◯
昼食をとるために私らが向かったのは、夏祭りの会場だった。
私が祭りに興味を示していたから、井澤さんが気を利かせて車をそちらへ向かわせてくれたのだ。
「ありがとうございます。井澤さん」
「いや。もともとはこの夏祭りにキミを連れていきたかったから、俺はこの日を選んだんだよ」
井澤さんはそう言って、車を会場の駐車場に停めた。
氷張川の西岸、河川敷の土手を上ったところに、屋台がずらりと並んでいる。
けれど祭りのメインは花火なので、この時間帯はまだ準備中の所が多かった。
会場の入口付近でパンフレットの紙をもらうと、表面の上部には祭りの名前がでかでかと印字されていた。
『氷張川納涼花火大会』。
その名の通り、この氷張川の真上に花火が打ち上がるらしい。
「あっ! あそこの屋台はもうやってそうじゃない? 良いにおいがする!」
沙耶が嬉しそうに言って、焼きそばの屋台に駆けていく。
すぐ後ろにいた桃ちゃんも同じようについていくのかと思いきや、彼はいつになく神妙な面持ちでその場に突っ立ったままだった。
「桃ちゃんは買いに行かないの?」
不思議に思って私が聞くと、
「すず……」
と、彼は反射的にこちらの名を呼んで、それから困ったように肩を竦めた。
「……いや。今のお前は、すずじゃないんだよな」
その瞳は、あきらかに失望の色を滲ませていた。
今の私は、比良坂すずじゃない。
その事実を再認識した瞬間、先ほど車の中で聞いた井澤さんの話を思い出した。
——俺が用があるのは、比良坂すずの右目だけだ。
——右目?
彼の発言の意味がよくわからず、私は思わず聞き返していた。
おそらくは後部座席にいる沙耶と桃ちゃんも同じような反応をしていたと思う。
——比良坂すずは今から十年前、七歳の頃に右目の角膜移植を受けている。公園で転倒した際に植木の枝で右目を負傷し、角膜を損傷して著しく視力が低下した。それを治療するために、臓器提供者から角膜の提供を受けて移植手術を行ったんだ。
急に専門用語をいくつも述べられて、私は戸惑っていた。
角膜、ドナー、移植手術……。
それらは病院以外ではあまり耳にしない、およそ日常会話ではそうそう使われない単語ばかりだった。
——角膜を移植……。そっか。確かにすずは子どもの頃、右目を怪我して入院してたよね。
後部座席から、沙耶の証言が飛んでくる。
井澤さんは続けた。
——怪我をしたのは六歳の頃で、そこからしばらく右目は使い物にならなかったはずだ。ドナーから角膜の提供があるのを待って、一年後に移植し、視力を取り戻した。
——それ、オレも覚えてる。すずは一年ぐらいの間、ずっと右目に眼帯をしてた。すずが失明しちまうんじゃないかって、オレ怖くて怖くて……。
桃ちゃんも当時のことを思い出したように言う。
比良坂すずは十年前に、角膜の移植手術を受けた。
それはどうやら本当のことらしい。
けれど、
——でも、それが今回の記憶のこととどう関係があるんですか?
不思議に思って、私は尋ねた。
比良坂すずの右目と、今の私の記憶。
その二つが一体どう結びつくのか皆目見当がつかない。
——記憶転移、という事象を知っているか?
そんな井澤さんの質問に、私はハッとあることを思い出す。
記憶転移。
その単語の響きには聞き覚えがあった。
確か、数日前に桃ちゃんが口にした言葉だ。
臓器移植によって、記憶が転移すること。
誰かの心臓を別の誰かに移植した際、元の心臓の持ち主の記憶が引き継がれるという話。
嘘か本当かもわからない、時折フィクションで題材にされる都市伝説的なもの。
——今のキミは、比良坂すずの記憶を失っている。そして代わりに、別の誰かの記憶を思い出しつつある……。俺の見立てが間違いでなければ、今のキミはおそらく、その右目の持ち主だった人物の記憶を引き継いでいるんだ。
まるで現実的ではない事象について、医者の一人である井澤さんが語っている。
——俺は、その右目の持ち主だった人物を知っている。そして、その人物と再び対話するために、俺はずっとキミたちのことを追っていたんだ。
◯
人の記憶は体のどこに宿るのだろう?
脳か、心臓か。はたまた体の全ての細胞か。
もしも細胞に記憶が宿るなら、他人の角膜を移植された人間は、その他人の記憶を引き継ぐことができるのかもしれない。
私はいま、自らの身をもって、それを実証しようとしている……。
「あっ、かき氷の屋台だ! 井澤さーん。あれも欲しい!」
「遠慮ってものを知らんのか、キミは」
甘い声の沙耶に強請られ、井澤さんは渋々と財布を取り出す。
そんな彼らの後方で、桃ちゃんはひとり明後日の方向を向いていた。
心ここに在らず、といった様子でぼんやりと空を眺めている。
きっと、今の私が『比良坂すず』ではないことに強いショックを受けているのだろう。
大事な幼馴染、それも密かに想いを寄せている相手が別人と入れ替わっているなんて知ったら、こんな風になってしまうのもわかる。
「キミは何も食べないのか?」
いつのまにか、井澤さんが隣に立っていた。
彼の手元にはたこ焼きの載ったトレーが二つあり、そのうちの一つをこちらへ差し出してくれる。
「育ち盛りだろ。食べとけ。途中で倒れられても困るからな」
彼は有無を言わさずトレーをこちらに押し付けて、今度は桃ちゃんのもとへと向かう。
そうして同じようにたこ焼きを勧めたが、彼には断られたようで、仕方なく自らそれを食べ始めた。
「それで、どうだ? そろそろ何か思い出せそうか?」
出来立てアツアツのたこ焼きを口に頬張りながら、彼は聞く。
私の中に存在する、比良坂すずとは別人の記憶。
しかし今はまだ、決定的なことは何も思い出せない。
この町を見て『懐かしい』という感覚は確かにあるけれど、ぼんやりとそう感じるだけだ。
この右目の所有者が一体どんな人物だったのかはまだ何も見えてこない。
「あの……。井澤さんが知っているその人は臓器提供者で、実際に角膜を提供してくれたわけだから……今はもう、この世にはいないってことですよね?」
十年前、比良坂すずに角膜を提供したドナー。
ということは、その人は十年前の時点ですでに亡くなっていたということだ。
「俺に質問ばかりしていると、ただの推理ゲームになってしまうぞ。問いかけるなら、自分の胸に聞いた方がいい」
その通りだった。
彼から情報をせがんでばかりでは、ただの人当てクイズになってしまう。
さながら『私は誰でしょうゲーム』だ。
「私は……。たぶん、お祭りが好きだったんですよね。ここの景色を見ているだけで、とてもワクワクするんです」
確信を持って言えるのはそれだけだった。
生前の『私』はきっと、一年に一度のこの花火大会のことを毎年心待ちにしていたのだと思う。
「そうだな。……あいつは祭りが好きだった。十年前のあの日だって、直前まで楽しみにしてたんだ」
そう言った彼の声は優しかった。
まるで大切な人のことを思い起こすような、確かな慈しみの心がそこに滲んでいた。
「井澤さんにとって、その人はどんな存在だったんですか?」
「そうだなぁ。俺にとっては、かけがえのない存在だったよ。キミが俺のことをどう思っていたのかはわからないけどな」
彼のその言い方は、私とその人を完全に同一視していた。
私の中にはその人の記憶があり、そして記憶の中に、その人の魂が宿っている——暗にそう言われたような気がして、私はそのとき初めて、『自分』の居場所がここにあるような気がした。
◯
「臓器移植で記憶が移るなんてこと、本当にあるんですね」
私はまだ夢見心地だった。
赤の他人から角膜を移植されたことで、その人の記憶が転移する。
そんな現象は、映画やドラマなどのフィクションの中だけのお話だと思っていた。
「正直、俺もびっくりしてるよ。この十年間、あるかどうかもわからない記憶転移の可能性だけを信じて、キミの臓器を追ってきたけれど……。キミのその角膜以外の臓器はみんな、すでに役目を終えてしまった。肺も、心臓も、もう一つの角膜も。移植された移植患者とともに、すでに亡くなってしまった。誰もがキミの記憶を思い出すことはなかった。たった一人、比良坂すずだけを除いて」
井澤さんを十年も動かしてきたそれは、おそらく執念だった。
現実に起こるかどうかもわからない記憶転移を信じて、そんな長いあいだ私を追いつづけるなんて、正気の沙汰ではないと思う。
やがて祭り会場を一通り見て回ると、今度は少し道を逸れて、街の方へ繰り出してみることにした。
私はきっと、この土地の出身なのだと思う。
今はまだはっきりとは思い出せなくても、街のいたる所に見覚えのある場所が存在する。
だからこうして街を散策していれば、いずれは決定的な事柄を思い出せるかもしれない。
「おっ! ショッピングモールはっけーん!」
と、沙耶が道の先を見てテンションを上げる。
桃ちゃんと違って、彼女は今のこの状況下でも楽しんでいるようだ。
いや、もしかしたらそういう風に明るく振る舞っているだけかもしれないが。
「あっ。あっちは昔ながらの商店街! 今じゃ絶滅危惧種だよねぇ」
ショッピングモールに商店街。
どちらもかなりの年季を感じさせる佇まいで、今も現役であることがむしろ不思議なくらいだった。
そして、どちらも例によって私には見覚えがある。
「この辺りにも、私は来たことがあると思う。というより、日常的にここを利用してた……のかな」
朧げな記憶の中で、この辺りを歩いていた感覚を思い出す。
老朽化の進んだアーケード。
道の途中で急に姿を現す石造りの鳥居。
疎らな人通り。
と、そこへチリン、と鈴を鳴らしながら自転車が通りかかった。
白いセーラー服に紺色のスカートとリボンを付けた、中学生くらいの女の子。
今は夏休みの時期なので、部活の帰りだろうか。
走り去る彼女の後ろ姿を、私は半ば無意識のまま目で追っていた。
律儀にヘルメットを被るその姿に、強い既視感を覚える。
「あの制服も、見覚えがある……」
どこかの中学校の制服。
夏仕様の、紺色のスカートとリボン。
ふわりと風に舞うスカートの裾が、記憶のどこかでフラッシュバックする。
私は自転車の少女から目を離すと、今度は彼女が通ってきた道の先を見つめた。
「こっちの方角に、中学校があるよね。ここからそう遠くない。歩いていける距離の所に」
私はフラッシュバックした記憶を頼りに足を踏み出して、やがて走り出した。
この先に、学校がある。
おそらくは私が通っていた場所。
十年前に死んだ私の、まだ生きていた頃の思い出が、そこにあるような気がした。
細い路地を抜け、広めの車道に出る。
そこから駅のある方向へ進んでいく途中で、目的の建物はついに姿を現した。
氷張市立氷張中学校。
校門前の坂は急で、その先に見える校舎の景色がひどく懐かしい。
「氷張中学……。そうだ。私はここに通ってた。自転車で。あの山の上の町から、S字の坂を下りて……」
頭に浮かんだ映像を口にすればするほど、記憶が鮮明になっていく。
自転車で山を下りる時の、肌を撫でる風。
太陽に温められた緑と土のにおい。
氷張川の途中に見える沈み橋。
そして、この校門前の坂に差し掛かる頃にはいつも、
——おはよう、みなみ。
誰かが、私にそう挨拶していた。
みなみ。
そう、みなみだ。
苗字か、下の名前かはわからない。
けれど、生前の私がもしも男だったとしたら、『みなみ』は苗字かもしれない。
「何か思い出したか?」
不意に、隣から井澤さんの声が聞こえた。
ハッとしてそちらを見ると、彼はどこか不安げにこちらを見つめていた。
まつ毛の長い、妖艶な瞳。
その左目の下にある泣きボクロ。
その顔が、私の記憶の中にある人物と重なる。
十年前に、この校門前で毎日挨拶を交わしていた男の子。
——おはよう、みなみ。
——うん。おはよう、凪。
凪、と。記憶の中の私が、その男の子を呼ぶ。
紺色の学ランに身を包んだ、綺麗な目をした男子中学生。
そうだ。
どうして今まで忘れていたんだろう。
井澤さんの年齢は、おそらく二十代の前半から半ばほど。
十年前はきっと中学生だったはずだ。
「……あなたは、凪。私の友達だった、凪なんだね?」
井澤凪。
彼のフルネームを思い出して、私は合点がいった。
対する井澤さんも、こちらの顔を見ながら、ふっと肩の力を抜くようにして微笑んだ。
「そうだ。俺はキミの友達だった。学年も同じ。十年前、キミと同じこの中学に通っていた井澤凪だ」
十年前にこの場所で、毎日彼と顔を合わせていた。
当時の光景が、確かな色を持って頭の中に蘇る。
「あのー、もしもし? なんか二人きりで盛り上がってるとこ悪いけど、あたしたちの存在を忘れてません?」
と、横から沙耶が割って入る。
彼女は何が何だかわからないといった様子で、私と井澤さんの顔を交互に見ていた。
「ごめん、沙耶。私もまだわからないことがいっぱいなんだけど……もう少しで思い出せそうなんだ」
井澤さん——もとい、凪のことは今、やっと思い出した。
彼は私の小学校の頃からの友達で、お互いによく会話をしていた覚えがある。
ただ、会話の内容まではまだ思い出せない。
彼と何か、大事な話をよくしていたような気がするのだけれど。
「俺のことは少しずつ思い出してきたようだな。それで、キミ自身のことについては、何か思い出したか?」
凪が聞いて、私は再び彼の方へ視線を戻す。
「私は、『みなみ』という名前で呼ばれていたと思う。でもフルネームはまだ思い出せない。それに顔も……」
記憶の中で、自分の目で見たもの、周囲の環境なんかは少しずつ思い出せている。
けれど、肝心な自分自身のことはまだ見えてこない。
私はどんな人物だったのか。
そして、なぜ十年前に死んでしまったのか。
「もう一度、桜ヶ丘の方まで戻ってみるか?」
凪が言って、私は頷く。
あの山の上にある町はきっと、十年前に私が住んでいた場所だ。
あそこに戻れば、もっと具体的なことを思い出せるかもしれない。
「ごめんね、沙耶。桃ちゃんも。私のワガママで連れ回しちゃって」
「ぜーんぜん! もともとあたしらは勝手についてきたわけだしね。それに、今のあんたの記憶の謎を解明しないことには、すずの意識も戻ってこられないかもしれないし」
そんな沙耶の発言に、私は急に背中から水を浴びせられたような感じがした。
比良坂すずの意識。
そういえば、彼女の記憶は今どこにあるのだろう?
「さて。それじゃあ車の方まで戻るか。祭り会場の駐車場だったな」
凪が言って、みんなが歩き出す。
一拍遅れて、私もその後を追う。
言い知れぬ不安に駆られた私のことを、やけに無口になった桃ちゃんだけが見つめていた。
◯
再び車に乗り込んで山の方を目指していると、目に飛び込んでくるもの全てが懐かしさで溢れていた。
あの頃から何も変わらない氷張川。
私が生まれる前からあったショッピングモール。
沈み橋。
S字坂の途中に見える、低木で形作られた『さくらがおか』の文字。
やがて坂を上り切ると、町の中心を通る主要道路の脇にはいくつもの店が並ぶ。
「凪。そこの信号、右に曲がってくれる?」
「ああ」
私がお願いすると、凪はハンドルを切る。
この方角は、私が通り慣れた道——おそらくは自宅への帰り道だ。
十年前に住んでいた家が、この先にある。
母校である小学校の脇を通り過ぎ、小さい頃に友達とかくれんぼをしたバスターミナルの手前を左へ曲がる。
そして、
「そこの交差点を右に曲がって、すぐ左に入って。それから……」
細かい道順が、自転車の感覚と共に蘇る。
住宅街の細い道をジグザグに曲がっていく。
そうだ。
この先に、私の帰る家がある。
「凪、停まって!」
私の一声で、車は停止した。
進行方向の、右手側。
舗装された坂道に沿って並ぶ家々の中に、その場所はあった。
けれど、
「あれ……?」
十年前に私の住んでいた家があったはずのその場所は、すでに空き地になっていた。
雑草が生え放題になっていて、おそらくここ数年はこのままの状態だったのだろうと思われる。
「あれー? 空き地じゃん。ここに昔何かあったの?」
後部座席から沙耶の声が飛んでくる。
私はまるで狐につままれたような心持ちで、目の前の何もない空間を見つめていた。
「そんな。どうして……。ここに私の家があったはずなのに」
「キミの家族なら、キミが亡くなった後にここを引っ越していったよ」
凪が言って、思わず私は彼を見る。
「そうなの? 今はどこに」
「さすがにそこまでは調べてないな。捜そうと思えば手がないわけじゃないが、キミは会いたいのか?」
「……いや」
今さら会ったところで、どうなるというのだろう。
今の私は記憶を取り戻しつつあるとはいえ、体は比良坂すずのものなのだ。
こんな状態で会いにいったところで、きっと相手を困らせてしまうだけだろう。
それに、
(なんだか、会うのが怖い……ような)
できることなら、両親とは顔を合わせたくない——そんな気がしてくる。
「ふーん。ここにあんたの住んでた家があったってこと? せめて家だけでも残ってたら、何か思い出せたかもしれないのにね」
沙耶の声を耳にしながら、私はなんとか記憶を掘り起こす。
この場所に建てられていた、二階建ての一軒家。
壁は白く、屋根は黒っぽい灰色。
そして、門柱に掲げられていた表札は、
「……『愛崎』」
その名を口にした瞬間、ハンドルを握っていた凪の指がぴくりと反応した。
「あいざき? 何それ。もしかして、あんたの苗字?」
沙耶に聞かれて、私は曖昧に首を傾げる。
記憶の中にある家の表札には、確かに『愛崎』という文字がある。
けれど、十年前の凪は私のことを『みなみ』と呼んでいたはずだ。
(どういうことだ?)
何かが引っ掛かる。
違和感とともに何か、不安のような、嫌な予感のようなものが胸に広がる。
「みなみ」
隣から、凪が実際にこちらの名を呼ぶ。
記憶の中の声よりもずっと低い、大人になった彼の声。
「もう一度聞くが……キミは全てを思い出したら後悔するかもしれない。それでも真実を知りたいのか?」
最後の確認、とばかりに彼が聞く。
この嫌な予感は、もしかすると当たっているのかもしれない。
けれど、たとえそうだとしても。
「うん。知りたい。私は、それを知るためにここまで来たんだから」
私のためにも、比良坂すずのためにも、真実を知らなければならないと思う。
凪はこちらの返答を聞くなり、ふう、と息を吐く。
それから車を道の端に寄せてエンジンを切った。
ドアを開けて外に出た彼に続いて、私らも車から降りる。
途端、照りつける太陽の光と、全方位から響くアブラゼミの声に包まれた。
「キミが『愛崎』という苗字だったことは間違いない。そして同時に、キミは『みなみ』でもある。この意味がわかるか?」
凪はこちらと目を合わせず、かつて家があった空き地の方を見つめながら言う。
『愛崎』と、『みなみ』。
どちらも私を指す名前。
つまり私のフルネームは、
「愛崎みなみ……」
愛崎みなみ。
それが、生前の私の名前ということだ。
「ん? どゆこと? 『みなみ』って……それ、女の子の名前じゃない?」
沙耶が不可解そうに言った。
彼女の言う通り、『みなみ』という名前は一般的には女性に多く付けられるものだ。
男性に付けられることもゼロではないだろうが、おそらくは少数派だろう。
「……まさか」
あることに思い当たり、私は息を呑む。
嫌な予感というのは、やはり当たっていたのかもしれない。
私は、生前の自分はきっと男なのだろうと思っていた。
そう信じて疑わなかったし、そうであってほしいと思っていた。
けれど、違ったのかもしれない。
「キミの下の名前は、みなみ。美しい波と書いて美波だ。……もうわかっているとは思うが、キミの性自認は男。そして、十年前のキミも今のキミと同じように、体は女だった」
凪からそう聞かされた瞬間、あれだけうるさかったセミの声が、一斉に止んだ。
音が、聞こえない。
肌を撫でる風の感触も、頭上から照りつける太陽の熱さも、何も感じない。
「……今、すずの中にいるのは女ってことか?」
それまで黙っていた桃ちゃんが、久方ぶりに口を開いた。
私は、女。
愛崎美波は女。
その事実を突きつけられた瞬間、激しい拒否感が胸に溢れた。
「……ちがう。僕は女なんかじゃない!」
ほとんど無意識のうちに、そう叫んでいた。
桃ちゃんは驚いた顔でこちらを見て、そして、憐れみのような目を向けてくる。
彼から向けられたその視線に、僕の胸中はさらに掻き乱された。
体は女なのに、心は男。
そのちぐはぐな感覚は、当事者以外の人間と共有することは叶わない。
誰も僕の気持ちなんてわかってくれない。
わかるはずがないのだ。
——キミは全てを思い出したら後悔するかもしれない。それでも真実を知りたいのか?
思い出したら後悔する。
凪が言っていたのは、そういうことだったのか。
「ねえ、井澤さん」
と、今度は沙耶が彼の名を呼んだ。
彼女にしては珍しく、感情が伴っていないような冷たい声だった。
「あなたはこんなことを伝えるために、すずに会いにきたの? 十年前に死んだ自分が、心と体とで性別が違ったって。そんな残酷な過去の事実を、わざわざ掘り返しにきたの?」
「いや。俺が美波と話したかったのはそんなことじゃない。俺はただ……確かめたいことがあったんだ。美波と会って、本人の口から真実を聞きたかった」
「真実?」
彼はゆっくりと足を踏み出して、空き地へと近づいていく。
そうして目の前までやって来ると、そこで膝を折ってしゃがみ込み、生え放題になっている雑草に手を伸ばす。
「愛崎美波は十年前、中学三年生の時に死んだ。……事故死だった。自殺でも他殺でもない、不幸な事故だったと言われている。けれど、俺にはどうしてもそうだとは思えない」
雑草の中から、小さなヒメジョオンの花を摘む。
花びらの一つ一つは白くて細く、真ん中の丸い部分は黄色い。
「あれはただの事故じゃない。自殺か、他殺か……そのどちらかだとしか思えない」
親指と人差し指で花を挟み、ぐっと力を入れて潰すと、黄色い部分はまるで『あっかんべー』をするように手前に飛び出てくる。
「自殺か、他殺……? なんか、物騒な話になってきたね?」
沙耶は笑いかけようとしたが、うまくいかなかったらしい。引き攣った笑みが不自然に顔に張り付いている。
凪は再びその場に立ち上がると、こちらを振り返った。
「俺は十年前の真実が知りたい。そのためには、キミの記憶が必要なんだ。美波」
左目に泣きボクロを添えた妖艶な双眸が、まっすぐに僕を射抜いていた。
空はいつのまにか、ほんのりと夕暮れの色を滲ませている。
肌を撫でる風は、昼間のそれよりわずかに温度が下がっている。
町の上空を、カラスの群れが横切っていく。
その鳴き声にまぎれて、辺りにはどこからか、ヒグラシの声が響き始めていた。
人生で一番古い記憶は何かと問われたら、まず最初に思い出すのが、濃い消毒液のにおいだった。
病院の内部を満たす、強いアルコールのにおい。
幼い頃から何度も連れて来られた、祖父が院長を務める病院。
そこにはたくさんの入院患者が覚束ない足取りでうろうろしている。
中にはまるで骨と皮だけのように痩せ細った老人もおり、人生の終わりというのはこんな感じなのだと、半ば見せつけられるような思いでそれを眺めていた。
「凪。お前は本当に頭の出来の悪い奴だな。それでも俺の息子か?」
病院で、あるいは自宅でも、医師である父は所構わず俺を叱りつけた。
俺の家族は医者一族である。
この家に生まれた者は皆医者になるのだと、まるで他に選択肢のない育て方をされる。
俺の五つ上の兄は、それはもう出来の良い子どもだった。
学校での成績は常にトップ。
親からの期待値も高く、本人も将来は医者になるのだと自ら望んで勉学に励んでいた。
そして俺は、まるで正反対だった。
なぜこんなことも出来ないのかと、周りから失望される毎日だった。
学力も要領も、世間一般でいえば中の上程度だったとは思うが、それでは両親は納得しない。
「どうしてこうも兄弟で差が出るんだ。同じ育て方をしているはずなのに」
父の嘆きは日増しに焦りを帯びていった。
兄は優秀なのに、なぜ弟はこうなのか。
しかしそんなことを言われても俺にはどうしようもなかった。
俺がどれだけ努力したところで、優秀な兄に追いつくことはできない。
その事実を、他でもない俺自身もよくわかっていた。
俺と兄とでは、そもそも努力のレベルが違う。
というより、努力の概念が違うのだ。
兄のように、本当の努力が出来る奴というのは、そもそも努力を努力だと思ってすらいない。
やって当たり前、出来て当たり前のこと。
まるで呼吸と同義の、兄にとっては取るに足らないようなことを、俺が努力と呼んでいるだけなのだ。
どれだけ頑張ったところで、親に喜ばれることはない。
ならば何をしたところでもはや意味はない。
俺は体の成長とともに色んな場面で手を抜くことを覚え、小学校の高学年になる頃には日常的に授業をサボるようになっていた。
何事にも本気で向き合うことはせず、その場その場で適当に誤魔化して生きるのが、精神衛生的にも一番マシなのだと理解していたのだ。
「井澤くん。授業は真面目に受けなきゃダメだよ。みんなそうしてるでしょ?」
クラスメイトたちから向けられる白い視線には慣れていたが、真面目な学級委員長サマから飛んでくる叱責だけは正直ウザかった。
こういう世間一般の正義感を振りかざすような奴が、俺は一番嫌いだった。
勉強なんて、真面目にやって何になる?
俺に言わせれば、そんなものは頑張れば頑張るほど、惨めな気持ちになるだけじゃないのかと。
そんなある日の夜、うちの病院に急患が飛び込んできた。
聞けば自分の鼻の穴にピーナッツを詰め込んで取り出せなくなったとかいう間抜けな患者だ。
しかも当人は俺と同じ桜ヶ丘小学校の生徒で、さらには学年も同じ六年生だというから笑ってしまう。
一体どこの阿呆がそんなことをしたのかと気になって、俺は珍しく病院の診察室をこっそりと覗きに行った。
どうやら処置は思ったより早く終わったらしく、件の患者はすでに丸椅子の上で一息吐いていた。
意外だったのは、そこに見えた背中は女の子のものだった。
半袖の白いワンピース姿で、背中まで伸びるストレートの髪をハーフアップにした清楚な佇まい。
俺が思い描いていた悪ガキのイメージとは似ても似つかない。
そして同時に、ひどく見覚えのある後ろ姿だった。
「えっ。キミは、まさか……」
思わず、そんな声が口を突いて出た。
直後、彼女は驚いたようにこちらを振り返る。
「えっ。うそ。……井澤くん?」
驚愕の表情でこちらを見つめていたのは、うちのクラスの学級委員長——愛崎美波だった。
あの時の彼女の顔は、忘れようにも忘れられない。
普段はあれだけ真面目で、クラスの男子たちからは密かに憧れの的となっている彼女が、まさかの鼻にピーナッツ。
その後しばらく、俺の心の中での彼女の渾名が『鼻ピー』になったのは言うまでもない。
◯
愛崎美波は、『真面目』を絵に描いたような生徒だった。
少なくとも、表向きはそうだった。
品行方正、文武両道。
遅刻をすることもなければ宿題を忘れることもない。
さらには正義感に溢れ、クラスで揉め事があれば必ず仲裁に入る。
教師やクラスメイトたちからの信頼も厚く、学級委員長を決める際には彼女を置いて他にないという程だった。
「そんな愛崎が鼻にピーナッツねぇ。これはとんでもない弱みを握っちゃったな」
「誰にも言わないって約束して。こんなことが周りに知れたら、学校で笑い者にされる。それに、もしこれがママの耳に入ったら……」
愛崎はそう言って顔面蒼白になる。
そこまで気にするくらいなら、最初から鼻にピーナッツなんか入れなきゃいいのにと思う。
彼女はどうやら祖父母に連れられて病院まで来たらしい。
親は普段から仕事で遅くなることが多く、祖父母の家が近くにあることもあって、そちらに預けられることが多いのだとか。
「じーちゃんばーちゃんの前では調子に乗るタイプか? 気持ちはわからないでもないけど、本当に意外だったな。愛崎がそんなことをする奴だったなんて」
「別に……。誰にも見られてなければ、ちょっとぐらい羽目を外したっていいでしょ。学校ではずっと真面目なフリをするの、けっこう疲れるんだから」
もはや隠すものもなくなったとばかりに、彼女は半ば開き直るように言った。
その口ぶりからすると、普段の彼女の振る舞いは自然なものではなく、少し無理をして作っているものらしい。
「なんか、本性を現したって感じだな。せっかく学校では真面目なキャラを貫いてるのに、そんなにオープンに話していいのか?」
「井澤くんは不真面目だから、少しくらいこういう話をしてもいいかなって思っただけ。それに、井澤くんはあんまり学校にも来ないでしょ。友達もいないから、私のことを言いふらす心配もなさそうだし」
「って、おい。黙って聞いてれば好き勝手に言ってくれるじゃないか」
俺が不真面目なのも、学校で友達がいないのも確かに事実だ。
けれどそれにしたって、ここまではっきりと嫌味を言われる筋合いはない。
「悔しかったら学校に来なよ。それから勉強して、クラスメイトとも仲良くして、社会を学んでいかなきゃ。そうしないと大人になった時に苦労するよ」
さすがは学級委員長だけあって、教科書みたいなことを言う。
「俺はそういうのはいいんだよ。どうせ勉強したって親が喜ぶわけでもないし。将来がどうとか、そういうのにも全く興味がないし」
人には人の数だけ家庭の形がある。
俺の場合は、どれだけ真面目に生きていたって、兄と比較されて親に嘆かれるだけだ。
ならば最初から手を抜いて生きた方が、少しでも気がラクになるというものである。
「井澤くんはいいよね。そういうのが許される家でさ」
これまた嫌味っぽいことを言いながら、彼女は丸椅子から立ち上がった。
どうやら彼女の祖父母が諸々の手続きを終えたようで、部屋の端から手招きしている。
井澤くんはいいよね——と言ったときの彼女は、わずかに顔を曇らせていたように見えた。
まるで自分には自由がないとでも言いたげなその態度は、俺にとっては八つ当たりにしか思えない。
「おい、待てよ。俺にだって色々あるんだぞ」
すかさず抗議しようとしたが、彼女はもはや聞く耳持たんとばかりに無言で離れていく。
悔しかったら学校に来なよ、と、先ほど彼女が口にしていた言葉が脳裏で蘇る。
こちらを振り返ろうともしない彼女の背中が、もう一度そう語っているように俺には見えた。
◯
翌日。
俺は朝一から学校に登校した。
「わっ、めずらしー。井澤が朝から教室にいるなんて」
クラスメイトたちの反応の通り、俺がこの時間に教室にいるのは珍しい。
次々に登校してくる生徒たちからはまるで珍獣でも見るかのような視線が飛んでくる。
そんな中、一際賑やかな女子グループが前方の扉から入ってきた。
彼女たちを見るなり、教室のあちこちから「おはよう」の声が飛び交う。
グループの中心で穏やかな笑みを浮かべ、手を振り返しているのは愛崎美波である。
さすがの人気ぶりだ。
俺には挨拶一つ寄越さなかったクラスメイトたちも、彼女には自ら手を振るなり声をかけるなりしている。
これだけの人望を集めながら家では鼻にピーナッツを詰めるというのだから、人間わからないものだ。
そして、
「おはよう、井澤くん」
彼女はまるで昨日のことなど覚えていないかのように、落ち着き払った笑顔で俺に挨拶した。
「え、ああ。おはよう……」
不意を突かれた俺はぎこちなく返す。
彼女はそのまま俺の前を通り過ぎて窓際の席に着いた。
陽光を浴びた彼女の肌は白く、常に微笑をたたえているその横顔を、複数の男子たちが遠巻きに眺めている。
「愛崎さんって優しいよな。井澤にもちゃんと挨拶するし」
教室のどこからか、そんな男子の声が聞こえた。
どんな相手にも分け隔てなく接する優等生。
愛崎美波という存在は、間違いなくこのクラスのマドンナだった。
◯
——誰にも見られてなければ、ちょっとぐらい羽目を外したっていいでしょ。学校ではずっと真面目なフリをするの、けっこう疲れるんだから。
昨日病院で言っていた彼女の言葉が頭から離れない。
学校にいる間の彼女は、どこからどう見ても理想的な女の子だった。
清楚で真面目で、誰にでも優しく、常に笑顔を振り撒いている。
しかし昨日の彼女の言葉が本心だとすれば、今の彼女はかなり無理をしているということになる。
「ねえ、井澤くん」
と、休み時間も机でひとりボーっとしていると、急に女の子の声が聞こえた。
ハッと我に返って顔を上げると、すぐ目の前には愛崎が立っていた。
「え、愛崎? なんで」
まさか声をかけてくるとは思わず身構えると、彼女はにこりとやわらかい笑みを浮かべながら言った。
「次の授業、体育なんだ。女子はここで着替えるから、男子は廊下に出てくれる?」
言われて、すかさず周りを見ると、いつのまにか教室に残っている男子は俺だけで、着替えの用意をしている女子たちは刺すような視線をこちらに向けている。
女子は教室、男子は廊下。
この当時、着替え場所はそれが当たり前だった。
このタイミングで男子が教室に残るということは、女子の着替えを覗き見することと同義なのだ。
「井澤。早く出ていきなよ」
「着替えを覗くのって最低だよ!」
愛崎の後方からギャーギャーと騒ぎ立てる女子たち。
「うるさいな……。言われなくてもすぐに出てくよ。別に着替えとか興味ないし。ていうか、女子はいいよな。プライバシーが守られててさ」
仕返しとばかりにそう吐き捨てて、俺は席を立つ。
ギャラリーの声はさらに激しさを増したが、目の前の愛崎だけは何も返してこない。
と思いきや、
「……井澤くんはいいよね。男の子でさ」
すれ違いざまに、俺にだけ聞こえる声で、彼女は確かにそう言った。
一瞬だけ足を止めそうになったが、周りの抗議の声があまりにもうるさかったので、俺はそのまま聞こえなかったフリをして教室を後にした。