22時。
恵太はキャットフードを入れたリュックを背負い、部屋を出る。
敵の城に潜入した忍びのような中腰の姿勢で、足音を立てないよう、階段を一段ずつ慎重に下りていく。
 築20年近い我が家はあちこちにガタが来ており、廊下や階段なんかは踏めばきぃ、と音が鳴って軋む部分がいくつもある。
恵太はその箇所を避けながら、歩みを進める。さっき風呂に入ったばかりなのに、額にじんわりと汗が滲む。
 玄関にたどり着き、スリッパに足を通す。すると。

「恵太ー。お姉さまとゲームするぞー」

 二階から奏の声が聞こえ、ドアがばたんと閉じる音がした。それらの音を確認し、恵太は静かに家を出た。

こうすることで、一階にいる両親に『恵太は奏と一緒にいる』と思わせることができる。
いわゆるアリバイ作りだ。

 夜風が緊張で汗ばんだ身体を一気に冷ます。
秋の気配を帯びていた夜風も、いつしか涼しさよりも寒さが増してきた。冬の匂いはまだしないけど。
 そのとき、ポケットの中でブブッとスマホが震えた。

『コンビニでこれあったらやってきて。一回でいいから』

 奏から送られてきたURLを開くと、最近流行りのゆるふわマスコットのくじの特設サイトが開いた。
 A賞は超巨大ぬいぐるみ。その他はマグカップやアクリルキーホルダーなどが当たるくじで、値段は一回……。

「は、800円?!」

 思わず叫んでしまい、恵太はすぐに家から離れた。
 さすがに高い。あまりにも高い。一回でいいからって、一回もしたくない。

『いやだよ』

 そう入力したところで、恵太は文字をすべて削除して、近くのコンビニへ向かった。
 今の恵太は奏に逆らえない。いや、今までだって逆らえたことはないけども。


 少し前のことだ。
 新と猫のエサやりを初めて一週間が経った頃。家を出ようと玄関に手をかけたところで、母親にみつかった。

「どこ行くの?」

 母親の冷たい視線が、恵太を捕らえて離さない。

「えっと……」

 恵太は困った。説明がめんどくさいし、どんな理由を述べたにせよ、夜遅くに出歩くなんて、と怒られるに決まっている。
 すでに母親の背中からは怒りのオーラが滲み出ている。
 恵太が口をもごもごさせていると、後ろから奏が顔を出していった。

「私がパシったの。恵太、また私のアイス勝手に食べたんだよ。まじ最悪。ほら、はやく買ってきて!」
「ちょちょちょ……」

 母親譲りの剣幕で恵太を家から追い出し、奏は玄関をばたりと閉じた。

 なんだったんだ、今の……。

 夜道に放り出され、放心状態の恵太。 そのとき、ポケットの中でスマホがふるえ、恵太は我に返った。

『毎日10分マッサージ』

 奏からの短いメッセージを読んで、奏は自分を庇ってくれたのか、と察した。

「馬鹿姉のくせに、やるじゃん」

 ありがとう、と送るのは照れくさくて、それっぽいスタンプを探していると、奏からメッセージが来た。

『彼女できた??』

 恵太はチッ、と舌を鳴らし、中指を立てたパンダのスタンプを返した。

 彼女なんて、できたことねえっつうの。

 そんな日を思い出しながら、恵太は千円札を差し出し、百円玉二枚を受け取る。

「一回ですね。どーぞ」

 コンビニ店員は気だるそうにくじが入った箱を差し出す。
 あの日から、奏はアリバイ作りに協力してくれているが、最近は要求がエスカレートしている気がする。

 もしかしたら悪魔との契約だったかもしれないな、と思いつつ、恵太は真っ暗なくじ箱の穴へ手を突っ込んだ。




 外灯の下。

縁石に腰かけていると、野良猫たちがちらほらと集まってきた。
 猫たちは恵太の顔を覚えており、いつもならエサをよこせとすりよってくるのに、今日は一定の距離を開けて様子を伺っている。
 中にはしっぽをぶわっと膨らませて威嚇してくるやつまでいる。
 すると、足音とビニール袋の揺れる音が聞こえてきた。猫たちも耳をぴんと立て、音のする方向を見つめる。

「·······なにそれ?」

 夜の闇から現れた新は、恵太のとなりに鎮座する一等賞の特大ぬいぐるみを指さした。
 高さは約1メートル。重さは5キロぐらいある。ここまで持ってくるだけで、腕が悲鳴を上げている。
 そのとき、一匹の猫が特大ぬいぐるみに対し強烈な猫パンチをくらわせた。

「やめろよ! 姉ちゃんに殺されるだろ」

 恵太はあわててぬいぐるみを抱きかかえる。
 恵太が汚れを掃っていると、エサを用意していた新は「姉ちゃん?」とこちらを振り返った。

恵太はこれまでのうっ憤を晴らすように奏の恐ろしさや憎たらしさを語ったが、新は時折吹き出しながら、微笑ましそうに聞いてきた。

「なにその顔」
「べつに。お姉ちゃんと仲いいなぁと思って」
「仲良くねえって。まじで早く出ていってほしいもん」

 奏は引っ越しシーズンを迎える来年の春までに大学近くで一人暮らしをしたいようで、ことあるごとに父親を説得しているが、話し合いは難航している。
 父親が首を横にふるたびに、八つ当たりがこちらに来るので本当に勘弁してほしいと恵太は思っていた。

 そんな恵太の不満をよそに、新はのほほんと呟く。

「いいなー。ぼく一人っ子だから。兄弟なら……、ぼくもお姉ちゃんがいいな」
「浩介みたいなこというなよ。あ、浩介ってうちのクラスの……」
「中井浩介くんでしょ。知ってる」

 恵太はそっか、と何気なく答えたが、そういえば新も同じクラスの一員だったと改めて気づいた。

 忘れていたわけではないが、新とは教室で一緒にいる時よりも、ここで過ごす時間の方が記憶に新しい。
 というよりも、新が教室にいたときの記憶はほとんどない。だから、クラスの誰かにいじめられていたようなこともないはずだ。
 新が教室に来なくなったのは、そういうわかりやすい、ありきたりな理由ではないと思う。

 だからこそ、考えてしまう。

 新はどうして教室に来ないのか。
 これからも保健室登校を続けるのか。

 恵太は新から顔を反らし、首を振る。

こんな大事なこと、他人が興味本位で聞いていいことじゃない。

「あ」

 そのとき、ぺろぺろと舐めた手で顔を洗う白猫が目に止まった。
 目を閉じ、懸命にごしごしと顔を洗う姿に癒されていると、手が当たるたびにぴん、と立つ耳に違和感を覚えた。

「こいつ、耳……」

 それは明らかに事故などの自然なケガではなく、人の手によって耳の先が切り取られているようだった。
 耳を切り取るなんて、もしかして。

 虐待、とか?

 そう考えた瞬間、恵太の脳内にはぎらりと光るハサミを持つフードを被った人間が猫に手をかける姿が浮かんだ。
 虚像の虐待犯に吐き気を催すような嫌悪と、激しい怒りをがぐわっと燃え上がる。

そんな内心穏やかではない恵太の横で、新は近づいてきた白猫をそっと撫でて言った。

「これは地域猫の証だよ」
「地域、猫……?」

 予想外な答えに首をかしげる恵太に、新は「ぼくも聞いた話なんだけど」と前置きを挟んで続ける。

 地域猫とは、飼い主はいないが、放置されている野良猫とはちがい、地域の人々に見守られている猫のことをいう。
 猫は非常に繁殖能力が高く、一度に20匹以上の子猫を生む。
 しかし、そのうち大人まで成長できるのは半数以下。中でも離乳前の子猫のまま、亡くなってしまうことも大いにあるという。

 これ以上、悲しい命を増やさないために動物愛護団体や日本各地のボランティア団体は野良猫に不妊手術を行っており、不妊治療をうけた目印として猫の耳をカットしているという。

「つまり、耳をカットされた猫は、不妊手術済みの地域猫ってこと」

 よく見れば、ここにいるほとんどの猫は耳がカットされていた。なぜ今まで気がつかなかったんだ、俺。

「それ、だれから聞いたの?」
「前にこのあたりを見回ってた保護猫団体の人と会ってさ。すごい押しが強いというか、圧がすごい人だった」
「ふーん」
「こうやって決まった時間にエサをあげることも、地域猫の活動の一つなんだ。エサを置きっぱなしにすると衛生的にもよくないし、この子たちに『人間はエサをくれる存在だ』って思ってもらえれば、人間に慣れて、健康管理もしやすくなるんだって」

新は誇らしげにいうと、エサが無くなった紙皿を回収していく。

「南雲はなんで地域猫活動をはじめたの?」
「地域猫活動をしようって、わけじゃなかったんだけど。一匹の猫にエサをあげてたら、ほかの猫も集まるようになって、いつのまにか、っていうか、ずるすると、というか……」

 新はあはは、と頭をかく。
 エサを持っていくたびに増えていく猫に驚く新の姿を思い浮かべて恵太は笑った。
 紙皿をビニール袋に入れ、紐を縛りながら新は続ける。

「見て見ぬふりはしたくなかった、って感じかな」

 よし、とつぶやき、新は袋をカバンへとしまう。
 新の着飾らないまっすぐな言葉が、夜風とともに恵太の胸を通り過ぎる。

「えらいなぁ、新は」

 恵太はぬいぐるみを背負って立ち上がり、新の頭をよしよしと撫でる。

 新の頭はふわふわでもふもふ。
 猫のすべすべとしたなだらかな毛並みとは違った、落ち着く触り心地が癖になっていた。

 しかし、学校では絶対に触らせてくれない。

 あれから移動教室で特別棟に行った時や、帰り際に昇降口で新を見かけると、恵太はふわふわな新の頭に引き寄せられるように近づいた。
 恵太が頭を撫でようと腕をあげた瞬間、センサーが反応したように、新は飛び跳ね、恵太から距離を取る。

 そして、ぎろりと冷たい視線を突き刺し、去っていく。
 
 でもなぜか、猫にエサをあげる間は、新を撫でることができた。

 学校では撫でてはいけない理由も、ここでなら撫でていい理由も知らない。
 だって、聞いても答えてくれそうにないし。
 だけど。

「もうっ……」

 頭を撫でられている間、新はくしゃっと顔を歪めて嫌がるそぶりを見せるけど、口角がほんの少しだけ上がっていることを恵太は知っている。

 天邪鬼で、素直じゃない。

 そういうところも猫そっくりだなと、恵太は心の中で笑った。



 次の日。

 恵太は一日中、新の席ばかり見ていた。
 授業中は空席。休み時間になると近くに集まった女子が椅子に座ったり、隣の席のやつが探し物のために引き出しの中のものを全部置いたりしている。
 だけど、次の授業が始まるころには机の上はきれいになっているし、椅子もきちんと元の位置に戻っている。

 みんな、そこが公共のフリースペースではなく、誰かの場所であることは分かっているようだった。

 でも、その誰かが南雲新だということをみんなは覚えているのだろうか。

「南雲ってさ、いつから教室きてないんだっけ」
「4月は来てたと思うけど。絡みなかったし」

 浩介は興味なさげに呟くと、自販機で買ったアセロラジュースを飲み干す。

「なんで?」

 半年以上も教室に来ていないクラスメイトに興味はないが、恵太がそんなクラスメイトについて尋ねてくることに、浩介は興味があった。
 ほのかに香る、アセロラ風味の質問に、恵太は「別に」と無味の返事で返す。

 恵太は夜に新と会っていること、一緒に猫にエサをあげていること浩介に話していない。
 とくに理由はないが、強いて言うならば、二人だけの特別な時間、ということにしておきたいから。そんな感情に、恵太自身も気がついていない。

「逆にさ、なんで今まで気にしてこなかったんだろって」
「絡みないからでしょ」
「絡み絡みうるさいな」
「……絡みってのは、重要なんですよ!」

 謎にスイッチが入った浩介は颯爽と教壇にあがり、黒板に勢いよく『絡み』と書きなぐり、鼻が詰まったような声で話し出す。
 ほかのクラスメイトはちらりと浩介を気にして、すぐに自分たちの世界へともどっていく。
 みんなはもう、浩介のこういった発作的行動に慣れていた。
 そんなクラスの日常を目の当たりにし、浩介は顔の良さで許されているところがあるなと恵太は改めて思った。

「えー、いいですか。絡みというのは私たち学生にとって非常に重要なわけであります。クラスメイトなんて言っても、同じ年に生まれ、同じ学校に通い、同じクラスになっただけの他人の寄せ集めです。かき揚げと一緒です」
「かき揚げ?」
「気の合う人、合わない人はもちろんいるし、気が合う人同士でも、絡みがなければまともに言葉を交わさないまま、進級して別のクラスになって今後一生話さないなんてことだってあるでしょう」
「まぁ、たしかに」

 浩介は再び黒板に向き直すと、大きく腕を振って『人』という字を書きなぐる。
 恵太はここでようやく、浩介が誰のモノマネをしているのか理解した。

「えー、人という字は、人と人が支えあって……ません! これは一人の人間が立っている姿です。人間はそれぞれ、独立して生きているのです」

 浩介は『人』のとなりにもう一つ『人』と書く。

「そして、運命の赤い糸、という言葉を知っていますか? ほかにも人と人を縁で結ぶという言葉もあります。人はみなそれぞれ、誰かとつながるために、体中からこう、うじゃうじゃあっと糸を出しているのです」

 そういうと、浩介はそれぞれの『人』からあちこちに波線を引いていく。

「気持ち悪っ」

『人』から伸びたイソギンチャクの触手のような糸は、となりの『人』から伸びた糸と重なる。
 その箇所を浩介は力強く、何度も円で囲った。

「ここ! ここが重要!」
「うるさ」
「最初はただ重なっただけだったけど、それが次第にひっぱっても解けなくなっていき、いつしか完全に結ばれる。縁で結ばれる前段階、それこそが『絡み』というわけです!」

 以上! と浩介はチョークを勢いよく置き、そのまま教室を出ていった。

「どこいくんだよ!」

 とりあえずツッコんでみたが、浩介は帰ってこなかった。

 あの野郎、そのままトイレ行きやがったな。

 恵太は現代アートのようになった黒板を見て、ため息をついた。
なんで俺が……、と思いつつも恵太は黒板消しを手に、恵太は車のワイパーのように腕を振って文字を消していく。
 それでも、チョークが崩れるまで力強く何度も囲った円だけはなかなか消えなかった。

 人から伸びた糸同士が重なり、絡まり、次第に結ばれていく。

 勢いだけの説法だったが、あながち間違ったことは言っていないと思った。浩介のくせに。

 恵太は振り返り、教壇の上から教室を見わたす。
 もうすぐ授業が始まるため、みんなは自分の席について、近くの人としゃべっている。

そんな中、ポツンと空いた新の席が目に止まった。

 南雲は、誰とも絡みがなかったのか。あいつ、意外と面白いやつなんだけどな。

 恵太は新のことを思い出す。

 猫にエサをあげる新の横顔を。
猫を撫でる新の嬉しそうな顔を。
 そして、新が優しいやつだってことを。
 そうか。

「俺はもう、南雲と絡みあるな」

 恵太はいつまでも消えないチョークの跡をそのままにして、自分の席に戻った。





「おいしい?」

 夢中になってエサを食べる猫を見つめほほえむ新。
 そんな新の様子を、恵太は虎視眈々とした目つきで伺う。

 今度こそ。今こそ。今だ。今だった……。

恵太はこれまで何度も、長縄になかなか入れなかった子どもの頃のように、新に声をかけるタイミングを逃していた。
そして何度目かの声かけチャンス。想像上の同級生たちがはい、はい、と声をそろえて恵太の背中を押す。

よし、今だ。今。今!

「にゃぐ、南雲」

 噛んだ。

「なに?」

 しかし、新は気づいていないのか、そのまま返事をした。
 もしくはやさしさでスルーしてくれたのかもしれないが、恵太は気を取り直して続ける。

「あのさ」

 なんで、教室に来ないの?

 さりげなく聞けばいい。
 そう思っても、心が落ち着かず、うまく口が回らない。

「あのさ……」

 そのとき、恵太はとっさに、夜空を見上げた。
 筆を水につけて洗うとき、じんわりと滲みでた墨のような雲が浮かぶ夜空の中で、ひときわ光る白い月。

「今日の月の名前、わかる?」
「月の名前? 三日月か満月とか、そういうの?」
「そうそう」

 新は月を見つめ、うーん、とうなる。
月光を浴びる新の顔はやさしく輝いている。

「えぇ、三日月……、じゃないか。半月かな」
「そう。あれは上弦の月だな。右側が明るい半月は上弦の月。左側が明るい半月は下弦の月っていうんだ」
「へー詳しいね」
「だろ?」
「なんで知ってるの?」
「え」

 恵太は目をばしゃばしゃと泳がせながら、とっさに説明する。

「理科の授業とかでやるじゃん。だからその時覚えてさ……」

 新は恵太の違和感を覚えたのか、目を細めて恵太を見た。
 よく見れば、新の口角は少し上がっていた。

 こいつ、いじってやがる。

 恵太は、新の中で自分がいじってもいい存在になれていることを嬉しかった。
いじるという行為はその人がいじられても怒らない、不機嫌にならないと分かっていないできない行為だと恵太は思っている。
 それに、もし相手が怒ったり不機嫌になっても、それは100%いじった側が悪い。

だからこそ、恵太は信頼した人しかいじらない。クラスでも、浩介だけだ。

 新が、恵太と同じ基準でいじっているのかは分からないが、とにかく恵太は嬉しくて、その嬉しさに免じて、月の名前を憶えている理由を白状した。

「なんか昔、そういうのにはまる時ってあるじゃん? 悪魔の名前とか、神話にでてくる武器の名前調べたりさ……」
「中二病的な?」
「そんな感じ、的な?」

 うわー。自分で言っておきながらめちゃくちゃ恥ずかしい……。

 恵太は急に体が熱くなってきて、シャツを繰り返しひっぱり、胸元に風を送り込む。
 すると、こちらを物珍しそうにじっと見つめる新の視線に気づいた。

「……なんだよ」
「佐和くんってさ」
「うん」
「なんか、すごく……普通だよね」
「……それ褒め?」
「もちろん。いい意味で普通」
「なんだよそれ」

 恵太が不貞腐れたようにいうと、新は楽しそうに笑った。
 普通か。まぁ確かに普通ではあるけど。

「南雲だって普通じゃん?」

 初めてここで会った時は色白で不健康そうだと思ったが、今の新にそんな印象はない。

 笑った顔ばかり見ているからだろうか。不健康な人って笑わないもんな、たぶん。

 そんなことを考えていると、新は恵太から視線を変え、猫のあごを撫でながら答える。

「ぼくは普通じゃないよ」

 気持ちよさそうに目を細める猫。
 普通じゃない、なんて。

「そのセリフもすげー中二病じゃん」
「たしかに」

 新はまた笑った。しかし、さっきとは違い、僅かに寂しさが含まれていることに気づいた。

「南雲は? なんか好きなものとか、はまってたやつとかある?」

 恵太は新の微妙な感情の揺れを感じ、ほとんど無意識に話題を変えた。
 恵太は小さいころから気分屋の姉と過ごしてきたこともあり、人の顔色を伺うこと、空気を読む能力に長けていた。

「ぼくは特に。強いて言えば読書くらい。いや、それでも読書家さんからすれば読んだ本の数とか全然少ないと思うけど……」
「なにその謎の謙遜。どういうの読んでたの?」
「エッセイ、かな」
「エッセイ? なにそれ、題名?」

 聞きなじみのない言葉に眉根を寄せる恵太。

「エッセイっていうジャンルだよ。日記というか、自分の体験とか考えを文章にしたもので、そういうのを読むのがすごく好きなんだ。世界を旅していろんな国の人と交流する話とか、田舎で人と助け合いながら自給自足で生活してる人の話とか。なんかそういう本を読んでると、いろんな人生があるんだなって思えて」

 そういうと、新はこれまで読んできた本のことを思い出しているのか、一冊の本を読み終えた時のように、ゆっくりと息を吐いた。
 本当に好きなんだな。エッセイってやつ。というか。

「意外。なんか南雲って、どっちかというと人間嫌いってタイプだと思ってた」
「どんなタイプだよ」
「いい意味でな」
「……無理あるでしょ」

 新は笑みを浮かべて、立ち上がる。

「別に嫌いじゃないよ」

 小さく呟くと新はおしりを叩いて埃を落とし、エサが無くなった紙皿を回収していく。
 そんな新の姿を見て、恵太は声をかけずにはいられなかった。

「南雲ってさ」
「ん?」

 ふり向く新を見つめ、恵太は考える。

 新は人間が嫌いなタイプじゃない。
 人と話すことだって苦手なタイプじゃない。
 むしろ、その逆だ。新が好きなものはエッセイだけじゃなくて……。

 そう気づいた時には、自然と口が動いていた。

「南雲って、本当は教室にきたかったりする?」

 新は浩介の言う『絡み』ってやつを求めているんじゃないか。

 その証拠に、ほとんど関りがない浩介のことを覚えていた。
 ここで初めて会った時、最初に恵太に気づいたのも新だった。
 交流や助け合い。
 新はエッセイを通じ、他人と関わる人生を夢見ていたのではないか。

 恵太は勝手に真相にたどり着いたような気になって、ごくりとつばを飲む。
 新の返答は二つに一つ。

 教室に行きたい。
 教室に行きたくない。

 そう決め込んでいた。
 だから、そのどちらでもない答えに恵太は反応が遅れた。

「無理だよ」
「……え」

 そういうと、新は荷物を片付け「おやすみ」とほほえみ歩き出す。

 なんだよそれ。

 新の寂しそうな笑顔に、恵太はなぜか腹が立った。

「無理ってなんだよ。あれか、長く休みすぎて気まずいとかそういうやつか? だったら大丈夫だって!」

 歩みを止めない新の背中に、恵太は言葉を投げかける。

「俺がいるから大丈夫だって!」

 なにが大丈夫なのかは自分でもよく分からなかったが、恵太はとにかく叫んだ。


 しかし、新は一度も立ち止まることも、振り向くこともなく、散り散りに去っていく猫とともに夜の暗闇へと消えていった。