現世の夢。幽世の現。

 幽玄館 龍別邸の一階。めし処。
 異形の者たちに囲まれ、混乱して、震えながら頭を抱えている景子の様子を見て、色白の白髪の少女と狐耳の少女が抱きついてきた。

『私たちのこと、忘れちゃったのぉ??』
 泣きながら抱きついてきた二人を振り払うこともできず、かと言って受け入れることもできないまま、景子は目線で漣に助けを求めた。

「これでもダメか・・・」
 漣は景子の目線に応えることなく、刑と兎士郎に耳打ちをしている。

「荒療治だが、仕方ないか…でも、そうなると現世での『景子』はどうするんじゃ?」
 なにか不穏なことが起きそうな気配の刑の発言に、景子は声も出せず、口をパクパクしている。
 そんな景子に構うことなく漣が刑の言葉に被せるように答える。

「刑様、そこのところは、ぬかりなく・・・」
 語尾に続く言葉は聞こえない。

「しかし、元々、神事で粗相するわ、大事な御勤めの御印(みしるし)を失くしたうえに、我をも失くしてしまうヤツにそのような器用な真似ができようか?のう?」
 兎士郎が刑に問いかける。
「うむ。心配なのは、そこじゃなぁ…」
「卯兎様さえお目覚めくだされば…」

 ものすごく残念なモノをみるように3人は景子を見つめている。
 異形の少女2人に抱きしめられていた景子は、ようやく二人を振りほどき、立ち上がった。
「なんだかわかりませんけど、帰ります!ウコさぁ~ん!雪兎さぁ~~ん‼」

 荷物を持って、一歩踏み出そうとしたとき、グラリと体が傾いた。
 漣が腕を差し出し、受け止めて小上がりに改めて横に寝かせた。

 (あぁ…漣さんの腕のなかぁ…幸せ♡)などと、脳天気な景子であったが、意識が遠のく寸前に先ほどの抱きついてきた少女2人が細い針のようなモノを手にしていたコトを知って、自分の身の上に何かとんでもないことが起ころうとしていることだけはわかった。
 しかし、意識が薄れゆくこの状態では、為す術なく、成り行きに身を任せるしかない。
  そんな景子に、二人の少女が耳元で静かに囁いた。

「もう大丈夫だよ…結卯…」

 *~*~*~*~*~*~*~*~*~*~*

 手を胸元で組ませ、寝かせた景子の周りを兎士郎と手下てかの神薙たち、刑、そして漣が囲むように座っている。
 そこへ先ほど景子に抱きついた二人の少女が恭しく龍の蒔絵が施された衣装盆を掲げて、兎士郎に差しだした。
 衣装盆の上に左手を添え、右掌で天を支えるかのように腕を強く突き上げて伸ばすと、目を閉じた。小さな老体から出されたとは思えない威圧感と威厳のある低い声で、祈りの詞ことばを発し、その最後に突き上げていた右手を気合と共に左手に重ねた。
 その刹那。盆からふわりと衣が浮いて、また盆の中に落ちた。
 兎士郎は少女たちから衣装盆を受け取り、刑ぎょうの前に差し出すと、手は盆を掲げたまま跪いて頭こうべを垂れた。
 刑は、跪く兎士郎の肩に右手を添え、「えぇいっ!」大声で一喝したかと思うと大きな烏天狗に姿を変えた。

『うわっ!』

 小さな異形のモノ=幽世のあやかしたちは、その迫力に腰を抜かす者も、泣き出す者も…。いずれも小さき者たちは震えあがっている。
 衣装盆を兎士郎に引き渡したあと、脇に控えて頭を垂れて神妙にしていた少女二人が刑を見上げると、静かに頷いている。それを見て、少女たちは足早に怖がる者たちの隣に歩み寄り、寄り添った。そして優しく抱き包みながら、また静かに頭を垂れた。震えていた者たちも安心したかのように少女たちに身を預けながら、彼女たちに倣って頭を垂れた。
 その様子を下目に見ていた刑は、皆が落ち着くのを確認すると、左手に持った羽団扇を衣装盆に翳し、右手の錫杖を大きく『シャンッ』と鳴らした。
 その場にピリリとした空気が張りつめ、唱えられる祈りの詞の合間に響く錫杖の音。刑の低く唸るような詞が空間を包み込むように響き渡り、錫杖の音の合間合間に、小さな稲妻が盆の上に幾筋も走る。
 しばらくして、羽団扇を衣装盆の上に翳したまま、祈りを続けながら体の向きを漣に向ける。
 漣は、それまで伏せていた顔を上げるとクワッと目を見開いて、全身に力を込めた。
 その場の空気が一層清涼で清浄な緊張に包まれたと同時に、黒鋼のように輝く胴体とまさしく黒鋼の眼帯を左目に付けた龍が一体、空くうに姿を現した。
 刑の重々しい祈りと錫杖の音が響き渡るなか、龍は一度、二度と弧を描きつつ、空を上下したかと思うと大きく頭かぶりを振って、眼帯を振り落とした。
  コンっ・・・カラカラカラ・・・
 静粛ななかに乾いた音が響き渡る。神薙のひとりが中腰のまま、眼帯を拾いに走り、懐の袱紗に包み、掲げながら元の位置に戻った。
 眼帯の取れた左目は閉じられていたが、刑の一層大きな祈りの声を受けて、見開かれた。その目は燃え盛る炎のように赫かった。その赫い瞳が一層の輝きを放ったと同時に、周囲を赫く染め、次にはまばゆく白い光がすべてを包み込んだ。
 そこにいた者たちがまばゆさに目を閉じて、開けた次の瞬間には、刑の祈りも止み、漣も最初からそうしていたかのように、刑の傍らに頭を垂れて座っていた。当の刑もまた、普段の小柄な老人に戻っていた。

「さて、目覚めてもらうぞ」
 兎士郎はそういうと、神薙たちが掲げた衣装盆から取り出した龍の紋の千早を広げ、改めて刑と漣に向って掲げ、一礼し、景子に掛けた。そして徐に、衣装盆の隅にあった小さな紅い玉を指で摘まみあげ、景子の口に含ませた。ここまでを終えて兎士郎が半歩下がると、神薙たちが進み出て景子の上半身を持ち上げ、御神酒を含ませて、その赤い玉を飲み込ませた。
 景子の周りを囲む兎士郎と神薙たち、刑、漣が揃って、手を合わせると、二度大きな柏手を打った。
 その音に、建物がビリビリと震える。柏手の残響がぐわわわ~んっと部屋全体からそれぞれの耳に吸い込まれて静寂が戻った。

「・・・・・あれ?ここ・・・・『めし処』?え?私って、どうしたの?」

 体を起こしてキョロキョロする景子に、二人の少女が駆け寄った。

結卯(ゆう)ぅ~』
紗雪(さゆき)に、弥狐(やこ)じゃない!なんだか不思議と懐かしい気分だよ!」
「結卯、もう!心配したよ!」
 白髪の少女・雪女のあやかし紗雪が景子の手を握り締めた。
「結卯、弥狐のことわからなかった。忘れた思った。寂しい。でも、いまうれしい」
 狐耳の少女・妖狐の弥狐が涙を拭きながら景子にしがみついた。
 三人は、あぁでもないこうでもないと、箸が転がってもおかしい年頃でもあるまいに、キャーキャーと再会を喜び抱き合っていた。

 ウォーッホンっ!

 大きな咳払いにビクッとして離れた三人。
 景子が恐る恐る、咳の聞こえた方へ首を向けた
「あ~~‼兎士郎様ぁ~!やっだぁ、お元気そうじゃないですかぁ。あ。兎士郎様は龍籍に上がられたから、老けないんでしたっけ?あはははは」
 言うが早いか、景子は立ち上がって兎士郎に抱きついた。
「こ、これっ!よさんか!まったくお前は、何度転生しても魂は成長しとらんようぢゃの」
「転生・・・?え?私、死んだの?・・・どういうこと?なに?え?え?」
「お、お前・・・やはり御印を失くして、我を失くすだけあるな・・・すっかり御勤めの意義を忘れてしまっとるな」

「予想以上の大戯おおたわけだったようぢゃの、兎士郎殿」
 刑が呆れ果てたという体ていで、結卯を見つめる。
 刑の声に振り返り、刑の隣に漣を見つけると、大慌てで居住まいを正し、正座で漣に向き直ると深く頭を下げた。
「一龍齋様。いらっしゃると気づかず、大変失礼いたしました」
「ほう。一応、幽世での礼儀は忘れてなかったみたいだな」
 漣が薄い唇の口角を上げて、皮肉な笑いを浮かべた。
「わ、私は、なかなか物覚えが良い方でございますよっ」
「ほう。ならば、お前のこの度の務めの目的を申してみよ」
「えーっと・・・務め・・・あ!『望月の神事』の神子ですよね!え?でも神事の主を一龍齋様がお務めに?上四龍どころか八龍に入ってもないのに?」
「こ、これ。結卯!失礼な物言いをするでない!」
 脳天気な結卯の発言に、兎士郎は気が気ではない。
「兎士郎様、かまいませんよ。子ウサギの戯言など、痒くもございません」
 漣は笑って軽くいなしているが、目が笑っていないのを見て、兎士郎は胃の辺りを押さえつつ、愛想笑いで返している。
「一龍齋様へのご挨拶は大事だがな、兎士郎殿の隣にいる儂への挨拶を飛ばしておろうが!」
 無視されたカタチになった烏頭刑は、面白くない。
「あぁ。刑様、いらしたんですね。兎士郎様と重なって見えて、気づきませんでした」
 テへへと笑う結卯に、二人の老人が食って掛かる。
『一緒にするな‼』
 揃って出た言葉にお互いに顔を見合わせ、にらみ合う兎士郎と刑。
『どういう意味だ?』
『こっちが聞いておるのだ!』
『え?どういう意味なのだ?』
 一卵性双生児のように、いつまでも言葉が揃って、埒が明かない。
「お二人とも、いい加減にしてください!いま、そんな細かいコトどうでもいいでしょ」
『細かい?』
『どうでもいい?・・・どうでもよくない!』
 はたまた2人そろって反論するも、漣が足を一つ踏み鳴らし、一瞥しただけでモゴモゴと口を閉じた。
「さて、結卯。お前、やはりきれいさっぱり忘れてしまっておるようだの?」
 ヒヤリとするような一瞥をくれる漣の視線に耐えきれず、結卯はキョロキョロと紗雪や弥狐を見るが、二人とも気まずそうに視線を逸してしまった。
 兎士郎と刑は、ギロリと睨んでいる。
「儀式は失敗だったのか⁉コヤツ、今度は現世のコトを忘れておるではないか…」
 刑は苦々しそうに、兎士郎と漣にいうと、結卯の瞳の奥を覗き込んだ。
「いや…儀式は成功だったから、結卯が目覚めた。しかし…景子の記憶がないのはどうしたことじゃろのぅ…」
 兎士郎も刑の隣に顔を並べて、同じく結卯の瞳を覗きこんだ。
「な、な、なんですよ!刑さまも兎士郎さまも!やめてくださいよぉ」
 結卯は、両手で顔を覆い俯いてしまった。
 頭を抱え込んでいる結卯を背にして、兎士郎、刑、漣が顔を突き合わせて、ボソボソと話してはため息をつき、また話してはため息をつき・・・を繰り返している。
 結卯は、そーっと顔を上げ、三人の様子を伺いみて不安げに紗雪と弥狐を見やるが、二人も結卯と同じくらい不安げな顔をしている。その後ろに並ぶ、見覚えのあるあやかし達も心配そうに結卯を見つめている。

「どうして?私、どうしちゃったの?」

『それは、こっちのセリフだっ!』
 兎士郎、刑、漣、三人が振り返って突っ込む。
「・・・仕方のないやつじゃ。いま、覚えていることを言ってみろ?」
 兎士郎が結卯の前にしゃがみこんで、尋ねる。
 結卯は、ジッと目を閉じて大きく深呼吸した。 
「私は、ココ幽玄館龍別邸の神殿に仕える神子で、神子の仕事がないときは、紗雪や弥狐、ポン太たちと裏山の畑の面倒見たり、卯兎の『めし処』を手伝ったり・・・。あ!卯兎!卯兎はどこに?」
 結卯は、キョロキョロと室内を見回して、卯兎を探すが見つからない。
「え?卯兎は?卯兎はどこ?」
 紗雪や弥狐を見る。二人は、目を伏せて首を振る。後ろのあやかしたちを見るも、二人と同じように首を振っている。
「・・・う・・・そ・・・卯兎、いない?・・・なんで?なんでなの?」
 紗雪の肩を掴んで揺さぶるが、紗雪は悲し気にして首を振るばかり。
「兎士郎様、どういうことです?卯兎は、どうしちゃったんです?」

「お、お前、そこからなのか?」
 兎士郎は呆れ顔を刑と漣に向けると、2人は万策尽きたとばかりに、天を仰いでいる。
 兎士郎もそんな二人に倣うように天を見上げて、大きなため息をついた。

 そんななか、竹のあやかし・竹暁(ちくぎょう)が進み出て、持っていた笹を結卯の前に置いた。続いてポン太が竹を切って作った器を並べ、小虎と呼ばれるあやかしが禊萩(みそはぎ)を活けた細い竹筒を並べた。それを見ていた弥狐が弾かれたように奥へ駆け込むと、狐火を灯した竹皿を持ってきて、竹暁の持ってきた笹を立たせて、その枝に吊るした。
 弥狐が狐火の皿を吊るしたのを機に、あやかしたちが笹の周りに集まった。
「大変だったね。『上弦の月の宴』の準備」
「でも楽しかったよ」
「黄龍様のお顔を初めて見たよ」
「卯兎の料理、おいしかったね」
「姫龍様が大喜びされたのはなんだったけ?」
 口々に、「あの夜」の宴の思い出話を始めた。本当に楽しげに。うれしげに。そして、誰もが「あの夜」のあの時間を愛おしげに口にする。
 笹をぼぉっと眺め、揺れる狐火を見つめる結卯の目に、いままでになかった光が灯った。
「あぁ・・・卯兎・・・。魂の旅に出たんだったね・・・」
 涙が頬を伝う。
「思い出したようぢゃの」
 兎士郎がホッとしたようにしつつ、自分の手ぬぐいで涙を拭いてやる。
 結卯は、居住まいを正して、兎士郎、刑、漣に向き直り、正座のまま頭を下げた。
「ただいま、戻りました。途中、御印を失くし、卯兎を見失ってしまいました。でも、今回同行した盈月瞳子さんが卯兎の7度目の転生だったんですよね?で?卯兎は?」
 三人を見上げるが、三人ともに首を横に振ってため息をついている。
「私、私は、どうやって幽世の記憶を取り戻せたんでしょうか?御印を失くしたままでは幽世の記憶はないまま、『景子』として生を終えれば、また転生を繰り返すか?天界に住まうか?いずれにしてもここへは戻れなかったのでは?」
「確かにそうだ。でも、お前の魂の執念とでも言うべきか?お前は意識せぬままであったが、現世で『卯兎』を見つけて、その近くにいた」
「漣、なかなか上手いこというな。『魂の執念』か。そうやも知れぬな」
 刑が漣の言葉にうなずきつつ、感慨深そうに天を仰いだ。
 そのあとを受け取って、兎士郎が続ける。
「卯兎が魂の旅に出ると言い出したとき、お前が是が非でも付いていくと言ったときの勢いはまさに、鬼気迫るものがあったからな。ただ、粗忽なお前のこと。7回の転生の間に何かしらやらかしてくれるんじゃないかと心配しておったら、案の定。6度目には卯兎が80歳で天命を終え、7度目の転生に向かったのに、お前は101歳の長寿を全うしたうえに、御印持つことなく7度目の転生を迎えて・・・。御印のないお前の転生先がわからぬわ、いままでなら姉妹や従妹という近さにいた卯兎の転生先もわからぬまま・・・」
 兎士郎の言葉は、最後はあふれ出る涙で続かなかった。

「兎士郎様、しっかりしてください。まだ、これからなんですから。コイツには卯兎様の魂の記憶を呼び覚ます役目を最後までやってもらわねばならないのですよっ」
 漣が兎士郎の背を撫でながら、立ち上がらせて、神薙の神具のひとつ真榊と海をそのまま映し取ったたような青い龍珠を握らせた。
 手渡された青い龍珠をジッと見つめていた兎士郎は、狩衣の乱れを正し、襟元を整えると真榊を握る手にグッと力を込めた。
「そうですな。卯兎をココに戻すまでは、このうつけ者でさえ、その執念が卯兎を見つけ出してきたというに、我らがその魂を目覚めさせなければ、我らの沽券にかかわるというもの!さて、最後の仕上げとまいりますかな」
 瞳子が目を覚まして身を起こすと、銀髪の長い髪の若い男性と雪兎が酒を酌み交わしている。

「ゆ、雪兎?」

「瞳子さんッ‼目が覚めたかい?」
「なに?私、どうしたの?」
 ハッキリしない意識のなか、キョロキョロと自分の身の回りや体を見回す瞳子の目に、『サルバトール・ムンディ』が…。

「さ、さ、サルバトール・ムンディ‼」

 また意識を失いそうになった瞳子をすかさず支えたのは、雪兎ではなく(くだん)の「サルバトール・ムンディ」だった。

「誰が、猿なのだ?私は龍であって、猿ではないっ‼」
「青龍さん、さっき説明したじゃないですか。猿じゃなくて、“サルバトール・ムンディ“ですって。西洋の神様の、しかも肖像画なんですよ」
「ふんっ。そうだったな。しかし、なんでそいつが出てくると、死ぬのだ?」
「それもさっき説明しましたよね?」
「そうだったか?」
「少し酔われましたか?」
「そうかもな。アハハハハ」

 『サルバトール・ムンディ』とすっかり打ち解けた雰囲気の雪兎を見て、瞳子は意識がハッキリするごとになんだか腹が立ってきた。
「何よ!私が死にそうになってるときに、よくお酒なんか呑んでられるわねっ‼」
「おっと、瞳子さん。ホントに死にそうだったら、酒なんか呑めるわけがないじゃないか。無事なのがわかって、そしてただ気を失っただけだってわかったから、目が覚めるまでの間、おしゃべりしながら少し呑んだだけだよ」
 ニッコリとほほえんで、瞳子の頭をポンポンっとする雪兎に、もうそれ以上怒る気がしなくなった。

「それより、いつまで青龍さんの腕のなかにいるつもりだい?」
 瞳子は雪兎に言われて初めて、青龍に抱きとめられたままだったコトに改めて気づき、慌てて離れると、パタパタと自分の身を払って、慌てて雪兎の背に身を寄せた。

「ずいぶん嫌われてるモノだな…」
 『青龍』と雪兎に呼ばれていたサルバトール・ムンディは、口角の片側だけを上げて自嘲するように笑って呟いた。

「そんなことはないと思いますよ。まだサルバトール・ムンディを引きずっているだけで…ねぇ、瞳子さん?」
 雪兎は、瞳子の肩を抱き寄せて自分の隣に引き寄せた。

「こちらは、青龍さん。瞳子さんのサルバトール・ムンディではないよ。こちらの世の神様のおひとりだそうだよ。そして、今回、僕らがココへ来ることになったツアーの主催者だ」
「…そ、そうなの?…は、はじめまして。瞳子です」
「はじめまして…か。そうだな。『瞳子』としては、はじめましてなんだな」
 またしても自嘲するような笑みを見せる青龍。その笑みは、悪いことはしてないはずなのに、瞳子に何か悪いことをしてしまったような気持ちを抱かせる。

「あのぅ・・・セイリュウさん?ちょっとお伺いしても・・・?」
 瞳子が恐る恐る口を開いた。
 改めて瞳子の方へ向き直って座り直した青龍が「どうぞ」という風に掌を水平に滑らせて、瞳子を見つめた。
「あの、漣クンとか、月影さんから聞いたんだけど、お探しの方がいるとか・・・?あ。私じゃなくて。神子の方・・・」
「あぁ。そうだ。だが、その質問に答える前に、ちょっと待て。『漣クン』と言ったな。漣とはずいぶん親しげだな」
 拗ねたような目で瞳子を睨む姿は、まるで子どもだ。
「親しいってわけじゃないですけど、こちらへ来る前に何度かお会いしてるし、そのうちにはケンカになったこともあったり・・・。あ。もちろん、和解してますよ。キチンと。それに、ここまでも案内してくれたし。だから、何となく近しい感じがして、私も雪兎も『漣クン』と呼ばせてもらってますけど・・・いけなかったですか?」

「ふんっ!漣っていうのは、幼名でな。ヤツも『一龍齋』という立派な名を賜っている神族のひとりだ」
『えぇ‼神様なんですか?漣クン・・・いや、天目さん・・・』

 いまさらながらに、驚く瞳子と雪兎。

「そういえば最初にウチへみえたときに、景子ちゃんが「あやかしですか?」って尋ねたら、烏頭さんは、天狗のあやかしだけど、自分は神族だって言ってたような気がする・・・」
「うっそぉ。私、神様相手にケンカ吹っ掛けちゃったってこと?雪兎ぉ、どうしよう・・・ホントは漣クンすごい怒ってて、バチ当たったりしない?」
「大丈夫だよ。漣クンだって、そこまで子どもじゃないさ。神さまなんだもの、きっと広い心を持ってるよ。それでも、ま。後先考えずに突っ走るのが瞳子さんの悪いところだけど、誰に対しても表裏がないっていうのは、すごくいいところだと思うよ」
「雪兎がそう言ってくれるから、私はやっていける・・・ありがとね」
「僕の方こそ、瞳子さんに救われてることばかりだよ」

「おいっ!そこのふたりっ!そろそろ二人きりの世界から戻ってこい!」

 声を掛けられて、ハッとして青龍に向き直る2人。

「聞いてはいたが、ほんとに仲が良いのだな」
 そういう青龍は、また何とも言えない寂し気な笑い方をする。(俺と卯兎もあぁやって笑いあえてた日があったのにな…)

「で?さっきの質問の件ですけど…?」
 瞳子は俯き加減の青龍の瞳めを覗き込むようにして、尋ねた。

「あ。なんだったかな・・・あぁ。私が探してた神子のことか・・・あれは、幼馴染で…俺の嫁になるはずだった」

 ― 卯兎と言うのだ。
 父さん…あ。父は黄龍といって、この幽世を取りまとめる幽世の長だ。―

 青龍は、幽世のなかでの龍の地位とその龍のなかで『黄龍の八龍』がいること、黄龍や八龍は世襲制ではなく天啓が下ることなどを話して聞かせた。

「へぇ…青龍さんってエラいのね。まだお若く見えるのに…」

 ― 卯兎は、聞いている通り神子だった。龍神付の。
だからココに住んで、神事の際は神子として務め、普段はこの宿の一階にある『めし処』で働いていた。働いていたというか、営んでいたというか・・・。
 ひとの世界と違って、商売でやっていたわけじゃないから、営んでいたっていうのも少し違うな。
 卯兎は、働くのが好きでな。神事のないときにジッとしているのがイヤだと、宿の厨房の隣にあった食糧庫の一部を改装して、『めし処』を始めて、あやかしたちや神薙、そして俺たちに得意の料理を振舞っていたんだ。―

「商売じゃないのに、店??なんだか不思議な感じだね」

「まぁ、ある種、集会所の様相だったな。気ままに来て、食って、飲んで、話して…」  
 青龍は遠い目をしながら続けた。

 ― 卯兎の料理の腕は宿の厨人も舌を巻くほどだった。饗食ではないけれど、誰もが食べてホッとするような、食べただけで気持ちが和むようなそんな料理だった。
 それから卯兎は、聞き上手でな。
 あやかしも、ひとである神薙も、腹がくちくなって、酒も進めば、口が緩くなる。愚痴だったり、悩みだったりいろいろと出てくるひとつひとつに耳を傾けてくれて、ひとりひとりの心に寄り添ってくれる。そんなヤツだった。だから、神薙たちからもあやかしたちからも、私たち神族からも卯兎は好かれていた。
 「めし処」には、卯兎の旨い飯を食いに行くというより、卯兎と話がしたくて、話を聞いてもらいたくて行く者が多かったんだ。卯兎の存在に皆、救われていた。なにより俺が一番救われていたんだと思う。―

「そんな卯兎さんが、なぜいなくなったの?なんでも『龍籍』とかいう籍に入ってたから、あなた方と同じように不老不死だったのを捨ててまでいなくなったのはなぜ?」

 青龍は、拳を握りしめて俯いていたが、洟を啜り上げるようにして頭かぶりを振りながら、上を向いて大きくひと息ついた。
「・・・卯兎は、本当の卯兎になりたかったんだ」

『本当の…卯兎さん??』
 瞳子夫婦が声を揃えて尋ねたが、青龍は、それには答えず、手にしていた盃を一息に煽って、大きく息を吐き出した。
「本当の卯兎さんって・・・どういうこと?当時の卯兎さんは本当じゃなかったってどういう意味?」

― ここ幽世には、知っての通り、神々とあやかしたち。そして現世から天界へ、転生へと向かう魂が集う世界だ。ひとがココで暮らすには、神薙などの神職に就くか、神族に仕えるか…。
 それとて簡単なことではない。神薙などの神職にはそれなりの能力が求められるし、ここでの神薙の仕事にはある種特殊な能力も求められる。だから、だいたいは神薙は同じ血筋から受け継がれて就くことが多い。
 稀に普通の家庭にチカラを持って生まれる子がいても、その子は神薙の家の養子となって、幽世の神薙に就く。―

「あ。僕の曾祖父はそのチカラが弱かったから神薙に就かせることを諦めた高祖父母は、曾祖父を高祖母が連れて現世に戻って、高祖父はこちらに残ったので、その後、盈月の神薙は高祖父を最後にいなくなって、現世でもたぶん僕が最後の盈月の人間なんだと思います」

「おぉ。そうだった。雪兎は「盈月」の人間だったな。しかし、お前の聞いてきたその話は事実と少し違うようだ・・・。
 うーん。それについては、ここにいる間にでも刑に尋ねるといい。刑が当時の盈月とは昵懇だったし、あの件の当事者のひとりだからな」

「え?烏頭さん?当事者?どういうことです?」
 雪兎は顔色を変えて青龍に迫ったが、青龍は
「…刑に聞け。俺の口からは言えないが、お前の血筋は俺たちの世界にとって少しばかり厄介でな」
と、呟くように答えると卯兎の話の続きを始めた。

 ― 昔はときどき子どもが現世からこちらへ迷い込んできたものだった。
 遊んでいて友や兄弟とはぐれて、うろうろしているうちにこちらへの道へ迷い込んでしまった者。こいつらは、刑たち刑部省の烏天狗たちがそっと家の近くまで連れ帰ってやる。
 昔、現世で言われていた『神隠し』の正体だな。現世では「烏天狗が子を攫う」と言われていたようだが、逆だ。連れ帰ってやってたのだ。
 もう一つは切ないのだが・・・現世で飢饉などになったときに、口減らしのために親がわざわざ幽世の入り口に我が子を置いていくのだ。
 そういう子らは、こちらの心ある者が運良く見つければ、神薙の養子になったり、神族の屋敷で下働きをしたりして、その寿命が来て光の(うみ)を渡るまで、この街の皆で面倒見る。なかには、そうしてるうちに神族や神薙の誰かに見初められて婚姻して龍籍や神籍を手に入れる者もいるが。
 見つけられなければ、そのまま飢えて命を落としたり、獣や質の悪いあやかしに喰われた子らも多かった。そうなると、魂の導かれるままに光の湖へ行き、転生の道をたどるのだがな。光の湖の虹の橋を渡るのは、必ず一人。それがどんなに幼い子でもな。幼子でも行けるように鬼界の鬼たちが補助はしてやるのだけどな。
 卯兎は、このどれでもなかった。―

「小さい子が鬼なんか見たら、泣き出しちゃうんじゃない?」
「神族の我らは、人形(ひとがた)を採っていることが常だからな。本来の姿で会うわけじゃない」

― 卯兎は、現世では「生」を受けられなかった子として、幽世へ来たのだ。
 どういった経緯(いきさつ)で現世に生れ落ちなかったのかは、知らん。
 とにかく、「ひと」として現世をいきることなく幽世にやってきた。そして、虹の橋を渡ることなく、幽世の街に居ついたところを同時代に口減らしで幽世に送られた『結卯』や『兎朱(とあけ)』らとともに、ここ幽玄亭の神薙とあやかしに引き取られて育った。
 なぜ虹の橋を渡らなかったのか?渡れなかったのか?未だにそれもわからん。鬼界の鬼たちが見落としたとも思えなかったんだが…―

「現世で「ひと」として生まれなかったってことは、「ひと」としてのカタチはなかったんじゃ・・・」

「そのことか。ここでは肉体は問題ではない。現世では肉体がないと動けず、カタチも認識されないだろうが、ここでは魂がカタチを成すのだ」
「ん?どういうこと?よくわかんない?体がないのに、料理したり、神子のお勤めができたりするの?ん?」
「ここは、そういうところだ」
 青龍に豪快に笑い飛ばされたが、未だ、瞳子の頭のなかは大混乱。

 ふと、雪兎を見ると、さっきの「刑に聞け!」と言われた話が引っかかっているようだ。
「雪兎、青龍さんとのお話が終わったら、刑さんを探そう。景子のことも聞きたいし・・・ね?」
 雪兎は、我に返ってニッコリ微笑むと瞳子の肩に手をやった。
「刑を探しに行くなら、雪兎ひとりで行けばいいだろ。卯兎・・・いや瞳子はココにいろ」
「はぁ?なんでっ⁉いやよ!雪兎と一緒に行きますっ‼」
「あ、いや、刑なら後で俺が呼べばすぐ来るだろう・・・続けるぞ」

 瞳子の思わぬ迫力に負けた青龍は、ムリムリな感じで話を続けた。

― 卯兎はいつも元気で、元気すぎて…お転婆とも言える面があったけれど、神事などのときはソツなく熟す器用さもあった。
 もの覚えもよくてな。神薙の上級の仕事もできそうだったな。
 いつも笑って、笑わされて…―

「いつも怒らせて、怒られてっていうのもあるんじゃないの?」
 声に振り返ると、青龍とソックリの男性が御簾から出てくるところだった。

『せ、青龍さんが、二人??』

 よく見ると、目の前の青龍はひと房の髪が金色のような黄色とターコイズのようなブルーなのに、もう一人の青龍はトルマリンのような透明に近いような透き通るブルー。
 あとは、何から何まで瓜二つ。座る青龍と御簾の前に立つ青龍の両方をキョロキョロと見比べる瞳子と雪兎。

「おかえり。卯兎。やっと帰ってきたね」
「晦、まだ卯兎じゃないんだ。いまは『瞳子』というらしい。隣にいるのが夫の『雪兎』だ」
 晦と呼ばれた青龍もどきは、先ほどの青龍が見せた寂し気な自嘲するような笑みを見せて瞳子を見つめる。
「そうなのか。どう見ても卯兎なのに…」

「瞳子、雪兎、これは、オレの兄貴。晦だ。『黄龍八龍』はさっき説明したな?そのうちの、今の『蒼龍』が晦だ。見ればわかるが、双子だ」
「あぁ。双子・・・どうりで・・・。初めまして盈月雪兎と妻の瞳子です」
 雪兎は、手を差し出した。
 蒼龍は、その手を包み込むように両手で受けると自分の胸に引き寄せた。
「これまで卯兎を・・・いえ瞳子を守ってくれてありがとうございます。無事に会えて、こんなにうれしいことはありません」

 同じ顔、同じ声なのに、蒼龍の方は随分、物腰が柔らかい。
「ホントに双子なの?顔は似てるけど、性格は随分違うのねぇ」
 思ったことをすぐ口にしてしまう瞳子に雪兎が慌てて、頭を下げる。
「すみません。悪気はないんですけど・・・」
「そういうところも卯兎そのままなのになぁ・・・」
 寂し気に微笑みながら、ジッと瞳子を見つめる蒼龍は、青龍に向き直って言った。

「で?どこまで話したの?しづらかったら、私が話そうか?」
「いや、オレが話す。足りないことがあったら、助けてくれ」
 そう答えつつも青龍は、顎に手を当ててしばらく黙り込んでいた。
「ねぇ、朔。朔は卯兎の話の続きを考えてて。私はさっきの瞳子の疑問に答えるよ」
「さっきの?」

「あぁ。『「ひと」としてのカタチはなかった。でも料理したり、神子のお勤めはできたのか?』って話だよ」
「それって・・・っていうか、お前いつから御簾の裏にいたんだ?」
「う~ん・・・。『卯兎は、本当の卯兎になりたかった』って下りのちょっと前かなぁ」「そのちょっと前って、話の最初からいたんじゃないか。とっとと出てくれば良いものを!」
「まぁまぁ。私が出ないほうがいいこともあるかと思って、様子を見ていたんだよ。じゃ、さっきの瞳子の疑問に答えるよ?」

「知りたい、知りたい‼なんだかよくわからないもの。ねぇ雪兎?」
 瞳子が大きく身を乗り出した。
「わかった!わかった」
 蒼龍・晦が、瞳子の迫力にのけぞりながら後ずさった。

「じゃ、その話を晦がしてる間に、俺はどう話したら、瞳子が卯兎であることを思いだしてくれるか⁉考えるよ」

「どう話してくれても、私はわ・た・し。盈月瞳子よッ」
 そうは言いつつも、晦・蒼龍も瞳子になんと説明すべきか⁉考えあぐねている様子。
 青・蒼(せい そう)、二人の龍は、背中合わせに胡坐を組んだ姿勢のまま、同時に口元に拳を充て、同時にため息をついたかと思えば、また同時に上を向いてなにやら呟いている。
 全く同時に、同じポーズをとる二人を見ていると、二人の背中の間に鏡があるのではないかと思うほどだ。
 しばらくそうしていたが、先に動いたのは蒼龍・晦だった。
 瞳子の方に向き直り、いま一度、天を仰ぎ、青龍・朔に目を向けた。目が合った朔は、「お先にどうぞ」というふうに、仰向けた手のひらを横へ滑らせた。
 それを見た晦は、大きくうなずくと瞳子に話しかけた。

「瞳子、雪兎が持ってる盃の中には何が入ってる?」
「お酒でしょ?種類まではわかんないけど…」
「雪兎、私にも一杯くれるかな?」

 雪兎は、朔との間に置いていた酒や酒器の載せられたお盆を引き寄せると、徳利から酒を注いで晦に差し出した。
「瞳子さんも飲むかい?」
「日本酒でしょ?私はいいや」
「でも、コレ、瞳子さんの好きな白ワインっぽくて日本酒じゃないみたいだよ?」
「そうなの?じゃ、ちょっとだけもらおうかな?」
 雪兎は、薄いピンクの桜の柄のぐい呑みに酒を注いで瞳子に渡し、続けて朔の盃、自分の盃に酒を満たして、朔の前に朔の盃を差し出してから、晦に向き直った。
「お待たせしました。さあ、どうぞ」

「あはははは…伝え聞いてはいたが、瞳子と雪兎は仲が良いのだな。そして雪兎は優しいのだな。さすが、風菟(ふうと)の子孫だな」
「ふ、う、と…?僕の高祖父ですか?ご存知なんですか?」
 雪兎は高祖父の名を聞いて、グッと身を乗り出した。
 その思わぬ反応に晦は、未だ背を向けたままの朔に助けを求めた。
「あ…え?いや…わ、どうしよう。朔ぅ〜」

 呼びかけに横目でチラリと晦を見やって、大げさにため息をついて見せる朔に、晦はますます困惑の様相だ。
「ったく…言ってあっただろ。風兎の話は、今回はナシだって」
「そうだった?あの件を話さなきゃ問題ないのかと思ってたよ」
「あの件?あの件ってなんです?」
 雪兎がさらに身を乗り出して、晦に迫る。
 晦は、後ろ手で後退りながら、慄いて答える。
「そ、それは…(ぎょう)に。刑に聞けば詳しくわかる。刑に聞いてくれ」
「また、烏頭(うとう)さん…ですか…」
 雪兎はがっくりと肩を落としてしまった。
「雪兎、後で青龍さんが烏頭さんを呼んでくれるって言ってたじゃない。ね?後で烏頭さんに聞こう。雪兎の高祖父(ひいひいおじい)様の話。ね?」
「ん?俺?俺、そんな約束したか?」
「え?え?言ったでしょッ‼俺が呼べばすぐに来るからって‼」
「呼べば、来るとは言ったが、呼ぶとは言っとらん‼」
「あら?神様がウソついていいの?」
「あのなぁー…」
 躍起になって言い争いを始めた青龍と瞳子を見つつ、蒼龍は涙ぐんでいる。
「あぁ…何年ぶり…何十年、何百年ぶりだろうな。朔と卯兎の『ジャレあい』を見るのは…」

『ジャレあって、ナイッ‼』
 瞳子と青龍・朔に噛みつかれて、その勢いに思わず雪兎の背に隠れる蒼龍・晦。

「まぁまぁ二人とも。僕が悪かったよ。僕のコトは、瞳子さんの話が終わって落ち着いたら、考えてもらうよ。コレじゃ話が進まない。ね?青龍さん?瞳子さんも」

 雪兎が割って入り、二人はとりあえず言い合うのを止めたが、目線ではバチバチとヤリ合う気満々。でもそれは、本当にヤリ合う同士のモノではなく、確かに蒼龍のいう『ジャレあい』の域だ。
  
「話、始めて良いかな?」
 
『ハイッ』
 夫婦して居住まいを正して蒼龍・晦に向き直った。

「もう一度聞くよ。この中身は何?」
 瞳子・雪兎夫婦の顔を交互に見つめ、徐に持っていた盃を目の高さまで持ち上げて、晦が尋ねる。
 瞳子と雪兎は、顔を見合わせつつ、自信なさげに2人で声を合わせて応える。
『酒・・・ですよね・・・?』
 晦は黙ってうなずくと、今度は盆の上の徳利を手にした。
「じゃ、この中身は?」
『酒・・・です・・・』
 先ほどと同じく自信なさげに声を揃える2人。
 またしても、黙ってうなずき、今度は徳利の酒を赤い切子硝子のグラスに注ぎ、瞳子の前に置いた。
「じゃ、瞳子。コレは?」
「お酒でしょ?徳利の中身がすり替えられてなければ!」
「そんなことするわけないでしょ。する必要もない。なんなら飲んでみる?」
「い、いいわよ」
 慌てて遠慮する瞳子を上目遣いに見ながら、晦は自分の盃、グラス、徳利を前に並べた。
「さあ、この中で違うモノは何?」
 瞳子は、手品師(マジシャン)がするような手つきで両手を広げる晦を訝しげに見ながら首を傾げている。
「何をしたいの?マジック?お酒を何かに変えるとか?なに?」
「瞳子、私は卯兎の話をしたいんだよ。手妻を披露したいわけじゃない。素直に答えてくれていいんだよ」
「お酒が卯兎さんと関係あるの?う〜ん…」
 ますます訝しげな表情の瞳子だが、意を決したように口を開いた。

「素直に答えろというのなら、『器』が違うだけよね?盃、グラス、徳利。どれも中身はお酒でしょ?」

「そう!そうだ。『器』が違っても、中身は『酒』なのだ」
「それと卯兎さんに何の関係があるって言うの?」

 ― ここで言う『酒』は、精魂。
 『器』は、肉体だ。だから、『器』が変わっても中身は変わらない。
 わかるかい?変わっているのは『器』だけ。そして、ココ・幽世では『器』…いわゆる肉体に大きな意味はないのだ。
 『精魂』…これは現世に生きるモノも幽世に生きるモノも変わらず、生あるものに宿るもの。幽世ではこれがしっかりしていれば、肉体という『器』は必要ないのだ。
 しかし現世では、肉体という『器』がないことには誰にも認識してもらえない。だから卯兎は何度か器を変えながら現世を生きて、七度目(ななたびめ)のいま。卯兎は、瞳子という器にいるのだ。
 それから幽世の住人である私も朔も、いわゆる肉体はない。いま瞳子たちが見えているのは、私たちの魂のカタチなのだ。―

『え〜〜‼だって…ほら…え〜〜‼!』
 腰を抜かさんばかりに驚いて、口をパクパクさせながら、晦と朔を指差しつつのけぞる瞳子夫婦。

 ― 落ち着け!落ち着くのだ、瞳子よ。雪兎よ。
 最近の現世では、『魂』とか『精』よりも肉体が随分大切にされているようだが、昔は現世でも『魂』とか『精』が大切に考えられていたんだ。
 個々の持つ『魂』は、『精』の持つ核みたいなモノ。『精』は『魂』を象るものとでもいうかな。もうちょっとカンタンな言い方をすると、『魂』が持っている特徴を表わすのが、『精』。
 その『精』が姿形を成して、視覚的に見えていると言えば、わかるかな?  ―

「で、でも肉体がないと、モノを持ったり、動かしたりできないでしょ?それに、お酒飲んだり、食事したりできてるのはなんで?」
「現世でも神様や仏様にお供えしたりするだろう?あれって、お供え物を置いておいて、そのお供えはどうなってる?」
「お供えして、ある程度時間が経つと、とりあえず下げるわね。放っておくと腐らせたりするから、食べ物だと『お下がり』として、私たちが戴くかな」

「神様や仏様が召し上がった形跡はあったかい?」
「アハハハ~。あるわけないじゃない」

 ― ここでさっきの話に戻るよ。『精魂』の話。
 『精』はなんにでもある。『水の精』とか『木の精』とか言うだろ?モノにも思いを込めれば、『魂』が宿る。そこに『精』も生まれる。
 お供えは、神様や仏様への思いを込めて供えられている。お供えをもらった方は、その思い=『精魂』を戴くのだ。だから、カタチはそのままでもちゃんとお供えを戴いているということだ。
 そのものの真髄である『精魂』を頂いているのだから、ちゃんと味も味わってる。わかるかな⁉ ―
「ますますわからないわぁ・・・」
 瞳子は、首を振りながら盃を手に取って、眇めている。
「なんとなく、食べたり飲んだりっていうことができるのはわかったけど…モノを持ったり、動かしたりって、肉体がないのにどうして⁉」

「それは、元の話に戻るが、ココ・幽世や天界では肉体は必要ないからさ」
 蒼龍・晦は、周りをキョロキョロと見回すと、先ほど秋菟が瞳子たちに茶を淹れたときに使った茶さじを見つけて、瞳子の前に置いた。
「ここでなら、瞳子にもできるはずだよ。この茶さじを手を使わずに持ち上げてごらん」
「はぁ???できるわけないでしょ。ユリ・ゲラーでもあるまいし。ユリ・ゲラーだってスプーンは曲げても手を使わずに持ち上げるなんてできないわよ」
「ゆり?花の精か?花の精ならできるだろうな」
「違うわよ!ユリ・ゲラーっていうのはね、」
「瞳子さん、瞳子さん、見て!できた!僕、できたよ」
 さっきまで瞳子の目の前にあった茶さじが雪兎の前に移動している。
「うっそぉ。ホントに?私が見てない間に動かしたでしょ?」
 瞳子は疑いの目を向けている。
「ホントだって!もう一回やってみるよ?」
 そう言うと、雪兎は茶さじに手を翳して、「ウンッ」と気合を込めた。
 茶さじは、プルプルと震えたかと思うと、スーッと滑って瞳子の前へ。
「え?え?なんで?すごいじゃない!超能力?いつの間にそんなチカラ身に着けたの?雪兎ったら!」
「超能力じゃない。なんていうのかな・・・ちゃんと自分で瞳子さんの前に茶さじを滑らせた感覚が手にあるんだ。瞳子さんもやってみてよ。僕にできたんだから、きっと、瞳子さんも…」
 雪兎に促され、瞳子は自分の前にある茶さじに、雪兎と同じように手を翳して気合を込めた。…が、茶さじはピクリとも動かない。「ダメだ」という顔で雪兎を見ると、蒼龍・晦が口を挟んだ。
「瞳子、動かしてやる!と思うんじゃなくて、自分で茶さじを取ろうと思ってごらん。普通に手に取るときのように」
「そんなこと言われても、普段、いちいち『茶さじを取りましょう』なんて考えて手をうごかすことなんかないもの・・・」
 文句を言いつつも、もう一度茶さじに向き直って、手を翳す瞳子。今度は、目を閉じて、静かに呼吸しつつ、掌を上にして手を翳している。
 そうして数十秒。
「瞳子さん、瞳子さんすごいよ!え?信じられない」
 雪兎の大声で、目を開けた瞳子。雪兎の指さすところを見ると、瞳子の掌に茶さじが載っている。
「え?なんで?雪兎が置いた?蒼龍さん、あなた?」
 瞳子は信じられないという風に、二人の顔を見るも、二人とも静かに首を横に振っている。
「私たちが瞳子の掌に茶さじを載せたか?どうか?それは、瞳子が一番よくわかってるんじゃないのかい?」
「そう言われれば、私、茶さじの感触が手にある。摘まみ上げた感じが指先に・・・」
「ん。そうだ。それが肉体がなくともモノを動かしたり、料理ができたりってコトにつながるんだ。わかってもらえたかい?」
 蒼龍・晦が、優しい笑みを湛えながら、瞳子の目を覗き込んだ。
「ま、まぁ、そういうことができるってことはわかったわ。でも、いちいちこんなに集中しなきゃいけないってひとつ物を動かすのに、すごい労力がいるわよ?」
「瞳子、さっき、茶さじを動かす前、なんて言ったかな?『いちいち『茶さじを取りましょう』なんて考えて手をうごかすことなんかない』って言ったな?いまの瞳子たちは、肉体があることに頼って暮らしているから、集中しないと動かせないっていうけれど、私たちにとっては、もう当たり前のことで、いちいち考えて動かすことなんかないんだよ。瞳子たちが無意識に手足を動かすのと同じだ」
「うーん・・・完全に理解するには、まだもう少し時間が必要かもね。まだ、右から左へ『はい、そうですか』って納得はできないけど、なんとなくは、わかったわ」
「それでいいのだ。なにもかもすべてをいますぐわからなくても。少しづつ思い出せばいい」
 蒼龍・晦は、満足げに笑うと、持っていた盃の酒を飲み干した。
「さぁ、どうだ?そろそろ話がまとまったかい?」
 晦が朔を見やると、朔はまだ頭を抱えたままのうえ、どうやら、泣いているようだ。
「朔?泣いてるのか?大丈夫?」
「泣いてないっ!大丈夫だっ!」
 勢いの割には、声は鼻声で泣いているのは明白だ。
 晦は、少しため息をつきながら、朔の背を叩いて一緒に俯いていたが、不安そうに見つめてる雪兎と瞳子の方を見て、大丈夫という風に頷いて見せた。
「ねぇ、朔。私も力を貸すから、どうかな?話すんじゃなくて、あの日のことを雪兎と瞳子に幻視で見せるっていうのは・・・。たぶん、私たちがあれこれ話すより伝わるよ。なにより、瞳子は卯兎なんだから」
 その言葉に、ハッとして晦を見た朔は、大きく頷いて、朔の右手を握ると、左手を差し出した。晦は朔の差し出された左手に自分の左手を重ねて、二人で印を結ぶと、揃った声で厳かに(ことば)を唱え始めた。

 空間がグニャリと歪み、周囲が薄い黄色の靄に包まれた。その靄の向こうに、ぼんやりと映し出された映像は、まるで3Ⅾの映画を見ているような臨場感だ。
 いや映像というより、そのときのその場に、瞳子も雪兎も入り込んでしまったという方が合っているかも知れない。
 *~*~*~*~*~*~*~*~*~*~*

「卯兎、さすがだな。よしっ。皆揃った。始めよう、懐かしの宴を!」

 黄龍の一声で、皆、盃を持ったところで、卯兎が声を上げた。
「黄龍様、せっかくでございます。上の月見棚へ出てみませんか?今日は暖かいですし、夜風も気持ち良うございますよ。皆で上限の月を眺めながら…というのもよろしいでしょ?湯冷めせぬよう、何か羽織るものをお持ちしますので」
 月見棚は、幽玄館本館の二階の広間からせり出た板場で、その名の通り、満月の際にはそこで月見をしたり、神事のあとの宴の際の余興などで芝居や踊りを披露する舞台代わりにも使われたりする場所である。とは言え、普段、卯兎たちが勝手に使えたりする場所ではなかったが、この日は身内の宴とはいえ、黄龍の宴。反対できる者などあろうはずがない。
「卯兎、それは良い。なに、御大のお召し物なら、ほれ、ここに。湯のあと、ここへ寄られるだろうとお持ちしているの」
 最初に卯兎の提案に弾んだ声で応えたのは、黄龍の妻で、蒼・青の双子龍の母、姫龍だった。
「姫は、よく気が回るのぅ。じゃ。『上限の月の宴』の続きとまいろうか」
 黄龍の声に、全員が腰を上げた。
「あ。盃はご自分のをお持ちになって棚へお上がりください。後のものは、私たちが運びますので」
 卯兎は、鬼堂・鬼丸に腕を絡みつけてしなだれている結卯に目くばせをする。
 卯兎に目くばせされて、唇を尖らせながら、未練たっぷりに鬼丸に絡みつけていた腕を解いて、卓上に並べられていた皿や料理を盆に載せ始めた。
「私も手伝うよ」
 蒼龍・晦が、結卯に続いて手際よく盆に皿や料理を載せると立ち上がって運び始めた。

 月見棚に全員が揃い、腰を落ち着けたのを見計らって、黄龍が再び声を掛けた。
「さぁ、今度こそ始められるな。ん?皆、良いか?」
 黄龍が皆の顔を見回して、盃を上げる。それに倣って、姫龍、蒼龍・晦、青龍・朔、鬼堂・鬼丸、結卯、そして卯兎。それぞれが顔を見回して、黄龍に向けて盃を上げた。
 ひととき、昔話に花が咲き、笑い、泣き、また笑って時間を過ごした。
「ところで父さん、何か私たちにお話があったのではないのですか?」
 話がひと通り盛り上がりを終えたところで、晦が口を開いた。
「うむ…そのことなのだがな…」
 口ごもり、考え込むような様子の黄龍。
「あ。ご家族のお話でしたら、私たちはお(いとま)を…ホレ!」
 鬼丸が結卯を急き立てて立たせると、卯兎にも顎を振って、下がるように指示した。
「いや、鬼丸、座ってくれ。お前たちにも居てもらった方がいいだろう。その方が卯兎も心強かろうて」
「え?私?私のお話でございますか?黄龍様直々に?」
『卯兎のこと?なんです?』
 双子龍が声を揃えて、黄龍に顔を寄せて迫ると、それを遮るように姫龍が二人の頭を撫でた。
「母さん、いきなりなにするんです?」
「なにするんだよ。いきなり。ガキじゃないぞ!」
「二人とも、卯兎のこと好きなのね。じゃ、お父様の話をしっかり聞いて。そして、考えて。卯兎のために。あなた方のために」

「卯兎、もう一杯くれぬか?」
 卯兎が黄龍の盃に酒を満たすと、黄龍はそれをひと舐めして話を始めた。

「卯兎、お前、どうして此処・幽世へ来たか覚えているか?」
 卯兎は、俯いて正座した膝に拳をギュッと握りしめたまま、首を横に振る。
「結卯、お前はどうだ?」
「私…かなり昔だから…」
「でも、覚えておるだろう?」
「・・・・あの、私・・・あたしんちは貧乏で、兄ちゃん二人は父ちゃん母ちゃんの仕事を手伝ってて…姉ちゃんは村でも評判の美人。だから綺麗な着物(おべべ)着て、おいしい御飯(おまんま)が食べられる御大尽のところへ行けるって。そのうえに、父ちゃんたちもお(ぜぜ)貰えるって。姉ちゃんと私の間にいたもう一人の兄ちゃんは死んじゃって…。それから…それから弟が生まれて。可愛い子で、あたしがいつもおんぶして面倒みてたんだぁ・・・弟が一歳ひとつになって間もなく飢饉続きで、一家七人、食うや食わずやの日が何日も続いて・・・。姉ちゃんがお大尽の家へ行くのが決まった日。父ちゃん、母ちゃんと握り飯持って山へ・・・。麦や稗だったけど、でも久しぶりの大きな握り飯。うれしかったなぁ。そう、姉ちゃんが十日後に家を出るって決まったから、姉ちゃんに家で染めた布で御守袋作って持たせるのに、その布を染めるのに、(えんじゅ)の蕾や桑の葉や山桃の樹皮なんかを採りにね。父ちゃんと母ちゃんとあたし。握り飯持ってね。・・・いっぱい採れて、『疲れたろう?握り飯おあがり』って母ちゃんが…。あたし、うれしくって。3つ持ってった握り飯、全部食べていいって。うれしかったけど、(しん)に…弟に持って帰ってやろうってひとつは、食べずに懐にしまっといたんだぁ。でも、あたしが握り飯食べてる間に、父ちゃんも母ちゃんもいなくなってて、泣いて叫んだけど、見つからなくて・・・」
 結卯はだんだんと涙声になり、声が詰まり話せなくなった。

「結卯、もういいよ。もう思い出さなくていい」
 卯兎がそんな結卯の肩を抱き、背を撫でてやりながら、黄龍を睨みつけた。
「いくら黄龍様でもひどすぎます!結卯の辛い思い出をわざわざ掘り返さなくてもいいじゃないですか!それと、私の話。何の関係がっ?」
「悪かったな。悪かった、結卯。そんなつもりはなかったんだ。許してくれ。な?」
「黄龍様、もったいないことでございます。()うの昔のこと。私も忘れてしまっておりました」
「そうじゃの。忘れてても思い出すことはあるものだ。じゃが、卯兎はどうじゃ?」
「あ、私は・・・。気づいたら、鬼界ヶ原の端にいて、結卯が泣いてて・・・」
「それ以前のことは思い出せないのだな?あ。いや、責めとるわけではないぞ。仕方のないことなのじゃ。でも、もし覚えておったら・・・とな」

『仕方のないこと?』
 双子龍、鬼丸、結卯、卯兎が声を揃えて聞き返した。

 ― うむ。
 いま聞いた通り、結卯はいわゆる口減らし…すまんな結卯…で、幽世との境に置き去られた。飢えて、命が尽きる寸前で鬼界ヶ原にたどり着いたところを兎士郎と刑に見つけられて、幽玄館へ来た。
 そのとき一緒にいた卯兎も連れて来たんじゃ。姉妹かと思っての。だが、結卯に尋ねても知らぬという。肝心の卯兎は、喋ることができぬ状態じゃった。
 卯兎は、どこから来たのか?なぜ来たのか?誰にもわからなかったのじゃ。
 現世(うつしよ)のひとが、様々な理由で子を幽世との境へ置き去ることが多かった。いまもまだ、あるがの…。悲しいことに。その子らは、飢えて死んだり、獣に食われたりで死んでしまえば、鬼界ヶ原へ来る。その後は鬼界ヶ原の鬼たちが虹の橋まで導いてやる。来世は幸せな人生であることを願いながらの。生きて幽世に迷い込んだ者は、兎士郎や刑が保護して、幽世各所の神殿や宿で引き取ってやっていた。
 そして引き取るには、黄龍である私の許可が必要だった。だから、いろいろ調べたのだが、私にもわからん。あやかしの子ではなく、ひとの子だとはわかっていた。だが、死んで鬼界ヶ原へ来たのか?結卯のように死にかけて鬼界ヶ原へ来たのか?生きて迷い込んだのか?なにより、卯兎は肉体を持たずに此処へ来たようだった。
 わからぬことだらけの子を引き取るべきか?どうするべきなのか?だから私は、天帝にお伺いを立てた。
 天帝からのお答えは、一言。「お前に任せる」とのことだった。そこで、我らで育ててやることになったのだ。
 見つけられたときに一緒だったせいか?卯兎は、結卯とは心通じてるようで、喋らない卯兎のことを結卯が一番理解しておったからの。別々の神殿や宿で預かるより、同じところがよかろう。そして卯兎の素性がわからん以上は、兎士郎に、私に近い幽玄館 龍別邸が良かろうということになった。
 そこから後は、皆も知っての通りだ。
 喋れなかった卯兎が神子の仕事もソツなく熟すようになり、龍籍を得て、もうかなりの年月が過ぎたな。―
「信じられないな。卯兎が喋れなかったなんてな」
 青龍・朔が、おどけた表情で真っ青な顔で震えている卯兎の顔を覗きこんだ。
「いまじゃ、祭主とそれが仕える神まで、木べらひとつで動かすくらいになった」
 蒼龍も笑顔で卯兎の顔を覗きこんだ。
 卯兎は、震えながらもコクコクと首を振り、大丈夫だという風に手を振った。その姿を見て、青龍が黄龍に続けて尋ねた。
「で?父さん、その卯兎の生い立ち?いや、此処へ来た経緯と今夜の話は何が・・・?」
 ― そうだな。ここからが本題だ。―
「前置き長過ぎだろ!」
「朔、いいから続きを聞こう」
「なんだよ。晦は、いつもいい子だな」
 双子のそんなやりとりを微笑みながら聞いていた姫龍が口を開いた。
御大(おんたい)、お疲れでしょう?少し、お飲みになったら?続きは私がお話ししましょう」

 ― 御大…現・黄龍様が遠からず引退なさることは、皆さんご存知よね?
 黄龍が交代するということは、その黄龍の代に職に就いていた者、龍籍に入った者は、一旦、その身分を解かれる。
 兎士郎や秋菟は、神薙としてこの神殿に残るだろうから、龍籍も職もそのままだと思うけど、卯兎や結卯、鬼界ヶ原の珠鬼(たまき)なんかの、幽世で保護されて育った子らは、一旦、その職を解かれて、龍籍も返上となるわね。あぁ、兎朱(とあけ)は別ね。あの子は、御大から龍籍をいただいたけれど、いまは鳳一族だから。その籍の責務は鳳にありますからね。
 問題は、その龍籍から抜けた後のことなのよ。
 新たな黄龍がその籍に就いて、天帝から御赦しをいただいて、黄龍としての職権を揮えるようになるまでの時間。私たち神族やあやかしにとっては、そんなに長い時間ではないけれど、龍籍を失った「ひと」にとっては、十分すぎるくらい長い時間かもしれない。
 その長い時間の中で、結卯や珠鬼は歳をとっていくだけだろうけれど・・・。
 さっきの話の中で、御大は、ハッキリ言うのを避けたのだけど・・・。
 卯兎、ごめんなさいね。ハッキリ言うわね?
 卯兎は、ひととして現世(うつしよ)で生を受けることのないまま、幽世へやってきたのよ。―

「ひととして・・・現世で・・・生を受けてない・・・。私・・・ひとじゃないの?あやかしでもないなら、バケモノ??」
 卯兎は、ガクガクと震えながら、尋ねた。
「うーん・・・バケモノだなんて、そんな言い方・・・。違うのよ。違うの。確かに、子どものまま『生成(なまな)り』になりかけてはいたんだけど、そうならずに済んだ。ひととして現世に生まれられなかっただけなのよ」
 姫龍は卯兎を我が子を慈しむように抱きしめた。
「『生成り』って・・・?」
 結卯の問いに姫龍が答えようとするのを遮って、黄龍が口を開いた。
「姫、言いづらいことを言わせて悪かったな。ありがとう。ここからは、私が引き継ごう」
 黄龍は、手元の盃をじっと見つめ、ひとつ息をついてから、ゆっくりと語り始めた。その瞳の奥には、後悔とも哀しみとも呼べそうな苦渋の思いに揺れていた。

 ― 本来、『生成り』は、執念や怨念に取りつかれ、般若にも成れぬ、「ひと」にも戻れぬという者がなるのだがな。
 卯兎の場合、すでに「ひと」でもなく「あやかし」でもない存在だったからな。でも、「ひと」になるはずだったその魂は、現世に生まれなくとも、現世への、いや現世の何者かへの?なにかへの強い執念や怨念を抱いたまま幽世へ来た。
 その暗い思いが強すぎたのか?虹の橋を渡れずに幾年か過ごした頃、瀕死の魂で現れた結卯と出会ったことで、『生成り』にならずに済んだ。
 そして、そのまま今日まで来てしまった。その『「ひと」でもなく「あやかし」でもない存在』の者に、私が龍籍を与えた。が、知っての通り、私は黄龍の任を解かれる身。私が黄龍でなくなれば、私が龍籍を与えた者たちは、龍籍を離脱することになる。新しい黄龍の就任後、また龍籍を得られる者もいれば、得られない者もいる。―

「ちょっとお待ちください。龍籍の与奪権は『ときの黄龍』のモノではないのですか?父さんの次は、朔という天啓が示されたのですから、朔がそうと決めれば、与えられるのでは?」
「大抵の者は、時を過ごしても、また龍籍を得られるだろう。だがな、晦。卯兎は龍籍を離れれば依り代を失う。そうなったら、卯兎がどうなってしまうのか?私にもわからん」
「わからんって、卯兎は、卯兎はどうなるんだよ!何か方法があるだろ‼」
 掴みかからんばかりの青龍・朔を抱きとめたのは、当の卯兎より涙を流している鬼丸だった。
「朔、やめろ!黄龍様だって、お辛いのだ」

「卯兎が消えることも、生成りになることもなく、再び私たちと会える方法がひとつだけある」
 卯兎の背を撫でながら、黄龍も涙にくれている。
『なんですっ?そのひとつって!』
 双子龍と鬼丸が声を揃えて、黄龍に向き直った。
「それはな…、魂の旅をすることだ」
「魂の、旅・・・?」
 泣き腫らした目で黄龍を見上げる卯兎に今度は姫龍が続ける。
「虹の橋を渡り、魂の洗浄を受け、新しい魂で現世へ降りるのです。そして、ひととしての人生を終えて、此処へ戻ってくるのです」
「母さん、それは・・・それは・・・それは、いまの卯兎に死ねと言っているのですか?」
「晦、そうじゃないの。生まれ直しをしたら、此処へ戻れるのよ」
「でも、卯兎は、いまの卯兎はいなくなってしまうじゃないか!」
「朔、卯兎は、卯兎ですよ。生まれ直しても、魂の本質は変わらない。何度生まれ直しても、卯兎は卯兎なんですよ」
「何度?何度って、どういうことです?一度じゃないんですか?」
「あら?言わなかったかしら??ホホホホ・・・」
 取り繕うように笑う姫龍の手を両手で包み、頷きながら皆を見回した黄龍。
七度(ななたび)じゃ。七度(ななたび)の魂の旅を終えたら、幽世の住人となることが許されるはずじゃ」
『七?七度(ななたび)?』
「魂は一度の生まれ直しでは、天界から幽世に降りることは許されん。現世で大きな貢献を果たし、幽世で暮らしておるひとでも、最低でも三度(みたび)は生まれ直しておる。ましてや卯兎は、一度も現世を生きておらん。七度(ななたび)は必要だろう。七度(ななたび)の魂の旅を終えたのち、天界で魂の洗浄を受けたのち、また現世に戻るか?幽世に降りて暮らすか?選べるはずじゃ」

「もし、それをしなかったら・・・もし生まれ直しを選ばず、朔が黄龍様になるのを待つとしたら…そしたら、私は、私はどうなるんでしょう?」
「卯兎は生まれ直すのが嫌なのか?怖いのか?」
「黄龍様、私を今日まで育てていただいて、心から感謝しています。私がここで真っ当に暮らしてこられたのは、黄龍様のおかげだとわかっています。でも、私がこのままだとどうなるか?黄龍様にもおわかりにならないんですよね?私、このまま朔の黄龍様を待っていても、変わらずいられるかも知れないんですよね?もし、私がバケモノに変わってしまうようなことがあれば、そのときは迷わず成敗してくださって結構ですから。私、このままではいけませんか?お願いします」
 卯兎は、板に頭をこすりつけるようにして泣きながら土下座している。
 黄龍は、腕組み、顰めた顔を斜め上に向けたまま、軽く握った片手を口元に添えて、なにやらブツブツとつぶやいた。
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 泣きながら土下座していた卯兎は、周囲が静かなことに気づくと、そっと頭を上げて周囲を見回した。
 そこには、四体の龍と鬼、ひとの子らしい女の子、異形の者たちが楽し気に笑いさざめきながら酒を酌み交わしている。
どこかで見たことあるけれど・・・?そして、そこにいる面々が何か話しているのに、その言葉はわからない。
ジッとみていると、青い龍がこちらにうねうねと近づいてきた。何か言っているけれど、意味が分からない。
ジリジリと近づいてくる龍。
 卯兎は、周囲を見回すと竹を切る用の手斧があった。龍から目を離さないように、注意深く手斧を手元に引き寄せると、しっかり両手で握って身構えた。
 戦闘態勢の卯兎にも構わず近づいてくる龍に向かって、叫びながら、手斧を振り回すと、スパーンっと龍の尾が切れた。切れた尾は、パタパタと別の生き物のように、動いている。
 それを見ていたら、ますます恐怖が募ってきて、目を瞑って、ブンブンと斧を振り回すと、断末魔の叫びが響くとともに、聞き覚えのある声がした。
「卯、兎・・・な・・んで・・・」
 我に返った卯兎が目にしたのは、青龍の姿に戻った朔だと気づいたときには、青い龍はぶつ切りにされて、息絶えている。結卯の闇を切り裂くような悲鳴。鬼丸の怒号。蒼龍や姫龍、黄龍の声。
 手にした斧を見ると、おどろおどろしいほどの血が滴り、汗か涙かわからないモノを手で拭うと、手にはベットリと血が…。我が身を顧みると桶で水を被ったくらいの、返り血を浴びている。
 もう動かなくなり、血だまりで息絶えている青龍。その他にも、弥狐や紗雪の白い髪も血で真っ赤に染まって、血だまりに倒れている。
 皆の声、返り血、それらが卯兎の目の前でクルクルと風車のように回る。
 *~*~*~*~*~*~*~*~*~*~*

「うあぁあぁぁぁ~~~~」

 突然、震えながら卯兎が自分の両手を見つめて、何か恐ろしいものを見たかのような叫び声をあげて後ずさった。
「卯兎、どうしたの?」
 卯兎の顔を覗き込んで尋ねた結卯の肩を突き飛ばすと、戸を開けて弾かれたように飛び出していった。
 卯兎の恐怖に震える叫声が廊下に響いていた。

 卯兎の後を追ってきた朔。確かに、めし処の方へ来たはずなのに、見つからない。
「卯兎、出てこい。いるんだろ?あれは、夢なんだ。な。俺を見ろよ。元気だ!手足もある。鱗一枚、剥がれてない」
 カタンっ・・・・。

 音に振り向くと、厨の棚の扉が小さく揺れて動いている。そーっと、その扉を開けると、膝を抱え、その膝の中に頭を埋め込むように丸まって震えている卯兎。
 青龍は、屈み込んで柔らかく卯兎の頭を撫でる。イヤイヤをするように(かぶり)を振る卯兎。そっと腕を差し入れて、卯兎を抱き上げて棚から引き出すと、そのまま座敷の方へ歩き始めた。
 翌日の座敷の準備をする宿の面々とすれ違っても、二人の姿を認めると黙礼して行き過ぎる。卯兎が仕切った『上弦の月の宴』の座敷を通り過ぎ、寝所のある三階へ上がり、自分の部屋に入り、卯兎を抱いたまま座る青龍。
 上弦の月に雲が掛かり、ひと雨来そうな空なのは、天気・気候を司る青龍の心がいまにも張り裂けそうなせいなのかもしれない。
「卯兎、卯兎…あれは、父さんの幻術の中での出来事だ。卯兎は、誰も傷つけてない。そんなこと、できるわけがない」
「私のなかに、邪悪なモノがあるから、あんな幻影を見た。清浄なモノが血に塗れるワケがない…」
 涙声で卯兎が答える。
「私はココにいると、いつか、ここの誰かを傷つけてしまう。 黄龍様のおっしゃるように、魂を磨く旅に出るべきなんだわ。 朔や晦、結卯や鬼丸や寅太、紗雪、弥狐…みんなを傷つけてしまう日が来てしまう。そうなる前に、私は此処を出ていく」

 ひととき涙に暮れていた卯兎は、意を決したように、青龍・朔の膝から降りて、朔に向き直った。
「朔、いままでありがとう。黄龍様の仰る通りだと、七たびの魂の旅を終えたら、また、此処へ戻ってこられるはず。それまで待っていてくれる?」
「当たり前だ。俺が待ってなくて、誰が待ってると思う?」
「ん?晦とか?鬼丸とか?結卯・・・弥狐・・・紗雪・・・あとは、・・・」
「あ~~‼もういい!俺が、俺だけが、絶対待ってる‼」
「アハハ・・・ありがとう」
 目を真っ赤にしながらも、大きな笑顔を見せて、卯兎が立ち上がった。
「じゃあね」
 卯兎は、戸を引き開けると青龍の寝所から走り去っていった。
「ま、待て!卯兎!」
 青龍・朔は慌てて、卯兎を追ったが、もうすでに姿が見えなくなっていた。
 青龍は、全身に力を込めると、龍の姿になり、大きくうねると、北の鬼界ヶ原を目指した。表へ出て、卯兎を探していた鬼堂・鬼丸がその青龍の姿を見て、後を追って走り出した。

 ようやくたどり着いた鬼界の端。鬼界ヶ原きかいがはら。光の湖うみのほとり。たんぽぽの綿毛のような花をつけた草が一面に広がり、月明かりに照らされて風に靡く様は、金色のじゅうたんのようだ。
 そこに茫然と立ち尽くす卯兎。
「卯兎…」
 遠慮がちに声を掛けたのは、青龍・朔。
 卯兎はその声に振り向きもせず、ジッと光の湖を見つめている。
「卯兎、危ないぞ。光の湖に落ちたら、地の底へ落ちて戻れなくなるぞ」
 鬼界を仕切る鬼堂・鬼丸が続けて声を掛ける。
「鬼丸…私、思い出したの…」
 朔と鬼丸に背を向けたまま卯兎が口を開く。
「私、ここへ来たの。お母さんと。いやお母さんになるはずだったひとと。お母さんが虹の橋を渡るのをここで見たの。ひとりになるのがイヤで、お母さんの後を追いかけて虹の橋に足を掛けたら、私の足元の虹が消えて、光の湖へ落ちた。深く深く落ちていくなか、光の糸が下りてきて私を引き上げてくれた…」
「光の湖へ落ちて、引き上げられた⁉そんなことがあるのか…それより、此処の鬼たちが卯兎に気づかなかったなんてことがあるのか??」
 長く鬼界を仕切る鬼丸は不審顔をしながら首をかしげている。
「鬼丸、それより此処、虹の橋のたもとのはずだろう?なぜ、虹の橋が架かってない?」
「上四龍の青龍様でも、それはご存知ないか?」
 鬼丸は片方だけ口角を引き上げて、笑いつつ横目で朔を見る。そして、左手で湖のほとりにある大きな鬼桃の樹を指して答えた。
「あの鬼桃の、すぐ向こうに虹の橋は架かる。ただし、渡る資格のない者が来ても橋はその姿を見せない」
「姿を見せないって…。じゃ、卯兎には渡る資格がないというのか?」
「ここまで来て…。なんでっ⁉」
 卯兎が鬼丸に駆け寄り、腕を掴んで鬼丸を揺さぶるようにして、何度も尋ねた。あまりに大きく揺するので、鬼丸の手にしている錫杖がシャラシャラと不規則な音を立てている。
「なんで?なんで、私だけ?あのときも。今日も!なんで、私は虹の橋を渡れないのっ!」
 鬼丸は左手で、自分の腕を握り締める卯兎の手を包み込んで、唇を噛み締めた。
 柔らかな風が吹き渡っているのに、鬼桃の大樹の向こう側だけはまるで無風状態のように、重く霧が立ち込めている。
「卯兎、前に虹の橋を渡れなかった理由は、俺にはわからん。だけど、今日は…今日は俺が必ず渡らせてやる!」
「朔、お前、そんな安請け合いして、また卯兎を泣かせるようなことになったら…」
「いや、大丈夫だ!理由はわからんが、父さんはこうなること、読んでいたようだ」
 青龍は、懐に入っているモノを確認するように胸に手を当てて、自信ありげに答えた。
「黄龍様が?こうなること…?卯兎が虹の橋を見つけられないってことを先読みされていたというのか?」
「あぁ。たぶんな」

 青龍・朔は、父・黄龍から預かってきた黄龍の髭と鱗で作られた「黄龍の証の扇」を懐から取り出すと天に向けて大きくひと扇ぎして、片膝をついて俯いて手を合わせた。
 並んで立っていた鬼丸も青龍に倣って手を合わせて俯いている。それを見ていた卯兎は、慌てて居住まいを正して正座し、青龍達に深く頭を下げた。
「天帝よ。いまひととき、我・青龍が黄龍の名代とし、この者に龍籍離籍を申し渡す。加えて七たびの魂の生を終えたのち、この者、再びこの地に戻りて龍籍を与え給うこと臥して願うものなり。是、黄龍とその八龍の総意なり」
 静かな鬼界ヶ原の綿毛の草原に強いが優しい一陣の風。穏やかな光が一筋降り注ぎ、卯兎を照らしだした。
 淡い黄色に照らし出された綿毛の草たちのなかにいる卯兎は、そのまま空に浮かぶ鮮やかな黄色に輝く上弦の月に召されていくかのように思えた。
「青龍よ、おのが欲にての願いを八龍の願いと偽れば、おのが命どころか、現・黄龍の命も危ういこと、わかっておるな?」
 静かに体に染み渡るような、それでいて身をすべてを預けてしまいたくなるような包容力のある声が響く。
「おのが欲がないとは申しますまい。しかし八龍の総意ということには、相違ございません。この者には、八龍それぞれが世話になり、それぞれがこの者に対する深い思いを持っております。此処に、八龍の連名書状も持ち参じました」
 青龍は、両手で書状を掲げ、深く頭を下げた。
 ふわりと青龍の手を離れた書状は宙に浮き、ハラハラとその紙が解かれると、空に橋を架けたように広がった。その刹那。ホウッと静かな音を立てて書状が金色こんじきの炎になり、スッと吸い込まれるように消えた。
「皆の思い、しかと受けとった。元々、龍籍の与奪は代々の黄龍の与り。好きにせよ。ただし、七たび後にこの地に戻りて暮らすか否かは、私も黄龍も与り知らぬ。その者の好きにさせよ。その者が望めば、そのように」
『ありがとうございます』
 青龍、鬼丸、卯兎の三人は、天を仰ぎ。手を合わせたのち、深く頭を下げた。
 卯兎が青龍達に何か言おうと口を開きかけたとき、一瞬、空が煌めいて再びの声が聞こえる。
「青龍よ。七たび目の生をこの者がどのように生きたか?それが決め手になるやもしれぬ。その如何によっては、八たび、九たびと生を重ねることになるやもな…あるいは、七たび目の生が閉じる前に、幽世を思い出せば…」
 言葉の最後は、煌めきとともに消えてしまった。
 暫しの静寂が広がり、風が止むのを待っていたように鬼丸が口を開いた。
「おいっ、朔、お言葉聞き取れたか?」
「い、いや・・・最後は・・・ともかく、七たび。七たびの生を受ければ、卯兎はひととしての魂の旅を終えられる。そして、我らの元に戻ってこられる」
「それはそうだが、最後のお言葉・・・『七たび目の生が閉じる前に、幽世を思い出せば』なんなんだ?それより思い出さなければどうなるんだよ?え?」
「俺が知るかよっ」
「私、きっと思い出すよ。ううん。忘れないよ。朔も晦も鬼丸のことも。結卯や紗雪、弥狐・・・それから兎士郎様に叱られたことも。忘れられるわけがない」
「だよな?鬼丸は、心配性すぎるんだ」
 鬼丸は、苛立たし気にシャンシャンシャンっと鳴らしながら、錫杖で地を突くと、地団駄を踏んで、二人に割って入った。
「わかってない!お前たち、二人とも。なーんにもわかってない‼」
 鬼丸が怒っている理由がわからず、青龍も卯兎もキョトンとしている。
「いいか?今生の記憶があるのは、虹の橋を渡るまでだ。そこから先、天界に入れば、魂の洗浄を受ける。今生で受けた魂の記憶は、天界の光によって洗い流される。わかるか?洗い流されるってことは、失くなるってことだ。天界の光が魂の修行となったと認められる経験だけが魂の奥底に残される。その残されたものは受け継がれていくが…。卯兎は、これが初めての魂の旅。一度も「ひと」として生きた経験がないのだから、ここでの日々が魂の経験として認められるとは思えん。まっさらな、純白の魂として、一度目の旅を始めさせるはずだ」
 一気に喋りきって、鬼丸は大きな息を吐いて、地べたに胡坐をかいた。
 卯兎は、さっきまでの泣き腫らした目をまた赤くして潤ませて、青龍を見上げている。当の青龍は両手で支えるようにこめかみを押さえて目を閉じている。
 ふわりとした風が3人を包んだかと思った瞬間。それまでの霧が晴れ、目の前に大きな虹が現れた。
「あれが、虹の橋…」
 赤くなった目を見開いて卯兎がつぶやく。
「さぁ、旅立ちの時間だ」
 鬼丸が錫杖を頼りに立ち上がると、虹のたもとにたわわに実をつけた鬼桃樹からひとつ実を捥いで卯兎に握らせた。
「ほれ、鬼界ヶ原の鬼桃だ。齧りながら行け。ひと口ごとに、いままでの思い出のなかでもお前のなかで飛び切り楽しかった思い出が蘇る。ひとりきりで渡る虹の橋だが、寂しい思いをせずに済む。そして、食べきって橋を渡り切る頃には、お前はいまの姿形を捨て、魂のみになっているはずだ。そして、魂の洗浄を受け、新しいお前に生まれ変わるのだ。来世を達者で生きろ!そして、必ず此処へ帰って来い」
 鬼桃を握らせた卯兎の手を両手で包むように握りながら、鬼丸は泣くまいと唇を噛み締めつつ、鬼界の鬼としての仕事である虹の橋への手引きをした。
 卯兎は、握りしめられた手を見つめながら「うん、うん」とうなずいている。
 青龍はまだ先ほどの姿勢のまま目を閉じている。
「朔、朔っ!早く別れをしてやれ。卯兎がいつまでも旅立てんではないか!これは、いわば卯兎の門出だ。祝いだ。笑って送ってやれ!」
 ドンッと青龍の背を叩き、鬼丸は洟を啜りあげている。
 その後もしばらく目を閉じていた青龍を見て、卯兎は諦めたように背を向けて虹の橋へと歩を進めた。
「卯兎っ!待て!まだ、私の咎めを受けてないぞ!どんな咎めでも受けると言っただろ!」
「おい、おい。朔…。いい加減にせんか。もうそのことは良いではないか。天帝様へのご挨拶も済ませて、こうやって虹の橋も姿を見せた。サッサと送ってやらねば、また卯兎は橋を渡れぬぞ」
「いや、良くない!今生の咎めは、今生受けて行け!」
 卯兎は、橋に足を掛ける手前でクルリと振り返った。
「朔、今生、最後の朔の頼み。聞いてあげるよ。なに?」
「ちっ。その物言いは気にくわんが、時間がない。手を出せ!」
 卯兎は、両手で包むように持っていた鬼桃を右手に持ち、左手を差し出した。
「はい。これでいい?」
 青龍は、卯兎そばへ走り寄ると、手のひらを上に向けて差し出されたの左手を両手で包み、甲が上になるように返すと、薬指を摘まみあげ、そこに唇を寄せた。
 ・・・・・・・・・

「いっ痛ぁ~い‼」

 鬼界中に響き渡るかと思う卯兎の叫び声が響いた。
「ちょっと、アンタ、何するのよ‼ひとの指を噛むとかありえないでしょっ‼」
「どんな咎めでも受けると言っただろ」
「言ったけどさ、アンタも『神』ならもうちょっとらしいこと、思いつかなかったの?噛むなんて、子どものすることだよ!ホント、痛いわぁ」
「『神』だから・・・だ‼『神』にしかできぬことだ。龍の犬歯の歯型は★になる。★型は魔除けとなろう。そして卯兎のその疵には、龍神の神気が宿った。しかも通常の数倍の念を込めておいたからな。何回、魂が洗浄を受けようとも、その疵は消せぬ。卯兎のこの先を魔除けとしてずっと守ってくれるだろう。そして万が一、卯兎が忘れてもその疵と神気で俺がお前を探し出す!」
「・・・・朔・・・・ありがと。いつの世の私もこの疵を見たら、きっと思い出すよ」
「達者でな。ひとの世の400年や500年は、神族やあやかしの幽世じゃ2~3か月と変わらん。すぐ逢える。またな!」
 卯兎は、虹の橋へ一歩踏み出した。
 卯兎が足を運ぶたびに、橋の色ひとつひとつがゆらゆらと揺らめくように輝きを放っている。二歩、三歩と進めていた足が止まり、肩が揺れている。
『卯兎、止まるな!振り返らず行け!』
 青龍と鬼丸は、涙声になりながら怒鳴っている。
 二人の声に、立ち止まり、俯いて、肩を震わせていた卯兎。
 肩で大きく息をして、鬼桃をガブリと齧って笑いだした。そして二人に背を向けたまま叫んだ。
「鬼丸ぅ、ホントだね。飛び切り楽しい思い出が目の前にあるよ。幽玄館の裏山でみんなで遊んだこと。大熊のあやかしに脅かされて、鬼丸がギャン泣きしてる。あははは!ビビった朔がおもらししてるぅ」
『卯兎、見えてる思い出をいちいち伝えてくれんでいい。自分だけで見ながら行け!笑い過ぎだ!足元、踏み外すなよ!』
 二人で卯兎の声をかき消すほどの大声で返したあと、青龍が苦々しそうに言う。
「鬼丸、鬼桃はもちょっとマシな思い出を見せられないのか!」
「俺も知らんわっ!」


『朔ぅ、鬼丸ぅ~。ありがとう!晦や結卯にもよろしくねぇ』
 背を向けたまま、齧りかけの鬼桃を手に、両手を大きく振る卯兎の姿がどんどん薄くなっていくのをもう堪えることを止めた龍と鬼が抱き合いながら声を出して泣いて見送っていた。
  体がグラリとしたと思うと、靄が消え、元の幽玄館 龍別邸の青龍の部屋に戻っていた。
 四人ともグジュグジュと洟を啜りながら、涙を拭いている。
「どうだ?卯兎。いや瞳子。何か思いだしたか?」
 着物の袖口で涙を拭いながら、青龍が尋ねた。
「思い出すって、卯兎さんのこと?」
「そうだ。自分が卯兎だと思いだしたか?」
「残念ながら、それはないわね。でもね、少しわかったことがあるわ」
『わかったこと?』 
 蒼・青二人の龍に加えて、雪兎も身を乗り出してきた。
「わかったことっていうか…。雪兎、ほら、私言ってたじゃない。発作のとき、フラッシュする景色が似てるって。この旅館の前の通りとか裏山とか…。ここの大きな提灯が揺れてる感じとか、どこかのお店で大勢が騒ぎ飲んでるみたいなところ。あれは、卯兎さんの記憶だったのよ。さっき見た幻視⁉アレでわかった。鬼界ヶ原のあの金色の草原も、夢のなかでとか、何かを思い出そうとするときとかに、フッと頭を過る風景のひとつだった。だから、私は瞳子で、卯兎さんではないけれど、でも100%卯兎さんじゃないって言えないなぁって。私のなかのどこかに、卯兎さんが息づいているのかもなぁって」
 瞳子は、バッグの中から手探りでハンカチを取り出しながら、さきほどの幻視の世界を思い出すかのような遠い目で答えた。
「それだけか?それだけなのか?」
 蒼龍・晦も青龍・朔もガックリ肩を落とした。

 **********************************
 肩を落としたのは、蒼・青二人だけではなかった。
 襖の向こうで、このやりとりを聞いていた、漣、兎士郎、刑たちも静かに大きなため息を吐いていた。

「兎士郎様、結卯はこちらの記憶も現世の記憶も取り戻しましたが、卯兎様は瞳子様のままのようです。どういたしましょうか。結卯と逢わせて、結卯に話をさせますか?」
「いや…黄龍様のお話によると、本人自らが幽世のことを思い出さない限り、意味はないし、卯兎の魂の旅は終わらぬらしいのでな。結卯にも結卯であることは伏せて、瞳子が卯兎だと思いだすまでは、「景子」として居てもらおうかの。良いな?結卯」
「はい。承知しました。兎士郎様」
「鬼堂殿も心得ていてくださいませ」。
 三人の後ろに控えていた結卯・景子が大きく頷いたのを見て、漣が結卯の隣にいる鬼堂・鬼丸に向かって言った。
「それでは、参るぞ!」


「青龍様、蒼龍様。天目(あまめ) 一龍齋(いちりゅうさい) (れん)でございます。お取込み中とは存じますが、鬼堂様がお二方にご報告とお願いがあると、いま、こちらに控えておりますが、御目通り願えますか?」
 四人のいる座敷の外から、漣の呼びかけが聞こえた。
「漣??今日の客が誰か、一番よくわかってるはずだろ!まったく、鬼丸も今日でなくてもいいだろうに・・・」
「朔、一番よくわかってる漣と鬼丸がわざわざ『いま』来たんだ。大事な用事なんだと思うよ」
 明らかに不機嫌になってしまった朔に代わって、晦が応えた。
「漣、いいよ。お入り」
 その声を機に、スルスルと開いた襖の向こうには、鬼丸と結卯が立っていた。
『結ぅ・・・・・・』
 蒼龍・晦(そうりゅう・かい)青龍・朔(せいりゅう・さく)の声が尻すぼみになったのは、鬼丸の後ろに立つ漣が、「シッ」という風に口の前に人差し指を立てていたからだ。
「景子ぉ~!良かった。どこへ連れていかれちゃったかと思って、心配してたのよぉ」
 瞳子が結卯・景子に抱きついた。
「瞳子さぁ~ん、怖かったですぅ」
「瞳子・・・さん??久しぶりね、景子からフツーに呼ばれるの」
「え?え?フツーって・・・あの・・・」
「アハハ?どうしちゃったの景子、いつもは『ウコさん』って呼んでたじゃない?」
 訝しげに景子を見る瞳子の様子に、慌てた兎士郎に後ろから脇腹を(つつ)かれた結卯は、取り繕うように答えた。
「アハ・・・ちょっと緊張しちゃって、う、ウコさんって出てこなかったぁ。アハハハハ」
「怖い思いしたのね。帰ろうか?ね?」
「あ・・・いやぁ・・・それがぁ」
 再会を喜ぶ瞳子と「帰ろう」と言われて戸惑う景子の間に、スルリと漣が入り込み、二人を引き離した。
「な、なにするの⁉」
「瞳子様、申し訳ございません。鬼堂様がそちらのお二方にご報告とお願いに参られたのです。景子様との再会のお話は、のちほど・・・と、いうことに・・・」
「あ。そうだったわね。ごめんなさい。景子、後で、ね!」
 
 漣の誘導で、鬼堂・鬼丸は蒼・青二人の前へ進み出て、二人に御簾前へ座ってくれるよう頭を下げた。
「なんだ?なんだ?鬼丸、随分と他人行儀だな。今日は鬼堂様とお呼びした方が良いか?」
 揶揄うような青龍・朔の言葉に、上目遣いに睨みつつもグッと言葉を飲み込んだ鬼丸。
  二人が御簾前に並んで座ったのを確認して、今度は結卯・景子を手招いて、隣へ座らせた。
 その姿を見た蒼龍・晦は、手を叩いてウンウンとうなずいている。
「晦、何、手を叩いてうれしそうなんだ?」
「朔は鈍いなぁ・・・」
「な、なにをぉ~」
「まぁまぁ、鬼丸の・・・いや、鬼堂殿の報告と願いとやらを聞こうではないか」
 御簾前に蒼・青を座らせ、その前に自分も畏まって座ったものの、なかなか言葉が出せず、もじもじしている鬼堂。後ろから、烏頭刑の、月影兎士郎の、「早くしろ!」言わんばかりのわざとらしい咳払いに責められ、挙句、バンっ!と漣に背を叩かれ、その勢いで頭を下げたまま、叫ぶように話し始めた。
「青龍様っ、蒼龍様におかれましてはっ、ご機嫌麗しく、今日のこの大事な日に、わたくし鬼堂のためにお時間をいただきまして、ありがたき幸せに存じます。この度、わたくし百目(どうめ)鬼堂・鬼丸はこちらの向坂(さきさか)景子さんと婚約の運びとなりました。つきましては、御二方には百目鬼堂方の婚姻の立会人をお願いいたしたく、加えまして、盈月(えいげつ)御夫妻には向坂景子方の婚姻の立会人をお願いいたしたく、百目鬼堂・向坂景子両名揃いまして、此処に参じました。何卒、よろしくお願い申しあげます」
 御簾前の二人に。その脇に揃って座る瞳子たちに。深々と頭を下げている鬼丸と景子。 その後ろで、兎士郎、刑、漣も同じように頭を下げている。
 蒼龍・青龍は、手を叩いて喜びあっているが、瞳子と雪兎は狐につままれたような顔をしている。
「景子、確かにイケメン好きで、百目さんもなかなかのイケメンさんだから、そこのところは納得だけど…。二人はいつの間に⁉そんな仲に⁉」
「二人は、幼馴染だからな」と答えた青龍の声は、急に大声で祝言歌「高砂」を競って唸り始めた兎士郎と刑の声にかき消された。
 その間に漣が、滑るように蒼・青二人の元へ行き、事の次第を簡単に説明した。
 漣が二人に説明している間に、すかさず鬼丸が瞳子と雪兎に再び頭を下げて、瞳子たちの気を自分たちへ向けた。
「本当は、いつ雪兎殿、瞳子殿のところへご挨拶に行こうかといろいろと迷うておりましたら、今日の渡幽の日となってしましました。順序が後先になり申し訳ございません」
「え?ウチに挨拶に・・・って、そんな前から?景子、そんなこと一言も…」
「ウコさん、ごめんなさい。話そうと思ってたんですけど、なんだか照れ臭いし、それにホントに鬼堂さんと結婚できるか⁉わからなかったし・・・。幽世と現世の人間が一緒になれるなんて、なんか現実味なくて、ダメだったらツライなぁって」
 景子は手にしたハンカチを揉みしだきながら俯いて、モジモジとしている。
「あぁ…気持ちはわかる。わかるけど…いつ?いつ知り合ったの?」
『そ、それは・・・』
「最初にご応募いただいたときに、わけわからんモノも含めて、多数の応募がございましたので、確度が高そうな応募の方にお会いするのに、私だけでは手が足りず…鬼堂殿にもお手伝いをお願いしまして…その際が初めてかと…」
 言い淀む二人に代わって、つらつらと漣が答えた。
『そ、そうなんです!お互いの昔のし・・・知り合いに似てるなぁ・・・なんて話から盛り上がってしまって・・・』
『立て板に水』の漣とは違い、ほぼ、しどろもどろと言って過言ではない二人の答えに、漣、兎士郎、刑は、ヤキモキしたが、案外、瞳子はすんなり信じてくれた。
「あぁ。最初は、ワイドショーとかですごく取り上げられてたくらいだものね。すごい応募数だったんでしょ?ふーん。それがきっかけなんだぁ。でも、良かったじゃない景子。イケメンと付き合いたい。あわよくば、結婚したい!って言ってたんだから、こんなイケメン捕まえられて!」
「もぉ、ウコさん、やめてくださいよぉ。恥ずかしいィ」
 景子は、照れてはいるが、満面の笑みだ。
 うれし恥ずかし満載で、はしゃぐ景子の脇腹を漣が(つつ)く。
「景子様、ご成婚にあたり、なにか瞳子様にお願いがあったのでは?」
 にこやかにしてはいるが、景子に向ける目は、恐ろしく厳しく鋭い。
「あ、あぁ・・・そうでした!そうでした…」
「立会人の件なら、喜んで!ねぇ、雪兎?いつ?そうだ!ねぇ、雪兎、留袖、新調していい?」
「い、いや、ウコさん、立会人とは別のお願いが・・・」
「え?そうなの?何?お祝い事だもの。喜んで頼まれてあげるわよ!」
「あの、式のあとの宴のお料理を・・・ウコさん、料理上手だし、こちらの方には現世のお料理には珍しいものもあるみたいだし。私から幽世の皆さんへお近づきの印に、ふるまいたいんですけど・・・。私、料理下手だし・・・。あ、あの・・・ムリ・・・ですか・・・ね?」
 景子は、上目遣いに瞳子の顔色を窺っている。
 瞳子は、難しい顔をして小首を傾げていたが、大きく息を吐いて、大きくうなずいた。
「プロの料理人じゃないんだから、大したことはできないわよ?それに、ひとりで作るんだから、ある程度の限界はあるからね。その辺り、ご来席いただく皆さんにもご納得いただけるように説明しといてね」
「はいっ!それは大丈夫です!鬼丸と・・・あ、鬼堂さんといろいろ話し合って、お願いしようってことになったんですから」
 景子は鬼丸と顔を見合わせて、二人して満面の笑みを瞳子に向けた。ついでに、漣に小さくピースサインを送ったが、その手は瞬殺で叩き落された。
「で?御式は?いつ?」
「あー・・・えっと。この旅行の最終日に・・・えへっ」
「えへっじゃない!この旅行の最終日って、一週間しか時間ないじゃない!え?私の留袖は?何着て出ればいいの?そんなの何にも持ってきてないわよ」
「瞳子様、お着物でよろしければ、小袖、十二単から留袖、振袖。紬、小紋、付け下げ、友禅と、各種揃えておりますので、お好きなものを御召しいただけますよ」
 漣が一気にまくしたてて答え、胸を張った。
「それにしても、お料理するにも、材料をどこで揃える?あぁ、まず、調理場はどこ?」
「瞳子様、それものちほど、ご案内いたしましょう。材料は書いてくだされば、私が調えてまいります」
 漣に押し切られるようなカタチで、一週間後、景子と鬼堂・鬼丸の祝言とその祝宴が行われ、その立会人と調理人を瞳子が担うこととなった。


 すっかり卯兎の話はどこかへ飛んでしまったかのようだが、漣・兎士郎・刑の(はかりごと)はその実、着々と進んでいるのである。

  
 景子と鬼堂・鬼丸の婚姻の話が決まり、最初の目的だった『卯兎探し』は棚上げされたかのようになり、瞳子はある種の解放された気分になり、景子の祝言に託けて、幽世を楽しんでいる体だ。それどころか、「幽玄館 龍別邸」と卯兎や結卯に関わってきた、数多のあやかしたちともすっかり馴染んでいる。
 あやかしたちを子分のように引き連れて、「めし処」の厨に入ってきた瞳子は、ぐるりと見まわし、腕まくりをしながら厨のなかをあれこれと観察している。

「さて、留袖の新調を諦めて、此処で景子の結婚披露宴の料理をやるんだから、トコトンやらせてもらうわよ!材料は、ここに書いておいたから、この紙を漣くんに渡しておいてね。で?オーブンはどこ?」
「・・・おーぶん・・・??」
「えぇ?まさか、ないの?そう言えば、ガスレンジとか、電子レンジとか、どこにあるの?」
「がす・・・れんじ・・・?で?ん?し?れ?ん?じ???」
「・・・え?まさか、それもないの??」
『ウト、何、言ってる?』
「ウトじゃない!ウコ! トウコ! トーコよっ!」
 瞳子は名前を間違えられたことに引っかかっているが、あやかしたちは瞳子のちんぷんかんぷんな言動に引っかかるどころか、撃沈しかかっていた。

 「幽玄館 龍別邸」の一階の片隅にあり、在りし日の卯兎が切りまわしていた「めし処」の厨に案内された瞳子に、あれやこれやまくしたてられて、困り果ててるあやかしたち。
 「めし処」の小上がりで、蒼・青二人の龍、兎士郎、刑、漣の五人は意味ありげにニヤニヤと見ている。
「それにしても、よく鬼丸が結卯との婚姻を承諾したな」
 青龍・朔がぼそりと呟くと、蒼龍・晦は笑いながら答えた。
「何を言ってるんだよ。朔が『卯兎を幽世で生かし続けるために、嫁にする!』って言ったとき、鬼丸が『じゃあ、結卯はどうするんだ?』って怒ってたじゃないか」
『え?そうなのか?』
青龍のみならず、兎士郎、刑、漣も驚いて顔を見合わせる。
「鬼丸は結卯のことをずっと気にしていたんだよ。卯兎を生かし続けるなら、結卯の存在をないがしろにするのはおかしいってね」
『そうだったのか…』
「だから、無事に結卯が戻ってきて、祝言になったんじゃないか?」
「えぇ・・・えぇ・・・まぁ、当たらずとも遠からずってところですかね」
 漣が意味ありげな笑みを浮かべている。

「卯兎を目覚めさせるには、幽世での最後の日『上弦の月の宴』を再現してはどうか?」という話になった。
しかし、瞳子に料理をさせる口実が必要だった。
そこで景子が、突拍子もなく手を叩いた。
「あ!じゃあ私の祝言とかどうです?ね? 良くないですか? 瞳子さんも後輩の結婚式のためなら、ひと肌脱いでくれるでしょう?」
予想外の申し出に、一同が目を丸くするなか、鬼丸は景子をじっと見つめた。
そして、ふっと口角を上げると、静かにうなずいた。
「なるほど。面白い。…お前は、どう思う?」
そう言って、鬼丸は結卯に向き直った。

「急ごしらえの企みではあるが、鬼丸も首を横には振らなかった。多少なりとも結卯を憎からず思っていたんだろうと・・・」
漣が静かに言うと、晦が柔らかく笑った。
「事情はどうあれ、お祝い事だ。心から祝ってやろうよ」
「出たな!晦の“いい子”ぶり!」
朔が茶化し始め、兄弟喧嘩の空気が漂うのを、漣が止めに入った。
 そんななか、兎士郎と刑が獲物を見つけた小動物のように、スクッと立ち上がり、鼻をヒクヒクさせながらキョロキョロし始めた。
「兎士郎、刑、どうしたのだ?何をキョロキョロしてる?」
 青龍・朔が不思議そうに、二人に声を掛けると、代わりに答えたのは漣だった。
「青龍様、コーヒーでございますよ。この薫りにお二方は反応されたようです。これは、雪兎様が淹れられたコーヒーの薫り。格別でございますね」
「こーひー・・・」
 すぅーっと鼻から吸い込み、ほぅーっと息を吐き出して、目を閉じて、鼻をヒクヒクさせて青龍までも立ち上がってしまった。
「う~ん。『幽玄館ホテル』で飲んだ時の薫りと全然違うな。なんというか、芳ばしい良い薫りだな」 
「朔!朔、行儀悪いよ。青龍ともあろう者が、キチンと座りなさい」
 蒼龍・晦が青龍の袖を引いて座らせる。
「まったく、雪兎様のコーヒーには幻術のようなチカラがあるようですね」
 兎士郎、刑、青龍のそんな姿を半ばあきれ顔で見つつ笑う漣
「みなさん、お疲れでしょう?ちょっと一息入れませんか?」
 雪兎がコーヒーを運んで来た。
 兎士郎と刑は、待ってられないとばかりにコーヒーカップ代わりの湯飲みを奪い取るように手にすると、ちんまりと座り、両手で大切そうに包んで、目を閉じて薫りを嗅いでいる。
 雪兎は、「どうぞ」と言いながら、青龍、蒼龍、漣にコーヒーを差し出した。
 恐る恐る手を出した蒼・青の双子龍は、同じように湯飲み茶わんを持ち、同じように薫りを嗅いで、同時にそーっとコーヒーを口にした。
「旨いっ!」
「苦っ!」
 ここばかりは、双子でも意見が分かれた。青龍は旨いと言ったが、兄・蒼龍には苦かったようで、渋い顔をしている。
「あ、蒼龍さんは、苦いのは苦手でしたか?」
「う~ん・・・薫りはとても良い薫りで好きですが、この苦いのは私にはどうも・・・」
「晦は、子どもだな。この苦みが良いのではないか。なぁ、雪兎?」
「えぇ。薫りと苦みがコーヒーの特徴ですが、苦みを抑えた飲み方もありますよ」
 雪兎は、蒼龍の茶碗を引き取ると、コーヒーの半分を空の茶碗に移し、蒼龍の茶碗の残りに盆にのせていた小ぶりな雪平から白い液体を注ぎ入れた。そこに用意していた角砂糖を二つ落とし入れると竹の匙で良く混ぜ、蒼龍の前に戻した。
「これは、コーヒーをアレンジした『カフェ・オ・レ』というモノです。ずいぶん、苦みが抑えられて飲みやすいと思いますよ」
 勧められた蒼龍は、飲む前から苦そうな顔を茶碗に近づけ、渋々といった体で飲み始めた。
「・・・・・う、旨いっ!苦くない!これは、私もいただける苦さ。美味しいですよ。雪兎!」
 飲み始めた時とは雲泥の表情となった蒼龍・晦。
 それを見ていた青龍・朔が、「自分にもひと口くれ」と晦に迫っている。晦は「朔には朔のがあるでしょう」と突き放しているが、朔も折れない。
「やれやれ。そういうところを他の皆には見せられませんな。現・黄龍の八龍であり、かたや次期黄龍様だというのに・・・。いつまでもご兄弟睦まじいのは結構ですけどね。揃って、子どものままというのは・・・」
 漣は、口角を片方だけ上げる、いつもの皮肉な笑いを見せながら、コーヒーを啜った。
「漣、お前も偉そうなことを言っておるが、コーヒーは啜ってのむものじゃないのだぞ。主こそ、子どもではないか。のぅ、兎士郎殿。アハハハハ」
 刑に豪快に笑い飛ばされて、冷淡な笑みから、怒りを帯びた目の色になる漣。
「仕方ないではありませんか!熱いのはあまり得意ではないのです!」
 漣の凍り付きそうな視線に、大笑いしていた刑も兎士郎も固まってしまった。
 コーヒーでワイワイとしている男性陣の元に、秋菟がやってきた。
「あ・・・コーヒー・・・・」
 恨めしげに雪兎を見やって、大きく深呼吸した。
「ふぅ…。良い薫りでございますね」
「あ。繊月さん。コーヒーどうですか?」
「・・・いえ。とんでもないっ。この皆さま方と席を共にしてコーヒーをいただくなぞ、数百年いえ、数千年早い所業でございます」
 それでも、秋菟の目は物欲しそうだ。
「え?そんなものかい?じゃ、厨の方で瞳子さんたちと一緒に。それならいいでしょ?」
 雪兎の提案に、満面の笑みで頷く秋菟に、ようやくコーヒーから顔を離した兎士郎が尋ねた。
「お前、そんなコーヒーのことより、何か用があったんじゃないのか?」
「あぁ。そうでした!一龍齋様、お助けください。瞳子様のおっしゃることが、我ら幽世の、ここ「幽玄館 龍別邸」地域の者にはわからぬことばかりで・・・」
 全く困り果てたという顔で、漣を見つめる秋菟。漣は、コーヒーを飲み干し、雪兎に礼を告げて腰を上げた。
「仕方のない奴らだな。ちっとは、世事にも通じておかんとな」
 秋菟と一緒に厨へ入った漣を見て、あやかしたちが一堂に、救いの神とばかりの目を向ける。
「瞳子様、何かお困りで?」
「お困りもなにも・・・料理はここでするの?何の機材もないのに・・・」
「機材?ですか?」
「そうよ。ガスレンジとか、電子レンジとかオーブンとか・・・フードプロセッサーも欲しいわね」
「あぁ、そういったモノは、あちらの大通りにある歌舞伎座裏の「幽玄館ホテル」の厨房にはございますが、鬼堂様と景子様の式と宴は、ここ「幽玄館 龍別邸」にて執り行います故、料理を「幽玄館ホテル」で作られると、こちらまで運ぶのがかなり厄介かと・・・」
「歌舞伎座・・・あの裏かぁ・・・」
 今度は、瞳子が困り果てたという顔で漣を見つめている。
 漣は、弥狐と紗雪を手招きすると、瞳子に二人を紹介し、弥狐は狐火を操れること。紗雪は吹雪を操れることを説明した。そして、弥狐は竈に火を入れ、その火を自在に大きくしたり、小さくしたりした。紗雪は手桶の水をシャーベット状に、そしてカチカチの氷に変えて見せた。
「ふーん。そういうこと・・・。上手く使えば、いろいろ面白いことができそうね。じゃ、あとは調理器具ね。鍋とかフライパンとか・・・。それは、ホテルで借りられる?」
「借りてもようございますが、瞳子様のお気に召すものを作らせることもできますよ」
「作るって・・式は一週間後よ?作ってる時間なんて・・・」
「なぁに、一晩もあれば、充分でございますよ。瞳子様のご希望の鍋を絵に描いていただければ・・・」
「そ、そうなの?」
「瞳子様、ここは、幽世でございますよ。あやかしと神の住まう街ですよ。そのくらいのこと、お安い御用でございます」
 漣はどこで覚えて来たのか?西洋のバトラーがするようなお辞儀をしておどけてみせた。
「あらら。漣くんでも、そんなおちゃめなことするのね。じゃ、ちょっと待って。絵なら私より雪兎の方が上手いから」
 笑いながら答えて、瞳子は大声で雪兎を呼んだ。
 雪兎は、事情を聴いて、瞳子の要望の鍋とフライパンをいくつか、様々な角度でサラサラと描いてみせた。
「どう?瞳子さんの納得のいくようなのが描けてる?」
「うん、うん!さすが、雪兎ね!」
 雪兎の描いたスケッチを受け取った漣も感心して頷いている。
「で?瞳子様、こちらすべて鉄製でよろしいか?」
「え?えぇ・・・って、それ全部を一晩で?大丈夫?」
「瞳子様、ここは・・・」
「ハイハイ。幽世だものね」
 漣は、ひとりの少年を手招きして呼び寄せた。
 少年の名は「透馬(とうま)」。『大口真神(おおくちのまかみ)』の眷属オオカミ族の少年で、足が早いらしい。
「透馬、これから斬鉄(ざんてつ)の爺さんのところへ行って、一龍齋からの注文だとコレを渡してきてくれ。それと、こっちのメモはホテルの料理長に。それから・・・」
 漣は、マジシャンのような手つきで色とりどりの数枚の紙を懐から取り出し、トランプさながら広げ、数を確認してから、続けて透馬に言った。
「こちらは、青龍様、蒼龍様以外の八龍の皆さまへ。この分厚い金色のモノは、黄龍様・姫龍様宛だからの。お屋敷の神薙長・瞬菟(しゅんと)殿に。こちらの分厚い赤いのは百目(どうめ)家へ。百目の家には、鬼堂(きどう)様の乳母だった(うるは)婆さんがいるだろうから、婆さんに渡せばいい。それから、妖狐の狐窈(こよう)様へ。蒼龍様・青龍様の乳母だったお銀のところ、そしてお前の親父さんだ。オオカミ族は誰を代表でお呼びすれば良いのか、こちらで判断できなかったのだ。そちらで決めてくれと伝えてくれ。いいか?」
 透馬は漣から、スケッチ、メモ、色とりどりの紙を受け取り、まさしく風のごとく駆けていった。
「大丈夫?あんな小さな子に、あんなにたくさん用事を言いつけて・・・」
「体は小さいが、随分な歳ですよ。それに、彼の家はオオカミ族のなかでも『大口真神(おおくちのまかみ)』様に一番に仕える一族で、透馬はその跡取りですから」
 透馬が消えて、数分後。
 赤い何かが、漣に向って飛んで来た。それが近くまで来て、折り紙の赤い龍だとわかった。龍は、漣の前で二、三度弧を描いて、漣が広げた掌にポトリと落ちた。
 掌の龍は立ち上がると喋り始めたので、雪兎と瞳子は腰を抜かさんばかりだ。
「一龍齋殿、喜んで参加させていただく。鬼堂殿と奥方にもよろしく」
 話し終えた龍は、音もなくすぅーっと消えた。
「な、なに?いまの・・・」
赤龍(せきりゅう)様からの祝言へのご出席のお返事ですよ」
 漣は、事もなげに答えた。唖然としている瞳子と雪兎をよそに、様々な色の龍、鬼⁉、犬・・・いや狼か・・・の、折り紙の返事が漣の下へ飛んできては、それぞれに出席の意志とお祝いの言葉を述べて消えていく。
 最後にひときわ大きな龍が飛んできたと思うと、重々しい声と涼やかな女性の笑いが混じった声が聞こえてきた。
『漣、まとめ役、ご苦労だな。ま、幼馴染たちの祝言。精一杯やってくれ。それから、瞳子というたか?現世の料理を振舞ってくれるという・・・その者に頼んで欲しいのだがな。私は、卵のツルンとした熱々の、アレを食べたいのぅ。いろんな者に作らせたが、いまひとつ、何かが違うのだ。ぜひ、頼んでみてくれんかのぅ・・・』
 声が重々しい割には、どこか親しみのあるような話し方の声の向こうで、引き続き、涼やかな声で笑っていた女性の声がする。
『え?御大、ご自分だけ注文つけて、ずるいわ!・・・あ?わたくしも注文してよろしいの?わたくしもあの料理は、いろいろ入っていて宝探しみたいで楽しくて好きでしたわ。でも、注文して良いなら、わたくしは断然、アレ!鬼桃の酒!アレも、どこでお願いしてもおいしいのに出会ってませんもの。よろしいでしょ?わたくしは、鬼桃の、酒。甘くて、冷たくて・・・あら、思い出したら、余計に飲みたくなってきたわ。漣。お願いね!』
 勝手なことを言うだけ言ったら、派手な煙を上げて、消えていった。
「なんなの?いったい・・・」
 いつもの瞳子なら「勝手なことばっかり言ってるんじゃないわよ!」と怒っていただろうが、いまは摩訶不思議な出来事を目の前にして。怒るより驚く方が先になっている。
「一番最後は、黄龍様・姫龍様でございます」
「え??幽世のトップ・オブ・トップの??そんな偉い方も出席されるの?そんな方にお出しできる料理なんてできないわよぉ」
 珍しく弱気な発言の瞳子の背を軽くたたいて、雪兎が励ますように言った。
「瞳子さん、わざわざリクエストくれてるんだ。景子ちゃんのお祝いのためにも、瞳子さんの腕のみせどころじゃないかい?」
「雪兎は、呑気でいいわよ。作るのは、私よ?それに、なに?『卵のツルンの熱々』?だいたい卵なんて、卵料理なんてツルンとしてるモノばかりよ?目玉焼きだって、出来立てのゆで卵だって、『ツルンの熱々』よ!は?『鬼桃の酒』?何それ、そんなメニュー知らないわよ!てか、鬼桃って何⁉現世にあるヤツで例えて!料理名で言ってよぉ。果実酒なんて、これから漬けたって、当日までに間に合わないわよぉ。つか、鬼桃って何?現世にナイ、私が見たこともナイものを言わないでよぉ~」
「そりゃ、まぁ・・・そうだけど・・・。漣くん、何か知らないかな?どんなものかわかれば、瞳子さんなら再現できると思うんだけどな」
「私にはわかりかねますが、あそこにいる息子二人なら、何かご存知かも知れませんね」
 漣は顎で、蒼・青双子龍を指した。
 そんなやりとりをしてる間に、もう透馬が戻ってきて、漣の隣に立っている。
「う、うそ・・・もう全部回ってきたの?早くない?早過ぎない?」
「瞳子様、全部回ってきたからこそ、皆さまから続々とお返事を頂いてではありませぬか」
「あぁ・・・そうね。それにしても・・・」
 まだ納得いかなそうな顔の瞳子の前に、何かがポトリと落ちた。しゃがんで拾い上げると、随分と色のくすんだ狐の折り紙。 その狐は、瞳子の掌に乗ると、「誰じゃ、お前は?漣は?漣はおらんのか?」と叫びながら、透馬の肩に乗った。
「おぉ。御神犬(ごしんけん)の小僧。漣を知らぬか?」
 漣は屈みこんで透馬の肩の狐に目線を合わせて呼びかけた。
「お銀婆、私はここです。ずいぶん鼻も目も効かなくなったようですね」
「うるさいわっ!鬼丸のヤツ、嫁をもらうなど生意気になったな。どれ、当日はこのお銀が昔の恥話をたんと披露してやるでな。覚悟しておけと伝えておけ。ま、それでもヤツも良いところもあるのぅ、あの幼馴染のゆ・・・」
 ― グシャっ ―
 派手な音を立てて、漣に握りつぶされた狐は、まだ何か「フゴフゴ」言っていたが、クシャリと丸めたソレを漣が内ポケットにしまい込んだので、何を言っているのか‥‥。
 当の漣は何事もなかったかのように話の続きを始めた。
「瞳子様、『幽玄館ホテル』の料理長から、調味料はすべて調えて、明日には届けてくださるとのお返事を透馬がいただいて参りました。同じ頃合で注文した鍋も揃うことでしょう。あとは、食材ですね」
 そう言うと、漣は瞳子の食材のメモを見ながら指差し確認しつつ頷いている。ひと通り目を通し終わって、瞳子に顔を向けた。
「瞳子様、今日はずいぶんといろいろあってお疲れでしょうから、お部屋でゆっくりなさって、お食事や湯を堪能していただいて、明日、少し出掛けませんか?」
「そうね。なんだか此処へ着いてから次から次へといろいろあり過ぎて・・・。一日で一年歳とった気分よ。で?出かけるってどこへ?」
「瞳子様の食材のリストを拝見しておりましたら、現世で仕入れてくるモノと、ここ幽世でも手に入るモノがございます。その幽世で手に入るモノを見に行きませんか?幽世観光がてら。素材が瞳子様のお気に召さなかった場合は、現世にて取り揃えて参りましょう。なに、幽世にもこんなにいい素材があると自慢させていただきたいというか・・・」
 漣にしては珍しく控えめな物言いで、瞳子の様子を窺っている。
「う~ん・・・そうね。こちらの食材で現世のお料理っていうのも、景子と鬼堂さん二人の結婚を象徴してていいかもね。わかった。そうしましょ。」
 瞳子が気分よく同意してくれたことに、ホッとした顔をしつつ、こちらを伺い見ていた、兎士郎、刑、蒼・青双子龍に、漣が親指を立てたサムズアップのサインを送ったことに、瞳子は気づいていない。
 とりあえず、『めし処』からは撤収して、『幽玄館 龍別邸』の玄関へ戻った一同。
「刻限にはそれぞれお迎えにあがりますので、皆さま、それぞれお部屋でおくつろぎください。今宵は、瞳子様御一行様の歓迎の宴と参りましょう。厨人に用意させます故、しばしお待ちくださいませ」
 漣は、ツーリストに戻って、皆に伝えると、最初に瞳子たちを部屋に案内した四人を呼び付けて、何やら指示を出している。
「瞳子、雪兎、改めて俺の部屋で飲み直すか?秋菟に用意させるか・・・」
 青龍・朔が手を上げて、秋菟を呼ぼうとしているのを遮って雪兎が尋ねた。
烏頭(うとう)さんとお話させていただきたいのですが・・・?」
「ん?(ぎょう)と?あぁ。風兎(ふうと)の話か・・・。今日でなくとも良くないか?まだ時間はある。
「いつだったら・・・」
 青龍は、雪兎の言葉を無かったことのように、秋菟を呼び寄せると、軽い酒の用意と雪兎を湯に案内してやれと言いつけて、スタスタと自室へ戻って行った。
 取り残されたカタチになった雪兎は、秋菟に促されて、湯へと向かった。
 さらに取り残されそうになって、慌てて漣を呼び止める瞳子。
「漣クン、ちょっとお願いなんだけど・・・。私たちの部屋、男女同衾がダメだとかで、お部屋も別々にされてるんだけど、なんとかならない?」
「あぁ。その件でしたら、お部屋に戻られたら、雪兎様のお荷物も瞳子様のお部屋へ運ばれていると思いますよ。鬼丸・・・いや鬼堂殿と景子様がこうなって、祝言を此処で挙げることになりましたので、雪兎様のお部屋は、花嫁様の控え室となり、瞳子様のお部屋と青龍様のお部屋がそれぞれの立会人のお部屋となりますので。ただ、おやすみの際は、衝立を挟んでおやすみいただくということで…。ま、お休みの際には、誰が見ているわけでもありませんがね・・・」
 最後は、意味ありげな笑みを見せ、漣は宿の厨房へと向かっていった。
 その夜は、見たこともないような料理の数々と不思議な味の酒で、盛大にもてなされ、初日だというのにいろいろあったこともあり、瞳子も雪兎も部屋へ戻るなり、布団にもぐりこんで眠ってしまった。

 その夜、瞳子は不思議な夢を見ていた。

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  深縹(こきはなだ)色の空に、梔子(くちなし)で染めたような不言色(いわぬいろ)の上弦の月がぽっかりと口を開けたように浮かんでいる。その空を背に、大勢で楽し気に飲み、騒いでいる。
 青龍たちの幻術で見た、卯兎が消えた日の宴?いや、あの幻術で見たのとは違う…。
広い座敷に大勢がいて…。部屋のなかにあるのは、何?笹?

 皆が楽し気に、おいしそうに、酒を、食事を、宴そのものを心から楽しんでいるようだ。
 
 私は、コレをどこから見てるの?キョロキョロと見回すと、後ろに秋菟が大きな竹筒を持って立っている。繊月さん?なんで?
気づくと瞳子自身も大きな竹筒を携えている。
 兎士郎が、そして大きな体躯の黄色い髪の男性と薄い桃色の髪を軽く結い上げた美しい女性が瞳子に向かって何か言いながら、手招きしている。
 瞳子はどうしていいのかわからず、その宴のただなかに、佇んでいた。

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