如月さんとできる限り距離を取って、私は彼を眺めていた。
 彼がスタスタと歩いた先は、私が普段素通りしているゴテゴテと額縁が並んでいる店だった。そこはどうも画材屋らしかった。
 狭くって中に入ったらすぐにバレそう。そう思ったらなかなか中に入ることはできなかったけれど、二十分経っても中から出てこないのにはさすがに不安になった。
 いきなりおかしなことしてない? まさか売り物でなにかしてない?
 さすがに三十分も経ったら我慢できなくなって中に入ったら、彼がずっと画材コーナーの前で座っているのが見えた。彼の目の前にあるのは絵の具のチューブに見えるけれど、なにをそこまで探しているのかがわからず、私は唖然としている。
 店主は普通に彼をレジから眺めていたので、そっと声をかけてみた。

「あのう……あの人三十分くらいこの店にいますけど……」
「如月くん? 彼いっつもそうよ。絵の具の番号とかすぐ忘れるし、メーカー自体のこだわりはないんだけど、色のこだわりがすごくってね。自分の描きたい絵の色をチューブ一本から算段して計算してから買うの。長年この仕事しているけれど、あんなにバラバラに絵の具買う人滅多に見ないから面白くって。彼のこと知ってるってことは、彼のファン?」

 逆に店主さんに尋ねられて、私は思わず頷いた。

「すごく素敵な絵を描かれる方なんで。ただ、最近スランプ気味で、ちょっと荒れているみたいで」
「そうねえ。あの子も可哀想な子だから」
「……可哀想なんですか?」
「絵以外にアイデンティティがないと思っている子だから。たしかに絵描きには、特に油彩の界隈には絵以外本当になんにもできないって人は多いけれど、その手の人ってパトロンがいるから、本当になにもできなくってもなんとかなるんだけど。でも今って不景気で、パトロンがいるような絵描きだってずいぶんと減ってきてるから。彼も生まれる時代を間違えてきたのねえ……」
「そんな……」

 やっぱり如月さん。今すごくまずい状態にいるんじゃ。
 そう思っていたら、如月さんが動いた。どうも絵の具を買うらしい。私は店主さんに「ありがとうございます!」と言ってから逃げ出した。
 逃げ出して、そのまま走って繁華街を抜け出し、トボトボと住宅街を歩く。

「……如月さん、どうしたらいいんだろう」

 無限ループを繰り返している以上、あと三日。あと三日で解決する問題ではない気がするし、そもそも如月さんの家の事情が全くわからない。
 少なくとも、店主さんは普通に彼が油彩描きだってことを名前と一緒に知っていたってことは、知る人ぞ知るで有名なんだろう。
 ……高層マンションでほぼ拘束状態で絵を描いている現状、やっぱり駄目なんじゃあ。
 でも私はどうしたらいいんだろう。
 ひとりで延々と悩んでいたら。

「ちょっと晴夏! あんたなにやってるの!?」

 ……今聞きたくなかった声を聞いてしまった。
 お母さんがのっしのっしとこちらに向かって歩いてきてる。私は気まずい思いで仰け反っていたら、そのままこちらを睨まれた。

「学校は!?」
「えっと……サボってた」
「馬鹿! 出席日数足りるの!?」
「それはまあ」

 まさか言えない。一週間休んだところでビクともしないし、そもそもあと三日でループされてしまうから私のサボリも無効になるなんて。
 お母さんから視線を逸らしてビクビクしていたら、お母さんは「ならよし」とだけ言った。

「で、どこ行ってたの?」
「知り合いのところ。ねえお母さん」
「なによ?」
「もしさあ。ある人がものすっごくお金を産み出す才能があって、それしかないって思い込んでいるのに、ある日を境にそれができなくなった場合って、どう慰めればいいのかな?」
「それってスポーツ選手とか?」

 ああ、そっか。スポーツ選手だって体が資本だから、故障してしまったらそれでお金を稼げなくなるのか。
 私は頷いた。

「そう。どう慰めればいいのかわからなくって」
「難しいわね。才能ある人って、本当にそれに才能があるし、体が壊れるまでそれで困ったことってないから。でもそれって、その人のこと、それでしか知らなくない?」
「えっ?」
「運動神経がいいっていうのは、その人の長所なの? 私、昔球場の近くで働いていたとき、車で選手に車ではねられかけたことあるんだけど」
「ええ……」

 そんな話初耳だし、その選手も誰だよって思ってしまう。お母さんは私のことを無視して話を続ける。

「だからそれ以降どんなにその選手が活躍しても『でもこの人私をはねかけたしなあ』にしか思えなかった。でも逆に言ってしまえば、その人のいいところを知っている人からしてみれば『スポーツができなくってもその人は素敵』って思えるところがあるってことよね。それを伝えるところからじゃない? それに人間、案外長く生きなきゃいけないから、それができなくなってからも生きないといけないのよ」

 お母さんにそれで話を締めくくった。
 私は如月さんのことについて、なにも知らないんだなと気付いてしまった。
 だとしたら、私は彼についてどんな慰めの言葉をかければいいんだろう。
 明日も、学校をサボって会いに行っても大丈夫だろうか。
 そう、思っていたけれど。

****

 次の日、私は悩んだ末に、この話をオブラートに包んで美月に相談してみようと思い立った。この手の話は込み入っているから、アプリだと絶対に事故る。直接話そう。
 そう思って制服を着て、朝ご飯を食べているときだった。
 お父さんが点けっぱなしにしていたテレビで、見覚えのある景色が映っていることに気付いた。

【次のニュースです。本日午前六時、N市N町にて、投身自殺遺体が発見されました。これは早朝ジョギングした人が発見し、救急車に運ばれ検査をしたところ、昨日亡くなったとのこと……亡くなったのは如月大和さん。新進気鋭の油彩画家で……】
「え……」

 昨日。
 私と一緒にいたじゃない。私と一緒にいたのに、どうして体を投げ出して、死んじゃったの。
 捨てられたキャンパスのことについて思いを馳せた。
 まさかと思うけれど……あの人、あのとき本当は自分が死ぬつもりだったんじゃないの。
 私は言葉にならず、ただ涙を溜めていた。

「まだ大学生で画家なんて大したものなのになんで……しかもここ結構近所じゃ……晴夏、どうした?」

 お父さんに声をかけられて、私は嗚咽を漏らして首を振った。

「なんでもない」

 私と如月さんの関係なんて、どうやったら説明できるかわからなかった。