いまだ地震は続いている。
 いつもっと大きな地震が起きるかわからない。
 だから、この避難所から気軽に外へ出るのは控えるべきだ。それでも──。

 柚月は公武へ「あの」と声を出した。

「着替えに戻りたいんです。家へついてきていただけますか?」

 ──ひとりで帰るな。阿寒についてきてもらえ。

 巌のいいつけだ。せめてそれは守ろうと思った。……危険ですと止められるかな。ビクビクして公武の反応をうかがう。
 けれど公武は「いいですよ」と明るく返した。

「僕も着替えを取りにいきたかったんです。すぐにすみますから、寄ってもいいですか?」
「あ、はい。もちろん」
「明るいうちがいいですよね。さっそく出かけましょう」

 公武はてきぱきと小清水たちへ断りを入れる。これまた拍子抜けするほど「二人で? なんもなんも。いいんでないかい?」と快諾された。小清水も沼田も満面の笑みだ。
 ……あー、なんか期待されているなあ、と思いつつ手渡されたヘルメットをかぶる。

 追い出されるように正門を出てハッとした。

 道路のそこかしこに亀裂が入っていた。避難してきたときよりずっと多い。
 思わず立ち止まってあたりを見回す。鉄骨がむき出しになったブロック塀。凹凸だらけの舗装道路。電柱は傾き、電線はそこかしこに垂れ下がっている。通りの反対側では半壊している民家も見えた。

「大丈夫ですか?」

 公武の声で我に返る。「ああ、はい」と出した声が思いがけずかすれた。
 ……情けない。拳を握る。地震が起きているんだから。こんな光景は当たり前で、びっくりすることなんてなにもなくて。お父さんからもさんざん聞かされていたことで──。 
 ふわっと右手があたたかくなる。公武が手をつかんでいた。

「僕がいます。大丈夫です。あわてなくてもいいのでいきましょう」

 そのまま公武は柚月の手を引っ張って歩き出す。
 公武の手があたたかくてホッとする。同時につかまれた右手に公武を感じでドキドキする。先に立ち寄った公武のアパート前で「すぐに済みますから」と手を離されると、心もとなさが押しよせたくらいだ。

 だからだろうか。
 ひとりになって見回した街。それが異様なほど静かだった。

 人の話し声はもちろん、車の音、モーターの音、ドアを開け閉めする音に機械音、人が起こす音という音が聞こえなかった。街がシンと静まり返っている。唾を飲み込む音も大きく聞こえる。

 不意にドアが開く音がした。ビクッと身体が大きく跳ねる。出てきた公武が目を丸くする。

「す、すみません。驚かせましたか?」
「い、いえ。あんまり静かだったのでドアの音が大きく聞こえて」

 へ? と公武は視線を外へやる。

「そうですか? 僕はけっこううるさいって思いました。ほら、葉がこすれる音とか虫の音とかカラスとかハトとかスズメとか。人がいないせいか、やたら大きく聞こえて」

 それにほら、と公武は笑みになる。

「リスです。エゾリス。自転車で会社へ向かっていたときには、悠々と車道でじゃれ合うエゾリスたちも見ましたよ」

 プッと噴き出す。目尻に涙まで浮かぶ。ああ本当に公武さんはすごい人だなあ。

「僕、なにか変なことをいいましたか?」
「いえいえ。お仕度、早かったんですね」
「ちょっと着たいものがありまして」

 そういって公武は大振りな手提げカバンを見せる。嬉しそうだ。

「ではお待たせしました。柚月さんのお宅へいきましょう」

 笑顔のまま公武は柚月の背中を押す。
 そこから歩くこと数分。たどりついたマンションの中は予想どおりに薄暗かった。窓明かりを頼りに階段を進む。暗い中で家の鍵を開けるのもひと苦労だ。普段はカードキーなのでなおさらだ。
 この分だと家の中も作業も大変だろうなあ。そう覚悟したのだが──。

 玄関扉を開けた途端だ。
 まぶしいほどの灯りがついて柚月と公武の顔を照らした。

「え?」

 二人そろって中を見回す。

「乙部先生が?」
「右手にケーブルが続いている。ちょっと見てきます」

 靴を脱いでリビングへ向かう。「気をつけて」と三和土(たたき)で公武の声がする。
 リビングへ入って息をのむ。ひとかかえはある黒い箱が三、四個あった。蓄電池だろう。そこから玄関へケーブルが延びている。
 ソーラーパネルも震災直後に見たものよりたくさん窓際に並んでいる。
 さらにクリップライトがあちこちにあって、部屋を隈なく照らしていた。

「すごい。これ、ぜんぶ自転車で運んできたのかな」

 ひょっとして、と自分の部屋へ向かう。そこもまたすぐに灯りがついた。本棚へクリップ式ライトがついていた。それが明るく部屋を照らした。
 公武も「うわー」と声をあげている。

「これはすごい。乙部先生は、いつ柚月さんが戻っても大丈夫なように準備されたんですね」

 そうか、と両手を胸で合わせる。

 ──柚月が転ばないように、怪我をしないように──。

 配線から父の思いが伝わってくるかのようだ。……ありがとう。頭をたれる。
 それから、この明るさなら、と顔をあげる。
 避難所へ戻らなくてもここで十分なんじゃないかな。

 クロゼットを開いて箪笥を引いた。奥からそっと──浴衣を取り出す。

 ここへ取りにきたもの、それはこの浴衣だ。

 浴衣を着て、花火を見たかったのだ。
 この非常時に浮かれた行為だとはわかっている。
 たぶん──避難所の中学の同級生にはよくは思われないだろう。それでも、いつもと違う姿で公武へ自分の思いを伝えたかった。

 小清水に着付けを手伝ってもらえたらと思っていたけれど、この明るい室内を見て気持ちが変わった。この場所でひとりで着てみたい。その思いが強くなる。「あの」と公武へ声をかけた。

「着替えてもいいでしょうか。……三十分くらいかかりそうなんですけど」
「構いませんよ。ゆっくりなさってください。僕はここで待たせていただきますね。ただ、地震があったらあがらせていただきます」
「そんな。どうぞあがってください」
「いけません。乙部先生に叱られます」

 公武の頑固さはこのひと月少しでよくわかっている。では、と折れて自室へ入った。

 浴衣をベッドの上へ広げる。
 淡黄色の地へ菊模様の浴衣、それに紺と桃色の半幅帯だ。祖母がそろえてくれたものだ。先に髪をアップにして、それから、と鏡の前で悪戦苦闘だ。
 数十分かけてなんとか形にする。おばあちゃんに習っておいてよかった。
 開け放した玄関扉へ「お待たせしました」と声をかけた。

「もういいんですか?」と顔をあげた公武が目を見開いた。
 まばたきもせず柚月を見つめ、呆けた顔つきのまま「……きれいだ」とつぶやいた。嬉しくて柚月はそっと視線を伏せた。

「あ、あの、僕も着替えていいでしょうか」
「もちろんです。どうぞ中へ」
「いえ、ここで結構です。扉だけ開けたままにしていただけますか? この灯りで十分です。誰もいませんし、すぐにすみますから中で待っていてください」

 そういうやいなや、公武は玄関扉の向こうへいってしまった。
 えっと、あの、と視線を揺らす。じゃあ、いまのうちになにかしておこうかな。

「そうだ。お父さんにメモとか?」

 ふと視線を巡らし、玄関キャビネットにメモがあるのに気づいた。
 読み進めて鼻先が熱くなる。

 ……お父さん、自分だってすっごく疲れているのに。大変なことばっかりなのに。それなのに──いつもわたしのことをこんなに考えてくれて。
 メモを強く胸に当てる。……ありがとう。

「お待たせしました」という公武の声で我に返る。十分もたっていない。
「本当に早いですね」といいかけて、今度は柚月が目を見開いた。

 公武も浴衣姿だった。

「……どうして」
「こんなときですけど、せっかくの花火大会ですからどうしても着てみたくなって。柚月さんもだったんですね」

 明るいグレーの本麻浴衣に茶とグレーの縞模様の正絹角帯だ。実に着慣れた感じである。

「着付け──お出来になるんですね。すごいです」
「柚月さんこそ。おばあ様に習ったんですか? 僕は剣道をするので道着をつける習慣がありまして。和服も好きで実は割と着ます」

 ……似合いすぎです、と柚月はキュッと唇を結ぶ。

 不意にポンポンと弾けるような音が外から聞こえた。
「花火?」と公武と顔を見合わせる。スマートフォンの時刻を見るとそろそろはじまる時間だ。「いきましょうか」といいかけた公武が、「あ」と声を出す。

「──浴衣を着ることばかり頭にあって忘れていました。この格好では暗い廊下や階段は危険ですね」
「確かに。下駄は我慢したほうがいいかも。ただ灯りは大丈夫です」

 首をかしげる公武を手招きする。さっき見つけた巌の書き置きを見せる。
 ──帰りにはこれを押せ。十分で消える設定だから、つけっぱなしでも気にしなくていい。そうあった。

「これです」

 そういって柚月は示されたスイッチを押す。途端に通路から階段、それに踊り場まで明るくなる。床に設置した投光器が足元からしっかりと照らしていた。

「ぜんぜん気づかなかった。これも乙部先生が? ……さすがです」

 公武は口を開けて通路を見回す。いつもなら「そんなこと」と返す柚月も、素直に「はい」とうなずいた。
 巌へ礼をしたためたメモを残して戸締りをする。明るい階段を安心して階下へと進む。ときおり地震が起きたけれど、明るいというだけで心強かった。

 そんなマンションを出て薄暗い中へ戻ったころだ。
 不意に公武が「今朝」と声を出した。

「陽翔くんからメールをいただきました」

 ハッと公武へ顔を向ける。
 今朝届いたのなら、陽翔は柚月へメッセージを送るのと同時期に送ったのだろう。

「少し励まされました」
「『おにぎりん』のことですか?」

「いえ」と公武は立ち止まる。マンションからの灯りにうっすら照らされて、公武は柚月へほほ笑んだ。

「あなたの笑顔のことです」
「え?」
「──そんなふうに笑ってくださって、ありがとうございます。とても得難いことだと、彼からいわれました。本当にそうだと思います」

 ……陽翔くん、なにをいったの、と視線を泳がせる。
 そこにいっそう花火の音が大きくなる。街路樹の間、それにマンションの隙間からまぶしい光が見えた。街灯も家の灯りもなにもないので目を見張る明るさだ。それだけでなく──。

「え? こっちでも? あ。あっちでも」

 ポンポンと音が響くにつれて、もう歩きながらなど中途半場にしていられず立ち止まる。公武もうわずった声を出す。

「これは──すごいですね。開催場所なんて関係ない。まさに、どこからでも見える」

 それくらい、あちこちから花火があがっていた。