「ふぁーあ」
あくびをしながら俺、相葉敦(あいばあつし)は大学の敷地内を歩く。
今日は大学受験当日。テストの手応えは充分。今まで受けてきた模試でもA判定を取り続けている。
「まぁ、受かるだろうな」
必死に勉強するのが嫌で大分余裕がある大学を選択した。余程ヘマをしない限り落ちることはない。だからこそ受験本番も全く緊張しなかった。
4月から自分が通うことになるだろう大学を見学する気分でゆっくりと歩く。
すると食堂のテラス席に置かれた一冊の本に目が止まる。
「落とし物かな」
席を取るために意図的に置いた可能性は皆無だった。
世の学生は今春休み。よって食堂も休み。
「届けた方がいいのかな。でも何処に」
迷いながらも本を手に取る。随分とボロボロだった。
水に濡れてしまったのかページがよれたり、装丁の色が所々落ちてしまっている。
「あの」
不意に声をかけられ振り返る。やけに優しい印象を抱く声だった。
「はい」
見ると可愛い女性が立っていた。彼女を一言で表すなら「清楚」が妥当だろう。
やや色素の薄い黒髪。毛穴1つ見当たらない白く透明感溢れる肌。
白のトップスに緑のロングスカート。柄1つ入っていないシンプルな服装だ。けれどシワ1つ見当たらない装いからかなり洋服にお金をかけていると推測できる。
「その本、私のなんだ」
「あ、はい」
手に持っていた本を差し出す。この本はお世辞にも綺麗な状態とは言えない。傷だらけだ。目の前の女性がボロボロの本の持ち主であることに違和感を覚える。
「ありがとう。 探していたんだ」
彼女は両手で包み込むように本を受け取り大切そうに胸に抱く。宝物でも扱うかのように。
「君は、受験生かな」
「はい、そうです」
「そっか。ならまた会えるといいね」
その言葉に深い意味はない。俺の合格を祈っているだけだ。不合格になれば4月から大学内で会うことなんてありえないのだから。
それでも彼女の言葉は俺の頭の中に残り続けた。
大学の食堂はいつ来ても賑わしい。そんな騒がしさを物ともしないぐらい俺らのグループも賑やかだった。この頃の俺らは毎日無駄にテンションを上げ嬉しいことや楽しいことをひたすら追求していた。寂しさや苦しさとは無縁の楽なことだけをして日々を過ごしていた。
「なぁ、今日この後カラオケ行かない」
昼食を取っている最中尚弥(なおや)からの唐突の提案。俺らのグループがその場のノリや気分で今後の予定を決めることはよくある。
「いいんじゃない。平日の昼間って空いているし」
対して迷う素振りを見せず優希(ゆうき)が賛同した。それから「敦も行くだろう」と聞いてくる。
「もちろん」
と親指を立てて返事をする。この後皆講義を控えていたが誰も気にしなかった。大学は単位さえ取れれば良い。それら俺らのグループの中に存在する共通の認識だった。
「あ、あのさ」
唐突に声をかけられ振り向く。見ると小川涼介(おがわりょうすけ)が立っていた。俺の次の講義、英語で一緒のクラスだ。もっともそれ以外接点はないし話したことすらない。
「相葉くん、英語の授業受けないの」
思わず呆れたような顔をしてしまう。大学は単位を取得するも落とすも自己責任だ。故に教師でさえ講義を受けないことを咎めたりしない。けれど真面目な小川は目の前でサボる発言をしている俺らを許せないのだろう。
面倒臭いな。
「次の授業で小テストあるけど大丈夫」
「え」
てっきり講義を休むなんてよくないとか言われると思っていた俺は予想外の発言に驚く。
「今日の小テストで単位の3割決まるらしいよ」
「まじ……」
思っていたより大事なテストだ。腕時計に目を落とすと次の講義まで後30分もない。当然事前に勉強なんてしていない。英語は得意な方だけど大丈夫だろうか。不安になる。完全に自業自得だけど。
「良かったら僕のノート見る?相葉くん前回の授業も休んでたでしょ。そこからテストに出すって言ってたし」
「いいのか」
「もちろんだよ」
それから直哉と優希と別れ、小川と2人で勉強を始めた。
英語の小テストを無事に終えた。小川が直前に要点を教えてくれたこと、その教え方が上手だったこともあって約7割は取れただろう。
今日1日だけで俺は小川に沢山の恩を作ってしまった。そんな思いからテストが終わったと同時に教室から出ていく彼を追いかける。
「なぁ、待てよ」
声をかけると小川は驚いたように振り返った。
「お前、この後も授業あるの」
「いや、今日はこれで終わり」
「そっか、この後暇」
「……特に用事はないけど」
グイグイと話しかける俺に小川は僅かに身構える。気づかないふりをして話を続けた。
「良かったらさ、この後メシ行かない」
「え」
「いや、まじでお前のおかげで助かったから。せめてご飯くらい奢らせてもらえないかなーって」
小川は唖然とした表情のまま固まっていた。何も返事をしてくれないので仕方なく話し続ける。
「急にこんなこと言われても困るよな、悪い。お礼って奢ることくらいしか思いつかなくて」
「いや……いいの」
「おう、もちろん」
それから2人で近くのファミレスに移動した。
俺らは名前と顔だけ知っているような相柄だ。だから自然と話は自己紹介のような内容になる。
「そういえばお前って何学部?俺とあまり講義が被ってないから社会学部ではないんだろう」
「うん。僕は法学部だよ」
「へぇー、頭良さそう。何、将来は弁護士にでもなるの」
「うん。弁護士を目指してる」
一瞬の逡巡さえなく肯定された。
「すげぇ」
自然とそんな感想が口から漏れる。大学生にもなって未だに将来何になりたいか決めてない俺とは大違いだ。
「弁護士を目指したキッカケって何かあるの」
「あるよ。相葉くんはリーガル・ファイトってドラマ知ってる」
リーガル・ファイトは何年も前に放送されたドラマだ。毎回なんらかの問題が起きて裁判で争う。法律を扱ったドラマにも関わらずギャグ要素が沢山あり見所満載のドラマだった。
「ああ、あれね。見てたよ」
「そのドラマがキッカケ」
「え」
確かにリーガル・ファイトは面白かった。俺も毎週欠かさずに見てた覚えがある。けれど1つのドラマによって職業まで決める。そんな人は今まで俺の周りには1人もいなかった。
「あれ、でもさリーガル・ファイトが放送されたのって大分前だよね」
「うん。僕らが小2の時だね」
「小学生の頃からずっと弁護士を目指しているんだ」
無意識のうちに再び「すげえ」と呟いていた。俺が小学生の時なんて何も考えずに毎日ダラダラと過ごしていた。
「全然凄くないよ。僕からしたら相葉くんの方がずっと凄い」
「俺、なんで」
「僕は相葉くんみたいにコミニケーション能力高くないから」
「……」
そうだろうな、とは思った。今日だって小川は食堂に1人でいた。それどころかこいつが誰かと一緒にいる所を見たことない。
「でもそんなに人見知りなら今日、よく俺に声かけてくれたな」
正直、逆の立場なら放っておく。俺だったら対して親しくもない人の面倒まで見ない。
「そうだね。話しかける時ちょっとだけ緊張したよ。でもテスト受けれなかったら相葉くん困るかなーって思って」
「お前、本当にいいやつだな」
しみじみと呟いた。それから。
「なぁ、良かったらさ、俺と友達にならない」
「え」
鳩が豆鉄砲をくらったような顔をしていた。元々童顔な小川がさらに子供のように見える。
「なんかお前面白そうだし」
「僕が……面白い?」
理解できない外国語でも聞かされたように不思議な顔をされた。
「ああ。俺とは全然違う考え方してるから」
「友達……。僕と相葉くんが」
「ああ。小川が良かったらだけど」
「なりたいよ」
「じゃあこれからよろしくな。涼介」
いきなり名前で呼んだことに涼介は面食らった顔をする。けれど少し恥ずかしそうに。
「よろしく。敦」
そう返事をしてくれた。

「やべぇ、柄にもなく緊張してきた」
素直を今の心情を吐露すると隣にいた涼介が驚いた顔をする。
「緊張?敦が」
「いやいや、俺だって緊張くらいするよ」
俺らは読書サークルの部室の前にいた。涼介が元々所属しているサークルだ。
対して俺はどこのサークルにも所属していない。それでいいと思っていたが涼介に誘われたこともあって今日は読書サークルに見学に来ている。
又最近俺が読書に熱中していることもサークルを検討する理由の1つだ。
涼介が暇な時間があれば読書をしていると聞いてお勧めな本を聞いてみた。そこから読書にハマってしまったのだ。
「けどさ、読書サークルに所属してしている人って大人しい人が多くない」
「まぁ、そうだね」
「だよなー」
返事をしながら頭を抱えた。常にうるさい俺はきっと場違いではないだろうか。
「まぁ、見学だしそんなに気負わなくてもいいか」
気持ちを切り替えてドアを開ける。そして室内にいた1人の女性と目が合う。
「あ、あの時の。合格してたんだ」
受験の日に話した名前も知らない女性。俺に気付き彼女の方から声をかけてくれた。
「はい。無事に」
「そっか」
彼女は陽だまりみたいに柔らかく笑う。
「実は密かに君のこと探していたんだ。けれど見つけられないから気にしてたの」
「学部が違えば接点ないこと多いですからね」
「私は文芸部だけど君は」
「社会学部です」
「そっか。涼介と一緒に入っていたからてっきり法学部かと思った」
2人で話してしまっていたが彼女が自然と涼介にも話を振る。
「敦とは英語の授業だけ一緒です」
「そうなんだね。私は森川葵(もりかわあおい)。文学部2年」
「相葉敦です。よろしくお願いします」
「よろしくね。相葉くん」
こんな可愛い先輩がいるなら読書サークルも楽しいかもな、なんてことを思った。
「席埋まってるなー」
相変わらず騒がしい食堂。昼食時には空いている席を探すのも一苦労。キョロキョロと辺りを見渡し涼介と一緒に空席を探す。ちなみに直哉と優希は「この後の講義は自主休講」と宣言してカラオケに行った。
「涼介、相葉くん。よかったらここどうぞ」
喧騒の中でも自然とよく通る女性にしては低い声。だけどどこか優しい印象を抱く。葵先輩の声だと見るまでもなく気づいた。
涼介と違い俺は名字プラス君付けで呼ばれていることに僅かばかりの寂しさを覚える。
振り返ると予想通り葵先輩が友達の菜摘(なつみ)先輩と一緒に座っていた。
菜摘先輩は俺らと同じく読書サークルに所属している。基本大人しいメンバーしかいないサークルでやけに活発な菜摘先輩のことはすぐに覚えた。
体育会系のノリを持つ菜摘先輩が読者サークルに入部した理由は「葵がいるから」だそうだ。
とはいえ菜摘先輩も読書は好き。主に恋愛小説を好んで読んでいる。
「ありがとうございます。葵先輩。伊藤(いとう)先輩」
涼介が2人に律儀に頭を下げる。涼介はほとんどの先輩を名字で呼ぶ。対して葵先輩だけ名前だ。気になって理由を尋ねたら本人に名前で読んで欲しいと頼まれたそうだ。それから俺らも席に着く。学部もバラバラなメンバーが集まれば自然と話題はサークルのことになる。俺らは最近読んだ本のことを話す。
「私は万葉集を読み直してたよ」
思わず突っ込みたくなることを話すのは葵先輩だ。彼女が1番好きなのは古典。万葉集、古今和歌集、光源氏などをこよなく愛する。
「葵は本当に好きだよね。私は少しだけ苦手かな」
「みたいね。恋愛小説が好きな菜摘なら好きな古典も沢山あると思うのに」
自分が好きな物を否定されているいも関わらずクスクスと控えめに笑っていた。この2人は本当に仲が良い。だからこそ気兼ねなく本音を話せるのだろう。
「だってコイがさー」
眉間にシワを寄せなら嘆く菜摘先輩の発言に違和感を抱く。
「コイ?恋愛のですか」
「そう。敦は聞いたことある?昔は恋ってこう書いたのよ」
菜摘先輩はアイファンのメモ機能を操作して文字を打ち込み俺に見せる。そこには「孤悲」と入力されていた。
「え、まじすか」
「まじまじ。だからかな。昔の恋って一途というか、重いっていうか切ないというか」
「そうなんですか」
孤独と悲しいで孤悲。なんて哀しい言葉なんだ。恋愛って胸が高鳴って幸せになれるものではないのか。驚いている俺に対して隣の涼介は無反応だった。
「やけに反応薄いな」
「僕も葵先輩から初めて聞いた時は驚いたよ。でも恋愛ってそもそもよく分からないし」
どうやら「孤悲」のエピソードを知らなかったのはこの中では俺だけだったらしい。そして彼女どころか好きな人すら出来たことのない涼介の反応はやはり淡白だ。
「私は恋愛物を読むならハッピーエンドがいい。恋って尊いって思わせてほしい」
俺は2、3度首を強く縦に振って肯定。
「俺も同意見です。というより葵先輩からおすすめされた現代万葉集読んでも恋が切ないなんて印象持たなかったので今すごく驚いています」
「私が知っている万葉集の中でも相葉くんが気に入ってくれそうなの選んだから」
葵先輩はいつもさりげなく気を遣ってくれている。自分の好みだけを押し付けたりはしない。そして葵先輩の優しさはとても自然で気をつけなくては見落としてしまう。
「葵って敦には優しいよね。私にはめちゃくちゃ悲しい物語とか平気で勧めるのに」
菜摘先輩の言葉に葵先輩は両手を合わせて謝る。
「ごめんって。菜摘にはどうしても私の好きな物語共有したくて」
謝りながらも軽く舌をだして笑う。ややお茶目で幼い笑顔だった。今まで見たどんな表情よりも可愛く見えた。同時に葵先輩は本当に親しい人にしか見せない顔があることも悟った。




俺は1人大学の図書室にいた。主に古典を扱うコーナーの前に立ち、ぼんやりと目の前の本を見つめている。他の図書館や本屋と違い専門的、本格的な専門書が多く尻込みしてしまう。
それでも何冊か手にとってページをペラペラと捲る。
俺が古典に興味を持つ理由なんて1つしかない。
葵先輩だ。
読書サークルに入部して早1ヶ月。先輩との距離が少しは縮まったからと聞かれたら答えはノーだ。
相変わらず俺は名字呼びだし、先輩が俺に向ける笑顔は誰にでも向ける整ったものだった。
涼介や菜摘先輩のようにイタズラっぽい笑みを向けられることはない。
どうにか先輩との距離を縮めたい。そのために出来ることはないか考えた時、先輩が好きな古典に詳しくなることだった。そんなこと考えていると声を掛けられる。
「あれ、相葉くんだ」
その声色だけで誰か分かる。心臓が僅かに跳ねる。嬉しさと一抹の切なさを混ぜたみたいな不思議な気分を味わう。
俺は素早くバレないように深呼吸をして、何食わぬ顔で振り返った。
「葵先輩。偶然ですね」
先輩が好きな古典コーナーにいて「偶然ですね」はおかしいかな。でも本当に会えるなんて思っていなかった。
「講義が急に休講になっちゃったんだ。でも4限があるから帰れないんだよね」
真面目な葵先輩からは自主休講なんて発想自体ないのだろう。
「もし良かったら4限が始まるまで本を紹介してくれません。俺もすっかり古典にハマってしまって」
葵先輩の顔が途端に輝く。普段の大人っぽい印象が薄れ子供みたいに無邪気に笑う。
くるくる変わる表情に惚れ惚れしながらも罪悪感に胸を締め付けられる。
俺がハマっているのは古典ではなく葵先輩だ。
「読むなら詩集がいい?それとも長編作品がいいかな」
「詩集ですかね。読みやすいし、短い文にも関わらず胸に残り続ける文章に惹かれるんですよ」
「分かる。凄く分かる」
しみじみと頷いてから葵先輩は本棚を物色する。ちなみにここに置かれている古典関係の本は全て読んだらしい。
「そういえば先輩が古典を好きになったきっかけって何かあるんですか」
「あるよ」
葵先輩は鞄から1冊の本を取り出す。その本は見覚えがあった。
「この本。もしかして覚えてる」
首を傾げる葵先輩に頷く。
「はい。葵先輩と初めて会った時、俺が拾った」
「読む」と訊きながら丁寧な手つきで本を差し出される。傷つけないよう慎重に受け取りタイトル「星の雨」を眺める。その後軽く目を通す。すぐに違和感を覚える。
「これって古典ですか」
主人公は高校生の男の子。電車で通学しながら眺める景色は都会の高層ビル。どう考えても今の時代を背景にした小説だった。
「古典じゃないよ。ただこの主人公が恋をする相手が好きなの」
「古典をですか」
「そう。その女の子、朱莉(あかり)はとにかく古典が好きなの。時間があれば万葉集なり古事記なりを読んでる」
「はぁ」
「それで朱莉が今まで読んできた物ってなんだろう。この子はどんなことを感じてきたんだろう。そんな疑問を抱いたから私も古典を読み始めたの」
普段穏やかな先輩の口調に熱が込められる。よほどこの小説や朱莉が好きなのだろう。けれど。
「朱莉が古典を好きだから葵先輩も古典を好きなんですか」
そうだとしたら作中のキャラの行動を真似てるだけ。本人の意思など関係ない。そんな俺の疑惑を首を振って否定する。
「朱莉はきっかけをくれただけ。古典を好きなのは純粋に面白いから。でもね、こんなに面白いものを教えてくれたからこそ朱莉が、この小説が大好きなの」
いつになく饒舌に喋る。それから内緒話をするみたいに俺に近づき手を口元に添える。
「この作者さん、ここの大学の卒業生なんだよ」
「だから葵先輩はこの大学に進学したんですか」
「そうだよ」
「それは……反対されなかったんですか」
葵先輩は元々偏差値70は超える名門校に通っていた。また両親は娘の教育に熱心だったらしい。対して今俺らが通っている大学は偏差値50ほど。親や教師が無条件で応援してくれるとは思えなかった。
「すっごく反対された。でも私はこの大学に通いたかったから。説得したよ」
晴れやかな笑顔を浮かべる。意外と頑固みたいだ。葵先輩の新たな一面を知れた。それだけで今日1日がとても鮮やかになった気がした。
「その本、図書館にも置いてありますかね」
「あるよ」
「なら今日は星の雨を借ります。葵先輩がそんなにハマる本、気になるので」
「そっか。とても面白いから是非読んでみてほしい」
葵先輩は花が綻ぶような可憐な笑みを浮かべた。
葵先輩が古典を好きになり、更に大学まで決めたキッカケとなった1冊。先輩のルーツとも言えるかもしれない大事な小説。そんな大切な物を教えてくれたことが嬉しかった。
家に帰ったら早速読もうと決意する。
家に帰ると早速「星の雨」を読み始める。読んでいて気づく。作中の朱莉はどこか葵先輩に似ている。
もちろん朱莉と先輩は異なる点が沢山ある。
朱莉は食べ方が汚くだらしない面が多い。食生活もお菓子や炭酸飲料を好み栄養面に気を遣っているようには見えない。
葵先輩は食べ方はとても綺麗だし、食事も和食中心で栄養バランスも考えられている。料理も得意でお弁当を持参する日もあった。
それでも2人は似ている。誰にでも優しくて気遣いができる所。そして本当はごく一部の人にしか心を開いていない所。
どれ程距離を縮めたいと願っても、積極的に話しかけても頑ななまでに壁を作られること。
そしてその頑なさに傷ついている人がいるなんて想像もしていない所。
俺は今まで読んできたどの本よりも「星の雨」に共感した。
主人公、(れん)も何度も朱莉の言動に期待して惑わされ苦しんできた。悲しみだけがシンシンと雨のように降り積もる物語。
……コイがさー。
食堂でそう言っていた菜摘先輩の言葉を思い出す。「星の雨」を読めば孤悲の漢字がぴったり当てはまる気がした。そして俺は今葵先輩に孤悲をしているんだなと気がついた。
「読みましたよ。『星の雨』凄く切ない恋愛物語ですね」
葵先輩にラインを送ってみる。返事はすぐ来た。
「私もちょうど読んでたよ。自然を表す描写が綺麗で好きなの。それに朱莉魅力的じゃない?」
同じ時間に同じ本を読んでいた。そんな微かな接点が嬉しかった。
「魅力的ですね。俺も朱莉のこと好きです。朱莉と葵先輩似てますよね」
朱莉に対して向けた言葉だとしても「好き」の文字を葵先輩に送るのは緊張した。俺が好きと伝えた朱莉と葵先輩が似てると書くことも。
「本当!凄く嬉しい」
それから笑顔のスタンプが送られてきた。俺もスタンプを返す。この後続ける会話が思いつかずに焦る。葵先輩と頻繁にやりとりを交わしているわけではないのだ。だからこそラインを送る機会があれば大切にしたい。
そう思う反面、無理矢理ラインを続けると疎ましいのではと不安になる。
読書の邪魔になるのではと。
結局俺はスタンプ以上のラインを送るのはやめた。
短いやりとりでも先輩とラインを交わせたのは嬉しい。その反面短いやりとりしかできない間柄なのが悲しい。
やはり俺は葵先輩に「孤悲」をしている。そう感じた。

「お疲れー」
今日はカラオケで小さな祝賀会が開かれていた。
つい先程大学での中期テストを全て終えたからお祝いだ。明日から夏休みが始まるという事実も俺らのテンションを高くしていた。メンバーは尚弥と優希。涼介はカラオケが苦手らしく不参加だ。
「敦は何時まで入れるんだっけ」
「14時まで」
尚弥の質問に答える。今日は文芸部のサークルもある。なのでこの後大学に戻る。サークル活動の前に一旦涼介とも合流する予定だ。
「じゃあ敦優先で曲入れる」
優希が笑顔で提案してくれた。
「いいの」
尚弥と優希、2人の顔を見渡しながら尋ねる。2人とも快く承諾してくれた。
時間になりお金だけ渡してカラオケ店を出る。そのまま涼介との待ち合わせ場所に向かう。場所は大学ではなく近くの河川敷だ。涼介がサークル活動までそこで時間を潰している。
暑いのだから大学で待てば良いのでは、と尋ねたら静かで人気のない場所にいたいと返された。
俺も河川敷に着く。涼介の姿はすぐに見つけた。日陰で腰を下し本を読んでいた。すぐ近くには自転車が止められていた。
「ん」
俺は違和感を抱く。
涼介は大学やその周辺の移動はバスが徒歩だ。そもそもこの辺で1人暮らしをしている学生以外自転車を用意してないだろう。
誰の自転車なんだろうと疑問に思うと涼介の隣に葵先輩が座っていることに気づく。
2人は俺に気付いていない。
それもそのはずだ。視野の広い葵先輩が今は涼介のことしか見ていない。涼介も葵先輩だけを見ていた。
元々柔和な顔つきをしている葵先輩がいつも以上に優しい表情をしている。頬はやや赤くなっていて先輩の白い肌によく映えていた。
葵先輩のこんな表情は初めて見た。涼介も顔を赤ながら葵先輩を見ていた。2人の距離はやけに近く1目見るだけで親密なのが分かる。
そして涼介は片手に小説を持っていた。表紙だけて何の本か分かる。「星の雨」だ。
俺がたまたま同じ時間に先輩と同じ本を読んでいて喜んだ本。そんなこと2人からしたらなんでもなかった。
この2人って両思いなんだ。
何故か急に悟った。
今までも2人が仲が良いとは感じていた。けれど恋愛感情に発達することはないと思っていた。涼介が色恋沙汰に興味を持った所を見たことがなかったから。
2人に声をかけることもその場から離れることもできない。ただその場に立ちすくむ。
俺の硬直は後ろから肩を叩かれたことで解けた。振り返ると菜摘先輩がいた。
先輩はとても悲しげに微笑んだ後「行こう」と俺の手を引く。2人の所へと連れて行かれる。
「あーおい、涼介君」
菜摘先輩の声に2人とも振り返る。
「あれ、菜摘に相葉くん。どうしたの」
「葵の家に遊びに行ったけどいなかったから引き返してきた。何度かラインと電話もしたんだよ」
「え、嘘」
葵先輩は急いでアイファンを確認する。
「ごめん。全く気づかなかった」
申し訳なさそうに眉を下げて謝罪する。そんな先輩を見てラインを確認する暇もないほど涼介と2人でいる時間が幸せだったのかな、なんて卑屈な考えが浮かぶ。
「いいよ。いいよ。約束してたわけでもないし。敦はここで涼介君と待ち合わせ」
話題を変えるように俺に尋ねる。
「そうです」
「そっか。時間だしサークル行く」
菜摘先輩の言葉に従い4人全員で大学に歩き出した。