「おらおらおらー、一年坊主走れ走れー!」
「脚止まってんぞー!」
広いグラウンドに陸上部の二、三年生の声が響く。桜の薄桃色の花が少し残る校庭をヘロヘロになりながら百人近い新入部員が団子になって走っている。その団子から半周先にふたつの影。小柄な影と背の高い影。
ここは私立杜の丘学園高等部の校庭。百メートルのラインが三本は直線で取れるくらい広々とした校庭だ。ここは幼稚舎から大学院まであり、中高は一貫教育の全寮制の男子校だ。男子寮だけなら大学院まである。文武両道がモットーで偏差値も高く、それでいて自由な校風。そして陸上部はインハイで優勝の常連校に名を連ねる程の強豪だ。
そこに属して今、一年坊主としてグラウンドの先頭を走っているのは、小柄な方が四百メートルハードルのタカスギアキミ。よく日に焼けた肌と、小柄な体はハードルを軽く越えて、まるで木々の間を渡る風のようだ。そしてもうひとり、背の高い方はハイジャンプのテヅカヤマカズナリはそのスラリとした長身生かした、空気の重さを感じさせないジャンプ力で、それは空を舞う鳥のようだった。このふたりは一年ながらすでに一目置かれていて、期待の新人扱いだった。
ふたりは産まれた時から同じ産院で、数日しか誕生日が違わない。親同士が意気投合したので、それからふたりはずっと一緒の幼なじみだった。
初等部一年からふたりとも陸上部に所属している。中等部の頃にはもう向かうところ敵なし、ということもあって、学生陸上界ではちょっとした有名人だった。
揃って種目こそ違うが陸上が大好きで、毎日の練習で真っ黒に焼けた肌と、しなやかな筋肉がその莫大な練習量を物語っている。
いつまでもふたりは一緒に陸上を続けるのだろう。誰もがそうそう思っていた。お互いに切磋琢磨して、陸上の高みに昇っていくのだろう、そう本人たちすら信じて疑わなかったけれども。
「……カーズ、カズナリってば! 聞いてる?」
部室でジャージに着替えながら、カズナリがアキミにわざとらしく耳元で怒鳴られて、うんざりした顔をする。
「残念ながらよく聞こえてるよ」
アキミの魂胆は見えている。今日出された地学の宿題だった。
「アキはいちページ五百円な」
「ええ? 高いー!」
「文句あんなら自分でやるんだな」
「そんなあ。三百円でどお?」
「イヤだね」
「うー、分かった、俺も男だ! 学食のデザート一週間! これでどうだ!」
「――乗った」
甘党敗れたり。
部活が同じ、クラスもずっと一緒、そして寮の部屋まで同じなら、いい加減嫌になりそうなものだが、なにせ幼稚舎に入る前から隣にいたのだから、いるのが当たり前。いないほうが不自然だ。
幼稚舎の時、どうしても食べられなくて半べそをかくアキミのにんじんを、カズナリが見つからないようにそっと食べたり。セミが怖くてびくびくしていたカズナリの虫かごに、自分の捕まえたとびきり大きなクマゼミをアキミがさりげなく入れたり。
お互いができること、できないことを、フォローしあってそれが当たり前のこととして成長し、生きてきた。
「よかったあ。今晩写させて」
「一週間、忘れんなよ」
「そりゃあもう、カズナリ様のデザートになりますからあ」
くねくねともみ手をするアキミを、気色悪いよとスパイクで蹴る。
「……おーい、高等一年、準備しろー」
上級生の声に、高等部の一年がわらわらと自分のポジションにつく。
ハードルのアキミは、他の一年生とえっこらハードルを並べて、ラインを引いている。他の一年生と混ざってもひときわ小柄な体つきなのに、動きは一番早い。チョロチョロ動くさまはまるで子犬のようだった。
ハイジャンプのカズナリは他に一年生がいないので、一人で分厚いマットを一枚ずつ、全部で三枚運んでから、バーと計測器を一度に運ぶ。身長百八十六センチと大きめで、痩せて筋肉質のカズナリは先輩方の覚えもめでたく、期待の新人として注目されていた。
「ハードルの一年、柔軟しとけー」
「うぃーっす」
先輩の指示の下、アキミたちは二人一組になって念入りに柔軟を始める。
「あー、俺らは軽くランニングでもすっか」
ハイジャンプは全部で六人しかいないので、なんだか家庭的だ。だが、軽くランニング、とは言葉だけで、走りつつダッシュしたり、ゆるく走ったり、と自分のペースでは走れないので結構キツい。キツいながらもほとんど桜の花が散って青葉がその枝を飾っているのをなんとなく見ながら、気持ちいいなあ、とのんびり考えながらカズナリは先輩たちの中でランニングしていた。キャプテンの次くらいに背が高いので、見晴らしはいい。
――日が落ちて、宵闇が迫る頃やっと陸上部の練習は終わる、毎日のことだが、ヘトヘトでズタボロの雑巾みたいになるまで練習は終わらない。最初の一週間ほどは血尿も出たが、今では幾らか慣れて血尿までは行かなくなっていた。
後片付けを終えた一年生たちは、疲れすぎて空腹なのかどうかもわからない胃袋に無理やり食事を詰め込んで、風呂に入る。同じ様に雑巾状態の一年生が何十人かいて、眠気と戦いつつ頭や体を虚ろな目で洗っていた。
「……なあなあカズ」
「なんだ」
頭を洗いながら、シャワーボックスから身を乗り出すアキミに、面倒くさそうな様子でカズナリが返す。
「レギュラー取れそう?」
「はあ? まだ入って一週間ちょっとしか経ってないのに、わかるかそんなもん」
「そうかなあ。俺は取れる気がしてる」
「お前のその根気のない自信の出どころは何だ」
溜め息混じりのカズナリに、だって俺もお前もすっけぇ練習してんじゃん、とアキミがこともなげに笑顔で答える。
「先輩の練習のほうがキツいって」
「そうかなあ。お前なんか一年ひとりでしごかれてんじゃん」
「まあな。でも先輩はみんないい人たちだから」
「出た。優等生発言」
「うるせ」
「ま、いいや。俺は絶対に二人ともレギュラー取れるって信じてる……シャワーから出たら、宿題よろしくな」
「――ああ」
にかっと笑うアキミの、根拠のない自信がちょっと羨ましくて、少し乱暴にカズナリはシャワーを浴びた。
「……カズさあ、進学うちの大学行くの?」
「は?」
寮の部屋で多額の宿題を写しながら、アキミの唐突な問いに、カズナリがきょとんとする。
「お前頭いいから、外部行けんじゃん」
「ウチの大学もそこそこ難関だぞ」
「内部からならそうでもないんじゃね。それに俺らは陸上やってりゃ推薦で行けそうだし」
「わかんないぞ。陸上だって成績出さなきゃダメなんだし、ケガしたらアウトだし」
「うっわ、マイナス思考」
「――真面目と言え。そりゃ初等部と中等部ではたまたまいい成績出せただけで、高等部でもそうとは限らないだろ」
「慎重すぎると人生つまんねえぞ」
「あー、無駄口はいいから早く写せ。寝るぞ、俺は」
「わー、タンマタンマ。ちょっと待ってて」
慌ててアキミがガシガシとノートを写す。
「うーわ、ここわかんねえ」
ぴたり、と宿題を写す手が止まる。
「どこだ」
「ここ、ここ。地層がどーたらってとこ」
「ああ、これは……」
なんだかんだ言って面倒見のいいカズナリ。昔からそうだった。いつもカズナリはアキミの少し先をいっている。
「だいたい写し終わったろ。残りは明日の朝に写せばいいんじゃないか?」
もうほとんど船を漕いでいるアキミに、カズナリが提案する。うんうん、とアキミはうなづくが、机に張り付いてほとんど寝ている。明日も朝練があるから、あまりいつまでも夜更かしはできないのだ。
「ったくもう」
べりり、と机から引き剥がして、無理矢理二段ベッドの下に追いやる。するところん、とベッドに転がると、そのままでくうくうと寝てしまう。
「ほら、布団かけろよ。風邪ひくぞ」
「あーいー」
夢の中からアキミが返事をする。返事のわりに布団は丸まって隅に追いやられている。
仕方ねえなあ、とぶつぶつ言いながら布団をかけてやるとその暖かさにアキミがにへ、と幸せそうに笑った。
なんでいつもこうなるかなあ、と溜め息をひとつ吐いて、机の上を片付ける。いつものような、何も変わらない夜だった。
――静かな夜は、ふたりがぐっすり眠るにはぴったりで、泥のように寝た。ただその夜は短く、五時には目覚まし時計は無情にもジリジリとけたたましく鳴る。
「……アキ、起きろ。時間だ」
「にゅふふふふふ、しょんらこと言っれにゃーい」
「アキ!」
カズナリにくるまっていた布団を引っ剥がされて、その寒さに目を覚ます。
「にゅ? カズ?」
「カズ? じゃない! 朝練だ!」
「へーい」
もぞもぞとベットの中で着換えて、じゃーん、とベッドを出る。
「はいはい。行くぞ」
もうすっかり着替え終わったカズナリが、その背をどんどん押してゆく。これもいつもの光景だった。
朝練でたっぷり絞られて、目もすっきりと覚めて、朝飯に食堂に行く。同じような運動部の生徒たちがわらわらと飯を食っている。皆食べる量はたんまりだが、大概体はしゅっと引き締まって、そして食堂は男臭かった。
「カズナリ様、デザートでございますうぅぅ」
空いている席にトレイを持って座ると、アキミがははーっとデザートを差し出す。
「おう」
昨日の約束通り、これから一週間、アキミの飯についてくるデザートはカズナリのものだった。今日は杏仁豆腐だが、アキミは匂いをかいで惜しそうに渡した。
急いで朝飯をかき込むと、ふたりは食堂を出た。昨日写しかけた宿題を完璧に写さねば。
「あー、朝飯足んねえ」
「昼まで我慢しろ。ぼれ、宿題」
「アイサー、鬼軍曹殿」
「誰が鬼だ。宿題写してんのはどっちだ」
「申し訳ありませーん」
「早く写しちゃえよ。遅刻するぞ」
「はーいー」
わざと雅な返事をするアキミを、カズナリが蹴った。
「わーん、暴力はんたーい!」
「は・や・く・し・ろ」
カズナリの堪忍袋の緒はなかなか切れないが、一旦切れると後々まで怖い。それがわかっているアキミは、これはヤバいとばかりにせっせと宿題を写しはじめた。
遅刻ギリギリで宿題を写し終えて、カズナリが今日の時間割通りに教科書とノート、それに参考書を入れてくれていたカバンに宿題と筆記用具を放り込む。そしてバタバタとふたりして部屋を出ると鍵を締めて寮を出る。そこから先は腐っても陸上部。走る速度は大したものだ。
眠い眠い午前中の授業をなんとか乗り越え、アキミはギリギリまで写していた宿題を提出して、お待ちかねの昼飯だ。
食堂は朝晩のみの営業で、昼は購買部のパン争奪戦が戦いの場となる。これがカズナリはなんとも苦手だ。どうしても人混みに臆してしまい、もじもじと出遅れてしまう。パンは欲しいが買えずに黒山の人だかりをぽつんと眺めている。ここではアキミの出番だ。小柄な体をうまく使って嘘のようにするすると人波をかいくぐっていく。なにせ男子校。ガタイのいいのがガンガンと当たってくるがそんなことは全く気にしない。
「……おばちゃーん! こんにちはー! コロッケパンと焼きそばパンと生クリームパン二個ずつー! それにプリン一個!」
「あーらアキちゃんかい! あいよっ」
声が大きくて愛想のいいアキミは、おばちゃんたちのアイドルだった。
「ありがとー! また明日ね!」
「待ってるよー!」
おばちゃんたちとアキミのやり取りを眺めながら、こういうのはアキミが得意なんだよなあ、と感心しながらカズナリが溜め息をついた。
「ほい、カズ」
「サンキュ。お前つくづくこういうの上手いよな」
「まかせて、超得意」
食おうぜー、と中庭でふたり並んでパンを広げると見事な炭水化物。これだけ食べても放課後の練習で残らず消化してしまう。贅肉にならず、筋肉になるのだ。
「カズナリ様、デザートでございます」
「わざわざ買わなくていいよ。飯についてくるのを貰えれば、それでいい」
「まじ?」
「マジ」
「うっお、ラッキー」
「でもこのプリンは貰っておく」
「あうあうあうあう」
「約束だかんな。文句あんなら宿題ちゃんと自分でやれや」
「俺バカだもん。陸上バカ」
「わかってんじゃん」
「ひどいっ」
よよよ、と泣き崩れる真似をするアキミを放っておいて、カズナリはパンを食べ始める。
「時間なくなるぞ」
「あーい」
促されてけろりとアキミもパンをぱくつき始める。
ふたりとも炭水化物満載のパンたちだ。が、そのくらい食べないと午後の部活で腹が減って仕方がない。成長期真っ只中だ。
カズナリはコーヒー牛乳を、アキミは牛乳を、それぞれ一リットルのパックで飲んでいた。
「中等部からやってるけど、それ効果あんのか?」
呆れたようにアキミの牛乳を指差す。
「信じよ、されば叶わん」
ずびーと牛乳を飲みながら、神になるアキミ。
「の、割に伸びねえなあ」
「うるさいっ、これからよ、こーれーかーら」
小柄なアキミが、身長を一ミリでも伸ばしたくて、一日二リットルの牛乳を日課にしていることは公然の事実。その割に百六十台の小柄なまんまなのもこれまた事実。
――放課後
「なあなあカズ」
またもジャージに着替えながら、アキミがすり寄ってくる。こういうときの目的は一つだ。
「宿題なら見せないぞ」
「うっ、なぜそれをっ」
「お前がすり寄ってくるときは、宿題か忘れもんだろ」
「そーんなあ、カズゥー」
「知らん」
カズナリを釣る学食でのデザートはもう一週間分押さえられている。
「うー、日曜の大会の後で、アニーズのパフェ!」
ちょっと考えて、新しいものを提案する。
「ミニか? ノーマルか?」
「もちろんノーマルで!季節のソルベもつけちゃう」
「乗った」
――再び甘党敗れたり。
「やったー。古文と数一な!」
「二科目かよ。しょうがないな。数一はまだ俺も終わってないから解きながらになるぞ」
「もー全然オッケーよ」
「全然オッケーって日本語は間違ってるからな」
「固いなーカズは」
「お前がいい加減なの」
ほら、行くぞ、とアキミをスパイクで蹴る。
「おうっ、またあとでなっ」
勢いよく部室を飛び出すが早いか、アキミはハードルの溜まりに飛び込んでいく。
「はいはい」
もう聞こえないとわかってはいても、呆れた声でちいさくつぶやく。そしてカズナリもハイジャンプの溜まりに向かう。
四月の時点では、百人超えるほどいた一年が、今ではもう三分の一も残っていない。それでも一年から三年まで百人ほどが部員として、それぞれがそれぞれの種目に分かれて、コツコツと地道な練習を積んでいた。
――日曜日・新人戦
広いコートで各高期待の新人たちが、先輩やマネジャーに囲まれてアドバイスを受けている。
真面目に緊張した面持ちで、じっとそれを聞いているのはカズナリ。きょろきょろと落ち着きがなく、先輩にしばかれているのはアキミだ。
「タカスギ! お前は他人よかちんまいんだから少しは落ち着いて真面目に聞け! テヅカヤマ! お前は平気だから少しはリラックスしろ!」
ちょろちょろしていたアキミが先輩に捕まり、頭をうににににっと締められている。
「準備運動しとけよー」
マネジャーが皆を見渡して声を掛ける。
今日は短距離・中距離・長距離・四百メートルハードル・ハイジャンプの五種目に新人がエントリーしていた。
二年、三年には砲丸とやり投げの選手がいたが、一年にはいなかった。
笛が鳴り、それぞれが集合を促される。
トラックでは短距離と四百メートルハードルの予選が始まるようだ。アキミは三番手。緊張の色はさっぱり見えず、ぷらぷらしている。
頑張れ、アキ、と、そっと心の中でカズナリはアキミを応援して、ハイジャンプの溜まりに向かっていった。
――大会後
結局アキミとカズナリは下馬評通り、ぶっちぎりで優勝した。特にカズナリは大会新を叩き出すほどで。
他のメンバーも見事入賞を果たして顧問の機嫌はもう上々だ。ご褒美、と言って皆をファミレスに連れて行くほどに。
――ファミレス
「うおおおおお! 何食う? 何食う?」
無駄にテンションが高いのはアキミ。
「俺、パフェがいいす」
「なんだテヅカヤマ、もっと腹にたまるモン食え」
「じゃあ、パフェとホットサンドを」
「俺ハンバーグのセット! ご飯! それにピザ! あと季節のソルベ!」
あくまでも控えめなカズナリに対して、アキミは自己主張しまくりだ。
他の面々も口々にメニューを叫ぶので、そこのテーブルだけバーゲン会場のような賑やかさだ。
マネジャーは心得ているようで、端から順にオーダーをタッチパネルに入力していく。
「先生、全員分オーダー聞けました。先生はなにになさいますか?」
「俺はマグロのたたき丼とクリーム白玉あんみつ」
「はい。オーダーします」
ぴ、とタッチパネルに顧問の分も入力して、オーダーを飛ばす。
「わかってるとは思うけど、一度には揃わないので、来た順に食べてください」
まるで野犬の群れを統率するボス犬のようなマネジャーの言葉に、皆がわおーん……ではなく、はーい、と元気に返事をした。
「カーズ、あーん」
季節のソルベをスプーンに取って、ホットサンドを食べ終えたカズナリにアキミが迫る。
「いいよ、俺パフェあるし」
「だって約束したし」
「部の打ち上げのゴチで約束を果たすな、バカたれ」
「じゃ、これはノーカンな。来週改めて奢る」
「ああ、そうしろ」
そう言ったきりパフェを黙々と食べるカズナリは、甘党なだけあって幸せそうだ。
「しかしあれだな、まさかテヅカヤマが一メートル九十五もいきなり跳ぶとは思わなかったな」
「でも、自分的には二メートル行くつもりでしたので不本意です」
急にカズナリの功績を褒め始める顧問に、カズナリが困ったような顔をして応える。
「いいじゃーん、一番なんだから!」
横からアキミがくちばしを挟む。
「二メートル超えられなかったから、全然本意じゃない」
まったく納得していない様子のカズナリに、アキミが軽い調子で口を開く。
「インハイで目指せばいいじゃん」
「そのつもりだけど」
「俺もインハイで一番狙うし」
勝つ気満々の二人に顧問がちょっと待て、と止める。
「おいおい、お前ら。志を高く持つのはいいが、インハイではニ年も三年も出るんだぞ」
「負けねっす」
ぐっと拳を見せて、にやりと笑うアキミ。目が、本気の証拠だった。
「まあ、向上心があるのはいいことだけどな」
面食らった顧問が、アキミのツンツンの髪をぽふぽふとした。
「タカスギも今回活躍したしなあ」
「でも大会新は出せなかったから、インハイで目指します!」
「まずはレギュラー獲りに懸けろ」
「はい! もちろんです!」
――暑い夏が来た
陸上部は校内合宿だった。
もとより全寮制なのと、陸上部用の十分な広さのグラウンドと、筋トレの設備が整っていたので、他所へ行く必要がない。
「タカスギー! ラスいちー!」
「うぃーっす!」
ダッシュ&タッチををもう五十本はやっただろうか。さすがに暑さと疲れで足元がふらついておぼつかない、もっともこの段階まで残っている一年は、アキミだけだったが。
「おらおらおら、足上がってねえぞ!」
「はいぃっ!」
「テヅカヤマ、もう一本!」
「はいっ!」
先輩の声に、もう何本目かわからないほどのバーを跳ぶ。
二メートル五がカズナリの越えられそうで越えられない高さだった。二メートルはギリで越えたがそこから先が進まない。二メートルを越えた時点で実はたいしたものだが、カズナリは納得していなかった。
がしゃんっと大きな音がして、跳び損なったバーとカズナリがもつれるようにマットに落ちる。
「惜しい! あと二センチ高く跳べれば越えられるのに!」
先輩の惜しそうな声に、あと二センチか……、とカズナリがちいさく口惜しそうにつぶやく。
「ドンマイ、テヅカヤマ。グラウンド四周な」
「はいっ」
言われた通りにカズナリがグラウンドの外周を走り始める。
強いし日差しの中で、目の前が真っ白になりそうだった。
「…ズ……カーズ!」
気がつけばアキミがすぐ横を走っていた。
「おう、アキ」
「ほら、これ飲めよ。熱中症予防」
走りながらアキミが冷たいスポーツドリンクのボトルを渡す。
「サンキュ」
冷え冷えのボトルの飲み口を口に含むと、薄甘い水分が体に沁みる。
蝉が力いっぱい鳴いているのが耳についた。
――食堂
はぁ、とため息をついて、エビフライを突っつくカズナリ。連日の酷暑の中での練習に、すっかりバテている。
「あれ? エビフライ嫌いだっけ?」
丼飯をかっ込んでいるアキミは夏バテもなく、元気いっぱいだった。
「食欲なくて」
え? 夏バテ? と聞くアキミは興味津々だった。昔からもともとスタミナお化けのアキミは、夏バテを体験したことがない。
はぁ、とまた、ため息をついて、コーヒー牛乳ばかり飲んでいるカズナリに
「コーヒー牛乳っ腹じゃ跳べるもんも跳べないだろ」
と、アキミが喝を入れる。
「わかってるけど……」
「うんにゃ、わかってない。カズは夏バテ中だ!」
「わかってるよ、そんなん」
サラダを口にしながら、軽く流す。
「なんだ、自覚アリなんか」
「アリアリ」
仕方なさげにカズナリが、ピラフを口に運ぶ。
「お、食えるじゃん」
アキミが嬉しげに食いついてくる。
「俺の監視はいいから自分の分食え」
「もう食った」
「早」
ピラフはなんとか食ったが、エビフライは諦めたらしい。
「エビフライちゃんは?」
「残す」
「えー、もったいない」
「お前食うならやるよ」
「食う食う。頂戴プリーズ」
ははーっとエビフライを拝むアキミ。もらうが早いか頭から噛りついている。
地獄の夏合宿が終わり、秋が来た。
――インハイの季節だ
一年からレギュラーは普段ほとんど出ないが、今年はアキミとカズナリが満場一致で選ばれた。他は二年がメインで、三年の実力者が数名選ばれた。三年は受験があるものもいるので、あえて出ない、というものもいた。
練習はどんどんきつくなっていき、アキミが今熱中してやっているのは、一升瓶の蓋をハードルの上に乗せてハードルを倒さず、蓋だけを足で落としてゆく練習だった。最初は三百五十缶だったが、どんどん対象が小さくなって、今では一升瓶の蓋だ。
はじめはコツがわからず、ハードルもろとも盛大にコケていたが、最近は三本にひとつくらいは確実に落とせるようになっていた。
「タカスギー! オラオラしっかり落とせー!」
先輩の怒声に冷静に蓋を拾っては、ハードルの上にちょこんと乗せていく。
「も一本行きまーす」
片手を軽く上げて、アキミが走り出す。速い。無駄のない走りでギリギリに低くハードルを越える。だが、半分くらいは倒してしまう。
「下手くそー! 縄跳びしてこーい!」
「はいーっ!」
日陰でカズナリが縄跳びをしていた。その横にちょんとアキミが並ぶ。
「……よっ、カズも縄跳び?」
「跳躍力つけるには縄跳びだとよ」
「ボクシング部じゃねーっての」
並んで縄跳びをしながら、軽口を叩く。
「こらー!そこの縄跳びふたり!喋る余裕があんならもっとスピード上げろ!」
「うぃーっす」
陸上部に手抜きという言葉はない。ただでさえ一年でインハイに選ばれているということで、周りは注目し、期待している。記録を出さなければ、というプレッシャーがあった。
「……ぶっはー、疲れたあ」
一時間たっぷり縄跳びをやって、それからダッシュを五十本、ハードル走を三十本やると、さすがのアキミの体も悲鳴を上げる。しかもこのごろ背が伸び始め、成長痛にも悩まされていた。
「膝痛えー」
食堂に向かう道すがら、カズナリの肩を借りながらアキミがひょこひょこ歩いている。
「おいおい、そんなんでインハイ大丈夫か?」
「大丈夫。俺本番強いから」
「まあ、病気じゃないしなあ」
「でも労って」
いつものようにじゃれ合いながら、食堂までの廊下をバタバタ歩く。アキミはなんとなくジャージがキツいし、スパイクもキツい気がしていた。
「――あ」
「どした、アキ」
「うはー、見て見て」
――ある日部室で着替えながら、アキミが情けない声を出す。陸上部のジャージがつんつるてんになっていた。くるぶしを超えるほどの長さで、まくって履いていたのだが、そのまくっている分がすっかり短い。
「伸びたじゃん、身長」
よかったな、と言われてでヘヘと笑う。
「よかった。よかったけど新しいジャージどうしよう」
「俺のお古でいいなら着るか?」
「いや、そこまでは伸びてない」
「そか」
百八十超えのカズナリのお古ではさすがに大きすぎる。
「とりあえず今日は顧問に言ってこのジャージ少しまくって誤魔化すわ」
「それがいいんじゃないか? その間に新しいジャージ注文しとけばいい」
「だよな……でも、スパイクもキツイんだよなあ」
「俺の中等部の頃の穿いてみるか?」
「取ってあんの?」
「うん、一応」
「ちょ、ちょっと穿かせて」
カズナリが、ロッカーの奥から箱に入った新品同様のスパイクを出してくる。
「お、ぴったり」
「それほとんど穿いてないから、変な癖とかはついてないと思う」
「借りていい?」
「やるよ。俺はどのみちもう入らないし」
「助かるー。サンキュな」
「成長祝いだ」
えへへ、と嬉しそうに笑うアキミが、カズナリの中等部の頃のスパイクを穿いて、馴染ませるようにカチャカチャと動き回っている。
その日のアキミは絶好調で、ハードルもあまり倒さず、先輩にはお前ちいさいサイズ着てる方が調子いいんじゃねえの、とからかわれる始末。そして新しいスパイクは足馴染みもよく、経年劣化もなくて、とてもお下がりとは思えないものだった。
――インハイ当日
空は青く、高く、陸上日和だった。
「んー、燃えるなあ!」
真新しいジャージに身を包んだアキミが、競技場の空気を深呼吸する。その横でカズナリが緊張で青い顔をして黙っていた。
「元気ねえなあ、カズ!」
「緊張してんだ、悪いか」
「悪かないけどよ。お前って昔から意外と緊張しいだよな」
「お前のクソ度胸が羨ましいよ」
ぴょこぴょこ元気なアキミに、カズナリが憎まれ口を叩く。
「ほーら一年坊主! アップしとけ」
「うぃーっす」
先輩に声をかけられて、念入りにストレッチを始め、軽く走ったりを始める。
競技の順番はアキミのハードルが二番目、カズナリのハイジャンが三番目だった。走る順番はアキミがラストの組、カズナリも同じくラストの組だ。
カズナリはアキミの走るところが見たかったが、エントリーの関係でそれは叶わなかった。ただ、順番待ちの列の中で、ハードルの方向から歓声が聞こえたので、恐らくアキミがトップに食い込んだのに違いない、とは思った。
カズナリはラストに跳ぶことになっていて、緊張の色が隠せない。どきどきしながら待っていると、遠くから聞き慣れた声がカズナリを呼んだ。はっとして声の方向を見ると、アキミが指を一本空高く立てて、やったぜー! と叫んでいた。思わず前に気づかれないように、一度だけ大きく手を振る。すると、お前も頑張れよー! と返してくるアキミの声に、緊張がほどけていく。
ハイジャンは助走開始の合図のあと、規定時間内に走り出して跳ばないと失格になる。焦るあまり、走り出し方を間違えたり、タイミングが合わなかったりして、前のほうが何人か跳び損なって落ちていく。
カズナリは上手いこと跳んで最後のふたりにまで残った。相手は他校の三年。場数は向こうのほうが跳んでいる。
二メートルちょうど。最初に跳んだ三年は、二回ともバーを落とした。これを跳べばカズナリの優勝だ。
合図が鳴った。緊張の面持ちでカズナリが走り出す。そしてふわり、とうまく踏み切ってバーを越える。少し足がかすめたか、バーがわずかに揺れている。
――だが、バーは落ちなかった。
競技終了を告げる笛が響き渡る。
「……やったあ! 跳んだ!」
アキミの声が辺り一面に響く。周りもざわざわしていた。どうやら大会新が出たらしい。なにか係の大人にカズナリが言われているが、内容まではアキミの耳には届かない。
「カズーあとでなっ!」
アキミの声に片手をあげて、返す。――カズナリは高一の大会新を叩き出していた。
「よくやったな、テヅカヤマ」
「でもその後、二メートル五は落としましたから」
「来年来年。気にするな」
マネジャーと短い会話をして、学校の溜まりに戻る。
「お帰りー」
ほれ、とアキミからスポーツドリンクの入ったボトルを後ろからペタリ、と頬へ押し当てられる。
「ああ、ありがと」
ぎこちなく笑いながら、カズナリはアキミからボトルを受け取った。
「やっぱ二メートル五落としたの気にしてるー!」
「うるせ」
大判のタオルをカズナリが頭からかぶると、その表情が隠れた。
「いいじゃん、二メートルでも、勝ったんだし、大会新だし」
タオルごとカズナリの頭を後ろから抱きしめる。
「よせ、気色悪い」
「巨乳のカワイ子ちゃんマネジャーだと思いねえ」
「男子校でそんなのいるわけないだろ。いたら気持ち悪いわ」
「想像力よ。これ肝心」
「バッカじゃねえの」
「お前は現実主義過ぎ」
――最終的に、杜の丘学園高等部は総合優勝を果たした。
帰りのマイクロバス。ほとんどが疲れ果てて寝ている中、しみじみとカズナリは勝ち得た金メダルを眺めていた。
金メダルをもらうのは初めてではない。むしろたくさんもらっている方だと思う。
でも、今回のは特別だった。初めて二メートルを跳べた記念。中等部の頃、どんなに苦しんでも跳べなかった二メートルの壁。やっと手が届いた。嬉しかった。
「なに、しみじみ感激?」
ついさっきまで隣で口を開けて寝ていたのに、アキミはいつの間にか起きてきて、カズナリの手元を覗き込む。
「うっ、うるさいっ」
「いいよなー、なんたってカズは大会新だもんなー」
「お前だって、あとコンマ四秒で大会新だったじゃないか」
「そのコンマ四秒が縮まないのよ」
「まあ、そりゃそうだけどな……でもお前なら、来年超えられるよ、きっと」
「来年はもっとシビアだもん。コンマ六秒だぜ」
「俺だって同じだよ。来年は二メートル十五跳べないとダメだ」
「ま、来年の話をすると鬼が笑うってーし。とにかく今回はおめでとな」
「うん。ありがと」
言うが早いかアキミはまた口を開けて、カズナリに寄りかかって寝始める。
しばらく気持ちよさげなその様子を見ていたが、そのうちカズナリも眠くなって、アキミと頭をくっつけて寝はじめた。
――大会後のマイクロバスは、眠い。
学園祭も体育祭も終わって、期末テストという名のプレゼントを持った静かな冬が来る。学外に彼女のいる連中は、クリスマス休暇を取るために、必死に勉強していた。
「――あー、勉強飽ーきた」
「飽きるほどやってないだろ」
ぺし、とシャープペンで額を叩かれて、いてて、とアキミが額を押さえる。
「お前、それ意外と痛えんだよ」
「飽きたなんて言うからだ、バカちん」
「飽きたんだもーん。あー走りてー」
「はい、タカスギくん。定期試験一週間前は?」
「部活動は一切禁止! そんなのわかってるやい」
「あんまり寝言こいてると、勉強教えてやんねえぞ」
「あーすんません、すんません」
「……明日は、現国と日本史と化学だよな?」
「うん。現国と化学はなんとかなった。見て、この努力の跡……問題は日本史」
アキミがパンパン、と何やらびっしり書いてある四冊のノートを自信あり気に叩く。
「日本史ねえ。化学出来るのになんで日本史弱いかなあ。数字にマジで弱いわけなんかなあ」
「はいぃー」
しょぼんとなるアキミに、仕方ねえなあとカズナリが薄いノートを取り出す。
「これ、日本史の今回の範囲分な」
ぺん、とアキミの頭に乗せる。
「おおぉー、カズナリさまぁー」
「拝むな。あとは覚えるだけだ」
「あい、頑張りまっしゅ」
部活のない定期試験前一週間は、こっそり隠れてランニングと縄跳び、それにストレッチの基礎練習を、ふたりは欠かさず続けていた。一日でもサボると体が重く、固くなることを知っていたから。要はある程度の成績をキープできていればいいわけで、必死に勉強しながら、こつこつと基礎練習を繰り返していた。
――期末試験最終日
「今日は英語だけだろ?」
ストレッチをしながらアキミがカズナリに声をかける。
「リスニングとグラマーあるけどな」
「グラマー嫌い。つか苦手ー」
げー、とアキミが心底嫌な顔をする。
「そんな顔してもダメだ。それに大体覚えたろ?」
「開始の声で全部忘れる」
「アホか。それは覚えてない」
「解答用紙回収されると、思い出すんだけどなあ」
「……単語帳、も一回最初からやっとけ」
「はあーい」
腿上げをしながら、アキミは言われた通りに単語帳をめくり始めた。
――期末テスト終了
「やったあ、部活部活!」
ばんざーいと両手を挙げて、アキミがいそいそとカバンを担ぐ。
「カズ、急げって」
「待てってば。グラウンドは逃げない」
「逃げるかもしんねえだろ」
言いながらさっさと教室を出るアキミを、カズナリが早足でその後を追う。
「――おおお! 一週間ぶりのジャージ」
感動にうち震えながらジャージに着替えるアキミ。
「……あら?」
一週間着ないうちに、アキミの身長はまた伸びたらしく、微妙にジャージの丈が短い。
「伸びたな」
「伸びたみたい」
伸びることを前提に大きめを買ったのだが、それよりもう少し伸びたらしい。もうカズナリよりちょっとだけ小柄の百八十はある。高等部に上がった頃は百六十センチと少ししかなかったのに。横は増えていないので、スラリとしたスタイルになった。
「目線一緒だな」
「カズのがちょっと高いよ」
「そうか? やっと牛乳効いたな」
「カズも飲んでれば今頃二メートルとかになってたかもしれないのに」
「そんなに伸びたら、かえって跳べないよ」
「あ、そうなの?」
「そうなの。デカけりゃいいってわけじゃない」
「そっかあ……そ言えばハードルもそうだなあ」
「だろ。筋肉とか関係してくるし。まあ、お前はこれから前より速くなるだろうけど」
「そ、そうかな」
「ひたすら練習だな」
「うん! そうだな! サンキュ、カズ!」
言うが早いか、アキミは部室からグラウンドに駆け出す。
「頑張る! 俺!」
振り向いて、カズナリに大きく手を振る。そして道具室に駆け込んで、ハードルをガチャガチャ取り出し始めた。
「――さて、と。俺も」
カズナリがハードルまみれになっているアキミを横目で見ながら、自分もハイジャンの用具を準備しに行く。
「よう、テヅカヤマ。早いな」
二年のトウジョウタクミが、にこにこして近づいてくる。同じハイジャンの先輩だ。穏やかな性質で、何かとカズナリを気にかけてくれる。
「あ、トウジョウ先輩。おはようございます」
「ひとりじゃ大変だろ」
言いながら、バーと測定器を持ってくれた。
「すいません。助かります」
「なに、これくらい。お前の代は他にハイジャンいないから、いろいろ大変だよなあ」
「さすがに慣れました」
「お前ももう一年か、早いな」
「いや、まだまだですよ」
「お前は俺らよか跳ぶんだから、嫌味だぞ」
「すっ、すいません。そんなつもりは全然なくて」
青くなって謝るカズナリ。
「わかってるって」
あはは、と明るい笑い声でトウジョウに、おちょくられたことに気づく。
「トウジョウ先輩もひとが悪いですよ」
「いやあ、テヅカヤマは普段鉄面皮だからなあ。そんなに反応するとは思わなかったよ」
「俺だって先輩後輩は守ります」
「守りすぎなんだよ、お前は。ハードルのタカスギだっけ? あいつみたいに懐いてくれれば、こっちだって可愛がりようもあるのに」
「すいません。俺、人見知りで」
「あはは、わかってるって」
「からかわないでくださいよ」
少しムッとしているカズナリに、悪かった悪かったと、また笑う。
「――あー、久しぶりに楽しかった」
部活終わりにシャワーボックスで、アキミがせいせいしたように頭から湯をかぶる。不文律で湯船に入れるのは三年だけだ。
「やっぱいいよな、部活は」
「そうだな」
隣のボックスで頭を洗いながらカズナリが応える。
「でもさー、俺急に背ぇ伸びたじゃん。だからみたいなんだけど、タイミングがズレるんだよね。お前歩幅が微妙にズレるっちゅーか」
「それは合うまでひたすら練習するしかないだろ」
「だよな」
納得、という感じでアキミがわしゃわしゃっと豪快に頭を洗う。
「カズはどうだった?」
「なにが?」
「中等部で急に伸びたじゃん。あんときどうしてたっけ?」
「とにかく基礎練ばっかずっとしてたよ。踏み切りのタイミングがズレなくなるまで」
「やっぱそれしかねぇか」
体をごしごし洗いながら、ふーむ、とまた納得のアキミ。
「いまさら四百から百十に変えるわけにもいかねえしなあ」
「それはちょっと無謀すぎるだろ」
「だよなー」
「まあ、練習だな」
「だあなあー」
同じタイミングてシャワーボックスから出る。
「カズ、えげつねえなあ、その筋肉」
カズナリの、バキバキに割れた腹筋やら、貧乳の女子よりありそうな胸筋をアキミがしみじみと見る。
「まじまじ見るな、えっち」
「なんだよー! エッチってー!」
「あー、うるさい。至近距離で大声出すな」
脱衣所でジャージに着替えると、わいわい言いながら、寮の部屋に戻る。
――高等部二年の春
陸上部にも無事一年が入部し、アキミやカズナリは下働きから解放された。
目指すは秋のインハイでの記録更新だった。
アキミは相変わらずハードルの上に一升瓶の蓋を並べて、それを落としつつもハードルは倒さない、という練習に明け暮れている。
カズナリは二メートル五の壁に挑み続けていた。
新しく入ったのはやはり百人ほどいたが、練習を重ねるほどに減っていき、ゴールデンウィークが終わるあたりで二十人を切っていた。
その中でもアキミと同じ四百メートルハードルはふたり、カズナリと同じハイジャンは三人だった。
「カズんとこ、新人どう?」
シャワーボックスでアキミは頭を洗いながら、隣のボックスのカズナリに話しかける。
「まだわからん。入ったばっかりだし」
「でももう定着だろ? きらめく才能には出会えたか?」
「うーん、ひとりいいバネのやつがいるけど、闘争心がイマイチ」
「闘争心のねえやつはダメだな」
「そっちこそどうなんだよ。仲良く蓋落としできそうなやつはいるのか?」
「今んとこいねえなあ。だいたい四百走るやつがふたりしかいねえし」
「ふたりいれば充分だろ。俺は去年一年ひとりだぞ」
「カズはひとりでもやってけるだろ?」
「結構キツいときもあるぞ、ひとりって」
「まあそうだろうけど、お前めっちゃ器用じゃん」
そう言ってアキミはあわあわを流しつつ、わざとぶるぶるっとカズナリに向けて頭を振る。
「わっ、バカやめろ! こっちまで泡飛んでくる!」
「飛ばしてんだもん」
「こんのバカッ」
「――ふぃー、いい風呂だった」
ガシガシと頭を拭きながら、牛乳を飲みつつ部屋に向かうアキミ。
「正確にはシャワーな」
後ろからコーヒー牛乳を飲みながら、カズナリが追いかける。
「仕方ねえじゃん、三年になるまで湯船禁止だもん」
「変な不文律だよな」
「でもあのドロドロのお湯に入るのは、ちょっと勇気必要」
そう潔癖でもないアキミが言うだけのことはあり、風呂の湯は沼のように見える。
「男のエキスが溶けまくってる感じするもんなあ」
週に二回しか湯を変えないと評判の風呂は、罰ゲームでもあまり入りたくない。
「まあまあ、清潔第一ですよ、カズナリさん。人気者なんですから」
「だからシャワーでいいっての」
「こまっけえなあ、仔猫ちゃんたちに嫌われちゃうぞ」
「そんなもんはいないよ」
「またまたー、去年のインハイ以来、結構な人気モンよ、俺たち」
「ああ、アレか」
憂鬱そうな声を漏らすカズナリ……確かに去年のインハイで一年ながら記録を出したカズナリと、もう少しのところだったアキミはそれ以来注目されていた。何度か雑誌に載ったり、テレビに出る機会があり、グラウンドまでわざわざ練習を見に来る女子が増えた。
注目されたらされただけ調子が上がるアキミと、外野がざわざわいると緊張が切れがちなカズナリとでは成績に雲泥の差があった。
「なんでそんなに暗い声出すかなあ」
「お前と違ってデリケートなんだよ」
「あんなんいちいち気にしてたら神経持たねえって。もっと図太くいかねえと潰れんぞ」
どうせ長いことは続かねえだろうし、とアキミが笑うと、
「潰れそうだよ、もう」
と暗ーい声でカズナリがつぶやく。
ごちゃごちゃ喋っているうちに部屋に着いた。
ことが起きたのはとある夜のこと。一年のハイジャン担当がカズナリを呼びに来た。晩飯も風呂も終わった自由時間。こんな遅くになんの用だ、と聞くとマネジャーがカズナリに見せたい動画があると言って部室で待っているという。そんなことは今まで一度もなかったので、おかしいな、とちょっと思う。ただ、マネジャーは元々ハイジャンの選手で、怪我でその競技人生を諦めたとちらりと聞いたことがある。同じハイジャンできっと見るべきなにかがあるのだろう、とカズナリはジャージのままでついて行こうとした。それを、アキミが止める。
「ちょい待ち、俺も行く」
「は?」
「俺は隠れてっから、お前はマネジャーのとこ行けよ」
「なに言って……」
「いいから。なんかあったらすぐに飛び込む」
「なにも別にケンカしに行くわけじゃないし…」
「いいから! たまには俺の言うこと聞け」
「……わかったよ」
こういう時のアキミは、相手の言うことを一切聞かない。それがわかっていたからカズナリもそれ以上言い募るのを止めた。一年は少し困った顔をしたが、アキミはお前はなんも知らんかったって言えばいいから、となだめすかす。
ジャージのままで三人は、寮と部室棟の分かれるところまで来る。
「じゃ、自分はここで」
一年はそのまま寮に戻って行った。
「――テヅカヤマです」
とんとんとん、とノックをすると、入れ、と指示が出るが、外から見る部室は真っ暗だった。おかしい、とちらりと思うがなにがどう待ち受けているかがわからない。
「――失礼しま……!」
真っ暗な部室は目が慣れていないのでよく見えない。だが何者かが入るなりカズナリの足を力いっぱい蹴り、それを粘着テープでぐるぐる巻きにするのはわかった。両手も合わせてぐるぐる巻きにされて、口にも粘着テープが貼られて声が出ない。
「よう、ハイジャンのエリートさん」
その声は紛れもなくマネジャーのものだったがなんでこんなことをされるのか、皆目見当もつかない。なぜ? と問いかけるが、粘着テープを貼られているのでくぐもった呻き声しか出ない。
「お前さ、俺がどんな気持ちでハイジャン見てるか知ってるか?」
……恨まれている。咄嗟にそう思って外に出ようとするが、その足を踏みつけられる。鈍く足が痛む。ジャンバーにとって足は宝だ。なんとか庇おうと必死に目を左右に動かす。
「……俺だって……俺だって将来を嘱望されてた。それがたった一回の怪我でおしまいだ。お前にわかるか、この気持ち。やりたくもないマネジャーにされて、俺の昔と変わらない連中の面倒見て、それで目の前で、お前が跳ぶんだ。あの頃の俺みたいに」
マネジャーの両目がギラギラと輝き出す。まるで獣の目だ。
「どうする? 足の靭帯でも切ってやろうか?」
「――はい! そこまで!」
ばん! とアキミがドアを開けた。
「……お、お前……タカスギ……なんで……」
「今までの会話は全部録音してました。これ証拠にして、早速今から緊急招集して部会にかけましょうか?」
「なんで……お前がここに……」
「カズのピンチは、俺のピンチですよ」
部室には鍵が外側からしかかけられない。つまり、アキミは決定的な言葉が出るまで、じっと部室の外でマネジャーの言い分を録音していたのだ。それまで、カズナリが無事であることを祈りながら。
「マネジャー、あんたの事故は不幸だったかもしれない。でも、そんなに見るのがつらいなら、跳ばれるのが憎いなら、なんで辞めなかったんだ。卑怯だ!」
「この……黙ってればいい気になりやがって……!」
逆上したマネジャーが、部室のパイプ椅子を振り上げる。が、それを振り下ろすより早く、椅子ごとアキミがマネジャーを蹴った。
「行くぞ、カズ!」
頭を打ったらしいマネジャーが呻いている間に、アキミが手早く粘着テープを剥がして、カズナリを自由にする。
「……尊敬、してました……」
かすれた声でかなしそうにカズナリが言うと、行くぞ! とアキミがぐんぐんとその細っこい背を押して、自分たちの部屋に戻る。なにかマネジャーが言っていたが、聞かないふりで。
「……なんで……気がついた?」
「え?」
「なんで……マネジャーが俺狙ってるって気がついた?」
「なんか前からお前に対して当たりキツいときあったからな、なんとなく」
「俺、尊敬してたんだ……あのひと……現役じゃなくなっても陸上から離れないで……裏方になって……頑張ってくれてて……すごいなって……尊敬してたんだよ……」
はらはらと、座ったままでカズナリが涙をこぼす。めったに泣かないカズナリが、この世の終わりのような顔で涙を流していた。
「そんな顔すんな。あのひとは陸上に負けたんだ。勝負にも、陸上そのものにも負けたんだ。やりたくないのに無理矢理に心を殺して、負けた陸上に取り殺されたんだ」
言い聞かせるようにゆっくりと言うアキミの言葉に、カズナリがかなしげな顔のままで、そう思うしかないのか、と涙声で聞く。
「それ以外ねえよ。それよか足、見せてみ」
「いい」
「よくねえよ。大事な足をあんな乱暴に扱われて、なんかあったらただじゃおかねえし」
「いいって!」
「カズ!」
びくり、とカズナリの動きが止まる。
「大事な足だ。俺にとっても」
ジャージをまくり上げると、細い足首のあたりが赤く腫れていた。
「うわ……骨いってねぇよな」
アキミはテキパキと薬箱から消毒薬とガーゼと湿布を出してくる。そして、消毒してからそこを丹念に拭い、湿布を貼る。
「氷のほうがいいかも……寮母さん起きてるかな」
「も……大丈夫だから……」
「嘘つけ。立てねぇだろ、今」
「立て……る」
「立ってみろよ」
アキミの言葉によろ、となりながらも立ってみせる。が、痛みで右足をつくことができない状態だった。
「ほら見ろ。医療室行こう」
アキミの声に、カズナリはふるふると左右に首を振る。
「なんで?!」
「そ……なことしたら……マネジャーが……」
「あいつはもうマネジャーじゃねえってば! あんな目に遭ってまだそんな頭あったけえこと言ってんだよ!」
アキミの怒声にびくん! とカズナリが肩を震わせる。
「あ……ごめ……一番ショックなの、お前だもんな」
「俺……もうどうしたらいいのかわからない……」
カズナリは混乱していた。尊敬こそすれ、憎悪など一度も抱いたことのない相手から、再起不能にしてやろうかと脅されて、それが結構本気で、そして激しく憎まれていて……もう世界中から拒絶されている思いだった。
「――今のカズに届くかわかんねぇけど、俺はカズが好きだよ。ずっと前から、ずっとずっと好きだ。あんなやつに好きにされるなんて、俺が許さない。カズは、冷静で優しくて、厳しくて、それでもやっぱりいいやつで、俺はそんなお前が大好きだよ」
ふわり、とカズナリを抱きしめて、長い間一緒にいるこの相棒の、好きなところをアキミが思いつく限り言っていく。抱きしめた体があんまり冷たくて、それに自分の熱を移すようにじっくりと抱いて、離さない。頬を流れる涙も、くちびるでみんなすくい取る。
これが愛情なのか、友情なのかがわからず、アキミも混乱するが、愛情でいいや、と思い直す。カズナリがかなしければ、そのかなしさを。つらければ、そのつらさを。半分でも全部でも持ってやりたいと願う。それでカズナリが救われるなら、自分なんてなくなったってかまわない。心底そう思った。
――アイシテイマス――
祈りのようなその思いが、果たして言葉になったかどうか、アキミにはわからなかった。
「……ハイジャン、辞めんなよ」
「――今は……もう跳ぶの怖いし……わからない」
正直な弱音の言葉に、カズナリの心の傷が見えた気がした。
「逃げんなよ。それじゃあ、あいつの思うツボだ。いつもみたいに跳んで、見返してやれ」
「怖いんだよ……俺が跳ぶので……どこかで傷ついてるかも知れないひとがいることが」
「そんなの気にしちゃダメだ。お前は誰よりも跳べるんだから」
「お前に何がわかる! 信頼してた人に裏切られて、憎まれてて、傷つけてて……!」
涙声のカズナリの言葉は、カズナリの本当だった。
「……俺は……誰も傷つけたくない」
「カズ……俺たちのいるのは、勝負の世界だよ。勝つやつがいれば、負けるやつがいる。負けたやつはうんと練習して、次は負けないように体も、気持ちも、鍛えるんだ……あいつは怪我のせいにして、両方から逃げた……そんなやつのために……鍛えまくってるお前が負けることない。傷ついたって言ってたけど、あれは自滅したんだよ……そんなやつ、陸上する資格ねえよ」
「……アキ……」
それはカズナリが欲しかった言葉。自分の中でなんとか消化しようとして苦しんでいたことを、すうっと消化させてくれる、魔法のような言葉だ。
「お前は頑張れる。昔からいつも頑張ってきたし、これからも頑張れる。大丈夫、誰かに憎まれるのなんて、気にしなくていい。お前が強い証拠だ」
「俺が……強い……?」
「お前は強いよ、誰より。メダルもらったろ、たくさん。あれはお前が強い証拠だ。自信持て」
「自信……」
「練習したろ、すげえ。誰にも負けないくらい、練習したろ。お前は全然逃げてない、だから強いんだ」
な、とカズナリの頭をくしゃりと撫でる。柔らかな髪の感触。どんなに短くしても、アキミのようにかたくつんつん立ったりしない。カズナリの心のような、柔らかで、しなやかな優しい髪の毛。これ以上他人を傷つけるのが怖い、とカズナリは泣いた。それは、自分に向けられる憎悪の思いが怖いのだ。知らず知らずのうちに向けられる憎悪。それは暗く、冷酷な感情で。どこかで自分の失敗を強く願う、その思いが怖いのだ。一所懸命やっていれば、報われると信じていた。それが足元から崩れた恐怖。
「お前がそれでも怖いって言うなら、俺がついてってやる。俺がお前を憎む全部、やっつけてやる。だから、陸上辞めんな。こんなことで負けんな。オレが全部守るから」
「でも俺は、きっとお前を守れない……こんなに根性無しだとは、自分でも思ってなかった」
「いいよ、カズにしか守れないものがあるし……その……俺自身のメンタルはお前次第だから」
「え……?」
「お前が調子良けりゃ、俺も調子いいし、お前が落ち込んでりゃ、俺もなんか落ち込むんだよ……だから……」
「たから……?」
「今、滅茶苦茶に落ち込んでる。怪我、させちゃったし」
「なんでアキが落ち込むんだよ。憎まれてたのは、俺なのに……」
「な、おかしいよな……でも、お前が泣いてるのを見るのは……つらいよ」
抱きしめた体温が同じになる頃、ふたりは初めて体を合わせた。そうはいっても詳しい方法はわからず、ただ愛し気に体を擦り寄せているだけだった。でもふたりには、今はそれで充分で。
その晩は、アキミのベッドでふたりは眠った。
――翌日
「……カズ、あのさ」
狭い二段ベッドの下の段に、ふたり寄り添って眠っていたのが、習慣で五時に目が覚める。そして腕の中でとろとろ眠っていたカズナリに声をかける。
「ん?」
眠そうに目を開けるカズナリ。泣き腫らした目が昨日の事件が事実だったのを物語る。
「今日サボろう」
素敵な提案をするように、アキミがこそこそっと口を開く。
「は?」
「昨日の今日だし、授業も部活もサボろう」
「なんで」
「足、休ませないと」
「お前はピンピンしてるだろ」
「介添人てことで」
「なんだよ、介添人て」
カズナリが無理に笑う。
「歩くの大変だろ、その足じゃ」
上半身を起こした姿勢で、カズナリを腕の中に閉じ込める。寝起きだからか、ふたりの体温は熱い。細身だが、筋肉がしっかりついているカズナリの体は、それから逃れることはせずに、気持ちよさそうにそのアキミの胸元に頭を預けていた。
「大丈夫、だよ……」
アキミの鍛えられた胸の奥から、鼓動が聞こえる。それはいつもより速く、落ち着いているように見えて、アキミも緊張しているのがわかった。
「お前、無理すっから心配なんだよ」
「……うん……」
体のどこかが痛むとき、アキミはわあわあと主張するが、カズナリは、限界まで我慢して、ぼそり、と痛い場所をつぶやく程度だ。そんなカズナリのことをわかっているからこそ、アキミは心配している。
「病院、行こうぜ」
「このくらい、なんともない」
「なんともあるだろ。寝てるときもかばって寝てたし」
「なんでそんなの知ってるんだ」
「んー、まあくっついてたし」
ぽっと頬を赤らめながら、言葉を選んでアキミが言う。
「……おかしいかな、俺たち」
不安げにカズナリがぼそりという。
「俺たちがよければいいんだって……それとも、嫌か?」
「いっ、嫌だったらこんな狭いとこで寝ない」
今度はカズナリが赤くなる番だった。
「俺、俺だけがお前のこと好きなんだと思ってた」
「なんで?」
「カズ、あんまりそういうの好きそうじゃなかったし……男同士だし」
口ごもるアキミの頬に、そっと触れる。
「俺も好きだよ、アキのこと。もうずっと前から」
「マジ? なんだよ、もっと早く言ってくれればよかったのに」
「いつ言うんだ、そんなこと」
「そりゃそうだけどさあ」
片手で、愛おしそうにカズナリの頭を撫でる。
「俺さ、お前が跳ぶの観てんの、すっげえ好きなんだよ……まるで鳥が飛んでるみたいで」
ポソポソ言うアキミの声に、心地よさそうに目を伏せる。
「俺も、お前走ってるとこ観てるの好き。風が吹き抜けるみたいで、すがすがしくて。だから、負けるな」
まるで歌うように告げるカズナリの声が、落ち着いている。
「おう! 負けねえよ。お前もな」
「わかった」
その日は、寮母に今日学校を体調不良で休む旨を伝えた。
そしてカズナリは止めたが、顧問と部長に昨日の録音を聞いてもらい、今日は足の不調で休む、と告げた。マネジャーの起こしたあまりの出来事に、顧問も部長は真っ青になる。そしてすぐにマネジャーを呼び出して、この録音の真偽を確かめた。するとマネジャーは悪びれもせずにそれをあっさりと認めて、もう受験に集中するから今日限りで辞める、と無責任な発言をしてさっさと退出し、顧問と部長を怒りで真っ赤にさせた。
「テヅカヤマはどうしてる?」
「足痛くて動けねえんで、部屋にいます」
顧問も部長もカズナリのメンタルを心配していた。
「メンタルなら大丈夫です。俺がいますから」
「なんでお前がいると大丈夫なんだ」
「俺たち、幼なじみで親友ですから」
「そ、そうか。本当に任せて大丈夫なんだな?」
「任してください」
顧問がアキミの本気の目を見て、結局全部任せてくれた。
――病院
朝イチで来院したので、病院は空いていた。整形外科に保険証を出して、長椅子に座って待つ。すぐに名前を呼ばれて、カズナリが診察室に消えた。ところが、十分もしないうちに車椅子で出てきた。
「おい、車椅子って大丈夫なのか?」
と問うアキミは、
「いや、これからレントゲンとCT検査、それ終わんないとなんとも言えないって」
と軽くカズナリに言われる。
アキミが慌てて
「じゃあついてくよ」
というと、
「車椅子あるから大丈夫」
冷静にカズナリが応える。
「でもお前、車椅子なんで初めてだろ」
「なんとかなるよ。大げさ」
じゃーなー、とひらひら手を降って器用に車椅子を扱って、カズナリの姿はエレベーターに消えた。周りはどんどん人が多くなっていき、混雑し始める。ただ待ってるのも暇だな、と思い始めた頃、カズナリが戻ってくる。
「暇なんだろ」
「おう」
「だから学校行っとけばよかったのに」
「そんなこと言われても心配で、ただでさえ身の入らねぇ授業に、もっと身が入んねぇのわかってるもんよ」
「俺をダシに使うな」
けらけら笑うカズナリは、一見昨日のことなど気にもしていないように見えるが、アキミにはわかる。昨日のショックから、まだまだカズナリが立ち直っていないことを。
気を紛らせるように、どうでもいい話をしながら待っていると、カズナリが名前を呼ばれて、診察室に消える。
……ひとりで黙って待っていると、どうしても嫌な考えばかりがアキミの頭を巡ってしまう。
「おう、お待たせ」
右足をテーピングされたカズナリが、ひょこひょこと診察室から出てきた。
「ど、どうだった?」
「まあ、軽くない打ち身みたいなもんだってさ。靭帯や骨とか、筋肉はセーフ」
「よかったあ」
「ホント」
「全治何日?」
「まあ、一週間くらいかな。テーピングなら自分でもできるから、練習は明日から再開、と」
「無理すんなよ」
「しないって。痛いのはもうゴメンだ」
「はー、よかったあ」
思わずがっくりと膝に手を置いて脱力するアキミの頭をポンポンと軽く叩く。そして、ありがとな、心配かけてごめん、とちいさな声で言った。
そのまま学校に帰って、寮に戻る。まだ授業には間に合ったが、今日は休もう、とふたりでなんとなくそう決めた。
「……足、どう?」
「どうって……病院行ったばっかだからなあ。あ、でも固定されてるから楽と言えば楽かな」
応えるカズナリの顔が赤い。
「お前、熱あんじゃねえの?」
「え? 熱?」
「なんか顔赤いぞ」
てん、と額を合わせると、なんだか熱い気がする。
「解熱剤、一応飲んでおいたほうがいいんじゃねえの?」
「胃ヤラれそうだな。飯食ってないから」
「そういやそうだ……ちょっと待ってろ!」
言うが早いかたたーっとどこかにアキミが走っていった……十五分もしたろうか、アキミが両手にコロコロしたものをたくさん持って戻ってくる。
「なに、それ?」
「味噌おにぎり!」
「食堂行ったんか?」
「そ。あまりご飯で作ってもらった」
こういうときに、人見知りしない懐っこい性格というものは役に立つ。
「それにお見舞いだって!」
制服のポケットから、ぐちゃぐちゃになったプリンのカップがふたつ出てくる。
「あ、やべ。走ったからぐちゃぐちゃ」
「いいよ。腹に入ればおんなじ」
「ごめんな。じゃ、食おうぜ!」
ペりり、とラップを剥いて、コロコロの味噌おにぎりをふたりしてぱくんとひとくち。空きっ腹には沁みるほど美味かった。
「美味い!」
「食堂なんて、よく機転効いたなあ」
「おばちゃんたち帰る直前だったけど、事情話したら作ってくれたよ」
「そっか。昨日からお前には助けてもらってばっかだな」
「なに言ってんだよ! サ、サボろうって言ったの俺だし、このくらいはするよ!」
照れ隠しなのか、ばくばくと豪快に味噌おにぎりを食べながら、アキミが力強く言う。
全部食べると、なんとかふたりとも腹が落ち着く。それからぐちゃぐちゃになったプリンを、スプーンも使わずにずろろろろろ、と飲む。
「はー、美味かった。ごちそうさん、アキ」
「ななななななんでもねえよ! それよか薬、薬飲もう!」
アキミは完璧に照れている。散乱したラップやプリンの容器などをまとめてビニール袋に突っ込むと、がさがさと薬を探す。
「お! これいいかも! 熱と痛みに、だって」
「ああ、それがいいな」
言葉には出さなかったが、カズナリも自分が熱を出していることはなんとなく感じていた。いつもより体か熱い。足の痛みはずきずきとそこに心臓があるような感じで。
「はい、これな」
シートからふたつ、白い錠剤をぱきぱき出して、カズナリの手のひらに乗せる。
「ん、ありがと」
そのまま薬をぱくんと口にすると、手渡された水で流し込む。
しばらくすると、とろりと眠気が襲ってくる。
「わー、ここで寝るな! ベッド行け、ベッド!」
「んー、上まで行けるかなあ」
「あ、そうか。じゃあ一緒に寝ようぜ」
「一緒に?」
「い、嫌か。嫌だよなあ、あはははは」
「いいよ。アキが枕になってくれるなら」
「なる!」
――こうしてふたりはまた、狭いベッドでギチギチになりながら、一緒にしばらく眠った。
――翌日
手当てが早かったこともあり、カズナリの足はだいぶよくなっていた。テーピングで固定しておけば、それほど痛みもない。
いつものように朝練に参加し、いつものようにしごかれ、一年をしごく。マネジャーの姿は、なかった。一昨日カズナリにマネジャーが呼んでいる、と伝えに来たハイジャンの一年の姿も見当たらない。
朝練終わりの短いミーティングで、マネジャーが受験のために辞めたことと、見当たらなかったハイジャンの一年が一身上の都合で辞めたことが告げられる。例の録音のことは、顧問と部長の胸の中でしまっておくようだ。ただ、顧問が珍しく強い口調で、
「お前らはみんなライバルだ。だが、同時に大切なチームメイトでもある。それを忘れるな」
とひとことだけ言う。それはもういないマネジャーに向けられた言葉である、ということに気がついたのはアキミとカズナリ、そして部長だけだった。
「――テヅカヤマ」
珍しく部長がカズナリに声を掛ける。長距離の選手で、カズナリとは接点がない。
「はい」
「その……あ、足どうだ?」
「あ、大丈夫です。一週間もすれば元通りの予定です」
「あー、その……悪かったな……マネジャー……ノグチの……その……」
そこで初めてマネジャーがノグチという苗字だったことを知る。
「俺たちのフォローがマズかったんだってことは、昨日三年で話し合ったよ。お前に迷惑かけるとはまさか思わなくて……本当にすまん」
小柄で日に焼けた痩せた体が、カズナリに頭を下げる。
「いえ、部長たちのせいじゃないです。ただ、自分の態度が生意気で鼻についたんでしょう。自分も悪いところがあったんだと思います。頭上げてください」
慌ててカズナリがそう言うと、部長がさらに頭を下げる。
「お前は陸上界の宝だ。そんな大切なやつに怪我させて……申し訳ない。頼むから陸上辞めるとか、考えないで欲しい」
「考えてないです。これからも跳びますから、だから、本当に頭を上げてください」
「……俺は悔しいよ。あいつ、そんなことするやつじゃなかったのに、そんな大それたこと出来るやつじゃなかったのに、なんでお前を標的にしたのか……止められなかった自分が悔しい……部長だなんて、そんな器じゃないかもしれん」
「部長は立派な部長の器です。だからそんなに自分責めないでください」
「許して……もらえるのか……?」
「許すも許さないも、部長は悪くないですから」
悪いのは、マネジャーだけだ。巻き添えを食った形で部活を辞めた一年も、かわいそうなことをした、とカズナリは思う。未来があったかも知れない一年を巻き込んだ、マネジャーが許せなかった。
だが、怪我でジャンパーの道を断たれたマネジャーにも、同情の余地はないこともない。自分がもしそうなったら、そして目の前できらめく才能を見せつけられたら、平常心でいられるだろうか。なんだかんだ言っても、自分もまた、陸上を愛している。でも、だからこそ、新しい芽を潰すような暴挙に出てはいけないのだ、と考えが辿り着いた。
「部長、もういいです。本当に」
そう言って頭を下げ続ける部長の顔を覗き込むと、悔しそうに泣いていた。それは、見たくなかった部長の涙だった。上下関係の厳しい部活で、後輩に涙まで流して頭を下げるのは屈辱だろう。そう考えると胸が痛んだ。
「大丈夫ですから、本当に俺、大丈夫ですから」
そう言うと、やっと部長は頭を上げた。涙を見られるのが恥ずかしいらしく、ぐい、とジャージの袖で顔を拭いている。
「……明日から、またよろしくな」
「はい!」
なるべく元気に返事をして、ぴょこぴょこと、心配顔のアキミのところへ走っていく。
「なんだった? 部長」
「ん、マネジャーのこと。フォローできてなくて、申し訳なかったって」
「ああ」
「お前が録音してくれてたおかげで、誤解もされないですんなりいったよ。助かった」
「いや、まあ、その、野生の勘だな」
「頼りにしてる。その野生の勘」
「あーもう、なんか恥ずい。シャワー行こうぜ、シャワー」
「うん」
――たったったっと軽快にふたりが走り出す。そこには風の流れが、鳥の羽ばたきが確かにあった。
ふたりの物語はまだ始まったばかりだ。
おしまい