五

「見つけた!」
「見つけられた! って、僕を捜してたの?」
 歌を遮った楸矢を聴衆が睨み付ける。

 柊矢と楸矢で小夜にピアノを教えているときに椿矢の歌声が聴こえてきたので、三人で中央公園までやってきたのだ。

「ま、とにかく、逃げないからさ。あと二、三曲歌わせてよ」
 椿矢はそう言うとムーシカを続けた。

 それを柊矢と楸矢はじりじりしながら待っていた。
 小夜は二人の後ろで歌声に耳を傾けていた。

 やっぱりムーシカは最高だ。
 椿矢さんの優しくて甘い声。それに重なる澄んだソプラノや、低く響くアルトの歌声。様々な楽器の演奏も風に乗って聴こえてくる。

 歌えなくてもこうして聴いていられるだけで幸せだった。
 小夜はうっとりしてムーシカの旋律に(ひた)っていた。

 しかし柊矢と楸矢はそれどころではなかった。いつもなら心地よい歌声も、今日は耳に入らなかった。地球人でさえ、もっと聴きたいと思う美しい旋律も、柊矢や楸矢の耳には入らなかった。

 ようやくムーシカが終わり、聴衆が散ると、椿矢はブズーキを置いて柊矢達に向き直った。

「随分長いこと姿を見せなかったな」
「なんかあの人達に狙われてるような気がしてね。で、用件は?」
 柊矢は事情を話した。

「あの毒、現存したんだ」
「毒のことを知ってるのか!」
 柊矢と楸矢が身を乗り出した。

「なら、解毒剤も……」
「毒も解毒剤も地球のものじゃないよ」
 椿矢が柊矢を遮って言った。

「毒が手に入るなら解毒剤だって……」
「残念だけど、僕に分かるのはこの森のどこかに生えてるって事だけ」
 椿矢が手を振ってみせたので周囲を見回すといつの間にか森が現れていた。

「解毒剤になる草は分かるけど……」
「凍り付いてるから使えない、か」
 柊矢と楸矢は肩を落とした。
 小夜は一人でスマホに何か書いていた。

「これがあの人達の手なのかもしれないね」
 椿矢が言った。
「解毒剤のために俺達が森の眠りを覚ますだろうって読みか」
「悔しいけど、ここは沙陽の……」
 そう言いかけた楸矢の裾を小夜が引いた。

「何? 小夜ちゃん」
 小夜は柊矢と楸矢にスマホを見せると丁寧にお辞儀をした。

 みなさん、ありがとうございます
 もう十分です

「何言ってんの! 小夜ちゃん、ここで諦めるの!?」
 小夜は更にスマホに入力した。

 私はクレーイス・エコーです
 その私が公私混同で森を起こすわけにはいきません
 みなさんの気持ちだけいただいておきます

「小夜ちゃん」

 私の代わりに封印のムーシカを歌ってください

 小夜はもう一度お辞儀した。

「待ってよ! 小夜ちゃん! 諦めたらダメだよ!」
 楸矢は小夜の両腕を取って揺すった。
「一時的に起こして、解毒剤の草だけ取って封印すれば……」
 小夜は首を振った。

 自分がクレーイス・エコーになった理由は分からない。
 特に意味はないのかもしれない。

 そうだとしても、ムーシケーの意志に反することはしたくなかった。
 ムーシケーを覆っている旋律に憧憬(しょうけい)の念を抱いているからこそ、それを冒涜するような真似はしたくない。

 椿矢がブズーキを奏で始める。

「待て……!」
 椿矢を止めようとした楸矢の腕を小夜が掴んでもう一度首を振った。
「封印したら治癒のムーシカを歌うよ。それで手を打ってくれないかな」
 椿矢が言った。

「治癒のムーシカなんてあるのかよ!」
「ありそうだな」
 柊矢が言った。

 その言葉に楸矢は黙った。
 心の中で治癒のムーシカを望むと旋律が浮かんできた。

 これで小夜を治せるのかは分からないが治癒のムーシカがあることは確かのようだ。

 椿矢が歌い始めると他のムーソポイオスが同調して歌い始めた。一重一重、重なって八重になるように、歌声が重なっていく。
 歌声が流れ、通り過ぎていったところにある森が薄くなっていく。

 森が徐々に消えていった。
 ムーシカが終わりに差し掛かったとき歌いながら椿矢が柊矢の後ろを指した。

 森は殆ど消えているのに、わずかに地面が残っていた。
 そこに一輪の花が咲いていた。

 青い色をした、キキョウに似た小さな花だった。
 凍り付いた旋律の大地に生えていながら、その花は凍っていなかった。

「これが……」
 柊矢が花を手折(たお)ると森は完全に消えた。
「これが、解毒剤?」
 楸矢が訊ねた。

「そうだよ」
 椿矢が答えた。

「どうやって飲むの?」
「薬草なんだから(せん)じるんじゃないのか?」
「これは、こうして……」
 椿矢は柊矢から花を受け取ると器用に花を茎から切り離して小夜に差し出した。
「付け根のところから蜜を吸って」
 小夜は恐る恐る口を付けると蜜を吸った。甘い蜜が一滴、喉を通った。

 あ……

 かろうじて聴こえるくらいの小さな声が出た。

 出ました

 かすれた声で囁くように言った。

「これで治ったって言えるの?」
 楸矢が椿矢を睨んだ。

 楸矢さん、楸矢さん、声、出てますよ

 小夜が楸矢の袖を引っ張る。

「小夜ちゃん、悪いけど聞こえてないよ」
 楸矢が首を振った。
「そこで僕たちの出番でしょ」
 椿矢はブズーキを弾きながら歌い始めた。

 すぐに他のムーソポイオスも歌い始める。
 歌声が集まって小夜を優しく包む。
 小夜は目を閉じて聴いていた。

 小夜を中心に大きな八重咲きの花が開いていくようだった。
 ムーソポイオスの歌声に喉が治っていくのが感じられた。

 もう大丈夫だ。

 柊矢は確信した。

 このムーシカが小夜を癒やしてくれた。

 柊矢はキタラを持ってこなかったことを悔いていた。
 自分もこのムーシカに参加して小夜の喉を治したかった。

「あーあ、笛持ってくれば良かった」
 楸矢も同じ気持ちらしい。盛んに残念がっていた。

 治癒のムーシカが終わると小夜が歌い始めた。声はすっかり戻っていた。
 透き通った優しい歌声が広がっていく。
 三人が一様に驚いた表情をした。

「これは……」
「これ、ムーシカ……だよね」
 楸矢が確かめるように柊矢と椿矢を見た。

 耳に聴こえる肉声とは別に〝聴こえてる〟からムーシカのはずだ。
 だが知らないムーシカだった。

 既存のムーシカなら聴いたことのないものでも知ってるはずなのに。
 だから確信が持てなかったのだ。

「小夜ちゃんが創った新しいムーシカなんだよ」
 椿矢が言った。

 だから他のムーシコスは誰も知らないのだ。
 これはムーシカだから他のムーシコスの元にも届いている。だが小夜のムーシカだから他のムーシコスは参加していない。

 歌っているのは小夜だけだが、それは沙陽のようにムーシコスが味方していないための独唱ではない。
 これは小夜から他のムーシコスへのお礼のムーシカだ。

 だから他のムーシコスは大人しく聴いているのだ。
 小夜の歌声が風に乗って街へ広がっていく。

 有難う、柊矢さん、楸矢さん、椿矢さん。
 有難う、ムーシコス。

「こうやって、ムーシカは出来てきたんだな」
 小夜の歌声を聴きながら柊矢が言った。

 ムーシケーを凍り付かせている旋律は、きっと全てムーシコスの先人達の作ったものだ。
 ムーシコスが心に思うだけで旋律が溢れてくるのはそれが魂に刻まれているからだ。
 こうやって新しいムーシカが生まれる度にムーシコスの魂に刻まれてきたのだ。

 小夜のムーシカも同じようにムーシコスの魂に刻まれ、次からは他のムーシコスも奏でるだろう。
 三人はただ黙って小夜の歌声を聴いていた。
       一

 柊矢に、今日は迎えに行けないから楸矢を行かせる、と言われたので校門の前で待っていると、いきなり腕を掴まれ思わずつられて一緒に歩き出してしまった。
 横を見ると腕を掴んでいるのは沙陽だった。

「あ、あの、私、楸矢さんを待ってないと……」
「話をするだけよ。話が終わったら戻ればいいわ」
 沙陽は命令するようにそう言うと小夜の腕を掴んだまま歩いていく。

 小夜は引っ張られるままに()いていくしかなかった。

「柊矢さんのことなら……」
「柊矢も楸矢も関係ないわ」
 沙陽が遮った。

「最初からあなたときちんと話しをすべきだった」

 小夜が訳が分からない、と言う顔で沙陽を見上げると、
「森の事よ。あなたにはあの森の素晴らしさが分かるでしょ」
 前を向いたままで断定するように言った。

「それは……」
 確かにあの森への憧憬は唯一沙陽と共有できる想いだろう。

 柊矢さんへの想いもかな?

「あの森を凍り付かせてる旋律が溶けたときのことを想像したことがあるでしょ」

 勿論、何度もある。
 たった一滴の旋律でさえ、あれほど美しかったのだ。

 全て溶けたら惑星上の全てのものが素晴らしい音色を奏でるだろう。
 その旋律に包まれることが出来たらどれだけ幸せな気持ちになれるだろう。

 その場にいるためならどんな犠牲を払ってもいいとすら思う、ムーシコスには抗えない魅力のある場所。
 沙陽も小夜と同様、あの森にすっかり魅せられている。取り憑かれていると言ってもいいほどに。

「旋律の溶けた森に行ってみたいでしょ」
「それは……思います。でも、行けません」
「どうしてよ! 行きたいんでしょ!」
 沙陽は腕を掴む手に力を込めた。

 痛みに思わず小夜は顔をしかめた。
 しかし沙陽は小夜のそんな様子には気付かないようだった。

「あなたには行ける手段だってあるじゃない! どうしてそれを使わないのよ!」
「それは、ムーシケーが私達が行くことを拒んでいるからです。私はクレーイス・エコーとして、ムーシケーの意志に逆らうことは出来ません」
「逆らえないんじゃないでしょ! 逆らわないだけでしょ!」
「私にとっては同じ事です」
 沙陽が腕を掴む力を更に強める。

 痛っ!

 小夜は顔を(しか)めた。

「沙陽さん、私、もう戻らないと」

 沙陽は無表情のまま前を見ていた。
 二人は交差点の歩道の端に立っていた。
 右側からすごいスピードでバスが迫ってくる。

 まさか……。
 このままバスの前に突き飛ばす気じゃ……。

 小夜は青くなった。
 そのとき不意に腕から圧力が消えた。
 見ると楸矢が沙陽の手首を掴んでいる。

「消えて。女の人に暴力振るいたくない」
 沙陽は楸矢を睨むと丁度青に変わった信号を渡っていった。
「楸矢さん。校門の前で待ってなくてすみませんでした」
 小夜は頭を下げた。

「いや、間に合って良かったよ。小夜ちゃんの友達が前に襲ってきた女が小夜ちゃん連れてったって電話くれて、慌てて飛んできたんだ」

 以前、沙陽が清美を使って脅迫してきたとき、また同じ事があったときのために清美に柊矢と楸矢の連絡先を教えておいたのだ。

「清美が……。助けてくれて有難うございました」
 小夜は頭を下げた。
「どういたしまして。友達に連絡する?」
「はい」
 小夜はスマホで清美に無事を伝えて礼を言った。

「じゃ、帰ろうか」
 楸矢はそう言って小夜と共にバス停に向かって歩き始めた。

「それにしても分からないよなぁ。確かに幻想的で綺麗な森だとは思うけどさぁ、あそこまで執着するほどのものかね」
「ムーシコスにとってあの森以上に心を惹かれる場所はないと思いますけど」
「そんなに魅力的かなぁ」
 楸矢が理解できない、と言うような表情をした。

 小夜も首を傾げる。

 なんで同じムーシコスなのにこんなに淡泊なんだろう。

 どうもあの森の素晴らしさが今一つ分かってないように思える。

 もしかして……。

「あの、楸矢さん、あの森の旋律、聴いたことあります?」
「初めて封印のムーシカ歌ったとき以外でって事?」
 小夜が頷いた。

「ないけど」

 やっぱり。

 柊矢も楸矢も椿矢も、森に大して関心を示してないから変だと思っていたのだ。
 あの凍り付いている旋律を聴いたことがなければ、ただの綺麗な森だとしか思えない。
 綺麗なだけの森では帰りたいと思うわけがない。

 柊矢達からすれば、あの森に帰りたい、というのは、居住禁止の国立公園の真ん中に、景色が綺麗だから住みたい、と駄々をこねているのと同じだろう。

「小夜ちゃんはあるの?」
「はい」
 小夜は初めて森を見たときのことを話した。

「旋律の雫、か」

 惑星一杯に凍り付いた旋律はきっと、何億、何兆という膨大な音楽のはずだ。
 一生かかっても全てを聴くことは出来ないほど沢山の美しい旋律。

「まぁ、それなら確かにムーシコスは惹かれるだろうけどさ、ムーシケーは帰ってくるなって言ってるわけでしょ」

 楸矢もムーシコスだから旋律に満ちた世界がどれほど魅惑的かは理解できる。
 しかし、今は全て凍り付いている。

「どうしてムーシケーは拒絶するんでしょう。ムーシコスはムーシケーから生まれたのに」
「SFとかだと、ムーシコスが、惑星を破壊しかけたから、とかだよね」

 確かに良くありそうな話ではある。

「ムーシコスって、イメージ的に音楽を愛する平和な種族に思えますけど」

 正確には音楽以外は眼中にない種族だろうか。
 音楽を奏でていられれば満足だから争いの起きる余地がないというか。

 柊矢の、音大付属を選んだ理由が音楽の授業が多かったからと言う言葉にもそれがよく表れている。
 ヴァイオリニストにしても、なってもいい程度だったというのもそうだ。

 楽器の演奏をしていたいだけだから、音楽で身を立てようとか言う発想はないし、楸矢が音大に行くかどうかや将来どうするかは本人が勝手に決めればいいと考えているようだ。

 勿論、楸矢が困っていたり悩んでいたりすれば助けるだろうが、それ以外で干渉する気はないのだろう。
 家族に対してさえそうなのだから他人との対立など起きようがない。

 帰還派のように向こうから何か仕掛けてくれば別だが。
 小夜が音楽室で歌い始めると柊矢も楸矢もすぐにやってきて演奏を始める。

 特に柊矢はそれが顕著だ。
 他のムーシコスも多分、柊矢同様ムーシカを聴くと、そのときやっていたことを放り出して歌や演奏を始めてしまうのだろう。
 個人差はあるが、ムーシコスはそれくらい音楽――というかムーシカ――に弱い。

「そう思いたいのは山々だけどさ、沙陽みたいのだっているじゃん。それに危険な兵器を使ってとかじゃなくてムーシカが惑星(ほし)を壊しそうになったとか」
(ムーシカ)惑星(ほし)を壊せるものなんですか?」
「嵐を起こせるくらいだからねぇ。案外、旋律が溶けると惑星が崩壊する、とかかもよ」

 そんな話をしているうちにバスがバス停に着いた。
 小夜がバスから降りる。

「買い物に行くんだ」
 楸矢が一緒に降りながら言った。
 霧生家の最寄りのバス停は次である。ここで下りたと言うことはスーパーで買い物をすると言うことだ。

「今日の夕食、何?」
「まだ材料買ってませんから何でもいいですよ」
「そっかぁ。何にしようかな」
 楸矢はそう言いながら嬉しそうに小夜の隣を歩き始めた。

「今度こそ決めた! カツ丼と肉じゃが!」
 楸矢は散々迷った末その二つに決めた。
 なかなか決まらないのでスーパーの中をうろうろしてしまった。
 材料をカゴに入れるとレジに向かった。

「小夜ちゃん、お礼にいいこと教えてあげる。柊兄の誕生日、来月だよ。二月五日」
「そうだったんですか。楸矢さんはいつなんですか?」
「え、俺? 俺はいいじゃん。内緒」
「教えてくれないんですか?」
「そ、秘密」

 何か嫌なことでもあったのかな?
 もしかしてお祖父様の命日だとか?

 それなら無理に聞かない方がいいだろう。
 小夜は深く追求しなかった。

 小夜が肉じゃがを作っているとき柊矢が帰ってきた。

「お帰りなさい」
「ただいま。今日は肉じゃがか」
 柊矢は小夜の肩越しに鍋を覗き込んだ。

 と、柊矢さん、顔近い!
 い、今、頬が触れたような気が……。

 小夜は真っ赤になった。

 心臓の音が聞こえないといいけど……!

「あ、あの、柊矢さん?」
 小夜は俯いたまま、柊矢に声をかけた。
「ん?」
「楸矢さんのお誕生日って……」
「十月十日だが」

「何か嫌なことでもあったんですか?」
「妊娠期間は十月十日って言うだろ。それで子供の頃、元旦に作られたって散々からかわれたんだ」
 柊矢の言葉に小夜は耳まで赤くなった。

「もう出来ますから、楸矢さんを呼んできてもらえますか?」
「分かった」
       二

「小夜~、聞いて!」
 学校の自分の机に鞄を置くと清美がこちらを向いた。

「どうしたの?」
「今、校門のところにすっごくかっこいい人がいたの」
「清美、柊矢さんが好きなんじゃなかったの?」
「柊矢さんは沢山いる恋人候補の一人ってだけだよ」
 清美はあっさり言った。

 つまり柊矢さんが好きってわけじゃないんだ。

 それにしても知り合いでしかない段階で恋人候補っていうのもすごい。
 片想い中ならともかく。

「それでどうしたの?」
 清美は小夜の手を取ると、折り畳まれたメモ用紙を載せた。
「なにこれ?」
「その人の番号」
「なんで、私に渡すの?」
 小夜が首を傾げた。

「もぉ~、小夜に渡して欲しいって頼まれたからに決まってるでしょ!」
「どうして?」
「一応確認しておくけど、それ、素で聞いてる?」
「うん」
 清美は溜息をついて肩を落とした。

「小夜に気があるから電話して欲しいって事だよ」
「え!?」
 小夜は驚いて清美を見た。

「だ、ダメだよ! 清美、返してきて!」
 小夜は清美にメモ用紙を押しつけた。
「どうしてよ、会うだけ会ってみたら? かっこいい人だったよ」
「無理! 絶対無理! 知らない男の人となんて話せない! とにかく断って!」
 激しく首を振りながら言う小夜に、もぉ~、小夜奥手すぎ、と言いつつも清美はメモ用紙を受け取った。

 良かった。

 無理矢理会わされたらどうしようかと思ったのだ。

 柊矢さんは私のことなんかなんとも思ってないだろうけど、私は柊矢さんが好きなんだから他の男の人と会ったりするのは良くないよね。
 清美だったらそんなことお構いなしに会っちゃいそうだけど。
 て言うか、この様子だと番号を渡されたのが清美なら今頃一緒にお茶してても驚かない。

 小夜は清美にメモ用紙を返してそれで終わったと思っていた。

「え? 受け取ってくれなかったの?」

 二十歳くらいだろうか。
 私服を着た青年は困ったような顔で前髪をかきあげた。
 淡い茶色の巻き毛が風に揺れている。

 それを清美がぼーっと見上げていた。
 その二人を通り越していく女生徒達も青年をちらちらと見ていく。

 中には一緒にいる清美を睨んでいく者までいた。
 勿論、清美はそんなの気にしない。
 青年が小夜に興味があると知って尚、他の女にとられてたまるか、と言うように、彼をがっちりガードしていた。

「そうか。残念だな。話だけでもしてみたかったんだけどな」
「あ、それなら、今日は無理ですけど、明日にでも小夜をお茶に誘いましょうか? あたしと一緒ならきっと会ってくれますよ」
 清美は青年の気を惹きたい一心(いっしん)で言った。

「いいの?」
「はい。任せてください。番号教えてもらえますか? 上手くいったら電話します」
「じゃあ、これ」
 青年は小夜が返してきたメモ用紙を清美に渡した。

 翌日、清美は小夜をお茶に誘った。
 何も知らない小夜は二つ返事でOKした。

 清美と一緒にファーストフード店に入っていくと既に柊矢が来ていた。
 小夜が柊矢に微笑むと向こうも頷いてきた。

 注文したコーヒーを受け取った小夜が席を探していると、
「小夜、こっちこっち」
 清美が呼んだ。
 行ってみると先客がいた。

「この人、昨日言ってた人。山田宗二さん」
「清美!」

 小夜が怒ると、
「小夜ちゃん、ゴメンね。清美ちゃんを怒らないであげて。僕が無理を言ったんだ。清美ちゃんと一緒に話をするだけならいいでしょ」
 宗二が手を合わせて謝った。

 小夜は困って柊矢の方を見た。
 柊矢は険しい顔でこちらを見ている。
 男が(そば)にいるのが気に入らないらしい。

 柊矢さん、怒ってるみたい。
 困ったな。

「何? 柊矢さん? あたしが理由(わけ)、話してきてあげようか?」
「いい! 柊矢さんには後で私から話すから」
 小夜はきっぱり断った。

 ここで清美が行ったら更にややこしくなりそうな気がする。

「じゃ、座ろ」
 清美がそう言って宗二の横に腰を下ろした。

 小夜は清美の前に座った。

 この人、どこかであったことあったっけ?

 小夜は宗二を見て首を(かし)げた。
 見覚えがあるような気がするのだが思い出せない。
 小夜は知らない男の人と話すことは滅多にないから話したことがあるなら覚えているはずだが。

「あの人、小夜ちゃんの彼氏?」
「いえ……」
「小夜の後見人なんです」
「後見人?」
 宗二が訊ねるように小夜の方を見た。

「その、色々ありまして……」
「ふぅん」
 宗二はそれ以上突っ込んでこなかった。

 話してみると宗二は感じのいい人だった。
 今大学三年生らしい。
 話術が(たく)みで、いつの間にか小夜も宗二の話に引き込まれていた。

「ね、今度一緒に映画観に行かない? 清美ちゃんも一緒ならいいでしょ」
「行きたい! ね、小夜、行こうよ!」
「清美……」
 清美は小夜が狙われてるということをすっかり忘れているらしい。

「お茶くらいならいいけど、映画とかは……」

 そのお茶だって清美が一緒でなければ柊矢が許してくれるかどうか。
 コーヒーを飲みながら横目で柊矢の方を窺うと、むすっとした顔でこちらを睨んでいる。

 清美が一緒でもダメかも。

 友達くらいにならなってもいいかな、と思い始めていたのだが、柊矢の反応を見ると男友達は認めてもらえそうになかった。

 あれって、保護者としてダメって事なのかな。
 それとも焼き餅?

 焼き餅かもしれないと思うとちょっと嬉しかった。

「……ちゃん? 小夜ちゃん?」
「あ、はい」
「小夜、ちゃんと話聞いてた?」

「ごめん、ちょっとぼーっとしてたみたい」
「夢見がちなところも可愛いね」
「はぁ」
 小夜は気の抜けた返事をした。

 清美が(あき)れ顔になる。

「お茶以外は全然ダメ?」
 宗二が訊ねた。
「たまには買い物でもしようよ」
 清美が言った。

 小夜が宗二と二人きりで会うのを拒む限り清美が(そば)についていることになる。
 つまり清美としてはそれだけ宗二といられることになるのだ。

 小夜はコーヒーに口を付けながら上目遣いで清美を見た。
 三人で一緒に行動していれば宗二は清美を好きになるかもしれない。
 そうすれば今後は小夜抜きで会うようになるはずだ。

 清美に宗二を押しつける結果になるが彼女もそれを望んでるようだから問題ないだろう。
 もう一度、宗二に目をやる。

 やっぱり、どこかで会ったことあるのかな。
 声も聞き覚えあるような……。

 初対面ではないように思えるが、だとしたら宗二はそう言うはずだ。
 多分、気のせいだろう。

「じゃあ、映画や買い物、行っていいか柊矢さんに聞いておきます。清美も一緒でいいならですけど」
「勿論、構わないよ」
 その言葉に清美が宗二の死角になるところでガッツポーズをした。

 清美、頼んだよ。

 任せて!

 女二人の視線での会話に宗二は気付かなかったようだ。
       三

「映画? 買い物?」
 柊矢が前方を見たまま眉を(ひそ)めた。
 帰りの車の中だった。

「清美があの人と付き合えるようになるまででいいんです。付き合い始めたら二人だけで会うようになるはずですから」
 小夜が懇願(こんがん)するように言った。
「あいつはお前の方に気があったようだが?」
「でも、お互い全然知らない相手ですし、一緒にいるうちに清美の方を好きになるかもしれないですから」
 柊矢は考え込んだ。

 確かに、小夜をぱっと見て気に入ったんだとしても清美の方が気が合うとなれば彼女の方を選ぶ可能性はある。
 清美だって可愛い顔をしているのだ。

 小夜は性格的に男に合わせるなんて無理だろうが清美の方は相手の好みに合わせるタイプに見える。
 狙ってる相手ならば尚のこと。

 問題は……。

「買い物は店を限定してなら。勿論、送り迎えは俺がする。映画はダメだ。暗いところで襲われたら防ぎようがないからな」
「分かりました」
 予想通りの答えだったので小夜は頷いた。

 小夜はふと思いついて、
「柊矢さんと二人でも映画はダメですか?」
 と聞いてみた。

「ホラーならいいぞ」
 柊矢が意地悪な笑みで言う。
「遠慮しておきます」
「今回のことが決着するまではDVDで我慢してくれ」
「はい」
 それほど映画が好きなわけではない小夜は素直に返事をした。

「買い物していくか?」
 そろそろ大久保通りに近くなった。
 買い物をするかどうかで右に曲がるか真っ直ぐか変わってくる。

「何か食べたいものありますか? 昨日は楸矢さんの好きなもの作りましたから、今日は柊矢さんの好きなもの作りますよ」
 柊矢はちょっと考えてから大久保通りを右折した。

「買い物なんだけどさ、丁度今、原宿のお店でセールやってるよ」
「え! 行きたい!」

 そう答えてから、
「あ、でも、女の子の服の買い物なんて、宗二さんは嫌じゃないかな」
 と小夜が言うと、
「じゃ、聞いてみる」
 清美はいそいそとスマホを取りだして教室から出ていった。

 宗二に電話する口実が出来たのが嬉しいらしい。

 清美と宗二さんが上手くいくといいけど。
 でも、そうなったら私とはあんまり一緒にいられなくなっちゃうかな。

 清美に念願の彼氏が出来るのは嬉しいが、ちょっぴり寂しい気もした。

「OKだって」
 清美が帰ってきて言った。
「じゃ、服買いに行こうか。あ……」
「どうしたの?」
「なんでもない」

 宗二に、柊矢の誕生日プレゼントの相談に乗ってもらおうかと思ったのだが清美と上手くいくまではあまり積極的に話さない方がいいだろう。

「じゃ、今度の日曜日にね」
 清美が言った。

 日曜日、小夜は清美、宗二の二人とともに原宿の店に来ていた。
「こっちは?」
「え? こっちの方が良くない?」

 限られた予算でベストの選択をするには商品を厳選しなければならない。
 自然とあっちをあわせてみたり、こっちをあわせてみたり、となってしまう。
 店内は小夜と同い年くらいの女の子で溢れていた。

「このスカートと合わせるならこのブラウスだよね。でも、あのベストと合わせるならあっちのブラウスの方が……」
「でも、そうするとスカートが……」
 服選びに夢中の二人に宗二は完全に置いてけぼりを食った。

 宗二の方も、とても口を出せる雰囲気ではないと悟ったのか、店の外でスマホをいじっていた。
 清美も今だけは宗二を綺麗に忘れていた。

「やっぱり。向こうの方がいいかなぁ」
「それよりこっちの方がいいんじゃない?」

「小夜、あっちにしなよ。あたし、そっちにする。で、着たいときに貸しっこしようよ」
「いいよ。じゃ、次、隣の店行こうか」
「うん」
 二人がレジをすませて店を出ると宗二は壁にもたれていた。

「マズっ! 宗二さん、すみませんでした」
 清美が慌てて頭を下げた。

 小夜も一緒に頭を下げる。
 お互い横目で、今日は他の店は無理だねと確認し合った。

「構わないよ。気に入ったの買えた?」
 そう言った宗二の顔は引き()っていた。
「はい。宗二さん、疲れたんじゃないですか?」
 清美が宗二を気遣うように言った。

「君達の方が疲れたでしょ。そろそろお茶でも……」
 宗二がそう言いかけたとき、人混みの向こうに柊矢の姿が見えた。
「柊矢さん」
 小夜が真っ()ぐに柊矢の方に駆けていく。

 小夜が目の前に立つと柊矢が小夜の荷物を持った。

「あの人、ホントにただの後見人?」
 そうは見えない、と言いたげな口調で宗二が訊ねた。
「本人はそう言ってますけど」
 清美も今の小夜を見て自信がなくなった。

 あれはどう見ても恋人に駆け寄っていくときの表情だったし、小夜の荷物を当然のように持った柊矢も後見している子供を見る目ではなかった。

「清美、ゴメン、もう帰らないと。宗二さん、今日はすみませんでした」
 小夜は戻ってきて二人に頭を下げると柊矢の元に走っていった。

「買い物は済んだのか?」
 柊矢は小夜の肩を抱きながら訊ねた。
「それが……」
 小夜が事情を話した。

「その店は今度にしろ。今日は別の店に行く」
「え? 行くって、どういうことですか?」

 柊矢に連れて行かれたのは新宿のデパートに入っている店だった。
 大人っぽさの中にも可愛らしさがあるデザインの服が置いてある。

「きれい……」
 そう言いながら値札を見て慌てて手を引っ込めた。
「まずはこれだな」
 柊矢が桜色のブレザーを選んだ。

「試着してこい」
 柊矢は有無を言わせず小夜を店員に引き渡した。
 小夜が店員に案内されて試着室へ入る。

「良くお似合いですよ」
「サイズもぴったりみたいだな」
「柊矢さん……」
 柊矢は言いかけた小夜を遮って服を渡すとまた試着室へ押し込んだ。
 全部すむと柊矢はレジで金を払って荷物を受け取った。

「と、柊矢さん、私、こんな高いの……」
「値段は気にするな」
「気にします」

「お前の後見人として、ちゃんとした服も必要だと思っただけだ」
「でも……」
「じゃ、身体で払うか?」

「柊矢さん、それ本気で言ってたら怒りますよ」
「冗談ならいいのか?」
「冗談でもダメです」
「とにかく気にするな」
 柊矢はそれで話は終わり、と言う表情で歩き出した。
       四

「清美、おはよう。昨日、あれからどうだった?」
「お茶には行ったよ」
 話が弾んだという表情ではない。

「宗二さんと上手くいきそうじゃないの?」
「宗二さんが好きなのは小夜だよ。その小夜が柊矢さんといちゃいちゃしてるの見ちゃったら、ね」
「え、いちゃいちゃなんてしなかったよ」
 小夜が赤くなった。

「柊矢さんとはそんなんじゃないって前にも……」
「小夜の荷物持って肩抱いて、それで何もないっていうわけ?」
「荷物なら楸矢さんだって持ってくれるし、肩抱くのだって別に特別な意味は……」
 だんだん小夜の声が小さくなっていった。

「じゃ、楸矢さんも小夜の肩抱くわけ? 柊矢さんは他の女の人の肩抱く?」
「楸矢さんはしないけど……、柊矢さんが他の女の人の肩抱いてるのも見たことないけど……」
 他の女性といっても沙陽くらいしか知らないが、彼女とは睨み合っているところしか見たことがない。

「そゆこと。柊矢さんにとって女って言ったら小夜なんだよ」
「そ、そんなこと……」
 不意に中央公園でのことを思い出して耳まで真っ赤になった。

「あ! なんかあったんだ!」
「な、ない! ないよ! 何もなかった! て言うか、しなかった! 柊矢さんが無理強いはしないって言って……」
 小夜の言葉に清美が唖然とした。

「しなかったって……、あんた達そんなとこまでいってたの!」
「そんなとこって、キスくらいでそんな……」
 小夜がおろおろしながら言った。

「つまりキスしそうになったんだ」

 あ……。

 口を押さえたが遅かった。結局、清美に全部吐かされてしまった。

「じゃ、小夜が拒んだんだ。勿体ない」
「だ、だって、本気かどうか分かんなかったし……」
「本気じゃなくたって既成事実作っちゃえばこっちの勝ちじゃん」
「既成事実って、キスくらいで……」
 小夜が呆れて言った。

 沙陽とだってキスくらいしたことあるだろう。

「あーあ、小夜が柊矢さんとそうなるのは分かってたんだよね。だから小夜より先に彼氏作ろうと思ってたのに」
「そんな、競争じゃないんだから。それに、私、柊矢さんの彼女じゃないし」

 言葉にすると胸が少し痛んだ。

 そうだ、彼女じゃない。
 柊矢さんはそれらしい素振りはするけど、何にも言ってくれてない。

「清美だって宗二さんと……」
「小夜目当てだったんだよ。小夜に振られたらもう連絡なんかしてこないよ」
「清美からすればいいじゃん」
「う~ん」
 いつもなら図々しいくらいの清美にしては珍しく消極的だ。

 もしかして、宗二さんに本気になった、とか?
 清美の邪魔しちゃったかな。

 そのとき予鈴が鳴って、話はそれきりになった。

 休み時間、清美にお茶に誘われた。

「清美、怒ってないの?」
 小夜は恐る恐る訊ねた。
「怒るって何に?」
「宗二さんとのこと、邪魔しちゃったでしょ」
「元々、宗二さんが好きだったのは小夜じゃん。あたしはチャンスがあればいいなって思っただけ」
 清美はそう言って話を打ち切った。

 放課後、新宿通りを歩いているときだった。
 不意に歌声が聴こえてきた。

 ムーシカ……だよね。

 これは肉声ではない。

 でも……多分、他のムーシコスにも聴こえてない。

 聴こえてるなら他のムーシコスが加わっているはずだ。
 このムーシカには人を傷付ける意図は感じられないのだから。

「小夜?」
 立ち止まった小夜を清美が振り返った。
「ゴメン、清美、先行ってくれる? ちょっと忘れ物したみたい」
「分かった。じゃ、席取っとくね」

 清美が行ってしまうと小夜はムーシカが聴こえてくる方へと歩き出した。
 細い路地を曲がったところに宗二がいた。

「ホント、ムーシコスってムーシカに弱いよね」
 壁にもたれたまま言った。
「ムーシカを歌うだけでよってくるのに、どうしてムーシコスの集団って存在しないんだろうね。それとも僕が知らないだけであるのかな」
「宗二さんもムーシコスだったんですか?」

「宗二は偽名。本名は雨宮(あまみや)榎矢(かや)。って言っても分からないよね。椿矢と楸矢とかだったらすぐ分かるんだろうけど」
「……椿矢さんの弟さん?」
 そういえば、椿矢は弟がいると言っていた。

「そ。雨宮椿矢の弟」
「今のムーシカは……」
「呼び出しのムーシカってとこかな」
 小夜は首を傾げた。

「特定の相手だけに聴かせるムーシカ。昔はムーシコスなら誰でも使えたみたいだよ、今は使えるムーシコスは限られてるけど」
「それで、私を呼び出したのはどうしてですか?」
「ムーシコス同士は惹かれあう。だから君を落とすのは簡単だと思ったんだけどな。あいつもムーシコスだって事忘れてたよ」
 榎矢は「あいつ」という言葉を憎々しげに言った。

「私があなたを好きになったらどうするつもりだったんですか?」
「勿論、森への道を開いてもらう。凍ってる旋律を溶かして、ね。本来なら僕がクレーイス・エコーになるはずだったんだ。クレーイス・エコーを継ぐものは代々、木偏の名を貰ってるんだ」
「木偏って……じゃあ、柊矢さん達も……」

 もしかして、沙陽さんが二股かけてた「けい」って人も木偏の名前だったのかな。

「遠い親戚らしいね。地球人と結婚して血を薄めた連中に親戚だなんて名乗る気ないけど」
 小夜は榎矢を見つめた。

 そうか。

 椿矢も榎矢も初めて会ったときから見覚えがあるような気がしていたが、どことなく面差しが楸矢に似ていたのだ。
 椿矢と榎矢は兄弟だからそれ以上に顔も声も似ている。

 だから声に聞き覚えがある気がしたのだ。
 二人の間をムーシカが流れていく。
 小夜もそれに併せてムーシカを口ずさんだ。

「うちは代々ムーシコス同士で結婚して、ムーシコスの血筋を維持してきた。だからみんな強い能力(ちから)を持ってる。クレーイス・エコーになるのにふさわしいようにね」
 小夜は歌いながらも聞いているというように頷いた。

「なのに選ばれたのは血が薄くて力の弱い霧生兄弟に、先祖返りでたまたま能力(ちから)が強く出た君だ」
「ムーシケーがクレーイス・エコーを選ぶ基準は能力(ちから)の強弱じゃなくて、ムーシケーの意志に従う人だと思います」
「……確かにそのようだね。でも、今のクレーイス・エコーが三人ともいなくなったら、次は誰を選ぶかな」

 榎矢が小夜に近付こうとしたとき、
「おい!」
 柊矢が駆けてきた。

「柊矢さん!」
 小夜がほっとして柊矢を見上げた。
「今のムーシカはなんだ」
「それは後でお話しします」

「どうやら不肖(ふしょう)の弟がバカなことしようとしたみたいだね。未遂で終わったようだけど」
 椿矢も現れた。
「今のムーシカで二人同時に呼んだのか……」
 榎矢が驚いたように小夜を見た。

「クレーイス・エコーは伊達じゃないって事か」
 そう言うと、榎矢は踵を返して去っていった。

「あいつに何かされたのか?」
「いえ、まだ何も……」
「あいつ、君に何て言ってた?」

「自分がクレーイス・エコーを()ぐはずだったって」
「まだ、そんなことを……」
 椿矢は呆れたように溜息をついた。

「いい加減諦めて欲しいんだけど、煽る人がいるからね」
「沙陽、か」
 柊矢が言った。

「そう言うこと。沙陽(あのひと)んちもムーシコスの家系だからさ。やたら(こだわ)るんだよね。うちは、なまじここ三代続けてクレーイス・エコーに選ばれてただけに榎矢は自分が選ばれなかったのが納得できないらしくてさ」
「沙陽の知り合いが先代のクレーイス・エコーだったと言っていたが、もしかして……」

「うちの祖父様(じいさま)。榎矢は祖父様の次は自分だって思ってたんだよね」
「血筋を維持してきたって言うのも言ってました」

「それは嘘だよ」
「嘘?」

「断言は出来ないけど、地球へ来た頃のムーシコスの外見はギリシア人に似てたんじゃないかな。僕の予想だけど、古典ギリシア語のムーシカが多いのは、ムーシコスが見た目の似てるギリシア人が多い場所――つまりギリシア――に送られたからだと思う。けど、僕や榎矢や沙陽(あのひと)がギリシア人に見える? せいぜいクォーターと思ってもらえるかどうかってとこでしょ。日本人と同じ見た目になってるって時点で相当地球人の血が入ってるってことだよ」

「しかし、古代ギリシアのことは結構歴史に残ってるだろ。だが、古代ギリシアに大量の移住者が来たなんて話、聞いたことないが」
「古代って言うのがプラトンやソクラテスの頃のこと言ってるならせいぜい紀元前三、四世紀頃だからムーシコスが来てから二千年近くたってるよ」
 それを聞いた柊矢が、古代ギリシアってそんなに新しい時代だったのかという顔をした。

「だが、それならギリシアに来たって根拠もないって事だろ」
「一応、うちも霍田家も先祖は西から来て日本に渡ってきたって言い伝えは残ってる」

 勿論、その西というのがギリシアかどうかまでは分からないらしいが。

「あと、ムーシコスって数が少なかったんじゃないかな。近くでムーシコスが歌や演奏をしていれば分かるし、それを聴けば大抵のムーシコスは近寄ってくる」
「あ、それ、榎矢さんが同じこと言ってました。ムーシカを歌うと()ってくるのに集団を見たことがないって」
 確かに、それで柊矢と小夜が出会ってるし、柊矢と小夜が椿矢と知り合ったのも椿矢のムーシカを聴いたからだ。

「そ。小夜ちゃん、柊矢君や楸矢君と僕以外のムーシコスと会ったことある? 帰還派みたいに意図的に近付いてきた連中を除いて」
「ありません」

「そう言うこと。僕だってしょっちゅう外で歌ってるのに、親戚以外のムーシコスの知り合いは(ほとん)どいないよ。霍田家とは昔から付き合いがあったから別だけど。血が薄まったって言うのもあるだろうけど、元々ムーシコス自体、数が少なかったんだと思う」

 それにムーシケー中にムーシコスが散らばって住んでいたのだとしたらムーサの森以外にも地球と繋がった場所があったはずだ。
 でなければ全てのムーシコスを地球に送ることは出来ない。
 
 だが目の前に現れるのがムーサの森だけということは、ムーシコスはムーサの森近辺にしか住んでいなかった可能性が高い、と椿矢は付け加えた。

「それだと、ムーサの森が新宿に出るのと、ムーシコスがギリシアに送られたって言うのは矛盾しないか?」
「ムーサの森が現れてるのはここだけじゃないよ。森はムーシコスの前に現れるんだから。君達がたまたま新宿でしか見たことないってだけでしょ」

 柊矢にそう答えると、
「他には何か言ってた?」
 と小夜に訊ねた。

「柊矢さんと楸矢さんは親戚だって」
「え? 名字は?」
 椿矢が柊矢に訊ねた。

「霧生だ」
「雨冠の霧? 名前に木偏は付く?」
「木偏に冬に矢で柊矢だ」

「じゃ、間違いないね。祖父様が、大伯母――祖父の伯母――が地球人と駆け落ちしたって、死ぬまで愚痴ってたし」
「地球人、とか言うとすごく壮大な話をしてる気になりますね」

「内容は一部のムーシコスの寝言だけどね」
 椿矢が白けた口調で言った。
「ムーシコスってロマンティストって言うイメージがありますけど、椿矢さんはリアリストなんですね」

 椿矢は以前、文明のない惑星(ほし)に行く気はないと言っていた。
 小夜自身、文明のないところで暮らせるかどうかは別としてムーサの森に帰ることを想像するときに電気や水道のことなど考えたこともなかった。

「ムーシコスの血筋がどうのって寝ぼけたこと言ってる家に生まれたからね。うちの家系図は天皇家より古い、なんて眠たいこと言ってるけどさ、ムーシコスが地球に来た頃には日本に文字なんてなかったっての。家系図なんか作れるわけないでしょ。ロマンティストなのが悪いとは言わないけど、あんまり夢見がちなのもね。それもいい年した大人がさ」
 椿矢は溜息をついた。

「榎矢は沙陽と結婚したがってるんだよね。どっちの家もムーシコスの家系だからって理由でさ。発想が完全にブリーダーだよね。でも、肝心の沙陽が柊矢君にご執心(しゅうしん)だからさ、榎矢としては二重の意味で君が(いと)わしいみたいだね」
 椿矢が柊矢を見ながら言った。

「それだけ古い家系ならムーシケーに関する資料とか残ってるんじゃないのか?」
 沙陽達はその資料を見て強引に森を溶かして帰ろうとしているのではないのか。

「言ったでしょ。ムーシコスが来た頃には日本に文字はなかった。ムーシコスも文字は持ってなかったみたいだし」

 ムーシコスが文字を持ってなかったのは多分必要なかったからだろう。
 ムーシコスにとって大切なもの――ムーシカ――は魂に刻まれるから外部に記録する必要がない。

 音楽が全てのムーシコスにとって他に記録が必要なものがなかったから文字を持っていなかったのだろう。
 それにムーサの森近辺にしか住んでなかったのなら遠い場所への通信手段も必要ない。
 だが文字を持っていなかったなら確かに家系図は作れない。

「うちの蔵に残ってる資料の類はどれも日本語だよ。地球にムーシコスが来たのは四千年近く前。日本に文字が入ってきたのは四、五世紀頃。だから、四千年も前に来たムーシコスの資料なんか存在しないよ」
 夜道には気を付けて、と言って椿矢は去って行った。
      五

 大分待たせてしまった清美に何度も謝ってから榎矢――宗二――が沙陽の仲間だったと話した。

 落ち込むかと思ったが(かえ)って諦めがついたとさっぱりした顔で言った。
 二人は店でひとしきりお喋りした後別れた。

 明治通りは珍しく()いていた。

「これならいつもより早めに着きそうですね」
「そうだな」
 柊矢がそう答えたときムーシカが聴こえてきた。

 女性の独唱だが沙陽ではない。
 柊矢の車の前を大型バスが走っていた。
 前方の信号が赤に変わろうとしていた。

 沙陽以外で他のムーソポイオスが同調していない独唱なんて珍しいな。

 そう思った瞬間、強い眠気が襲ってきて意識が途切れた。

 一瞬、白く凍り付いた森が見えた。

 けたたましい音がしていた。
 クラクションが鳴り続けているのだ。

「柊矢さん! 柊矢さん!」
 気づくとエアバックが開いて背もたれに押しつけられていた。
 エアバッグの空気がゆっくり抜けていく。

 小夜が必死に柊矢を揺すっている。
 どうやら眠ってしまい、どこかにぶつかったようだ。

 そこまで考えて、
「おい、大丈夫か?」
 慌てて小夜を見た。

「私は平気です。柊矢さんこそ、おケガはありませんか?」
「俺も無事だ」
 誰かが通報したのだろう。すぐにパトカーがやってきた。

 柊矢の車はガードレールにぶつかり後ろを走っていた小型車に追突されて止まっていた。
 眠気がしたとき咄嗟にブレーキを踏んだため追突され、ガードレールにぶつかったらしい。

 もしブレーキを踏んでいなかったらバスに追突していただろう。
 道が()いていたためにかなりスピードが出ていた。

 そのスピードでバスに突っ込んでいたら柊矢も小夜も死んでいたかもしれない。

 ここまでやるのか。

 どうやら帰還派の連中は本気で自分達クレーイス・エコーを排除する気らしい。
 病院へ連れて行かれて検査を受けた後、警察で調書を取られたりして夜遅くになってからようやく解放された。

「あの、柊矢さん……」
「すまなかったな。守るつもりで却って危険な目に……」
「それはいいんです。それより、これ、やっぱり柊矢さんが持っていた方が……」
 小夜はそう言ってクレーイスを差し出した。

「事故の時、一瞬あの森が見えたんです。私、多分、それで無事だったんだと思うんです」
「効果はあったわけか」
「はい」
 そう答えた小夜の手を取るとクレーイスを握らせた。

「俺もあの森を見た」
「ホントですか!?」
「ああ。多分、あの事故の瞬間、俺達はあの森にいたんだ。だからケガも無く()んだんだろう」

 おそらく昔祖父が亡くなった交通事故の時も同じことが起きたのだ。

 一瞬、白い森が見えたのは衝突の瞬間ムーシケーが柊矢と楸矢をムーサの森に飛ばしたのだ。
 それで二人はほぼ無傷で()んだのだろう。

「じゃあ、これ……」
 小夜が再度出した手を優しく押し返した。
「お前が持ってても俺も守られた。だから、これからもお前が持ってろ」

「え!? ムーシカが事故の原因!?」
 柊矢は家で楸矢に、女が歌っているムーシカが聴こえて眠気が襲ってきたことと、椿矢から聞いた話をした。

 霧生家の台所である。
 小夜は三人分のココアを作っていた。

「そこまでやるの!? バスに突っ込んでたら死んでたかもしれないんでしょ」
 楸矢が信じられないという顔で言った。
「明らかに殺そうとしてた」

「俺、決めた」
「え?」
 柊矢、楸矢、自分の三人分のココアをそれぞれの前に置いていた小夜が楸矢を見た。

「俺、ぜってぇ帰還派の言いなりになんかならない。最後の一人になっても森が出る度に封印のムーシカ演奏し続ける」
「楸矢さん」
「お前もこれからは気を付けろ」

「分かった」
「今日は疲れただろ。早く寝ろ」
 柊矢が小夜に向かって言った。

 もう午前一時を回っていた。

「今度は交通事故? 小夜、あんた、厄年なんじゃない? 厄払いしたら?」
 清美が小夜の手首に巻かれた包帯を見て言った。

 事故の瞬間、ムーサの森へ行ったものの戻ってきたとき鞄を持っていた手がエアバッグに押されて捻ってしまったようなのだ。

「私が厄年なら清美もだよ」
「それもそうか。そうそう! 聞いてよ!」
「どうしたの?」
心乃美(このみ)ってば男の子と手ぇ繋いで歩いてたんだよ!」
「ホントに!?」
「心乃美にまで先越されちゃったよ~」

 手かぁ。
 ちょっと憧れるけど、柊矢さんの場合、肩を抱くだろうなぁ。
 それもいいけど、手を繋ぐのもいいなぁ。

「小夜、手ぇ繋いだの羨ましいとかって眠たいこと思ってるでしょ」
「え? 清美は違うの?」
 清美は大げさに溜息をついてみせた。

「あたしは心乃美にまで先越されたのが悔しいって言ってんの! あんたは肩抱かれてんだから手なんか繋ぐの羨ましがることないじゃん!」
「き、清美!」
 小夜は真っ赤になって他のクラスメイトに聞かれてないか左右を見回した。

「あんたは心乃美より先にキスでもすればいいじゃん。あ~、あたしも早く彼氏欲しいな~」
「だ、だから、柊矢さんとはそう言うんじゃないってば」
「あたし、見ちゃったもん。柊矢さんが肩抱くの」
「いい加減忘れてよ」
「忘れな~い。で、今日はどうする? どっか寄ってく?」
 清美の問いに小夜は首を振った。

「しばらくは真っ直ぐ帰る」
 柊矢がかなり心配しているのだ。
 これ以上何かあったら家から一歩も出るな、と言い出しかねなかった。

 早く家に帰るのはそれほど嫌ではない。
 音楽室で思う存分歌えるからだ。
 小夜が音楽室の戸を開けると楸矢がフルートを持っていた。

「あ、すみません」
 小夜が慌ててドアを閉めようとすると、
「いいよ、小夜ちゃん。入って」
 楸矢が小夜を呼んだ。

 フルートをケースにしまうと笛を取り出した。

「丁度気分転換したかったんだ。歌ってよ」
 そう言うと笛を吹き始めた。

 小夜がそれに併せて歌う。
 そこにムーソポイオスのコーラスが次々と加わっていく。

 柊矢もすぐに入ってきてキタラを弾き始めた。
 三曲ほど歌ったところで終えた。

 勿論、誰かが歌い始めれば他のムーソポイオスもまた歌い始めるが。

「昨日、話を聞いて疑問に思ってたんだけどさ。呼び出しのムーシカって、ムーソポイオス限定? だよね? 普段から楽器持ち歩くわけにはいかないし」
「榎矢さんは、昔はムーシコスなら誰でも出来たって言ってましたけど……」

 呼び出しのムーシカならキタリステースでも歌えるのか、それともキタリステースは常に楽器を持ち歩いていたのかまでは聞かなかった。
 榎矢はムーソポイオスだからキタリステースの場合はどうなのか分からない。

 小夜はちょっと考えてから、
「口笛は吹けますか?」
 と訊ねた。

「吹けるよ」
「じゃあ、私か柊矢さんを呼ぼうと思って吹いてみてください」
 その言葉に楸矢が口笛を吹き始めた。

「聴こえますね」
「聴こえるな」
「じゃあ、俺達は口笛吹けばいいんだ。これで誘拐されても大丈夫だね」
「誘拐なんてされたらダメですよ」
「分かってるって」
       一

 校門の前で柊矢の車に乗ろうとしたとき、森が出現した。

「柊矢さん」
「家に帰ったら封印の……」
「森に行ったらいけませんか?」

 なんとなくムーシケーに呼ばれているような気がするのだ。

「分かった」
 柊矢も何かを感じたのかすぐに了承した。
 小夜が助手席に座ったのを見るとドアを閉めて運転席側に回り車に乗り込んだ。

 柊矢は森の端に当たるところに車を止めた。
 柊矢に助手席のドアを開けてもらって降りた途端、地球の風景が消えた。

 え?

 辺りを見回しても見えるのは森と池だけだった。

「柊矢さん? 柊矢さん!」

 どうしよう……。
 まさかこのまま戻れないって事はないよね。

 もっとも、それほど心配はしてなかった。
 沙陽が無事に戻っているしムーシケーが自分を危険な目に遭わせるとも思えない。
 多分すぐに戻れるだろう。

 その前に見られるだけ見ておこう。

 小夜は池の方へと向かってみた。
 池の端で水面に手を当ててみる。

 冷たくはないが、やはり凍り付いていて水の中に手は入れられない。
 手のひらを通して水の旋律が伝わってきた。

 この池はこういう旋律を奏でるんだ。

 一旦森へ戻り、南へ向かってみた。
 すぐに森は途切れ、広いところへ出た。
 少し離れたところに神殿のような建物が見える。

 折角だからあそこまで行ってみよう。

 すぐそこだと思ったのだが大分距離があった。

 神殿も背後に見える樹もかなり大きかったから遠近感が狂ってそれほど遠くないように見えたのだ。

 随分歩いてようやく神殿の近くまで来た。
 本で見たギリシアの神殿に似てる気がする。
 かなり大きな建物だった。

 この辺の地面、凍り付いてない。

 だが大地は旋律を奏でていなかった。
 神殿に近付いていくと旋律が切れ切れに聴こえてきた。

 旋律は全て凍り付いてるはずなのに……。

 神殿も凍り付いてないようだ。
 ちゃんと色が付いている。
 四千年近く放置されていたせいかかなり汚れているようだ。

 神殿に近付くと、更にはっきり聴こえてきた。
 甘く切ない旋律が大気と共に空へと舞い上がっていく。

 見上げると、グラフェーが真上にあった。
 グラフェーとの間の大気がトンネルように開いている。
 ムーシケーの大気と、グラフェーの大気は繋がっているらしい。

 ここはムーシケーの中心だ。
 この旋律はムーシケーのムーシカだ。

 ここはムーシケーが歌う場所だから他の旋律がない。
 だから大地が旋律を奏でていなかったのだ。

 目を閉じて聴いていると切ない感情が(あふ)れてきた。

 この想い、知ってる。
 私も柊矢さんのことを考えるとこんな気持ちになる。

 胸が痛くて涙が(こぼ)れた。

 これ、ラブソングだ。
 ムーシケーがグラフェーに歌ってる。

 これは片想いのムーシカじゃない。
 ムーシケーとグラフェーは恋人同士だったんだ。

 ムーシケーはただひたすらグラフェーのことを想いながら歌っていた。

 ムーシケーの気持ちが痛いほど分かる。
 柊矢さんに会いたい。

 クレーイスを強く握ると旋律が消えた。

「おい!」
 柊矢の声に目を開けると、いきなり抱きしめられた。
「と、柊矢さん!?」
 小夜が狼狽(うろた)えて柊矢の顔を見た。

「急に消えるな」
「すみません」
 本当に心配そうに言う柊矢に小夜は素直に謝った。

「小夜ちゃん!」
「なんだ、小夜ちゃん、見つかったんだ」
 楸矢と椿矢の声がしたので首だけ振り返った。
 まだ柊矢が離してくれなかったのだ。

「無事で良かった」
 柊矢が小夜の髪に顔を埋めたまま言った。
「ま、見つかったんなら良かった。森も消えたみたいだし、僕は帰るよ」
 椿矢はそう言って踵を返そうとした。

「あ、待ってください。お話ししたいことがあるんです」
「って、言ってるけど? いい加減、離してあげたら?」
 椿矢の言葉に、柊矢は渋々という感じで小夜を離した。

「今、ムーシケーに行ってたの?」
「はい」
 小夜は椿矢の問いに頷いた。

「怖い目にでも遭ったのか?」
 柊矢は小夜の顔を覗き込みながら頬を流れている涙を指ですくった。
「あ、いえ、ムーシケーが泣いてたから、つられて……」

 小夜は涙をぬぐいながら、三人にムーシケーでのことを話した。

「ムーシケー自体は起きてるって事か」
「はい」
「起きてるのにムーシコスが帰るのを拒むのは、それなりの理由があるって事だな」
「そのラブソングって、どんなムーシカだった?」
 椿矢が訊ねた。

「歌詞があったわけじゃないので、どんなと言われても……」
「片想いの曲とか、両想いの曲とか、そう言うのは分からなかった?」
 小夜は目を閉じて曲を思い返してみた。

「両想いの恋人に、自分はずっと想い続けてる、みたいな感じだったような気がします」
「グラフェーからの反応は?」
 椿矢が訊ねた。

「え?」
「グラフェーは絵画や彫刻の惑星(ほし)だから音楽で返ってくるって事はないだろうけど……」
「ちょっと待て、絵画や彫刻の惑星(ほし)ってどういうことだ」
 柊矢が椿矢の言葉を遮った。

「そのまんまの意味だよ。テクネーは芸術の惑星系なんだ。ムーシケーが音楽、グラフェーが絵画や彫刻、ドラマは演劇。ドラマは衛星だから生き物は住んでないと思うけど」
「じゃあ、グラフェーからも人が来てるって事か?」
「さぁ。そこまでは……」
 椿矢は知らないというように首を振った。

 二人のやりとりの間、小夜はずっとさっきのことを思い返していた。

「グラフェーは何も言ってなかったと思います」
 小夜が言った。
「ただひたすらムーシケーがグラフェーに向かって歌ってただけで……」

 ムーシケーのムーシカを思い出すだけで涙がこみ上げてくる。

 袖で涙を拭いてから、
「そういえば、ムーシケーは泣いてました」
 と言った。

「泣いてた?」
 椿矢が聞き返した。
「泣いてたって言うか、悲しんでいたというか……」

 また泣きそうになって手で目頭を押さえると柊矢がハンカチを差し出した。
 小夜は頭を下げてそれを受け取ると涙を抑えた。
 柊矢が慰めるように小夜の頭を自分の胸に寄せた。

「恋人なのは確か?」
 椿矢が訊ねた。
「はい」

「となると、一つ分かったことがあるね」
「なんだ?」
「沙陽は小夜ちゃんの前のクレーイス・エコーだった」
「ホント?」
 楸矢が疑わしげに訊ねた。

「今回の小夜ちゃんと同じようにムーシケーに行ったのがその証拠だよ」
「だが、神殿のことは聞いたがムーシケーのムーシカのことは何も言ってなかったぞ」

「聴こえなかったからでしょ。だからムーシケーは沙陽から小夜ちゃんに乗り換えた。聴こえなかったってことはムーシケーの気持ちが分からないってことだから。ムーシケーに共感出来ない人にクレーイス・エコーは任せられないからね」
 それはあり得ると柊矢は思った。

 歌詞がなくても泣いてしまうほど感情を激しく揺さぶるような旋律を奏でてしまうくらい強く相手を想う気持ちは、ムーシコスかどうかで恋人を選ぶ沙陽には理解出来ないだろう。

 だが沙陽の性格からして自分が外されて小夜が選び直されたのは我慢ならなかったはずだ。
 多分、小夜が選ばれたのは柊矢と小夜の前に森が現れた時だろう。

 部屋でクレーイスを拾ったのはあの日だし、あのとき小夜は初めて森を見たと言っていた。
 そして沙陽が小夜の家に火を付けたのはその直後だ。

 柊矢と楸矢は椿矢の祖父が亡くなってすぐにクレーイス・エコーに選ばれたのだろう。
 椿矢の祖父が亡くなるとクレーイスも無くなったと言っていた。

 多分、椿矢の祖父の元から柊矢達の祖父の遺品に移ってきたのだろう。
 柊矢は沙陽と付き合っていた頃、クレーイスを沙陽に渡そうと思っていた。
 本来なら柊矢を通じて沙陽に渡されるはずだったのだ。

 沙陽がクレーイス・エコーのままだったら柊矢と別れたとしても、クレーイスは彼女の元へ移っていただろう。
 だが沙陽はクレーイス・エコーから外されたので彼女の手にクレーイスが渡らなかったのだ。

 何故、柊矢が小夜にクレーイスを渡す前に彼女がクレーイス・エコーに選ばれたことを沙陽が知ったのかは分からないが。

「どうしてムーシケー自身は起きてるのに地上のもの達を眠らせているんでしょう」
「多分、グラフェーと関係があるんじゃないかな」
「ホントか?」
「あくまで想像だけどね」
 椿矢は肩をすくめた。

「私にもっと力があればグラフェーのことが分かったんでしょうか?」
「それはどうかな。小夜ちゃんはあくまでムーシケーのクレーイス・エコーだからね」
「まぁ、ムーシケーがその気になったら教えてくれるだろ」

 小夜や沙陽にムーシケーを見せたと言うことは何が何でも隠そうとしているわけではないようだ。
 今はそのときを待つしかない。
       二

 小夜は夕食が終わると音楽室で、さっきから胸に沸き上がってきていたムーシカを歌っていた。
 ムーシケーのラブソングを聴いて浮かんできた曲だった。
 新しいムーシカだから他のムーシコスは大人しく聴いていた。

「参ったな」
 楸矢は小夜の歌声を聞きながら頭を抱えた。
 柊矢はさっきコーヒーカップを持って二階へと上がってしまった。

「小夜ちゃん、ストレートすぎ」
 歌詞に、恋とか愛とか好きとか言う言葉は入っていないが、これは明らかに柊矢を想うムーシカだった。
 柊矢もそれに気付いたから楸矢と顔を合わせづらくて自室へ逃げたのだろう。

「ムーシカってムーシコスの感情そのものだったんだなぁ……」
 小夜が喉を治してくれたお礼のムーシカを歌ったことがあったが、それ以外ではムーシカが創られるところに居合わせたことがなかったから、ここまではっきり感情が表れるものだとは知らなかった。

 今日、小夜がムーシケーのムーシカがラブソングだったと言ったとき、歌詞がなかったのになんでラブソングだって言い切れるんだろうと思ったが、確かにこれだけ露骨に感情が表れてれば歌詞がなくてもはっきり分かる。

 喉が治ったときのムーシカはお礼の意味で歌われたが、多分お礼のムーシカとして創られたものではなかったのだろう。
 おそらく歌えなかった時期に出来たムーシカだったのだ。

 だからピアノを教えて欲しいと頼んできたのだろう。
 自分が創ったムーシカを伝えられるようになりたかったのだ。

 椿矢の祖父の伯母(大伯母)が地球人と駆け落ちしたらしいが創ったムーシカにここまで剥き出しの感情が表れてしまうのだとしたら、
「そりゃ、地球人と逃げたくなるよなぁ」
 楸矢は椿矢の大伯母に深く共感した。

 椿矢の家はムーシコスの家系らしいから周囲にいるのはムーシコスばかりだったはずだし、そうだとするとこういう場面に出くわすこともよくあっただろう。
 こんなことが頻繁にあったら身が持たない。

 椿矢がムーシコスの血は大分薄れてきていると言っていたらしいが、四千年という時間経過のせいだけではなく、多分これに耐えかねて地球人を選んだ者が多かったのではないだろうか。
 いくらムーシコスが音楽に弱いとは言え、これが平気なのは相当な音楽(ムーシカ)バカだけだろう。

 俺も絶対地球人と結婚しよう。

 楸矢はそう心に誓った。

 小夜のムーシカを聴きながら、
「明日からどんな顔して会えばいいんだろ」
 と独りごちた。

「小夜、なんかあったの?」
 教室に入るなり清美が聞いてきた。
 車から降りたときの柊矢と小夜のぎこちない様子を見ていたらしい。

「清美……、どうしよう……、私、柊矢さんのこと好きになっちゃったみたい」
「小夜、それ今更過ぎだから」
 清美が冷めた口調で言った。

「今までも好きだと思ってたの! 柊矢さんの前で好きって言っちゃったこともあったけど、それが恋だと思ってたけど、全然違った! どうしよう! どうしたらいい?」
 小夜は狼狽えた様子で言った。

「どうしようって、どうしようもないでしょ。もう告白したなら……」
「してない!」
 小夜が強く否定した。

 それから自信がなさそうに、
「したことになるのかな?」
 と首を傾げた。

「してなかったら柊矢さんまであんな態度取るわけないじゃん」
 清美が冷たい声で言った。
「柊矢さんの聞いてるところでム……歌、歌ったの。柊矢さんを想う歌……」
 小夜の声がだんだん小さくなっていった。

「でも、あんなにはっきり意思表示するつもりはなかったの」
 小夜が言い訳するように言った。
「楸矢さんまでまともに顔あわせてくれないし」
「二人の目の前で歌ったの?」
 清美が信じられないという顔をした。

「目の前じゃなくて、別の部屋だけど……」
「一応確認のために聞くけど、その歌って小夜のオリジナルソング?」
 小夜は頷いた。

「うわ、それ痛すぎ!」
 清美が大袈裟に()()った。
「そりゃ、どん引きするわ」

 ムーシコスではない清美には歌――ムーシカ――で想いを伝えてしまったというのは理解できないのだ。
 四千年も共存してきたのに、まだムーシコスと地球人の間には分かり合えない溝がある。
 そのとき夕辺小夜が歌ったムーシカが聴こえてきた。

 嘘!

 突然真っ赤になった小夜に、
「小夜、どうしたの?」
 清美が驚いた様子で顔を覗き込んできた。

「もうダメ。死にたい」
 小夜は机に突っ伏した。

 小夜のムーシカは、素直な感情表現に好感を持たれたのか、新曲のラブソングだからなのか、日に一度は歌われるようになった。多い日は二度、三度のこともあった。
 授業中にも容赦なく聴こえてくる。

「霞乃、どうした、顔が赤いぞ」
 数学の教師が小夜を見て言った。
「な、なんでもないです」
 小夜は真っ赤な顔で俯いた。

「熱でもあるんじゃないのか?」
「だ、大丈夫です」
「ただの恋煩(こいわずら)いだもんね~」
 隣の席の清美が小声で呟いた。

「清美!」
 小夜が横目で睨んだ。

「小夜、はっきり聞いていい?」
 二人は校門の前で柊矢の車を待っていた。
 小夜が清美に相談したいことがあるから一緒に待って欲しいと頼んだのだ。

「何?」
「柊矢さんと何かあった?」
「何もないよ。あったらこんなに悩まないって」
 柊矢とはあれ以来ぎこちないままで必要最低限のことしか話していなかった。

「突然真っ赤になったりするのって、Hしちゃって、それ思い出してるからじゃないの?」
「清美! ホントに怒るよ!」
 小夜が頬を朱に染めて言った。

「奥手の小夜に限ってそれはないかぁ。柊矢さんだって両手が後ろに回っちゃうしね」
「え! 清美! それどういうこと?」
 小夜は身を乗り出した。

 柊矢の友達が同じ事を言っていた。
 あのとき意味が分からなかったのだ。

「大人が未成年の子と寝ると犯罪でしょ」
 そう言う意味だったんだ!
 小夜は更に赤くなった。

「ちょ、ちょっと、小夜! あんた、ホントに……」
 清美が小夜に詰め寄った。
「ち、違うって!」
 小夜は慌てて両手を振った。

「柊矢さんの友達が同じこと言って柊矢さんをからかったことがあったの! そのとき意味が分からなかったから……」
「それならいいけど……」
「もしかして、大人の付き合いって、そう言うこと?」
 小夜が訊ねた。
「そうだよ」

 じゃあ、ひょっとして、楸矢さんが言ってた後部座席っていうのも……。

 清美に聞いてみようかと思ったが、もしホントにそう言う意味だったりしたら、車に乗る度に顔が赤くなってしまいそうなのでやめた。

「色々ごたごたしてて忘れてたけど、もうすぐ柊矢さんの誕生日なの。プレゼント、何がいいと思う?」
「あんたあげたら? 自分にリボンかけて」
「清美! 真面目に答えてよ!」
「柊矢さんの好みなら楸矢さんに聞いた方が早いんじゃない?」
「そっか」
 そんな話をしているうちに柊矢の車が来た。

「柊兄の好み?」
 小夜は台所で夕食を作りながら、おやつを食べている楸矢に柊矢の好きなものを訊ねてみた。

「もうすぐ柊矢さんのお誕生日なんですよね? プレゼント、何がいいかと思って」
「小夜ちゃんプレゼントすれば?」
「楸矢さんまで清美と同じこと言わないでください!」
 小夜は真っ赤になって抗議した。

 友達にも同じこと言われたんだ。

 楸矢は苦笑した。

 考えることはみんな同じか。

「柊兄の好みねぇ」
 楸矢は天井を見上げた。
「分かってるつもりだったけど、最近自信ないんだよね」

 小夜ちゃんと沙陽じゃタイプ違いすぎだし。

「考えておくよ」
「お願いします。今日の夕食のリクエスト、聞きますよ」
「ホント? じゃあ、ねぇ……」
 楸矢は身を乗り出した。

 夕食の最中に小夜のムーシカ(ラブソング)が聴こえてきた。
 小夜が真っ赤になって俯く。
 柊矢は料理に目を落としたまま無言で食べていた。

「まさか、こんなに流行(はや)るとはねぇ」
 楸矢が他人事のように言った。

 沙陽は小夜のムーシカを忌々(いまいま)しげに聴いていた。

 なんでみんなあんなムーシカをもてはやすのよ!
 あんな稚拙(ちせつ)なムーシカ。

 自分のムーシカには誰一人賛同してくれないのに小夜が歌うムーシカには参加する。

 柊矢もあんなつまらない子にいつまでも(かかずら)って。

 最初は珍しがってるだけだと思ってた。
 沙陽がムーシコスだとは知らなかったから家族を除けば小夜が初めて会ったムーシコスのはずだし、音大付属高校の音楽科に通っていたから普通科の女子高生が新鮮に映ったのだと。

 だからすぐに飽きると思っていた。
 だが、あの二人はどう見ても相思相愛だ。

 あの子はともかく、柊矢まで初恋をした少年みたいな態度を取ってる。

 ひっぱたいて目を覚ましてやりたいが、どうすれば近付けるのか分からない。
 沙陽が柊矢を呼び出しても素直に来るとは思えない。

 あの子なら来るかしら……。
 榎矢の呼び出しのムーシカには引っかかったらしいけど……。
       三

 楸矢が学校から帰ってきて台所を覗くと、小夜が食器棚で何かを探していた。

「小夜ちゃん、何してるの?」
「あ、楸矢さん。お帰りなさい」
 小夜が振り返った。

「柊矢さんって、お酒を飲むときどのコップを使ってるのかなって思って」
「そのコップに口を付けて間接キスしようとか?」
「ち、違います!」
 小夜が真っ赤になった。

「もし普通のコップを使ってるなら、誕生日プレゼントにお酒用のグラスはどうかなって」
「いいかもね。柊兄が飲んでるのはウィスキーだからウィスキーグラスがいいと思うよ」
「有難うございます」
 小夜は嬉しそうに礼を言った。

「あ、それと、お二人は甘い物好きですか?」
「あ~、バレンタインも近いね」
「そ、そう言う意味じゃ……」
 小夜はまた赤くなった。

 お誕生日にバースディケーキ、作っても大丈夫か知りたかっただけなんだけど……。

「甘すぎなければ大丈夫だよ、柊兄も俺も」
「有難うございます」

「買い物? いいけど」
 翌日、学校へ着くなり清美を買い物に誘った。

「柊矢さんの誕生日プレゼント買いに行きたいの」
「いいよ」
 清美は快諾した。

「これなんかどう?」
 放課後、小夜と清美はデパートの食器売り場にいた。
 普通の雑貨屋よりデパートの方がいいものが置いてあるだろう、と清美が言ったのでここに来たのだ。

「それよりこっちの方が良くない?」
「あ、あれもいいかも」
「それ、ウィスキーグラス?」
「違うの?」
 小夜と清美は時間を忘れて品定めに熱中していた。

「でも、これ綺麗」
 小夜がグラスを手に取ったときスマホが鳴った。

 グラスを置いて通話に出ると、
「おい! 何してるんだ!」
「あ! 柊矢さん、すみません」
 清美が自分の腕時計を小夜に向けて時計を指差している。それを見ると柊矢との約束の時間をとっくに過ぎていた。

「今から行きます! ちょっと待っててください」
 小夜は慌てて通話を切ると今のグラスを手にした。
 会計をすませ、プレゼント用に包装してもらって品物を受け取ると、清美と一緒に駆け出した。

「遅くなるならなると連絡しろ! 心配するだろ!」
「すみません!」
 小夜と清美は柊矢に頭を下げた。

「もう用は済んだのか?」
「はい」
「じゃ、帰るぞ。君も送っていこうか?」
 柊矢が清美に訊ねた。

「あたしはいいです。またね、小夜」
「何を買ってたんだ?」
「あ、小物をちょっと」
 まさか、当の柊矢の誕生日プレゼントとは答えられず言葉を濁した。

「そうか」
 柊矢はそれ以上追求せずに駐車場に向かって歩き出した。

 夕食の片付けと、明日の弁当の下ごしらえを終えて部屋に戻ると、鞄の中に隠しておいたプレゼントを取り出した。

 グリーティングカード、先に買っておいて良かった。

 引き出しからカードを取り出して開いたものの、いざ書く段になると固まってしまった。

 なんて書けばいいんだろう。
 お誕生日おめでとうございます、だけじゃ素っ気ないよね。

 かといって、好きです、なんて書くわけにもいかない。
 わざわざ書くまでもなく、とっくにバレてはいるのだが。
 小夜はカードを閉じた。

 まだ今日の宿題をやっていない。カードの前でいつまでも固まっているわけにはいかない。
 勉強の息抜きに考えることにしよう。

「書けた!」
 小夜がグリーティングカードを持ち上げて、メッセージを読み返しているとき鳥の鳴き声がした。

 え?

 気付くと外が明るかった。

 嘘!

 慌てて時計を見ると、もう朝食の支度をする時間だった。
 小夜は急いで部屋を飛び出した。

 朝食の支度しながらグリーティングカードのメッセージを思い返していた。
 結局、徹夜して書いたのは、いつもお世話になってます、ありがとうございます、と言う無難なものだった。

 もうちょっと気の利いたことが書けたらなぁ。

 何とか朝食の支度は間に合った。
 食事を終え、後片付けをしてから部屋へ戻り、プレゼントとグリーティングカードを机の一番下の引き出しに入れると制服に着替えた。

「おい、支度は出来たか?」
 柊矢が小夜の部屋をノックした。
「あ、今行きます!」

「小夜、目の下に(くま)が出来てるよ」
 教室で会うなり清美が言った。

「柊矢さんの誕生日プレゼントに付けるグリーティングカードに書く言葉、考えてたら徹夜になっちゃって」
「明日だっけ? 柊矢さんの誕生日」
「うん」
「ぎりぎりだったね。間に合って良かったじゃん」
 清美の言葉に小夜は黙り込んだ。

「どうしたの?」
「どうしよう。どうやって渡したらいいと思う?」
 小夜が狼狽えたように言った。

「は? 一緒に住んでんだからいつだって渡せるでしょうが」
「でも、まだぎこちなくてちゃんと口もきけないのに、プレゼントなんて……」
「それ、分かってて買ったんでしょ」
 清美が呆れた様子で言った。

「だって、誕生日だって知ってるのに何もしないわけにはいかないし、いつもお世話になってるから」
「だったら普通に渡せばいいじゃん」
「それが出来ないから困ってるんじゃない」
 結局、解決策は見つからないまま放課後になってしまった。

 小夜はどうやってプレゼントを渡そうか迷ったまま夕食を作っていた。

 郵送……は、今からじゃ明日に間に合いそうにないし、物がグラスだから割れても困る。
 部屋の前にこっそり置いておくとか。

 そのとき、楸矢がフルートの練習を終えて台所に入ってきた。

 そうだ!

「おやつある?」
「ありますよ」
 小夜は昨日の残りの鶏の唐揚げを温めて出した。

「楸矢さん、お願いがあるんですけど……」
「何? 俺に出来ることなら(なん)でも聞くよ」
 楸矢が唐揚げを食べながら答えた。

「柊矢さんへの誕生日プレゼント、渡してもらえませんか?」
「あ~、それはダメ」
「お願いします」
 小夜は手を合わせた。

「ダ~メ。そう言うのは自分で手渡ししなきゃ」
「でも、まだまともに口もきけない状態ですし」
「だからこそ渡して普通に喋れるようになればいいんじゃないの」
 小夜は溜息をついた。

「小夜ちゃん、部屋の前に置いておくって言うのもNGだからね」
 そう言われてしまっては部屋の前に置いておくという手も使えない。

 やっぱり手渡しするしかないかぁ。
 しょうがない、明日帰ったら渡してすぐに自分の部屋に逃げよう。

 翌日、学校から帰ってきて一旦部屋へ戻ると、プレゼントとカードを持って柊矢の部屋のドアをノックした。

「どうした?」
 出てきた柊矢にプレゼントとカードを押しつけた。
「お誕生日おめでとうございます!」
 そう言うと自分の部屋に駆け込んだ。
 柊矢が礼を言う暇もなかった。

 その日の夕食は柊矢の好きな物と甘さを抑えたバースディケーキを出した。
 柊矢がプレゼントとケーキの礼を言おうとした瞬間、小夜のムーシカ(ラブソング)が流れ始めた。
 すぐに他のムーソポイオスが加わり、霧生家の食卓は気まずい沈黙に包まれた。

 楸矢が風呂から上がって台所に水を飲みに行くと、柊矢が小夜から貰ったグラスにウィスキーをついでいるところだった。
 小夜は部屋にいるようだ。

「柊兄、どうするの?」
「何が?」
「小夜ちゃんのこと。ちゃんと返事してあげなきゃ可哀相だよ」
「分かってる」
 柊矢はそう言うとグラスを持って二階の自室へ上がっていった。