好きだって言われたんだ。唐突に。

僕はわけがわかんなくなっちゃって、ああとかそうとか自分でもわからない返事をした。
初めて話したあの日とおんなじようにさ。あんなイケメンから告白されたら誰だって驚いちゃうだろ、男同士だったとかそんなことは関係なくさ。
どうしていいかわからなくなって逃げちゃったあと、まあ色々な事情や思うところが重なって、今の僕は相当に落ち込んでしまっている。
それはもう、きっと君には想像もつかないくらいさ。

理由をわかってもらうには、多分洗いざらい曝け出してしまう他にどうしようもないだろう。



ある日、静かな街を歩いてた。
部活も習い事もしていないから、放課後少しだけなら明るいうちに遊んでいける余裕があるんだ。電車の時間もだいぶ先だからね。
もっとも、これといった目的を持ってどこかへ向かっているわけじゃなく、何かしていないと気が滅入ってくるから適当にぶらついているだけだ。訳あって家に帰るのが億劫だし、かといって一緒にゲーセンに行くような仲間もいない。僕はいつだって一人でいる侘しい人間なんだ。
昼飯をごまかして浮かせたなけなしの小銭をつまらないことに失ってしまわないよう、できるだけ手の届かない、眺めてるだけでおいそれと買えるわけでもないものが置いてある店に行こう。下手にコンビニや100均に入る方がかえって危ない。本屋にしろ、服屋にしろ、眺めるだけならタダなのがいい。あつらえ向きなのは大通りに面した楽器屋だ。
音楽教室と売り物の楽器、楽譜を並べた狭い本棚が一緒になった、地方都市に時々あるこぢんまりした楽器店。楽譜とか読めない僕にとっては、店っていうより美術館に近い感じがするんだ。

見る度に桁が間違ってるんじゃないかと思う高いギターと、これまたどうしたらこんな落差になるんだという安いギターが並んでいる。扱いは雲泥の差で、高いやつは壁の高いところに掛けられていつでもツヤツヤに磨かれているが、安いのはスタンドに立てられて足元にギチギチに並べられている。安い中でも木の色のやつはしょっちゅう売れてるけど、奥の方にある真っ黒とかの地味なやつはなかなか嫁に行けないようだ。いつも同じ奴が同じ場所に居るから売れ残ってるのがどいつかわかるんだ。暗いとか人気ないとか僕のこと話してるみたいだな。

綺麗なものを見たはずなのにだんだんもやもやしてくる心に別れを告げんと、出口へと身を翻す瞬間、まさに直前だった。僕はそれの存在に気づいてしまった。とても小さく、でもとても魅力的に輝くなにかが、店の奥のテーブルから僕を呼んでいることに。
歩み寄って確かめると、それはギターの演奏に使うピックだった。複雑な模様のホログラムで装飾された矢尻型の七色に光る宝石は、取り囲むシンプルな同類たちのなかで一際輝いている。
百円、だからこういうのが危ないって言ったじゃないか。でも、代償として午後の空腹を捧げても惜しくないくらい綺麗だったんだ。
袋は断った。袋なんかに入れないまま、ずっと手のひらに握っていたかったんだ。
肝心のギターは弾けもしないくせに、なぜかお気に入りのピックだけは手に入れてしまった。ただ、ホログラムが照明に反射する七色の輝きを見つめたり後生大事に握りしめたりを延々繰り返していると、まるでどんな曲でも自由に弾きこなして全校生徒をアッと言わせてやれる人気者にでもなったような心地がした。
我ながら小さな子供みたいだと思うがやめられない。下を向き、夢中になって、ろくに注意もせずに歩いていると、扉を開けて外の喧騒と邂逅する瞬間、道を歩いていた人と思いきりぶつかって転んでしまった。
「す、すみません」
「いえこちらこそ、大丈夫ですか?」
大丈夫ではない。よりにもよってクラスで一番モテるイケメンの美空君じゃないか。
こっちはどうだ、汗拭いたばっかのタオルやら変な折れ方しちゃった教科書やらを路上にぶちまけてかっこ悪いことこの上ない。
なんて答えたかわからないけどごにょごにょと返事をしながら拾っていると、美空君も親切に手伝ってくれた。やがて大方の収集がつき、取り残しがないかを確認していると、さっきのピックが彼のすぐ足元に落ちていた。
こっちが気づくのと同じタイミングで美空君も手を伸ばし、ちっちゃなピックの上で、まるでかるた取りでもするみたいに指先が重なった。
あっ、と情けない声を出したうえ、結局は彼に拾ってもらう始末である。
受け取る際、意外だねと言われたが、僕はどもりながらああとかまあとか答えてすぐその場を立ち去ろうと試みた。なぜそれが達成されなかったのかといえば、他でもない美空君に引き止められたからだ。
「この後って時間あったりするかな」
「ごめん、そろそろ電車乗らないとなんだ」
「わかった。じゃまたあとでね。気をつけて」
僕に何の用だろう。考えてわかるはずもないけれど、やけに気になってしまったんだ。
刹那のやりとりは妙な後味を残し、僕は帰路の間中彼の幻を電車の向かいに座らせ続ける羽目になった。

それから数日。
興味を持ったものはよく認識できるようになるという意味の、カラーバスという言葉を知っているが、あれは全くその通りだと納得させられた僕がいた。
百円のピックひとつとはいえ、楽器に関するものをお金を払って手に入れたわけだ。背景の一部に過ぎなかった楽器や音楽への解像度が急上昇して、それはもう見える見える。道行く人の背負うギター、五線譜模様のトートバッグ、音楽教室のロゴに鍵盤模様の子供服よ。
今朝なんかあの美空君がギターを背負って自転車で僕の横を通り過ぎていくのがわかった。逆にどうして今まで美空君がギター弾くこと知らなかったのか不思議なくらい絵になっていて、ほんの数秒の出来事なのに、なぜかいつまでも瞼の裏に焼きついて離れなかった。
そういえば彼が自転車通学してることも、ともすれば学校と家が近いことすら今になって初めて知った気がする。
空っぽの自分はあまりに世間への興味関心に欠けている。結局あの日何の用があったのかとも確かめないまま時間が過ぎているのもあって、せめてもう少しは人と関わることに努力しなければと、腕を組んで一人でうんうん唸っているうちに下駄箱の前に着いていた。



少し、美空君の話をしようと思う。
クラスは一緒なものの、席は窓と雲ほども離れている。容姿や人当たりに至っては比較するのも失礼なほど別物で、僕のようなやつが日頃接する機会は無いということだ。
誕生日は知らないけれど、学校が始まってすぐ周りの人たちから祝われていたから四月生まれなんだろう。早生まれの僕とはまる一歳近く離れているわけだし、その分大人に近くて当然かもしれないが、まあ問題はそこじゃないんだろうな。ああいうのは生まれつき優れていて、恵まれていて、人生を二つのチームに分けて競争させたらスタートの時点から勝ちがわかってる側の人間なんだと思う。
じゃあなんでこんなに彼のことを知っているかというと、趣味に関して共感するところがあるからだ。
僕にはただ一つと言える趣味があり、それは読書なんだが、ここ最近読んでも読んでもなかなかしっくりくるやつには出会えずにいた。
だがある日、転がっていった筆記用具を追った先で、美空君の机に置かれたサリンジャーの小説を見つけたんだ。
図書室で探したらおんなじのがあって、呼んでみたらこれがドンピシャなんだな。面白いこと語るに尽きぬ。どうにも英語から訳した作品の方が感性にしっくり来ると気づいて、その後、有名どころの翻訳英文学を読み漁った。
正直に話せば、僕は元々美空君が嫌いだった。
羨ましくて、妬ましくて、自分の手に入れられない幸せを最初から持っているのが気に入らなかった。
なのに趣味が一つ共通したくらいでネガティブな感情は霧散してしまう。こんなのを読むセンスの良いやつなんだと尊敬すら覚えた。わかってるんだ。彼を嫌ってるんじゃなく、何も持ってない立派になれない情けない自分に嫌気がさしてるだけだってことくらい。
ギターを弾くと知った時、買ってくれる優しい親の存在や金の余裕を想像して最低な気分になると思ってた。でもそうならなかったのは、彼が良いやつだと知ってるからか、読書の幅が増えたお陰で少し心に余裕が生まれたからか、そこは判別がつかなかった。



根暗な文系少年の僕は今日も帰宅部を決め込む。誰かと一緒に帰るでもなく、すれ違う先生やクラスメイトに挨拶だけはちゃんとして、振り向くことなく忘れ去られる雑踏の一人として紛れ埋もれてゆく。
先日のことがあってから楽器店には行っていない。寄り道に自販機で冷たいコーラを買ったり野良猫を眺めたりしながら憂いを拭って狭い通りを歩くのが最近の習慣だ。
それから驚くくらい平坦な日々のまま学期を終えて、帰路の先に僕を待つのは家事と宿題だけの夏休みだ。
照りつける酷暑にあってひどい気分だが、遠くに立ち上る入道雲や真昼間の青く高い空は嫌いじゃない。終業式の直後とあって、楽しげな同世代の笑い声が蝉の声と共に空までに至る透明を遥か満たしている。
自分には持ち得ないものだからって、全部が嫌いじゃないんだよ。爽やかさや美しさは、あるがままに心地いい。
ふいに、声の弾幕の向こうから、僕の名前が聞こえてきた。幻聴か?否、僕を呼ぶ尋常な誰かの声に間違いない。次第に自転車のベルが鳴り、振り返れば汗だくでギターを背負う美空君が現れた。
「ごめん気づかなかった。どうしたの?」
「夏休み入る前に聞いときたいことがあってさ」
「わかった、とりあえずどこか日陰に入ろうか」
僕たちは大昔から近所にある駄菓子屋に助けを借りて、軒の下で扇風機の風にあたり、どうしてか美空君が奢ってくれた100円のソーダアイスをかじった。聞けば、彼は例の楽器屋でギターのレッスンを受けているそうで、今日もこの後向かうそうだ。
「でさ、白鳥君はどっちのギターやるの?アコギ?エレキ?」
「えっ僕ギター持ってないよ」
すると彼は随分と驚いていた。そうか、ピックか。どうやらあの時質問しようとしてたのはこれらしい。訊くタイミングなんていくらでもあったろうに何で今まで引っ張ったんだ。
それにしてもまさか僕がギターを弾くような人間に見えていたなんてこちらこそ驚愕してしまって、動揺した僕を見る美空君もまたどうしたらいいかわからないそぶりでいる。
とはいえアイスが溶けるのをやめてくれるわけでもないし、空気が変にしらけるのも不本意なので僕の方から話を振った。
「そういえば美空君ってサリンジャー読むんだね。机に置いてあったの見てさ、僕も読んだんだ。すごく面白かった」
「すごい!僕はかっこつけて手を出してみたけど難しくてよくわかんなくて、理解しようと読み直したけど苦戦してるところなんだ」

微妙に噛み合ってないようでお互いに取りつく手がかりを見つけた僕たちは、蒸し暑いのも忘れて話し続けた。
五百ミリリットルもある背の高い缶ジュースを買い足して、さらに長引いた挙句、店主のおばちゃんからスイカまで出していただいた。言ってしまえばほとんど水と少しの砂糖しか口にしなかったようなものなのに、それらは上等なフルコースよりずっと幸福に腹と心を満たしてくれた。実際にフルコースを食べた経験があるかは別として、本当にそれくらい幸せだと思ったんだ。
やや涼しくなった青い空の下に、僕たちはそれぞれの家路を辿った。
美空君は別れ際に、二学期で待ってるぜ、と映画みたいな台詞を投げてよこした。これはモテて然るべきだ。僕だって少し危なかった。

あくる二学期は道の途中から美空君と一緒に登校する運びとなった。背の低いちんちくりんと自転車を押すイケメンが並び歩く光景は、奇妙なようでかみあいの取れたハーモニーを奏でていたと思う。
素敵な友達のいる毎日はずっとずっと華やかで、まるで自分の机に薔薇の彫刻でも施したみたいな心地がする。
楽器屋の日からアイスの日まで僕に声をかける踏ん切りがつかなかった美空君も、いまでは教室で堂々と話しかけてくる。彼につられて寄ってくるみんなとも友達になって、クラスでの僕の印象は、”近寄り難い暗いやつ”から”意外性のある面白い白鳥君”に変わっていった。



ある日、突然の変化が訪れる。
美空君はその日もギターを背負ってきたんだ。
学校が終わったらレッスンがあるのかと思って、電車待ちの散歩も兼ねて楽器屋まで一緒に行くことにしたんだ。
けれど、美空君は道中の歩道橋で立ち止まって、本当はそんな予定なく、僕を呼び出したかっただけだと白状した。
疑問に思ったところで、訊ねる機会はついぞ訪れなかった。
好きだって言われたんだ。唐突に。

僕からしたらまともに話すようになって間もないって印象なのに、美空君はずっと前から好きだったと言っていた。
高校に入り、クラスが決まり、全員が自己紹介をする最初のホームルームの時点で気になってたらしい。
ピックの件から終業式まで話しかけてこなかったのも、人がいるところだと照れちゃって無理だったとかなんとか、聞いてて恥ずかしくなってくる。
緊張に肩は縮こまり、無理に背筋を伸ばそうとガチガチに固まって話す様子は、いつものクラスでの印象とはまるで真逆だ。会話が苦手で話すたび縮こまってしまう僕ですらマシに見えるほど凄まじい。
ただ、本当に彼らしいと感じたのは、その瞳の誠実さだ。紅潮した顔面にガチガチの歪な姿勢。その上で信念を貫き純然な本心を真正面から伝えようとする誠実さに満ち満ちた瞳の輝きは、他の全てを帳消しにしてあまりあるほど魅力的だった。
僕はわけがわかんなくなっちゃって、ああとかそうとか自分でもわからない返事をした。それこそ楽器屋の外でぶつかったあの日とおんなじようにさ。
彼も彼でギターを落っことしかねない様子で佇んでいた。そんなに倒れそうなら欄干を掴めばいいのに、そんなものは目に入っていないらしい。本当に小説の中みたいに、僕以外なにもかも目に入らないって形容されるにふさわしい様子をしているんだ。

君ならどう答えるかな。僕にはわかんないよ。
僕は彼女どころか、こういうことを言われる関係性まで行くほど女の子と仲良くなることがまずあり得ない人生だったんだ。まして男から告白されるなんて想像する由も無い。
でも美空君の顔は真剣そのもので、不思議と嫌な感じはしなかった。
「そ、そっか。僕は初めての経験でほんとによくわかんないんだけどさ、これってBLってやつなのかな。自分がゲイに属するかはわかんないんだ、ほんとに。美空君を嫌いになったりはしないのは確かなんだけど」
「世間的にはそうかもしれないけど、BLとかゲイとか、濁点の付いた言葉だと違和感があるんだ。男だからとかじゃなくて、ただ純粋に白鳥くんのことが好きだって気持ちを伝えたかったんだ」
「わかったようなわからないような」
「俺も上手く言えない。好き、そう好きっていうのが一番いいな。濁点ないしシンプルだし一番思ってるのに近い言葉だ」
それから、美空君は僕を好きになった理由をつらつら述べていた。思い出したら恥ずかしくなるような内容で、印象は強かったんだけど、言葉のひとつひとつは覚えていないんだ。誓って聞いていなかったわけではなくて、動揺してたのと、言葉そのものには重要性が無いと刹那に理解できるほど誠実さに満ちた表現だったからなんだ。
でも結局僕は、考えさせてと告げてその場から去ってしまった。
本当に、美空君の告白が嫌だったわけじゃないんだ。誠実さを受け止めることができなかっただけなんだ。僕の人生に、精神に、受け止めるだけの器はまだ形成されていなかった。
好きだって言われてどちらかといえば嬉しかったはずなのに、最低に惨めな気分で駅まで走った。電車の中では泣いてたかもしれない。
僕は人生で一度もあんなに堂々としたこたはない。あんなに誠実な言葉を誰かに伝えたこともない。なんなら思い浮かべたことだって。
空っぽだ。空虚なんだよ。これほど自分を恥ずかしいと感じたのは初めてだ。
家に着いたらベッドに飛び込んで暫く泣いた。そして母さんが帰ってくる前に家のことをやってしまわねばと自動的に動く体にもっと泣きたくなった。一生で一番、父さんにそばにいてほしいと願った。叶わないことなんか知っていてだよ。帰ってきたら母さんをいつも通りにあしらって、風呂と歯磨きまで必死に耐えて、ベッドに辿り着いてやっと涙を出し切る権利にありついた。監獄の囚人さながらの惨めさが本当に耐えがたい夜だった。

もう、いい加減話すよ。僕には父さんがいないんだ。
本当に小さかった頃、少しだけ一緒に過ごした記憶はあるんだよ。
ただ、顔は覚えていないんだ。
どんな人だったのかを訊ねるたびに割と嫌な怒られ方をしたから、いまだに名前も何もわからない。わからないことを考えたって無意味につらいだけだというのは理解してるが、だからってやめられるものでもないだろう。
本当に理解できないのは、父さんが部屋に何枚かのCDを残していったことと、母さんも知らないはずないのに置きっぱなしにしてることなんだ。
僕はずっと、僕の歳じゃ普通聴かないCDを母さんに隠れて聴き続けてる。全文記憶してる歌詞カードだって、まるでそれが父さんからの手書きの手紙かのように何度も何度も読み返すんだ。楽器屋に足を運ぶのだって、この歌の伴奏を弾けるようになりたいからだ。そうしたら遠くから歌う声が聞こえてきて、なんでもない素振りで父さんが隣にそっと腰掛けて、なかなか上手いじゃないかと頭を撫でてくれるんじゃないかって、あり得ないのに、考えずにはいられないからなんだ。
ギターなんか買えないよ。母子家庭なんだから。
貧しさも不自由さも見られたくない。僕の心を知って欲しくない。何も悪くない美空君をかつて妬んでいたことも、ちょっと仲良くなっただけで根っからの善人みたいな外面を被って連れ立ちはじめた都合の良さも、自分の全てが憎いんだ。
惚れたとかそういうんじゃない。清くて優しくて素敵なもので満たされている美空君に、憧れたんだ。あんなふうに誠実に、素直になれたらいいのにな。気がつけばいつまでも美空君のことばっかり考えてる。どうしちゃったんだろう。明日からどんな顔して学校行けばいいんだろう。父さんの影しか追わなかった人生で、初めて真剣に考えた他者の気持ち。体だけ育って心は貧弱で幼いまま、立ち枯れた木みたいにボロボロで空洞の自分には、何もかも受け入れるには重すぎた。



あれだけ失意の底まで落ち込んだばかりだというのに、夜が明けてやって来たのはいつもと変わらぬ朝なんだ。
母さんは普段より若干早く起きて、そういえば今日会社の人の送別会があるから晩ご飯はいらないよと言って足早に出て行った。
こうも弱っている以上、学校後に家事の憂鬱が一つ減ってくれたのはありがたい。
かといって帰りの散歩をする気分でもないから、家にほど近いラーメン屋にでも行こうかと考えている。きっと今日こそが昼飯貯金の使いどきに違いないはずだ。

通学路で美空君とはすれ違わなかった。
学校には来ていたが、その後もコンタクトはなく授業だって普通に終えた。
昼食を摂り、掃除が終わり、いつもと変わらない下校時刻が訪れる。すると意外か予想通りか、美空君が話しかけてきた。
思い詰めた顔はしてなかったな。ああ見えてタフな奴なんだろう。僕は例の送別会について話し、時間ならたっぷりある、なんならラーメンでも食べに行こうかと減らず口を叩く。
想像つくだろ。何か喋ってないと落ち着かないんだ。
「白鳥くんって、サリンジャーの小説みたいな話し方するよね」
文脈を無視した問いかけにペースがひっくり返される。文学的って言いたいのか理屈っぽいと言いたいのかわからないが、多分どっちもだと思う。
ラーメンはいい、お腹空いてないし。そんなことよりも、この理屈っぽくて口数の減らない僕と話がしたいと彼は言った。

結局僕らはどこへも行かず、適当に勉強したり校内を別々にぶらついたりしながらクラスメイトがいなくなるまで時間を潰した。別々の行動をしたというのも、昨日のことなんか忘れてるみたいに落ち着いて見えた美空君が、さっきの会話以降急に挙動不審になってしまったからだ。無理もない、自分が同性愛者だなんてカミングアウトした翌日だ。おそらく両親にも話していないだろうし、もっと言えば、仮に僕の口が軽かったり一部始終を誰かに見られたらしたら、家族とも学校のみんなともこれまで通りの関係性とはいかなくなる。心がめちゃくちゃになる寸前まで悩んで決断したに違いないんだ。

あれこれ思い悩むうちに二時間近くが経過した。自分のクラスが空になったか偵察に来ること三度目のあたりでようやく準備が整った。
美空君は先に居て、植物とエアコンの室外機が置いてある狭いベランダでギターを抱えていた。
堂々と構えるミュージシャンとは何かが根本的に違う。どっちかというとギターに助けを求めて寄りかかってるようにさえ見えた。まあそうだろうな。さっき僕が何か喋ってなきゃ落ち着かなかったのと同じで、美空君も何か触ったりやることがないとしんどいんだろう。
ギターの腕前に関しては、夏の間に練習して簡単なのがようやく一曲弾けるか弾けないかくらいで、気分次第でアドリブができちゃうレベルではないそうだ。だが、ギターを抱えていることこそがあるがままの自分になる方法だと、上手くなることでも音楽で食べていくことでもなく、そばにギターがある人生を生きていくのが目的なんだと、言葉と姿の両方で語っていた。そういうのも、いいと思う。やっぱりすごいな、とても美しいな、と正直に感心する僕がいる。
何者かになるためでなく、誰かと競うこともなく、自分が自分になるためだけに望む道を選べたなら。
きっとこういう選択ができるのは恵まれた環境に生まれたからではなく、彼が彼として本質的に備えている精神の美徳によるのだと思う。
僕は昨日からの苦悩が少し解けて軽くなるのを感じながら、美空君に声をかけた。
「似合ってるね」
「ありがとう。俺ギター始めてよかったよ」
「そういえば部活はしてないんだっけ」
「うん。中学では陸上部だったけどね」
それから美空君は、昨日僕を好きになった理由を話すみたいに、いま部活に所属してない理由、世間に対する居所のなさや感性の乖離を自覚したいきさつを話した。
いちばんの理由はその陸上部で、どの女の子が気になるとか更衣室覗きをしてみないかとか下世話な会話が止まらない部員たちに嫌気が差したことらしい。品のなさが理由だと当初は本人も考えていたそうだが、本質は異なり、女性を恋愛対象として見られない自分を発見するきっかけになったからだと言った。
高校で部活に入らなかった彼を両親は心配して、部活以外でもいいから何か学業以外もやったほうがいいと言って快くギターを買ってくれたそうだ。両親はギターを選んだのはモテたいからだと思っているようだし、あながち間違いでもないけれど、対象が男だと知ったら困っちゃうかもねと複雑な表情を浮かべている。
バカな僕はやっと理解した。美空君は元々ギターを弾くんじゃない。僕を好きになって、僕に話しかける共通の趣味が欲しくて、ギターを始めたんだ。その上で”あるがままの自分になるためにギターを抱えるんだ”と言ってくれたんだ。
題名のないギターの音色を呼吸のように時々鳴らして、美空君は語る。震えも昂りもしない声は、世間と違う自分の心と長いこと向き合ってきた事実を静かに示すようだった。
僕はベランダの向こうに見える空か電柱あたりを見ながら、「本当に、嫌とかそういうのは感じなかった」と言った。やっぱりどんな言葉を使ったかは思い出せないけど、美空君を尊敬していること、ギターを抱えてる姿が本当に絵になって美空君らしいと感じること、ほかにもいくつかの理由で彼を称賛し、昨日勇気を出して告白してくれた彼を傷つけないように精一杯を尽くした。
するとだんだん、自分のことも話したくなってきてさ。吐き出したんだ。名前も知らない父さんのこと、思い悩んで立ち止まってる理由を、できる限り全部。



「僕、父さんを知らないんだ」

「正確には、覚えてないんだ。忘れちゃったんだ。ほんの小さい頃まで僕たちは三人家族だったけど、父さんが家を出て行ったのもまた幼いうちだったから」
それから僕はぽたぽたと、感情が水になって破れた心からこぼれ落ちていく幻を見た。その音は思ってたより激しくて、小雨のまま済むだろうと高を括っていたら土砂降りに変わった。美空君はその間、軒下にうずくまる猫みたいにじっと雨が去るのを待っていた。
「一度だけ三人でコンサートに行ったのを覚えてる。曲もアーティストも覚えてないけど、僕は父さんに肩車されて、演奏が終わると湧き起こる拍手の海を眺めてた記憶だけは鮮明なんだ。観客の幸福が拍手の音になって、ざあざあとアーティストのところへ送られるんだ。でもそれを耳にしてる僕や他の観客自身も満たされていって、みんながみんなを幸せにしあってる最高の景色だと思ったよ。その時父さんの顔を、どんな顔をしてたから見られてたら、今も忘れなかったのかと思うとさ、残念でならないんだ」
沈黙は不思議と心地よく、思い悩み問いかけたところで誰の答えも帰ってこないこの感覚は、もう僕の人生から切り離せない日常の一部なのだと再確認する。
目の前に誰かいたとしても、僕はずっと孤独のままなんだ。自ら望んで落ちたわけではない理不尽な疎外感のなかで、その理不尽こそが至極真っ当な自分自身の運命なのだと決めつけなければやっていけないんだ。
届く雑音はやけに鮮明で、もうこのまま何もかもを手放してその混沌とした渦のなかへ溶け込んでいってしまいたかった。
そんなふうに自我をないがしろにしている最中だったからか、不意に返ってきた言葉を理解するのには少しの時間を要した。
「俺はさ、しばらく待ってるよ」
「…待つって?」
「返事。知らなかったとはいえ、こんな風に苦しんで悩んでる君につけ入るようなのは本心じゃないからね」
「…」
「助けになりたいとかアドバイスしたいとかそういうのは無い。君に対して無責任になりたくないし、誠実なままで君を好きでいる自分自身を失いたくないから。ただ俺はこれからもギターを練習して、いままでみたいに本も読んで、例え難しくてもサリンジャーも最後まで頑張って読み切ってさ、ずっと何も変わらないまま自分がなりたい自分になるんだ。そうして時間が過ぎていって、君のなかで何かの決着がついたらさ、ほんといつだっていいから返事をもらえたら嬉しいな」
彼が遠くを見つめたまま告げた言葉はあまりに鮮明で、呼吸も忘れて聞き入っていた。
なにか言葉を返そうにも喉の奥にひっかかってしまって、むせて吐き出すより早く彼は続けた。
「俺は他の人と違う感性だから、誰といても孤独に感じてつらかった。みんなと話合わせなきゃって思ってた。でも一人でいることを堂々と受け入れてる白鳥君を知って、かっこいいなって思ったんだ」
「そんなふうに言われたの初めてだよ」
「きっと君がお父さんの背中を追い求めて自分だけの世界を突き進んでいることを、心のどこかで感じ取っていたんだと思うんだ。孤独じゃなくて、孤高に見えてたんだ」
「めちゃくちゃ褒めるじゃん」
「一目惚れに理由なんかつけたってしょうがないけどさ、話を聞いて、白鳥君のこともっと好きになった今の俺はさ、少なくともそんなふうに信じながら君のこと見ていたいんだ」

突如、自分の心象が現実の光景のように目前に現れる感覚を覚えた。
真っ暗な独房へ光が差し込み、手のひらで瞳を隠しながらおそるおそる目線を上げれば、扉のところに美空君が立っている。
無実の罪で投獄され不貞腐れた僕を救い出そうとするように、もう一方で自分の意思で歩き出せと試練を課すように、その光と佇まいは優しさと厳しさを同時に含んでいた。
「待ってる」。その言葉は、立ち止まっていた僕の体に一歩踏み出す力をくれた。

「あのさ、美空君」

後ろの壁に寄りかかり、肩掛けと右腕だけでギターを抱える美空君。肩掛けの美しい柄の下に脱力して垂れ下げられる左手をいつのまにか握っていた僕の両手は、自ら伸ばしたというより、導かれたという方が正しいかもしれない。
緊張は感じない。胸を満たしたのは、薄桃色と淡いオレンジが一面を染める凪いだ朝焼けの海を観むかのような心地よさだけだ。今は手元に向けられる彼の視線を待つように、純然で安らかな心持ちで美空君を見つめていた。

「白鳥君、これ、って…」

一瞬まじまじと重なる僕たちの手を凝視し、動揺の色と共に刹那の間固まっていた美空君。でも数秒も数えた頃には、まるでクレヨンで描いた家族の似顔絵みたいな笑顔で、まっすぐに僕を見つめてそう言った。

手のひらに伝わる互いの熱を感じる以外何をするでもなく佇む僕たちは、ゆるやかで暖かな風の中でしばらく静かに微笑みあっていた。苦難も混乱も今日まで絡みついていた全ての葛藤さえ、こうして見つめ返す彼の微笑みにたどり着くための必然だったんだろうな。
不思議なことに、その時僕は素晴らしいハーモニカの幻聴を耳にした。
続いて階下の雑踏がリズムに変わり、空を擦る雲の隙間から低い伴奏の音がやってくる。
そして二人は手を解き、僕は拍手の姿勢を構えた。
喜びに昂った美空君が勢いよくギターを鳴らすと、僕だけに聴こえる特別なコンサートが始まった。

ただ一人のために心を込めて奏でるコンサート。それはあながち空想というわけでもなく、彼の語りかける真心の言葉が僕の中で具体的なイメージを伴った結果見えてきた世界なのだと思う。
僕は夢心地で、瞳に映るあらゆるものたちが限りない彩りを手に入れた世界の中心に美空君を捉え、一秒ごとに満ちてくる百万の意味を備えた言葉を堪えきれず、次に鳴らされる美空君のギターに合わせて声を放った。

「美空〜!」
「…」
「…ふっ、ははっ」
「あっははっ、なんだそれ!」

格好としてはロックバンドのフロントマンみたいなのに、やってることはギターに合わせてメンバーの名前を言ってるだけだ。曲にもなっていない、それどころか音楽とすら言えないだろう。
でも、僕が胸の内に輝くすべてを伝える勇気を貰えるのはこの方法だけだった。金属の弦のさざ波の上で、夕焼けに照れを隠してもらいながら彼の名前を呼んでみたいんだ。

「白鳥〜!」
「美空〜!」

知らない人が見たらおかしなやつらだと思うに違いない。けど僕は、僕らは、これがどうにも楽しくて仕方なくなった。僕たちの魂を紙飛行機にして、声の風に乗せてどこまで飛ばせるか競争しているみたいなんだ。
和音一つだけの曲にもなってない音楽を奏でて、笑いながらいつまでも名前を呼び合う。狭いベランダで、窓を閉めて、できるだけ周りを人が通らないタイミングを見計らいながらこれをやってるんだよ。
さっきまで悲しみの底で一生一人で生きていくと本気で信じてた僕なのに、もうたまらないんだ。
この気持ちはなんだろう。その気になれば一言で表してしまうこともできそうだけど、やっぱりそれではしっくり来ない。
もう一歩だけ踏み出して、勇気を出して表現しよう。僕だけのやり方で、一気に、確実に、自信だけを胸に満たして。
振り下ろす右手のタイミングを見定めながら、大きく息をを吸い込んだ。

「ハルカ〜!」

美空君は動きを止め、口を開きっぱなしで僕を見る。
せっかく頑張ったんだからもっとかっこいい顔してくれよ。そんな思考を読んでか否か、数秒もすると、さっきより凄い最高の顔で子供みたいに笑ってみせた。

「はっ、ははっ!」
「遥!」
「…み、みなみ!」
「ふふっ、遥〜!」
「ははっ!」
「あははっ!」

それからしばらく、子犬がキャンキャン戯れるような僕らの笑い声は続いた。

夏が終わり、日はずいぶんと短くなった。
さっきまで青く白かった空だって、もうすっかり僕たちの頬とそっくりの色だ。
ギターに空いたサウンドホールは真円の月を連想させて、いっそ月が昇るまで引き留めて、あの言葉を使おうかとも考えた。
サリンジャーに苦戦してる美空君にも親切なよう、日本人なら誰でも知ってる、夏目漱石のロマンティックなあの言葉を。
でもいいんだ。僕はもう、僕だけの伝え方を見つけたんだから。

かつて囚われた監獄が、僕の後ろ彼方遠くに離れてゆく。
大空の下を見渡す限り、煌々と輝く黄金の麦畑。
その遥か向こう側で待つ運命の人の名前を呼びながら、もう迷わずに走ってゆく。
やっと見つけた、果てしない人生の輝きを追い求めて。

ああ、僕らの心が歌になる。
茜の空にこだまする、はじめての恋に落ちた音。
僕達だけに聞こえる幻想の音楽。
文学少年(ぼく)にできるたったひとつの冴えたやり方で、この胸いっぱいの愛を叫ぶんだ。



【歌う文学少年】了