ーーーーーーーーその時、おまえに恋をした。
月曜日の気怠い朝日が水平線から顔を出した。俺は鮨詰め状態の電車に揺られ毎日同じ場所へと向かう。その繰り返しを鬱陶しいと思いながらも厳守している姿は蟻によく似ている。しかも働き蟻ではなく闇雲に右往左往している役立たずの蟻だ。
(あぁ、またかよ)
俺の名前は長谷川 陸斗、公立高等学校三年生、陸上部に所属している。
(毎朝、毎朝、懲りねぇな)
性に自由なこのご時世、痴漢行為の被害に遭う対象は女性だけではない。要するに俺もその被害者の一人だ。
(くっそ、きめぇ)
相手は巧妙な手口で俺に触れてくる。「こいつ痴漢だ!」そう騒いでも逆に白い目で見られるのは俺、泣き寝入りする女性が多いのも頷けた。
(時間をずらした意味ねぇじゃん)
今朝は朝飯も食わずに家を飛び出し自転車に跨った。ところが、だ。頭が禿げ上がった中年男性は俺が乗車する駅で待ち伏せをしていた。そして登校時間を早めたにも関わらず俺の背後で指先を動かしている。荒い鼻息を耳裏に感じた。吊り革に掴まった手のひらに汗が滲んだ。
(野郎の尻触って何が楽しいのか聞かせてくれよ!)
電車は鉄橋を渡り百メートルあたりで大きくカーブする。遠心力で身体は背後に持って行かれ中年男性は大喜びした。
(・・・・・ざけんじゃねぇ!)
唇を噛み締め脚を踏ん張ったその時、大きな手のひらが荷物棚を握り温かい腕が俺の体を抱き止めた。
「ちょっと失礼」
「伊月!」
伊月は俺と中年男性の間に割り込みその愚行を一瞥した。中年男性の顔色は一瞬で変わり、慌てふためきながら満員電車の人混みを掻き分けその姿は見えなくなった。
「長谷川さん、おはようございます」
「お、おう」
「どうしていつもより早い電車に乗ったんですか?」
「お、おまえに」
「私がどうかしましたか?」
「伊月に助けられるのが嫌なんだよ!」
「どうしてですか」
伊月は俺を見下ろしながら少し悲しげな顔をした。
「だって、恥ずかしいだろ!」
「恥ずかしい、ですか?」
「いつまでも小学生じゃねぇんだし!お前に助けて貰わなくても!」
俺の顔は耳まで真っ赤に色付いた。
「なんだ、そんな事ですか。長谷川さんに嫌われたのかと思いました」
「き、嫌う訳ねぇだろ!」
「・・・長谷川さん」
伊月は蕩けそうな甘い微笑みを浮かべたかと思うと腹に回した手に力を込め俺を抱き締めた。
「やっ、やめろよ」
「長谷川さん」
「その呼び方もやめろ!」
伊月は俺の髪に顔を埋めると柔らかな声色で囁いた。
「陸斗・・・・さ・・ん」
「そっ!そのいやらしい呼び方もやめろ!」
「駄目ですか?」
「ってか、この手を離せ!」
「助けて差し上げたのに酷い言い草ですね」
「離せよ!」
俺を抱き締めて離さない愚か者の名前は大谷 伊月、俺たちは山茶花の垣根を境にした隣の家に住む幼馴染で小学校一年生からの付き合いだ。
「離せよ!」
「・・・嫌です」
「は、な、せ!」
中学生の俺はどちらかと言えば成績は下位から数えた方が早かった。伊月の成績は常に上位で生徒会の副会長だった。
「おまえなんで私立の高校行かねぇんだよ!」
「だって長谷川さんが公立高校に進学するって言いましたから」
「進学するんじゃなくで私立に行く頭がねぇんだよ!」
「頭・・・・あるじゃないですか」
「中身の話だよ!」
学期末の懇談でクラスの担任が泣いて説得したが伊月は頑として首を縦に振らず私立高等学校の推薦入学を一蹴した。そして当然の事ながら公立高等学校の入試試験は首席で合格した。新入生代表挨拶で壇上に上がった伊月はその整った顔と品のある物腰で女子生徒の心臓を鷲掴みにした。
そして俺はかなりの頻度で女子生徒に校舎裏の体育館倉庫や人気のない屋上に呼び出された。
「・・・・これ」
「はぁ」
「これ、大谷くんに渡して欲しいの」
それは大概伊月へのラブレターやプレゼントで俺への物ではなかった。いや、大概どころか九十九パーセント伊月に宛てた物だった。
「へいへい、わっかりました」
「お願いね!」
「期待はすんなよ」
「ひどい!渡す前から奈落の底じゃん!」
「あぁ、落ちろ落ちろ」
悪態を吐く俺は百パーセントの確率で頭を叩かれた。
「・・・・・・また・・・・ですか紙が勿体無いですね、森林伐採、地球の環境保全に反していますね」
「一度くらいは返事を書いてやれよ」
「そんな前例を作ったらどうなると思いますか?」
「どうなるんだよ」
「あの子には返事が来た、私には返事が来ないだと軋轢が生じます」
「なんだよ、その軋轢って」
「仲が悪くなるという事ですよ」
「面倒だな」
「そうでしょう?」
「面倒なのはおまえだよ、クソ難しい言葉で喋んな!」
「分かりました」
伊月はラブレターを「南無阿弥陀仏」とお経を唱えながら破いてゴミ箱に捨てた。プレゼントの手作り菓子は「怪しげな物が入っていたら大変なので」と言い「南無阿弥陀仏」と唱えながらプラスチックは資源ゴミのペール、クッキーは燃えるゴミのペールに捨てていた。
「伊月、おまえする事がいちいちジジくさいんだよ」
「当然の事をしたまでです」
「じいちゃんかよ」
この家は伊月のじいちゃんの家だ。伊月の両親は幼稚園を卒園する頃に交通事故で亡くなりじいちゃんに引き取られた。
「お祖父さん」
「おう」
「そうかもしれませんね」
「言葉遣いがジジくさいんだよ!」
「そうですか?」
「私じゃなくて俺、俺って言ってみろよ!」
「お」
「俺!」
「お・・・・・・・れ」
伊月は俺まで照れ臭くなりそうな表情で顔を真っ赤にした。
「んかぁーーーーーーーー!やっぱいいわ!似合わねぇ!」
「でしょう?」
「にしてもこんなジジくさい奴のどこが良いんだか」
「ジジィ、ジジィと酷いですね」
この年寄りじみた男がなぜここまで女子生徒に人気があるのか。それは第一にこのルックスだ。身長は186センチメートルで程よい筋肉質。髪は薄茶で緩いウエーブを描き、前髪に隠された碧眼の瞳に誰もが振り向いた。
(男の俺でもドキッとするよな)
しかも身のこなしや仕草が上品で掃き溜めに鶴という例えは今の伊月に相応しい。
(じゃあ俺は掃き溜めって事かよ)
ドキッとする反面イラッとする事もある。
(ちぇっ)
そこでおもむろに立ち上がった伊月は飲み物はいかがですかと微笑んだ。
「あ、じゃあアイスコーヒーが飲みたい」
「分かりました。ちょっと待っていて下さいね」
「さんきゅ」
「シロップは一個で良いですか?」
「おう」
伊月の部屋は柔らかな木材の家具で統一されファブリックは生成りのリネン、黒いアイアンフレームで揃えたインダストリアな俺の部屋とは真逆で優しい。木の香りがするベッドにもたれ掛かり何気に手を動かすと指先に何かが触れた。
(・・・・・ん?)
腰を屈めてベッドの下を覗いて見ると四角い箱が見えた。
(なんだこれ?)
個人的空間に踏み込む事は失礼だと躊躇したが興味がそれを上回った。腕を伸ばして取り出すとそれは蓋が錆びたクッキーの缶だった。
(あいつも仙人みたいな顔してやっぱ観てんのかな)
アダルトビデオのDVDが入っているかと思い蓋を開けて見ると中身は意外な物だった。
「なんだ、これ」
それはじいちゃんと遊びに行った海で拾ったシーグラス、縁の欠けたビー玉、アイスキャンディーの当たり棒、瓶の王冠の蓋、二人で見つけた四つ葉のクローバー、俺と遊んだ思い出がぎっしりと詰まっていた。
「カラスかよ」
そこで階段を登る軋んだ足音が聞こえた。俺は慌てて蓋を閉めるとクッキーの缶をベッドの下に押し込んだ。
「あれ?どうしました?」
「なにがだよ」
「気が乱れていますね」
「おまえ、ジジイの次は霊能力者かよ!」
「そんな訳ないでしょう」
伊月は口元を緩めグラスをローテーブルに置いた。
「お、さんきゅ」
「どうぞ」
その時、伊月の指が触れ俺は弾かれた様に手を引っ込めた。グラスのアイスコーヒーがローテーブルに溢れた。
「あっ!わ、悪ぃ!」
「良いんですよ」
伊月は熱を帯びた瞳で俺の右手を握り人差し指をその唇に咥えた。
「・・・・・!」
俺の尾骶骨から脳髄へと快感にも似た電流が走った。
(な、なんだ?今の・・・)
「おおい、伊月!陸斗が来とるんか!」
じいちゃんの声で伊月の身体から潮が引くように何かが消えた。
「はい!お邪魔してます!」
「夕飯、栗ご飯や!食べてけ!」
「あ、じ・・・じいちゃんありがとう!」
「なんもなんも、遠慮せんでええ、ゆっくりしてけ!」
振り向くと伊月は何事もなかったかの様にオレンジジュースを飲んでいた。
「い、伊月、今の・・・・」
「なんですか?」
「な、なんでもねぇ」
「じゃあ宿題を片付けてしまいましょう」
淫靡な気配が消えた伊月は朗らかに微笑みリュックから数学の教科書とノート、筆記用具を取り出した。
「・・・・あっ!いけね、ノート忘れたわ」
「じゃあ私のノート、新しい物がありますから使って下さい」
「悪ぃな、明日金払うわ」
一瞬の間。
「陸斗さん、身体で払って頂いても良いですよ?」
「なに、肉体労働ってやつ?」
「そうとも言いますね」
「マジかよ」
「冗談ですよ」
伊月の横顔からは感情を読み取る事が出来なかった。