僕は毎週日曜日に図書館に行って、勉強や読書をすることにしている。駅とは反対方向にあるから、人通りもあまり多くなくて、雑踏の中を歩いたり、公共交通機関に乗ることができない僕からするとありがたい環境だ。
自転車に跨り、七月の蒸し暑い空気を潜り抜けて、図書館に向かう。フリースペースの椅子に座って本を読んでいると、視界の端に誰かの手招きのような仕草が映った。顔を上げて、思わずあっと声をあげそうになる。
そこにいたのは、数日前に僕を助けてくれた少女だった。
《となり良いですか?》
今日は図書館の中だからだろう、スマートフォンではなく小さなメモ帳を持っている。「うん、良いよ」と小声で答えて、側に積み上げていた本を反対側に寄せた。
あの、と隣に座った彼女にそっと声を掛けると、彼女が此方を向いて微かに首を傾げた。
「今更なんだけど、その、お名前教えて頂いても……あ、嫌だったら全然」
しどろもどろになりながら続けると、彼女が愉快そうに笑ってメモ帳を膝の上に置いた。ボールペンを走らせて、僕に見せてくれる。
《名雪想空です》
「……そら、さん」
《貴方のお名前は?》
そう書いたメモ帳を、彼女が──想空さんが僕に突き出してきた。《狐塚海來》と書いて、「きつねづか、みらいです」と言うと、想空さんの表情がぱぁと輝いた。彼女のボールペンが、紙の上をさらさらと走っていく。
《海來くんは、何歳?》
「今年で十六、です」
《わぁ、同い年です。私もこの前十六に》
声を出せないから物静かな子に見えてしまうけど、きっと本来はお喋りな子なのだろう。
想空さんから聞いた話をまとめると、想空さんは僕と同い年の十六歳で、通信制の高校に通っているらしい。「以前は普通科の高校に通っていたけど、いじめから心因性の失声症になってしまって通信制に転校した」という所まで僕は流石に訊かなかったのだけど、本人が話してくれてしまった。この図書館には週に一、二回やってくるそうで、僕が毎週日曜日に来ていることを話すと《じゃあ私も日曜日に来るようにしようかな》なんて言い始めたので、「無理しなくていいのに」と言ったけど、肩をすくめて聞こえない振りをされた。
「あ、ねぇそういえばさ」
我ながら話の展開が唐突すぎると思いながらも、先日の別れ際の仕草が急に脳裏に浮かんでしまった。
「此間のこの仕草、どういう意味なの?」
手で形を真似ながらそう問うと、「あ」という顔をして想空さんが自分の傍にあった本を取り上げた。ページを捲って、あるイラストを指差す。そこには、この前彼女が示した手の形が描かれていた。『またね』という文字が、上に書かれている。
《私、頭の中では手を振ったつもりだったんだけど、よく使うから手話が出ちゃったみたい。びっくりさせてごめんなさい》
「……手話?」
こくりと想空さんが頷いた。
「へぇ、手話も使うんだね」
《私も一ヶ月ぐらいしか使ってないから、どうしても手話より筆談の方がスムーズに話せるけど、それだと時間かかるから》
「そうなんだ」と返して、想空さんの言葉を反芻しながら、ゆっくりと考えを巡らせる。
じゃあ、僕が「またね」と言った時、想空さんは少し驚きつつも訝しんだりしないで、笑って「またね」と返してくれたのか。心がぽぅと暖かくなった。
《私、そろそろ帰らないと。また来週ね》
はっと顔を上げると、もう窓から見える町の空は茜色に染まっている。
「え、早」と呟いた僕が、肩をつつかれて振り返ると、想空さんがにっこりと笑って、胸の前に横向きのピースサインを示した。『またね』とその口が、確かにそう動く。
「うん、またね」
負けずににっこりと笑って、そう言った。
自転車に跨り、七月の蒸し暑い空気を潜り抜けて、図書館に向かう。フリースペースの椅子に座って本を読んでいると、視界の端に誰かの手招きのような仕草が映った。顔を上げて、思わずあっと声をあげそうになる。
そこにいたのは、数日前に僕を助けてくれた少女だった。
《となり良いですか?》
今日は図書館の中だからだろう、スマートフォンではなく小さなメモ帳を持っている。「うん、良いよ」と小声で答えて、側に積み上げていた本を反対側に寄せた。
あの、と隣に座った彼女にそっと声を掛けると、彼女が此方を向いて微かに首を傾げた。
「今更なんだけど、その、お名前教えて頂いても……あ、嫌だったら全然」
しどろもどろになりながら続けると、彼女が愉快そうに笑ってメモ帳を膝の上に置いた。ボールペンを走らせて、僕に見せてくれる。
《名雪想空です》
「……そら、さん」
《貴方のお名前は?》
そう書いたメモ帳を、彼女が──想空さんが僕に突き出してきた。《狐塚海來》と書いて、「きつねづか、みらいです」と言うと、想空さんの表情がぱぁと輝いた。彼女のボールペンが、紙の上をさらさらと走っていく。
《海來くんは、何歳?》
「今年で十六、です」
《わぁ、同い年です。私もこの前十六に》
声を出せないから物静かな子に見えてしまうけど、きっと本来はお喋りな子なのだろう。
想空さんから聞いた話をまとめると、想空さんは僕と同い年の十六歳で、通信制の高校に通っているらしい。「以前は普通科の高校に通っていたけど、いじめから心因性の失声症になってしまって通信制に転校した」という所まで僕は流石に訊かなかったのだけど、本人が話してくれてしまった。この図書館には週に一、二回やってくるそうで、僕が毎週日曜日に来ていることを話すと《じゃあ私も日曜日に来るようにしようかな》なんて言い始めたので、「無理しなくていいのに」と言ったけど、肩をすくめて聞こえない振りをされた。
「あ、ねぇそういえばさ」
我ながら話の展開が唐突すぎると思いながらも、先日の別れ際の仕草が急に脳裏に浮かんでしまった。
「此間のこの仕草、どういう意味なの?」
手で形を真似ながらそう問うと、「あ」という顔をして想空さんが自分の傍にあった本を取り上げた。ページを捲って、あるイラストを指差す。そこには、この前彼女が示した手の形が描かれていた。『またね』という文字が、上に書かれている。
《私、頭の中では手を振ったつもりだったんだけど、よく使うから手話が出ちゃったみたい。びっくりさせてごめんなさい》
「……手話?」
こくりと想空さんが頷いた。
「へぇ、手話も使うんだね」
《私も一ヶ月ぐらいしか使ってないから、どうしても手話より筆談の方がスムーズに話せるけど、それだと時間かかるから》
「そうなんだ」と返して、想空さんの言葉を反芻しながら、ゆっくりと考えを巡らせる。
じゃあ、僕が「またね」と言った時、想空さんは少し驚きつつも訝しんだりしないで、笑って「またね」と返してくれたのか。心がぽぅと暖かくなった。
《私、そろそろ帰らないと。また来週ね》
はっと顔を上げると、もう窓から見える町の空は茜色に染まっている。
「え、早」と呟いた僕が、肩をつつかれて振り返ると、想空さんがにっこりと笑って、胸の前に横向きのピースサインを示した。『またね』とその口が、確かにそう動く。
「うん、またね」
負けずににっこりと笑って、そう言った。