月曜日の気怠(けだる)い朝日が水平線から顔を出した。俺は鮨詰め状態の電車に揺られ毎日同じ場所へと向かう。その繰り返しを鬱陶(うっとう)しいと思いながらも厳守している俺たちは(あり)の様だ。

「はぁ」

 しかも働き蟻(はたらきあり)ではなく右往左往している十八歳の高等学校三年生、自分の進む道すら分からず前から後ろに流れる景色を車窓からぼんやりと眺めている。

(あぁ、またかよ)

 鉄橋を渡って五百メートルあたりから左に傾く急カーブに差し掛かる。性に自由(オープン)なこのご時世、痴漢(ちかん)行為についても決して女性だけが被害に()う訳ではない。

(くっそ、きめぇ)

 相手は巧妙(こうみょう)な手口で俺に触れてくる。「こいつ痴漢だ!」そう騒いでも逆に白い目で見られるのは俺、泣き寝入りする女性が多いのも(うなず)けた。

(くっそ、時間をずらした意味がねぇ)

 今朝は朝飯も食わずに家を飛び出し自転車に(またが)った。そういつまでも伊月(いつき)に助けてもらうのも(しゃく)だった。ところがだ。前頭部が禿げ上がった中年男性(ジジィ)は俺が乗車する駅で待ち伏せしていたらしく登校時間をずらしたにも関わらず背後に立って息を荒くしている。吊り革に掴まった手のひらに汗が滲んだ。

(野郎の尻触って何が楽しいのか聞かせてくれよ!)

 次の駅の手前は右にカーブする。遠心力で身体は背後に持って行かれ中年男性(ジジィ)は連日大喜びだ。

(・・・・・ざけんじゃねぇ!)

 唇を噛み締め脚を踏ん張ったその時、厚い胸板が俺の身体を抱き止めた。荷物棚を握った大きな手のひら、胴に回された温かい腕。

「ちょっと失礼」
伊月(いつき)!」

 伊月は俺と中年男性(ジジィ)の間に割り込みその愚行(ぐこう)一瞥(いちべつ)した。中年男性(ジジィ)の顔色が変わり満員電車の人混みを()き分けてその姿は見えなくなった。

長谷川(はせがわ)くん、おはようございます」
「お、おう」
「どうしていつもより早い電車に乗ったんですか?」
「お、おまえに」
「私がどうかしましたか?」
「伊月に助けられるのが嫌なんだよ!」
「どうしてですか」

 伊月は俺を見下ろしながら少し悲しげな顔をした。

「だって、恥ずかしいだろ!」
「恥ずかしい、ですか?」
「だっていつまでも小学生じゃねぇんだし!」

 耳まで真っ赤に色付いた俺の顔に安堵(あんど)の表情を浮かべた伊月は満面の笑みになった。

「なんだ!そんな事ですか!長谷川くんに嫌われたのかと思いました!」
「き、嫌う訳ねぇだろ。幼馴染みなんだし!」
「長谷川くん」

 伊月はとろけそうな笑みを浮かべて腹に回した手に力を込め俺を抱き締めた。

「やっ、やめろよ」
「長谷川くん」
「その呼び方もやめろ!」

 伊月は俺の髪の毛に顔を埋めると柔らかな声色で(ささや)いた。

陸斗(りくと)・・・・くん」
「そっ!そのいやらしい呼び方もやめろ!」
「駄目ですか?」
「ってか、この手を離せ!」
「助けて差し上げたのに酷い言い草ですね」
「離せよ!」





 俺の名前は長谷川 陸斗(はせがわりくと)公立高等学校三年三組で陸上部に所属している。俺を抱き締めて離さない愚か者は大谷 伊月(おおたにいつき)三年四組、読書サークルで毎日飽きもせずに本ばかり読んでいる。俺たちの家は山茶花(さざんか)の垣根を境にした隣同士で小学校一年生からの付き合いだ。
 中学生の俺はどちらかと言えば成績は下位から数えた方が早かった。伊月は常に上位で生徒会の副会長までしていた。

「おまえなんで私立の高校行かねぇんだよ!」
「だって長谷川くんが公立高校に進学するって言いましたから」
「進学するんじゃなくで私立に行く頭がねぇんだよ!」
「頭・・・・あるじゃないですか」
「中身の話だよ!」

 学期末の三者懇談で母親とクラスの担任が泣いて説得したが伊月は頑として首を横に振り私立高等学校の推薦入学を一蹴(いっしゅう)した。そして当然の事、公立高等学校の入試試験は首席で入学その整った顔立ちと穏やかな性格は女子生徒の心臓を鷲掴(わしづか)みにした。





 俺はかなりの頻度(ひんど)で女子生徒に校舎裏の体育館倉庫や人気(ひとけ)のない屋上に呼び出された。

「・・・・これ」
「はぁ」
「これ、大谷くんに渡して欲しいの」

 それは大概(たいがい)伊月へのラブレターやプレゼントで俺への物ではなかった。いや、大概(たいがい)どころか九十九パーセント伊月に宛てた物だった。

「へいへい、わっかりました」
「お願いね!」
「期待はすんなよ」
「ひどい!渡す前から奈落の底じゃん!」
「あぁ、落ちろ落ちろ」

 悪態を吐く俺は百パーセントの確率で頭を叩かれた。 

「・・・・・・また・・・・ですか紙が勿体無いですね、森林伐採、地球の環境保全に反していますね」
「一度くらいは返事、書いてやれよ」
「そんな前例を作ったらどうなると思いますか?」
「どうなるんだよ」
「あの子には返事が来た、私には返事がないだと軋轢(あつれき)が生じます」
「なんだよ、その軋轢(あつれき)って」
「仲が悪くなるという事ですよ」
「面倒だな」
「そうでしょう?」
「面倒なのはおまえだよ、クソ難しい言葉で喋んな!」
「分かりました」

 伊月はラブレターを「南無阿弥陀仏」とお経を唱えながら破いてゴミ箱に捨てた。プレゼントの手作り菓子は「怪しげな物質が入っていたら大変なので」と言いまた「南無阿弥陀仏」と唱えながらプラスチックは資源ゴミのペール、クッキーは燃えるゴミのペールに捨てていた。

「伊月、おまえする事がいちいちジジくさいんだよ」
「当然の事をしたまでです」
「じいちゃんの真似かよ」

 伊月の家庭環境は多少複雑だ。我が家の隣家は伊月のじいちゃんの家だ。伊月の母親は伊月が小学三年生の時消息を絶った。買い物に行くと出掛けたきり自宅に戻る事はなかった。両親は協議離婚だったが父親も母親も伊月の親権を拒否、じいちゃんに引き取られる事になった。

「お祖父さんの真似」
「おう」
「そうかもしれませんね」
「言葉遣いもジジくさいんだよ!」
「そうですか?」
「私じゃなくて俺、俺って言ってみろよ!」
「お」
「俺!」
「お・・・・・・・れ」

 伊月は俺まで照れ臭くなりそうな表情で顔を真っ赤にした。

「んかぁーーーーーーーー!やっぱいいわ!似合わねぇ!」
「でしょう?」
「にしてもこんなジジくさい奴のどこが良いんだか」
「ジジィ、酷いですね」

 この年寄りじみた男がなぜここまで女子生徒に人気があるのか。それは第一にこのルックスだ。身長は186センチメートル細身だが良い具合の筋肉質、薄茶の緩いウェーブがかった髪、前髪に隠された面差しは日本人離れした見目麗しさ。

(男の俺でもドキッとするよな)

 しかも身のこなしや仕草が上品。掃き溜めに鶴という例えは今の伊月に相応(ふさわ)しい。

(じゃあ俺は掃き溜めって事かよ)

 ドキッとする反面イラッとする事もある。これは嫉妬だ。

(ちぇっ)

 おもむろに立ち上がった伊月は「ジュースを飲みますか?それともコーヒー?紅茶?コーラもありますよ」とコンビニエンスストア並みの品揃えで微笑んだ。

「あ、じゃあアイスコーヒー」
「分かりました。ちょっと待っていて下さいね」
「急がねぇし」
「はい」

 伊月の部屋は柔らかな木材とリネンの布で出来ている。黒いアイアンフレームで揃えたインダストリアな俺の部屋とは真逆、伊月と俺は真逆、だからこそこれまで衝突する事なく付き合いが続いてきたんだろう。

(でも、喧嘩するほど仲が良いっていうよな)

 ウッディな香りがするベッドにもたれ掛かり何気に手を動かすと指先の奥に何かが触れた。

(・・・・・ん?)

 腰を屈めてベッドの下を覗いて見ると四角い箱が見えた。

(こんなもんあったか?)

 個人的空間に踏み込むのは失礼かと思いつつそれを取り出すと(ふた)()びたクッキーの缶だった。

(まさかあいつ仏さんみたいな顔して見てるんじゃねぇか?)

 アダルトビデオのDVDが入っているかと思い蓋を開けて見たが中身は意外な物だった。

「なんだ、これ」

 それはじいちゃんに連れて行ってもらった海で拾ったガラスのような石、ビー玉、アイスキャンディーの当たり棒、二人で見つけた四葉のクローバー、俺と遊んだ思い出が詰まっていた。

「カラスかよ」

 そこで階段を登る(きし)んだ足音が聞こえた。俺は慌てて(ふた)を閉めるとクッキーの缶をベッドの下に押し込んだ。

「あれ?どうしました?」
「なにがだよ」
「空気が乱れていますね」
「おまえ、ジジイの次は霊能力者かよ!」
「そんな訳ないでしょう」

 伊月は口元を緩めグラスをローテーブルに置いた。

「お、さんきゅ」
「どうぞ」

 その時伊月の指が触れ、その熱さに俺は弾かれた様に腕を引っ込めた。ローテーブルが揺れグラスのコーヒーが溢れた。

「あっ!わ、悪ぃ!」
「良いんですよ」

 そう言いながら伊月はコーヒーで濡れた俺の右手を握ると口元まで運んだ。ゆっくりと薄い唇から舌を出し俺の人差し指を舐めた。上目遣いの伊月は熱を帯びた目で俺を捉えると指を口に(くわ)えた。いやらしい舌の動きに尾骶骨(びていこつ)から背骨を電流が走った。

「おおい、伊月、陸斗が来とるんか!」

 伊月の身体から潮が引くように何かが消えた。

「はい」
「夕飯、栗ご飯や!食べてけ!」
「あ、じ・・・じいちゃんありがとう!」
「なんもなんも、遠慮せんでええ、ゆっくりしてけ!」

 伊月は何事もなかったかの様にオレンジジュースのストローを薄い唇に(くわ)えていた。

「い、伊月」
「なんですか?」
「な、なんでもねぇ」

「宿題、しましょうか」

 色付いた気配が消えた伊月は朗らかに微笑みビジネスリュックから数学の教科書とノート、筆記用具を取り出した。

「・・・・あっ!いけね、ノート忘れたわ」
「じゃあ私のノート、新しい物がありますから使って下さい」
「悪ぃな、今度、金払うわ」

 一瞬の間。

「身体でも良いですよ?」
「なに、肉体労働ってやつ?」
「そうとも言いますね」

 俺は笑いながらも脇下に汗をかいていた。