白昼夢で見ていた女の子は、もっと綺麗で儚くて、手を伸ばせば消えてしまいそうな印象があったけれど、目の前に現れた白昼夢の女の子の相田さんはやかましかった。
 いきなり人の顔を見た途端に泣き出したと思ったら、「好きです!」と意味のわからないことを言い出したり。
 かと思ったら、こちらの予定も無視して無理矢理マンションから連れ出そうとしたり。
 土足で人のテリトリーに踏み込んできて、わめき散らして、かと思ったらこちらがなにかを見ていたりしたりしていた途端に黙り込んで、こちらの様子をずっと凝視してくる。そしてときどき何故か溜息をつき出す。
 意味がわからなかった。
 ストーカーにしてはあまりに謙虚な上に邪魔ではなく、ファンにしては口やかましくて人を前にして「どこがいいのか全然わからない」と好き勝手言ってくる。
 相田さんは本当に訳のわからない生き物過ぎて、僕はどうして小さい頃から彼女のことを繰り返し白昼夢で見続けていたのか、訳がわからなくなった。
 マンションに帰り、依頼品の完成のために筆を勧めた。本当だったらあと少しだけ乾燥させてから手を加えたいけれど、間に合わないと判断して、油絵具の中に乾燥促進剤を混ぜながら塗り重ねていく。
 絵を描いていたら、ときどき目の前の絵だけでなく、他の絵を描きたくなることがある。
 僕は急に目の前に現れた相田さんが何者なのかわからないが。海でこちらの横顔を凝視していたことを思い出した。
 潮風の中に、彼女が付けている柑橘系の制汗剤の匂いが溶け込んだ。その匂いはひどくこそばゆくて、僕の気持ちを浮足立たせた。
 小さい頃から見ていた白昼夢の正体は年下の子で、なんでここに押しかけて来たのかわからないけれど、上目遣いでこちらをじっと見ていた、笑顔でも真顔でもない不思議な色を帯びた表情は、手が空いていたら切り取りたくてたまらないものだった。
 どうにか依頼品を完成させたあと、僕は手を洗い、エプロンを一旦椅子に引っかけると、ペットボトルを傾けた。
 ふいにまだ真っ白な新しいキャンパスを目に留める。
 木炭を摘まむと、本当に当たりだけを書き込んで、寝袋にくるまった。今日はさっさと眠って、絵を完成させたかったんだ。

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 夢を見た。どうも夢の中で、僕は何度も何度も相田さんに暴言を吐いているようだった。
 彼女は一瞬怯んだり、泣き出しそうに顔を歪めるけれど、それでも噛みついてくるし、逃げ出すことがない。
 僕からしてみると、きっと余計なお世話だと思ったんだろう。実際に、今の僕ももし相田さんを小さい頃から繰り返し繰り返し夢で見ていなかったら、きっと全く同じ反応をしていただろうから、彼女がなにをそんなに躍起になっているのかさっぱりわからず、見守ることしかできなかった。
 でも。ときどき気持ちがポキンと折れて、なにもかもが嫌になって投げ出したくなることだってある。
 普段の僕はそこまで気持ちを追い込まないけれど、絵を書き連ね、今まで見えていた色彩が急になりを潜めてなにも見えなくなったときは、もう死ぬしかないと思ってベランダの手すりに手をかけていた。
 でも。不思議なことに。
 相田さんが来た時には、急に見えなくなった、見えて当たり前だった色彩が戻ってきていた。
 母さんでも駄目で、母さん越しに依頼してくるクライエントでも駄目で、数少なく大学でしゃべっている友達にすら、このことは言えなかったのに。もちろん、相田さんにだって言っていない、こんなこと。
 彼女の周りは発光して見えて、それを筆でなぞればちゃんと色づいて見えた。
 だから僕は、やっと呼吸の仕方を思い出せたんだ。

 相田さんと母さんが揉めはじめたとき、僕はどちらの味方をすればいいのかがわからなかった。
 母さんはきっと、昔から見えていたはずの僕の色が見えなくなったと言ったら、僕の絵を売ることに熱を傾けていた母さんが、突然に壊れてしまう恐れがあって言えなかった。
 いや、違う。
 捨てられてしまうかもしれないと思ったら、怖くて言えなかった。
 絵を書き加えることも、絵を「違う」と言い切ることもない人は、母さん以外に知らなかったから。
 相田さんは、僕に色を取り戻してくれた人。彼女からしてみると、母さんは諸悪の根源のように見えているみたいだった。違うんだ、僕が隠しているのが駄目だったんだ。
 ふたりが揉めてどこかに行っている間、僕は昨日当たりだけ描いた絵に、必死で色を乗せていた。
 彼女の周りは光り輝いていた。何気ない日常、なんの変哲もないものすらも、それこそ道端に佇んでいる草も、石も、きらめいて息づいていた。
 ただ僕が見た白昼夢の子だからじゃない。ただ僕を「好き」と言ったからじゃない。
 絵を描けなくなっていた僕すらも、彼女は追いかけてくれたからだ。
 この浮足だったり、沈んだり、足が軽くなったり、胸がキシキシと言ったり。それが恋っていうんだったらきっとつらい。
 でも、一度知ってしまったら、もう知らなかった頃には戻れない。
 言葉で伝えるのが下手くそな僕は、絵を描いて伝える以外に、気持ちを伝える方法が思いつかなかった。