たった今、十七年の人生で初めて分かったことがある。
 
カラオケで熱唱している最中に、店員さんが飲み物を持って部屋に入ってくる瞬間。それは、個人的に気まずいと感じる状況、ベスト5に入るということ。
 
しかも、私が普通のカラオケとは違う歌い方をしていたせいで、余計に気まずい。
 
ノックの音ですぐに歌うのをやめたけど、絶対に聞かれてたよね……。
 
「お待たせしました」

どんな顔をしていればいいのか分からない私は、とりあえず相手を見ないようにうつむいた。

アイスティーをテーブルに置く店員さんの手が、ちらっと視界に入る。人差し指にはめているシンプルなシルバーの指輪が光った。

「あ、ありがとうございます……」

きっと、変な奴だと思われただろうな。

とにかく早く部屋を出てほしいのに、下げた視線の先に見える赤と黒のいかついスニーカーは、なぜか全然動こうとしない。

もしかして、『ちゃんとカラオケを流して歌ってください』とか、注意されるのかも。

でも、私が〝こういう歌い方〟をしたのは、最初に歌うと決めていた曲がカラオケに入っていなかったから、仕方なく……。

「見つけた」

……え?

今、何か聞こえたような……。

そう思って恐る恐る顔を上げた瞬間――。


「命を救うと思って、あたしのために歌ってくんない!?」


店員さんはいきなりそう言って、私の手を両手でガッチリと握ってきた。

突然の出来事に戸惑いながら(まぶた)を激しく上下させた私は、目を見開いた。

ちょ、ちょっと待って。

この店員さんは……――。
靴を履き、玄関の壁に貼ってある鏡で一度全身を確認する。

リボンは曲がっていないし、ブレザーもスカートも大丈夫。ポケットにはハンカチとティッシュもちゃんと入っている。

「よし」

長い黒髪を軽く触ってからドアノブに手をかけようとした時、お母さんが慌てて玄関にやってきた 。手には食器を拭く布巾が握られている。

「ちょっと待って()()、忘れ物ない? 大丈夫?」

いつもと同じ台詞(せりふ)を言われた私は、いつも通り「大丈夫だよ」と、ぎこちない笑みを浮かべながら答えた。

だけど本当は、こう思ってるんだ……。

洗い物を中断してまでわざわざ玄関に見送りに来なくてもいいし、毎日『大丈夫?』って聞いてくる必要もないって。

それを口に出さないのは、言いにくいとか、怒られるのが嫌だからっていうわけじゃない。

ただ、私は思っていることを瞬時に言葉に出すことが苦手で、言おうとするとなぜか詰まってしまうから、言えないだけ。

なんでそうなっちゃうのかは、自分でも分からない……。

「行ってくるね」

ドアを閉めて外の空気を吸うと、少しだけ心が落ち着く。

五月に入った途端、なんだか急に朝の風が暖かく感じられるようになったけど、暑くも寒くもないこの時季が一番好きだ。

晴れ渡る空の下、家の前の道を大通りに向かって歩き、いつもの時間のバスに乗った。

同じ学校の生徒も数人乗っているけれど、親しい友だちがいない私は挨拶することなく手すりにつかまり、ただ窓の外をじっと眺める。

そうして立ったままバスに揺られること十五分。学校から一番近いバス停に着くと、次々と降車する人たちの波にのることができない私は、今日も一番最後にバスを降りた。

素早く降りられずに、こうしてモタモタしてしまうのはいつものこと。入学から何も変わらない。

バス停がある大通りから一本横道に入ると、すぐに大きな校舎が目に入った。校舎は三つに分かれていて、向かって右側の三階建ての第一校舎に各クラスの教室がある。

うちの学校は一足制なので上履きに履き替える必要はないため、私は人けのない正門を通ってそのまま第一校舎に入った。

三年生の教室がある一階の廊下を進んでいるけれど、他の生徒の姿がまだないのは、私の登校時間が早いからだ。

万が一、予期せぬトラブルが起こって遅刻したら嫌なので、入学してからずっと、朝は余裕を持って登校するようにしている。

その結果、いつも一番目か二番目、遅くても三番目以内には教室に入っているのだけど、今日は一番だ。

廊下側のうしろから二番目の席に(かばん)を置いた私は、提出するのを忘れないように、クリアファイルから宿題を取り出して机の上に置いた。

授業で使う教科書類は、基本的に学校に置きっぱなしにしてある。でも昨日は勉強のために少し持ち帰っていたので、それを廊下にある自分のロッカーに戻し、一時限目に使うものを取り出した。

「これでよし」

教室に戻って自分の席に座り、あとはスマホを眺めながら授業がはじまるのを待つだけ。

これが、入学から続けている私の朝のルーティーン。

毎日そうするのは、準備が間に合わなくて焦ってバタバタしないための対策。つまり、みんなより行動が遅いと自覚しているからだ。

それを自分なりの努力なんて言うつもりはないけれど、性格上こうすることが一番いいって分かっているから続けているだけ。やらなくて済むならそのほうがいいし、何も考えずにいられたらどんなに楽か。

スマホで天気予報などを見ながら待っていると、少しずつクラスメイトが登校してきた。
 
ブレザーの代わりに赤いパーカーを着ている金髪男子が教室に入り、黒髪眼鏡男子と軽い挨拶を交わして一番前の席に座った。

続いてスケボーを片手に登校してきた男子はイヤホンをつけていて、曲にのっているのか、少し頭を揺らしている。

「おはよ~」

朝から元気よく声を上げながら教室に入ってきた女子は、真ん中の一番うしろの席に座っている女子とハイタッチをしてから隣の席に腰を下ろした。

席に着いた瞬間、楽しそうに話をしているふたりのカーディガンの色は、それぞれピンクと白。髪型はロングのメッシュと、毛先だけ青く染めたボブスタイル。ふたりともバッチリメイクをしている。

こうして見ると本当に色んな生徒がいるけど、それもこれも、うちの学校がわりと自由だからだ。

着用が許可されているカーディガンやパーカーに指定はなく、好きな色を着ることができるし、指定のリボンかネクタイも好みで選ぶことができる。それから、女子はチェックのスカートの他にスラックスも選べる。ブレザーも、式典など決められた行事以外での着用は自由。

だから、お(しゃ)()な子は自分好みのカーディガンを着たり、日によってリボンやネクタイを変えたり、髪の色も染めたりしている子がほとんどだ。

校則も緩くて、メイクも濃すぎなければ可。髪型や髪色も特に制限なく自由なのは、生徒それぞれの個性を尊重しているかららしい。

とはいえ私はお洒落でもなんでもないから、カーディガンはずっと定番の紺で、髪も染めたことはない。

だって、私がこの学校を選んだ理由は、髪色を変えたいとかお洒落をするためじゃないから。

自由というのは決して楽をしたり遊ぶためではなくて、自分で考え、選ぶという自主性を育むため。そして、それぞれの個性を受け入れ、伸ばしていくため――。そういう学校の校風に、強く()かれたからだ。

この学校に入学できれば、今までよりも楽になるかもしれない。好きになれない自分の性格も、個性だと捉えることができるかもしれないと、そう思えたから。

だから、受験勉強を頑張って合格できた時は本当に(うれ)しかったんだ。

でも、実際そんなふうに前向きに考えるのは、簡単なことじゃない……。

ため息をつきながら、私は机の横にかけてある鞄にスマホをしまおうと手を伸ばした。すると、うしろから歩いてきたクラスメイトとちょうどぶつかってしまい、その勢いでスマホが私の手から離れ、床に落ちた。

「あっ、ごめん」

落ちたスマホを即座に拾い上げ、私の机の上に置いてくれたのは、生徒会長の(うえ)(むら)()()さんだ。細いフレームの眼鏡をかけていて、黒髪を低い位置でひとつに結んでいる。

二年の時に同じクラスだったから、上村さんが成績優秀でみんなから頼られている存在だというのは知っているけれど、(しゃべ)ったことはほとんどない。

「ごめんね、スマホ大丈夫?」

「……あ、えっと」

上村さんは心配してそう言ってくれたけれど、私は口ごもる。

「恵茉~、今日の小テストの範囲教えて~」

他のクラスメイトに呼ばれた上村さんは、「ちょっと待って」と言って、一度逸()らした視線を私に戻した。

「ほんとにごめんね、壊れたりなんかあったら言ってね」

わざと落としたわけじゃないのに、上村さんはもう一度私に謝ってから自分の席に向かった。

ただひと言『全然大丈夫だよ』って言えばいいだけなのに、私の口はそんな簡単な言葉さえスムーズに出してくれない。

スマホを強く握りしめながら、情けない自分に対して心で大きなため息をついた。

希望の高校に入学してあっという間に高校三年生になってしまったけれど、今までより楽になるどころか、結局私は何も変われなかった。

思ったことをうまく言葉にできないし、伝えるのが下手で、何をするにもみんなより一歩遅い。

個性を尊重する自由な学校だとしても、私の場合は個性で片付けることができなくて、だから……苦しい。

服や髪色を変えるみたいに、性格も簡単に変えられたらいいのに……。

「おはよう、美羽」

沈みかけた顔を起こすと、前のドアから教室に入ってきた(あや)()が、アーモンド形の目をこちらに向けて手を振りながら近づいてきた。

私より背が高く、髪を高い位置でひとつに結んでいる彩香は明るい性格で、アイドルに詳しい。それから、もうひとり続いてやってきた小柄な()()は、読書が好きで頭もよくて真面目だ。タイプが違うように見えるけれど、中学が同じだという彩香と由梨は、とても仲がいい。

そんなふたりとは二年の時から同じクラスで、運動が苦手だという共通点もあるからか、学校の中では唯一よく話をする友だちだ。

「おはよ」

気持ちを切り替えて手を振り返すと、彩香と由梨が私の席の横に立った。

「小テストあるのすっかり忘れてて、さっき上村さんたちが話してるの聞いて思い出したんだけど、最悪。由梨はやらなくてもできるだろうけど、美羽は勉強した?」
 
「あー、え、小テストは、あんまり……」

本当は結構頑張って勉強したのに、早く答えようと焦った私の口から(とっ)()に出た言葉は、それだった。
「だよね。まーでもなんとかなるか。そんなことよりさ、昨日コンビニで(さか)(ぐち)に会ったんだけど」
 
「嘘、コンビニって図書館の前の?」
 
「そうそう! しかも彼女っぽい子と一緒だったんだけど」

「ほんとに? 私も見たかったな~」

「中学の時あんなに地味だったのにね」

坂口って誰だっけ? 一瞬考えてしまったけど、どうやら中学の同級生のことらしい。
 
「ていうか彩香、今のうちにちょっとでもテストの範囲見ておいたほうがいいんじゃない?」

「あー、確かに。坂口とかどうでもいいか」

顔を見合わせて笑ったあと、ふたりは自分の席に戻った。

三人で話していても、私は聞いているだけの場合が多いし、ふたりにしか分からない会話をしている時は正直すごく距離を感じる。

だけど、それでいい。私が入ったところで会話のリズムを壊してしまうだけだし、喋らずに聞いているだけのほうが気持ち的にも楽だから。

他のクラスメイトは校風通り見た目も自由で、性格もみんなバラバラだけど、大きなトラブルなく無事三年生になった。

人付き合いがあまりうまくない私が、こうして平穏に高校生活を過ごせているのは、他の生徒とあまり深くかかわらないようにしているからだと思う。
授業や必要な時以外、クラスメイトと喋ることはほとんどないし、そうすれば私の駄目な部分も(さら)されることはないから。

「ねぇ、進路調査のやつ書いた?」

「あ~、一応ね」

考えごとをしていたら、斜めうしろの席から会話が聞こえてきた。

「大学?」

「ううん、美容系の専門学校。お金かかるからさ、親に何言われるか分かんないけど」

「でもそのためにバイトもしてるんでしょ? マジ偉いよ。私は大学進学を考えてるけど、正直この成績でって 、書きながら自分にツッコミ入れたわ」

「うける。でも勉強頑張ってるじゃん」

そんなやり取りが耳に入った私は、眉を寄せて机の上をジッと見つめる。

進路に向けての何気ない会話だけれど、他の子はもう将来のこととかやりたいことを考えているんだって思ったら、酷く情けない気持ちになった。

そろそろ進路もちゃんと考えようと思うけど、考えたところで自分がしたいことなんて何も浮かばない。それよりも、こんな自分に何ができるのかということばかり考えてしまうから、結局答えは出ないままだ。

チャイムが鳴る前の騒がしい教室を見回すと、そこにいるクラスメイトの顔が、なぜかいつもよりいきいきとして見える。

なんだか、自分だけが別の場所に取り残されているような気持ちになった。

彩香や由梨は進路どうするのか、聞いてみようかな……。

一瞬そう思ったけれど、もし『美羽は?』と聞かれたら、私はきっとうまく返せない。

考えに考えたあげく、結局『分からない』と答えるのは目に見えているのだから、何も言わないほうがいい。

再び視線を下げると、担任が教室に入ってきた。

教卓の上に置かれた提出物ケースにみんなが宿題を入れはじめたので、私も宿題のプリントを持って席を立つ。

ほどなくして、チャイムが鳴った――。

「――……それから、美術の課題がまだ終わってない人は、今日の放課後美術室に行って仕上げるように専科の先生から言われてるから、忘れるなよ」

学年主任でもある担任の低い声で、私はハッとした。

そうだ、美術の課題……私、全然終わってない……。

確か彩香と由梨は終わっていたと思うけど、他に居残りをするクラスメイトはいるのかな。まさか私だけ、なんてことはないよね……。

不安に駆られながらも一時限目の授業に集中していると、十分ほど経過してからガラッと音を立てて教室のうしろのドアが開いた。

私を含め、みんなが一斉にドアに視線を向けると、赤とピンクの髪が真っ先に目に入った。その瞬間、ざわついていた教室内が一気にシーンと静まり返る。

薄手の黒いパーカーを羽織った彼女、()()()(かえで)は、スラックスのポケットに手を入れたまま眠そうにあくびをしてから、「はようっす」と(つぶや)いた。
 
多分『おはようございます』と言ったのだと思うけど、それに対して返事をするクラスメイトは誰もいない。それどころか、佐久間さんを見ながら何かコソコソと話しているクラスメイトもいる。

だけど佐久間さんは気にする様子もなく、窓際の自分の席に座った。

「金曜遅刻して来ること多くね? なんかあんのかね」

「さぁ。分かんないけど怪しいよな」

小声で話す男子の会話が、うしろから聞こえてきた。

確かに佐久間さんは三年生になってすでに三回目の遅刻だけど、それだけで怪しいなんて思われるのはちょっと可哀想だ。先生が特に何も言わないということは、ちゃんと遅刻の連絡はしているのだろうし。

そんなことを思いながら、私は佐久間さんから逸らした目線をノートに戻す。
一日の授業が終わると、急いで廊下に出て自分のロッカーの前に立った。授業は終わったけど、居残りがある。

「美羽、美術まだ終わってないんだっけ?」

教科書をロッカーに入れていると、彩香が声をかけてきた。隣には由梨もいる。

「あ、うん、まだなんだ」

「じゃあ教室で待ってるよ」

「えっ、いいの?」

「うん。今日うちら暇だし、終わったら三人で一緒に帰ろう」

その言葉が嬉しくて、思わず頬が緩んだ。

彩香は時々、こうして一緒に帰ろうと誘ってくれることがある。だけど前に一緒に帰ったのは三年生になってすぐ、ちょうど一ヶ月前くらいだったから、三人で帰るのは久しぶりだ。

「ありがとう。えっと、頑張って終わらせるから」

いつになく声を弾ませた私は荷物を持ち、生徒でごった返している廊下を急いで進んだ。

第二校舎の美術室に移動すると、中では数人の生徒が課題の仕上げをしていた。

私だけじゃなくてよかった……と、胸を()で下ろしている場合じゃない。ふたりが待っているんだから、急いで仕上げなきゃ。

描きかけの画用紙を取り出して準備をした私は、空いている椅子に座った。

課題はデッサンで、美術室にある小道具や風景、なんでもいいから自分が一番興味のあるものを描くというもの。

彩香は確かカゴに入ったフルーツを選んで、由梨は美術室の窓から見える風景を描いていた。

私はというと……、最初の美術の授業では何を描けばいいのか分からなくて、考えるだけで終わった。
 
その次の授業では美術室にある彫刻を描くと決めたけれど、描いては消すことを繰り返し、結局輪郭を描くだけで終わってしまった。

そして三回目でも終わらずに、今こうして居残りをしている。

私が思うように描けなかったのは、この中に興味のあるものがなかったからだ。

誰だか分からない彫刻もまったく興味がないから、手がなかなか進まないのは当然だけど、それでもとにかく描くしかない。

「さっきさ、佐久間さんと至近距離ですれ違っちゃった~」

彫刻を挟んで私の正面に座っている女子の声に、私は視線を上げた。その高い声と嬉しそうな顔は、まるで好きな人に会った時のようなテンションだ。

「マジ? なんか喋った?」

「喋れるわけないじゃん。いつも通り、チラ見して終わったよ」

「なんでよ~、声かければいいのに」

「無理、ハードル高すぎ」

佐久間さんと話したいけどできない、っていうことなのかな。確かに近寄りがたい雰囲気だし、話しかけにくいというのはなんとなく分かる気がする。

と、女子たちの会話に気を取られて手が止まっていることに気づいた私は、焦って再び鉛筆を動かした

目の前の画用紙だけに集中して丁寧に鉛筆で描いていると、ひとり、またひとりと、課題を終えた生徒が美術室から出ていく。そのたびに、焦って余計にうまく描けなくなる。

そして、ついに最後のひとりが美術室を出ると、私だけが取り残された。

さっきまで聞こえていたはずの鉛筆を走らせる音が止み、代わりに時間を刻む音が耳に届く。

ハッと顔を上げると、居残りをはじめてからすでに一時間以上が経過していた。

「あら、まだやってたの?」

美術室に戻ってきた先生が、私を見るなり目を丸くする。

「あ、す、すみません。もう、終わりました」

本当は全然納得できていないけれど、一応形にはなったから、それを提出して大急ぎで美術室を出た。

真ん中にある第二校舎の二階から一階に下り、渡り廊下を小走りで進んで南側の第一校舎へ入る。

そこから、さらに急いで廊下を右に曲がろうとした瞬間――。

「ひゃっ」

角を曲がってきた生徒とぶつかりそうになった私は、小さく声を上げてのけ反り、そのまま体勢を崩して尻もちをついた。

――い、痛い……。

顔を(ゆが)めてお尻をさすっていると、

「廊下は走っちゃいけませんって、小学生の時に習わなかったか?」

そんな声が、頭上から降ってきた。

「あ、ご、ごめんなさい」

ジンジンとしたお尻の痛みに耐えながら恐る恐る顔を上げると、目に飛び込んできたのはスラックス。さらに視線を上げると、鮮やかな赤とピンクの髪。

ぶつかりそうになった相手は、佐久間さんだった。

「ご、ごめんなさい。あの、その……」

佐久間さんだと分かった瞬間、さらに焦ってしどろもどろになっていると、目の前にスッと白い手が伸びてきた。

「冗談だから、そんな焦んなよ。ほらっ」

佐久間さんが、伸ばした自分の手をさらに前に突き出す。

こ、これは……握っていいということ? でも、勘違いだったら恥ずかしいし。

「えっと、その……」

どうするべきか分からずあたふたしていると、佐久間さんが私の前にしゃがみ込んだ。

そして、佐久間さんのほうから私の手を取って握り、立ち上がる。

すると、その勢いに私も引っ張られ、まるで糸で操られているみたいに、ひょいと立ち上がることができた。

「気をつけな」

そう言って、佐久間さんは私の頭をポンポンと二回優しく(たた)いた。

――……か、かっこいい。

動揺しながらも、ついそんなことを思ってしまった。

「あ、ありがとうございます。その、ごめんなさい」

最後にもう一度謝って頭を下げると、途端に恥ずかしさに襲われた私は、足早にその場を立ち去った。

この胸の高鳴りはなんなのだろう。よく分からないけれど、火が出そうなくらい顔が熱い。

――佐久間楓。

三年で初めて同じクラスになったけれど、彼女のことは前から知っていた。

何しろ佐久間さんは目立つから、この学校のほとんどの生徒が、その存在を知っているんじゃないだろうか。

髪の色がとにかくいつも奇抜で、二年の最後は確か白っぽかったと思うけど、三年になったらミディアムのウルフカットが赤とピンクに変わっていた。他にも、青や紫だったこともある。

背の高い佐久間さんの制服は、スカートの時もあればスラックスの時もあって、ネクタイやリボンはつけていない。

羽織るものはパーカーが多い印象だけど、髪の色に反してそれはモノトーンが多い気がする。

一度も話をしたことがないのに、よく知っているなと自分でも思うけれど、意識していなくても自然と目に映る。それが、佐久間楓だ。

でも知っているのは見た目だけで、佐久間さんの性格とかは当然ながら何も知らない。

ただ近寄りがたい独特な雰囲気があるからか、みんなあまり話しかけることはなくて、クラスでは少し浮いた存在だ。

なんとなくのイメージで、私は勝手に怖そうだなと思っていたけど、実際は違うのかな。一部の女子からは、憧れの存在として映っているようだし。

握ってくれた手の温かさと、少しだけほほ笑んでくれた佐久間さんの顔を浮かべながら、そんなふうに思った。

どちらにしても、私とは全然違うタイプの人だということに変わりはない。

思わぬ出来事に、ちょっとだけ乱れた気持ちを落ち着かせた私は、二組の前に立った。

そして、待ってくれているふたりを驚かせないように、ドアをそっと開ける。

「ごめん、遅くなっ――」

けれど、教室は不気味なくらい静まり返っていて、彩香も由梨もそこにはいない。

視線を動かすと、私の机の上に紙が置いてあるのが見えた。

重しにしていた消しゴムをずらして、小さなメモ用紙を手に取る。

【時間かかるみたいだから、先に帰るね。ごめんね。また今度一緒に帰ろう】

その言葉を目にした瞬間、私は唇を強く()んだ。

『常に時間を見て行動するようにしなさい』

お母さんから何度もそう言われてきたのに、集中すると途端にまわりが見えなくなって、ひとつのことしか考えられなくなる。

もちろんサボろうと思っていたわけでも、やりたくなかったわけでもない。真剣に考えながら一生懸命やっていた。

それなのに、なんで……みんなと同じように終わらせることができないんだろう。

メモ用紙を鞄の中に入れた私は、うつむきながら教室を出た。

黒いモヤが広がり、あたり前のように私の心を包んでいく。

友だちと一緒に帰れなかった。たったそれだけのことで孤独を感じてしまうのは、初めてじゃないからだ。こういうことが、小学生の頃から今まで何度もある。

自分だけ準備が遅くて友だちと一緒に帰れない。みんなはとっくに終わっていることでも、私は時間がかかる。給食を食べ終わるのもだいたい最後。

私が話していると、途中で友だちが(しび)れを切らして『だから、美羽が言いたいのは○○〇っていうことでしょ?』と、私の言いたいことを代弁する。私の喋りが下手で、会話が弾まないからだ。

たとえそれが、私の言いたかったことではないとしても、私は笑って(うなず)くことしかできない。『そうじゃないよ』なんて、言えない。

なんで私は、こうなのだろう。どうしてみんなみたいにテキパキ行動できないのか、言いたいことがうまくスラスラと言えないのか。

考えたって答えは出なくて、悩めば悩むほど、自分がどんどん嫌いになっていく……。

さっき打ったお尻の痛みはまったく感じないのに、心はすごく痛い。

痛くて痛くて、泣きそうになる。

涙を堪えながら急いで学校を出た私は、バス停に着いてすぐイヤホンを耳につけた。

そしてスマホを操作し、大好きな曲を流す。

一瞬だけ目を閉じると、心地よいイントロが耳に届いた。

春風みたいな優しい声と歌詞が私を包み込み、心の痛みが少しずつ薄れていく。
〝優しく美しい羽は、誰でもない、キミだけのものだから〟
                    *


「ただいま」

「お帰り美羽。お母さんに出すプリントあったらすぐ出して、宿題あるならやって、もうすぐテストだから勉強もしなさいね」

学校から帰ると、お母さんが矢継ぎ早にそう言ってきた。しかも、毎日ほとんど同じような言葉を言われる。

「うん、分かった」

だけどそんな私も、毎日こうして同じ言葉を返す。

――しんどいな……。

ため息をつきながら階段を上って、自分の部屋に入った。

制服を脱いで部屋着に着替え、ベッドの上に腰を下ろしてひと息ついてから、鞄を開く。そこから、好きなアニメキャラが描かれているクリアファイルを取り出した。

これは、学校で配られたプリント類を入れておくためのものだ。こうしておけば失くすことはないし、鞄の奥底に放置して提出を忘れるなんてこともない。

ファイル自体を見るのを忘れてしまう時もあるけれど、それは本当にごくたまにだ。

「宿題は数学のプリント一枚だけだからすぐに終わるし、他にやらなきゃいけないこともないよね。あ、でもこれがあった……」

中身を確認しながらひとりごとを呟いていた私は、ファイルから一枚のプリントを取り出した。

【第一回進路調査票】

それを勉強机に広げ、ため息をつく。

何を書けばいいのか分からなくて、とりあえず【三年二組・(はや)(さか)美羽】と、名前だけ記入したプリントを持って部屋を出た。

三年生になってまだ一ヶ月ちょっとなのに希望の進路を書けと言われても、正直分からない。なんて(のん)()なことを言っているのは私だけで、みんなはもう決めているんだろうな。

今日もクラスメイトが進路のことを話していたけれど、進学を希望している人はとっくに受験対策の勉強をはじめているだろうし、専門的なことを学びたい人も、すでに行きたい学校を絞っているのかも。

だとしたら、やっぱり焦る。

「お母さん、ちょっといい?」

一階に下りた私は、リビングの横の和室で洗濯物をたたんでいるお母さんに、声をかけた。

「何?」

「これ、配られたんだけど」

プリントを渡すと、お母さんは手を止めて目を通す。

「美羽はどうするか考えてるの?」

聞かれた私は、お母さんから目を逸らして黙り込んだ。

特別やりたいことはないし、なりたい職業とかもまだはっきり分からないから、専門学校よりも大学に行って学びながら考えるのが一番いいのかもしれない。だけど、そうなるとお金もかかるし……。

「なんでもいいんだよ? 大学行きたいとか専門学校がいいとか、どこって決めなくてもなんとなくでいいし。あとは、例えばちょっと興味あることとか、将来はこんな仕事したいなとか、そういうのはないの?」

考えていると、お母さんは私が答えを返す前に、必ず口を挟んでくる。

そうすると、次に聞かれたことに対してどう答えればいいのかを、もう一度最初から考え直さなきゃいけない。それでまた、私は黙り込んでしまう。

「分からないならとりあえず進学って書いておけば? お母さんも時間のある時に大学とか調べておいてあげるから」

分からないわけでも困っているわけでもなくて、ただ考えていただけだよ。

頭ではそう思っているのに、口に出しても意味がないと考えてしまう私は、「うん」と頷いた。

「宿題はあるの?」

部屋に戻ろうとした私に、お母さんが聞いてきた。一度背を向けた体を、もう一度お母さんのほうに戻す。

「うん、プリントだけ」

「他には?」

「ないよ」

「本当に? 授業で間に合わなかったところとかない? 忘れないうちにやっておかないと」

――だから、ないって言ったじゃん!

心でそう叫びながら、私は「大丈夫だよ」と言って、口元にぎこちない笑みを浮かべた。

「ならいいけど、ちゃんと確認しなさいね。あと、宿題終わったら下りてきてよ」

「うん、分かった……」

お母さんの言うこと全部に頷いて、私はようやく自分の部屋に戻る。何も言わずに頷くことが一番早いし、そうすれば、お母さんを困らせることもない。

プリントを机の上に置いて、私はそのままベッドに横になった。また、自然とため息が出る。

お母さんは私のやることにいちいち口を出してくるけれど、それは私を心配しているからだということはじゅうぶん分かっている。

勉強しろとガミガミ言うわけでもなく、やりたくもない習い事をたくさんやらせるわけでも、いい成績を求められたり、過剰に期待されたりしているわけでもない。

いわゆる教育ママ的なことではなくて、ただ少し……だいぶ、心配性なだけだ。

そうなってしまったのは多分、私の性格のせいだと思う。

三つ上の姉、()()は言いたいことをはっきり言えて、中学でも高校でもよく学級委員を務めていた。運動神経もよくて、クラスでも目立つタイプだった。
 
高校時代の姉の写真を見ると中心にいることが多いし、人気者だったのがよく分かる。

私は、そんな明朗快活な姉とは正反対だ。

小さい頃から話すのが苦手で、分からないことがあっても先生に聞くことができず、言いたいことがうまく言えない子だった。