鍋から湯気がもうもうとあがっていた。炊きたての白米だ。
 その香りに目を細めてしゃもじで米をほぐす。ツヤツヤになった米を手に取りふんわりと握る。
 みるみる赤くなっていく柚月の手のひらを見て公武が「大丈夫ですか」と顔色を変えた。

「アツアツのうちに握ると空気がたっぷり入っておいしくなるんです」

「論理的にはそうでしょうが」と眉をしかめる公武へほほ笑んで、「はい」と柚月は巌の皿へおにぎりを置いた。

「おまたせ。どうぞ」
「くあー。本物の柚月の握り飯っ」
「なにそれ。夢でおにぎりを食べたの?」
「山ほどだ。よおし、いただきますっ」

 くわっ、と口を開けて巌はおにぎりへかぶりつく。

「うめえ……」

 ううう、とうなり声をあげた巌の目尻には涙まで浮かんでいた。

「……今日まで道庁のやつらとやりあってきた甲斐があった。がんばった俺。よくやった俺。よおし柚月、次だ次。じゃんじゃんくれ」

「順番にね」

 そういって今度は松前の前に梅おにぎりを置く。松前は「いただきます」と神妙な顔つきでそっと口をつける。すぐにハッとと目を見開く。

「──これが、公武を動かしたおにぎり」

 これまたうなり声をあげながら口を動かし、けれど途中でどうでもよくなったのか、満面の笑みになった。

「いやもうこれは。公武、高い目標だなあ」

「はい」とうなずく公武へも「どうぞ」と梅おにぎりを差し出した。

「僕までいいんですか?」
「もちろんです」

 やった、と小声を出して公武はおにぎりを頬張る。そして、ああ、と泣きそうな声を出した。

「やっぱり柚月さんのおにぎりは最高ですね。うまいだけじゃない。身体の凝りが、いっきにほぐれていく味わいです。もうちょっとがんばってやっていこうかなって力がわく」
「本当にな。おにぎりがこれほど奥深いものだったとは」
「そんな、大げさです」
「いえ、人のチカラとはすごいなと身体が震えました。公武、これは完敗だな。まだまだお前の『おにぎりん』は改良の余地があるぞ」
「もちろんです。柚月さんのおにぎりにかなうわけがありません」

 公武の即答に「わかってんじゃねえか」と巌が笑った。

 そんな三人を見て羨ましくなったのか、「ねえねえ」と子どもたちが柚月の足をつついた。

「お姉ちゃんのおにぎり、うちらも食べたいなあ」
「ぼくも」、「おれも」と声が続く。
「鮭は好き? 食べられる?」
「大好きっ」

 小ぶりのおにぎりを握って差し出すと「おいしー」、「うま」と大絶賛だ。
「お母さんにも持っていっていい?」の声に加えて「あたしも貰えるかい?」、「おれは梅で」と小清水と沼田の声も飛び、柚月は大忙しだ。
 その隣では『おにぎりん』も稼働しておにぎりを握っていく。列に並ぶ子どもたちがおにぎりを握るマネをしている。どの子も楽しそうだ。

 巌が「やっぱよ」としみじみとした声を出した。

「同じおにぎりロボットでもよ。箱に飯を入れて成型するやつと、人の手に似たもんで握るやつじゃあ、人の手に似たやつの方がうまそうに見えるよな。ただうまそうなだけじゃなくてワクワクする」

「本当ですか?」と公武が目を輝かせる。

「そういっていただきたくて、改良に改良を重ねてきました」
「なによりみんなが嬉しそうにしている。それが一番だよな」

 公武と松前はホッとしたように頬を緩めた。巌は「よおし」と首を左右へ振ってストレッチをすると「おおい」と柚月へ手を振った。

「そろそろ戻るわ。柚月のにぎりめしも食えたしな」

 えっ、と柚月はあわてて巌へ駆けよる。

「もういっちゃうの?」
「ひとりっきりにして悪いけどよ。阿寒もいるから心配ねえな」
「ねえ、本当にちゃんと寝てる? 無理しちゃ嫌だからね」
「ここで無茶しねえでいつするんだ、っていいてえところだが──」

 巌は手を伸ばして柚月の頭を愛しそうに撫でた。

「わかっている。無茶はしねえよ」

 地面が揺れる。慣れたとはいえ、ドキッとするほどやや大きめの地震だ。巌は顔をくしゃりと崩す。

「……いつまで地震が起きるんだとか、うんざりだとか、なんとかしてくれとか。そんなことばっかりいわれてもよ。できるわけねえだろうがなあ。俺が地震を起こしているんじゃねえっつうの」

 うん、と柚月も目を潤ませる。「まったくよお」と巌は大きな笑みを浮かべた。

「人間ごときにできることなんて限られるんだっつうの。さらなる災害が起きたらどうするって、俺に責任なんてねえし、責任をとれるわけねえだろうが」

 俺は、と巌は真っ直ぐに柚月を見る。

「お前の笑顔を見るために動いている。それだけだ。これはいつまで続くのかわかんねえ地震だ。それでもそれなりにお(かみ)が動けるように片をつけてくるからよ。そうしたら──一緒に家へ帰ろう」
「──うん」

 柚月は涙で潤む瞳を父へ向けた。

   *

 午後の『おにぎりん』の炊き出しが終わったころだ。
 なにやらサッポロ・サスティナブル・テクニクスの面々の様子が変だった。
『おにぎりん』のプログラム確認から操作一式をほかの社員全員がトレーニングしていたのだ。

 公武さんがいるのにどうして? と首をかしげていると松前が「実は」と柚月へ声をかけてきた。

「乙部先生から連絡をいただきました。中央区と西区の避難所でも『おにぎりん』を稼働する許可がおりまして」
「すごいです。でも許可って? みなさんは善意でやってくださるのに区役所の許可がいるんですか?」
「ここはあなたと公武がいます。ですから『おにぎりん』を稼働させる動機はあった。いくら善意でもいきなり避難所へ押しかけたらトラブルを招きます。乙部先生が道庁経由で札幌市へ話をつけてくれました。私も仕事は早いほうだと自負していますが、先生にはかないませんね」

 松前は朗らかに笑う。「ということは」と柚月は『おにぎりん』を見る。

「あの『おにぎりん』は何台もあるんですか?」
「そうですね。公武のプログラムの完成を待って商品発表をする段階にありましたから、ざっと百台は稼働可能状態にあります」

「そんなに?」と声が裏返る。「えっと、それって」と視線が泳ぐ。それを見た松前が笑顔をおさめる。

「『おにぎりん』がこれほどあなたに似ているとは想定していませんでした。まったくあいつはどんなふうにデザイナーへイメージを伝えたんだか。まさに肖像権の侵害です。もちろん変更させていただきます」

 ですが、と続ける。

「今日明日というわけにはいきません。とりあえずほかの避難所へ持っていく『おにぎりん』については頭部を布でおおって稼働させる予定です。了承していただけますか?」

 のっぺらぼうのおにぎりロボットが滑らかな指さばきでおにぎりを握る様子を想像した。首を振る。

「小さい子どもが怖がって泣き出しそうです」
「そうか──それもそうですね」と松前は口元に手をやった。どうすべきかと思案しているようだ。柚月は大きく肩をあげた。
「いいです。そのまま顔を出して『おにぎりん』を稼働させてください」
「ですが」
「ほかの避難所のみなさんを、元気にしてあげてください」

 お願いします、と頭をさげる。
 松前がうなり声をあげる。やがて真顔になって力強くうなずいた。

「お気持ち、ありがとうございます。わかりました。任せてください」

 そして小一時間たったころだ。

 体育館から歓声があがった。体育館で大型扇風機がフル稼働をはじめたのだ。

 巌がおいていったコンパクト蓄電池、それに柚月のソーラー充電器に災害用チームのコンセントアダプタ各種を組み合わせ空調調節が成功したのだ。
 小清水に沼田をはじめ、年配者だけでなく妊婦や子どもたちも「涼しいー」と大喜びだ。ほかにも避難所設備を細かに調整をして「こんなもんだろう」とメカニカル部門主任が両手をあげた。

「師匠」と営業が柚月の肩を叩いた。

「じゃあ公武のことを頼みますねー」
「へ? それってこれからみなさん、ほかの避難所へ移動されるってことですか?」
「まず会社へ戻ってほかのワンボックス車を準備してからですね。ああ、このワンボックス車と公武は置いていきますのでご安心を」
「公武さんがひとりで『おにぎりん』を動かすんですか? ソーラーパネルの電気の調整とか? 炊飯も?」
「こう見えても、こいつはウチの社員なんで。どんだけ専門外でも基本的なことは研修で叩きこんであります」

 な、と営業は公武の背中を叩く。
 どれほどの内容を叩きこまれたのか。「あれで基本的?」と公武にしては珍しく大きく眉をしかめた。
「ちょっと待ったー」とメカニカル部門主務が営業へ詰めよる。
「車を置いていったら俺らはどうやって会社へ戻るんだよ」
「これですよ、これ」と営業は自分の足を叩く。

「徒歩かよっ」、「おれたち個人の荷物はどうすんだよ。担いで戻るのかよ」、「結構な重量になるぞ。わかってんのか?」と不満の声が飛ぶ。
 それを営業は、ふふん、と鼻で笑った。
「社までたかだか五キロちょっとですよ? 走ればすぐですよ。まさか僕の足についてこられないとでも?」

「ほざけ若造っ」、「おれの北海道マラソンのタイムを知ってていってるのか?」、「羊蹄山(ようていざん)トライアスロンのこと、忘れたわけじゃねえだろうなっ」と荒々しい声が乱れ飛ぶ。

 営業は満足そうに笑みを浮かべると「じゃあね師匠。またその笑顔を見せてくださいねー」と柚月へ手をあげた。そして「それっ」と駆け出した。

「抜け駆けかよこの野郎」、「卑怯だぞっ。師匠、またねー」、「師匠―、公武をよろしくー」「師匠―、がんばれよー」、「公武、お前もなー」とほかの社員もひとりまたひとりとグランドから出ていく。
 あまりの素早さに柚月は声をかける暇もない。
 松前も「では」とバックパックを背負う。そして柚月へ片手をあげる。

「公武のことをお願いします。お互いがんばりましょう、師匠」
「え、あ、ありがとうございました。本当に本当に──ありがとうございましたっ」

 駆け出した松前へ大きく手を振る。後ろからも声がする。

「おじちゃんたち、ありがとー」、「気をつけてねー」、「おにぎりおいしかったー」、「ごちそうさまでしたー」、「助かったよー」……。

 いいたいこと、伝えたいことは山ほどある。
 みなさんだって被災者なのに無償でこんなにがんばってくれて、どれだけ助かったか。どれだけ感謝をしても足りない。

 松前が校門の角を曲がり切るまで手をあげているのが見えた。その姿が見えなくなって、ほうっと息をはく。「ねえねえ」と五歳くらいの男の子が柚月の手を握ってきた。

「どうしてお姉ちゃんはシショウなの?」

 えっと、と言葉に詰まる柚月へ公武が代わりに答える。

「お姉ちゃんは実はさ、『おにぎりん』の師匠なんだよ」

 ええっ、と男の子だけではなく、近くにいた女の子やその兄弟が一斉に声をあげた。その両親らしい大人まで大きく口を開けている。「すっげー」、「かっけー」、「師匠ってなに?」、「先生って意味だよ」、「お姉ちゃん、すごーい」と声があがる。

 たまらず柚月は両手で顔をおおった。

「恥ずかしいからやめてほしい」
「いいじゃないですか」
「公武さんまでそんなことを」
「まぎれもなく柚月さんは僕と『おにぎりん』の師匠です。これからもどうぞご指導をお願いいたします」

 公武は誇らしそうな顔をして柚月へ丁寧に頭をさげた。

   *

 その翌日のことである。
 柚月のスマートフォンに長い長いメッセージが届いた。

 陽翔からだった。