猫にエサをあげる間は

 新はふらつく足取りで、近くの電柱に手をかける。

 こんなに走ったのはいつぶりだろう。

 立ち止まると一気に汗が滲み出る。
 滴るような汗ではなく、じんわりとした、服の中に熱がこもる、そんな汗だった。

 息を吸うたびに脇腹がぐっと痛む。撫でても、お腹を押さえても、消えない痛み。

 新は口に溜まったつばを何度も飲み込みながら、浩介を恨んでいた。

「浩介が、変な占いなんかするからだ……」

 見当違いな逆恨みであることは分かっていたが、今はそんな風にしか考えられなかった。 




 今から1時間前。

 冬の西日が入り込み、黄金色に光る図書室で、新は自身の勉強道具を押しつぶすように力なく突っ伏していた。
 参考書から香る印刷塗料の匂いを吸い込み、新はため息とともに悩みをこぼす。

「最近、佐和くんにバリア張られてる気がする········」
「なんだお前ら」

 向かいに座る浩介は呆れたように言葉を吐くと、校内で使用禁止のスマホを机の下で操作しながら続ける。

「恵太も言ってたぞ。新がATフィールド展開してるって」
「ATフィールド?」

 聞きなじみのない単語を繰り返すと、浩介は「心の壁だよ」とだけぼやき、鼻水をずずっとすする。

 なんだかよくわからないが、近ごろ、恵太との間に壁を感じているのはたしかだった。

 なにか気に障ることをしただろうか。言っただろうか。
 もしかしたら。
 またぼくは、浮かれてしまったのだろうか。

 次々と湧き出てくる疑惑と不安。そして緊張。
 新は内臓がぎゅうと握り潰されたような気持ち悪さを覚え、全身の空気が抜けるほどの大きなため息をついた。

 新から漂うどんよりとしたオーラを、浩介はうっとおしそうに払いのける。

「そんなに気になるなら、今から直接聞いて来いよ」
「直接?」
「俺が恵太の居場所を占ってやる」
「占うって」

 そういうと、浩介はバッグから取り出したタオルを頭にかぶり、あごの下で結ぶ。
 おそらく神秘的な占い師のイメージで布をまとったのだろうが、どうみてもドジョウ掬いしか見えなかった。

 浩介はバッグに入ったままだった中身がないガチャガチャの丸いケースを水晶に見立て、両手をかざし、指をうねうねと動かす。

「いまからする質問には『はい』か『いいえ』で答えてください」
「いや、別に夜になれば会えるし」
「質問には『はい』か『いいえ』で答えてください」
「……はい」

 占いってよりは心理テストの形式じゃないかと思ったが、新は諦めて口を閉じた。
 恵太ほどではないが、新もこの数か月で浩介との付き合い方はわかっていた。

 浩介はこほん、とわざとらしく咳ばらいをし、やけに低い声で質問を出す。

「猫のエサやりは今もやっていますか?」
「うん、……じゃなくて、はい」
「そのとき、恵太は制服ですか?」
「いいえ」
「わかりました」
「え、これだけ?」

 浩介はむむっと眉根にしわを寄せると、左手の指をうねうね動かし、右手で操作するスマホに念を送る。

「いや、水晶使わないのかよ」

 新のツッコミを無視し、浩介はスマホの画面を新に向ける。

()えました。あ、このみえるは普通の見るじゃなくて、視力検査の視るだから」
「どっちでもいいよ」
「恵太はここにいるでしょう」

 目の前に突き付けられたスマホを覗き込む新。

 画面には地図アプリが表示されており、商店街の建物に赤いピンが立っている。
 新が赤いピンをタップすると、詳細情報が画面下からぬっと現れる。……店名は。

「保護猫カフェ、にゃん処?」
「俺の占いは当たる」

 自信たっぷりにうなずく浩介の目は赤く腫れており、よく見れば鼻の周りは鼻水のかみすぎで荒れている。
 新はそれらを見て、浩介と初めて話した時のことを思い出した。

 あぁ、なるほど。
 
「浩介って猫アレルギーだもんね」

 最近の浩介の目の腫れ、鼻水、くしゃみはアレルギー症状なのだろう。

 浩介の周りで猫と触れ合うのは新と恵太だけだが、少し前まではそのような症状は出ていなかった。
 ついでにいえば、今現在、新といっしょにいてもアレルギーの症状はでていない。

 つまり、恵太が学校から帰るまでの間に、制服のまま、猫と触れ合っており、
 制服に付着した猫の毛によって浩介はアレルギーの症状を発症しているということだ。

 それらの情報をもとに、浩介は近所で定期的に猫と触れ合える場所を検索、もとい、占ったのだった。

「せっかく場所突き止めたんだから行ってこい。でなければ、最悪な未来が訪れるでしょう」
「……わかったよ」

 参考書を閉じ、カバンへしまう新に、浩介はお、と目を開く。

「いや、信じたわけじゃないから」
「はいはい」

 言葉通り、新は占いを信じたわけでも、下手な脅しに屈したわけでもない。
 ただ保護猫カフェの詳細情報に載っていた子猫の愛くるしい姿を、自分の目でも見たいと思っただけ、……なのに。

 浩介は自分の手のひらをうらおもて眺めながら、「これが、俺の力……?」と呟いている。

 完全に新が占いを信じていると思い込んでいる浩介を見ていると、新は今日何度目かのため息が漏れた。

「最後に一つ、質問です」

 荷物を抱え、立ち上がった新に浩介は念力を送るように新に両手をひろげてみせる。
 全体的に浩介は占いを超能力かなにかだと勘違いしているらしい。

「もう占いはいいって」

 新の声を無視し、浩介は新に質問する。
 しかし、声色はいつもの浩介のままだった。

「恵太とこれからも、友だちでいたいですか?」

 突然、心の奥底を覗き込まれるような気がして、新はすぐに口を開いた。
 もちろん、と頷きながら。
 それ以外の答えはありえない、という風に。

「はい」

 新はそれだけ答えると、浩介から逃げるように図書室を出た。



 そうだ。

 ぼくは、佐和くんとこのまま友だちでいたい。
 友だちのままで、今のままで、十分すぎるほど幸せなんだ。


 なのに。


 どうして友だちのままでいられなかった三橋くんと、一緒にいるんだよ……。






 顔をあげると、月が白く光っていた。
 形はほとんど満月だが、よく見れば影がかかっており少し瘦せてみえる。あれは。

──小望月だと思う。だから明日は満月だな。

 恵太の凛とした横顔が、月に重なる。

 夕暮れ時に商店街から走り去った新は、そのまま家に帰るでもなく、足の向くままに歩いているうちに、いつも猫にエサをあげている道へと来ていた。
 縁石に腰掛けた新は、腕をさすりながら白く濁っては消えていく、自分の息の果てを見つめる。

 いつもより時間が早いせいか、猫たちの姿はない。

 時折、一日の業務を終えた引っ越し会社のトラックが敷地へ入り、ヘッドライトが新の影を一瞬だけ引き延ばす。
 駐車場へ停まったトラックは遊び終えた犬のように短く排気音を轟かすと、エンジンが止まり、安らかな眠りへとつく。
 
 途端に、鋭い夜の静けさが新を貫く。

 その時、道の向こうから聞きなれた足音が聞こえてきた。

「やっぱりいた」

 暗闇の向こうから恵太の姿が現れ、新は心から安堵した。

 もう、ここには来てくれないかと思っていたから。


 制服姿の恵太はいつものように、新のとなりへ腰掛ける。

 しかし、ほんの少しだけ目が泳いでいることに新は気づいた。

 しばしの沈黙の末、先に口を開いたのは恵太だった。

「三橋のこと……」
「うん。ごめんね、黙ってて」

 新は恵太の言葉を遮り、苦々しく、笑みを浮かべる。

 三橋くんからどんな話を聞いたのだろう。
 話を聞いた時、佐和くんはぼくのことをどう思ったのだろう。
 
 どれも知りたくて、なにも聞きたくなかった。
 だから新は、恵太に話す隙を与えないように言葉を続ける。

「小さいころから、なんとなくそうなのかなって思ってたんだ」
「……」
「ぼくは、男の人を好きになるんだって」

 誰にも打ち明けるはずがなかった、自分の本質。
 だが、新は妙にすっきりしていた。
 サイズの合っていない、窮屈な服を脱いだ時のような、そんな気分だった。

「最初はもしかしたら自分は女の人になりたいのかなとも思ったんだけど。
 だって、男を好きになるのは女の人だから。でも、それも違うなって思って」
「……」
「だからぼくは、男の人を好きになる男、なんだよね」

 べらべらとしゃべっているな、と新は自覚しながらも、熱を持って動く口を止められなかった。

 知ってほしい気持ちが半分。
 もう半分は、ただ誰かに言いたかった。

 長い間、自分の内側にしまい込んでいた自認を、自分なりに言語化し、誰かにぶつけてみたかった。
 そうすることで、口から出ていく言語化した気持ちと、言語化しきれていない心の内側の気持ちに相違がないか確かめたかった。

 結果として、違和感はない。

 ぼくはやっぱり、男を好きになる男だ。


 このとき、新は本当の意味で、自分という存在の本質を知った気がした。
 
 新はゆっくり息を吐くと、隣に座る恵太を思い出した。

 新の話をなにも言わずに聞いていた恵太。

 こんな話、聞きたくなかっただろうな。
 嫌な思いをさせちゃったな。

 新は心苦しさを胸に、取り繕うようにほほ笑む。

「ごめんね、気持ち悪い話して」
「気持ち悪くなんかねぇよ!」

 恵太はほとんど反射的に、声をあげた。
 新も驚いたが、恵太自身も自分の声の大きさに驚いたようすで、気まずそうに顔を落とす。

「……ごめん。でも、自分のこと、そんな風に言ってほしくない、かも」
「……」
「それにさ、人が人を好きになってるだけじゃん。男同士だからって男女の恋愛となにも変わらないでしょ?」

 声のトーンを一段階あげ、語り掛ける恵太。

 励ますような、諭すような物言いに、新は「なにそれ」と言葉を吐き捨てる。

「そんなのきれいごとだよ」
「え」

 鳩が豆鉄砲を食らったような顔をしている恵太。
 恵太も驚いているが、新自身も自分のひどく冷めた物言いに驚いた。

 しかしそれが、新の本心だった。

 人が人を好きになる。性別なんて関係ない。
 
 そんな美しいはりぼての言葉は、自分の息苦しさや生きにくさを無視されているようで、たまらなくムカつきた。
 
「なにも変わらないわけないでしょ。だって……」

 だって。

 新は言葉を詰まらせていると、過去の映像が勝手に脳内で再生される。
 


 それは三橋の想いを知った日から少し経った頃。


 そのころの新は教室の隅で本を読んでいた。

──南雲さ、お前のこと好きっぽくね?

──お前を見る南雲の目が、こう、キラキラしてるのよ。恋する乙女チックな。

 ざわざわと騒がしいみんなの声に紛れて、あの時の声がリフレインする。
 三橋の「マジ無理だわ」という拒絶の言葉もあわせて。

 新はじっと本を眺める。
 内容は入ってこないが、字を滑るように眺めているだけで気持ちが少し落ち着いた。

 それでも、気がつけば視界の端で三橋を見つめてしまう。

 そんなとき。

 クラスメイトの女子が、ひょこひょこと三橋に近づくのに気付いた。

 ふんわりとした雰囲気の女子は、緊張した面持ちで、三橋の肩に触れる。

「三橋くん。このあと、……時間ある?」

 女子の瞳から、背中から、唇から、三橋に対する想いが、あふれているのが見て取れた。

 すると三橋は、ほほを赤らめ、照れくさそうに後ろ頭を掻いた。


 ほどなくして、三橋のその女子が付き合い始めたという噂が漏れ聞こえてきた。

 みんなに冷やかされながらも、まんざらでもなさそうな三橋くん。
 そして、その隣で茹でダコのように真っ赤になってうつむいている女子。

 そんな二人を見て、新は確信した。

 自分は、この世界の邪魔ものだ。


 男は女を好きになる。女は男を好きになる。

 それが普通の世界の、祝福されるべき普通の恋愛なんだ。


 だから男が、男を好きになるなんて。

 

「普通じゃないんだから……」

 声の震えを抑えようとするあまり、声が上ずってしまう。

「いや、でも……」
「もういいでしょ、この話はおしまい」
「ちょっ、なんだよそれ」

 新が立ち上がると、恵太も続いて立ち上がり、新の腕をぐっと掴む。
 あのときの、保健室と同じように。

 しかし、新は引き寄せられるより先に、とっさに恵太の手を払った。

 手のひらから伝わってくる恵太の体温に、決意がほだされそうになるから。
 

 新の決意。


 それは恵太と友達であり続けること。


 だから、頭を撫でられるのを避けていた。
 わざと苗字で呼び続けているのも、同じ理由だ。


 これ以上、距離が近くならないように。
 これ以上、好きになってしまわないように。


 友だちとして、恵太のそばにいれる今の幸せを、失わないように。

 そんな悩みも、苦悩も。


「言っても、佐和くんにはわからないでしょ」
「わかるよ」
「わからないよ! 普通に友だちがいて、普通に生きてきた佐和くんにはっ!」
「普通普通って、意味わかんねえよ!」
「やっぱりわかってないじゃん!」

 頭に熱がのぼり、口が勝手に動いてしまう。
 泣きたくないのに、勝手に目が潤んでしまう。
 大きな声を出すのにも慣れていなくて喉がきりきりと痛むし、酸欠で頭もくらくらする。

 それでも、新は止まらなかった。


 その時。



 にゃあ。



 猫の鳴き声が聞こえ、新と恵太は声のした方へ視線を向ける。

 白と黒のまだら模様の身体。
 鼻の下にちょん、と黒い模様がちょび髭のように見える。その猫は。

「ちょび?」

 恵太が名前を呼ぶと、ちょびはもう一度、にゃあと鳴いた。

「ちょびの鳴き声、初めて聞いたかも」
「たしかに……」

 ふたりがちょびは踵を返して歩き出す。

 無駄のない、凛とした歩き姿。
 しっぽが、ふわりと揺れる。
 
 ちょびは道の真ん中で立ち止まり、顔だけをこちらに向ける。

「こっちに来いって」

 そういって恵太は歩き出す。
 すると、ちょびは今度は、サッ、と駆け出した。
 彗星のように夜の闇を駆け抜けるちょび。

「なんか急いでるっぽい?」

 この数か月間を経て、新と恵太は「猫は人の言葉が分かる」と信じて疑っていない。
 そして猫のおねだり、もとい、想いを感じ取り続けていた二人もまた「猫の言葉がわかる」ようになっていた。

「そうみたいだね」

 新はこっそりと目に溜まった水分を拭い、恵太とともにちょびを追う。






 
 角を曲がり、細い道の先を行くと、小さな公園に入っていくちょびのしっぽが見えた。
 砂利が敷かれた園内に遊具はなく、木製の古びたベンチがあるだけの小さな公園。

 すると、バサバサと羽を羽ばたかせる音と猫の低い唸り声が聞こえてきた。

 外灯がなく、月の光も届かない真っ暗な空間に目を凝らすと、鈍く光る黒い羽が見え、新の背筋が一気に粟立つ。
 
 カラスだ。

 黒い飴玉のようなカラスの眼が見据える先には、いつもエサをあげている猫が数匹。なかにはちょびの姿もあった。

 喧嘩か、縄張り争いか。
 戦いの理由は分からなかったが、猫のほうが劣勢であることは見て取れた。

 しっぽを膨らませ、低い声で必死に唸る猫たちに対し、翼を広げたカラスの甲高い鳴き声を響きわたる。

 助けなきゃ。

 枝か、なにか。とにかく武器になりそうなものを探し出した新の横で、恵太は腰を落とし、両手を高く上げる。

「きぇあっ!!」

 恵太はとっさに甲高い声をあげ、どすどすとガニ股で地面を強く踏みつけながらにじり寄っていく。

 そんな恵太に面喰ったのか、カラスは飛び立ち夜の闇へと消えていった。

「びっくりした……」

 腕をおろし、ほっと胸をなでおろす恵太。

 身体を大きく見せること。相手の意表を突くこと。相手を驚かせ、ひるませること。

 野生の動物に対し理にかなった行動を積み重ねた恵太は間違っていない。間違っていないけど……。

 あいつ大丈夫か、というちょびの視線に気づき、新は黙ってうなずいた。

 そのとき、かすかに生き物の声が聞こえた。


 みぃ、みぃ。


 短い悲鳴のようなか細い鳴き声はベンチのあたりから聞こえる。
 二人は顔を見合わせ、ベンチへ近寄ると、木の隙間から奥に置かれた段ボールが見えた。

 まさか。

 新が裏へ回り込み、中を覗き込む。

「子猫だ……」

 薄い毛布が敷かれた段ボールの中で、生まれたばかりの小さな子猫がもがいていた。
 カラスはこの子猫を狙い、猫たちは子猫を守っていたのか。

「この子、目が……」

 子猫の目の周りは炎症を起こして、腫れたまぶたが小さな目を押し潰している。
 周りが見えていないのか、子猫はしきりに段ボールへと頭をぶつけていた。

「どうしよう……」
「とりあえず、病院につれていかないと!」

 新は地図アプリを開き、検索欄に『動物病院』と打つ。しかし。

「だめだ、どこも閉まってる……」

 見慣れた町の地図にいくつかピンが刺さるが、どの動物病院も名前の下に赤い文字で『営業時間外』と記されている。

 隣の地区。隣町。市外。

 新は範囲を拡大しながら、祈るように検索を繰り返す。

「くそっ……!」

 恵太もまた、近くの動物病院を探そうとポケットに手に入れる。
 同じ機種。同じキャリア。検索結果は同じはずだが、それでもこの状況をひっくり返す、なにかがあると信じて。

 しかし、ポケットの中身は空だった。

 恵太は服の上から全身のポケットを叩きながら、スマホの在りかを探す。
 
 そのとき、胸ポケットに感触がした。
 スマホほどは固くも、厚くもない。小さな紙のような感触が。

 恵太は胸ポケットに手を入れると、指の隙間に何かが挟まり、そのまま引き抜く。

 それはいかがわしいハートマークがついた保護猫カフェ、にゃん処のポイントカードだった。

「あ!」

 恵太はハッとして、裏に書かれた連絡先をスマホに打ち込み、すばやく耳に当てる。

「誰に電話してるの?」
「困った猫を見過ごさない、スケベな顔のおじさんだよ」

 それだけ言うと、通話がつながったのか、恵太は熱心にスマホに向かって話し出す。

 最初は興奮気味だった恵太だが、通話相手に諭されたのか、子猫のおおよその体長や体重など、必要な情報だけを細かに伝える。

 通話を切ると、恵太は地図アプリに『上島動物病院』と入力し検索をかける。
 赤いピンが示す先はここから歩いて10分。

「ここで治療してもらうように頼んでくれるって! 急ぐぞ!」
「う、うん……!」

 新はスケベな顔のおじさんのことをいったん忘れ、段ボールから子猫を抱きかかえる。

 軽すぎる。

 腕の中に感じる消えかけの命の灯。


 新は制服の上着を脱ぎ、薄い毛布ごと子猫を包み込むと、道案内役の恵太に続いた。






 

 じーん、と静まる待合室。

 受付カウンターと、三人掛けの革張りのベンチソファが四つ、前と後ろに二つずつあるだけの小さな空間。
 照明はついていないが、非常口の光が木目柄のタイルに反射し、空間全体を薄い緑色に照らす。
 


 ここ、上島動物病院につくと、中から痩せた中年の男性が電源の入っていない自動ドアを手で開いて出てきた。
 
 紺色のシャツに白衣をまとう男性の胸には「上島」と書かれた名札がついていた。
 
「あの……」

 恵太の言葉を遮るように、上島獣医は首にかかった聴診器を子猫に押し当てる。

 胸、お腹、背中。

 子猫はされるがまま、新の腕の中を転がる。

 新は触診を繰り返す上島獣医を観察する。
 こけた頬。うつろな目。不愛想な態度。
 それらが動物医療の知識や技術に無関係と頭でわかっていても、この人物に命を救えるとは信じがたかった。

 それどころか、上島獣医自身の不健康そうな肌の白さは、仄暗い夜の中では死神にすら思えてくる。

 聴診器を外した上島獣医は新の腕から子猫を毛布と制服、まるごと拾い上げると、そのまま踵を返す。

「カギ閉めといて」

 上島獣医はそれだけ言うと、病院に入り、そのまま奥の診察室へと姿を消した。


 それからどのくらい経っただろう。

 新の腕にはまだ子猫の感触が残っていた。

 ぼんやりと、自分の腕を見ていると、となりのベンチに座っていた恵太が口を開く。

「寒くない? 上着貸そうか?」

 恵太に言われて、新は自分が寒さに震えていることに気づいた。

 新は大丈夫、と腕をさする。
 すると、恵太は新の前に立ち、マフラーをほどいて差し出す。

「これ」
「……ありがとう」

 新はぎこちなく受け取ると、首に赤紫色のマフラーを巻いた。
 絹でできたマフラーは肌心地がよく、首元がじんわりと温まる。

 新はこっそりとマフラーに顔を埋めた。

 恵太はそのまま、新から人一人分離れた、同じソファへ腰掛ける。

 新は隣に恵太の存在を感じながらも、なにを言えばいいのか分からず、顔をあげる。

 定期検診を受けよう、ワクチンを接種しよう、という内容のポスターが一面に張られた掲示板を眺めていると、恵太がぼそりと呟く。
 
「さっきのカラス、すごかったな」

 新は公園での出来事を思い返す。
 つい先ほどのことなのに、はるか遠い過去のことのように思えた。

「佐和くんのほうがすごかったよ。なにあれ」
「俺の最終形態。強そうだっただろ」
「強そうっていうか、ヤバそう」
「どういう意味だよ」

 恵太のツッコミに、新がぷっと吹きだす。
 すると、恵太も続いて笑った。

 二人の間に流れるいつもの時間を新は目を閉じ、噛み締める。

 しばしの沈黙の末、恵太は様子を伺うように、新に質問する。

「まだ、三橋のこと好きなの?」

 恵太の問いかけが、波紋のようにゆっくりと耳に入る。

「もう好きじゃないよ」

 そういうと、新は「んー、」と小さく唸った。

 自分の言葉を聞いて、自分の気持ちとはずれているな、正確じゃないな、と思った。
 
 新は自分の心に意識を向ける。
 瞬間、どぷん、と水の中に沈む。
 ここは、新の深層心理の世界。

 新は身体を反転させ、ぐんぐんと水をかき分け、泳ぎ進む。
 深いふかい、水の底。
 そこにいたのは、中学生の頃の、まだ三橋のことが好きで好きで、たまらなかったころの自分。

 きみも、ぼくなんだもんね。

 かつて、頭の中の声として自分を傷つけていた過去の新に、今の新は優しく微笑みかける。

 きみの気持ちを、無視しちゃダメだよね。

 中学生の新の涙は、水泡となって昇っていく。

「好きだよ。これからもたぶん、ずっと好きなんだと思う」
「……そっか」
「でも、付き合いたいとか、そういうのじゃない」
「本当? 心残りというか、未練みたいなのは?」

 ぐいぐいと顔を近づけてくる恵太。
 質問の意図は分からないが、新は聞かれるまま、眉根を寄せて考える。

 心残り……、未練。

 ぼくが、したかったこと。

 新はほとんど無意識に、口が動いた。

「告白してみたかったかな」
「告白? してないの?」
「してないよ。無理ってわかってたし」

 そのとき。

 新は自分の言葉を聞いて、そうだったのか、と気づいた。

 ぼくは、普通の人が羨ましかった。妬ましかった。悔しかった。

 だから、女の人を好きになりたいと思ったこともあった。

 でも、本当はそうじゃなかった。

 ぼくはただ。

「好きな人に、好きだよって言いたかった」

 ただ、それだけだったんだ。

「はは……、はぁー。はは……」

 身体が浮いてしまいそうなほどの解放感と、これまでの疲労が一気に襲い掛かるような脱力感。
 真実にたどり着いた新は、身体がおかしくなったのか、ため息と笑いが入り混じった吐息が止まらなかった。

「すればいいだろ……」

 恵太はぼそりと呟くと、なにかを決心したようにソファを滑り、新のすぐとなりへ腰を落とす。

「今からでも、三橋に好きだったって言えばいいじゃん。それで未練もなくなるだろ。そしたらまた、新しい恋すればいいじゃん!」
「新しい恋って」

 そんなこと、考えたこともなかった。 
 新は似合わない帽子をかぶったときのように、笑って首を振る。

「そんなの、無理だよ」

 すると、恵太は懐かしいな、と新をみつめて言った。

「懐かしい?」
「教室に来たいかって聞いた時も、同じこと言ってたな」
「……そうだっけ」
「そうだよ。でもさ、理由はわかんないけどさ、新は今教室に来てるじゃんか。
 俺らと一緒にいるじゃん。だから、無理じゃないって」

 恵太はうつむく新の顔を覗き込む。
 そんな恵太がまぶしくて、新はすねた子供のように顔をマフラーの奥へと沈める。

「ぼくは、好きな人に嫌な思いをしてほしくない。だからぼくは、もう誰のことも好きになっちゃいけな……」
「だからそうやって、他人の気持ちを勝手に決めるなよ」

 新は喉の奥がぎゅうっと熱くなって、なにも言えなかった。

「新から好きだと言われて嫌なやつもいるかもしれないけどさ、
 新から好きだと言われたら、死ぬほど喜ぶやつだっているかもしれないじゃん……」

 恵太は目を伏せ、ぶつぶつと言葉を落とす。

「そんな人、いるわけないでしょ」
「だからここに……!」

 恵太が立ち上がると同時に、奥のドアが開き、待合室が一気に明るくなる。

「一応ここ病院だから」

 上島獣医はぼそりと言うと、恵太はすみません、と首を縮めだ。
 ぴっしりと畳まれた制服を差し出され、新が受け取ると上島獣医の腕の中で子猫がすやすやと眠っているのがわかった。

「あの、子猫は」
「かなり弱ってたけど、死にはしないよ」
 
 胸からお腹にかけて、小刻みに膨れたりしぼんだりを繰り返す命の動きに、新は感動した。

「よかった……」

 新が胸をなでおろすと、獣医は舌打ちをした。

「池谷の野郎、人のこと都合よく使いやがって……、あ、きみたちに言ったんじゃないからね」
「は、はい……」

 新と恵太は目を合わせ、こわすぎ、と目線を送りあう。
 この人、本当に動物のお医者さん? とも。

「で、この子はどうする? どっちか飼うの?」
「えっと……」
「正直、あいつのところも手いっぱいだし、里親に出すか、それでもだめなら最悪……」

 そういうと、上島獣医は口を閉ざした。
 
「しばらくはうちで経過観察するから、考えといて」

 二人がうなずくと、上島獣医は白衣をひるがえし、奥の診察室へともどっていく。

「よちよち頑張ったねぇ……、もう大丈夫でちゅからねぇ」

 とびらが閉まる直前、子猫を見つめる上島獣医の険しい顔が、一気に破顔した。

 中年男性の甘ったるい赤ちゃん言葉が、鼓膜に張り付いていつまでも消えない。

 それは恵太も同じだったのか、二人は顔を見あって、笑いあった。





 上島動物病院を出ると、恵太はスマホを取り出し「うげぇ」と呟く。

「やべー、母さん怒ってるって、姉ちゃんから」

 なんて言い訳しよう、とぼやいている恵太。

 新は空を見上げると見慣れた位置に月が出ていた。
 いつも、猫にエサをあげる間と同じ位置に。

 半年前。自分のことが許せなったころは、月なんて見ていなかったのに。

 月に意識が向くようになったのも、こうして自分のことを許せるようになったのも。
 全部。

 あぁ、好きだな。

 ブルーライトに照らされた恵太の横顔を見て、新は思った。

「あのさ」
「なに?」
「ぼく、保健室の先生になりたいんだ。でも、獣医もいいなって思った」
「ほえー」

 恵太はスマホから顔をあげ、目を開いてほほ笑む。

「なれるよ。新なら」

 恵太の言葉が、心に染み入る。
 だから、新はさりげなく、愛情をこめて名前を口をする。

「ありがとう、恵太」
「おう」

 恵太はそこから数歩歩いて、立ち止まる。

「え」
「なに?」

 新のとぼけたような顔を見て、恵太は自身の聞き間違いではないと悟った。
 恵太はばっと腕を伸ばし、思い切り新の頭を撫でてくる。

「なんでもねえよ!」
「ちょ……やめてよっ……」

 口ではそういうが、新はやめてほしくなかった。
 恵太の体温で、やさしさで、身体の芯が溶けてしまいそうで。
 いつまでも、いつまでも、頭を撫でていてほしかった。

 幸福の渦にのまれながら、新の決意が、塗り替えられる。

 ぼくは、恵太と恋人になりたい。
 そのためにも……。


 そのとき、再び恵太のスマホが鳴る。

「ついでにアイス買ってきて、だって。あいつどんだけアイス食うんだよ」

 姉からのメッセージを見ながらぼやく恵太。

 そのとき、恵太は突然声をあげる。


「いいこと考えた」