――いっそ死んでしまうのも手かもしれない。
そんな思いがふっと湧いてくる程度には、俺、東雲月也は追い詰められていた。
放課後の屋上で、何か良くないものにでも魅入られたかのように、そっと眼下の裏庭までの落下を防ぐ柵を乗り越えてしまう。
この桜海高校の屋上は、立ち入り禁止という建前ながらも、自由な校風に加え侵入容易な窓が設置されている事から、しばしば生徒達の遊び場として使われている場所だ。
だが幸か不幸か、現在人の気配はない。
無人の静けさの中、下から吹き付ける風を冷たく感じながら、柵という安全保証を失った初めての感覚を味わった。
かつてなく、死が身近なものとして感じられた。
文字通り、一歩踏み外せば死。
そんな状況で、俺はなぜこんなことになってしまったのかを静かに考えていた。
はじまりは半年前、書いていた小説がうっかり新人賞を通過してしまい、プロとしてデビューしてしまった事に遡る。
俺が書いたのはいわゆるファンタジー物のライトノベルで、冷静に見れば高校生にしてはまだ読める方、くらいの出来だったのだが、編集の販売戦略の下、「超高校級の天才、鮮烈にデビュー」みたいな華々しい帯とともにデビューしてしまう。
俺は未熟な高校生がたまたま身に余る名誉を手にしてしまった時のテンプレをなぞるように、浮かれ、騒ぎ、調子に乗り、全能感を感じていた。
だが、それも大手通販サイトの冷酷なレビューの嵐に晒されるまでの事だった。
「これが超高校級(笑)。今年一番のギャグ」
「新人賞を通ったとは思えない平凡さ。高校生だからって下駄を履かせるのもいい加減にしてほしい」
「ヒロインがひどい。童貞の妄想でももうちょいマシなのが書ける」
ネット社会の容赦ない荒波に、哀れ17歳の心はズタボロにされた。
しかし話はここで終わらない。
「先生にはぜひ新作を書いてもらいたいです。3か月後締め切りで、よろしくお願いしたいのですが、いかがでしょうか」
そんな連絡が担当編集からなぜだかやってきてしまう。
もちろん、俺のズタボロメンタルに、そんな要請に応える力が残っているはずもない。
いっそひと思いに殺してほしい。
そんな張り裂けそうな本心の叫びが出かかっていたが、俺の返事はこうだった。
「はい、任せてください」
俺は愚かだった。小説家になりたいという欲望のままに行動していた過去の自分の想いを、捨ててしまう事が出来なかった。
ついでに言えば、見栄や名誉欲、今度こそはきちんとした作品を書いて見返してやりたいという思い、などなどが入り混じった感情の渦が、反射的に俺にそんな返事をさせてしまった。
そして3か月後の今、俺は一文字も進まない原稿、クソつまらないアイデアが羅列されたメモ帳を鞄から取り出し、そっと屋上の風に乗せて吹き飛ばしてしまおうかと愚にもつかない事を考えている。
状況は絶望的だった。
さて、今にもそのアイデアを実行せんと、鞄から本当にメモ帳を取り出した、その時だった。
「よっと」
俺の隣に、突然一人の少女が柵を飛び越えて、着地した。
そして、少女はそれが当たり前のルーチンワークであるかのような自然な振る舞いで、俺の手からメモ帳を取り上げて、そのまま朗読しはじめた。
「宿屋でヒロインの着替えを覗いてしまう。騎士の正体は実は敵国のスパイ。ヒロインが病んでナイフでリストカットをはじめる……なんか、よくわかんないけどひどいね」
「……は?」
あまりの出来事に、言葉を失った。
視線が横に突然現れた少女に釘付けになる。
間違っても知り合いとかではなかった。
そもそも、陰キャコミュ障の俺に女友達などいない。
ましてや、現れた少女はとんでもない美少女だった。
色素の薄い茶色の細い毛をウェーブさせながら腰まで届きそうなサイドテールにした髪は、思わず触ってしまいたくなるくらい繊細で美しい。
ぱっちりとした瞼に、くっきりとした猫のような瞳は、たぷたぷとした涙袋とともに、わたしは絶世の美少女ですと全力で主張していた。
頬がほんのりとピンクに染まっている所も、ちっちゃな唇がぷるぷると小さく開いているのも、全てが完璧だった。
「死にたいのかなって思って見てたけど、自分の妄想が馬鹿すぎて死にたくなった、とか?」
その毒舌に、ようやく状況認識が現実に追いついてきた俺は、叫んだ。
「はぁあああああああああ!?」
「うるさいな」
少女はうるさそうに耳をふさぐ仕草をする。いちいち可愛らしいと思ったが、今はそれ以上に腹立たしかった。
「お前、お前は何なんだ!」
俺はそんな馬鹿丸出しの叫びをあげてしまう。
「なんか叫ぶ内容も陳腐だね。わたしは2年1組、西野美里花だよ。この屋上の主だから、屋上ではわたしには逆らわないように」
そういって、ニッと自慢げな笑みを浮かべる。なんだこいつ。
「……お前、どこにいた?」
「あそこの上」
少女、美里花が指さしたのは、屋上の入り口の上、一フロア高い所だった。ここからだと、おそらく上で寝そべっていたりすると見えない位置だ。こいつ、寝てたか?
「なぜ俺に絡もうと思ったんだ?」
「んー、なんとなく、マジで死んじゃう可能性が20パーくらいありそうな雰囲気してたからかな」
「……お前、いい奴か?」
「いや、突き落とそうかなって。初めての完全犯罪体験だね」
これはひどい。
「冗談でも言っていい事と悪い事があるだろ……」
「……ねぇねぇ、なんで東雲くんは死にたくなったの?」
美里花はノートの表に書いた俺の名前を見ながら、そんな事を話しかけてくる。
「……色々あるんだよ」
俺はそういって、お茶を濁してしまう。
「そう。まあ色々あるよね。あーあ、わたしもこのまま死のうかな。うん、それも面白い気がする」
「……え?」
俺がぽかんと見つめる先。
美里花が、すっと自然な動きで屋上から飛び降りようとする。
「待て!」
反射的にその腕を掴む。だが、美里花は飛び降りるのをやめようとはせず、俺は少女の体重を支えるため、咄嗟に背後の柵を掴んだ。
「お前! 何考えてやがる!」
俺は必死に叫び、掴んだ腕の先、屋上から上半身をはみ出させた美里花の表情を見る。
――俺は思わずゾッとした。
美里花は、つまらなさそうな表情で、冷たく俺を見据えていたのだ。
「あーあ。良い感じに死ねると思ったのに。ヒーロー気取り? つまんないよ」
俺は苛立ちをぶつけるように、美里花を思いっきり引っ張り、背後の柵へと美里花の身体を打ちつけてしまう。
「いった」
「はぁ、はぁ、ふっっざけんなよ!」
俺はキレていた。なぜ自分がキレているのかも分からず、キレていた。
「女の子の扱いはもっと丁寧にした方が好かれるよ? ま、わたしはこれくらい乱暴な方が好みだけどね」
「……お前の好みは聞いてない」
「お、いいね、その反応。わたし、そっけなくされると燃えるタイプなんだ。どうしよっか、ここから始まる恋ってのも面白いかも」
「ふざけた奴だな。いい加減にしろよお前」
俺は精一杯威圧しようという意志を込めて、美里花を睨みつける。
だが少女は意に介していない様子で、柵を乗り越えて、安全地帯に戻ると、そこにおいてあった少女の鞄から、一枚のメモを取り出した。
「あげる」
美里花はそういって、俺にメモを手渡す。
「……これは?」
「えっとね、ポエム、かな」
「またふざけてるのか?」
「いや、これはガチポエムだよ。わたしもう行くから、一人になってから見てみて」
「え、ちょ……」
たったった、と足音を立てて、しゅたっと窓を飛び越えて、美里花は軽快な足取りで屋上を去っていってしまった。
「ガチポエムってなんだよ……」
俺はなんとなく、その文面を読むのが悔しくて、メモを一度ポケットに仕舞う。
だが、柵を乗り越えて、屋上から出ようとしたところで、やっぱり内容が気になってしまった。
「……いや、意地でも読まない事にしよう」
俺は彼女に受けた狼藉の数々を思い返し、彼女の事は忘れる事にしようと、そう思ったのだった。
そんな思いがふっと湧いてくる程度には、俺、東雲月也は追い詰められていた。
放課後の屋上で、何か良くないものにでも魅入られたかのように、そっと眼下の裏庭までの落下を防ぐ柵を乗り越えてしまう。
この桜海高校の屋上は、立ち入り禁止という建前ながらも、自由な校風に加え侵入容易な窓が設置されている事から、しばしば生徒達の遊び場として使われている場所だ。
だが幸か不幸か、現在人の気配はない。
無人の静けさの中、下から吹き付ける風を冷たく感じながら、柵という安全保証を失った初めての感覚を味わった。
かつてなく、死が身近なものとして感じられた。
文字通り、一歩踏み外せば死。
そんな状況で、俺はなぜこんなことになってしまったのかを静かに考えていた。
はじまりは半年前、書いていた小説がうっかり新人賞を通過してしまい、プロとしてデビューしてしまった事に遡る。
俺が書いたのはいわゆるファンタジー物のライトノベルで、冷静に見れば高校生にしてはまだ読める方、くらいの出来だったのだが、編集の販売戦略の下、「超高校級の天才、鮮烈にデビュー」みたいな華々しい帯とともにデビューしてしまう。
俺は未熟な高校生がたまたま身に余る名誉を手にしてしまった時のテンプレをなぞるように、浮かれ、騒ぎ、調子に乗り、全能感を感じていた。
だが、それも大手通販サイトの冷酷なレビューの嵐に晒されるまでの事だった。
「これが超高校級(笑)。今年一番のギャグ」
「新人賞を通ったとは思えない平凡さ。高校生だからって下駄を履かせるのもいい加減にしてほしい」
「ヒロインがひどい。童貞の妄想でももうちょいマシなのが書ける」
ネット社会の容赦ない荒波に、哀れ17歳の心はズタボロにされた。
しかし話はここで終わらない。
「先生にはぜひ新作を書いてもらいたいです。3か月後締め切りで、よろしくお願いしたいのですが、いかがでしょうか」
そんな連絡が担当編集からなぜだかやってきてしまう。
もちろん、俺のズタボロメンタルに、そんな要請に応える力が残っているはずもない。
いっそひと思いに殺してほしい。
そんな張り裂けそうな本心の叫びが出かかっていたが、俺の返事はこうだった。
「はい、任せてください」
俺は愚かだった。小説家になりたいという欲望のままに行動していた過去の自分の想いを、捨ててしまう事が出来なかった。
ついでに言えば、見栄や名誉欲、今度こそはきちんとした作品を書いて見返してやりたいという思い、などなどが入り混じった感情の渦が、反射的に俺にそんな返事をさせてしまった。
そして3か月後の今、俺は一文字も進まない原稿、クソつまらないアイデアが羅列されたメモ帳を鞄から取り出し、そっと屋上の風に乗せて吹き飛ばしてしまおうかと愚にもつかない事を考えている。
状況は絶望的だった。
さて、今にもそのアイデアを実行せんと、鞄から本当にメモ帳を取り出した、その時だった。
「よっと」
俺の隣に、突然一人の少女が柵を飛び越えて、着地した。
そして、少女はそれが当たり前のルーチンワークであるかのような自然な振る舞いで、俺の手からメモ帳を取り上げて、そのまま朗読しはじめた。
「宿屋でヒロインの着替えを覗いてしまう。騎士の正体は実は敵国のスパイ。ヒロインが病んでナイフでリストカットをはじめる……なんか、よくわかんないけどひどいね」
「……は?」
あまりの出来事に、言葉を失った。
視線が横に突然現れた少女に釘付けになる。
間違っても知り合いとかではなかった。
そもそも、陰キャコミュ障の俺に女友達などいない。
ましてや、現れた少女はとんでもない美少女だった。
色素の薄い茶色の細い毛をウェーブさせながら腰まで届きそうなサイドテールにした髪は、思わず触ってしまいたくなるくらい繊細で美しい。
ぱっちりとした瞼に、くっきりとした猫のような瞳は、たぷたぷとした涙袋とともに、わたしは絶世の美少女ですと全力で主張していた。
頬がほんのりとピンクに染まっている所も、ちっちゃな唇がぷるぷると小さく開いているのも、全てが完璧だった。
「死にたいのかなって思って見てたけど、自分の妄想が馬鹿すぎて死にたくなった、とか?」
その毒舌に、ようやく状況認識が現実に追いついてきた俺は、叫んだ。
「はぁあああああああああ!?」
「うるさいな」
少女はうるさそうに耳をふさぐ仕草をする。いちいち可愛らしいと思ったが、今はそれ以上に腹立たしかった。
「お前、お前は何なんだ!」
俺はそんな馬鹿丸出しの叫びをあげてしまう。
「なんか叫ぶ内容も陳腐だね。わたしは2年1組、西野美里花だよ。この屋上の主だから、屋上ではわたしには逆らわないように」
そういって、ニッと自慢げな笑みを浮かべる。なんだこいつ。
「……お前、どこにいた?」
「あそこの上」
少女、美里花が指さしたのは、屋上の入り口の上、一フロア高い所だった。ここからだと、おそらく上で寝そべっていたりすると見えない位置だ。こいつ、寝てたか?
「なぜ俺に絡もうと思ったんだ?」
「んー、なんとなく、マジで死んじゃう可能性が20パーくらいありそうな雰囲気してたからかな」
「……お前、いい奴か?」
「いや、突き落とそうかなって。初めての完全犯罪体験だね」
これはひどい。
「冗談でも言っていい事と悪い事があるだろ……」
「……ねぇねぇ、なんで東雲くんは死にたくなったの?」
美里花はノートの表に書いた俺の名前を見ながら、そんな事を話しかけてくる。
「……色々あるんだよ」
俺はそういって、お茶を濁してしまう。
「そう。まあ色々あるよね。あーあ、わたしもこのまま死のうかな。うん、それも面白い気がする」
「……え?」
俺がぽかんと見つめる先。
美里花が、すっと自然な動きで屋上から飛び降りようとする。
「待て!」
反射的にその腕を掴む。だが、美里花は飛び降りるのをやめようとはせず、俺は少女の体重を支えるため、咄嗟に背後の柵を掴んだ。
「お前! 何考えてやがる!」
俺は必死に叫び、掴んだ腕の先、屋上から上半身をはみ出させた美里花の表情を見る。
――俺は思わずゾッとした。
美里花は、つまらなさそうな表情で、冷たく俺を見据えていたのだ。
「あーあ。良い感じに死ねると思ったのに。ヒーロー気取り? つまんないよ」
俺は苛立ちをぶつけるように、美里花を思いっきり引っ張り、背後の柵へと美里花の身体を打ちつけてしまう。
「いった」
「はぁ、はぁ、ふっっざけんなよ!」
俺はキレていた。なぜ自分がキレているのかも分からず、キレていた。
「女の子の扱いはもっと丁寧にした方が好かれるよ? ま、わたしはこれくらい乱暴な方が好みだけどね」
「……お前の好みは聞いてない」
「お、いいね、その反応。わたし、そっけなくされると燃えるタイプなんだ。どうしよっか、ここから始まる恋ってのも面白いかも」
「ふざけた奴だな。いい加減にしろよお前」
俺は精一杯威圧しようという意志を込めて、美里花を睨みつける。
だが少女は意に介していない様子で、柵を乗り越えて、安全地帯に戻ると、そこにおいてあった少女の鞄から、一枚のメモを取り出した。
「あげる」
美里花はそういって、俺にメモを手渡す。
「……これは?」
「えっとね、ポエム、かな」
「またふざけてるのか?」
「いや、これはガチポエムだよ。わたしもう行くから、一人になってから見てみて」
「え、ちょ……」
たったった、と足音を立てて、しゅたっと窓を飛び越えて、美里花は軽快な足取りで屋上を去っていってしまった。
「ガチポエムってなんだよ……」
俺はなんとなく、その文面を読むのが悔しくて、メモを一度ポケットに仕舞う。
だが、柵を乗り越えて、屋上から出ようとしたところで、やっぱり内容が気になってしまった。
「……いや、意地でも読まない事にしよう」
俺は彼女に受けた狼藉の数々を思い返し、彼女の事は忘れる事にしようと、そう思ったのだった。