「どうやって──ですか?」
棒読みで繰り返し、公武はすがるように災害用チーム主任へ振り返った。
災害用チーム主任があわてて首を振る。メカニカル部門主務もソーラーシステム開発チームリーダーも蓄電池開発チームリーダーも営業も顔をこわばらせていく。
「資材を社へ忘れたということか?」と松前が社員へ問い詰めると、社員全員が顔を見合わせた。全員が戸惑った顔をして公武へ顔を向けた。
「僕ですか?」と公武は目を丸くする。
「『おにぎりん』が使う米のセッティングなんだからお前んとこの案件だろうよ」
「そうはいっても、公武はプログラミングで手いっぱいだっただろう。そもそも『おにぎりん』はまだ試作段階だからな。詰めに入ったら誰かが気づいたかもしれないが」
災害用チーム主任とメカニカル部門主務のうめき声に「とにかく米はあるが炊けない状況ということか」と松前がまとめる。
「わかりました」と公武が顔をあげた。
「自宅から鍋を持ってきます。それでともかく少しでも米を炊きます。電力の確保はワンボックス車のソーラーパネルでできそうですから避難所へご迷惑をおかけすることはありません」
「そうだな。念のためと思ってデカいIHヒーターは持ってきた。水もあるぞ」と災害用チーム主任がいい添えた。「鍋も持ってこいよ」と嘆く松前を、「そんなデカい鍋も持ってくるなら一台では荷物を運びきれなかったですよ」と営業がなだめる。
小清水が「阿寒さん、あんた、どんなサイズの鍋を持っているんだい」とたずねた。
「内径二十四センチ容量四リットルの両手鍋です」
「話にならないよー」と小清水は呆れた。
「でしたら」と柚月は口をはさむ。
「ウチに十三リットルくらい入る鍋があります。それを持ってきます」
「大きいですね。お借りできますか?」
「だからー」と小清水は柚月と公武の肩をバシバシと叩く。
「何回炊くつもりだいって。炊き出しをやってくれるのはありがたいんだけどさ。ここに避難している人がどれだけいるのかわかってんのかい」
しゅんとうなだれる一同を見て、「沼ちゃんっ」と小清水が声を張りあげた。
「なんとかならないかい? 給食室の備品の使用許可はいつ降りるんだい。お役所仕事にもほどがあるよっ」
「おれはもう公務員じゃないしさ」
「八年前は国家公務員だったんだろう。なんとかおしよ」
「そうはいってもさ」と沼田が弱った声を出したときだ。
沼田のうしろから「体育館の奥になんかデカい鍋がなかったっけか」と声が聞こえた。
振り返るといつの間にか人垣ができていた。
にぎやかにやりとりをする柚月たちに、なんだなんだ、と身を乗り出している。その中から「あー。そうだね。あった、あった」と小学校のPTA役員らしい人たちの声が聞こえた。
「町内会のイベントで買った大鍋を学校行事で借りたんだっけ」、「返そうとしたけどデカすぎて公民館へ置くには邪魔だっていわれて」、「そうそう。そのまま学校に置かせてくれっていわれたでしょ」、「校長は渋ったんだけど、そのあと校長が異動していってさ。いつの間にかうやむやになった気がするんだよ」、「だったら」と声が続く。
「まだこの小学校の体育館倉庫にあるんでないかい?」
沼田の肩がピクリと動く。そして驚くほどの素早さで体育館へ走り出した。
「ちょっと沼ちゃんっ」、「体育館倉庫にあるんですか?」と小清水をはじめ柚月たちも沼田のあとを追った。体育館倉庫の中は真っ暗だ。
「なんも見えんべ」とうめく沼田へ災害用チーム主任がヘッドライトを向ける。
沼田はその灯りを頼りにどんどん奥へと進む。やがてなにかがライトに反射した。「おおお」と沼田がそれへ駆けよる。
見あげるほど大きな鍋だった。いかにも業務用っぽいステンレス製の鍋だ。
沼田はドヤ顔で鍋を叩く。
「本当にあったな。よおし、これを使え」
「なんであんたがエラそうなんだよ。PTAさんのおかげっしょや」
小清水が沼田の背中を叩く間にも「ではお借りしますっ」と営業が声を張りあげた。
ひとりではとても運べないほどの大鍋だ。営業の誘導で災害用チーム主任たち五人がかりで運び出す。体育館からワンボックス車まで、なにごとか、とますます取り巻く人垣は増えていった。
「よおし到着っ。鍋確保―。問題解決―。炊飯準備開始ーッ」
おーッ、と雄叫びがあがる。
災害用チーム主任はあっという間に少量の水で鍋の内側を洗いあげ、あうんの呼吸でメカニカル部門主任が米を投入していく。ソーラーシステム開発チームリーダーはソーラーパネルの角度を操作だ。
好天も手伝って「蓄電率八十パーセント、電力スタンバイ、いいぞ」と蓄電池開発チームリーダーが声を張りあげ、あっという間に炊飯準備が整っていく。
公武も「よおし」と背筋を伸ばした。
「ではいってまいります」
柚月へ会釈をして颯爽とワンボックス車へ乗り込む。
すぐに「公武―、これでいいのかあ?」と声がかかっている。『おにぎりん』を稼働させるのだろう。そのにぎやかな様子に避難所の人々も興味津々だ。
不意に足元で小さい感触があった。
振り向くと、幼稚園くらいの女の子が柚月の足に触れながら顔を出していた。目を輝かせて公武たちのワンボックス車を見ている。
「なにやってんだってー?」と兄弟らしい男の子がその女の子に駆けよった。
二人だけではない。何人もの子どもたちが「なに作るのー?」、「なにができるのー?」と柚月へ声をかけてくる。
「あんたたち、お姉ちゃんのお邪魔をしちゃ駄目っしょ」と母親らしき人も「で? なにがはじまるんだい?」と柚月へ楽しそうに声をかけてきた。
──続く地震におびえる生活だ。
余震どころか、より激しい地震が起きることもある。
みんなが眉間にしわをよせて過ごしていた。どうなるのかまったくわからない日々。イライラとした空気が避難所のどこへいっても漂っていた。
それが──。
公武さんの会社の人がきて一時間かそこら。
あっという間に空気を変えてしまった。すごいなあ。
やがてふわりと米の炊ける匂いが漂ってきた。
「ご飯の匂いだ」と子どもたちは飛び跳ねて、「いい匂いだねえ」と小清水も目を細める。そんなワクワクが膨らむ中、防災チーム主任と営業がワンボックス車の前に長テーブルのセットをはじめた。
わっと声があがる。
「もう少し待ってくださいねー」と営業は声をかけつつ、安全確保のために行列整理用のポールとベルトを敷いていく。
そして営業が満面の笑みで声を張りあげる。
「おにぎりロボット『おにぎりん』の登場ですー」
「おにぎりー?」、「ロボットー?」と子どもたちの驚く声が響き、公武が姿を現した。営業と二人で大きな箱をそっと長テーブルの中央へ設置する。そしてそっとカバーを外した。歓声がさらに大きくなる。
それは上半身だけのロボットだった。
機械というより人間型ロボットと呼びたくなるほどの柔らかなフォルムだ。
エプロンをつけていてほほ笑んだ表情だ。長い髪まであって後ろでひとつに結んでいた。
それを見て柚月は目を見開く。
「どういうことだい」と小清水が柚月の肩を叩く。
「あのロボット、柚月ちゃんにそっくりっしょや」
「そう思われますか?」
声をかけてきたのは専務の松前だった。
「私たちも乙部さんにお会いして驚きました。『おにぎりん』と大変イメージが合います」
「だから社員のみなさんはわたしを見て『似ている』とおっしゃったんですか?」
柚月が驚いた声を出すと、「そりゃそうです」と公武の声がした。やりとりを聞きつけたらしい。誇らしげな顔つきだ。
「デザイナーさんからどんなデザインがいいかと最終リクエストを受けたとき、これは師匠である柚月さんをモデルにすべきだと思って、雰囲気とか髪型とか表情とかを伝えました」
公武と柚月を見比べて松前は眉をよせる。
「まさかとは思うが、ちゃんとご本人の了承を得たんだろうな」
あ、と公武の動きが止まる。あらためて柚月へ視線を向けて、そのこわばった顔を見て、ようやく事態の深刻さに気づいたようだ。
「──忘れていました。す、すみません、柚月さん」
「お前なあ」と松前は額に手を当てる。
「世の中には肖像権というのがあってだな。謝ってすむ問題じゃないぞ。我々も事前確認を怠ったのは認める。デザイナーのアイデアだといい張ることも可能だ。だがここまで似るとなると──」
松前の言葉の途中で背後から怒鳴り声が飛んだ。
「ばかやろう公武、手を止めるなっ。やり直しだろうがっ」
「うわ、すみません柚月さん。本当に申し訳ありませんっ」
深々と公武は柚月へ頭をさげるとワンボックス車へ駆け戻っていった。「まったく」としかめっ面をして、松前が続いて柚月へ「すみません」と頭をさげる。
「この炊き出しが成功した場合、あなたによく似た印象の『おにぎりん』が、少なくともこの避難所のみなさんへ認知されてしまいます。できるだけの修正は加えますが、この災害下です。どこまでできるかは──」
あ、う、と柚月も戸惑う。だからといって公武の失敗を願うわけにはいかない。
公武がどれほど骨身を削って『おにぎりん』を作りあげてきたか。知り合ってひと月と少しだけれども、よくわかっているつもりだ。
公武さんは本当に寝ても覚めても『おにぎりん』のことばかりを考えていた。
その公武さんにわたしができることは。
柚月は「いいえ」と松前へ顔をあげた。きゅっと口角をあげる。
「モデルにしていただいて光栄です」
松前は目を見張り、それから気持ちよさそうに笑った。
「さすが、公武が師匠と呼ぶはずです。ありがとうございます」
わあっ、とひときわ大きな歓声があがって柚月と松前は顔を向けた。
『おにぎりん』が動いていた。
伏し目がちな眼差しで、動作確認するように指先を動かしている。ピアニストが鍵盤へ向かう前にする動きのようだ。それだけでもう子どもたちは大喜びだ。
さらに『おにぎりん』の隣に炊きあがった米が現れた。遠目でもツヤツヤに炊きあがっているのがわかる。いかにも熱そうなその白米を、『おにぎりん』は塩をつけた手に取っていく。
それまで白米でなにをするのかわからなかった子どもたちが我先に声をあげた。
「おにぎりーっ」、「『おにぎりん』すげえ」、「熱くないのー?」と大興奮だ。
あっという間に『おにぎりん』は数十個のおにぎりを握ってキレイに大皿へ並べていった。大振りのおにぎりだ。ほうっ、と大人たちのため息が聞こえる。
営業が前へ出て「はーい、みなさーん」と声をかけた。
「お待たせしました。『おにぎりん』の握りたておにぎりです。おにぎりを食べて、みなさん、元気を出していきましょうっ。さあ順番にどうぞー」
声がかかると、わあ、と大人も子どもも列をなした。
「うわ、うま」、「ふわふわ、おいしー」、「え? びっくり。コンビニのおにぎりとぜんぜん違う」、「お母さん、おいしーよー」と誰もが目を輝かせる。その間も『おにぎりん』はおにぎりを握っていく。どんどん列が動いていって、すぐに柚月の番がきた。
公武が前へ出て柚月へ「どうぞ」とうながした。
「なんだか緊張します」
「僕もです」
柚月はそっとおにぎりに口をつけた。目を見張る。
「おいしい」
「本当ですか?」
「いままで公武さんにいただいたどのおにぎりよりはるかにおいしいです」
ふわふわの食感で塩加減もちょうどよくて、食べているとしみじみとして、と数えあげると、公武が口を結んだ。唇を震わせている。鼻先も心なしか赤くなっていく。
「ど、どうかしましたか」
いえ、と公武はあわてて視線をそらした。鼻をすすって目をしばたたかせてから、柚月へ大きな笑みを浮かべる。
「嬉しくて。やっと──やっと柚月さんにそういってもらえました」
「わたし、そんなに厳しいコメントばっかりでしたか?」
「ありがたかったです」
ははは、と松前の笑い声が聞こえた。
「鬼師匠のお墨付きがもらえたってわけだな。よかったな、公武。よおし、お前も食え」
松前にうながされて公武もおにぎりを手に取る。頬張った公武の頬に笑みが広がる。
「──うまい」
「自画自賛かよ」
「いやこれ、本当にうまいべ。ホッとするしさ」
沼田の声に小清水やまわりの避難者も笑顔でうなずいた。
「もう一個食べたくなる」、「そうだね。元気が出てくる」、「わかるー」と口々にいわれて公武の目元が赤くなる。「まだありますから是非どうぞ」と営業が声をかけると「じゃあ食べちゃう?」、「食べちゃおう」と明るい声がグランドに響いた。
楽しそうな笑い声を聞きながら公武が「柚月さん」と消え入りそうな声を出した。
「僕のおにぎりは、やっぱりまだ、柚月さんのおにぎりには到底およばないって思います」
ですが、と息を継ぐ。
「こうしてみなさんに喜んでいただけた。──一度にたくさんの人に届ける必要がある、今回みたいなときには有効だってわかりました。僕のやっていたことは、無駄じゃなかった。そう思えました」
公武はそっと繰り返す。無駄じゃ、なかった。「柚月さん」と公武はしっかりと柚月へ顔を向ける。
「それもずっと『おにぎりん』に付き合っていただいた柚月さんのおかげです。柚月さんがいなかったら、こうしてみなさんに喜んでいただけることもなかった。本当にありがとうございました」
胸が苦しくなる。この人は、いつだってこんなふうに謙虚で、いつもわたしにお礼をいってばかりだ。
だけど──。
「違います。わたしのおかげなんかじゃありません」
「え」
「公武さんがあきらめなかったからです。なんどもなんどもおにぎりを作って、うまくできなくてもがんばって。わたしはそれを見てきました。公武さんががんばっていたのを知っています。これは、公武さんががんばった成果です。すごいです」
公武が呆けたような顔になる。その公武へ満面の笑みを向ける。
「公武さん──よかったですね」
肩で大きく息を吸って公武はくしゃりと顔を崩す。そして答える。
「はい」
*
久しぶりに巌がやってきたのは、その翌朝だった。
早朝七時だ。
避難所でひと晩明かしたサッポロ・サスティナブル・テクニクスの一同とともに、朝ご飯のおにぎりの準備をしているときだった。
長机の準備をしていた柚月は自転車の音が聞こえた気がして顔をあげた。
グランドの入口に人影があった。
「お父さんっ」
布巾を放り出して柚月は走った。
「うおおい、えらく楽しそうじゃねえか」
笑いながら巌は柚月を抱きとめる。巌の顔には無精髭が目立ち目の下には濃い隈ができていた。
「ちゃんと寝てる? ご飯は食べている?」
「お前は大丈夫そうだな。安心した」
「ちゃんと答えてよ」となじる柚月の髪を撫でて「おう」と巌は背後へ声をかける。公武も駆けつけてきていた。
「毎日こいつの連絡をありがとうな。助かる」
「当然のことです。乙部先生もお疲れ様です。──道庁はさぞ大変なんでしょうね」
「愚痴しか出ねえな。んで? なにやってんだ? ひょっとしてアレはお前のロボットか?」
笑顔で首を伸ばした巌の顔がすぐさま鬼の形相になる。
「──なんだありゃ。なんでこんなに柚月に似ているんだ? 聞いてねえぞ」
「あ、えっとその」
「お前はー、情報関係のプロの癖に肖像権を知らねえのかよ。お前の会社はどうなってんだっ」
「大変失礼しましたっ」と背後から声が飛ぶ。松前だ。
「お知らせが大変遅くなり申し訳ありません。私はこういうものです」
松前は巌へ名刺を差し出す。一瞥して巌も気だるそうにジャケットのポケットから名刺を取り出し松前へ差し出した。
「そうかよ。──あんたが阿寒を巻き込んだ松前さんかよ」
「乙部先生のお名前もうかがっております。お会いできて光栄です。お嬢様には弊社の阿寒が大変お世話になっております」
ふん、と巌は鼻を鳴らす。
その巌へ「よかったら召し上がってください。できたてです」と松前はウエットティッシュと『おにぎりん』のおにぎりを差し出した。
巌はそれを不機嫌そうに数秒眺め、「もらうわー」と手を伸ばした。
無表情であっという間に平らげる。「もうひとついかがですか?」と松前が差し出したおにぎりも間髪をいれず手に取り、数口で食べつくす。
「お父さん、喉につかえるから」とお茶を差し出した柚月を無視して、勝手に三つ目のおにぎりを松前から奪い取ると口へ入れていく。
最後に指についた米粒を舐めとり、これまた無言で柚月のお茶をヤケのようにあおった。
公武が真剣な顔つきで巌へ声を出した。
「──どうでしたか」
「うまかった」
パアッと公武の顔に笑みが広がる。
「前に食ったやつとは雲泥の差だった。こういう状況だから、なおさらうまく感じるのかもしれねえけどな。──がんばったな」
公武が口を閉じて肩で大きく息をした。それから鼻先を赤くして、「はい」と唇を震わせた。
すぐに「公武―、これどうすんだー」とワンボックス車から声がかかる。『おにぎりん』の前に長蛇の列ができていた。「うわ、失礼します」と巌へ断って、公武は声の方へと駆けていく。
その背中を見送って、「で?」と巌は松前へドスの効いた声を出した。
「こうしてせっかく会えたんだ。聞かせてもらおうじゃねえかよ。阿寒を研究の第一線から強引におろした理由をよお」
「そこまで先生に気を遣っていただけるとは。阿寒は幸せ者です」
松前は巌の威嚇に臆することなく冷ややかに告げる。
赤の他人のお前にそんな事情を語るいわれはない、そう含むような口振りだ。
実際、初対面でそんな個人的なことを語る方が非常識だ。巌は公武の親でも親戚でもないのだ。
だが、そこで引きさがる巌ではない。
「あいつをただ顎で使うだけの了見なら承知しねえ。あいつの心意気を殺したらただじゃおかねえ」
松前は面食らったような顔をして「逆です」と愛しそうな声を出した。
「阿寒がいなければ弊社は成り立たない」
「なんだと?」
「阿寒本人はただおにぎりロボットのプログラミングをさせられていると思っているかもしれません。本人にはスカウト時におにぎりプロジェクトへ参入して欲しいと伝えましたので。ですが、その基礎システムは多くの業界にまで転用できるほどの技術です。弊社の、いや、この国の宝にだってなりうる」
そんなに? と巌だけでなく柚月も目を見張る。
「阿寒が大学にとどまって研究を続けた場合、文科省や開発機構などの阿寒の技術価値を理解できない輩に、それこそ彼の才能を殺されるところでした。だから彼を弊社へ呼び入れたんです」
巌は眉間にしわをよせる。
「そういわれると聞こえはいいが、なんといってもあんたのところは営利団体だ。……文科省とは違うやり方であいつをつぶすんじゃねえのか?」
「そうならないよう、私どもも全力を尽くしています。阿寒に対してだけではない。全社員に対してです。それが弊社の企業理念です」
「サスティナブル、持続可能事業か。それを主体業務としていて、既存業界に頼らないテクニック形態を目指すんだったか? あんたの会社、敵が多そうだな」
「調べていただきまして恐縮です。この国で暮らす限り、自然災害はつきものです。大手企業ならなおさら備える必要があります」
松前たちの会社、サッポロ・サスティナブル・テクニクス。
「サスティナブルは最先端だ」を掲げて「災害およびその先の生活を豊かにする」が企業理念だ。今回ここへ集まった部署のほかにも風力発電開発チームに地熱発電チームもある。
各業界に精通したやり手が集結した、平均年齢四十代後半の札幌を拠点とする企業だ。
「業界荒らしではなく、得意形態の分離です。平常時は大手電力や大手ガス事業で設備運営を賄えばいい。二酸化炭素排出量うんぬんについても頭ごなしに対策遅れを非難する立場にはありません。できることから手を付けるがモットーです。ですが、こうして非常時もある。電力やガスラインが寸断されることもある。弊社はそのためにあります」
わはは、と巌は笑い声をあげた。
「いまはまさに稼ぎ時ってわけだ」
「やや準備不足の感は否めませんが」
「この巨大地震だ。そりゃまあしゃあねえだろうよ。とにかく、あんたの会社の意気込みはわかった」
んで? と巌は腕を組む。
「──なんだって握り飯が出てくるんだ? おにぎりロボットがあんたの会社業務とどう関係するんだ? 非常時の炊き出し事業を幅広くやりたいのか?」
松前は悪そうな笑みを浮かべる。
「目くらましの意味もありました」
あん? と巌が首をかしげる。
「阿寒の挙動は結構な数の業界から注視されていました。弊社にくると知られてから問い合わせがひっきりなしです。その期待を裏切る必要があった」
ここで、と松前は息を継ぐ。
「彼らが期待するような分野の商品を開発したら、弊社ではなく世間が阿寒を追い立て続けるでしょう。そうなったら研究を続けていたときとなんら変わらなくなる。遅かれ早かれ──あいつはつぶれる」
だからこそ、まったくの異業界分野、食品事業。ふうーん、と巌は低く長いうなり声を出した。「どうやらちゃんと、あいつのことを考えてくれているみたいだな」と首の後ろをかく。
それからおもむろに柚月へ振り返り、「ほらよ」と柚月の手のひらへ黒い箱をおいた。
「うちの工学研究院のヤツがまた持ってきた。使ってみな」
「これなに?」と柚月が声を出すより早く松前が身を乗り出した。
「コンパクト蓄電池ですか? 先生がわざわざ持っていらしたとなったら──」
「あんたの想像の十倍すげえやつっぽい。たぶん、これ一台でこの避難所の一日分の電力は軽く貯めておける。柚月、前に渡したソーラー充電器につなげて使えるっつってた。やってみな」
「え? これ?」とサコッシュから取り出したソーラー充電器にも松前は食いつくように眺める。それを見て巌はまた、わはは、と笑った。
「安心した。あんた、本当に技術屋なんだな。ただの経営者だったら信用ならねえって思ったんだが」
「私は専務ですから。もっとも、社長が技術者を蔑ろにするようでしたら謀反も辞さない覚悟でやっています」
「あんたがそんなだから阿寒は武士みたいなんだな」
よおし、と巌は両手を腰に当てる。
「さっきの工学研究院の知り合いな。簡易空調システムのプロトタイプもあるってよ。マイクログリッド用のやつらしい。あんたのところもマイクログリッドシステムのコンサルっぽいことをやっていただろう?」
マイクログリッド──大きな発電所から電気を受けるのではなく、ごくせまい地域内で電気を生み出し使うシステムだ。
「電力の供給はすぐには無理そうだからな。こういった体育館とグランドを拠点としてマイクログリッドするのも悪かねえよな。まずは体育館へ空調のプロトタイプを設置して室温湿度の制御をするのはどうだ? いくら北海道でも夏真っ盛りだからな。日中とか暑いだろう。ぎゅうぎゅう詰めの避難所なら、なおさら爺さん婆さんには堪えるしよ。だから」
ほれ、とジャケットから名刺を取り出す。
「興味があったらここへ顔を出してみてくれや。機動力のあるあんたのところと手を組めば、おもしれえもんができるんじゃねえか? 時間ができてからでいいからよ。俺からも連絡を入れておく」
松前は丁寧な仕草で名刺を受け取ると巌へ視線を戻した。
やや怪訝そうな眼差しが混じっている。それを見て巌は声を小さくした。
「あんたも気づいているだろうが、この災害、長丁場になる。本州からの応援が期待できないだけじゃない。──わかるだろ?」
ひょっとしたらさらなる大きな自然災害が起きる、そう示唆していた。松前も厳しい顔つきになる。
「公的機関は尻が重くて駄目だ。俺が毎日怒鳴り飛ばしたって『そこまでしなくても』とか抜かしやがる」
目の下に隈を作った巌がそういうのだ。臨機応変など望みようもない状況なのだろう。
「お上が動くのを待っていたら、どんなに工夫して備蓄で食いつないでいても下々の俺らは干上がっちまう。動けるところから動いてくれ。平常時だったら目をつけられるくらい先走ったことをやったとしても、幸いお上の尻は重すぎて構ってられねえから安心してくれ」
名刺に視線を落として、松前は口角をあげる。
「すてきなご縁をいただきました。ぜひともすぐに連絡させていただきます」
失礼します、と松前は断ると、衛星携帯電話を取り出し、本当にその場で名刺相手先へ連絡を入れはじめた。
「おいおい、俺はまだつなぎを入れてないぜ」と巌があわてて、「ちょい貸せや」と松前の通話口で「俺だよ俺」とオレオレ詐欺みたいな声を入れて先方へフォローをする。
そのとき公武の「乙部先生―っ」という声が聞こえた。息を切らして向かってくる。包みを手にしている。
「『おにぎりん』のおにぎりです。持っていってください。本当は柚月さんのおにぎりとのコラボがしたかったんですが、間に合わなくて」
途端に巌は「はあっ?」と声を裏返した。
「柚月とのおにぎりコラボ? それは真っ先にすべきことだろうが。どうしてやらないんだ。柚月のおにぎりを食わせろ。柚月のおにぎり欠乏症だぞゴラッ」
「お父さん、こんなときになにいってんのよ。恥ずかしいわよ」
「いえそれはぜひぜひ私もいただきたいです」と松前が目を輝かせ、「でしたら」と公武が柚月を見る。満面の笑みだ。
「柚月さん、どうか、お手合わせいただけますか?」
鍋から湯気がもうもうとあがっていた。炊きたての白米だ。
その香りに目を細めてしゃもじで米をほぐす。ツヤツヤになった米を手に取りふんわりと握る。
みるみる赤くなっていく柚月の手のひらを見て公武が「大丈夫ですか」と顔色を変えた。
「アツアツのうちに握ると空気がたっぷり入っておいしくなるんです」
「論理的にはそうでしょうが」と眉をしかめる公武へほほ笑んで、「はい」と柚月は巌の皿へおにぎりを置いた。
「おまたせ。どうぞ」
「くあー。本物の柚月の握り飯っ」
「なにそれ。夢でおにぎりを食べたの?」
「山ほどだ。よおし、いただきますっ」
くわっ、と口を開けて巌はおにぎりへかぶりつく。
「うめえ……」
ううう、とうなり声をあげた巌の目尻には涙まで浮かんでいた。
「……今日まで道庁のやつらとやりあってきた甲斐があった。がんばった俺。よくやった俺。よおし柚月、次だ次。じゃんじゃんくれ」
「順番にね」
そういって今度は松前の前に梅おにぎりを置く。松前は「いただきます」と神妙な顔つきでそっと口をつける。すぐにハッとと目を見開く。
「──これが、公武を動かしたおにぎり」
これまたうなり声をあげながら口を動かし、けれど途中でどうでもよくなったのか、満面の笑みになった。
「いやもうこれは。公武、高い目標だなあ」
「はい」とうなずく公武へも「どうぞ」と梅おにぎりを差し出した。
「僕までいいんですか?」
「もちろんです」
やった、と小声を出して公武はおにぎりを頬張る。そして、ああ、と泣きそうな声を出した。
「やっぱり柚月さんのおにぎりは最高ですね。うまいだけじゃない。身体の凝りが、いっきにほぐれていく味わいです。もうちょっとがんばってやっていこうかなって力がわく」
「本当にな。おにぎりがこれほど奥深いものだったとは」
「そんな、大げさです」
「いえ、人のチカラとはすごいなと身体が震えました。公武、これは完敗だな。まだまだお前の『おにぎりん』は改良の余地があるぞ」
「もちろんです。柚月さんのおにぎりにかなうわけがありません」
公武の即答に「わかってんじゃねえか」と巌が笑った。
そんな三人を見て羨ましくなったのか、「ねえねえ」と子どもたちが柚月の足をつついた。
「お姉ちゃんのおにぎり、うちらも食べたいなあ」
「ぼくも」、「おれも」と声が続く。
「鮭は好き? 食べられる?」
「大好きっ」
小ぶりのおにぎりを握って差し出すと「おいしー」、「うま」と大絶賛だ。
「お母さんにも持っていっていい?」の声に加えて「あたしも貰えるかい?」、「おれは梅で」と小清水と沼田の声も飛び、柚月は大忙しだ。
その隣では『おにぎりん』も稼働しておにぎりを握っていく。列に並ぶ子どもたちがおにぎりを握るマネをしている。どの子も楽しそうだ。
巌が「やっぱよ」としみじみとした声を出した。
「同じおにぎりロボットでもよ。箱に飯を入れて成型するやつと、人の手に似たもんで握るやつじゃあ、人の手に似たやつの方がうまそうに見えるよな。ただうまそうなだけじゃなくてワクワクする」
「本当ですか?」と公武が目を輝かせる。
「そういっていただきたくて、改良に改良を重ねてきました」
「なによりみんなが嬉しそうにしている。それが一番だよな」
公武と松前はホッとしたように頬を緩めた。巌は「よおし」と首を左右へ振ってストレッチをすると「おおい」と柚月へ手を振った。
「そろそろ戻るわ。柚月のにぎりめしも食えたしな」
えっ、と柚月はあわてて巌へ駆けよる。
「もういっちゃうの?」
「ひとりっきりにして悪いけどよ。阿寒もいるから心配ねえな」
「ねえ、本当にちゃんと寝てる? 無理しちゃ嫌だからね」
「ここで無茶しねえでいつするんだ、っていいてえところだが──」
巌は手を伸ばして柚月の頭を愛しそうに撫でた。
「わかっている。無茶はしねえよ」
地面が揺れる。慣れたとはいえ、ドキッとするほどやや大きめの地震だ。巌は顔をくしゃりと崩す。
「……いつまで地震が起きるんだとか、うんざりだとか、なんとかしてくれとか。そんなことばっかりいわれてもよ。できるわけねえだろうがなあ。俺が地震を起こしているんじゃねえっつうの」
うん、と柚月も目を潤ませる。「まったくよお」と巌は大きな笑みを浮かべた。
「人間ごときにできることなんて限られるんだっつうの。さらなる災害が起きたらどうするって、俺に責任なんてねえし、責任をとれるわけねえだろうが」
俺は、と巌は真っ直ぐに柚月を見る。
「お前の笑顔を見るために動いている。それだけだ。これはいつまで続くのかわかんねえ地震だ。それでもそれなりにお上が動けるように片をつけてくるからよ。そうしたら──一緒に家へ帰ろう」
「──うん」
柚月は涙で潤む瞳を父へ向けた。
*
午後の『おにぎりん』の炊き出しが終わったころだ。
なにやらサッポロ・サスティナブル・テクニクスの面々の様子が変だった。
『おにぎりん』のプログラム確認から操作一式をほかの社員全員がトレーニングしていたのだ。
公武さんがいるのにどうして? と首をかしげていると松前が「実は」と柚月へ声をかけてきた。
「乙部先生から連絡をいただきました。中央区と西区の避難所でも『おにぎりん』を稼働する許可がおりまして」
「すごいです。でも許可って? みなさんは善意でやってくださるのに区役所の許可がいるんですか?」
「ここはあなたと公武がいます。ですから『おにぎりん』を稼働させる動機はあった。いくら善意でもいきなり避難所へ押しかけたらトラブルを招きます。乙部先生が道庁経由で札幌市へ話をつけてくれました。私も仕事は早いほうだと自負していますが、先生にはかないませんね」
松前は朗らかに笑う。「ということは」と柚月は『おにぎりん』を見る。
「あの『おにぎりん』は何台もあるんですか?」
「そうですね。公武のプログラムの完成を待って商品発表をする段階にありましたから、ざっと百台は稼働可能状態にあります」
「そんなに?」と声が裏返る。「えっと、それって」と視線が泳ぐ。それを見た松前が笑顔をおさめる。
「『おにぎりん』がこれほどあなたに似ているとは想定していませんでした。まったくあいつはどんなふうにデザイナーへイメージを伝えたんだか。まさに肖像権の侵害です。もちろん変更させていただきます」
ですが、と続ける。
「今日明日というわけにはいきません。とりあえずほかの避難所へ持っていく『おにぎりん』については頭部を布でおおって稼働させる予定です。了承していただけますか?」
のっぺらぼうのおにぎりロボットが滑らかな指さばきでおにぎりを握る様子を想像した。首を振る。
「小さい子どもが怖がって泣き出しそうです」
「そうか──それもそうですね」と松前は口元に手をやった。どうすべきかと思案しているようだ。柚月は大きく肩をあげた。
「いいです。そのまま顔を出して『おにぎりん』を稼働させてください」
「ですが」
「ほかの避難所のみなさんを、元気にしてあげてください」
お願いします、と頭をさげる。
松前がうなり声をあげる。やがて真顔になって力強くうなずいた。
「お気持ち、ありがとうございます。わかりました。任せてください」
そして小一時間たったころだ。
体育館から歓声があがった。体育館で大型扇風機がフル稼働をはじめたのだ。
巌がおいていったコンパクト蓄電池、それに柚月のソーラー充電器に災害用チームのコンセントアダプタ各種を組み合わせ空調調節が成功したのだ。
小清水に沼田をはじめ、年配者だけでなく妊婦や子どもたちも「涼しいー」と大喜びだ。ほかにも避難所設備を細かに調整をして「こんなもんだろう」とメカニカル部門主任が両手をあげた。
「師匠」と営業が柚月の肩を叩いた。
「じゃあ公武のことを頼みますねー」
「へ? それってこれからみなさん、ほかの避難所へ移動されるってことですか?」
「まず会社へ戻ってほかのワンボックス車を準備してからですね。ああ、このワンボックス車と公武は置いていきますのでご安心を」
「公武さんがひとりで『おにぎりん』を動かすんですか? ソーラーパネルの電気の調整とか? 炊飯も?」
「こう見えても、こいつはウチの社員なんで。どんだけ専門外でも基本的なことは研修で叩きこんであります」
な、と営業は公武の背中を叩く。
どれほどの内容を叩きこまれたのか。「あれで基本的?」と公武にしては珍しく大きく眉をしかめた。
「ちょっと待ったー」とメカニカル部門主務が営業へ詰めよる。
「車を置いていったら俺らはどうやって会社へ戻るんだよ」
「これですよ、これ」と営業は自分の足を叩く。
「徒歩かよっ」、「おれたち個人の荷物はどうすんだよ。担いで戻るのかよ」、「結構な重量になるぞ。わかってんのか?」と不満の声が飛ぶ。
それを営業は、ふふん、と鼻で笑った。
「社までたかだか五キロちょっとですよ? 走ればすぐですよ。まさか僕の足についてこられないとでも?」
「ほざけ若造っ」、「おれの北海道マラソンのタイムを知ってていってるのか?」、「羊蹄山トライアスロンのこと、忘れたわけじゃねえだろうなっ」と荒々しい声が乱れ飛ぶ。
営業は満足そうに笑みを浮かべると「じゃあね師匠。またその笑顔を見せてくださいねー」と柚月へ手をあげた。そして「それっ」と駆け出した。
「抜け駆けかよこの野郎」、「卑怯だぞっ。師匠、またねー」、「師匠―、公武をよろしくー」「師匠―、がんばれよー」、「公武、お前もなー」とほかの社員もひとりまたひとりとグランドから出ていく。
あまりの素早さに柚月は声をかける暇もない。
松前も「では」とバックパックを背負う。そして柚月へ片手をあげる。
「公武のことをお願いします。お互いがんばりましょう、師匠」
「え、あ、ありがとうございました。本当に本当に──ありがとうございましたっ」
駆け出した松前へ大きく手を振る。後ろからも声がする。
「おじちゃんたち、ありがとー」、「気をつけてねー」、「おにぎりおいしかったー」、「ごちそうさまでしたー」、「助かったよー」……。
いいたいこと、伝えたいことは山ほどある。
みなさんだって被災者なのに無償でこんなにがんばってくれて、どれだけ助かったか。どれだけ感謝をしても足りない。
松前が校門の角を曲がり切るまで手をあげているのが見えた。その姿が見えなくなって、ほうっと息をはく。「ねえねえ」と五歳くらいの男の子が柚月の手を握ってきた。
「どうしてお姉ちゃんはシショウなの?」
えっと、と言葉に詰まる柚月へ公武が代わりに答える。
「お姉ちゃんは実はさ、『おにぎりん』の師匠なんだよ」
ええっ、と男の子だけではなく、近くにいた女の子やその兄弟が一斉に声をあげた。その両親らしい大人まで大きく口を開けている。「すっげー」、「かっけー」、「師匠ってなに?」、「先生って意味だよ」、「お姉ちゃん、すごーい」と声があがる。
たまらず柚月は両手で顔をおおった。
「恥ずかしいからやめてほしい」
「いいじゃないですか」
「公武さんまでそんなことを」
「まぎれもなく柚月さんは僕と『おにぎりん』の師匠です。これからもどうぞご指導をお願いいたします」
公武は誇らしそうな顔をして柚月へ丁寧に頭をさげた。
*
その翌日のことである。
柚月のスマートフォンに長い長いメッセージが届いた。
陽翔からだった。
──柚月、元気か?
──ちゃんと飯、食ってるか?
──って、知ってる。食ってるよな。
──公武さんからメールをもらった。写真つきだった。おにぎりの写真。
──めちゃくちゃうまそうでしょ。おれもいますぐそっちへいって、柚月のおにぎりを食いたくなった。この前のおにぎり、めちゃうまだったもんなあ。
──そこの避難所とここの避難所ってどんだけ離れているのかな。チャリはパンクしたままだから歩きだとどれくらい時間がかかるかな。
──なーんてさ、うそうそ。いかないから安心して。おれの方は、まだマズくてさ。いまここで両親のそばを離れたら、今度こそ関係を修復できなくなる。
──避難所にいれば人目もあるから変なことをいってこない。この間に少しでもおれの気持ちを伝えなくちゃって思うんだけど、これがさ──。
──実はさ。おれ、両親にまくしたてられているとき、頭の中が真っ白になるんだ。身体もこわばって声もうまく出なくなって、反論なんてとてもできない。返事だってさ。反射的にしているだけでさ。
──そこから「自分の気持ちを伝える」までになるのって、はるかすぎる道のりだよ。
──油断するとあっという間にくじけそうだ。もういっそ、関係修復なんて無茶でしょって叫びたくなる。
──それでもいいかなとも思うけどさ。じゃあ、どうやってこれから生きていくのかとか思うとさ。きついしさ。
*
そこまで読んで、うん、そうだね、と柚月は画面から視線をそらす。
高校生。未成年。
義務教育は終えたけれど、だからって覚悟もなく社会へ出るのはとても難しい。
親と折り合いが悪い。だから家を出る。
そのあとは? どこで暮らすの? 公武さんがいうような保護施設があるかもしれない。どういう手続きをすればいいの? 働くならどうすればいいの? しかもいまは災害時。いつもより難しいだろう。
ほうっと息をはく。わたしたちは本当にまだ子どもなんだなあ……。
ふと公武の言葉を思い出す。
──力になります。全力で支えます──。
鼻先が熱くなる。
そういってくれる人がいて、陽翔くんはどんなに心強かったかな。
目尻に浮いた涙をぬぐって視線を画面へ戻すと、『愚痴がいいたくてメッセージを送ったわけじゃないんだ』と続いていた。キリッと顔を引きしめたカニのイラストスタンプが続いている。
──公武さん、もうなんなの?
──おれのほうが本当にもうさ、泣きそうなんですけど。
なんのこと? と首をかしげる。
──おれの気持ちはめちゃくちゃわかってくれているのに。どうしてあの人、自分の気持ちをまーったくわかってないの。自分の気持ちっていうか……柚月の気持ちっつうか。
ドキッとする。わたしの気持ち?
──こんなこと、おれに書かせんなよってもんだけどさ。
な、な、なんの話?
──……あの人、いまだにおれと柚月の仲を気遣うんだぜ?
へ? と気持ちの芯がヒヤリとする。
──あの人の気持ちなんて、あの海の日の出来事だけで十分すぎるくらいわかったのに。それでもあの人は『君がここにいたらいいのに』とか『柚月さんの隣にいるのが僕ですみません』とか書いてくるんだよ。ばかかっていうの。
いくつか鼻息をあらくするカニのイラストスタンプが続いていた。それから──。
──柚月。
──がんばれよ。
さらに続くメッセージを見てハッとする。
──公武さん、柚月がいないと、きっと駄目になる。
──あの人の一生懸命ってさ。危ないところがあるだろ?
──真っ直ぐすぎて怖いくらいだ。いうこともやることも正しいからさ。誰も止められないしさ。
──けどさ。……正しいことってさ。だからこそ、鼻につくとかいって邪魔されたり傷つけられること、多いだろ?
あ、と眉が揺れる。
それは──うん。この避難所でもなんどか受けた。続く文面を読んで、さらに身につまされる。
──正しいことをやっているって思いがあるから、なにかトラブルがあっても途中で止められないし、誰かのせいにもできない。自分を責めるだけだ。
──きっと公武さん、いままで誰にもいえないことが山ほどあった気がするんだ。
──そうでなくちゃ、おれのことだってこんなに理解できないよ。身に覚えがあるからわかってくれるんだよ。気にしてくれるんだよ。なにがヤバくてなにが問題なのかもわかるんだ。
──そうだろ?
……うん。柚月は目を閉じる。
本当に──公武さんは、正しい。
いつだって欲しい言葉をくれた。
陽翔くんが行方不明になったときも、海へ向かう車の中でも、それからこの避難所でもなんど公武さんの言葉に救われたか。
サンゴの話だって公武さんに打ち明けて背中を押してもらったから、わたしはお父さんへ伝えられた。
公武さんはどんなときも適当に話を流したりせず、しっかりと受け止めて、一緒になってあれこれ考えてくれる。どんな言葉もその場しのぎじゃない。心に響く、熱い思いだ。
どうしてそんな言葉をかけてくれるのか。
それってやっぱり、いままで自分がそうして欲しかったからじゃないかなあ。
自分がもらえなかった言葉で、もらえたら嬉しい言葉。いつか誰かに伝えたいなって思っていた言葉。公武さんのくれた言葉はそうやって準備していないと出てこない言葉ばかりだったもの。
そういう公武さんだから『おにぎりん』をあんなに素敵に動かせるんだろうけど。
……だけど──。
柚月の不安を代弁するように、陽翔のメッセージは続いている。
──なんだかさ。……泣きたくなるんだ。公武さんとメールのやり取りをしているとさ。この人、このまま倒れちゃうんじゃないかって怖くなる。
──だからさ。
──柚月が支えてやってくれよ。
目を見張る。
──頼むよ。
まばたきをするのも忘れてその文字に見入る。
鳥肌が立って身体が震えた。ポロリと涙がこぼれ落ちる。
陽翔くんが──どれだけの決意でこのメッセージをくれたのか。
公武さんの車の中でわたしのことを……好きっていってくれた陽翔くん。その陽翔くんにわたしは……ここまでいわせてしまった。わたしがハッキリしないから。
どうしてわたし、こんな中途半端な気持ちのままで二人に甘えていいって思ったんだろう。
お父さんが陽翔くんを気にかけてやれっていったから?
避難所でいつも公武さんがわたしを気にかけてくれるから?
それとも地震で大変だから許されると思った?
そんなの。唇を噛みしめる。なんの理由にもならない。
陽翔くんにここまでいってもらわないと、なにもしないって、わたし、どれだけズルいのよ。
顔をあげる。大きく息を吸う。必死で笑顔を作る。かっこ悪くてもなんでもいい。陽翔くんにここまでいわせて、なにもしないなんてある?
そっとスマートフォンをタップする。
陽翔への返信。あれこれ書き連ねるのはただ見苦しい言い訳に思えた。陽翔の全力のメッセージを真摯に受け止めた、その証となるように柚月は簡潔に入力をする。
──ありがとう。がんばる。
*
その昼過ぎだ。
体育館の掲示板の前にいつもに増して人垣ができていた。
小清水もいて「柚月ちゃん」と手招きをする。「どうしました?」と近よると、「これこれ」と貼り紙を指で示された。
花火大会のお知らせ、とあった。
「え? グランドでやるんですか?」
「違うって。毎年やってる新聞社主催の打ち上げ花火大会だってさ」
「ええっ。こんなに地震が続いているのに打ち上げ花火だなんて大丈夫なんでしょうか? わたし、てっきり中止になったとばかり思っていました」
「あたしも驚いたさ。しかも協賛企業も百社近くあるってさ。よっぽど気をつけてやるんだろうね」
「百社っ? そんなにっ? しかもこれ、今日ってありますよ? 急すぎませんか?」
「天気はいいからね。開催に問題はないだろうね」
あれ? と柚月は首をかしげて文面を読み直す。
「開催場所が書いてありません。どこでやるんでしょう」
いつもなら札幌市を南北に流れる一級河川、豊平川の河川敷で開催される。中島公園の近くで大変な人出となる花火大会だ。そこまでいかなくても天陣山でも見えるので巌が張り切って柚月を誘うのが常だった。
毎年札幌市民が楽しみにしている花火大会だった。
「やっぱり河川敷でやるんでしょうか」
うんにゃ、と沼田が話に加わる。
「そこじゃやらないって話さ。それこそ余震が続いているからな。見物客が押しよせたら危ないさ」
「だったらどこで?」
「どこでもだべ」
「へ?」
沼田は満面の笑みでもう一枚の花火大会のお知らせを指さした。
『花火は避難所からもご覧いただけます。避難状況に合わせてお楽しみください』とある。
「なんでもデカい尺玉を打ちあげるって噂だ。どこからでも見えるようにってさ。応援花火だな」
札幌市民よ、避難生活は大変だけど、ともにがんばって乗り切ろう──。そういうエールらしい。
「へえ、花火大会ですか」
公武がお知らせの貼り紙をのぞき込んでいた。
途端にドキンと胸が鳴る。公武は「何時からなんですか?」と柚月へ顔を向けて、なぜか「あ」と視線をそらした。ギクシャクした動作でお知らせの文字を目で追っている。
「阿寒さん、なんだい? 腹でも痛いのかい?」
「いえ、そういうわけでは」と歯切れ悪く沼田へ返して、お知らせへ視線を戻している。
……そういえば陽翔くんは公武さんにもメッセージを送ったとか書いていたっけ。陽翔くん、なにを書いたんだろう。
そうじゃなくて、と顔をあげる。
これは絶好のチャンスだ。
目を閉じ呼吸を整える。小さくうなずいて公武へ「あの」と声を出した。同じタイミングで公武も「あの」と呼びかけていた。へ? と互いに笑い顔になって再びあげた声、それがまたゆるく重なる。
「花火を一緒に見ませんか?」
いまだ地震は続いている。
いつもっと大きな地震が起きるかわからない。
だから、この避難所から気軽に外へ出るのは控えるべきだ。それでも──。
柚月は公武へ「あの」と声を出した。
「着替えに戻りたいんです。家へついてきていただけますか?」
──ひとりで帰るな。阿寒についてきてもらえ。
巌のいいつけだ。せめてそれは守ろうと思った。……危険ですと止められるかな。ビクビクして公武の反応をうかがう。
けれど公武は「いいですよ」と明るく返した。
「僕も着替えを取りにいきたかったんです。すぐにすみますから、寄ってもいいですか?」
「あ、はい。もちろん」
「明るいうちがいいですよね。さっそく出かけましょう」
公武はてきぱきと小清水たちへ断りを入れる。これまた拍子抜けするほど「二人で? なんもなんも。いいんでないかい?」と快諾された。小清水も沼田も満面の笑みだ。
……あー、なんか期待されているなあ、と思いつつ手渡されたヘルメットをかぶる。
追い出されるように正門を出てハッとした。
道路のそこかしこに亀裂が入っていた。避難してきたときよりずっと多い。
思わず立ち止まってあたりを見回す。鉄骨がむき出しになったブロック塀。凹凸だらけの舗装道路。電柱は傾き、電線はそこかしこに垂れ下がっている。通りの反対側では半壊している民家も見えた。
「大丈夫ですか?」
公武の声で我に返る。「ああ、はい」と出した声が思いがけずかすれた。
……情けない。拳を握る。地震が起きているんだから。こんな光景は当たり前で、びっくりすることなんてなにもなくて。お父さんからもさんざん聞かされていたことで──。
ふわっと右手があたたかくなる。公武が手をつかんでいた。
「僕がいます。大丈夫です。あわてなくてもいいのでいきましょう」
そのまま公武は柚月の手を引っ張って歩き出す。
公武の手があたたかくてホッとする。同時につかまれた右手に公武を感じでドキドキする。先に立ち寄った公武のアパート前で「すぐに済みますから」と手を離されると、心もとなさが押しよせたくらいだ。
だからだろうか。
ひとりになって見回した街。それが異様なほど静かだった。
人の話し声はもちろん、車の音、モーターの音、ドアを開け閉めする音に機械音、人が起こす音という音が聞こえなかった。街がシンと静まり返っている。唾を飲み込む音も大きく聞こえる。
不意にドアが開く音がした。ビクッと身体が大きく跳ねる。出てきた公武が目を丸くする。
「す、すみません。驚かせましたか?」
「い、いえ。あんまり静かだったのでドアの音が大きく聞こえて」
へ? と公武は視線を外へやる。
「そうですか? 僕はけっこううるさいって思いました。ほら、葉がこすれる音とか虫の音とかカラスとかハトとかスズメとか。人がいないせいか、やたら大きく聞こえて」
それにほら、と公武は笑みになる。
「リスです。エゾリス。自転車で会社へ向かっていたときには、悠々と車道でじゃれ合うエゾリスたちも見ましたよ」
プッと噴き出す。目尻に涙まで浮かぶ。ああ本当に公武さんはすごい人だなあ。
「僕、なにか変なことをいいましたか?」
「いえいえ。お仕度、早かったんですね」
「ちょっと着たいものがありまして」
そういって公武は大振りな手提げカバンを見せる。嬉しそうだ。
「ではお待たせしました。柚月さんのお宅へいきましょう」
笑顔のまま公武は柚月の背中を押す。
そこから歩くこと数分。たどりついたマンションの中は予想どおりに薄暗かった。窓明かりを頼りに階段を進む。暗い中で家の鍵を開けるのもひと苦労だ。普段はカードキーなのでなおさらだ。
この分だと家の中も作業も大変だろうなあ。そう覚悟したのだが──。
玄関扉を開けた途端だ。
まぶしいほどの灯りがついて柚月と公武の顔を照らした。
「え?」
二人そろって中を見回す。
「乙部先生が?」
「右手にケーブルが続いている。ちょっと見てきます」
靴を脱いでリビングへ向かう。「気をつけて」と三和土で公武の声がする。
リビングへ入って息をのむ。ひとかかえはある黒い箱が三、四個あった。蓄電池だろう。そこから玄関へケーブルが延びている。
ソーラーパネルも震災直後に見たものよりたくさん窓際に並んでいる。
さらにクリップライトがあちこちにあって、部屋を隈なく照らしていた。
「すごい。これ、ぜんぶ自転車で運んできたのかな」
ひょっとして、と自分の部屋へ向かう。そこもまたすぐに灯りがついた。本棚へクリップ式ライトがついていた。それが明るく部屋を照らした。
公武も「うわー」と声をあげている。
「これはすごい。乙部先生は、いつ柚月さんが戻っても大丈夫なように準備されたんですね」
そうか、と両手を胸で合わせる。
──柚月が転ばないように、怪我をしないように──。
配線から父の思いが伝わってくるかのようだ。……ありがとう。頭をたれる。
それから、この明るさなら、と顔をあげる。
避難所へ戻らなくてもここで十分なんじゃないかな。
クロゼットを開いて箪笥を引いた。奥からそっと──浴衣を取り出す。
ここへ取りにきたもの、それはこの浴衣だ。
浴衣を着て、花火を見たかったのだ。
この非常時に浮かれた行為だとはわかっている。
たぶん──避難所の中学の同級生にはよくは思われないだろう。それでも、いつもと違う姿で公武へ自分の思いを伝えたかった。
小清水に着付けを手伝ってもらえたらと思っていたけれど、この明るい室内を見て気持ちが変わった。この場所でひとりで着てみたい。その思いが強くなる。「あの」と公武へ声をかけた。
「着替えてもいいでしょうか。……三十分くらいかかりそうなんですけど」
「構いませんよ。ゆっくりなさってください。僕はここで待たせていただきますね。ただ、地震があったらあがらせていただきます」
「そんな。どうぞあがってください」
「いけません。乙部先生に叱られます」
公武の頑固さはこのひと月少しでよくわかっている。では、と折れて自室へ入った。
浴衣をベッドの上へ広げる。
淡黄色の地へ菊模様の浴衣、それに紺と桃色の半幅帯だ。祖母がそろえてくれたものだ。先に髪をアップにして、それから、と鏡の前で悪戦苦闘だ。
数十分かけてなんとか形にする。おばあちゃんに習っておいてよかった。
開け放した玄関扉へ「お待たせしました」と声をかけた。
「もういいんですか?」と顔をあげた公武が目を見開いた。
まばたきもせず柚月を見つめ、呆けた顔つきのまま「……きれいだ」とつぶやいた。嬉しくて柚月はそっと視線を伏せた。
「あ、あの、僕も着替えていいでしょうか」
「もちろんです。どうぞ中へ」
「いえ、ここで結構です。扉だけ開けたままにしていただけますか? この灯りで十分です。誰もいませんし、すぐにすみますから中で待っていてください」
そういうやいなや、公武は玄関扉の向こうへいってしまった。
えっと、あの、と視線を揺らす。じゃあ、いまのうちになにかしておこうかな。
「そうだ。お父さんにメモとか?」
ふと視線を巡らし、玄関キャビネットにメモがあるのに気づいた。
読み進めて鼻先が熱くなる。
……お父さん、自分だってすっごく疲れているのに。大変なことばっかりなのに。それなのに──いつもわたしのことをこんなに考えてくれて。
メモを強く胸に当てる。……ありがとう。
「お待たせしました」という公武の声で我に返る。十分もたっていない。
「本当に早いですね」といいかけて、今度は柚月が目を見開いた。
公武も浴衣姿だった。
「……どうして」
「こんなときですけど、せっかくの花火大会ですからどうしても着てみたくなって。柚月さんもだったんですね」
明るいグレーの本麻浴衣に茶とグレーの縞模様の正絹角帯だ。実に着慣れた感じである。
「着付け──お出来になるんですね。すごいです」
「柚月さんこそ。おばあ様に習ったんですか? 僕は剣道をするので道着をつける習慣がありまして。和服も好きで実は割と着ます」
……似合いすぎです、と柚月はキュッと唇を結ぶ。
不意にポンポンと弾けるような音が外から聞こえた。
「花火?」と公武と顔を見合わせる。スマートフォンの時刻を見るとそろそろはじまる時間だ。「いきましょうか」といいかけた公武が、「あ」と声を出す。
「──浴衣を着ることばかり頭にあって忘れていました。この格好では暗い廊下や階段は危険ですね」
「確かに。下駄は我慢したほうがいいかも。ただ灯りは大丈夫です」
首をかしげる公武を手招きする。さっき見つけた巌の書き置きを見せる。
──帰りにはこれを押せ。十分で消える設定だから、つけっぱなしでも気にしなくていい。そうあった。
「これです」
そういって柚月は示されたスイッチを押す。途端に通路から階段、それに踊り場まで明るくなる。床に設置した投光器が足元からしっかりと照らしていた。
「ぜんぜん気づかなかった。これも乙部先生が? ……さすがです」
公武は口を開けて通路を見回す。いつもなら「そんなこと」と返す柚月も、素直に「はい」とうなずいた。
巌へ礼をしたためたメモを残して戸締りをする。明るい階段を安心して階下へと進む。ときおり地震が起きたけれど、明るいというだけで心強かった。
そんなマンションを出て薄暗い中へ戻ったころだ。
不意に公武が「今朝」と声を出した。
「陽翔くんからメールをいただきました」
ハッと公武へ顔を向ける。
今朝届いたのなら、陽翔は柚月へメッセージを送るのと同時期に送ったのだろう。
「少し励まされました」
「『おにぎりん』のことですか?」
「いえ」と公武は立ち止まる。マンションからの灯りにうっすら照らされて、公武は柚月へほほ笑んだ。
「あなたの笑顔のことです」
「え?」
「──そんなふうに笑ってくださって、ありがとうございます。とても得難いことだと、彼からいわれました。本当にそうだと思います」
……陽翔くん、なにをいったの、と視線を泳がせる。
そこにいっそう花火の音が大きくなる。街路樹の間、それにマンションの隙間からまぶしい光が見えた。街灯も家の灯りもなにもないので目を見張る明るさだ。それだけでなく──。
「え? こっちでも? あ。あっちでも」
ポンポンと音が響くにつれて、もう歩きながらなど中途半場にしていられず立ち止まる。公武もうわずった声を出す。
「これは──すごいですね。開催場所なんて関係ない。まさに、どこからでも見える」
それくらい、あちこちから花火があがっていた。
四重芯菊の花火が立て続けに三発あがった。左手では牡丹花火が夜空を飾る。
続いて柳花火が大きく火の粉をのばし、そのすぐそばで打ちあがった花火は中心から光の筋をパッと開いた。
正面だけではない。背後でも次から次へと花火があがっていた。
菊花火や牡丹花火の合間にパンパンと花蕾花火が光と火の粉で夜空を飾る。空高く打ちあがった花火は千輪の小さい菊をいくつも咲かせていた。
続いて数発どころか何十発も立て続けに打ちあがった。すべて同じ金色の菊。息をのむ迫力で真昼のような明るさだ。
音も盛大だ。
ピリピリと響く音に頬が震える。休むことなく夜空へあがる閃光と胸に響く音を聞いていると鳥肌が立った。
避難所で花火大会の知らせを聞いて、単なる応援花火と高をくくった。応援どころではない。震災がなかったら、できなかったくらいの規模の花火大会だ。
公武がボソリと声を出す。
「……花火って」
花火の音にかき消されそうな声だ。聞き逃さないように柚月は公武へしっかりと顔を向けた。
公武は柚月へ顔を向けつつも花火へ視線を送って続ける。
「生きていくうえで必要不可欠なものではありません」
だから、と公武は苦笑する。
「正直──どうしてこんなときに花火大会なんてやるんだろうって思っていました。互いに励まし合いたいのであるなら、もっとほかにやるべきことがあるんじゃないかって」
それこそ──『おにぎりん』のように、誰かの腹と心を満たすもの。探し出せば、『おにぎりん』のような役割を果たすものはもっとほかにあるはずだ。
「そう偉そうに思ってもいました。お恥ずかしい話です。そんなわけありませんよね。こうして桁違いの花火を見せられて、感じたことがないほど気持ちがたかぶっています。『おにぎりん』は食べたり参加した人しか体感できない。けれど、花火は見あげたすべての人を元気にする。すごいです」
柚月は花火へ視線を移す。
夜空に広がる火花。腹に響き渡る、その音。本当に、と唇が震えた。鳥肌が止まらない。なんどでも肩から指先へと広がっていく。
花火だけではない。見あげた花火のすぐその横。公武の横顔。柔らかく笑みが広がるその頬。すっと伸びた鼻先。涼しげな目元。浴衣のしわすら見ているだけで切なくて苦しくて胸がいっぱいになる。
──がんばれよ。
陽翔のメッセージがよみがえる。柚月、がんばれ。文字が陽翔の声になって脳裏へ広がる。鼓動が早くなり、身体が熱くなって、柚月は公武へ手を伸ばした。その浴衣の裾をしっかりとつかむ。
「どうしました?」
公武は首を少しかたむけて柚月へ振り返った。柔らかい笑顔だ。「公武さん」と声が出た。
深呼吸をして続ける。
「わたし──公武さんのことが好きです」
公武が目を見開いた。
その驚いた顔を見て、柚月は思わずひるむ。
……驚くってことは、わたしのことをそんなふうに見たこともなかったってこと、かな。みんなが公武さんはわたしをっていってくれたから、わたしは調子に乗っていた? ただの、わたしの空回り?
指から力が抜ける。公武の浴衣から手が離れそうになる。唇を強く結ぶ。
それでもわたしは。
目に力を入れて公武の浴衣をつかみなおそうとした、そのときだ。
浴衣から離れそうになる柚月の指を、公武がつかんだ。呆けたような顔でおそるおそる公武は声を出す。
「──僕で、いいんですか?」
大きく眉が歪む。いくつもの陽翔の声がよみがえった。
──あの人、いっつも自分の気持ちは後回しにして、おれのことを気づかうんだ。『柚月さんの隣にいるのが僕ですみません』とかさ。
──柚月じゃないと公武さんを支えられないよ。公武さん、駄目になるよ。
──頼むよ、柚月。
目を閉じ、胸で「うんっ」と叫ぶ。まかせて陽翔くん。大きく肩をあげて「わたし」と口を開いた。
まさにそのときだった。
スマートフォンが鳴った。
腕からさげていたサコッシュの中で花火に負けない大音量を鳴らしている。
なにかあるといけないからと、避難所を出るときに公武から指摘されて音量をあげていた。あわてて取り出し発信者を見る。
父・巌だった。
咄嗟に画面に触れてしまって巌の大声があたりへ響く。
『柚月―。どこにいやがるっ。避難所へいったら、お前いないしっ。返事しろやーっ。無事かーっ』
「無事ですっ」と思わず公武が声を返す。
『阿寒か? なんでお前が出る。一緒にいるのか? 柚月から離れろや、この野郎っ』
「荷物を取りに家へいきたかったの。家に帰るときは公武さんについてきてもらえってお父さんがいったから頼んだのよ。小清水さんたちにも伝えておいたわ。それからお父さん、家の灯りだけど──」
『昼間にいけよっ』と声をかぶせられた。礼をいいたくても伝えられない。
『俺はお前と一緒に花火を見たくて必死で戻ったのによおっ』
「ああそれは本当に申し訳ありません」
『だからなんでお前が口を出す? 柚月になにかしたら承知しねえぞ。さっさと離れろやっ』
ああもう、となんだかばかばかしくなって笑い声が出た。『笑いごとじゃねえぞゴラ』と巌がいえばいうほど笑みになる。
不意に公武が真顔になった。真剣な眼差しで柚月を見ていた。
「公武さん?」
「柚月さん」
怖いほどの真っすぐな眼差しで公武がスマートフォンごと柚月の手を取る。
「──あなたのその笑顔を、ずっと見ていてもいいでしょうか」
「え?」
「あなたのそばで、あなたの隣に、これからもずっと、僕はいてもいいでしょうか」
唇が震えた。眉も震える。呼吸をするのが苦しくなる。それを必死でこらえて声を絞り出す。
「──どこかへいっちゃ、嫌です。ずっと、ずっとそばにいてくれなくちゃ嫌です」
柚月さん、と公武の顔がくしゃりと崩れる。
「僕も──僕は、あなたが好きです」
はい、と柚月も顔をくしゃくしゃにする。胸がいっぱいでなにも考えられない。花火に照らされる公武の顔を、ただひたすらに見つめていると『くっそー』とスマートフォンから巌の怒鳴り声が聞こえた。
『筒抜けだぞっ。お前ら、親の前でこんなに堂々と。ふざけんなゴラっ』
あ、と二人そろって我に返る。
「えっと、あのね」、「これはですね」と電話口でしどろもどろになり、それを巌が『うっせーよ』と吠える。
『ちくしょうっ。柚月っ。阿寒を泣かせんなよっ』
「わたしっ?」
思わず声が裏返る。
ひときわドンと大きい音がして尺玉があがった。
その音につられて公武と同じタイミングで顔をあげる。
大きな大きな丸い花火、それから次から次へとあがる柳花火。空が金色に染まる。そしてそのあとにあがった花火を見て息をのむ。
サンゴのかたちの花火だった。
大きいサンゴ、小さいサンゴ、丸いサンゴに枝のサンゴ。それが立て続けに百発近く。まさに夜空のサンゴ礁だ。背中いっぱいに鳥肌が立っていく。ああ、と目尻をさげて胸でつぶやいた。
おばあちゃん、それから──お母さん。
あのね、わたし──好きな人ができたの。
その人は頑固で一途で頼りになって、すっごく頑張り屋で、ついつい応援したくなって──そういうところがお父さんにそっくりなの。
──お母さんがお父さんに恋した気持ちもこんなだった?
シュッツとひと際大きく打ちあがる音がした。数えきれないほどの黄色い火花の柱が夜空へ向かっていく。それから開く花火。そのどれもがスマイルマークだった。夜空いっぱいの笑顔だ。その壮大さに公武と顔を見合わせる。
不意に地面が揺れた。地震だ。
公武が支えるように柚月の手を取る。柚月もその手を握り返す。大きくて温かくて、安心できる手だ。
これからも、と思った。地震はあるだろう。火山も噴火するかもしれない。台風だって北海道へたくさんくる日がくるかもしれない。
でも、と口角をあげる。公武の目を見る。
大丈夫。ちゃんとやっていける。
こうして大切な人と手を取りあって笑っていく。そしてときには一緒におにぎりを食べるのだ。
ずっとずっと、いつまでもずっと。
笑顔の続きは、これからだ。
(了)
【参考引用文献】
「天神山マップ」2.地理・歴史 札幌市豊平区ホームページ https://www.city.sapporo.jp/toyohira/machi/furemachi/tennjinnyama.html
AIとロボットは「労働集約の食産業」を変えるか? おにぎりロボットに感動した理由とは ビジネス+IT
https://www.sbbit.jp/article/cont1/89776
避難所設営マニュアル 札幌市ホームページ
https://www.city.sapporo.jp/kikikanri/hinanjyouneimanyuaru.html
想定死者数8000人超 札幌直下地震を引き起こす“月寒断層”財界さっぽろオンライン
https://www.zaikaisapporo.co.jp/news/news-article.php?id=14896
切迫!千島海溝沿い巨大地震と津波 NHK北海道WEB
https://www.nhk.or.jp/hokkaido/articles/slug-nd6b704fa7859