「また悩んでるねぇ」
「え?」

 顔をあげると、荒牧先生が窓から顔を出していた。

「ほっぺに土ついてるよ」

 荒牧先生が自分の頬をつんつんとつつく。
 新は荒牧先生がつついた場所と同じ場所を軍手の、まだ土がついていないきれいな部分で拭う。
 荒牧先生はすまないねぇ、と、ひとつも申し訳ないと思っていない様子で笑った。

 今は掃除時間中。

 いつもなら保健室の床を掃いたり、窓を拭いたりしているが、今日は荒牧先生から頼まれ、冬に向けて植木鉢の手入れをしている。
 花は朽ち、葉は茶色く枯れた、夏を生き切った花たちを弔うように、新は茎を掴んでそっと引き抜く。

「どうしたの?」
「べつに」

 新は気にしていない様子で土の入ったプランターに肥料を入れ、スコップでかき混ぜる。
 それでも、荒牧先生の詮索の手は緩まない。

「なになに? 気になるじゃん。さては恋のお悩みかな?」
「違います」
「ふぅん……」

 前髪のすき間からちらりと見上げると、荒牧先生は目を細め、口角がにやりと上がっていた。

 あ、これ本当のこと言うまでずっとかん違いされるな。

 新は観念して、花の苗を入れるための穴をほりながら言った。

「友だ……、最近よく会う知り合いがいたんですけど、最近会えてなくて」

 無意識に手に力が入り、スコップは土の深くにざくりと刺さる。

「嫌われちゃったかなって」

 自分で言っておきながら、胸の奥がじくじくと痛む。

 あの日。
 恵太から教室に行きたいかと聞かれた日から、恵太は猫のエサやりに来ていない。

 恵太は毎日来ていたわけじゃない。
 毎日の時もあれば、2日や3日に一回のときもあった。
 だけど、一週間も来ないのは初めてだった。

 今まではそれが当たり前だったのに。
 
 そんなとき、特別棟の廊下から教室で授業を受ける恵太の姿を見つけた。
 新は恵太の安否を確認でき、心から安堵した。そのあとすぐに、ゆるんだ身体の内側が冷たくなるのを感じた。

 じゃあ、なんで猫のエサやりに来ないんだ?

 飽きたから? 面倒くさくなったから? それとも。

『お前のことを嫌いになったから』

 その時、耳元で囁く声がした。相変わらずの音域が不安定な、歪な声だった。

『お前は人に嫌われる。嫌われるのはもういやなんだろ? だから、だれとも関わらない方がいいんだよ』

 ふりかえっても、そこには誰もいなかった。
 
 自分以外、誰も。



「それはあれだね……」

 新の話を聞いた荒牧先生は神妙な面持ちで唸ったかと思えば、黒い髪をかき上げ、やけにいい声で呟いた。

「恋だね」
「もういいです」

 呆れた新は穴の中にシクラメンの苗を入れ、土をかぶせる。元気に育てよ、と心で唱えながら。

 すると、南雲先生はけらけらと笑った。

「南雲くんは人と違う。普通じゃない」

 ふいに投げかけられた言葉に、新の手が止まった。

 普通じゃない。

 その言葉をトリガーに、新の頭の中に過去の映像が流れ込む。
 新の気分は沈む。深く、深く、光が届かない暗闇の底へ。

 しかし、荒牧先生のやさしくも芯のある声が、新の意識は呼び覚ます。

「南雲くんは普通以上に、優しい。だからいろいろ考えちゃうし、いろんなことに気にしすぎて、自分を否定する『頭の中の声』が聞こえるんだと思う」

 新の自己否定を続ける幻聴を『頭の中の声』と命名したのは荒牧先生だ。

 そんな声は聞こえない。聞こえるとしても、無視すればいいだろ。

 親や教師。いろんな大人が『それ』を否定する中で、荒牧先生だけは『それ』の存在を認めてくれた。
 だから新は学校に、保健室に通うことができていた。

「わたしの言うことも裏の意味とか、本当はこう思ってるとか、いろいろ考えちゃうかもしれないけどさ。これだけは正直な気持ちだよ」

 荒牧先生はまっすぐに新の目を見つめて言う。

「私は、南雲くんが保健室にきてくれて助かってる」
「荒牧先生……」
「なぜなら、南雲くんが花壇の手入れをしてくれるおかげで、私の純白の白衣が汚れずに済むからね!」

 荒牧先生は身に着けた白衣をはためかせ、ランウェイのモデルのようにびしっとポーズを決める。

「正直すぎです」

 新のツッコミに南雲先生はがはは、と笑った。
 その豪快な笑い声につられ、新も鼻から息が漏れた。

「口は災いのなんちゃらだね。でもね、言わなきゃなにも伝わらないよ。南雲くんがその子に会いたいと思ってることもね」
「会いたい……」

 そのとき、保健室のとびらが開く音がした。

「誰か来たかな」

 荒牧先生が顔を引っ込め、新は苗の根元にやさしく土をかぶせる。
 シクラメンの薄桃色の花びらが新の想いによりそうように小さく揺れる。

 そうか。
 ぼくは、佐和くんに会いたかったのか。

 新はじょうろを手に、シクラメンに水をかける。
 佐和くんに会いたい。でも、そのためには教室に行かなければならない。

 みんながいる、教室に。

 新は想像しただけで、ぐっと肩に力が入る。
 そして、想像上でも新はたくさんの人がいる教室に足を踏み入れることができなかった。

「やっぱり無理だよな……」

 身体の力が抜けた新は軍手を外し、外から保健室へ入れるアルミ製の扉に手をかける。

 保健室へ入ると、カーテンのむこうでベッドに腰掛ける男子生徒の影が見えた。
 体調不良者やけが人が保健室へいる場合、新は図書室へ避難する。
 しかし、掃除が終わった今、あとは荷物を持って帰るだけ。その荷物は保健室の中にある。

 新は緊張で痛むお腹を押さえながら、気配を殺して中へ入る。
 目を合わせないように。気づかれないように。静かに。ゆっくりと。

「なにしてんの、南雲」
「なっ……?!」

 ベッドから自分の名前を呼ばれ、新は電流が走ったように硬直した。

「え、佐和くん?」

 そこには鼻の穴にティッシュを詰め、右足の足首に包帯を巻いた恵太の姿があった。

 なにしてんのって、こっちのセリフなんだけど……。

 言葉を失う新に、恵太はティッシュをひっこぬいて見せる。鼻の穴に入った先端は鮮やかな赤色に染まっていた。

「階段で足滑らせてさ、顔からダイブしちゃった」
「しちゃったって……」

 よく見れば、カッターシャツにも鼻血が点々と染みている。
 すると、荒牧先生が追加のティッシュ箱やアルコールの消毒シートを持ってきた。

「鼻血止まるまで抜かないで」
「んがっ」

 荒牧先生は恵太の腕をつかみ、勢いよくティッシュを鼻の穴に詰める。

「廊下に垂れた血拭いてくるけど、佐和くんはどうする? 今日はもうこのまま帰る?」
「そうっすね」
「荷物はどうしようか」
「取りに行けますよ」

 恵太は足に力を入れて腰を浮かすが、違和感を伴う痛みが足首に走り、中腰のまま顔を歪めた。

「動かない」
「い゛っ……?!」

 荒牧先生はそんな恵太の肩をポンと押す。
 中腰の状態からベッドに尻から着地した衝撃は太ももからふくらはぎへ、ふくらはぎから痛めた足首へと伝わり、恵太は言葉にならない悲鳴を上げた。
 そんな恵太の姿を見て、新は控えめに手を挙げた。

「あの……」

 自分の理性が緊張とか不安で口を閉ざしてしまう前に、新は声を出した。

「取ってきます、荷物」

 新の提案に、二人は目を見開いた。

「いいの?」

 恵太は新の様子を伺うように尋ねる。
 それは、荷物を取ってきてもらうことへの遠慮や申し訳なさに対する「いいの?」ではない。
 恵太の荷物を取りに行くということは、すなわち教室に行くということだ。

 新がもう半年近く足を踏み入れていない、教室に。

 そういう意味での「いいの?」だった。そんな恵太の心配の眼差しに、新はちいさく頷いて答える。

「大丈夫……、たぶん」

 自ら退路を断った新。
 それでも向けられる恵太からの戸惑いの眼差しは一旦置いておいて。
 その横で荒牧先生があらあら、って感じで口を押さえ、新に生暖かい眼差しを向けてくる方が気になる。

 緊張や恥ずかしさでいたたまれなくなり、新は逃げるように保健室を飛び出した。




 一段ずつ階段を上がり、一歩ずつ学生棟へつながる渡り廊下を進む。

 右足を出して、左足を出す。そんな当たり前な行動が、自分の身体とリンクしていない。
 そんな状態のまま、新は久しぶりに学生棟に足を踏み入れた。

 廊下で輪になって駄弁る女子たちをよけ、突然走ってきた男子とぶつかりそうになりながらも、新は身体を小さくしたまま先へ進む。
 今まで特別棟から眺めるだけだった学生棟を歩く自分に現実味を感じられず、初めてレジャーランドに来たこどものように、気持ちがふわふわしていた。

 しかし、教室扉の上部に刺さった「2年1組」の札が目に入ると、新の足はピタッと止まった。

 その教室は恵太のクラスであり、新のクラスだ。

 恵太の席の場所は知っている。

 だから、教室に入って、荷物を持って出ればいい。
 それだけでいい、と新は何度自分に言い聞かせても、新の足は教室へと踏み出せなかった。

『見てみろよ。みんな、なんでお前がここにいるんだって顔してるぞ』

 頭の中で声がする。
 顔をあげると、教室の中の数人が新の存在に気づいており、なにか不思議なものを見るように、ちらちらと新を見ていた。

 新の背中にひやりと汗が垂れる。

 逃げ出してしまいたい。保健室に戻りたい。

 だけど、佐和くんの荷物を持って行かないと……。くそ、なんでぼくは、こんなこともできないんだ。

 気持ちばかりが焦るが身体が追いつかず、新はズボンの裾を握り、乱れた呼吸の中、必死に息を吸う。

『だから言っただろ。ここに、お前の居場所は……』
「どした?」

 そのとき、新の影にぬっと人の影が重なった。
 顔をあげると、浩介が首をかしげて立っていた。

「あ、えっと……」

 口を開けたのんびり顔の浩介を前にして、新の緊張はピークに達した。
 浩介より背の低い新はキッと浩介を睨みあげ、冷たく言い放つ。

「ケガした佐和くんの代わりに荷物を取りに来ただけ。そこどいてくれる?」
「……は?」

 なにやってんだ、ぼく!!?

 敵意むき出しの顔をむけながら、心の中で大量の冷や汗を流す新。

 突然、攻撃的な口調を受けた人間のリアクションは相手を不審な人物と認識して避けるか、同様に攻撃的に立ち向かうか、の二通りだ。

 しかし、浩介はまったく気にしていない様子で「まじか」と声を漏らし、恵太の席に向かった。

 机の横にかけられたカバンを広げ、引き出しの中の教科書を乱雑にカバンに詰め込むと、風呂敷包みを背負った泥棒のように、ひょいと肩にかけてもどってきた。

「俺も行くわ、保健室」
「え、ちょ……」

 そういって先に歩き出す浩介。
 新は遠のく浩介の背中を見つめているうちに我に返り、慌てて後を追った。



 掃除の時間が終わり、今は帰りのホームルーム中。

 生徒たちはみんな教室に戻っているため、さっきまでとは打って変わって廊下には誰もいない。
 新と浩介。二人の足音だけが不規則に重なる。

 静かだ。静かすぎて、気まずい……。
 話しかけた方がいいのかな。でも……。

 ちらりと浩介の横顔を見ると、頭の中で声がした。

『やめとけって。お前なんかが話しかけても無駄だか……』
「最近さ」
「……え?」

 急に浩介がしゃべりだし、新は顔をあげた。

「最近さ、恵太と猫にエサあげてるんだって?」
「……そうだけど。だから?」
「いいなぁ。俺、強めの猫アレルギーだから近づけないけど、猫好きなんだよね」
「そ、そうなんだ……」

 新の返事が宙に浮いたまま、会話は終わった。
 そこへすかさず、頭の中の声があげつらい、高らかに笑う。

『はい会話途切れたー。やっぱりお前は人と会話するセンスがな……』
「南雲はさ」

 また急に浩介がしゃべりだし、頭の中の声は苛立ち、わなわなとふるえる。

『こいつずっと会話被るんだけど!』

 そんな新の頭の中の様子を知らない浩介は、前を向いたまましゃべりだす。

「南雲は、恵太のことどう思ってんの?」
「どうって?」
「俺は好きだよ。あ、もちろんラブじゃなくてライクのほうだけど」

 すると突然、浩介は立ち止まり「あっ」って顔で振り返る。

「もちろんとか言うのは違うか。ご時世的に」
「う、うん……」
「俺、デリカシーはへその緒切ったときに一緒に取れちゃったからさ」

 それだけ言うと、浩介はまた前を向いて歩きだす。

『どういう意味だよ』

 冷静にツッコむ頭の中の声を無視して、新は自分に問いかける。
 自分は、恵太のことをどう思っているのか。

「わからない。けど」

 新は恵太のことを思い出す。
 猫にエサをあげる恵太の横顔を。
 猫を撫でる恵太の嬉しそうな顔を。

 そして、恵太が優しい人だってことを。

「いい人だなって思ってる」
「それ、恵太も言ってた」

 浩介は歩きながら顔だけ振り返り、ニッと笑った。

「南雲はいいやつだって」




 保健室の扉を開けカーテンをめくると、荒牧先生の姿はなく、恵太はベッドに退屈そうに寝転んでいた。

「恵太マン、新しい顔よ」
「あぶねえなぁ」

 浩介は恵太の顔を目掛けてカバンを投げるが、顔にあたる寸前で恵太はキャッチした。

「じゃあ、達者でな」
「さんきゅ」

 恵太の様子を一目見て浩介は満足したのか、踵を返して歩き出す。

 心配や労りの言葉こそないが、二人が深く通じ合っているのが新にもわかった。

 保健室を出る間際、浩介は「そうそう」と思い出したように振り返る。

「南雲はお前のこと嫌ってなかったぞ」
「え」

 急に名前を呼ばれた新は面食らい、隣で恵太はものすごい勢いで起き上がった。

「なっ?! おまっ、言うなよ!」

 恵太の叫びを無視して、浩介は教室へ戻っていった。

しん、と静まる保健室。
 新は迷ったが、聞かずにはいられなかった。

「えっと、何の話?」

 恵太は目をそらし、気まずそうにこめかみをかいているが、観念したようにぼそぼそと話し出す。

「この間、踏み込んだこと言い過ぎたかなと思ってさ」
「この間」

 新はつぶやくと、脳内に恵太と最後に会った日の光景が浮かんだ。
 恵太から本当は教室に来たいんじゃないかと聞かれた時のことを。

「南雲が教室に来ないのはたぶん、俺には分からない南雲の問題があるんだと思う。けど、だからってなにもしない理由にはならないんじゃないかと思ってさ」
「·······色々気使わせて、ごめんね。でも、大丈夫だから」

本当は大丈夫なことなんてひとつもなかった。
 でも、今の新に恵太は眩しすぎた。

新はお大事に、と告げて踵を返す。しかし、恵太は腰を浮かせ新の腕を引っ張る。

「うわっ·····」

新はバランスを崩し、引っ張られるまま恵太に覆い被さるように倒れた。

「体幹弱すぎか」
「ごめんっ··········」

恵太の微笑みが、新のまつ毛をくすぐる。
目と鼻の先にある恵太の顔に、新の心臓が静かに暴れる。
 新は直ぐに起き上がろうと腕に力を込めたが恵太は手を離さない。

「南雲が猫にエサをあげる理由聞いてさ、あの時、実はすげー感動したんだよ」
「……」
「だから俺も、南雲みたいに『見て見ぬふり』したくないと思ったんだ」

恵太の言葉の一つ一つが、新の胸の奥で熱を帯びていく。
新がなにも言えずにいると、恵太はふいに我に帰ったように、恥ずかしそうに目を泳がせる。

「……っていうのは、まぁかっこつけた理由で。ふつうに南雲と話すの楽しいからさ、夜だけじゃなくて昼間も話せたらいいなと思っただけだったり、しちゃったり、なんだったり……」
「……なにそれ」

 だんだんと声が小さくなっていく恵太が可笑しくて、笑みがこぼれた。
 笑っているうちに、胸の奥の熱がだんだんと上がってきて、目頭まで熱くなってきた。
このまま泣いてしまうと、恵太に涙が落ちてしまう。
 新は声が震えないように口の中で頬を噛みながら、必死に言葉を紡ぐ。

「ぼくは……」

 その時、外から校舎を揺らすほどのエンジンの駆動音が聞こえてきた。
 駆動音がだんだんと近づいてきて、タイヤが滑る甲高い音がキキッー、と響くと保健室の外に一台の真っ赤なスポーツカーが停車した。
 新と恵太が口を開けて見ていると、中から大きなサングラスをかけた荒牧先生が白衣をはためかせて降りてきた。
陽光を反射するスポーツカーの光沢が、荒牧先生の後光と化し、新たちの目を眩ませる。

「おまたせって、お取り込み中?」
「い、いやっ·····!」

新は慌てて立ち上がる。

「乗って。病院送っていくから」
「そんな大げさにしなくても」
「なに言ってんの。備えあればなんちゃらよ」

 荒牧先生の勢いに押されるまま、恵太は荷物を持って立ち上がる。
 その時、恵太の鼻に詰めていたティッシュがぽろっと落ち、雫のような鼻血がたらりと垂れた。
 荒牧先生はそれを見て、一瞬の迷いもなく、白衣の袖で恵太の鼻血を拭った。

「あ」

 純白の白衣についた赤い染みに新は驚いたが、荒牧先生はまったく気にしていなかった。
 やっぱり、荒牧先生はすごい。

「早く行くよ」
「んがっ」

 新しいティッシュを鼻に詰められた恵太を車に乗せ、荒牧先生が運転するスポーツカーは光の速さで走り去っていった。





「南雲さ、お前のこと好きっぽくね?」

 中学生のころ。職員室へクラスの提出物を届けた新が教室に戻ると、そんな声が聞こえてきた。
 新は教室の外の壁に身体をよせて、耳を澄ます。

「最近ずっと一緒にいるしさ、お前を見る南雲の目が、こう、キラキラしてるのよ。恋する乙女チックな」
「あいつ男だろ」

 そういってケケケ、と笑う男子たち。
 だが、一人の男子は嫌悪感をまとった声でぼそりと呟いた。

「そういうのマジ無理。きめえから」

 それは、新が想いを寄せていた男子の声だった。
 




 背中を押されて我に返ると、黒猫が身体を擦りつけ、そのままごろんと地面に寝転んだ。
 撫でてもいいけど? って顔で見てくる黒猫に、新は苦笑しつつ毛並みに沿ってゆっくりと撫でる。

 思い返しても、あのころは浮かれていたな、と自分でも思う。

 叶わない恋だと分かっていながらも、この恋だけは特別なんじゃないかと思い込んでいた。

 そんな思い上がりが、彼を傷つけていたとも知らずに。


 あの日から、新は想いを寄せていた男子と距離を取った。

 そのうち、友だちとも距離を取るようになり、新は一人で本を読んで過ごすことが増えた。

 好きな人には幸せになってほしい。
 でも、ぼくが好きになることが、好きな人にとって不幸なことなら。

『お前は誰のことも好きになるべきじゃない』

 その時、頭の中で声がした。思い返せば、これが初めて頭の中の声を聞いた時だった。

 新は羨ましかった。
 普通と呼ばれる人たちが。
 新は妬ましかった。
 普通の恋愛ができる人たちが。
 新は悔しかった。
 普通じゃない、自分の頭が。

 ぼくだって、ちゃんと女子を好きになりたいのに……。


 クラスメイト達とともに過ごすだけで、蓄積されていく負の感情に疲弊し、新は教室に行かなくなった。
 そのとき、鼻の下が黒い模様がついた猫が新の足に顔をこすりつけた。


──こいつはちょび。鼻の模様がちょび髭っぽいだろ。


 そういって笑っていた恵太の横顔を思い出す。


──見て見ぬふりしたくないと思ったんだ。


 恵太の気持ちに答えたい。それに、新自身もこのままじゃいけない、という思いもある。
 でも、新学期や進級するたびに気持ちを奮い立たせて教室に行くが、長くはもたなかった。


 一人でいるよりも、他人と一緒にいる方が、孤独を強く感じるから。


 しかし、孤独の闇に溺れた新の心を、恵太の言葉が優しく照らす。


──俺がいるから大丈夫だって!


 海に差し込む陽光のように、まぶしくも、それでいて確かな輝きに、新はそっと手を伸ばす。

『本当に、それでいいんだな?』

 頭の中の声は新に問う。

 頭の中の声は、自分を否定する気持ちであり、これ以上傷つきたくないという自己防衛の本能だと、荒牧先生は言っていた。

自分で自分を傷つける。他人に傷つけられるよりもマシだから。
 そんな不器用な防衛本能も紛れもない、自分の気持ちだ。

 だから、新は自分の気持ちに正直にうなずく。

「うん。今度はうまくやるよ」
『勝手にしろ』

 吐き捨てるように言うと、頭の中の声は聞こえなくなった。
 音域が不安定で、しゃがれた声変わり時期のようなその声は、少しだけ穏やかだった。

 新はちょびのあごをしずかに撫でた。




 次の日の朝。

 昇降口の前に立つ新は校舎へと吸い込まれていく生徒たちの中で足を引きずる恵太をみつけた。
 恵太も同時に新を見つけたようで、新に手を挙げる。

「おはよう」
「おはよ」

 新は恵太のとなりに並び、校舎へと入る。靴をはき替え、廊下に立つ。
 いつもなら新は特別棟がある右側へと進むが、新は恵太とともに左側へ進んだ。

 あれ、という顔のまま歩く恵太。階段につくと新は右肩を差し出した。

「さんきゅ」

 恵太は新の意図に気づき、新の肩に手を置く。

 二人は慎重に、一段ずつ階段を上る。途中、光り輝くほこりが舞う踊り場で一呼吸を置いて、また一段ずつ上った。
 階段を上りきり、恵太の手が離れても、新は恵太のとなりを歩き続けた。

 そして、2年1組の教室の前についた。

 恵太はそのまま教室に入っていくが、新はその場で立ち止まる。

 その瞬間、足から根が生えたように足を踏み出せなくなった。
 呼吸が浅くなる。周りの人の視線が痛い。ざわざわ、と聞こえる声たちが、すべて自分に向けられたもののように感じてしまう。

「南雲?」

 教室の中からこちらを振り返る恵太を見て、新は忘れていた呼吸をはじめた。

 大丈夫。
 自分にそう言い聞かせ、新は右足をあげ、一歩を踏み出す。

 その時、廊下の向こうから慌ただしい足音が近づいてきた。

「やばーい! 遅刻遅刻ぅ!」

 曲がり角で転校生とぶつかる食パンをくわえた女子高生のような甘い声色で、なにも口にくわえていない浩介が走ってきた。

 浩介は教室の扉の前に立つ新の存在に気づきながらも、そのまま新もろとも入室してくる。

「わっ、おっ、と……」

 浩介にタックルされた新は、さながら歌舞伎の見栄きりのように片足でぴょこぴょこと前進する。
 新はなんとかバランスを崩さずに持ちこたえ、転倒を免れたことに安堵しつつ姿勢を正す。

「あ」

 前を見ると、さっきまで遠かった恵太が目の前に立っていた。

 新は気づかないうちに、約半年ぶりに教室に入っていた。しかも、かなり目立っている。
 そんな新の姿を見て、恵太はぷ、と吹きだし、続いて新も吹き出した。

「半年ぶりの教室登校がそれかよ」
「しょうがないじゃん」

 それからは新の笑い声につられて、恵太がさらに笑いだし、恵太の笑い声につられて、もう新がもっと笑って。

 次第に二人の笑い声は教室中に響いた。

 それでも新は笑った。
 誰の目も気にならないほどに、新は嬉しくて、楽しかった。

 新は笑いすぎを理由に、目尻に溜まった涙をぬぐった。


 始業のチャイムが鳴り、新は自分の席へと向かう。

 あちこちから聞こえる席を引く音たち。そんな轟音に耳を痛めながら、新もまた席を引き、自分の席に座った。

 椅子の固い座り心地が懐かしくて、新はなにかを確かめるように、卓上をゆっくりと撫でる。
 新は斜め前に座る恵太の後頭部を見ながら、心で唱える。
 

 今度こそ、浮かれないように。気づかれないように。


 新は高鳴る胸を感じながら、窓の外を見る。


 雲一つない、からっと晴れた秋空だった。