ーーーーーーーーその時、おまえに恋をした。
月曜日の気怠い朝日が水平線から顔を出した。俺は鮨詰め状態の電車に揺られ毎日同じ場所へと向かう。その繰り返しを鬱陶しいと思いながらも厳守している姿は蟻によく似ている。しかも働き蟻ではなく闇雲に右往左往している役立たずの蟻だ。
(あぁ、またかよ)
俺の名前は長谷川 陸斗、公立高等学校三年生、陸上部に所属している。
(毎朝、毎朝、懲りねぇな)
性に自由なこのご時世、痴漢行為の被害に遭う対象は女性だけではない。要するに俺もその被害者の一人だ。
(くっそ、きめぇ)
相手は巧妙な手口で俺に触れてくる。「こいつ痴漢だ!」そう騒いでも逆に白い目で見られるのは俺、泣き寝入りする女性が多いのも頷けた。
(時間をずらした意味ねぇじゃん)
今朝は朝飯も食わずに家を飛び出し自転車に跨った。ところが、だ。頭が禿げ上がった中年男性は俺が乗車する駅で待ち伏せをしていた。そして登校時間を早めたにも関わらず俺の背後で指先を動かしている。荒い鼻息を耳裏に感じた。吊り革に掴まった手のひらに汗が滲んだ。
(野郎の尻触って何が楽しいのか聞かせてくれよ!)
電車は鉄橋を渡り百メートルあたりで大きくカーブする。遠心力で身体は背後に持って行かれ中年男性は大喜びした。
(・・・・・ざけんじゃねぇ!)
唇を噛み締め脚を踏ん張ったその時、大きな手のひらが荷物棚を握り温かい腕が俺の体を抱き止めた。
「ちょっと失礼」
「伊月!」
伊月は俺と中年男性の間に割り込みその愚行を一瞥した。中年男性の顔色は一瞬で変わり、慌てふためきながら満員電車の人混みを掻き分けその姿は見えなくなった。
「長谷川さん、おはようございます」
「お、おう」
「どうしていつもより早い電車に乗ったんですか?」
「お、おまえに」
「私がどうかしましたか?」
「伊月に助けられるのが嫌なんだよ!」
「どうしてですか」
伊月は俺を見下ろしながら少し悲しげな顔をした。
「だって、恥ずかしいだろ!」
「恥ずかしい、ですか?」
「いつまでも小学生じゃねぇんだし!お前に助けて貰わなくても!」
俺の顔は耳まで真っ赤に色付いた。
「なんだ、そんな事ですか。長谷川さんに嫌われたのかと思いました」
「き、嫌う訳ねぇだろ!」
「・・・長谷川さん」
伊月は蕩けそうな甘い微笑みを浮かべたかと思うと腹に回した手に力を込め俺を抱き締めた。
「やっ、やめろよ」
「長谷川さん」
「その呼び方もやめろ!」
伊月は俺の髪に顔を埋めると柔らかな声色で囁いた。
「陸斗・・・・さ・・ん」
「そっ!そのいやらしい呼び方もやめろ!」
「駄目ですか?」
「ってか、この手を離せ!」
「助けて差し上げたのに酷い言い草ですね」
「離せよ!」
俺を抱き締めて離さない愚か者の名前は大谷 伊月、俺たちは山茶花の垣根を境にした隣の家に住む幼馴染で小学校一年生からの付き合いだ。
「離せよ!」
「・・・嫌です」
「は、な、せ!」
中学生の俺はどちらかと言えば成績は下位から数えた方が早かった。伊月の成績は常に上位で生徒会の副会長だった。
「おまえなんで私立の高校行かねぇんだよ!」
「だって長谷川さんが公立高校に進学するって言いましたから」
「進学するんじゃなくで私立に行く頭がねぇんだよ!」
「頭・・・・あるじゃないですか」
「中身の話だよ!」
学期末の懇談でクラスの担任が泣いて説得したが伊月は頑として首を縦に振らず私立高等学校の推薦入学を一蹴した。そして当然の事ながら公立高等学校の入試試験は首席で合格した。新入生代表挨拶で壇上に上がった伊月はその整った顔と品のある物腰で女子生徒の心臓を鷲掴みにした。
そして俺はかなりの頻度で女子生徒に校舎裏の体育館倉庫や人気のない屋上に呼び出された。
「・・・・これ」
「はぁ」
「これ、大谷くんに渡して欲しいの」
それは大概伊月へのラブレターやプレゼントで俺への物ではなかった。いや、大概どころか九十九パーセント伊月に宛てた物だった。
「へいへい、わっかりました」
「お願いね!」
「期待はすんなよ」
「ひどい!渡す前から奈落の底じゃん!」
「あぁ、落ちろ落ちろ」
悪態を吐く俺は百パーセントの確率で頭を叩かれた。
「・・・・・・また・・・・ですか紙が勿体無いですね、森林伐採、地球の環境保全に反していますね」
「一度くらいは返事を書いてやれよ」
「そんな前例を作ったらどうなると思いますか?」
「どうなるんだよ」
「あの子には返事が来た、私には返事が来ないだと軋轢が生じます」
「なんだよ、その軋轢って」
「仲が悪くなるという事ですよ」
「面倒だな」
「そうでしょう?」
「面倒なのはおまえだよ、クソ難しい言葉で喋んな!」
「分かりました」
伊月はラブレターを「南無阿弥陀仏」とお経を唱えながら破いてゴミ箱に捨てた。プレゼントの手作り菓子は「怪しげな物が入っていたら大変なので」と言い「南無阿弥陀仏」と唱えながらプラスチックは資源ゴミのペール、クッキーは燃えるゴミのペールに捨てていた。
「伊月、おまえする事がいちいちジジくさいんだよ」
「当然の事をしたまでです」
「じいちゃんかよ」
この家は伊月のじいちゃんの家だ。伊月の両親は幼稚園を卒園する頃に交通事故で亡くなりじいちゃんに引き取られた。
「お祖父さん」
「おう」
「そうかもしれませんね」
「言葉遣いがジジくさいんだよ!」
「そうですか?」
「私じゃなくて俺、俺って言ってみろよ!」
「お」
「俺!」
「お・・・・・・・れ」
伊月は俺まで照れ臭くなりそうな表情で顔を真っ赤にした。
「んかぁーーーーーーーー!やっぱいいわ!似合わねぇ!」
「でしょう?」
「にしてもこんなジジくさい奴のどこが良いんだか」
「ジジィ、ジジィと酷いですね」
この年寄りじみた男がなぜここまで女子生徒に人気があるのか。それは第一にこのルックスだ。身長は186センチメートルで程よい筋肉質。髪は薄茶で緩いウエーブを描き、前髪に隠された碧眼の瞳に誰もが振り向いた。
(男の俺でもドキッとするよな)
しかも身のこなしや仕草が上品で掃き溜めに鶴という例えは今の伊月に相応しい。
(じゃあ俺は掃き溜めって事かよ)
ドキッとする反面イラッとする事もある。
(ちぇっ)
そこでおもむろに立ち上がった伊月は飲み物はいかがですかと微笑んだ。
「あ、じゃあアイスコーヒーが飲みたい」
「分かりました。ちょっと待っていて下さいね」
「さんきゅ」
「シロップは一個で良いですか?」
「おう」
伊月の部屋は柔らかな木材の家具で統一されファブリックは生成りのリネン、黒いアイアンフレームで揃えたインダストリアな俺の部屋とは真逆で優しい。木の香りがするベッドにもたれ掛かり何気に手を動かすと指先に何かが触れた。
(・・・・・ん?)
腰を屈めてベッドの下を覗いて見ると四角い箱が見えた。
(なんだこれ?)
個人的空間に踏み込む事は失礼だと躊躇したが興味がそれを上回った。腕を伸ばして取り出すとそれは蓋が錆びたクッキーの缶だった。
(あいつも仙人みたいな顔してやっぱ観てんのかな)
アダルトビデオのDVDが入っているかと思い蓋を開けて見ると中身は意外な物だった。
「なんだ、これ」
それはじいちゃんと遊びに行った海で拾ったシーグラス、縁の欠けたビー玉、アイスキャンディーの当たり棒、瓶の王冠の蓋、二人で見つけた四つ葉のクローバー、俺と遊んだ思い出がぎっしりと詰まっていた。
「カラスかよ」
そこで階段を登る軋んだ足音が聞こえた。俺は慌てて蓋を閉めるとクッキーの缶をベッドの下に押し込んだ。
「あれ?どうしました?」
「なにがだよ」
「気が乱れていますね」
「おまえ、ジジイの次は霊能力者かよ!」
「そんな訳ないでしょう」
伊月は口元を緩めグラスをローテーブルに置いた。
「お、さんきゅ」
「どうぞ」
その時、伊月の指が触れ俺は弾かれた様に手を引っ込めた。グラスのアイスコーヒーがローテーブルに溢れた。
「あっ!わ、悪ぃ!」
「良いんですよ」
伊月は熱を帯びた瞳で俺の右手を握り人差し指をその唇に咥えた。
「・・・・・!」
俺の尾骶骨から脳髄へと快感にも似た電流が走った。
(な、なんだ?今の・・・)
「おおい、伊月!陸斗が来とるんか!」
じいちゃんの声で伊月の身体から潮が引くように何かが消えた。
「はい!お邪魔してます!」
「夕飯、栗ご飯や!食べてけ!」
「あ、じ・・・じいちゃんありがとう!」
「なんもなんも、遠慮せんでええ、ゆっくりしてけ!」
振り向くと伊月は何事もなかったかの様にオレンジジュースを飲んでいた。
「い、伊月、今の・・・・」
「なんですか?」
「な、なんでもねぇ」
「じゃあ宿題を片付けてしまいましょう」
淫靡な気配が消えた伊月は朗らかに微笑みリュックから数学の教科書とノート、筆記用具を取り出した。
「・・・・あっ!いけね、ノート忘れたわ」
「じゃあ私のノート、新しい物がありますから使って下さい」
「悪ぃな、明日金払うわ」
一瞬の間。
「陸斗さん、身体で払って頂いても良いですよ?」
「なに、肉体労働ってやつ?」
「そうとも言いますね」
「マジかよ」
「冗談ですよ」
伊月の横顔からは感情を読み取る事が出来なかった。
カーテンの隙間から漏れる一筋の光が眩しい。また気怠い朝が始まろうとしていた。枕元の目覚まし時計は6:00、そろそろベッドから這い出さないと部活動の朝練に間に合わない。その時、突き抜けて明るい声が玄関先で響いた。
「はーせがわさーん!がっこういーこーう!」
「・・・・・ちっ」
あいつは幾つになったら小学生気分が抜けるのだろう。春夏秋冬、伊月は毎日欠かさず俺を迎えに来た。
「はーせがわさーん!」
「うるせぇ!その呼び方止めろよ!」
「・・・・・・・・」
「今起きるから!」
慌ただしく準備を終えてスニーカーを履くと伊月は玄関先のコンクリートの階段に座って待っていた。
「おっす」
「おはようございます」
「おまえさ、美術部に朝練なんてないだろう?もうちょっと寝てろよ」
「そんな事をしたら陸斗さんが先に登校しちゃうじゃないですか」
「そりゃ陸上部には朝練があるからな」
俺は母親が握ったおむすびを頬張りながら伊月を見上げた。すると伊月は真顔になった。
「一緒に居たいんです」
ぶっ
思わず咽せ危うく梅干しを飲み込むところだった。
「なっ!」
「一緒に登校したいんです」
「そ、そうか・・・一緒に」
「はい。陸斗さんと一緒にいると楽しいですから」
「あ、楽しいね。楽しい、はははは」
高等学校に入学した頃から伊月は変わった。時々俺が赤面する様な台詞を臆面もなく口にする。それはまるで恋人に囁く様な甘い言葉だ。俺はその一言一言に戸惑った。
「それにまた痴漢が現れるかもしれないでしょう?」
「ああ、あの中年男性ね」
「そうですよ!」
伊月は改札を抜けると厳しい顔で駅のホームを見回した。
「おまえ、なにそんなに怒ってんだよ」
「私ですら!」
「ん?」
「私ですら触った事がないのに!」
「はぁ?」
「いえ、なんでもありません。忘れて下さい」
電車が到着するアナウンスが流れた。
「てかさ、痴漢に遭うなら伊月なんじゃねぇの?」
「なぜですか?」
「・・・・そ、その綺麗だし?」
「綺麗だなんて!陸斗さんの魅力には到底及びません!」
俺の身長は165センチメートル、伊月より20センチメートルも低い。身体は陸上部で鍛えているので筋肉質だが一見すると頼りのない印象を受けた。そして面差しは鼻ぺちゃで、黒くつぶらな瞳は小動物だと比喩される。そこで俺は実年齢よりも幼く見られる事が多かった。
「魅力だぁ?俺なんかモモンガにチンチラって言われてるんだぞ!」
「小動物系男子!抱き締めたい愛らしさです!」
「てか、なんで俺ら褒め合ってんの?」
「そうですね」
「自分大好き人間かよ」
「私は陸斗さんが大好きです」
「そうかよ」
「はい」
「そりゃどーも」
そしてまた電車は鮨詰め状態で俺は出入り口の扉に頬を押し付けられた。「くっ、そ」電車がカーブを曲がる度に押寄せる乗客の波、その圧迫感に顔を歪ませていると不意に呼吸が楽になった。目の前には伊月の喉仏と白いカッターシャツ、ネクタイがあった。視線が絡まるいわゆる壁ドンの距離。
「ちょ、おま、なにやってるんだ」
「陸斗さんが窮屈かと思って」
「そんなん良いって」
「遠慮しないで下さい」
「腕疲れるぞ」
「大丈夫です、私がこうしたいんです」
伊月は電車の扉に両腕を突いて俺のスペースを確保してくれた。
「さ、さんきゅ」
「はい」
伊月は微笑んだ。
「おはよーっす!」
「先生、おはようございます」
「おはよう」
高等学校の校門には二人の教師が立っていた。
「おはよう、また二人で登校か!長谷川と大谷は本当に仲が良いなぁ!」
「そりゃガキの頃からの友だちだし!」
「そうか、そうか!幼馴染か!」
生活指導の教師に声を掛けられ、俺が「ガキの頃からの友だち」と返事をし教師が「幼馴染」と口にした瞬間伊月の表情が変わった様な気がした。
「伊月、どうした?なんかあった?」
「いえ・・・・なんでもありません」
「そっかなら良いけど」
「はい」
「おはよーっす!」
「また陸斗と大谷で仲良し登校かよ!」
「うるせえな!」
「おまえら付き合ってるんじゃねぇの!?」
「そんな訳ないだろ!」
また伊月からいつもと違う気配を感じた。
「腹でも痛いのか?」
「いいえ」
「顔、変だぞ?」
「そうですか?」
「なんか・・・変」
俺が下駄箱を開けると水色の封筒が入っていた。
「あーー伊月、またおまえにラブレターだぞ」
「ラブレターですか。みなさん懲りませんね」
「ほれ」
伊月は朝一番から面倒だなと溜め息混じりに宛名を見て目を見開いた。
「なに、どしたん?不幸の手紙?」
「これ」
「なんだよ」
伊月は無言でその封筒を俺に手渡した。俺は確率一パーセントの奇跡に驚いた。
「それは陸斗さんへのラブレターです」
「ま、マジか!」
「はい」
俺は<長谷川陸斗さんへ>と書かれた水色の封筒を両手で持ち光に透かして見た。確かに便箋が入っている。思わず頬が緩んだ。
「遂に、ついに俺の時代が来た!」
「陸斗さん、女の子から貰ったラブレターはそんなに嬉しいですか?」
「そりゃあ嬉しいよ!」
「そうですか」
「いやぁ、久々だな!」
伊月の動きが止まった。
「陸斗さんはこれまでも女の子から手紙を貰った事があるんですか?」
「ん?そりゃあるよ」
「知りませんでした」
「別にわざわざ伊月に言う様な事じゃないだろ?」
その言葉に伊月は眉間にシワを寄せローファーを下駄箱に荒々しく突っ込むと上履きに履き替えた。
「な、どうしたんだよ」
「どうもしません」
「伊月、怒ってんのか?」
「朝練、頑張って下さい!」
「伊月?おまえさっきからなんか変じゃね?」
「なんでもありません!」
「伊月!?」
声を荒げた伊月は俺を振り向く事なく廊下を歩いて行った。俺は何がなんだか訳が分からずその姿を見送った。
ランニングシャツと短パンに着替えウォーミングアップをしていると視線を感じた。校舎を仰ぎ見ると三階の角部屋、三年四組の窓辺には俺の一挙一動を見つめる伊月の姿があった。いつもなら俺に手を振って来るがその気配はない。
「位置について、よーい!」
グラウンドの白線に膝を突いた俺は400メートル先のゴールを見据えた。心臓が脈打つ。
「どん!」
赤い旗が振り下ろされ白いレーンを全速力で走った。第一ハードル、第二ハードル、振り上げ足と抜き足を迷いなく踏み締めゴールを目指した。
200メートル。
300メートル。
沸る血、迸る汗。
(伊月どうしたんだ)
第七ハードル。
(なにがあった)
第八ハードル。
(怒らないでくれ)
第九ハードル。
(伊月!)
十台目のハードルを飛び越えた瞬間、脳裏を過ったのは感情を顕にし声を荒げた伊月の後ろ姿だった。突然機嫌を損ねた伊月に動揺している自分がいた。
(嫌われたくない)
伊月はいつもどんな時も俺の隣で優しく微笑み、それが当たり前だと思っていた。
「はぁはぁ、はぁはぁ」
息が上がり汗が頬を伝った。ゴールで膝に手を突き四組の窓を見上げるとそこに伊月の姿はなかった。
朝練を終えた俺は慌てて着替えると一段跳びで階段を駆け上がった。リュックの中で筆入れがガシャガシャと音を立て、教師に「廊下は走るな!」と注意された。そんな事はどうでも良い。伊月の機嫌が直っているかそれだけが心配だった。
「はよーっす」
「おはよう長谷川くん」
「おう、はよっす」
「なに、陸斗、朝練?」
「そそ」
「暑いのによくやるわ」
「走るしか能がないからな」
ホームルーム前の賑やかな教室。窓際の机、列の一番後ろが俺の席でその前が伊月の席だ。伊月は机から教科書を取り出していた。なんとなく話し掛け難く伊月の気を引こうと多少乱暴にリュックを机の上に置いた。
「あぁ、陸斗さん」
「今日はあちぃわ、マジで疲れた」
「お疲れ様でした」
いつもと変わらない伊月の柔らかな物言いに心から安堵した。
「なぁ一限、古文だよな」
「ええ、そうですね」
「最悪だわ。伊月、俺寝るから先生来たら起こして」
「はい、わかりました」
授業開始のチャイムが鳴り起立礼の号令が掛かった。ガタガタと椅子に座る音と同時に俺は机に突っ伏した。カーテンを揺らす心地よい風、楓の葉が擦れる音、伊月の逞しい背中、伊月から漂う木の香りに包まれた俺はいつの間にか深い眠りに落ちていた。
(・・・・伊月)
「陸斗さん」
誰かが俺を呼んでいる。
「陸斗さん、陸斗さん!」
「ん、うわっ!な、なに、なに!」
突然、肩を叩かれた俺は勢いよく机から顔を上げた。
「陸斗さん、古文の授業は終わりましたよ」
「お、終わった?」
「はい」
夢から醒めた俺の腕は涎で濡れ、慌ててそれを袖で拭うと伊月は小さく笑った。
「陸斗さん、起きてますか?」
「あ、ああ」
「まだぼんやりしていますね」
「おまえがいると思うと安心して爆睡したわ」
「それは良かったです」
俺は大きな欠伸をした。
「次は移動教室ですよ」
「えぇ・・・マジか面倒。次なんだっけ」
「美術です。時間がありませんよ準備しましょう」
「お、おう」
クラスメートたちはスケッチブックを手に次々と席を立っていた。俺も寝ぼけ眼でスケッチブックを持ち席を立った。そして伊月やクラスメートと昨日見たテレビ番組の話をしながら美術室に向かう階段を降りた。伊月は機嫌良く頷いている。こうしていると今朝の後ろ姿が嘘の様だ。
美術室の黒板には友人の顔をデッサンするとあった。
「ゆ、友人、おまえの似顔絵を描くのか?」
「そうみたいですね」
「マジかよ、中学生かよ」
高等学校三年生にもなって友人の顔を描くとは如何なものかと思ったが俺は伊月の前に座った。伊月は慣れた手付きでイーゼルを組み立てるとスケッチブックを置いた。授業開始でそれぞれが鉛筆を握ったが友人と向き合う照れ臭さで吹き出して笑う者、顔を背ける者など美術室の中は騒めき落ち着きがなかった。
「あまり動かないで下さいね」
「お、おう」
けれど俺と伊月だけがクラスメートのいる次元から切り離されていた。伊月は無言でスケッチブックに向かった。俺は伊月の真剣な眼差しの虜になり何分、何十分の時間が経ったのかそれすらも麻痺した頃、伊月の顔からスッと力が抜けた。
「はい、出来ました」
「うおっ!早いな!」
「陸斗さんはどうですか?出来上がりましたか?」
「みっ、見るな!」
俺が描いた伊月は現実の伊月とはかけ離れ、まつ毛がびっしりと生えた目はキラキラと輝き髪の毛はグルグルと渦を巻いていた。
「上手じゃないですか、私にそっくりです」
「どこがだよ!」
「ほら、このグルグル感」
伊月は指に髪を絡めて見せた。
「じゃっ、じゃあおまえの描いた俺の顔、見せてみろよ!」
「はい、どうぞ」
「・・・・・・」
さすが美術部。柔らかな肌の質感、髪の流れ、顔の特徴、全体の陰影、どれを取っても素晴らしい出来栄えだった。
「美味いな」
「モデルが良いですから」
「おまえの目には俺の顔はこんな風に見えているのか」
「はい、陸斗さんは優しくてずっと見ていたい。私の宝物です」
「大袈裟だな」
「本当です」
「そんな褒めてもなんも出ないぞ」
「私は陸斗さんがいるだけで幸せです」
「やめろよ、照れるだろ」
「幸せです」
「やめろって恥ずかしいじゃん」
伊月の目は優しかった。
「幸せです」
キーンコーンカーンコーン キーンコーンカーンコーン
「はい!そこまで!続きは来週!」
「はーい」
「また来週も描くのかよ」
クラスメートたちは文句を言いながら美術室を後にした。
「大谷、長谷川、ちょっと手伝ってくれないか?」
「はい」
「うぇい」
イーゼルの片付けを手伝わされた俺と伊月は他の生徒よりもやや遅れて美術室を出た。
「あーやっと終わった」
「・・・・・」
「伊月?」
人気のない薄暗い廊下にさしかかると伊月は急に歩調を早くした。
「伊月、待ってくれよ。歩くのはえぇよ」
「・・・・・」
「なぁ、伊月」
俺が縋る様に声を掛けると伊月は階段の踊り場で振り返った。
「陸斗さん」
思い詰めた顔をしていた。
「あれはもう読みましたか?」
「あれ?」
「水色の封筒です」
「あぁ、あれか。なんか読む気分じゃないからリュックに入れた」
「リュックに入れたんですか」
「入れた」
「捨てないんですね」
早足の伊月は真っ直ぐ前だけを見て俺はその後ろを着いて行くのがやっとだった。
「なぁ」
「なんですか」
「なんで朝、機嫌悪くなったん」
「・・・・・」
「俺、なんか言った?」
「嫉妬しました」
「俺がラブレターを貰ったから?」
「はい」
「おまえだっていつも貰ってるじゃん」
「そうですね」
そう答えた伊月は押し黙り、気不味い雰囲気が漂った。
(意味わかんねぇ)
今日の伊月はいつもと違った。
放課後のグラウンドには楓の樹が列をなし涼しげな木陰を作っていた。そこにはイーゼルを持った数人の生徒の姿があった。
「なんだあれ」
「俺らの絵を描くんだと」
「ふーん」
美術部の顧問から各運動部の顧問に「運動部員の動きをクロッキーさせて欲しい」との申し出があった。俺はウォーミングアップをしながら横目で伊月の姿を探した。
(・・・いた)
伊月は左から三本目の楓の樹の下でイーゼルを立てテニス部の素振りを凝視しカンバスの上に鉛筆を走らせていた。俺は目の前に広がる光景をスケッチする伊月の綺麗な横顔に見惚れた。
(ん?)
そこへ数人の女子生徒が集まり伊月のカンバスを指差しその肩に触れて談笑し始めた。なぜか俺の胸の奥がチリチリと痛んだ。
「おい!陸斗!おまえの順番だぞ!」
「お、おお」
「おせぇぞ!」
「すまん!」
俺は慌てて自分のレーンに指を突いた。
「位置について、よーい」
グラウンドの白線に膝を突いた俺は400メートル先のゴールよりも楓の樹の下にいる伊月を意識していた。
「どん!」
赤い旗が振り下ろされ俺は全速力で走った。第一ハードル、第二ハードル、振り上げ足と抜き足でグラウンドを蹴った。
(伊月!)
一瞬の出来事だった。伊月の姿が目の前にチラつき集中力が途切れてしまった。
「あっ!」
俺は第九ハードルと共にグラウンドに叩き付けられた。
「おい!なにやってるんだよ!」
なぎ倒したハードルの中に崩れ込んでいると部員が集まって来た。
「おい!大丈夫か!」
「痛ててて、下手こいたわ」
「血、出てるぞ」
「大丈夫、大丈夫、ちょっと水で洗って来るわ」
手洗い場で水道のカランを捻ると蛇口からぬるま湯が出た。顔に付いた土をぬるま湯で拭い、伊月に対する意味不明な感情を洗い流そうと冷えた水を頭から被った。
(なんだこれ)
髪からポタポタと冷たい雫が垂れた。
(なんだよ)
俺は冷静になるどころか女子生徒に囲まれる伊月の笑顔に掻き乱された。
「なんだよ、これ」
それはこれまでに味わった事のない初めての感情だった。
翌朝、俺は寝坊をした。顔を洗い歯を磨き、慌てて制服に着替えた。6:45、伊月は迎えに来なかった。
「母ちゃん!なんで起こしてくれなかったんだよ!」
「あら、だって伊月くんがお迎えに来ないからてっきり朝練がお休みだと思ったのよ」
「伊月はスケジュール表じゃねーんだよ!」
「あらあら、ごめんなさいね」
「行って来ます!」
「はい、行ってらっしゃい」
俺は母親が持たせてくれたおむすびをリュックに詰め込むと自転車に跨り一目散に駅へと向かった。
(伊月、どうしたんかな?)
「陸斗くんと一緒にいたいから」そう言って毎朝迎えに来ていた伊月が俺を呼びに来ない理由は二つ。一つ目は体調が良くない、二つ目は機嫌が悪い。
(昨日は身体の具合が悪くて機嫌が悪かったのか?)
俺は携帯電話を取り出して液晶画面をタップした。
おはよ
既読
おはようございます
なに病気?
既読
いえ、元気です
なんで
来なかったん
既読
なんとなく
そうか
既読
(なんとなく?)
伊月のなんとなく、という言葉に俺は苛立った。昨日の今日、相変わらず伊月は何かに腹を立てている。それならそうと何に対して腹を立てているのか言葉にして伝えてくれなければ対処の仕様がなかった。
(なんなんだよ、訳わかんねえ!)
その日の朝練は大幅に遅刻し部員仲間からは揶揄われ気を取り直してグラウンドを走ればハードルを何台も倒すといった散々なものだった。ホームルーム開始のチャイムが鳴っても俺の脚は不貞腐れ前に進もうとはしなかった。
「こら!長谷川遅いぞ!」
「すんません」
「早く座れ!」
「ふあい」
席に着いたが伊月は振り向かなかった。
(無視かよ!)
伊月の椅子の脚を蹴ってみたが無反応だった。俺の苛立ちは怒りに変わった。ホームルームが終わりクラスメートは教科書とノート、筆箱を手に立ち上がった。一限目は化学の授業で教室を移動しなければならなかった。伊月も同じく席を立ったが俺はその手首を握り睨みつけた。
「伊月、おまえ何なんだよ」
「離して下さい」
伊月は俺の手を振り解き廊下に向かい踵を返した。
「待てよ!」
俺はガタガタと机を掻き分け伊月に詰め寄ると両手首を掴んで激しく壁に押し付けた。
「離して下さい」
「おまえ、何なんだよ、何怒ってんだよ!」
「怒ってなんかいません」
「昨日からおかしいだろ!朝も家に来なかったし!」
「そんな気分じゃなかったんです」
「なんで!」
自然と語尾が強くなった。
「今までずっと迎えに来てたろ!?」
「もう行きません!」
「何でだよ!おまえがいないと寂しいだろ!!」
寂しい。伊月がいない時間が寂しかった。俺は自分が抱え込んでいた苛立ちが何なのかを悟った。
「寂しいんですか?」
「・・・・・・・っ」
顔を赤らめた俺は伊月の手首を離すと廊下へと飛び出していた。
(寂しい)
そうだ。伊月がいない世界は寂しい。