未来に戻っても、私はもう前のようにただ藤白坂を歩くことはできない。通る度に皇子のことを皆のことを思い出しては悲しくなるだろう。だけどそれこそが、私と皆がこの時代で共に生きた証。
歌の最後に自分の名前を書こうとしたけれど、それはやめた。私は想いを残したいのであって、この名が残ることは望んではいないから。
「……皇子」
私達の想いと共に歌を抱き締めると大きな風が吹いた。落ち葉が舞う音が風のうねり声が耳元を通りすぎていく。
反射的に閉じてしまった目を開けると、さっきとは違う光景に私は首を傾げる。
目の前にある茅葺屋根の扉が開いていた。
さっき閉めたはずなのに風のせいだろうか。両開きの扉から中を覗き込もうとした瞬間、あることに気づく。
屋根のある木箱は中に何も奉られてはいないけれど祠のように見える。
__有馬皇子。
__祠。
バラバラのピースがカチリと嵌まる。
まさかと思い辺りを見渡してみても、鳥居や社殿らしき建物は見当たらない。だけどこの地形には見覚えがあった。
「……もしかして、ここが藤白神社?」
正確には、これから藤白神社が建つ場所。
だから風は、ここから動かなかったのかもしれない。核心が持てず「未来に戻るの?」と、祠に問いかけるけれど答えは返ってこない。しかし開かれた扉に手を入れると何故か人肌のような優しい温かさに鳥肌が立つ。直感した。
__ここだ!
そう感じた私は皇子と自分の歌。そして筆をもう一度抱きしめる。
__大好き。また未来で会おう。
名残惜しいけれど、そっと木の箱の中に入れると扉をゆっくりと閉めた。
__お願い!私達の想いを守って!
そう願った瞬間、大きな風が私の身体を包み込み意識が遠退いていく。そして遠くからは誰かがこの名前を呼ぶ声が聞こえた。
「優花ちゃんってば!」
肩に小さな衝撃が走る。
突然引き戻された意識に困惑していると「寝ぼけてる?」と、顔を覗き込んだのは……。
「……麻美?」
「何で疑問系なのよ」と、笑う顔は1400年前と格好は違うけどやっぱり変わらない。
ゆっくりと辺りを見渡すと、神社の境内の前に制服を着てお参りの順番を待つクラスメイト達の姿が見えた。
__戻ってこられた。
そう理解した瞬間、麻美に抱きつく。
温かな熱に、皆のことを想い涙が溢れ出した。
「ど、どうしたの?」
「……嬉しくて」
また会えたことが嬉しくて、だけど皆がいない現実が悲しくて。私はしばらく泣き続けた。そんな私を麻美は理由も聞かずただずっと抱き締めてくれた。
「少し落ちついた?」
近くのベンチに座らせてくれた麻美は、私にペットボトルに入った水を差し出す。
__ペットボトル。
今の私には久しぶりに触れる未来のモノ。紛れもなくここは未来だと実感する。そして同時に皆と過ごした日々が過去になってしまったことが悲しくてたまならい。
「大丈夫?」
「うん」と、頷くと麻美が私の左手を握る。
「これは?」
視線を向けると小指には赤い紐が結ばれていた。1400年の歳月を色褪せることなく皇子が結んだ型のまま私と共に飛び越えてきた。その事実にまた泣き出しそうになる。
「……呪い」
「え?」
「無事に帰れるようにって」
そしてまた逢えるように。
皇子の姿を思い出して涙が滲む。
「それって有馬皇子の? って、優花ちゃん興味ないじゃない」
スラッとその名前が出てくる麻美に私は目を細める。皇子の生きた証は、こうして未来に残っている。どうやら私は、ちゃんと守れたようだ。
「麻美。皇子の歌って残ってるよね?」
「勿論」と、即答されホッとする。
「さっき行った、皇子の墓碑の近くにあったじゃない」
そう言われても、あの時は興味がなかった。それに麻美にとっての「さっき」は私からした一ヶ月も前のこと。記憶が曖昧だ。
「どんな歌?」
突然、興味をもった私に麻美は目を輝かせる。
「あのね! 万葉集ってあるじゃない? あれの最も優れた歌って言われてるの!」
「最も優れた?」
それって、すごい。まさか私の隣で、そんなすごい歌を詠んでいたなんて知らなかった。
「万葉集にはね。相聞。雑歌。挽歌。と、三つの区分があって皇子の歌は晩歌の一番最初の歌なんだよ!」
「挽歌って何?」
「人の死を悲しむ歌だったり、死ぬ時に詠む歌とか。辞世の句って言うんだけど」
__辞世の句。
目を閉じると、鮮やかな海が澄みきった空が瞼に映る。あの時に詠んでいた歌が辞世の句だったなんて。隣にいたのに私は皇子の気持ちに気づけなかった。
「二首とも皇子が謀反の疑いで連れていかれる時に詠んだ歌だって伝わってるんだけど」
「それは、違うよ」
真実は、この目がこの耳が知っている。
「皇子は謀反なんて起こしてない」
最期まで真っ直ぐな人だった。最期まで……。頬に涙が伝う。
“__優花殿は奇跡”
そう言ってくれた皇子は、もう遠い過去の人。1400年前の人を想って泣くなんて、きっと麻美もおかしいと思っているだろう。だけど私には、まだどこかで笑っている気がする。塩谷さんも舎人さんも。露さんも、時雨さんも、五月雨さんも。
「諸説あるみたいだけど私もそう思う。何か、わからないけど」と、戸惑いながら笑う麻美に私は気づかされた。
歴史がどう伝わろうと鵜呑みにする人ばかりではない。その中から真実を見つけてくれる人はいる。
「麻美。皇子の歌を詠んで欲しいの」
私の要望に麻美は笑顔で応えてくれる。
「磐白の浜松の枝を引き結び ま幸くあらばまたかへり見む」
コロコロとした鈴のような声が風に乗って響くのと同時に、私の目の前にはあの瞬間の光景が蘇る。
松の枝を結ぶ皇子の背中。
ふり返って微笑む顔。
「岩白の浜松の枝を結び無事を祈る。もし命あって帰ることができたなら、また見られるだろう」
「凄い! いつの間にか訳せるようになったんだ!」
歴史にも古文にも興味がなかった私が歌を理解していることに驚く麻美。
あそこが今も残る岩白だったとは麻美が詠んでくれて初めて知ったけれど。
「有馬皇子は結んだ松の枝を見られたのかな」
ふと呟く麻美に小さく微笑む。
見られたよ、一緒に。すごく嬉しかった。生きて戻ってこられたことが、すごくすごく。
「そうだ。みなべ町に記念碑があるんだよ?」 と、麻美が微笑む。
「記念碑?」
「そう。有馬皇子結松記念碑っていうのが」
__皇子の生きた歴史は、ちゃんと残っている。
「麻美。もう一首は?」
「家にあれば笥に盛る飯を草枕 旅にしあれば椎の葉に盛る」
ハッとする。椎の葉に盛られた一口のご飯。それは旅の途中だからだと舎人さんが言っていた。
「家にいれば器に盛って食べるご飯を、旅の途中だから椎の葉に盛って食べる」
また訳す私に麻美は感心しながら嬉しそうに笑っている。だけど私の頭の中には皇子の言葉がグルグルと巡っている。
“__これは、私への供物か?”
「……きっと、違う」
「え?」
「今の訳はやっぱり違うと思う。椎の葉に盛られたご飯は仏様への供物だから」
ポツリと呟いた私の言葉に麻美は首をかしげる。