ぐわんと視界が揺れた。
走ってもいないのに、どきどきと胸が波打つ。息が震えて、冷や汗がこめかみを伝う。
苦しい、怖い。このまま死んでしまうんじゃないかという考えが、頭を(もた)げてくる。
締め付けられるように痛む胸を手で押さえた。唸り声をあげながらポケットをまさぐり、パキッと音を立てて薬を取り出す。飲み込むと同時に、目の前に人の気配を感じた。
曇り空のせいか白くぼんやりとした視界の中で、しゃがみ込んでいる人影が見える。
邪魔だと、こんな所に(うずくま)るなと、文句を言いに来たのか?
はぁはぁと息を荒くしながらも、少しずつ動悸がおさまってくる。
顎から汗が滴り落ちた。
目の前の人影に焦点が合ってきて、ぱちぱちと瞬きを繰り返す。
少女だ。僕と同い年ぐらいの、女の子。
相変わらず何も喋らないけど、心配そうに眉を下げて、ぱくぱくと口を動かしながら、僕の頬に手を伸ばしてくる。
発作の直後で神経質になっていた僕は、思わずその手から逃れようと身体を跳ね上がらせた。慌てたせいか靴と地面が上手く噛み合わず、ガッという音が耳に響く。
女の子がポケットからスマートフォンを取り出して、画面に素早く指を走らせ始めた。
「ぁ、救急車とか呼ばなくていい」
慌ててそう言うと、女の子は此方を見て首を横に振った。救急車を呼ぼうとしたわけではないらしい。何をしているんだろうかと首を傾げていると、女の子がスマートフォンの画面を僕に見せてきた。
《大丈夫ですか?急に近づいてごめんなさい。私は訳あって声が出せないので、貴方に声を掛けたりすることができませんでした》
「……あ、ありがとうございます、もう大丈夫です。うん、まぁ、病気…ですね、パニック障害ってやつ。分かります?」
そう訊くと、こくんと彼女が頷いて見せた。
《身体に異常はないけど、急に息苦しくなったり怖くなったりするやつですよね》
「そうそう、それ」と答えながら、少しずつ考えを巡らせていく。さっきから僕の声は聞こえている風だし、耳が不自由という訳じゃないらしい。「訳あって声が出せない」と書いていたから、喉の病気か何かだろうか。
「えっと、とにかく、ありがとう。助かった」
駅前にいるということは、彼女も何か用事があるのだろう。ずっと座り込んではいられないし、あまり長く話し込む訳にもいかない。
彼女が頷いて、少し笑って会釈をした。
「それじゃ、またね」
深い意味があったわけではない。何となく、ほぼ反射的にそう言っただけだ。
立ち上がってそう言った僕を、彼女は少し驚いたように見やって、嬉しそうに笑って、手の甲をこちらに向け、横向きにしたピースサインを胸の前にやるような仕草をした。
全く意味は分からなかったけど、その輝くばかりの笑顔が、妙に印象に残った。
僕は毎週日曜日に図書館に行って、勉強や読書をすることにしている。駅とは反対方向にあるから、人通りもあまり多くなくて、雑踏の中を歩いたり、公共交通機関に乗ることができない僕からするとありがたい環境だ。
自転車に跨り、七月の蒸し暑い空気を潜り抜けて、図書館に向かう。フリースペースの椅子に座って本を読んでいると、視界の端に誰かの手招きのような仕草が映った。顔を上げて、思わずあっと声をあげそうになる。
そこにいたのは、数日前に僕を助けてくれた少女だった。
《となり良いですか?》
今日は図書館の中だからだろう、スマートフォンではなく小さなメモ帳を持っている。「うん、良いよ」と小声で答えて、側に積み上げていた本を反対側に寄せた。
あの、と隣に座った彼女にそっと声を掛けると、彼女が此方を向いて微かに首を傾げた。
「今更なんだけど、その、お名前教えて頂いても……あ、嫌だったら全然」
しどろもどろになりながら続けると、彼女が愉快そうに笑ってメモ帳を膝の上に置いた。ボールペンを走らせて、僕に見せてくれる。
《松雪澄玲(まつゆき・すみれ)です》
「……すみれ、さん」
《貴方のお名前は?》
そう書いたメモ帳を、彼女が──澄玲さんが僕に突き出してきた。《森本昴晴》と書いて、「もりもと、すばるです」と言うと、澄玲さんの表情がぱぁと輝いた。彼女のボールペンが、紙の上をさらさらと走っていく。
《昴晴くんは、何歳?》
「今年で十六、です」
《わぁ、同い年です。私もこの前十六に》
声を出せないから物静かな子に見えてしまうけど、きっと本来はお喋りな子なのだろう。
澄玲さんから聞いた話をまとめると、彼女は僕と同い年の十六歳で、通信制の高校に通っているらしい。「以前は普通科の高校に通っていたけど、いじめから心因性の失声症になってしまって通信制に転校した」という所まで僕は流石に訊かなかったのだけど、本人が話してくれてしまった。この図書館には週に一、二回やってくるそうで、僕が毎週日曜日に来ていることを話すと《じゃあ私も日曜日に来るようにしようかな》なんて言い始めたので、「無理しなくていいのに」と言ったけど、肩をすくめて聞こえない振りをされた。
「あ、ねぇそういえばさ」
我ながら話の展開が唐突すぎると思いながらも、先日の別れ際の仕草が急に脳裏に浮かんでしまった。
「此間のこの仕草、どういう意味なの?」
手で形を真似ながらそう問うと、「あ」という顔をして澄玲さんが自分の傍にあった本を取り上げた。ページを捲って、あるイラストを指差す。そこには、この前彼女が示した手の形が描かれていた。『またね』という文字が、上に書かれている。
《私、頭の中では手を振ったつもりだったんだけど、よく使うから手話が出ちゃったみたい。びっくりさせてごめんなさい》
「……手話?」
こくりと澄玲さんが頷いた。
「へぇ、手話も使うんだね」
《私も一ヶ月ぐらいしか使ってないから、どうしても手話より筆談の方がスムーズに話せるけど、それだと時間かかるから》
「そうなんだ」と返して、澄玲さんの言葉を反芻しながら、ゆっくりと考えを巡らせる。
じゃあ、僕が「またね」と言った時、澄玲さんは少し驚きつつも訝しんだりしないで、笑って「またね」と返してくれたのか。心がぽぅと暖かくなった。
《私、そろそろ帰らないと。また来週ね》
はっと顔を上げると、もう窓から見える町の空は茜色に染まっている。
「え、早」と呟いた僕が肩をつつかれて振り返ると、澄玲さんがにっこりと笑って、胸の前に横向きのピースサインを示した。『またね』とその口が、確かにそう動く。
「うん、またね」
負けずににっこりと笑って、そう言った。
それから僕たちは、毎週日曜日にあの図書館で会うようになった。
家でも道でも教室でも、いつあの苦しさに襲われるかと怯えて生きていた白黒の世界に、ほんの少しずつ色が戻ってきた。
日曜日に玄関の扉を開けると、前まで恐怖の対象でしかなかった外の世界が、空が、少し明るく感じて、足が軽やかに動くようになった。
全く歩けなかった人混みも、まだ完全に克服したわけじゃないけど、帽子を被ったりヘッドホンを付けていれば少しずつ歩けるようになっていた。
「……澄玲さんのお陰だなぁ」
いつもの図書館だ。帰り際にそう呟くと、隣に座っていた彼女が此方に顔を向けた。『何が?』と口が動く。
「外に出るのが楽しみになったり、少しずつ人がいるところも歩けるようになったりさ。澄玲さんと話すのが楽しいからだと思うんだ」
澄玲さんの目が大きく広がった。
少し照れたように頬を染め、可愛らしい笑みを零す。嗚呼、と思う。口に出しては言わないけど、いつか、いつの日か。澄玲さんの声を聴けたら本当に嬉しいなぁ、なんて。
「だからね、ありがとう。じゃあ、またね」
手を振って立ち上がる。と、ぱっと澄玲さんに手首を掴まれた。
俯いた澄玲さんの喉から、ひゅうひゅうと苦しげな吐息が洩れる。続けて喉を押さえ、微かに口を開けた。何かあったのだろうか?しゃがみ込んで彼女の肩をさすると、少しずつ呼吸が落ち着いてくる。
「す、ばる、く 」
掠れた声が聞こえて、一瞬誰の声かと思う。
「わ、たし、も」
僕の目が大きく広がったのが分かった。
「わたし、も、ね、ありが、とう」
目に微かに涙を浮かべて、でもすごく嬉しそうに、彼女は笑った。
「……澄玲さん」
僕も笑った。笑ったつもりだった。上手に笑えたかどうかは、自信がない。
「綺麗な声だね」
そう言うと、澄玲さんがふいと顔を逸らした。照れているのだと分かって、また笑ってしまう。「照れてるの?」と問うと、「ちがう」とぶっきらぼうな返事が返ってきた。
「違う?まぁ良いや、偶には一緒に帰ろうよ」
「うん」と彼女が頷いたのが見えた。僕は笑った。彼女も嬉しそうに笑った。
「ねぇ、今度どこか行こうよ」
「どこ、に?」
振り返った澄玲さんに、そうだね、と少し考えて答える。
「澄玲さんが行きたいところなら、どこにでも」
澄玲さんに手を引かれて見上げた八月の空は、やけに清々しく透き通っていた。

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