……それからもうひとつ、私には大好きなものがある。
それは、歌を歌うことだ。
歌うことが好きだと気づいたのは、人付き合いが苦手だと感じはじめた小学校五年生の時。
もともと音楽は好きだったけど、自分の部屋で何気なく歌った時、心の中が光で満たされたような明るい気持ちになれたんだ。
うまく会話に入れなくて置いていかれることも多かった私は、無理に友だちと遊ぶよりも、ひとりで歌っている時のほうがずっと楽しいって思えた。
だけど学校の授業で歌うのは苦手だったし、家族に聞かれるのも恥ずかしい。だから歌うのは、こうしてひとりで部屋にいる時か、お風呂に入っている時だけだ。しかも小さな声で。
それでも、歌っていると心がスッと晴れるんだ。
こんな私だけど、歌が好きだということだけは、自信を持って言える。
今日はやたらと天気がいい。だから最悪だ。
赤とピンクに染めた長い前髪をかき上げて、あたしは窓の外に視線を向ける。
南向きの窓際は一日中暑くて、授業に集中できない。
五月でこれなら真夏は最悪だけど、席替えをしたばかりだから当分はこの席か。
片肘をついたまま睨むように空を見ていると、数羽の鳥が整列しながら飛んでいた。
白く霞んだ朝の空の色も好きだけど、徐々に薄くなっている群青色のグラデーションもなかなかいい色だな。
ペンケースの中にある青の色鉛筆で、ノートの隅を塗った。
やっぱアナログだと思った色にならないな。
そんなことを思いながら眉間にしわを寄せ、正面の電子黒板に視線を戻したタイミングで、四時限目終了のチャイムが鳴る。
よし、昼休みだ。腹減った。
購買でパンを買う奴や、食堂に行く奴が急いで教室を出ていく中、あたしも含め、残ったクラスメイトは教室でお弁当を食べる組だ。
一度水道で手を洗ってからまたもとの席に座ったあたしは、リュックから巾着袋とステンレスの黒い水筒を取り出した。
小学生の頃から使っている緑色の巾着袋には、薄い文字で【さくまかえで】と書かれてある。
袋には毎朝自分で握っているおにぎりが入っていて、今日は梅干しと、昨日の夕食でお母さんが焼いた鮭のふたつだ。
食べようと思ったけれど、やっぱり窓からの日差しがうざい。立ち上がったあたしは、ふたつ前の席でお弁当を食べている女子三人組に近づいた。
「あのさ、カーテン閉めてもいい?」
そう声をかけると、三人はビクッと肩を震わせ、大きく開いた目を見合わせている。
勝手に閉めるのはよくないかなと思って一応声をかけただけなんだけど、そんなに驚かなくてもいいじゃん。
「閉めていい?」
もう一度聞くと、そいつらはあたしを見ることなく頷いた。
「サンキュー」
あたしは彼女たちの邪魔にならないよう、「ごめんな」と言いながらカーテンに手を伸ばした。その間、女子三人は固まったように身動きひとつ取らない。
カーテンを閉めてから自分の席に座り、あたしはようやくおにぎりを頬張った。
けれどその直後、なんとなく視線を感じて顔を上げた。すると、さっきの女子たちが慌ててあたしから視線を逸らし、なんかコソコソ喋っている。
いや、見てたのはそっちなのにリアクションおかしいだろ。あたしと目を合わせちゃいけないルールでもあんのか。目が合ったって、別に石になんかならないよ。
なんてくだらないことを思いながらも、別に誰にどう思われようと特に気にしないあたしは、おにぎりを食べながら教室の中を見回した。
女子も男子もふたりから五人のグループに分かれて食べている奴らや、ひとりで食べている奴も数人いる。
で、あたしはもちろんひとり。
気にしたことがないからハッキリとは覚えていないけど、一年の時から多分ずっと、昼食はひとりで食べていたと思う。
絶対にひとりがいいというわけではなく、かといって、本当は誰かと一緒がいいというわけでもない。友だちの存在も同じで、欲しくないわけじゃないし、積極的に作ろうとも思わない。
そうなると過去に何かあったのかと思われがちだけれど、そんなこともまったくない。まぁ、できたらできたでいいなと思っていたけど、三年になっても仲のいい友だちと言える存在はいないままだ。
女子からは、今日みたいにちょっと話しかけただけで謎のリアクションを取られることが多いから、あたしに何かしらの原因があるのかもしれないな。
だけど、それについて悩むなんてことは、もちろんない。
おにぎりふたつをぺろりとたいらげ水筒の水を飲んだあと、リュックからスマホを取り出した。
イヤホンをつけてスマホを操作し、音楽を流す。
机に顔を伏せ、目を閉じた。
早く食べ終わったし、十五分は寝られるな……――。
*
「今日もマジで助かった。サンキュー佐久間」
長身で髪を赤茶色に染めている西山が、自販機から出てきた缶を投げてきたので、あたしはそれをキャッチした。
「おい、アホか! 炭酸投げんなよ!」
そう言いながら受け取った缶を開けると、プシュッと音は鳴ったものの、噴き出してこなかったのでホッとした。
「やっぱ暑い時は炭酸に限るわ~」
ジュースをひと口飲んだあたしは、満足げに微笑む。
「ジュース一本で手伝ってくれる奴なんて、佐久間くらいだよな」
「ほんと、佐久間だからできることだよな」
中嶋と本橋が目を合わせながら言った。
どういう意味かよく分からないけど、楽器運ぶのを手伝っただけでジュース奢ってもらえるんだったら、やるだろ。
西山と中嶋と本橋。この三人は軽音部だったのだが、半年前にボーカルが辞めてしまい、今年度になってから廃部。しかたなくバンド同好会として活動しているけど、練習の場である音楽室は大会で好成績を残している吹奏楽部に乗っ取られているようだ。
音楽室で練習できるのは吹奏楽部が休みの水曜だけで、他の曜日に練習をする時は第二校舎から第三校舎の空き教室まで楽器を運んで演奏している。
一ヶ月前、階段を往復しながらドラムを運んでいる西山をたまたま見かけた私は、声をかけて運ぶのを手伝った。そしたらお礼にジュースをくれたので、今も時間が合えば時々手伝っている。
もちろん、ジュースを奢ってもらうためだ。見返りがなきゃ、楽器を運ぶなんて面倒なことはしない。
こいつらは学校の中で一番よく話をする存在だけど、つき合いはそのくらいで、もちろん仲良しというわけじゃない。
そういえば、演奏を聞いて率直な感想を述べることもたまにあるけど、あれは何ももらってなかったな。別料金ってことで、次からは感想一回につき購買のパン一個もらうか。一回じゃさすがに高いって言われそうだから、三回で一個のほうがいいかな。
などと考えながら、あたしは空き教室の隅に置いてある椅子に座った。
「そーいや今日さ、また女子からあたしと目を合わせたら終わり選手権みたいなリアクション取られたんだよね」
「なんだよその選手権」
西山の突っ込みに、「知らねぇよ。あたしが知りたいわ」と返す。
「てかあれだろ、お前、避けられてんじゃねーの?」
「え、あたしって避けられてんの?」
「え、知らなかったのか?」
あたしと西山のやり取りに、中嶋と本橋は楽器の準備をしながら笑っている。
「悪い意味で避けられてるわけじゃなくて、要するに自分たちと違うからちょっと怖いってのもあるし、近寄りがたいってことじゃね?」
「近寄りがたいってなんだよ。あたしはいたって普通に、真面目に授業受けてるだけだし」
なんせ話さないんだから、怖がられるようなことだって何もしていない。まぁ、たとえ避けられていたとしても悩むなんて時間の無駄だから、どうでもいいけど。
結局そういう結論に達したあたしは、それ以上考えるのをやめてリュックからタブレットを取り出した。バイトまでの時間、バンドの演奏をBGMに、これで時間を潰すためだ。
演奏がはじまると、あたしはタブレットで動画投稿アプリを開いた。昨日の夜アップした自分のイラスト制作動画を見て、再生回数の少なさにため息をつく。
クラスメイトや女子たちから避けられたとしてもなんとも思わないけど、これはさすがに頭を抱えてしまう。
あたしが描きたいのはリアル調の女の子のイラストで、加えて常識に囚われないカラフルな色使いが好きだ。
肌の色ひとつとっても、光や影の入れ方によってたくさんの色を使う。女の子の髪型をカラフルな花そのもので表現したり、涙をあえてピンク色にしたり。そういう自由な絵が好きなのだけど……。
そうやって好きに楽しく描いたイラストに限って、動画の再生回数やいいねが少ない。逆に、人気アニメのキャラだったり、ラノベっぽさがある可愛いイラストだと再生回数も伸びる。
可愛い絵も好きだし、そういうのがうまい絵師さんは尊敬する。でもなぁ……――。
こんなんじゃ駄目だ。あたしが投稿している動画サイトで収益を得られるのは十八歳からで、あと三ヶ月しかない。それまでにもっと登録者数を増やさなきゃ、稼げないじゃん。
もう一度、今度は「くそっ!」と、思いきり声を上げてからため息をついた。
たまたま演奏を止めていた三人がこちらに視線を送るが、あたしの機嫌が悪いのを察したのか、すぐに目を逸らして見ない振りをした。
十七時まであと五分というところでバンド同好会の練習が終わり、タブレットをリュックにしまう。
そろそろバイトに向かう時間だ。楽器を音楽準備室まで運ぶのを手伝って、その代金として、またジュースを一本もらった。
「んじゃ」
軽く手を上げたあたしは、三人とはそこで別れて教室に戻る。
今日は金曜だからジャージを持って帰るということを思い出し、自分のロッカーを開けてジャージをリュックに突っ込んだ。
二本目のジュースは今日の風呂上がりにでも飲むか。
そう思いながら、手に持っていたジュースもリュックに入れ、廊下を歩き出した。
すると廊下の左側、第二校舎の渡り廊下と交差する曲がり角に差しかかった時、ひとりの生徒が突然飛び出してきた。
あたしは寸前で止まったけど、そいつは体勢を崩したのか、「ひゃっ」と悲鳴を上げて尻もちをついた。
よく見ると、同じクラスの女子だった。
名前は確か……なんだっけ。
分かんないけど、まぁいっか。
「廊下は走っちゃいけませんって、小学生の時に習わなかったか?」
とりあえずそう言うと、思っていた以上にそいつは焦り出した。ていうか、なんかビビってる?
「冗談だから、そんな焦んなよ。ほらっ」
あまりに狼狽えていてちょっと可哀想になったので、手を取って立ち上がらせてやった。
その時に顔を見て思い出した。そうだ、名前は確か早坂美羽だ。
「あ、ありがとうございます。その、ごめんなさい」
早坂は、最後にそう言って教室のほうへ逃げるように去っていった。
同じクラスなのになんで敬語なんだと思ったけど、別にどうでもいいか。
ふと視線を下げると、そこには小さなメモ帳が落ちていた。
もしかすると早坂が落としたのかもしれないけど、バイトの時間が迫っているし……。
拾い上げたメモ帳をとりあえず自分のスラックスのポケットに入れて、急いで学校を出た。
バイト先までは学校からバスで二十分、平日の勤務時間は十七時半から二十一時までだ。ちなみに火曜日と水曜日と金曜日で、土曜は朝から十五時まで。
バイトで稼ぐには限度があって、一定の金額を越えないようにシフトを組んでもらっている。本当はもっとガンガン働きたいのに、できないのがもどかしい。
不満を吐き出すように軽く舌を鳴らしたあたしは、到着したバスに乗り込み、空いている席に座る。
……ん?
なんとなく違和感を覚えてポケットに手を入れると、そこにあるメモ帳を取り出した。
そうか、拾ったんだった。ま、週明け学校に行った時に返せばいいか。
何も考えずにメモ帳をパラパラと捲った瞬間、とある文字があたしの目に飛び込んできた。
これって……。
〝弱くてもかまわない 、怖くても大丈夫〟
〝好き。それだけで、輝ける〟
〝優しく美しい羽は、誰でもない、キミだけのものだから〟
「……AMEじゃん」
思わず小声で呟いてしまった。
AMEは、最近動画配信をはじめた新人歌い手だ。
あたしがAMEの歌を聞いたのは本当にたまたまだったけど、一曲聞いただけですぐに好きになった。
歌声はもちろんだけど、特にAMEの書く歌詞があたしは好きだ。それと、歌にのせて流れるイラストも。
あたしが得意とするリアル調とは違って、線がハッキリしていてちょっとアメコミっぽい感じがかっこいい。誰が描いているのか分からないけど、勉強になる。
動画には曲に合わせたイラストだけが流れるため、AME本人の姿は一切なく、もちろん顔も年齢も不明。歌声から恐らく女だということ以外は何も分からない。
でも顔出ししていない歌い手なんて山ほどいるし、性別とか顔とかそんなことはどうだっていい。あたしがAMEの動画に元気をもらっているということは、確かなんだから。
つーか、早坂もAMEが好きなのかな。歌詞をわざわざ書くくらいだから、好きなんだろうな。
メモ帳を再びポケットにしまって窓の外を見ながら、思った。
まだ新人だからか、再生回数も登録者数もそんなに多くはないのに、同じ学校の中で同じようにAMEを推している奴がいるなんて、ちょっと意外だ。なんせ音楽好きのバンド同好会の三人も知らなかったわけだし。
だけどAMEはきっと、これからとんでもなく人気になるだろうと私はふんでいる。ただの勘だけど。
そんな新人歌い手に目をつけているのがあたしだけじゃなかったっていうのは、ちょっと嬉しいかも。
早坂か。あいつ、結構センスいいじゃん。
耳に流れてくるAMEの曲を聴きながら、あたしは少しだけ口角を上げた。
*
暑かった昨日よりも、今日はさらに気温が上がるらしい。といっても朝七時の空気は湿気もないし、まだ心地いいと感じられる。
洗濯機を回してから窓を開けたあたしは、タイマーで炊いておいたご飯でおにぎりをつくり、ラップをしてメモを置く。
【起きたら食べろよ】
洗い物をして、静かに床の埃を掃除している間に洗濯機がピーピーと音を鳴らしたので、それをベランダに干してから身支度をはじめた。
あたしの家は、年季の入った昭和感満載なアパートの二階だ。部屋は一応三つあるけど狭い。
家族は母親と小学五年の弟、柊の三人。あたしが小学校に上がる前に両親が離婚して以来、母は女手ひとつであたしたちを育ててくれている。
当然金に余裕はないから贅沢はできないけど、食べるのもままならいほどではない。それもこれも、母が一生懸命働いてくれているおかげだ。
母に負担をかけないよう、小学生の頃から自分でできることは自分でやるようにしてきた。だけど今は、家族に迷惑をかけないように、あたしがもっとお金を稼がなきゃいけないと思っている。
だからこそ動画配信で成功したいのに、現実はそんなに簡単じゃない。
お金を稼ぐことは、あたしにとって切実で重要な問題だ。焦ってどうにかなるわけじゃないけど、もっと再生回数を伸ばせる方法を考えないとな。
ダイニングの隣にある和室の襖を開け、夜勤明けで眠っている母を見ながら改めてそう思った。
家を出る前、ベランダ側にある四畳の部屋を覗くと、いびきをかきながら寝ている弟を見て、あたしはクスッと笑った。
布団に対して体が真横になっているけど、すごい寝相だな。
蹴散らかしている薄いタオルケットを弟のお腹にかけ直してから、戸締まりを確認して家を出た。
「あ、おはようございます」
「楓ちゃん、おはよう」
大家のおばあちゃんが、アパートの前を箒で掃いていた。
「バイト頑張ってね」
このアパートに越してきたのは、あたしが高校生になる時だった。それまでは通学路に田んぼがあるような田舎に住んでいたけど、わけあって東京の高校を受験したからだ。
ここに住んでもう三年目なので、毎週土曜は朝からバイトだということを、大家さんも知っている。
「はい。行ってきます」
軽くお辞儀をしたあたしは、アパートの駐輪場から取り出した赤い自転車にまたがり、バイト先に向けて走り出した。
家から学校まではバスで三十分かかるから、平日はそのままバスで行くけど、家からだと自転車で行くほうが断然早い。
少しでも節約できるように、本当は学校にも自転車で通いたい。だけど、母にそれだけは絶対に駄目だと言われ、バス通学をしている。
自転車だと四十分はかかるから疲れるし、色々心配なんだろうな。まぁ、そういう母の気持ちを押し切ってまで自転車で行きたいというわけではないから、いいけど。
なるべく人通りの少ない道を選びながら、鼻歌交じりに自転車を走らせること十分で駅前に到着。
バスのロータリーから一本道路を渡った場所にあるビルの横に、自転車を止めた。
時刻は八時四十五分。勤務時間は九時からなので、十五分早く着いた。
家族にかんすること以外は超適当なあたしだけど、こう見えて時間だけはきっちり守るタイプだ。
「おはようございまーす」
若干眠そうに挨拶をすると、長い髪をポニーテールに結んでいる二歳上の先輩が、「おはよう佐久間さん」と返してきた。先輩は大学生なのだが、土日だけバイトをしている。
あたしのバイト先は、ビルの中に入っている小さなカラオケBOX。しかも普通のカラオケではなく、ひとりカラオケ専用のお店だ。
高校生になってすぐにアルバイトをはじめたので、もう三年目になる。
いつものように私物をロッカーにしまい、黒いエプロンと黒いマスクを装着して店に出た。
平日朝は学校や仕事があるからか、カラオケの利用者数はそこまで多くないけど、休日や平日の夕方以降は予約も多いし部屋も結構埋まる。
このバイトをしてから、ひとりで歌いたいという人が想像以上に多いということを知ったけど、あたしもカラオケに行けと言われたら絶対にひとりカラオケを選ぶだろうな。歌は苦手だから、仕事以外で足を踏み入れることは一生ないだろうけど。
今日の予約状況をカウンターのパソコンで確認すると、オープンの九時からは八部屋中六部屋が予約で埋まっている。
休日の朝からひとりで歌いに来るなんて、好きじゃなきゃできないだろうな。
そう思いながら先輩と一緒に客の入店を待っていると、開店五分前に三人の客がそれぞれ入ってきた。先輩が受付を担当し、あたしが注文されたドリンクなどを奥のキッチンから部屋へと運ぶ。
最後に入店した六人目の客にドリンクを持っていったあたしは、ノックをする寸前で手を止めた。
中から、歌声が聞こえてきたからだ。
カラオケなのだから歌うのは当然だけど、そうじゃない。一瞬アカペラで歌っているのかと思ったけど、メロディーもかすかに聞こえてくる。
恐らく、カラオケの機械ではなくスマホかなんかで音を流して、それに合わせて歌っているようだ。
しかも、驚くべきことにAMEの曲だ。
しかも、めちゃくちゃいい声で。
なんだろう、AME本人とはもちろん違うけど、これはこれでありじゃん。というかこっちの歌声も好きかも。
透き通るような高い声がAMEのバラードとよく合っていて、なんか、心臓がドキドキする。
不思議な感覚に陥ったあたしの脳裏に、AMEの動画がよぎった。
イラストと……歌……――。
雷に打たれたかのようにハッと目を見開いたあたしは、ドアをノックし、「失礼します」と声をかけて中に入った。
「お待たせしました」
いつも通り声をかけると、客は歌うのをピタリとやめ、座ったままうつむいている。
あたしは、客の近くにアイスティーを置いた。
「あ、ありがとうございます……」
客はこっちを一切見ることなく、蚊の鳴くような声でそう告げた。
Tシャツに薄いカーディガンを羽織った若い女の子だけど、どっかで見たことがあるような……。
客を凝視していると、あたしの脳内で『ピコン』と閃くような音が鳴る。
知らない相手でも、駄目もとでとりあえず声をかけてみようかと思っていたけど、こんな偶然あるんだな……。
これは、ますます都合がいい。
あたしは黒いマスクの下で、ニヤリと口角を上げた――。
勇気を振り絞って予約ボタンを押したのは、昨日の夜だった。
私が美術の課題を終わらせるのが遅いせいで友だちを待たせてしまい、あげく一緒に帰れなかった昨日は、いつも以上に気持ちが晴れなかった。
AMEの曲を聴いて落ち着いたものの、思い出すと沈んでしまう。それを何度か繰り返しても変わらなかったから、気分転換にお風呂に入り、湯船につかりながら歌ったんだ。でも、それでも駄目だった。
意を決した私は、お風呂の外に聞こえないようシャワーを出して歌ってみた。いつもみたいな小さな声じゃなくて、腹の底から嫌なことすべてを追い出すみたいに。
すると、こびりついてなかなか離れなかった不安とか悲しみが歌声と共に吐き出され、胸の中に広がっていた暗い気持ちが少しずつ剥がれ落ちていくような感覚になった。
お風呂を出て部屋に戻った私は、何かに導かれるように慌ててスマホでカラオケ店を検索した。
しかも、普通のカラオケじゃなくて、おひとり様専用のカラオケ店だ。
私は歌が大好きだけど、実は一度もカラオケに行ったことがない。何度か誘われたことがあるけど、マイクを握って人前で歌うなんて考えられなかったから。
だけど高校生になった頃、私は知ってしまったんだ。ひとりで行ってひとりで歌える、ひとり専用のカラオケ――、ひとカラというものがあるということに。
それでも二年以上踏み出せなかったのは、勇気がなかったというのもあるけれど、歌えれば場所はどこでもいいし、マイクも必要ないと思っていたからだ。
でも、大声で歌うのがこんなに気持ちいいなら、カラオケだとどうなるんだろう。悩みとか不安とかそういうのが全部、吹っ飛んでくれるんじゃないか。
お風呂で思い切り歌うことの爽快感を覚えた私は、そう思った。
だから人生初のカラオケを、ひとカラを予約した……のはいいのだけれど。
いざ本当にその場にやってきたら、なんだか急に不安になってきた。
カラオケが入っているビルを見上げながら、ため息をつく。
ひとりでカラオケなんて、友だちがいない奴だと思われないかな。高校生が土曜の朝いちでカラオケなんて、変に思われないだろうか。
そんな考えばかりが浮かんでしまい、なかなかビルの中に入れない。
でも予約は九時だから、少し前には行かなきゃ。というか、ひとり専用のカラオケなんだから、ひとりで行って変に思われることなんてないはず。
斜め掛けのショルダーバッグの紐を強く握りしめて中に入った私は、エレベーターで三階に上がる。自動ドアには【ひとカラ】の文字。
みんなひとりで来てる。ここはひとりで来る場所なんだ。
そう言い聞かせてカウンターの前に立った。そして、スマホの予約画面をポニーテールの店員さんに見せる。
「はい、ご提示ありがとうございます。一時間のご利用ですね。本日ワンオーダー制となっておりますので、お飲み物などお部屋から注文お願いします。お部屋は六番になります」
「あ、はい……」
テキパキと慣れた様子でマイクやリモコンが入ったカゴを渡された私は、通路を進む。思ったよりも狭い店内には、八つの部屋があるようだ。
言われた通り、恐る恐る六番の部屋に入った私は、カゴをテーブルの上に置き、二人掛けのソファーに座って「はぁ……」と息を吐いた。
四畳ほどの狭いスペースには、カラオケ画面と小さいテーブルとソファーが置かれている。
テーブルの上にあるタブレットでアイスティーを注文してから、カラオケの曲名を検索してみた。だけど、AMEの曲は入っていない。
やっぱりなかったか……。
残念だけど、入っていないならそれはそれで仕方ない。でも、初めてのカラオケの記念すべき一曲目は、絶対にAMEの曲を歌いたい。
そう決めていた私は、スマホを操作して曲を再生した。
たとえカラオケから曲が流れなくても、マイクがあれば歌える。
私はマイクを握り、目を閉じた。
歌詞は全部覚えているから、見なくても平気。
聞き慣れたイントロのあと、私は静かに息を吸い、優しく吐き出すように歌いはじめた。
いつも見ているAMEの動画のイラストが、頭の中に流れてくる。
自分の口から発せられる声が、狭い部屋の壁にぶつかって、自分の耳に届く。
自分の声なのに、そうじゃない気がして、不思議だ。
マイクなしで歌うのと、全然違う。
心が弾んで、気持ちが軽くなる。
誰の目も気にせずに思い切り歌うことが、こんなに楽しいなんて思っていなかった。
こんなに楽しいなら、もっと早く勇気を出していればよかった。
「きみにい――」
と、歌っている途中で部屋をノックする音が聞こえ、私はすぐさま歌うのをやめた。
「お待たせしました」
そうだ。ドリンクを注文していたんだった。
届いてから歌いはじめればよかったと後悔しても、もう遅い。私は店員さんから隠れるようにうつむいた。
「あ、ありがとうございます……」
きっと、変な奴だと思われただろうな。
とにかく早く出てほしいけれど、下げた視線の先に見える赤と黒のいかついスニーカーは、なぜか全然動こうとしない。
もしかして、『ちゃんとカラオケを流して歌ってください』とか、注意されるのかも。
でも、私が〝こういう歌い方〟をしたのは、一番最初に歌うと決めていた曲がカラオケに入っていなかったから、仕方なく……。
「見つけた」
……え?
今、何か聞こえたような……。
そう思って恐る恐る顔を上げた瞬間――。
「命を救うと思って、あたしのために歌ってくんない!?」
店員さんはいきなりそう言って、私の手を両手でガッチリと握ってきた。
「えっ!? あの、その……」
突然の出来事に戸惑いながら瞼を激しく上下させた私は、目を見開いた。
ちょ、ちょっと待って。
この店員さんは……。
「さ、佐久間、さん……?」
目の前で私の手を握っている、赤とピンクの綺麗な髪色の店員さんは、
「当たり」
と言って、つけていた黒いマスクを下げた。
「もう一回言うけどさ、命を救うと思って、あたしのために歌ってほしいんだ」
「いや、あの、命……って、えっと」
そう言われても、私の歌に命を救うような力はない。
佐久間さんが何を言っているのか分からなくて、頭の中はめちゃくちゃだ。
ただでさえ喋るのが苦手なのに、混乱して余計に言葉が出てこない。
黙ってうつむくことしかできないでいると、佐久間さんが隣に腰を下ろし、私の肩に手を回した。
ちょっと待って、まともに話したこともないのに、めちゃくちゃフレンドリーすぎない!? 佐久間さんて、こういう人だったの?
「ごめんごめん、いきなりそんなこと言ったってわけ分かんないよな。とりあえずさ、もう一回歌ってくんない? アカペラでいいから」
絶対無理! 人前で歌えないから、こうしてひとカラに来てるのに。真横で聞かれている状態で歌えるわけない。
ていうか、距離が近すぎる……。いきなりこんなふうに接してくる人は今までいなかったけど、ちょっと……無理かも……。
私はさりげなくお尻を動かし、少しだけ佐久間さんから離れた。
歌うことは絶対にできないけど、でも、なんて返せば佐久間さんを怒らせないで済むだろう。
そうやって必死に考えても何も浮かばず、結局黙り込んでしまった。
「とりあえず今仕事中だからさ、考えといて!」
だけど、佐久間さんが店員だったことが唯一の救いだ。もし客として来ていたなら、歌うまでずっと隣に座られていたかもしれない。
それだけならまだしも、黙っているだけの私にイライラして、怒られたり切れられたりする可能性だってあった。そんなの、想像しただけでゾッとする。
「じゃあ、ごゆっくり~」
佐久間さんが部屋を出た瞬間、緊張による疲れがどっと押し寄せてきた。
ごゆっくりなんて、できるわけない……。
佐久間さんがいつまた部屋に入ってくるか分からなくて、気が気じゃない。
動揺を引きずったまま、歌わずにただタブレットを操作していたけれど、来る気配がないまま三十分が経過した。
一時間しか予約していないから、あと残り三十分。佐久間さんは仕事があるし、ドリンクも食べ物も頼んでいないから部屋に来ることは多分もうないよね。
ドアのほうを気にしつつ、私はようやくカラオケを再開した。
今度はちゃんとカラオケの機械で音を流して、好きなボカロ曲を歌う。
AMEも好きだけど、私はボカロも好きだ。
なのに……一曲歌い切った私は、ため息をついた。
全然駄目だ。思った以上に動揺しているみたいで、歌に気持ちが入らない。
曲検索はしてみたものの、結局何も歌う気になれないまま、退出の時間になってしまった。
せっかくの初カラオケだったのに、二曲で終わりか……。しかも、どちらもまともに歌えてないし。
だけど、問題はこれからだ。
マイクなどが入ったカゴを持って立ち上がった私は、深呼吸をする。
支払いは済ませてあるけど、カゴを返さなきゃいけない。つまり、店員さんと対峙することになる。
ポニーテールの店員さんだったらいいなと思いながら、恐る恐る受付に向かったけど、遠くからでもあの髪の色はとっても目立つ。そこにいるのが佐久間さんだと気づき、私は肩を落とした。
でもまだ仕事中だし、他にも来店している客がいるから、さっきのように手を握って懇願されるようなことはないはず。
うつむきながらカゴを受付に置くと、カウンターの上で佐久間さんが私に何かを差し出してきた。
「これ、あんたのだろ? 昨日尻もちついた時に落としたみたいだけど」
それは、制服のポケットにいつも入れている小さなメモ帳だった。
今日は学校が休みだから、なくなっていることに気づかなかったけど、あの時落としていたんだ。
「あ、ありがとう……」
「ていうか土日の朝から歌いに来るなら、学生早朝割っていって二時間パックのこっちのほうが断然お得だぞ」
佐久間さんは、受付に置いてある料金表を指差しながら教えてくれた。
「そう、なんだ。あの、ありがとう……ございます……」
軽く頭を下げると、佐久間さんは笑顔で……というより、ニヤリと口角を上げて私を見ている。だから私は、反射的に視線を下げた。
「メモ帳に連絡先書いておいたから、さっきの話、考えといて」
――……えっ?
驚きすぎて、声が出ない。
「ご利用ありがとうございました~。次にお待ちの方、どうぞ」
反論する隙を与えないかのように佐久間さんがそう言うと、待っていたお客さんが受付に近づいた。その場から離れるしかない私は、追いやられるように店を出る。
エレベーターに乗る前に一度振り返ると、佐久間さんの姿が目に入った瞬間、自然とため息が漏れた。
記念すべき初カラオケが、まさかこんな展開になるなんて……。
学校では喋ったこともないし、挨拶さえ交わしたこともないのに、なんで連絡先? どうして私なの?
こんなことになるなら、カラオケなんて来なければよかったかも……。
家に帰ると、お姉ちゃんは大学で、お父さんは仕事。お母さんは買い物に行っていて誰もいなかった。
朝出かける時、お母さんには図書館に行くと嘘をついた。本当のことを言ったら『なんでひとりなの? 友だちは? 友だちと行けばいいのに、大丈夫なの?』と、心配する言葉をかけてくるのは分かっていたから。
朝から色々と詮索されて心配されると正直滅入ってしまうから、これは必要な嘘だと思っている。
部屋着に着替えてベッドに座った私は、佐久間さんから渡されたメモ帳を鞄から取り出した。
学校からの連絡事項があった時に、忘れないようメモを取ったりするだけのものだけど、ここにはAMEの曲の歌詞も少し書いてある。
なんとなくやるせない気持ちになった時とか、授業中に歌詞を書くだけで、少し落ち着くから。
見られたところで困ることはないし、AMEの歌詞だなんて気づく人は、そうそういないだろう。
改めてメモ帳に視線を落とすと、黄色い付箋が貼ってあることに気づいた。
付箋は三枚あって、ついているのはすべて歌詞が書いてあるページだった。
一枚目の付箋には【これ、あたしの】という文字と一緒に、メッセージアプリのアカウントIDと電話番号が書かれている。
続いて二枚目の付箋には何かのURLと、【怪しくないから暇な時にでも見て、どれが好きか感想を聞かせてほしい】と書かれていた。
そして三枚目の付箋には……。
【AMEの歌詞、最高だよな】
その言葉を見た瞬間、私は思わず「えっ!?」と声を上げてしまった。
つまり、佐久間さんはAMEを知っているんだ。
自分とは全然違うタイプだし、一生かかわることなんてないと思っていたけど、まさか共通点があるなんて。
しかもそれがAMEだということに、酷く驚いた。
なんというか、とても複雑な気持ちだけれど、ひとまず二枚目に書かれていたURLをスマホで検索してみた。
すると、出てきたのは数枚の綺麗なイラストだ。雰囲気がすべて違うから、それぞれ別の人が描いたものなのかもしれない。
感想が欲しいみたいなので、十枚あるイラストをひとつひとつ拡大してじっくりと見たあと、一枚目の付箋を手に取る。
どうするべきか悩んだけれど、拾ってもらったお礼はちゃんと言いたい。あんな小さな声で言った『ありがとう』なんて、そもそも聞こえていたかどうかも分からないから。
それに、何も返さないまま週明け学校で顔を合わせるのは、正直気まずいし。
佐久間さんのIDを登録すると、【楓】というアカウントが出てきた。アイコンは、女の子の綺麗なイラスト画像だ。フリー素材か何かだろうか。
ひとまずお礼と、要望通りイラストの感想を伝えるため、慎重にメッセージを打った。
【早坂美羽です。メモ帳を拾ってくれて、ありがとうございました。あと、カラオケの料金についても、お得な情報をありがとうございます。
イラスト見ました。どれも素敵だと思ったけど、個人的には三枚目と五枚目が特に好きです。三枚目の女の子は、アニメっぽい可愛さがあって、好きです(何かのアニメキャラでしょうか)。
五枚目は、とにかく色使いが美しくて、女の子の髪の毛も一本一本とても繊細に描かれていて、このイラストが一番好きだなと思いました。感想、下手ですみません】
送信したあと、三枚目の付箋をもう一度見た私は、少し考えて再びメッセージを打った。
【あと、佐久間さんはAMEを知っているんですね。私のまわりには知っている人が誰もいないので、嬉しいです。AMEの歌は、私の心の支えなので】
声に出そうとするとうまく言えないのに、文字だと簡単に自分の気持ちを伝えられるのは、相手の存在が近くにないからなのかな。
面と向かって話すとなると、相手のリアクションがもろに見えてしまうから焦るし、あれもこれも余計なことを考えてしまって、言葉を出すまでに時間がかかる。だから、いいことなのか悪いことなのかは分からないけれど、メッセージやSNSだとそれがないぶん、少し楽だ。
佐久間さんからメッセージが返ってきたのは、それから三時間後。買い物から帰ってきたお母さんと一緒にお昼ご飯を食べて、勉強をはじめようと机に向かった時だった。
【今日は突然驚かせちゃってごめん】
【まさか同じAME推しがクラスにいるなんて思わなかった。マジで、それが今年一番の驚きだったよ】
「同じAME推し……これって、推し仲間ってことかな……」
そんな仲間、今までいたことない。AMEが好きなことも、ボカロが好きなことも、誰も知らないんだから当然だ。
だから、推し仲間ができたかもしれないと思うと素直に嬉しいけど、それが自分とまったくタイプの違う佐久間さんだということには、正直ちょっと戸惑う。
どうするべきか答えが出ず、なかなか返せずにいると、再びメッセージが届いた。
【あと、早坂さんが好きって言ってくれた三枚目と五枚目のイラストは、あたしが描いたんだ】
「えっ!?」
スマホを見ながら声が出た。
あの美しいイラストは、佐久間さんが描いたの?
いつも自分のことで精一杯だから、美術などで描いたみんなの作品をじっくり見る余裕なんてなかった。だから、佐久間さんが絵を描くのが得意だということも、気づかなかった。
【すごいです。あんなに綺麗なイラストを描いたのがクラスメイトだなんて、本当にすごい。プロだと言われても不思議じゃないくらい上手です。本当に驚きすぎて、なんだかドキドキが止まりません】
驚いた勢いそのままに、私は思ったことをストレートに伝えた。
【ありがとう。褒め上手だな、笑】
【ていうか、あたしも同じだよ。早坂さんの歌声を聞いた時、ドキドキした。うまく言えないけど、心に響いた。だから一度でいい、改めて話を聞いてほしいんだ】
誰にも聞かせたことのない歌声。それを佐久間さんが褒めてくれたことは本当に嬉しいけど、私と話したって楽しいわけない。
彩香や由梨とでさえテンポよく喋れないのに、佐久間さんに何か聞かれてもちゃんと答えられる自信がない。会話だってきっと弾まないし、無駄な時間だったと思われるに決まってる。
そう思った時、さらに続けてメッセージが届いた。
【AMEの話もしたいし、もし明日予定なければ会えない?】
「AMEか……」
そう呟いた私は、また少し考えてから佐久間さんに返事を送信した。
【歌を褒められたのは初めてなので、嬉しかったです。分かりました】
AMEの話ができると思うと胸が高鳴るのは本当だけど、一番は、断るための理由が思い浮かばなかったからだ。
この先一生会わないような人なら何も考えずに断るけど、佐久間さんとは学校で毎日顔を合わせる。だから、気まずくならないためにも一度だけ会おう。
会えばきっと、私と話してもつまらないってことに気づいて、もう二度と誘われたりしないだろうから。