顔をあげると、月が白く光っていた。
 形はほとんど満月だが、よく見れば影がかかっており少し瘦せてみえる。あれはきっと小望月だろう、と佐和恵太は推測する。
小望月とは満月の前日の月のことであり、待宵の月とも呼ばれている。

 ひんやりとした夜風が汗ばんだ首元をすり抜ける。

 待ちわびた秋の気配を感じるとともに、右手に持ったビニール袋がかさかさと音を立てる。
まるで急かされているみたいだな、と恵太は中に入ったハーゲンダッツを恨めしく見つめた。


さかのぼること、20分前。


ベッドに寝そべりスマホをいじっていると、一階から悲鳴にも似た雄たけびが聞こえてきた。
何事かと飛び起きると、家を揺らすほどの足音が階段を上がってくる。

なにかが、くる……?

頭よりも先に本能が身の危険を感じたが、肝心な時に身体は思うように動かない。
結局、逃げるよりも、隠れるよりも先に、とびらが力いっぱい開き、ブラジャーにパンツ一丁の恵太の姉、佐和奏が姿を現した。

「恵太ぁ! 私のスーパーカップ食べただろぉ!!」

 鼓膜が破れるかと思った。

「食べt……、食べました」

 今、舐めた態度をとるのはまずい、とほとんど直感的に敬語へ切り替えた。この防衛本能こそ、全国の弟が持つ能力だと思う。

──いいなぁ、姉ちゃん。おれも姉ちゃんが欲しかった。

 そんなことを言っていた馬鹿な友人たちに見せてやりたい。
 この、風呂上がりでほとんど裸なのに色気を一切感じさせない、女バーサーカーの姿を。
 そんな女バーサーカーこと、奏は選挙演説のごとく、熱く吠える。

「片道1時間半、往復3時間かけて大学に行って、朝から夕方まで授業うけて、そのままバイトまでして、帰ってきたらこれかよ? どんな仕打ちだよ? 私になにか不満でもあるのか?」

 あるだろいっぱい。まず服を着てくれ。
 出かけた言葉を喉の奥へと飲み込む。

「アリマセン。ステキナオネエサマ。カンシャエイエンニ」
「ふざけてんのか」
「すみません」

 すると、奏は濡れた髪をかき上げ、とびらから退いた。お、今日は諦めが早……。

「買ってきて」
「え、今から?」
「今。ナウ。ゴー」

 奏はやけにネイティブな発音で、圧をかけてくる。
 時刻はすでに22時を過ぎている。最寄りのスーパーは閉まっているし、コンビニは歩いて10分近くかかる。
 めんどくさい。めんどくさすぎる。だけど。

「ダッシュ!」

 今の姉に立ち向かうよりはましか、と恵太はリュックから財布を取り出す。もちろん、お金は貰えるはずがない。
 恵太はそそくさと部屋を出て階段を下りていると、背後から奏の声が降ってくる。

「あ、ハーゲンダッツのマカダミアね。なかったらバニラでいいよ」
「いや、いいよって……」

 ふりかえると、見事な仁王立ちで恵太を見下ろす奏の姿があった。

「なに? 文句ある?」

 殺される。
恵太は逃げるように家を飛び出した。


 もともと、スーパーカップは母さんがみんなのために買っていたものだし。
 食べられたくないなら、自分の名前でも書いておけばいいのに。

 そんな、言い返せなかった反論たちが、もやもやと胸のあたりに滞留している。

「馬鹿姉。早く一人暮らしすればいいのに」

 恵太の独り言は夜道に力なく転がる。
 奏は常々、もっと大学に近い場所に住みたい、一人暮らしをしたいとぼやいている。
 母さんは家事が減るからと賛成しているが、父さんは反対している。あれでも父さんにとってはかわいい娘ということらしい。
 恵太は肺いっぱいに空気を吸い込み、胸のもやもやと一緒に吐き出す。

 そのとき、夜道の奥でなにかが光ったのが見えた。

「ん?」

 外灯が放つLEDの白々しい人工的な明かりが照らすその先は自然的な夜の闇が広がっている。
そんな濃い闇の中で二つの小さな光が輝いている。
それはゆっくりと、それでいて静かにこちらへやってくる。あれは……。

「ねこちゃん」

 恵太の甘い呼びかけに答えるように、猫は大きくあくびをした。
 外灯によってさらされた身体は白と黒のマーブル柄で、鼻の下にちょん、とついた黒い模様がちょび髭のようだった。だから。

「おいで、ちょび」

 勝手に名付けた名前を呼び、恵太は中腰で手を差し出しながら近づいていく。
たいてい、野良猫は目があった時点で警戒モードに入り、近づくとさっと逃げてしまう。
 だが、ちょびはまったく逃げようとせず道にごろん、と寝転んだ。

かっわよ……!

あまりの尊さに口を押さえて悶える恵太。
 写真を撮ろうとポケットをまさぐるが、スマホはなかった。

 そうだ。さっき姉ちゃんに脅されて、ベッドに置いてきたんだった。

 この可愛さをカメラに収められない口惜しさに唇を嚙んでいると、ちょびは恵太が持つビニール袋に鼻をあて、スンスンと匂いを嗅ぐ。
そしてまた、ごろんと寝転び、お腹をみせてくねくねと動く。きっと、ご飯を欲しているのだろう。
かわいすぎる……、でも。
恵太はビニール袋を持ち上げる。

「ごめんな。これはあげれないんだ」

 そういうと、ちょびはすっと起き上がり、恵太に背を向けて歩き出す。
 あまりの潔さに、恵太はあっけにとられた。というか。

「言葉分かるのかよ」

 しかし、ちょびは耳もかたむけず、まっすぐに歩いていく。
 恵太は結局飯かよ、とやさぐれ気分で立ち上がると、ちょびが先の三叉路の真ん中で立ち止まっているのに気付いた。
恵太が近づくとちょびは右の道へと歩き出し、また少し先で立ち止まって振り返る。もしかして。

「ついてこい、ってことか?」

 ちょびはなにも答えずに、すたすたと歩き出す。

左の道を行けば家につく。女帝が君臨するわが家へ。
 恵太はかさかさと音を立てるビニール袋を見下ろす。

「パシられて帰るだけじゃ、つまんないよな?」

 ちょびは恵太に一瞥をくれ、すん、と前を向きなおし先を行く。
恵太はちょびに誘われるまま、右の道へと進んだ。



右の道の先は大小さまざまな運送会社が立ち並ぶ地域で、フェンスの向こうで見覚えのある引っ越し業者の犬のキャラクターが印刷されたトラックが一列に並んで眠っている。
ここら一帯は夜になると人の気配が一切ない。
灯りは外灯のみ。耳をすませば虫の音色が聞こえてくるほどだ。

「どこまでいくんだよ」

 恵太の呼びかけを無視して、ちょびは角を曲がり一車線の細い路地へと入っていく。

 そろそろ帰ろうかな。

 そう思いながらちょびに続いて角を曲がると、恵太はうわ、と声を漏らした。

 猫。猫。猫。
 白、黒、ブチ、茶色、灰色。
 車道に、歩道に、フェンスの上に、たくさんの猫がいる。

 なにここ、天国?

 すると、ちょびは道の真ん中をすたすたと歩く。

「あ」

 あたりの猫に気を取られて気づかなかったが、外灯の下に人が膝を抱えて座っていた。
 くるくると逆巻く髪が顔を隠し、後ろ髪もうなじまで伸びていて、性別の判断がつかない。おまけに厚手のパーカーを羽織っているせいで、体型からも判断がつかない。
 ちょびはその人の前に行くと、さっきのようにごろんと寝転びお腹を見せる。

「はいはい、わかったよ」

 その人はビニール袋から缶詰を取り出し、紙皿の上にエサを置く。
 声を聞く限り、男、しかも自分と同じくらいか……?

 そんな推理をしていると、ちょびのじとっとした視線に気づいた。
 その目は間違いなく、お前もこれくらいのエサを用意しろよ、という目だった。
 このやろう……、とすでに恵太のことを忘れてエサを食べているちょびをにらみ返していると、今度は外灯の下に座る人物と目があった。

「……こ、こんばんはぁ。いやぁ、すごい猫いっぱいですねぇ、あはは」

 恵太は目があったのになにも言わずに帰るのは失礼な気がして、てきとうに声をかけた。
 ただ、相手が不審者というパターンもあるので、襲われてもすぐに踵を返して逃げられるようにかかとを浮かせて近づいた。
 戦うよりも逃げる方が得策だ。恵太は逃げ足だけには自信があった。
 平静を装った恵太がにじり寄ると、その人物は目を細め、「佐和くん?」と目を見開いた。

 なんで、俺の名前を……?
 
 戸惑う恵太だったが、その人物が顔をあげたことで、やっと顔を認識できた。こいつは、たしか。

「……南雲?」

 うなずく南雲新を見て、恵太は安堵した。
 不審者だと思っていた相手が顔見知りだったことに。
 そして。

 クラスメイトである新の顔と名前を思い出せたことを。
 
 高校二年生で同じクラスになってもうすぐ半年が経つが、恵太と新はこのとき初めて言葉を交わした。
 というより、クラスメイトのほとんどが新と話をしたことがないだろう。
 仲がいいとか悪いとか、そういう次元の話じゃない。

 新は普段、教室にいない。

 春の頃はなんどか教室にも来ていたが、そのころも一人で過ごしていたと思う。
 そのうち、教室に姿を現さなくなり、誰かから保健室登校になったと聞いた。

 久しぶりにみた新の顔は、春の頃よりは健康にみえた。
 それでも肌は月明かりにも焼けそうなほど白く、眼の下には若干だが隈があった。

「ここにいる猫、みんな南雲のペット?」
「そんなわけ」

 そういって新は笑った。笑った新を見て、恵太はまた安堵した。

 恵太は新から少し離れた場所にしゃがんで、ちょびの食事を見守る。
 魚のほぐし身に食らいつく様は野性的だが、ちろっと出てくるピンクの舌がやっぱりかわいい。
 すると、まわりの猫たちもえさの匂いにさそわれるように寄ってきた。
 新は慣れた手つきで、紙皿にエサを盛り、猫同士で奪い合いにならないように距離を開けて、置いて回る。
 全部のエサを置き終えると、自分の分のエサを食べ終わった茶柄の猫がほかのエサを狙って歩き出した。

「きみはもう食べたでしょ」

 新は猫を抱きかかえ、もとの位置に座る。
 しかし、猫はもっと食べたい、と新の膝の上でもがいている。

「仕方ないなぁ。特別だぞ」

 そういうと新はポケットからチューブ型のエサを取り出し、封をあける。
 猫は目の色を変え、一心不乱にちゅるちゅるとエサをなめる。

かわいぃ……。

恵太はエサを食べる猫と新の姿を見て、ふと思い出した。

──野良猫にエサをあげちゃいけません。

 そんなことを誰かに言われた気がする。もしくはネットかテレビで見ただけかもしれない。
 ただ、そんな常識が恵太の頭に刷り込まれていた。
 人にエサを貰った熊は、自分で狩りをする能力が無くなり、人里に降りて処分されてしまった、なんて話もある。
 だから、なんとなく野生動物にエサをあげちゃいけない道理はわかる。
だけど。

「あのさ、南雲……」
「……なに?」

 恵太の重々しい雰囲気に、新は息をひそめる。
 すると、恵太は飛びつくように新のとなりにこしかけ、ふわふわのくせっ毛に見え隠れする新の目をのぞきこむ。

「俺も、エサあげていい?」

 なにを言われるかと警戒していたからこそ、新は恵太のおねだりに噴き出し、ケラケラと笑った。

「そんな笑うなよ」
「ごめんごめん、もちろんいいよ」

恵太が新からエサを受け取ると、猫もまた磁石のようにエサに引き寄せられ、恵太の膝の上にのってきた。

「はぁ、かわよぉ……!」

猫は舌をちろちろと動かし、夢中になってエサをなめる。エサを求めるあまり、猫は恵太の胸へとのしかかる。
 その重みすらも愛おしい。

「猫、好きなんだね」
「うん。すげー好き。うちペット禁止だか······」

 話の途中で振り向くと、新の背中の上(正確に言えば新の首と胴体のつなぎ目。新が背中を丸め、首を低くすることで背骨が浮き出る場所)に座る黒猫が目に入り、恵太は言葉を失った。

「え、それ」
「なに?」

人間の上に座っているとは思えない、神社の狛犬のような凛々しい黒猫の姿と、新の動じなさが可笑しくて、恵太は笑いをこらえられなかった。

「そんな笑うなよ」

 先ほどの恵太の発言にかぶせた新の言葉を起爆剤とし、二人はしばらくの間、笑い続けた。


猫のエサ舐め。
永遠に見ていられる光景も、エサが無くなればそれまでだ。
 チューブからエサが出てこないと分かると、茶柄の猫はさっと恵太の上から降り、そのまま藪の中へと消えた。
 気がつけばほかの猫もほとんどいなくなっており、新が立ち上がると、黒猫もすんっと地面に降りて、歩いていった。
 なにが目的だったんだ、あの黒猫は。
 それにしても。

「切り替え早いなぁ、さすが猫って感じ」
「さすが?」
「ほら、犬とかと比べて猫って簡単には懐かないイメージない?」
「そうかもね」

 新はふふっと笑いながら散らばった紙皿を片付けていく。
 エサをあげる時も思ったが、その手際の良さから、新が今日や昨日にエサやりを始めたわけじゃないことがうかがえた。

「よくここに来るの?」
「ほとんど毎日、かな。でも、今日はすごく楽しかった。なんか久しぶりに笑った気がする」
「そう」
 
 そういうと、新はほほえみ、まっすぐに恵太を見つめる。

「佐和くんと会えてよかったよ」
「お、おう……」

 新の着飾らない言葉を浴びて、恥ずかしさやら、照れやらで、恵太の思考が鈍る。
 だが、恵太も新と同じ気持ちだったことは確かだった。

「じゃあ、おやすみ」

 荷物をまとめた新は、猫と同じように向こうへと歩き出す。

 聞きたいことがいっぱいあった。
 話したいことがいっぱいあった。

 でも、なにを言うべきか考えているうちに新の姿は遠くなる。

「お、おやすみ!」

 恵太はあいさつを返すのがやっとで、新は夜の闇へと消えた。

 外灯に照らされた道の真ん中に一人たたずむ自分の姿を俯瞰で見ると、なんだか全部が嘘のような、夢のような時間だと思った。
 だが、猫にまみれた空間も、新と交わした言葉も、そのどれもが嘘でも、夢でもないことを結露で濡れたビニール袋が教えてくれた。

ハーゲンダッツは、とっくに溶けていた。



次の日の朝。
 席に着いた恵太が天井を見上げながらあくびをすると、クラスメイトの中井浩介が覗き込んでくる。

「えー、右からC2,C3、C1……」
「歯科検診すんな」

 恵太が口を閉じてツッコむと、浩介はにやりと笑った。
 浩介は無駄に顔が整っており、一見クールな奴に見えるが、実はかなりボケたがりだ。

「眠そうじゃん。夜更かしちゃん?」
「夜更かしっていうか、夜に馬鹿姉が……、やっぱなんでもない」

 恵太は口を閉じたが、遅かった。
 浩介は肩をすくませ、やれやれとわざとらしくため息をつく。

「また姉ちゃんの話か。ほんとお前は姉ちゃん好きだな。佐和・シスコン・恵太よ」
「ミドルネームにするな。そしてシスコンはお前だ。中井・シスコン・浩介よ」

 浩介には二つ下の妹がいるが、もう三年はまともに口を聞いていないという。

 妹はクソ。姉こそ正義。

 妹と仲が悪すぎるあまり、浩介は姉という存在に理想を詰め込みすぎている。
 恵太は浩介を夢から醒ましてやろうと、奏の恐ろしさや憎さを語って聞かせたが、浩介には届かなかった。
 恵太はふと窓の外を見る。

「あ」

各学年の教室がある学生棟と、職員室や理科室などの特別教室がある特別棟が向かいあうように並び、間には中庭がある。
その中庭の向こう、特別棟の一階の廊下を歩く新の姿を見つけた。
恵太はおもむろに立ち上がる。

「どこ行く?」
「ちょっと」
「うんこか? 佐和・うんこ・恵太よ」
「それはただの悪口だろ」

 浩介へのツッコミを済ませ、恵太は渡り廊下を抜けて特別棟へ向かい、階段を駆け下りる。

「南雲っ」

 生徒が大勢いる学生棟とは違い、静かな特別棟の廊下に恵太の声がこだまする。
 恵太が少しだけ乱れた呼吸を整えながら、保健室の扉に手をかけた新に歩み寄る。
昨日のふわふわ頭が、櫛が通った跡がわかるほど、ぺしゃんこに潰れて整っている。
 シャツを入れ、ボタンをきっちりと留める新の制服姿は、みているこっちが窮屈に感じるほどだ。

「なに?」
「あ、えっと········」

特に用はない。ただ、昨日の夜の余韻を分かち合いたいだけだった。
だから、恵太は昨日の夜の続きのように話しかける。

「昨日はありがとな」
「……」
「あ、あの時さ、俺袋持ってたじゃん。あれさ、姉ちゃんにパシられてたんだけど、アイス溶けちゃってさ。あの後またコンビニに買いに行かされたんだよ。まじ最悪だったわ。あはは」

 そういって恵太は笑った。
しかし、新は表情を変えず、いやむしろ、厳しい目つきで恵太をにらむ。

「で?」
「……で? で、ってまぁ、それだけなんだけど」
「あっそ」

 新から向けられる敵意すら感じる視線に、恵太は訳が分からず、つばを飲み込む。

 えぇ? 夜と朝で性格全然違うんですけど……。
 朝は低血圧でテンション低い、とかそんな次元じゃない。なんかまるで切り替わったみたいに……。

 切り替わった。

 そのワードから、恵太は昨晩の会話を思い出した。

──切り替え早いなぁ、さすが猫って感じ。
──さすが?
──ほら、犬とかと比べて猫って。

 立ち尽くす恵太から顔をそらし、新は保健室へと入っていく。

「え、ちょ……」

恵太はとっさに手を伸ばすが、新は恵太に一瞥もくれず、目の前で扉がぴしゃりと閉まった。
 しんと静かな廊下に、拒絶を込めた扉の音の残響がいつまでも残っている。

 そんな新の様子に、夜の闇へと消えていった猫たちの姿が重なる。

 そうだ。猫は。

 
 猫は、簡単には懐かない。