好奇心は猫を殺す――そんなことを言ったイギリス人は嘘つきだ。実際、僕らが信じようとしていた祟りや罪悪感はそこになかったし、死んだ猫なんてどこにもいなかった。路地裏、駐車場の車の下、換気扇の上、夜の塀、コタツの中。やっと尻尾を掴んだと思ってもそれは偽物のウォーリーみたいなハクビシン。世界中どこを探しても死んだ猫なんて見つからない。
 でも、そんな嘘を信じることが僕らには必要だってことは分かってた。水族館でジンベエザメを観るには、ジンベエザメがガラスを突き破ったりしないって信じていたし、クリスマスプレゼントを貰うためにサンタさんを信じていた。ホラー映画やゾンビ映画で絶望的な状況に陥ったときも気付けばこう叫んでる。んおォオォマイガッ……ジーザスクラァイス……神さまお願いですとかそんなとこ。クソッなんてのも違うのは見かけだけでそれもお祈りだ。
 なにかを信じている自分を意識しているか意識していないかは関係なく、なにかを信じることは生きていくために不可欠だった。ただ、なにかを信じることすらも僕らの手には余り過ぎていたから僕らは遠回りした。嘘や皮肉や冗談から始めて、いつか辿り着くかもしれない本当を目指した。神さまや仏さまが与えるはずの祟りや罪悪感を不幸を信じることから始めようとした。生きることそのものが祟りなんていうブラックジョークを実感したかった。そうして自分自身を祟ることが一番の近道になった。
 笑われるんじゃなく笑わせたいなんていうお笑い芸人とおんなじ。あちこちで無作為に理不尽に降りかかる祟りじみた災いよりも、自分で選んだ祟りなら信じられる。祟られるんじゃなく祟らせる。それだけがどうしようもなく唯一で、僕らはそこから始めようとして旅に出た。僕は彼女の祟りになりたかった。



   一日目 

 篠見 結と初めて会った時のことは覚えてない。それぐらい幼い頃から、僕らは仲がよかった。中学校も小学校も幼稚園も同じ。家も番地の下二桁が違うだけで、歩いて十秒、走って五秒、三段跳びの選手が記録を出すついでに行き来できる。目の届かない場所まで遊びに行かせたがらない僕らの親にとっても都合がよく、お互いをうってつけの遊び相手と認識するよりも早く、僕らは自然と親密になった。
 一緒に登下校した。砂利の敷かれた駐車場を自転車で走り回った。家の中や近くの路地でかくれんぼした。ビー玉転がし、ビー玉当て、BB弾集め、中当て。マリオテニスやポケモン、スマブラなんかのゲームもした。家族同士も仲が良くて、近くの河川敷でバーベキューをしたことだってある。焼きそばの食べ残しだけになった紙皿が風に飛ばされて、結の顔にぴったり貼り付いて大笑いしたことも、笑われて泣きじゃくっていた結の顔も、僕は未だに覚えてる。
 進学するにつれて、疎遠になるってことがどういうことなのか、どういう風に溝が入っていくのか、そのことに僕らは薄々と気付いていった。新しい関係を選ぶ機会と選ばれる機会が与えられて、そうやって与えられた新しい関係の中でそれぞれがうまくやっていこうとする。新しい友達、新しい趣味嗜好、新しい今、それを僕らは選び始める。そうして僕らは大抵の場合、大陸のプレートが動くみたいに自分でも気付かないまま変わっていってしまう。
 でも結の場合は少し違った。中学一年の冬休みが終わってから、彼女は突然人が変わったようになった。周囲からはほんの些細な変化だったかもしれないけれど、少なくとも幼いころからの付き合いがある僕にはそう感じた。まるで十二年に渡る冬眠の後で、自分が依り代であることを思い出したみたいな感じだった。徳を積むこと、果たすべき善行に向かって突き進むこと、それが彼女の業になっていた。
 それは子供じみた正義感に似ていたけれど少し違った。潔癖にも似ていて、そこに完璧主義に似たものも混じってる。とにかく不正だとか不平等だとか嘘なんかの匂いを嗅ぎ付けては、麻薬探知犬みたいに結は首を突っ込んだ。彼女のクラスメイトに愛子という子がいた。いとこにジャニーズ関係の人がいた。雑誌のモデルを頼まれたことがあった。年上の男性と付き合っていた。もちろんどれだって子供じみた嘘かもしれない。だけど愛子本人が得意げに話すせいで、周囲の目からは余計に嘘っぽく映り、愛子はすぐにいじめの標的になった。結が愛子の自慢話をどれだけまともに受け取っていたのか、信じていたのか疑っていたのかを僕は知らない。でもとにかく結は、まず愛子に降りかかった不平等を取り除こうとした。誰かに隠された愛子の弁当箱を探したり、愛子の机に書かれていた落書きや黒板にでかでかと書かれていた悪口を綺麗に消したりして、そうやって愛子を庇いつつ親しんだ。相手に恩着せがましく感じられるとたちまちにヒビの入りそうなその関係を、結はうまく繋ぎ留めていた。
 歯に衣着せず、そうして裸になった八重歯そのものみたいな彼女の、角の立つ言動も目立つようになった。『いい子ちゃん』、『偽善者』、『善人気取り』と、そんな陰口を叩く連中も少なからずいて、僕もその連中には含まれていた。そんな相手にも結は物怖じせず、真っ向から相手の目ををじっと見つめてこう尋ねた。
「わたし、嫌なんだ、そういうの言われるの」
 僕の知る限り、転校した愛子の代わりに結がいじめの標的になるなんてことはなかった。孤独にはならなかった。彼女に深く根ざしている愛嬌の良さ、明るさ、頭の良さ、それからそんな自分の優れた点を恥じるような素振り、相手に劣等感を抱かせてしまう自分に嫌悪感を覚える仕種、運のいい環境に運よく生まれてきたことに劣等意識さえ抱いているような一挙手一投足、多分そういうものが魅力になって周囲を惹きつけていたんだと思う。
 冬休みの間、結に何があったのかは知らない。でも、大陸が動いたのは多分その時だったんだろう。結はそんな風に自ら大陸を動かして、僕らの間にはっきりと地割れみたいな溝を拵えた。
 だんだんと希薄になっていった僕らの関係に公明正大なとどめを刺したのは、僕らが中学を卒業して別々の進学校に通ったことだ。姿を見かけても、気まずくなることが分かってるから顔や目を合わせようともしない。見なかったふり、知らないふり、小さいころのことなんて忘れたふり。スタンドバイミーの少年たちがツリーハウスに集まらなくなるのと同じで、良い意味でも悪い意味でもあの頃にできたような友達は二度とできなくなる。友達はいつの間にか知り合いになる。彼女が友達から知り合いへと変わったことに気付いたのは、彼女が自殺しかけたなんてことを耳にしても、それを深刻なものとして捉えない僕がいたからだ。
 彼女が飛び降りたことを聞いた時、僕に芽生えたものと言えばいたずらな好奇心だけだった。死にそうな人間、死ぬかもしれない人間、死のうとした人間、死んだ人間に向けるのと同じもの。地震が起きた時の事務所内の監視カメラ映像、パリでイスラム教徒が発砲したこと、白人の警官が黒人を撃ち殺したこと、ネットで誰かが炎上したこと、どっかの戦争、そんな自然災害や事件にワクワクするのと同じ気持ちだった。一年前に生徒会選挙に立候補した先輩が、妹と一緒に練炭自殺をやり遂げたことを体育館で聞いた時とも同じ感覚。そこに彼女を心配するような気持ちはないし、心配する理由もなかった。
 だけどそんな僕とは対照的に、母さんはすぐに目を潤ませた。青と白のチェックのエプロンを両手でぎゅっと握って模様を歪めながら言う。
「体はね、ほとんど大丈夫みたい……でも分かるでしょう? 心のほう。しばらくおうちでゆっくり休むみたいだから、それを結ちゃんママから聞いたのよ」
 雨のマークが並んだ週間天気予報、ACやユニセフのCM、餓えた子供の写真が貼られた募金箱。志村動物園とかの動物番組、韓国ドラマ。これは母さんが涙目になるものの一例だった。僕がよく見たその涙もろい眼にもう一滴分の水分を加えて、意味もなく声をひそめて母さんは言った。
 なんにでも感傷的になりがちな母さんの様子に、心を打たれたとかじゃない。もう慣れっこだった。ただ、僕にお見舞いに行ってほしいという母さんの切実な懇願を耳にしたとき、流さなかった母さんの涙は僕の胸の内で小川みたいな流れになった。そしてその流れは、いたずらな好奇心という本流と合流したように思えた。
 高校も部活もこんな風に選んだ振りして流された。そうすれば失敗しても、自分は傷つかずに済んだ。流れのせいに出来た。自分がどこにいるのか、どこにいればいいのか分からないまま、それでも流されることを選んだ。まるで川面に落ちた雨粒みたいに自分をかくしつつ流されて、遠くで正しく漂っている草舟を横目にしながら、僕は結の家に向かった。

「はい?」
 インターホン越しに聞こえてきたのは結の声じゃない。多分彼女のお母さんだった。
「あの、笹井充です。むかし結とよく遊んでた、すぐ近くの笹井――」
「あらっ、充くん? 待ってて!」
 結のお母さんはすぐに出てきた。僕のおぼろげな記憶と違っていたのは髪型くらい。思っていたより元気そうだった。
「まあ充くん! 背もドンと伸びてえ、大人っぽくなっちゃって、ほんとうに久しぶりねえ」
 驚いて口に手を当てた拍子に、肩にかけていたクリーム色のショールがずれ落ちそうになった。それをそっと戻しながら、結のお母さんは視線を上から下へと動かして僕を眺めやる。まだ若々しい表情や声。そして老けたと言うよりかは、洗練されて上品になったって感じの物腰のやわらかさ。
「あぁはい、お久しぶりです。うちの母さんから聞いて――それで来たんです。心配とかじゃなくて、ただ気になったってだけなんですけど」
 結のお母さんは、僕のこの言葉を照れ隠しかなにかだと思ったらしい。ゆっくり首を横に振りながら、柔らかい微笑を浮かべる。
「ううん、いいのいいの。ありがとう」
 そう言うと、結のお母さんは僕に軽くハグをした。普段ならそうそうしないような米国式の大袈裟な愛情表現に巻き込まれて、僕は結のお母さんが僕に気を遣って平静を装っているのかもしれないと思った。
 促されるまま家の中に入ると、僕は靴を脱ぐ前に尋ねた。
「その、いきなり来ちゃって、結が驚くかも知れないし、無理ならまた改めても――」
「いいえ、会ってきてあげて、大丈夫。せっかく来てくれたんだし、家は近いけれど、ね」
「はぁ。でも、僕が行ってもなにも――」
「いいのよそれでも。だから大丈夫。あの子の部屋は覚えてる?」
「あぁ、はい、分かります」
「じゃあ、お願いね」
 感受性豊かな世の母親にめっぽう弱いらしい僕は、そうして玄関からすぐの所にある階段を上り始めた。いきなりの訪問で驚かれるのも嫌だから、僕はあえて結にも聞こえるくらいに足音を立てて階段を上った。『ゆうのへや』とかわいらしく書かれた、かわいらしいプレートがぶら下がっているドアの前。そこで僕は立ち止まると、溜息をついて、小さく咳払いした。二回ノックしてから、僕は言った。
「あぁー、結? 充、笹井充ですけど。入っていい?」
 数秒の間、返事がなかった。ここで入室を拒否されても、それはそれでいいぐらいに思っていると、向こうから小さな声が返ってくる。
「……だれ?」
 か細く、消え入るような声だった。
「だれって――むかし、そこら辺で一緒に遊んでた充だって」
 そう答えてもまた無言。少しだけ返事を待って、僕は呼びかけた。「結、聞こえてる? 別に、会いたくないなら、俺はいいんだけど――」
「ササイミツルって、どのササイミツル?」
「は? なにって?」
 こっちが耳を澄まさなきゃほとんどきこえなくて、僕はドアに頭を寄せた。そのとんちんかんな問いかけに、正直少し苛立った。
「どこのササイミツルですかって」
 忽ちに面倒さが好奇心を追い抜いた。軽く溜息をついてから僕は言った。
「どの俺って、近所に住んでる方のだって。昔一緒に遊んでて、たとえば……ほらあれ、マンホールの溝に水を流して、どっちが先に穴のほうに着くか競争したりしたじゃん。あとはすぐそこの古墳にこっそり入ったりしてさ――」
 とぼけようとしている相手に憂さ晴らしをするつもりで、ぼくはあえて真面目に答えてやった。しばらく待っても返事がなかったから、僕は次の言葉を最後に引き返そうとした。
「もう一回言うけど、別に会うのが嫌ならそれでもいいし、って言うかなんか嫌そうだし――」
「あぁ待って。思い出した、思い出した」
 半歩後ろに下がったところで声が返ってくる。今までのと比べると少しは聞き取りやすい声。けれどそんな口調とは裏腹に、淡白というか、棒読みって感じだった。
「充、笹井充ね。うん、ちょうどいま思い出したんだ。うんうん。思い出せてよかった、ほんと」
 芝居がかった言い方――と言うよりも、わざと演技くさく見せようとしているみたいな、そんな口調。半ば呆れた僕は、結への仕返しと銘打った沈黙を、少しばかり貫いた。
「会いたくないわけないよ。むしろ寂しいし」
 尻下がりにまた小さく細くなっていく結の声。続けて布団か服かなにかの衣擦れの音。
「ほんとに久しぶりだったから、照れくさくてとぼけてた――のかもしんない。ごめん」
本心かどうかは分からないけど、そんなことを恥ずかしげもなくあっさりと白状されて僕は戸惑った。不意に妙な気まずさを感じた。
「いや、別にいいけど」
 またお互いがうるさいくらいに黙りあった。ドア一枚程度の隔たりでも確かに聞こえる無音。静けさは時間を食らってどんどん重くのしかかる。生唾を飲んだ音が、耳の付け根のあたりで騒ぐ。
先に言葉を見つけたのは結の方だった。
「あぁでも懐かしいなあ。マンホールとか、古墳とかって」
「え?」
「そういえばさ、まだ一緒に登校してたころ、私が熱出して学校休むって充が知って、家からわざわざ体温計持ってきたよね。ズル休みしようとして、それを私の脇に挟もうとしてさ」
「いいよ、その話は」
「あれね、充のお母さんから聞いたんだけど」
 クスっと、彼女が息を漏らしたような音が聞こえた。
「なに、光化学スモッグが怖かったんだっけ? いやええと、違ったかな。あれかな、保健の授業で見せられるビデオで、また貧血になって倒れちゃうのが嫌だったからだっけ?」
「もう忘れたよ、そんなの」
「ねぇ、今は大丈夫なの? そういうの。もう克服しちゃった?」
「……うん。多分割と、平気になってる」
 僕は努めて冷静に答えた。
 結が興味本位で聞いてきたのか、僕をからかおうとしているのかがいまいち掴めなかった。ただ僕のこの返答に対する結の声色には、妙な穏やかさがあった。
「……そっか、そうなんだ。まぁそうだよね」
 そっと呟くように彼女が言った。まるで本当に残念がっているみたいな、そんな調子だった。
 段々と僕は、こんな不足感だとか欠乏感をただ募らせるだけの会話を終わらせたくなった。真意を掴み取るなんてことは期待していなかったけれど、結の表情や仕草をヒントにして何らかの納得を得たいと思い始めていた。結局は自己中心的でしかない、思い上がり以上にはならない、そんな理解や納得を。
 僕は大きく息を吐いた。
「開けて、いい?」
 反応はなかった。僕は彼女の沈黙を無理やり『NОではない』として受け取って、ドアノブに手をかけた。
「開けるよ」という最後通告のあと、僕はゆっくりとドアを開けた。
 青と白の縦じま模様のパジャマ。絨毯の上で横座り。重ねた両腕に頬をぴたりとくっつけてベッドに突っ伏し、僕を流し目に見やっている。目が合うと彼女はすぐに顔を逸らして、何気ない感じで組み直した腕に口元を押し付けた。
「……久しぶり」
 腕に塞がれたままの口、そこを押しのけて出てきたようなくぐもった声。
「あー、久しぶり」
 急に沈黙が怖くなって、僕はすぐに言葉を絞りだした。
「いつから、会ってなかったっけ。最後に会ったのって――」と言いかけて僕は、記憶の中にいる結と今の結との違いを意識し始めた。
 といっても、どれもこれも誤差の範囲内程度だった。前よりいくらかは痩せたようにも見えたし、顔立ちもはっきりして整っているような気もしたし、目の下にクマが出来たような元からあったような――肌だとかも不健康な方向めがけて白くなったような気がしなくもない。唯一はっきりとした変化があるとすれば、それは髪色だけだった。もう色の落ちかけている暗い茶色。
 とにかく僕の目が腐ったりしてなければ、中学校の頃の結とは別人だなんて思わせるようなところはなかった。飛び降りて、死のうとした人間だなんて思わせるようなところは、ほんとに感じられなかった。想像してたのはもっと情緒不安定で、自分が世界中の不幸や悲しみを背負っているって思ってそうで、それでいて誰よりも凄惨な悲劇を抱えなきゃ生きられないような悲劇のヒロイン気取りの、自分の不幸で優劣を競ってそうな、やつれた感じの誰かだった。まさに自殺しようとした人間って感じの、なんていうか、出産してからの上戸彩とかなんかの病気になったチュートリアルの福田みたいな――二人とも自殺は関係ないけど。
「なあに? なんか気持ち悪いんだけど」
 僕の目の動きを不審がった彼女が言う。
「いや……」
 結に対して多少は感じているはずの違和感を、頭の中で整理する前にそう言われて、僕は視線を落とした。
 言葉に詰まった僕は、入口のすぐそばで突っ立ったまま部屋の様子を見渡すしかなかった。女の子らしさからは少し遠い、つまらなくもある質素な空間。部屋の一方の壁に沿って、腰ぐらいの高さの本棚がずらっと並んでいる。本棚の腹がはち切れそうなほど詰められてる本は、今にもミシミシと音を立てそうだった。ドアに一番近い本棚の上にはスノードームが一つ置かれていて、僕はとりあえず気を紛らそうと、それを手に取って眺めた。
 その世界に閉じ込められているのは、プレゼント袋を担いだサンタさんだった。窮屈さなんてお構いなしに笑顔を浮かべている。しかも手まで振ってる。余裕シャクシャクなその表情が歪むかもしれないなんて子供じみた期待をほんの少し抱きながら、僕はその世界を振った。
「ホコリ、すごいよそれ」
「うわ、やば」
 僕は急いでスノードームを元の場所に置き、手を振って指先に付いた埃を払い落とした。舞って漂う雪の中、サンタさんはほくそ笑んでる。
 落ち切った沈黙をどうにかすること。それをもう諦めかけていた僕は、後先考えずに見切り発車で本棚のそばに屈みこんだ。収められていた本を検分するしかないなんて考えていた矢先、結が思わぬ言葉を発した。
「なんで飛び降りたかとか、知りたい?」
 たぶんそれなりの助走がいるはずの話題を、彼女はそれとなく、呆気なく切り出した。インフルエンザのワクチンはもう打ったのかどうかとか、そんなことを尋ねるみたいな調子で。
「え?」僕は驚きをなるべく隠しながら、彼女のほうを向いた。「あぁうん……知りたいけど」
「まぁ、なんて言うか、私もよくは分かってないんだけどね」結は手相占いでもやるみたいに、片方の手を自分の顔の前まで近づけて、もう片方の手で生命線やらをなぞりながら言った「なにか変わるかもって、ホントそれだけかなあ。死んでやるとか、そんなんじゃないよ。それに今ってさ、知ってる?」
 僕に一瞥を与えて、それからまた掌に目を向けると、結は飄々とした口調で続ける。
「三人か四人に一人くらいは本気で自殺したいって考えたことがあるんだって――だから、そんなに変なことじゃないんだよ。靴ひもが切れちゃったってだけで、黒猫が横切ったってだけで、なんとなく息苦しいとか、女に生まれついちゃったってだけで死のうとしてもね。雉鳩が真夜中にホーホッホーって鳴いてくれないとか、自分で遊んでくれる猫がいないとか、そんなことで」
 僕は本棚のほうに目を戻した。そんな意味の分からない答えで納得する僕じゃなかったけれど、好奇心に頭を下げたまま他人の心に土足で踏み込むつもりもなかった。ただ遠回しにやんわりと、ついでに本心を探れたらいいと言った感じの緩やかなボールを僕は投げようとした。
「でもさ、死んだらあれじゃないの。周りの人とか――」
 そこまで言ったけれど、自分のボールが無思慮でありきたりな弧を描きそうになって、すぐに言い直した。
「いや、あれだよ。天国に行けたとしても、めちゃくちゃに長い箸つかって、他人の口に食べ物をあげなきゃならなくなるし。それって、面倒くさいって。他人って言ってももしかしたら足利義教が正面に座るかもしれないし、ヒトラーに相席いいですかって聞かれたりさ。天国でなにしてるかわからないし、もしかしたらそいつらとおんなじ歯ブラシを使うことになるかも――」
「その二人は地獄じゃないかな?」
「あー、そうかな」
 結が静かに笑った。僕も僕で苦笑いっぽいものを浮かべていたと思う。お互いからっぽな感じの、かすかに漏れた息だけがその証拠になるような笑い。
 苦笑いついでに立ち上がった僕は、腰が痛くて仕方がないって具合に上体を反らして、大袈裟に息を吐いた。こういう呑気な振舞いを披露する以外に、気まずさを誤魔化す方法を僕は知らなかった。
 本棚が並んでいるのとは反対側の壁際。そこにある若草色のソファの方に向かい、それから座るまでの間に僕の口を衝いて出たのは、馬鹿みたいな質問。
「川、冷たかった?」
「んーなに?」
 声色も表情も変えずに結が聞き返してくる。
「いや……どんな感じなんだろって、飛び降りた時さ」
 ソファの上にあったクッションを手に取ってから座り、それを膝の上に乗せる。僕は言動に詰まるたびにクッションを持ち上げたりして、その民族風の柄を眺めた。
「痛いのは痛い……かな」
「それだけ?」
「あとはなんだろ……すごい冷たかったとか、うん」結は手相を見るのをやめて、今度は爪の点検を始めた。「死ぬなら川はおすすめしないかな、ホント。覚えててね、確実じゃないことなんてマトモな頭があれば分かることだし」
「マトモなら死のうとしないって」
 少し尖りのある僕の言葉に対して結は肯定も否定もせず、ただ小さな笑い声を上げた。
 自分の発言に後ろめたさを感じる必要も、その埋め合わせをする必要もなさそうだった。と、僕が思いたいだけなんだろうか? 
「今、学校は?」
「休学中。私が落ち着くまでっていうか、落ち着いたって判断されたらって感じなのかな」
 僕は頷きながら「そっか」とだけ言った。そして僕は、結にとっての気晴らしにでもなればいいと、着地点がどこかも分からないことを言い始めた。
「俺はでも、戦争とかホロコーストとか、そういうこと以上にひどいことはないって思うだけで、一応生きてけるからさ。たまに死んだふりとか、苦しくて仕方ないみたいに叫んでみたり――たとえばこんな感じ」
 僕は「ウッ!」と、心臓を貫かれたような声を出してソファの上で横になって、苦しみ悶えている振りをした。口はぽかんと、目はうつろ、絶命したみたいに体を硬直させる。律儀に息もちゃんと止めてた。
「マトモじゃないよ」
 そう言われて目を結の方に向けた。数秒たってから、お互いうっすらと笑みを浮かべた。
「そろそろ家、ご飯じゃない?」ベッドに横たえた片腕へと頭を置き、結は気怠そうに言った「私は、大丈夫だからさ」
 帰ってほしいのか、それとも僕に気をつかってか。どっちにしても、これ以上僕に出来そうなことも知れそうなこともなかったから、彼女の誘導に大人しく従うことにした。上げたのは重くて重い腰、そんな感じの素振りを見せるのは忘れずに。
「来てくれて、ありがと。それはホントだから」
 頭を起こした結の表情には、相手になんの不安も残そうとしないように努めたような、微笑にしても弱すぎる微笑。
「別に、いいよ」僕はソファから立ち上がって、なるべくさり気なくなるように呟いた「次会うときは着替えといて」
「うん、そうしとく」
 そして僕はゆっくりと、まるで名残惜しいみたいな足取りでドアの方へ向かった。振り返ってドアノブに手をかける。結はぎこちない微笑を浮かべたまんま、僕に手を振る。
「じゃあ、また」
「うん、また」
 ドアを閉める。部屋に入る前と同じように、僕は溜息をついた。

 結がなにかを隠してること。僕が会いに来た理由を聞かなかったこと。肩透かしを食らったような、後ろ髪を引かれてるような気分の正体は、多分満たされなかった好奇心。当然だった。久しぶりに会った元友達に、心を打ち明ける訳なんてなかった。
 それでも、なんだか自分の歩幅がやけに気になった。自分の足に揺さぶられてるような感覚がした。一歩一歩と踏み出すたびに、アスファルトの道が足の裏をノックして、体中に軽くて空しい音が響くような感じだった。
 赤とオレンジとほぼ群青。そんなグラデーションの淡い、果てしない、捉えきれない夕空を見上げても、言葉の追いつかないような空しさが増すだけだった。その空を『鏡』だなんて思ったのは一瞬。たちまちに、そんな青臭いことを考えた自分に極彩色の派手派手しい恥と嫌悪感がやってくる。
 矢継ぎ早に湧いてくるいろんな『鏡』や感情。それらを舗道の暗色でまとめてもみ消そうとして視線を下げる。すぐにくすんで消えた。十月の終わりだった。
 



   二日目

 河北高校。僕が通っている公立の進学校で全生徒数は約千人。僕の学年では9クラスもあって、一クラスに大体四十人くらいが押し込められている。近くにもう一つ公立校があるせいで、朝の電車はうんざりするぐらいに学生服でいっぱいだ。ほんとうに、中年のサラリーマンがいつ痴漢で捕まってもおかしくないくらいだった。
 それでも、この学校が人種のバラエティに富んでいる訳じゃあなかった。友だちに一人、韓国とのハーフがいたけれど、僕が言いたいバラエティってのはそういうことじゃなくてつまり、今になって思うのは、誰も彼も似たような人ばかりだったってこと。
 SNS族、摂氏三九度のアカデミック族、古典的な青春信奉者、隠れオタク、美容マニアや耳たぶ殺し、芸人もどき、斜に構えた孤高のオオカミ、眠気と気怠さが勲章のダウナー族、自称アウトロー、センスの押し売り族、鼻の高いショートスリーパー……とにかく人数の割には、好奇心をくすぐられるような人間なんて数えるほどもいなかった。
 この陰湿な民族戦争の真っ只中にあって僕が身を置いたのは、そのどれでもなく、その全部でもあった。僕は俗に言う陰キャラにも陽キャラにもなれた。いくつかの民族の言語を勝ち取ることに、僕は運よく、なんとか成功していた。
 例えばエージェント・スミスみたいに見分けのつかない坊主頭の硬式野球部。ニキビ予防のための皮膚科で顔を合わせがちな浅黒いサッカー部。原付免許とオシャレなスニーカーを誰よりも早く手に入れるバスケ部。鞄の中身は意外にもワックスとボディスプレーでいっぱいの一部の文化部、具体的には吹奏楽部、軽音楽部、フォークソング部。そんないわゆるカースト上位の人間とは「うぃ」だとか言った感じのさり気ない、それでいてふざけた鳴き声を交わして、たまに拳を突き合わせればよかった。
 ある時にはクラス中に聞こえるくらいの大きい声で、昨夜見たドラマの話を始める。またある時には鹿威しの原理よろしく、女子の前では言えずに溜め込んでいた下ネタを、汗と制汗剤しかない男臭い部屋で一気に撒き散らす。活動的で活発なクラスメイトから勝ち得た好感度は、異性からの好意と比例しがちだった。
 一方、映研だとかに入ってる、教室の隅で机に突っ伏しながら寝た振りをしているカースト下位の人間に対しては、映画やアニメ、漫画の台詞から引っ張り出してきたような挨拶――それもそのキャラクターの声真似なんかをしながらの挨拶――から交流を始めて、そして交流を終えればよかった。
「カルペディエーム」
「さよなら、レイペンバー」
「こんにちは、こんばんは、それからおやすみ!」
 そうすると相手は、教室にいた時とはまるで違った声の大きさ、早さで、にやにやしながらトンチンカンなセリフを返してくれる。
「アァ……ET、オウチデンワ!」
 ただ彼らの中には、いわゆる陽キャラと親しくなれるチャンスを逃さなかったのも何人かいる。もっとも、その陽キャラ共にとっての『いじり』や『おふざけ』を、下手をすれば『いじめ』ともなり得るそれを『笑い』や『冗談』へと上手く昇華させた人間に限られるけれど。
 体育会系の人間の一部は、言葉のキャッチボールですらも剛速球を投げがちなのかもしれない。そして文化系の返す球も、彼らのところまで届きにくいのかもしれない。
 とにかくこんな風にして僕は、うまい具合に捕球と送球を繰り返しつつ、声高に不満を訴える必要もないくらいに平穏で八方美人的な毎日を歩んできた。没個性的で自己欺瞞的でもある今日に流されてきた。けれど昨日に続いて今日も、水面から頭を覗かせる岩にぶつかった感触があった。

 土曜日だった。午前十一時に始まる部活会議、通称『部会』の三十分前。進学に対して曖昧な態度でいた僕は、古林先生から職員室に呼び出されていた。
「おう来たか、ちょっと待ってろ」
 先生は机に広げていたプリントを一つに重ねてまとめると、それを机に立ててトントンと耳をそろえた。古林先生はいつも忙しそうにしているし、なにを行動を起こすたびに大きな音を立てる。プリントの耳をそろえた時も、ドンドンって擬音のほうがしっくりくる。
 古林先生は僕のクラスの副担任で、僕の所属してる軽音楽部の顧問でもあった。見た目は三十代くらい、身長が百八十くらいはあるのっぽの現国教師。僕が二年の時に、古林先生は河北高校にきた。
「西宮先生、どなたか生徒指導室いますかね?」
 古林先生が机に手をついて体を伸ばしながら尋ねる。尋ねられた西宮先生はちらっと生徒指導室のほうに目を向けて、まだかかりそうですね、と申し訳なさそうに答える。すると古林先生は椅子を回して体を僕に向けた。それから残念そうに眉を寄せた。
「あぁー、笹井。実際は生徒指導室で話さなきゃいか――」
「ああ全然、ここで大丈夫です」
「進路。そろそろ……というかすぐにでも決めておかないとなって、な?」
「でももう、大体決めてあるんですけどね」
「そうか」先生はそう言うと、聞えよがしに溜息を吐いた。初めっから嘘と決めかかってるような調子だった。「先生はただあれだ、心配してるんだ。怒ったり、叱ったりしたいんじゃない。先生だけじゃない、他の先生もみんな同じだ」
 そう言いながら古林先生は、言葉に重みを持たせるみたいにその『他の先生』とやらがいるらしい方向をちらっと見る。そして聞こえよがしに、恩着せがましく、話を続ける。
「そりゃたまには、不器用で言い方が悪くなったりするかもしれないが、根っこのところにあるのは心配や期待なんだ。その点では、ご両親となんら変わらない、むしろ先生っていう立場をとことん活かして――」
「先生、ほんとに決めてるんです。だから別に――」
「じゃあ、どこの大学か言ってみろ」
 返事に詰まった。先生が呆れたとでも言いたげに溜息を吐こうとした瞬間、息を吸った辺りですかさず僕は言う。
「いえ、具体的にはまだですけど。だいたいの方向というか……別に就職率が高くて、自分の偏差値よりも少し下の適当な四年制のところでいいんです。これを学びたいんだって、そんな情熱なんかもないですし、みんな結局、高卒じゃないってことを示すためになんとなくで行くようなもんだと思うんです。もうなんか、大学が免罪符みたいなものを発行する場所って感じで」
 もちろん、先生はそれで納得しなかった。瞼と眉毛の間辺りで悩みの種が芽吹いたらしく、先生はそこを悩ましげに揉んだ。
「オープンキャンパスの時、お前が希望出したとこ覚えてるか? あと進路希望調査の紙にもなんて書いたか――」
「ああはい、覚えてます。僕が先生だったら、あれはぶん殴ってます、確実に」
 オープンキャンパスには女子大を希望した。進路希望調査の方は……なんて書いたか覚えてないけれど、それもふざけて書いたのは間違いなかった。でも、本当に行きたいところがなかったのも事実だった。
「あんな風でいられると、こっちは納得できないし、信用できないんだ。分かるだろ? ここで今笹井が大学を決めたって言っても、表向きにはそう言うだけで実際はまだ迷ってたり悩んでるって、そんな風に先生は思わずにはいられなくなる」
 先生の言うことに心当たりはなかったけれど、なんだか胸のうちにあるわけでもない核心を衝かれたように感じた。
「はい。でも……大丈夫ですとしか言えません」
 先生は僕から視線をそらすと、他に置き場のなくなったような片手を後ろ首にかける。肘まで捲られたワイシャツの袖が目立つ先生の腕、その動きを僕はそれとなく目で追う。
 僕は古林先生が苦手だった。年がら年中、季節問わずで腕まくりのスタイルを維持しているところ。女子がいるところでは、わざとだらしなさそうに振る舞ったり、ズボラさをアピールしたり、一か所だけ残した頭を怠そうに掻くところ。いかにも昨日は眠れませんでしたって具合に眠そうに瞼をこするところ。トイレに寄って、寝癖をわざわざ作ってたりするところ。まるでどっかの古着屋の店長。まるでオーラのない斎藤工。実際に斎藤巧に似てなくもないってとこがまた厄介。それでも、もし誰かが古林先生に対して斎藤工に似てるだとか言っちゃえば、先生は多分、その俳優の名前は聞いたことがあるけれど、詳しくは知らないって感じにとぼけるんだろう。
「笹井がな、部活に熱心なところは、そりゃもちろん良いとこだと思ってる。授業態度が格別悪いとかそういうのもない。でも、だからこそ先生たちが思うのは――」
 若干前のめりの姿勢になって、先生が話を続ける。穏やかさを意識したような、子供をたしなめるような声。
 僕は頷きながら、聞き流していた。逃げるようにして逸らした視線は、先生の机の片隅へ。そこには木の実二つを紐で結び付けたパチカって打楽器があった。古林先生が河北高校に転勤してきて初めて僕らの教室に来た日、挨拶代わりに演奏したやつ。こ慣れた感じで手首をひねり、シャラコカシャラコカって感じの音を鳴らす。確かその時はまだ、先生は腕まくりしていなかった。
「仕事だからってだけじゃない。そう思われるのも仕方ないが、でも先生たちはいつも仕事っていう枠以上に――」
「なんていうか、すごい親身ですね、今日」
 先生の話を断ち切って、僕は言った。先生は眉間に皺を寄せる。違和感を抱いてなんとなく放った言葉だったけど、先生はそれを皮肉として受け取ったみたいだった。
「なに?」
「いえその、嫌味じゃないんです。僕だけですかね。古林先生が、すごい親身に話を聞いてくれてるなって思うの」
 僕は慌ててそう付け加える。
「いや、先生たちはみんなそうだ」先生は背筋を正した。そして、顔を少しほころばせた。「まあ、最近はちょっとした問題みたいなものを抱えてるから特にってこともあるが……例えば、SNSの普及で、色々とため込み過ぎる子が多い。それに比べ過ぎる子も多い。それで胸の中にしまいがちというかな。発散するにしても、ネット上だけじゃやれることは限られてる。だからそういう時こそ、先生たちがしっかり話を聞いてやるべきだと考えてるんだ。別に進路のことじゃなくてもいい。普段の生活のことでも相談してくれればな、な?」
「そうですね、はい、すごく分かります。でも、僕は本当に大丈夫なんで、ありがとうございます」
 先生は数秒の間、優しげな顔を僕の方に向けていた。そのうちに左手を勢いよく伸ばしては曲げ、腕時計に目をやる。
「もう部会だな。先生もすぐ行くから」
「はい、じゃあ失礼します」
「おう、またなにかあれば言ってくれよ」
 職員室から出ようと回れ右をしかけたところで、僕は動きを止めた。そうして気付けば振り返って、突拍子もないことを尋ねていた。
「先生、どれくらいの高さから川に飛び込んだら、人って死ぬんですか?」
 この問いかけが神妙な空気を漂わせて、先生の体を硬くしたのは明らかだった。先生は訝し気にこっちを見る。
「それを聞いて、なんなんだ? そんなことを聞くのはよっぽど限られて――」
「いえ、そうじゃなくて」僕は慌てて遮った。そして珍しく回った頭でこう続けた。「あの、ピンポンって映画で、なんか川に飛び込むシーンがあって、何となく気になっただけです」
 先生は探りを入れるような目で僕を眺める。僕はとんだ思い違いをしている先生を見て軽く吹き出し、ニタニタしながらこう続けた。
「古林先生。まさか、僕はありえませんって。そこそこ裕福で、そこそこ幸せなんですから。そういう状態になったら、それこそ先生を頼ります」
 先生は鼻から息を吐き出し、ボブルヘッド人形みたいにぐらぐら頷いて答えた。
「さあな、落ちた時の体勢にもよるんじゃないか。詳しくは知らんが、四十メートル位の高さからだと危ないって聞くな。溺れようとしてなら、話は別だろうが」
「はぁ、なるほど。じゃあペコは――その映画の主人公なんですけど、そいつは別にあれですね、そんな高いとこからじゃなかったし。あーでも、溺れようとしてたかなそいつ」少し間を置いてから僕は続けた「また、知りたいことがあれば先生に聞きます」
「おう」と先生はにべもなく言って、側頭の辺りを手で掻いた。「ほんとうに、お前は大丈夫なんだろうな? さっきも言ったが、なにかと抱え込む奴が多い。だから――」
「お前はって……誰か、そういうのがいるんですか? なんていうか、精神的に危ないって感じの――」
 自分の言った言葉が自分に影響して、結が思い浮かんだ。
「いや……とにかく、進路は早めに決めて、親御さんを安心させような、笹井」
 先生も先生で、まるで具体的な誰かの姿を見るみたいに、視線を斜め上に向けた。

 部活加入率百パーセントを謳いたがるこの河北高校では、誰もが入学したての頃から半強制的に何らかの部活に入らされた。その中で僕が軽音楽部を選んだのは、中学からの友達が何人か入りたがっていたし、定められた活動方針もなくて、一番楽そうだと思ったからだ。
『石見川 橋』とスマホで検索しながら、僕は視聴覚室に向かった。ネット環境が悪いせいか、検索結果が表示されるころには視聴覚室に着いていた。スマホをポケットにしまい、両開きの扉を開ける。
 視聴覚室は軽音楽部のいわば部室で、今度行う昼休みライブの開催場所でもあった。キャパシティが百人くらいのその部屋に僕が入った時には、もう五十人ぐらいが長机の前に腰を下ろし、わずかな空席をまばらに残していた。
 同じバンドのメンバーをなんとか見つけ出すと僕は、彼らが僕の為に空けておいてくれたらしい前から二列目、一番端の座席に向かい、飛び交う談笑や視線をかいくぐってそこに座った。
「ハッシー」と言いながら僕は、隣にいる橋本の脇腹をつつく。
「おいー、時間ギリギリな。来るか賭けてた」
 そう返事をしたのは橋本じゃなく、そのもう一つ隣に座っている熊田。橋本は僕を見やり、僕の存在に全く気付いていなかったって言った感じにわざとらしく驚いて、イヤホンを外した。
「ライン送ったけど、どこにいてたんだよ」と橋本が冗談半分、咎め半分で言う。
「呼び出し食らってた。進路のことで、古林先生の」
「ウソン、なに言われた?」
「まぁ、早く進路決めろとか」
 橋本はこれ痛快とばかりに笑う。身長が低くて童顔で、顔立ちが整っているだけに、クラスの女子から可愛いなんて言われがちの橋本。だけどその『可愛い』が男らしさの欠損を示していること、そこから決して恋愛に発展しないことを本人は承知しているらしく、そう言われる度にワライタケと苦虫を一緒に噛みつぶしたような複雑な表情を浮かべる。ワンオクロックのタカが好きで、ボーカルである彼は良く歌い方を真似たりする。
 そのうちに部会が始まった。アンプやキーボード、ドラムセット、スタンドマイクが脇に退かされた演壇に、部長が立つ。
「あーあー、じゃあ、ええと、部会の方始めていきます」
 ハンドマイクからスピーカーへと伝うその声が響いた途端、静けさが視聴覚室の隅まで押し広げられた。
「まず――と、本題に入る前に、部費の徴収を皆さんお願いいたします。千円ずつ、ですね。よろしくお願いしまーす」
 部員が徐々に席を立ち、演壇の脇に長い列を作り始める。僕は財布の中を確認した後、横で立ち上がりかけている橋本に声をかける。
「ん?」
「俺、部費忘れたかも」
「なゃはは」と、橋本はカラッカラの笑い声を上げる。「どうすんの、貸そうか? それか部長さんに頼んでみたら? 後日渡しますんでって」
「んー」と僕は悩んだ。部長に借りを作るのはなんとなく癪だった。
 橋本と一緒に席を立ち、列に並ぶ。やがて僕の番が来る。茶封筒を持った部長のもとへ、僕は歩み寄る。
「学年と名前よろしく……あぁ、笹井」
 彼の業務的なセリフが途切れたのと同時、僕らは上っ面だけの親密さを差し出しあう。口角を少し上げてみせるのが、今回のそれだ。小学校、中学校の時のあの感じは、もう僕らの間で死んでいる。
「ごめん。部費持ってくんの忘れてさ、また――」
「あぁ、オッケオッケ。んじゃあ代わりに出しとくから、月曜日あたりよろしく!」
 そう言って彼は、すぐ傍にいる書記兼経理係の稲原さんに「稲原、もう千円ちょうだい、お願い!」と少し芝居がかったような、大袈裟な口調で言う。
「部長が出してよ、たまには」
「俺もないんだって、お願いします!」
 両手を合わせて頼み込む部長、折れる稲原さん。蚊帳の外になってしまっている僕は、改めて感謝の言葉を述べる前に、自分の席に戻った。
 やがて部費の徴収が終わると、再び部長が演壇に立った。そして視聴覚室内の隅々にまで静けさを行き届かせるみたいに、彼はひたすら待った。なんらかの雰囲気を作ろうとしているようだった。 
「えー」静寂の純度や弾力を確かめるみたいに、部長がそう言ってから続けた「今回はちょっと真面目な話がありまして」
 ある程度の間をとってこう続ける。
「軽音楽部内で、SNSによるいじめが行われているとの報告が多々あります。話によれば、SNS内でとあるグループが作成されていて……」

 部会が終わった後、僕はバンドのメンバーと昼休みライブの時にやる曲の打合せと銘打った、真面目ぶった与太話の為に空き教室に集まっていた。四人全員が、椅子のちゃんとした座り方を忘れてしまっていた。逆向きに跨ったり、背凭れに片腕をかけて横向きに座っていたり、三つほど並べた椅子の上に寝転がったり。
 主にドラム担当の熊田とベースの久鳥が駄弁り合う最中、不意に僕の耳周りの筋肉がぴんと動く。
「てかさ、てかさ、話変わるけどさ」声に弾みをつけて、ドラム担当の熊田が言う「部会で部長が言ってたやつ、あれ、被害者って部長本人じゃないの? って思うの、俺だけ?」
「あぁ、まあ俺もそんな気したけど」と久鳥。
「だろ? そうだろ?」と、熊田が声に一層弾みをつける「っていうか、まぁ正直俺知っててさあ、いろいろと。部長のこと。だから絶対そうなんだよ」
「知ってるって、なにを?」
 そう聞いたのは僕だった。多少は食い気味になっていたと思う。
「俺が言ってたってのはナシな。あいつ――」と熊田が言いかけて笑いながら言い直す「部長、こっそりオリジナル曲とか作って、こっそりユーチューブにあげててさ、聞いた? 再生数は割と多いんだけど、低評価の数もかなり多いんよ」
「まじ? どれどれ? なんて打ったら出んの?」と久鳥がスマホを取り出す。
「なんだっけ、まあ後で送るよ。とにかくまあ、それだけじゃなくて、あいつの悪口を言うためだけのグループラインなんかもあってさ。それが、部会で言ってたとあるグループってわけ。俺もこの前、そのグループに誘われてさ」
「誰に?」
「えっとな……」と熊田は言い淀んでから「稲原さん」と打ち明けた。
「ヤバいな、それ」苦笑を湛えながら、やっと橋本は発言した。
「いぃやっ、まじか。じゃあなんだよ、自分が被害にあってるいじめのことを、部会で堂々と言ってたってこと?」久鳥がスマホをいじりながら言う。どうやら部長のアカウントを探しているらしい。
「でもなに、なんかしたの? そんなに嫌われてるって」僕は熊田に尋ねた。
「多分、多分だけど、裏アカがあってさ。あぁこれも一応、俺が言ってたってのはナシで」
「裏アカ?」
「ツイッターの、部長の裏アカみたいなのがいてさぁ、鍵もなしで。誰でも見れるようになってて、誰でも河北高校の部長だって分かるようなこと呟いてる。これが原因かなっつって、いろいろヤバいこと書いてるし」
「なんて検索すれば出る、それ?」
 今度は僕。スマホをポケットから出して、熊田の言葉を待つ。
「小文字でケイエーアイ、ケイエーアイ、カイカイ114で出るかな……うん、出たわ。本名そんままだもん」
 言われた通り検索すると、そのアカウントは確かにあった。アカウント名は『ブラックスミス』。放送休止中のテレビに流れるカラーバーをアイコンに、投稿された呟きは百を越えていた。

『まじ死んだほうが親のため、Yクンよ。分かってる、自分で 
 ???wwww』

『俺の曲、周りに理解出来る連中皆無。センスってか、それ以
 前。K高は願書の出願拒否します。軽音楽部はアニメに感化
 された奴らとクソイキリ連中の掃溜め状態』

『視聴覚室にサリン撒いてくれよんどうしようもない! Iは
 デキる自分に酔ってる。バカでも出来ることで、よくもまあ
 そんなに笑 ご苦労様です!(^^)!』

『ありがとう^^もう通り越して、お前よりお前を産んだお前の
 親が不憫でしかたなし。バケットリスト追加→生まれ変わっ
てお前らの母親の腹の中で互いに死ぬまで暴れる。ってか一回
死んでるからバケットリストじゃあおかしいかw』

 投稿を少しさかのぼっただけでこんな具合だった。誹謗中傷ついでに載せてある写真のいくつかも見覚えがあった。河北高校のグラウンド、教室の窓からの景色、非常階段、食堂前のベンチ。そして視聴覚室。
「こんなの、鍵もなしでさぁ、よくやれるよな。特定してくれって言ってるようなもんだろ」自分のスマホで同じページを見ているらしい久鳥が、苦笑して言う「ここまでやってると、なんか清々しいくらい、な?」久鳥がそう言って、賛同を得ようと視線を巡らす。
「あとはあいつが今部長になれてるのって、前の岡野先輩とか仲良かったからっていうか、コネみたいなとこがあるじゃん。それも絡んで、だと思う……んだけどなあ。その、グループラインでいじめられてる原因の一つ――」
「これ、他に誰が知ってんの?」僕は熊田にそう尋ねる。
「さっき言ったラインのグループに入ってるやつらは全員知ってる。っていうか俺が知ってんのは、俺もそれに入ってるからだけど」
 驚嘆のこもった視線が熊田に集まった。
「結構、ボロクソ言ってる感じ?」と橋本。
「うん、まあこの裏アカほどじゃないけど。うん、分かるっしょ? だいたいどんな感じか、想像で」そして熊田は、急に喋ることに飽きたと言った感じに「俺が知ってんのわぁ、こんぐらいですわあ」と話を打ち切って伸びをした。
「笹井って、部長と中学一緒だろ。どんなだった、あいつ? 高校デビューって感じ?」
 橋本がいきなり、僕に話を振った。僕は出来るだけ多くを語らないように努めて一握りの嘘を話した。修学旅行や社会科見学の時に、彼と同じ班にいないことのほうが少なかったくらい親しかったことは隠した。通っていた学習塾が同じで、決まったように一緒に通塾を繰り返したことも伏せた。
「んまぁ、そう。どんな……って言われても、見た目はちょっと変わったけど、どうだろ。クラス被ったのも一年だけだったし、あんまり接点はないかな――」
 その時、隣の教室から大きな物音がした。
「うぉう、なんじゃあ」緊張感の欠片もない声の主は久鳥。
「誰か、やってんだろ」と橋本。
「笹井の彼女っしょ。別の男と。この音は絶対そう」確信を持っているような口ぶりの熊田。
「彼女じゃないって。あれは仲いいだけ」
 失笑しながら、冗談半分に咎める僕。
 するとまた、机か何かが倒れたような物音、椅子が引きずられたような音が響いた。それから荒々しい叫び声に続いて、なんだか応援しているクラブチームが得点を挙げたどころか、ハットトリックまで決めたみたいな歓声っぽい声が届く。
「笹井の彼女、ライオンかなんかとやってる?」そんな冗談が僕らを笑わせ、久鳥は調子づいて続ける「一匹じゃねえよ、これぇ。笹井さ、どんな化物と何匹でやってるか見てきて。心配っしょ。遺書は書いた?」
「うるさいな、いいよ。わかった」
 悪態と微笑を零しながらも僕は、満更いやってわけでもなく、珍しいもの見たさに大人しく従って教室を出た。
「フゥーウォ!」そんな歓声を背中に浴びる。
 誰もいない廊下に出て、隣の教室に向かい、引き戸のガラス窓から中を覗き込んだ。
 もちろん、ライオンも化物もいない。ただ顔見知りの人間が喧嘩してただけ。喧嘩っていうか、まぁリンチに近い。
 三対一。半円状に取り囲まれている一人は、カッターシャツの裾の片方が出ていて、白旗代わりにひらひらしている。肩を突き飛ばされると、彼は机や椅子を巻き込みながら仰向けに倒れこんだ。その拍子にちらっと顔が見えた。知ってる。高畑ってやつだ。
「ほら、今イキれって。前んときみたいに」
 高畑の肩を突き飛ばしたやつが、声を荒げる。こっちは確か尾崎ってやつ。尾崎は高畑の髪を片手で掴む、力任せに振る。
「うっさい、まじで、うっさい!」
 低く唸るような声を出しつつ、一応の抵抗は見せる高畑。そんな高畑の髪や襟元を掴んでむちゃくちゃに揺り動かしながらののしる尾崎。椅子や机に座って観戦する他二人。そして、正義感じみたものの後押しを受けることもなく、ただどちら側の味方にも敵にもなりたくはないなんて一心を言い訳に、教室の外で見ているだけの僕。
ホロコースト、9.11、サリン事件。そんなのを頭によぎらせて大したことじゃないと、都合よく納得させる。僕はこういう奴だ。触らぬ神に祟りなし。
「うっさいな、まじでうっさい」
 高畑が徐々に語気を強める。尾崎の手を振り解こうともがく。
「オマエっ、同じことばっか言ってんじゃん、おい」
 嘲笑まじりに尾崎は言う。他の二人も吊られて笑い、両手を叩いて拍手喝采。
「お前の下手糞なギターの方がうるさいっての」
 そう言って尾崎が高畑を押し飛ばす。
「もうちょっと、いっとこう尾崎」
「なんかでシコらせてみて、撮って、拡散とかは?」
 尾崎をはやし立てる二人。起き上がった高畑が、そこでようやく反撃らしい反撃に出る。
「なにお前。ほんと、なんだよ」
 そう言って高畑は、尾崎の胸元を腕で思い切り押す。少し後退りしただけの尾崎。
「うぉう、やばいやばい」両手を挙げて、掌を相手に見せる尾崎。余裕たっぷりに笑いながら後ろの二人をちらと見る。「おい、最強のコマンド技出たぞ、見た?」
 その時、廊下の一方から足音が近づいてきた。それに気付いて振り向いた時には、足音の主は僕から数メートルの位置にいた。トイレから出てきたところみたいで、怪獣ピグモンみたいに両手をばたつかせて水滴を振り落としながら、愛想たっぷりに微笑を浮かべて歩み寄ってくる。
 軽音楽部の部長、SNSいじめの標的。ブラックスミス。そして一応は僕の友達だった彼が、安達カイがいた。
「おう、おいすー」
「ああ、安達」と言いながら僕は、形だけの微笑を返す。
「なに見てんの?」安達は首を伸ばして目を細めて教室内を眺めた。そうやって彼が僕の横に立つと、身長がほぼ変わらないせいで体育の時間でもよくペアになったことを僕は思い出した。
「んー、なんだ……暴れて遊んでんの、あれ? 尾崎に、千葉とボンか。何してんだか」
 安達はその光景を、いじめと認識せずに、ふざけ合いと解釈した。僕はその違和感を口には出さないまま、ただ素っ気なくこう言った。
「いや、いじめてる」
 鼻でふっと笑うと安達は、強引に話題を変えた。
「笹井さ、昼休みライブにやる曲とかもう決めてんの?」
「え? あぁうん。さっき決めたとこ。そこの教室で」僕もあっけなくその話題にのった「あれってさ、結局一バンド何曲でき――」
 そこで安達は、教室の中の誰かと目を合わせたらしかった。笑みを浮かべて片手を挙げると彼は「おう」と口の動きだけで中にいる誰かに伝える。見ると、観戦している一人が安達に向かって楽し気に手招きしていた。安達と彼らの関係性を、僕は悟った。
「さっき部会で言ってたいじめってさ、もしかしてこれ?」  
 僕はさり気なく、鎌をかけるつもりで安達に尋ねた。
「いやあ、違う」安達はそう断定した。
「そっか」と僕は、安達にどうしてそう言い切れるのかを聞かずに、ただ相槌を打った。
「でもまあ、ちょっとやり過ぎてるしな。俺があいつらに言っとくよ。笹井よりかはあいつらと仲いいし」
「あぁまあ……確かに、そうかな」
 それから安達は、ためらいもせず教室のドアを開けた。けれどすぐにまた足を止めて、僕にこう言った。
「そういえば笹井、部費な。来週よろしく。俺でも稲原にでも渡してくれたら、まあ一番安心できるのは古林先生かな。とにかく、よろしくなー」
「あぁ、了解」
 安達は教室の中へ入っていき、僕は隣の教室へと戻った。
 あれから高畑がどうなったのかは知らない。あれから安達がどんなやり方で仲裁に入ったのかも知らない。知らないことが芋づる式に思い浮かんだ。SNSでのいじめ。ブラックスミスなんてアカウント。結のことも、自分のことも。

 四人での曲の練習のあと、僕はある女子と一緒に帰る約束をしていた。陸上部に入ってる高野未央だった。少しパーマのかかった黒髪のロングヘア。下唇と顎との間にある控えめな窪み。尖った耳。厚い唇。
 付き合ってる訳じゃなかったけど、さっきみたいにからかわれるくらいには仲が良かった。グループワークでふと趣味の話かなんかになったときに彼女と話が弾んだのをきっかけに、僕との彼女との距離は一息に詰まった。彼女は有吉ともう中学生が好きだった。ゼロ年代のバンドが好きだった。いわゆる『エモい』イラストが好きだった。ピアノが上手くて、キーボードの必要な曲を演奏する時には僕らのバンドに助っ人で参加したこともあった。
 僕と彼女が正式にそういう関係にならないのは、一つには僕が優柔不断で甲斐性なしだからだと思う。彼女が僕を好きだって確信はもちろん、僕が彼女を好きなのか、その確信も欲しかった。後者の確信は付き合ってから生まれるものかもしれない。そうも考えたけれど、その頼りない考え一つだけで関係に縛られるのも、面倒な関係を築くのも嫌だった。無闇に傷付けたりすることなんてない、矢鱈に傷付かない確信が欲しかった。
 そして二つには、いつでも男が積極的であるべきで逆に女が消極的であるべきだっていう不文律に、少なくとも彼女は寄りかかっていたからだと思う。付き合って下さいと、そう言われれば僕は雨粒の姿勢をとって流されるように、付き合いましょうと応えたと思う。一つの関係に縛られて不自由になるよりかは、断ってギクシャクすることを避ける思いの方が強かった。
「今度の昼休みのライブって、どの曲やるんだっけ?」未央が言った。 
「多分『小さな恋のうた』とか、その辺。まだちゃんとは決めてないけど」
「まぁたそれえ?」と、未央は笑い交じりに言う。
「いいだろ、別に。でもライブやるのは多分最後。もう受験だし、主役は一、二年」
「最後だからじゃん。最後だから、もっとなんかドンってインパクトのあるやつ――」
 未央は言葉を続ける代わりに両腕を前に伸ばし、カーディガンの袖を指の付け根の辺りまで引っ張った。
「そっちは?」僕は尋ねた。
「え、曲? そうだなぁ、私なら銀杏とかアジカンとか、ピロウズ、サンボやってくれたら、もしくるりだったら――」
「違う違う」僕は薄笑いを浮かべた。「陸上のほう、続けるの?」
「んんん」
 未央ははにかんで見せてから、手を大きく前後に嬉しそうに振りつつ応える。
「多分、他の、もっとやりたいことやる」
「やりたいこと? なんかあるの?」
 未央は得意げに僕を見て、意地悪そうな笑みを浮かべる。
「内緒ー」
「はぁ? うざ」
「もうなぁんで」
 そうやって僕は、あくまで川面や海面に落ちた雨粒らしく流される姿勢をとり続けるつもりだった。その流されやすさを、たとえば周りに気を遣いがちだとか、相手を尊重しがちだとかいう長所に置き換えて正当化する必要だってないはずだった。だけど、好奇心がその流れを堰き止めた。



























   四日目

 放課後の食堂。僕は未央と入口に一番近いところにあるテーブルを挟んで、パイプ椅子に腰掛けていた。
『石見川 橋』
 土、日の二日間。いつか調べようとしてずっと残し続けていた検索結果のページが目に映る。
「食堂でトランプやるかな、普通」
 口をとがらせて、未央が言った。僕は慌ててスマホをポケットにしまった。
「ん、なに?」
「ううん、あれ。っていうか、そもそもトランプって」
 未央が自分の肩ごしに後ろを指さした。見ると、四人くらいの集団が食堂の隅に集まってトランプで遊んでいた。揉み上げはつづら折りの山道みたいに湾曲していたりしていて、二人に一人はメガネ。二度見したのは、そこに高畑がいたからだった。
「たまに、ゲームしたりしてる時も見るけど」
 僕はなんの気もなさそうに言って、紙コップに入ったジンジャーエールを一口飲んだ。それから視線だけを高畑のいる方向に向けた。土曜日のあの出来事から、外見的には変わったところが無いように見えた。
 そのうちに僕の視線の先を追って、未央が後ろに首を回す。
「そういえば、高畑くん、知ってる?」
 向き直った未央が、ミルクティーのボトルを口に運びながら尋ねてくる。
「あそこにいるほう? 有名人のほう?」
 未央は飲み口に口をつけたまま、僕の質問の前者には頷き、後の方には首を横に振った。
「そりゃまあ、仲良くはないけど。なに?」
 キャップが開いたままのボトルをテーブルに置くと、未央は暖をとるようにそれを両手で包んだ。
「カイから聞いたんだけど、っていうかラインで教えてもらったんだけどね」いったん言葉を切って、彼女は続けた「土曜日、なんかいじめられてたんだって、高畑くん」
 僕は驚きも動揺もしなかった。
「カイって、安達が?」
「うん、それでなんかね――」言いながらボトルに視線を注ぎ、キャップを回して開けたり閉めたりを繰り返す未央。「最近部活で問題になってるSNSいじめと関係があるかもしれないからって、止めに入ったんだって」
 ボトルキャップをじっと見つめたままで未央が言った。怪訝そうな上目が、一瞬僕の方に向けられる。なにかもの言いたげな、探りを入れたがってるような気配が、彼女の口元に漂ってるような気がしなくもなかった。
「安達が自分から、そう言ってたってこと? やめさせたって」
 なにかがおかしいとは思ったけれど、何気ない感じに僕は尋ねた。
「うん……でもわたしも詳しいことはわかんない、かな。それから一人一人に事情を聞いて注意したんだーって聞いただけ。聞いたっていうか、ラインだけどね」
「ふーん、そっか」僕は言った「んまぁ、部会で言ってたよ。誰かから相談されたのか、どんな経緯で部長の耳に入ったのかは知らないけど、ただSNSでいじめがあるって。グループ作って――」
「ね、ね、ここだけの話。ミツル、誰が犯人とか知ってない?」未央がテーブルに軽く身を乗り出し、立てた人差し指を口に添えて言う。
「未央が知ってる以上のことは知らないって。土曜の部会で初めてそんなの聞いたんだし」
 僕の知っていることは、確証のない曖昧なことばかりだった。多分いじめられていた高畑。恐らく、SNSいじめの被害者である安達。もしかすると、その原因のブラックスミスって人物かもしれない安達。それから、土曜日に高畑をいじめていた連中に愛想よく手を振った安達。こういう糸が複雑に絡み合って、何も知らない自分が編まれていく。
「えー」
 未央はそう言って、また飲み物を口に運ぶ。僕は他の話題を食堂の中から探そうと、視線をゆっくりと一巡させた。
 厨房にいるおばさん、おじさん、メニュー表、壁掛け時計、換気扇、額縁に収まってるなんかの賞状と証書と古い写真、真っ赤なコカ・コーラの旗、いつかの卒業生が残したらしい寄せ書きみたいなもの、まだ綺麗な週明けの床、ポツンと落ちてる陽だまり、バレーボールのすぐ刺さりそうな平屋の天井、蛍光灯。避けていた場所が一つ、食堂の北西側の隅。
 ジンジャーエールをぐいと飲み干して、僕は立ち上がった。空の紙コップを近くのゴミ箱に入れ、また席に戻る。ただ腰を下ろそうとはしないで、テーブルに両手をついた状態で未央にこう言った。
「土曜のこと、本人に聞いてくる。実際はどうなったのってさ」
「え? 実際はって、違うかもってこと?」
「いや、わからないからって感じ」
「えぇ~」
 未央が賛否のないまぜになって浮かんでいる表情を僕に向ける。瞳には目薬一滴くらいの期待の色。
 それを背に、僕は食堂の隅まで歩み寄った。高畑に声をかけようとした時、彼の向かいに座っているストレートパーマで頭がぺちゃんこになっている男子が、いの一番に顔を上げる。
「高畑、ごめん、今いい?」
 僕が声をかけた途端、トランプで遊んでいた彼ら全員が聞き耳を立てたような、そんな静けさが落ちた。
「はい?」
 振り向いた高畑の顔に、あの土曜日があった。唇の左半分と左頬とに青あざ。哀れむような表情を僕は努めて隠そうとした。
「いや、やっぱり終わってからでいいよ。その――大富豪?」
 僕は出来るだけ愛想よく、口角を上げたりして見せながら尋ねる。
「いいやいいやぁ。別にいいよ、なに?」
 高畑がぎこちない笑みを僕に向けながらそう言い、鷲掴みにしたような手で前髪を何度か下ろす。土曜日の痕跡、それが奇妙に歪んで痛々しい。
「ああごめん。出来たら、ちょっとあっちで」それから僕はいかにも照れくさそうな感じに笑って見せてから小声で「うん、ちょっと下ネタっぽい感じの、そういう系の話だからさ」と言った。高畑を連れ出すうまい理由が思いつかなかった。
「えっ、そういう話で俺なの、俺なんですか!?」
 高畑はいきなり声高な調子で、僕にそんなツッコミを入れて笑った。
 すぐ横にいた襟足の長い男子が、引き笑いしながら「うちの高畑をよろしく、どうぞよろしくお願いいたします! もってって、もってって」と、食堂内に響き渡るぐらいの大声で叫びながら、大袈裟に頭を下げる。
「この、裏切りもんがぁ!」と高畑の向かいにいた男子。
 もう一人の色白の男子は、そんな様子を見て静かに笑っている。
 ネットやなんかから仕入れたような方言染みた口調。なにか元ネタのありそうなセリフ。そんな彼ら特有のやり取りを前に、僕も含み笑いじみたものくらいは浮かべていたと思う。自信はない。
 ただ板挟みになってるような感覚はあった。僕と彼らを友達同士として見ているかもしれない周囲の目と、僕を敵として見るかもしれない高畑たちの目。二兎を追わずにいるのは結構難しいし、だからといって諦めても、それで確かな一兎が得られるわけじゃない。
 なんとなく居たたまれない、やりきれない、もどかしい気持ちを引きずったまま、高畑を連れて食堂の出入り口に向かう。途中、未央と目が合った。僕らを横目に見ながらにやけていた。
「あぁ手札持ってきたら良かった。あいつらに見られる」少し遅れて後ろをついてくる高畑が、そんなひとりごとをこぼす「まあいっか、どうせクソザコだし」
 食堂を出た僕らは、ちょうど夕陽の陰になっている庇の下で立ち止まった。僕は話し始めた。
「そんな、大したことじゃないけどさ」
 高畑は何を思ってか、二十本くらい入りそうな傘立ての、その格子の上に腰を下ろそうとしていた。
「なんでございましょうか、笹井さん? 俺ってそんなにエロいこととかで有名でしたかな?」
 抑揚たっぷりに言いながら、高畑は何度も傘立ての上に座り直す。
「そこ、座ればいいのに」と僕は顔を綻ばせながら、すぐそばにあったベンチを指さした。
「いやぁ、もう座っちゃったし、そんなに悪くないんで。よかったら座ってみる?」
「いいって、いいって」
 変な理屈と一緒に変な誘いを受けて、僕は笑い交じりに否定した。
「いやはは、もったいないって~」
 高畑はそう言いながら晴れやかに、朗らかに笑う。その瞬間、高畑の下唇の内側に切り傷みたいなものが見えた。不意にパッと花開いたみたいに、目の前の高畑と二日前の高畑とが重なって映る。
 噛み潰した苦虫の味は祟りじゃない。神さまへ触れない程度に、僕はもう少しだけ手を伸ばしてみる。
「それでさ、高畑……」気の利いた言葉を探りあぐねて、仰々しいような間が生まれる。何気なく尋ねるつもりが、それで台無しになった。「土曜、教室でなんか、喧嘩みたいなことしてた?」
 僕がそう言った直後、傘立ての上に座り心地のいいところが見つかったのか、高畑は動きを止めた。そして自分の顔を指さして言う。
「喧嘩? 俺が?」
「うん、高畑が。俺、あの時となりの教室にいてさ――」
 そこまで僕が言いかけると、高畑は鼻から息をたっぷりと吐きながら笑みを浮かべた。
「わろた」彼は呟いた「いやぁあれは喧嘩って言うほどじゃあないって。ちょいとふざけてて――まあ顔にこんなシャンクスみたいな傷できちゃったけど、いんやシャンクスほどでもないか。とにかくまぁ喧嘩って思われてもしょうがないとは思うのだけれども、って感じで」
 目を伏せたり、かぶりを振ったり、合間合間で笑ったり。特にその引きつったような笑い方は、痛みを犠牲にして笑う盲腸の人がやるようなものに見えた。高畑の嘘に、強がりに、僕はとことんつき合うつもりでいた。
「あぁ、そうなら別に、さ」僕は自分の思い込みを恥じるみたいに、頭の後ろを擦った。「ただほら、安達が部会で言ってたSNSいじめとなにか関係あるのかなって」
「いじめとか、そんな大ごとじゃあないかな」高畑は声を上げて笑った。「もしそうだったら、俺だったらすぐに先生に言うって。わざわざどうもすいません、笹井センパイ。こっちは大丈夫、大丈夫」
 僕はなんとか笑って見せた。多分、盲腸の笑い方。
「なんか小島よしおみたいな言い方になったけど」
 笑みを引きずって高畑が言う。ポケットの中に向かった彼の両手は、第二関節のあたりまでしか隠れてなかった。
 
 石見川の橋――臥龍橋。海抜27メートル。そんな些細な情報と、イカロスの翼よりもずっと控えめなただの肩甲骨でしかないような好奇心。それからちょっとしたおやつを引っ提げて結の部屋の前。
「結ー。いい、入って? 笹井充」
「ササイミツルって、どの――」
「あぁーはいはい。ヒョロくて一番きもいササイミツルです」
 投げやりにそう応えて、僕は返事を待たずに部屋に入る。
 結はベッドの上で脚を投げ出して、壁に背をもたせかけて座っていた。パジャマじゃない。いたって無難そうな紺のジーンズと、赤褐色のセーター。民族風の柄のクッションを抱えて、直前の僕の言動に苦笑いを浮かべている。
「わあ。入っていいとか言ってないけど」
「あぁごめん。でももう入ったし、次からちゃんとするから」
 思いがけず口にしていた『次から』に太鼓判は押されてない。誰も知らないノーバディさんの折り紙付きでお墨付き。取り消そうかと少し迷って、僕は急いで話題を変えた。
「死んだふりの練習ちゃんとやってる? あぁそういえば、こんなの買ってきた」
 床に置いた鞄から、僕はコンビニで買ってきたおやつをいくつか取り出して、低い円形テーブルの上に並べた。コアラのマーチ、ビスコ、カントリーマアム、堅あげポテト。
「えっ……うわあこれ、なつかし」
「お腹空いてさ。ほら、食べよう。どれ開ける?」
「なにか、いいことでもあった?」
 僕を訝しげに見つめて結は言った。
「んー?」僕は学習机の方に向かいながらそう聞き返し、その椅子に無遠慮に腰かけた。「いいことって?」
「なんていうかなあ、テンション違うかなって」
 そう言われて初めて僕は、自分の明け透けになったというか、素直で率直になったというか、遠慮がなくなったというか、前回よりも自然と振る舞えているような自分の変化を自覚した。
 けれどこの変化を僕は、大して気にも留めなかった。前向きな形で受け取ったりもしなかった。つまり、疎遠になっていた僕らの関係がまた元通りになりかけているとか、そういう風には感じなかった。
「いやあ別に。なんでも、なんにもないよ」
「ふぅん、そう?」
 ベッドから立ち上がった結は、おかしの並んだテーブルの傍に座り込んだ。立てた片膝の上に顎をのせて、手に取ったカントリーマアムの成分表かなんかを懐かしそうに眺めている。
「でもまあ、いいことはあったよ。ちょっと先生に呼び出されて、色々めんどうなことに首突っ込まされて、ヘンに疲れて、ほんと最高に幸せで――あっ」体を椅子に深く沈めて、首をめいっぱい後ろに反らして、しわがれたような声で僕は言い添えた。
「部費、忘れてた」
「呼び出されたって、どうしたの?」
「進路相談の話で。それだけ」顔を仰向けたまま、僕は応えた「先生になったらさ、口だけでも生徒全員を心配してるとかって言わなきゃなんないのかなって。実際、嘘か本当かは置いといてさ。本気で俺を心配してるとしたら……あー、どう言ったらいいかな。別にその先生は悪い人じゃなくて、いい先生なんだとは思うけど――」
「誰かを心配しない自分が心配だから、心配してる振りをするみたいな。自分が気持ちよくなりたくて心配してるとか、そんな感じ?」
「え?」
 思わず結に目を向けた。弓も矢も持たずに的を射たような彼女の、その横顔を、僕はしばらく見つめていた。
「たとえば学校内に、自分の良い評判をちゃんと広めてくれるかなっていう、そういう心配とかならあったり――」
 気付けば、笑いそうになっていた。四葉のクローバーでも見つけたみたいな、飴玉の一つでも渡したくなるような、誰かに電話をかけたくなるような、そんな感覚だった。
「なんか、怖い……っていうか気持ち悪いけど、どうしたの」
「ん、なにが?」
「ええと、顔。笑ってるけど」
「笑ってた?」
「え、うん」
「……いやあ別に。びっくりしてさ。なんとなくしっくりきて」
 僕は眠気の溜まってるわけでもない瞼を、指先で揉みながら言った。汗ばんでいるわけでもない上唇のあたりを、手首で拭った。それから、こう口走っていた。
「うちの学校、SNSのいじめがあってさ」
 結が何を言ってくれるか、そんな期待もあったかもしれない。それに、結自身のことを尋ねるためにもまだ助走が必要だと思っていた。
「いじめ?」
「そう、あのイジメ。安達って、覚えてる?」
「んー、中学の時の安達カイ、で合ってる? 仲良かったよね」
 そう言われて感じた、ほんの少しほろ苦い。 
「うん、そいつ。本当かは知らないけど、いじめられてるのが安達かもって」
「……なにか、原因みたいなのはあったの?」
 結が僕を流し目で見やる。セーターの袖に半分くらい隠れた両手、それを立てた片膝の上にきちんと重ねている。
「それも噂だけど、なんか裏アカがあってさ。学校以内のやつらに結構ひどいこと、いろいろ書いてた。その裏アカの正体が安達らしいんだ。どれもこれも、人から聞いたことばっかりだけど――」
「カイって呼んでなかった? 違ったっけ」
 遮って結が言った。その落ち着いた声色は、問いかけているというよりかは、確認作業みたいな感じに近かった。
「あぁ、呼んでた。でもなんか、なんだろ――」
 目やにがあるわけじゃない目頭か目尻。僕はそのどっちかを、または両方を指で拭いながらこう言った。
「呼べなくなった、って感じ」
 字余りと字足らずが両立してるみたいな言葉。歯痒く感じた僕は目を逸らした。そしてまた目的も必要もなく、手をどこかに向かわせていたと思う。
「そっか」
 結は寂しげに呟いて、目を伏せた。
 理解や共感なのか、無力感や無関心なのか、それ以外か。結の示した素振りがなにを表しているのかを、僕はいまいち掴めなかった。
「あー、お腹空いた」
 沈黙がはっきりと形になる前に、それが耳元で騒いだりする前に、僕は言った。そして椅子から立ち上がり、お菓子の広げられてるテーブルのそばに座って、ビスコの箱を開ける。中に入ってる袋の一つを取り出し、そこからまたビスケットを取り出す。
「うん。久しぶりに食べるとおいしい。マックと一緒」一枚食べて、そんな感想を述べてみる「いいよ。どれ開けても」
 僕がそう言うと、結はカントリーマアムの袋を開けて、一枚を口に運んだ。
「うん、おいしい」
 特に表情を変えることなく結は言った。それから彼女は、座ったままの体勢で身をよじると、伸ばした手で木目調のゴミ箱をテーブルのそばに寄せて、そこにカントリーマアムの小袋を捨てた。
「ねえ、前に来た時、ミツルがヒトラーと足利義教の話したの、覚えてる?」
 口の中を空にした結が、何気なくそう切り出した。
「なんとなく」口の中に二枚目のビスケットを含みながら、僕は辛うじて応える。
「その二人って、地獄いってると思う?」
 結はビスコの箱を手に取り、パッケージに印刷された少年の顔をまじまじと眺め出した。
「んー、さあ」食べ終えてから僕は言った「もし天国行ってたら、なんかいろいろひっくり返りそうだけど。絶対に行ってないとか言えないしなぁ。わかんないよ」
「神さまなんてなにするかわかんないしね。私たちが信じたいことを押し付けてばっかりで、神さまさんも大変。ねービスコくん?」ビスコの箱に印刷された子供に、結が語りかける「私、このどこにでもいそうな感じの顔、大好き。みんながみんな、こういう顔で、同じ名前ならいいって思うんだけどなぁ」
 少しの間を置いて、僕は仰向けに横になった。
「先輩が言ってたけどさ」言ってから軽く溜息をつき、またすぐどこかに向かっちゃいそうな両手を腹の上に重ねて話を続けた「言ったっけ? うちの高校に生徒会長選挙に落選して練炭で自殺した先輩がいてさ。自殺したってだけで地獄に叩き落とされたらしいんだけど、死んだ後でその人からラインでちょっと話したんだ。地獄でヒトラーに会って、敬礼のやり方が違うって怒られてるところだとかなんとか。踵を思い切り打ち鳴らせってさ。ただまぁそこにも、見張りの悪魔みたいなのがいて、ヒトラーが後ろを通り過ぎる悪魔に気が付いた途端、急に優しい口調になって『まあそれはそれで、いいとは思うよ』なんて言ったらしくて――」
「いいよ、別に。遠回しに聞こうとしないでも」
「なにが?」
 横になったままの姿勢で、僕は視線を結に向けた。彼女は、絨毯の上から一本の髪の毛みたいなものを摘まみあげて、それをゴミ箱に捨てると、僕を見下ろしてはにかんだ。
「なんで死のうとしたんですかって。そういうこと聞きたかったんでしょ?」
「あーまぁ、それも気になるって言えば気になる」
 図星を突かれて、どうしてか僕はそんな風に言葉を濁した。
「あれ、違った?」
「ううん、そう」
 視線を天井に向けながら、それとなく軽い感じに僕は応える。それから場が重くなったりしないように、伸びをしたりしながら切り出した。
「石見川の橋。名前は臥龍橋で、高さは27メートルだって」
「えと、私が飛び降りたところ?」
「そう。だから、死ぬには高さが足りないらしくてさ。ただ飛び降りたかっただけ? それとも溺れて、死ぬつもりだったの?」
 そう尋ねると、結は溜息をついた。そして彼女も絨毯の上に仰向けに寝転んだ。
「そうなんだ……ううん、でもそこまで考えてなかった。ただ前にも言ったと思うけど、なにか変わるかもって、それだけ」
「なにか、変えたかったの?」
「多分、そんな感じ……かな」
 結は物憂げにそっと呟いた。それから一呼吸置いて続けた。
「これから言うこと、嘘だって思ってくれる?」
「え?」と聞き返して、僕は後ろに両手を突いて体を起こした。 
「言おうと思えば嘘なんかいくらでもつけるから、私、嘘ついちゃうかもしれない。自分を守るためとか、自分を良く見せるために――っていうよりかは、嘘にしかならない感じがする。どう言っても結局何かが足りてなくて、なにかが欠けてて、なんだか違うって。だから私が言うこと、嘘だって思ってくれたらって、ね」
 結はそんな前置きの言葉を淡々と響かせた。額にのせた左腕が顔の半分を隠している。宙のどこか一点を見つめている右目だけが、僕の側から見えた。
「別に思わないけど。でもその方が言いやすいなら」
 僕が応えると、結は一瞬だけ頭を起こしてその位置を整えようとした。片方の手で後ろ髪を撫で下ろしながら、また頭を寝かせる。
「ビスコくんも、ちゃんと聞いといてね」
 返事を期待したわけじゃなかったけれど、僕はテーブルの上に置いてあるビスコの箱をちらっと見やった。それから、僕もまた仰向けに倒れこんだ。
「ちょっと、ヘンになったみたい。高一の頃からだんだんとね。なにかきっかけがあった訳じゃなかったの。映画とか小説に出てくる人たちみたいな、悲しくて仕方ないことがあったわけじゃなかった。ただなんだか、いろいろ周りと食い違いだして、ギクシャクして――それで気付いたら、なにもかも嫌になってた」
「ギクシャク?」
「うん。簡単に言えば、そんなの」
 気怠そうな溜息で、結は言葉尻をくるむ。それから息継ぎじみた間をとって、結は続けた。
「初めはうまくやれてるって思ってた。どうでもいいものを好きになろうとして、実際好きになれたって思ってた。楽しいって、思ってたんだけどね。でも、そんな風に自分に言い聞かせて、思い込もうとしてるだけだったみたい」
「どうでもいいものって、たとえば?」
「ほら、これとか」
 首を無理に起こして結の方を見る。横になったままで視線を上に向けた彼女は、くるくると回した人差し指に、もうほとんど黒に近い茶髪を巻きつけていた。
「それで、染めてたってこと?」
 彼女はこくりと頷いて、指に巻きついた髪をそっと解いた。僕はしばらくの間、両方の肘を床について結の様子を眺めていた。
「あーでも違うっか、どうなんだろ。これがホントにどうでもよかったら、もうちょっとマシな気分かも。とにかくね、こういうのがいくつも複雑に絡んでて――テレビ台の近くによくあるコード類みたいにさ。もう、どれがどれだか分からなくなっちゃった」
 言い終えると結は、僕とは逆側に寝返りをうった。左腕を枕にして、右手を顔の正面に。うずくまるような形に、ほんの少し体を丸める。
「とにかく……なんていうか疲れちゃった。誰が誰をフォローしてるとか、誰と誰の仲が悪いとか、髪型がダサイとか、年上とつき合ってるとか、そういう話を聞くのも。ボランティアとか恋愛経験の豊富さ、フォロワーの数、自分の宣伝のために、あれこれ手を変え品を変えて競い合ったりとか、そんなのを見るのもホントに――」
 思い当たる節はあった。僕という奴もその中にちらほらいたはずだったからだ。言うべきことが余計に見つからなくなった僕は、ただ聞き上手ぶって黙っていた。
「でも一番最悪なのは、そういう嫌なことをしてでも、誰かを傷つけてでも、どこかに交じりたがろうとする自分がいるってこと。自分が一番嘘つきで、欲張りなくせに、他人にどうこう言う権利なんて絶対になかった。汚い雑巾だったのに、それで床を綺麗にしてやろうってつもりになってた。それで他人に押し付けた理想の分だけ、それがそっくりそのまま自分に返ってきて、自分の汚さに気付いて、理想も現実もゴチャゴチャになって――おしまい、ばたんきゅ」
 弱々しく言葉を漏らして、結は口を噤んだ――かと思えば急に身を起こして、またテーブルの上のお菓子の箱を手に持って眺めだした。
「聞いてる、ビスコさん?」それから結は困ったような顔つきと、ビスコのパッケージを僕に向ける。「ほら見て。自業自得って言いたそうな顔してない?」
 それを笑えなかった僕は、あえてビスコに語りかけるような調子で言った。
「でもさ、ビスコ。俺頭良くないから分からないけど、その誰かさんのその……理想とかってどんなのだと思う?」
 ビスコ相手なら、自分の舌に脂がのるような気がした。僕とビスコと結の三点を通って曲線を描いている会話の空路。その軌道から少し逸らしては少し戻す、そんな蛇行が僕らの最短距離かもしれないと思って、続けた。
「それともう一つ、俺がその誰かさんに会いに来てるのも、多分いやらしい理由があると思うんだけど――たとえば嫌な奴って風に思われることが嫌だったり、正義感をひけらかして自分を良く見せるためにとか――実際、なんでだと思う? 好奇心だけって言ったら怒るかな」
「誰かさんは、そんな風に嫌らしい理由があるって思われることを承知で会いに来てくれたのは、まぁ嬉しくなくはないって思ってるんじゃないかな」
 結の声にそっくりなビスコが、全身をその箱ごと上下させて応える。
「それならまぁ、よかった」
「理想は……なんでしょう。理想ってほどでもないけど、今好きなものは……猫じゃらし、かな?」
「ネコジャラシ?」
「そういう本のタイトル。主人公は見た目も名前も不明で、ただ自分が猫じゃらしだってことと、自分が十歳の男の子だってことしか知らないんだって。良く分からないけど、自分を使って遊んでくれる猫を、色んな世界を、世界中を旅しながら探そうとするの」
「その本が、好きなの?」
「好きかって言われると困るけど、でもいいなぁとは思う、かな。途中で空っぽの鳥籠だったり、姉のいない妹だったり、ガラスのトウモロコシ、そういうのがいたり――でも最後には、自分の生きてきた世界と猫を交換するんだ。これまで生きてきた世界と交換だから、自分も含めて消えちゃうんだけどね」
「猫がいなくなってるってこと? その世界から」
「ううん、ハッキリとは書いてなかった。ハッキリしてるのは、どの世界に行ってもみんなが同じ名前をいくつも持ってるってこと。ええと――たとえばその世界にミツルがいたらね、ミツルはミューラーさんって呼ばれたり、サトウさんって呼ばれたり、ゴンザレスさんって呼ばれたりする。でも、それが全部正しいんだ。ミツルはミューラーさんで、サトウさんで、ゴンザレスさん。それからガルシアさんでもあって、リさんでもあって、スミスさんで、オウさんで、私も同じって感じで……」
それから結は、ふと我に返ったみたいに言い添えた。
「ね、ビスコさん」
 僕の頭にブラックスミスがよぎると同時、結が痛ましそうに口角を歪ませた。口を固く引き結んで、唇を口内にしまいこむという一連の動作のあと、結は僕にちらっと目をやる。僕がその口元から悪感情を読み取ったことを彼女は察したらしく、僕の指摘を受けるよりも早く言葉を紡いだ。
「やっぱりヘンな感じ、こうやって自分のこと話してると」
「ヘン?」
 凝ってもいない肩のストレッチのついで、そんな感じに僕は聞いた。
「ヘンって言うか、ね」結はビスコの顔を、親指でなんども撫でながら言う「授業中に先生からあてられたときも、休み時間に友達となにか話そうとしたときも、スマホをいじってるときも、電車を待ってるときも、いつでもどこでも、さっきのサトウさんみたいな誰かがどこかで見てる気がして。髪を染めて、鏡を見る回数が増えた自分に気付いた時もおんなじ。それが、ヘンな感じ」
 赤ちゃんをあやすみたいに、結はお菓子の箱を宙に掲げる。それから箱の底面を覗き見るように、首を傾げながら言った。
「なんかこういう映画あったよね、なんだっけ」
「んー、ライオンキング?」
「あぁ、それかも。幼稚園の時、劇でやったの覚えてる。シンバ役が何人もいて、私もシンバ役だった。すごい数のシンバが順番に何回も持ち上げられて、いま思えばすごい――あー、どこまで話してた?」
 僕は鼻で笑ってから応えた。
「サトウさんが、そこらじゅうにいるってとこ」
「あぁ、そうそう」お菓子の箱を机の上に置いて、結は両脚を抱えて体育座りの格好になる。「ただの自意識過剰かなあ、結局。でも分かってても、それでもサトウさんも、リさんもスミスさんもどこかにいて、私もみんなも全部嘘で、退屈で、薄っぺらいってことで頭がいっぱいになったりして。その人たちのモスキート音みたいな声が聞こえてきそうな気がしてさ」
 指のささくれ、爪先、薄皮。そのどれかを、または全部を両手でいじりながら彼女は続ける。
「全部が私のじゃなくて誰かの、誰かからの借りものの悩みだって思っても、そう思ったとたん、借りたものを返さなきゃならないことを考えて。借りれるものがあるってことがどれだけ恵まれてるのかも知らない自分も嫌らしくて。傷ついてる振りして自分に酔いしれようとしてるだけかもしれない自分も気持ち悪くて、こうやって先手を打って口に出して自分を守ろうとする自分もそう。守る、ほらまた守る、また守った。どんどんどんどん自分を増やして。ちょっと前までは、髪の色変えるだけでなにか変わるって思ってたバカなのに――」
「結」
 僕は呼びかけた。自分を咎めては責める彼女に同情をかけたとか、そういう衝動じゃない。自分を守るためだった。まるで他人事じゃないような、遠く離れて深く沈んでいた自分のところにまで届くような、僕の知らなかった僕を抉るような、そんな響きを徐々に帯びてくる結の言葉に巻き込まれたくなかった。自分の嘘や汚さに、それほど苦しまなかっただけの僕。だから僕は、そんな僕という自分を守るためでもあるみたいな次の言葉を反響させた。
「それじゃあ、自分に厳しすぎるんじゃないの。完璧主義っていうか、それだといつかぶっ壊れて――」
 そこまで言って、ハッと口を噤んだ。彼女の起こした行動と、自分の発した言葉とがぶつかり合った。いやむしろ、ぴったりとはまった。
 結は軽くかぶりを振って髪を揺らし、前髪を指で丁寧に分ける。なんだかその仕種を相槌の代わりにしたみたいだった。
「私が言ったこと、まだ嘘だって思っててくれてる?」
 結は溜息をつきながら、また仰向けに倒れこんだ。頭の上に横たえた右腕、その肘の辺りに左手を添える。
「うん、嘘。分かってる」
「ならよかった、ホントに」
 

   五日目

 授業中。左に一つ、前に二つ離れた席に座っている橋本の姿勢。足首のところで交差させた両脚。ボーカルなのにドラムスティックみたいな形でシャーペンを持っている右手。猫背。頬骨になんとか引っかかってるような頬杖もどき。
 自分の姿勢が彼の姿勢とそっくりなのに気付いて、なんとなく小恥ずかしくなった僕は、さり気なく居住まいを正した。
 自分らしい座り方をあれこれと試している内にチャイムが鳴る。休み時間になると僕は、教室から出ていこうとする古林先生に話し掛けた。
「おう、どした笹井」
 引き戸に片手を突っ張って、後頭部を掻きむしり、口だけをくいっと動かす笑みを一瞬見せる。もちろんこの時も袖は捲っていて、両腕は綺麗に露出している。剃ったのか、元からそうなのか、腕の毛は一本もない。
「『猫じゃらし』って本、知ってます? 海外の本らしいんですけど、どういう内容かと思って」
「おぉっ」質問が意外だったのか先生は目を丸くした。「いや、有名な本か?」
「多分、はい。ネットで調べればあらすじくらいは出るんですけど。あとはレビューなんかががちらほらで――」
「猫じゃらしか」先生は記憶を探るように視線を上に向け、腕を組む。そして思い出したように言い足した。
「……あ、猫じゃらしってあれか。なんだ、読みたいのか?」
「まあ、はい。まだ興味本位で調べただけですけど、そんな感じです。ネット上のレビューとかよりは信用できるかなって。それで、なにか聞けたらって感じで」
「それなら、とにかく読め読め。他人の感想で気が変わる前にな。最近はネットのページや本の解説をする動画、そういうのだけで読んだ気に、理解した気になってるのが多いからな」
「そうですね」
 僕は軽く頷きながら言った。そして、鎌をかけた。
「ロシアにも生えてるんですね、猫じゃらしって。その、ロシア人が書いたって知って、日本だけだと思ってました」
 古林先生は、組んだ自分の両腕に一瞬だけ視線を落としてこう応えた。
「ああ、でもうまいこと訳したんだろうな。猫じゃらしって名前は、確か国ごとに違ったはずだと思うが、ロシアでもまた――」
「なるほど。ありがとうございます、わざわざ」
 進路の話を掘り返される前に、そうやって簡単な礼を述べて会話を断ち切り、僕は席に戻った。
 結の家から帰った昨日の夜。僕は『猫じゃらし』の著者のウィキペディアに軽く目を通していた。その人が書いた長い小説はそれだけで、あとは短編がいくつかと膨大な量の日記があるってこと。第二次世界大戦でおかしくなって、それっきり筆を折った。名前はオリバー・スリープ。ロシア人じゃなくて、アメリカ人。
 先生が知ったかぶっていたのか、それとも僕に適当な返事を返しただけなのか。それはもちろん分からない。
 でもその時の僕が、先生の知ったかぶりを知ったかぶっていたのは確かだ。そうやって知れるはずのないようなことを知ったと思い込んで、決めつけていた。好奇心がもう好奇心なんかじゃなくなりかけていた。


  六日目

『猫じゃらし 小説』
『自意識過剰』
『うつ』
『オリバースリープ』
『不登校 有名人』
『引きこもり 有名人』
 ポケットからスマホを取り出す。時間をおいて改めてその検索結果の羅列を見直した時はまるで、スマホなんかじゃなく、破れて散り散りになってぐちゃぐちゃになったティッシュの破片を見つけたような気分になる。
 それでも僕は、曖昧と不確かで溢れ切ってる情報を、錯綜しきった嘘を、素知らぬふりして頼ってしまう。食べられないビスケットを増やすために、ポケットを叩き続けるような感じ。
『ブラックスミス ツイッター』
 最後に、そうやってもうひとつビスケットを増やす。

 放課後。僕は安達を探した。
 彼は廊下の一番端にある『3―9』の教室にいた。レスポールの赤いギターを太ももの上に乗せて、教室の真ん中あたりの席に座ってスマホを弄っている。
 教室内には他に彼のバンドメンバー二人と知らない女子が一人。黒板に落書きをしていた。笑顔のドラえもんの口元からギザギザしたふきだしを伸ばして『青春とは絶望である』なんて言わせて遊んでいる。
「安達、ごめん遅れて、部費」
「うぉビビった!」
 安達が驚いたって感じに顔を上げる。
 たとえ、僕が教室に入ってきたことを視界の端だとかでちゃんと見てても、同じように少し驚いたって感じの表情を向けるに違いない。過剰なリアクションをする自分に、または何かに集中してる自分に、特にそんな自分の横顔に惚れ込むようなやつだって、僕は思った。
「そんなに?」
 僕は控えめに笑ってみせて、部費の千円札を彼に渡した。
「借金完済まで、あと二百万と四千ちょっと?」
「あぁ、それぐらいかな」
 そんな風に飛ばし合った冗談が、やけにじれったくて無意味なものに思えてくる。
「これで全員分、揃った?」と僕は、部費のこと以外にも用があるような態度を隠そうともせずに、隣の席に腰かけて言った。
「おう、笹井が最後。でも一応笹井の分は、部会の日に代わりに払ってあったから――」
「あぁ、そっか。そりゃありがとう」
 安達はスマホを机に置き、ギターを片方の腕で押さえながら体をよじらせると、エナメルの鞄から封筒を取り出した。
 何気ない会話の何気ない空気、それがどこかに行ってしまう前に、僕は何気なく切り出した。
「なんか高畑、いじめられてるって思われたくないみたいでさ」
「ん? 高畑?」
 封筒に千円札を詰めながら、安達は僕を尻目に見る。
「うん、部会の日のあれ、ちょっとふざけてただけとかって言っててさ。本人は」
「あー、変なプライドみたいなのがあんのかもな」彼はまた身をよじって、閉じた封筒を鞄にしまう。それからにやりとして、こう続ける。
「ってか、直接いじめられっ子ですかって聞いたの? すごいな、笹井」
 そう言って安達はケラケラ笑う。
「んなまさか、遠回しにって感じ」
 空笑いさえせずに僕はそう応えた。そして、さり気なさを意識しながら言った。
「それでさ、あの時安達さ、高畑がいじめられてんのはSNSいじめとは関係ないって言ってただろ? だから、なんか知ってんのかなって」
「んあぁ、なるほどな」そうこぼすと彼は、左手でギターのコードを押さえ出した。「んまぁ、高畑があいつらに――藤本とか尾崎に嫌われてるってことくらいは知ってたから。まあ関係ないかなって思ったわけ」
 言い終えると、安達はギターをジャランと奏でた。そして、一つ一つの音色を確かめるみたいに、左手でコードを変えては右手をゆっくりと下ろして弦を鳴らす、その動作を繰り返していた。
 何気ない空気が消えるスレスレ。そんな間のあとで、僕は言った。
「未央から聞いたけどさ」
「ん、誰って?」
「……未央」
「あぁ、あいつね」 
 途端に安達の語調が素っ気なくなったような気がした。
「あの日、SNSのことと関係があるかもしれないから止めに入ったとか、そんな風に安達からラインで聞いたって」
 直後、安達はギターを弾く手を止めて、声を上げて笑った。
「あぁ、それが気になってたってことか」
「まあそんな感じ」
「そっかそっか」笑いに尾を引かせたまま安達は言う「うん、そうそう。実際関係あると思ってたんだよ。SNSのことと。ぶっちゃけ言うけど、俺、高畑がSNSいじめの犯人と思ってて、問い詰めようとしてたんだよ。尾崎とかにも頼んでさ」
「高畑が? なんで?」
 僕のほうは真面目な顔つきだったと思う。
「なんでだろ、なんとなくかな」
「なんとなく?」
 強めるつもりのなかった語気が自然と強まって、迫るような形になった。
「そ。結局違ったけどさ。証拠っぽいもんもなかったし」
「証拠?」
「そう、証拠。無理やり携帯とって、ツイッター開いた。誰かがなりすまししてるっぽくてさ。それも、わざと誰が書いてるのか、つまり誰の裏アカなのかがあからさまな感じの発言したりしてさ。めちゃくちゃなこと言いまくって、偽の裏アカだとも知らずに騙されてるやつが見れば、なりすまされてるやつが風評被害に――」
「ブラックスミス?」
 踏み込んだ。その足が地雷を踏み抜くどころか地震でも起こしたみたいに、安達は僕に顔を向けた。
「笹井、知ってんの?」
「聞いた。熊田から」
 安達は溜息を漏らして、両腕をだらりと垂らす。ギターが落ちそうになったけれど、正気に戻った両手が危うく抱え直す。
「なりすましって――誰かがブラックスミスって名前のアカウントで、安達になりすましてるってこと?」僕は尋ねた。
「うん、そうだよ。ってか、びっくりだな。でも知ってるか、まぁ知ってるよな。あれ、笹井も俺だって思ってた?」
「ごめん、正直そう」
 さっきよりも大きな溜息が安達の口から出た――というよりかは吸い取られたって感じだった。
「あー、まじでそいつ、めんど。まじで殺してやる。じゃあ笹井さ、曲のこととかも知ってる? オリジナルの」
「曲って?」と、それを聴いたことのなかった僕はあえて知らない振りをした。
「ん、また話が違ってきて――まぁそれは関係ないけどさ」安達は首をがくりと垂らした。「部会で俺が言ってたのは、自分のことってわけ。知ってるのは、土曜日にあれを頼んだ尾崎たちくらい。あと古林先生も知ってるけど、でも結局なんもしてくれない。っていうか、出来ないんだろうな、先生にも色々あって――」
 その時、黒板に落書きして遊んでる連中のバカ笑いが響いた。僕と安達は、彼らの方をちらっと見る。男子の一人がブレザーの裾のところに黒板消しを落としたらしく、そこにチョークの粉が付いていた。
「でもなりすましって、安達はなにか恨まれるようなことした覚えとかは? そういうことされるような――」
「ないね、ないない。でも、やろうとする奴らの気持ちは億歩、兆歩譲って分かる。世界中の色んな差別の原因なんかも意味わかんないしさ。なんでか変な些細なことで――些細なってのは、お前のことじゃなくて小さくてくだらないって意味の、うん。そういうことでさあ、だから誰にだっていくらでも、いじめられるような理由なんか与えれるしさあ……いや、前言撤回。わかるかクソ。誰か分からんけど死ねよガチ」
 安達の口調はだんだんと荒く、最後には吐き捨てるようになった。悩ましげに組んだ腕の先、手の甲に浮かぶ血管が、妙に立体的に見えた、気がした。
「はぁーあぁ」形にすると心電図の波形みたいな、そんな抑揚のついた声を、彼は溜息と一緒に吐いた。「知らんね、マジで。岡田先輩のコネで部長になれたとか、そんなんで嫉妬されてるかもしれないってのがワンチャン。もしかしたら中学のときの俺をしってるやつかもしれない。高校デビューして調子のってるなんて思ってるかもしんないな。理不尽だし、だからキリがない。そいつが性格くさってる、それだけわかってる」
「それって――」
 そう僕が言いかけたところで、安達が溜まっていた鬱憤を晴らすように叫び、ギターをメチャクチャにかき鳴らした。
「あああぁ! あぁ腹立つ!」
 黒板に落書きをして遊んでいた集団が振り向いた。お互いに目を合わせてからの失笑。
「安達」僕は言った「それじゃあ俺も、そのブラックスミスさんにかもしれないって感じ?」
「いんや、まあどうだか。そりゃ可能性はあるけど、でも疑ってはないな」
 不完全燃焼の怒りは、安達の表情と声にまだくすぶっている。
「なんで?」
「笹井だったら、前の土曜日のことをさ、ああいう悪評の的にしやすいことを書いてるだろうし。たとえば『T君いじめてやった』とかそんな風に」
「まあ、確かに」
 僕の口から出たのは、波風の立たない便利な同調。
 言うべき言葉は他にもあったはずだった。土曜日のあれは悪評として広まるべきいじめだなんて文句。SNSいじめの犯人の目星をつけた理由が『なんとなく』だってことに対する反論。仮に高畑がブラックスミスだったとしてもふざけてる、やり過ぎだ、安達にも非がある、安達も悪だ、そんな非難。
 だけど、土曜日のあの光景をただ突っ立って見ていた僕にそんなことが言えるはずもなくて、安達に敵対することになるようなそんな言葉を、僕は口には出さなかった。違和感も表さないようにした。むしろ僕は、安達の打ち明け話やあけっぴろげな態度を伝手にして、また中学の頃みたいに仲良くなれるんじゃないかって期待した。そして喧嘩じゃなく、媚びを売った。
「俺、熊田に教えてもらって入ろうか?」僕は言った「そのライングループに。スパイって感じで、さ」
「……あー、まじ?」
「うん」
 安達は口を半開きにしたまま、物思いに耽るみたいに顔を仰向けた。
「じゃあ、うん。なんもないよりマシだし――悪いけどそれ、頼もうかな。熊田に、グループの招待送ってもらうって流れ?」
 安達は腕を組み直す。そして僕を見やる。
「そうかな。あいつから聞いたし」
「オッケ。入ったらまず、俺の悪口何個か言えよ。それはしょうがなしに許すからさ」次いで自嘲的な笑みを浮かべると、彼はこう続けた「すぐ思いつくだろ?」
「百個は厳しいかもしれないけど、十くらいなら」
 軽くくすぐられたみたいな笑いが僕らに湧き起こる。
 これでよかったって、そんな風に僕は思った。
「んじゃあ、期待しようかな。あと、二週間後のライブも。高校最後、頑張ろうぜミツル」
「安達も、お互いさま」
 勝手にいい気になって、うまくやれた気になっていた。
「そこは下の名前でよろ。中学ん時みたいに」
 自意識過剰でも完璧主義でもない。そんな僕のところには『猫じゃらし』のサトウさんやスミスさんなんて来ない。後ろ指をさしてくるやつなんていない。そう思っていた。
「じゃあまた。カイ」 
 教室を出て、スマホを取り出す。
 ポケットの中のビスケットが一つ減って、軽くなった気がする。


  七日目

『笹井です。よろしく』
『三組の?』
『おいすー』
『どんどん人増えてってワラ』
『おいちょうど新曲きたぞ笑』
『まじですやん』
『九州の方で地震起きたけど、安達なんかした?』

 そのライングループには、僕が聞いたことのなかった名前の生徒もかなりいた。人数はだいたい一クラス分。半数が熊田や稲原を筆頭とした軽音楽部員。驚いたのは、高畑もそこにいたことだった。
 高畑が知らぬ存ぜぬを貫いていたのは、このグループの存在をひた隠しにしようとしていたからなんだと察しがついた。
「でさ、なんかすごい低予算で作ったらしくて……ねぇ、ミツルさん?」
「ん、あぁ」
 つい生返事になった。すぐにスマホをポケットにしまって、僕は未央の話を聞き入れる体勢に入る。
 祝日。映画館から出たばかりの僕らは、同じショッピングモール内のモスバーガーで話をしていた。
「来週はあれ観に行こ。予告でやってたやつ。星の王子さまのアニメっぽいの」興奮冷めやらぬ調子で、未央が続ける「私最近、本読むのとかちょうどハマってるんだ。星の王子さまもつい一か月くらい前に読んだばっかり。でもどっちかって言うと、おんなじ作者が書いた夜間飛行って話の方が好きなんだけどさあ」
 僕はコップに入った水を飲みながら相槌を打った。
「そうだ、聞いてよ。この前ね、ツイッターでその感想文みたいなの、夜間飛行の感想文みたいなの呟いたの」
「誰が?」
「誰って、わたしわたし」
「ああ、未央」
「って言っても、何て言うのほら、リアリズム的なのはなんとなく感じて、私もそこは感動って言うか、良いなって風には思えたけど、でも無駄な文が多くてもっと引き締められたのかもとかって――」
「なにリズム?」
「リ、ア。リアリズム。それからあとはちょっと、嫌われる勇気っていう別の本を引き合いにだしたりしながら、そんな適当なことなんだけど」
 未央はそこで一旦言葉を切った。それから、まるでどうしようもない厄介事に巻き込まれて疲労困憊って具合に愚痴りだした。
「はぁ――でさあ、別にそんな大したのじゃないし、誰でも言ってそうなことなのに、でもびっくりするくらいイイネがいっぱいついたの。夏の家族旅行の写真とかよりも、ずーっと多かった。そりゃ付かないよりはましだけどなんか、ちょっとやりきれなかったな」
「あぁ確かに。なんか、あれかな」
「だよね? すごい綺麗な旅行の、数日の思い出よりね、十数分だけ使って書いたことのほうがウケるとかって。なんかほんと、ちょっとなぁって」
 僕は水の入ったコップを口に運びながら頷いた。
「それだけでいいの? 水以外になにか――」
「ううん、いいよ。そんなお腹減ってないし、これで充分」そう言って僕は四角い氷を頬張り、それをガリガリと噛んだ。「やっぱモスの氷が一番おいしい。未央も食べる?」
「いい、いい」
 首を横に振りながら、未央は微笑交じりに応える。そして中断した話に戻った。
「それでね、今のそのツイッターで書いたことを、この前お風呂入ってる間にお母さんに見られちゃって……それだけなら別にいいんだけど、その後でね、お母さんに『新聞にエッセーコーナーがあるから応募してみたら?』なんて言われて、それが恥ずかしくて、ほんとうに最悪だったんだ」
 未央は溜息をついて、浮かない顔を見せる。僕は合間合間で、さも感心してるみたいな、同情してるみたいな相槌を挟む。
 どうしてか僕は、未央のこの話を聴いて、本当は自分から親に画面を見せたか、それともわざとその画面を開いたまんま、誰かの目に映るようなところにスマホを置いていたんだろうなんて考え出していた。
「親とかって、どうしても子供にえこひいきするじゃん。たとえばアイドルのだれだれに似てるとか、女優のだれだれに似てるとかって。だから、素直にそういうの受け止められなくてさ。まぁほんのちょっとは嬉しいけど――」
「水っておかわりとか出来たっけ」
「……みず? なんか注文しないといけないんじゃない?」
 僕は、何か注文する訳でも無いのに、カウンターの上にあるメニュー表をじっと見た。それから「まぁいっか」と呟いた。
「なんか面白い本とかってない?」
 未央が不意に話題を変えた。
「え、なに?」
「ほんほん。面白いの、なにかないかなぁって」
「あぁ……さあ。俺あんまり読んだりとか、しないからさ」
 多分未央は、僕に同じ質問を返して欲しいんだろう。その後で、質問の答えとして自然な感じに自分の読んだ本のことを、ある本を読んだ自分のことを見せびらかす。そんな狙いがあったに違いない、そう僕は思った。
 彼女の期待通りに質問返せば独壇場。ギャツビー、ティファニー、ショーペンハウエル。そんな感じの言葉をどんどんと、マシンガンみたいに未央は放つ。
 弾を込めなおそうとした彼女の隙を見て、僕はプレートの上からナプキンを取った。そして落ち着きのない子供よろしく、ナプキンをぐしゃぐしゃに丸めて、限界まで小さくして、その紙屑を指で弾いて未央の方に飛ばしたりする。二枚目のナプキンをとって、それを半分に折る。月に届くくらいまでそれを半分に折り続けて、また飛ばす。
 さすがの未央も、そこで僕の無関心を察したみたいだった。飛んできたナプキンの弾を摘まんで、ぞんざいに僕へ放り返す。それから彼女は、自分のそのほんの少し素っ気ないような態度を詫びるような具合に苦笑したかと思うと、ぎゅっと口を結んだ。けれどまたすぐに、ぎこちない苦笑を浮かべた。
「ミツル、なんかあれ、今日体調悪かったりする?」
「ん、体調?」未央をちらっと見る。視線はすぐさま逸れて空のコップに。手はまたナプキン。「別に――悪そうに見える?」
「うーん、ちょっと……そうかなって」
 未央はその苦笑ごと、首を傾げて言う。
「いや普通に――結構楽しいけど」装っていた無関心を、そこで剥がそうと思って僕は微笑した。「そんな感じに見える?」
「ううん、いやまぁ、なんとなくって」
 僕はへらへら笑いながら、自分の顔色の悪さを確かめるみたいに、両手で頬を揉んだり擦ったりした。それから、未央に対する関心がまるで今よみがえったみたいに、彼女の機嫌を取り戻そうと今決心したみたいに、僕はふと思いついた質問を投げかけた。
「そういえばさ、猫じゃらしって名前の本とかって、知ってる?」
「あーなんだっけ、聞いたことあるかも」
 首を傾げながら曖昧な答えを返すそんな彼女が、やけに心に引っかかった。

『オリジナルの曲聴いて、参加しました。なんか嘘っぽいっていうか薄っぺらい。退屈。って言う風に感じたの俺だけ?』
 そんな文面を打って、グループに送信した。
 送信した後になって気付いたのは、それがこの日の未央に対する正直な意見でもあったということ。そして、それがどこかで耳にしたことのあるような言葉だったということ。
 この借りものの言葉と受け売りの感情。思い出した先にいたのは結だった。


  八日目~十四日目

「隣町まで自転車で行こうとしてたでしょ? あの時、確かスタンドバイミーかなにかの影響受けて」
「あぁあった、ピストルも死体もなしで。自転車のギアで遊び過ぎて、それで壊れて――」
「そうそう」
「ギアが1から変えられなくなって、めちゃくちゃ軽いペダルをめちゃくちゃ漕いでた」
「うんうん、笑ったなぁあれ。お腹痛いくらい。一メートルくらい進むのにも二、三周くらいペダル漕いでさ」
「あれはさ、みんなが勝手にギアいじったから――」

「今もまだ私たちの時みたいに、机を『コ』の字の形に並べて授業してるのかなぁ、あの先生」
「やってるらしいよ。それで授業させられるって、前田の妹がわめいてた」
「なんだっけ、皆が顔を合わせられるようにとか、そんな理由だったよね」
「へぇ、知らなかった。とにかくあの先生、なにかあるたび連帯責任だからさ。給食中にポーカーかなんかやって、トランプ没収された時も、帰りの会で全員待たされて――」

「いや、避けたんだって本当に。俺だってびっくりした」
「辻野くん?」
「そう辻野。運動神経もそんなに良い方じゃなかったけど、降ってくる鳥の糞をシュバってかわしてさ。それが登校中のことで、その日は一日中天才って呼んでたんだ」
「わぁ。もしかすると、ホントは一番運動できたり――」

「そういえば小学生のときとかよく、石蹴りしながら登下校してたね」
「うん、結がすぐ落とした。どぶ川に、下水溝の網目の間に」
「そっちはサッカーやってたからでしょ」
「関係ないって。サッカーは下手だったし。結なんかそれ以前のことで、石ころじゃなくて地面を蹴りつけて躓いたり――」
 
 結はいつもきまって、こんな昔話で僕らを結び始めた。
 懐かしい情景が一息に広がると、そこを歩んでるような僕らの足取りは、緩くて穏やかな、なんとなく心地よくて切ないものになった。拾い忘れたなにかがあるような気がするたびに引き返すけれど、実際にそれを拾えたかどうかは分からない。多分拾えてないし、それは成長していくにつれてもっと難しくなるのかもしれない。そんなわけで、話が『今』へと向かうまでには時間がかかった。
 十四日目。歩調がだんだんとズレてきて、僕らの間に数歩分の距離ができた。僕が先で、結が少し後ろ。
 振り返る余裕の出来た僕は、結の部屋にあった本という本に目を向けてみた。
「お父さんのお下がりなんだ、ほとんど」
「そういう系の仕事?」
「ううん、違うけど――好きなんだって」
 その本たちは、一方の壁に沿って並んだ本棚の中や学習机の上棚にぎっしりと詰め込まれていて、時には低い円形のテーブルの上に積まれてたり、床の上に寝転んでたりしていた。
 ある日僕は、色んなジャンルのカラフルな背表紙の本の中から、適当な一冊を選んで、ふと会話の途切れた瞬間に、歩調を合わせるつもりで遊び半分に音読したりした。
「『ホホホ、それじゃ読んでください――英語でですか――いいえ、日本語で――英語を日本語で読むのはつらいな』」
 それから次の文章を読もうとしたところだった。
「『いいじゃありませんか、非人情で』」
 一言一句違わずに、結が読んだ。
「げっ、すご」と思わずこぼれた。
「それはだって、最近読んだばっかりだから」
 なんだか誤解を解こうとするような口調の結。
 僕は彼女を試してみようと、他の本を手に取ってまた音読してみた。
「『フランシス。行こうぜ。一日のうちでいちばんいい時間をこんなところで浪費するのはよそうじゃないか。……さあ、行こうよ』フラニーはぴくりと身を震わせて目を覚ました。本当は、がくりと形容したほうがよい、寝椅子が大きな障害物に乗り上げでもしたみたいな身体の動揺であった。彼女は片腕を差し上げると?」
「『ひゅー』と言った……かな、合ってる?」
「え? もう一回、ちゃんと言って」
 僕はわざと意地悪に聞き返した。
「ひゅー……あれ、違う? なに、見せて」
「いや、言い方だよ言い方。もっと感情を込めなきゃ正解じゃない」
「もう、そういうことかぁ。ヒュー、ひゅー。はい、どうですか」
「うん、合ってる」僕は頬を緩ませながら尋ねた「っていうか、こういうのってそんなに覚えてるもんなの?」
「ううん、どうだろ。それも最近、読んだから」
 だけど結は、それからも僕の読んだ箇所の続きを言い当てた。
 絵本や児童書、哲学書とかそういう小難しいものも、どっかの宗教の経典っぽいのでも、誰かさんの日記でもお構いなしだった。そうやって彼女のことを試しているうちに、僕の頭は断片的な物語や登場人物でいっぱいになってこんがらがる。
 ――ナルニア国のアスランっていう凄いライオンが咆哮する。どこまでも届く凄まじいその声をうるさく感じた太宰治が、片耳を塞ぎながら芥川龍之介の名前をひたすらノートに書く。
 その様子を見て、にっこりと優しい笑みを浮かべているのはチェーホフっていうロシア人とクリストファー・ロビン、そしてベッポじいさんと明治生まれの夏子さん。
 オズの国にはクジャクヤママユって蝶や色んな羽のついたカラスがいたけれど、リュカとクラウスの双子はそっちに目もくれないで、鼻の詰まった雉鳩や青い鳥を探し回る。
 弓道場には行方不明のチャンドス卿。百エーカーより狭い近くの森の中では、ミス・スックとアリスとエリザベズとアンナの四人の女の人が、不思議の国に落っこちる。目を覚ませば波打ち際。小舟に乗った老人が、バナナフィッシュっていう訳のわからないもののことを彼女たちに話し始めて――……

 けれど不意に、結は僕の後に続くことをやめた。
「それは、わかんない」
 急に記憶をなくしでもしたみたいな不自然な態度で、結は言い添えた。
「読んでないのもあるから」
 僕は腑に落ちなくて、結が一度正しく言い当てた本の別の箇所を、もう一度声に出して読んだ。
 それでも結は、知らぬ存ぜぬを決め込んだ。
 心当たりはあった。結はなにかを怖がっていて、避けている。それはなにかじゃなく、誰かだった。
「スミスさん、とか?」
 僕がそう尋ねても、結は応えなかった。
「ひけらかしてるみたいとか、そんな声でも聞こえる?」
 数秒の沈黙が落ちる。
 それからなんの前触れもなく、結が静かに笑った。
「かもね、どうだろ」
 揃わない足並みが、少しずつ僕らの距離をはなして沈黙。
 ようやくたどり着いたような『今』からタダで引き返したくなかった僕は、彼女の傍に歩み寄るつもりでこう言った。
「そういえば、猫じゃらしってどこ?」
 本棚の中を物色していた僕の明後日の方向。学習机の引き出しから、結が一冊の本を取り出した。そして、まるで人の目に触れないように隠していたようなそれを僕に渡してくれた。
「しょうがないから貸してあげる」
「あー、ほんと?」
「うん。でも売らないでね。売ったらホントにめちゃくちゃ、メチャクチャに怒るからね」
「それは、嘘?」
「ホント」
 それが冗談っぽく見えて、僕はつい笑った。
「もう、ホントだから」
 はにかむように笑いながら、細めた目で僕をにらむ結。
 他愛なくて何気ないようなこんなやり取り。それを僕は、そのまま他愛なくて何気ないものと信じ込んだ。
「他にも借りたいのとかある? 私が読んでないのでも、なんでもいいよ」
 その言葉に甘えて――というよりかは結の厚意に過剰に応えようにして、そうやって距離を詰めようとして、僕は僕が気になった本の数冊と『猫じゃらし』とを一緒に借りた。










   十五日目

 一日目の帰り道に見たあの空を、バカみたいにもう一度『鏡』にした。色の境目が分からないのと同じ、自分がどこでどういう風に変化したのかがはっきりとは目に見えない。いつも気付けば変わってる。
 もちろん変わってないこともある。小学生の頃からずっと、僕は保健の授業が苦手だった。
 たとえば煙草で汚れきった肺の写真。薬物乱用やアルコール依存で歪んだ脳のCT画像。出産や性病についてのビデオ教材や実話風の映画。そういうのを見せられたり、人体のメカニズムについての話を聞かされると、たちまちに僕は貧血を起こした。汗をびっしょりかいて、目が回って、息が荒くなった。
 だけど、変わっていないことが好きな誰かさんがいる。欠点が欠点のままであることを喜ぶような誰かさんがいる。それが克服されてしまったことを知るとガッカリするような誰かさんがいる。大人になるにつれて失ってしまうなにかを大切にしたいと思ってて、今を犠牲にしてでも、そのなにかを誰にも見えないところへと大事にしまっておきたがる、そんな誰かさんがいる。
 彼女が昔の話を好む理由も、そこにある気がする。今の僕から昔の僕を確かめたかったのかもしれない。
 
 三時間目の保健の授業中。僕は保健室へと向かっていた。
 昔馴染みの欠点を発揮した後、情けなくぶっ倒れるところをクラスメイトに見られる前に、僕は手を挙げて教室を出た。『猫じゃらし』を読んでいて寝るのが少し遅くなったからか、この日はやけに気分が悪かった。
 階段の踊り場、下の階から上ってくる一人の生徒と目が合った。
二人の未熟なメデューサが目をかち合わせたみたいに、僕も相手もほんの一瞬固まった。尾崎だった。
 歩くペースを変えないよう意識しながら、僕は黙って通り過ぎようとした。けれどすれ違った後で、向こうから話しかけてきた。
「笹井じゃん。なにしてんの」
 見下ろされていたせいか、尾崎の浮かべた微笑は嘲りを含んでいるように見えた。
「いや、ちょっと怠いから保健室」
 慌てて発した自分の声が、間抜けな感じに響いて耳に返ってくる。慌てて作った笑みも、多分気持ち悪かったはずだった。
「やるじゃん、おい」
 どうやら僕が授業をサボっていると勘違いして、変な仲間意識を持ったらしかった。まともな返事を返す気力や親しげに接する度胸もなかった僕は、ただ当たり障りなく笑う。
 それから背を向けて、階段を一段降りかけたところだった。
「お前、ブラックスミス?」
 突拍子もなく、尾崎が尋ねてきた。
「え、俺?」
 僕はまた間抜けな声を出しながら振り向いた。
「二週間前の土曜日。いただろお前。俺と千葉とボンちゃんとで、高畑と揉めてたとき」
「あぁ、あの時――」
「っていうか、お前なんだろ? 分かってるってガチで」
「俺が?」
 尾崎の笑みがより嘲笑じみて目に映る。
「ここだけの話。誰にも言わねえから、そうだろ、な?」
 人差し指を口の前にあてがって尾崎が言う。こっちの警戒心を解いて本音を誘い出す狙いがあるような柔和さや馴れ馴れしさ、それが加わってさらに歪む表情。
「確かにあれは見てたけど、俺じゃないよ」
 的外れな憶測と下手な鎌かけに、僕は軽く笑いながらそう返した。体調が悪くなかったら、痛快そうに思いっきり声を上げて笑っていたと思う。
「なぁ大丈夫だって。バレてるから、お前だろ?」
「それ、本気で言ってる?」
「違うの、マジで?」
「うん、違う。なんで?」
 早くこの場を立ち去りたい思いと、強い関心が喧嘩する。
「いやさあ、最近お前、グループに入っただろ? ナナミから聞いた、ああ俺の彼女な。それでこの前、なんか面白いこと言ったみたいじゃん、笹井。それでまあ、二週間前にもいたって安達から聞いたし。絶対お前だと思ったんだけどな」
「なるほど、そっか」スパイです、とは言うべきじゃない。そんな理性をなんとか働かせた。「カイ……安達に聞いて?」
「おう」
「俺はなんか、安達に頼まれて高畑に問い詰めたって、安達から聞いたけど――」
「俺が頼まれたからって言ってた? あいつ?」
 尾崎は眉をひそめ、迫るように尋ねてくる。
「うん、そう」
 尾崎は気に食わないとでも言いたげに鼻をフンと鳴らした。
「偉そうにな、あいつ。ただ高畑の携帯みてただけのくせしてマジ。頼まれた訳じゃねえよ。まぁ高畑も高畑で調子乗ってるから、俺には――っていうか千葉とボンにはいい理由が出来たって感じ。まぁ、正直な話な。そういうとこだろ、嫌われんの。分かるっしょ?」
「ああ、確かに」
 分からなかった。でも同調した。そうやって仲間意識を持ってくれるなら、それでいい。いい。
「じゃあな、ブラスミさん」
「違う違う」
 去り際、最後に精一杯の微笑を作った。

 放課後の空き教室には、来週に行う昼休みライブに出るバンドの面々。二十人弱。内容は出演順や待ち時間について。
「練習のやり方を変えたいと思ってな。今まで視聴覚室を使ってない部員は、空き教室で各々練習してただろ。これからは吹奏楽部のパート練習みたいにな、基礎的な練習なんかを楽器ごとに集まってするような形にしたいと思う」古林先生が言う。
「えーでも先生」イギリス国旗柄のカーディガンを着てる女子が言う「今までこのやり方でやってきたし、野音もスニーカーも出れたし、そういうのが軽音楽部らしくて――」
「まあその言い分も分かる。だけどな実際、まあクレームとまではいってないんだが、空いてる教室をだらだら使わせてるだけの練習っていうのがどうも、なんだ、他の顧問の先生にはよく見られてないんだ。というよりも、そういう声がちらほら一部あってな。部活全体のイメージを良くするためにも、部活動らしいちゃんとした活動を――」
「でもそれが、軽音楽部の個性でもあったじゃないですか」別の女子。
「それって、だらだらしたいだけだからじゃないの」他の男子。
「なんですぐそういう風に考えるんですか? そりゃこんなこと言ったら、そういう感じで見られるのは分かるけど、でもそんなんじゃないです」
「いやいや、今急いで決めようって訳じゃ――」
「部長さんが決めればいいじゃん。だって部長なんだから」
「そんなの、納得できません。部長だからこそ、みんなの意見をちゃんと聞いて――」
「そんなにムキになるのってやっぱ、今までのチャラチャラしたのが気に入ってる証拠じゃん」
「なんなのそれ、はぁ……」
「ほら、やっぱそうなんだろ。黙った」
「じゃあ先生さ、そういうちゃんとした練習してる奴だけ、視聴覚を貸すようにしたらいいと思いま――」
「ちゃんとしてないみたいな言い方なに? あたしらだって、ほんとにちゃんと――」
「いや俺は別に、そうすればそれで両方が納得するよなって思って……なぁ? 先生もそうっすよね?」
「ってゆうか先生。前のSNSいじめのことを先にどうにかすべきじゃないんですか?」
 その発言をきっかけにして、僕の頭の中にグループラインの流れが浮かび上がった。
『なんか面白いことない? 新情報はよ』
『来週にライブやるっぽいけど、あの人出んのかね?』
『出る出る。トリトリ』
『このグループのみんなでなんかやる?笑』
『一斉に出てくとか笑』
『想像してワロた』
 ――そして、ふと思い浮かんだ。
『サトウさんも、リさんもスミスさんもどこかにいて、私もみんなも全部嘘で、空っぽで、そんなことで頭がいっぱいになったりして。それでその人たちのモスキート音みたいな声が――』
 その声が聞こえてきた訳じゃない。ただ聞こえてきそうな気がして、僕は席を立った。そして言った。
「すいません」
 しばらく出していなかったからか、声は掠れていた。恥ずかしさがこみ上げてくる前に咳払いをしてから、僕は下手な嘘をついた。
「用事思い出したんで、帰ってもいいですか」
 話を断ち切った僕に、二十人弱の視線が集まる。向けられた表情と目つきに滲んでいる雨雲みたいな怪訝を二つか三つだけ数える。気遣わしげな先生の声を一つ、わざと聞き流して僕は言った。
「あー……いや、帰ります」
 道すがら、机の角や脚にぶつかったり引っかかったりしてずっこけそうになりながら、僕は急いで教室を出た。

「だっさ」
 廊下に出た途端にそう呟いていた。それを追いかけるようにして深い溜息がもれる。そしてまた、その溜息が誘い水になって声がこぼれる。
「だっさ」
 悔しいとか、恥ずかしいとか、自己嫌悪とか。どの言葉も近くて遠いような感じがしてしっくりこない。無理やり潰してみたニキビ、そこから芯なかなか芯が取り出せない、そんな感覚。跡だけ残ってそのまんま。
 井戸からあふれたようなやり場のない気持ちは、どうしてか目のあたりに流れて沁みる。そこに自然と力が入って、瞼が何度もきつく閉じた。
「ミツル!」
 振り向く前に、もう一度ぎゅっと力を込めて瞬きした。
「あぁ、カイ。なに?」
「いやあ、なんかさ……怒ってんの?」
 安達が駆け寄ってきて、苦笑いしながら言う。
「ううん、別に。急いでたから」
 苛立ちを声に込めてしまいそうになる。
「そっか。急いでるとこ悪いけど、これだけ……あれ、どんな感じ?」と言って安達はスマホを操作するジェスチャーで見せる。
「あれって、グループの?」
「そそ」
「色々言ってるよ。あいつら」そんな漠然とした適当な返事を、冷ややかな口調に添えてしまう「ブラックスミスが誰とかはまだ分からないけど」
 安達はゆっくりと何度か頷くだけだった。唐突に後ろめたさを感じた僕は、埋め合わせのつもりで心持ち口調を和らげて続けた。
「向こうも警戒してるかも。もしかしたら誰かがスパイで入ってるってことも――」
「尾崎からなんか言われた?」安達が遮って言った。
「尾崎?」
「そ、うん尾崎」
「あぁ……なんか、俺を疑ってる。っていうか、ブラックスミスって決めつけてる感じ」
「ほーん」そう言って安達はまたゆっくり頷く。そうやって打たれたに違いないのろまなひとり合点や導き出したつもりの最大公約数。それが首の後ろの辺りから僕の感情めいたものを吸い取っていくような心地だった。
「なんか言ってたの、尾崎」
「まぁ、変なこと。俺を嫌ってるふりして笹井に聞いてみたら否定しなかったとか。絶対にあいつだとか、そんな――」
「は?」
 尾崎はどうやら、今日の僕との会話を曲解して安達に伝えてるみたいだった。僕が否定しなかったのは、ブラックスミスが僕だということに対してじゃなかった。安達が嫌われてるというその部分に対してのことだったし、それも本心じゃなかった。
「ねじ曲げてるよ、尾崎。話を大袈裟にしてるって」
 そう言って露骨に呆れてみせた途端、ふいに腰の左側あたりが痺れた気がした。その痺れの原因を探りたくなくて、ただ腰の左側で痺れているなにかや力む瞼を『心』にしたくて消し去りたかった。
「やっぱし、そっか」
 悩ましげな顔つきで安達が言った。
「鵜呑みにしてた?」
「いんや、そうでもないけどさ」かぶりを振りながら彼は言う「まぁ半信半疑。でもどっちを信じるかって言ったら、まだミツルのが信用きくかな。今回のは別に尾崎に頼んだとかじゃなくて、あいつが勝手にやったことだからさ」
「完全に誇張してる。他にもなにか言ってるんじゃないの、俺に疑いが向くようなこととか」
「んーまぁ……色々。どれも怪しいけどさ」
「だっる」溜息交じりに僕は言った。
「ってかミツル、急いでんじゃなかった?」
 そう言われて僕は自分のついた下手な嘘を思い出した。
「え、あぁ」僕はスマホを取り出して、いかにも用事があるみたいに時間を確認して見せてから別れを切り出した。「じゃあまた、なにか分かったら連絡する」
「おう、じゃあな」
 言いながら安達は笑った。僕を見透かしてるようなそんな笑い方にも見えて、ますます足を速めた。学校の敷地から出るまで、何度も力を込めてまばたきした。













   十六日目

「ちょっと、話したいことあるから」
 未央からそんな誘いの電話が来た。ためらいはしたけれど、そうして迷っていることを悟られるよりはいいと思って僕は快諾した。夕方の六時。駅前のガストに僕は向かった。
 僕の座った席の後ろ側には、大体僕らと同じくらいかちょっと歳上に見える連中が四人、笑ったり、騒ぎ合ったりしていた。僕らが席に腰かけると、彼らは数秒の間だけ静かになったけれど、やがて自分たちの調子を取り戻しては、また徐々に騒がしくなっていった。
 僕はジンジャーエール、未央はミルクティーと、とりあえず飲み物だけを注文した。暗雲は立ち込めない。それが雲とは思えないくらいの速度でワイファイみたいに飛んできて、すぐ暗雲だった。
「ねぇ、言っちゃうけど」
「なに」
 それから二、三秒の妙な間をおいて未央がこう言った。
「私に、なんか隠してたりする?」
 開口一番、それだった。
「未央に、俺が? 隠してそうに見える?」僕がなにか打ち明けるのを待っているかのように、彼女はしばらく僕を見つめたまんま何も応えなかった。「なんかあったの?」
 彼女はいかにも重くて仕方ないような口をおずおずと開いた。
「聞いた。この前言ってたSNSいじめのこと。いろいろ」
「それで?」
「高畑くんの、こととかも」言い辛そうな自分の言葉を追って、彼女の視線はテーブルの角。
「あぁ高畑。それで、なに?」
 意を決したように溜息をこぼすと、未央は僕の目を見つめ直す。テーブルの角の形に合わせて何度もこねるようにして作った言葉を、僕は昨日感じたような麻痺そのもので受け取ろうとした。
「わかんない? ここまで言って?」
「なにを言おうとしてるのかも、言いたいのかもさっぱりだって」
 未央は竦めたり上げていたりしていた訳でもない肩を、溜息と一緒くたにしてさらに落した。
「ほんとに、なにもないの? じゃあなんで、あのグループラインにミツルが入ってんの?」
「グループって……あー、それはあれだよ」誤解を招きたくなかった僕は正直に白状した。「カイに頼まれて入ってるだけ」
「頼まれてって、ほんとうに?」
 食い気味に未央が尋ねてくる。けれど僕に答えさせる気はなかったみたいで、彼女は続けざまに言った。
「でもカイの悪口言ってたじゃん。それもじゃあ、頼まれて書いたってこと?」
「そうだけど、なに、その話がしたくて呼んだってこと?」
 未央はまた僕の問いかけに対して押し黙った。なにを聞いたのかは分からないけれど、彼女が僕に敵意らしいものを持っているのは明らかだった。
「ほら、未央。なにか食べようって。もうお腹が空いて気持ち悪くなってき――」
「カイが、言ってた」
「え、なに?」
 いきなり小声になった未央に、僕はそう聞き返した。
「カイだって、カイ。高畑くんがいじめられてたとき、ミツルは見てただけでなにもしなかったって。グループのこともカイが言ってたけど、そんなのミツルに頼んでないって」
『は?』と口だけが動いて声が出なかった。
「カイが、そう言ってた?」
 未央は首を縦に振り、僕から目を逸らした。
「未央、本当にカイがそんなこと――」
「だから言ってたって、言ってるじゃん」
 声に微かな怒りがこもっていた。それを悔やんだのか、彼女は顔を伏せた。
 安達がそんなデタラメを未央に言う理由が分からなかった。
「頼んでないって、なんで……」僕は呟いた「あいつ、そんな意味のわかんないこと……」
 少しの間、後ろの席にいる集団の話し声や笑い声しか聞こえなかった。その耳障りな声が、テトリスのブロックみたいに頭の中で積み上がる。縦長のあの棒を待った。
「見てただけってのは、本当」不意に僕は言った「わざわざ言うことじゃないって思ったから。でもグループに参加してくれってカイが俺に頼んだんだ。頼んでないっていうのは嘘だよ」
「それだけじゃないよ」未央が小さくかぶりを振りながら言った「なりすましてるのも、ミツルだって」
「え?」
「ミツルが、ブラックスミスって」
 それで分かったような気がした。次は僕の番だと思った。
 そう思った途端に、ヘンな感覚がこみ上げてくる。気付けば僕は笑っていた。
「やめてよ、ねえ」未央は眉間に皺を寄せて訝しげに言った。それから、声のトーンを少し落として続ける。「分かった、やっぱりそういうことなんだ」
 抑えきれない笑いを、僕は隠そうともしなかった。
 なにもかも、バカらしく思えた。僕は言った。
「もう、すごいよホント」
 未央は何も言わなかった。ただ、今にも泣きだしそうで怒り狂いそうになりながら、袖口の毛玉かなにかを引きちぎったりするだけだった。
「どうだろ、分かんないんだ」笑いの影を残しながら僕は続ける「高畑がいじめられてるのを見てたってのは本当だよ。カイに頼まれてグループに入ったし、ブラックスミスじゃないっての本当。でもさ、俺がそう言っても信じる?」
 未央は心もとなさそうに顔を仰向けては、またすぐ顔を横に向けた。正面にだけは向けたくなかったんだろう。
「どれが本当でなにが嘘か、もう面倒くさくてさ」彼女の反応を待たず、僕は追い打ちをかけた「誰かが誰かから聞いて、それがまた都合よくねじまげられて、そういうのばっかりだよ。たとえば、あの日俺も一緒になって高畑をいじめてたかもしれないだろ。それをカイから聞いたらさ、未央は真に受けたりする? たとえば俺が、篠見結って名前の女の子とよく会ってたりしてるとか、信じる? 今俺が笑ったのも、後ろの席の会話が面白かったからって言ったら疑う?」
 未央は俯いたまま黙っていた。涙をこらえるみたいに口を固く結んでいる。袖口かどこかから引きちぎったらしい毛玉を、こすり合わせた指からテーブルに落とした。
「後ろの誰かさんの一人は、おしゃれなカフェで働いてるんだってさ」僕は親指を立てて後ろを指さしながら、不意にそんなことを言った。「出来損ないの店長かなんかにカフェラテを作ってくれって言われたって得意げに、それでも面倒で仕方ないって感じに喋ってるんだ。コーヒー辞典の本をしぶしぶ買わなきゃならなかったってことまで言っててさ」
 後ろの席にいる集団に丸聞こえだったかもしれない。でも僕は、そんなことは気にもかけずに喋り続けていた。
「別の誰かさんは、自分が音響スタッフの仕事をしてるってことを誇らしく思ってるみたいなんだ――今のもほら、聞こえた? カラオケの話になったりすると、いきなり『セイキカン』だとかいう専門用語っぽいことを言い出す。それもつい口に出しちゃったって感じでさ。そうしたら次にはもう、そのわざと言い間違えた専門用語を、皆に分かりやすい言葉に変換してやったって感じにハウリングがどうこうって言い直して――」
「分かった、もういいから」未央が気を落ち着かせるみたいに大きく息を吐いた。それから上擦った声で続けた。「自分を良く見せて、それが悪いの? そうでもしないと、だって、見てくんないじゃん……ミツルだって嘘ばっかり」
 琴線かなにか知らない。でも彼女の最後の言葉が、僕の似たようなところに触れた。
「嘘ばっかって、こっちが言いたいよ」
 真面目くさって、僕は言った。
「本当のことなんかなにもなくて、結局どれも嘘でさ。ただそいつが信じたがってる方向にあるものを、本当のことに仕立てあげようとするんだよ。都合よくさ――」
 けれどそこで口を噤んだ。自分の声がそっくりだって、気付いたからだった。スミスさんにも、結にも。
「……だって、じゃあなんでなの」
「え、なに?」
 夢から覚めたような調子で、僕は聞き返した。
「カイが嘘つくメリットなんて、ないじゃん」
「じゃあ、それもカイに聞けばいいよ。なんのメリットがあって――」
 音と衝撃、それから耳鳴り。未央の下手くそなビンタが僕に命中した。頬じゃなく、耳の付け根の辺りに。
 未央は片手をテーブルに突いて身を乗り出していた。目に涙をためて、口元を小刻みに震わせている。歪ませた表情に怒りと悲しみが忙しなく立ちかわる。それから啜り上げたような音を鳴らすと同時、彼女はそっぽを向いて店を出ていった。
 後ろの席から囁きと忍び笑い。僕は片方の耳を手で押さえながら、一人の時間をしばらくの間呆然と過ごした。月にタッチしそうになるくらいまでストローの紙袋を折った。おしぼりで正方形を作ろうとして上手くいかなかった。
 そのうちに耳鳴りがモスキート音じみて聞こえてくる。それがスミスさんの声にならないうちに、僕は外に出た。










   十七日目

『……しかしそういうことがまだできないとあらば、是非ともあの猫の尻尾だけは見届けておくことが先決であろう』
                    
 日曜日。結から借りた猫じゃらし。その中の一節がやけに気になって何度か読み返していた。主人公の猫じゃらしに対するスミスさんの助言の一つ。どうやら他の本の引用を用いた助言らしい。
 そのうちに集中力がなくなると。脱線に脱線を重ねてついだらだらとスマホを弄ってしまう。インスタ、ツイッター、まとめサイト、ユーチューブ、ウィキペディア……ブラックスミス、グループライン。剥がそうとすればたちまちに崩れてしまうような言葉。それを画面越しに眺めては辿る。駅のホームから見える広告板に向ける視線と変わらない。皮膚科、耳鼻科、専門学校、自動車教習所、ソシャゲ。空しい作業だって分かっていても、気が咎めるのはいつも少しあと。
『これから言うこと、嘘だって思ってくれる?』
 嘘じゃないものを期待した。自分や誰かに本当を期待した。本物ぶっていた。すると下手なビンタがとんできて、耳鳴りがしてモスキート。それがいつの間にか、スミスになるのかもしれない。そうなることが分かっていたから、期待なんてしていなかったから、結はあんな前置きを挟んだのかもしれない。そう思った。

 昼を過ぎて少し経ってから、僕は結の家に行った。そして彼女を家に誘った。前に結が家に来たのは、確か小学校の低学年のころだったと思う。
 結は僕の部屋に入ると、座るのが恐れ多いみたいな格好で突っ立ったまま、辺りを見回してこう言った。
「わお。案外、綺麗にしてるんだね。感心です」
「ものが少なくてそう見えるだけかも。座ったら?」
「じゃあ失礼して」
 そう言って彼女は、学習机の椅子に腰を下ろす。位置が浅すぎたのか、すぐに深く座り直した。
「猫じゃらしは半分くらいまで読み終わったとこ。他はちょっと目を通してみたくらい」僕は机に重ねて載せてあった結の本を指さして言った。目ぼしいものを探るような結の視線がそこに落ち着く。
「へっ? あぁ」
 結は、本を横から覗き込むような形で頭を傾けると、そのまま遊び半分って感じに片手でページをパラパラと捲った。
「売られずに済んでよかったね、キミタチ」
 本に語りかけるみたいに結は言った。ページが彼女を仰ぎ、ほんの微かな風を吹きかける。
「なに、もしかして結構高く売れたり?」
 裏表紙がパタンと音を立てて閉じる。
「どうでしょう」彼女はクスッと笑う。
 そんな彼女の何気ない笑いを、僕は正直に受け取りたかった。けれど、ためらった。
「ミツルのお母さんも変わってないね」
 結は傾けていた頭を正し、さっきよりもゆっくりと本のページを捲り出した。
「そう?」
「うん、大好き」
「最近なんかヨガ通ってるよ。文化センターの」
「だからそう見えたのかな」
「それ、言ってやって。喜ぶから」そう言い捨てて僕は、学習机の左手にあるベッドの縁に腰かけた。そして続けた。
「犬とかも、そろそろ飼いそうな感じでさ」
「へえ、種類は?」
「それは知らないけど、志村動物園とかずっと見てるんだ。録画までしてさ。多分だけど、なんかに無条件の愛情とかそういうのを注ぎたいんじゃないかな、母さん。もう俺とかは、ちょっと大きすぎるんだと思う。そういう扱いをするには。うまく言えないけど――」
 少しの間を挟んで、僕は続けた。
「とにかく、本当にうるさいくらい感傷的になるし心配する。そこはまあ、変わってないのかな」
「ミツルは?」結が言った。少し口角を上げて、僕を横目に見やる。
「俺?」
「そう、昔から変わってないこと、なにかある?」
「うーん、とくに……」少し考えてから、僕は言い直した「あぁ、あった、あるよ」
「なになに?」声を仄かに弾ませて結が尋ねてくる。
「一回、結に言ったかな。光化学スモッグとか、保健の授業のこと。確か見栄張ったと思う。光化学スモッグのほうは最近ないから分からないけど、保健の授業は本当はまだ苦手」
 それを聞くと、結は横顔をくしゃっと綻ばせて、はにかむように笑う。片脚を椅子の上にあげ、それを両腕で抱きかかえる。嬉しそうな微笑を抱えた脚にも行き届かせようとでもするみたいに、彼女は膝の頭に頬を押し付ける。
 ただ、それも束の間だった。ふと突き当たったような『今』が時間を戻したのか、彼女の表情はたちまちに曇り出した。
「今から言うことさ、嘘だって思って」結の気を逸らそうとして、気付けば僕はそう言い放っていた。
「え? あぁ、うん」
 当惑をパッと含み笑いに変えて、結は頷いた。
「えーと、ほら」後先考えずに探り探り、僕は話し始めた「この前さ、結から聞いたみたいなこととか、猫じゃらしのスミスさんみたいなこと、言ったんだ」
「……なんて?」
「なんだったかな、えっと――」足元に視線を落として、僕はしどろもどろに言った「っていうか昨日だ。全部、どれもこれも嘘とか、そんな感じのこと。実際、バカみたいにそう思えて――口に出してた」
 本当のことを言えた気がしなかった。物差しや充電ケーブルを使ってひたすら金魚すくいを続けてるような、そんな救いようもない、どうしようもないバカげた感覚。思わず肩をすくめて、最後にこう言い添えた。
「それだけ」
 沈黙が耳打ちして、裏表紙の閉じる音。たっぷりと間が空いた。
「……そっか」
 結がそう零した。淡白な声色ではなかったけれど、かと言ってそこに過剰な心配や憂いだとかが込められてる風でもないように聞こえた。
 僕はじっとカーペットを見つめた。足元に散らばっているわけでもない砂利を払うように足を動かす。
「聞いた相手、どんな反応だった?」
 結は首を傾げながら、何とも言えないような穏やかな無表情を僕に向けた。
「ビンタ」
「え、されたってこと?」
「まぁ、うん」
 僕は言いながら首を縦に振った。
「うぇへぇー」
 少し芝居がかった感じに驚きの声を上げて、結が苦笑する。それにつられて僕も自嘲気味に笑った。
「しかもほっぺたじゃじゃなくて、耳の近くにやられてさ。あれでこの痛さなら、ガキ使の蝶野のビンタとかめちゃくちゃ痛いんだろうなって――ああ、あと既読無視もされた。何十人も見てるグループラインにも同じようなこと書いちゃったんだ。まぁそれは別に、それを見てるやつらに対して言ったわけじゃないし、そいつらも誰に向かって言ったのか分かるからいいけどさ」
 僕はさっきと同じような笑いを、結に期待した。でも、彼女が返したのは僕が期待していたものよりも弱い切なげな微笑だった。
「私は、ね」そう言って結は椅子に深くもたれた。「高校に入ってからそういう風に衝突することを、多分避けたがってたんだと思う」
 両脚の付け根のすぐ傍、椅子の座面に残っている僅かなスペースに、結はそれぞれの手を置いた。そして、鼻からゆっくりと息を吐いた。
「避けたがってた?」
「うん。何かする度に、自分も周りも傷つけちゃいそうになってた。ううん、実際にそうしちゃった。私もそんな感じで言っちゃったの。我慢できなくなって、いろんな人にいろいろ――あぁ、私が言うことも嘘だって思ってね」
 結はちらっと僕を一瞥して、すぐに目を伏せた。それから床に下ろしていた方の脚も上げて両膝を抱きかかえると、椅子の上で体育座りの格好になった。
「お母さんにも言っちゃたんだ。その時はサンタさんのことだった。ホント数か月前だよ。私、今さら昔のことを蒸し返した。私が小さいころから小学生の時まで、サンタさんなんていないってことに気付くまで、ずっと嘘ついてたんだって。騙してたんだって。嘘はよくないって言ってたのにとか、そんな感じのこと。誰のせいとか、そういうのじゃないのに」
 結は吐息を一つ、宙に飛ばした。結の部屋にスノードームに入ったサンタさんがいたことを、僕は思い出した。
「ちっちゃな頃からね、嘘はダメってよくお母さんに言われてた。嘘をつく子が一番嫌いで、それじゃあいい子になれないし、サンタさんもこないんだよって。狼少年の話もしてもらったっけ。そういうのが私の、信仰なんてまでは行かないけど、ヘンな基準や価値観になったのかも――とにかくね、サンタさんがいないって分かってからも、ショックなのはショックだったけど、それでも嘘はダメってことと、いい子になるってことはどこかにしっかりと残ってたんだと思う。完璧主義とかそんなのじゃなくて、ただなんとなく嘘をつかない正直ないい子になりたいって。それが、その頃の理想とか、そんなのだったのかも」
 唇を口内に引き込むと、結はなにかを思い出そうとするみたいに片手を頭のてっぺんにあてがった。
「サンタさんがこなくてもいい子になりたかった。『サンタクロースはいるんだ』って話のヴァージニアみたいに、サンタさんをなんとか信じたかった。だから私、中学一年生の三学期から、もっといい子になろうとした。覚えてる? 愛子ちゃんって」
「うん、覚えてる……嘘ついてて、いじめられて転校した」
「そう、その愛子ちゃん。私、愛子ちゃんの嘘を無理に信じて、それで仲良くしようとしてた。多分、勝手にサンタさんの代わりを押し付けてたかもしれない。そうやって愛子ちゃんを利用して、自分をいい子にして、自分を肯定しようとしてた。そうしなきゃ私、なんかダメだった。サンタさんのプレゼントみたいな見返りがないとダメだったみたい。愛子ちゃんが転校したのもさ、それに気付いたかもしれないね」
 頭に載せていた手を、今度はこめかみの辺りに添えて彼女は続ける。
「いい子になりたいっていう欲求だけが独り歩きしてることに気付いて、ぶつかるのを避けようとしたのは高校に入ってからだったんだ。自分がいい子になるためには、誰かを悪い子に、誰かを敵にしなきゃいけないことに気付いた。誰も彼も敵にして、何もかも嫌になって、全部嘘に思えて、そんな自分も嫌らしく感じて――結局分かったのは、ただそういう欲が誰よりも強かったってだけ。自分が世界で一番いい子になって認められたいとか、自分だって嘘をついてたこととか、そんな気持ちの悪い貪欲さがあったってだけでさ」
 唇を舐める。小さくかぶりを振って髪を揺らす。下唇を噛む。前髪を指先でそっと分ける。言い終えると結は、そんな仕種を忙しなく立ち替わらせた。
 聴きながら僕は、結の話の節々にまた僕を感じていた。この感覚は前にもあった。初めて『猫じゃらし』のことを知った日だった。衝突することを避けていた、それは僕でもあった。いじめに対して見て見ぬふりでやり過ごしては、自分の身を守ろうと当たり障りなく流されていた僕。
『触らぬ神に祟りなし』
 その行動規範だけで上手くやれたかどうか、それが僕と結の違いだったのかもしれない。僕は僕のままでなんとかやれていた。結は結のままじゃあうまくやれなかった。結には信じられるような何かが必要だった。サンタさん、愛子ちゃん、いい子、そして猫じゃらし。
「中一の三学期、急に変わったなって思ったんだ。冬休みに、なにかあったのかなって」続けて僕は尋ねた「じゃあ結ってさ、猫じゃらしになりたいって思う?」
「え?」
 結は急に冷え性が気になったみたいに、両手で片方の足先を揉んでいた。
「いや、猫じゃらしってさ、自分で遊んでくれる猫を探してるから――なんていうか、それが、来ないって分かってるサンタさんを待ちながらいい子になろうとしてる結と似てるって、そう思って」
「……さあ、どうなのかな」そんな曖昧な答えを真面目な調子で返すと、結は僕に同じような質問を投げた。
「じゃあそっちは? なんになりたい?」
 少し考えてから、僕は言った。
「別に、これと言ってなりたいものとかないよ。でも強いて言うなら、保健の授業で倒れないようにはなりたいかな」
 変わりたいなんて意思を暗に示すような僕のこの言葉を、結が快く受け取らなかったのは確かだと思う。けれど今の僕は、以前の僕と比べると既に多少なりとも変わっていたんじゃないかと思う。少なくとも、結に会う前の僕よりかは。
「ええー、いいのに。それは」結は言った「次私の部屋に来た時、保健の教科書とか解剖図とかでいっぱいにしようと思ってたのになあ」
「うぅわ、最悪」そんな冗談交じりの悪態をついてから、僕は聞いた「そう言えばそっちは? 変わってないこと。さっき俺はちゃんと答えたんだから、次は結だよ――なに、石蹴りとかまだ下手だったり?」
「いやあもう、石蹴りなんてしてないから分かんないよ」
「じゃあ、他には? 変わってないなってこと」
 僕はあえて結から視線を逸らして、ベッドに仰向けになった。僕が見ていると言い辛いようなことを結は言おうとしていると、そんな風に思ったからだ。
「うーん……そうだなぁ」結は言った「昔は、渡ってる途中で鳴ったりする踏切だったりは苦手だった。ショッピングカートの下の段の、カゴを置くところに乗って運んでもらうのが好きだった。でも、今どうなってるかは分かんなくてね。なんだか、むしろ――」
 そう言いかけて、結は口を噤んだ。
「むしろ?」
 数秒の間、彼女は口を開かなかった。そのうちになにかに思い当たったように話し始めたけれど、それは『むしろ』の続きじゃなかった。
「あー、昔はあれが一番怖かった。おっきいジンベエザメ。水族館に連れてってもらった時に見たんだけど、小さい魚とかエイとか眺めてる時に、そのジンベエザメが目の前を横切ったんだ。それも口をめいっぱい開けながら、真っ暗な喉の奥まで見えて――私なんて簡単に吸い込まれて飲まれちゃいそうだった。それは多分、今でもちょっと怖いかも」
「じゃあ、今度さ」僕は体を起こして言った「そういうの確かめに行こう」
「え?」
「いろいろ確かめに、どこかに行くんだよ。踏切でも、ショッピングカートのあるとこでも、ジンベエザメのいる水族館でも、今どうなってるか確かめにって感じで。やることなすこと言うこと全部嘘にしながら、スミスさんやサトウさんも一緒に、猫じゃらしになりながらさ」
 言った瞬間、自分でも僕らしくないと思った。確信はなかったけれど、少なくともなにかに向かって伸ばした自分の手は見えた。いつの間にか、変わっていたのかもしれない。僕は僕のままでうまくやれなくなっていたのかもしれない。
「――いつ?」
 結が微笑を湛えて言う。彼女のその反応を、いつかみたいに『NOではない』と受け取って、僕も笑った。



   十八日目

『頭、前脚、後脚とすべて通り過ぎてしまっているのに、どういうわけで尻尾だけは通り過ぎないのだろうか――』
繰り返し読んでも何も分からないこの話こそ、その尻尾だって思えた。だけど今日、僕が掴もうとしたのは猫のじゃない。ブラックスミスの尻尾だ。そしてこんな目に遭ってる。
「高畑の時とは違って、個人的に嫌いってわけじゃないから手荒にはしないけどな。ほら、見せてみ」
 僕に向かって差し伸べた手。その指先をくいっと上げる尾崎。両脇の机の上に座っているのは、前と同じ取り巻きの二人。暴力的な土曜日から角がとれたような、高圧的な月曜日だった。
「別に、いいけどさ」
 僕は大人しく、スマホを尾崎に渡した。取り巻き二人が机から降りて、尾崎の操作している僕のスマホを覗き込む。
「まぁ、ないな」ツイッターかなにかを一通り確かめ終わったらしい尾崎が言う「ブラックスミスってちゃんと検索してるし、まあ違うな……なんだこれ。猫じゃらし、ジンベエザメスペース水族館――ここいく感じ?」
 いい気分じゃなかった。だけど、こんな風に考えてみるだけで楽になれる。高畑はもっと嫌な目にあったし、世の中にはもっとひどいことがある。ホロコースト、サリン、9.11……それから、結?
「なあ笹井、あのグループラインで言っていい? なんか面白いこと」尾崎がにやにやしながら上目に言う「言おうぜ、なんか。ってか打つわ」
「やっぱり犬みたいなもんだよ、あいつの」
 楽にしたはずの心から、そんな言葉が生まれていた。
 そしてその瞬間、誰かの気配みたいなものを感じた。教室の外。引き戸のガラス窓の傍。前に僕が立っていたのと同じ位置。前に僕が見ていたのと同じ格好。一人。
「は?」
 メッセージを打ち込んでいた尾崎が一瞬目を上げる。他の二人は目を丸くして苦々しい笑みを浮かべる。
「安達の犬。また頼まれてって感じじゃないの」
 心臓から喉へと通したような樋を伝って、なにか熱いものが流れてくる。だけど、それをそのまま声には出さない。舌で冷ますくらいの理性は残して、僕はそう言った。
「あんまり言うもんじゃないぜ、そういうこと」
 冷たい響きを少し漂わせて、吐き捨てるように尾崎が言った。取り巻きの二人は、思ったより感情的にならなかった尾崎の反応につられてか、僕のスマホに目を戻す。
「やっば直球」
「うわ、え、もう既読ついてるって」
 二人のバカ笑いを背景に、自分の微笑は主演さながらに、尾崎が僕にスマホを返す。そしてこう言った。
「俺が個人的に知りたいからじゃん、ブラックスミスが誰なのかって。安達なんかどうでもいいし、ブラスミがうっとうしいとかじゃあないな。ただ、見てんの面白いから」
「そっか」
 素っ気なく呟いて立ち去ろうとした僕の肩に、尾崎が馴れ馴れしく手を回してくる。
「ってか、誰か知ってんじゃないの、えぇ? あいつらには言わないし、だからマジなところ、実際誰?」
「俺も――」
「あ?」
「俺だって、知りたいんだって」
 そう言った瞬間に、足りないと思った。それは言葉にするには役不足だったし、言葉はいつも力不足だった。それでも僕は、舌だけじゃあ冷めなかったその言葉を、そこにいるわけじゃない誰かに、そこにいるわけでもない全員に向けて言いたくて、埋まるわけがない空白を埋めようとして言い添えた。
「本当のこと」
 尾崎の手を振り払って教室を出る。それから、あの土曜日に僕がいた場所を見る。というより、睨んだ。そこを通り過ぎてからも、そいつのモスキート音じみた声は続く。
 取り出したスマホの画面には、僕が送ったわけでもない言葉が僕のものとして映っていた。
『死ね安達』
 取り消すことのできるそのメッセージを、僕はあえて取り消さなかった。

『もしこの事態に対して、逆の方から真実の眼をもって見抜き、ハタラキのある一句を投げかけることができるならば、自分が被っているあらゆる恩に報いることができ、またこの世界で悩み苦しんでいるあらゆる生き物を救うこともできるに違いない――』
 あらゆる生き物を救いたいなんて、もちろんそんな大それたことを考えてる訳じゃない。ただハタラキのある一句となにかを見抜く眼は必要だと、欠けているものはそれだと、僕は感じ出していたのかもしれない。
 高畑は、相変わらず座りづらそうな所に腰を下ろそうとした。体育館の入口へと緩やかに続いているスロープ、その手すりでバランスを崩してはまた何度も座ろうとする。
「いんやあ、俺知らないけど……っていうか、笹井さんもグループ入ったのびっくりですわ! しかも――」
「あぁ、うん」手すりに腰をもたせかけて、僕は冷ややかにそう返した。「ほんとうに、知らない?」
「しかも結構えぐいこと言ってて!」笑いながらそう言ったあとで、高畑は僕の質問に応える「誰なのかは知らない。本気で、マジで知らない。俺も知りたいくらい」
「じゃあさ、誰が知ってそう?」表すつもりのなかった苛立ちやよそよそしさ。そういう不機嫌の類を、僕は声に込めてしまっていた。
「あーいや、リアルになんにも知らなくて」後頭部に片手を添えながら、高畑は口角を下げて言う「多分ブラックスミスも、俺たちに教えないほうがいいって思ってたりするんじゃない? 多分なんだけど」
 それからの僕の沈黙を、高畑は悪い方向に受け取ったらしい。堪忍袋や腹の虫へとなるべく注意を払ったような、そんな物腰になって高畑は続けた。
「誰かがバラしたり、口を割ったり、チクッたりしないようにとか。尾崎みたいなクズがあんなことするんだから、そんな感じで、誰にも教えてないのかもと……」
「もういい加減、色々面倒臭くてさ。尾崎も安達も――」
「え、待って」高畑は目を丸くして言った「じゃあもしかして笹井も、尾崎らになにかやられた?」
 僕はただ首を縦に振った。無駄をそぎ落としたようなその僕の反応は、高畑を勢いづかせたみたいだった。
「あいつらマジダルいっしょ! だからか、あんなこと言ったのって! 『安達死ね』ってストレートな発言!」
 自分と同じような目に遭ったという高畑の勘違いは、彼の中で僕への親近感へと通じたらしい。早口でまくし立てるように高畑は続けた。
「俺の時は実際、まぁ本気になれなかったってところがあったっていうか、小学校のとき空手やってて、実際に手出すことに抵抗があって。一回陽キャをボコったときに、きつく空手の先生に言われたんだな。スポーツマンシップとかそういうので。だからあの時も、やろうと思えばやれてさあ――たとえば下段を入れる振りして、裏回しで合わせたりすれば――自慢っぽくてあんまり人に言えないけど、でも実際そうだったしなあ。声荒げた時の表情とか笹井にも、っていうか森羅万象に見せたかったよ。え! そんなにビビる? なんもしてないのにって、そんな感じの顔で……」
 また鳴った。

『通り過ぎれば穴に落ち、引き返しても粉みじん。いったい尻尾というやつは、なんとも奇怪千万さ――』
 通り過ぎようとしなかった。引き返そうともしなかった。ぶつかろうとしたわけでもない。なにより確かめたいと思った。だから僕は、安達の前で足を止めた。
「それってさ、未央が嘘ついてんじゃない?」素知らぬ顔で彼は言った「俺がミツルを疑うメリットなんかないって。前にも言ったじゃん。あれ、言わなかったっけ――いやどっちでもいいや。とにかく、俺が未央から聞いたのはさ、ミツルがブラックスミスなんかじゃないらしいっていう当たり前のこととか、あとは――」
「俺が嫌なやつとか、そういうことだろ」
「……あぁ、そうなんだ」 
 そう言って、安達はあからさまに落胆して見せる。
 もう嘘に付き合うのはやめた。真に受けなかった。うんざりだった。
「狙い通りって感じ? カイって、未央が好きなんじゃないの。色々へんなこと吹き込んで――」
「おいおい、なんか怖いって」にやけながら茶化す安達に、僕は努めて何の反応も示さないようにした。「まあ、好きっちゃあ好きだけどさ。それとこれとは――」
「本当なのって、そこだけだろ」
「えぁ?」
 熱っぽい何かがうなじを伝い、耳の裏を通って頭に上る。足元のほうへ逃がそうとしたそれのほとんどが、すぐに胃腸の辺りで引き返して溜飲に。ずいぶん前に噛み潰したはずの苦虫と、今噛み潰した苦虫とが舌の上でない交ぜになる。
「俺がグループに参加するって提案したとき、思いついたんだろ。俺に自分の悪口書かせて、知らない振りして被害者ぶって未央に伝えればって」
 言えば言うほど、垢や皮脂みたいなものが顔中にべっとり貼りつくような気がした。力を込めてそれを拭えば、顔も手も余計に汚くなるような気がして、不安に自分をそよがせるしかなかった。
「ならさ、ミツル」声色を低くして安達が言う。口角を上げていることにも飽きた、そう言いたげな彼の表情が僕をまっすぐに捉える。「グループに書いてた『死ね』って、なんだよ。あれ、必要?」
「尾崎に携帯取られたとき、書かれたんだよ。誰かさんに頼まれて犯人捜ししてるらしくてさ、あいつ――」
「ラインのメッセージなら、すぐ取り消せたはずだろ」
 沈黙は白旗だ。負けだ。そう思って僕は、体中の汚れに構うことなく言葉を継ぎ足した。
「取り消したって意味ないだろ。あれだけの人数が見てるんだから。それに取り消せば、余計に本当のことっぽくなる」
「スパイっぽいことやってんだから、そっちのが都合いいじゃん」 
「……勝手だよ、ほんとに」僕は溜息をついて、足元に視線を落とし、気怠そうに続けた「いいわけないだろ。俺はブラックスミスみたいにサブアカだったり裏アカだったり、匿名でやってるわけじゃない。悪い噂が立つのも、めんどうなんだ」
「じゃああの『死ね』って文章さ、残しておいたほうが面倒なことにはならないって、そう思ったってことか?」
「さあ、どうだろ。お前みたいに、嘘ついてるかも」
 反応を確かめたくて、安達に目を向けた。珍しくもある彼の無表情から、怒りを読み取るのは容易い。釘みたいに鋭い視線を、泳ぎかけた僕の目にしっかりと打ち込む。そしてその釘をより深く打ちつけるように言葉を放った。
「ミツルが高畑のあれを、黙って指くわえながら見てたのは本当だろ」
 その硬く張り詰めた声が、例のモスキート音や耳鳴りとやけに共鳴して響いた気がした……違う、気のせいじゃなかった。
「呼び方」僕は言った。
「え、なに?」
「その呼び方、もういい」
 釘に刺された標本の蝶を無理やりちぎり取るように、僕は目を逸らした。それから顔と体を同時にそむけて一歩二歩。
「なんだよ」
 叫ぶように強調した『なん』と、急に尻すぼみになって弱弱しく呟くように吐き出された『だよ』を背中に浴びながら、僕は立ち去った。ガムみたいに噛み続けて味のなくなった苦虫を、泥だらけになった身体全身を使ってなんとか呑み込もうとした。



   十九日目

 学校を休んだ。インフルエンザにかかった小学生の頃以来ほとんど熱をだしたことはなかったから、脇から抜いた体温計が三八・三分と表示されていたときはびっくりした。
 母さんも父さんも仕事に出かけて、家には僕一人。登校するつもりで着替えた制服を乱しに乱してベッドに横たわる。決して全身を覆い隠してはくれない毛布や掛け布団の上からさらに、閉め切った部屋の薄暗さや静けさなんかが覆いかぶさってくる。
 ポカリスエットやウィダーなんかに伸ばすべき手は『猫じゃらし』の方に向かっていた。うだるような熱をどうにかしたくて、布団をはいで体を起こす。熱があるにもかかわらず――いや熱があるからなのかもしれない。僕はベッドの上に座ったまま、無我夢中になって『猫じゃらし』を読み始めた。結の縋りついた信仰じみたものの分だけ、その本は厚みを増して重くなった気がした。

『〈犬じゃらしなんて呼ばないでいいよ。きみもみんなと同じように、わたしをサトウさんって、スミスさんって、ミューラーさんって、ゴンザレスさんって、そう呼ばなきゃ。猫を見つけたいんならそうだよ……絶対〉』

『〈わたしも、きみを猫じゃらしって名前で呼びたいけど、それに犬じゃらしって、犬っころ草なんて呼ばれたいけど、でもそれだときみのお荷物になっちゃうから〉』

『〈死んでもそうはなりたくないから、ね。わたしのせいで、きみの猫が見つからないなんてさ。わたしはあなたにとって、ただ隣に住んでるような人じゃないとダメなんだ。ただすれ違って会釈したりするような人、太ったおばさん、髪のうすいおじさん、かわいい子にえこひいきするお兄さん、変なにおいのする女の子、世界中の色んな人〉』

『〈どこにでもいるような、誰でもなくて、誰でもあるような人。それからきみは猫を見つけて、みんなに雨を降らせるの。それもただの雨じゃなくて、レイニング・キャッツ・アンド・ドッグスraining cats and dogs. どしゃ降りの雨の意だよ。わたしの言うことがわかんないなんて言ったら、わたし本当に怒るんだから。わたしが怒ったら、ほんとめちゃくちゃに怖いよ。だからお願い、見つけて、見つけてね〉』――

『――そばに犬じゃらしがいないことに気付いた。うららかに降り注いでいる白昼の下、猫じゃらしは寝惚けた足を引きずりながら彼女を探した。
 そう遠くには行っていなかった。静かな田舎のはじっこ、快晴の空と瑞々しい木々、錆びついたトタン屋根やタイヤの曲がった自転車、壊れた洗濯機、ページが破れ放題の雑誌、ブルーシート、汚れた帆布、でこぼこのドラム缶、その他いろんなものが捨てられている空き地。そこで彼女はてるてる坊主みたいにぶら下がっていた。
 壊れたように張り詰めて見開いた目が、上を向きながら白目をむき出しにして止まっていた。転んで擦りむいた時にできた頬の傷から異臭がカサブタになりかけていた。足先からなにか油っぽいものが滴り落ちていた。日の光が彼女の胸から下を斜めに切り取って優しく照らしていた。木陰が髪と戯れるようにして一緒に揺れていた。
 しばらくの間、猫じゃらしは彼女をただ見つめていた。その内に彼は犬じゃらしの首に巻かれたロープの結び目を丁寧に解くと、彼女の口に詰め込まれていた靴下を取り出そうとした。吐瀉物みたいな靴下の山吹色を引っ張りだしているうちに、赤くて小さなハートの刺繍が指に触れた。
〈おはようと、おつかれさまと、おやすみと、ありがとうと、ごめんなさいと……〉
 猫じゃらしは彼女にそう話しかけながら――』

 ――汗まみれの体に気付いた時には、もう昼を過ぎていた。片手で襟元をバタバタ扇ぎながら、もう片方の手で手すりをしっかり掴みながら、ふらついた足取りで階段を降りる。全身の不快感をどうにかしたいと感じた時にはもう、キッチン横の壁にある給湯器の『自動』のボタンを押していた。そして、汗でびしょ濡れになっている体を食卓の椅子に深く沈み込ませていた。
 お湯が溜まるのを待っている間、今この瞬間にも展開されているに違いない場面のいくつかを思い浮かべた。
 ごった返しになった食堂。席のほとんどが埋まっていても、生徒たちは賑やかな行列を作り続ける。座る場所のなくなった人はどこに行くんだろう。そんな疑問がふとよぎっては、場面が変わる。
 職員室。ブレスレット代わりの腕捲りを飾った古林先生。小テストの答案に目を通しながら、ホカホカの弁当を忙し気に掻き込んでいる。口元にご飯粒をつけたままでいるのは、女性教員の母性をくすぐろうっていう企み。
 職員室の二つ上の階。三年のとある教室には未央がいる。程よくお洒落で流行に敏感な友達数人と手作り弁当を食べている。無断で借りた他人の椅子と机の上で交わされる話は、桃色でいっぱいの打ち明け話や与太話。気になっている異性の前でわざと自転車の鍵を落とす作戦だとか、相手を傷つけずに親密になれるようないじり方だとかを相談し合う。失敗すれば、被害者ぶればいい。
 偶然なことに、そこに安達も居合わせていて、未央の会話に聞き耳を立てながら友達と話をしている。その聞えよがしな会話は、どう転んでも自己アピールへと繋がるようにできている。女子との関係は匂わせるにとどめる。意外な人物と知り合いだということを示す。自分の人脈の広さを、自分の寛大さを、余裕のある男だってことを未央の耳に届かせて、彼女からのアプローチを待つ。彼が大胆になれないのは、ブラックスミスのことが頭から離れないからだ。未央への好意をブラックスミスに悟られれば、そこを利用される。もしかしたら未央も既に、ブラックスミス側についているのかもしれない。それが不安でたまらない。
 もう一度食堂に戻ると、高畑にピントが合う。スマホを操作しながら、肉そばの麺をすする。画面に飛びちった汁をカッターシャツの袖で拭う。前歯の間に挟まった豚肉のスジを舌先で取ろうとするたび、上唇がふくらむ。前に比べると盛り下がってきたようなグループラインを、とりあえず開いてみる。『安達死ね』の文字の並びが高畑を安心させる。けれどすぐに、互いの趣味をカスガイにして保てているような友達がこないことにじれったくなる。独りで食べているのは、友達の合流が遅いからだ。これは独りぼっちじゃない。そのことを周囲に分からせるために、食堂内を見渡してからこう呟いてみる――あいつら、おっそ。
 そうして見渡した高畑の視界の隅に、橋本、熊田、久鳥の三人が映る。昼休みライブの本番は明日。にもかかわらず休んだ僕を、最近の練習に熱心じゃない僕を、彼らは心配しながら不満に思う。けれどいざ僕になにかを伝える段になると、そんな本心は削ぎ落される。そうやってガリガリに痩せたような伝書鳩を僕に飛ばすのは、僕と一番親交の深い橋本だ。僕のスマホが通知音を鳴らす。
「明日、頑張るぞおい」
 けれど僕は、画面に浮かんだその言葉に敵意のこもった眼差しを注ぐだけだった。敵意の由来は多分、答えようのない漠然としたこんな問いかけ。自分が練習してるのはなんのため? 自分がライブの舞台に立ってきたのはなんのため? 
 僕の見ていた光景は食堂から視聴覚室に。演壇には承認欲求に煽られている自分が、利己的で自分本位な僕がいる。その光景を頭に描くと、たちまちに強烈な嫌悪感と不快感に襲われた。噛まずに飲み込んでしまった大きな飴玉みたいなものが喉の奥までせり上がってきて、食道の入り口に貼り付いているような、そんな感覚が頭を揺さぶる。汗がまた全身から噴き出してきて、頭から水を被ったみたいになる。手足の先が冷たくなる。
 給湯器から音楽が鳴った。お風呂から出た後みたいなずぶ濡れの体を引きずって洗面所に、それから浴室に入る。片足をお湯に突っ込んでから、制服を脱ぎ忘れてることに気付いた。だけど、もうどうでもよくなった。
 体に張り付いた服を気持ち悪く感じたのも一瞬だった。それが一瞬に終わってしまったことが自分の無感覚を証明しているみたいに感じて、余計に苛立たしくて空しくなる。
 靴下の毛玉、服についてた埃や糸くずが水面近くに浮かんでいる。湯気が天井に向かってゆらゆら消えていく。曇った鏡が浴室の一角を映している。心臓が遠くで脈打っていて、スミスの輪郭がゆっくりと浮かんでくる。僕はそのまま、浴室の壁をじっと見つめる。
『〈ほんとに、こんなことってあるんだね。叶っちゃった……わたし。こうやってきみがいて、今がずっと続きますようにって思えてるわたしがいて……〉』――


   二十日目

『「猫に九生あり。そしてここに九つの誓願あり。彼らは一生と一死を捧げて一つの誓願を果たす。一生に一度のお願いを、彼らは九度繰り返す。つまり、あなたが猫を見つけたいと望むならば、この誓願の意味するところを、また意味しないところをぜひとも掴んでおかなくてはね。彼らはそこにいるのだから」
 〈九つの誓願〉 
  一 すべての生死を救う。
  二 すべての煩悩と空を断つ。
三 すべての教えを学ぶ。
四 この上ない悟りを得る。
  五 矛盾と逆説によって飛躍する。
六 自分の声に応える。
七 狭く、暗く、静かな場にて姿を消し、雑踏を見届ける。
八 そこに在らずとも【Мeоw】と鳴き、そして聞く。
九 尾を丸めずに丸め、あらゆる誓言をどこ吹く風の如しとし
  ――』

 ――いよいよ僕らの番だった。演壇脇の左には熊田と久鳥、右には橋本と僕。物々しげに暗幕が閉じたその裏で、僕らは準備を始める。
 熊田はバスドラムとハイハットを試しにそれぞれ二度叩き、何度か居住まいを正す。久鳥は太い弦の重低音を響かせながら、アンプのツマミを弄って音域の調整。橋本は簡単なマイクテスト。色とりどりの弧を描きながら寄り道してミキサーへと合流している足元のケーブル類を、邪魔にならないようステージの外側に動かす。
 今しがた演奏を終えたバンドは照明係に回り、真っ暗な視聴覚室を、そのステージを彩ろうと演壇の左右で待機している。ライブ会場の視聴覚室は前から後ろまでほぼ満員。と言っても、もともと百人が関の山の広さ。それでも、座席に座っている生徒や立ち見している生徒の騒めきは千人力くらいに思える。黄色い歓声、野太い声援、控えめな囁き、掲げたスマホのシャッター音とライト。たとえば憧れや妬みの眼差し。怪訝なもの、珍奇なものを見る視線。退屈と興奮の色が滲んだ目つき。彼らの声にならない声が飛び交って、すでにうるさく、もう眩しい。
 アンプにシールドを挿して、スイッチをオンに。片膝をついた体勢でテレキャスターを抱えながら、アンプのツマミを回す。ゲイン、ボリューム、トレブル、ミドル、ベース。そこで思い出したのは、ガストで後ろの席に座っていた集団の言葉――セイキカン、ハウリング……それからピックを手に、六本の弦全部を撫でるようにして、弾いた。
 音を鳴らしたのは、祟りを怖がって下ろした右手だった。なにかに向かって伸ばそうとした手じゃない。なにかに触れようとしなかった右手だった。それが悔しかった。
 心臓が早鐘を打って乱れる。その鼓動ごとなだめるみたいに、左手で弦を押さえて振動を止めた。全身に響いて揺さぶる音が完全に消え去るまで、僕はじっと動かなかった。
「いける?」と誰かから――多分橋本か熊田から――そう言われて素早く振り向いた。『全然、余裕』なんて返そうとした言葉は、口の中で角砂糖が湯に溶けるときなんかよりも早く崩れて声にならない。
 立ち上がる動作の途中、ギターとアンプの距離が近づいたのか、耳障りなハウリングが響く。女子の悲鳴みたいな甲高い音。それは、耳鳴りでもモスキート音でもないはずだった。
『あの土曜日お前、ただ見てただけじゃん』
 暗幕が引かれる。色んな含みのある、ほとんど蛍光色じみたような生徒の視線が僕らに集まる。雑に沸き起こる歓声を、僕の耳はいつも通り快く受け取ろうとした。
『認められたい、注目されたい、いいねが欲しい。お前もおんなじ。お前も嘘つき。セイキカン。自分を誤魔化して――』
 ステージに立っている。そのことがもう忌々しいなんて感じたわけない。
『結に会いに行ったのも下心。もし彼女が男だったら? 会いに行ってたか?』
 緊張してる。楽しい。最高の演奏。
『ここに立ってるのは、なんのため?』
 背骨に沿って汗が垂れる。襟元をバタバタ扇ぐ暇もない。汗が止まらない。
『なにがしたい?』
 曲が始まる。
『そっちは? なにになりたい?』 
 息を吸った。嘘も汚さも問いかけも全部粉々にしようとして振り上げた時には、ギターを叩きつけていた。壊れなかった。ただ演奏を中断させて、場違いな休符をその場に打ちこんだだけだった。
舞台袖の安達、窓際に立っている未央、高畑、尾崎、入口の傍で腕を組んでいる古林先生、その他大勢。怪訝な面持ちと視線が僕に集まる。
 走った。視聴覚室を出た。



二十一日目

 口元を緩ませたまま、結は後ろを振り返った。片手で髪を何度か撫で下ろしつつ施錠する。玄関ドアに嵌め込まれたガラスに映る自分の表情がちらっと目に入ったのか、その自分と決別でもするみたいに彼女はきゅっと口を引き結ぶ。そんな頼りない透明ごしに、僕は結の姿を見た。白いワイシャツの上にベージュのベスト。その上にまた亜麻色のピーコート。脛の辺りまで垂れたグレーのプリーツスカート。
「じゃあ、いこう」僕は言った。
「どこに連れてってくれるんですか? ミツルさん」その表情に雨粒を一つ落としたようなささやかな微笑を浮かべて、結は言った。
「石だよ。まずは適当に石見つけよう。それを蹴りながら、考えてさ」
 僕がそう言うと、結は二つ、三つと続けて雫を落として笑う。
「嬉しい、ホントに最高のプラン」
 その皮肉じみた物言いを、僕は喜ぼうとした。嘘や冗談や皮肉へと遠回りすることは、僕らの一番の近道だと思っていたからだ。
「それはどうも、ありがとうございます」
 でもそれが、いつも近道になるなんて限らない。だから迷う。

 小学校へと向かう通学路を二人で辿った。それぞれ石を蹴り進めながら、折に触れては懐かしみのある話題へと寄り道しながら。
「ちょっと、待ってってば」
 石を蹴ろうとするたびに、結はわざわざ歩みを止めた。蹴りたい方向に体を向けて、気をつけの姿勢になって両足をくっつける。それから振り子みたいな挙動で片足を振る。石は明後日の方向に転がる。
「違うって。もっと自然に、歩きながらだよ」
「そんなの言われても、言われてもさぁ」
 そう不平がましく言いながらも、側溝に落ちたり、道から逸れたりする石を見て結は心底嬉しそうにした。彼女にとってはそれが、下手なままだということの、変わっていないことの証明として映ったのかもしれない。
「だから、歩くついでに蹴るんだって」
「分かってるって、もう」
 僕が前で、結が後ろ。思い返せばいつもこんな位置関係だった気がする。話すことも、見ている方向も。まだサンタさんがいるような方向を、結は見たがっていた。

 通学路から外れて、僕らは次に踏切のある駅前へと向かった。商店街に続く敷石の道が見えたところで石蹴りは止めて、並んで歩く。
「ほら、来たよ」
「うん」
 表情という表情を消し去りながら、結がそう返す。まっすぐ前方に向けた目は、まるで踏切の向こう側にある遥か遠くのなにかを見つめているみたいだった。
 結はあっけなく踏切を渡り終えた。僕の心配も、それを示すような目配せも杞憂に終わる。
「なんだ。全然、大丈夫じゃん」
「うん、そうだね。平気になってた」曇らせた表情を足元に向け、少しの間を置いてから結は言い添える「やっぱり、そうだよね」
「やっぱりって?」
「変わってた、わたし」
 顔を上げると結は、糸で吊り上げたようなぎこちない笑みを僕に見せた。糸はぴんと張り詰めて震えていた。通された針に見合わないような穴がぽっかりと空いていた気がした。

 そのまま駅から徒歩五分くらいのショッピングモールへ。そして一階の食料品売り場。
「あー、ミツルさん。ホントにやる……って感じ?」
 はにかんで笑いながら結が言った。
「もちろん、このために来たんだから。ほら、入って」
「うーん」
 二段式のカートの下の段。二つ目の買い物カゴや荷物なんかを置くところに、結はためらいながらも乗り込もうとする。スチールのフレームに突いた手で体を支えながら、背を丸め、一本ずつ脚を伸ばし、頭を傾ける。自分のやろうとしてることの可笑しさからか、彼女は一旦くすぐられたような笑い声を上げる。
「ちゃんと乗ってる? それ?」
「乗ってるよ。だから早く」
 寒さに震える小学生の体育座りみたいな格好でぎゅっと縮こまって、彼女はショッピングカートの下の段になんとか収まる。
「シートベルト」
「はいはい、大丈夫」
 車の下で雨宿りをする猫のように見えた。そういう風に見えただけ。見つけたなんて言えなかった。僕にとっての猫も、彼女にとってはそうじゃない。そう思えば、僕にとってもそうじゃなくなる。
「ダメだって。ちゃんと着けないと、警備員も警察も――」
「もう! はいカチっ。これでいい?」
 少し窮屈そうに曲げた首を無理に回して、彼女は僕の方を振り返る。言葉を返す代わりに、僕はカートを押した。
「わっ」結が声を上げる。結からすれば天井になってる一段目の底の網目状のスチールに、彼女はしっかりと手指を引っかける。
「っていうか、押すの下手だよ! ぐらぐらして――」
「なに、なんか言った? ほら、バナナ。フィリピン産だって」
 結を押し運びながら売り場を回る。野菜、肉、魚、お惣菜。それから日用品、お菓子だらけの色づいた谷。
「うわこれ、知ってる? カメレオンの、味変わるやつ」
「あーそれ、遠足に持っていくには高いんだよね」
 僕が聞いて、結が応える。
「あっ、ビスコさん。久しぶりだね」
「家族も、兄弟姉妹も、みんな揃ってる」
「ホントみんな、そっくり」
 結がおどけて、僕もふざける。
 会話のキャッチボール。そんな比喩から始めて、本当に辿り着きたかった。ボールをどこに投げようとか、どうやって捕ろうだとか、そんなことは無視していい。グローブの役目が痛みを和らげる為だけだとしたら、それも必要ない。相手の力を掌でしっかりと感じ取る。痛みも一緒に。そのうちにキャッチボールが、本当の会話になることを僕は期待する。普通順番は逆だけど、遠回りを近道にしがちな僕らだ。いくらでも覆せる。嘘や冗談や皮肉で本当を確かめて、嘘で削って本当を浮き彫りにして、嘘から始めていつか本当に。
「どう、まだ楽しい? 好き?」
 勢いをつけてカートを押し、足を床から離してカートのフレームに載せる。僕らは勝手に進んでいく。
「うん、楽しい。好き」
 僕から結の表情は見えなかった。でも、並んでも縮まらなかった僕と結の距離が、時間が、その時やっと一致したように僕には思えた。
 そうやって今だけを見つめて、過ごしていたかった。なにもかも楽しんで、なにもかも忘れていたかった。なにが本当でなにが嘘か、そんなことも今だけは僕らの声よりうるさくなかった。

 次の目的地。ジンベエザメの見られる水族館に向かって、僕らは電車に乗った。平日の昼間の人気のない車両に十分。乗り換えて十分。歩いて十分。
「フィンランド?」
「うん、フィンランドの猫。死んだ後にお供してくれるらしいんだって」
 道中交わしたのは、僕が信じたかった何気なくて他愛ない会話。
「昨日、猫じゃらし読み終えてさ」
 そんな、当たり障りのないいくつかの会話。だけど、水族館の案内看板が見え始めたあたりで不意に結が、妙な間を置いてからこう切り出した。彼女が自分のことを話し始めるときの『嘘だって思ってくれる?』なんていつもの前置きはしなかった。
「私ね、いまはこんなだけど、大学行こうかなって」
「え?」
「大学、ね」
「あぁ、大学……」
「うん」その二文字だけで、声がかすかに震えてるのが分かった。結はそのことに自分でも気付いたらしく、改めるみたいに深く息を吐いた。
「お母さんにもお父さんにも迷惑かけっぱなしだからね。友達もラインだけじゃなくて、手紙なんかもくれたりして、家に来てくれたこともあった」
 まるで自身が立ち直る理由を自分に言い聞かせながら組み立てていくように、結は話し続けた。
「他の受験生蹴落として合格したくせに、自分の殻に閉じこもって、めちゃめちゃにして――だから、どうにかしないとって。ほら、別に留年したっていい。高卒認定試験って言うのを受けて、普通にバイトして、お金貯めて、好きな服を買って、オシャレなカフェに行って写真撮って、推しのアイドルかなにかを追って、なにかのオタクになって、そりゃあたとえばの話だけど、そんな風に好きなことを見つけて……」
 結の声は、次第に絞り出すように細くなる。口にした言葉が、徐々に違和感を伴っていくのが僕にも分かった。結の口からこぼれたのは今を押し殺しながら、今の自分自身を投げうって跨いだような、どこかの未来にいる別人の話だった。
「だから、多分、そゆことです」
 そう言って結ぶと、自らの発言を吞み込むように結は頷いた。
「結はさ、それでいいの?」
 少しの沈黙の後、結が呟く。
「きっと、それで――それがいいんだと思うんだ」
 彼女は急ごしらえの未来に繋がってる特異点でも見つめるみたいに、不安げな眼差しを遠くに注ぐ。今を欠いた声で心許なさそうに吹かれたその言葉には『そうするしかない』という意味も込められているに違いなかった。

 夜がゆっくりと光を絞って、夕陽が赤く染まる。昼の光に取り残されたような淡い黄色が、広い都市公園の街灯にぽつぽつと灯り出す。群青めいた空に星座と月がぼんやり滲む。水族館へと続く道の両側には、イルミネーションの施された青白い木々が兵隊みたいに並んでいる。
 目では捉えきれないくらいに鮮やかで多彩なその光景に、見惚れていなかったなんて言えば嘘になる。自分の色もそこに埋めてしまいたかった。いっそこの風景に自分を溶かしてみたいと思った。捉えきれないという点では瓜二つなはずで、色も光も腹違いの兄妹みたいなその風景に、それでも僕らは僕らを溶かしきれないから迷ってる。
「マタタビでいっぱいの海」と結が言った。
「うん?」
「猫じゃらしに出てくる、ほら、空っぽの鳥籠がいっぱい飛んでる海。マタタビをお腹いっぱいまで食べようとして、水中めがけて突っ込んで――」
「あぁ、思い出した。マタタビ食べて、お腹がプーさんみたいに膨らんでそれから……そう、それから体が重くなって飛べなくなって、溺れて死んじゃうとかなんとか」
「うん、それ。私の想像してるその海辺と、なんかそっくりだよ。こういう感じの景色っていうか」
「あんまり、海っぽくはないけど」見渡しながら僕は言った。
「うーん、そうだけど。とにかくそんな感じで……」
 結の濁した言葉は、僕に伝わる形へ濾過するみたいに尻すぼみに小さくなる。そこに不純物が混じっている限り、結の声はフィルターに詰まって通らないらしい。
「ううん、それだけ」
 結はうわべだけは快活そうに声を上げて、うわべだけは嬉しそうにクシャっと笑う。取り繕ったようなその明るい表情は、イルミネーションの光よりも暗い。柔らかな青白さが彼女の顔と髪を照らす。
「それだけって」結の方を見て、笑いかけながら僕は言った。
 十歩分の沈黙を破って、十一歩目に結が口を開いた。
「ねぇ、見てあれ」
 見ると、正面の方から水族館帰りらしい二人の子供とその母親が歩いているのが目に映った。母親は娘と息子に両手を握られていて、二人が元気にはしゃぐ度にその両腕はまばらに波打った。波は腕から首へ、それから顔へと伝って笑みになる。波打ち際のその表情に、二人の子供は休む間も与えず飛沫を浴びせかける。男の子が歌を歌い始める。女の子も一緒に歌い始めようとするけれど、歌詞はうろ覚えみたいでハミング交じりだった。
「双子かなあ」
 彼らを見つめながら、結は静かにこぼした。
「うーん。っていうか、なんだっけこの曲」
 男の子も途中から歌詞を忘れたみたいで、鼻歌でメロディーだけを辿り出す。けれどすぐにメチャクチャな言葉を紡いで、それが間違っていようが構わずに大きな声で歌い続ける。女の子が笑いながらツッコミを入れる――ねえそんなのじゃない。
 すれ違いざま、うたの名前を僕らに思い出させるように、迷っていた僕らの色にハタラキのある一句を投げかけるみたいに、二人の子供が叫んだ。
「ぐりーんぐりーん」
 僕らは同時に思い出し、思わず微笑を浮かべた。背後で母親が、ちょっと、とボリュームを下げるよう子供たちに注意する。でもその声色は、叱ったとか窘めたとかとは少し違う。母親も楽しんでいるのが分かるような、そんな声だった。
 結が歩調を緩めたのに気付いた。二、三歩分の距離ができたところで僕は振り向く。結は母親と子供たちの方に首を回しながら、いつ立ち止まってもおかしくないくらいにゆっくり歩いている。歌はまだ聞こえる。
 彼女が追いついてくる数秒を僕は待った。ただ待ちながら、結が後ろ髪を引かれるような思いで見ているらしいその光景を、彼女の肩ごしに僕も見ようとした。男の子の前にしゃがみこんだ母親が、彼のズボンからはみ出ていたシャツの裾をズボンの内側にきちんと押し込む。自分の着ているチェスターコートの裾が地面に触れて、足をくじいたような形に曲がっていることは気にも留めていない。その傍らで、女の子は手の拘束を解かれたみたいにピョンピョン跳ね回っては夕星空を仰ぐ。イルミネーションの光で半透明になった黒い海を、夕陽に傾いた並木の影をケンケンパするみたいに跳びわたる。
 しばらくの間結は僕と目を合わせず、度々三人の方を振り返った。その親子が道から逸れて見えなくなるまで、結は何度も名残惜しそうに見守り、見送り、見届けた。
結がその光景に目と心を奪われる理由がなんとなく分かるような気がした。振り返った時に見ることの出来る世界だけが結の拠り所だった。容赦なく降ってくる色彩や色、今や未来をしのぐためには、骨の折れたような古い傘の下で雨宿りをするしかなかった。
 だけどその雨宿りを、僕は妬んで羨んだ。結の見ているその光景に、今の僕がいないのは確かだったからだ。

 水族館の入口前の広場には、緑と青のきらびやかな電飾に彩られた大きなクリスマスツリーがあった。所々に散りばめられているのは赤い靴下やくす玉みたいな丸い飾り、赤いリボン。三階建ての建物くらいの高さはあるそのてっぺんには、小さな星が金色に輝いている。ツリーの置かれた台座の周りを囲って、青くて太いロープで繋がれたポールのパーテーションがあり、またそれを囲うようにして二、三組の客がツリーを眺めたり写真を撮ったりしていた。
 結がツリーを眺めたのは一瞬だった。さっきの親子に向けていた視線を容易く引き剥がして、僕の先を歩く。入場口へと向かう。けれど受付の女性が僕らに気付き、案内がてらの笑顔が現れたところで結は足を止めた。数秒、突っ立っていたかと思うと、彼女は回れ右をした。
「入るまでしなくても、いいかも」
 平板な口調でそう言うと、結が僕の横を通り過ぎた。僕をちらっと流し見るその目には透明が溜まっていた。
「結」そう呼びかける以外に言葉が思いつかなかった。水族館から足早に立ち去ろうとする結の後を追いながら、僕は言った「ここまで来たんだし入ろう。見るだけで、ジンベエザメなんてなんにもしてこないって。大丈夫だって」
 僕が横に並ぶと、結は立ち止まった。両方の目元をさっと袖口で拭うと、彼女は誰かに名前を呼ばれでもしたみたいに僕とは反対側の方を振り向く。それからすぐに涙の代わりに吐き出したような溜息をついて、正面に向き直った。
「なんか、怖くなっちゃってさ」
 陽気さを込めるつもりで言ったらしいその声は小刻みに震えていた。照れくさそうな微笑を無理に作った口角も、糸がぷつんと切れて歪んだ。穴だけが残った。
「でも確かめなきゃ。そもそも今日ジンベエザメがいるかどうかだって調べてないんだし――」
「そうじゃないの」
 行き場を失くした表情を、何色に変化させようなんて努力がそこで消え失せる。指で前髪をつまみ下ろすその仕種の陰に隠れるようにして、親指の根っこの辺りでまた目を拭っているのが見えた。
「怖くなくなってるかもしれないのが、ヘンに怖くて、って。ここのサメが一番怖かったから余計にかな。なにか失くしちゃうような、そんな気がした。サンタさんの時と一緒で、ヘンな感じ」
 素早く鼻から息を吸って、深く息を吐く。すると結はまた僕のいない方向に顔を向ける。片手の平が頬を拭った。感情を押し殺すような結のその素振りが、一本の血管じみた熱を伴って僕の目に流れてくる。
「いいじゃん、それで。変われば」
 僕が言うと、結は真正面に視線を据え直す。それから忙し気に髪を撫でおろして、口をきゅっと引き結んだ。
「絶対失くしちゃうんだよ、そういうの。俺だってさ」分かり切ったような言葉を、どうしようもない言葉を、それでも僕は言ってしまった「ずっと保健の授業で倒れてたりとか出来ない。多分いつか勝手に克服してるし、結だって踏切、普通に渡ったしさ。だから行こう、ほら」
 水族館へと向かう僕の一歩に、結の一歩はついてこない。
「わかんない、わたし」
「え?」
「ううん……とにかく、もう大丈夫」そう言って啜り上げる音と同時に「うわ、泣きそ。恥ずかし」と続け、結はクスっと笑った。自分で自分を茶化して、冗談にして誤魔化すような結を、僕は見過ごさなかった。
「嘘なんだよ、それも」僕は言った「さっきの大学に行くとか、そういうのも嘘だ。そうするのがいいなんて言ったのも。大丈夫なんかじゃない」
冷たく言い放ってしまったはずの言葉だったけれど、結は何も返さなかった。ただ肩で上下させて息を整えた。視界の端に映ったものを拾い上げては捨てるように慌ただしく一瞥した。啜り上げた。それを突き崩すしたい、流れてくる熱をぶちまけたい、そんな衝動が僕を襲った。
「なにか失くしちゃいそうだからってさ、今だけぽっかり穴開けて、昔の話ばっかりして。そうやって今の自分を――」息継ぎの間を空けて僕は続ける「昔の自分で否定して。サンタさんを信じてた、汚くなかった、嘘がなかった、そんな綺麗な幼い頃のことを理想にしてさ。光化学スモッグだとかを怖がってた昔の俺ばっか見てさ。そんな時に一緒にいたのが俺だったから、昔の俺だったから、こうやって色んな話してくれんのかもしれないけどさ。それだけじゃない。猫じゃらしって理想を、そっくりそのまま自分にあてはめようとして、それで――」
 言ってるうちに、結にそのままでいてほしいのか変わってほしいのか、自分でも分からなくなった。一度周囲に溶け込もうと、染まろうとした彼女が嘘に耐えきれずにこうなった。うまくやれなかった。でも、今の僕らを見てほしかった。そんな矛盾に言葉が詰まって、喉で罪悪感になって全身に。同じ言葉を、結は何度自分に問いかけたんだろう。そして何度、こんな矛盾に突き当たったんだろう。
 結は自分から言葉にした『泣きそう』が彼女を開き直らせたみたいに、濡れた顔をもう隠そうとはしなかった。涙の伝った跡が細く青白い光に縁取られて、その上をまた雫が流れ落ちる。それを指先でそっと掬うと、彼女はこう言った。
「本当はね、あの日旅に出るつもりだった。バカみたいだけど、そうするしかなかった」
「それって――」
「うん、猫じゃらしみたいに。どこか私のことを誰も知らないような、遠いところにいこうかなって。あの日っていうのは、飛び降りた日のことだよ。結局、行かなかったんだけどね。そんな大それたことなんて出来ないって思ってる自分を捨てきれてなくて、自分を否定してる自分だけを信じてるのも嫌になって」
 頭を左右に振って髪を揺らし、少しだけ顔を仰向けて、結は深く息を吸った。
「でも、何かを変えたいとかっていうヘンな気持ちだけが強く残ってて……あんなことしたのかも。私はどこにもいないことに気付いた。みんなと仲良くすることもできない。自分なんかと仲良くすることもできない。サンタさんに好かれるような自分にもなれない。猫じゃらしみたいにもなれない。猫も見つけられない。だから――」
 結の声と息は、徐々に絞り出すように、そして途切れがちになった。
「ずっと、どうしたらいいんだろうって……わかんない」
 きつく締め上げた喉から、甲高い音が混じる。体全体が大きく揺れる。目をきつく閉じ、両手で鼻から下を覆う。唐突に骨がなくなったみたいに両脚が震えて、それが地面へと倒れこむ動作になりかけた時、僕はなんとか彼女の右腕を掴んだ。そして素早く結の前にしゃがみ込んで、うつ伏せに倒れかける彼女の両肩を支えた。
 堰を切ったようにとは違う。彼女の泣き方は、堰が溶けたように緩やかに激しくなっていって、敷石を雨粒みたいに点々と黒く塗りつぶした。突き出した片肘が僕の腕の関節の上に重なる。曲げた腕の先、手の甲を人中の辺りに押し付けている。
 まるで自分の墓石に凭れて泣いているみたいだった。解脱も出来ず、極楽浄土にも行けなかった彼女でも、神さまは気の利いた言葉をかけられるんだろうか。鋭い痺れに変わったような熱が、体の内側でのたうち回って蠢いても、それが胸と背中を搔き毟っても、僕は何も言えなかった。

 今日が始まった日と同じように、結は口元をぎこちなく緩ませたまま後ろを振り返った。片手で髪を何度か撫で下ろしつつ、今度は開錠する。玄関ドアに嵌め込まれたガラスに映る自分の表情から目を逸らす。そんな彼女を、僕はガラスの狭い透明ごしに見る。
「じゃあね。楽しかった」
 そっと呟くように言った結のその言葉が、犬じゃらしの最期と被った気がした。体温より少しだけ冷たいものが首元に触れる。
「結」僕は慌てて呼びかけた。それから次に会う口実をなんとか捻りだした「今度、俺も行くから」
「行くって、なに?」首だけを振り向かせて、彼女は言う。
「猫じゃらしみたいな旅に出るんだよ。一緒に。色んな場所に行って、猫を探して、猫の探し方を聞いて回ってさ」
 暗澹としたものが結の表情をよぎる。横髪が頬に影を落として揺れる。吹けば飛ぶような切ない微笑を浮かべて、ドアを開ける。
「うん、ありがと。ホントだよ」
 ドアの閉まる音がギロチンの音染みて聞こえた。耳の表面の辺り、払い落せるはずのところでそれは響いて止まなかった。帰りながら、せめてもの反抗と耳たぶを強く摘まんだ。
 必死になっていた自分に気付いた。昨日のことを埋め合わせようとしている自分。今までの全部を忘れようとしている自分。自分を好きになろうとしている自分。今の自分を取り返そうとした自分。僕が僕を好きになるために結を利用した自分。
 結が笑ってくれさえすれば、僕は僕を好きになれるはずだと思っていた。僕は今日というこの日を、いつかの結が振り返るだけで上手くやっていけるような過去に、笑って眠りにつけるような思い出にしたかった。でも、結が結自身のことを好きになってくれるまで、それは無理だった。
 ジンベエザメ一匹分の巨大な穴がぽっかりと黒く蠢いている。僕の体に収まり切らないはずのその穴だけが僕になる。

 



  二十二日目

「まず言うこと、あるだろ」
 生徒指導室。古林先生は僕がなにか言うのをひたすらに待っていた。朝そのものが、先生の味方になってる気がした。雀の声も、焼けたパンやみそ汁の匂いも、寝惚けまなこも、目ヤニも、あくびも、くしゃくしゃに皺の寄ったシーツも、アラームも、シャワーも、散歩もランニングも、寒さも、横殴りの陽の光なんかも。朝から連想される音や匂いや光の全部が先生の味方になってる、そう感じた。
「ギター一つ買うのに、どれだけお金がかかると思ってる」
 目は鋭かった。自分が優位に立ってることを確信してる人間の目だった。
「バイトは、してるのか? あれ一つの為に、どれだけの時間を削って――」
「いえ、してません。ギターは、少し遅めの卒業祝いと入学祝いで親に買ってもらいました」
「ならなおさらだ。それをあんな風に叩きつけたんだろ、お前は」
「はい」
「なあ笹井」先生が溜息をついた。素人がやる下手な手品みたいに、先生がそこでムチをアメに変えたのが分かった。「どうしてあんなことしたんだ? なにがあったんだ? 火曜日、熱が出たんだって? それで昨日は身内の不幸と聞いたが」
 なにもないから。なにも分からないから。だからこそ。
 頭の中ではっきりと言葉になったそれを、自分ごと折り曲げるようにして畳んで、ちゃんとしまった。紙の擦れるクシャっという音を僕は返事にした。
「なんでも、ありません」
「嘘をつくな」手品みたいにまたムチになる。するとタネがバレるのも構わずにまたアメを出す。「先生が頼りないのも多分そうなんだろう。自分の中にしまい込んでおきたがる理由は。その気持ちも分かる。でもせめて、親御さんには話してみてほしい。そうしないと、笹井の両親に話をする必要だって出てくる。もちろん、お前の為にな。これが先生の仕事だからってわけじゃない、純粋に人としてそうせずにはいられなく――」
「前に言ってたのって、安達のことですよね」
 そんな言葉が口を突いて出た。
「安達?」
「先生がいま一番心配してる生徒です。グループラインでいじめられてて、誰かに勝手に裏アカ作られてる安達カイ。そっちに、もっと構ってあげてください」
 鋭かった先生の目が少し揺らいで濁る。手が顎先をさする。もう片方の手が膝がしらを叩く。その手の動きに僕は目を凝らした。血管伝いに腕を辿ると、相も変わらず捲られている袖にぶつかった。
「あいつのことで、なにか知ってるのか」
「いえ……知りません」
「安達は先生に任せて、お前はお前で気にせずまた相談してこい」
 先生が鼻からたっぷりと息を吐く。その吐息が、僕の垂れていた手を掠める。
「先生は猫じゃらしって本のこと、ほんとうに知ってましたか?」
「なに?」
「書いたのはアメリカの人でした。ロシアじゃありません。あの時僕、わざと間違えたんです」
「……そうか。なら、先生の覚え間違いだな。確かロシアにも似たような小説があった。思い出せないが――」そこで先生は、僕の言いたいことを察しとった。声色を低くするつもりの小さな咳払いが聞こえた。「俺が見栄を張って嘘をついていた、誤魔化していた、そう言いたいのか?」
「いえ、そういう訳じゃ――」僕はためらいがちに言った「でもそういうのは、そういうのただ、サンタさんがいるっていうような嘘をつくのとおんなじで……」
 口走った言葉に何らかの終止符を打ちたくて、最後にこう付け加えた。
「これからもなくなるものじゃあないって、思ったんです」
 先生はまた鼻から深く息をついた。それから伸ばした片手を裏返したりして、血の巡りでも観察し始めた。
「そうだな、なくならない。だが、誰にだってそういう欲はある。先生もお前も、みんなだ。人気が欲しい、ちやほやされたい、頼りにされたい。サボりたい時には、身内の不幸なんて嘘をつく」
 自分の血流を眺めたことで得た心の平穏が、細められた先生の目にまで行き届く。それが言葉にも込められる。
「優しい嘘と捉えることは出来ないか、笹井。確かに先生の知ったかぶりみたいなイヤらしい嘘もある。ただ、大人になれば物事はどうしようもないくらいに複雑になって、そんな嘘に頼らずにはいられなくなる。自分を守るために必要になってくる。サンタさんのこともそうだ。信じるものは押し付けられない。だからせめて、なにかを信じるということを子供に教えてあげなきゃならないから、子供に優しい嘘をつくんだ。映画や小説だってそうだろ?」
 太腿をつねりながら、視線を膝の上に落としながら、僕はそれを聴いていた。おかしい、なにか違う。そんな絶対的な違和感があった。
 結がその違和感だった。結の存在が全部を否定していた。そして同時に、結が否定されてもいた。反論の言葉が出てこない自分の無力さが、そしてその否定そのものが悔しくて腹立たしかった。
「でもやっぱり――」体が一気に火照った「信じることだけを教えて、信じられるものがどこにもないなんてその……バカげてます」
 それしか言えなかった。

 リノリウムの廊下が頼りない。他人の視線は絡み合わずに僕の方へと一直線。視線で敷いたレールの上に囁きや笑い声を載せてくる。だから僕は、歩みを進める度に返してくれる足音になるべく耳を澄ました。耳を塞ぐために、耳をそばだてた。
 椅子を引く音も、底意地の悪い笑いと重なった。いじられキャラがブーブークッションを鳴らす度に湧き起こすような笑いとは違う。一昨日のライブでの奇行は、僕をウニみたいな形にした。ブーブークッションを踏んでも空気の抜ける虚しい音がするだけ。話しかけようものなら針が当たって痛い。触らぬ神に祟りなし。僕だって、こんな奴には触れようとしなかっただろう。
 授業が始まるまでの間、机に突っ伏していた。重ねた腕を枕に、そのうちに片腕をずらして前に伸ばす。机の面で額を冷やす。またそのうちに、自分が悲劇のヒーローぶってる気がして、それがあからさまでこれ見よがし過ぎる気がして姿勢を正す。それまでの非常識的な振る舞いを取り返すつもりで、僕は頬杖をついてスマホを操作するというあの常識的で一般的で普遍的な態度をとった。
「なにされるかわかんないし」
「そうだけど」
 そんな囁きがすぐ隣から聞こえると、それに続いて机の位置をずらす音が響く。僕にバレるかバレないか、そのスリルを楽しんでいるらしく、ヤバイガチヤバイと言う声に続いて小走りが遠のいていく。そうやって教室から出ていく女子を、教室の入口で半身の姿勢をとって避けたのは橋本だった。鞄を持ったまま席に座らないでいる彼が、意識的に僕を視界に入れようとしていないのは明白だった。
『おーい、ささいー?』
『なにどゆこと』
『ロンドンコーリングのジャケットで草』
『あんなかっこよくないけど』
『ささいー?』
『まああんな部長のライブぶっ壊したくなるよな。でもギターはせめてかっこよく壊さんかいw』
『お前ら自分の楽器隠しとけ!』
『って壊れへんのかい!』
『共感性羞恥やばめ』
『ささいー?』
 所在なげに見たグループラインの発言は、そのまま周りの人間の本音だった。緑の吹き出しがたちまちにみんなの目を覆った。河北高校は人種のバラエティに富んでいるってわけじゃなかった。

 放課後。階段の踊り場で安達とすれ違った。彼は歩調を緩めて、足場が安定しているか確かめるみたいに階段を一歩上ってきた。僕は何事もなかったように階段を下りて彼の横を通り過ぎた。だけど橋本とは違って、彼は僕に触れた。
「おい」
 僕は首だけを彼の方に回した。
「なに」
「クズ野郎」
 低くて重たい声色だった。それっぽっちの言葉に冷たく迸る怒りを全部込めようとしたせいで、勢い余って彼の口から唾が飛ぶ。唾の飛んだ方向に、僕も安達も一瞬目を向ける。
「あいつと、上手くやってる?」僕は言った。
「んあ?」
「未央、寂しがってんじゃないの。部長さまが来てくれない。オリジナルの新曲を聞きたくてたまらないって――」
 瞬間、安達が僕の胸ぐらを掴んだ。そして僕の背中を壁に強く押し付けた。
「黙れ、おい」
 唸るような声でそう言いながら、安達は僕の胸ぐらを激しく揺り動かす。体を揺さぶられながら、僕は苦し紛れに声を出す。
「思った。俺がブラックスミスかもって」
「はぁあ?」
「本心じゃなきゃ『死ね』なんて言わない――って言うか俺だよ。ブラックスミス」
 古林先生に突きつけるつもりで、僕はそんな嘘をついた。必要な嘘、優しい嘘、僕らが頼るしかない嘘。自分を守る嘘。自分からそんな嘘をついてひどい目に遭ってみせることで、反論したかったのかもしれない。でも、思った以上に口が止まらなかった。
「コネみたいなもので部長になったのもうざかった。オリジナルの曲も。高校に入ってからあからさまに距離をとり始めたこともうんざりだった。分かるよ、高校デビューだってばらされるのも嫌なんだろ。で、裏アカ作ってあることないこと呟いたら、共感するやつがかなりいた。グループラインも勝手に出来て――」
「なんの、嘘だよ」
 僕の襟を握っている安達の両手に、より力が入った。
「噓じゃない。全部が全部心の底から――」
「違う!」
 校舎中に響き渡るような怒鳴り声。上の階の階段の手すりから誰かが頭を覗かせる。下の階にも人が集まってくる。
「誰かを庇ってるわけじゃなくて、ほんとに俺なんだ」
「いや、庇ってる」
 怒りやら困惑やら、どちらともつかないような表情を、安達は瞬時に立ち替わらせる。
「なんでそう言い切れんの。それに、あの土曜日の時だってお前ヘンだった。なんでそんな確信持ってんだよ」
 すると安達は僕の胸ぐらを掴んだまま、ゆっくりと項垂れた。それから周りには聞こえないように声を絞って、こう言った。
「自作自演だった」
「は?」
 瞬間、僕の顔面に拳が飛んできた。僕は踊り場の隅に倒れこんで、痛む頬を手で押さえた。未央のビンタとは比べ物にならない、それでも似たような意味を孕んだ痛み。
「ブラックスミスになって、誰か敵とか、作るしかなかった」
 そう呟いて、安達はその場を離れようとした。けれど、立ち去る背中が少し見えかけたところで彼は不意に立ち止まり、去り際の台詞を僕に浴びせた。
「なんとなくで俺が嫌われてる理由を、ブラックスミスのせいにしたかった。俺、多分根っから嫌われてんだよ。特に中学一緒だったやつらから、高校デビューだとか陰キャだったとかクソみたいなことで……そいつらとは関わりたくなかったけど、でもどうせ根も葉もないこと言いふらしてる。だからなんかの被害者になるしかなかった。まず敵を作ってから味方を増やして、それで先生に相談してさ。コネでもなんでもいいから勝ち取ってやった。とにかく変わろうとして、なのにさ――」
 そこまで言うと、安達は自分の言葉も僕との関係も断ち切るように階段を駆け上った。
 短い溜息をつくと、へんな笑いがこみ上げてくる。その発作みたいな笑いに遮られながら、なんとか立ち上がった。集まってきた生徒の痛い視線を掻いくぐりながら、僕は階段を降りて入った。
 
 ライブの時には百人くらいいた視聴覚室は、今は人っ子一人いなかった。ギターを持って帰りたい、と嘘をついて渡してくれた鍵を、出入り口から一番近くの机に置く。入ってすぐ右手の脇には倉庫あって、そこには使い古されて埃を被った音響機器やプロジェクターが一応は整頓されて並んでいた。倉庫の奥の方には、軽音楽部員の楽器がいくつかある。登下校の際に持ち歩くのが面倒だからという理由で、まだ埃の被っていないギターケースやベースケースが壁に立てかけられていた。僕のギターもそこにあった。
 切れた弦の一本が、後れ毛みたいに反れてとび出ている。それが部屋の奥の丸窓から射し込んでいる強い西日を鋭く反射して、僕の眼を凪いで時化らせる。ボディの下の方は削れて、木の部分が少し露出している。ライブの後、誰かがここまで持ち運んで、ギタースタンドに立てかけてくれていたらしい。触れてみると、その誰かの優しさの名残りみたいな陽光の温かみが、傷だらけのギターにまだ残っていた。
 誰も、悪くなかった。自分を良く見せようとすることはなにも悪いことじゃなかった。嘘をつくことだって、悪いことじゃなかった。誰も悪くない。安達は嘘の敵を作り上げて、自分を守るしかなかった。古林先生の寝癖も無精髭も腕まくりも自分を守るためだった。未央も高畑も自分を良く見せて、相手から好かれて、そうして自分を好きになるしかなかった。誰もが小さいコミュニティの中で、敵を見つけるしかなかった。誰もが、何かから身を守らなきゃいけなかった。だから嘘をつかずにはいられなかった。
 だけど、ギターの生温さがそんな気持ちを呼び起こすたびに、結が遠くに行ってしまうような気がして嫌だった。誰も悪くない――だからこそ、結はどうしようもなかった。サンタさんはいない。猫も見つからない。見つけるには祟りから始めるしかなかった。みんながみんな信じられなくて、誰も悪くないから自分を嫌いになるしかなくて、自分も含めた嘘や汚さに苦しんで、許せなくて、誤魔化せなくて、結は死のうとした。結が救われるなんてことはどうしても無理だった。
 息苦しさや吐き気に似た何かがたちまちに襲ってくる。今までズボンのポケットに入れたままでいたティッシュの欠片が血管を通って中心に集まって、それが大きな塊になって胸を塞いだ。体中から汗という汗が流れ出た。その汗にさえ僕は流されて、足元をふらつかせながら、倉庫の片隅にある木製の古椅子に座り込んだ。
 椅子の脚の辺りから、口の中でビスコを割ったような音が鳴る。カッターシャツの袖で上唇のあたりの汗を拭う。カッターシャツの内側からヒートテックの襟元を無理に引っ張りだして、目元や頬の汗を拭う。袖を捲った。ズボンのベルトを外した。カッターシャツの襟をズボンの内側から出した。両手で顔を覆って、深く溜息をついた。椅子の背凭れにだらりと寄りかかると、またビスコが鳴った。
 暫くしてから立ち上がり、自分のギターを抱えてまた椅子に腰かけた。上から下へ、指先で擦るように弾いてみる。不揃いで間抜けな音が鳴った。切れた一本の弦が宙とじゃれた。それでもなにか弾こうとした。それでもなにも弾けなかった。こういう時に、孤独な自分に酔いしれたり、耽ったり、感傷にどっぷり溺れられたりできるような曲を知っているほど、僕はまだ生きてなかった。
 切れて垂れ下がっている一弦を眺めているうちに、ふと『グリーングリーン』が思い浮かんだ。音楽の教科書に載ってるやつじゃない。水族館の通りにいた子供たちが歌っていたやつだった。
 不協和音を奏でながら、うろ覚えの歌詞を口ずさんだ。子供がパパと話していたのは覚えてる。緑が燃えたのも覚えてる。小鳥が歌ったのも覚えてる。戦争のことや父親との別れを歌った曲だってこともなんとなく覚えてる。悲しくなって怖くなるような唄だったってことも覚えてる。だけど不協和音のせいか、歌が下手なせいか、歌詞が合っていないからか。僕が弾き語る『グリーングリーン』は、あの日すれ違った子供たちが歌っていたそれとは全く関係のない歌に聴こえた。別物に感じた。掠りもしていなかった。
 五線譜を千切ったみたいにして曲を終わらせる。それから丸窓の方向に顔を逸らす。視線を陽だまりに注ぐ。少しの間、その中で舞っているわけでもない埃を見つめた。
 ギターを抱えたままで椅子に体を深く沈み込ませると、ポテトチップスを二、三枚くらい甘噛みしたような軋みが鳴った。そして続けざまに、とんでもなく大きなビスコが噛み砕かれたような音が響いて、僕は椅子から転げ落ちた。どうしてかギターを庇うように両腕が動いて、背中と頭を強く床に打つ。欠け落ちた木片の散らばった音が耳元で転がる。
 痛みをこらえながら頭を起こすと、椅子の脚がドッキリ番組でよく見る発泡スチロールみたいに折れていた。溜息をつきながら頭を寝かせて、床に倒れこんだままでいた。仰向いた先に知らない天井がある。その継ぎ目を眺めていると、千切ったはずの五線譜がセロハンテープで無理につなぎ合わされてまた曲が始まる。見たことのない形の色んな音楽記号が次々と殴りつけるように打ちこまれる。
旅の計画を立てようと思った。

 耳も口も目も塞いだりする必要のない、誰も僕らを知らない遠いところに向かう旅だった。ふと思い浮かんだ目的地は夏。入道雲、山、森林、青い空、蝉の声……そんなのが似合うシンプルな、誰もが懐かしくなるような、一度は思い浮かべたことがあるような田舎の夏だった。
 頭で描いたそんな情景は、十倍速のスライドショーみたいにせわしなく変化して止まらなかった。水彩画みたいな柔らかいタッチ。それだけでも綺麗な風景をもっとくっきりと加工したような写真。淡くくすんで幻想的な色彩のいわゆるエモいイラスト。鉛筆だけで描いた純粋素朴な素描画……上手く言えない、言葉に出来ない。けれど僕が、僕らで生きようと思った夏はそういうところだった。
 自給自足の生活で汗を流して、夜にはちゃんと深い眠りにつく。休みの日には近くの海に行って波打ち際を散歩する。両手いっぱいに息を吸う。胸いっぱいの潮風と吹かれ合う。裸足になって波を感じる。汚れなんてまるで見当たらない白いワンピースを結は着ていて、その裾を何度も翻してはためかせながら砂浜で無邪気に跳ね回る。帰り道では、左右に伸ばした両腕でバランスをとりながらあぜ道を歩く。そんなに狭いあぜ道じゃないのに、それでもそうやって白線を辿る子供みたいに僕らは進んでいく。色んな色があるけれど、そこにちゃんと僕ら二人分の色もちゃんと残してくれている。ここにいてもいい――心の底からそう感じる。
 バカげてるかもしれないけど本気だった。希望染みた何かを探し出さなきゃならなかった。いない猫を探さなきゃならなかった。ふざけた希望だけど、それでも希望にするしかなかった。最後に行きつく先がロープの先や水の中でも、精神病院だとしても、旅立たなきゃならなかった。何かを変えなきゃならなかった。結のためじゃない。僕の為に。僕のなりたいものも、そこでなら見つけられそうな気がした。なんでもやれる気がした。
 結にメッセージを送った時にはもう外が明るくなりかけていた。頭は熱くて、目は冴えきっていて、手には汗が滲んでいた。雀の鳴き声もうるさいくらいに耳を通って首の神経のあたりまで響いた。早く伝えたくて待ちきれなくて、ベッドの上であぐらをかいて衝動的に電話をかけた。三コールあたりで咳払いをした。四コールあたりで「あ、あ」と試しに声を出す。五コールあたりで結が出た。
 二秒くらいの沈黙だけが行き交ったあと、『もしもし』という僕らの声が重なる。
「あー」僕は言った「ラインみた?」
「……うん、いま見た」気怠そうな結の声に、衣擦れみたいな音がが続いた。
「なんか、笹井が旅に出ようとか、言ってる」
 ついそんな遠回しな言い方をしてしまった僕に、結はクスっと息を漏らして返す。
「笹井って、どの笹井さん?」結が言った。
「ササイ、ササイミツルってやつ」
「私の知ってるササイミツルさんは、こんな時間に電話なんかしないと思うんだけど」
「あぁうん、それはごめん……それで、どう? 明日の夕方から。もう明日って言うか今日だけど――」
「どこにいくの?」
「いや、決めてないんだ。なんにも決めてないけどさ」
 この『けどさ』に続くなにかポジティブな言葉を探りあぐねて数秒――いや、もっと長くて短い。そのうちに結が何かをそっと呟くのが聴こえた。
「え?」と、僕は聞き返す。
「水族館はやだよって、イヤだから」
「……うん、大丈夫」そう言って僕は、スマホを耳にあてがったままベッドに横になった。
 約束をとりつけて電話を切った途端、あくびが出た。頭が冷めて、瞼が重たくなって、雀が囀るのを聞いた。
 それから見えた。爪、関節の皺、指、それから手。水色のシーツ。いつも通りそっけない壁。デジタル表示の目覚まし時計。僕以外のものがちゃんと僕以外のものであることを確かめるみたいに視線を巡らせる。そうしてやっと、右を下にして横になっている自分の体がはっきりした。さっきまで耳と口だけにいた自分がどんどん解れていって、静けさに似たなにかになって全身に流れる。
 目だけを動かして、結の家のある方向を見た。歩いて十秒、走って五秒にある家の二階、その部屋、通話終わりの結。自分の視線に引っ張られるみたいに頭を起こしたけれど、すぐにまた息をつきながら頭を落として、目を閉じた。
 

  二十三日

 昼過ぎに目を覚まして、ナイキのシンプルな黒いリュックに物を入れ始めた。とりあえず数日分の着替えと歯ブラシと折り畳み傘を詰める。財布をポケットに入れて、他になにを持っていくべきか全く見当もつかなくてぼーっと考えているうちに、小学一年生か二年生の頃のことをふと思い出した。
 水そのものも泳ぐのも苦手だった僕は、スイミングスクールに行くのが嫌で家出をした。あの時も今と同じように鞄に物を詰めていた。小型ゲーム機や児童書、お祭りのくじ引きの屋台で貰ったカード、新品の自由帳。その時は自分の好きなものばかり、非実用的なものばかりをピカチュウと大きなモンスターボールの柄の入ったポケモンの鞄に詰めていた。結局その家出は日が落ちる前に、車で僕を探していた母さんの友達に見つけられた。家から二、三キロも離れていない通学路沿いの道だった。多分、見つけてほしかったんだと思う。家に帰ってから、母さんはしばらく両手で顔を覆って泣いていた。
 心配性な母さんは、きっと僕を世界中探し回るかもしれない。ある時は車を運転しながら、ある時は自転車を必死に漕ぎながら、涙ながらに顔をクシャクシャに歪めて、叫びたい気持ちをぐっと堪えて探すんだろう。僕がいなくなったせいで出来た傷は生涯残るかもしれない。それがカサブタになりかけても自分で剥がさずにはいられない。カサブタになって傷跡が綺麗になくなってしまうと、まるで僕のことを忘れてしまったように思えて怖いからだ。だから母さんは血を流しつつも、その一滴さえも回覧板やまな板に零さないようにしながら日々をやり過ごす。傷口をなぞるみたいに針を落としまくって泣き叫ぶレコードみたいになる。時間が経つにつれてその溝は深くなるかもしれない。悲しいことや泣きたくなるようなことがあった時でもそうじゃない時でも、常に僕がつくった溝の方に引き寄せられたり吸い込まれたりするかもしれない。でも一方では音は劣化していって、カサブタを剥がすことも諦めてくれるかもしれない。いつもの涙もろくて面白い母さんに戻る。ヨガに通いつめて、パートで働いて、夕飯をつくる。雨のマークに、震災やテロの毎年の誕生日に、募金箱に、動物番組に、赤の他人が死んだニュースに泣く。音楽は変わる。いつかそうなる、そう決めつけた。
 僕らに帰る場所はあったかもしれない。でも、ただ帰る場所があるなんてだけじゃあ僕らは上手くやっていけないし、そこは帰る場所なんてものじゃなかった。ここにいてもいいとか、そんな感じのことをその言葉以上に感じられる場所が、僕らの本当に帰る場所だった。それを探したくて、探さなきゃならなかった。
 スマホの電源をオフにして机の引きだしにしまう。誰かが『嘘を嘘と見抜けない人でないとネットはホニャララ』的なことを言ってたのを思い出した。曖昧な記憶だけど、その言葉のニュアンスというか伝えようとしていることは感覚として残っていて、僕らの現実にもそれが当てはまる気がした。そもそも嘘が人の手に余って、人は人の身に余るなんてことを思いまでした。
 机の上に置いてあった猫じゃらしが目に映る。持って行こうか悩んだけれど、返さなきゃいけないって気持ちが勝ってリュックに入れた。

 僕らの家は近すぎるってなんとなく思った。心の準備とかじゃなくて、一人で歩きながら考える時間が欲しかったとかでもない。ただなんとなくそう思った。
 自転車を押して歩いて五秒くらい。玄関口から出てくる結と目が合った。チェック柄の淡いクリスマスカラーのマフラーに口元を埋めるような仕種を見せたかと思うと、結は表情は全く変えないままでドアを閉めて、門扉を抜けて、またそれを閉めた。トンと足音を鳴らして、玄関の庇にカットされた陽の光いっぱいのアスファルトを踏む。緑青色のハイカットスニーカー、襞のあるロングスカート、肩から提げたポシェット、紺のウィンドブレーカー、マフラー、髪。陰りが下から上へと一瞬のうちに退いた。日向に現れて色が裏返ったような結を見て、僕は終わりと始まりを溶かして混ぜたガムを飲み込んだみたいな、そんなヘンな感覚になった。
「や」
 片手を腰の後ろに回して、もう一方の手の指先でマフラーを下にずらしながら、結は他愛なくそっとこぼした。
「ん」
 同じようにネックウォーマーを下にずらしながら、ハンドル片手に僕は応えた。
「それ、ギアないの?」
 両手を後ろに組んで、体を前に屈ませながら結が尋ねてくる。
「うん、ないよ」
 僕は丸めた拳をパッと広げるような手振りを見せる。
「そっか、残念」
 結はハニカむように笑うと、風になびいてるわけでもない髪とスカートに手を添えたりした。こんな何気ない会話と仕種が、僕らに注いでいる陽射しを徐々に冬らしく柔らかくした気がした。少なくとも結の表情やその輪郭は、そういう光となんだかじゃれ合い始めたみたいに感じた。後ろから射しているのは陰だった。だからそれは後光じゃなくて、後陰って具合に僕の目に映った。
「じゃあほら、乗って」僕は荷台を手で指し示して、それからサドルに跨った。「あーそれ、その鞄、リュックん中に入れる?」
「んぁ、うん。そうだね。なら私がリュック背負うよ。後ろちょっと邪魔かも」
「りょうかい」
 自転車に跨ったまま、結にリュックを渡した。それから数秒、後ろに体重がかかる感触をじっと待った。
「今、のってる?」
「待って……おけ、乗った」
「ほんとにちゃんと乗ってる?」
「ホントだいじょうぶ。ちゃんと乗ってる。だからほら、ごーごーって」
 ペダルを漕ぎ始めた途端、結が「うゎは」と声を上げて僕の肩に手をのせる。
「ゆれる」
「うん」と呟いて僕はスピードを上げた。陽は落ちかけていた。
「こっち、けっこうゆれる」

 なびいたりそよいだり。見慣れた道や風景が後ろに飛んでゆくのとおんなじ速さで風に吹かれた。少し遅れて日常が遠ざかった。住宅街を抜けて県道沿い、また住宅街をくぐり抜ける。踏切を難なく渡って、小さな古墳を左手にして、土手を上って川辺に出る。橋の手前の信号で、少し待った。
 ちらっと後ろを見た。結は体を横に向けて、両脚を揃えてぶら下げていた。
「ここらへんだよね、昔ギア壊れたの」
「うん」
 それだけ言って僕は向き直った。さまよう視線は行き交う二、三の車に轢かれたりして、ふと思った。今飛び出れば――って感じのこと。もちろんそんなことはしなくて、目はなかなか青に変わらない信号の中に吸い込まれた。
「あの二人さ」もう一度僕は首を後ろに回した。
「えぇ?」
「ほら、あの信号機に住んでる白い人。っていうか閉じ込められてる人。モデルとかっているの?」
「あぁどうなんだろ。誰かいたかもいなかったかも――あ」すぐに僕の肩を叩いて結は「アオ」と言った。
 僕はまた向き直って、もう一度信号機の中の人を一瞥してから漕ぎ出した。
 橋の上から見渡せる眺めを、ただ『キレイ』と言うしかなかった。
川は山並みと街並みに挟まれてたわけじゃなかった。海を割ったモーセみたいに山と街をこじ開けて、切り開いて、脈々と流れていた。夕陽の光が川面の透明と一緒くたになって遊んで跳ねていた。小さな飛沫は多分、空も山も街も草も映しまくっていた。その時にはもう空を鏡だなんて思わなかった。空はソラ、それだけでよかった。充分だった。空だけで情報過多なこの目に、スマホのブルーライトは必要なかった。ほんとうにキレイだった。
 上流の方へ下流の方へと、首を忙しなく回した。結局は結が見ている眺めと同じ方向に落ち着いた。僕と同じようなことを感じてくれていたら、同じ『キレイ』ならいいのに、と思った。
「なんか、きれいだね」結が物寂しげに言った。
「うん。めちゃくちゃ」
「飛び降りたくなるくらい、ホントに」
「どの辺からだったの、この真ん中くらい?」僕は尋ねた。
「うん、そそ。そこのあたり」橋の欄干の一部分を指さして結は言った。
 彼女が指さした場所、そこで飛び降りようとしている結が想像できなくて、つい後ろにいる結と想像の結を見比べた。現実の結を無理やり風景の中に引っ張りこんで、欄干の上に立たせて想像にはめ込む。透けて見えない彼女の後ろ姿のすぐ傍を、その背後を通り過ぎる。体が前に傾いて飛んだ。音もなく落ちた。
 その時に死ねばよかった。誰かに殺されればよかった。二度と目を覚まさなきゃよかった。そうすれば彼女が苦しんだり悩んだり傷付いたり傷付けたりしなくて済む。生きてる限りなにかする度に――いや、なにもしなくたってそうなる。
 でも、生きてた。天めがけて飛んで、翼が燃えて、それでもイカロスみたいには死ねなかった。空めがけて落っこちた彼女はいま、僕の後ろにいる。肩甲骨の辺りに触れている彼女の両手が、まるで僕の翼みたいな感覚だった。なんでもできる歪んだ衝動のキレイ、思わず口が動いた。
「二人で飛び降りる?」
 呟くように吐いた声を風がかっさらった。
「んー、なに?」
 僕は景色を眺めながら眺めていなかった。
「もし色々無理だったら、二人で飛び込もう」
 この光景を見つめる振りをしていた。視界の端で、結もそうしているのが分かった。結の返事を聴いてから、僕は漕ぐスピードを緩めて、鼻からたっぷりと息を吸い込んだ。それからまた景色を見つめた。