驚愕の事実に口をパクパクさせている私を見て青年、いや皇子は首を傾げる。確かにそう言われてみたら気品があって気高いオーラは出ているけれど。
「……な、中大兄皇子は生きてるの?」
「生きておる」
中大兄皇子に蘇我氏滅亡。
そして、あの女性達の服装。
「優花殿は帰ると言ったが紀伊国に帰るのか? 今から、おなご一人は危ない」
「……それが」
__タイムスリップ。
そんな言葉は皇子には伝わらない。そもそも本当にそんなことが起こるのかもわからない。
「何か、事情があるのか?」
「え?」
皇子の白い着物の袖が頬にそっと優しく触れる。
「そんな、思い詰めた顔をして」
どうやら私は泣いていたらしい。皇子の白い着物の裾が、どんどん濡れていく。
「……帰れないかもしれない」
「何故?」
「遥か遠くの場所から着たから」
「……遠い場所」
「ここから私の住んでいる場所は果てしなく遠い」
私の言葉に皇子は呆然としながら瞬きを繰り返す。だって距離なんて測れない。
__令和と飛鳥時代。
約1400年という歳月は果てしなく遠い。遠すぎる。と、いう表現しか思いあたらない。
「……私の力ではどうにもできない。皇子にも無理」
「それは天の力ということか?」
__天。
私は、そっと頷いた。
__人知を超えた力。
あの瞬間、そんな力が働いて私はこの世界に来てしまった。1400年前の日本へ。麻美が好きな……。
__飛鳥時代へ。
「それは難儀なことだ……」
皇子は心底哀れんでくれている。
「……どうしたらいいのかな」
術がないとわかりながらも簡単に受け入れられるはずもなく涙だけが止めどなく溢れ落ちる。
__帰りたい。
両親のいる。麻美のいる。みんなのいる。あの場所に帰りたい。もう、退屈だとか面倒だとか文句は言わないから。課外授業だって真面目に参加するから。戻りたい。自分のいた時代に戻りたい。
「そんなに泣くでない。しばらくは、この屋敷にいればよい」
「……しばらく?」
「そうだ。今はこの屋敷に私と側近とジジョしかおらぬ。自由に使ってもらって構わぬ。そして落ち着いたら共に戻る方法を考えようではないか」
皇子は、そっと優しく微笑む。
先程まで言葉もろくに通じなかったはずなの存在が今では唯一の希望。術なんてきっとない。だけど「一緒」にと言ってくれる人がいる。私は一人じゃない。
「……ありがとう」
「もう、泣くでない」
皇子はわざとゴシゴシと強めに着物の袖で私の涙を拭く。思わず「痛いっ」と、言いながらも笑ってしまう私を見て彼はふわりと優しく笑う。しかし、すぐにその笑みに黒いベールが纏う。
「優花殿に、一芝居頼みたいのだが」
「……一芝居?」
「これから私が言う事を良く聞くのだ。そうすれば全ては上手くいく」
よくわからないけれど今頼れる相手は目の前にいる一人しかいない。だから私は素直に頷いた。
「皇子様。夕餉の時間にございます」
皇子の部屋に三人の女性が入ってくる。年齢は私と大差はないぐらいに見える。お揃いのチュマチョボリのような服を来て、おかずの入った器を運んでいる様子を私は庭の物陰からこっそり覗いている。
「昨晩、満月だったであろ~?」
先程とは異なる腑抜けな話し方に思わず笑いそうになるのを堪えながら、皇子の声を合図に私は兎の耳のついたフードを被るとゆっくりと足音を殺しながら縁側に近づく。
「兎がおっての~う。真っ白な兎が~」
「兎ですか?」
「そうだ~。空から落ちて来たのだ~。怪我をしておってな、手当てをしてやったのだよ~」
あまりにも間延びした喋り方に一瞬皇子がふざけているのかと思ったけれど、三人の女性は至って真面目な顔で話を聞いている。
「皇子様は、誠にお優しいのですね」と、女性達が顔を見合せ朗らかに微笑む姿に今がチャンスと私は走り出す。
「ごめんください!」
縁側に飛び乗ると背筋を伸ばし正座をする。
「っ!?」
驚いて振り返る女性達の後ろで皇子が大きく頷いたのを合図に、私は深々と頭を下げた。
「私は昨日、助けていただいた兎にございます。アリマノ皇子様にお礼をと月より参りました」
一瞬にして場が静まり返る。
無理もない。見ず知らずの女が兎の耳つきフードを被って鶴の恩返し風に現れたのだから。
正直、今直ぐにでも帰りたい。穴があったら入りたい。だけど今の私に帰る場所も入る穴もない。
__ここしかないのだ。
自分に強く言いきかせ堂々と顔を上げる。
絶対に上手くいくはずがないと思いながらも、皇子のことを信用するしか道はなかった。
「これは、これは。昨日の兎ではないか~」
何故か意図的に目を虚ろにさせている皇子と共に、女性達は訝しげな顔でゆっくりと私に近づいてくる。
「どうか。この私を、ジジョにしてくださいませ」
視線から逃れるように頭を下げる。
__絶対に痛いヤツだと思われてる!もう!失敗したらどうするのよ!
「……な、何という」
心の中で皇子に文句を言いながらゆっくりと顔を上げる。案の定、女性達は絶句していた。その気持ちは私が一番よくわかる。月から落ちてきた兎?恩返し?そんなことを言ってしまう自分に絶句している。
「わざわざ、月から来てくれたのだな~」と、呑気な皇子に「はい」と、頷く。
「露。この兎に馳走を振る舞ってやれ」
「か、かしこまりました」
露と呼ばれた女性人は後の二人を引き連れて部屋を出ていく。
「これで、一安心だな」
途端に、元のテンポで話し出す皇子はしっかりと目も定まっている。
「……何が一安心よ。後から何を言われることか」
「それはない。私の申すことは必ずだ。背くものなどおらぬ」
その瞳が真っ直ぐ私を見つめる。
そりゃあ、皇子だもの。偉い人なのはわかるけれど兎の化身っていうのは無理があるのではないだろうか。と、まだ疑心暗鬼な私はふと疑問を口にする。
「それより、オウジは何で目を虚ろにして変な喋り方をするの?」
「……オウジ?」と、首を傾げる姿に「ミコ」という呼び方でないと通じないことを知る。しかし私の勝手な主観でしかないが、ミコは「巫女」のイメージが強くあり何だかしっくりこない。
「月ではミコ様とオウジは同じ意味なんだけどね」
「そうなのか?」
「うん。だからオウジって呼んでいい?」
「良い」
コクリと頷く姿は先程までとは異なりしっかりとしている。やはり虚ろな目も話し方も不自然でしかない。
「それより、何でなの?」
「……それは、色々あるのだ。ともかく、ジジョがいる時はまともに話さぬ決まりなのだ」
どんな決まり?と、思いながらも逸らされる瞳にこの話しはあまりしたくないのだと悟る。
「まあ。わかった。それよりジジョって何?」
長女、次女の、次女?皇子の言う通りに口にしたのはいいけれど肝心の意味をまだ理解していない。
「ジジョとは、身分の高い者の世話をするおなごのことだ。侍女という」
「世話?」
「そうだ。しかし私は全て己自身でできる。安心せよ。名目上のことだ」
「そ、そう。さっきの、あの女性達は?」
「ジョセイ?」
「さっきここにいた、三人のおなご」
「ああ。侍女だ」
「え!? 自分で何でもできるのに三人も侍女がいるの!?」
「先程、見たであろう。侍女の前では、こう……。まあ、世話がいるのだ。しかしこれからは優花殿を側に置く。すれば、あのような小芝居もしなくて済むからな」 と、朗らかに微笑む顔の裏にほの暗い色を隠していることはわかる。でも、それが何か明確にはわからない。悪い人ではないと思うけれど読めない人だ。
「ご用意致しました」
露さんが私の分の夕食を持ってやってくる。
「月からいらしたなど、さぞお疲れでしょう」 と、その瞳が切なさそうに歪むのを見てギョッとする。
__え!?この人!し、信じたの!?
「私は露と申します。隣にいるのが時雨。その隣が五月雨と申しまする。以後、お見知り置きを」
「は、はぁ」
露さんは少し切れ長の瞳をした綺麗系。時雨さんは少したれ目のおっとり系。五月雨さんは、パッチリとした瞳の可愛い系。三人共、深々と頭を下げるから私もつられて頭を下げる。
「優花です。こちらこそ、……以後お見知り置きを」 と、とりあえず真似してみると三人はニコリと微笑んだ。