猫にエサをあげる間は

22時。
恵太はキャットフードを入れたリュックを背負い、部屋を出る。
敵の城に潜入した忍びのような中腰の姿勢で、足音を立てないよう、階段を一段ずつ慎重に下りていく。
 築20年近い我が家はあちこちにガタが来ており、廊下や階段なんかは踏めばきぃ、と音が鳴って軋む部分がいくつもある。
恵太はその箇所を避けながら、歩みを進める。さっき風呂に入ったばかりなのに、額にじんわりと汗が滲む。
 玄関にたどり着き、スリッパに足を通す。すると。

「恵太ー。お姉さまとゲームするぞー」

 二階から奏の声が聞こえ、ドアがばたんと閉じる音がした。それらの音を確認し、恵太は静かに家を出た。

こうすることで、一階にいる両親に『恵太は奏と一緒にいる』と思わせることができる。
いわゆるアリバイ作りだ。

 夜風が緊張で汗ばんだ身体を一気に冷ます。
秋の気配を帯びていた夜風も、いつしか涼しさよりも寒さが増してきた。冬の匂いはまだしないけど。
 そのとき、ポケットの中でブブッとスマホが震えた。

『コンビニでこれあったらやってきて。一回でいいから』

 奏から送られてきたURLを開くと、最近流行りのゆるふわマスコットのくじの特設サイトが開いた。
 A賞は超巨大ぬいぐるみ。その他はマグカップやアクリルキーホルダーなどが当たるくじで、値段は一回……。

「は、800円?!」

 思わず叫んでしまい、恵太はすぐに家から離れた。
 さすがに高い。あまりにも高い。一回でいいからって、一回もしたくない。

『いやだよ』

 そう入力したところで、恵太は文字をすべて削除して、近くのコンビニへ向かった。
 今の恵太は奏に逆らえない。いや、今までだって逆らえたことはないけども。


 少し前のことだ。
 新と猫のエサやりを初めて一週間が経った頃。家を出ようと玄関に手をかけたところで、母親にみつかった。

「どこ行くの?」

 母親の冷たい視線が、恵太を捕らえて離さない。

「えっと……」

 恵太は困った。説明がめんどくさいし、どんな理由を述べたにせよ、夜遅くに出歩くなんて、と怒られるに決まっている。
 すでに母親の背中からは怒りのオーラが滲み出ている。
 恵太が口をもごもごさせていると、後ろから奏が顔を出していった。

「私がパシったの。恵太、また私のアイス勝手に食べたんだよ。まじ最悪。ほら、はやく買ってきて!」
「ちょちょちょ……」

 母親譲りの剣幕で恵太を家から追い出し、奏は玄関をばたりと閉じた。

 なんだったんだ、今の……。

 夜道に放り出され、放心状態の恵太。 そのとき、ポケットの中でスマホがふるえ、恵太は我に返った。

『毎日10分マッサージ』

 奏からの短いメッセージを読んで、奏は自分を庇ってくれたのか、と察した。

「馬鹿姉のくせに、やるじゃん」

 ありがとう、と送るのは照れくさくて、それっぽいスタンプを探していると、奏からメッセージが来た。

『彼女できた??』

 恵太はチッ、と舌を鳴らし、中指を立てたパンダのスタンプを返した。

 彼女なんて、できたことねえっつうの。

 そんな日を思い出しながら、恵太は千円札を差し出し、百円玉二枚を受け取る。

「一回ですね。どーぞ」

 コンビニ店員は気だるそうにくじが入った箱を差し出す。
 あの日から、奏はアリバイ作りに協力してくれているが、最近は要求がエスカレートしている気がする。

 もしかしたら悪魔との契約だったかもしれないな、と思いつつ、恵太は真っ暗なくじ箱の穴へ手を突っ込んだ。




 外灯の下。

縁石に腰かけていると、野良猫たちがちらほらと集まってきた。
 猫たちは恵太の顔を覚えており、いつもならエサをよこせとすりよってくるのに、今日は一定の距離を開けて様子を伺っている。
 中にはしっぽをぶわっと膨らませて威嚇してくるやつまでいる。
 すると、足音とビニール袋の揺れる音が聞こえてきた。猫たちも耳をぴんと立て、音のする方向を見つめる。

「·······なにそれ?」

 夜の闇から現れた新は、恵太のとなりに鎮座する一等賞の特大ぬいぐるみを指さした。
 高さは約1メートル。重さは5キロぐらいある。ここまで持ってくるだけで、腕が悲鳴を上げている。
 そのとき、一匹の猫が特大ぬいぐるみに対し強烈な猫パンチをくらわせた。

「やめろよ! 姉ちゃんに殺されるだろ」

 恵太はあわててぬいぐるみを抱きかかえる。
 恵太が汚れを掃っていると、エサを用意していた新は「姉ちゃん?」とこちらを振り返った。

恵太はこれまでのうっ憤を晴らすように奏の恐ろしさや憎たらしさを語ったが、新は時折吹き出しながら、微笑ましそうに聞いてきた。

「なにその顔」
「べつに。お姉ちゃんと仲いいなぁと思って」
「仲良くねえって。まじで早く出ていってほしいもん」

 奏は引っ越しシーズンを迎える来年の春までに大学近くで一人暮らしをしたいようで、ことあるごとに父親を説得しているが、話し合いは難航している。
 父親が首を横にふるたびに、八つ当たりがこちらに来るので本当に勘弁してほしいと恵太は思っていた。

 そんな恵太の不満をよそに、新はのほほんと呟く。

「いいなー。ぼく一人っ子だから。兄弟なら……、ぼくもお姉ちゃんがいいな」
「浩介みたいなこというなよ。あ、浩介ってうちのクラスの……」
「中井浩介くんでしょ。知ってる」

 恵太はそっか、と何気なく答えたが、そういえば新も同じクラスの一員だったと改めて気づいた。

 忘れていたわけではないが、新とは教室で一緒にいる時よりも、ここで過ごす時間の方が記憶に新しい。
 というよりも、新が教室にいたときの記憶はほとんどない。だから、クラスの誰かにいじめられていたようなこともないはずだ。
 新が教室に来なくなったのは、そういうわかりやすい、ありきたりな理由ではないと思う。

 だからこそ、考えてしまう。

 新はどうして教室に来ないのか。
 これからも保健室登校を続けるのか。

 恵太は新から顔を反らし、首を振る。

こんな大事なこと、他人が興味本位で聞いていいことじゃない。

「あ」

 そのとき、ぺろぺろと舐めた手で顔を洗う白猫が目に止まった。
 目を閉じ、懸命にごしごしと顔を洗う姿に癒されていると、手が当たるたびにぴん、と立つ耳に違和感を覚えた。

「こいつ、耳……」

 それは明らかに事故などの自然なケガではなく、人の手によって耳の先が切り取られているようだった。
 耳を切り取るなんて、もしかして。

 虐待、とか?

 そう考えた瞬間、恵太の脳内にはぎらりと光るハサミを持つフードを被った人間が猫に手をかける姿が浮かんだ。
 虚像の虐待犯に吐き気を催すような嫌悪と、激しい怒りをがぐわっと燃え上がる。

そんな内心穏やかではない恵太の横で、新は近づいてきた白猫をそっと撫でて言った。

「これは地域猫の証だよ」
「地域、猫……?」

 予想外な答えに首をかしげる恵太に、新は「ぼくも聞いた話なんだけど」と前置きを挟んで続ける。

 地域猫とは、飼い主はいないが、放置されている野良猫とはちがい、地域の人々に見守られている猫のことをいう。
 猫は非常に繁殖能力が高く、一度に20匹以上の子猫を生む。
 しかし、そのうち大人まで成長できるのは半数以下。中でも離乳前の子猫のまま、亡くなってしまうことも大いにあるという。

 これ以上、悲しい命を増やさないために動物愛護団体や日本各地のボランティア団体は野良猫に不妊手術を行っており、不妊治療をうけた目印として猫の耳をカットしているという。

「つまり、耳をカットされた猫は、不妊手術済みの地域猫ってこと」

 よく見れば、ここにいるほとんどの猫は耳がカットされていた。なぜ今まで気がつかなかったんだ、俺。

「それ、だれから聞いたの?」
「前にこのあたりを見回ってた保護猫団体の人と会ってさ。すごい押しが強いというか、圧がすごい人だった」
「ふーん」
「こうやって決まった時間にエサをあげることも、地域猫の活動の一つなんだ。エサを置きっぱなしにすると衛生的にもよくないし、この子たちに『人間はエサをくれる存在だ』って思ってもらえれば、人間に慣れて、健康管理もしやすくなるんだって」

新は誇らしげにいうと、エサが無くなった紙皿を回収していく。

「南雲はなんで地域猫活動をはじめたの?」
「地域猫活動をしようって、わけじゃなかったんだけど。一匹の猫にエサをあげてたら、ほかの猫も集まるようになって、いつのまにか、っていうか、ずるすると、というか……」

 新はあはは、と頭をかく。
 エサを持っていくたびに増えていく猫に驚く新の姿を思い浮かべて恵太は笑った。
 紙皿をビニール袋に入れ、紐を縛りながら新は続ける。

「見て見ぬふりはしたくなかった、って感じかな」

 よし、とつぶやき、新は袋をカバンへとしまう。
 新の着飾らないまっすぐな言葉が、夜風とともに恵太の胸を通り過ぎる。

「えらいなぁ、新は」

 恵太はぬいぐるみを背負って立ち上がり、新の頭をよしよしと撫でる。

 新の頭はふわふわでもふもふ。
 猫のすべすべとしたなだらかな毛並みとは違った、落ち着く触り心地が癖になっていた。

 しかし、学校では絶対に触らせてくれない。

 あれから移動教室で特別棟に行った時や、帰り際に昇降口で新を見かけると、恵太はふわふわな新の頭に引き寄せられるように近づいた。
 恵太が頭を撫でようと腕をあげた瞬間、センサーが反応したように、新は飛び跳ね、恵太から距離を取る。

 そして、ぎろりと冷たい視線を突き刺し、去っていく。
 
 でもなぜか、猫にエサをあげる間は、新を撫でることができた。

 学校では撫でてはいけない理由も、ここでなら撫でていい理由も知らない。
 だって、聞いても答えてくれそうにないし。
 だけど。

「もうっ……」

 頭を撫でられている間、新はくしゃっと顔を歪めて嫌がるそぶりを見せるけど、口角がほんの少しだけ上がっていることを恵太は知っている。

 天邪鬼で、素直じゃない。

 そういうところも猫そっくりだなと、恵太は心の中で笑った。



 次の日。

 恵太は一日中、新の席ばかり見ていた。
 授業中は空席。休み時間になると近くに集まった女子が椅子に座ったり、隣の席のやつが探し物のために引き出しの中のものを全部置いたりしている。
 だけど、次の授業が始まるころには机の上はきれいになっているし、椅子もきちんと元の位置に戻っている。

 みんな、そこが公共のフリースペースではなく、誰かの場所であることは分かっているようだった。

 でも、その誰かが南雲新だということをみんなは覚えているのだろうか。

「南雲ってさ、いつから教室きてないんだっけ」
「4月は来てたと思うけど。絡みなかったし」

 浩介は興味なさげに呟くと、自販機で買ったアセロラジュースを飲み干す。

「なんで?」

 半年以上も教室に来ていないクラスメイトに興味はないが、恵太がそんなクラスメイトについて尋ねてくることに、浩介は興味があった。
 ほのかに香る、アセロラ風味の質問に、恵太は「別に」と無味の返事で返す。

 恵太は夜に新と会っていること、一緒に猫にエサをあげていること浩介に話していない。
 とくに理由はないが、強いて言うならば、二人だけの特別な時間、ということにしておきたいから。そんな感情に、恵太自身も気がついていない。

「逆にさ、なんで今まで気にしてこなかったんだろって」
「絡みないからでしょ」
「絡み絡みうるさいな」
「……絡みってのは、重要なんですよ!」

 謎にスイッチが入った浩介は颯爽と教壇にあがり、黒板に勢いよく『絡み』と書きなぐり、鼻が詰まったような声で話し出す。
 ほかのクラスメイトはちらりと浩介を気にして、すぐに自分たちの世界へともどっていく。
 みんなはもう、浩介のこういった発作的行動に慣れていた。
 そんなクラスの日常を目の当たりにし、浩介は顔の良さで許されているところがあるなと恵太は改めて思った。

「えー、いいですか。絡みというのは私たち学生にとって非常に重要なわけであります。クラスメイトなんて言っても、同じ年に生まれ、同じ学校に通い、同じクラスになっただけの他人の寄せ集めです。かき揚げと一緒です」
「かき揚げ?」
「気の合う人、合わない人はもちろんいるし、気が合う人同士でも、絡みがなければまともに言葉を交わさないまま、進級して別のクラスになって今後一生話さないなんてことだってあるでしょう」
「まぁ、たしかに」

 浩介は再び黒板に向き直すと、大きく腕を振って『人』という字を書きなぐる。
 恵太はここでようやく、浩介が誰のモノマネをしているのか理解した。

「えー、人という字は、人と人が支えあって……ません! これは一人の人間が立っている姿です。人間はそれぞれ、独立して生きているのです」

 浩介は『人』のとなりにもう一つ『人』と書く。

「そして、運命の赤い糸、という言葉を知っていますか? ほかにも人と人を縁で結ぶという言葉もあります。人はみなそれぞれ、誰かとつながるために、体中からこう、うじゃうじゃあっと糸を出しているのです」

 そういうと、浩介はそれぞれの『人』からあちこちに波線を引いていく。

「気持ち悪っ」

『人』から伸びたイソギンチャクの触手のような糸は、となりの『人』から伸びた糸と重なる。
 その箇所を浩介は力強く、何度も円で囲った。

「ここ! ここが重要!」
「うるさ」
「最初はただ重なっただけだったけど、それが次第にひっぱっても解けなくなっていき、いつしか完全に結ばれる。縁で結ばれる前段階、それこそが『絡み』というわけです!」

 以上! と浩介はチョークを勢いよく置き、そのまま教室を出ていった。

「どこいくんだよ!」

 とりあえずツッコんでみたが、浩介は帰ってこなかった。

 あの野郎、そのままトイレ行きやがったな。

 恵太は現代アートのようになった黒板を見て、ため息をついた。
なんで俺が……、と思いつつも恵太は黒板消しを手に、恵太は車のワイパーのように腕を振って文字を消していく。
 それでも、チョークが崩れるまで力強く何度も囲った円だけはなかなか消えなかった。

 人から伸びた糸同士が重なり、絡まり、次第に結ばれていく。

 勢いだけの説法だったが、あながち間違ったことは言っていないと思った。浩介のくせに。

 恵太は振り返り、教壇の上から教室を見わたす。
 もうすぐ授業が始まるため、みんなは自分の席について、近くの人としゃべっている。

そんな中、ポツンと空いた新の席が目に止まった。

 南雲は、誰とも絡みがなかったのか。あいつ、意外と面白いやつなんだけどな。

 恵太は新のことを思い出す。

 猫にエサをあげる新の横顔を。
猫を撫でる新の嬉しそうな顔を。
 そして、新が優しいやつだってことを。
 そうか。

「俺はもう、南雲と絡みあるな」

 恵太はいつまでも消えないチョークの跡をそのままにして、自分の席に戻った。





「おいしい?」

 夢中になってエサを食べる猫を見つめほほえむ新。
 そんな新の様子を、恵太は虎視眈々とした目つきで伺う。

 今度こそ。今こそ。今だ。今だった……。

恵太はこれまで何度も、長縄になかなか入れなかった子どもの頃のように、新に声をかけるタイミングを逃していた。
そして何度目かの声かけチャンス。想像上の同級生たちがはい、はい、と声をそろえて恵太の背中を押す。

よし、今だ。今。今!

「にゃぐ、南雲」

 噛んだ。

「なに?」

 しかし、新は気づいていないのか、そのまま返事をした。
 もしくはやさしさでスルーしてくれたのかもしれないが、恵太は気を取り直して続ける。

「あのさ」

 なんで、教室に来ないの?

 さりげなく聞けばいい。
 そう思っても、心が落ち着かず、うまく口が回らない。

「あのさ……」

 そのとき、恵太はとっさに、夜空を見上げた。
 筆を水につけて洗うとき、じんわりと滲みでた墨のような雲が浮かぶ夜空の中で、ひときわ光る白い月。

「今日の月の名前、わかる?」
「月の名前? 三日月か満月とか、そういうの?」
「そうそう」

 新は月を見つめ、うーん、とうなる。
月光を浴びる新の顔はやさしく輝いている。

「えぇ、三日月……、じゃないか。半月かな」
「そう。あれは上弦の月だな。右側が明るい半月は上弦の月。左側が明るい半月は下弦の月っていうんだ」
「へー詳しいね」
「だろ?」
「なんで知ってるの?」
「え」

 恵太は目をばしゃばしゃと泳がせながら、とっさに説明する。

「理科の授業とかでやるじゃん。だからその時覚えてさ……」

 新は恵太の違和感を覚えたのか、目を細めて恵太を見た。
 よく見れば、新の口角は少し上がっていた。

 こいつ、いじってやがる。

 恵太は、新の中で自分がいじってもいい存在になれていることを嬉しかった。
いじるという行為はその人がいじられても怒らない、不機嫌にならないと分かっていないできない行為だと恵太は思っている。
 それに、もし相手が怒ったり不機嫌になっても、それは100%いじった側が悪い。

だからこそ、恵太は信頼した人しかいじらない。クラスでも、浩介だけだ。

 新が、恵太と同じ基準でいじっているのかは分からないが、とにかく恵太は嬉しくて、その嬉しさに免じて、月の名前を憶えている理由を白状した。

「なんか昔、そういうのにはまる時ってあるじゃん? 悪魔の名前とか、神話にでてくる武器の名前調べたりさ……」
「中二病的な?」
「そんな感じ、的な?」

 うわー。自分で言っておきながらめちゃくちゃ恥ずかしい……。

 恵太は急に体が熱くなってきて、シャツを繰り返しひっぱり、胸元に風を送り込む。
 すると、こちらを物珍しそうにじっと見つめる新の視線に気づいた。

「……なんだよ」
「佐和くんってさ」
「うん」
「なんか、すごく……普通だよね」
「……それ褒め?」
「もちろん。いい意味で普通」
「なんだよそれ」

 恵太が不貞腐れたようにいうと、新は楽しそうに笑った。
 普通か。まぁ確かに普通ではあるけど。

「南雲だって普通じゃん?」

 初めてここで会った時は色白で不健康そうだと思ったが、今の新にそんな印象はない。

 笑った顔ばかり見ているからだろうか。不健康な人って笑わないもんな、たぶん。

 そんなことを考えていると、新は恵太から視線を変え、猫のあごを撫でながら答える。

「ぼくは普通じゃないよ」

 気持ちよさそうに目を細める猫。
 普通じゃない、なんて。

「そのセリフもすげー中二病じゃん」
「たしかに」

 新はまた笑った。しかし、さっきとは違い、僅かに寂しさが含まれていることに気づいた。

「南雲は? なんか好きなものとか、はまってたやつとかある?」

 恵太は新の微妙な感情の揺れを感じ、ほとんど無意識に話題を変えた。
 恵太は小さいころから気分屋の姉と過ごしてきたこともあり、人の顔色を伺うこと、空気を読む能力に長けていた。

「ぼくは特に。強いて言えば読書くらい。いや、それでも読書家さんからすれば読んだ本の数とか全然少ないと思うけど……」
「なにその謎の謙遜。どういうの読んでたの?」
「エッセイ、かな」
「エッセイ? なにそれ、題名?」

 聞きなじみのない言葉に眉根を寄せる恵太。

「エッセイっていうジャンルだよ。日記というか、自分の体験とか考えを文章にしたもので、そういうのを読むのがすごく好きなんだ。世界を旅していろんな国の人と交流する話とか、田舎で人と助け合いながら自給自足で生活してる人の話とか。なんかそういう本を読んでると、いろんな人生があるんだなって思えて」

 そういうと、新はこれまで読んできた本のことを思い出しているのか、一冊の本を読み終えた時のように、ゆっくりと息を吐いた。
 本当に好きなんだな。エッセイってやつ。というか。

「意外。なんか南雲って、どっちかというと人間嫌いってタイプだと思ってた」
「どんなタイプだよ」
「いい意味でな」
「……無理あるでしょ」

 新は笑みを浮かべて、立ち上がる。

「別に嫌いじゃないよ」

 小さく呟くと新はおしりを叩いて埃を落とし、エサが無くなった紙皿を回収していく。
 そんな新の姿を見て、恵太は声をかけずにはいられなかった。

「南雲ってさ」
「ん?」

 ふり向く新を見つめ、恵太は考える。

 新は人間が嫌いなタイプじゃない。
 人と話すことだって苦手なタイプじゃない。
 むしろ、その逆だ。新が好きなものはエッセイだけじゃなくて……。

 そう気づいた時には、自然と口が動いていた。

「南雲って、本当は教室にきたかったりする?」

 新は浩介の言う『絡み』ってやつを求めているんじゃないか。

 その証拠に、ほとんど関りがない浩介のことを覚えていた。
 ここで初めて会った時、最初に恵太に気づいたのも新だった。
 交流や助け合い。
 新はエッセイを通じ、他人と関わる人生を夢見ていたのではないか。

 恵太は勝手に真相にたどり着いたような気になって、ごくりとつばを飲む。
 新の返答は二つに一つ。

 教室に行きたい。
 教室に行きたくない。

 そう決め込んでいた。
 だから、そのどちらでもない答えに恵太は反応が遅れた。

「無理だよ」
「……え」

 そういうと、新は荷物を片付け「おやすみ」とほほえみ歩き出す。

 なんだよそれ。

 新の寂しそうな笑顔に、恵太はなぜか腹が立った。

「無理ってなんだよ。あれか、長く休みすぎて気まずいとかそういうやつか? だったら大丈夫だって!」

 歩みを止めない新の背中に、恵太は言葉を投げかける。

「俺がいるから大丈夫だって!」

 なにが大丈夫なのかは自分でもよく分からなかったが、恵太はとにかく叫んだ。


 しかし、新は一度も立ち止まることも、振り向くこともなく、散り散りに去っていく猫とともに夜の暗闇へと消えていった。
「また悩んでるねぇ」
「え?」

 顔をあげると、荒牧先生が窓から顔を出していた。

「ほっぺに土ついてるよ」

 荒牧先生が自分の頬をつんつんとつつく。
 新は荒牧先生がつついた場所と同じ場所を軍手の、まだ土がついていないきれいな部分で拭う。
 荒牧先生はすまないねぇ、と、ひとつも申し訳ないと思っていない様子で笑った。

 今は掃除時間中。

 いつもなら保健室の床を掃いたり、窓を拭いたりしているが、今日は荒牧先生から頼まれ、冬に向けて植木鉢の手入れをしている。
 花は朽ち、葉は茶色く枯れた、夏を生き切った花たちを弔うように、新は茎を掴んでそっと引き抜く。

「どうしたの?」
「べつに」

 新は気にしていない様子で土の入ったプランターに肥料を入れ、スコップでかき混ぜる。
 それでも、荒牧先生の詮索の手は緩まない。

「なになに? 気になるじゃん。さては恋のお悩みかな?」
「違います」
「ふぅん……」

 前髪のすき間からちらりと見上げると、荒牧先生は目を細め、口角がにやりと上がっていた。

 あ、これ本当のこと言うまでずっとかん違いされるな。

 新は観念して、花の苗を入れるための穴をほりながら言った。

「友だ……、最近よく会う知り合いがいたんですけど、最近会えてなくて」

 無意識に手に力が入り、スコップは土の深くにざくりと刺さる。

「嫌われちゃったかなって」

 自分で言っておきながら、胸の奥がじくじくと痛む。

 あの日。
 恵太から教室に行きたいかと聞かれた日から、恵太は猫のエサやりに来ていない。

 恵太は毎日来ていたわけじゃない。
 毎日の時もあれば、2日や3日に一回のときもあった。
 だけど、一週間も来ないのは初めてだった。

 今まではそれが当たり前だったのに。
 
 そんなとき、特別棟の廊下から教室で授業を受ける恵太の姿を見つけた。
 新は恵太の安否を確認でき、心から安堵した。そのあとすぐに、ゆるんだ身体の内側が冷たくなるのを感じた。

 じゃあ、なんで猫のエサやりに来ないんだ?

 飽きたから? 面倒くさくなったから? それとも。

『お前のことを嫌いになったから』

 その時、耳元で囁く声がした。相変わらずの音域が不安定な、歪な声だった。

『お前は人に嫌われる。嫌われるのはもういやなんだろ? だから、だれとも関わらない方がいいんだよ』

 ふりかえっても、そこには誰もいなかった。
 
 自分以外、誰も。



「それはあれだね……」

 新の話を聞いた荒牧先生は神妙な面持ちで唸ったかと思えば、黒い髪をかき上げ、やけにいい声で呟いた。

「恋だね」
「もういいです」

 呆れた新は穴の中にシクラメンの苗を入れ、土をかぶせる。元気に育てよ、と心で唱えながら。

 すると、南雲先生はけらけらと笑った。

「南雲くんは人と違う。普通じゃない」

 ふいに投げかけられた言葉に、新の手が止まった。

 普通じゃない。

 その言葉をトリガーに、新の頭の中に過去の映像が流れ込む。
 新の気分は沈む。深く、深く、光が届かない暗闇の底へ。

 しかし、荒牧先生のやさしくも芯のある声が、新の意識は呼び覚ます。

「南雲くんは普通以上に、優しい。だからいろいろ考えちゃうし、いろんなことに気にしすぎて、自分を否定する『頭の中の声』が聞こえるんだと思う」

 新の自己否定を続ける幻聴を『頭の中の声』と命名したのは荒牧先生だ。

 そんな声は聞こえない。聞こえるとしても、無視すればいいだろ。

 親や教師。いろんな大人が『それ』を否定する中で、荒牧先生だけは『それ』の存在を認めてくれた。
 だから新は学校に、保健室に通うことができていた。

「わたしの言うことも裏の意味とか、本当はこう思ってるとか、いろいろ考えちゃうかもしれないけどさ。これだけは正直な気持ちだよ」

 荒牧先生はまっすぐに新の目を見つめて言う。

「私は、南雲くんが保健室にきてくれて助かってる」
「荒牧先生……」
「なぜなら、南雲くんが花壇の手入れをしてくれるおかげで、私の純白の白衣が汚れずに済むからね!」

 荒牧先生は身に着けた白衣をはためかせ、ランウェイのモデルのようにびしっとポーズを決める。

「正直すぎです」

 新のツッコミに南雲先生はがはは、と笑った。
 その豪快な笑い声につられ、新も鼻から息が漏れた。

「口は災いのなんちゃらだね。でもね、言わなきゃなにも伝わらないよ。南雲くんがその子に会いたいと思ってることもね」
「会いたい……」

 そのとき、保健室のとびらが開く音がした。

「誰か来たかな」

 荒牧先生が顔を引っ込め、新は苗の根元にやさしく土をかぶせる。
 シクラメンの薄桃色の花びらが新の想いによりそうように小さく揺れる。

 そうか。
 ぼくは、佐和くんに会いたかったのか。

 新はじょうろを手に、シクラメンに水をかける。
 佐和くんに会いたい。でも、そのためには教室に行かなければならない。

 みんながいる、教室に。

 新は想像しただけで、ぐっと肩に力が入る。
 そして、想像上でも新はたくさんの人がいる教室に足を踏み入れることができなかった。

「やっぱり無理だよな……」

 身体の力が抜けた新は軍手を外し、外から保健室へ入れるアルミ製の扉に手をかける。

 保健室へ入ると、カーテンのむこうでベッドに腰掛ける男子生徒の影が見えた。
 体調不良者やけが人が保健室へいる場合、新は図書室へ避難する。
 しかし、掃除が終わった今、あとは荷物を持って帰るだけ。その荷物は保健室の中にある。

 新は緊張で痛むお腹を押さえながら、気配を殺して中へ入る。
 目を合わせないように。気づかれないように。静かに。ゆっくりと。

「なにしてんの、南雲」
「なっ……?!」

 ベッドから自分の名前を呼ばれ、新は電流が走ったように硬直した。

「え、佐和くん?」

 そこには鼻の穴にティッシュを詰め、右足の足首に包帯を巻いた恵太の姿があった。

 なにしてんのって、こっちのセリフなんだけど……。

 言葉を失う新に、恵太はティッシュをひっこぬいて見せる。鼻の穴に入った先端は鮮やかな赤色に染まっていた。

「階段で足滑らせてさ、顔からダイブしちゃった」
「しちゃったって……」

 よく見れば、カッターシャツにも鼻血が点々と染みている。
 すると、荒牧先生が追加のティッシュ箱やアルコールの消毒シートを持ってきた。

「鼻血止まるまで抜かないで」
「んがっ」

 荒牧先生は恵太の腕をつかみ、勢いよくティッシュを鼻の穴に詰める。

「廊下に垂れた血拭いてくるけど、佐和くんはどうする? 今日はもうこのまま帰る?」
「そうっすね」
「荷物はどうしようか」
「取りに行けますよ」

 恵太は足に力を入れて腰を浮かすが、違和感を伴う痛みが足首に走り、中腰のまま顔を歪めた。

「動かない」
「い゛っ……?!」

 荒牧先生はそんな恵太の肩をポンと押す。
 中腰の状態からベッドに尻から着地した衝撃は太ももからふくらはぎへ、ふくらはぎから痛めた足首へと伝わり、恵太は言葉にならない悲鳴を上げた。
 そんな恵太の姿を見て、新は控えめに手を挙げた。

「あの……」

 自分の理性が緊張とか不安で口を閉ざしてしまう前に、新は声を出した。

「取ってきます、荷物」

 新の提案に、二人は目を見開いた。

「いいの?」

 恵太は新の様子を伺うように尋ねる。
 それは、荷物を取ってきてもらうことへの遠慮や申し訳なさに対する「いいの?」ではない。
 恵太の荷物を取りに行くということは、すなわち教室に行くということだ。

 新がもう半年近く足を踏み入れていない、教室に。

 そういう意味での「いいの?」だった。そんな恵太の心配の眼差しに、新はちいさく頷いて答える。

「大丈夫……、たぶん」

 自ら退路を断った新。
 それでも向けられる恵太からの戸惑いの眼差しは一旦置いておいて。
 その横で荒牧先生があらあら、って感じで口を押さえ、新に生暖かい眼差しを向けてくる方が気になる。

 緊張や恥ずかしさでいたたまれなくなり、新は逃げるように保健室を飛び出した。




 一段ずつ階段を上がり、一歩ずつ学生棟へつながる渡り廊下を進む。

 右足を出して、左足を出す。そんな当たり前な行動が、自分の身体とリンクしていない。
 そんな状態のまま、新は久しぶりに学生棟に足を踏み入れた。

 廊下で輪になって駄弁る女子たちをよけ、突然走ってきた男子とぶつかりそうになりながらも、新は身体を小さくしたまま先へ進む。
 今まで特別棟から眺めるだけだった学生棟を歩く自分に現実味を感じられず、初めてレジャーランドに来たこどものように、気持ちがふわふわしていた。

 しかし、教室扉の上部に刺さった「2年1組」の札が目に入ると、新の足はピタッと止まった。

 その教室は恵太のクラスであり、新のクラスだ。

 恵太の席の場所は知っている。

 だから、教室に入って、荷物を持って出ればいい。
 それだけでいい、と新は何度自分に言い聞かせても、新の足は教室へと踏み出せなかった。

『見てみろよ。みんな、なんでお前がここにいるんだって顔してるぞ』

 頭の中で声がする。
 顔をあげると、教室の中の数人が新の存在に気づいており、なにか不思議なものを見るように、ちらちらと新を見ていた。

 新の背中にひやりと汗が垂れる。

 逃げ出してしまいたい。保健室に戻りたい。

 だけど、佐和くんの荷物を持って行かないと……。くそ、なんでぼくは、こんなこともできないんだ。

 気持ちばかりが焦るが身体が追いつかず、新はズボンの裾を握り、乱れた呼吸の中、必死に息を吸う。

『だから言っただろ。ここに、お前の居場所は……』
「どした?」

 そのとき、新の影にぬっと人の影が重なった。
 顔をあげると、浩介が首をかしげて立っていた。

「あ、えっと……」

 口を開けたのんびり顔の浩介を前にして、新の緊張はピークに達した。
 浩介より背の低い新はキッと浩介を睨みあげ、冷たく言い放つ。

「ケガした佐和くんの代わりに荷物を取りに来ただけ。そこどいてくれる?」
「……は?」

 なにやってんだ、ぼく!!?

 敵意むき出しの顔をむけながら、心の中で大量の冷や汗を流す新。

 突然、攻撃的な口調を受けた人間のリアクションは相手を不審な人物と認識して避けるか、同様に攻撃的に立ち向かうか、の二通りだ。

 しかし、浩介はまったく気にしていない様子で「まじか」と声を漏らし、恵太の席に向かった。

 机の横にかけられたカバンを広げ、引き出しの中の教科書を乱雑にカバンに詰め込むと、風呂敷包みを背負った泥棒のように、ひょいと肩にかけてもどってきた。

「俺も行くわ、保健室」
「え、ちょ……」

 そういって先に歩き出す浩介。
 新は遠のく浩介の背中を見つめているうちに我に返り、慌てて後を追った。



 掃除の時間が終わり、今は帰りのホームルーム中。

 生徒たちはみんな教室に戻っているため、さっきまでとは打って変わって廊下には誰もいない。
 新と浩介。二人の足音だけが不規則に重なる。

 静かだ。静かすぎて、気まずい……。
 話しかけた方がいいのかな。でも……。

 ちらりと浩介の横顔を見ると、頭の中で声がした。

『やめとけって。お前なんかが話しかけても無駄だか……』
「最近さ」
「……え?」

 急に浩介がしゃべりだし、新は顔をあげた。

「最近さ、恵太と猫にエサあげてるんだって?」
「……そうだけど。だから?」
「いいなぁ。俺、強めの猫アレルギーだから近づけないけど、猫好きなんだよね」
「そ、そうなんだ……」

 新の返事が宙に浮いたまま、会話は終わった。
 そこへすかさず、頭の中の声があげつらい、高らかに笑う。

『はい会話途切れたー。やっぱりお前は人と会話するセンスがな……』
「南雲はさ」

 また急に浩介がしゃべりだし、頭の中の声は苛立ち、わなわなとふるえる。

『こいつずっと会話被るんだけど!』

 そんな新の頭の中の様子を知らない浩介は、前を向いたまましゃべりだす。

「南雲は、恵太のことどう思ってんの?」
「どうって?」
「俺は好きだよ。あ、もちろんラブじゃなくてライクのほうだけど」

 すると突然、浩介は立ち止まり「あっ」って顔で振り返る。

「もちろんとか言うのは違うか。ご時世的に」
「う、うん……」
「俺、デリカシーはへその緒切ったときに一緒に取れちゃったからさ」

 それだけ言うと、浩介はまた前を向いて歩きだす。

『どういう意味だよ』

 冷静にツッコむ頭の中の声を無視して、新は自分に問いかける。
 自分は、恵太のことをどう思っているのか。

「わからない。けど」

 新は恵太のことを思い出す。
 猫にエサをあげる恵太の横顔を。
 猫を撫でる恵太の嬉しそうな顔を。

 そして、恵太が優しい人だってことを。

「いい人だなって思ってる」
「それ、恵太も言ってた」

 浩介は歩きながら顔だけ振り返り、ニッと笑った。

「南雲はいいやつだって」




 保健室の扉を開けカーテンをめくると、荒牧先生の姿はなく、恵太はベッドに退屈そうに寝転んでいた。

「恵太マン、新しい顔よ」
「あぶねえなぁ」

 浩介は恵太の顔を目掛けてカバンを投げるが、顔にあたる寸前で恵太はキャッチした。

「じゃあ、達者でな」
「さんきゅ」

 恵太の様子を一目見て浩介は満足したのか、踵を返して歩き出す。

 心配や労りの言葉こそないが、二人が深く通じ合っているのが新にもわかった。

 保健室を出る間際、浩介は「そうそう」と思い出したように振り返る。

「南雲はお前のこと嫌ってなかったぞ」
「え」

 急に名前を呼ばれた新は面食らい、隣で恵太はものすごい勢いで起き上がった。

「なっ?! おまっ、言うなよ!」

 恵太の叫びを無視して、浩介は教室へ戻っていった。

しん、と静まる保健室。
 新は迷ったが、聞かずにはいられなかった。

「えっと、何の話?」

 恵太は目をそらし、気まずそうにこめかみをかいているが、観念したようにぼそぼそと話し出す。

「この間、踏み込んだこと言い過ぎたかなと思ってさ」
「この間」

 新はつぶやくと、脳内に恵太と最後に会った日の光景が浮かんだ。
 恵太から本当は教室に来たいんじゃないかと聞かれた時のことを。

「南雲が教室に来ないのはたぶん、俺には分からない南雲の問題があるんだと思う。けど、だからってなにもしない理由にはならないんじゃないかと思ってさ」
「·······色々気使わせて、ごめんね。でも、大丈夫だから」

本当は大丈夫なことなんてひとつもなかった。
 でも、今の新に恵太は眩しすぎた。

新はお大事に、と告げて踵を返す。しかし、恵太は腰を浮かせ新の腕を引っ張る。

「うわっ·····」

新はバランスを崩し、引っ張られるまま恵太に覆い被さるように倒れた。

「体幹弱すぎか」
「ごめんっ··········」

恵太の微笑みが、新のまつ毛をくすぐる。
目と鼻の先にある恵太の顔に、新の心臓が静かに暴れる。
 新は直ぐに起き上がろうと腕に力を込めたが恵太は手を離さない。

「南雲が猫にエサをあげる理由聞いてさ、あの時、実はすげー感動したんだよ」
「……」
「だから俺も、南雲みたいに『見て見ぬふり』したくないと思ったんだ」

恵太の言葉の一つ一つが、新の胸の奥で熱を帯びていく。
新がなにも言えずにいると、恵太はふいに我に帰ったように、恥ずかしそうに目を泳がせる。

「……っていうのは、まぁかっこつけた理由で。ふつうに南雲と話すの楽しいからさ、夜だけじゃなくて昼間も話せたらいいなと思っただけだったり、しちゃったり、なんだったり……」
「……なにそれ」

 だんだんと声が小さくなっていく恵太が可笑しくて、笑みがこぼれた。
 笑っているうちに、胸の奥の熱がだんだんと上がってきて、目頭まで熱くなってきた。
このまま泣いてしまうと、恵太に涙が落ちてしまう。
 新は声が震えないように口の中で頬を噛みながら、必死に言葉を紡ぐ。

「ぼくは……」

 その時、外から校舎を揺らすほどのエンジンの駆動音が聞こえてきた。
 駆動音がだんだんと近づいてきて、タイヤが滑る甲高い音がキキッー、と響くと保健室の外に一台の真っ赤なスポーツカーが停車した。
 新と恵太が口を開けて見ていると、中から大きなサングラスをかけた荒牧先生が白衣をはためかせて降りてきた。
陽光を反射するスポーツカーの光沢が、荒牧先生の後光と化し、新たちの目を眩ませる。

「おまたせって、お取り込み中?」
「い、いやっ·····!」

新は慌てて立ち上がる。

「乗って。病院送っていくから」
「そんな大げさにしなくても」
「なに言ってんの。備えあればなんちゃらよ」

 荒牧先生の勢いに押されるまま、恵太は荷物を持って立ち上がる。
 その時、恵太の鼻に詰めていたティッシュがぽろっと落ち、雫のような鼻血がたらりと垂れた。
 荒牧先生はそれを見て、一瞬の迷いもなく、白衣の袖で恵太の鼻血を拭った。

「あ」

 純白の白衣についた赤い染みに新は驚いたが、荒牧先生はまったく気にしていなかった。
 やっぱり、荒牧先生はすごい。

「早く行くよ」
「んがっ」

 新しいティッシュを鼻に詰められた恵太を車に乗せ、荒牧先生が運転するスポーツカーは光の速さで走り去っていった。





「南雲さ、お前のこと好きっぽくね?」

 中学生のころ。職員室へクラスの提出物を届けた新が教室に戻ると、そんな声が聞こえてきた。
 新は教室の外の壁に身体をよせて、耳を澄ます。

「最近ずっと一緒にいるしさ、お前を見る南雲の目が、こう、キラキラしてるのよ。恋する乙女チックな」
「あいつ男だろ」

 そういってケケケ、と笑う男子たち。
 だが、一人の男子は嫌悪感をまとった声でぼそりと呟いた。

「そういうのマジ無理。きめえから」

 それは、新が想いを寄せていた男子の声だった。
 




 背中を押されて我に返ると、黒猫が身体を擦りつけ、そのままごろんと地面に寝転んだ。
 撫でてもいいけど? って顔で見てくる黒猫に、新は苦笑しつつ毛並みに沿ってゆっくりと撫でる。

 思い返しても、あのころは浮かれていたな、と自分でも思う。

 叶わない恋だと分かっていながらも、この恋だけは特別なんじゃないかと思い込んでいた。

 そんな思い上がりが、彼を傷つけていたとも知らずに。


 あの日から、新は想いを寄せていた男子と距離を取った。

 そのうち、友だちとも距離を取るようになり、新は一人で本を読んで過ごすことが増えた。

 好きな人には幸せになってほしい。
 でも、ぼくが好きになることが、好きな人にとって不幸なことなら。

『お前は誰のことも好きになるべきじゃない』

 その時、頭の中で声がした。思い返せば、これが初めて頭の中の声を聞いた時だった。

 新は羨ましかった。
 普通と呼ばれる人たちが。
 新は妬ましかった。
 普通の恋愛ができる人たちが。
 新は悔しかった。
 普通じゃない、自分の頭が。

 ぼくだって、ちゃんと女子を好きになりたいのに……。


 クラスメイト達とともに過ごすだけで、蓄積されていく負の感情に疲弊し、新は教室に行かなくなった。
 そのとき、鼻の下が黒い模様がついた猫が新の足に顔をこすりつけた。


──こいつはちょび。鼻の模様がちょび髭っぽいだろ。


 そういって笑っていた恵太の横顔を思い出す。


──見て見ぬふりしたくないと思ったんだ。


 恵太の気持ちに答えたい。それに、新自身もこのままじゃいけない、という思いもある。
 でも、新学期や進級するたびに気持ちを奮い立たせて教室に行くが、長くはもたなかった。


 一人でいるよりも、他人と一緒にいる方が、孤独を強く感じるから。


 しかし、孤独の闇に溺れた新の心を、恵太の言葉が優しく照らす。


──俺がいるから大丈夫だって!


 海に差し込む陽光のように、まぶしくも、それでいて確かな輝きに、新はそっと手を伸ばす。

『本当に、それでいいんだな?』

 頭の中の声は新に問う。

 頭の中の声は、自分を否定する気持ちであり、これ以上傷つきたくないという自己防衛の本能だと、荒牧先生は言っていた。

自分で自分を傷つける。他人に傷つけられるよりもマシだから。
 そんな不器用な防衛本能も紛れもない、自分の気持ちだ。

 だから、新は自分の気持ちに正直にうなずく。

「うん。今度はうまくやるよ」
『勝手にしろ』

 吐き捨てるように言うと、頭の中の声は聞こえなくなった。
 音域が不安定で、しゃがれた声変わり時期のようなその声は、少しだけ穏やかだった。

 新はちょびのあごをしずかに撫でた。




 次の日の朝。

 昇降口の前に立つ新は校舎へと吸い込まれていく生徒たちの中で足を引きずる恵太をみつけた。
 恵太も同時に新を見つけたようで、新に手を挙げる。

「おはよう」
「おはよ」

 新は恵太のとなりに並び、校舎へと入る。靴をはき替え、廊下に立つ。
 いつもなら新は特別棟がある右側へと進むが、新は恵太とともに左側へ進んだ。

 あれ、という顔のまま歩く恵太。階段につくと新は右肩を差し出した。

「さんきゅ」

 恵太は新の意図に気づき、新の肩に手を置く。

 二人は慎重に、一段ずつ階段を上る。途中、光り輝くほこりが舞う踊り場で一呼吸を置いて、また一段ずつ上った。
 階段を上りきり、恵太の手が離れても、新は恵太のとなりを歩き続けた。

 そして、2年1組の教室の前についた。

 恵太はそのまま教室に入っていくが、新はその場で立ち止まる。

 その瞬間、足から根が生えたように足を踏み出せなくなった。
 呼吸が浅くなる。周りの人の視線が痛い。ざわざわ、と聞こえる声たちが、すべて自分に向けられたもののように感じてしまう。

「南雲?」

 教室の中からこちらを振り返る恵太を見て、新は忘れていた呼吸をはじめた。

 大丈夫。
 自分にそう言い聞かせ、新は右足をあげ、一歩を踏み出す。

 その時、廊下の向こうから慌ただしい足音が近づいてきた。

「やばーい! 遅刻遅刻ぅ!」

 曲がり角で転校生とぶつかる食パンをくわえた女子高生のような甘い声色で、なにも口にくわえていない浩介が走ってきた。

 浩介は教室の扉の前に立つ新の存在に気づきながらも、そのまま新もろとも入室してくる。

「わっ、おっ、と……」

 浩介にタックルされた新は、さながら歌舞伎の見栄きりのように片足でぴょこぴょこと前進する。
 新はなんとかバランスを崩さずに持ちこたえ、転倒を免れたことに安堵しつつ姿勢を正す。

「あ」

 前を見ると、さっきまで遠かった恵太が目の前に立っていた。

 新は気づかないうちに、約半年ぶりに教室に入っていた。しかも、かなり目立っている。
 そんな新の姿を見て、恵太はぷ、と吹きだし、続いて新も吹き出した。

「半年ぶりの教室登校がそれかよ」
「しょうがないじゃん」

 それからは新の笑い声につられて、恵太がさらに笑いだし、恵太の笑い声につられて、もう新がもっと笑って。

 次第に二人の笑い声は教室中に響いた。

 それでも新は笑った。
 誰の目も気にならないほどに、新は嬉しくて、楽しかった。

 新は笑いすぎを理由に、目尻に溜まった涙をぬぐった。


 始業のチャイムが鳴り、新は自分の席へと向かう。

 あちこちから聞こえる席を引く音たち。そんな轟音に耳を痛めながら、新もまた席を引き、自分の席に座った。

 椅子の固い座り心地が懐かしくて、新はなにかを確かめるように、卓上をゆっくりと撫でる。
 新は斜め前に座る恵太の後頭部を見ながら、心で唱える。
 

 今度こそ、浮かれないように。気づかれないように。


 新は高鳴る胸を感じながら、窓の外を見る。


 雲一つない、からっと晴れた秋空だった。
「恵太先生……!! バドミがしたいです……」
「略し方おかしいだろ」

 恵太は何か所かガットがほつれたラケットでシャトルを軽く叩く。
 シャトルはぽーん、と弧を描いてネットを越え、反対のコートに立つ浩介の胸のあたりでキャッチされた。

 我ながらナイスコントロール。

 恵太は昔からバドミントンが得意だった。誰に教わったわけでもない、おそらく才能だ。
 小さいころから才能の芽に気づき、花開くよう努力していればそれなりの成績は収められたのではないかと思っている。地区大会ベスト8ぐらいには。

「新もやろうぜ」

 浩介は体育館の壁にもたれて座る新にラケットを向ける。
 新は寒いのか、ジャージの上着の中に膝を入れて綺麗な三角形となっていた。おにぎりみたいだった。

「ぼく?」
「だってこいつ強いもん。二対一くらいでちょうどだよ」

 様子を伺うように顔をあげる新に、恵太は自信たっぷりに答える。

「いいぜ。かかってこいよ」

 新は笑みを浮かべて立ち上がると、コートに入り、浩介のとなりに並ぶ。
 学校指定の紺色のジャージは明らかにサイズオーバーで、太もものあたりまで裾がある。
 きっと、入学当初の想定よりも早めに成長が打ち止めになったのだろう。背が高い浩介と並ぶ新は浩介の弟のようにも見えた。

「それ萌え袖? かわいいじゃん」
「か、かわいくない!」

 新は恥ずかしいのか、慌てて長袖をめくるが、すぐにずり落ちてる。
 長袖から直接ラケットが生えている不思議な生き物が、腰をかがめてこちらを睨んでくるのが可笑しくて、恵太は笑った。

「いくぞ」

 浩介はシャトルから手を離し、打ち上げるようにラケットを振る。
 恵太は素早くシャトルの落下場所へステップを踏んで移動し、ラケットを構える。

 ここだ!

 恵太が打ち返したシャトルは、新と浩介のちょうど真ん中目掛けて飛んでいく。すると。

 ……コトン。

 新と浩介は床に転がったシャトルを見つめ、互いの顔を見あった。
 そんな二人を見て、恵太はニヤリと口角をあげた。

「「あれ……?」」

 新は浩介に遠慮して、浩介は新が打ち返すだろうと考えて、お互いに足が動いていなかった。
 
 それこそが、恵太の狙いだった。

「新ぁ……」
「いやいや、浩介のほうが近いでしょ!」

 浩介の非難めいた口調に、新はシャトルを拾いながら抗議する。

 ……ん?

 その光景に、ドヤ顔で鼻の穴を膨らませていた恵太は、にゅっと眉根を寄せる。

 まったく、と不満そうな口調とは反対に笑みをこぼしながら新はラケットを握りなおす。

「いくよ、佐和くん」
「お、おう……」

 新はラケットを振り上げ、シャトルを叩く。先ほどと同じように、恵太は二人の間を狙ってシャトルを打ち返すが、弾道はやや浩介の側にずれた。そのとき。

「浩介!」
「おけっ!」

 新の声かけにより、浩介が床を蹴り移動。運動靴の甲高い摩擦音を響かせながらラケットの落下地点に着くと、素早くラケットを振り下ろす。

 んんっ……?

 先ほどからの違和感に気を取られていると、すぐ目の前にシャトルが飛んできた。
 恵太は慌てて打ち返すと、シャトルはふわりと宙に浮かんだ。

 まずい、と思うと同時に浩介の「新! チャンス!」と短い雄たけびが聞こえる。

 シャトルは吸い込まれるように、新をめがけて落ちていく。
 新はぐっとラケットを強く握り、思い切り振りかぶる。

 ……コトン。

 しかし、ラケットは空を切り、シャトルは床に落下した。

「あ……」

 顔を真っ赤にしている新の横で、浩介は反対コートに立つ恵太より。さらに向こう側を見わたしながら呟く。

「新ぁ、お前どこまで飛ばしたんだよ」
「空振りしたんだよっ!」

 新のツッコミがさく裂したところで、授業の終わりを告げる笛が鳴った。





 体育館を出ると、動き回ったことで火照った身体を、冬の寒々した風が芯まで冷やす。
 恵太たちは身を縮こませ、そそくさと教室に戻り、制服に着替える。
 体操着の上にカッターシャツを着ることは禁じられている。

 カッターシャツの下に着ていいのは肌着のみ。Tシャツも、体操着も禁止。それが校則だ。理由は知らない。

 だが、カッターシャツの上からさらにブレザーを着込む今の時期に、そんなルールを守るやつはいない。
 浩介なんか、肌着とTシャツと着て、ついでに腹巻きまでつけている。(腹巻が校則違反かは微妙だが)

 だからこそ、着込むみんなに隠れるように体操着を脱ぐ新の姿が目に止まった。

 シャツの隙間からのぞく雪のような白い肌。
 余分な脂肪がなく、うっすらと浮き出た腹筋は男らしさとは違う、芸術的な美しさを感じる。

 そのまま視線をあげると、新と目があった。

「なに?」
「いや別に……」

 恵太は、若干ぷにっとしてきた自分のお腹をさすりながら首をふる。

「新は校則守っててえらいな」

 恵太はおもむろに腕をあげると、新はすぐにカッターシャツを羽織って、数歩後ろへ下がった。

「べつに。普通でしょ」
「お、おう……」

 所在なさげな腕はそのまま、恵太自身の頭の上へと着地した。

 髪質が固く、指がするりとすり抜ける自分の頭は、触り心地が良くなく、物足りなかった。







 新が教室登校を再開してもうすぐ1か月が経つ。

 初対面の人に対して刺々しい態度になってしまう新の謎の癖のせいでひと悶着、いや、ふた悶着くらいはあったが、今では新が教室にいる姿にもずいぶんと慣れた。

 だからこそ、体育館で感じた違和感が拭えない。


 なんで。

「なんで俺のことは苗字呼びで、浩介のことは呼び捨てなわけ? なんか距離あるっぽくない?」

 放課後。
 恵太は浩介の机に突っ伏しながら言葉を吐いた。
 浩介はスマホをいじりながら、心底どうでもよさそうに答える。

「距離あるんでしょ、実際」
「ないって。 ……あるのかな」
「知らん。急に弱気になるな」

 浩介は帰るぞ、とカバンを持って立ち上がる。
 恵太はプールの後のような重たい身体をひきずって後を追った。


 静かな廊下に二人の足音が重なる。そこに、新の姿はない。


 新は放課後はいつも図書室で勉強をして帰る。
 本人曰く、遅れを取り戻すためだというが、この間の中間テストではすでにクラス上位に名を連ねていた。
 それも、今のマインドで考えると一緒に帰りたくないからでは、と考えてしまう。
 まぁ、夜になればまた会うんだけど。それでも。

「まだ若干、バリア張られてるような気もするんだよなぁ」

 その証拠に、最近は頭を撫でようとすると避けられる。
 学校では前からそうだったが、夜の間でもだ。

 猫にエサをあげる間は、撫でさせてくれていたのに……。

 このナイーブな気持ちは新のもふもふの頭を撫でていないことによる禁断症状なのかもしれない。

「ATフィールド的な?」
「たぶんそう。エヴァ見たことないけど。それに結局、新が教室登校に戻った理由もわかんないし」

 最初のきっかけは足を痛めた恵太の荷物持ちだったが、恵太の足が治った今でも新は教室登校を続けている。
 だから、新がどうして教室登校に戻ろうと思ったか、恵太は分かっていなかった。

 浩介はちらっと恵太の顔を見て「まじか」とため息をついた。

「じゃあなんでお前は、新に教室登校させるまでしつこく絡んだんだよ」
「クラスメイトなんだから、教室に来てほしいって思うくらい普通だろ」
「普通ねぇ」

 浩介は大きくため息をつく。

「エヴァ見ろ。そしたらわかるから」

 浩介は投げやりに答えると、F1カーがピットインするように、そのままトイレへと入っていった。

「てきとー言いやがって」

 恵太はそのまま昇降口で靴をはき替えて浩介を待った。
 さびや凹みに歴史を感じるアルミ製の下駄箱。
 小さなとびらの真ん中にはコピー用紙をラミネートしただけのネームプレートが差し込まれている。
 恵太は新の下駄箱をみつけ、なんとなくネームプレートに印字された文字を指でなぞりながら読み上げる。

「南雲新、か」

 すると、こちらへ近づいてくる足音が聞こえ、恵太はさっと手を離した。

「荒牧先生」

 下駄箱の陰から現れた通りすがりの荒牧先生は、あたりを見回し首をかしげる。

「今、誰か呼んでた?」
「べ、べつに」

 恵太はとっさに目をそらす。
 だが、そんな恵太の態度に、荒牧先生は目を細めてにやりとほほ笑む。

「ふぅん……」
「なんすか?」
「冬なのに、春が来たか」
「は?」

 荒牧先生の意味不明な発言に口を開ける恵太。
 だが、そんな恵太に荒牧先生はいたずらっぽく語りかける。

「好きな人の名前ってのはね、理由がなくても呼んでみたくなるものなのよ」

 それだけ言うと、荒牧先生はふふっと笑って去っていった。
 と同時に、入れ違うようにして浩介がやってきた。

「荒牧先生すげーにやけてたけど」
「よくわかんないこと言われたわ」
「そういう時は」

 困り顔の恵太に対し、浩介は靴を地面に落とし、つま先で地面を蹴りながら答えた。

「笑えばいいと思うよ」






 猫の舌はざらざらとしていて、指の隙間などの肉が薄い箇所を舐められるとやすりで削られたようにひりひりする。
 だから、ちゅるちゅるするエサをあげる時はゆっくりとチューブを絞りつつ、猫の動きをコントロールするのだが……。

「痛っ……!」

 今日何度目かのぺろぺろ攻撃を食らい、思わず大きな声を出すと猫は驚いてフェンスの向こうへと逃げてしまった。

「佐和くん、大丈夫?」
「全然大丈夫……」

 となりから心配そうな眼差しを向ける新に、恵太はひりひりと痛む手を撫でながら答える。

 いつもなら猫がエサを食べる姿に夢中なのに、今日はなんだか雑念が多い。……主に荒牧先生のせいだけど。

 たしかに新に対する感情は、浩介やほかの友だちに向ける感情とは違うと思う。
 まぁ、荒牧先生がいう好きではないけども。そもそも、新は男だし。
 
 恵太は横目で猫を愛でる新を観察する。
 あいかわらずふわふわの髪の毛は、初めて会ったころよりも少しだけ短くなっていて、前髪のベールに隠れていた新の目が良く見える。
 アーモンドのような形の目に、茶色がかった新の瞳。

 すると、新は恵太の視線に気づいて顔をあげた。

「なに?」
「べつに。南雲新くん」
「なんでフルネーム?」

 首をかしげる新に、恵太は吹きだす。

 こんな風にからかいたくなるような、世話を焼きたくなるような。
 そのとき、奏の姿が脳裏に浮かんだ。小さかった恵太の手を引いて歩く、奏の背中が。

 今では見る影もないな、と恵太がため息を漏らすと、ため息は白く曇り、夜風に混ざって消える。
 恵太は赤紫色のマフラーで口元を覆う。

「寒いな」
「そうだね」

 新が両腕で二の腕のあたりをさすりながら、ぽつりと呟く。恵太は辺りに散らばる猫たちを見回す。
 毛に覆われた猫たちはこれくらいの寒さは平気なのか、エサを食べたり、くつろいだり。中には大股をひらいて毛づくろいをしているものもいる。
 でも、秋の頃に比べると。

「最近、猫ちゃんたち少なくない?」
「言われてみれば。ちょびはいるけど」

 新にエサやりをはじめさせ、恵太をここに招いた鼻の下にちょび髭のような黒い模様がついた猫、通称ちょびは今日も変わらず顔をうずめるようにエサにがっついている。

「どこかあったかいところでもあるのかな」

 恵太は自分で言っておきながら、そんな場所はないだろうと思った。
 これから冬本番だ。
 今は平気でも、低気温の過酷な環境で猫のような小動物が生き延びるのは容易なことではない。
 それが自然の摂理だとしても、あんまりだ。

 残酷な未来を想像し、胸のうちを曇らせる恵太に対し、新はさらりと、それでいてきっぱりと言った。

「あるといいね」

 新の願いのこもった暖かい声を聞いて、恵太の脳内にはこたつやヒーターが設置され、猫たちがくつろぐ和室が想像できた。
 ぴんと身体を伸ばし、すやすやと心地よさそうに眠っている猫たちの姿を。

 そんな場所はあるわけない。
 
 でも、そんな場所があったらいいなと素直に思えた。願うことができた。……やっぱり。

「新って、いいやつだな」
「なに急に……。もう帰るよ」

 新は急に立ち上がり、猫が食べ終わった紙皿を途中何度か落としながら回収していく。
 恵太が手伝う間もなく片づけを終えると、新は一息ついて、恵太の方を向いた。

「おやすみ、佐和くん」

 やっぱり苗字呼びか。
 でも、昼間ほど違和感はなかった。

 猫にも人にも、適切な距離感がある。
 きっと、今の距離感が新にとって心地よいものなのだろう。だったら。

「まぁ、いいか」
「なにが?」

 なんでもない、と恵太は微笑みながら首を振る。

 初めて会った日、一人でエサをあげていたころの新を思い出すと、今のままでも十分に距離は縮んでいるだろう。

 そう思うと、恵太は違和感を無視できた。

「おやすみ、南雲新くん」
「だからなんでフルネーム?」

 新のツッコミに、恵太はケタケタと笑った。







 翌日の放課後。
 恵太は商店街を歩いていた。特に目的はない。ただ、まっすぐ帰るのもつまらなかった。

 新は今日も図書室で勉強だし、浩介は学校を休んでいる。
 体調不良と学校には伝えたらしいが、エヴァのテレビアニメを一気見しているとラインが入った。少しでも心配した気持ちを返してほしい。

 久しぶりに訪れた商店街はひどく静かだった。

 子どもの頃、姉の奏とよくお菓子を買いに来ていた思い出の駄菓子屋はもうなかった。
 ほかを見わたしても営業中のお店よりも、シャッターが降りたままになっている店の方が圧倒的に多い。

 諸行無常だな、としみじみ物思いに耽る恵太だったが、道の先から妙に軽薄な声が聞こえてきた。

「どうぞー! 一時間千円! おさわり自由!」

 見れば、黒縁メガネをかけたスケベな顔つきの40代前後の男性が道行く人に声をかけまくっている。おそらく居酒屋か、いかがわしい店のキャッチだろう。
 ああいうのは無視一択。って、高校生の俺が声かけられるわけないか。

 それでも恵太はなるべく気配を殺してキャッチを通り過ぎる。しかし。

「そこの猫好きの少年!」

 キャッチの一声に、恵太は足を止めた。
 振り向くと、スケベ顔のキャッチとばっちり目があった。それでも一度、左右を見る。やはり、自分以外には誰もいない。

「え、俺?」

 なんでこの人、俺が猫好きだってわかったんだ?

 恵太が尋ねるよりも先に、垂れ下がった目尻に笑みを浮かべたキャッチは、するりと恵太の肩に腕を回し、耳元で秘め事を伝えるように囁く。

「ちょっと寄っていかない? うちの保護猫カフェに」
「保護猫カフェ?」

 聞きなれない言葉は脳内に入ってこずに、そのまま口から出た。
 そんな恵太に、キャッチは白い歯を見せて笑い、背中をとん、と押してすぐ横の雑居ビルへと入る。

 狭くて急な階段を上がると、アルミ製の無骨な扉のすぐ横に『保護猫カフェ にゃん処』と書かれた木製の看板が立てかけられていた。
 中に入ると、受付カウンターがあり、派手な金髪の女性が机に肘をついて待ち構えていた。

「どうも」
「カンちゃん、もっと愛想よくしてよ」

 カンちゃんと呼ばれる20代前半ほどの女性はギロリ、とキャッチを睨み、そっぽを向く。
 耳についたたくさんのピアスが遅れて揺れる。

「じゃ、まずは手を洗ってね」
「あ、はい……」

 キャッチのペースにのまれ、恵太は言われるがまま、洗面台の前に立つ。
 壁掛けの鏡の横には数年前のウイルス感染時にあちこちで見かけた、正しい手の洗い方が説明されたイラストが張られており、恵太はイラストの通りに丁寧に手を洗いながら、今の状況を整理していた。

 なんだよ、これ。

 怪しいキャッチに声をかけられ、入った店の受け付けはヤンキーギャル。
 その人たちに監視されながら手を洗う俺。

 なんだよこの状況……。っていうか、ここはなんだ?

 猫カフェなら聞いたことあるけど、保護猫カフェも初めて聞いた。
 でも、猫なんかどこにいない。あるのは受付に置かれた親指サイズの招き猫の焼き物だけ。

 その時。恵太の中で、ぴんと糸が張ったように閃いた。

 もしかして、これって、詐欺? もしくは犯罪に巻き込まれるパターン?
 特殊詐欺の受け子的な。どこかからどこかにあやしいなにかを運ぶ的な。

 犯罪に手を汚す可能性を考えながら、手だけはきれいになった恵太。
 
 心臓がバクバクと痛いほど暴れる中、ハンカチで手を拭うと、キャッチはお待たせしました、もったいぶりながらゆっくりと扉を開ける。

「それでは、どうぞー」
「うわぅ……」

 部屋に足を踏みいれると、目に入ってきた光景に、恵太は思わず声を漏らした。

 そこは和室を模した作りの小さな部屋で、ちゃぶ台の上に猫、下に猫。
 壁際に置かれた漆色の古びた味わいあるタンスの上に猫。
 開きっぱなしの引き出しの中に猫。
 柱の上にも猫。
 窓際にも猫。
 座布団の上にも猫。
 あっちにも猫。こっちにも猫。

 なんだここ、猫まみれじゃないか……。

「ここにいる子たちはね、元野良猫とか、やむを得ない事情で人と生活することができなくなった子たちなの。そういう子たちを保護して、大切に育てながら里親を探したりするのが保護猫カフェなのです」

 そういうと、キャッチは近くにいた猫のあごを撫でる。

「そして、ここは猫ちゃんたちが人間との付き合い方を学ぶ場所でもあるの。だから、やさしくしてね」

 恵太はうなずくと、キャッチは鼻の下を伸ばし、にやりと笑った。
 すると、ヤンキーギャルのカンちゃんが部屋に入ってきてキャッチをちらりとみて通り過ぎる。

「池谷さん、また顔がスケベになってるよ」

 そういうと、カンちゃんは棚の上に上がって降りられなくなっていた子猫たちを手慣れた手つきで抱えて、床におろしていく。
 カンちゃんの胸元でゆれる名札には「カンナ」という名前と輪郭がねじれた猫の絵がマジックペンで書かれていた。

「なにスケベな顔って。誉め言葉?」

 言ってることも、やってることも素晴らしいことなのに、やたらと顔がスケベなこの人は池谷さんというらしい。
 ピンクの文字で「池谷」と書かれた名札も、なんだかいかがわしいものに思えてくる。

「今日はお客さん二人目ね」
「え」

 池谷さんの視線の先を見ると、別の高校の制服を着た男子が文字通り、猫にまみれていた。
 まったく気がつかなかった。

「どうも」
「うっす」

 挨拶を済ますと、池谷さんとカンちゃんはビニール袋からエサを掬い、皿に入れて二人に手渡す。

「おやつの時間だから。はい、これもって」

 恵太がカニカマやささみの干し肉などが入った皿を受け取るころには、猫たちは食べ物の気配に気づいて騒ぎ出していた。
 ズボンに爪を引っかけ、よじ登ろうとしてくる猫までいる。

「わかったから……!」

 恵太は皿を床に置くと、猫たちは頭を埋め、がつがつと食らいつく。
 他校の男子生徒は猫に覆われ、床で窒息している。

「野良猫の頃の名残でね、食い意地がすごいの。今度の食事がいつになるか分からないと思ってるから」

 そんな猫たちの姿を見て、池谷さんはつぶやく。
 その言葉で、ここにいる猫たちが、これまでどんな人生、いや猫生を歩んできたか想像でき、胸が痛んだ。

「まぁ、ここにいる限り、絶対に飢え死になんてさせないけどね」

 池谷さんはそういうと、再びおやつを皿に盛った。
 何気ない言葉だったが、池谷さんの覚悟のようなものを恵太は感じた。




 あっという間に一時間が経ったが、池谷さんは「初回サービス」と言ってお金を受け取ることはなかった。

「でも、売り上げが保護猫活動にもつながるから、バンバン宣伝してね」

 そういって池谷さんはお手製らしき連絡先を書いたポイントカードを渡してきた。
 ピンクの紙に「またのご来店、お待ちしてます♡」と書かれたカードはやっぱりいかがわしくて、恵太はすぐにブレザーの内ポケットにしまった。

 宣伝か。

 今度は新と一緒に来ようかな。新ならきっと喜ぶだろうし。

 そんなことを考えていると、池谷さんはまた恵太の肩に腕を回し、耳元で囁く。

「猫にはそういう、縁を結ぶ力があると思うの。縁を招くってね」
「縁を、招く」

 受付に座るカンちゃんは招き猫の焼き物の手に持ち、くいっと招くように動かす。

 そういうと、池谷さんは再びするりと恵太の肩に腕を回し、耳元で秘め事を伝えるように囁く。

「デートスポットとして使ってくれてもいいよ」
「でっ……」

 恵太は動揺し、言葉を詰まらせていると池谷さんはむふふと口を押さえて、目尻をぐにゃりと曲げる。

「あらぁ、かわいいところあるじゃない」


 池谷さんの笑顔は、やっぱりスケベだった。









「恵太、肩揉んで」

 風呂上がりにリビングへ行くと、ソファに奏が寝転びながらアイスのピノを食べていた。
 正確に言えば、腰を置く場所に横たわり、腕は床に落ち、背もたれに足を乗せてだらんと寝転んでいる。『卍』みたいだと思った。

「無理」

 恵太は奏をスルーし、冷蔵庫から昼間買った飲みかけの炭酸を取り出す。


 あるとき、いつものように忍び足で玄関へ向かうと、軒先に赤紫色のマフラーと一枚のメモが置かれていた。
 メモには「日付を越えるまでには帰ってくること」と母さんのシュッとした文字が書かれていた。

 いつからバレていたのだろう。

 隠せていたと思っていたことが、母さんからの愛情が、恵太はこっぱずかしく、にやつく口元を隠すようにマフラーを巻いた。

 その日から、夜の外出は親公認となり、奏とのアリバイ作りの契約は解除となった。


 恵太は首にかけたタオルで髪を拭きながら、ぼんやりとテレビに意識が向いた。

「クリスマスか」

 テレビでは奏が推しているアイドルがクリスマスの話題を口にしている。
 だから最近、恋人だのデートだの、よく耳にするのか、と恵太はひとりで納得した。

「姉ちゃんって彼氏いないの」
「いないけど」
「欲しくないの?」
「べつに」

 奏は付属の短い串をピノに刺し、そのまま天井にむかって腕を伸ばす。

「私はね、好きなものは全部ひとりで食べたいの」

 宝石を眺めるように奏はピノを照明にかざす。

「自分の好きなものは相手にも食べてほしいでしょ? だから、半分こにしたいって思える相手ができれば付き合うね。じゃないと太っちゃうし」

 そのまま、ひょいと口に運び、ん~、と満足そうに目を閉じる奏

 太るのは自分のせいだろ、と言いかけて恵太は首を振った。正論が人を救った試しなし。

「半分こね」

 俺だったら。

 恵太はなんとなく、カフェのテラス席のような場所を想像する。

 白いテーブルに置かれた、赤いパッケージの空想のピノ。
 串を頂点に刺すと、コーティングされたチョコの中からミルクアイスが覗く。

 恵太に持ち上げられたピノはまるでUFOのよう。黒い円盤型の飛行物体はただまっすぐと、向かいに座る人物の口へ運ばれていく。
 
 ……って。

「なんで新なんだよ」

 恵太は自身の妄想にツッコむ。
 恵太の対面に座り、口を開けて待っていたのは、もふもふ頭の新だった。

「ん? だれか名前言った?」

 無意識に声が漏れてたようで、奏はこちらへ顔を向ける。

「べつに……」
 
 はぐらかすような恵太の態度に、奏は目を細めてにやりとほほ笑む。
 
「好きな人の名前ってのはね、理由がなくても呼んでみたくなるものなのよ」
「なにそれ流行ってんの」

 奏はいたずらっぽく口をとがらせると、再びテレビの世界へともどっていった。

 ばかばかしい。
 新はただの友だちだ。それ以上でも、それ以下でも……。


──じゃあなんでお前は、新に教室登校させるまでしつこく絡んだんだよ。


 その時、浩介の言葉がどこからか聞こえた気がした。

 あのとき、浩介はそのままトイレに行ってしまった。

 なのに、記憶の中の浩介はその場で振り返り、恵太を見つめる。
 いい加減、気づけよって目で。

 
──恵太にとって、新が特別だからじゃねーの?


 瞬間、ドキリと心臓が跳ねた。

 ……いやいや、違うって!

 誰に対してかわからない言い訳を、恵太は心の中で叫ぶ。


 新はただのクラスメイトで。友だちで。猫のエサやり仲間で……。


 そのうち、恵太は初めて新と出会ったあの日の夜を思い出す。


 ちょびに導かれ、いや、池谷さんの言葉を借りれば、招かれて、偶然出会った保健室登校のクラスメイト。
 仲良くなったと思ったら、次の日には冷たくあしらわれて。
 かと思えば、また話せるようになって。

 猫みたいな新と一緒にエサをあげているうちに話すのが楽しくなって。
 でも、教室に来ない新のことが気になって。それから……。


 恵太の脳内は保健室へと切り替わる。

 階段で足を滑らせて、捻挫をしたあの日の保健室。

 新に倒れこまれ、ベッドで覆いかぶされた時のことが今更になって恵太の頬を紅潮させる。
 新の月光にも似た白い腕が伸び、恵太の頬をそっと撫でる。
 新は顔を近づけ、耳元でそっと囁く。


──恵太。


 名前を呼ばれ、恵太の身体は電流が走ったように硬直する。

 そんな恵太を新はふっと笑みを浮かべて見下ろす。獲物をみつけた、そんな目で。
 その目は、闇夜に浮かぶ猫の目によく似ていた。

 そのまま新はゆっくりと顔を近づける。
 ふわふわな前髪が恵太の鼻に触れ、二人の吐息がぶつかりあう。

 そして、新の薄い唇が恵太の唇に…………って。


「なに考えてんだ俺はっ?!」


 恵太は自身の妄想をかき消すようにタオルを床にたたきつけた。

「うるさいっ!」

 奏の怒声も、今の恵太には届かない。
 恵太はいまさら喉が渇いていたことを思い出し、シンクに置かれたジュースを一息に飲み切る。


 炭酸が抜けたジュースはのどが焼けるほど甘ったるかった。







 数日後。

 放課後を告げるチャイムが鳴ると、部活に行く人、友だちと駄弁る人、それぞれが蜘蛛の子を散らすように席を立った。
 その騒がしさに乗じて、恵太はこっそりと教室を出る。

 廊下を早歩きで駆け抜け、階段を一段飛ばしで降りていく。

 昇降口までたどり着き、一息ついて顔をあげると下駄箱の前に浩介が立っていた。

 こいつ、いつのまに……。

 目を泳がせる恵太に、浩介は呆れた様子で告げる。

「なーんでお前がATフィールド展開してんだよ」
「し、してねえ……」
「ぶぇっくしょんっ……!!」

 冬の朝の凍った霜のように、くしゃみとともに発せられた飛沫がキラキラと飛び散る。
 鼻水を垂らす浩介は、よく見れば目が赤く腫れている。風邪でも引いたのだろうか。

 そこへ、新がやってきた。

「佐和くん、今日一緒にかえ……」
「悪いっ! ちょっと用事があってさ、またな!」

 恵太は新と目もあわさず、一目散に学校を飛び出した。

 校門を抜けて道に出ると、足に違和感があった。
 昇降口で慌てて靴を履いたせいで、靴紐が解けてしまっている。
 恵太はしゃがんで靴紐を結ぶ。しかし、気が動転していたせいか、靴紐は変な形に絡まってしまった。

 絡み、か。

 浩介は絡んだままの靴ひもを見つめ、大きなため息をついた。

 ほんと。


 なにやってんだ、俺。





「それ、完全に好きでしょ」

 はっきりと三橋に言われ、恵太は硬直していると、手に持っていたねこじゃらしを子猫にはたき落とされた。

 先に話を聞こうか、と尋ねてきたのは三橋だった。
 他校の男子生徒である三橋はいつもここ、保護猫カフェにゃん処にいた。
 
 猫を撫で、子猫と遊び、みんなにおやつをあげて帰る。

 誠実に猫と触れ合い、愛でる姿に、恵太はいつしか三橋に心を許していた。
 それに、浩介と違い、いつも一緒にいないからこそ、できる話もある。

 恵太は三橋のやさしさに甘えるように、新に対する心の揺らぎや、自分の気持ちのわからなさを伝えた。

 相手が新であるということ。男であることを隠して。

 だが、それにしても、こうもばっさり結論付けられると、恵太はいやいやと首を振りたくなる。

「いや、たしかにほかの友だちよりも特別感はあるけど。なんかほら、おと……」
「おと?」
 
 口からこぼれそうになった弟というワードをぎりぎりで引っ込める。
 
「年下の兄弟的な。妹的な感じというか」

 いや、どうやら妹はクソらしいからな。えーと……。
 恵太は床に寝転び、おもちゃの魚をガシガシと噛む子猫を指さす。

「猫を愛でる感じというか。なんかそういう、かわいい感じで、守りたい感じで、だから、恋愛感情かっていわれるとわかんないというか……」

 しどろもどろになりながら自分の気持ちを言語化する恵太に、猫のトイレ掃除をしていたカンちゃんが「じゃあさ」と声をかける。

「その子とエッチなこと想像できる?」
「えっ……」

 カンちゃんのド直球な質問に、なぜか恵太以上に三橋は目を白黒させて、顔を赤らめる。
 
 そんな三橋のそばで、恵太は口を真横に結んで天井を見上げる。


 もう、しちゃいました……。


 懺悔するように、心の中で唱える恵太。

 すると、恵太の脳内に改変された保健室の思い出が流れてくる。

 保健室のベッドに押し倒され、名前を呼ばれた直後。

 想像上の新はおもむろにシャツのボタンをはずしていく。
 体育の後、着替える時に目に焼き付いた白く透明な新の肌。恵太は新の肉体に引き寄せられるように手を伸ばす。
 互いの鼓動が、体温が伝わってくるほどの距離まで近づき、恵太は、新の唇にそっと……。

「こりゃ完全に好きだな」

 カンちゃんの声で我に返った恵太は、頭を抱えてうずくまる。
 
 これが新を避ける原因だった。

 最近、新を見かけるたびにこんな妄想が、脳内に勝手に流れ込んでくる。

 そのたびに、猛烈な自己嫌悪に陥った。
 
「実際どうなの? 脈あり?」
「……ないと思います。完全に俺のこと友だちだと思ってる」
「あー、それはご愁傷様だ」

 カンちゃんは恵太に手を合わせて拝むと、猫たちの排せつ物が入ったビニール袋をもって部屋を出ていった。

「なんなんだよ……」

 恵太は自分のしっぽを膨らませるイメージでカンちゃんをにらみつけると、となりで苦い顔をしている三橋に気づいた。

「どうした?」
「うん……」

 佐和には悪いけどさ、と三橋はこめかみをぽりぽりと搔きながら続ける。

「友だちに好きって言われても、こっちは友だちとしか思えないからさ。どうすればいいかわかんないんだよな」

 胸のあたりがぐっ、と痛んだ。
 うまく呼吸ができず、恵太はゆっくりと全身の空気を抜くように息を吐いた。

 好きでしょと言われると否定したくなるし、うまくいかないだろうと言われると傷つく。

 そんな自分の不安定さも、恵太は嫌になってしまう。

「もしかして、経験ある感じ?」
「あるよ。中学の時だけど」

 三橋はぼそりと言葉をこぼす。

「悪いことしたな」
「え?」

 三橋ははぐらかすように笑うが、少しすると、静かに口を開いた。

「そいつ、男だったんだよ」

 膝の上に座る猫をそっと撫でて続ける。

「俺、受け止められなくてひどいこと言ったんだ。直接じゃないけど。でも、そういう雰囲気とか、態度に出ちゃってたのかもしれない。それから、あいつが俺から距離とって、話さなくなって、そのまま……」

 後悔の念をはらんだ表情を浮かべる三橋に、恵太はなにも言えなかった。

 三橋から語られる過去は、今の恵太が恐れる未来そのものだった。

 自分が新を想うことや、想いを伝えることで、新との友情にひびが入ることがなによりも怖かった。
 そして、新がまた教室に来なくなる未来も、容易に想像できてしまう。
 
 新が教室に来れるようになった喜びを。
 俺や浩介と楽しそうに笑う新の笑顔を。

 恵太は奪ってしまうことが、嫌だった。

 しかし、三橋は湿った空気を切り替えるように、短く息を吐いた。

「でもさ、よくよく考えたら、人が人を好きになってるだけだもんな。男女の恋愛となにも変わんねえよ」

 人が、人を好きになる。

 恵太は、それぞれがイソギンチャクのような触手を絡ませた、二つの『人』という漢字を思い出した。
 あの気持ちの悪い、現代アートのような漢字たちが脳裏に浮かび、恵太はぷっ、と吹きだす。

「え、今笑うところ?」

 戸惑う三橋が可笑しくて、恵太はちがうちがう、と肩を震わせた。

 そのうち、気持ちが軽くなっていくのを感じた。

「そうかもな」

 そのとき、のれんをくぐって池谷さんが戻ってきた。
 一人なところを見るに、今日も客引きは失敗に終わったらしい。
 どう考えても、スケベな顔のせいだと思う。

「さっさと帰りな。さみしき若人たちよ」

 もう一時間経ったのか。

 ぷんすか苛立つ池谷さんに追い出されるように、恵太と三橋はにゃん処を後にした。





 狭い階段を降りて外へ出ると、空は夕空と夜空が混ざった色をしていた。
 冬の夜の、凍てつく風が鼻の先をしびれさせる。

 身を縮める三橋に、恵太はおもむろに口を開く。

「さっきの、話してくれてありがとう」

 自分の後悔をだれかに伝えることには、それなりに勇気がいる。
 ましてや、誰かにとって自分が悪役になった話ならなおのことだ。

 恵太が新のことを打ち明けたのと同じように、
 いつも一緒にいないからこそ、話をしてくれたのかもしれないが、恵太にはそれがたまらなく嬉しかった。

「おう」

 ニカっと笑う三橋を見て、三橋を好きになる理由がわかる気がした。

 人が、人を好きになる。か。

 気づけば、喉の奥のあたりにずっと詰まっていた岩のようななにかが無くなっていた。
 すーっと冷たい風が吹き抜け、恵太の身体はそのまま浮いてしまうそうだった。

 新に会いたいな。

 自分の気持ちを素直に認めると、恵太は体温がぐっと上がるのを感じる。

「え」

 そのとき、三橋は目を細め、道の向こうを気にしているのに気付いた。

 恵太は三橋が見つめる先へ視線を動かすと、そこには新の姿があった。

「えぇ!? あ……」
「新?」

 先にその名前を呼んだのは、恵太ではなく三橋だった。

「え、新のこと知ってるの?」

 恵太の問いに三橋が答えるよりも先に、新は踵を返して歩き出す。

「おい! 待てよ新!」

 恵太が呼びかけるも、新は立ち止まらず走り去ってしまった。

「どういう……」

 事態が飲み込めずに立ち尽くす恵太。

 しかし、走り去る新を見つめる三橋の表情から、恵太はある可能性を感じた。


──友だちに好きって言われても、こっちは友だちとしか思えないからさ。


──そいつ、男だったんだよ。


「もしかして……」

 恵太の声が、力なく地面に転がり落ちる。

 猫は縁を招く不思議な生き物。しかし、こんな縁まで招くなんて。





 恵太は制服についた猫の毛をつまみ、息をのんだ。



 新はふらつく足取りで、近くの電柱に手をかける。

 こんなに走ったのはいつぶりだろう。

 立ち止まると一気に汗が滲み出る。
 滴るような汗ではなく、じんわりとした、服の中に熱がこもる、そんな汗だった。

 息を吸うたびに脇腹がぐっと痛む。撫でても、お腹を押さえても、消えない痛み。

 新は口に溜まったつばを何度も飲み込みながら、浩介を恨んでいた。

「浩介が、変な占いなんかするからだ……」

 見当違いな逆恨みであることは分かっていたが、今はそんな風にしか考えられなかった。 




 今から1時間前。

 冬の西日が入り込み、黄金色に光る図書室で、新は自身の勉強道具を押しつぶすように力なく突っ伏していた。
 参考書から香る印刷塗料の匂いを吸い込み、新はため息とともに悩みをこぼす。

「最近、佐和くんにバリア張られてる気がする········」
「なんだお前ら」

 向かいに座る浩介は呆れたように言葉を吐くと、校内で使用禁止のスマホを机の下で操作しながら続ける。

「恵太も言ってたぞ。新がATフィールド展開してるって」
「ATフィールド?」

 聞きなじみのない単語を繰り返すと、浩介は「心の壁だよ」とだけぼやき、鼻水をずずっとすする。

 なんだかよくわからないが、近ごろ、恵太との間に壁を感じているのはたしかだった。

 なにか気に障ることをしただろうか。言っただろうか。
 もしかしたら。
 またぼくは、浮かれてしまったのだろうか。

 次々と湧き出てくる疑惑と不安。そして緊張。
 新は内臓がぎゅうと握り潰されたような気持ち悪さを覚え、全身の空気が抜けるほどの大きなため息をついた。

 新から漂うどんよりとしたオーラを、浩介はうっとおしそうに払いのける。

「そんなに気になるなら、今から直接聞いて来いよ」
「直接?」
「俺が恵太の居場所を占ってやる」
「占うって」

 そういうと、浩介はバッグから取り出したタオルを頭にかぶり、あごの下で結ぶ。
 おそらく神秘的な占い師のイメージで布をまとったのだろうが、どうみてもドジョウ掬いしか見えなかった。

 浩介はバッグに入ったままだった中身がないガチャガチャの丸いケースを水晶に見立て、両手をかざし、指をうねうねと動かす。

「いまからする質問には『はい』か『いいえ』で答えてください」
「いや、別に夜になれば会えるし」
「質問には『はい』か『いいえ』で答えてください」
「……はい」

 占いってよりは心理テストの形式じゃないかと思ったが、新は諦めて口を閉じた。
 恵太ほどではないが、新もこの数か月で浩介との付き合い方はわかっていた。

 浩介はこほん、とわざとらしく咳ばらいをし、やけに低い声で質問を出す。

「猫のエサやりは今もやっていますか?」
「うん、……じゃなくて、はい」
「そのとき、恵太は制服ですか?」
「いいえ」
「わかりました」
「え、これだけ?」

 浩介はむむっと眉根にしわを寄せると、左手の指をうねうね動かし、右手で操作するスマホに念を送る。

「いや、水晶使わないのかよ」

 新のツッコミを無視し、浩介はスマホの画面を新に向ける。

()えました。あ、このみえるは普通の見るじゃなくて、視力検査の視るだから」
「どっちでもいいよ」
「恵太はここにいるでしょう」

 目の前に突き付けられたスマホを覗き込む新。

 画面には地図アプリが表示されており、商店街の建物に赤いピンが立っている。
 新が赤いピンをタップすると、詳細情報が画面下からぬっと現れる。……店名は。

「保護猫カフェ、にゃん処?」
「俺の占いは当たる」

 自信たっぷりにうなずく浩介の目は赤く腫れており、よく見れば鼻の周りは鼻水のかみすぎで荒れている。
 新はそれらを見て、浩介と初めて話した時のことを思い出した。

 あぁ、なるほど。
 
「浩介って猫アレルギーだもんね」

 最近の浩介の目の腫れ、鼻水、くしゃみはアレルギー症状なのだろう。

 浩介の周りで猫と触れ合うのは新と恵太だけだが、少し前まではそのような症状は出ていなかった。
 ついでにいえば、今現在、新といっしょにいてもアレルギーの症状はでていない。

 つまり、恵太が学校から帰るまでの間に、制服のまま、猫と触れ合っており、
 制服に付着した猫の毛によって浩介はアレルギーの症状を発症しているということだ。

 それらの情報をもとに、浩介は近所で定期的に猫と触れ合える場所を検索、もとい、占ったのだった。

「せっかく場所突き止めたんだから行ってこい。でなければ、最悪な未来が訪れるでしょう」
「……わかったよ」

 参考書を閉じ、カバンへしまう新に、浩介はお、と目を開く。

「いや、信じたわけじゃないから」
「はいはい」

 言葉通り、新は占いを信じたわけでも、下手な脅しに屈したわけでもない。
 ただ保護猫カフェの詳細情報に載っていた子猫の愛くるしい姿を、自分の目でも見たいと思っただけ、……なのに。

 浩介は自分の手のひらをうらおもて眺めながら、「これが、俺の力……?」と呟いている。

 完全に新が占いを信じていると思い込んでいる浩介を見ていると、新は今日何度目かのため息が漏れた。

「最後に一つ、質問です」

 荷物を抱え、立ち上がった新に浩介は念力を送るように新に両手をひろげてみせる。
 全体的に浩介は占いを超能力かなにかだと勘違いしているらしい。

「もう占いはいいって」

 新の声を無視し、浩介は新に質問する。
 しかし、声色はいつもの浩介のままだった。

「恵太とこれからも、友だちでいたいですか?」

 突然、心の奥底を覗き込まれるような気がして、新はすぐに口を開いた。
 もちろん、と頷きながら。
 それ以外の答えはありえない、という風に。

「はい」

 新はそれだけ答えると、浩介から逃げるように図書室を出た。



 そうだ。

 ぼくは、佐和くんとこのまま友だちでいたい。
 友だちのままで、今のままで、十分すぎるほど幸せなんだ。


 なのに。


 どうして友だちのままでいられなかった三橋くんと、一緒にいるんだよ……。






 顔をあげると、月が白く光っていた。
 形はほとんど満月だが、よく見れば影がかかっており少し瘦せてみえる。あれは。

──小望月だと思う。だから明日は満月だな。

 恵太の凛とした横顔が、月に重なる。

 夕暮れ時に商店街から走り去った新は、そのまま家に帰るでもなく、足の向くままに歩いているうちに、いつも猫にエサをあげている道へと来ていた。
 縁石に腰掛けた新は、腕をさすりながら白く濁っては消えていく、自分の息の果てを見つめる。

 いつもより時間が早いせいか、猫たちの姿はない。

 時折、一日の業務を終えた引っ越し会社のトラックが敷地へ入り、ヘッドライトが新の影を一瞬だけ引き延ばす。
 駐車場へ停まったトラックは遊び終えた犬のように短く排気音を轟かすと、エンジンが止まり、安らかな眠りへとつく。
 
 途端に、鋭い夜の静けさが新を貫く。

 その時、道の向こうから聞きなれた足音が聞こえてきた。

「やっぱりいた」

 暗闇の向こうから恵太の姿が現れ、新は心から安堵した。

 もう、ここには来てくれないかと思っていたから。


 制服姿の恵太はいつものように、新のとなりへ腰掛ける。

 しかし、ほんの少しだけ目が泳いでいることに新は気づいた。

 しばしの沈黙の末、先に口を開いたのは恵太だった。

「三橋のこと……」
「うん。ごめんね、黙ってて」

 新は恵太の言葉を遮り、苦々しく、笑みを浮かべる。

 三橋くんからどんな話を聞いたのだろう。
 話を聞いた時、佐和くんはぼくのことをどう思ったのだろう。
 
 どれも知りたくて、なにも聞きたくなかった。
 だから新は、恵太に話す隙を与えないように言葉を続ける。

「小さいころから、なんとなくそうなのかなって思ってたんだ」
「……」
「ぼくは、男の人を好きになるんだって」

 誰にも打ち明けるはずがなかった、自分の本質。
 だが、新は妙にすっきりしていた。
 サイズの合っていない、窮屈な服を脱いだ時のような、そんな気分だった。

「最初はもしかしたら自分は女の人になりたいのかなとも思ったんだけど。
 だって、男を好きになるのは女の人だから。でも、それも違うなって思って」
「……」
「だからぼくは、男の人を好きになる男、なんだよね」

 べらべらとしゃべっているな、と新は自覚しながらも、熱を持って動く口を止められなかった。

 知ってほしい気持ちが半分。
 もう半分は、ただ誰かに言いたかった。

 長い間、自分の内側にしまい込んでいた自認を、自分なりに言語化し、誰かにぶつけてみたかった。
 そうすることで、口から出ていく言語化した気持ちと、言語化しきれていない心の内側の気持ちに相違がないか確かめたかった。

 結果として、違和感はない。

 ぼくはやっぱり、男を好きになる男だ。


 このとき、新は本当の意味で、自分という存在の本質を知った気がした。
 
 新はゆっくり息を吐くと、隣に座る恵太を思い出した。

 新の話をなにも言わずに聞いていた恵太。

 こんな話、聞きたくなかっただろうな。
 嫌な思いをさせちゃったな。

 新は心苦しさを胸に、取り繕うようにほほ笑む。

「ごめんね、気持ち悪い話して」
「気持ち悪くなんかねぇよ!」

 恵太はほとんど反射的に、声をあげた。
 新も驚いたが、恵太自身も自分の声の大きさに驚いたようすで、気まずそうに顔を落とす。

「……ごめん。でも、自分のこと、そんな風に言ってほしくない、かも」
「……」
「それにさ、人が人を好きになってるだけじゃん。男同士だからって男女の恋愛となにも変わらないでしょ?」

 声のトーンを一段階あげ、語り掛ける恵太。

 励ますような、諭すような物言いに、新は「なにそれ」と言葉を吐き捨てる。

「そんなのきれいごとだよ」
「え」

 鳩が豆鉄砲を食らったような顔をしている恵太。
 恵太も驚いているが、新自身も自分のひどく冷めた物言いに驚いた。

 しかしそれが、新の本心だった。

 人が人を好きになる。性別なんて関係ない。
 
 そんな美しいはりぼての言葉は、自分の息苦しさや生きにくさを無視されているようで、たまらなくムカつきた。
 
「なにも変わらないわけないでしょ。だって……」

 だって。

 新は言葉を詰まらせていると、過去の映像が勝手に脳内で再生される。
 


 それは三橋の想いを知った日から少し経った頃。


 そのころの新は教室の隅で本を読んでいた。

──南雲さ、お前のこと好きっぽくね?

──お前を見る南雲の目が、こう、キラキラしてるのよ。恋する乙女チックな。

 ざわざわと騒がしいみんなの声に紛れて、あの時の声がリフレインする。
 三橋の「マジ無理だわ」という拒絶の言葉もあわせて。

 新はじっと本を眺める。
 内容は入ってこないが、字を滑るように眺めているだけで気持ちが少し落ち着いた。

 それでも、気がつけば視界の端で三橋を見つめてしまう。

 そんなとき。

 クラスメイトの女子が、ひょこひょこと三橋に近づくのに気付いた。

 ふんわりとした雰囲気の女子は、緊張した面持ちで、三橋の肩に触れる。

「三橋くん。このあと、……時間ある?」

 女子の瞳から、背中から、唇から、三橋に対する想いが、あふれているのが見て取れた。

 すると三橋は、ほほを赤らめ、照れくさそうに後ろ頭を掻いた。


 ほどなくして、三橋のその女子が付き合い始めたという噂が漏れ聞こえてきた。

 みんなに冷やかされながらも、まんざらでもなさそうな三橋くん。
 そして、その隣で茹でダコのように真っ赤になってうつむいている女子。

 そんな二人を見て、新は確信した。

 自分は、この世界の邪魔ものだ。


 男は女を好きになる。女は男を好きになる。

 それが普通の世界の、祝福されるべき普通の恋愛なんだ。


 だから男が、男を好きになるなんて。

 

「普通じゃないんだから……」

 声の震えを抑えようとするあまり、声が上ずってしまう。

「いや、でも……」
「もういいでしょ、この話はおしまい」
「ちょっ、なんだよそれ」

 新が立ち上がると、恵太も続いて立ち上がり、新の腕をぐっと掴む。
 あのときの、保健室と同じように。

 しかし、新は引き寄せられるより先に、とっさに恵太の手を払った。

 手のひらから伝わってくる恵太の体温に、決意がほだされそうになるから。
 

 新の決意。


 それは恵太と友達であり続けること。


 だから、頭を撫でられるのを避けていた。
 わざと苗字で呼び続けているのも、同じ理由だ。


 これ以上、距離が近くならないように。
 これ以上、好きになってしまわないように。


 友だちとして、恵太のそばにいれる今の幸せを、失わないように。

 そんな悩みも、苦悩も。


「言っても、佐和くんにはわからないでしょ」
「わかるよ」
「わからないよ! 普通に友だちがいて、普通に生きてきた佐和くんにはっ!」
「普通普通って、意味わかんねえよ!」
「やっぱりわかってないじゃん!」

 頭に熱がのぼり、口が勝手に動いてしまう。
 泣きたくないのに、勝手に目が潤んでしまう。
 大きな声を出すのにも慣れていなくて喉がきりきりと痛むし、酸欠で頭もくらくらする。

 それでも、新は止まらなかった。


 その時。



 にゃあ。



 猫の鳴き声が聞こえ、新と恵太は声のした方へ視線を向ける。

 白と黒のまだら模様の身体。
 鼻の下にちょん、と黒い模様がちょび髭のように見える。その猫は。

「ちょび?」

 恵太が名前を呼ぶと、ちょびはもう一度、にゃあと鳴いた。

「ちょびの鳴き声、初めて聞いたかも」
「たしかに……」

 ふたりがちょびは踵を返して歩き出す。

 無駄のない、凛とした歩き姿。
 しっぽが、ふわりと揺れる。
 
 ちょびは道の真ん中で立ち止まり、顔だけをこちらに向ける。

「こっちに来いって」

 そういって恵太は歩き出す。
 すると、ちょびは今度は、サッ、と駆け出した。
 彗星のように夜の闇を駆け抜けるちょび。

「なんか急いでるっぽい?」

 この数か月間を経て、新と恵太は「猫は人の言葉が分かる」と信じて疑っていない。
 そして猫のおねだり、もとい、想いを感じ取り続けていた二人もまた「猫の言葉がわかる」ようになっていた。

「そうみたいだね」

 新はこっそりと目に溜まった水分を拭い、恵太とともにちょびを追う。






 
 角を曲がり、細い道の先を行くと、小さな公園に入っていくちょびのしっぽが見えた。
 砂利が敷かれた園内に遊具はなく、木製の古びたベンチがあるだけの小さな公園。

 すると、バサバサと羽を羽ばたかせる音と猫の低い唸り声が聞こえてきた。

 外灯がなく、月の光も届かない真っ暗な空間に目を凝らすと、鈍く光る黒い羽が見え、新の背筋が一気に粟立つ。
 
 カラスだ。

 黒い飴玉のようなカラスの眼が見据える先には、いつもエサをあげている猫が数匹。なかにはちょびの姿もあった。

 喧嘩か、縄張り争いか。
 戦いの理由は分からなかったが、猫のほうが劣勢であることは見て取れた。

 しっぽを膨らませ、低い声で必死に唸る猫たちに対し、翼を広げたカラスの甲高い鳴き声を響きわたる。

 助けなきゃ。

 枝か、なにか。とにかく武器になりそうなものを探し出した新の横で、恵太は腰を落とし、両手を高く上げる。

「きぇあっ!!」

 恵太はとっさに甲高い声をあげ、どすどすとガニ股で地面を強く踏みつけながらにじり寄っていく。

 そんな恵太に面喰ったのか、カラスは飛び立ち夜の闇へと消えていった。

「びっくりした……」

 腕をおろし、ほっと胸をなでおろす恵太。

 身体を大きく見せること。相手の意表を突くこと。相手を驚かせ、ひるませること。

 野生の動物に対し理にかなった行動を積み重ねた恵太は間違っていない。間違っていないけど……。

 あいつ大丈夫か、というちょびの視線に気づき、新は黙ってうなずいた。

 そのとき、かすかに生き物の声が聞こえた。


 みぃ、みぃ。


 短い悲鳴のようなか細い鳴き声はベンチのあたりから聞こえる。
 二人は顔を見合わせ、ベンチへ近寄ると、木の隙間から奥に置かれた段ボールが見えた。

 まさか。

 新が裏へ回り込み、中を覗き込む。

「子猫だ……」

 薄い毛布が敷かれた段ボールの中で、生まれたばかりの小さな子猫がもがいていた。
 カラスはこの子猫を狙い、猫たちは子猫を守っていたのか。

「この子、目が……」

 子猫の目の周りは炎症を起こして、腫れたまぶたが小さな目を押し潰している。
 周りが見えていないのか、子猫はしきりに段ボールへと頭をぶつけていた。

「どうしよう……」
「とりあえず、病院につれていかないと!」

 新は地図アプリを開き、検索欄に『動物病院』と打つ。しかし。

「だめだ、どこも閉まってる……」

 見慣れた町の地図にいくつかピンが刺さるが、どの動物病院も名前の下に赤い文字で『営業時間外』と記されている。

 隣の地区。隣町。市外。

 新は範囲を拡大しながら、祈るように検索を繰り返す。

「くそっ……!」

 恵太もまた、近くの動物病院を探そうとポケットに手に入れる。
 同じ機種。同じキャリア。検索結果は同じはずだが、それでもこの状況をひっくり返す、なにかがあると信じて。

 しかし、ポケットの中身は空だった。

 恵太は服の上から全身のポケットを叩きながら、スマホの在りかを探す。
 
 そのとき、胸ポケットに感触がした。
 スマホほどは固くも、厚くもない。小さな紙のような感触が。

 恵太は胸ポケットに手を入れると、指の隙間に何かが挟まり、そのまま引き抜く。

 それはいかがわしいハートマークがついた保護猫カフェ、にゃん処のポイントカードだった。

「あ!」

 恵太はハッとして、裏に書かれた連絡先をスマホに打ち込み、すばやく耳に当てる。

「誰に電話してるの?」
「困った猫を見過ごさない、スケベな顔のおじさんだよ」

 それだけ言うと、通話がつながったのか、恵太は熱心にスマホに向かって話し出す。

 最初は興奮気味だった恵太だが、通話相手に諭されたのか、子猫のおおよその体長や体重など、必要な情報だけを細かに伝える。

 通話を切ると、恵太は地図アプリに『上島動物病院』と入力し検索をかける。
 赤いピンが示す先はここから歩いて10分。

「ここで治療してもらうように頼んでくれるって! 急ぐぞ!」
「う、うん……!」

 新はスケベな顔のおじさんのことをいったん忘れ、段ボールから子猫を抱きかかえる。

 軽すぎる。

 腕の中に感じる消えかけの命の灯。


 新は制服の上着を脱ぎ、薄い毛布ごと子猫を包み込むと、道案内役の恵太に続いた。






 

 じーん、と静まる待合室。

 受付カウンターと、三人掛けの革張りのベンチソファが四つ、前と後ろに二つずつあるだけの小さな空間。
 照明はついていないが、非常口の光が木目柄のタイルに反射し、空間全体を薄い緑色に照らす。
 


 ここ、上島動物病院につくと、中から痩せた中年の男性が電源の入っていない自動ドアを手で開いて出てきた。
 
 紺色のシャツに白衣をまとう男性の胸には「上島」と書かれた名札がついていた。
 
「あの……」

 恵太の言葉を遮るように、上島獣医は首にかかった聴診器を子猫に押し当てる。

 胸、お腹、背中。

 子猫はされるがまま、新の腕の中を転がる。

 新は触診を繰り返す上島獣医を観察する。
 こけた頬。うつろな目。不愛想な態度。
 それらが動物医療の知識や技術に無関係と頭でわかっていても、この人物に命を救えるとは信じがたかった。

 それどころか、上島獣医自身の不健康そうな肌の白さは、仄暗い夜の中では死神にすら思えてくる。

 聴診器を外した上島獣医は新の腕から子猫を毛布と制服、まるごと拾い上げると、そのまま踵を返す。

「カギ閉めといて」

 上島獣医はそれだけ言うと、病院に入り、そのまま奥の診察室へと姿を消した。


 それからどのくらい経っただろう。

 新の腕にはまだ子猫の感触が残っていた。

 ぼんやりと、自分の腕を見ていると、となりのベンチに座っていた恵太が口を開く。

「寒くない? 上着貸そうか?」

 恵太に言われて、新は自分が寒さに震えていることに気づいた。

 新は大丈夫、と腕をさする。
 すると、恵太は新の前に立ち、マフラーをほどいて差し出す。

「これ」
「……ありがとう」

 新はぎこちなく受け取ると、首に赤紫色のマフラーを巻いた。
 絹でできたマフラーは肌心地がよく、首元がじんわりと温まる。

 新はこっそりとマフラーに顔を埋めた。

 恵太はそのまま、新から人一人分離れた、同じソファへ腰掛ける。

 新は隣に恵太の存在を感じながらも、なにを言えばいいのか分からず、顔をあげる。

 定期検診を受けよう、ワクチンを接種しよう、という内容のポスターが一面に張られた掲示板を眺めていると、恵太がぼそりと呟く。
 
「さっきのカラス、すごかったな」

 新は公園での出来事を思い返す。
 つい先ほどのことなのに、はるか遠い過去のことのように思えた。

「佐和くんのほうがすごかったよ。なにあれ」
「俺の最終形態。強そうだっただろ」
「強そうっていうか、ヤバそう」
「どういう意味だよ」

 恵太のツッコミに、新がぷっと吹きだす。
 すると、恵太も続いて笑った。

 二人の間に流れるいつもの時間を新は目を閉じ、噛み締める。

 しばしの沈黙の末、恵太は様子を伺うように、新に質問する。

「まだ、三橋のこと好きなの?」

 恵太の問いかけが、波紋のようにゆっくりと耳に入る。

「もう好きじゃないよ」

 そういうと、新は「んー、」と小さく唸った。

 自分の言葉を聞いて、自分の気持ちとはずれているな、正確じゃないな、と思った。
 
 新は自分の心に意識を向ける。
 瞬間、どぷん、と水の中に沈む。
 ここは、新の深層心理の世界。

 新は身体を反転させ、ぐんぐんと水をかき分け、泳ぎ進む。
 深いふかい、水の底。
 そこにいたのは、中学生の頃の、まだ三橋のことが好きで好きで、たまらなかったころの自分。

 きみも、ぼくなんだもんね。

 かつて、頭の中の声として自分を傷つけていた過去の新に、今の新は優しく微笑みかける。

 きみの気持ちを、無視しちゃダメだよね。

 中学生の新の涙は、水泡となって昇っていく。

「好きだよ。これからもたぶん、ずっと好きなんだと思う」
「……そっか」
「でも、付き合いたいとか、そういうのじゃない」
「本当? 心残りというか、未練みたいなのは?」

 ぐいぐいと顔を近づけてくる恵太。
 質問の意図は分からないが、新は聞かれるまま、眉根を寄せて考える。

 心残り……、未練。

 ぼくが、したかったこと。

 新はほとんど無意識に、口が動いた。

「告白してみたかったかな」
「告白? してないの?」
「してないよ。無理ってわかってたし」

 そのとき。

 新は自分の言葉を聞いて、そうだったのか、と気づいた。

 ぼくは、普通の人が羨ましかった。妬ましかった。悔しかった。

 だから、女の人を好きになりたいと思ったこともあった。

 でも、本当はそうじゃなかった。

 ぼくはただ。

「好きな人に、好きだよって言いたかった」

 ただ、それだけだったんだ。

「はは……、はぁー。はは……」

 身体が浮いてしまいそうなほどの解放感と、これまでの疲労が一気に襲い掛かるような脱力感。
 真実にたどり着いた新は、身体がおかしくなったのか、ため息と笑いが入り混じった吐息が止まらなかった。

「すればいいだろ……」

 恵太はぼそりと呟くと、なにかを決心したようにソファを滑り、新のすぐとなりへ腰を落とす。

「今からでも、三橋に好きだったって言えばいいじゃん。それで未練もなくなるだろ。そしたらまた、新しい恋すればいいじゃん!」
「新しい恋って」

 そんなこと、考えたこともなかった。 
 新は似合わない帽子をかぶったときのように、笑って首を振る。

「そんなの、無理だよ」

 すると、恵太は懐かしいな、と新をみつめて言った。

「懐かしい?」
「教室に来たいかって聞いた時も、同じこと言ってたな」
「……そうだっけ」
「そうだよ。でもさ、理由はわかんないけどさ、新は今教室に来てるじゃんか。
 俺らと一緒にいるじゃん。だから、無理じゃないって」

 恵太はうつむく新の顔を覗き込む。
 そんな恵太がまぶしくて、新はすねた子供のように顔をマフラーの奥へと沈める。

「ぼくは、好きな人に嫌な思いをしてほしくない。だからぼくは、もう誰のことも好きになっちゃいけな……」
「だからそうやって、他人の気持ちを勝手に決めるなよ」

 新は喉の奥がぎゅうっと熱くなって、なにも言えなかった。

「新から好きだと言われて嫌なやつもいるかもしれないけどさ、
 新から好きだと言われたら、死ぬほど喜ぶやつだっているかもしれないじゃん……」

 恵太は目を伏せ、ぶつぶつと言葉を落とす。

「そんな人、いるわけないでしょ」
「だからここに……!」

 恵太が立ち上がると同時に、奥のドアが開き、待合室が一気に明るくなる。

「一応ここ病院だから」

 上島獣医はぼそりと言うと、恵太はすみません、と首を縮めだ。
 ぴっしりと畳まれた制服を差し出され、新が受け取ると上島獣医の腕の中で子猫がすやすやと眠っているのがわかった。

「あの、子猫は」
「かなり弱ってたけど、死にはしないよ」
 
 胸からお腹にかけて、小刻みに膨れたりしぼんだりを繰り返す命の動きに、新は感動した。

「よかった……」

 新が胸をなでおろすと、獣医は舌打ちをした。

「池谷の野郎、人のこと都合よく使いやがって……、あ、きみたちに言ったんじゃないからね」
「は、はい……」

 新と恵太は目を合わせ、こわすぎ、と目線を送りあう。
 この人、本当に動物のお医者さん? とも。

「で、この子はどうする? どっちか飼うの?」
「えっと……」
「正直、あいつのところも手いっぱいだし、里親に出すか、それでもだめなら最悪……」

 そういうと、上島獣医は口を閉ざした。
 
「しばらくはうちで経過観察するから、考えといて」

 二人がうなずくと、上島獣医は白衣をひるがえし、奥の診察室へともどっていく。

「よちよち頑張ったねぇ……、もう大丈夫でちゅからねぇ」

 とびらが閉まる直前、子猫を見つめる上島獣医の険しい顔が、一気に破顔した。

 中年男性の甘ったるい赤ちゃん言葉が、鼓膜に張り付いていつまでも消えない。

 それは恵太も同じだったのか、二人は顔を見あって、笑いあった。





 上島動物病院を出ると、恵太はスマホを取り出し「うげぇ」と呟く。

「やべー、母さん怒ってるって、姉ちゃんから」

 なんて言い訳しよう、とぼやいている恵太。

 新は空を見上げると見慣れた位置に月が出ていた。
 いつも、猫にエサをあげる間と同じ位置に。

 半年前。自分のことが許せなったころは、月なんて見ていなかったのに。

 月に意識が向くようになったのも、こうして自分のことを許せるようになったのも。
 全部。

 あぁ、好きだな。

 ブルーライトに照らされた恵太の横顔を見て、新は思った。

「あのさ」
「なに?」
「ぼく、保健室の先生になりたいんだ。でも、獣医もいいなって思った」
「ほえー」

 恵太はスマホから顔をあげ、目を開いてほほ笑む。

「なれるよ。新なら」

 恵太の言葉が、心に染み入る。
 だから、新はさりげなく、愛情をこめて名前を口をする。

「ありがとう、恵太」
「おう」

 恵太はそこから数歩歩いて、立ち止まる。

「え」
「なに?」

 新のとぼけたような顔を見て、恵太は自身の聞き間違いではないと悟った。
 恵太はばっと腕を伸ばし、思い切り新の頭を撫でてくる。

「なんでもねえよ!」
「ちょ……やめてよっ……」

 口ではそういうが、新はやめてほしくなかった。
 恵太の体温で、やさしさで、身体の芯が溶けてしまいそうで。
 いつまでも、いつまでも、頭を撫でていてほしかった。

 幸福の渦にのまれながら、新の決意が、塗り替えられる。

 ぼくは、恵太と恋人になりたい。
 そのためにも……。


 そのとき、再び恵太のスマホが鳴る。

「ついでにアイス買ってきて、だって。あいつどんだけアイス食うんだよ」

 姉からのメッセージを見ながらぼやく恵太。

 そのとき、恵太は突然声をあげる。


「いいこと考えた」
「はい、どうも」

 奥の部屋からやってきた上島獣医は、今日も不機嫌で、体調が悪そうだった。
 なのに、パーカーに描かれたカートゥーン風の犬のキャラクターの背後に大きく『GOOD BODY』とデザインされていた。
 ぜったいにそんなわけはない。

 上島獣医が白衣をまとっておらず、ラフな格好なわけは、今日が動物病院の休診日だから。

 上島動物病院は常に予約が埋まっている、多忙な病院なのだという。
 それでも、子猫の飼い主が見つかったと連絡したら、すぐに時間を作ってくれた。

 上島獣医はソファに腰掛け、膝の前で手を組む。

「じゃあ、子猫を渡す前に簡単に説明します」
「よろしくお願いいたします」

 恵太のとなりで、おしとやかに頭を下げるのは恵太の姉、奏。

 子猫は奏が引き取ることになった。
 
 両親と奏の前で子猫の存在を打ち明けた日。
 恵太はわざとらしく、頭を抱え、机に突っ伏す。

「コマッタ、コネコ、ドウシヨウ……」

 そのとき。
 奏がそうだ、と、さも今思いつきました、という感じで打ち合わせ通りのセリフを口にする。

「じゃあ、私が一人暮らしして、そこで子猫を飼うよ」
「ホントウニ? ヤッター」

 恵太が両手をあげて喜ぶふりをすると、奏に袖をひっぱられ、耳元でぼやく。

「あんた演技下手すぎ」
「うるせぇ」

 二人の迫真の演技を前に、父親は「でも……」と渋っている。
 すると、奏はあーあ、と身体を伸ばし、窓の外を眺めひとりごちる。
 
「小さな命を見て見ぬ振りするなんて、パパのこと嫌いになっちゃうな」
「なっ……」

 あれほど奏の一人暮らしに反対していた父親も、この言葉は効いたらしい。

 そうして、奏は子猫のおかげで念願の一人暮らしができることになった。


 飼い主を探していた子猫も、一人暮らしをしたがっていた奏もウィンウィン。
 ついでに、奏にでていってほしかった恵太もウィン、というわけだ。
 幸いにも、子猫用のエサならうちにたくさんあった。

 そう、子猫のようエサなら……。 

 恵太は先ほどから、上島獣医の説明が耳に入ってこない。
 

 照明がついた待合室は、あの日とかなり印象が違う。
 それでも、匂いが、ソファの質感が、ポスターに書かれた注射器のマスコットキャラクターが。

 恵太に、あの日の夜を思い出させる。

──今からでも、三橋に好きだったって言えばいいじゃん。それでまた、新しい恋すればいいじゃん。

 なんで、あんなこと言っちゃったんだろう……。


 今日、新は保護猫カフェにゃん処に行っている。

 きっと、三橋に好きだったと告白するために。

 三橋は女子が好きなはずで、恵太は三橋のことは好きだが、付き合うつもりはないと言っていた。

 でももし、三橋を前にして、新の気が変わったら……。

 新の告白に、三橋がOKしたら……。

 そのまま二人が、付き合うことになったら……。

 光りの向こうへと、手をつないで歩いていく新と三橋。
 そんな二人を、恵太は跪いて手を伸ばし、縋っている。

 そんな未来線を想像しているうちに、恵太の世界がぐるぐると渦巻いてくる。

「話聞いてる?」
「あ、すみません……」

 上島獣医の呼びかけで我に返ると、隣で張り付いた笑顔のまま、奏が静かにほほえむ。

「うちの弟が申し訳ございません。ですが、飼い主となる私がきちんと聞いていますので、ご安心ください」
「そうですか」

 上島獣医は興味なさげに失礼、と診療室へ戻っていく。
 すると、奏の上がったまま固定されていた口角が、ひゅん、と元の位置にも戻り、いつものだらしない顔に戻った。

「猫被りやがって」
「うっせ。ってかあの人、感じ悪くない?」
「いや、いい先生だよ。あの人は」

 恵太がそういうと、上島獣医がゲージを持って戻ってくる。
 ゲージの中にをのぞくと、奥で不思議そうにこちらを伺う子猫の姿があった。

「かわいぃ……」

 奏は目を輝かせ、絞り出すような声で囁く。

「おいで」

 奏が手を伸ばすと、天使のような子猫の顔が一気に豹変し、眉間にしわを寄せ、小さいながらも鋭い牙をむき出しにくる。

 恵太と奏はぱちくりと目を開き、顔を見あう。
 

 この子はこの先、懐いてくれるのか?


 そんな不安を読み取ったのか、上島獣医はぼそりと呟く。

「捨て猫はみんな、最初はこんなものだから」
「え?」
「これは俺の見立てだが、人間に捨てられた猫は、普通の猫よりなつくのに時間がかかる」
「人間のことを信じられなくなってるからでしょうか?」
「というよりは、自分が愛される存在だって認識するのに時間がかかるって感じだな」

 そのとき。
 恵太の脳裏に、一人で猫にエサをあげていた新の姿がよぎった。

 新も、そうなのかもしれない。

 思い返せば、初めて会った時に攻撃的なところもあった。
 自分のことを気持ちが悪いと自虐するところも。
 好きになった人を不快にさせるなんて思いこんでいるところも。

 新自身が、自分が誰かに愛される存在だと思えていないからなんじゃないか。

 そう思うと、これまでの新の行動の全部が腑に落ちてしまう。

「どうすれば……」

 奏の問いかけを遮るように、上島獣医は立ち上がり、受付カウンターに置かれた冊子を手に取る。

「これにはペットを怖がらせないようにお世話をする方法や、子猫にとってストレスになるものなどが載っている。が」
「が?」
「そんなことよりも、第一にやってほしいことがある」
「うぉっ……」

 上島獣医は冊子を投げ渡す。
 ページが開き、ちょうちょのように羽ばたく冊子を、恵太が両手でキャッチする。

「なにをすれば?」
「きちんと、想いを言葉にして伝えてほしい」

 上島獣医は真剣な眼差しで続ける。

「猫は人間の言葉がわかる。これも俺の見立てだ」
「そうですか……?」

 奏は不思議そうにうなずく。
 たしかに動物に人の言葉が分かるなんて、メルヘンなことを獣医が口にするのは変な感じがするが、恵太も上島獣医と同じ意見だった。

 猫は人の言葉をわかる。確実に。

「だから、この子への想いを、きちんと口に出して伝えてほしい。
 あなたと出会えてよかったよ。愛してるよ。って、言い続けてほしい。
 そうしていればそのうち、愛されることに感謝などしない、愛されることが当たり前って態度の、猫らしい猫になるさ」

 猫らしい猫。
 呼んでもこない、甘えたいときにだけ甘えてくる。だけど、ちゃんと信頼してくれる。
 ちょびや、これまでエサをあげてきた猫たちの姿を思い出すと、自然と口元がほころぶ。

 やっぱり猫は、愛くるしい存在だ。




 病院を出ると、強い西日が目を眩ませる。

 想いを、言葉にして伝えるか。

 恵太は口の中で、上島獣医の言葉を転がしていた。
 すると、恵太が持っていた子猫が入ったゲージを、奏が奪いとる。

「じゃあ、私家帰るから」
「え、俺も帰るけど」
「あんたは、行くところがあるんでしょ」

 奏はやれやれって感じで、ため息をつく。
 この勘の鋭さこそ、全国の姉が持つ能力だと思う。

「いや、でも……」
「今。ナウ。ゴー」

 やけにネイティブな発音で圧をかけてくる奏に、恵太は吹きだす。

 敵わないな、姉ちゃんには。

 恵太は「馬鹿姉」とだけつぶやく。

「あ、ついでに……」
「アイスだろ。わかってるよ」

 頭の中でピストルがパンっと鳴り、恵太は勢いよく走り出す。








 心臓がバクバクと暴れている。
 気をつけなければ、口からどぅるん、と出てきてしまいそうなほど。

 新は今、保護猫カフェ・にゃん処が入っている雑居ビルの前にいる。

 中から、池谷さんが降りてきた。
 池谷さんは新を見つけると、にやりと口角をあげる。

「あら、あなたも猫好きね」
「え」
「ささ、どうぞどうぞ~」

 池谷さんは蛇のように新の背後にするりと回りこみ、雑居ビルへと押し込む。
 狭い階段をなんとか上り、アルミ製の扉が開かれる。

「らっしゃーい」
「ど、どうも……」

 受付カウンターに立つカンちゃんが、のんびりとあいさつをする。

「じゃ、また呼び込み行ってくるから」

 そういうと、池谷さんはごゆっくりと、ゆっくり、というかねっとりと扉を閉める。
 なんだか、スケベな顔をした人だな、と新は思った。
 それに、どこかで会った気がするな……。


──実は池谷さんこそが、新に地域猫活動について教えた張本人である。
 しかし、二人が出ったのは夜で互いの顔をはっきりと認識していなかったし、もう半年以上も前のことで、新が池谷さんの存在に気づくことはなかった。

 池谷さんはそもそも忘れている。池谷さんは猫にしか興味がない。──


 カンちゃんの指示に従い、新は入念に手を洗い、のれんをくぐり、部屋に足を踏み入れる。

「うわぁ……」

 目に入ってきた光景に、新は思わず声を漏らした。

 ちゃぶ台の上に猫、下に猫。
 壁際に置かれた漆色の古びた味わいあるタンスの上に猫。
 開きっぱなしの引き出しの中に猫。
 柱の上にも猫。
 窓際にも猫。
 座布団の上にも猫。
 あっちにも猫。こっちにも猫。

 すごい、猫まみれだ……。

 そこは、自分が思い描いたような夢の空間で、全身から力が抜けるようだった。

「新」

 三橋が子猫とじゃれていた手を止め、新を見つめる。
 輪郭がシュッとし、髪も短くなった三橋は、あのころよりも大人びている。
 なのに、その視線はどこか懐かしさを感じさせ、胸がキュッと締め付けられる。

「……久しぶり」
「うん、久しぶり」

 新は、少し離れた場所に腰掛ける。

「元気だった?」
「うん。三橋くんは?」
「まぁまぁ、かな」

 言葉は交わされるが、その背後に潜むぎこちなさが、空気を重くする。

 すると、カンちゃんが猫用の毛布をもってくる。

「みっちー、これそっちに置いといて」

 みっちーと呼ばれた三橋は、少し口をとがらせる。

「俺、客なんですけど」と口にするが、実際にはその言葉がどこか嬉しさを感じているようにも思えた。

「ほとんど毎日来てるんだから、これくらい手伝ってよ」

 カンちゃんから毛布を投げ渡され、三橋は態度とは裏腹に手際よく置いていく。

 ほとんど毎日来てるって、三橋くんってそんなに猫が好きだったっけ?

「さんきゅー」

 カンちゃんが部屋を出て行くのを見送る三橋の目には、特別な光が宿っていた。
 その目の光には覚えがあった。


 三橋くんはこの人のことが好きなんだ。


 でも、黒い感情が湧いてこない。妬ましさも、悔しさもない。
 
 自分は、あの頃から変わったんだと、新は改めて実感する。

 それはやっぱり、恵太のおかげだと思う。

 だから。

 ぼくも、新しい恋に進むために。

 新はこぶしを握り、覚悟を決める。

「ぼくね、三橋くんのことが……」

 そのとき。
 奥からアルミ製の扉が勢いよく開く音が聞こえ、のれんがひらりと舞いあがる。

「け、恵太?」

 突然あらわれた恵太に、新は心臓が高鳴る。
 膝に手をおき、肩で息をする恵太はよろよろと進み、新の正面に膝をつく。

「ど、どうしたの?」
「新、……俺、新のことが好きだ! 愛してる!」

 飾り気のない、まっすぐな恵太の言葉が新の胸を貫く。
 驚きと混乱が交錯し、何も言えないまま口を開けている自分に気づいた。

「……えっ」

 そのまま、恵太は三橋の方に身体を向ける。

「だから、ごめん!」

 静寂が訪れ、まるで世界が一瞬消えたかのよう。
 心の中で何かが崩れ落ちていくのを感じながら、新はただ彼の言葉を反芻する。

 恵太は我に返った瞬間、顔が真っ赤になり、いたたまれなさそうにその場を逃げ出していく。

「ちょ、ちょっと!」

 新は立ち上がり、彼を追いかける。

 のれんをくぐる前、口を開けたままの三橋を振り返り、力強く頷く。

「頑張ってね、三橋くんっ!」
「え、お、おう……?」

 首をかしげる三橋を置いて、新はにゃん処を飛び出す。

 しかし、すでに恵太の姿はなかった。

 恵太に会いたい。

 恵太を求めて、急ぎ足で進む。

「恵太」

 恵太のことをを思い出すと鼓動が高鳴り、足が自然と動いていく。


 向かう先はもちろん。









 やった。


 完全にやってしまった……。



 恵太は膝を抱え、頭を中に入れ、先ほどの勢い任せの告白を猛省していた。

 どうして、あんなことをしてしまったのだろう。

 数時間前の記憶は遠く、まるで夢の中の出来事のように霞んでいた。

 猫の姿はない。
 いつもより、時間が少し早いからだろうか。


 ここはいつも二人で猫にエサをあげている道だ。


 にゃん処を飛び出した恵太は何も考えず、というより考えられず、足の向くままに走り続けた。

 角を曲がり、歩道橋を渡り、また角を曲がり。

 それでも気がつけば、景色は見慣れたものになっていた。


 あの時の新も同じように、ここにたどり着いたのかもな、と考えた。

 吸い込まれるように、誘われるように。

 ここは、俺たちにとって、特別で、意味がある場所過ぎる。



 
 すると、聞き覚えのある足音が、聞こえてきた。


「やっぱりここにいた」

 新はふぅ、と息を吐く。


 それでも、恵太は膝の間から顔を出さない。
 今、新の顔を見ると、あの瞬間の恥ずかしさと緊張で、死んでしまいそうだから。
 
 新の気配が、恵太のとなりに腰を落とす。

 なにも言わない新に耐え兼ね、恵太はぼそりと声を出す。

「あの、すみませんでした……」
「ほんとだよ」

 緊張で、心臓がきゅっと縮まる。
 恵太が恐る恐る顔をあげると、予想に反し、新はいたずらっぽく笑っていた。
 その笑顔に、恵太は少し安堵した反面、同時に恥ずかしさが込み上げてきた。

「告白しろって言ったり、乱入してきたり、めちゃくちゃじゃない?」
「ごもっともです……」

 反論の余地がなく、恵太はただ黙ってうなだれる。
 しばしの沈黙の末、新は地面を見つめたまま、言葉をこぼす。

「本当なの? ぼくのこと、その……」

 口ごもる新。
 その姿に、恵太は心がざわつく。
 どう答えればいいのか。恵太の心の中では、たくさんの想いが交錯していた。
 でも、これだけは先に伝えたい。いや、もうさっき言っちゃったんだけど。

 恵太は改めて新を見つめて言う。

「うん。好きだよ」
「…………」
「いろいろ考えたんだけど。……まぁ、いろいろ考えたって言っても、俺、新みたいに頭良くないし。男同士の恋愛の大変さ? とかも、男好きになったの初めてだし。っていうか、俺は新が好きなだけだから、正直言うと新の悩みとか気持ちをちゃんとわかってないかもだけど、うーん……」

 途中から、なにが言いたいのか分からなくなってきた。

 新は脳内で思考を振り返るうちに、忘れていた思考を思い出した。

「新に、ほかの誰かに好きって言ってほしくなかった」

 我ながら重いなぁ、と思う。

 付き合いたいと思っていないと言っていたのに。
 好きな人に好きだって言うのが、新の夢だと知っていたのに。

 それでも、新が好きだという相手は、俺であってほしいと願ってしまった。


 それが、恵太の本心だった。


 情けない、みっともない自分に耐え兼ね、恵太は再び三角に足を畳み、亀のように頭を収納する。
 そんな恵太を見て、新はぷっと吹きだす。

「ほんと、恵太って猫みたいだよね」
「え、俺が?」
「うん。最初から思ってたよ」

 新じゃなくて、俺が猫?

 眉根を寄せる恵太に、新はふふっと見つめる。

「猫の自由気ままな感じ。言いたいこととか、やりたいことに遠慮がない感じが。ぼくの頭撫でるのとか」
「え、いやだった?」
「嫌じゃないけど、学校でされるのは恥ずかしいよ」
「ごめん」

 さっきから、いいところないじゃん、俺。

 しゅん、と首をすくめる恵太を見て、新はまた笑った。

 恵太は、新の笑顔が好きだった。



 新は、なにかを葛藤するように、ゆっくりと息を吐き、心を落ち着かせている。

 恵太はただ黙って、次の言葉を待った。

 だが、時間が経てばたつほどに、yesとnoの天秤は徐々にnoの方に傾いていく。

 一瞬とも、永遠とも感じる時間の中で、恵太は覚悟を決める。

 たとえ、付き合えなかったとしても、新と友達でいつづけよう。
 新が誰を好きになったって、俺は友だちとしてその恋を応援しよう。
 
 新は愛される存在だって、俺がそばにいることで、証明し続けよう。



 ……やっぱり俺って、重いかも。


 恵太は、自分でも思っている以上に、新のことが好きなんだと、自覚した。

「恵太」
「なに」
「ぼくも、恵太が好きだよ」

 そういって、恵太はまぶしそうに目を細めた。

「……まじ?」
「まじだよ。気づかなかった?」
「ぜんぜん」
「そっか」

 新は恵太の方へ、身体を向ける。
 その瞬間、恵太の鼓動が一層激しくなる。新の声が、恵太の心を直撃するように響いた。

「恵太」

 新の声で名前を呼ばれるたびに、恵太の鼓動のテンポが一つずつ上がっていくようだった。
 恵太は痛いくらいに暴れる胸を無視して、新をまっすぐに見つめる。

 新は、口をパクパクさせながら、声を振り絞って伝える。

「ぼくと、付き合ってください」

 その瞬間。
 堰を切ったように、新の目から大粒の涙があふれ出す。

「あれ、ごめん。ごめん……」

 新もコントロールできないのか、拭っても拭っても、涙はあふれて止まらない。
 新が流す涙の数だけ、恵太は胸が締め付けられる。

「泣くなよ。まだ俺なにも言ってないだろ」
「ごめん……」

 自分の想いを封じて生きてきた人間が、想いを告げてきた。

 そんな新の勇気が、新の想いが、新のこれまでの過去が。

 新のすべてが愛おしくて、恵太は新を抱きしめた。
 すると、おそるおそるだが、新は恵太の背中に腕を回してきた。

 だから、恵太はより強く、抱きしめ返す。

 安心しろ。

 誰も、新のことを否定しない。
 誰も、新のことを無視しない。

 新は、愛される存在だ。

 心から、そう思えるように。


 新の涙が落ち着いたころに、恵太は耳元で名前を呼ぶ。

「新」
「……」
「新。新、新、新」
「なんだよ」

 恵太の胸の中で、新は吹きだす。

「なんでもない」

 新の名前を呼ぶたびに、身体の内側から幸せがあふれ出す。

 好きな人の名前は、理由がなくても呼びたくなる。

 本当にその通りだと思った。



「もう大丈夫……」

 恵太の身体から離れ、涙をぬぐう新。

 宝石のような新の瞳に引き寄せられるように、恵太はゆっくりと近づく。

 ふわふわな前髪が恵太の鼻に触れ、二人の吐息がぶつかりあう。

 妄想が現実になっているのか、これもまた妄想か。

 恵太には判断がつかないまま、新の薄い唇がにそっと……。

「ん?」

 すると、なにかが背中に当たる感触がした。
 恵太は振り返ると、そこには白黒まだら模様の、猫が一匹。

「ちょび」

 辺りを見わたせば、ほかにも猫がちらほら集まっていた。

 エサよこせ。

 そんな圧をかけられ、新は我に返ったように、そそくさと恵太から離れる。

「ご、ご飯ね、ちょっと待ってね」

 そういって、新は荷物の中からエサと紙皿を取り出す。
 恵太は呼吸を忘れていたことを思い出し、体内の空気を一気に吐き出した。

 お前ってやつは。

「空気読めよ」

 恵太はちょびに向かって文句を言うが、ちょびは知らん顔のまま、新のエサを待っていた。







 師走も佳境となったある朝。


 学校へ到着し、昇降口へ向かっていると轟音とともに真っ赤なスポーツカーが滑り込んできた。
 キュルキュルとタイヤを鳴らし、職員用の駐車場へ停まると、中から白衣姿の荒牧先生が颯爽と降り立つ。

 その姿は、まるで映画のワンシーンのよう。白衣が風に揺れるたびに、心の中で憧れがふくらむ。

 やっぱり、荒牧先生はかっこいい。

 養護教諭か、獣医か、まだ自分の進路は迷っているけど、いつか、荒牧先生のように白衣が似合う人になりたいと思った。


 すると、背後からぬっと影が重なる。
 ふりかえると、すぐ近くに恵太の顔があった。

「相変わらず目立つ人だな」
「うわっ!」

 新は驚きのけぞると、恵太はいたずらっぽく笑い、新の頭をわしゃわしゃと撫でる。

「おはよう新。今日もいいふわふわ具合で」

 新は顔をくしゃっと潰し、恵太の手から逃げる。

「もう、やめてって言ったでしょ」
「あ、そうそう」

 そういって恵太は自身のカバンにまさぐる。

「話反らしたな」
「これ。三橋から」

 恵太から差し出されたのは、保護猫カフェ・にゃん処のロゴシールが貼られた猫のエサの詰め合わせセット。
 恵太は今でもたまに保護猫カフェに通っている。

「三橋、保護猫カフェでバイトすることになったんだって」
「そっか」

 新は、カンちゃんを見つめる三橋の眼差しを思い出す。

 うまくいけばいいな。

 三橋のことを心の中で応援していると、恵太はのんびりと呟く。

「あいつ、よっぽど猫好きなんだな」
「……鈍感だなぁ。そういえば、ぼくが教室に行く理由もわかってなかったよね」
「え、理由あるの?」

 恵太の目が大きく見開かれ、首をかしげる。
 その無邪気な仕草に新は呆れ、ついため息が漏れる。

 教室に行く理由。

 そんなの。

 恵太に会いたかったから、以外にないのに。

「そういえば浩介遅いね」
「話反らしたな」

 いつも三人が登校する時間は被っていて、自然と昇降口前で集まり、一緒に教室へ向かうのが日常となっていた。
 ここで待たなくても、どうせすぐ後に教室で会うのに。
 変な習慣だが、新はここで誰かを待つのが好きだった。

 すると、目の前を手をつないだカップルが横切っていく。
 互いに、相手以外は視界に入っていないような熱々っぷりに、恵太はひゅぅ、と口笛を吹く。

「俺たちも手つなぐ?」

 新はもう、と恵太の肩を小突く。

「約束したでしょ」
「そうでした」

 本当は分かってるくせに、じとーっと恵太を見ている。

 好きな人と、抱き合えるなんて、そんなの叶わないと思っていた。

「恵太。好きだよ」

 雑踏の中で、恵太にだけ聞こえるように、愛を唱える。
 恵太は、照れくさそうに顔をほころばせる。

「俺も、好き……」

 その瞬間、背後からなにかが迫ってくる気配を感じた。

「ピーリカピリララ、ポポリナペーペルト!」

 謎の呪文を唱えながら両手を広げて突進してくる浩介を、新はしゃがんでよける。
 しかし、反応が遅れた恵太はもろにラリアットを食らっていた。

「いってぇな!?」

 しかし、そのまま浩介は校内へと逃げていく。

「待てこらっ!」

 恵太は浩介を追い、走り出す。

 くだらくて、最高に楽しい友達関係は続けていく。
 そして、ぼくたちは恋人でもある。
 そんな、普通じゃない関係も、悪くない。

「いくぞ、新」

 恵太に呼ばれ、新も走り出す。

 ぼくたちは友だちで、夜の間だけは恋人。

 そう。


 猫にエサをあげる間は。

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