なんだよ、これ。「久しぶり」だなんて、僕は一切思っていないのに!
一人困惑する僕に対して、彼女は目を輝かせるんだ。
「そう。そうだよね! 小学校以来だもんねぇ」
「小学校が一緒だったのか」
「ん、なに?」
「いや。なんでもないです」
ああ、まずい。まずいぞ。小学校って、どっちのことを言っているんだろう。
小五のとき、僕は引っ越しを機に転校した。彼女は、僕が転校する前に通っていた北小学校出身なのだろうか。それとも転校先の小学校で一緒になったのだろうか。
いや、こうなってしまったら、まずは名前だ。名前を先に聞いてみよう。そうすれば思い出せるかもしれない。
「そういえば……君のあだ名って、なんだったっけな」
「あだ名? なんで急に?」
「ええっと。なんとなく」
「一部の子からはサヤちゃんって呼ばれてたよ。でもさすがにいまは『サヤカ』って呼ぶ友だちが多いかな」
サヤカ。
なるほど。この子はサヤカというのか。
頭をフル回転させて、サヤカという名の女友だちを探る。
が──どうしても出てこない。
やはり、僕とは全くの別人と勘違いされているっていうオチじゃないのか?
しかしサヤカの次の言葉で、僕の考えはあっさりと否定される。
「白鳥先生は元気?」
「えっ」
その名を聞いて、僕は目を見開いた。
なんでだよ……どうして、この子が先生の名を。
「白鳥先生を知っているのか」
「知ってるよ。白鳥先生は、入院したときからお世話になってる先生だもの。ショウくん、いまも病院に通ってるよね?」
はいもいいえも言えず、僕は固まってしまう。
彼女の言うとおり。僕は過去に入院していた時期があった。身体が弱くて治療を受けるため、小四の夏頃から小五の夏休み前までの間ずっと入院していた。
そんなことを知っているのは、主に僕が転校する前の友人たち──つまり北小学校の人たちだ。引っ越し後に出会った一人の友だちに入院の件を話したことはあるが、その相手は男子だ。
つまりサヤカは北小出身の可能性が非常に高い、ということになる。
だからといって、なぜ彼女が僕の主治医の先生を知っているのだろう?
謎が増えるばかりで、なんにも思い出せない。
もう一度訊こうとした。「なぜ君が白鳥先生を知っているの」と。
しかしその直前──
突如として頭に痛みが走った。
「……っ!」
声にならない叫び。僕は頭を抑えた。
まただ……定期的にくる偏頭痛。鎮痛剤を飲んでも、この痛みは突然にやってくる。
けれど、今日はいつもより痛みが強いのは気のせいだろうか。
「ショウくん? 大丈夫!?」
「気にするな。よくあるんだ……」
痛みに波ができた数秒後、徐々に頭痛が治まっていく。
心配そうな眼差しでこちらを見るサヤカは声を震わせ、
「ねえ、平気? 保健室行った方がいいんじゃない……?」
「いや……いい」
「でも」
「いいから心配しないで」
大したことはない。余計な心配はかけたくないんだ。
数分経ってから、頭痛は嘘のようになくなった。いつもと同じ。もう何年も、この痛みと付き合っている。うんざりだった。
僕たちが話しているうちに、いつの間にか他のクラスメイトたちもぎこちないながらにお喋りをしていた。
だが僕とサヤカはすっかり無言を貫いている。突如襲ってくる頭の痛みのせいで、変な空気が流れてしまった。
一体、この子はなんなんだろう。隣の席に座る見知らぬ少女。
彼女の瞳は、海の色。そして、僕の目は【紫色】だ──
窓に顔を向け、ガラスに映る自分を見つめた。うっすらと窓ガラスに浮かぶ僕の瞳は、いつだって紫に光っている。僕と同じように、珍しい色の瞳の持ち主と初めて出会った。
それに、彼女は僕を幼い頃から知っているかのような発言をたくさんした。出会って数分の間、何度も何度も。
僕は彼女のことを覚えていない。それなのに、あまりにもフレンドリーに話しかけてくる彼女に、僕はどういうわけか嘘をついてしまった。「久しぶり」と返事をしてしまった。
この言葉はすぐさま撤回しなければならない。できれば……いや、必ず今日中に、だ。
◆
高校生活一日目が無事に終わった。
早速、今朝のことを彼女に謝らなければ。『本当は君のことを覚えてないんだ』『君は誰なの?』
うん。正直にそう言おう。
「ショウくん」
ホームルームが終わってすぐ、先に声をかけてきたのはサヤカの方だった。
「連絡先、教えてくれない?」
「えっ」
「せっかく同じ高校に入って同じクラスになれたんだもの。これからも仲良くしたいな」
サヤカはスマートフォンを片手に「お願い」と、笑顔を向けてきた。彼女の綺麗な瞳が、僕の顔をじっと捉え続ける。
僕の胸が、ドキッと音を立てた。サヤカに見つめられるほど、鼓動が早くなっていく。
待て待て。連絡先を交換してる場合じゃないんだよ。さっきの発言を撤回しないといけないんだぞ……。
内心、僕が慌てふためいているなどと知る由もなく、彼女はサッとスマートフォンをこちらに向けてきた。画面には、連絡先コードが表示されている。
「これ、読み込んで」
「あ……はい」
言われるがまま僕はサヤカの連絡先を読み取り、アプリの中に登録した。「松谷サヤカ」と表示される彼女のホーム画面。アイコンは可愛らしい茶色い猫だった。
マツタニ……松谷サヤカ。
やっぱり、こんな名前の子、記憶にはないな。
「ありがと。これからもよろしくね。若宮ショウジくん!」
僕のメッセージアプリのホーム画面を見ながら、サヤカは声を弾ませた。
なんだよ、改まった呼びかたをして……。
というか、なにちゃっかりと連絡先を交換しているんだ僕は。こんなことしてる場合じゃないって言っただろ。
出会ってまだ数時間しか経っていないのに、完全に彼女のペースにのまれている気がする。
そんな僕の懸念に気づきもせず、サヤカは荷物を持って笑顔で手を振った。
「それじゃあ私、帰るね」
「あ、あの」
「ん? なに?」
言え。いまこそ。「君、誰?」たったひとこと言うだけでいいんだよ。
「いや……なんでも。またな」
「うん! また明日」
満足げに、サヤカは教室を後にした。他のクラスメイトたちも続々と外へ出て行く。
僕は鞄を持ったまま机の前で茫然と立ち尽くしていた。
バカか、僕は。なにやってるんだ。
あの子が誰なのか、結局わからなかった。言い出せなかった。僕と似たような瞳の色といい、白鳥先生の件といい、彼女の「勘違い」で片づけられるような話じゃないのに。
いや……焦るな。まだ初日だろ。明日にでもタイミングを見計らって、正直に話すんだ。ちょっとずつ探りも入れて、チャンスがあればなにか思い出せるかもしれないし。
完全に謝る機会を逃しているというのに、僕は頭の中でごちゃごちゃ考えるばかり。
だけど……サヤカと連絡先を交換できたのは、ちょっと嬉しい。
「……帰ろ」
浮かれている自分に言い聞かせるように、僕はひとりごちる。
鞄を肩にかけ、教室から出ようとすると。
「おーい、ショウジ!」
威勢のいい、バリトン声が響いた。教室のドアの向こうで顔を覗かせたのは、小五からの友人、ユウトだった。
ユウトはネクタイを緩め、ブレザーのボタンを全て外した状態だ。高校生活初日だというのに、制服を見事に着崩しているじゃないか。地毛が濃茶ということもあり、パッと見た感じ不良に見えなくもない。
でもユウトはすごくいい奴で気さくで、どんなことに対してもポジティブだ。明るい性格のユウトに、僕はいつも励まされている。
「一緒に帰ろうぜ!」
「そうだな」
家が近い僕たちは、自然と帰路を共にする。
教室を出たタイミングで、何やらユウトはニヤニヤしながら肩を組んでくるんだ。
「で、誰なんだ?」
「……誰って?」
「おいおい、とぼけんなよ! 可愛い女の子と連絡先交換してたよなぁ!」
うわ、マジか。サヤカとのやり取りを見られてたのかよ。
「ショウジ。お前、隅に置けない奴だな。入学早々、女の子とイチャイチャしやがって」
「はあ? そんなんじゃない。彼女は──」
と、言いかけたところで次の言葉が出てこない。
うん? これはどう説明したらいいものか。
彼女の話によれば、おそらく北小の同級生だ。でも、僕は彼女のことを一切覚えていない。
この状況で「小学校からの知り合いなんだ」と説明するのは違和感がある。
僕が考え込んでいると、ユウトが怪訝な顔をした。
「どうしたんだよ? まさか、俺に言えないような関係なのか!?」
「いや。そういうわけじゃない」
じゃあどういうわけなんだよ! と、ユウトはまくし立ててくる。
僕は考えた。サヤカの件を、ユウトに相談してみてもいいんじゃないかと。
小五で僕が引っ越したとき、転校先で一番最初に友だちになってくれたユウト。いつの間にか一緒にいるのが当たり前になっていて、なにかあればいつだって気軽に相談し合える。僕が進路で悩んでいるときも「悩みすぎるな」「俺と同じ高校を目指そうぜ」と言ってくれて、ずいぶんと気持ちが楽になったものだ。
僕が転校後に友人になった中で、入院した経験があるのを知っているのは、ユウトだけ。なんでも話せる相手なんだ。
いざというときは真面目に相談に乗ってくれる彼になら、話してもいい。それに、一人で彼女に対してモヤモヤし続けているのは堪えられないと思う。
ユウトの目をじっと見つめ、僕は事の説明をはじめた。
ホームルームが始まる前にサヤカが「久しぶり」と声をかけてきたこと。なぜか僕の小学校の頃のあだ名を知っていたこと。入院中お世話になった白鳥先生の名前を口にしていたこと。僕の瞳は紫色、そして彼女は海色の目をしていること。共通点があるのに、「松谷サヤカ」なんて知り合いは僕の記憶の中にはないこと。
相槌を打ちながら話を聞いていたユウトは、神妙な面持ちになった。
下駄箱でそれぞれ上履きからローファーに履き替える。昇降口を出て、あたたかい風に当たりながら校門から抜け出した。
「ユウトは、松谷サヤカっていう子、知らないよな?」
「うーん。知らねぇな」
やっぱり。
サヤカは北小出身である可能性がさらに上がった。ほぼ確定と言ってもいい。
一歩前進したように思えるが、出身校以外の情報はない。
僕の隣で、ユウトはううんと低く唸った。
「なんかそのサヤカって子、怪しくね?」
しばし考え込むようにうつむき加減になるユウトだったが、もう一度こちらを見ると首を振った。
「ていうかさ、お前はなんでその子に言わないんだよ。『あんたのこと知らない』って」
「自分でもわかんないよ」
「は?」
「久しぶりって言われたから、久しぶりって返しちゃって」
「なんだそれ? わけわかんねぇな、ショウジは」
呆れたようにユウトに言われてしまい、僕は苦笑した。
僕自身もなぜあんな反応をしてしまったのか理解できない。まるで自分の中に潜むなにかが、彼女に対して疑問を投げかけるなと制御しているみたいだった。
「たぶん俺らが卒業した小中にはいねえ子だな。本人に訊けないなら、引っ越し前の知り合いに訊いてみたらどうだ。連絡取れる奴とかいねぇの?」
ユウトの提案に、僕は同級生たちの顔を思い出そうと頭を巡らせる。
北小学校は、当時一クラス20人くらいで一学年につき二クラスしかなかった。何人かの名前や顔はあいまいではあるものの、記憶には残っている。
その中で、いまでも連絡が取れる相手というのは。
「いない」
「は?」
「連絡先なんて一人も知らない」
「ガチで言ってんの? まさかショウジ……お前、転校前の学校ではぼっちだったのか」
憐れむような目をユウトに向けられ、僕は慌てて首を横に振る。
「その頃はスマホとか携帯とか持ってなかったから、気軽に連絡先を聞ける状況でもなかったんだよ」
「SNSとかで捜せば誰かしら見つかるんじゃね?」
「と言ってもなあ……小四から長い間入院して、その期間友だちとなかなか会えなかったんだ。退院してすぐに引っ越したし。お別れを言う前にみんなと離ればなれになったんだぞ。いまさら連絡取っても気まずいだろ?」
言い訳がましく早口になってしまったが、全部事実なんだ。入院する前は僕だって普通に友だちはいたし、勝手にぼっち認定されたくない。ただ、冗談抜きで北小の同級生にコンタクトを取るのは難しいんだ。
ならば、もっと身近にいて気軽に相談できる相手を──たとえば、家族に訊いてみるのがいいかもと思いはじめた。
僕はいま、母と二人暮らしだ。僕が小学生の頃、母は仕事がどんなに忙しそうでも運動会や発表会、授業参観の行事には必ず顔を出してくれた。たぶん、僕に寂しい想いをさせないように頑張ってくれていたんだと思う。
我が家には、父がいないから。僕が物心つく前に病気で亡くなってしまい、父との思い出はなにひとつ覚えていないんだ。
四つ上に姉のコハルがいる。この春に大学生になりコハルは一人暮らしをはじめた。自宅から自転車で十分ほどの距離に住んでいるので、母はちょくちょく会いに行っているらしい。
コハルは、小さい頃から面倒見がよかった。父親代わりになって世話をしようとしてくれてたんだろう。そんな姉は中学生になってから部活に夢中になり、少しずつ姉弟の時間が減っていった。でも、いまでも時々僕を気にかけてくれるコハルには感謝してる。たまにうざったいと思うこともあるけどね。
母と姉なら、サヤカのことを知ってるかも。
「家族に、訊いてみようと思う」
「ああ、それもいいな。あとは……なんだっけ。病院の先生?」
「白鳥先生のことか」
「その子、先生を知ってたんだろ。今度先生にもサヤカちゃんのこと訊いてみたらどうだ」
「ええっ?」
思わず声が裏返った。
それは、思いつかなかったな。
これまで先生とは僕の身体や病気について話したことはあるが、プライベートな話はほとんどしてこなかった。いきなりサヤカの話をしていいものか、迷う。
悩む僕の顔を覗き込み、ユウトは訝しげに訊いてきた。
「なんだよ、難しい顔して。主治医の先生に話せない理由があるのか?」
先生に気を遣ってしまう、と僕が話すと、ユウトは声を上げて笑った。
「お前、昔からそうだよなあ! 他人に気を遣いすぎるところ」
「そうかな……?」
「そうだよ。変なところで遠慮する性格だろ。『サヤカって人、知ってますか?』ってちょっと訊けばいいだけだろ!」
あんまり深く考えるなって。そう言いながら、ユウトは僕の背中を軽く叩いた。
ユウトのポジティブ思考を、僕にも分けてほしい。指摘されたとおり、僕はやたら他人に気を遣ってしまうし、あれこれ考えこむ癖がある。
「とにかくまずは、親と話してみる。次の受診まで日はあるし、情報がなにも得られなかったら先生にも話してみるよ」
僕がそう言うと、ユウトはいつもの調子で肩を組んできた。
「ハンバーガーでも食いに行こうぜ!」と誘われたので、街に出て寄り道をした。
なんだかんだ、ユウトに相談してよかった。
僕が一人で考え込んだって、なんにも解決しないんだ。知ってそうな人物たちに聞いて回るのがいい。行動あるのみだ。
ユウトと街をぶらぶらしながら話していると、あっという間に時間が過ぎていった。地元の駅でユウトと別れたのは夕方頃。
駅を下りて東方面に歩いて十分。小五から住んでいる十階建ての年季の入ったマンションに辿り着いた。僕の家は六階部分にある。
正面エントランスをくぐり、エレベーターのボタンを押すと──
「あら、ショウジ。おかえりなさい」
不意に声をかけられ、僕は後ろを振り向く。そこには、両手いっぱいの買い物袋を抱えた母さんがいた。フォーマルスーツを身に纏い、髪の毛をまとめている。少し崩れたメイクをした顔で、微笑みかけてきた。
「母さん? その格好、もしかして」
「ええ。入学式、ちゃんと見に行ったわよ」
「うわ。全然気づかなかった。来なくていいって言ったのに」
「なに言ってるの! あなたが自分で決めた高校の入学式よ? 親としてはちゃんと見守りたかったの」
母さんは目を輝かせる。
この歳になると、母親に晴れ姿を見られるのはなんとなく恥ずかしい。まさか、こっそり来ていたなんて……。
目をそらしながらも、僕は買い物袋を母さんから受け取る。
エレベーターが到着し、二人並んで乗り込んだ。
というか、僕が自分で決めた高校って母さんは言っていたな。
実は大層な理由なんてない。ただ成り行きで東高校を選んだだけなんだ。偏差値的にもちょうどいいレベルだったし、家の最寄り駅から一駅で行けるし、なによりもユウトが東高を受けると言ってたから、僕も受験してみようという流れだった。
そんなこともつゆ知らず、母さんは安堵したような顔になる。
「ギリギリまで進路を決められなかったから、心配してたのよ。無事に入学できて安心したわ。ショウジは重要な決断をするときは、いつも優柔不断になるんだから」
痛いところを突かれる。たしかに僕は物事を決める際、迷い出すと沼にハマってしまうことがしばしばある。
話しているうちに六階へ到着し、エレベーターを降りた。左の角を曲がると、六○五号室がある。僕たち若宮家の住む場所だ。
「ま、東高校は落ち着いた子たちが多い印象だったし、よかったわね。一年生だけで二百人くらいいるんでしょ? 新しいお友だちもたくさん作れそうね!」
「お友だちって言いかた……。僕のことを小さな子ども扱いかよ」
「ふふ。あなたはいくつになっても、わたしにとっては小さい子どもよ!」
自宅前のドアに辿り着き、母さんが鍵を開ける。
扉を開くと、部屋のこもった空気が流れてきた。落ち着く我が家の匂い。キッチンに買い物袋を置いてから、僕は洗面所で手を洗った。
このときにふと、鏡に映る自分と目が合う。
一切くすみのない、紫色の瞳。改めてまじまじと見ると、やはり不自然に思う。平々凡々なこの顔に貼りつく紫の目は、日本人の僕には不釣り合いだ。両親から譲り受けたものではない。
彼女も──サヤカも、珍しい瞳の持ち主だ。もしかして、彼女のルーツになにか事情があるのかもしれないが、それよりも共通点というか、彼女となにか通ずるものがある気がしてならない。
「そういえば」
母さんに、訊いてみよう。サヤカのことを。
手を洗い終えた僕は、買い物袋を整理する母に向かって口を開く。
「あのさ、母さん」
「なに?」
「北小学校の友人について、教えてほしいことがあるんだ」
「北小の……?」
母さんは、ピタリと手を止めた。
「どうしたのよ、急に」
「実は今日同じクラスになった子で、僕を知ってる人がいたんだ。『久しぶり』とか話しかけてきたんだけど、僕はその子が誰なのかわからなくてさ」
「その子があなたを、他の誰かと勘違いしてるんじゃない?」
母も、僕と同じ考えのようだった。そりゃそうだよな。
……でも、なんだろう。どことなく母の声が低くなった気がする。
「でもな、その子、白鳥先生を知ってるらしいんだ」
「……えっ?」
「しかも、僕と同じような目の色をしてる。と言っても、彼女は水色で、僕よりも瞳の色は薄いんだけどな。でも珍しいと思わないか?」
僕がそこまで話すと、母さんはキッチンから出てきて顔を見上げてきた。
「その子、名前はなんていうの?」
「松谷サヤカだよ。母さん、知ってる?」
彼女の名前を口にした瞬間、母さんは目を逸らした。それから、大きく首を横に振るんだ。
「……いいえ。知らないわ」
一文字一文字、強調するように、母さんは言葉を連ねる。
「その子、本当に北小にいたの? 嘘くさいわ。いや、きっとショウジを知ってるのも嘘ね!」
「……は?」
母さんは背を向け、キッチンへと戻っていった。買い物袋から食材を出し、冷蔵庫に入れていく。
母さんの反応に、僕はとてつもない違和感を覚える。
「どうしたんだよ、母さん」
「どうもしないわ。ショウジ、その子は絶対に勘違いしてるだけ。あなたは無駄なこと考えないでいいのよ」
「怒ってるのか?」
「怒ってるわけないじゃない」
と返事する母さんの声は、明らかに不機嫌だ。
「とにかく。これからの高校生活、しっかり勉強に励みなさいよ。サボってたら留年しちゃうのよ? もう、義務教育は終わったんだからね」
──そんなのわかってる。話を逸らさないでくれ。
そう言い返そうとしたが。母さんの暗い顔を見ると、これ以上問いかけるのは止めた方がいいらしい。
母さんは買い物袋を片づけると、リビングにある父の仏壇の前に座り、手を合わせた。その横顔は、とても神妙だった。
疑念を抱いたまま僕は自室へと戻る。
鞄を片付け、私服に着替えてベッドに寝転がった。
母さんのあのリアクション……なにかしら事情を知っているんじゃないか? でもあの調子じゃ、深く突っ込んでもなにも教えてくれないだろうな。
今後、母さんの言動にも注意しつつ、タイミングを見計らってもう一度問いかけてみよう。
◆
数日後。
僕はユウトと共に、校内の食堂へ初めて訪れていた。購買にはものすごい人が並んでいて、あちこちから注文をする声が飛び交い、まさにカオス状態だった。
オーダー表を見ると、カレーや天丼、うどんやそばなどレパートリーがたくさん。しかも、どれも三百円台とかなり安い。
「すっげぇ人の数だな。ショウジ、こっち並ぼうぜ」
「あ、ああ」
二~三年生たちの勢いに押し潰れそうになったが、どうにか列に並び、僕はカレーをユウトはうどんを注文した。お金を払って料理を受け取り、席が空いていないか探してみたが、ほぼほぼ埋まっている様子。
「参ったなぁ。こんなに混んでるとは思わなかったぜ」
ユウトはため息を吐く。
さっきから腹が鳴って、いますぐにでも食事にありつきたいのに。
仕方がないから教室へ行こうと、僕が言おうとした時だった。
「──あっ、ショウくん!」
人混みの中から、聞き覚えのある声が聞こえてきた。
テーブル席にサヤカが座っていた。お弁当をテーブルに広げ、同じクラスの女子と食事を摂っている。
「松谷さん。席、取れたんだ」
「うん。早めに来てなんとかね。この学校の食堂、毎日混むって噂聞いてたから」
サヤカは卵焼きを箸でつまみ、美味しそうにそれを食べている。弁当の中身はブロッコリーやハンバーグ、唐揚げなどが綺麗に並べられていた。
「うまそうな弁当。親が作ってくれているのか?」
「ううん、自分で作ってきたの」
「えっ」
当たり前のように答えると、サヤカは次にブロッコリーを口に運ぶ。
……ガチで? こんな手の込んだ弁当を、自分で用意したってのか。サヤカは、料理ができるらしい。
僕が感心している横で、ユウトがニヤニヤしながら会話に入ってきた。
「へぇー。君が噂の松谷サヤカちゃんか」
ユウトに言われると、サヤカはキョトンとしたように箸の手を止めた。
おい、ユウト。余計なことは絶対に言うなよ。
僕が目でそう訴えると、『わかってるよ』と返事をするようにユウトは軽く頷く。
「俺、二組の三上ユウトっす! ショウジとは小五からの付き合いなんだ。よろしくな、松谷さん!」
「そうなんだ。ショウくんの友だちなんだね。こちらこそよろしく、三上くん」
よろしくって……。二人の友情があっさり成立しちゃった感じか。すでに親しげに話す二人を見て、少し複雑だった。
というか、友人と食事をしているところをこれ以上邪魔しちゃ悪いだろ? それを口実に、僕はユウトを連れてその場をあとにした。
一組の教室に行き、僕たちは早急に食事にがっついた。中辛の濃厚なカレーが、僕の腹を満たしてくれる。
その向かいで飲み物のようにうどんを啜るユウトは、なにか言いたげな顔をしてこっちを見てくるんだ。
「……どうしたんだよ」
茶で口直しをしながら、僕はユウトに向き合った。
「いいなぁ、ショウジは」
「なにが?」
「あのサヤカちゃんって子、めちゃくちゃ可愛いな。あんな子と同じクラスなんて羨ましい」
なにが羨ましいのかさっぱりだ。
ユウトは汁を飲み干し、急に真顔になった。
「最初お前から話を聞いたときは、もっとこう……不思議ちゃんとか、ちょっと変わった奴なのかと思ってたんだよ。だけどさっき見た感じだと全然普通。むしろ純粋な子って印象だった。ショウジを見る目も、幼いときからお前を知ってるような、なんかそんな雰囲気がした」
「どういう意味だよ?」
「俺もうまく言えないんだけどさ。とにかく! あの子が本当にお前の幼なじみなのか、俺も協力して探ってやるよ! いつでも力になるからな」
そこまで言うと、ユウトは上機嫌に笑うんだ。
ユウトのこういうお節介なところ、嫌いじゃない。
僕は不器用なところがあるし、一人で悩んだところでどんどんサヤカに嘘をついて誤魔化しながら関わってしまいそうだ。だから、ここは素直にユウトに頼れるときがあれば頼ろうと思う。
食事を終えた頃、不意に僕のスマートフォンが受信音を鳴り響かせた。SNSニュースの新着記事お知らせの文字が画面に表示される。
見出しには【十代女性『奇病』によって死亡。】と書かれていた。
その文言を見て、僕は一瞬息をするのを忘れた。
「ショウジ、どうした?」
お茶を飲みながら、ユウトはじっと僕を見つめる。
僕はニュース記事をスクロールしながら呟いた。
「また、十代の人が奇病で亡くなったって。僕らとあんまり歳が変わらない」
「あー……奇病って、原因がよくわかってない病気のことだよな?」
力なく、僕は頷いた。
最近、テレビやネットでたびたび話題になる『奇病』。原因不明の病らしく、十代から三十代を中心に突然罹ってしまうという。
単に風邪を引いたと思っていたら実は奇病を患っていたという例もあるし、ボクシングなどの格闘家が試合中に強く頭を打って倒れた直後、この病になった例もある。けれども、健康体だと思っていた人が突然罹った事例もあるわけで、発症する理由がわからないのだ。
奇病に罹るとストレスによって脳が萎縮し、最悪の場合命を落とすという。短いと一年ももたない。けれど治療を受ければ、四年や五年ほど長く生きられるらしい。可能性は極めて低いが、寿命を全うできることもあるそうだ。
ただし難点なのは、延命治療を受けたことによって脳に大きな負担をかけてしまう。さまざまな合併症を引き起こす要因にもなる。それにより、あえて延命治療を受けない患者もいるのだという。
僕だったら──死ぬのは嫌だ。どんな合併症があったとしても、延命治療を受けると思うけどな。
「怖いよな。僕たちみたいに若い人たちが亡くなってるんだから」
僕がそう呟くと、ユウトは眉間にしわを寄せた。
「なに言ってんだよ! そんなの、ほぼ都市伝説だろ」
「都市伝説? そんなわけないよ。こうやって、毎日のようにニュースで話題になってるんだぞ」
「お前なぁ。そうやってネットとかテレビの記事に踊らされるのはやめとけ? 奇病なんて、いまにはじまったことじゃないんだ。元々何百年も前から存在してたんだろ。数十年前に初めて奇病に罹った日本人がいるから、マスコミが騒いでるだけだよ」
「でも僕たちが罹る可能性だってあるんだ」
「そんな心配するな。そう言ったって、一万人に一人とか、それくらいの可能性なんだろ? よっぽど運がよくなきゃ無縁だよ、奇病なんて」
「逆。運が悪いと奇病になるんだよ……」
「ああ、そうだな。そういうことだ」
ははは、と、ユウトは大きく笑うが、なんだかその声は渇いていた。
怖いものは怖い。けれど僕は、心のどこかで他人事だと思っているのかも。ネット記事を閉じ、ユウトと他愛ない話をしただけで、すっかり奇病に関するニュースなんて気にならなくなった。
◆
その日、夢を見た。
僕はランドセルを背負い、狭い通学路を歩いている。東の空に太陽が昇り、清々しい一日のはじまりだと感じだ。
周りを見回すと──僕の隣にはサヤカがいた。ニコニコしながらこちらを見ている。
どうして彼女が。
疑問に思うが、これはただの作り物の世界だ。サヤカのことが気になるあまり、僕は彼女から聞いた話を無意識に「夢」という形で再現しているに違いない。
そう納得しようとしたとき、ひとつの見知らぬ陰が現れた。サヤカの隣に、制服姿の少女が立っている。見た目からして、中学生くらいの女の子だ。
彼女は中学鞄と共に、肩から黒い楽器ケースを掛けている。『CLAMPON』というメーカーロゴが刻まれている。大きさ形を見る限り、中にはクラリネットが入っているんだろう。
中学生の彼女は、サヤカと親しげに話している。誰なんだろう。顔がぼやけていて、はっきり認識できない。
所詮、創造の世界なので気にしていても仕方がないが。
『ショウくん』
ふと、中学生の君が、僕に微笑みかけた。
『高校生になって、すごく大きくなったね。見違えたよ』
そう言われ、僕の目尻は熱くなった。
──そうだよ。僕はもう、高校生になったんだ。
『高校生活は楽しい?』
楽しいかどうか問われると……正直まだわからない。クラスメイトとはそれとなく関わっているし、ユウトとはクラスは離れてしまったが、なんだかんだつるんでいるし。ただ、ひとつだけ、サヤカに関しては気がかりなんだ。
僕が返答に困っていると、夢の中のサヤカがしんみりとした口調で言葉を向ける。
『ねえ、ショウくん。無理しないでね』
──無理しないって? なにが?
『過去を思い出さないでほしいの』
そう言うサヤカの表情は、とても切なそうだった。
瞬間、僕の心臓がギュッと掴まれるような感覚がした。
中学生の彼女は、サヤカの隣で頷いた。
『自分自身を大事にしてね。全てを思い出したら、ショウくんにとってよくないことが起きるから』
なに? なにを言っているんだ、君たちは。よくないことって……?
目の前の二人は、単なる幻影なはずなのに。僕はムキになってしまう。
君たちになにを言われても、自分のやりたいようにやるさ。僕は必ず思い出してみせるから。サヤカのことを。高校生活初日に、知り合いのように声を掛けられて、このまま事実を知らないわけにはいかないだろ?
そう答えようとした瞬間──目の前の景色が、突如として失われた。中学生の君の姿が見えなくなり、サヤカの声も聞こえなくなった。
残ったのは、僕の中に残る虚しさだけ。
なんで。どうして。君は、君たちは僕に『思い出すな』と言ったの? まるで、警告しているみたいじゃないか。
──そこでハッと目を覚ます。
心臓がドキドキして、息が上がっていた。それに、枕が濡れている……
え。嘘だろ。まさか、夢を見て泣いていたのか。信じられない。
おもむろに頬に触れてみると──間違いなく涙が流れた跡があるんだ。
ずんと気分が沈む。
たったいま見た光景を思い出すと、胸の奥がチクチク痛くなる。
あのサヤカと中学生の女の子は、僕の脳内で無意識に作り出された嘘だ。夢ってそういうもんだろ? 気にしていても仕方ないじゃないか。
僕は自分に言い聞かせた。
夢の内容は全部忘れろ、と。
思い出すべきことは、サヤカとの思い出なのだから、と。
◆
高校生になって半月ほどが過ぎた。ある月曜の朝。
六時に起床し、学校へ行く準備をはじめる。寝巻きのまま僕は洗面所に向かった。寝ぼけた顔を洗い、歯磨きをし、鏡に向かってボサボサの癖毛をアイロンで整える。
今日も変わらず、瞳は紫色。僕は毎朝、自分の目の色をチェックする癖がついている。とくに意味はないけれど、習慣化してるんだ。
「うん。いつもと同じ」
目の色が変わっていないと、なんでか安心する。
瞳をチェックしてから、顔面にフェイスクリームを軽く塗りつけた。ブレザーの制服に着替え、朝食のパンを頬張り、鞄を持って玄関へ向かう。
「ショウジ」
僕がドアノブに手をかけた直後、エプロン姿の母がこちらへ歩み寄ってきた。
今日の母の声色は、至って普通だ。
「学校行くついでにゴミ出しお願いしてもいい?」
今日は燃えるゴミの日だったな。僕は母からゴミ袋を受け取る。
「ねえ、ショウジ。高校生活はどう?」
「ん。そこそこ慣れてきたかな」
「……変なことは、起きてない?」
「変なことって?」
母の表情が、曇った。
「この前、言ってたでしょう。知らない子から変なことされたって……」
知らない子──サヤカの件か。
僕は母の言いかたに疑問を抱きながらも首を横に振る。
「別に変なことはされてない。『久しぶり』って言われただけだってば」
やはり母は、僕が入学初日にサヤカに話しかけられたことを気にしているようだ。
「悪い子じゃなさそうだし、それとなく接してるよ」
「でも……気をつけなさいね。もしかすると、怪しい子かもしれないし」
「まさか」
サヤカに会ったこともないのに、よくそんなこと言えるな。母の言葉に、僕は少しばかり怪訝な気持ちになる。
「そろそろ行くよ」
面倒なので、僕は半ば強制的に会話を終わらせて家を後にした。
やはり、母はサヤカの話になるとどこかおかしくなる。知らない相手のことを「怪しい」だなんて。そんな風に言う人じゃないはずなのに。
悶々とした気持ちのままエレベーターで一階へ降り、エントランスを出てすぐ横にあるゴミ捨て場に袋を捨て、駅に向かって歩き出した。
時刻は七時五十分。天気は快晴。春風が吹けば道に連なる葉桜が揺れる。僕のモヤッとした心を癒してくれるような、心地のよい一日のはじまりだった。
この周辺は住宅が密集していて、平日の朝は出勤前の社会人や登校中の学生が多く歩く。僕もその中に溶け込む形で歩き続けた。
ふと反対側の歩道に目をやると、見覚えのある制服を着ている女子学生がいることに気がつく。
ブレザーを着用し、青いリボンを首からかけ、紺色のスカートを穿いていた。
間違いない、東高校の制服だ。見るからに初々しい雰囲気がある。きっと僕と同じ一年生だろう。
なんとなく気になり、僕は歩きながらその女子高生の横顔を見てみた。綺麗なストレートヘアが朝陽に照らされていて綺麗だ。雰囲気だけで清楚な感じがする。そんな彼女の目は……水色だ。光に当たっているからだろうか、なぜか今日は昨日よりも色合いが違う気がした。若干、濃くなっているのか?
「ていうか、なんで彼女がここに……!?」
思わず心の声が漏れてしまった。
僕の大きなひとりごとが、朝の通学路に響く。周囲にいた人たちにちらちらと見られ、恥ずかしい思いをする。
そして、僕の声を聞いていたのは、彼女も例外ではなかったようだ。
「あれ? ショウくん!」
反対側の歩道を歩いていた彼女が──サヤカがこちらを振り向いた。頬に笑くぼを作り、手を振ってきたんだ。
僕が唖然としていると、サヤカはこちらに身体を向け、左右を確認しながら駆け寄ってきた。
「おはよう!」と言いながら、あっという間に僕の隣に並ぶ。
「なんでここにいるんだ?」
意図せずどもってしまう。
テンパる僕に対し、サヤカはくすりと笑った。
「それはこっちの台詞だよ~。ショウくんもこの辺りに住んでるの?」
「あ、ああ。あそこの、十階建てのマンション」
「ええ、そうだったんだ? 私の家は、あの隣のアパートだよ」
と言って、サヤカは僕の家の隣にある三階建てのアパートを指さした。去年建てられたばかりの新しい建物だ。
「春に引っ越してきたばっかりなんだよね。隣のマンションだったなんて奇遇だね」
驚いたー! と、言う彼女はなんだか嬉しそう。
「まさか、松谷さんがこんなに近所だったなんて」
「やだ、ショウくん。私のこと、苗字で呼ばないでよ。サヤカって呼んで!」
「えっ。サ、サヤカ……さん」
「だめ。呼び捨てで!」
「……サヤカ」
「はい。よくできましたー!」
なんだろう、この展開。ますますサヤカと近しい存在になってしまった気がする。それも自然な流れで、半強制的に、だ。
そのままの流れで、僕はサヤカと学校に行くことになった。だいぶ慣れてきた高校への道のりが、彼女がいるだけで違う風景に見えてしまう。
「ねえ、思い出さない?」
「……え?」
目を細め、サヤカは突然僕に問いかけてきた。
「毎日こうやって一緒に登校してたよね」
サヤカはしんみりとした様子で呟いた。
そう、なのか。
不意に、先日見た夢を思い出した。狭い通学路を、サヤカと、もう一人中学生くらいの女の子と一緒に歩いていたあの夢を。
偶然だろうけど、僕は幼いとき現実でもサヤカと登校していたらしい。
「家の近くの公園で待ち合わせてさ、三人で学校に行ったの。懐かしいよね」
「ん? ……三人で?」
「そう。私とショウくんとお姉ちゃんの三人で!」
「そうか、三人で……な」
サヤカの言うお姉ちゃん。誰だろう。
再び、脳裏に夢の光景がよみがえる。優しい雰囲気を醸していた、中学生の少女。彼女を思い出しては、すぐに頭の中から打ち消した。さすがに夢と現実をごっちゃにして考えるのはバカげている。
お姉ちゃん……もしかして、僕の姉のコハルのことかな。
姉と登校していた記憶はあるにはあるが、毎日一緒だった覚えがあんまりない。
「お姉ちゃんさ、中学生になっても途中の通学路まで一緒に登校してくれたよね。すごい優しくて面倒見がよかったんだよねぇ」
「ふーん。そうだったかな……?」
中学生になっても? コハルが? そんな記憶はさすがにないんだが。
首を傾げる僕を見て、サヤカは眉を落とした。
「あれ? ショウくん。もしかして、覚えてないの……?」
サヤカは寂しそうな表情を浮かべる。
まずいと思った。僕は慌てて首を横に振る。
「いやっ、そうじゃなくて! なんというか、コハルと……僕の姉が中学になっても一緒に登校してた記憶があんまりなくてさ」
「えっ?」
やべ。うっかり本音を口にしてしまった。
しかし、サヤカはすぐに頬を緩め、声を出して笑うんだ。
「なーんだ。勘違いしてる! ショウくんのお姉ちゃんじゃなくて、私のお姉ちゃんと三人で登校したって話だよ」
「え。サヤカの?」
「うん。私より四つ上の、アサカお姉ちゃんだよ。今日の朝陽みたいに、綺麗なお姉ちゃんなの。私たちのこと、いつも面倒見てくれてたでしょ?」
そう言って、サヤカは東の空に照る光を見上げた。その横顔はキラキラと輝いていて、僕は見入ってしまう。
松谷アサカ。
……知らない名前だった。けれどその名を耳にしたとき、胸が締めつけられる想いになる。
君は──君たちは、一体誰なんだろう。僕の記憶にはない、ふたつの名前。
なにか、とても大切なことを忘れている。サヤカという存在だけでなく、初めて耳にするアサカとの思い出すらも思い出せない。
サヤカからの話を聞いただけなのに、それ以外に根拠はなにもないはずなのに、僕は彼女たちとの過去を取り戻さなければならないと思った。
──思い出さないでほしいの──
ふと、夢のサヤカに言われた「警告」が頭の中をよぎる。と同時に、キーンと耳鳴りがした。左側の頭が、じわじわと痛くなっていく。
まただ。気持ち悪い、偏頭痛が僕を襲ってきた。
だけどいまは、この痛みに悶絶している場合じゃない。
心の中に潜むなにかが、また僕を止めようとしている。
構ってられるか。
このままサヤカに嘘をついて関わってはいけないんだ。だから、正直に伝えよう。
「なあ、サヤカ」
駅前に辿り着いた。小さな駅に、たくさんの人だかりができている。
僕は駅構内の端に立ち止まり、彼女を呼び止める。
小首をかしげ、サヤカは僕の前で歩みを止めた。
「なに?」
「話が、あるんだ」
彼女の口から語り紡がれる思い出話は、僕が覚えていないものばかり。
だから、知りたいんだ。サヤカのことを。それに、君のお姉さんのことも。
海色に光る彼女の瞳をじっと見つめ、僕は真実を口にした。
「覚えてないんだ。本当は、なにも……」
そのひとことを投げられた彼女は、とても悲しい表情を浮かべた。
少なからず、僕は後悔した。それほど、彼女の瞳が悲哀に満ちていたから。
そうだよ。当たり前だよ。幼なじみと思っていた相手から、突然「君のことを思い出せない」なんて言われたら驚くはずだ。ショックを受けるし、悲しい気持ちにもなるだろう。
サヤカを傷つけたくない。でも、ちゃんと話をしないと。このまま誤魔化していた方が、僕らにとってもよくない。
僕は、彼女の海色の瞳をじっと見つめる。正直に、全部話すべきなんだ。
ごめん。僕は入学式の日、君に声を掛けられて「久しぶり」と返してしまった。本当は、なにも覚えていないのに。どんなに記憶を辿っても、君と過ごした思い出がひとつも出てこないのに。
嘘をついて誤魔化すのはやめたい。ちゃんと知りたい。君のことも。そして、君のお姉さんのことも。
少しずつでいい。どんな些細なことでもいい。僕に君たちのことを、教えてくれないかな?
僕の言葉に、君の海色の瞳が揺れた。君の表情は、やはり切なさで埋もれていた。
しばらく沈黙が続いたあと、君はゆっくりと口を開くんだ。
「ショウくんは、思い出したい?」
その声は、微かに震えていた。
「どんなことがあっても、私たちを思い出したいの?」
迷いを乗せたような声色だった。
でも、答えは簡単だ。僕は深く頷いてみせた。
すると君は、複雑な表情を浮かべる。
「……少しだけ待ってて。答えを出してから、どうしていくのか決めるから」
そう言って、君は僕のそばから立ち去っていった。
答えを出す? なんの答え?
僕の問いかけは、虚しくも駅にひしめく人々の足音でかき消されてしまう。
君が隣にいない通学路は、寂しい空間に変わった──
◆
学校へ到着した後、頭痛はすっかり治まっていた。
なんとなく、サヤカと顔を合わせるのが気まずい。ホームルームが始まる前まで教室には行きたくないな。
悩んだ挙げ句、僕はトイレに駆け込んだ。
個室に身を潜め、ポケットからスマートフォンを取り出した。
気になることがある。アプリを開き、僕は姉のコハルにメッセージを送信した。
《松谷アサカって人、知ってるか? サヤカの姉らしい》
送信ボタンをタップすると、数分経ってから返事がきた。
《松谷アサカさん? 誰それ》
あっさりと希望を消された。僕は肩を落とす。
でも……無理もないよな。都合良くアサカを知ってるはずがない。
アサカはサヤカの姉であるらしい。短文で、僕は素早くそう返信した。
《そうなんだ。あたしからはなにも言えないけど、北小出身の友だちで知ってそうな子がいたらそれとなく訊いてみるね。あんま期待しないでほしいけど。なにかあったらまた連絡するわ》
続いて「じゃあね」と、可愛らしい花びらのスタンプも送られてきた。
コハルは意外にも、サヤカの件に関してかなり親身になってくれている。この前の土曜日、コハルと会ったときもずいぶんと真剣に話を聞いてくれたものだ。
「そういえば……」
僕は、たちまち思い返した。コハルにも、妙なことを言われたんだっけ。
コハルにサヤカの件を相談した日のやり取りが、脳裏をよぎる──
姉のコハルと会ったその日は、あいにくの雨だった。
駅近くにある姉のアパートは、築十年ほどの建物だ。部屋に行くのは、これで二回目。一度目は引っ越しの手伝いをしたときだから、ゆっくり訪れるのは今回が初めてとなる。
アパート前に到着し、オートロックで二○三号室を呼び出した。鍵を解除してもらい、二階まで上がる。
廊下は綺麗で、まだまだ新築に感じた。
いいな、一人暮らし。自分だけが住むってどんな感じなんだろう。料理や洗濯などもちろん自分でやらなければならないが、自由に色々できるからきっと楽しいんだろうな。
アパートの階段をのぼりながら、僕はそんなことを考えた。
ほどなくしてコハルの部屋前に辿り着き、もう一度インターホンを押そうと手を伸ばした──
「ショウジー! いらっしゃい」
ガチャリと勢いよくドアが開かれた。
目の前に現れた、見慣れた顔。姉のコハルだ。きりっとした表情で僕を見ている。
Tシャツにテーパードパンツを合わせていて、なんか、お洒落な印象だ。ばっちり化粧もしていて、引っ越す前と比べてだいぶ映えた気がした。
「コハル……なんか変わったか?」
「お! 姉の変貌振りにさっそく気づくとは。さすが我が弟よ!」
コハルは僕を見上げながら、ニヤリと笑う。
どうやら、大学で出会った人と付き合うことになったらしい。恋する乙女は綺麗になるものなの、なんて言いながら目を輝かせるんだ。
ふーん。いいな、楽しそうで。ていうか、この春入学したばっかなのに展開早くね?
姉に新しい彼氏ができたことを九割どうでもいいと思いながら、僕は早速家に上がった。
「そこ座りなよ。ほら、クッション」
水玉模様のクッションを受け取り、僕は床に腰かけた。コハルは僕の斜め横で、胡坐をかいて座り込んだ。
窓の外でザーザーと雨が音を鳴らしている。降水確率百%で、湿気が鬱陶しい。
雨音から耳を背けるように、僕はコハルの方に体を向けた。
「大学生活は慣れたのかよ」
「講義はダルいけど部活は楽しいよ。毎日夕方から練習があるんだ」
「部活、結局入ったんだな。吹奏楽部だろ?」
「そうそう! 大学でも、クラリネット担当になったんだよ」
誇らしげに話しながら、コハルは棚に置かれた黒い楽器ケースを手に取った。中を開けると、黒くて細長いクラリネットが姿を現す。マウスピースの部分には【CLAMPON】と、ブランド名が記されていた。
小学四年生から、コハルはずっとクラリネットを続けている。演奏会に何度か聴きに行ったことがあるが、ステージ上でクラリネットを吹くコハルの姿はなんとも輝いていて、それに……なんというか、ちょっとだけかっこいいんだ。
大学でも吹奏楽部を続けるなんて、よほど音楽が好きなんだろうな。
「将来は音楽関係の仕事に就くのか?」
「え? それはないよ」
「ずっと楽器を続けてきたのに?」
「音楽で食べていくなんて、相当大変なんだよ。あたしはただ、クラリネットが好きなだけ。卒業して社会人になっても、趣味としてずっと続けるつもり」
そういうもんなのかな。
姉は話をわざと切り替えるように、顔を覗き込みながら口を開いた。
「そういうあんたはどうなのよ。高校で部活はやらないの?」
「ああ、そうだな……。予定はない」
「ふーん。じゃあ新生活にはだいぶ慣れてきた?」
それに関しては、可もなく不可もなくといった具合だ。クラスで絡める相手は数人できたし、担任も普通にいい先生だ。授業は無難に受けている。
ひとつだけ気がかりなのは、彼女──サヤカの件だ。彼女が何者なのかばかり考えてしまっている。
コハルに話をすることで、少しでも何かが思い出せたらいいと思う。
ガラス窓の外から微かに聞こえる雨音を打ち消すように、僕は口を開いた。
「コハルに訊きたいことがあるんだけど」
息を深く吐き、僕は事の説明を始めた。「久しぶり」と入学式の日に声をかけてきた、サヤカの話を。
姉は僕の話を怪訝そうな表情を浮かべながら聞いていたが、だんだんと真顔になっていき、静かに相づちを打った。
「松谷サヤカちゃん、か」
顎に指を置き、姉は僕の目をしっかりと捉えて小さく呟いた。
「そんな子、知らないわ」