僕は燕脂(えんじ)色の緞帳(どんちょう)の隙間から体育館を見下ろした。体育館の舞台の上が僕の居場所だ。

「なぁ、井浦はなんで科学部と演劇部を掛け持ちしてんの?」
「いてててて」

 寸劇練習前のストレッチ体操で副部長が容赦なく背中を押して来た。

「そ、それは」
「それは?」
「ほっ、星が好きなんです」
「星ねぇ」
「そ、そう・・・いててて!」

 膝裏(ひざうら)()り額に汗が滲んだ。

「じゃ、演劇部に入部した理由は?」
「え、演劇・・・がっ好き・・いててて」

 まさか体育館のコートで白いシャトル(バドミントンの羽)を追い掛けている田辺さんの姿が見たいからなどとは口が裂けても言えない。そんな事を真っ正直に言おうものなら明日には二年生の全クラスに知れ渡っているに違いなかった。

「そんなに演劇が好きなのか?」
「はい・・・いてて」
「二年生で途中入部なんて普通いないぞ?」
「は、はぁ」

 前屈運動で悲鳴を上げながら僕はバドミントン部のコートを見遣った。

(可愛いなぁ)

 田辺さんは高等学校二年生の春に転入して来た。溌剌(はつらつ)とした笑顔、猫の目の様にクルクルと変わる表情に僕の心臓は鷲掴(わしずか)みにされた。残念ながら三組と四組でクラスは違ったが体育や化学の合同授業ではなるべく近くの席に座った。それでも僕は話し掛けるきっかけを掴む事が出来ず、ましてや告白する勇気もなかった。

「井浦!ぼんやりするな!発声練習!」
「あ、はい!」

 演劇部の活動はまずストレッチ体操で身体を温め、次に腹式呼吸で腹の底から声を出す発声練習を行う。

「あ、い、う、え、え、お、あ、お」
「か、き、く、け、け、こ、か、こ」

 何度やってもこの呪文は恥ずかしく顔が赤らんだ。また発声練習は体育館に向かって行うので否応なしに女子バドミントン部のコートを見下ろした。思わず目を(つむ)ると先輩から「ちゃんと前を見て!」と注意され視線の先にはラケットを構えてスマッシュを決める田辺さんの姿があった。彼女のシャトルが床を叩く度に僕の心臓を貫いた。

「はい、今日の寸劇はこの台本で行います。大体の台詞(せりふ)は憶えて!」

 僕は息を呑んだ。その日手渡された寸劇の台本は男女の恋愛ものだった。

(う、嘘)

 女役は三年生の部長で男役は僕だった。部長は厳しく台詞(せりふ)を一字一句完璧に(こな)す事を望んだ。台本に並んだ文字は「君が好きだ」僕は目眩(めまい)がした。毎回寸劇が始まると女子バドミントン部は練習を中断して舞台を見る。これまで僕は村のおじいさん役や二足歩行の動物の役が多かった。

(恋人役なんて)

 客席側から舞台を照らす前明(まえあ)かりが点き寸劇が始まった。

(ど、どうしよう)

 僕たちの寸劇は三番目だった。台本を手に落ち着かない雰囲気の僕に部長が「台詞(せりふ)、憶えられないの?」と耳打ちして来た。

「いえ、大丈夫です」

 大丈夫も何も僕の頭の中では「君が好きだ」が渦を巻き、背中には汗が流れ口の中はカラカラに渇いていた。一組目の寸劇が終わり何気なく体育館を見遣ったその時、田辺さんと目が合った様な気がして身体中の血が逆流した。それでも順番は巡って来る。部長が病に倒れる少女の役を見事に演じ、僕はその恋人役に扮した。

(来る、来る!)

 僕は絶命した少女の肩を抱きその言葉を叫んだ。

「君が、君が好きだ!」

 それは目の前で床に倒れている部長ではなく心の奥底では舞台を眺める田辺さんに向かって叫んでいた。

(田辺さんが好きだ!)

 寸劇を終えた僕が女子バドミントン部のコートを振り向くと練習試合が始まり田辺さんはラケットを使い器用にシャトルを拾っていた。



 あれから一年、僕は高等学校三年生の夏休みを迎えていた。

 その日はお盆で演劇部の活動は休みだったが僕はいつもの場所で発声練習をしていた。どうしても「さ、し、す、せ、せ、そ、さ、そ」が上手く発音できず未だに部長から「出来ていない!」と注意されそれが悔しかった。川沿いの堤防は車や人の往来が少ない橋の下にあり橋が日避けになり涼しかった。また、コンクリートの橋桁に声が反響し発声練習には丁度良かった。

「さ、し、す、せ、せ、そ、さ、そ」
「た、ち、つ、て、て、と、た、と」

(ふぅ、ちょっと疲れた)

 僕は休憩を取る事にした。炭酸飲料水で喉を潤し秋の文化祭で発表する演目の台本を数ページほど読み進めた。三年生は文化祭を機に部活動を引退する。これが最後だと思うと少しだけ寂しさを覚えた。その時背後に人の気配を感じた。河川敷でランニングをする人でも来たのだろうと場所を退()いた時、見覚えのある制服が立っていた。

「えっ!ええっ!?」

 振り向いた僕の体温は一気に上昇した。そこで微笑んでいたのは田辺さんだった。

「こんにちは」
「こ、こんにちは」
「演劇部の井浦くんだよね?」
「ど、どうして僕の事を」
「科学部の部長さんが演劇部に入部したって有名だよ」
「そうなんだ」
「うん」

 田辺さんは「隣、良いかな?」と断りを入れて僕の隣に座り台本の表紙を覗き見た。

「ここ、涼しくて気持ち良いね」
「あ、うん」
「いつもここで練習しているの?」
「うん」

 田辺さんは夏期講習の帰り道だと言った。

「聞き覚えのある声だな〜って思って覗いてみたら井浦くんだった」
「え、僕の声が分かるの?」

 田辺さんは僕の声は他の男子生徒より少し低くいから聞き分けられると言った。

「田辺さんは耳が良いんだね」
「だって、井浦くんの事が気になるから」

 橋の上を子どもたちが賑やかに走って通り過ぎた。川面に小石を投げ入れていた田辺さんはおもむろに髪の毛を掻き上げ少し恥ずかしそうに下を向いた。

「私、聞こえたんだ」
「何が聞こえたの?僕、田辺さんと話すの初めてだよね?」
「あの時、聞こえたの」

 田辺さんは急に顔を上げると僕の顔を凝視(ぎょうし)した。田辺さんの瞳は青みがかった薄茶で不思議な色をしていた。

「聞こえたの」
「え?」
「あの時、聞こえたの」

「あの時って?」
「劇で井浦くんが大きな声で言ってたよ」
「僕、なんて言ってた?」

「君が好きだって」

「あれは寸劇の台詞(せりふ)で言ったんだよ」
「その時、君が好きだって聞こえたの」

 田辺さんは思わせ振りな言葉を残して立ち上がると制服のスカートに付いた砂利を払い「またね」と手を振った。そして言葉を無くした僕を置き去りにしてコンクリートの階段を駆け上がって行った。

「・・・君が、好き」

 もしかしたら僕の言葉(ことのは)は田辺さんに届いていたのかもしれない。

「君が、君が好きだ」

 川面を滑る涼風が台本のページをめくった。