悪魔の僕は天使の君に恋をする。

* * *

 今日は期末テストの返却日だ。

 ルナは気を引き締めて自分の席に座っていた。

「安藤、伊東、上原……」

 先生が名前を呼び、英語のテストが返却される。このテストが合格していれば、ルナは晴れて全科目合格ということになる。

「ルナ君、合格だと良いですわね」

 隣の席から、菫が小さな声が聞こえた。

 ルナはその声に頷き自分の番を待つ。

「黒崎~」

「あ、はい!」

 先生に呼ばれてルナは立ち上がった。

 ドキドキしながら先生の前に向かうと、先生はルナに優しい笑顔を見せてくれた。

「休んでたのに頑張ったな」

 手渡されたテストを見てみると、点数欄に86と書かれていた。

(やった!合格だ!!)

 ルナは嬉しそうな顔で席に戻ると菫にピースした。

「藤堂さんが勉強会を開いてくれたおかげだよ……!」

 こっそり小声で言うと、菫も微笑んでくれた。

「次、花里~」

「はーい」

 景太が呼ばれてゆったりと先生の元へ向かう。

「花里、お前サッカー頑張るのは良いが、もう少し勉強しろよ」

「うぉっ!38点!ギリ合格じゃん!よっしゃ!」

 景太の声に、教室中が笑いに包まれた。その中で、百合はやれやれと呆れた表情を浮かべる。

 教卓の前から、景太は百合に振り返ってドヤ顔を見せる。

「百合!どうだ!」

「はいはい。ギリギリ合格おめでとう」

 百合は呆れつつも、景太に向かって笑顔を見せた。

 何はともあれ、全員が花火大会の切符を手にしたのだった。 
* * *

 その日の放課後、ルナは景太と百合、そして菫と共に帰り道を歩いた。

「全科目合格できて安心したぜ……」

 そう言う景太に、ルナは笑いながら頷く。

「赤点出したら、試合出してもらえないもんね」

「ああ、監督そこの所厳しいからな……」

 そうは言いつつも、景太は赤点をとったことがない。いつもギリギリでかわしているのだ。さすがサッカー部キャプテン。勝負強さはなかなかだ。

「まぁ、みんなで花火大会に行けて良かったじゃありませんか」

 そう穏やかに言う菫に、百合は頷いた。

「そうね。……でも私達は、まずは関東予選ね」

「おう。見てろよルナ。お前を全国に連れてってやるからな」

「うん!その場には行けないけど、応援してるからね」

 4人が談笑ながら歩いていたその時。

「ルナ兄!」

 背後から聞き覚えのある声が聞こえ、ルナは思わず振り返った。

 男なのにツインテールが似合う華奢な体と、睫毛の長い整った顔立ち。そしてよく通る声。

 その少年を、ルナはよく知っていた。

「ヨル……!?」

 魔界にいるはずの弟、ヨルだった。

「ルナ、弟いたのか……!?」

「初めて見たわね……」

「ちょっとだけルナ君に似てますわ……」

 驚き目を丸くする3人を見て、ヨルは行儀良くお辞儀をした。

「黒崎ヨルです。いつも兄がお世話になってます」

 そう言って、ヨルは無邪気な笑顔を覗かせる。ルナはこの状況が理解できずに立ち尽くしていた。

(どうして、ヨルが人間界に来たんだ……?)

 ヨルはにこにことしながら話し続けた。

「ルナ兄、みんなのこと紹介してよ」

「あ、ああ……」

 ルナはヨルに促されるまま、3人を紹介した。

「親友でサッカー部キャプテンの花里景太と、マネージャーでお世話になってる雨宮百合さん。それと、クラスメイトの藤堂菫さん」

「よろしくな」

「よろしくね」

「よろしくお願いいたします。ヨル君」

「はい!よろしくお願いしますね!」   

 そう返事をして無邪気に笑いながら、ヨルは菫の手を取って片膝をつく。

「ときにお嬢さん、オレとデートしませんか?」

「で、デート……?!」

 顔を赤くする菫に、ヨルは優しく笑いかける。それを見て、ルナは額に手を当てた。

(あ~始まった……)

 ヨルには女性を口説く癖がある。しかも性質が悪いことに、ヨルはよくモテるのだ。彼に魅了された女性達は数知れず。よく実家に山のようにファンレターが届くため、ルナも頭を悩ませていた。

「こら、藤堂さんを揶揄うなよ」

 ルナはそう注意しながら、ヨルを菫から引き剥がす。

「揶揄ってないさ。美しいレディは口説かなきゃ失礼だろ?」

 全く悪びれないヨルに、ルナは溜息をついた。

「……みんなごめん。今日はヨルを連れて帰るから、先に行くね」

「おう、分かった」

 ルナはヨルの腕を引っ張った。

「ほら、行くぞヨル」

「分かったよ……またね、お嬢さん」

 菫に対してヒラヒラと手を振るヨルを連れて、ルナは帰路についた。
* * *

 ルナはアパートの鍵を開け、ヨルを中に入れた。

「ここがルナ兄の家か。狭いな~」

 ヨルは部屋に入ると、ルナの座椅子に腰掛けた。

「でもこの部屋の物って、全部魔界から支給されたんだよね。そう考えると太っ腹かな」

 ヨルの言う通り、ルナの生活に必要な物は全て魔界王が準備した物だった。どのように準備したのかは分からないが、ルナが人間界に来た段階で、あらゆる生活必需品は揃っていた。

 こちらもどのようにしているのか分からないが、定期的に資金援助もされている。そこまで手厚い支援をするなんて、よほど大天使の娘を殺してほしいのか。
 
「……ところで、ヨルは何しに人間界に来たんだよ」

 ルナはずっと気になっていたことを尋ねた。すると、ヨルは意地悪そうな笑顔で応える。

「何しにって……そんなの決まってるじゃん。監視だよ。根性無しのルナ兄が、きちんと大天使の娘を殺すようにね」

「う……」

 痛いところを突かれて、ルナは顔をしかめる。

「大体、1年も人間界に居たのに何の進展もないなんて、職務怠慢もいいところだよ」

「だって見つからないし……殺すなんて物騒なことしたくないし……」

「はぁ……これだからルナ兄は……」

 ヨルはやれやれとと首を横に振った。

「こんなことになったのだって、ルナ兄が悪魔の仕事をきちんとしなかったせいでしょ?」

「だって人を不幸にするなんて、僕にはとても……」

 ごにょごにょと言い訳をするルナに、ヨルは再度溜息をついた。

「悪魔が人に不幸をもたらす理由、忘れちゃった?」

 ルナは首を横に振って答える。

「悪魔が人に不幸をもたらす理由は、人を成長させるため……」

「分かってるじゃん」

「……でも、1年間人間界で生活して思ったんだ。やっぱり僕、人間を不幸にしたくない……」

 頑なな様子を見て、ヨルは苦笑いして言った。

「ルナ兄、悪魔なんて向いてないね」

 するとヨルはルナのベッドに寝そべって言った。

「旅の疲れが溜まってるから、オレもう寝るね」

「ヨル……」

「……色んな物支給してもらってるんだから、悪魔としての自分の立場、考えなよ」

 それだけ言うと、ヨルは寝息を立て始めた。

「悪魔としての自分の立場……」

 ルナはその場に立ち尽くすしかなかった。
 終業式が終わり、夏休みが始まってしばらく経った。

 ルナは怪我は治ったものの、監督と相談して夏休み明けまでは部活を休むことになったのだ。本当ならリラックスできる長期休暇なのだが、そうもいかなかった。
 
 なぜかというと、どこへ行くにもヨルがついてくるのだ。

 ルナはヨルを連れたまま、スーパーに買い物に来ていた。  

「ルナ兄、オレそのニンジンって野菜嫌いなんだけど……」

「我慢しろよ。今日カレーだから」

「カレー!?やったー!」

 無邪気に喜ぶ弟を見て、ルナも微笑む。

「あら、ルナ君とヨル君!」

 名前を呼ばれて振り返ると、そこには買い物かごを持った菫が立っていた。

「あ、藤堂さん!こんな所にいるなんて珍しいね。どうしたの?」

「メイドと買い物に来ていましたの。初めてのお使いですわ!」

 菫はそう言うと、得意気に胸を張った。  

「そうなんだ。偉いね、藤堂さん」

 初めてのお使いを精いっぱい楽しむ菫の様子に微笑ましくなり、ルナは彼女に優しい笑顔を見せる。

「もう、褒めてもなにも出ませんわよ!」

 想い人に褒められた菫は、赤くなった頬を両手で包んで照れ笑いを浮かべる。

「あっ、ところでルナ君!もうすぐ花火大会ですわね」

「あ、そういえばそうだね!」

 ヨルの来訪からバタバタしていて、ルナもすっかり忘れていた。花火大会は、たしか来週末だ。
 
「ルナ君と花火が見れるの、楽しみですわ」

 うっとりと話す菫を見て、ヨルは興味津々といった表情で手を挙げた。
  
「はい!花火大会って何?」

 魔界には花火なんて無い。だからヨルは花火大会を知らなかったのだ。

 ヨルの言葉を聞いた菫は目を丸くする。

「花火大会を知らないんですの?」  

「ああ!ヨルさ、この前まで海外の親戚の家にいたから、花火大会見たことないんだ!」

 ルナは慌てて誤魔化す。

 花火を知らない外国なんて、きっとごく少数だ。少し苦しい言い訳だったか……ルナのこめかみに冷や汗が伝う。

 しかし、菫は納得したようだった。

「あら、そうでしたの。ヨル君、花火大会っていうのはね、夜空に光る花を打ち上げて、それをみんなで楽しむお祭りのことですわ」

「へぇ~」

「ヨル君も見に来ると良いですわ。きっと楽しいわ」

 そう言って微笑む菫の手を、ヨルは力強く握った。

 ヨルに甘い微笑みで見つめられ、菫は思わず赤面する。

「うん。お嬢さんが行くならオレも行くよ」

「こら、ヨル!」

 ルナは慌ててヨルを菫から引き離した。全く、油断も隙も無い。

「……じゃあ、僕達そろそろ会計するよ。花火大会でね、藤堂さん」

「お嬢さん、また会おうね~!」

「ええ。またね、2人とも」

 菫は手を振りながら目の前を去って行く2人の影を見ていた。

「花火大会……か」

 今度の花火大会、菫の中にはある覚悟があった。

「今度の花火大会、絶対ルナ君に告白して見せますわ」
* * *

 今日はいよいよ花火大会の日だ。

 開催場所は、町の河川敷。時刻は既に18時を回っており、会場では多くの人が行き来している。

 その人混みをかき分けながら、ルナはヨルと一緒に待ち合わせ場所に向かった。

「あ、ルナとヨルだ」

「こっちだよ!」

 屋台のない少し開けた場所で、景太と百合が手を振っているのが見えた。

 ルナは手を振り返しながら、2人の所へ歩み寄る。

「景太、雨宮さん。久しぶり」

「久しぶりだな。終業式以来か?」

「そうだね……ところで、関東予選は?」

 ルナが尋ねると、景太は得意気にVサインを作って笑った。

「勿論優勝してきたぞ。しかも無失点」

「ほんとに!?良かった……!」

「これでルナと全国行けるな」

「うん。優勝おめでとう!」

 そう言ってルナは景太はグータッチし、傍らの百合にも笑顔を見せる。

「雨宮さんも、マネージャーおつかれさま」

「ありがとう、黒崎君」

 ルナの言葉に、百合も嬉しそうに微笑んだ。

「……ねぇ、お嬢さんは?」

 ヨルに尋ねられ、ルナは辺りを見渡した。

「藤堂さん、まだ来てないみたいだね……」

「ルナ君、みんな!」

 ルナ達が声がする方を見ると、浴衣に着飾った菫がこちらに駆けて来ていた。

「お待たせいたしました……!」

 息を切らせて駆け寄った菫の姿は、いつにも増して上品で美しかった。そんな菫の浴衣姿を見て、ヨルは目を輝かせる。

「お嬢さん!浴衣凄く似合ってるね!」

「ありがとうヨル君」

 菫はそう言って微笑むと、ルナをじっと見つめて尋ねた。

「ルナ君……私の浴衣、どうかしら」

 緊張している様子の菫に優しく笑い返しながら、ルナは答えた。

「凄く似合ってる。綺麗だよ、藤堂さん」

「えへへ……ありがとうございます、ルナ君」

 菫は、幸せそうに照れ笑いした。睫毛の長い目が優しく細くなり、頬が薄紅色に染まる。上品で、それでいて可愛らしい笑顔だった。

 今日、菫が浴衣を着てきた理由は、2つある。

 1つ目は、ルナに告白するための勇気を出すべく、気合いを入れるためだ。

 そして、2つ目は……ルナに、少しでも綺麗な自分を見て貰うためだ。

 ルナに……大好きな相手に、綺麗だと、似合っていると言われたかったのだ。

「……よし。全員揃ったな」

 景太の言葉に、ルナは再度辺りを見渡した。

 まだハルが来ていなかった。

「あの、ハルは……?」

「ああ、病院で弟と見るって」

「そ、そっか……」

 ハルに会えないと分かった途端、何となく気持ちが沈んでしまう。ルナは、自分のこの気持ちが理解できなかった。

(今日会えないだけで、何でこんなに……)

 落ち込んだ様子を見せるルナに気がつき、菫は彼の肩を叩いて笑顔を作る。

 ルナがどんな気持ちでも、今日だけは……この花火大会の間だけは、自分と一緒にいる時間を楽しんで欲しかったから。

「ほら、ルナ君。花火も始まってしまうし、早く屋台に行きましょう」

 菫に促されて、ルナは頷いた。

(そうだ。折角の花火大会だし、楽しまなきゃ)

 ルナは菫と並んで歩きながら、屋台の方へと歩いて行った。

 屋台の並ぶ道に入ると、人がごった返していた。油断するとはぐれてしまいそうだ。

「あ、何あれ、面白そう!」

 ヨルは「ヨーヨーすくい」と書かれた看板に目を輝かせると、屋台に向かって1人駆けて行ってしまった。

「あ、ヨル!」

 ルナも慌てて後を追いかける。

「待ってルナ君!」

「おい、そんなことしてるとはぐれるぞ!」

その時

ドーン!

 花火が上がる音がして、それを一目見ようと多くの人が立ち止まった。

 その結果、道がいっきに混み合う。

「おっと……すみません!」

 ルナは立ち止まる人にぶつかりそうになりながらも、ヨルの居るであろうヨーヨーすくいの屋台に辿り着いた。

「はぁ、はぁ……ヨル!」

 しかし、そこにヨルは見つからなかった。

 それどころか、他のみんなの姿も見当たらない。

「もしかして……はぐれた……?」

 ルナは慌てて辺りを見渡した。しかし人が多すぎて、背の高い景太すら見つけられない。

(どうしよう……)

 うなだれていた、その時だった。

「ルナ君、見つけた!」

 ルナの腕を掴んだのは、菫だった。

「よかった……見つからなかったらどうしようかと思いましたわ」

 菫の安心しきった顔を見て、ルナの胸に罪悪感が広がる。

 浴衣を着て、草履も履いている菫が、ルナを探すために人混みを歩くのは大変だったはずだ。

「藤堂さん……急にいなくなってごめんね」

 申し訳なさそうに謝るルナに向かって、菫は明るい笑顔を見せた。

「大丈夫ですわ!気になさらないで。それより、花里君達は……」

「僕にも分からないんだ。はぐれちゃったみたいで……」

 ルナがうなだれると、菫はそれを元気づけようと笑顔を作る。

「闇雲に探しても大変ですし、屋台を回りながら3人を探しましょう?大丈夫。きっと、どこかの屋台にいますわ」

 菫の落ち着いた様子を見て、ルナの心も平静を取り戻していく。

「そうだね……一緒に回ろっか」

 ルナが微笑んでそう言うと、菫は目を輝かせた。

「ええ!わたくし、見たい場所がたくさんありますの!」

 菫は嬉しそうな顔をして、ルナの手を引いた。
* * *

 2人が始めに入ったのは、青い暖簾を下げた金魚掬いの屋台だった。

 菫は100円玉を店主に払い、ポイで赤い金魚を掬おうとする。

「それっ」

 勢いよく水から上げたポイは、金魚の重さと染み込む水に耐えきれずに穴を空けた。

「金魚すくいって、こんなに難しいのですね……」

 菫は穴の空いたポイを見て唸る。それを見て、店主の男性は豪快に笑った。

「お嬢ちゃん。あと2回チャレンジできるけど、やってくよな?」

「もちろんですわ!」

 菫は店主から貰った新しいポイを持ち、構える。

 この屋台は3回で100円。あと2回ポイを貰うことができる。

「えいっ!」

 菫は赤い金魚を狙ってポイで掬ったが、2個目のポイにも穴が開いてしまった。

「ううっ……まだまだ、これからですわ!!」

 どうやら、菫は意外と負けず嫌いなようだ。彼女の新しい一面を垣間見たルナは、何だか面白くて、思わずクスリと笑った。

「これで最後……それっ!」

 菫は勢いよく金魚を掬い上げようとしたが、その頑張りも空しく3個目のポイにも穴が開いた。

「残念ですわ……」

 しょんぼりする菫を見て可哀想に思ったルナは、彼女を何とか元気づけたいと思い考えを巡らせた。

 ただありきたりな励ましをしたところで金魚が掬えなかったという事実は変わらない。なら……。

「おじさん、僕も!」

 自分が代わりに掬ってあげるのが、菫を喜ばせることができる唯一の方法だ。そう思ったルナは、店主に100円玉を手渡した。

「おう!」

 店主がそれを受け取り、ルナにポイを手渡す。それを受け取って、ルナは隣にしゃがむ菫に尋ねた。

「藤堂さん、この赤い金魚だよね?」

「ええ、そうですけど……」

 菫が頷いたのを確かめて、ヨルは金魚の動きに集中した。

 不規則な動きで泳ぐ赤い金魚。まずは、ポイでそれを捉えなくてはならない。しかし、ポイを水に浸けすぎると穴が空いてしまう。

──よく見ろ。一瞬だ。一瞬が勝負だ……!

「それっ!」

 ルナは金魚を素早くポイで掬い、受け皿に入れる。受け皿の中で泳ぐ金魚を見て、店主と菫は驚いた顔を見せた。

「おお!やるね兄ちゃん!」

「すごいですわ、ルナ君!」

 菫は目を輝かせながら、ルナに拍手を送った。

「えへへ……」

 ルナは照れ臭そうに笑いながら、店主に金魚の入った受け皿を渡す。すると、店主が金魚を手際よく袋に移し替え、笑顔と共にルナに手渡してくれた。

「はいよ、兄ちゃん」

「ありがとうございます」

 ルナ笑顔でそれを受け取ると、菫に差し出した。

「はい、これ」

「え、いいんですの?」

「もちろん」

 ルナが優しく微笑むと、菫は嬉しそうに目を細めた。

「……ありがとう、ルナ君。大事にしますわ。」

 菫の細い指が金魚の入った袋の紐に通ったのを確認し、ルナは袋から手を離す。

 僅かに、お互いの指が触れ合った。

「あっ……」

 菫はそれに気がつき、顔を赤らめながら声を漏らしたが、ルナがそれに気付く様子はない。

「藤堂さん、次はどこに行く?」

 そう優しく尋ねるルナの表情からは、下心なんて微塵も感じられない。

 ルナの気持ちは自分の気持ちと同じではない。それに気付かないフリをしながら、菫はルナに笑顔を作った。

「……そうですわね。じゃあ、あっちの綿あめの屋台に」

「分かった。行こっか」

 ルナは菫に微笑んで、彼女の歩幅に合わせて隣を歩く。その優しさに切なくなりながらも、菫は彼の隣を歩いた。
* * *

 1匹の赤い金魚と一緒に、ルナと菫は屋台巡りを続けた。

 先ほど買った綿あめは、ふわふわとしていて優しい味がした。食べ慣れていない菫は、口の端に綿あめを付けてしまったが、それをルナが取ってくれた。

 次に向かった射的の屋台では、菫が欲しがった小さなマスコットを、ルナが見事に撃ち落としてくれた。

 その次に向かったアイスの屋台では、アイスの青い色がお互いの舌についているのを見て2人で笑った。

 こんなに、仲が良いのに。こんなに、優しいのに……自分の想いは通じていない。そして……通じることはない。それが分かっていたから、菫は胸が痛かった。

 その痛みを悟らせないようにしながら、菫はルナの隣を並んで歩く。

「景太達、見つからないね」

 ルナは辺りを見渡しながら、そう零す。

「ええ、そうですわね……」

 菫は彼に頷きながら、少し立ち止まって、草履のつま先で地面をトントンと叩いた。

(草履で歩くの、少し疲れてきましたわ……)

 菫の顔に疲れの色が浮かぶ。

 いくら菫がお嬢様だからと言っても、草履を履く機会は少ない。履き慣れていないのだから、疲れて当然だった。

 菫が疲れていることを察したルナは、彼女の顔を覗き込みながら、優しい声で

「藤堂さん、少し休もっか」

と伝えた。

「え、でも……」

 休んでいる暇があったら、3人を探さなくては。せっかく5人で集まったのだし、ルナだって景太達と一緒に花火を見たいはずだ……。そう思い、菫は戸惑う。

 しかし、ルナは優しい表情のままだった。

「藤堂さん草履だし、疲れたでしょ?少し休んで、それから探そうよ」

 表情や声色から伝わってくる優しさ。そして何より、自分が疲れたと言わなくても、それを察して助けてくれる思いやり。

(優しいわ。ルナ君は、本当に優しい人……)

 菫はその下心のない優しさを噛みしめ、少し泣きたくなるのを我慢しながら頷いた。

「……はい。そうします」

 ルナと菫は、人通りから少し外れた、道の端に設置されたベンチに腰掛けた。

「……ルナ君は優しいですわね」

 菫の口から、本音が零れる。

「そうかな?」

 ルナはその言葉に首を傾げた。

 ルナは、自分が優しいと思ったことが無かった。なぜなら、他人に親切にすることも、他人を気遣うことも、ルナ自身がしたくてしていることだからだ。

 ルナはただ、大事な人達の笑顔が見たいだけだったのだ。

 不思議そうな顔をするルナに、菫は迷わずに告げる。

「そうですわ。出会ったときから、そうでしたわ……」

「出会ったとき?」

 ピンと来ていない様子のルナに、にこりと笑顔を作りながら、菫はゆっくりと語り出した。

「ええ。去年の入学式、家柄のせいで周りから距離を置かれていたわたくしに、ルナ君は声をかけて下さいました。それがきっかけで、話しかけてくれる人が増えて友達もできて……本当にありがとう」

 そう。その時から……菫は、ルナが好きだった。

 ルナが、自分と対等に話をしてくれた初めての人だったから。

「それは、藤堂さんがいい人だからだよ。みんながそれに気がついたから……」

「でも、きっかけをくれたのはルナ君ですわ」

 ルナが、自分にとってどれほど大切な存在なのか……気がついていないルナのことを、菫は立ち上がって正面から見つめて、口を開いた。

「わたくし、ルナ君が好きです」

ドン!

 花火が上がった。

 赤色の花火の光が、菫の顔を仄かに照らした。

「誰よりも優しいルナ君が好き。入学式でお話しした時からずっと……あなたのことだけを考えていました。……わたくしの恋人になってくださる?」

 菫の顔が赤く見えるのは、花火に照らされているだけが理由じゃない。ルナにも、それは分かっていた。

 校内有数の美人で、お金持ちで、ずっと一途に自分を想っていてくれたクラスメイトが、頬を染めながら自分に好きだと言っている。普通の男子であれば、喜ばずにはいられない状況だ。

 しかし……ルナは違った

「恋人って……僕と?」

 ルナには分からなかったのだ。恋人というものがどんなものか。好きという気持ちどんなものか。

「僕……分からないんだ。好きとか、恋人とか……」

 そう困った顔をするルナの目を、菫は真っ直ぐに射貫いた。

「……本当に?」

「え……?」

 菫に真剣な顔で見つめられ、ルナは戸惑う。しかし、菫の発言に更に心を乱されることになる。

「本当は、他に好きな人がいるのではなくて?」

「好きな人……?」

「そう。今日の花火大会、本当は会いたくて堪らなかった人がいるんじゃなくて?」

 菫の言葉を聞いたその瞬間、ルナの脳裏にハルの笑顔が浮かんだ。

 ハッとするルナの様子を見て、菫は涙をこぼしながら笑顔を作った。

「そうですわよね。……最近のルナ君、いつもよりもキラキラしてましたから。そうじゃないかと思ってたんです」

「藤堂さん、僕……」

 何か言わなければ、と口を開いたルナを、菫は止めた。

「言わないで。分かってますから……」

 菫は涙を止められずに、居たたまれなくなってその場から逃げ出した。

「藤堂さん……!」

 ルナは彼女を追いかけようとして、足を止めた。

 今の自分に、菫を追いかける資格があるのだろうか?そう思い、彼女を追うことができなかったのだ。

「最低だな、僕……」

 ルナは彼女の去って行った方を見ることもせず、ただ1人俯いた。
* * *

 ずっと好きだった。

 一人ぼっちだった自分に、優しく話しかけてくれたルナのことが。

 誰よりも優しいルナのことが。

 入学式の日、窓側の端の席で1人で俯いていた自分の肩を叩き、「おはよう」と微笑んでくれたルナのことが。

 誰よりも、好きだった……。

 菫は泣きながら人混みの中を駆けた。

ドスン!

「きゃっ!」

 突然誰かにぶつかって、菫は尻餅をついた。

「ご、ごめんなさい。わたくし前を見てなくて」

 菫は涙を拭いながら、差し伸べられた手を取り立ち上がる。すると、目の前に居たのはヨルだった。

「大丈夫かい、お嬢さん?」

 ヨルは心配そうに尋ねた。その優しげな声に、菫は涙を止めることができなくなった。

「っ……、うう……」

「わ!泣かないで!オレで良ければ話を聞くよ。何があったの?」

「ぐす……ルナ君の事がずっと好きだったのに、わたくしの他に好きな人がいて……でもわたくし、分かっていたのに……」

 菫はぐちゃぐちゃになりながらヨルに思いを伝えた。  

「そっか……」

 ヨルは泣きじゃくる菫の手を握って微笑む。

「自分を泣かせるようなバカ兄なんてほっといてさ、オレにしなよ、お嬢さん」

 その言葉を聞いて、菫は咄嗟にヨルの手を振り払った。

「揶揄わないで!!」

 菫はヨルを睨み付けた後、そのまま祭りとは逆方向に走って行ってしまった。

 その後ろ姿を見て、ヨルは苦笑いする。

「オレの言葉って、そんなに薄っぺらいのかな……」

 花火が上がる。

 空に弾けた紫色の花火を見上げて、ヨルは呟いた。

「結構、本気なんだけどな」
* * *

 一方、景太と百合もルナ達を探していた。

「あいつらどこ行ったんだろうな」

「全然見当たらないわね……」

 景太は高い身長を生かして辺りを見渡したが、それらしい姿はない。

 花火大会も中盤に差し掛かり、人もどんどん増えてきた。油断すると、百合ともはぐれてしまいそうだ。

「あ、そうだ」

 景太は突然、百合と手を繋いだ。

「え、景太、いきなり何!?」

「こうでもしないとはぐれちゃうじゃん」

 平然とそう言う景太に対して、百合は顔を真っ赤にする。

「で、でも恥ずかしいし……!」

「昔はよく繋いでたじゃん。今更どうってことないだろ」

 景太は昔からそうだった。百合どうこうなろうという気は微塵もない癖に、無意識な行動で百合を振り回すのだ。

 その結果、意識するのも百合。嫉妬を買うのも百合だった。
 
(……私だけ意識して、馬鹿みたい)

 百合は思わず溜息をついた。

「あれ、花里君じゃない?」

「あ、ほんとだ!雨宮さんも一緒じゃん」

 クラスメイトの派手な女子グループが百合達のもとへ寄ってきた。

 ……嫌な予感がする。百合は咄嗟に彼女達から目を逸らした。

「こんなところで、奇遇だね~!」

「2人は何?デート?」

「っ……!」

 百合は慌てて景太の手を離した。

「友達と来てたけどはぐれちゃったの!景太とは、はぐれないように手を繋いでただけだよ」

「へぇ~そっかぁ」

 笑顔を崩さずに相槌を打つクラスメイトだったが、その言葉は棒読みだった。

 その声色の裏に敵意を感じながら、百合は俯いた。

 不意に、女子グループの1人が景太に甘ったるい笑顔を向ける。

「じゃあ花里君、うちらと一緒に回らない?」

 ……始まった。

 明らかな色目を使ってくるクラスメイト。どうやら彼女達は景太に気があるらしい。

 しかし、景太はそれに気付かない。

「悪いけど、俺と百合、ルナ達を探さなきゃ行けないから。行こう百合」

 景太はそう短く告げて、百合の手を引いた。

 百合が恐る恐る後ろを振り返ると、女子達は自分を鋭く睨んでいた。

(夏休み明け、怖いな……)

 1人落ち込む百合を見て、景太は心配そうにその顔を覗き込んだ。

「大丈夫か、百合?」

 百合は何とか頷いて見せた。

(誰のせいよ、バカ)

 脳天気で鈍感な幼なじみ。彼に何度も悩まされたが、彼のことを嫌いになったことは一度も無かった。

「あ、花火」

 景太が指し示した空を見上げると、大きくて鮮やかなオレンジ色の花火が空に咲いていた。もうすぐフィナーレだ。

「また来年も、一緒に見ような」

「……はいはい」

 百合は相変わらず呑気な幼なじみに呆れながら、夜空を見上げた。

 色とりどりの花火が、夜空を素敵に飾っていた。