――放課後
「なあなあカズ」
 またもジャージに着替えながら、アキミがすり寄ってくる。こういうときの目的は一つだ。
「宿題なら見せないぞ」
「うっ、なぜそれをっ」
「お前がすり寄ってくるときは、宿題か忘れもんだろ」
「そーんなあ、カズゥー」
「知らん」
 カズナリを釣る学食でのデザートはもう一週間分押さえられている。
「うー、日曜の大会の後で、アニーズのパフェ!」
 ちょっと考えて、新しいものを提案する。
「ミニか? ノーマルか?」
「もちろんノーマルで!季節のソルベもつけちゃう」
「乗った」
――再び甘党敗れたり。
「やったー。古文と数一な!」
「二科目かよ。しょうがないな。数一はまだ俺も終わってないから解きながらになるぞ」
「もー全然オッケーよ」
「全然オッケーって日本語は間違ってるからな」
「固いなーカズは」
「お前がいい加減なの」
 ほら、行くぞ、とアキミをスパイクで蹴る。
「おうっ、またあとでなっ」
 勢いよく部室を飛び出すが早いか、アキミはハードルの溜まりに飛び込んでいく。
「はいはい」
 もう聞こえないとわかってはいても、呆れた声でちいさくつぶやく。そしてカズナリもハイジャンプの溜まりに向かう。

 四月の時点では、百人超えるほどいた一年が、今ではもう三分の一も残っていない。それでも一年から三年まで百人ほどが部員として、それぞれがそれぞれの種目に分かれて、コツコツと地道な練習を積んでいた。

――日曜日・新人戦
広いコートで各高期待の新人たちが、先輩やマネジャーに囲まれてアドバイスを受けている。
 真面目に緊張した面持ちで、じっとそれを聞いているのはカズナリ。きょろきょろと落ち着きがなく、先輩にしばかれているのはアキミだ。
「タカスギ! お前は他人よかちんまいんだから少しは落ち着いて真面目に聞け! テヅカヤマ! お前は平気だから少しはリラックスしろ!」
 ちょろちょろしていたアキミが先輩に捕まり、頭をうににににっと締められている。
「準備運動しとけよー」
 マネジャーが皆を見渡して声を掛ける。
 今日は短距離・中距離・長距離・四百メートルハードル・ハイジャンプの五種目に新人がエントリーしていた。
 二年、三年には砲丸とやり投げの選手がいたが、一年にはいなかった。
 笛が鳴り、それぞれが集合を促される。
 トラックでは短距離と四百メートルハードルの予選が始まるようだ。アキミは三番手。緊張の色はさっぱり見えず、ぷらぷらしている。
 頑張れ、アキ、と、そっと心の中でカズナリはアキミを応援して、ハイジャンプの溜まりに向かっていった。

――大会後
 結局アキミとカズナリは下馬評通り、ぶっちぎりで優勝した。特にカズナリは大会新を叩き出すほどで。
 他のメンバーも見事入賞を果たして顧問の機嫌はもう上々だ。ご褒美、と言って皆をファミレスに連れて行くほどに。

――ファミレス
「うおおおおお! 何食う? 何食う?」
 無駄にテンションが高いのはアキミ。
「俺、パフェがいいす」
「なんだテヅカヤマ、もっと腹にたまるモン食え」
「じゃあ、パフェとホットサンドを」
「俺ハンバーグのセット! ご飯! それにピザ! あと季節のソルベ!」
 あくまでも控えめなカズナリに対して、アキミは自己主張しまくりだ。
 他の面々も口々にメニューを叫ぶので、そこのテーブルだけバーゲン会場のような賑やかさだ。
 マネジャーは心得ているようで、端から順にオーダーをタッチパネルに入力していく。
「先生、全員分オーダー聞けました。先生はなにになさいますか?」
「俺はマグロのたたき丼とクリーム白玉あんみつ」
「はい。オーダーします」
 ぴ、とタッチパネルに顧問の分も入力して、オーダーを飛ばす。
「わかってるとは思うけど、一度には揃わないので、来た順に食べてください」
 まるで野犬の群れを統率するボス犬のようなマネジャーの言葉に、皆がわおーん……ではなく、はーい、と元気に返事をした。

「カーズ、あーん」
 季節のソルベをスプーンに取って、ホットサンドを食べ終えたカズナリにアキミが迫る。
「いいよ、俺パフェあるし」
「だって約束したし」
「部の打ち上げのゴチで約束を果たすな、バカたれ」
「じゃ、これはノーカンな。来週改めて奢る」
「ああ、そうしろ」
 そう言ったきりパフェを黙々と食べるカズナリは、甘党なだけあって幸せそうだ。
「しかしあれだな、まさかテヅカヤマが一メートル九十五もいきなり跳ぶとは思わなかったな」
「でも、自分的には二メートル行くつもりでしたので不本意です」
 急にカズナリの功績を褒め始める顧問に、カズナリが困ったような顔をして応える。
「いいじゃーん、一番なんだから!」
 横からアキミがくちばしを挟む。
「二メートル超えられなかったから、全然本意じゃない」
 まったく納得していない様子のカズナリに、アキミが軽い調子で口を開く。
「インハイで目指せばいいじゃん」
「そのつもりだけど」
「俺もインハイで一番狙うし」
 勝つ気満々の二人に顧問がちょっと待て、と止める。
「おいおい、お前ら。志を高く持つのはいいが、インハイではニ年も三年も出るんだぞ」
「負けねっす」
 ぐっと拳を見せて、にやりと笑うアキミ。目が、本気の証拠だった。
「まあ、向上心があるのはいいことだけどな」
 面食らった顧問が、アキミのツンツンの髪をぽふぽふとした。
「タカスギも今回活躍したしなあ」
「でも大会新は出せなかったから、インハイで目指します!」
「まずはレギュラー獲りに懸けろ」
「はい! もちろんです!」

――暑い夏が来た
 陸上部は校内合宿だった。
 もとより全寮制なのと、陸上部用の十分な広さのグラウンドと、筋トレの設備が整っていたので、他所へ行く必要がない。

「タカスギー! ラスいちー!」
「うぃーっす!」
 ダッシュ&タッチををもう五十本はやっただろうか。さすがに暑さと疲れで足元がふらついておぼつかない、もっともこの段階まで残っている一年は、アキミだけだったが。
「おらおらおら、足上がってねえぞ!」
「はいぃっ!」

「テヅカヤマ、もう一本!」
「はいっ!」
 先輩の声に、もう何本目かわからないほどのバーを跳ぶ。
 二メートル五がカズナリの越えられそうで越えられない高さだった。二メートルはギリで越えたがそこから先が進まない。二メートルを越えた時点で実はたいしたものだが、カズナリは納得していなかった。
 がしゃんっと大きな音がして、跳び損なったバーとカズナリがもつれるようにマットに落ちる。
「惜しい! あと二センチ高く跳べれば越えられるのに!」
 先輩の惜しそうな声に、あと二センチか……、とカズナリがちいさく口惜しそうにつぶやく。
「ドンマイ、テヅカヤマ。グラウンド四周な」
「はいっ」
 言われた通りにカズナリがグラウンドの外周を走り始める。
 強いし日差しの中で、目の前が真っ白になりそうだった。
「…ズ……カーズ!」
 気がつけばアキミがすぐ横を走っていた。
「おう、アキ」
「ほら、これ飲めよ。熱中症予防」
 走りながらアキミが冷たいスポーツドリンクのボトルを渡す。
「サンキュ」
 冷え冷えのボトルの飲み口を口に含むと、薄甘い水分が体に沁みる。
 蝉が力いっぱい鳴いているのが耳についた。

――食堂
 はぁ、とため息をついて、エビフライを突っつくカズナリ。連日の酷暑の中での練習に、すっかりバテている。
「あれ? エビフライ嫌いだっけ?」
 丼飯をかっ込んでいるアキミは夏バテもなく、元気いっぱいだった。
「食欲なくて」
 え? 夏バテ? と聞くアキミは興味津々だった。昔からもともとスタミナお化けのアキミは、夏バテを体験したことがない。
 はぁ、とまた、ため息をついて、コーヒー牛乳ばかり飲んでいるカズナリに
「コーヒー牛乳っ腹じゃ跳べるもんも跳べないだろ」
と、アキミが喝を入れる。
「わかってるけど……」
「うんにゃ、わかってない。カズは夏バテ中だ!」
「わかってるよ、そんなん」
 サラダを口にしながら、軽く流す。
「なんだ、自覚アリなんか」
「アリアリ」
 仕方なさげにカズナリが、ピラフを口に運ぶ。
「お、食えるじゃん」
 アキミが嬉しげに食いついてくる。
「俺の監視はいいから自分の分食え」
「もう食った」
「早」
 ピラフはなんとか食ったが、エビフライは諦めたらしい。
「エビフライちゃんは?」
「残す」
「えー、もったいない」
「お前食うならやるよ」
「食う食う。頂戴プリーズ」
 ははーっとエビフライを拝むアキミ。もらうが早いか頭から噛りついている。

 地獄の夏合宿が終わり、秋が来た。
――インハイの季節だ

 一年からレギュラーは普段ほとんど出ないが、今年はアキミとカズナリが満場一致で選ばれた。他は二年がメインで、三年の実力者が数名選ばれた。三年は受験があるものもいるので、あえて出ない、というものもいた。
 練習はどんどんきつくなっていき、アキミが今熱中してやっているのは、一升瓶の蓋をハードルの上に乗せてハードルを倒さず、蓋だけを足で落としてゆく練習だった。最初は三百五十缶だったが、どんどん対象が小さくなって、今では一升瓶の蓋だ。
 はじめはコツがわからず、ハードルもろとも盛大にコケていたが、最近は三本にひとつくらいは確実に落とせるようになっていた。
「タカスギー! オラオラしっかり落とせー!」
 先輩の怒声に冷静に蓋を拾っては、ハードルの上にちょこんと乗せていく。
「も一本行きまーす」
 片手を軽く上げて、アキミが走り出す。速い。無駄のない走りでギリギリに低くハードルを越える。だが、半分くらいは倒してしまう。
「下手くそー! 縄跳びしてこーい!」
「はいーっ!」

 日陰でカズナリが縄跳びをしていた。その横にちょんとアキミが並ぶ。
「……よっ、カズも縄跳び?」
「跳躍力つけるには縄跳びだとよ」
「ボクシング部じゃねーっての」
 並んで縄跳びをしながら、軽口を叩く。
「こらー!そこの縄跳びふたり!喋る余裕があんならもっとスピード上げろ!」
「うぃーっす」
 陸上部に手抜きという言葉はない。ただでさえ一年でインハイに選ばれているということで、周りは注目し、期待している。記録を出さなければ、というプレッシャーがあった。

「……ぶっはー、疲れたあ」
 一時間たっぷり縄跳びをやって、それからダッシュを五十本、ハードル走を三十本やると、さすがのアキミの体も悲鳴を上げる。しかもこのごろ背が伸び始め、成長痛にも悩まされていた。

「膝痛えー」
 食堂に向かう道すがら、カズナリの肩を借りながらアキミがひょこひょこ歩いている。
「おいおい、そんなんでインハイ大丈夫か?」
「大丈夫。俺本番強いから」
「まあ、病気じゃないしなあ」
「でも労って」
 いつものようにじゃれ合いながら、食堂までの廊下をバタバタ歩く。アキミはなんとなくジャージがキツいし、スパイクもキツい気がしていた。

「――あ」
「どした、アキ」
「うはー、見て見て」
――ある日部室で着替えながら、アキミが情けない声を出す。陸上部のジャージがつんつるてんになっていた。くるぶしを超えるほどの長さで、まくって履いていたのだが、そのまくっている分がすっかり短い。
「伸びたじゃん、身長」
 よかったな、と言われてでヘヘと笑う。
「よかった。よかったけど新しいジャージどうしよう」
「俺のお古でいいなら着るか?」
「いや、そこまでは伸びてない」
「そか」
 百八十超えのカズナリのお古ではさすがに大きすぎる。
「とりあえず今日は顧問に言ってこのジャージ少しまくって誤魔化すわ」
「それがいいんじゃないか? その間に新しいジャージ注文しとけばいい」
「だよな……でも、スパイクもキツイんだよなあ」
「俺の中等部の頃の穿いてみるか?」
「取ってあんの?」
「うん、一応」
「ちょ、ちょっと穿かせて」
 カズナリが、ロッカーの奥から箱に入った新品同様のスパイクを出してくる。
「お、ぴったり」
「それほとんど穿いてないから、変な癖とかはついてないと思う」
「借りていい?」
「やるよ。俺はどのみちもう入らないし」
「助かるー。サンキュな」
「成長祝いだ」
 えへへ、と嬉しそうに笑うアキミが、カズナリの中等部の頃のスパイクを穿いて、馴染ませるようにカチャカチャと動き回っている。

 その日のアキミは絶好調で、ハードルもあまり倒さず、先輩にはお前ちいさいサイズ着てる方が調子いいんじゃねえの、とからかわれる始末。そして新しいスパイクは足馴染みもよく、経年劣化もなくて、とてもお下がりとは思えないものだった。

――インハイ当日
 空は青く、高く、陸上日和だった。
「んー、燃えるなあ!」
 真新しいジャージに身を包んだアキミが、競技場の空気を深呼吸する。その横でカズナリが緊張で青い顔をして黙っていた。
「元気ねえなあ、カズ!」
「緊張してんだ、悪いか」
「悪かないけどよ。お前って昔から意外と緊張しいだよな」
「お前のクソ度胸が羨ましいよ」
 ぴょこぴょこ元気なアキミに、カズナリが憎まれ口を叩く。
「ほーら一年坊主! アップしとけ」
「うぃーっす」
 先輩に声をかけられて、念入りにストレッチを始め、軽く走ったりを始める。
 競技の順番はアキミのハードルが二番目、カズナリのハイジャンが三番目だった。走る順番はアキミがラストの組、カズナリも同じくラストの組だ。
 カズナリはアキミの走るところが見たかったが、エントリーの関係でそれは叶わなかった。ただ、順番待ちの列の中で、ハードルの方向から歓声が聞こえたので、恐らくアキミがトップに食い込んだのに違いない、とは思った。

 カズナリはラストに跳ぶことになっていて、緊張の色が隠せない。どきどきしながら待っていると、遠くから聞き慣れた声がカズナリを呼んだ。はっとして声の方向を見ると、アキミが指を一本空高く立てて、やったぜー! と叫んでいた。思わず前に気づかれないように、一度だけ大きく手を振る。すると、お前も頑張れよー! と返してくるアキミの声に、緊張がほどけていく。

 ハイジャンは助走開始の合図のあと、規定時間内に走り出して跳ばないと失格になる。焦るあまり、走り出し方を間違えたり、タイミングが合わなかったりして、前のほうが何人か跳び損なって落ちていく。
 カズナリは上手いこと跳んで最後のふたりにまで残った。相手は他校の三年。場数は向こうのほうが跳んでいる。
 二メートルちょうど。最初に跳んだ三年は、二回ともバーを落とした。これを跳べばカズナリの優勝だ。
 合図が鳴った。緊張の面持ちでカズナリが走り出す。そしてふわり、とうまく踏み切ってバーを越える。少し足がかすめたか、バーがわずかに揺れている。
――だが、バーは落ちなかった。
 競技終了を告げる笛が響き渡る。
「……やったあ! 跳んだ!」
 アキミの声が辺り一面に響く。周りもざわざわしていた。どうやら大会新が出たらしい。なにか係の大人にカズナリが言われているが、内容まではアキミの耳には届かない。
「カズーあとでなっ!」
 アキミの声に片手をあげて、返す。――カズナリは高一の大会新を叩き出していた。

「よくやったな、テヅカヤマ」
「でもその後、二メートル五は落としましたから」
「来年来年。気にするな」
 マネジャーと短い会話をして、学校の溜まりに戻る。
「お帰りー」
 ほれ、とアキミからスポーツドリンクの入ったボトルを後ろからペタリ、と頬へ押し当てられる。
「ああ、ありがと」
 ぎこちなく笑いながら、カズナリはアキミからボトルを受け取った。
「やっぱ二メートル五落としたの気にしてるー!」
「うるせ」
 大判のタオルをカズナリが頭からかぶると、その表情が隠れた。
「いいじゃん、二メートルでも、勝ったんだし、大会新だし」
 タオルごとカズナリの頭を後ろから抱きしめる。
「よせ、気色悪い」
「巨乳のカワイ子ちゃんマネジャーだと思いねえ」
「男子校でそんなのいるわけないだろ。いたら気持ち悪いわ」
「想像力よ。これ肝心」
「バッカじゃねえの」
「お前は現実主義過ぎ」

――最終的に、杜の丘学園高等部は総合優勝を果たした。

 帰りのマイクロバス。ほとんどが疲れ果てて寝ている中、しみじみとカズナリは勝ち得た金メダルを眺めていた。
 金メダルをもらうのは初めてではない。むしろたくさんもらっている方だと思う。
 でも、今回のは特別だった。初めて二メートルを跳べた記念。中等部の頃、どんなに苦しんでも跳べなかった二メートルの壁。やっと手が届いた。嬉しかった。
「なに、しみじみ感激?」
 ついさっきまで隣で口を開けて寝ていたのに、アキミはいつの間にか起きてきて、カズナリの手元を覗き込む。
「うっ、うるさいっ」
「いいよなー、なんたってカズは大会新だもんなー」
「お前だって、あとコンマ四秒で大会新だったじゃないか」
「そのコンマ四秒が縮まないのよ」
「まあ、そりゃそうだけどな……でもお前なら、来年超えられるよ、きっと」
「来年はもっとシビアだもん。コンマ六秒だぜ」
「俺だって同じだよ。来年は二メートル十五跳べないとダメだ」
「ま、来年の話をすると鬼が笑うってーし。とにかく今回はおめでとな」
「うん。ありがと」
 言うが早いかアキミはまた口を開けて、カズナリに寄りかかって寝始める。
 しばらく気持ちよさげなその様子を見ていたが、そのうちカズナリも眠くなって、アキミと頭をくっつけて寝はじめた。
――大会後のマイクロバスは、眠い。