、月也に救われてしまったな……
そんな思いを感じながら、わたしは涙腺が決壊してしまい、月也の胸に顔を押し付けてそのまま泣きだす。
「……う……うぅ……うぅううううううううううう! ……ずるいよ、月也。そんな事言われたら、もう月也なしじゃ生きていけないよ……うぅ……」
わたしは、一体どれほどの事をすれば、この恩に報いる事が出来るだろう?
たとえエッチな事を月也が求めるがままやった所で、わたしは月也と対等に与えあっている関係だと思う事は出来ないだろう。
だからこそ、わたしは怖かった。
月也がまたいなくなってしまう事が、怖かった。
「また月也が今回みたいにいなくなったら……! わたし、月也がいないと、たぶん死ぬことすらできない! 月也がいないと、何にもできないよ! 月也ぁ……月也ぁ……!」
「いいんだよ、今はそれでも。とりあえず、俺はいつでもお前の傍にいるから。いないときだって、携帯で連絡しあえばいい。改めて謝るけど、寂しい思いをさせてごめんな。お前がそんなに苦しむなんて、俺、全然分かってなかったよ。お互いさ、知らない事、分かってない事が、まだまだいっぱいあるからさ。そういうのを少しずつ話し合ってさ。ちょっとずつ、もっともっと、仲良くなっていこうぜ」
わたしは感動した。
本当に、神様みたいな少年だと、心の底から思った。
「……うん!」
わたしに救いを与えてくれる、神様。
それがこの月也という少年なのだ。
「……美里花、とりあえずその毛布、羽織りなおしてくれないか? いい加減我慢するのもさ、キツいんだ」
その言葉を聞いて、冷静に自分の姿を確認したわたしは、なぜだかその途端、急激に恥ずかしさで一杯になってしまった。
「……は、恥ずかしい! 恥ずかしいよ、月也! なんでわたし、月也の前でこんな格好してるんだろ! バカなんじゃないのかな! あぁ、恥ずかしい……!」
――ああ、本当にどうしてこんな格好に……!
わたしは急いで着る毛布を羽織り、なんとか肌を覆い隠す。
その際、一瞬月也がちょっと残念そうな表情を浮かべているのを見てしまい、なんだか可愛いなと思った。
「……なぁ、美里花。お前の話をしてくれないか? お前は昔どんな子で、どういう風に育ったのか。そういうのが、聞いてみたいんだ」
だが、月也がそんな話を切り出してくると、わたしは悲しそうに首を振ることしかできなかった。
「なんかさ、わたし本当に怖いんだ。自分の事を話すのが、すごく、怖い」
わたしは、その後月也の事をもっと知りたいとせがみ、月也の過去を聞いた。
嬉しかった。
月也がわたしと結構似た生い立ちをしているようなのも、嬉しかったが。
月也の事を少しでも深く理解できるようになることが、何より嬉しかった。
「……そうだなぁ。まあ中学とかの多感な時期には、好きな子くらいいたけどな。特に好きだと告白する事もなかったかな」
「……そっか。じゃあ、月也が面と向かって好きだって言った初めての女の子は、わたしなんだね」
こんな会話が出来たのも、とってもとっても嬉しかった。
月也はちゃんと、ドキドキしてくれていただろうか。
ああ、本当に嬉しいな。
でも、そろそろあの人達が帰ってきてしまう。
月也をあの人達に合わせたくはないと思った。
だから、わたしは月也を、嫌々ながらも帰す事にした。
「まったくもう……でも、そろそろうちの家族、帰ってくるかも。月也がなんか言われちゃったら嫌だから、帰った方がいいかも」
「……そうか。ま、大事な話は出来たし、今日は帰るよ」
そこでわたしは、寂しさを少しでも紛らわせようと、こんなお願いをしてみた。
「……ねぇ、月也。わたし、月也と一緒に学校に行きたいな。月也の家まで、朝迎えに行ってもいいかな?」
「……ま、いいぞ。住所は後で送っとく」
嬉しかった。月也は本当に優しいなぁ。
「やった。ありがと。嬉しいなぁ、えへへ」
そうして月也は帰っていった。
「またな、美里花」
月也が部屋からいなくなった後は、しーんとした静けさが空間を支配していて、なんとも物悲しくなる寂しさがあった。
寂しい。
寂しいなぁ。
明日までは、月也に会えないのかぁ。
そう思うと、わたしは幼い頃、ずっと一人だった頃の事を思いだして、無性に辛い気持ちになってきた。
でも、我慢だ。
明日まで頑張れば、月也に会える。
そうすれば、この何もしていなくてもどんどん募ってくる、寂しさ、辛さ、悲しさは、どこかへ消えてなくなるはずだ。
そうなのだ。
月也こそ、わたしの救いなのだから。
そんな思いを胸に、わたしはベッドに横になりながら、ぼうっと辛い精神状態に耐え続けるのだった。
翌朝、家のインターホンを鳴らす音で目が覚めた。
まさか、と思った。
てっきり携帯で連絡してくれた所を下に会いに行く流れだと思っていたが、まさかあいつがインターホンを鳴らすほどの考え無しだったとは……
しかも来るのが早い。
いつも出発する時間より、30分か40分ほど早いぞ。
まずいと思った。
父親はもう家を出ているはずだが、下にはまだ仕事に出発する前の母親がいるだろう。
そうなると……
俺は着の身着のまま、下に急いだ。
「こんにちは! 月也くんを迎えに来ました!」
いきなり女の子が、それも美里花のような絶世の美少女が現れて、母親は目を丸くしていた。
「あらまあ……月也の……お友達かしら?」
「はじめまして、西野美里花といいます。えっと、月也はだいたい友達以上恋人みま……」
美里花が愚かな返事をしようとしているのを慌てて止める。
「友達、友達なんだ! 最近仲良くしてもらってて、家が結構近いから、一緒に登校しようって話になって」
「へぇ……月也にこんな可愛らしい友達がいたとはね……あとで詳しく聞かせてほしいわね」
母親はそういって、俺ににっこりと微笑んだ。怖い……
「それにしてもあんた、そんなパジャマで下に来て、こんな可愛い子の目の前に出るなんて、だらしない。さっさと着替えて、顔洗ってらっしゃい」
それは母親の言う通りだったので、俺は急いで上に上がり、制服に着替えて顔を洗った。
下に戻ると、美里花はリビングに上がる流れになったらしく、美里花がダイニングテーブルの一席に座ってニコニコとしていた。
「月也のお母さん、優しいね!」
「……そうか」
俺は少しげんなりとしながらも、テーブルの上に用意されていた朝食を、隣に座る美里花と雑談しながら平らげた。
「それじゃ、お母さん行くから。美里花ちゃんを、ちゃんと気を付けてエスコートするのよ」
いつの間にか距離を縮めていたらしく、母親は美里花を名前で呼んでいた。
「はいはい、いってらっしゃい」
「いってきまーす」
母親はドタバタと去っていった。
「……いいなぁ。あんなお母さんが、わたしも欲しかったよ」
美里花は心の底から羨ましいといった様子で、去っていった母親のいた場所をじっと見つめていた。
俺はなんといっていいのか困って、なんとなく隣にあった美里花の頭をぽんぽんとタッチする。
「んっ……」
美里花は少し照れながらも、嬉しそうな表情でこっちを見つめてくれた。気恥ずかしい行動だったが、美里花の意識が反れたのなら、まあ良かっただろう。
「さて……まだちょっと早いけど、学校行くか?」
「うん、行きたい」
「分かった。鞄取ってくるから、ちょっと待ってろ」
「うん」
それから俺たちは、通学の時いつも歩いている道を、二人で歩いていった。
「手、つないで……」
俺は正直目立つのが恥ずかしくて手までは繋ぎたくはなかったが、そうお願いされては繋がないわけにもいかなかった。
俺たち二人は、手を仲良くつないで、恋人そのものといった様子で、登校していく。
途中、駅からの道と合流してからは、他の生徒の姿もちらほらと見受けられる。
俺と美里花が二人で手を繋ぎながら楽しそうにしているのはどうも目立つようで、結構な注目を浴びているように感じた。
「……そうだ月也。わたし、月也の部屋にも遊びに行きたいな。今朝は部屋には行けなかったし」
「……どうしてだ?」
「月也がこんな部屋に住んでるんだなってのを知りたいし……月也が小説書いてる所とかも、見てみたいかも」
その言葉に、俺はこれまで忘れた事にしていた小説の事を思いだし、きゅっと胸が締め付けられるような痛みを感じた。
「部屋に来るのはいいけど……小説は期待しないでくれ」
「そう? 良く分かんないけど、分かった」
美里花はあくまで明るい調子を崩さず、そんな返事をした。
それから先は、また元の雑談に戻る。
最近テレビでこんな番組を見たとか、ネットニュースでこんな事を言ってたけど本当か、とか、学校のこの科目が難しいとか、本当にたわいもない話ばかりしていた。
だが、そんな日常的な会話も、相手が美里花であればそれだけで本当に楽しかった。
美里花の話し方が、美里花の感じ方が、すべていちいち魅力的で、輝いて見えたのだ。
「……学校、着いたね」
「……ああ」
俺と美里花は、このままでは目立つと分かっていても、手の感触が名残惜しくて、なかなか繋いだ手を離せずにいた。
結局、俺たちは手を繋いだまま校門を越え、玄関まで入っていく。
その間は、明らかに注目を浴びて噂されていると分かる、居心地の悪さがあった。
靴箱は遠くにあるので、そこでようやく俺たちは手を離し、いったん別れる。
だが靴を履き終えると、再び階段の下で集合し、手を繋いで俺たちの教室がある3階まで登っていくのだった。
それだけならまだ良かった。
美里花は、驚くべき事に、俺の教室の中まで入ってきた。
そしてそのまま、俺の席のすぐ横に陣取る。
「へぇー、ここが月也の今の席なんだ。窓際の後ろの方で、なんか主人公の席っぽいね!」
美里花はそんな感じで明るく話しているが、正直俺は気が気じゃなかった。
まだ時間は早めなので全員が揃っているわけではないが、クラスの中には既に人影がそれなりにある。
その人影達は、明らかのクラスの中に突如侵入して楽しそうにしている美少女に、興味津々の様子だった。
しかもその美少女は、クラスではいつもろくに友達もおらず、一人で本を読んだりしている陰キャ少年の所で騒いでいるのだ。
これが注目を集めずに、いったい何が注目を集めるというのか。
俺は穴があったら入りたい気持ちで一杯だった。
「あ、月也の机の中、小説いっぱい入ってるね。わたしにも1冊貸してよ。月也が好きな本、読みたいんだ」
普段であれば快く貸す所だが、今は状況が悪すぎる。
「美里花……本は貸すから、いったん教室に帰ってくれないか? めちゃくちゃ目立ってるんだが」
「え、そうなの?」
美里花は俺と話すのに夢中で全然周囲の様子に気づいていなかったようだが、あたりを振り返って、冷や汗をかいたようだった。
「う、うん、そうだね……あ、これ貸してくれるの? ありがと! それじゃあね」
そういって、美里花は素早く教室から逃げ出していく。まさに、脱兎のごとく、といった感じだった。
しーんと、教室が静まる。それくらい、みな俺たちの様子を注視していたのだ。
「東雲くん、いまの、1組の西野さんよね? 二人は仲良かったんだ?」
教室の中で、俺と面識がある数少ない存在である前の席の女子が、珍しく向こうから話しかけてくる。
この女子は、俺が1年の頃一時期所属していた文芸部で一緒だったから、顔はよく覚えている。
名前は……なんだったか……
「あ、ああ……ちょっと前に知り合ってな。友達になったんだ」
「へぇ? 友達っていうよりは、もうほぼ恋人って感じに見えたけど」
「……いやいや、あんな可愛い子と俺みたいなのが恋人になれるわけないだろ」
「ふーん、そっか、やっぱ可愛いとは思ってるんだね」
――や、やばいぞ、この流れは……
話しているうちに、どんどん墓穴を掘っている気がした俺は、いったん逃げ出す事にした。
「ちょっと購買で買い物してくるから、いったん行くわ。それじゃあな」
「あ、ちょっと……」
ふぅ、危ない所だった。
適当に購買でジュースでも買って帰ろうと、俺はゆっくり時間をかけて廊下を歩き、その途中、美里花の2年1組を通りすぎる。
ふと教室の中を見ると、美里花は俺が渡したライトノベルをブックカバーをつけて読んでいた。
なんだかニコニコとしていて、とても楽しそうにしている。
そんな様子に、俺は当初、安心したような嬉しさを感じた。
だが、美里花はふと本を閉じると、窓の外を眺めて、はぁっとため息をついた。
その表情は、どこか空しさに満ちていて、とても哀しげに見えるものだった。
俺は、なぜか見てはいけないものを見たような気持ちがして、そっとその場を去ってしまう。
――美里花は、いったい何を考えているのだろう?
――最近の楽しそうにしているあいつは、本当に、楽しいと思えているのだろうか?
そんな疑問が心の奥底に生まれ、それがだんだん比重を大きくしていくのを感じながら――
放課後、授業が終わった所で、美里花からメッセージが届いた。
「月也の家に行く」
短いメッセージに、俺はこの時が来てしまったかと、緊張を感じた。
もちろん、俺はここで、美里花と部屋でいわゆる初めての体験をするとか、そういった妄想をするほど愚かではない。
まあ一瞬そういう事を連想してしまったのは、高校生特有の暴走という事で許してほしい。
実際の所、美里花がそういった行為を恐れている事は分かっているし、美里花には、そういう種類の魅力がなくても、十分お前は素晴らしい女の子なんだって事を理解してほしい、というのが俺のスタンスだ。
だから、俺はたとえそういった妄想が一瞬、そう一瞬だけ脳裏をよぎったとしても、それを一切表に出す事はなく、美里花に「いいぞ」と冷静に返事をする事が出来た。
俺の本能は血の涙を流しているかもしれないが、これは必要な犠牲なのである。
「小説書いてる所、見てみたい」
だがその返事に、俺の心に一気に暗雲が立ち込める。
――もしかすると美里花を悲しませる事になるかもしれないな。
そう思いながらも、俺は無意識のうちにこう返事をしていた。
「ごめん、それはまだ無理だ。悪いけど、今日は別々に帰ろう。また明日」
打ってしまってから、激しく後悔した。
だが、止まらなかった。
俺は怖かった。
小説を書けなくなった小説家である自分を、美里花に見られるのが、とにかく怖かったのだ――
そのまま、俺は逃げるように一人で家に帰った。
鬱屈とした気分のまま、ノートパソコンを起動し、学習机代わりのこたつに座って、なにか執筆をしてみようとする。
――今回は、言葉が浮かばないわけでは、なかった。
手を動かせば、何らかの言葉は紡がれていく。
前回は書き始める事すらできなかったので、進歩はしていると思い、それを勢いとして、なんとか執筆を進めていく。
俺は、自分なりに、今まで読んだ技法書などの記述を思い出しながら、ああでもないこうでもないと考えを巡らせ、自分の文章を批評しながら、ゆっくりと書き進んでいった。
だが、気付けば、その先に詰まっている自分がいた。
それは無限の牢獄に捕らえられた囚人になったような気分。
この世が終わるよりも、書き手にとって辛い瞬間といっていいかもしれない。
「……ダメだ。今日は無理だ」
もちろん実際の所、「今日は無理」ではなく「今日も無理」である。
そんな当たり前の現実からさえ逃避しながら、俺は黙って本棚からライトノベルの新刊を手に取って、積読を崩し始める。
ライトノベルは、まあまあ面白かった。
いや、まあまあという表現は、こんなまともな文章さえ書けなくなっているゴミみたいな書き手が口にするには、あまりに失礼なものだろうな。
そう思い、より鬱屈とした思いを深める結果に終わるばかりだった読書を終え、俺はベッドの上に、大の字になった。
「……はぁ。どうしてこうなっちゃったんだろうな……」
俺は絶望していた。
「……美里花に、なんて言って会えばいいんだよ……」
美里花はきっと、俺の心中も良く分からず、突き放されたと感じて、ひょっとすると寂しがっているかもしれない。
俺は、美里花があまり絶望しすぎていないといいなと、今更思いつつも、美里花に連絡を取る事も出来ずにいた。
そんな時だった。
ピンポーンとインターホンが鳴る。
「……なんだ?」
配達か何かかと思い出ると、画面に映ったのは、美里花だった。
「……月也、入れて」
「……どうして来た。ダメだ」
「ダメ、入れて。入れてくれないなら、死ぬから」
そんな無茶な、と思うが、こいつならマジでやりかねないと思わせる実績が美里花にはある。
「……おじゃまします」
俺は無力を感じながら、美里花が家に上がるのを死んだ目で眺めていた。
そのまま部屋の前へと美里花を案内した俺は、そっと扉を開ける。
「……入っていいぞ。嫌だけど」
美里花が、興味津々といった様子できょろきょろ辺りを見回しながら、後ろに続いて中に入ってくる。
俺の部屋は、まあ平均的な高校生の部屋に、ちょっと多めの本棚と、だいぶ多めのライトノベルや少々の文芸小説、小説やシナリオの技法書、資料にしたいと思って買った歴史や中世ヨーロッパの生活関連の本などなど、といった顔ぶれである。
「……本がいっぱいだ。仲間だね」
「……そうだな」
南向きの窓から曇り空がカーテンに隠されながら覗いていて、その下にはシンプルなベッドがあり、ベッドの横にはこたつが置かれているスペースがある。そんな様子を、美里花は順々に見つめていく。
俺はこたつに座布団を隣り合うように用意すると、「とりあえずこのへん座ってくれ」と左側の席を美里花に勧める。
それから遅れて俺も美里花の右に座る。閉じたノートパソコンが席の前には置かれたままだ。
「……小説」
「……なんだ?」
「小説書いて」
「……書けないんだよ」
そう話す俺を、美里花は真剣な、食い入るような視線で、隣から見つめてくる。
「いいから書いてみて。わたしが見てるから」
見てるから何なんだよ、と思いつつも、また死ぬなどと言われては叶わない。
仕方なくパソコンを開いて起動して、すぐに立ち上がった画面にキーを入力してデスクトップ画面にする。
「そっか、小説はパソコンで書くんだね。そりゃそうか」
「まあそうだな。手書きにも良さがあるとは思うけど、直し入れたり、編集したりするときに不便すぎるからな」
俺は、このまま書かないといけないという現実から少しでも遠ざかるべく、一度立ち上がって、
「……ちょっと飲み物用意してくる。待っててくれ」
と美里花に伝えて部屋を出た。
それから、なるべくゆっくりとした動きで歩き、1階のリビングでのっそりと麦茶を2つのコップに入れて、両手に持って2階にのんびりと戻る。
扉を開けると、美里花は俺がベッドの下に隠しているはずのアイドルの写真集を眺めていた。
「いや、待て、美里花……! お前、なんでそれ見て……! やめろって……!」
俺は、すっかり元気をなくしていたのも忘れて、慌てて美里花を止めにかかる。
だが美里花は俺の静止も聞かず、食い入るように真剣な表情で、写真集を眺めていた。
「いやぁ、なるほど、こういうのか……こういうのがいいのかぁ……」
美里花が見ているのは、よりによって美里花と同じく茶髪をサイドテールにしたアイドルの写真だった。
アイドルは、制服を上だけしっかり着用して、スカートは大胆にはだけさせて、下に着た下着のように見える水着を露わにしながら、瑞々しい太ももで浮き輪を挟んでいる。写真集の持ち主である俺が言うのもあれだが、かなり煽情的なポーズだった。
「顔自体はわたしの方が可愛い気がするけど、このスタイルは凄いなぁ……さすが本職って感じだね……それにこのポーズはちょっと恥ずかしすぎて躊躇うな……月也もこういうポーズしたら、わたしに夢中になってくれるの?」
最後、いきなり美里花がこちらを向いて、上目遣いでそんな事を聞いてきたものだから、俺は思わずドキリとしてしまった。
美里花はそのまま立ち上がると、「こんな感じかなぁ……」とこたつの横でアイドルのポーズを真似し始めて、なんと本当にスカートをはだけさせ始めたものだから、俺は慌てて、「待て待て待て待て……!」と止めはじめる。
スカートのジッパーを下ろしたくらいで何とか止めたものの、布の隙間から水色の下着がちらりと見えて、俺は理性を保つのにかなり苦労する羽目になった。
「えへへ、ドキドキした? 月也の好きなアイドルみたいに見えたかな?」
「マジで止めてくれ……心臓に悪い……」
俺はとりあえず美里花の前に麦茶を置いて、ついでに写真集を没収する。
「月也、そんなに写真集が欲しいなら、代わりにわたしが水着着て写真送ろうか?」
ぐらりと、理性がぐらつくのを感じた。
美里花の水着姿……正直、見たい……
俺はそんな様子を表に見せないように苦労しながら、とりあえず写真集をベッドの下に封印しなおす。
それから振り返り、やっとの事でこう注意する。
「自分の写真なんてうかつに男に送るなよな。お前、俺が悪い奴だったら、めちゃめちゃ悪用とかされるからな? うっかりネットに上がったりしたら、取り返しつかないんだからな? 俺はこれでも、お前を心配してるんだぞ?」
そう言うと、美里花はしゅんとした様子で、
「そっか……ごめん……」
と謝ってくれたので一安心する。
「それに、前言った通り、俺は、お前がそういう可愛いとかエロいとか、そういう魅力があってもなくても変わらずに凄い女の子なんだって事を分かってほしいんだ。それなのにお前の写真をそういう目で見てたりしたら、ダメだろう?」
「そっか……うーん、なんか騙されてるような気もするけど、そうかも……」
まあ、俺は事実として今の美里花の魅力にかなりヤられてしまっているので、写真を送られた所でその事実が変わるわけではないのだが、いちおう最低限のケジメとしてそういう事にしておく。
「ほ、ほら、そろそろ小説を書いてみるぞ。スランプ中のダメ作家の執筆だから、あんまいい文章は出ないかもしれないけど、頑張ってみるから」
俺は話題を逸らすため、しぶしぶながらも小説を書き始めざるを得なくなってしまった。
「お、やったー。月也の書く所、ずっと見てみたかったんだー」
パソコンの前に座りなおすと、美里花はその横から俺の肩に頭を乗せて、画面を見始める。
「み、美里花……距離が近いんだが……?」
俺は、主に背中に押し当てられた美里花の小さくない胸にめちゃくちゃ動揺しながら、美里花にそっと注意しようとするが――
「……いいでしょ?」
美里花が、肩の上から俺の瞳をまっすぐに見つめてそう囁くように呟いてくると、俺は圧されて、
「あ、ああ……」
と言う事しか出来なかった。
――完全敗北である。
仕方なく、なるべく背中や肩に感じる感触を忘れるようにしながら文章を書こうとし始めるが、なかなか筆は進まない。
「うーん……」
とりあえず、先ほどの執筆は忘れて、前から書こうと思っていたファンタジー物の物語の冒頭を書き始めるが、いまいち進みが遅い上に、内容のクオリティもいまいちな気がしてしまう。
「おおー……」
美里花も肩の上で、俺が書く所を感心したように見つめているが、中身を理解してくると、
「うん……?」
と首をかしげだしてしまう。
「……うーん、ダメだ、全然いい出来にならない」
十数分ほど書いた後、俺は投げ出すように両手を後ろに伸ばして、後ろに寝ころんでしまった。
頭の置き場を失った美里花の顔が俺のお腹の辺りに置かれて、こちらの顔をじっと見つめる。
「色々、考えてはみてるんだけどな。いざ本文を書こうとすると、これはダメだとか、ああした方がいいんじゃないかとか、色々考えちゃって、ぐちゃぐちゃになる感じだ」
美里花は、そんな情けない嘆きを口にする俺を、じっと見つめ続ける。
「ダメなんだ……俺はさ、ダメな奴なんだよ……デビュー作も、ネットとかじゃ、めっちゃ酷評されててさ……本当に、ダメなんだよ……」
俺は、気付けば美里花にずいぶんと情けない泣き言を漏らしていた。
「……月也」
美里花は、いつになく真面目な表情で、そんな俺の瞳を射抜くように見つめた。
「……なんだ?」
愛想でも尽かされたかな。
そんな絶望的な予測をしながら、俺は力なさげに返事をする。
「わたしは小説を書いた事があるわけじゃないから、的外れな事を言うかもしれない。でも、わたしなりに月也を見ていて、思った事がある。それを、聞いてほしいんだけど……」
幸い、愛想を尽かしたわけではないようで、俺はとりあえず一安心した。
美里花の表情の真面目さに、俺は襟を正す思いで、美里花の顔を真っ直ぐに見つめ返した。
「……頼む」
「うん、じゃあ、まず……えい」
そういうのと同時、美里花は、寝転がっている俺の上にまたがるように乗っかってマウントポジションを取り――
――あろうことか、俺の服の中に手を入れて、全身をくすぐりだした。
「ちょ……まて……やめろ……あはは……! あははははっ……!」
美里花はそのまま容赦なく、俺をくすぐり続ける。
「あははっ……! あははははっ……あはははははははっ!」
いったい何を考えてこんな狼藉に及んだのかは分からなかったが。
それは本当に苦しい拷問で、俺はただ、悶え、笑い続けた。
「あははっ! あははははははっ! ひぃっ……あはははははっ! ひぃっ、ひぃっ……」
必死に美里花をどかそうと身をよじるが、ポジショニングが上手く、全然どかせない。
「あはははっ! あははっ! あははははははははははははっ! ひぃっ……ひぃっ……」
「ふぅ、ま、こんな所かな」
美里花がそう呟いてくすぐるのを止めるまで、俺は無限の拷問に苦しみ続けたのだった。
「はぁ……はぁ……何しやがる!」
俺は、マウントポジションを取ったままの美里花を睨み、当然の怒りを表明する。
すると美里花はにっと笑ってこんな事を言った。
「そうそう、そういう感じが欲しいんだよね」
正直いって、意味不明だった。
「……はぁ? どういう意味だよ?」
俺は素でキレてしまいそうになっている自分を抑えながら、美里花に問い返す。
「月也はさ。頭であれこれ考えてるみたいだけどさ。書いてる間、全然ハートが動いてる感じがしないんだよね。そうやって、笑ったり怒ったりしてさ、まずハートを動かさないと、いい文章は書けないと思うよ」
「……っ!」
その指摘は驚くほど的確で鋭く、途端、俺は心をナイフで抉られたような痛みを感じた。
「なんていうかさ、人にどう見られるかとか、読まれたら何を言われるかとか恐れ過ぎて、縮こまってる感じっていうのかな。もっと伸び伸びと、大草原を旅するような、大海原に漕ぎだすような気持ちで書かないと、ダメだと思うんだ」
「…………っ!」
うっ、と胸が苦しくなるのを感じた。
それは、ずっと見ないようにしていた自分の弱さを、無理やりこじ開けられたような苦しみだ。
「月也のさ、デビュー作のレビュー、わたしもこっそり見たよ」
その言葉に、俺はまたしても衝撃を受け、目を見開いてしまう。
「大体が、ぼろくそに書かれててさ、わたしまで泣きそうになっちゃった。あんなの見たら、そりゃ書けなくもなるよ」
美里花に俺のペンネームが、作品が、ばれていたなんて……
まあ、高校では噂になっていたようだから、確かに知っていてもおかしくはない。
だが俺は、美里花にだけは知られたくなかったなと、そう思ってしまっていた――
「月也……色々言ったけど、わたしが伝えたいのはさ……」
だが次の瞬間、そう言いながら美里花は、俺の方に倒れかかってきて――
「月也はさ、大丈夫なんだって事なんだ……」
俺の顔全体を、美里花の少女らしい胸で包み込むようにして、ぎゅっと抱きしめるようにのしかかってきた。
「…………!」
あまりの事に、俺は驚きすぎて声も出なかった。
だが、続く美里花の言葉は、彼女の胸と腕の中で抱き締められた俺の耳に、沁み渡るように響いていく――
「わたしはさ、月也が一生懸命作品を書いて、少しずつ良くしようとしてるって、ちゃんと分かってる。月也の書く文章が、ちゃんと人を喜ばせようとして書かれてるって分かってる。だから月也はさ、書くのを怖がる必要なんて、まったくないんだよ。わたしはさ、月也の事が大好きだから……月也の言葉が、大好きだから……だから、怖がらないで……わたしは、月也には、いきいきと、自分の言葉を紡ぎだしてほしい……」
――気づけば、両目からぽろぽろと涙が落ちて、そのまま美里花の制服に染み込んでいた。
その瞬間――
俺が今までずっとずっと感じてきた、悲しみ、辛さ、絶望、自殺願望――
そういった物がまぜこぜになった思いが、全て一気に溶けだして、奔流となって溢れ出していた――
「うぅ……うう……ぅううううううううううううううううううううっ……!」
絞り出すような泣き声が、美里花と俺しかいない自室に響き渡る。
美里花は、そんな情けない俺を、ぎゅうっと抱き締め続けて、頭を撫でるようにしてくれていた。
「辛かったよね……怖かったよね……でも大丈夫。月也にはさ、わたしがついてるから。わたしはさ、絶対月也の事が、大好きだから。だから、大丈夫。わたしはさ、月也にはさ、自由な心で、感じたままに、神様みたいな表現を、作り出してほしいんだ……それがわたしの願い……それで、その表現で、わたしや、読んでくれたみんなを、幸せにしてほしいんだ……」
「うう……うぅう……うぅうううううううううううううううううううううううううっ……!」
自分では涙を流すのを止めようがないほどの、激しい感情の奔流が俺を襲っていた。
嬉しかった。
どうしようもなく、嬉しかった。
何が悲しくて、何が嬉しくて泣いているのか、さっぱり分かっていなかったが――
間違いなく、人生で今までに体験した事がないほどの、熱い喜びを、俺は感じていた。
それは、一種の儀式だった。
俺という未熟な少年が、一人の物書きに生まれ変わるために必要な、二人だけの儀式――
その儀式は、間違いなく俺の人生に計り知れないほど大きな爪痕を残すと確信できる、そんな、鮮烈で、歓喜に満ちた、とんでもないもので――
「ありがとう……! 美里花っ……! 本当にありがとう……! ううっ! ううううううううっ……!」
俺は泣いた。
この状況を用意してくれた美里花に、感謝し、感激しながら、泣き続けた。
「ううっ……うううっ……うううううぅうううううううううううううっ!」
ただただ泣き続ける。
今までの全てのマイナスの感情、刻み込まれたトラウマを吐きだしきって――
物書きとして、新たなスタートを切るために――!
「……落ち着いたかな、月也?」
やがて、ようやく泣き止んだ俺から、そっと離れた美里花は、そういって優しげに微笑んだ。
俺は、久々に見た美里花の顔があまりに可憐である事に驚いて、こんな可愛い子に抱き締められて泣いていたのだという事実に、今更ながら自分が恵まれすぎだと思ってしまった。
ただもちろん、今の感動は、決して美里花が可愛い女の子だから感動したわけではない。
美里花の心が、魂が、とんでもなく澄んだ美しいものだったからこそ起こった、一種の奇跡のようなものだ。
俺は、何といえばこの想いが伝わるのかも分からず、ただ、平凡な言葉で感謝を述べる事しか出来なかった。
「ああ……本当に、なんていうか、ありがとう、美里花……」
「いいんだよ。月也が大好きなわたしが、月也の事を大好きだから、やった事だから」
その言葉が嬉しくて、またしても泣きそうになってしまう。
――ああ、俺はいつからこんなに涙もろくなったのだろう……
「月也。さっき伝えた事、覚えてるかな? 月也にはさ、わたしは本当に、自由な心で言葉を紡いでほしいと思ってる。でね、その時に大事だとわたしが思ってるのがさ……」
美里花は、にへらっと笑って、こう続けた。
「……書く対象を、とにかく愛する事なんだ。月也にも、書いている人物や、景色や、物事を、愛して、大好きだと思って、書いてほしいんだ、わたしは」
その美里花の言葉は、深い感動を伴って、俺の心の底まで響いた。
「……本当に……本当にすごいな、お前は……お前は詩だけじゃなくて、こういう形でも、人を深く感動させて、揺り動かす事が出来るんだな……」
俺は、人生で初めて、心の底から他者を深く尊敬する、という心情を味わっていた。
これが、本物。
本物の、尊敬。
その感覚は、ひどく心地よく、自分が真っ当な人間になれたと感じさせるもので――
「月也だってさ、同じだよ」
「……え?」
美里花は、そんな俺に、にこっと笑って、こういうのだ。
「わたしが月也に、どれだけ感動させられたと思ってるの? 月也の言葉に、どれだけ救われたと思ってるの? そんな月也なら、人を感動させる物語が、人を救える物語がきっと書けるって、わたしは信じてる」
その言葉は、穏やかだが力強く、俺の心を深く揺り動かすパワーを持っていた。
「だから月也、お願いだから書いて。また、書いてよ。次こそ、月也だけの最高の物語を、書いてよ……!」
だんだん、美里花の言葉に熱が篭もっていく。
知らず、胸が熱くなるのを感じた。
俺は、深い高揚感と、熱気の中にいた。
書きたい、と思った。
ただ、誰のためでもない、自分だけの、最高の物語を、まず書きたい。
そしてそれを、美里花に読んでもらいたい。
その物語で、美里花の心を揺り動かしたい。
そんな熱い想いが、俺の胸を突き動かそうとしていた。
「……美里花! ありがとう!」
俺は、溢れんばかりの感謝の思いを、美里花に叫んでいく。
「お前のおかげだ! お前のおかげで、俺は、ずっとずっとダメだった小説を、またやりたいと心から思えたよ! 本当に、ありがとう……!」
そういうと、美里花はぱぁっと向日葵が咲いたような笑顔を浮かべた。
「……うん! 良かった……! 本当に、良かった……!」
美里花が、がしっとこちらに倒れこむようにして抱き着いてくる。
俺は、黙って、そんな美里花を受け止めて、抱きしめ返した。
「ああ、嬉しいな! 月也に想いが通じて、嬉しいな! わたし、本当に嬉しいよ! 月也! 本当に、大好き! あはは! あはははは!」
美里花も、いつになくテンションを上げて、ただただ喜んでくれていた。
そんな美里花の様子に、俺も、これで良かった、と心から思った。
そして、美里花の少女らしい細い身体の感触を、抱き締めながら味わい続けるのだった。
この細い身体の女の子が、今起こした奇跡の偉大さを、少女への畏敬の念を、心から感じながら――
*****
それから、美里花に見つめられながら、再び小説を書いてみる事になった。
相変わらず美里花は俺の左肩に頭を乗せて、半ば抱き着くような体勢で、俺の文章を見つめてくれている。
そうしていると、今までとはまるで違う手ごたえがあった。
俺は美里花から、ハートを動かして書くという事を身をもって学んでいた。
対象を愛する心をもって文章を書くという事を学んでいた。
そういった事を意識していると、なぜだか分からないが無心で文章が書けた。
いつもみたいに、ここはこうした方がいいんじゃないかとか、これはダメなんじゃないかとか、ああした方が理論に沿っているとか、そういう余計な思考が一切発生しない。
にもかかわらず、出来上がった文章は、今まで書いていたものよりずっと美しく、感情の動きが伝わるもので、読んで自分でも満足がいくものになっていくのだ。
「うんうん、いい感じだね!」
美里花も、俺の文章を読んで、無邪気に喜んでくれていた。
それがまた、とっても嬉しかった。
俺たちはそのまま親が帰ってくる時間になるまで、二人で密着しながら、俺の綴る文章を一緒に見つめ続けるのだった。
翌日の朝。
俺は迎えに来た美里花と一緒に、再び学校に向かっていた。
俺たちは、二人そろって手を繋いで、学校までの道のりをゆっくりと味わうように歩いていく。
「なんか本当、手つなぐのって、いいな。なんていうか、繋がってる感じがするっていうか。こうしてる間は、寂しくないっていうかさ」
美里花はそういって、キラキラとした笑顔で俺の方を見つめた。その頬は少し赤くなっていて、しゃべりながらキュッと強めに手を握ってくる仕草に、俺の心臓までキュっと掴まれたような感覚がした。
俺は必死に鼓動を抑えようとしながら、なんとか美里花に返事をする。
「……そうだな。なんていうか、いいよな」
「えへへ、月也もそう思ってくれてるんだ。嬉しいな」
さらに美里花の手を握る力が強くなり、俺の心臓はもはや鷲摑み状態だ。
そんな甘酸っぱい状態を維持したまま、俺たちは校門を通り、下駄箱で靴を履き替える。
それから名残を惜しみながら俺の教室の前で別れて、教室の席につく。
――にやっ、と自然と笑みがこぼれるのを感じる。
俺は、今が人生の絶頂だと感じていた。
長らく悩み続けていた小説の問題も解決の兆しが見えた。
もちろん、編集には期日に間に合わない事を謝らなければいけなかった。それは依然課題として残っているが、俺はそれも、今ならなんとか乗り越えられる気がしていた。
何より、美里花という、心の底から尊敬できる、素晴らしい少女が俺についてくれていると言ってくれた。
あいつは確かに不安定な所があるし、自分勝手な所もあるし、気を抜けばいなくなってしまうのではないかと思わせる、そんな気まぐれな猫みたいな少女だ。
――だが。
――彼女は俺を救ってくれた。
俺には、それだけで十分すぎるほどだった。
俺は既に、一生をかけて美里花にお礼をしていかなければいけないなと思い詰めるほどには、美里花に深く感謝していた。
俺にとって、美里花は救いの女神そのものだった。
俺は本当に、美里花を神格視しはじめていたかもしれない。
――だからこそ、俺は気づけなかった。
美里花という少女が、極めて不安定な所のある、弱さを持った少女であるという事を、甘く見積もってしまっていた。
その日の放課後。
二人で仲良く帰っている間、
「月也、カラオケ行こう」
という美里花の一声で、そのままカラオケに立ち寄る事になった。
「いいけど、俺、ろくに歌えないぞ?」
「いいよ。わたしが歌うから。月也は聞いててよ」
そんなもんかと思いつつ、俺はろくに行った事もないカラオケ店に入る事になった。
すでに会員登録済みらしい美里花が、受付で代表して部屋の番号が書かれた台紙を受け取る。
二人で個室に入り、俺はドリンクバーで飲み物を取りに一度立ち上がる事になった。
美里花はウーロン茶がいいとの事だったので、2杯のウーロン茶をとりあえず持って帰る。
すると――
――美里花が、歌っていた。
10年ほど前に流行った有名なアーティストの、透き通るような雰囲気の曲だ。
美里花の歌は、驚くほど上手かった。
なにせまず、美里花は声質が抜群に良い。
大袈裟でなく、聞いているだけで男が惚れてしまいそうなくらい、可憐な声をしているのだ。
だが、それだけでなく、歌唱力も一流である事が、今初めて分かった。
いや、一流なんてもんじゃないかもしれない。
――これ、プロとかと比べられる次元なんじゃないか……
――初めてこんなの生で聞いたぞ……
驚きっぱなしで、放心状態で美里花の歌を聞き終えた俺は、歌い終えた美里花に、さっそく質問する。
「途中からだけど、すげぇ良かったよ。でもお前、いくらなんでも歌上手すぎないか?」
「わたしさ、一時期から詩が読めなくなったって言ったじゃん? そのあとしばらくしてからさ、代わりの趣味として、ヒトカラに行ってたんだ。結構な頻度で行ってたから、自然と歌も上手くなったよね」
美里花の返事は、なるほどと思える物だった。
それにしても、才能の塊だとは思ったが。
美里花の意外な一面に驚きながら、その後も何曲か可愛らしくも力強い歌声を楽しんだ俺だったが――
「月也、一緒に歌おうよ」
と合唱を求められ、ついにマイクを手に取る事になった。
「あっははははっ! 月也、めっちゃ歌下手!」
少し前に流行った深夜アニメのOPを歌い終わった後、美里花に爆笑されてしまった。
「うるせぇな! 陰キャはカラオケとか行かないんだよ!」
「あははっ! そうなんだ! でも、一緒に歌えて楽しかったよ! ありがとね、付き合ってくれて」
その後は自然と美里花が密着して座ってきて、至近距離で会話を交わす。
「わたしさ、歌を唄っている間って、詩を詠んでる時に近い感じがするんだよね。なんていうか、自分を解放してる感じっていうのかな……詩を詠めない絶望の気持ちを、歌う力に変えて、なんとか生き残ってたんだよね、わたしは。ま、それもやっぱ、しょせん身代わりっていうか、時間稼ぎに過ぎないんだけど……」
「美里花……」
俺は何と言っていいのか分からず、ただ、美里花の俺の膝の上に置かれた手に、そっと手のひらを重ねる事しか出来なかった。
「……ありがとね、月也。元気出たよ」
美里花はそういって、また明るく歌いだしたが……
それから、俺たちがカラオケ店を出てしばらくした後――
美里花と別れて家につき、ベッドの上に寝ころんだ所で、一つのメッセージが届く。
「助けて、月也。死にたいよ。死にたい」
前触れもなく届いた突然の内容に――
俺は、美里花という少女の抱える闇を、まだ全然理解できていないのだと、ようやく気付いたのだった――
「……はぁ、はぁっ」
俺は息を切らせて、自転車を全力で漕いで美里花の家に向かった。
――美里花。
――どうして……
――どうして、いつもお前はそうなんだ……
――どうしてそんな風に限界を超えるまで、俺に相談してくれないんだよ……!
――なぁ、美里花……!
美里花の家に着くと、俺はすぐさまインターホンを鳴らす。
「……月也? また来てくれた……嬉しい……入って……」
鍵が遠隔で開けられた音がして、俺はそのまま扉を開けて、家の中に入っていく。
だいぶ慣れてきた、美里花の家の閑散とした廊下を通り抜け、階段を登って2階の美里花の部屋の前に到着する。
「入るぞ……」
恐る恐る部屋の扉を開けると、美里花は制服姿のまま、ベッドの上で携帯端末を顔の上に乗せて寝ころんでいた。
その両目からは涙が垂れた跡があって、俺は美里花がさっきまで泣いていたのだと分かった。
「美里花……大丈夫か……?」
俺は美里花に近づき、ベッドサイドに片膝を立てるようにしてしゃがみ込むと、美里花のベッドから投げ出された左手をそっと手に取り、膝の上で包み込むようにする。
「う……うぅ……うううううううううううっ……!」
途端、美里花が再び泣き出してしまう。携帯端末が顔の上から右側のベッドに落ちて、泣き顔が完全に露わになった。
「美里花……」
俺は、その手のひらをぎゅっと握る事しか出来ず、ただ、美里花が泣き止むのを待った。
「……はぁ……はぁ……月也は、本当に、優しいね。わたしがこんなんでも、聞いたりせずに、待ってくれて。本当に、優しい……はぁ……」
やがて泣き止んだ美里花は、よろよろと上体を起こして、ベッドの後ろの壁にもたれかかるような体勢になった。
「美里花……大丈夫か……?」
「大丈夫じゃ……ない……」
美里花は、本当につらそうな表情で、後ろの壁に体重を預けて、首をだらりと曲げている。
「美里花……もし辛かったら、俺はいつまででもこうしてる。だけど……」
言いながら、俺はぎゅっと、美里花の左手を包み込む手に力を込める。
「……もし良かったら、話してくれないか? 美里花が何を悩んで……何に苦しんでいるのかを、俺に……」
言い終えると、美里花は再度泣き始めてしまった。
「うう……うぅう……うぅううううううううううううううううっ……!」
美里花の泣く声が、夕焼けの差し込む部屋の中に響く。
再び美里花が泣き止むまでには、短くない時間を要した。
「……あのね……もしかしたら、わたしの考えてる事は、すごく、馬鹿らしい事なのかもしれない。月也にとっては、理解不能かもしれない。でもね、わたしは今、月也にそれを聞いてほしいと思ってる……聞いてくれるかな?」
「……ああ」
俺は、こちらを恐る恐る見つめてきている、といった様子の美里花を、安心させるように頷く。
「そのね、わたしさ……月也といるとき以外、まったく楽しくないんだ。本当に、微塵も、楽しくない」
俺は、まずはあまり考えてる事を表情に出さないようにしつつ、美里花の話を聞き続ける事にした。
「……そっか」
「そうなの……わたしさ、月也といる間、最高にテンションが上がっててもさ、別れた瞬間に、もう思っちゃってるんだよね。寂しいな……死にたいなって」
俺は黙って、美里花の話を聞き続ける。
「それでね、ずっとそのままでいると、なんていうか、自分の中に穴が空いてるっていうのかな。その穴から、月也との楽しかった想い出みたいなのがどんどん出ていって、結局何も無くなっちゃうんだ。で、月也と会う前の、詩が書けるようになる前の、何も無かった頃のわたしに戻っちゃうんだ」
「……そっか」
やっとの事で、俺はそんな相槌を打った。
頭の中は、混乱していた。
俺は、美里花が美里花なりに、俺と遊びに行ったりしたことを、楽しいと感じてくれていると思っていた。
そして、家に帰った後も、今日は楽しかったなとか、ドキドキしたなとか、色々な事を思ってくれていると、無邪気に信じていたかもしれない。
だが、実際は違ったのだ。
俺が美里花に与えていた、朧げな光のような楽しさでは、美里花の抱える深すぎる闇を癒すには、まったくもって光量が足りていなかったのだ。
俺はそこまで理解して、はじめてそんな美里花がいったいどんな気持ちで俺と接していたのか、どんな気持ちで俺と別れた後を過ごしていたのかを、想像する事が出来た。
――辛いだろうな。
――辛すぎるだろうな。
俺には、美里花にはそれなりに大切に思われているという、そんな自負のようなものがあった。
そうでなければ、ああやって俺を抱き締めてまで、俺を絶望から救おうとは思わなかっただろう。
だが、美里花はそんな俺と別れた瞬間、俺との思い出まで闇の中に吸い込まれてしまい、虚無の中に囚われてしまうのだ。
――地獄だろうな。
――それは地獄すぎるだろう。
なにせ、自分の大切な人と、まるで感情を共有できていないのだ。
相手は完璧に楽しいと思っていて、その想い出を大切にしているのに、自分は想い出があっという間に風化して、さらさらと風に砂が吹かれるように消えて無くなってしまうのだ。
そして、その辛さに加えて、自分が元いた場所にあった闇の中に囚われ続ける絶望がずっと続くのだ。
「……辛かったな……つら、かったな……!」
俺は、気付けば泣いてしまっていた。
美里花がそこまで追い詰められていたのに気づけなかったという悔しさ。
美里花の気持ちを想像して想像して、その結果起こった深すぎる感情移入からの哀しさ。
それらをまるで理解しないまま、人生の絶頂だと浮かれてした自分への怒り。
そういったあれこれがないまぜになって、ぐちゃぐちゃになって、瞳から溢れ出てしまっていた。
「美里花……ごめん……! 俺は、あんだけお前の事を大事に思っているとか言っておきながら! 全然、お前の事、分かってなかった! お前も俺との時間を楽しんでくれてるのかなとか、馬鹿みたいな事ばっか考えてた! お前がそれどころじゃない、深い、本当に深い絶望の中にいたのに! まったく、微塵も気づけてなかった! 本当に、ごめん……!」
俺は、ボロボロに泣き崩れた顔を美里花の肩に押し付けて、ぎゅっと美里花を抱き締めた。
「ごめん……! 美里花……! ごめん……!」
強く、強く、抱き締めて、なんとか美里花に想いを伝えようとする。
少しでも、絶対零度のように冷え切った美里花の心に、熱を灯そうとする。
「月也……月也ぁ……!」
美里花も、泣いていた。
今まで吐き出せなかった辛さをまとめて吐き出すように、涙を両目から零していた。
「うわぁああああああああああ……! つらいよぉ……! 月也ぁ……!」
その言葉が、つらかったよぉ、ではなく、つらいよぉ、なのに、俺は美里花の底知れない闇を感じた。
そうなのだ。
美里花は、俺にこうやって絶望を共有したからといって、まったくもって、救われたわけではないのだ。
今のは、ただ、美里花の辛さに、俺が共感しただけ。
美里花も、今だけは少しは楽になったかもしれないが、また俺がいなくなれば、元の闇の中へと逆戻りしてしまうだけなのだ。
「うわぁあああああ……! うわぁああ……! うわぁあああああああああああああああっ……!」
美里花は、そのまま俺の胸の中で泣き続ける。
――なんとかしないといけない、と 思った。
美里花をこの深い深い闇から救い出してあげたいと、俺は、心の底から願っていた。
――だが、どうすればいい?
――どうすれば、美里花をこの地獄から救い出せる?
正直言って、分からなかった。
こんなに深い闇を抱えた心を救い出す方法なんて、一介の高校生に過ぎない、ちょっと小説が書けるだけの俺には、まったくもって分からなかった。
だが、救わないといけない。
美里花は、俺を救ってくれた。
普通の人間では到底救う事が出来ない深みから、俺を助け出してくれた。
だったら、どんなに困難な道のりであろうと、俺は美里花を救わないといけないだろう。
しかし、どうすればいい?
どうすれば……
どうすれば救える?
「……ひっくっ……うえぇ……ひっくっ……うええぇええええ……」
俺はずっと泣いたままの美里花を抱き締めながら、考え続けた。
人生でこんなに真剣に物を考えた事はないと間違いなく言えるほど、考え続けた。
――そうして辿り着いたのは……
――原因は、間違いなく美里花の過去にあるという事だった。
――美里花の、俺もまだ知らない過去の中に、間違いなく美里花を苦しめる原因がある。
気付けば俺は、その閃きに突き動かされるように、美里花にこう叫んでいた。
「……美里花っ! 今は泣いていい! いっぱい泣いてくれ! だけど、泣き止んだら、教えてほしい! 俺に、お前の過去を! この前は話してくれなかった、お前の過去を、話してくれないか!?」
必死に、細い身体を強く抱き締めながら、想いを伝えるように、叫んでいく。
「俺はお前を救いたいと思ってる……! お前が今いる、その深い闇から引っ張り出して、お前を幸せに暮らせるようにしてあげたいと思ってる……!」
――頼む、伝わってくれ……!
そんな願いの篭もった抱擁を、行い続ける……!
「俺にお前を救うための、材料をくれないか……! 俺はお前の過去に、お前を救うための鍵があると思ってる! だから……! 俺にお前を救わせてくれないか……!?」
そこまで叫び切ると、あとは美里花から身体を引き、祈るように彼女の左手を包み込むようにする。
美里花は、気付けば泣き止んでいた。
まだボロボロに崩れた顔ではあったが……
その瞳には、確かに微かな光が宿っていた……!
「月也は……わたしを救ってくれるの……?」
その問いに、俺は、力強く頷く。
「ああ……!」
「そっか……分かった」
美里花は苦しそうにしながらも、頷いて見せる。
「わたしは月也を信じる……信じてみる」
それからそう言って、わずかな笑みを浮かべた。
「それじゃあ……長くなるかもだけど、聞いてほしいな……誰にも話したことない、わたしの幼い頃の話を……」
俺は、そのまま静かに美里花の話に聞き入った。
わたしの最初の記憶は、一日中、家でぼおっとテレビを見続けている記憶だ。
たぶん、その頃のわたしは2歳か3歳くらいだと思う。
お父さんは、毎日夜遅くまで仕事をして、それから仕事の人の『せったい』という所に行っているらしい。
お母さんは、あんまりわたしに興味がないらしく、化粧をして、入念に着飾って、どこかへ遊びに行ってしまう事が多かった。
わたしは、いつも一人でテレビを見ていた。
テレビは、いつも違う人、違うアニメ、違うニュースなどをやっていて、飽きる事が無かった。
だが、わたしはそれをまったく面白いとは思っていなかった。
わたしは、無性に何かが足りていないと感じていた。
それは、今から考えると、たぶん寂しさなのだろうと思う。
だけど、幼かったわたしは、それが寂しさであるとも理解できず、ただ、ただ、空しさの中でテレビを見続けていた。
あまりテレビにいい番組がなくなる時間帯は、積み木をして遊んでいた。
積み木は、テレビよりは楽しかった。
だけど、幼いわたしに作れる積み木のバリエーションは限られていて、わたしはいつも、同じようなお城ばかり作っていたように思う。
わたしに、新しい積み木の作り方を教えてくれるような親も友人も、わたしにはいなかったのだ。
あとは、なぜか買い漁ってあった子供むけの教材などをやったりして、時間を潰していた。
教材は、特にワクワクする事も無かったが、時間は良く潰れた。
わたしは、その生活があまりに空しすぎて、頭がおかしくなりそうになっていたように思う。
それで一回だけ、たまたま帰宅していた母親に向かって「遊んで!」と泣きついた事がある。
母親は、わたしをゴミでも見るような目で一瞥すると、わたしの頬を強烈に平手打ちした。
わたしは倒れこむように床に伏せ、呆然とした目で目の前のテーブルの脚を見つめた。
母親は、そんなわたしの腹を足で強く蹴り上げる。
「ぐぇ……! ぎっぐ……!」
突然襲ってきたすさまじい息苦しさに悶えるわたしを一瞥もしないまま、母親は結局何も言わず、鞄を持って、家の外に行ってしまった。
痛かった。
信じられないくらい痛かった。
だがそれ以上に怖かった。
母親の事が、この世のどんな存在よりも怖かった。
――お母さんは、怖い。
その想いが、わたしの魂まで刻み込まれた。
――わたしはお母さんを怒らせないようにしないといけないんだ。
だから、遊んでもらおうとするなんて、もってのほか。
その時のわたしは、あまりの恐怖の強さに泣きじゃくる事すらできず、自分の心の中に何か毒のようなものが強烈に貯まっていくのを感じていたが、何もする事は出来なかった。
「ごめんなざい……! ごめんなざい……! ごめんなざいっ……!」
わたしは、誰もいない家の中で、虚空の中に焼き付いた母親の恐怖に向かって、謝って、謝って、謝り続けた。
逃げ場はどこにもなかった。
そもそもわたしは、家の中から出るという選択肢を、5歳の中頃まで知らなかった。
テレビが与えてくれる情報と、積み木のお城と、子供向け教材のキャラクターだけが、わたしにとって世界の全てだったのだ。
そう、わたしは幼稚園にも通わせてもらえていなかった。
ただ、食料とテレビ、積み木だけを与えられて、わたしは自室で一人、空しい時間つぶしだけをして、生き続けていた。
それが、地獄であるとも思っていなかった。
その生活以外、何も知らないのだから、当たり前だ。
本当に、それだけが、長らくわたしの全てだったのだ。
多感で、瑞々しくあるべき、貴重な幼年時代の、全て――
転機は、5歳になってしばらくした頃にやってきた。
わたしはその頃、溢れんばかりの退屈を紛らわせるため、父親の書斎を探検するという新しい遊びを覚えていた。
そこで、わたしは一冊の詩集に出会う。
『妖精詩集』という、名も知られていない作家の詩集だった。
最初は、表紙に描かれた妖精さんが、可愛いな、って、そんな子供らしい無邪気な思いから何気なく手に取った。
わたしはテレビの字幕などから文字は覚えていたので、ところどころ分からない漢字などがありながらも、振り仮名などから意味を理解して、それを読み進める事が出来た。
――なんだ、これは……!
わたしは、人生を塗り替えられたような深い、深い衝撃を受けていた。
最初の時点から、見た事もない、美しいお話だと思っていた。
それまでろくに絵本を読んでもらう事もなく、ただテレビの教育番組程度の娯楽しか摂取していなかったわたしにとって、その詩集は、神様が書いたんじゃないかと思えるほどの、途方もない美しさと希望、夢が詰まっていると感じられるものだった。
詩集には、妖精の子供が、妖精郷で楽しく友達と遊ぶ幼い頃の瑞々しい描写から始まり、少年になった妖精が人間界に出て、冒険を重ねて、数々の美しいもの、素晴らしいものと出会っていく様が描かれていた。
わたしは、読み進めるたびに、興奮して、目を見開き、頬を紅潮させ、叫ぶように特に気に入った文章を音読していた。
妖精詩集は、それまでのわたしの人生のすべてを遥かに上回る、豊かさ、神秘、高揚、感動、そういったものをたくさんたくさん運んでくれた。
わたしは、妖精詩集が大好きになっていた。
何回読んでも、何十回読んでも、飽きる事は無かった。
毎日毎日、ひたすら詩集を読み続ける。
読むたびに、感情が根底から揺さぶられるような、深い感動があった。
そうして、百回は読み終わった頃だろう。
わたしは、繰り返し音読した結果、既に妖精詩集の内容を暗記して、諳んじられるようになっていた。
その頃わたしは、自分も妖精さんのようになりたい、と強く思っていた。
妖精さんのように、お外の世界に出て、冒険をして、美しいもの、素晴らしいものと、出会うのだ。
そんな人生で初めての希望と夢を持ったわたしは――
ずいぶん久々に、母親に自分から話しかけた。
「お外に出てもいいですか?」
母親を恐れ、丁寧語で話しかけた5歳のわたしに、母親は、
「勝手にすれば」
とだけ冷たく言った。
わたしは、母親の冷たい感情にショックを受けたが、外に行ってもいいという事には胸をときめかせた。
母親から鍵を預かったわたしは、家の扉に鍵をかけて、ワンピースのポケットに鍵を入れて、冒険の旅に繰り出した。
わたしの家を出て少し歩いた所には、桜海公園という桜海市を代表する大きな公園がある。
わたしは、その公園に吸い寄せられるように足を踏み入れた。
――途端、緑の奔流が、わたしを飲み込んだ。
公園は、それまでに見た事もないほど、緑で満ちていた
。
「……しゅごい! しゅごい!」
わたしは舌ったらずな口調で、ひたすら「すごい!」と感動を口にしていたはずだ。
「……しゅごい! しゅごいよぉおおおお! あはは! あははははっ!」
その瑞々しい緑が持つ、圧倒的な情報量に、文字通りわたしは呑み込まれていた。
木々の枝が広がる様が美しかった。
葉っぱが風に揺れるざわめきが美しかった。
鳥たちの鳴く声の繰り返されるリズムが美しかった。
池に浮かんだ蓮の花の細やかな躍動が美しかった。
カタツムリが道を外れた所にある花の葉っぱを這っている様は、感動的ですらあった。
わたしはそういったあれこれ全てに感動しながら、公園を歩き回り、駆け回り、叫び回った。
公園の道から外れて、自由に冒険し、生えている草木をじかに触っては、「しゅごい!」と感動した。
そして、気付けば、わたしは詩を詠んでいた。
それは私の初めての詩だ。
内容自体はもう、よく覚えていない。
だが、幼い感性をまっすぐに文章にしたその詩は、途方もなく綺麗な、宝物のような詩だったと、わたしは今でも思っている。
さらにわたしはその詩を、自分がテレビで聞いた子供むけの曲に乗せて、歌いながら公園を行進した。
その歌は、わたしだけの宝石箱だった。
わたしはその歌を唄っている間、初めて、自分が人生を生きていると、感じる事が出来た。
道行くお爺さんが、そんなわたしの歌を聞いて、話しかけてきた。
「お嬢ちゃん、ずいぶん洒落た言葉を使ってるねぇ。どこで覚えた歌なんだい?」
「わたしがきゃんがえた!」
「ほう! すごいねぇ! お嬢ちゃんは、きっと天才なんだねぇ!」
「わたし、てんさい? すごいの?」
「ああ、すごいとも。お父さんとお母さんも、きっと褒めてるだろうねぇ」
「……おとうさんとは、ほとんどはなしたことない。おかあさんは、わたしのこと、きらい」
わたしは途端、しゅんとして、寂し気にそんな話をお爺さんにする。
「そうか……今時そういう家庭も珍しくないのかねぇ。こんな良い娘が、勿体ない……寂しいねぇ」
お爺さんは私の事を悲しんでくれたようだったが、わたしにはその悲しさが伝わってはいなかった。
「さみしくないよ! ようせいさんが、わたしにはいるから!」
わたしの心の中には、既に妖精詩集の妖精さんが、生き生きとイメージされ続けていた。
わたしは、その妖精さんと、会話する事さえ出来た。
「そうかのう……ま、わしはよくこの公園を散歩しとる。寂しくなったら、話しかけてくれてええ」
「わかった! ありがとう!」
そうして、わたしはしばらくの間、このお爺さんとの交流を楽しんだ。
お爺さんは、わたしの詩や歌を聞いては、「やっぱり天才じゃのう!」と驚いてくれた。
わたしは嬉しくなって、無数の詩や歌を作って、お爺さんに披露した。
でも、家に帰ると、相変わらずお父さんはいなくて、お母さんは氷のように冷たかった。
わたしは、それがなんだかとっても辛いと感じたけれど、自分ではどうする事も出来なかった。
本当は、お母さんに詩を歌いたかった。
でも、それをすれば、また蹴られる事は目に見えていた。
わたしは、お母さんが怖かった。
その事を考えるだけで、心がバラバラになりそうだった。
わたしはそこから逃避して、妖精詩集を読み耽る。
妖精さんはいつも元気。
今日も妖精郷で、友達と楽しく遊んでいる。
そんな妖精さんのイメージを心の中で構築する事で――
わたしの心は、危ういバランスを保っていた。
*****
「とまあ、わたしの幼い頃は、こんな感じ」
俺は、静かに美里花の話を聞き続けていた。
色々、思う所はあった。たくさんあった。
だが、いざとなると、何を言っていいのかも、良く分からなくなっていた。
「この後の小学校編とか、中学校編とかもあるんだけどね。まあそれは、大体月也に見せたあの詩とかの通りだよ。わたしは小学校に馴染めなくて、算数の授業中に詩を歌っちゃって、先生と周囲にめっちゃ嫌われて問題になって、転校する事になって……今度は小学校デビューして友達を作ったけど、周囲に合わせてるだけで、中身はまったくなくて、詩も書けなくなってて……中学に上がったら、なんかめっちゃモテだしたせいで、上級生の女子に恨まれて、いじめられて……自殺しようかなって思って屋上の柵を越えたら、なんか空がすごい綺麗で、感性が回復した気がして……それから、死と隣り合わせの所にいる間は、なんだか生きている心地がするようになっちゃった。んで、月也が小説で賞を取ったって噂になって、それをきっかけに詩を書いてみたら、一つ書けて……そんな月也が柵を越えてるの見かけた時はさ、仲間なのかなって、そう思っちゃってたかも」
美里花の、そんな長い自分語りを、俺は痛いほど共感しながら、真剣に聞き続ける。
「……ねぇ、月也……月也は、こんなわたしを、救えるかな? 本当に、こんな虚無だらけのわたしを、救えるのかな?」
「……大丈夫だ。必ず救って見せる」
「本当? 嬉しいな。本当に、嬉しい」
俺は、美里花を元気づけるため、まずは自信をもっている所を見せる事にした。
実際の所、100パーセント救える保証があるわけではない。
だが、俺の中には、すでにある程度の仮説は揃っていた。
あとはそれを実行に移す力が、俺にあるのかという問題だ――
「なんか、月也と話したら、ちょっと元気出てきたかもしれない。そろそろ親が帰ってくるかもしれないから、月也、帰った方がいいかも」
「……本当に、大丈夫か?」
「……うん」
美里花も、俺を安心させるためなのか、自信を持っているかのように振舞った。
俺は逆に不安を感じたものの、今は状況的に、確かに一回帰った方がいいだろう。
「……それじゃあな、美里花」
「……うん」
短く別れを告げて、俺は美里花の家を後にした。
家に帰り、自室でこたつに座った俺は、勉強で用いているルーズリーフを取り出し、そこに手書きでとある言葉を綴りだした。
こればっかりは、手書きでないとダメなのだ。
これは、美里花の心臓に、ハートに届けるための言葉なのだから。
書こうとしているのは、俺の、俺による、美里花のための、オリジナルの詩だ。
詩について調べたときに知ったのだが、心理療法の一種に、詩歌療法というものがあるらしい。
俺は、これを美里花に対して、自分なりに行おうとしていた。
詩の力で、人を癒す。
言うのは簡単だが、実行するのは極めて難しいだろう。
だがやらなければいけない。
俺は、そのために美里花の過去を聞いた。
これまでの会話や出来事、詩の内容からも、あいつの内面を推し量れる部分は多々あった。
であるならば、出来るはずだ。
これは、俺にしか出来ない事だ。
美里花の内面をここまで深く理解してる奴なんて、俺以外にいないのだから。
そして、これは詩という形態でなければならない。
詩を愛し、詩に愛された美里花を救う方法は、やはり詩であるべきだし、それが美里花の心に一番深く響かせる方法だと思うからだ。
俺は、一人で黙々と、ルーズリーフに詩の断片を記述していく。
その作業は、美里花の教えを守り、無心で、対象への愛をもって行われた。
対象とは、この場合、美里花そのものだ。
俺は、美里花の事を深く、深く、これ以上ないほど深く愛する気持ちをもって、詩を書いた。
この気持ちが、伝わってくれるといいな。
美里花のハートに、伝わってくれるといいな。
そんな念のようなものを込めながら、無心で、神様が自分の身体に宿ったかのように、文章を筆記し続ける。
それは一種の自動筆記のようなものだった。
俺自身が、神の器になっているかのようだった。
俺は、ただ、ただ書き続ける。
美里花を救えると信じて、書き続ける。
そうして書き続けた先――
――いける……!
――だが、まだだ……!
俺はまだ詩を高められると思った。
今書いたものをいったん忘れて、別のルーズリーフを取り出す。
そうして、今書いたものを更にブラッシュアップしたものを、燃え盛るハートをぶつけるように、勢い良く書き連ねていく。
そうしていると、感情がどんどん美里花に移入していって、俺はふと美里花の全てを理解しているような心地になった。
その瞬間、電撃のように直観する。
――ああ、これでいいのだ。
美里花を救うための最高の詩は、これだ。
それは極限状況の中、洞察に洞察を重ねて得た結論。
美里花への深い愛が、深すぎるくらいに深い愛が、導き出した結論。
ゆえに間違いはない。
俺はその結論を、今、信じられた。
ついに、最後まで詩の執筆を終えて、筆をおく。
最後の一文まで魂の通った、俺にできる最高の出来に仕上がった。
――あとは。
問題は美里花の精神と、渡すタイミングだ。
明日、美里花に会った時に、どこかでこの詩を渡そうと思っていた。
だがいつがいい?
そう思っていた、その時だった。
「月也へ。やっぱり無理そうです。あれだけ話して無理なら、本当に死ぬしかないと思いました。明日、放課後17時に、屋上から飛び降ります。月也には、死ぬ事を教えると約束していたので、教えました」
丁寧に語られたその文章に、衝撃は不思議と受けなかった。
俺はすでに、心を決めていた。
「美里花へ。俺はお前を救う事を、まったく諦めてない。今でも救えると信じている。そんな俺を少しでも信じてくれるなら、お前に渡したいものがある。17時に屋上で会おう」
美里花に、そうメッセージを送って、俺は静かにベッドに大の字になった。
やれる事は、やった。
あとは明日を待つのみ――
辛い。
辛い辛い辛い。
何をしていても辛い。
何もしていなくても辛い。
何をしていても、何もしていなくても、お腹の辺りに空いた暗い穴のようなものが、わたしから、生きる力を、生命の力のようなものを、無慈悲に全て奪っていく。
月也と話していたあたりまでは、もしかしたら、と確かに希望を持った瞬間もあった。
だが、月也がいなくなると、やっぱりもうダメだ。
わたしは死ぬしかないんだ。
わたしに幸せになるなんて、無理なんだ。
そう思うしかなかった。
わたしは真っ暗な部屋の中で、少しでもこの辛さから逃れようと、スマートフォンの明かりを頼りに、ベッドサイドの哲学書を取り出して読み始める。
だが、内容は全く心に響かず、上っ面の理論ばかりで、わたしの心を救ってくれるものではなかったと感じた。
――救いって、どこにあるのかな……? わたし、どれだけ本を読んでも、結局それがさっぱり分からなかったよ。月也……
どうしてこうなったんだろう。
わたしは、何が悪かったんだろう。
詩を詠まなくなっちゃったのが悪いのかな。
良く分からない芸能人とか洋服の知識をつけている時間を、詩を勉強する時間に費やしていれば、何かが変わったのだろうか。
それか、中学校あたりで、誰か男の子と付き合ってみればよかったのだろうか。
そうすれば、男の子が、どうにかしてわたしを救ってくれたり――
――それが、ありえない事だと気付くのに、時間はかからなかった。
月也しかいないのだ。
月也くらいしか、わたしの内面に興味を持って、深くまで探って、それを癒そうとしてくれるような人はいないのだ。
月也くらいしか、わたしを救おうと、あんなに必死になってくれる人はいないのだ。
――月也……
月也の事を考えると、100パーセント真っ暗な世界に、1パーセントだけ、僅かに光を感じた。
真っ暗な部屋にスマートフォンの光だけが輝く、今のこの部屋みたいだと思った。
だが月也の光は、スマートフォンの光とは違い、無機質ではなく、生きていて、暖かい。
わたしはその暖かさにすがるように、虚空に手を伸ばす。
――月也……
――月也ぁ……
――月也ぁあああ……!
わたしは泣きながら、心の中で月也を呼び続けた。
それだけが、わたしの心の中に、1パーセントの光を灯し続ける方法だった。
そうしている間だけは、わたしはまだ、生きる事を諦めないでいられる。
――でも月也……
――わたしは、もう持たないよ……
――助けて……
真っ暗な世界の中で、わたしは、月也の幻に縋り続けるしかなかった。
*****
その日の授業の事は、何も覚えていない。
俺はただ、美里花に何と言って、どのように詩を渡すか、それだけを考え続けた。
美里花は、間違いなく今も、虚無の闇の中に囚われたままだろう。
俺はそこから、美里花を本当に救わないといけない。
出来るのか、不安に思いたくなる理性を必死に抹消する。
今、俺は理性ではなく勇気を持つべきだと思った。
不安を越えて、ただやるべき事をやりきる、そんな勇気を。
放課後になった後も、17時まではやや時間がある。
俺はそれまで、教室で自分が書いた詩を読み返しながら過ごした。
そしていよいよ、美里花の待つ屋上に向かう事にする。
ここに至っては、もはや何も考えは浮かんでこなかった。
ただ、無心で階段を登り、無心で窓を越える。
美里花は、屋上の柵の向こうで、静かに空を眺めているようだった。
俺は静かに歩いていき、黙って自分も柵を越える。
死の気配が足元から吹きつけてきて、背筋が冷えるのを感じる。
美里花は、俺が来たのを察知しても、ただ、空を眺め続けていた。
一面の青が少しだけオレンジ色に染まりだす、どこか幻想的で、魅入られるような空だった。
そんな空を一瞥したのち、俺は美里花の方を向いて立つと、美里花にこう切り出した。
「美里花。俺は、今日、お前を救いに来た」
「……月也。来てくれてありがとう。でも、正直言って、わたしはもう無理だと思ってる」
美里花は、こちらを向くと、ふっと弱々しく笑った。
「無理なんだよ……月也と会ってる間はどんなに幸せでも、月也がいなくなった瞬間、わたしには何も無くなっちゃう。何にもない世界で、ただ暗い所に沈んでいく……そんな人生が続くなら、最後に月也と会えた幸せのまま、わたしは死にたい。死にたいんだよ、月也……」
俺は、美里花にそっと近づくと、静かに美里花の右手を両手で握る。
「美里花……俺はそれでも……それでも諦めたくないんだ……もし、お前がわずかでも……わずかでも俺と一緒にこれからも生きていきたいと思うのなら……これを受け取ってほしい」
俺は、数枚のルーズリーフに記した、美里花のための、美里花のためだけの詩を、渡す。
*****
「これは……詩……? 月也が、書いたの……?」
わたしは驚いた。
月也が、わたしのために、まさか詩を書くなんて。
月也は詩なんてろくに書いた事も無いはずだ。
そんな月也が、わたしのためだけに、詩を書いてくれたのだ。
「……そうだ。俺が、書いた。お前のために、書いたんだよ。美里花……」
わたしは思わず、それを抱き締めるように胸元で抱いて、慈しむようにする。
「……嬉しい。嬉しいな。本当に嬉しい」
「良かったら、死ぬ前に、読んでみてほしい。俺がお前を救うために、出来る事はしたと思ってる」
――そうなのか。
――月也は、この詩で、わたしを救うつもりなのか。
そう思うと、胸元に抱いたルーズリーフが、不思議な力を帯びているように感じた。
その重みが、月也がわたしに対して抱いている想いの重量として、感じられる気がした。
それは月也の、愛の重みといっていいだろう。
わたしはそんな愛の魔法を、これから披露されるのかもしれない。
「……読んでみるよ、月也。ありがとう」
「……お礼を言うのは、読んでからでいい」
月也は、月也なりに、この詩に対して自信を持っているらしい。
だが、それ以上にわたしは、月也は必死なのだな、と感じた。
月也は文字通り、この詩に、わたしの命を、わたしの人生を賭けている。そう感じた。
わたしは、その想いの強さを疑うわけではないが、本当に詩の一篇だけで、わたしの心を救えるのかと疑問を持った。
わたしがあれだけ苦しんで、あれだけ考えても、全然対処法が分からなかった、この虚無感。
全てを吸い込むブラックホールのような虚無感を、本当に月也は退治できると思っているのだろうか?
わたしは正直に言えば半信半疑、それほど期待していない状態で、いよいよ詩を読み始める事にした。
*****
「天使の歌」
その天使は、あなたが可愛い赤ちゃんとしてこの世に生まれた瞬間から、あなたを見守っていました
いま、あなたは、おぎゃあ、おぎゃあと元気に泣きだします
それはあなたが、確かに生きてこの世に生まれたという、尊い証でした
天使は喜びました
あなたが元気にこの世に生まれた事を、心から喜びました
天使はあなたを祝福する天使の歌を唄いました
その歌は、誰にも聞こえない所で唄われましたが
天使は、あなたの事を愛している、と想いを込めて、独りで歌を唄いきりました
今日も、天使はあなたの事が大好きです
それから、あなたはすくすくと育ちます
ですが、お父さんも、お母さんも、あなたをあまり愛していないようでした
あなたは毎日一人でテレビを見ては、空しさを感じます
毎日一人で積み木のお城を作っては、空しさを感じます
あなたの心の中は、空っぽでした
ぽっかりと小さな暗い穴が空いていて、そこに他の感情を吸い取られているかのようでした
この年頃の子供としてはとんでもなく空しい日々を、独りっきりで過ごしていたのです
ですが、あなた自身は、自分が不幸であるという事すら、分かっていませんでした
天使はそんなあなたを見て、あなたを救おうとします
天使はあなたの心の中には、本来、途方もない寂しさがあるべきだと、気付いていました
あなたは、お父さんやお母さんに、遊んでほしいと、泣きじゃくってしかるべきでした
天使は考えます
どうすればあなたが救われるのか、必死に考えます
天使は、そっとあなたを手助けして、あなたに「遊んで」とお願いする勇気を与える事にしました
ですが、あなたに激怒したお母さんは、あなたを平手打ちし、さらに足で腹を蹴り上げます
あなたの心は、痛みと、苦しみと、恐怖でいっぱいになりました
あなたは謝りました
何が悪いのかもわかっていないのに、何度も何度も謝りました
とんでもなく辛い体験でした
あなたの心に、大きな傷ができました
天使は悲しみました
あなたのためを思って手助けしたのに、報われなかったあなたを悲しみました
天使はあなたを慰める天使の歌を唄いました
その歌は、誰にも聞こえない所で唄われましたが
天使は、あなたの事を愛している、と想いを込めて、独りで歌を唄いきりました
今日も、天使はあなたの事が大好きです
それから、あなたは妖精の詩集と出会います
お父さんの本棚の片隅に眠っていたその本は、あなたに、特大の興奮と喜び、幸福感をもたらしました
あなたは何度も何度も詩を音読し、妖精たちの冒険のすべてを覚えてしまいます
冒険への渇望は抑えきれなくなり、勇気を出してお母さんに外に出る許可をもらいます
お外の世界では、瑞々しい緑の公園が、あなたを待っていました
あなたは木々のささやきを詩に詠み
木の葉に這うかたつむりを詩に詠み
池に咲く蓮の花を詩に詠みました
天使はそんなあなたを見て、あなたを喜ばせようとします
天使にとってもその詩は、誰かに認められてしかるべき、とっても素晴らしい詩でした
天使は考えます
あなたに、生きる喜びを知ってほしいと、必死に考えます
天使は、そっとあなたを手助けして、あなたに詩を歌として歌わせました
歌を聞いた優しいお爺さんが話しかけてくれた事で、あなたに初めての友達ができました
あなたの心は喜びでいっぱいになりました
あなたは幸せでした
何が幸せなのかもわかっていないのに、とっても幸せでした
とんでもなく幸せな日々でした
あなたの心に、大きな想い出が出来ました
天使は喜びました
あなたのためを思って手助けした結果、その詩と歌を認められたあなたを喜びました
天使はあなたを歓喜する天使の歌を唄いました
その歌は、誰にも聞こえない所で唄われましたが
天使は、あなたの事を愛している、と想いを込めて、独りで歌を唄いきりました
今日も、天使はあなたの事が大好きです
それから、あなたは小学校に入ります
小学校の授業は、暗く、陰気で、とってもつまらない物でした
ろくに友達もできないまま、退屈な授業を受け続けて、1年といくらかが経ちました
あなたはある日、湧き上がる衝動のまま、ついに授業中にあなたの歌を唄います
それはとっても解放感があるできごとで、その歌は天使の歌そのものでしたが
先生はあなたを悪魔の子とささやきだし、周囲の子もあなたをいじめました
あなたは結局転校する事になります
天使はそんなあなたを見て、あなたを救おうとします
天使はあなたの周囲には、素敵な友達がいてしかるべきだと、気付いていました
あなたは、友達になってほしいと、周囲の子供たちにお願いしてしかるべきでした
天使は考えます
どうすればあなたに友達が出来るのか、必死に考えます
天使は、そっとあなたを手助けして、あなたに周囲と話が合うような情報を与えました
ですが、友達の出来たあなたは、興味のない情報を使って空虚な会話をするばかり
あなたの心は、次第に虚無でいっぱいになりました
あなたは空しくなりました
何が空しいのかもわかっていないのに、何度も何度も空しくなりました
とんでもなく空しい体験でした
あなたの心から、詩を詠む心が失われました
天使は悲しみました
あなたのためを思って手助けした結果、あなたが詩を詠めなくなった事を、悲しみました
天使は、あなたを救済する天使の歌を唄いました
その歌は、誰にも聞こえない所で唄われましたが
天使は、あなたの事を愛している、と想いを込めて、独りで歌を唄いきりました
今日も、天使はあなたの事が大好きです
それから、あなたは中学校に入ります
中学校では、あなたは大変異性に人気がありました
その結果、同性の先輩に憎まれたあなたは、またしてもいじめられてしまいます
自殺すら考えたあなたは、屋上の柵を越えた先で、その空の美しさに惹かれます
それから、屋上の柵の先は、あなたの居場所になりました
高校に入ってからも、屋上の柵の先は、変わらずあなたの居場所でした
天使はそんなあなたを見て、あなたを救おうとします
天使はあなたには、あなたを救ってくれる、あなただけの王子様がいるべきだと思っていました
天使は考えます
天使は、あなたを救う王子様と恋をしてほしいと、必死に考えます
天使は、そっとあなたを手助けして、あなたの屋上に、一人の男の子を招待しました
男の子を仲間だと思ったあなたは、男の子と仲良くなり、あなたに初めての大切な人ができました
あなたの心は、幸せでいっぱいになりました
ですが、男の子がいなくなると、あなたは虚無の中に戻ります
あなたは闇の中にいました
何が闇なのかもわかっていないのに、何度も何度も闇の中に引きずり込まれました
とんでもなく不幸な体験でした
あなたの心から、大切な人との想い出が失われました
天使は悲しみました
あなたのために手助けした結果、あなたが自分の中にある途方もない闇に気づいた事を、悲しみました
ですが天使は、今度ばかりは、歌を唄いません
もう、あなたを救うのは、天使ではなく、あなただけの王子様だと見定めているからです
そう、あなたの大切な人は、あなただけの王子様になるのです
天使はただ、あなたに教えます
あなたのその闇は、あなたが、ただ無償の愛を欲しているがゆえであると
あなたは両親から、無償で、何もない所から生まれる愛を、貰わないといけなかったのだと
ですが、あなたはその無償の愛があってしかるべき日々を
ただただテレビと積み木の間を往復して過ごし
遊びたいという心からの叫びにも、あまりに酷い暴力が返ってきて
結果として、心の中に、深い、深い虚無を育ててしまいました
じゃあ、どうすればいいの?
あなたのその疑問は、もっともです
ですが、あなたがどうすればいいかは、今、あなたの目の前にいる、大切な人が教えてくれます
あなたの大切な人は、あなたを愛しています
深く、深く、愛しています
あなたは、すでに愛されているのです
大切な人は、あなたのために、この天使の詩を、必死に、必死に書きました
この詩が、あなたの大切な人の、愛の証明です
あなたを救いたいと心から思っている事の、証明です
あなたはただ、王子様に聞けばいいのです
幼い子供が親に質問するように、純粋な心で質問してください
どうすればいいの? と
王子様は、すでに答えを知っています
あなたはそれを、ひよこが親鳥を信じるように、無邪気に受け止めればいいのです
あなたが救われる時は、もうすぐそこまで来ているのです
あなたが救われた時、天使は最後の歌を唄います
その歌は、誰にも聞こえない所で唄われますが
天使は、あなたの事を愛している、と想いを込めて、独りで歌を唄いきります
今日も、天使はあなたの事が大好きです
*****
その長い、とても長い詩を読んでいて、わたしはなぜだか分からないが、両目から涙が溢れてくるのが止まらなかった。
この詩に描かれた自分を見守る天使のイメージが、自分の深い、とても深い所に響いてくるのを感じていた。
わたしにも、こんな素敵な天使が、確かに見守ってくれていたのかなと思うと、無性に救われた気がした。
この詩を、月也が自分だけのために書いてくれたのが嬉しかった。
月也が、これほどまで深く、自分の事を理解してくれている事に、感謝していた。
そうした思いの数々が、複雑に混ざりあって、わたしの心の中を煌びやかな色彩で満たしていた。
「……どうすれば……どうすれば、いいの……? 月也ぁ……」
気づけば、わたしは泣きながら月也にそう質問していた。
それは、月也の詩を読み終わった感動と衝動のまま、その想いをぶつけるように――
そして――
月也はわたしに近づいてきて――
「ずっと、いつまでも、何が起きても、愛してる」
そう言って、わたしの唇を奪った。
「……っ!」
わたしの目が、見開かれる――
――人生でこれ以上驚いた事はないというくらい、驚いた。
――だが、驚いている以上に、嬉しかった。
月也の気持ちが、月也の行動が、どうしようもないくらい、わたしの中の暗い穴を、ぴったりと埋めてくれていた。
わたしは両目から涙を流しながら、月也の優しいキスを、受け止めた。
そこには、性的なものは一切感じなかった。
それは純粋なる愛のみから行われていると、はっきり理解できた。
その愛は、月也の言葉から、態度から、行動から、詩から、月也の全てから、伝わってきた。
嬉しかった。
わたしは、本当に嬉しかった。
月也と出会えて。
月也と仲良くなれて。
月也が救おうとしてくれて。
月也がわたしを知ってくれて。
――ついに、月也が救ってくれた。
その事が、わたしは、本当に、本当に、嬉しくて、たまらなかった。
そうなのだ。
王子様のキスが、お姫様を救うのは、物語の常だが。
まさに今、わたしを救ってくれたのは、やっぱり王子様のキスだった。
わたしはその美しい物語へも、大変に興奮していた。
月也のシナリオは、凄いなと思った。
こんな凄いシナリオを描ける月也なら――
きっといつか、とんでもなく凄い小説を書くだろうなと、無邪気に信じられた。
ただ、今は――
これ以上何も考えず、月也とのキスを味わいたいと思った。
唇を合わせれば合わせるほど、悪い呪いが解けるように、わたしの心の暗い穴が小さくなっていき――
唇を合わせるほど、わたしの中に、熱い血潮のような恋心が育っていくのを感じた――
そう――
気付けばわたしは、月也の事が、これまでとは比べ物にならないくらい好きになっていた。
――胸が、熱い。
心臓から、ドクンドクンと、熱い鼓動とともに、恋心が全身に送られていくような感覚――
その恋心が、わたしの胸を火のような興奮で満たし、お腹の中を熱湯のような幸福感で満たし、手足を電流のような痺れで満たし、脳を月也が好きだという純粋な愛で満たしていく――
これが、恋――
本物の、恋――
――すごい、と思った。
――人は、人を、ここまで好きになれるんだ……!
恋とは、人智を超えているものなのだと感じた。
愛とは、宇宙に繋がっているものなのだと感じた。
もう何を言っているのかも良く分からなくなってきたが――
とにもかくにも、こうしてわたしは、わたしを救ってくれた王子様と、恋に落ちたのだった。
*****
どれくらい時が経っただろう。
永遠にも思える奇跡を終え――
やっとの事で、どちらからともなく、唇が離れる。
「あ……」
美里花が、どこか寂しそうな表情で、そんな声を上げるのが分かった。
美里花は俺の唇を、何か大切な宝物が自分から離れていくかのような顔で、じっと見つめ続けた。
その反応に、俺はやりたかった事がきちんと出来たんだと、ようやく理解する事が出来た。
この作戦の鍵を握るのは、結局の所頭脳や理性なんてものではない。
ハートなのだ。
美里花の心臓が、俺に恋をして、俺を欠落した両親の愛情の代わりを埋めて余りあるような存在と出来るか。そういう勝負だったのだ。
「美里花……俺はお前を、救えたかな……?」
「うん! うんっ! うんっ……! 月也、好きっ! 大好きっ……!」
俺はどうやら、賭けに勝ったようだった。
美里花は確かに、俺に恋をしてくれているようだった。
その事自体、同じく彼女に恋をしている男としては、純粋に嬉しくもあった。
だが、これで間違いなく、美里花は彼女の暗い虚無を、埋められただろう。
その事は、美里花の様子の明らかな変化を見るだけで、確かに感じられた。
「美里花……お前はもう、決して与えられない愛を求め続けるだけの幼子じゃない。俺はお前に、お前が求めるよりさらにずっとたくさんの愛を与えてやる! だから、美里花……本当に、お前はもう、大丈夫だ。思う存分、俺に甘えてくれ……」
「うんっ! うんっ……! 大好きっ! 月也、大好きっ……!」
美里花は俺に抱き着いて、俺の胸に頬ずりをしてくる。
こんな危険な場所で、なんて大胆な、と少し冷静になっていた俺は今更肝が冷えるが……
それもまあ本当に、今更の話だ。
「美里花……向こう側に戻るぞ。こっち側にいるのは、これで最後だ」
「……うん」
俺は美里花と一緒に、屋上の柵を超えて、安全地帯へと戻る。
そうしてみると、一気に日常に戻ったなという感じがして――
俺は美里花と、安心したように笑い合い――
「……美里花、俺と、付き合ってほしい」
「……うん!」
そんな告白も、美里花を救うという大事業から比べれば、なんだかちょっとしたおまけのような扱いで、そのままオーケーされたのだった。
*****
それから、数日が過ぎ――
美里花は、日常を過ごしていても、虚無以外の感情をしっかりと感じられるようになったらしい。
――そう。俺は確かに、美里花を救えたのだ。
「月也! すごいよ! わたし、授業を受けててもなんかちょっと面白いと感じるくらい、今、なんでも面白いよ!」
美里花は本当に嬉しそうに、その事を俺に報告してくれた。
また、それから俺は美里花と毎日のように手を繋いで登校しているが――
美里花の俺への入れ込みようが、尋常ではなくなっている事に、俺は気づかざるを得なかった。
「月也、今わたしから視線を逸らしてあっちの女の子を一瞬見た。なんで? どうして? わたし、可愛いよね? ちゃんと可愛いよね? 月也のために、なんだってしてあげてるよね? なんで? どうして?」
美里花は、俺が他の女子に視線を向けたりするだけで、異様に反応するようになってしまった。
教室で前の席の女子と話している時に美里花が来た時なんかは本当にヤバかった。
美里花は一言、こういった。
「月也と話したら、殺すよ?」
俺はそんな美里花を宥めるのに、大変苦労する羽目になった。
そんな美里花の豹変に困らされつつも、俺はそれでも幸せだった。
なにせ美里花と――
あれだけ好きだった美里花と、俺は正式に付き合える事になったのだ。
今では、一日に五回はキスをしている気がする。
それくらい、美里花の方から、キスを求めてくるのだ。
美里花はキスをすると、自分の中の暗いものが全て溶けてなくなって、明るいエネルギーに変わっていくような快感を感じるらしい。
俺はまだ、美里花の中には暗い思いが消えてなくなったわけではないのだなと感じ――
それが全て無くなるまで、いくらでもキスをしてあげようと、思っている。
そして、話は俺の小説に移る。
俺は学校を終えた後、編集の人と会いに行き、土下座をして、1か月だけ待ってほしいと頼んだ。
それは、なんとしてでも1か月で1冊書き上げて見せるという決意の表明だったが……
編集は、俺が苦悩していた事は分かっていたようで、俺の様子を見て、
「その様子なら、もう大丈夫そうですね。締め切りは、それほど気にしなくていいですよ。もともと、単なる高校生には過分な要求ですし、こちらも余裕を見てスケジュールを組んでますので」
と言ってくれた。
「先生の次回作、今書いてある分を読みましたが、本当に同じ人が書いたのかってくらい、見違えた文章になっていますね。若者の成長は恐ろしいなと、素直に思いましたよ。先生に期待して、賞を与えた甲斐があるというものです。頑張ってください」
なんて、暖かい言葉もかけてくれた。
俺は涙が出そうになるのを抑えながら、
「……ありがとうございます!」
とお礼を言ったのだった。
俺が辟易としたのは、その後美里花の家に遊びに行った時の事だ。
俺の編集は女性なので、その香水の香りが服からしたらしく、美里花にそれを大変咎められた。
「月也はわたしの事、嫌いになっちゃったの!? 月也、月也! 月也がいないと、わたし、ダメなのに! 月也ぁ! お願いだから見捨てないで! なんでもするから、見捨てないで!」
美里花がこんな風にダメダメになるのも、既に見慣れた光景だ。
俺は美里花がこうなるたびに、美里花を抱き寄せて、キスをする事にしている。
「……美里花……そんなわけないって、分かったか?」
「……うん」
美里花は俺とのキスという行為を非常に特別視しているようで、これをするだけで素直に頷いてくれる。
正直、めちゃくちゃ可愛い。
そもそも美里花は、何度でも言うが、めちゃくちゃ可愛い。
そんな子が俺を求めてダメダメになって、キスをするだけで素直になってくれるのは、もうこれより可愛い生命体は地球に存在しないんじゃないかと思ってしまうレベルだ。
美里花は、あれから部屋にあった心理や哲学の本を全て捨てた。
そうした物に求めていた救いは、すべて俺が満たしてくれたから、らしい。
――可愛いじゃないか。
――めちゃくちゃ、可愛いじゃないか。
そんな事を考えながら、今、俺は、もう一度美里花にキスをする。
彼女を、ずっと、いつまでも、何が起きても愛し続けると、誓った身として――