遠のく恵太の足音を、新は扉越しに耳を澄ます。
 足音が完全に聞こえなくなると、新は目隠し用のカーテンを静かにめくって保健室の奥へ進む。
 
 窓から入り込む朝の陽光が部屋全体を白く輝かせ、新は目を細める。
 保健室は一般の教室よりもやや広く設計されており、しわ一つない真っ白なベッドが二つ並んでいる。
しかし、部屋の隅には倉庫に片付けるはずの体重計や身長計などの器具類が春の身体測定で使ったまま放置されているので、実際よりも手狭な印象を受ける。これに関しては養護教諭の荒牧先生が悪い。
 そんな荒牧先生はおらず、机の上には『離席中』と書かれた画用紙を三角に折って作られた札が立てられていた。

 新は荷物を床に置き、丸椅子に腰掛け、静かに息を吐く。

 それにしても……。

 なんだ。

なんだ今のぼくのリアクション?!

 新は爪を立て、頭を思い切りかきむしる。
 途中、生まれつきの癖づいた髪が指に絡まり、数本抜けたが気にしている余裕は今の新にはなかった。

緊張してたからって、さすがに塩対応過ぎるだろ!
 せっかく話しかけてくれたのに。
 もっと話を広げろよ、ぼく……っ!!

 新は恥ずかしさで赤くなったり、後悔で青くなったりと忙しい自身の顔を手で覆い、静かに吠えた。

『じゃあ、なんて話を広げるつもりだよ』

 すると、頭の中で声が聞こえてきた。
それはぶっきらぼうで、不機嫌そうな、擦れ気味の声だった。
新はあごに手を当て考える。

「たとえば。お姉さんいるんだね、どんな人? とか?」
『本人とも関わり少ないのに、急に姉の情報聞き出そうとするとか。女好きって思われるぞ』
「うーん……。じゃあ、アイスってなに買ったの? とか」
『アイスなんてどうでもいいだろ』
「じゃあ、なんて言えば」
『そんなの決まってるだろ』

 高くなったり、低くなったり。
 不安定に声色が変わる頭の中の声は、その言葉を最後に消えた。

『お前は、なにも言わない方がいいんだよ。どうせ最後には嫌われるんだから』

そのとき、授業の開始を告げるチャイムが鳴った。
先生が教室のドアを引く音。みんなが席を立つときの椅子が床を擦る音。
それらが混じった轟音が、学生棟からかすかに聞こえてくる。

新は天井を見上げ、耳を澄ます。

聞こえてくるのは秒針が時を刻む音と、金魚が住まう水槽のポンプの駆動音だけ。
それ以外にはなにも聞こえない。聞こえてこない。
 他人の声も、息も、目に見えない感情も、なにもかも。
この静かさに救われた時もある。
でも今は、ここから抜け出したいと思っている。


この広くて狭い、孤独の世界から。




新の一日のスケジュールはほかの生徒と変わらない。
同じ時間に登校して、日中は勉強をして、昼休みにはご飯を食べる。
違うのは時間割がないこと。ほかの生徒が教室で勉強する間、新は保健室や図書室で勉強をする。
図書室も保健室も特別棟にあるため、新は教室がある学生棟には足を踏み入れない。
ただ時折、廊下の窓から学生棟を見つめるだけだ。

 もちろん、帰りのチャイムが鳴れば新も帰り支度をする。
荷物をまとめ、昇降口へ向かう。昇降口は学生棟と特別棟をつなぐ渡り廊下の間にある。
 新は靴をはき替えようとしたとき、学生棟のほうから恵太の声が聞こえてきた。

「帰りにスーパーよっていい?」
「なにか買うのか。佐和・スーパー・恵太よ」
「いつまで言ってんだよ。……あれ?」

 浩介のボケをあしらいつつ、恵太はあたりを見回した。

「なに?」
「いや、誰かいた気がしたんだけど」

 恵太は首を傾げつつも、靴をはき替えて校舎からだらだらと歩き去る。
 そんな恵太と浩介の後姿を下駄箱の陰から新は見ていた。
 まだ間に合うかもしれない。
 ただ一言。朝はごめん、と言えば……。

『もう遅いよ』

 頭の中の声は新の細い希望の糸を、ぷつんと切るように言う。

『お前はもう嫌われてるって』
「……」
『話をしても嫌われる。話をしなくても嫌われる。だったらもう、誰とも関わらない方がいいだろ。まだ懲りないのかよ』

頭の中の声は新に語りかける。
 叱るように厳しく、諭すように優しく、貶すように厭味ったらしく。
 そのうち、だんだんと気分が悪くなり、新は下駄箱に寄りかかって息を整える。

「南雲くん?」

 新が振り返ると、通りすがりの荒牧先生が目を開いた。

「やっぱり南雲くんだった。今帰り?」
「……はい」

 荒牧先生は三十代の女性で、季節を問わずいつも白衣を身にまとっている。
 本人曰く、白衣こそが人類最高の着衣なのだそうで、子どもの頃から白衣を着て働く人生を夢描いていたという。
なので医者を目指したそうが注射が刺せなくて諦め、
 理系の研究職は目指す前から毎日測定器とにらめっこする生活は肌に合わないと諦め、
 結果、消去法で養護教諭になったらしい。……本当かどうかは知らないけど。

荒牧先生は短い髪を耳にかけ、新の顔をじっと見る。しずくの形をしたルビーのピアスがかすかに揺れる。

「また頭の中の声聞いてたでしょ?」
「え」
「顔に書いてる」

とっさに頬に触れる新に、荒牧先生はにやりとほほ笑む。

「過ぎたるは及ばざるがなんちゃら、だよ。考えすぎも体に毒だからね、ってこれ言うの何回目って話だよね」

そういうと、荒牧先生はがはは、と笑った。
荒牧先生は笑うときはいつも豪快に口を開けて笑う。
荒牧先生は自分のことを、白衣を着たいという不純な動機でなった『なんちゃって養護教諭』だとよく言っている。
 だけど、荒牧先生のその豪快な笑いに、新はなんども救われてきた。

「私の方こそ過ぎたるは及ばざるがなんちゃらでしたってことで、また明日ね」
「はい」

 新は荒牧先生に頭を下げ、校舎を出ると強い西日が新を突き刺す。
 
 手で顔を覆い、目を細めると、夕陽に照らされたグラウンドで運動部の生徒たちが汗を流しているのに気付いた。

野球部がバッドで白球を捉える爽快な音。
陸上部が地面を蹴って走る勇ましい音。
テニス部が打ったボールがコートを跳ねる軽快な音。

校舎からは吹奏楽部が楽器のチューニングをする奥深い音色が聞こえる。

 駐輪場からは楽しそうに駄弁っている声が聞こえる。

 あちこちから聞こえてくる、自分とは無関係な青春の音たち。

 それらを聞くたびに新は、学校という場所に自分の居場所はどこにもないと感じる。それでも。

──また明日。

 荒牧先生の一言が、新の心をじんわりと暖める。
 しかし、頭の中の声はそれを許さない。

『荒牧先生だってお前が毎日保健室に来ること、めんどくさいと思ってるよ』

 新は痛む心臓を抑え、つぶやく。

「わかってるよ……」

 地面にできた新の影は、そのまま落ちてしまえそうなほど真っ黒だった。
 



 22時。
 新は部屋着にパーカーを羽織って、家を出る。
 夜の道は退屈だ。新はイヤホンをつけ、プレイリストを再生する。
 流れてきたのは半年前によく聞いていた男性アーティストの曲だった。
 キャッチーなリズムと、独特ながらも共感できる歌詞でバズり、今は誰も聞いていないポップス。
 3分31秒の刹那的な再会に、新は半年前を思い返す。

 あの頃はいつも、誰かを呪っていた。

 自分が学校に行けないことも、友だちが一人もできないことも、自分以外の誰かが悪いと思った。
 そうすることで自分を守っていた。
 だが実際、一人になっても状況はなにも変わらなかった。
 誰のせいにもできなくて、振りまいてきた呪いが一気に自分に返ってきた。
 みんなが悪いんじゃない。ぼくが悪いんだ。
 全部ぼくのせいなんだ。ぼくの……。

『そうだよ。全部お前のせいだよ』

 そのころから頭の中で声が聞こえるようになった。
 頭の中の声は夜の方がうるさかった。
 罵倒、失笑、冷笑、叱責。あらゆる角度から、新の心に刃を立てた。
 新は逃げ出すように夜の町をさまよった。今にして思えは、ここではないどこかへ行ける場所を探していたのかもしれない。

『そんな勇気もないくせに』

 頭の中の声は、わずかな隙も逃さずに新を絶望の淵へたたきつける。
 お腹が空いて、新はコンビニで売れ残りの鮭おにぎりを買った。

『結局食い物買ってるし。お前は死にたいのか生きたいのか、どっちなんだよ』
「知らないよ」

 外灯の下。新は涙をこらえて立ち止まった。
 春風が木々を揺らす。葉っぱのかすれる音さえも自分を笑っているようだと思った。
 すると、ビニール袋になにかが当たる感触がした。

「猫……?」

 白と黒のまだら模様の猫を見下ろす。顔全体は白いのに、鼻の下だけが黒い猫に、新はちょび髭みたいな柄だなと思った。
 そのとき、無意識に目に溜まっていた涙がぽとりと落ちた。
 新は誰に見られているわけでもないのに、急いで頬に伝う雫をぬぐう。
そんな新にお構いなしで、猫は黒い鼻先をちょんちょん、とビニール袋に当てて匂いを嗅いでいる。

「え、食べたいの?」

 猫は当たり前だろ、って顔でビニール袋を爪でひっかく。

「ちょ、ちょっと待って……」

 新はスマートフォンで「猫 おにぎり 食べられる?」で検索。
 いくつかのサイトを見てみたが、人間の食べ物は猫にとって塩分が高いため好ましくないとは書かれてあるサイトもあれば、一つくらいなら食べても問題はない、など意見はまちまちだった。
 食べても問題ないなら、と新はおにぎりの包装を破り、猫の前に置いてみた。
 すると、猫は匂いを嗅いですぐにおにぎりに食らいついた。
 だが、おにぎりをつつむ海苔が固く、思うように噛めていない。
 新はおにぎりを拾い上げ、海苔をはがし、米の塊を一口サイズにちぎってもう一度地面に置いた。
 猫はちゃっちゃ、と音を立てながらおにぎりを食べた。
 猫が食べ終わると、新はまたちぎって差し出した。

「かわいいな……」

 永遠に見ていられる光景だったが、猫の食べるスピードはすさまじく、気がつけばおにぎりはなくなった。
猫は新の靴の上に寝転がり、もっとよこせと甘えてくる。

「もうないんだ」

 それでも猫は動かない。困った。これでは動けない。

「わかったから。また明日持ってくるから」

 新が観念した様子でそういうと、これまでかたくなに動こうとしなかった猫はすんと立ち上がり、一瞥もなく去っていった。

「人間の言葉、わかるのかな」

 少しして、新は吹きだした。

「そんなわけないか」

 新は久しぶりに笑った。
 気がつけば、猫にエサをあげている間は頭の中の声は聞こえなかった。

 そのおにぎりのかけらほどの小さな関わりに、孤独だった新の心は救われた。

 

 外灯の下に着くと、あちこちから猫が顔を出してくる。この半年の間で猫の間でも、新の顔が広くなったようだった。

「ちょっと待ってね」

 音もなく近づいてくる猫たちを制しながら、新は百円均一で買った紙皿に、通販でセール時に大量注文した猫用の缶詰を乗せる。

「どうぞ」

 猫は新に一瞥もくれず、夢中になってエサを頬張る。
 ほとんど毎日エサを持ってくる新に対し、感謝の意はないだろう。
 そんな自由な猫が、新は好きだった。
 
「かわいいな、きみたちは」

 想ったままの素直な気持ちが、言葉となり、さらりと風に乗って飛んでいく。
 新は猫にエサをあげる間は、素直でいられた。
 日中も、というより、人と話すときも、こんな風に素直でいられたら、もっと違う未来を歩めたかもしれないな、と新は縁石とアスファルトの隙間から生えた草をいじりながら考える。

 すると、エサをせがむように灰色の猫がおでこを新の手に押し当ててきて、新は我に返った。

「ごめんごめん」

 新はエサやりの途中だったと思い出し、ほかの缶詰に指をかける。

 そのとき、道の向こうから人の気配がした。

 元々人通りの少ない道だが、それでもたまに通行人はいる。
いつもなら新は気づかないふりをしてやりすごすが、今日はなぜか近づいてくる人影から目を離せなかった。
猫たちもエサを食べながらも、耳だけは足音がする方へ向いている。

「佐和くん……?」

 Tシャツ姿の恵太は「よっ」と手を挙げ、昨日と同じように新のとなりへ腰掛け、リュックをおろす。
 風呂に入ってきたのだろう。ボディソープの落ち着く匂いが新の鼻をかすめた。

朝はごめん。

夕方に言いそびれた言葉を口の中で転がしていると、先に恵太が口を開いた。

「昨日はごめんな」
「昨日?」

 新は昨晩のことを思い返すが、思い当たることがなかった。
 そんな新の顔を見て、恵太は申し訳なさそうに続ける。

「ほら、南雲が買ったエサなのにさ、俺がもらっちゃって。猫がちゅるちゅるするところを、独り占めしたのが悪かったのかなと思ってさ」
「……えぇと?」

 頭の上にはてなマークを浮かべる新に、恵太は眉根を寄せる。

「え? だから、朝怒ってたんじゃないの?」
「怒ってた? ぼくが?」

 新は朝の自分の言動を振り返る。

 話しかけられたけど、そっけない態度を取って、ろくに口も利かずに、目の前で扉を閉めて……。

 そのとき、新の頭上のはてなマークが、びんっと背筋を伸ばし、エクスクラメーションマークになった。簡単に言えばびっくりマークだ。

 たしかにぼく、怒ってる人みたいな反応になってたな。本当はただ緊張していただけなのに。

「怒ってないし、全然気にしてないから」
「まじ? でもさ、一応お返しに俺もキャットフードをあげようかなって思ったんだけど」

 そういうと、恵太はリュックをひざに抱え、中から大きな袋を取り出した。
 スーパーのロゴが印刷された半透明のビニール袋の中身は、どうやら全てキャットフードらしい。

「いや、買いすぎでしょ」
「なに買えばいいのかわかんなくてさ」

 恵太は一つずつ、パッケージを見ながら取り出していく。

「すごいなキャットフードって。国産とかオーガニック仕様とか、いろいろあるんだな。……あ、これ子猫用じゃん。いっぱい買っちゃったよ」

 恵太はぶつぶつ言いながら、キャットフードを種類別に並べていく。

「好きなのどうぞ」
「こんなにたくさん、高かったでしょ」
「ご安心ください。わたくし佐和恵太、子どもの頃のコレクションカード売らせていただきました」

 胡散臭い口ぶりが、テレビショッピングの人みたいだな、と新は思った。

「コレクションカード? いくらになったの?」

 恵太はふふーん、と得意げに人差し指を中指を立て、ピースサインをする。
 2本の指が立っているということは。

「2千円?」

 しかし、恵太はちっちっちっ、と舌を鳴らし、首を振る。

「2万」
「2万?!」

 恵太は新のリアクションが嬉しくて、ぐふふと笑った。

「なんかすごいレアなやつがあったっぽいんだよね。もうやってないからいいんだけどさ」

 恵太は「ここは俺がおごりますよ先輩」と新が持っているエサと同じ缶詰を開けて、紙皿へと置いて回る。
 猫たちは少しだけ怪訝そうに匂いを嗅いだが、いつもと同じエサだと分かると夢中になってエサを頬張った。

「うまいか?」

 そういって恵太は猫の頭をやさしく撫でる。

「かわいいなぁ、猫って」
「そうだね」

 新は猫を見つめながら、横目に恵太の顔を観察する。
 自分のとは違って、すとんと落ちたさらさら髪が目と眉の間ぐらいに垂れている。
 あどけない顔つきだが、シュッとした輪郭と、浮き出た喉ぼとけが大人への成長を感じさせる。
 そのとき、ぐぅ、とすぐ近くからウシガエルの鳴き声が聞こえた。

「腹減ったな」

 恵太の腹の音だった。

 新はふと思い出し、カバンの中からパンを取り出す。中に生クリームとチョコクリームが入った、ちぎって食べるパンだ。

「食べる?」
「まじ? いいの?」
「いいよ」

 新は半分にちぎって、恵太に差し出す。

「アリガトウゴザイマス。カンシャエイエンニ」
「ほんとに感謝してる?」
「してるって」

 恵太はそういってパンを一口かじった。

「うまっ」

 そんな恵太の姿を見て、新は初めて猫におにぎりをあげた日のことを思い出した。
新も恵太に続いて、かじった。
 やわらかいパンの生地に、クリームの甘味が口の中へと広がる。

「うん。おいしい」


 猫たちがエサを食べ終わるのと、新たちがパンを食べ終わるのはほとんど同じだった。

 猫たちはあちこちへ散っていき、二人は紙皿を片付ける。
 きれいに片付けられた夜道で、新は恵太を見つめる。

「またいっしょに……」

 新はか細い声は恵太に届いておらず、新はそのまま続きの言葉を飲み込んだ。
 やっぱりやめよう。
 期待をすれば、叶わなかったときが苦しいだけだから。

「じゃあ。おやすみー」

 恵太は新に背を向けて歩いていく。

「うん。おやすみ」




 翌朝。
 新は鏡の前で制服に着替える。
 くせっ毛を櫛で溶かし、服のシワを掃い、襟元のボタンまで止める。多少息苦しいが仕方がない。
 制服を着崩さずに着ることが、誰にも本性を見せないという新の警戒心の表れだった。
 新にとって、学校とはそういう場所だった。

 新は昇降口で靴をはき替え、左の学生棟へと続く人の流れから脱し、保健室がある特別棟へと足を進める。
 自分の足音だけが響く長い廊下の先。保健室の前に立つ人影を見つけ、新は声を漏らす。

「佐和くん……」

 保健室の前に立つ恵太は、新に気づいてこちらに手を振る。
 しかし、新に手を振り返す余裕はなかった。

「なに?」
 
 昨日の朝と同様に、新は厳しい目つきで恵太を睨む。
 新にとっての緊張は、主に他人から拒絶されることへの恐れ、そして、自分がどう思われるか不安が募ることである。

 嫌われたくない。
 自分の言動や行動で、嫌な思いをしてほしくない。

 そう思えば思うほどに新の中で緊張が高まり、緊張がピークに達すると、ダムが決壊したように、今まで溜めてきたストレスが刺々しい態度となって、あふれてしまう。

 嫌われるかもという不安も、嫌われてしまえば不安は解消される。
 そんな極端で、おかしな行動に出てしまう。

 また、やってしまった……。

 背中に冷たい汗が垂れる。
 しかし、恵太は気にしていない様子で、カバンから包装されたパンを取り出した。
 
「ほら、昨日のパンのお返し。もらったものは必ず返せって姉ちゃんに叩き込まれてるからさ」
「いや……」
「ほら!」

 ぐいっと押し込まれ、新は両手で包むように受け取る。
 それは丸い輪郭に三角の耳がついた、猫の形をしたパンだった。
 二つのマーブルチョコであしらえたくりくりとした目とチョコペンで描かれた三本のヒゲがかわいらしく、新は緩みそうになった口を真横に結びなおす。

「別にいらないけど……、もらってあげる」

 目をそらして呟くと、恵太は息を漏らしてほほ笑む。

「やっぱ、南雲って猫みたいだな」
「……は?」

 そのとき、ホームルームの始まりを告げるチャイムが鳴った。
 恵太はやべ、と慌ててカバンの持ち直す。

「あとさ、今日の夜もエサやり行っていい?」

 廊下の窓はすべて閉まっているはずなのに、爽やかな突風が新の身体を吹き抜けた気がした。

「…………」

信じられなくて。嬉しすぎて。
 新はなにも言わずに、というよりはなにも言えずに、ただこくりとうなずいた。

 すると、恵太は「うしっ!」と小さくガッツポーズをきめ、おもむろに新の頭に手を置き、わしゃわしゃと撫でる。

「じゃあまた夜にな!」
「なっ……?!」

 呆然と立ち尽くす新に、恵太は悪戯っぽく笑うと、廊下の向こうへと走り抜けていった。

 な、なにが起こったんだ……。

 ガラス窓に映るぼさぼさ頭の自分の姿が信じられず、新は恐る恐る、自分の頭に手を寄せる。
 整えたはずのくせっ毛があちこちに飛び跳ねており、毛先が手のひらをくすぐる。

──南雲って猫みたいだな。

 新は猫の形をしたパンを見つめながら、恵太の言葉を思い出す。

「佐和、恵太」

 なんとなく、恵太の名前を口にすると、自然と口元が緩み、笑みがこぼれた。

 一人だけど、独りじゃない……的な。

 そんなくすぐったい想いを胸に秘め、新は保健室の扉に手をかける。