紙飛行機と二週間の恋

 そんな莉子は東京の国公立大学に合格する事を目標としていた。万が一不合格ならば地元の私立大学に進学する。そう聞いた僕はかなりの衝撃を受けた。


(莉子が居なくなる)


 高校生と大学生の遠距離恋愛が成り立つのだろうか?2人が離れ離れになる事に不安と焦りを感じた。大学入試センター試験に向け脇目も振らず勉学に励む莉子の後ろ姿に切なさを感じる事もあった。



 合格なら東京の大学に進学する
 不合格なら地元の大学に進学する



(不合格になりますように!)


 僕は莉子が不合格になりますようにと願掛けをしてこっ酷く叱られた。


「私の幸せと不幸せどっちが大切なの!」

「僕は莉子と2人で幸せになりたい」


 16歳の幼かった僕はこのまま大人になり莉子と結婚するものだと信じて疑わなかった。そして僕は図書館で勉強する莉子の隣で当たりが分かっているあみだくじを作った。


「莉子、見て」

「なに」

「何が当たると思う?」

「あみだくじ作っていたの、暇ね」

「暇だもん」

「世界史、赤点だったんでしょう」

「赤点じゃないよ」


 僕は莉子の目の前であみだくじの線をマーカーでなぞった。


「じゃーーん」

「な、なにそれ!」

「お願いします!」


 大当たりは蔵之介にキスをする、だった。


「ね!お願い!」

「そ、そんな」

「お願い!」

「あみだくじって、そんなの」

「お願い!」

「わかった」

「良いの!?」

「じゃあ夏の試合の先発メンバーに選ばれたら!」


 莉子の顔は真っ赤だった。


「やった!」


 莉子が図書館で受験勉強に勤しむ間、僕は部活動に励んだ。根本的に素質があったのかボール(さば)きの上達も早く脚力も強かった。


「メンバーを発表する、1年、雨月!」

「はい!」


 僕はオフェンス(攻撃)の先発メンバーに選ばれた。







8月1日 

 夕暮れは凪の海を思わせた。生温い風の騒めく人混み。僕と莉子は花火大会会場近くのコンビニエンスストアで待ち合わせをした。




ピピーピピピー




 花火大会になると川沿いの道路は封鎖される。警察官が赤い灯火を左右に振って自動車を迂回させ歩行者に向かいホイッスルを吹いていた。帽子を目深に被った僕は腕時計を見た。待ち合わせの時間は過ぎていた。


(・・・遅いな)


 これまでのデートでは僕がいつも遅刻した。


(どうしたんだろう)


 莉子はそんな僕に小言ひとつ言わず文庫本を読んで待っていた。


(まさか事故とか)


 僕は生まれて初めて人を待つ不安を体感した。


(今度から遅刻はしない!)


 莉子に連絡を入れようと携帯電話を取り出したその時、僕は名前を呼ばれて振り向いた。


「蔵之介」


 莉子は下駄の音と一緒に横断歩道を渡って来た。紺色の浴衣には黄色い花が咲き金魚の尾鰭(おひれ)みたいな赤い帯が結ばれていた。僕はその姿に見惚れた。


「遅くなってごめんね」

「あ、うん」

「お母さんに着付けして貰ってたら時間が掛かっちゃった」

「あ、うん」

「・・・変、かな」


 莉子は着慣れない浴衣の裾を気遣いながら髪に手を伸ばした。黄色い花のイヤリングが揺れていた。浴衣の柄と同じ花だった。


「それ、かわいいね。向日葵?」

「マリーゴールドだよ」

「マリーゴールド、あっ、あの工芸茶の花だ!」

「そう、大当たり」


 僕と莉子は橋に向かう緩やかな坂を歩き始めた。カラコロと耳に響く下駄の音が僕の鼓動を速くした。


「莉子、気をつけて」

「うん」


 下駄を履いた莉子の足元はおぼつかなかった。僕はさり気なく手のひらを伸ばし人差し指を絡めて河川敷へと降りた。




ドーーーーン ぱらぱらぱらぱら




 色鮮やかな光の華が夜空で弧を描き、腹に響く音が僕と莉子の距離を縮めた。堤防に腰掛けた僕には莉子しか見えなかった。


「莉子」


 僕の気配を察した莉子は緊張していた。ゆっくりと顔を近付けたところで僕の帽子のつばが莉子の額に当たった。


「痛っ」

「ごめん!」


 僕は慌てて帽子を取ると上半身を前のめりにしてぽってりとした唇に口付けた。一瞬触れて離れた唇、僕たちは恥ずかしくて下を向いた。



(あ)



 莉子の下駄の鼻緒は赤色で足の爪にも赤いフットネイルが塗られていた。


「莉子、好き」

「うん」


 僕たちはもう一度口付けた。








 2人で過ごした夏は眩しかった。制服を着た僕は部活動に行く前に莉子の家に立ち寄った。


「蔵之介!」


 8:00になると眩しい笑顔が細い路地を駆けて来た。


「お待たせ!」

「おはよう」

「おはよう」


 莉子は連日図書館に通い受験勉強に励んでいた。


「毎日大変だね」

「蔵之介も3年生になったら同じよ、覚悟しなさい!」


 莉子は厳しい顔で僕に向き直った。


「僕はスポーツ特待生で私立大学に行くって決めたんだ」

「もう進路を決めたの!?」

「うん!顧問の先生が勧めてくれたんだ」

「すごいじゃない!」

「うん!」


 図書館へ向かうこの僅かな距離と時間が僕と莉子を繋いでいた。レンガ畳みに降り注ぐ蝉時雨(せみしぐれ)、白い陽炎(かげろう)、僕は自転車を引いてトートバックを肩に担いだ莉子の後ろを歩いた。


「莉子、今日もそんなに勉強するの」

「うん、この問題集解いてしまいたいから」

「莉子は凄いな」

「蔵之介はサッカーが上手でしょ、練習試合も勝ったんだよね」

「うん!2点ゴールしたよ!」

「凄いね!」

「ご褒美わんわん」

「調子に乗らないで!」


 莉子は真剣な顔で僕を睨みつけたが直ぐに仕方が無いなぁという顔で唇を近付けた。僕は帽子を脱いで2人の口元を隠した。


「莉子、好き」

「うん」


「じゃあ部活行くね!」

「自転車気を付けてね!」


 莉子が大きく手を振った。


(目指せ特待生!!)


 僕は一日も早く莉子に追いついて肩を並べて歩きたいと思った。そしてどこまでも高い夏空の空気を大きく吸い込んだ。






8月8日


 その日は雨が激しく降っていた。サッカーの練習試合は明後日に持ち越され僕は慌ててバスに飛び乗った。


(莉子、いるかな)


 停留所で降りた紺色の傘は小走りで図書館へと向かった。


(あぁ、もうびしょ濡れだよ)


 傘の雨粒を払い図書館に入ると濡れた肩がクーラーの風で冷えて肌寒かった。


(えーと)


 見回すといつもの席に莉子の後ろ頭を見付けた。


(莉子、いた!)


 そっと近付き手を伸ばして目隠しをした。


「だーれだ」

「ひやっ!」


 莉子は素っ頓狂な声で振り向き目隠しをした相手を確認すると「し・ず・か・に!」と唇の前で人差し指を立てて見せた。周囲からの痛い視線に晒された僕は莉子の隣に静かに座った。すると莉子がノートの端で筆談を始めた。




部活どうしたの


       雨で休み


そうなんだ


       うん



 莉子は水色のワンピースを着ていた。生地は真新しくマリーゴールドの花がプリントされふんわりとした半袖にはフリルが施されていた。僕はいつもと違う雰囲気の莉子にときめいた。




可愛いワンピースだね


          うん


初めて見た

          
          誕生日のプレゼントなの




「えええっ!」



 僕は大声で椅子から立ち上がった。周囲の冷たい視線に慌てた莉子が制服のズボンを引っ張り座るように促したが僕は愕然と立ち尽くした。


「莉子、莉子の誕生日っていつだったの?」

「7月30日」

「嘘、もう1週間も前じゃない!」

「どうしたの、静かにして座って」


 僕は気を取り直して椅子に座り莉子の顔を覗き込んだ。そしてノートにシャープペンシルで書き殴った。



どうして言ってくれなかったの!



 莉子は意味が分からないという表情で僕を凝視した。




僕たち付き合っているんだよね!


               そうだけど


誕生日は教えてよ!

         
              ごめん でも聞かれなかったから



 僕は日々の楽しさに浮かれ彼女に誕生日を尋ねる事を失念していた。莉子の性格を考えれば自分から誕生日を話す事は無かった。


「ごめん」

「どうしたの」

「今日はもう帰る」

「帰っちゃうの」

「用事を思い出したんだ」


 僕は雨の中一目散に家に帰り母親の背中に声を掛けた。


「母さん!」

「あら、部活動はどうしたの」

「休み!それより婆ちゃんから貰ったお年玉あるよね!?」

「銀行に預けてあるけど如何したの?」


 僕は雨で濡れた服を脱ぎ捨てTシャツに袖を通しジーンズに片脚を入れ四苦八苦しながら声を大にした。


「買いたい物があるんだ!キャッシュカード頂戴!」

「なに、いきなり」

「早く!お店が閉まっちゃう!」


 僕の剣幕に慌てた母親は茶箪笥の引き出しからキャッシュカードを取り出した。


「あんたゲーム買ったからもう10,000円くらいしか入ってないわよ」

「10,000円しかないの!?」

「なに言ってるの!10,000円全部使っちゃ駄目よ!」

「分かった!」


 僕は正月にゲーム機器を購入し携帯ゲームのアプリに課金をした中学3年生の自分を恨めしく思った。ただその時はまだ莉子と出会っていなかったので仕方のない事だが貯金は大事だと思った。


「あー!失敗した!」


 紺色の傘は街へと飛び出した。


 



 僕は婆ちゃんから貰ったお年玉で銀の指輪を買った。指輪のモチーフは莉子の好きなマリーゴールドで一目で気に入った僕は「これ下さい!」とショーケースを指差していた。


(いつ渡そうかな)


 勉強に励む莉子の横顔を伺い見ながら僕は指輪を渡すに相応しい場面(シーン)が無いかとGoogleで検索した。


(・・・・流れ星)


 恋占いのページには流れ星を見ながら告白すると恋が実ると書いてあった。将来、莉子と結婚をしたかった僕はその宇宙の(ちり)をひとつでも多く見る良い手立てが無いかと調べた。すると流星群の夜は1時間に10個以上の流れ星を見る事が出来るという。


(獅子座流星群、真夜中かぁ)


 高校生が深夜に出歩く事を親が許す筈が無かった。


(内緒で出られないかな)


 僕は獅子座流星群を眺めながら莉子の左手の薬指にマリーゴールドの指輪をはめたいと思った。







 やがて莉子の夏期講習が始まり会えない日が続いた。僕は莉子の顔見たさに親が寝静まった頃を見計らって家を抜け出し6km離れた莉子の家まで自転車のペダルを漕いだ。もし親に見つかっても「脚力を強くするためのトレーニングだ」そう言い訳しようと考えていた。莉子の部屋は大通りから少し入った路地に面していて午前0時になっても明かりが点いていた。


(顔が見たいな)


 莉子は勉強に集中したいからと言い23:00を過ぎると携帯電話の電源を切ってしまう。僕は顔を見る為の策を練った。声を出して莉子の名前を呼べば隣近所の迷惑になる、それよりも先に莉子の親に気付かれるだろう。


(・・小石)


 小石を窓ガラスに投げて当てようとも考えたが力加減を間違えれば窓ガラスが割れてしまうかもしれない。飛ばす事が出来て先が尖っている軽い物。紙飛行機だと思った。


(紙飛行機、紙飛行機を飛ばしてみよう)


 僕は紙飛行機を幾つも折った。そして莉子へのメッセージを書いた。それには言葉に出来ない思いを書いた。


莉子 大好き
莉子 頑張れ
莉子 合格
莉子 愛してる


 そして僕の計画は見事に成功した。僕が折った紙飛行機は莉子の部屋の窓を叩きベランダへと落ちた。午前0時、莉子は訝しげな顔で窓を開けた。


あ け て み て


 僕がそれを開けて見てと身振り手振りで伝えると紙飛行機を一機、二機と開いた莉子は笑顔になって頭の上で大きな丸を作った。それから僕は午前0時になると莉子の窓辺へ紙飛行機を飛ばした。








8月22日 


 それは獅子座流星群が降り注ぐ極大(きょくだい)の日を迎えていた。月は細い三日月で夜空は暗く星が良く見えた。


(今夜、会えないかな)


 どうしても今夜莉子に指輪を渡したかった。


莉子 会いたい


 いつもの様に紙飛行機を飛ばした。莉子はベランダに落ちたそれを開くと暫く考え込み部屋の中へと姿を消した。僕が不思議に思い眺めていると悪戯めいた微笑みの莉子の腕が大きく振りかぶった。


(・・・・・?)


 僕に向かって下降して来る莉子の紙飛行機は不恰好で右に左にとよろめきながら路地に不時着した。


蔵之介 会いたい


 莉子も同じ気持ちだった。僕は(おいでよ)と大きく手招きをして見せたが莉子はバツ印を作って口元を尖らせた。僕が泣き真似をして見せるともう一機の紙飛行機が飛んで来た。今度は上手く折れていた。


後で降りて行く 30分待てる?


 僕は喜びを隠せず飛び跳ね頭の上で大きな丸を作った。


(莉子に会える!)


 30分が1時間にも2時間にも思えた。僕は画像フォルダをスクロールし莉子と一緒に撮った写真を眺めながら幸せを噛み締めた。



キィ パタン



 暗闇で扉が微かな音を立てて閉まった。莉子が家を抜け出す事に成功した。


(・・・・落ち着け、落ち着け)


 僕はこれから彼女に一世一代の告白をして指輪を渡すんだ。


「ーーー蔵之介!」

「ーーー莉子!」


 小さな声で互いを呼び合い一目散に大通りへと向かって走った。静かな街にチェーンリングが回る音が響いた。大通りの商店街に人の気配はなく車が一台通り過ぎただけだった。


「会いたかった」

「うん」


 僕は莉子を力強く抱き締めて口付けた。


「く、苦しいよ」

「ごめん」


 2人でいると話題は尽きず夜が明けなければ良いのにと思った。


「莉子、星を見にこうよ!」

「こんな明るい所じゃ見えないよ」

「獅子座流星群、流れ星が見えるよ!」


 僕は莉子を自転車のキャリアに乗せてペダルを()いだ。坂を登りきった夜景は今も忘れない。眼下に広がる街は暗い海、街灯は海に漂うウミホタルに見えた。


「どこまで行くの?」


 莉子が不安そうに訊ねた。行き先は明かりの少ない港で自転車で行けば近いよと僕は笑った。国道の高架橋を潜った一本道を時速18kmで疾走する自転車は夏の草の匂いを連れて市街地を抜けた。


「いーーっぽん、にーーーほん、さーんぼん」

「なに、なに数えてるの」

「電柱、電柱の数を数えてるの」


 僕の背中に掴まった莉子は急に電柱の数を数え始めた。


「なんで?」

「電柱が1本増えると家から遠くなるでしょ」

「うん」

「その分2人だけの秘密が増えているみたいでドキドキする」

「2人だけの秘密」

「ドキドキしない?」

「うん、なんだか僕もドキドキして来ちゃった」


 僕は電柱の数よりも財布の中の指輪を渡す事のほうがドキドキした。


「あ、莉子!警察!」


 目前にパトカーが停まった小さな交番が見えた。莉子は慌てて自転車のキャリアから降り、僕の隣を何事も無かったかの様な顔をして歩いた。


「お巡りさんが居るかと思った」

「居なかったね」

「居なかった、良かった」

「もう着く?」

「もうそこまで、もう少し行ったら見えるよ」


 莉子を乗せた自転車は煌々(こうこう)と明るいコンビニエンスストアの前を駆け抜けた。


「あのバスターミナルを曲がったら港だよ」


 ペダルが加速しチェーンリングの音が激しくなる。黄色点滅信号の交差点の向こうにバスターミナルがあった。
一瞬の出来事だった。


「莉子!」


 僕の目の端に眩しいライトが飛び込んだ。自転車のグリップを力一杯握りブレーキレバーを引いた。胴にしがみついていた莉子の腕が離れキャリアが軽くなった。前輪が横に滑るのを感じ次の瞬間(いびつ)になった自転車のホイールが宙に舞い僕は全身に強い衝撃と激しい痛みを感じた。









 深夜0時、窓で音がした。恐る恐るカーテンを開けると路地に自転車に跨った蔵之介が満面の笑みで手を振っていた。そして下を見てというように指を差した。


「・・・・暇なのね」


 ベランダには大量の紙飛行機が落ちていた。


な か を み て


 声にならない声。私は紙飛行機を破かないように広げて見た。


莉子 大好き
莉子 頑張れ
莉子 合格


 蔵之介は「大学受験、不合格になれば良いのに」と私が東京の大学に進学する事を快く思っていなかった。その気持ちを我慢して応援してくれた事に目頭が熱くなった。夏期講習で会えない日は深夜0時になると飛行機が窓を叩いた。


莉子 会いたい


 私もノートを破って紙飛行機を作った。


蔵之介 会いたい


 すると蔵之介は手招きをし私が腕でバツ印を作ると泣き真似をして見せた。


(会いたい)


 時計を見ると午前0時30分、家族が寝静まる時間まで後少し時間が必要だった。私はもう一度不恰好な飛行機を飛ばした。


後で降りて行く 30分待てる?


 蔵之介は飛び跳ねながら大きな丸を作った。


(・・・・可愛い)


 私は暗がりで目立たない黒いジーンズとTシャツを着た。髪型を整え薄く色付くリップスティックを塗った。



ん、ぱっ



 そして親に気付かれない様にベッドの上にクッションを並べタオルケットを掛けた。膨らんだシルエットは私はここで寝ていますという風に見えた。部屋の扉を静かに閉め、廊下は音を立てない様にすり足で玄関に向かった。緊張で口の中が渇き心臓が跳ねた。スニーカーを持って台所の勝手口のドアノブに手を掛けた。


カチャン


 息をしていなかった事に気が付き深呼吸した。慌ててスニーカーを履き路地から顔を出すとコンクリートの壁に寄り掛かり携帯電話を(いじ)る蔵之介がいた。


ーーー蔵之介!
ーーー莉子!


 2人は一目散で大通りへと向かった。


「会いたかった」

「うん」


 蔵之介は息が止まるほど強く抱き締め私に口付けた。嬉しかった。


「莉子、星を見にこうよ!」

「こんな明るい所じゃ見えないよ」

「獅子座流星群、流れ星が見えるよ!」


 蔵之介は私を自転車のキャリアに乗せてペダルを()いだ。坂を登りきった夜景は今も忘れない。眼下に広がる街は暗い海、街灯は漂うウミホタルに見えた。


「どこまで行くの?」


 行き先は明かりの少ない港で自転車で行けば近いよと蔵之介は無邪気に笑った。肌に湿った風が纏わりつき時速18kmの景色が流れて消えた。郊外へと向かう一本道、ペダルは颯の様に駆け抜けた。


「いーーっぽん、にーーーほん」

「なに、なに数えてるの」

「電柱、電柱の数を数えてるの」


 私は蔵之介の鼓動を感じながら通り過ぎる電柱の数を数えた。


「電柱の数の分だけ家から遠くなるでしょ?」

「うん」

「その分、2人だけの秘密が増えているみたいでドキドキする」


 蔵之介の鼓動が急に速くなった。


「あ、ほら交番がある!」


 白と黒のパトカーが駐車した交番の赤色灯が見えた。交通違反で注意されたら未成年だと知られてしまうと思った私は焦ってキャリアから降りた。

 
「あーーびっくりしたね」

「ドキドキした」


 コンビニエンスストアを通り過ぎたところで蔵之介が「あのバスターミナルを曲がったら港だよ」と黄色点滅信号の交差点を指差し自転車のスピードを加速させた。その時だった。


「ーーー莉子!」


 私の名前を叫んだ蔵之介の横顔が眩しいライトで照らされ自転車が急に停まった。私は蔵之介の背中へとつんのめり瞬間キャリアから放り出された。


「ーーーー!」


 背中と後頭部に衝撃を感じ驚きで目を見開いた私は不思議な姿勢でぴくりとも動かない蔵之介を認めた。あちらこちらに転がるスニーカー、ひしゃげた自転車のホイール。そして私の額から生温いものが流れ慌てふためいたおじさんがどこかに電話をしていた。


(あれは蔵之介?)


 回る赤いライト、白い救急車、蔵之介は複数人の救急隊員に抱えられストレッチャーに横たわった。


(あれは?)


 ダラリと力無くぶら下がった腕、そしてハッチバックが閉まった。














ピッピッピッピッ





 閉ざされた世界に光が眩しかった。目やにが貼り付いた(まぶた)は思いの外重く開くまで少々時間が必要だった。メリメリとまつ毛が剥がれ黒い世界に一筋の光が差し込むと真っ先に蛍光灯の明かりが視界に飛び込んだ。眼球を動かすと涙を流す母親の顔と目を真っ赤に泣き腫らした父親の顔が見えた。


「・・・・かあ・・さ」


 母親が枕元のナースコールのボタンを押して声を大にした。


「どうされましたか」

「おき、起きました!目を覚ましました!」

「分かりました」

「せ、先生、先生をお願いします!」


 先生・・・・高等学校の担任を呼んだのだろうか口煩くて面倒だなと思っていると目の前に現れた男性は白衣を着て胸にネームタグをぶら下げていた。(まぶた)が上下に開かれ目の中が黄色く光った。ペンライトで瞳孔の動きを確認したのだと思う。


「僕」

「雨月さん、あなたは交通事故に遭いました」

「交通事故」

「はい、ここは病院です。雨月さんは8日間意識不明の状態でした」


 白衣の医者は両親に向き直ると今後の治療方法について説明を始めた。


(明日、検査を受けるのか)


 僕は明日MRI検査とCTスキャンの検査を受けるらしい。看護師が「ブドウ糖のパックです、取り替えますね」と左腕に刺さった点滴の針に管を差し込んでいた。点滴の雫が腕に飛びその冷たさを右手で払おうと腕を上げた瞬間違和感を感じた。


(・・・・・重い)


 右腕は鉛を付けた様に重く持ち上がらなかった。それは掛けられた布団の重さかと左腕を動かしてみたがそれはいとも簡単に容易く持ち上げる事が出来た。右脚を動かそうとしたが動かない。


(左脚も・・・・重い)


 どうやら両脚はギプスで固定され包帯が巻かれていた。鼻にはビニールの管が差し込まれ呼吸がしにくかった。


「先生、息が出来ません」

「もう問題なさそうだね。じゃあ外そうか」


 看護師がその管を引き抜く時、咽頭に痛みを感じ吐き気がした。


「うえっ」

「はい、ごめんねもうちょっと」

「うえっ」

「はい良いよー大丈夫?」

「は、はい」

「痛かったねぇ、頑張ったね」


 看護師は優しく微笑んだ。


(痛い、痛い?)


 そこでようやく事の重大さに気が付いた。


(そうだ、僕は自転車に乗っていて後ろには)


 僕は母親に向かって叫んだ。


「莉子は、莉子はどうなったの!」


 父親の表情は暗く眉間にはシワが寄っていた。僕はまさかと思い悲痛な声で莉子の名前を呼んだ。


「莉子は!」


 母親は目を逸らした。


「莉子はどうなったの!」

「蔵之介、市原さんは亡くなったわ」

「・・・え」


 僕は母親の顔を凝視した。


「お気の毒に」

「・・・亡くなった?」


 母親の言葉が理解出来なかった。


「嘘」


 次第に目頭が熱くなった。


「嘘だ!」

「嘘じゃないわ」

「嘘だ!!」

「市原さんは亡くなったのよ!」

「嘘だ!!!」

「いい加減にしなさい!」


 普段温厚な父親が声を荒げた。


「蔵之介、今は自分の事だけ考えなさい」

「・・・嘘だ」

「市原さんは亡くなったのよ」


 莉子が死んだ。目尻からとめどなく涙が溢れたが腕を動かす事すら出来ない僕は涙や鼻水を母親に拭いてもらうしかなかった。僕の身体は鉛で出来た人形の様に重く身動きが取れなかった。脚のギプスは下半身の自由を奪い、頸椎カラーと呼ばれる首のコルセットは視野の自由を奪った。排尿は尿道にカテーテルを差し込みパッドに溜め、大人用のおむつに排便した。耐え難い現実と莉子のいない世界で悲嘆に暮れても空腹は訪れ酷く不味い経口栄養剤で腹を満たした。


「蔵之介くん動かすよ、痛いかもしれないけど我慢してね」

「・・・はい」

「はい、せーのっ!」

「痛っ!」


 検査室への移動は看護師が5人がかりで僕を寝台車に乗せなければならなかった。そして皆、額に汗を浮かべていた。誰かの介助が無ければ今の僕にはなにも出来なかった。


(いつまでこんな生活が続くんだろう)


 僕は薄暗いMRI検察室に運び込まれた。


「雨月さん、気分が悪くなったらボタンを押して下さい」

「はい」

「うるさいのでヘッドフォンを付けますか」

「このままで良いです」


 これ以上なにかで身体を締め付けたくなかった。窮屈な機械に押し込まれた僕の身体は頭の天辺から足の爪先まで何十分も掛けて輪切りにされた。確かにMRI検査は工事現場の中に放り込まれたような騒音を伴った。けれどようやくひとりになれた開放感で静かに目を(つむ)った。


(・・・・莉子)


 あの夜、僕が莉子を誘い出さなければ莉子は生きていた。
 あの夜、星を見に行こうなんて言い出さなければ莉子は生きていた。
 あの夜、僕が自転車のスピードを出さなければ莉子は生きていた。


 交差点の信号機は黄色で点滅していた。赤色点滅信号の一時停止を無視して交差点に進入した新聞配達のバイクが僕と莉子を乗せた自転車を()ね飛ばした。


「そうだったんだ」


 父親が僕に8月23日の朝刊新聞の記事を見せてくれた。


「大丈夫ですか、気分はいかがですか」


 思わず涙を流した僕の異変に気付いたMRI操作技師がマイク越しに声を掛けて来た。


「だ、大丈夫です」

「中止しますか」

「続けて下さい」


 僕は身動きの取れない薄暗闇の中であの夜を何度も後悔し莉子に懺悔(ざんげ)した。


(・・・・あ、指輪は)


 その時僕は財布に入れていたマリーゴールドの指輪の事を思い出した。


(退院したら莉子のお墓に持っていこう)


 そしてまた涙が溢れた。

 ほどなくして僕はICUから一般病棟の個室のベッドへと移された。


(体育祭も終わったよね)


 夏の気配はとうに過ぎ(かえで)の葉が黄色く色付き始めた。僕はテレビを見る気力もなく窓ガラスをただぼんやりと眺める日が続いた。


(莉子)


 晴れの日はまだ良かった。曇天(どんてん)や雨降りの薄暗いベッドに横たわっていると莉子のいない悲しさとあの夜への後悔でとめどなく涙が溢れ頬を伝った。その頃には自分で涙を拭い鼻をかむ事が出来たのでゴミ箱はあっという間に濡れたティッシュペーパーで山盛りになった。母親はそれを何も言わずに片付けた。


(もう、僕も死にたい)


 泣いて泣いて泣き暮れて身体が溶けて消えてしまえば良いと思った。出来る事なら明日の朝、目が醒めなければ良いと思った。それでも朝日は昇りカーテンから柔らかな日差しが差し込んだ。病院の屋上から飛び降りたかった。しかしながらベッドの上で身動きひとつ出来ない僕には叶わぬ願いだった。




 


 莉子を亡くし悲嘆にくれる僕に追い討ちを掛ける現実が待っていた。


「そろそろ右脚のギプスを外しましょう」

「外せるんですね」

「はい」


 ギプスから解放された右脚の皮膚はふやけ筋肉も落ち頼りないものに変わり果てていた。


(仕方ないよね)


 僕は右膝を曲げようと腰を浮かした。


(・・あれ?)


 ところが右脚はびくともせず足首を回す事も指を動かす事も出来なかった。


「先生、脚が動きません」


 母親は泣き崩れ父親は(うつむ)いた。


「蔵之介くん、よく聞いて下さい」

「はい」

「蔵之介くんは交通事故に遭った時脊髄に損傷を受けました」

「脊髄に損傷」


 医師が説明するであろう内容に大凡(おおよそ)の見当が付き僕は唇を噛んだ。


「脊髄損傷、蔵之介くんの右半身は麻痺を起こした状態です」

「治るんですよね」

「右脚は、難しいかもしれません」

「治るんですよね!」

「リハビリで出来るだけの事をしましょう」

「治るんですよね!」

「今はそうとしか言いようがありません」


 医師が病室から出て行くと僕の目からポロポロと涙が零れ落ちた。何度動かそうとしても力が入るのは左半身だけで右半身は動かなかった。


「治るんだよね?」



 数日後、1年A組の担任が見舞いの花束とクラスメートのメッセージが(つづ)られた色紙を持って見舞いに来た。


「先生、みんな元気ですか」

「元気だよ、雨月くんが帰って来るのを待っているよ」

「そうですか」


 その背後には全校朝礼で顔を見ただけの校長先生と父親が神妙な面持ちで立っていた。父親の口がゆっくりと開いた。


「蔵之介、退学が決まったよ」

「え、退学?」


 校長先生が頭を下げた。


「雨月蔵之介くん」

「はい」


 担任の顔が歪んで見えた。


「ご両親と相談した結果、通信制高校に入学してもらう事になりました」

「通信制高校」

「月に二回、スクーリング、面接に来て頂きます」

「じゃあ僕はみんなといられないんですか!」

「病院かご自宅で学んで頂く事になります」


 (こら)えていた涙が溢れて来た。


「体育祭は!修学旅行は!文化祭は!」


 校長先生は下を向いたままだった。


「卒業式は!」


 通信制高校も三年間学ばなければ卒業出来ないと言った。僕はクラスメートと一緒に進級する事が出来ない。修学旅行も一緒に行く事が出来ない。例え卒業式に参加出来たとしてもみんなを見送る在校生の席に座る。


「・・・」


 僕の右半身は動かない。


(もう、大学の特待生なんて無理だよね)


 動かない右脚でサッカーボールを蹴る事など夢のまた夢だ。両親に当たり散らし悪態を吐いたがなんの解決にもならなかった。悔しさでベッドを何度も叩き枕を床に投げ付けた。


蔵之介 好き
蔵之介 愛してる


 僕は莉子からの紙飛行機を開いては挫けそうになる気持ちを払拭した。







1月



 新聞で大学センター試験の記事を読みテレビの報道番組で大学第1次試験が始まった事を知った。


(・・莉子も生きていたら試験を受けてたんだよね)


 ギプスを外し程なくして僕は高等学校を退学し通信制高校の入学式に向けリハビリテーションを始めた。日中はリハビリセンターで治療訓練に励み気も紛れたが夜になると莉子を連れ出した後悔に涙を流した。


「莉子のお墓に行きたい」

「馬鹿言わないで頂戴(ちょうだい)!」

「なんで駄目なの!」

「お嬢さんを亡くしたのよ!あちらのご両親の気持ちも考えなさい!」

「・・・・」


 なにも言い返すことが出来なかった。


「母さん」

「なに」

「サッカー部のみんなに会いたい」

「連絡して来て貰う?」

「うん」


 それから数日後、病室の廊下が賑やかしくなった。


「ここだ、ここ」

「なんだよ個室かよ」

「マジか」

「病院内では静かにして下さいね!」

「すんません」


 影たちはすりガラスの向こうで看護師に注意され頭を何度も下げていた。そして聞き覚えのある声が威勢よく扉を開けると病室に傾れ込んで来た。


「よう、蔵之介!」

「チャリで事故とかダッセェな」

「元気か、あ、元気じゃねぇから入院してんのか」


 大きな笑い声が響き看護師が扉を開け「静かに!」と眉間にシワを寄せた。サッカー部の有志が「差し入れだ」と漫画の本や菓子の詰め合わせを持って見舞いに来てくれた。


「どうだ調子は」

「まぁまぁです」

「リハビリは辛いか?」

「部活に比べればそうでもないです」


 キャプテンがベッドの下から椅子を引き摺り出し腰を下ろした。布団を捲ると細くなった右脚が顔を覗かせた。


「無理するな」

「はい」

「元気になって戻って来い」

(みんなは僕が学校を退学した事は知らないんだ)

「どうした?」

「いえ、なんでもないです」


 するとその背後からマネージャーの遠藤(えんどう)さんがマリーゴールドの花束を手に顔を出した。莉子の友人だ。


(そういえば、莉子が死んだのにどうしてみんなこんなに明るいんだろう)


 遠藤さんは扉の方を伺い見て小声で驚きの言葉を発した。


「雨月くん、これ、莉子から」

「り、こ?」

「うん。この前お見舞いに来た時雨月くんのお母さんに断られたんだって」

「お見舞い?莉子は生きてるの?」

「なに言ってるの?」


 遠藤さんは首を傾げた。莉子は生きていた、無事だった。先輩たちがそこに居るにも関わらず涙が溢れ出た。


「なんだよ、彼女からの見舞いで泣いてんのかよ」

「ダッセェなぁ」


 大きな笑い声が廊下まで響き看護師が扉を開け「静かに!」と眉間にシワを寄せた。莉子が生きていた、生きていた!


「そうなんです、ダッセェんです」

「マジ泣きかよ」


 僕はティッシュで涙を拭き鼻水をかんで遠藤さんの顔を凝視した。


「莉子は、莉子は無事だったの?」

「・・・・・・・」

「なに、教えてよ」


 遠藤さんは前髪を上げると額の上に指で線を付けた。


「な、にそれ」

「莉子、おでこに傷が出来ちゃったの」

「そんなに酷いの!」


 無言で頷く、その事に絶望した。


(女の子なのに、顔に傷が)


 遠藤さんは紺色のブレザーのポケットから黄色い紙飛行機を取り出した。


「これ、莉子から預かって来たの」

「莉子から」

「うん、莉子のお母さんが雨月くんに連絡しちゃ駄目って言ってるみたい」

「そうなんだ」

「携帯電話も取り上げられちゃったんだって」


(だから母さんも莉子が死んだって嘘を吐いたんだ)


「雨月くん、莉子ね東京の大学に合格したから」

「そうなんだ」

「うん」

「莉子におめでとうって伝えて欲しい」

「分かった、伝えとくね」


 僕は先輩たちが帰った静かな病室で深呼吸をした。動かない右の指先で紙飛行機を押さえ破らないようにゆっくりと開いた。


蔵之介 元気出して
蔵之介 また会おうね
蔵之介 好き
蔵之介 愛してる


蔵之介 行ってきます


 僕は声を押し殺して泣いた。





 通信制高校を卒業する頃には僕の指先は震えが残るものの随分動かせる様になっていた。ただそれは長続きせず一般就職は難しかった。僕は就労継続支援A型の施設でパンや菓子の袋詰めやシール貼りに従事した。松葉杖を付いて自宅の玄関先で施設の送迎車を待ち施設でシールを貼り送迎車で帰宅する、その繰り返しだった。


「母さん、ごめんね」

「なに言ってるのよ」


 23歳の誕生日前には松葉杖が不要になり右脚を引き摺りながらも送迎車のタラップを上る事が出来る様になっていた。18歳の莉子の姿を今も夢に見るが日々の暮らしで精一杯でそれどころでは無かった。紙が擦り切れるまで開いては読み、読んでは畳んだ紙飛行機は自室の勉強机の引き出しに仕舞い込んだ。


「母さん、僕、市営団地に入居しようかと思うんだ」

「ひとりで大丈夫なの」

「24歳にもなって親の世話になるなんて出来ないよ」


 僕はケースワーカーの勧めもあり障害者手帳と障害者年金の申請をした。脊髄の損傷による半身不随で障害3級に認定され障害者年金が支給される事となった。就労継続支援の賃金と合わせて手取り100.000円、息を潜めるように細々と暮らした。


「ほれ、坊主、トマト食え」

「ありがとうございます」

「美味いだろう」

「はい、美味しいです」


 市営住宅の隣の部屋に住む高齢男性が家庭菜園の野菜を分けてくれた。休日になると僕は公園の砂場にあるベンチで太田の爺ちゃんと日向(ひなた)ぼっこをして過ごした。



 25歳の春、実家の祖母が老衰で亡くなった。婆ちゃんはイギリス製の骨董品の収集家で押し入れの中には年代物で未使用のティーカップや花瓶が眠っていた。それ等はインターネットで検索したところオークションで何万円もの値段が付き色めき立った両親は出品したらどうかと目を輝かせた。


「誰がその準備をするの」

「勿論、蔵之介よ」

「梱包や発送は誰がするの」

「勿論蔵之介よ、暇でしょう?」


 確かにその頃の僕は暇を持て余していた。


「インターネットに出品して割れたら面倒臭いからマルシェで売るよ」

「マルシェってなに?」

「街の骨董市場」

「高く売れるの?」

「1個、1,000円くらいじゃない?」

「ええ、勿体無い!」

「じゃあ母さんがやってよ」

「・・・・・・・・」



 そして僕は隔週で開催される骨董品を扱うマルシェに出店する事にした。






6月15日 土曜日



 大きな椎木(しいのき)が2本並んだ芝生の広場で隔週末に骨董品やハンドメイドの作品を販売するマルシェ(市場)が開催される。幾つものテントが並び色彩豊かなフラッグが風にはためいた。


 僕の隣のテントではアンティークドールとオルゴールを扱っていた。蓄音機の形をしたオルゴールは高等学校の合唱コンクールの課題曲を奏でた。


(懐かしいな、みんなどうしているんだろう)


 僕のテントには婆ちゃんが遺したアンティークカップやティーポットを並べた。


「それは貴重な品だよ、こんなマルシェで売るなんて勿体無い」

「喜んでもらえるなら良いんです」

「私もワンセット貰おうかね、幾らだい?」

「お任せします」


 やや色褪せた陶磁器に鈍い金の縁取り、渋さを感じさせる茶系の薔薇、青い菫、色とりどりの小花、老夫婦は悩みに悩んで青い菫のティーカップとソーサーを選んだ。


「これでどうかね」


 高齢男性は10,000円札を取り出した。


「お釣りは」

「お釣りは要らないよ、コウルドンは高値で売買されているから安いくらいだよ、取っておきなさい」

「ありがとうございます」

「良いよ、こちらこそ良い買い物をしたよ」


 僕は英字新聞でそれを包みながら男性に尋ねた。


「コウルドンってなんですか」

「イギリスから北アメリカに輸出されたアンティーク品だよ」

「そうなんですか」

「現在値段が高騰しているメーカー製品だから価格設定は高い方が良いよ」

「へぇ、そんなに高いんですね」


 この調子でアンティーク類に詳しくない僕は言い値で取引をした。


(そろそろ帰ろうかな)


 日も暮れ始めカラスがねぐらへと戻り始めた。雲行きも怪しく店仕舞いをしているとひとりの女性が店の前にしゃがみ込んだ。


「これ下さい」


 女性はコウルドンの茶系の薔薇が描かれたティーカップとソーサーを2客買い求めた。


「3,500円になります」

「そんなに安くて良いんですか?」

「もう店仕舞いですから」


 見上げたその面立ちに心臓が掴まれる思いがした。屈み込んだ前髪から覗く額には大きな傷痕、聞き覚えのある声、僕の指先は震えカップを包む手は覚束なかった。


「ビニール袋か紙袋、要りますか」

「あ、じゃあ紙袋で」


 彼女は1,000円札を4枚僕に手渡した。釣り銭箱で500円玉を探すが上手く掴めなかった。気が付いただろうか、気が付いてくれるのだろうか。


「はい、3.500円、500円のお釣りですね」


 しかしながら僕は16歳の僕ではない。だらしなく髪を伸ばし後ろで結えた浮浪者の様な風貌だ。気が付いてくれるだろうか、気が付いて笑いかけて欲しい。その反面、見窄(みすぼ)らしく変わってしまった僕を見られたくない思いに駆られた。


「ありがとうございました」


 その時僕は彼女の左手の薬指に光る指輪を見付けてしまった。


(結婚したのか、もう28歳当たり前だ)

「ありがとうございました」


 踵を返して立ち去る後ろ姿が滲んで見えた。僕はその場にしゃがみ込むと梱包に使っていた英字新聞を正方形に切って赤いマジックペンを握り携帯電話番号を書き込んでいた。


紙飛行機


 莉子に届けと願いを込めて大きく振りかぶった紙飛行機は彼女の足元に落ちた。莉子は芝生の上に落ちた紙飛行機を掴むとこちらを振り返った。僕は思わず深々とお辞儀をしていた。それがどういう意味かは分からない。あの日連れ出した事への謝罪か額に傷を付けてしまった事への懺悔か、その姿に頭を下げていた。


(会いたかった)


 遠ざかるバス、色彩豊かなフラッグ、僕は10年の時を経て僕は莉子と再会した。