誰かを好きになって、その相手からも奇跡的に好きだと言われて、お付き合いを始めるというのは、どういう気持ちなんだろうか。
理絵ちゃんを見ていても私にはさっぱり分からないし、想像もつかない。
もちろん、あまかよが世界に存在しなかったころ、私にも人を好きになった経験くらいはある。
ただ、彼女が出現後の世界では、大抵「ぽちゃかよ」と呼んでからかってくるのは男子だったので、そんな人間のことをわざわざ好きになる必要はないと判断した。
特に、イケメンという人種が全般的に苦手だ。
彼らにはからかわれた思い出しかない。
望月さんに出会うまでは、優しいイケメンというのはテレビの中か漫画の中にしかいない空想上の存在だと信じて疑わなかった。
優しくないイケメンはぽっちゃり体型の私をからかうほど暇な人たちだと軽蔑してきたし、今でもできる限り周到に彼らとの関わりを避けて生きている。
それは、コミュニティの中でも、あるいは単にすれ違うだけの赤の他人であったとしても同じ。
なぜなら、いついかなるときにからかいの標的にされるのか分からないから。
彼らは王様だから、自分の好きなときに好きなことをする。
ぽっちゃりの私を見つけて、急に面白半分にからかい出すのもその一環で行われる。
突然標的にされる側の気も知らずにいいご身分だ。
理絵ちゃんと山本さんが付き合うことになったとき、初めて彼女とケンカした。
一年で最も寒い季節のことで、雪が降っては積もることなく溶けてなくなっていたのを思い出す。
彼女が山本さんを好きなことは、本人から聞いて知っていた。
三人ともアルバイト先では同じキッチン担当だし、私も山本さんと同じシフトに入ったことがある。
確かに、彼は柔らかい雰囲気だし、実際優しい。
私が失敗したときでも怒ったりせずにフォローしてくれる。
それでも、私のことを「ぽちゃかよ」と呼ぶ人間のことは信用できなかった。
山本さんも彼女を好きだったことにはまったく気づかなかった。
何となく、大学生が高校生を好きになることってあるのかなと疑問だったから。
私にとって、大学生は大人だ。
子どもと大人の世界は、広さも深さも違う。
一方は窮屈で、他方は自由。
一方は保護される立場で、他方は保護する立場。
何もかもが正反対の世界。
たとえ、アルバイト場所でその二つの世界が交わったとしても、そこに恋愛感情の交わりがありうるとは個人的には思えなかった。
なので、てっきり、理絵ちゃんの片想いで終わるものだと決めつけていたのだ。
だからある日、食堂でお昼を一緒に食べていて、彼女から「山本さんと付き合うことになったの」と報告されたときの私の衝撃の大きさといったらなかった。
文字どおりお弁当を食べる手が止まったし、食堂特有のざわつきが耳元からスーッと遠ざかった。
「……本当なの?」
割と長い沈黙の後、ようやく口にできたのは確認の言葉だった。
「山本さんから付き合おうって言われたのよ」
理絵ちゃんは、そのことがあまりにも嬉しかったのか、私の方を見ているようで見ていなかった。
もし、彼女が私を見ていたら、笑顔を作ることに失敗した私の真顔に気づいたはずだ。
「そう。おめでとう」
無理やり顔の筋肉を動かして口角だけ上げた。
それ以上のことを言わないよう、必死で抑える。
「理絵ちゃん、今日家に遊びに行っていい?
詳しい話はそこで聞きたい」
その後、食べるのを再開したお弁当は味がまったくしなかった。
理絵ちゃんの家は私の家にほど近いが、方角としては少しずれた場所に位置している。
学校から途中まで、いつも彼女と一緒に帰っている。
その日は一旦帰宅し、おやつを持って彼女の家に向かうことになった。
その日のおやつは、個包装された半冷凍のカタラーナ(凍らせた焼きプリンのスイーツ)だったけど、室温が低いせいか、なかなか解凍が進まない。
しばらく待っていたが、らちが明かないので解凍を待たずに家を出た。
外に出ると、切れるような冷たい風が吹いていた。
目の端に入ってくる木々が寒々しい。
今から、気分が滅入る話を彼女にしないといけないことは、切り出す私が一番よく知っていたが、それでも抜けるように高い青空を見上げていると、何だかものすごく申し訳ない気持ちになった。
「理絵ちゃん、入るよ」
勝手をよく知る彼女の家の扉を、チャイムを押すこともなく開ける。
彼女の部屋に続く暗い階段を一段昇るたびに、私の心は一段ずつ沈んでいく。
理絵ちゃんが座っているテーブルの真向かいに座り、テーブルの上にカタラーナを置いた。
彼女の部屋は暖かく、解凍は進みそうだった。
笑顔の彼女には言いづらいけれど、どうしても聞いておきたかったことがあった。
「山本さんが私のことなんて呼んでるか知ってるよね。
理絵ちゃんは、私がその呼び方どれだけ嫌がってるか知ってるよね。
なのに、なんでそんな山本さんと付き合うの?」
彼女の全身が、ギュッと強ばった。
「そのことと、私たちが付き合うことは関係ないと思う」
冷静に理絵ちゃんは答える。
「でも私は、『ぽちゃかよ』って呼ぶ山本さんを信用できない」
「それは香世ちゃんの問題でしょ。私の話とすり替えないで」
「だって」
「そんなに気になるなら、香世ちゃんが痩せればいいだけの話じゃん」
私は、吐き捨てるようにそう言った親友の顔を、信じられないという目で見つめた。
「そのことと、山本さんが『ぽちゃかよ』と呼ぶかは関係な……」
そこまで言いかけてようやく最初の自分の発言が自己矛盾そのものだったことに気づいてハッとする。
「そう、関係ないよね。
同じように、私と山本さんが付き合うことも関係ないんだよ」
諭すように彼女は言った。
私の完敗だった。
ベッドの枕元にいるウサギのぬいぐるみが、悲しそうな目で私を見つめていた。
「帰る」
そう言い残して立ち上がり、階段をドタドタ降りて理絵ちゃんの家を勢いよく飛び出した。
彼女が私を追って来ることはなかった。
いつの間にか、鉛色の雲が空一面に広がっている。
冷たく張り詰めた空気の中を走りながら、カタラーナを持って帰ればよかったと心底後悔した。
わたしの、私のカタラーナ。
理絵ちゃんの家に持って行かなきゃよかった。
ひとりで全部食べて飲み込んでしまえばよかった。
馬鹿な話をしに、わざわざ理絵ちゃんの家まで行った自分を殴って蹴り飛ばしたかった。
その日からしばらく、理絵ちゃんとは顔も合わさず、口も利かなかった。
当然、お昼も一緒に食べなかった。
自分の教室で食べるお昼ご飯がこんなにもつまらなくて味気ないと知ることができたのは、結果的に良かったかもしれない。
ケンカから二日目の昼休み、私は信洋のクラスの前にいた。
彼は私と理絵ちゃんよりひとつ学年が下なので、ネクタイの色が違う私は廊下で少し目立っていた。
教室の入口近くにいた男子に声をかけて信洋を呼んでもらう。
「ノブ、ぽちゃかよさんが呼んでるぞ」
ひとつ下の学年にも私のあだ名が知れ渡っているのは、多分信洋に原因がある。
しかし今日はそのことを咎めに来たのではない。
ご飯を口いっぱいに含ませて私のところまで来た彼に頼みがあったのだ。
「食堂でアイスおごるから、ちょっと付き合ってくれる?」
彼は無言でうなずき、ご飯を飲み込んでこう答えた。
「クリームパンもつけて欲しいんだけど」
彼のリクエストどおりクリームパンとアイスをおごってやって、食堂で空いている席に座る。
理絵ちゃん以外の人間と二人でこの空間にいると、違う場所に来たように感じられてどうにも落ち着かない。
「理絵ちゃんとケンカした」
単刀直入に切り出すと、信洋は驚くことなくクリームパンの封を開けた。
「知ってる。理絵から聞いた」
そうだろうと思っていたので彼に相談することにしたのだ。
誰にも言えなかった気持ちをぽつりぽつりと話し始める。
「私、本当は寂しくて悔しかったんだと思う。
理絵ちゃんを知らない間に取られた気がして。
理絵ちゃんのことは私が一番知ってるって自信があったのに、いつの間にか付き合ってて、その経緯を知らされなかったことが許せなかった。
おかしいよね。
理絵ちゃんのすべてを、他人の私が知ることなんて絶対できないのに。
でも、完全に思い上がってた。
本当は山本さんのことを信用できないことが理由じゃなかった。
だって、もし相手が山本さんじゃなかったとしても同じこと考えると思うもん。
とにかく言い過ぎちゃった。
私って本当にバカだね。
自分でも腹が立つ」
彼女に切り出した話を思い出しながら、自分の幼い思考回路に我ながらむかついてきた。
何様のつもりだったのだろう。
私もいいご身分だ。
「どうしよう、信洋」
すがるように彼を見た。
「それ、そのまま本人に言えばいいんじゃねえの。
クリームうめぇな」
人の話を聞いているような聞いていないような返事をした信洋は、あっという間にクリームパンを食べ終えた。
カップアイスの蓋を開けながら、彼は続ける。
「ただ、理絵が今後、友達を優先しようが、彼氏を優先しようが、それはぽちゃかよには口が出せねえ話だとは思うけどよ」
私は黙ってうなずく。
理絵ちゃんは理絵ちゃんで、私とは別の人間だ。
だから、私がコントロールしたり支配できるわけがない。
シンプルで当たり前のことだけど、彼女との距離が近くなりすぎて見えなくなっていた。
昼休みの終わりを告げる予鈴が鳴る。
「信洋、ありがと」
「またいつでもどうぞ。
次はチョココロネパンもつけてくれれば、だけど」
「調子乗るな」
まだアイスを座って食べている信洋の短髪の頭をわしゃわしゃと撫でて、教室に小走りで戻った。
ケンカから三日目の朝、私が彼女の家に謝りに行って、ようやく理絵ちゃんとは仲直りできた。
すべてを話せた訳じゃなかったけど、信洋の助言に従ってよかった。
後で聞くと、理絵ちゃんの方も私の言ったことが気になったらしく、山本さん本人にどういうつもりで「ぽちゃかよ」と呼んでいるのか直接確かめたのだそうだ。
彼の答えは「親しみを込めて呼んでいただけで、そんなに嫌がっているとは知らなかった」だった。
要は何にも考えていなかったってことだ。
「だからやめてもらったの。
私の彼氏として」
背筋を伸ばしてそう言う理絵ちゃんがたまらなくかっこよかった。
それ以降、山本さんには「雨宮さん」と普通に名字で呼ばれている。
次のシフトの日に出勤したとき、すでに望月さんのイケメンぶりが、女性の仲間内で相当な盛り上がりを見せて話題になっていた。
彼女たちの反応にしたり顔でうなずく。
あんな古代ギリシャ彫刻のような美青年を一般人が放っておけるわけがない。
私と同じ女子高生の仲間は、「むっちゃかっこいい! マジで好きになりそう」と、キャアキャア舞い上がって楽しそうだった。
そんな彼女たちが自分とは関係ない遠い世界の人間に感じる。
おそらく性格もいいだろうと思われる望月さんというイケメンに出会っても、それまでの私のイケメンに対する考えが簡単に変わるものではないし、イケメンに対する私の苦手意識を完全に取り去ることも不可能に近い。
それはもしかしたらものすごく損をしているだけかもしれないし、食わず嫌いをしているだけかもしれないけど。
望月さんは、容姿端麗さだけではなく、アルバイト仲間の中で抜群に接客がうまいホールスタッフだった。
それなのに、ファミレスでのアルバイトは初めてらしい。
常に笑顔を絶やさない、疲れた表情を見せないのはもちろんだけど、彼のすごいところはそれだけではない。
動きにキレがあるのに、ひとつひとつの動作には無駄がない。
かといって力んでいる様子はなく自然な振る舞いなので、見ているだけでも楽しめるらしい。
見た目からはギャップのある低めの声、その声の出し方、丁寧で過不足のない言葉遣いで、望月さんの言葉を聞いている人を気持ちよくさせてしまう。
一緒に働いているこっちまで見惚れてしまうほどだと、彼と同じホール担当の主婦パートさんが教えてくれた。
キッチンから料理を出すために設置してあるカウンターは、ホールからキッチンにスイーツのオーダーを通すときにも使われる。
そして、このファミレスでは、スイーツのオーダーだけは直接ホールスタッフからキッチンスタッフに通す仕組みになっている。
カウンターからキッチンをのぞき込みながら、望月さんが「山本さーん、フレンチトーストお願いしまーす」と、いつもは低い声を少し張り上げて注文を通す姿すら素敵なの、と女子高生の仲間(もちろんホール担当)もうっとりしながら教えてくれた。
対してキッチン担当のスタッフは、ホールからの注文を受けたとき、ホール担当には目もくれず「はーい」と事務的に答えるだけだ。
キッチンでは常に複数のメニューを調理していて、料理から目を離せない。
例えば、白倉さんに「ぽちゃかよー、チョコパフェお願い!」と言われても、同じく「はーい」とだけ返事をする。
だから、いくら望月さんから「雨宮さーん、パンケーキお願いしまーす」と言われても、残念ながら女性スタッフから称賛されている彼を含めて、カウンターを見る余裕はほとんどなかった。
このファミレスは、ホール担当の男性用制服が断トツにおしゃれだ。
普通の人間が思いつくのはホール担当の女性用制服を可愛くすることだけど、残念ながらこのファミレスでは女性用の制服はいまいち可愛くない。
それには理由があって、女性スタッフ目当ての変な客が来ないようにするためらしい。
ちなみに、キッチン担当は男女兼用の上下が白いコック服で統一されている。
男性用制服は、上がスタンドカラーの白いジャケット、下がくるぶし丈の黒いロングエプロンと黒いパンツ。その胸元では、名字がローマ字で刻印された金色のプレートがキラキラ輝いている。
これが、細身で長身の望月さんに恐ろしいほど似合っていた。
「この制服は彼のためにあったのか」と思わざるをえない。
どんなに私がイケメンを苦手でも、その制服が彼に似合いすぎているという事実については認めるしかない。
元来この制服は、中肉中背の男性が着れば、誰でも三割増しくらいでかっこよく見える制服になっている。
だから、普段私をからかって遊ぶ星野さんも白倉さんも、彼らがこの制服にひとたび着替えた姿は「結構イケてるじゃん」と密かに褒めていた。
しかし、望月さんの制服姿は、そのどちらも、いや、どの男性スタッフの制服姿をも凌駕する美しさだった。
その望月さんの美しさを放っておけなかったのは、何もアルバイト仲間だけではない。
ファミレスに来る女性客だ。
店長曰く、望月さんが入ってから、特に女性客が劇的に増えているらしい。
明らかに彼目当てらしく、呼び鈴が鳴って女性スタッフがオーダーを取りに行くと、あからさまにがっかりされるか舌打ちされると聞いた。
店の評判が落ちることを恐れた店長は、次のようなルールを作った。
女性客は基本すべて望月さんが、それ以外の男性客や高齢客、ファミリー客を望月さん以外のスタッフがオーダーを取りに行くというルールだ。
店のことしか考えていないように見える店長の対応に呆れるしかなかった。
そのルールを課すことで、彼の負担が増えるにしろ、他のスタッフの仕事は減るにしても増えることはない。
不公平なのが明らかだった。
それでも、そのルールを店長から打診されたとき、望月さんは嫌な顔ひとつせず、いつものように微笑みを携え「わかりました。やれると思います」と答えた。
そして、それ以降、店長が課した無理難題のルールに従っている。
いつもの美しい動作を崩すことなく、声を荒げることなく、疲れたそぶりを見せることもなく。
店長も集客までした上に不公平な負担の仕事の割り振りを文句ひとつ言わずにやりきっているアルバイトスタッフに対し、さすがに何もしないわけではなかった。
噂によると、望月さんには奨励金が出たらしい。
他人事ながら少しほっとする。
ブラック企業ではなるべく働きたくない。
パフェに乗せるためのアイスや生クリーム、パンケーキのバターなどは、キッチンではなく、キッチンから料理を出すカウンター付近で、ホール担当が料理に盛りつけをすることになっている。
その場所は、お客さんから見てガラス張りになっていて、ちょうどドリンクバーの目の前に位置している。
望月さんがアイスなどを盛りつける姿は、まるで天使が最後の晩餐を盛りつけているかのように清らかな姿らしく、その姿を一目見ようと女性客がドリンクバーの前に人だかりを作るようになっていた。
スイーツメニューの注文率も以前に比べると激増した。
おかげでキッチンの私たちは、単価の高いメインディッシュよりも単価の低いスイーツ調理にかかりっきりになっている。
また、彼には、シフト上がりを店の前で待ち構える熱心なファンまで出現した。
望月さんと同じシフトの日は、その出待ちファンを横目になるべく存在感を消して店から出ていくことにしている。
店長は定期的に外の見回りをし、出待ちファンを見つけ次第、丁重に追い払っている。ストーカー状態のファンについては警察への通報もしているらしい。
通常業務以外の仕事が増えている店長は心なしか疲れているが、店の売上げと評判は上々のようで、先日は本社社員が視察に来て、望月さんのサービスを見て感動していたらしかった。
すべてはホール担当からの情報だ。
ホール担当の事情通、あなどれない。
当の望月さんは帰るとき、芸能人のように帽子を目深に被り、顔が分からないようにして店を出る。
しかも、彼だけ特別に、普段はゴミ出しなどにしか使わないキッチン裏口からの出入りを指示されている。
人気者には人気者しか分からない苦労があるらしい。
ただし、店からある程度離れると、被っていた帽子を早速取り、先に店を出ていた私に駆け寄って来るのはやめてほしい。
望月さんファンの人に逆恨みされて殺されたくないと本気で考えている。
「おーい、雨宮さーん」
シフト中みっちり完璧に働いた後の望月さんは、前を歩いている私を見つけるや否や、まるで糸の切れた風船のように、ふわっと名前を呼んで近づいてくる。
上機嫌な彼は、さらに両手をぶんぶん振っているが、私は振り返ってできうる限りの冷たい視線を彼に送った後、そのまま自宅方向に足を進める。
熱烈な望月さんファンに見られていやしないか内心ヒヤヒヤしているのだ。
怖くて周りを確認できず、ギュッと身を縮めて下を向いて歩く。
追いついた彼をもう一度非難する目で見つつ「ファンの人に見られますよ」と忠告するのだが、望月さんは意に介さない。
「俺は大丈夫。
大丈夫じゃないのは雨宮さんだ」
「やめてください。
まだ死にたくない」
頭を抱えて早歩きで逃げる私を、いたずらっ子のような顔をして追いかける望月さんが、実に楽しそうにしているのが癪に障る。
やはり、彼もいいご身分だ。
これだから王様は困る。
民の気持ちを、ちっとも分かっていやしない。
「聞いてよ。
また望月さんがさ」
お昼どきの食堂で、いつものように理絵ちゃんに愚痴る。
「最近、望月さんの話ばっかりだね」
ぞっとすることを彼女が笑いながら言う。
違う、望月さんの話をしたくてしているんじゃない。
愚痴や不満を述べたら、それがたまたま彼に関連していただけ。
「それは気のせいだよ」
色んな理由を元に反論したかったが、食堂で一日三十食限定のカツ丼を食べていた私は、そう短く応えるだけにした。
そうしたのは、あったかいうちにカツ丼を味わいたい気持ちが勝っただけで、他に理由はない。
このカツ丼は、三百八十円の割に、トンカツの衣がサクッとして、卵がふんわりしていて美味しい。
しかも限定品だ。
より美味しく感じる。
「そんなに嫌なら、ハッキリ望月さんに言えばいいじゃない」
「言ってるってば」
「いいや、香世ちゃんの本気はそんなものじゃない」
理絵ちゃんが断言する。
「もっとガツンと言わなきゃ。
本当に嫌ならね」
「分かってます」
私は理絵ちゃんとケンカしたときのことを思い出し、心の中で、冷静にガツンと言う理絵ちゃんの本気具合には負けるよ、とつぶやいた。
毎週、全ての部活動が休みになる月曜日のとある帰り道、珍しく理絵ちゃんの機嫌が悪かった。
最初は、私が何かしたかな?と思い、気を遣って話をしていた。
自分が原因じゃないなと気がついたのは、スマホの着信音が鳴っているのに、彼女がそれを無視している理由に思い至ったときだった。
着信画面がチラッと目に入ったのだ。
「山本さんからの電話、出なくていいの?」
「……」
理絵ちゃんが問いかけに答えず黙っているなんて、相当珍しいことだった。
ははぁ、なるほどね。
鈍感な私でも察知できる。
今の彼女の行動には理屈が伴っていないのだ。
「ケンカしたんでしょ」
「まあね」
あいまいな返事をする彼女はまったくもって彼女らしくない。
「何が原因?」
「山本さんの寝坊。
デートに二時間遅刻してきた」
「それはひどい」
「でしょ?
何度電話してもメッセージ送っても返事が全然返ってこないから、体調が悪くなったか事故にでも遭ったかと思って、ものすごく心配しながら急いで山本さんの家まで行ったの。
そしたら寝起きで玄関に出てきたわけ。
怒鳴り散らして帰ってやった」
そのときのことを思い出してまた怒りがこみ上げてきたのか、彼女の口調が荒くなっている。
感情的な理絵ちゃんを見るのは、初めてに近かった。
「それでさっきから電話が鳴ってるわけね」
「メッセージも電話もくるけど、全部無視してる」
彼女の発する言葉がトゲトゲしている。
何だかいたたまれない気持ちになる。
普段見慣れないものを見ているせいかもしれない。
「今日、理絵ちゃんの家にこのまま行って話をしよう。
胸にたまってる気持ち、吐き出しなよ。
楽になるよ」
「香世ちゃん、ありがと」
彼女の涙目は、私の母性本能に火をつけた。
理絵ちゃんを抱きしめて、あやすように背中をゆっくりトントンと叩いてあげる。
山本さん本人にありったけの気持ちをぶつけて、それでも収まらない気持ちは、相手以外に吐き出すしかない。
吐き出す対象は、人でも紙でも何でもいいのだけど、私が怒りで苦しんでいる理絵ちゃんのために何かしたかった。
理絵ちゃんの家の近くまで来たとき、家の前に見慣れた人物が立っているのに気がついた。
「山本さん……」
理絵ちゃんが絶句する。
「理絵、本当にごめん」
突然、山本さんはその場に土下座した。
気まずい。
部外者の私、ここにいるの、とても気まずい。
「理絵ちゃん、私帰るね」と、小声で彼女に耳打ちするも、「一緒にいて」と止められる。
かくして私は、恋人同士の修羅場に立ち会うことになった。
理絵ちゃんが微笑みながら彼に促す。
「山本さん、謝るより他にすることあるでしょ?」
「理絵……」
笑顔の理絵ちゃんより、無表情の理絵ちゃんの方がずっとマシだと思った。
「再発防止策は考えてきた?」
「前日夜はゲームをせず、アラームをかけて寝る……」
「お酒も飲まない、でしょ?」
「は、はい」
「他は?
もし、もう一回同じことが起きた場合の対応は?」
「それは……もう今後は絶対寝坊しないから、考えなくてもいいかなって」
理絵ちゃんが更に優しく微笑んで周辺の空気がひんやり冷気を帯びる。
「山本さん、『絶対』なんて言葉を簡単に使わない方がいいと思う。
そうね、次に寝坊したら別れましょう」
「ちょっと理絵ちゃん、寝坊くらいで別れるなんてやりすぎなんじゃない?」
山本さんをフォローしようとしたが失敗した。
「『寝坊くらいで』?
私はそうは思わない。
そこはもう価値観が違うから、やっぱり別れた方がお互いのためになると思う」
「分かった。
理絵の言うとおりにするよ」
地面に正座したままだった山本さんがようやく立ち上がった。
ジーパンの膝部分が白く汚れている。
「じゃあ今度の日曜日、こないだと同じ時間に同じ場所で待ち合わせね」
そう言うと、理絵ちゃんはさっさと家に入っていった。
バタン、と荒々しくドアを閉める音が響き、再び静かになる。
私は、彼女のために何かするつもりが逆のことをしてしまったのではないかと怖くなった。
山本さんと私はお互い気まずい空気のまま、どちらともなく理絵ちゃんの家をそっと後にする。
曲がり角まで来たとき、背後で物音がしたので振り返ると、彼女の家に吸い込まれていく信洋の後ろ姿が見えた。
彼から、まだジャムパン代を返してもらっていないことを思い出した。
「何かあった?」
半歩先の角を曲がったところを歩いていた山本さんに問われた私は「何でもないです」と答え、先にいた彼に追いつくために足を速めた。
次の週明け、理絵ちゃんにやり直しデートの顛末を聞く。
山本さんは約束の時間の三十分前には待ち合わせ場所に到着していたらしい。
「周りを見渡しつつ私を待ってる山本さんがかっこよかった」
甘いため息をつきながら彼女がつぶやく。
なんだかんだ言って、理絵ちゃん、山本さんのこと好きだよな。
「ところで、理絵ちゃんは何分前に行ったの?」
「一時間前。
どのくらいの心構えで彼が来るのか試したの。
待ち合わせの時間になるまで隠れながら、彼を観察している時間が楽しかったな。
三十分前なら、まぁ合格でしょ」
彼女との約束はちゃんと守ろう、と決意したのは秘密だ。
「そうそう、あの日信洋が理絵ちゃんの家に入って行くのを帰りに見たけど」
「ああ、用事があったから呼び出したの」
「そうなんだ」
ご近所さんでもあるし、きっと私の知らない用事も色々あるのだろう。
毎日理絵ちゃんと一緒に下校しているので、授業が終わると彼女の教室に向かうのが放課後の日課だ。
私のクラスの担任教師は、ホームルームを終わらせるのが学年一早い。
彼女のクラスのホームルームが終わり、ドアが開いて蜘蛛の子を散らすように人が飛び出してくる。
出てくる人をある程度廊下でやり過ごしてから、教室をのぞいた。
理絵ちゃんは、クラスの男子と話をしていた。
彼と彼女の会話が終わるのをしばらく廊下で待っていたが、一向に終わらない。
談笑している二人の声が遠い。
しびれを切らして教室に踏み込む。
「理絵ちゃん、帰ろう」
彼女に声をかけると二人がこちらに顔を向け、驚くことに二人ともが笑顔で私を迎えてくれた。
知らない男子に笑いかけられ、緊張する。
その男子をまじまじと見ると、最近理絵ちゃんがホームルームの後、よく話をしている男子だと気づく。
「待ってて。
準備してくる」
彼女は遠めの自席に戻り、私とその男子がその場に残される。
「はじめまして。
葉山といいます」
葉山君は急に自己紹介をしてきた。
世界で一番嫌いな時間が訪れる。
「雨宮です」
警戒しながら短く応えた。
自己紹介をするときはいつも伏し目がちになる。
名前を伝えたときの相手の反応が怖いのだ。
葉山君は「よろしくね」と笑顔で言って、それきりだった。
拍子抜けする。
「知ってる。雨宮さん、『ぽちゃかよ』の呼び名で有名だもんね」くらいは言われるかと覚悟していたが杞憂だった。
望月さんのような希望の光が学校内にも存在していたなんて!
思わぬところでとんでもないお宝を発見し、俄然彼に興味を持った。
葉山君には失礼な話だが、苦手なイケメンではないことも私の中で好感度が高かった。
イケメンではなく、「ぽちゃかよ」とからかわない男子の前では自然体で振る舞える。
彼のことがもう少し知りたくなった。
「葉山君って、下の名前は何て言うの?」
「ひらがなで『みちる』」
「そうなんだ。
柔らかくていい名前」
人の名前はなるべく褒めるようにしている。
自分の名前が褒められる機会がないこともその理由だが、勘づいてしまう。
今回の葉山君で言えば、その名前を、女の子の名前みたいだと長年からかわれてきただろうことに。
これは私にしかできない、空気、いや、名前の読み方かもしれない。
傷ついている人は、同じように傷ついている他人をすぐに嗅ぎ当ててしまう。
「ありがとう。
名前を褒めてもらうってほとんどないから、嬉しいもんだね」
葉山君の明るい声は、私の勘が正しかったことを証明する。
そして同時に、褒め言葉を素直に受け取れる彼が少しうらやましい。
「お待たせ。
じゃあ葉山君、また明日」
「松本さんも、雨宮さんも、また明日ね」
彼が私たちに軽く手を振る。
私は驚きながらも会釈をして、理絵ちゃんの後に続いて教室を出た。
「理絵ちゃん、葉山君と仲いいね。
最近よく話してるでしょ」
山本さんのことが気になっていた。
「やだなぁ、山本さんのことなら大丈夫よ」
彼女から思考を読まれたかのような返事が返ってくる。
理絵ちゃんには、私の単細胞な頭の中なんて何でもお見通しなのかもしれない。
「葉山君はむしろ、香世ちゃんのことが気になっていると思う」
「まさか」
それはない。
いくら理絵ちゃんでも嘘は見逃せない。
私と彼は今日初対面だったのに、なぜ理絵ちゃんはそんなことに気づけるのか。
「香世ちゃんのことを聞かれたことがあるの。
それに去年、香世ちゃんと同じ文化祭実行委員だったって言ってたよ」
彼女が私の思考をすべて読んでいるかのように言葉を続ける。
本当にエスパーなのかもしれない。
もしかして私たち、口に出さなくても頭の中だけで会話できたりするんだろうか。
そう言うと、理絵ちゃんから「香世ちゃんが感情を顔に出しすぎるからよ」と呆れられた。
「葉山君のこと、全然覚えてない。
あんな人、実行委員にいたかな」
上履きをスニーカーに履き替えながら、当時の記憶を絞り出してみたけれど、実行委員の面影は葉山君の顔に誰ひとり重ならなかった。
葉山君を思い出せない私をあざ笑うかのように、昇降口で生ぬるい風に包まれる。
校舎から一歩踏み出すと、日差しが突き刺さってくるかのように照りつけてきた。
「私の何に興味を持っているのかな」
本心の疑問が、ぽろりと口からこぼれる。
「さあね。恋なんて理屈じゃないから。
自分がどんな状況にあっても、好きになるときはなるし、ならないときはならない。
当の本人にも分からないことだらけよ」
理絵ちゃんが独り言のように答えた。
異性から好意を寄せられる経験は、私の人生に無かった。
もちろん、葉山君が私のことを好きだという確証もない。
はたから見たらとんだお門違いで踊っているだけかもしれない。
ただ、少なくとも家族以外で一番信頼している理絵ちゃんの言うことは、私にとってこの世の真理だ。
それに彼は、望月さんに次ぐ、この場所で見つかった大切な希望の光だった。
もっと彼のことを知りたかった。
次の日、思い切って葉山君に連絡先を聞いてみた。
彼は、ものすごく嬉しそうに教えてくれた。
彼のまとっている空気から伝わるほんのりとした好意が、呼吸を楽にさせてくれる気がする。
学校で出会った男子の前で自然に振る舞えたのは、葉山君が初めてだった。
ある日、いつも通りアルバイト先に出勤した私は、最初にやるべきこととしてタイムカードラックから自分のタイムカードを探していた。
この店では、カードラックの定位置に自分のカードを入れるのではなく、タイムスタンプを押した人から順に上から入れていく。
そのため、自分のカードがどこにあるのか、毎回探すのに苦労する。
その途中、望月さんのカードを見つけ、それを見て彼のフルネームを知った。
望月優雨。
私の名字に入っている「雨」という同じ漢字が名前に入っていた。
「雨」が使われている下の名前を実際に見たのはこのときが最初で、急に望月さんに対して「雨」仲間のような親近感を覚えた。
この漢字が名前で被ることは名字を含めても滅多になかった。
カードラックの近くに誰もいないことを確認して、そっと望月さんのカードを引き出し、彼のタイムスタンプを眺めた。
望月さんの行動を監視しているような気持ちになり、背徳感が背中をじわじわ這いあがってくる。
素早くカードラックに彼のカードを戻そうとした。
そのとき、彼の名前が書かれた部分にうっかり指が触れてしまい、毒があるから触ってはいけないとされているものを触ってしまったかのように、無意識に手を引っ込めた。
動揺している自分に驚く。
誰もいなかったことが幸いだった。
時間をかけて何とか平静を装い、ようやく探し出した自分のカードをタイムレコーダーに押し込んだ。
帰り道、一緒に帰っていた望月さんに、下の名前のことをたずねてみる。
「望月さんの下の名前って『ゆう』と読むんですか?」
「そう。
『優しい雨』って、ポエムっぽいでしょ」
彼にしては珍しい自虐的な発言だった。
「このドリーミーな名前がずっと嫌いだった。
でも、小学生のときに名前の由来を親に聞く宿題が出てさ。
母が
『優雨が生まれたときは天気雨が降っていて、まるであなたの誕生を天から祝福されているように感じて、優しい気持ちになれた。
だから、この日の雨のように、人を優しい気持ちにする子になってほしいと願ってつけた』
って教えてくれてね。
その親の願いを知ることで、ようやく自分の名前を好きになることができたかな」
名前の由来を幸せそうに語る望月さんを羨望の眼差しで見つめる。
「私にはそんな親の願いが込められた由来もないです。
姓名判断で決めたって言われて。
極めつけは女優のあまかよのせいで、自分の名前が大嫌い」
言ってみて気づく。
嫌いなものを嫌いと人前で断言するのは気持ちのいいことではないのだと。
「いい名前だと思うけどな」
お世辞なのか分からないことを望月さんが言う。
「じゃあ、どこがいいですか?」
どうせなら、いいところを知っている人に教えてもらいたい。
そう考えて問いかけてみた。
自分と望月さんの靴先を眺めながら答えを待つ。
「親の愛を感じるよね。
雨宮さんの未来がいいものになるようにって、姓名判断でいい運気の名前を選んでるから」
彼は、考え込むこともなく、すらすらとそう答えた。
「そうは思わなかったです」
姓名判断で決めるのは親の想いが込められていない気がしてずっと適当だと思ってきた。
だから女優とも被ってしまうのだと。
もし、名前の選び方に望月さんの親のような想いが込められていたら、それで女優と被ったとしてもこんなに卑屈な気持ちにはなっていなかったかもしれない。
かといってキラキラネームのような一見して読めない名前にされても困るのだけど。
もっと音や漢字の選び方に愛を感じたかった。
親に望んでいたのは、おやつを与えて甘やかされることじゃなくて、目に見える形での愛情だ。
切なさが水分という形で目に溜まっていき、乾いた地面に垂直にぽとりと落ちた。
望月さんには気づかれないように彼と反対方向に顔を向ける。
それでも涙は止まらない。
「ちょっとそこの公園に寄って行こう」
私のただならぬ様子を感じ取ったのか、表情の見えない彼にそう提案され、黙ってうなずき、後ろをついていく。
そこはベンチと鳥の形をした遊具がひとつずつしかない、この時間にまず人は来ないだろうと思われる、とても小さくて狭い公園だった。
ベンチに座ると少し落ち着いた。
この公園に来たのは久しぶりで、土の匂いが懐かしかった。
「雨宮さんは、自分の名前の中でどの漢字が一番好き?
ちなみに俺は、なかなか人と被らない『雨』の字が気に入ってる」
そう言って望月さんが私の顔をのぞき込んだ。
彼の慈愛に満ちた彫刻のような顔が近づき、夜なのにまぶしさを感じて反射的に顔を背けた。
ひとまず聞かれた質問に答えようと思考を巡らせる。
それは今まで考えたこともない質問だった。
私は五つの漢字の中で、どれが好きなのだろう?
ひとつひとつの漢字に対する自分の気持ちを心に聞いて、丁寧に確かめてみる。
「香世子の『世』の字です。
世界の『世』だから、広がりを感じるところが好き」
私の答えを聞いて、望月さんは満面の笑みを見せた。
「ほら、自分の名前の好きなところ、探せば出てくるじゃん。
親の想いがどうとかじゃなくて、自分はこういうところが好きっていうのさえあれば、もうそれでいいんじゃないのかな」
急にトンネルを抜けたみたいに、目の前に世界が拓けた気がした。
彼に聞かれるまで、自分の名前に好きなところがあるという事実にすら気づかなかったけれど、その事実に触れられたことに心が浮き立った。
胸の奥に温かな色のランプがぽっと灯る。
全身に力がみなぎってくるようだった。
そっか、私、自分の名前好きなんじゃん。
親の愛情を名前に求めすぎて見えなくなっていた。
親にどんなに気持ちをぶつけたって、彼らが姓名判断で私に名前をつけた事実は変わらない。
それでも、自分でなら、意味づけを変えることはいくらでもできる。
だって、私だけの名前なのだから。
「そうですよね。
何か、大丈夫な気がしてきました」
私の涙の意味は変わったが、しばらく止められそうになかった。
「俺が泣かせちゃったかな。
ごめんね。
もう泣かないでよ」
隣から困ったような声が聞こえる。
すみません、でも止めたくても止まらないんです、と心の中で返事をした瞬間、望月さんに横から抱きしめられた。
彼の体温がおりてくる。
ぴたりと涙が止まる。
「涙止まった?」
濡れた私の頬に自分の頬を押しつけてきた彼にそうたずねられ、「ふぁ、ふぁい!」と謎の返事をして、壊れたおもちゃみたいにうなずいた。
嗅いだこともないようないい香りがしてきて、意識が飛びそうになる。
彼が「よかった」と言いながら顔と腕を離し、私の身体にこもっていた熱がすうっと引いた。
何これ。
ちょっとよく分からない。
イケメンって誰にでもこういうことができる人種なのか、どうなのか。
それとも望月さん固有の話なのか。
まったく分からん。
理解しがたい。
新たに知ったイケメンの生態(?)に混乱していると、彼は笑って言った。
「さ、帰りましょうか」
それはあまりにも爽やかな笑顔で、有無を言わせない力を持っていた。
ふらふらしながらようやく自宅に辿り着くと、途端にどっと汗が噴き出した。
クーラーが効いているはずなのに、自分の周りだけ無効化されている。
勢いよくベッドに倒れ込んだ反動で身体が少し浮いた後、ベッドの上で落ち着く。
あれは、一体、何だったのだ。
いま一度考えてみるものの、答えなんて出るわけがなかった。
それでも考えずにはいられない。
その直前まで、自分が名前のことでうじうじ悩んでいたことも瞬時に吹っ飛んでしまうような衝撃だった。
そのときのことを思い出そうとしたが、脳内のキャパシティを超えてしまい、自動的にストップがかかる。
だめだ。
考えるの、やめよう。
無駄すぎる。
とりあえず、記憶の倉庫の奥の方にある隠れてよく見えない棚に、さっきの出来事をしまっておくことにした。
今は処理できない。
少なくとも今日の私には。
気持ちと洋服を何とか切り替え、リビングに向かった。
結局、その後も、あの出来事を振り返ることはできなかった。
そもそも理絵ちゃんにも言えずじまいだ。
思い出しそうになるだけで身震いがしてくる。
イケメンと男子慣れしていない私にとっては刺激の強すぎる出来事だった。
このまま倉庫の奥で眠ることになるかもなと思い、それでもいいや、否、その方がいいかもしれないと考えるくらいに強烈な爆弾だったことは間違いなかった。
休みの日は大好きなピアノを弾いて過ごすことが多い。
まだ私が「ぽちゃかよ」じゃなかったころに習っていて、今はそのころの楽しい思い出ばかりが心に残っている。
通っていたピアノ教室は、自分がそのときに弾きたい曲を弾かせてくれる先生で、そんな自由なところが好きだった。
練習は歯がゆくて苦しいことが多かったけど、好きな曲を思いどおりに弾けたときの達成感が忘れられず、飽きずに続けられた。
十年ほど続けて、高校受験を機にやめてしまったけれど。
それでもいまだに好きで、また習いに行くほどではないが、こうして時間があればピアノの前に座る。
アップライトピアノの上には、ピアノの発表会やピアノコンクールのときの写真が母親によって写真立てに収められ、飾られている。
どの写真の私もまぶしいくらいに全力で笑っていた。
自分の名前を憎んだり、悩んだりしなくてもよかったころの私だ。
あのころは楽しかった。
ピアノを弾いているといつも、そんな風に過去を回顧してしまう。
それは、私にとってピアノの音色が懐かしく切なく感じられるせいかもしれない。
ブルグミュラー、ソナチネ、渚のアデリーヌ、トルコ行進曲。
合唱用の伴奏曲が好きすぎて、それを弾くこともある。
発表会で弾いた曲、コンクールで弾いた曲などは、練習回数も多かったので思い入れも強い。
どの曲も細胞に刻み込まれていて、鍵盤が頭の中に浮かび、どういう指使いや強弱で弾くか身体が覚えている。
ピアノを弾いていると嫌なことは頭の中からすべて吹き飛び、ただ目の前の曲を奏でるということだけに集中できる。
私にとってピアノの前は、最も私らしくいられる、逆に言えば、隠そうとも素の自分が出てしまう場所だった。
「香世ちゃん、ピアノ弾いてるなら、いつものあの曲やってよ」
ピアノが置かれているリビングで一心不乱に弾いていると、洗濯物にアイロンをかけたり畳んだりしていた母が声を掛けてきた。
この状況でも母親の家事を手伝おうとしない私がいることは、だいぶ前から我が家では問題視されなくなっている。
「お母さんも好きよね。
ショパンの『革命』」
母はショパンの「革命」という曲が好きで、ピアノ教室に通っていた私に「次はこの曲を弾いてほしい」と練習曲としてリクエストしてきたくらいなのだ。
いや、確かにショパンも練習曲として作曲したのだけど、ピアノの先生じゃなくて母に何か特定の曲を弾くように指示されるとは思ってもみなかった。
中学生になってリクエストしてきたのを見ると、弾かせるタイミングも見計らっていたようだ。
当時私は、この曲をよく知らないまま、母の言うとおりピアノの先生に弾きたい旨を伝えた。
その後楽譜を見て左手の運指の恐ろしい細かさに言葉を失ったことも、今となってはいい思い出だ。
「では、気合を入れて弾かせていただきます」
私は少し手首を回し、短く息を吸って、革命に取りかかった。
ホームルーム後、いつものように理絵ちゃんのクラスに行ったが、彼女はいなかった。
「松本さん、英語の先生に質問しに行ったよ」
私を見つけてくれた葉山君からそう教えてもらう。
スマホを確認すると彼女からもその連絡が入っていた。
帰ってくるまで彼女の席で待つことにしたものの、自分のクラスじゃないので、ゆっくりその場にとどまっていることが難しい。
私がそわそわしているのを気遣ってか、理絵ちゃんの前の席に葉山君が座ってくれて、二人で昨日のテレビの話をしていた。
「理絵、いるかー?」
教室の入口で叫んだのは信洋だった。
「信洋じゃん」
彼に向かって手を振った。
しかし、彼は私を見て、露骨にがっかりした。
「ぽちゃかよが何で理絵の席にいるんだよ」
「理絵ちゃんを待ってるだけだよ」
「俺はお前に用はない。
理絵はどこにいる」
「松本さんなら、英語の先生のところだよ」
気を利かせて葉山君が理絵ちゃんの居場所を伝えると、信洋は「サンキュ」と言い、走って教室を離れて行った。
「何なのあいつは。
失礼な」
明らかに信洋の機嫌が悪そうだった。
かといって、八つ当たりされる謂われもない。
そういや、いまだにジャムパン代も回収しそびれている。
もしや、あいつ、私からプレゼントされたと思ってるんじゃないだろうか。
今度会ったら請求してやらないと。
そんなことを考えて憤慨していると、葉山君がいきなり突かれたくないところを突いてきた。
「彼からは『ぽちゃかよ』って呼ばれてるんだね」
自分の顔から表情が消える。
希望の光だと思っている人に改めてそのことを話題にされると、忘れていたことを思い出してしまう。
考えても変えられない現実を。
「……本当は、そう呼ばれたくない。
あのあだ名は、ものすごく、嫌。
この世からなくなってほしいと思ってるけど」
うつむきながら、最後は小声になる。
「あまかよのいない世界は存在しないもんね。
きっとこの先も、ずっとそう呼ばれる」
正論を言われて、返す言葉が見つからない。
それでも、付き合いの長くない葉山君に自分の本心を言えたこと自体は大きな進歩だった。
それは、葉山君に、私が何を言っても否定しないで受け止めてくれるだろうという安心感を感じていたからこそだった。
「あまかよのいるこの世界でどうにかするしかないよね。
じゃあ、そんな世界で頑張り続ける雨宮さんに、エネルギー補給の飴をあげるね」
彼はそう言って、蜂蜜だけで出来た飴をくれた。
お礼を言って受け取り、さっそく口に入れる。
蜂蜜の飴は、最初は舌の上で優しい甘さのように思えたけれど、後から喉の奥でむせてしまいそうになるほどしつこさを感じる強い甘さに変わった。
望月さんと一緒ではないシフトの日は、心が安らかで平和だ。
「香世ちゃん、パンケーキお願いね」
ホール担当の主婦パートさんのオーダーに、機嫌よく「はぁい」と答える。
ああ、平穏な時間よ、万歳。
どうしても私の中で、こないだの出来事が消化できないでいる。
彼の顔を見ると動揺してしまうのだ。
だから一緒のシフトのときは、なるべく彼の顔を見ないように努力しているし、シフト終わりはこんなに早く着替えることができたのかと感心するほどの速度で着替え、帰宅している。
しばらく彼の顔をまともに見ていない。
望月さんはと言えば、あの後もいつもどおりの態度だった。
やはり、彼にとっては大した意味のない行為だったのだろう。
その事実もひどく落ち込ませる。
だからこそどう受け取っていいのか分からない。
「雨宮、返事だけがよくて、スイーツの出来栄えがよくないぞ」
もやもや考えているとキャプテンシェフに注意される。
しまった、望月さんがいないはずなのに心を乱されてしまっている。
集中しなければ。
「すみません」と謝り、目の前のパンケーキがいかにメニューどおり綺麗に作れるかに意識を切り替えた。
シフトが終わってロッカールームで帰る準備をしていると、女子高生のアルバイト仲間たちの声がロッカー越しに聞こえてきた。
「こないだ望月さんにお願いして、勉強教えてもらったんだぁ」
彼の名前が出てきて思わず聞き耳を立てる。
「あんなイケメンに教えてもらえるなんていいなぁ。
ね、どうだった?」
「隣に座ってね、『この問題が分からない』って言うと、『どれかな?』って顔を近づけて問題を見てくれるの。
望月さん、すっごくいい匂いしたぁ。
しかも説明が超分かりやすいし、もう最高」
心の中で、(分かる! いい匂いするよね)と相槌を打ってしまったが、聞こえた内容に気持ちがどんどん沈んでいく。
そう、彼は誰にでも優しい。
私に対してだけではなく。
「望月さん、彼女いないんだって。
どうしよう、頑張ろうかな」
「頑張りなよ。麻由ならいけるって」
彼女たちの甘酸っぱい話に呼応するように、胸がズキズキ痛み出す。
私は、わざとロッカーの扉を音を立てて閉め、「お疲れさまです」と言い残してロッカールームを出た。
店を出て夜空を見上げると雲が多かった。
小さな三日月が広い雲にかかっていて、雲間から見えたり見えなくなったりを繰り返している。
ひとりで歩きながら、また望月さんのことを考えた。
とっくに気がついていた。
彼のことを好きになっていることに。
しかしまったく喜ばしいことではなかった。
絶望的な気持ちにしかならないし、イケメンを好きになった自分に嫌悪感すら感じる。
好きな気持ちを自覚したのと同時に失恋が確定する恋なんて、できるならしたくなかった。
彼が、ぽっちゃりで卑屈で自己肯定力の低い私を好きになる確率を考えるだけで頭が痛くなる。
彼のことを考えると、どす黒い苦しさが足の裏から頭の先に向かってぞろぞろ這いあがってくる。
重くて禍々しいそれに取り込まれたくなかった。
その苦しさを振り払うかのように走り出す。
スニーカーの靴底を叩きつけて地面を蹴る。
でもすぐに息が上がってくる。
運動不足の身体にはむごい仕打ちかもしれない。
なぜ、イケメンが苦手なのに彼なのだろう。
理屈では答えの出ない問いを、走りながら繰り返し自分に問いかける。
答えを考えようとした瞬間、足がもつれそうになり、かろうじて立ち止まった。
ぽっちゃり体型の運動不足な私が走るのは危険行為だと悟る。
仕方がないので走ることはやめて、ゆっくり歩き出す。
それでもまだ呼吸だけ苦しい。
歩き出してもすぐには整わない。
荒い息をしながらあの公園の横を通り過ぎる。
あ、あのときの公園だと思ったとき、彼の頬のしっとりして温かく柔らかい感触が間髪入れず蘇ってきて、再び私は走り出すしかなかった。
事件は予測できないから事件なのだ。
あらかじめ分かっているものなんてただの予定に過ぎないのだから。
それは、私と望月さんが同じシフトに入っているアルバイト中に起こった。
望月さんのファンの女性は彼のシフトのときに来店する。
その日も彼のファンのお客様は多かった。
彼がおろしハンバーグセットをあるファンの女性に運んだときだった。
その女性はひとりで来店していた。
彼女は料理を運んできた望月さんに対し、甘い声で話しかけた。
「望月君、いつになったら私とデートしてくれるの?」
望月さんはハンバーグの乗った鉄板をゆっくりとテーブルの上に置き終わった後、冷静に、でも気持ちを込めて答えた。
「お客様、そのご要望に応えることはできかねます。
大変申し訳ございません」
彼は、ひどく残念そうな顔をして美しいお辞儀をした。
望月さんに断られた女性は、急に顔をこわばらせたかと思うと、今しがたテーブルに置かれたばかりの鉄板を、彼に向かって突如躊躇なくひっくり返した。
他にも、ドリンクバーで入れられたホットコーヒー、セットのライスやサラダまでも巻き添えを食って彼に投げつけられる。
ガチャーン。
バシャッ。
ガシャン。
パリンッ。
「熱っ!」
「どうしてできないの!
私はこんなに望月君のことを愛しているのに。
ねぇ、なんで!」
派手な不協和音と女性のわめき声が店内に響き渡る。
何が起きたのかすぐには分からなかったが、キッチンにいた私たちも突然の大きな音と声に驚き、作業の手を一斉に止めた。
私は様子が気になり、居ても立っても居られず、キッチンからホールに飛び出した(ここまでの出来事は、後からホール担当のスタッフに教えてもらった)。
ホールに出ると、店内は静まり返り、居合わせた全員の視線が望月さんとその女性に注がれていた。
彼女は三十代後半から四十代前半くらいの歳だろうか。
綺麗な人だった。
ゆるやかな巻き髪は崩れていなかったし、控えめなラメが光る爪先も欠けてはいなかった。
少なくとも私よりは見た目だけで普通にモテそうな女性だった。
だからこそ、その行動が余計に奇異な印象を与える。
望月さんはとっさに顔を両腕で覆ったようで、幸い顔に怪我はしていなかったが、彼の白いスタンドカラーのジャケットは、コーヒーやハンバーグソースなどが激しく飛び散っており、茶色に染まって汚されていた。
その女性はさらに立ち上がり、自分の洋服が汚れるのも構わず、彼に思い切り抱きついた。
十五センチ近く身長差のある望月さんの顔を至近距離で見上げ、上目遣いで見つめる。
「ねぇ、望月君、私を見て。お願い」
女性は猫なで声だったが、望月さんは彼女の視線に目を合わせない。
彼は何度も経験しているかのように、女性の行動にまったく動揺することなく、落ち着いた様子で
「みなさんは下がっていてください。
俺が、俺だけで対応しますから」
と、顔だけを他のホールスタッフに向け、柔らかいが反論を許さない声色でそう言い、伸ばした腕で制止した。
そこへ店長が登場した。
「望月、何があった」
「店長も下がっていてください!」
望月さんが叫ぶ。
「だめだ、望月。
おい、誰か警察を呼んでくれ。
お客様、どうかなさいましたか」
店長が同時に三方向と話をしながら、望月さんに抱きついていた女性をあっという間に鮮やかな手さばきで引き剥がし、彼と彼女の間に割って入った。
いつの間にかキッチンから私の後ろに出てきていたキャプテンシェフが、警察に通報するため、キッチンの中へ慌ただしく戻っていく。
引き剥がされた女性は再び望月さんに抱きつこうとする。
そのとき私は、このシフトに入っている女性スタッフが自分だけであることに気づき、身体が勝手に動いて彼女を羽交い絞めにしていた。
「やめて! 離して!」
私から逃れようと彼女が渾身の力で暴れる。
絶対に離すもんかと全身に力を込めた。
こっちには脂肪という名のお肉の力があるのだ。
私の身体の前面と女性の背中が密着して熱を帯びる。
この他人の体温がおりてくる感じ、前にもどこかで、と頭を巡らせ、今女性とともに形式上対峙している望月さんだと思い至った私は、自分の内側からも何かが発熱するのを感じた。
女性の口元からは、ほのかにアルコールの匂いがする。
テーブルを見ると、底の方にビールと思われる液体がついたグラスが二つ置いてあった。
酔っ払いか。
女性に気づかれないように舌打ちをする。
彼女は私より身長が高く、細身なのに意外と力が強かった。
ワインレッド色のエナメルのハイヒールを履いているのに、ぐらつかず器用に力を込めてくる。
対して、ぽっちゃり体型で履き古した白いスニーカーを履いていた私は、せめて安定感と力の強さだけは負けたくなかった。
羽交い絞めにした女性の肩越しに望月さんを見ていると、自分もこの女性と同化しているかのような気分になってくる。
望月さんは、彼女のことを決して毛嫌いするような目つきではなく、むしろ哀れむような目で眺めている。
今、この女性は何を思っているのだろう。
彼女の後ろ姿しか見えないので表情から感情を読み取ることはできないが、私なら自分があんな目で彼に見られているかと思うと、それだけで傷つきそうだった。
好きな人に同情されるくらいなら、嫌われた方がずっとマシだから。
「店長、警察に任せるだけではダメなんです!
それでは何の解決にもならないんです!」
望月さんが店長に対して何かを懸命に訴えている。
彼の表情はひどく険しく、鬼気迫っていた。
そんな望月さんを見て、羽交い絞めにしていた女性の暴れる力も少し緩む。
彼女もそうだが、望月さんも何かに取り憑かれているみたいだ。
ここまで感情を露わにしている彼に、いつものにこやかな彼との連続性をどうしても感じることができなかった。
女性に近づこうとする彼を、慌てて店長が後ろから羽交い絞めにして止める。
「やめろ、望月」
店長の声には答えず、望月さんは哀願するように女性に問いかける。
「お客様、どうして私が困るようなことをなさるのですか?」
彼は多分、心底、彼女の本心を知りたかっただけなのだ。
「だって望月君が、私のことを見てくれないからでしょう!
私だって、こんなことしたくなかったのに……」
女性は身体に力を入れて、駄々をこねる子どものように泣き叫んだ。
その足元で彼女の投げた白いコーヒーカップが、ハンバーグの鉄板にぶつかったのか真っ二つに割れていた。
望月さんは彼女の答えを聞いて、眉間に深い皺を寄せたまま、黙って唇をきつく噛みしめていた。
彼が同時に握りしめている拳は、今にも爆発しそうなくらいに手の甲の血管が青く浮き上がっている。
次に彼が口を開いたとき、真っ赤に充血した薄い唇は、コントロールを失ったように小刻みに震えていた。
望月さんは独り言のようにつぶやいた。
「言いたくありませんでしたが、私はお客様をお客様としてしか見ることが出来ません。
私の恋愛対象になることは、まずありえません……」
彼の女性に対する明確な拒絶だったが、望月さんの目は虚ろで、どこを見ているのか判断しかねた。
そしてその言葉は、彼の届けたかった人の耳には届いていないようだった。
悲しいかな、女性がなおも何か、望月さんを非難する言葉を発して暴れようとしたところを、ちょうど駆けつけた警察官が飛び込んできて、私ごと女性を数人で一気に取り押さえた。
「君、よく頑張ったね。
もう手を離してもいいよ」
警察官に言われ、ようやく全身の力を抜いて自由の身になる。
大きく息を吐く。
身体中の筋肉が強ばっていて、なかなか思いどおりに動かない。
女性はそのまま店の外へ連行されていく。
きっと彼女がここへ来ることはもう二度とないだろう。
店内に安堵の空気がゆっくりと広がった。
店長は羽交い絞めにしたままだった望月さんの腕をそっと離す。
その場に残った警察官が、店長と望月さんに「被害届は出されますか?」とたずねる。
「店としては出します」
店長が答えた。
「いえ、私は出しま……」
「望月、お前が被害届を出さないと他のスタッフに迷惑だ。
またあの女性が同じことを起こさないとも限らないんだぞ。
分かっているのか?」
被害届を出さないと言いかけた望月さんに対し、店長がぴしゃりと諫める。
彼は何も言わなかった。
暴行罪もしくは傷害罪の被害者は彼だけだ。
店は直接の被害者ではないので、その罪に関しては被害届を出せない。
望月さんが被害届を出さなければ、警察は捜査を開始しないだろう。
刑事ドラマが好きでよく観ている私は、なんとなくそんなことを推測する。
「結局どうされるんです?」
警察官がしびれを切らす。
「……すみません、やっぱり出します」
望月さんは、うつむきながら涙声でそう答えた後、頬を伝う涙を拭うこともなく、その場に崩れ落ちた。
「また救えなかった……」
彼は手の甲に軽い熱傷を負っていたがそれを気に留める様子もなく顔を覆って泣きじゃくっていた。
私を含めた他のスタッフが、そんな様子の彼に声を掛けることは、とてもじゃないけどできなかった。
その後、間髪入れず実況見分が始まり、私たちスタッフは店内に残っていたお客さんを全員外に出し、そのまま店終いをした。
実況見分終了後、店長と望月さんは被害者取り調べのため、いわゆる覆面パトカーの警察車両に乗せられ、最寄りの警察署に行ってしまった。
不気味なほど静まり返った店内で、誰ひとり声を発しなかった。
私はキッチンに戻り、作りかけだったフレンチトーストを片づける。
他にもすっかり冷めてしまった調理途中の食材を、無表情でどんどんごみ箱に投げ入れる。
あの彼女に何かを言うつもりはないが、食べ物が結果的に粗末になってしまったことに文句を言いたくてたまらなかった。
望月さんが運んできたおろしハンバーグ。
サラダにライス。
ドリンクバーのコーヒー。
他のお客さんのために準備していたたくさんの料理たち。
そのすべてが彼女ひとりのために無駄になった。
キッチン担当として単純にやるせなかった。
「雨宮、大丈夫か」
キャプテンシェフが私の様子を心配して声を掛けてくれる。
「大丈夫です。
ありがとうございます」
「これ、ちょうど出来上がったところだったから、もったいないし二人で食べてしまおうや」
「サイコロステーキ、いいんですか?」
ステーキメニューは看板メニューで、価格が最も高いのだ。
「ゴミ箱に入るか、俺たちの胃に入るかの違いだけだからな」
「じゃあいただきます」
キャプテンシェフの優しさが嬉しくて、冷めたサイコロステーキをいくつか口に運んでみたが、ゴムのようにいつまでたっても噛み切れないそれを飲み込むので精いっぱいだった。
ロッカールームの奥にある女子更衣室でコック服を脱いだとき、女性のつけていた香水が私にも移ったらしく、かすかなフローラルノートが私の周囲だけで香り立つ。
今頃になって香ってきたフローラルノートは、妙に鼻について、心をひどくざわめかせた。
その日、店長と望月さんは店には戻ってこなかった。
この事件はローカルニュースとして報道され、次の日から目に見えてお客さんが減った。
意外だったのは、来店する望月さんファンの数もびっくりするくらい減ったことだ。
それでもゼロにならないあたり、望月さんの底力が発揮されている。
ホールスタッフが噂していたのは、最後に望月さんが女性に発した言葉が、他のファンにもトドメを刺したのではないかということだった。
確かにあの言葉は、彼のファンと同じように彼に好意を抱いていた私の心にも深く突き刺さり、今もそのままだ。
抜きたくても抜けない。
文中の語句を変えれば「バイト仲間はバイト仲間としてしか見ることが出来ません」となる。
おそらく私に向かって言われてもいたのだ。
こんなところに気づいてしまう自分が恨めしかった。
客足が減って落ち込んでいるかと思われた店長は、いつかはこういう事態が起こることを予測していたようだった。
「望月が入る前の状態に戻ったってだけだな。
どうせそのうち客足は戻るし、望月目当ての客も戻ってくるぞ。
こういうときこそ、いつもどおり仕事をしよう」
そう言って、私たちを鼓舞した。
望月さんはと言うと、事件があってもアルバイトを休むことは決してなかった。
いつもどおり店にやってきて(出待ちファンが少なくなったので、正面の通常入口から出入りするようにはなったけど)、いつもどおり丁寧な仕事をし、いつもどおり天使のような微笑みを携えつつアイスクリームをトッピングしていた。
彼のファンがひとりもいない日であったとしても。
私や他のスタッフは、そんな望月さんを見て逆にとても心配をしていた。
あんなに衝撃的なことがあったのに依然と変わりなく笑っている彼は、何だか張りぼてのような気がして、触ると壊れてしまいそうな印象を受ける。
それでもその心配をみんなが口にできなかったのは、彼からそういう心配をすることを許さないオーラが醸し出されていたからだ。
スタッフの中にはそれまでと同じように接する者もいたし、腫れ物に触るような接し方をする者もいた。
私は望月さんがあの事件の日から何となく怖かったし、どう接していいかまったく分からなくなっていたので、話をしないでいいのならしたくなかった。
彼と同じシフトの日は、やはり早足で帰る準備をし、望月さんと一緒に帰ることはしなかった。
その理由は、あの事件の前と後で実は変化していたけれど、彼に説明するきっかけも必要性もよく分からずにいた。
事件から大分時間が経って、普段使わない通学路から帰りながら、ようやく理絵ちゃんに事件の一部始終を伝えることができた。
直後は事件のショックでうまく整理がつかず、家族以外に話せずにいた。
望月さんの事情を知らない家族にもすべてを説明できなかった。
理絵ちゃんは私の様子を見て無理に聞いてくることはなかったので、本当にありがたかった。
彼女はテレビで事件を知ったらしい。
見慣れた店の外観が画面に映ったとき、座っていたソファーから立ち上がってしまったと言っていた。
「香世ちゃん、話してくれてありがとう。
大変だったね。
ただ、そのときの望月さんの言動が気になるな」
「そうなんだよね」
ずっとそれを考えていた。
一体、彼は何を考えていたのだろう。
あのとき、彼には私たちとは違うものが見えていた。
あの女性の中に何を見ていたのだろうか。
「何だか、望月さんの中にとてつもない闇が潜んでいる気がするの。
望月さんの外見と性格が完璧なだけにね」
「闇?」
望月さんにおよそ似つかわしくない言葉を発した理絵ちゃんに違和感を覚えたけれど、何となく言いたいことは分かる。
「完璧すぎるものや姿に、人は不安を覚えるっていうでしょ?」
「そんなもんかなぁ」
確かに一般論としては理解できるし、あのときの望月さんの様子が変だったのは気にかかる。
そして彼に対して感じる恐怖感のようなものが、私の中に存在しているのも間違いない。
しかし、私が感じている怖さというのは、闇とはちょっと違う気がした。
もっと何というか、強がりのようなものに似ているというか。
「で? いつからなの?」
理絵ちゃんが問うてくる。
「何が」
「望月さんが好きなんでしょ?
いつから?」
「は?」
「隠しても無駄だから」
「いやいやいや、あの」
不意を突かれて的確な答えを返せず、口ごもる。
手汗が急に噴き出してくる。
彼女の目を見ることができず、視線が斜め上を向く。
我ながらごまかしたりその場をやり過ごすのが本当に下手くそだ。
「ほら、早く白状して」
理絵ちゃんは答えを分かっているはずなのに、あえて微笑みながら追い詰めてくる。
「一カ月くらい前ですかね」
素直に打ち明けた。
エスパーに隠し通せるわけがない。
「何がきっかけだったの?」
はい、あの日抱きしめられたことです、とはどうしても言いたくなかった。
あの出来事は、私と望月さんだけの秘密にしておきたい。
と、私が考えていることすら、きっと理絵ちゃんには伝わってしまっているのだろう。
「分かりませんが、いつの間にかって感じです」
「ふうん、そう」
彼女は納得したようなしていないような反応だったが、そのことに気づかないふりをした。
「それで、いつ告白するの?」
当たり前のことをたずねるかのような彼女に、私は青ざめる。
「しないよ。
するわけないじゃん。
相手、望月さんだよ。
高嶺の花だよ。
好きって分かった瞬間から失恋確定じゃん」
どうせ小さな片想いで終わりを迎えるだけのつまらない結末。
彼女に今まで伝えなかった理由があったとすれば、どのみち失恋することが目に見えていたからかもしれない。
「香世ちゃんは、失恋っていう結果ばかり気にしてるんだね」
冷水を浴びせられた気がして、ぞくっと鳥肌が立った。
「どうして人を好きになれた幸せを楽しまないの?
人を好きになるって簡単なことじゃないんだよ。
もし自分が何もしないうちに、誰かが望月さんと付き合ってしまっても何とも思わないの?
結局、香世ちゃんはそこまで好きじゃないってことでしょ。
それなのに振られると考えていじけてるなんて、恋に恋しているだけじゃん。
本当に好きじゃなかったってこと。
自分が傷つくことから逃げているんだよ」
「そんなことない!」
私は叫んで思わずその場にしゃがみ込んだ。
立っていられないくらい感情が高ぶっていた。
言い返したいことは山ほどあったけど、涙があふれただけだった。
丸めた背中に乗っているリュックが重くて、肩紐が脂肪に食い込んでくる。
ギリギリと痛い。
人を好きになるのが怖かった。
どうせ振られて片想いで終わるから。
誰も私のことなんて好きになることはない。
その思いをひとりで肯定するかのように、私は食べた。
とてもたくさん。
食べ物以外の気持ちや想いも全部飲み込んだ。
振られて傷つくのはもっと怖かった。
立ち直れる自信がなかった。
ただでさえ、あまかよとの比較を自分自身が一番やめられず、それを気にしながらいっぱいいっぱいの毎日を過ごしていたのだ。
そんな余裕はなかった。
だから、恋に恋してそれで満足だった。
それ以上は深入りしたくなかったし、できなかった。
でも、理絵ちゃんに言われて気づいた。
今回はこれまでとは違う。
どうしてか望月さんに関して表面的なところでとどまれなくなっている。
彼のことを考えてばかりいる自分に戸惑ってしまう。
誰にでも優しい彼に、ひとりで絶望的な気持ちになる。
もっと彼のことを知りたかったし、私のことも知ってほしかった。
好きになってほしかった。
そのための努力が必要なら、したいと思った。
これまで味わったことのない感情に振り回されてはいるけど、嫌ではない。
さらに深く何かに入り込んでしまってもいい。
ああ、そうだったのか。
望月さん。
私、あなたのことがものすごく好き。大好き。
あなたに今すぐにでも会いたい。
いつかあなたに私の気持ちを伝えたい。
怖がりで隠れてばかりだった自分の本心をようやく見つけられた。
私は涙に濡れた顔を上げ、ずっと身体をさすってくれていた理絵ちゃんに向かって微笑んだ。
望月さんがアルバイトを休んだ。
初めてのことだ。
風邪をひいたらしい。
ホール担当の星野さんや白倉さんは「望月目当ての客どうすんだよ」と愚痴っていたが、店長から「何か揉めたらすぐに俺を呼びに来い。それを理由にその場から逃げろ」と指示され、安心したようだった。
まぁ誰でも嫌だろうな。
あの望月さん目当てのお客さんの相手をするなんて。
他の人には望月さんの接客を真似することなんて絶対にできないし、またあの事件みたいなことが起こって巻き込まれたらたまったもんじゃない、と二人は考えたのだろう。
あの事件後、時間が経つにつれて、店長の読みどおり客足は徐々に戻ってきていた。
もちろん、望月さん目当てのお客さんも。
というより、望月さんファンのお客さんは、以前のファンというよりもむしろ新規のファンが増えたせいかもしれない。
その状況はただただすごいとしか言いようがない。
結果的にその日は何の問題もなくシフトが終わった。
望月さん目当てのお客さんは彼が不在である旨をホールスタッフが伝えると、帰るか、そのまま揉めることなく食事をしていく人がほとんどだったからだ。
ただしスイーツメニューの注文は少なかったので、私の仕事はいつもより楽だった。
シフトが終わり、急いで帰る準備をしていたが、今日は望月さんが休みだったことを思い出して手を止める。
そっか、今日はゆっくり着替えてもいいんだ。
無理して急がなくてもよくなったのに、何だか物足りなくて心許なく感じる。
望月さん、どうしているかな。
どうしようもなく気になっていた。
風邪の具合をたずねるメッセージ、送ってみようかな。
連絡先は知っていた。
最初に望月さんが入ってきたときに連絡先を交換していた。
でも実際に連絡を取ったことはない。
突然メッセージを送ったら、何て思われるだろう。
私が心配しても逆に迷惑なのではないだろうか。
そんな考えが頭の中をぐるぐる回る。
迷ったときの友人頼み。
ここはひとつ、理絵ちゃんに相談してみる。
『香世ちゃん、まだ起こってもいない未来を見すぎ。
今、香世ちゃんがどうしたいのかが大事でしょ。
それで、どうしたいの?』
それは決まっている。
連絡を取りたい、だ。
『じゃあ、メッセージを送ればいいだけ。以上』
切れ味のいい返信が返ってくる。
単に風邪の具合を聞くだけだし、別に普通のことだよね。
変なことじゃないよね。
理絵ちゃんにそう言われたものの、自分でも言い訳をたくさん考えて、ようやく
『望月さん、風邪を引いたと聞きました。
大丈夫ですか?
具合はいかがですか?』
と送信した。
なぜか気が急いて、手早く帰る準備をする。
マナーモードにしていたスマホが振動して、メッセージの着信を知らせた。
まさかこんなに早く望月さんから返信は来ないよね。
『心配ありがとう!
実は今週から両親が海外旅行に行ってて、今ひとりなんだよね。
疑似ひとり暮らしを謳歌するはずだったのに、誰もいなくて逆に死んでる』
彼からだった。
内容を見て返信の早さの理由を理解する。
彼は普段、実家で両親と同居中だと聞いていたが、どうやらお世話をする人がいないようだ。
どうしよう。
何か持って行ってあげたほうがいいかな。
そんな考えが頭をよぎったが、それって望月さんの家に行くってことだよねと考え始めると、尻込みする気持ちが競り勝ってくる。
会いたいとは思ったけれど、いざ会うとなるとまた違う緊張に襲われる。
(香世ちゃん、逃げてるでしょ)
理絵ちゃんのいつかの言葉が蘇る。
仰るとおり。
自分をアピールするのは苦手なんだよと言い訳をしてみるけど、結局逃げている事実に変わりはない。
(やらずに後悔するより、やって後悔した方が後を引かないよ)
もはやそんなことを理絵ちゃんに言われた記憶はないが、誰かの声が内側から聞こえてきた。
『バイト終わりなので、何か買ってきて欲しいものがあれば持っていきましょうか?』
と打ち込んだものの、送信ボタンをなかなか押せない。
ボタンを押したら自分が傷つく結果になるかもしれない。
やっぱりそれが怖い。
帰る準備を終え、店を出て自宅に向かって歩き始め、立ち止まってはスマホの画面を凝視して送信ボタンを押そうとする指が止まる。
それを何回か繰り返して、とうとう自宅が見えてきたときに
(家に帰った数分後の私は、打ち込んだ未送信のメッセージを削除して何もなかったことにするだろうな)
という未来予測が立った。
いっそやけくその気持ちで送信ボタンをようやく押す。
どうにでもなれ、未来の私よ。
玄関ドアの取っ手を握ろうとしたそのとき、再びポケットの中のスマホが振動した。
それは紛れもなく望月さんからの返信で、
『ありがとう!
すごく助かる。
バニラアイスをお願いします』
というまさかのリクエストだった。
追加のメッセージで住所を聞き、自宅には入らず、そのまま私の家と望月さんの家の間にあるコンビニに向かい、アイスを買って望月さんの自宅マンションを訪ねた。
ガチャガチャと玄関ドアの鍵を外す音がする。
「雨宮さん、ごめんね。
ありがとね」
久々にちゃんと顔を見た望月さんは、髪がボサボサで、黒縁のダサい眼鏡をかけ、髭が伸びて口周りが少し青くなっており、おでこに冷却ジェルシートを貼って、Tシャツにスウェット姿で、要は不完全で無防備だった。
「お、お疲れさまです……」
いつも完璧な姿しか見ていなかったので、すぐに誰だか分からなかった。
どもってしまい、戸惑いを隠せない。
ここまで見た目って変わるのか。
望月さんの顔が赤いことに気がつく。
「熱はどのくらいあるんですか?」
「三十八度五分」
よく見ると目が真っ赤に充血している望月さんが答えた。
「高っ!
アイスだけで大丈夫ですか?
お粥でも作りましょうか?」
思わずそんな言葉を口走っていた。
やばい、何言ってんだろう。
自分で言っておきながらスッと顔から血の気が引く。
でも、困っていそうな人を前にして、自分が傷つくとかどうとか、さっきまでうじうじ考えていたことはすっかり頭から飛んでいた。
「じゃあ、お言葉に甘えていいかな」
アイスのリクエスト以上の答えが返ってきて、どくんと心臓が脈打つ音を聞いた気がした。
「ちょっと散らかってるけど、どうぞ」
「お邪魔します」
自室に戻る望月さんに背を向けて靴を揃える手が、震えた。
他人の家の台所を使って料理をするのはなかなかに難しい。
お粥の材料も買ってくればよかったなと後悔しながら冷蔵庫を開けて分かったのは、望月さんがこの数日間自炊をしていた事実だ。
玉子粥を作るのに必要な具材は揃っており、後は勘で、ここぞと思う戸棚を開けて調味料と鍋を発見した。
調理をしながら、なんだか望月さんの奥さんみたい、と不謹慎な考えが頭の中に浮かび、慌てて全力で打ち消した。
望月さんの熱か、風邪自体がうつったのかもしれない。
飛躍する想像力をコントロールしきれなくなっている。
そもそも彼女ですらないし、ただのアルバイト仲間でしかないのに。
望月さんの部屋にお粥を持っていくと、
「身体がだるくて、食べるのしんどい」
と彼が言い出した。
「食べないと治り悪いですよ」
感情を押し殺して言い返す。
せっかく作ったんだから食べろや、と危うく言いそうになった。
病人に押しつけはよくない。
そのとき、望月さんがいたずらを思いついたかのような顔をした。
嫌な予感がする。
「そうだ。
雨宮さんが食べさせてよ」
「熱で頭のネジがぶっ飛んだんですか」
秒速で発言を打ち返した。
これではまるで漫才じゃないか。
そういう相方になりたいわけじゃない。
「へへ、そうかもね」
と弱々しく笑う彼は、やはりいつもの望月さんではなくて、調子が狂ってしまう。
(ねぇ、また逃げるの?
傷つくわけじゃないのに何が嫌なの?)
再び誰かの声が背中を押してくる。
ううん、逃げない。
ここまで来ておいて逃げる理由なんてないんだもの。
今回の恥ずかしさは私が恐れている結果に繋がらないことは分かっていた。
「しょうがないですね。
食べさせてあげます。
今回は特別ですよ」
「やったね」
小さな子みたいな無邪気な笑顔だった。
私が口元に運ぶお粥を嬉しそうに食べる彼は、か弱い雛鳥のようで可愛らしくもあった。
望月さんのすべてを支配している気分になる。
守らなければと思う反面、風邪をひいてボロボロで無防備な彼に、どこか見とれてしまうような、ただならぬ色気を感じていた。
れんげを咥える彼の薄い唇が、照明の光で紅く光る。
私もお粥になりたいと頭に浮かび、さっきよりも素早く強い力で打ち消す。
やはり望月さんの風邪が既にうつってしまっているようだ。
全身から汗が噴き出すかのように、恥ずかしさが身体中を巡ってこみ上げてくる。
彼から目を離してお粥をスプーンで掬うわずかな間に、必死にポーカーフェイスを作り続けた。
数分前に想定していた恥ずかしさとは明らかに質が異なっていた。
これがイケメンの真の実力なのかもしれない。
心の中で唸りながらも、それでもこの時間がずっと続けばいいのにと思った。
彼がお粥を食べ終わり、食器を台所に持っていこうとしたときだった。
「俺、雨宮さんに嫌われたと思ってたから、今日連絡くれて、来てくれて嬉しかった」
不意打ちだった。
イケメンはずるい。
「すみません」
「いや、全然いいよ。
気にしないで。
それより、ありがとうね。
本当に助かった」
「……また今度、同じシフトのときは、一緒に帰りましょう」
よっぽど「嫌いになったわけじゃない」と喉まで出かかったが、言えなかった。
その言葉の続きまで思わず言ってしまいそうになるのを堪えられる自信がなかったから。
望月さんは老若男女問わずみんなに優しい。
彼の優しさの罪は、その人だけへの特別な優しさだと勘違いさせてしまうことだ。
あの事件の女性のように。
私は勘違いをするわけにはいかない。
私のことを何とも思っていない彼に対して、迂闊に続きを言ってしまうのは避けなければならなかった。
だからそれは、まだできない。
いつかはと考えてはいるが、もう少し心の準備を整える時間が必要だ。
「楽しみにしてる」
望月さんは、そう言って笑った。
食器の洗い物を終えて、ふとリビングに目をやると、大きなグランドピアノが目に入った。
それは、広いリビングのほとんどのスペースを占領して、つやつやと黒く光っていた。
吸い寄せられるように近寄る。
きちんと手入れがされているのか、埃は見当たらない。
ピアノ好きの血が騒ぐ。
こんな綺麗で大きなグランドピアノで、一回でいいから好きな曲を思いっきり弾いてみたい。
「リビングにあるグランドピアノ、弾いてもいいですか?」
望月さんの部屋に戻り、思い切って聞いてみた。
我ながらピアノのことに関しては行動が大胆だ。
「ああ、あれ、母の宝物なんだよね。
でもいいよ。
俺が許す」
「ほんとに大丈夫ですか?」
宝物と聞いて不安になった。
だから大切に手入れがされていたのかと合点がいく。
「いいよ。
看病してくれたから。
それに、母は大して弾かないくせに、他人には触らせてくれないんだよね。
弾いてもらった方がピアノも喜ぶ気がする」
「やった。嬉しい」
両腕でガッツポーズをしてしまう。
私も小さな子みたいだ。
「望月さんは、いつ寝てもいいですからね」
「どれだけ弾くつもりなの」
病人が呆れたように笑う。
「思う存分です、と言いたいところですけど、病人の睡眠の邪魔をするつもりはないので、大好きな曲ベスト3です」
「はいはい、お好きにどうぞ」
子どもを見守るお父さんのような顔で承諾されたが、私は気にせず嬉々としてグランドピアノのあるリビングへ向かった。
鍵盤の蓋を開け、キーカバーと呼ばれるフェルト生地のような布を取る。
するとその下から、これまた本体と同様につやつや輝く鍵盤が現れた。
ああ、なんて美しいのだろう。
うっとりしながら着ていた服で手を拭き、鍵盤の上にそっと手を構えて乗せた。
まずは最も好きな曲を弾くことにする。
私はバッハの「主よ、人の望みの喜びよ」を弾き始めた。
明るい曲調だけど、荘厳な曲だ。
私は無宗教だが、この曲を弾くと、いつの間にか神に捧げている気持ちになる。
無宗教の私にとって神とは誰を指すのか。
崇拝の対象とは誰あるいは何なのか。
これからの私が見つけるべきテーマだなと思った。
きっとそれをイメージしながら弾けば、もっと遠くに届く音になる。
音楽は人の心を導くと言うと聞こえはいいかもしれない。
私には、眠たくなるといわれているこの曲を聴かせて、お腹がいっぱいになっている望月さんを眠らせようという魂胆もあった。
病人には睡眠をもっと取ってもらわねば。
教会音楽は、教会という天井の高い建物の中での音の響きを計算して作曲されているような気がする。
大きな空間がある場所の方が、弾いていて気分がいいのはそのせいなんじゃないかと思っている。
まさにこの曲は、望月家の広いリビングで、大きなグランドピアノで弾くのに適していた。
弦を叩いた音が直接天井に抜けていき、澄んだ音が部屋中に響き渡る。
最高に気持ちいい。
我が家のアップライトピアノとはまったく違う音に夢中になって弾いた。
二曲目はバダジェフスカの「乙女の祈り」。
可憐な音使いが可愛らしい曲だ。
私はこの曲を弾いているときだけは可愛くなれる気がした。
曲の中で祈っている乙女のように。
私の中の乙女は何を祈るのだろう。
最後の曲はベートーヴェンの「月光」。
第三楽章まであるが、全部を弾いていると長い上に、激しめの第三楽章で望月さんを起こしそうだったので、第一楽章だけ弾いた。
重厚で孤独な曲だ。
簡単に見えるが一番弾くのが難しい。
その昔、最後のクリスマス発表会で選曲したのがこの曲だった。
あのころは勉強が忙しくなってしまって、暗譜しきれずに楽譜を見ながら弾いた苦い思い出のある曲だ。
今は楽譜なしで弾ける。
暗闇の中、カーテンのない窓全体から静かに差し込む月の光をイメージする。
部屋の中には孤独に生きている誰かがおり、月の光に照らされることで、自分がひとりであることを実感するのだ。
三曲弾き終わった私は満足し、キーカバーを鍵盤に乗せ、ゆっくりと蓋を閉めた。
抜き足差し足で望月さんの部屋に向かう。
大きく開いていたドアから中をのぞくと、ドアに背を向けて眠っている彼が見えた。
「おやすみなさい……優雨」
彼の部屋のドアを完全に閉める前に、急に下の名前を呼んでみたい衝動にかられ、囁き声で望月さんの下の名前を呼んだ。
全身の表皮がカッと熱くなる感覚があった。
最後の一秒くらい奥さん気取りを許してくださいと、誰に許しを乞うているのか分からないけれど、心の中でつぶやく。
どうせ本人は夢の中に潜っていて聞いていないだろう。
私だけの秘密だ。
そっと望月さんの家を出た。
オートロックの鍵が動く、ギィ、ガチャンという音を確認する。
エレベーターに乗って急降下しながら、速いテンポでドクドク脈打つ心臓の鼓動が身体中に響いているようで、思わず胸を押さえた。
重力に逆らっているせいだと思いたかった。
どうか明日、私が風邪をひいていませんようにと願いつつ、今度こそ自宅の玄関ドアを開けた。
中に入って鍵を回し、玄関に座り込む。
頭がぼうっとする。
好きな人の名前を本人の前で密かに呼ぶ行為は、魔法を操る魔女の呪文を口にしたかのようだった。
その夜、れんげで運んだお粥を食べる、不完全で無防備な望月さんの口元を思い出し、自分の唇を何度も指でなぞってはため息をついた。
きちんと閉めきれなかったカーテンのわずかな隙間からのぞく月だけが、私の行為をじっと見ている。