「それでは、もう逃走の意思はないんだな」
「はい」
ヴィクトリアが逃亡を試みたことは、ルゥから彼に報告されてしまった。
「ここから逃げ出そうなどとは考えるな。……それにこの世界は、お前の体を蝕むかもしれないのだから」
ヴィクトリアは、かつてアルフェリアが魔素中毒になったのを思い出した。
そう考えると、自分が魔素中毒を引き起こさないことはすでにわかってるものの、少しでも可能性がある人間をさらって連れてくるなんて、彼は冷静さにかけているようにもヴィクトリアは思った。
(この言葉が少ない感じ、レイモンドを思い出す……。でも、少し周りが見えてない感じは、ルーファスっぽさもあるのかな?)
レイモンドなら、可能性が僅かでもあるなら、こんな無茶なやり方はしない。
男はヴィクトリアが怪我をしていないかだけ確認すると、ルゥを残してまた部屋を出ていった。
「はあ……」
「すいません。僕のこと、怒っていらっしゃいますか?」
「……怒ってないよ」
つくづく庇護欲を誘う子だ。
ルゥに泣きそうな顔をされると、なんだか自分が、ひどいことをしてしまったような気がしてくる。
本来夜の闇に紛れるコウモリ族の血を引くにも関わらず、白い髪に、まるで朝焼けのような紫がかった瞳。
背中にある小さな羽根は、まるで子どもが大人のふりをして仮装でもしているかのような、立派な仕立ての執事服からぴょっこり覗いている。
羽根は彼の喜怒哀楽を表し、嬉しそうな時はぱたぱたと元気よく動いて、悲しげな表情の時は少し閉じているのだ。
「では、花嫁様は、御主人様をお気に召してくださったということですか?」
期待に輝く瞳。
ヴィクトリアはその目を見ると、強く否定はできなかった。
それに、カーライルからは、吸血鬼族を味方につけろと言われているわけだし――……。ヴィクトリアは、肯定も否定もしない代わりに、ずっと気になっていたことを尋ねた。
「ルゥくん、あのね。実は私、彼の名前もよく知らないんだ」
「御主人様のお名前ですか?」
ルゥはヴィクトリアの質問を聞いて、羽根をパタパタさせた。
「御主人様のお名前は、ヴァージル・ド・ラ・ヴァレンタイン様です!」
(――……『ヴァレンタイン』?)
ヴィクトリアはその名前に聞き覚えがあった。
たしかそれは、吸血鬼一族の当主が引き継ぐ名前だったはずだ。
魔界セレネでは多くの場合、一族の当主は多くの妻を迎え、最も優秀な者がその地位を引き継ぐ。
魔界は実力主義だ。
カーライルやヴィンセントがそうであったように、強い力を持ってさえいれば、先代を『打ち倒す』ことで地位を継ぐことも認められている。
……最も、血族の中で無闇に殺し合うようなことは、歓迎はされていないことなのだが。
「お名前を聞かれたということは、御主人様に興味を持っていただけたということですよね!」
きゃーー!
ルゥは、羽根を元気に上下させながら、まるで恋バナをきいた少女のようにはしゃいでいた。
(うーん。この反応、少しアルフェリアを彷彿とさせる……。まあ、単に恋愛の話にうつつを抜かすような相手が周りにいないせいかもしれないけれど――)
だって、本当に恋愛の話になってしまったら、魔族の三人は自分への執着を見せてくるのだ。笑って話せるような状況にはならない。
(アルフェリア、あのあとちゃんと無事に帰ったかな? 私のこと、心配してないといいけど……)
年の近い唯一の女友だち。
姉のであり、母のようでもある。そんな彼女にヴィクトリアはこれ以上、心配をかけたくはなかった。
それに、アルフェリアは濃い魔素に耐えられない体質だ。どんなに心配しても、アルフェリアはヴィクトリアを探しにセレネに来ることはできない。
(とりあえず、まずはルゥくんから話を聞くとしよう)
幸い髪飾りで、カーライルたちと連絡を取ることはできる。
情報集めは急務だ。
「ルゥくんは、ヴァージルさんといつから一緒にいるの?」
「僕ですか?」
ルゥは可愛らしく、こてんと首を傾げた。
「僕がヴァージル様に拾っていただいたのは、僕がまだ赤子の頃でした」
「? 赤ちゃんの頃から一緒なの?」
「はい。――……あ、そっか。花嫁様は、この世界のことを、あまりご存じないのですよね。僕は、魔族の中でも、コウモリ族という一族なんです。コウモリ族は、『夜の王』である吸血鬼の一族にお使えするために存在しています。コウモリ族は、セレネでは戦闘能力が低い種族で、僕たち一族は吸血鬼族に忠誠を誓う代わりに、外敵から守ってもらいながら血を繋いできました」
ルゥは、自分の胸に手を当てた。
「ですが、僕は白色コウモリ。コウモリ族の中で、『変異種』と呼ばれる存在で、他のコウモリ族からすると、僕は『外れもの』なんです」
「……」
「そんな僕を、御主人様は城に迎えて育ててくださいました。だから僕は、髪の毛一本から足の爪先まで全部、全て御主人様のものなのです」
魔族は普通、力の弱い生き物を認めない。
『変異種は』その典型だ。
特別美しい見目をした彼らは、同族によって幼いうちに殺されるか、もしくは強い力を持つ者に『飼われ』る事が多い。
後者の場合、それは強者における弱者の精神的な支配という意味であり、普通今のルゥのように、瞳を輝かせて生存する例などヴィクトリアは聞いたことがなかった。
ヴァージルを御主人様と呼ぶルゥの瞳には、ヴァージルへの信頼と敬意が宿る。
それだけで、彼がルゥのことを、これまでどれだけ大事に育ててきたのか、ヴィクトリアにはわかる気がした。
だがその関係はきっと、人間界では美談でも、セレネでは理解されない。
ルゥをそばに置くことは、いくらヴァージルに能力があったとしても、はたから見れば『物好き』な行動にしか映らない。
「ご主人様が、僕を救い育ててくださった理由は、僕にもわかりません。ただ、『あの方ならばそうするだろう』と――。御主人様は昔、そうおっしゃっていました」
「……『あの方』?」
「すいません。それがどなたかまでは、僕は存じ上げなくて」
ルゥは苦笑いした。
「ただ、花嫁様には、僕は知っていてほしいのです。御主人様は、本当にお優しい方なのです。僕のようなものを世話して下った。今の僕が居るのは、御主人様のおかげ。……だからあの方ならきっと、この世界の誰よりも花嫁様のことも大事にして幸せにしてくださると、僕はそう思うのです」
◇
「誰より幸せ、かあ……」
夜、就寝のお世話を終えてルゥが部屋を出た後、ようやく部屋に一人になったヴィクトリアは、寝台の上で寝転がりながら今日聞いた話を思い出した。
自分を誘拐した男だとしても、その彼に育てられた子どもを見れば、彼の人柄が決して悪人でないことはすぐにわかった。
だが彼が無許可でデュアルソレイユに渡っていたことは紛れもない事実であり、ヴィクトリアはその現場で、吸血行為さえ目撃している。
(正確に言えば、彼が直接吸血しているところを見たわけじゃないけど……)
だとすると、事件の犯人は他にいるのだろうか?
彼が吸血鬼族の当主の名前を継いでいることを考えると、彼自身、一族の誰かを止めるために、あの場にいた可能性はある。
「でも、だからって、私を無理矢理ここにつれてきて『花嫁』にしようとしてる事実は変わらないし……」
人間界デュアルソレイユでの吸血事件と、永続的な花嫁にするためのデュアルソレイユでの少女誘拐。
人間と魔族の関係を脅かすという点で考えれば、どちらにしても問題があることに変わりはない。
(……でも、あの時自分の一族の尻拭いに犯人を追っていたとしたら、誘拐なんてするものなのかな?)
『初恋童貞なのです!』
その時ヴィクトリアは、ルゥの言葉を思い出した。
百戦錬磨のような外見をしているものの、案外それが原因でヴァージルは自分をここに連れてきたのではと考えると、何故かしっくり来てしまった。
(……一目惚れ? とか? 人間と魔族の関係を良好に保ちたい『魔王』としては、かなり頭がいたいけれど)
「いや、今これはもう考えないようにしよう」
別にヴィクトリアは魔王として、魔族に処罰を下したいわけではないのだ。できれば平和的に、穏便に解決したい。
ヴィクトリアは頭を振った。
しかしその時――ヴァージルではない別の相手のことが、ヴィクトリアの頭に浮かんだ。
(そういえばあの時、ルーファス……)
ルゥの言葉をきいて、ルーファスが笑っていたことを思い出す。
まあ普通、五〇〇年も生きていたなら、多少の経験はあるものなのかもしれないが……。
……なんだか、少しだけ心がモヤッとする。
自分は一人を選べていないのに、彼らに自分だけを思ってほしいと考えてしまった自分に気づいて、ヴィクトリアは胸を押さえた。
(……ルーファスに、自分だけに微笑んでほしいって、そう思ってしまった)
こんなことを願うなんて、欲張りだ。我儘だ。
あの外見に性格だ。
ルーファスの人間界での評価を思えば、魔界人間界問わず、求められても不思議ではないのに。
(ルーファスたちが私を探していたことを、他の魔族は知らなかっただろうし。……違う。私がヴィンセントの生まれ変わりということまではまだ公表してないはずだから、きっと彼らの気持ちは、今は私やアルフェリアとエイルしか知らないんだ)
ヴィクトリア・アシュレイが、ヴィンセント・グレイスの生まれ変わりであり、人間に有効的だった三人の魔族が実はヴィンセントを探すためにデュアルソレイユを訪れていた――このことが発覚すれば、魔族・人間それぞれに、三人が批判される可能性は高い。
『魔王ヴィンセント』の過去を清算できなければ、いくら生まれ変わっても、世界は何も変わりはしない。
(……私は、本当にやってないのに。ディーが愛した世界を、人間を殺そうだなんて思うはずがない。たとえ彼らが、私のことをどんなに蔑んだって、私はこの力を、誰かを傷つけるために使いたくなかった)
確かに魔族によるデュアルソレイユの侵攻を止めるために、ヴィンセント・グレイスがルーファスとレイモンドに魔王として指令をだした過去はある。
でもそれは、誰かを傷つけるためではなく、罪なき人の命を守るためだった。
『言葉は、誰かに伝えるためのものだから。声が、言葉が届くということは、幸せなことだよ。言葉が心に響くなんて――君は、本当に凄い力を持っているんだね』
泣いてしまいたい時はいつだって、遠い日の言葉を思い出す。
幼い頃、自分の頭を撫でて笑ってくれた優しい人のことを。
『君がその力をもって生まれたことに、きっと意味はある筈だよ。――だから。どうか、下を向かないで』
その言葉に対する答えは、今も出せてはいないけれど。
「……ディー」
ヴィクトリアが、その名前を口にした時だった。
髪飾りから声が聞こえてきた。
『ヴィクトリア』
「はいっ!」
思わず声が裏返る。
ヴィクトリアは慌てて、カーライルに返事をした。
『いま少しお時間よろしいでしょうか? わかったことを報告をしてください』
「報告って何も、普通だよ。今のところ私になにかしてくる気配はないし、お世話をしてくれるルゥくんと過ごしてるだけ」
『なるほど、まずは子どもから手懐けていると』
「カーライル? ……別に、そういうんじゃないから。それより、そっちの調査はどうなの?」
『すいません。今回のことはことがことですから、信頼できる相手にしか頼めなくて。まだ全ての調査は終わっていません。ただ、やはり最近、類似性のある事件が起きていたのは事実のようです。事件の調査と並行して、二つの世界を繋いでいる扉の捜索も行っています』
魔王の仕事をこれまで代行してきたカーライルだ。
人間に事件が魔族の仕業であると多く知られることを避けたいという気持ちと、『夜の王』と呼ばれてきた吸血鬼族と余計な荒波を立てたくないという両方の理由で人員をあまり割けないのだろう。
ヴィクトリアはカーライルの話を聞いて、理由を推測した。
「そっちを先に対処するほうがいいよね。もし行き来ができなくなれば、それ以上事件は起きないわけだし」
『はい。私も貴方と同意見です』
「……そっか。わかった。ありがとう」
『ヴィクトリア。なんだか今日は、少し声音が暗いようですが』
「そ、そんなことは……」
『もしかして、ルーファスのことが気になっているのですか?』
「……」
ズバリ言い当てられて、ヴィクトリアは無言になった。
『どうやらあたりのようですね』
この男に隠し事はできないらしい。
勘の鋭い蜘蛛男に、ヴィクトリアははあ、と息を吐いた。
「わかってる。五〇〇年も経ってるんだから、私の知らないルーファスがいたって、何も不思議じゃないのに」
『……ヴィクトリア』
今のルーファスを、ヴィクトリアは心から信じている。
だからこそ彼に、自分には見せない側面《かお》があったということにも、自分はショックを受けているのかもしれないとヴィクトリアは思った。
どちらにしても、ルーファスのことを全部知りたいという、独占欲のような感情によるものかもしれないけれど。
『赤のルーファスという名前で彼が呼ばれているのは知っていますよね? 正確に言うと、彼が広くそう呼ばれるようになったのは、貴方が亡くなってからのことなんです』
「?」
『貴方があの日、命を落として――貴方を追い詰めた者たちが、当時のルーファスは許せなかった。……だから、その魔族の特定や潜入調査のために、少し、彼は個人的にも行動していた時期がありました。その頃の彼は『金色狼』としての身分を隠し、女性に取り入っていたことがあるようで――』
「……」
『……金色狼の一族は、昔から気性が少し荒いですから』
幸福な物語だと、金色狼たちはいう絵本の内容は、ヴィクトリアからすれば血みどろ物語だ。
話の評価の違いは、価値観の違いによるものだろう。
(じゃあルーファスが、そういう経験が多い理由って、もしかして私の――)
そう思うと、ヴィクトリアは胸が痛かった。
『言っておきますがこの件で、貴方が心を痛める必要はありません。それに、過去に何があろうとも、今のルーファスは、貴方の目に映るそのままの彼です』
カーライルは三人の魔族の中で最年長者だ。
そして彼はヴィンセント時代から、ヴィクトリアをずっと支えてきた。
『貴方を一度失った後――私が直接、貴方を守るための剣として、盾として選んだ。その人柄を疑う必要はありません。それに貴方を取り戻した今、彼はもう、あの時の彼ではない』
「……」
『ヴィンセントの転生者を探す』――カーライルはそのために、ルーファスとレイモンドを選んだ。
いずれ再び出会った時に、二人にヴィクトリアを守らせるために。そのために、二人はデュアルソレイユでの評価を上げるためにも活動してきた。
(それは、全部、全部――)
『――ヴィクトリア』
「?」
何故か優しい声音でカーライルに名前を呼ばれ、ヴィクトリアは驚いた。
まるで、ルーファスのような甘さを含む声だった。
『貴方のことを抱きしめたい』
「……へっ?」
まさかのカーライルの言葉に、ヴィクトリアは思わず素っ頓狂な声をあげた。
『貴方の手に私の手を重ねて、私の方へと引き寄せて、貴方のことを抱きしめたい。貴方の手は小さいから、私が手を重ねたら、きっと逃げられなくなってしまうでしょう。そうやって困っている貴方を見つめて、貴方が今私のそばにいてくれるその瞬間がが、現実であることを確かめたい。……貴方の指先に口付けを落として、驚く貴方の顔を見ながら、貴方のそばで笑いたい』
髪飾りの魔法のせいで、まるで耳元で囁かれているかのように、カーライルの声が頭に響く。
「……か、かーらいる?」
(……なんでだろう。すごく、胸がどきどきする……)
まるでカーライルが本当にそばにいて、抱きしめられたような気持ちになって、ヴィクトリアは鼓動を速くした。
ヴィクトリアの想像の中で、カーライルはいつものような意地悪な笑い方ではなくて、優しく彼女に微笑んでいた。
『――……ヴィクトリア。今私が言ったこと、ちゃんと、想像できましたか?』
からかうような、でも甘さを孕んだ声。
ヴィクトリアはその言葉を聞いて、現実に引き戻された。
「な、な、な……っ!」
ヴィクトリアは顔を真っ赤にしながら怒った。
しかし、さっきまでドキドキしていたせいで、怒りのスイッチがすぐには入らない自分にも腹立たしささえ覚える。
(やっぱり、カーライルはカーライルじゃない!!!! この嘘吐き蜘蛛男! 人の心を弄ぶ冷血漢!!!!!!!)
『大丈夫。必ず迎えにいきますから。それまではそこで、大人しくしていてください。その時に、今言ったことと、同じことをしてあげます』
「…………し……しなくていいっ! しなくていいからっ!」
『ははっ!』
一瞬ヴィクトリアは、反応に時間を要した。
カーライルはそれに気づいて笑った。
(もう、なんなの!? 昔から、いつもそう。この男は私のことをなんだと思って――)
「カーライル。いい加減に……!」
『――……愛しています。ヴィクトリア』
魔法のせいか、カーライルのその声は、ひどく甘い声で囁かれたようにヴィクトリアには感じられた。
吐息混じりに、耳元で囁かれているようでくすぐったい。
しかしその言葉の後、カーライルの声は一切聞こえなくなってしまった。
「………………あっ! ちょっと、カーライル!?」
(あの男、最後に爆弾だけ落として……!)
『ヴィクトリア。聞こえているか』
代わりに、落ち着いた声が耳飾りからは聞こえた。
「……れ、レイモンド?」
『ああ。カーライルから変わってもらった。もうすでに聞いただろうが、こちらの調査はまだ少し時間掛かりそうだ。そっちはどうだ?』
相変わらずの業務連絡。
いっそのこと、これでこそレイモンドという気さえして来る。
「とりあえず私のお世話をしてくれる子に話を聞いてるところ。ただ、私をここにつれてきた人が事件に関わっているかどうかは、正直まだよくわからない」
『そうか。わかった』
「うん。そう……。……………」
(どうしよう。さっきのせいで、いつも以上にレイモンドとの接し方がわからない)
『もしかして、カーライルと何かあったのか?』
「え!? ……べ、別に何もないよ」
(とりあえずよかった。レイモンドに聞かれてなくて……!)
ヴィクトリアは心の底から安堵した。
『……困ったことがあれば俺にいえ。アンタは昔から、1人で何でも抱え込もうとするきらいがあるからな』
「……うん。ありがとう。レイモンド」
出会った頃は小さい子どもだったはずなのに、今は何故かその声に安心してしまう。
その時ヴィクトリアは、もしかしたら自分の心の中に欠けたピースがあるとしたら、それを埋めてくれるのは、誰か一人だけじゃないのかもしれないと思った。
ルーファスの自分に向けてくれる真っ直ぐな感情も、カーライルの(意地悪だとは思うが)自分を思っての行動や言葉も、レイモンドの冷静に周囲を見て行動して発言してくれるところも。
きっと、一人だけじゃない――。ヴィンセントとして生きていた頃、一人で全てを背負わなければないのだと思っていたあの頃の自分に、今の彼らは手を差し出してくれているような気がした。
「……ヴァージル・ド・ラ・ヴァレンタイン」
レイモンドとの話を終えて、ヴィクトリアは自分をここにつれてきた男の名前を繰り返した。
ヴィクトリアは今、カーライルたちの後押ししてもらい、新魔王に名乗りを上げようとしている。
本当に魔王となった時――ヴァージルとはどのような関係になるべきなのか。ヴィクトリアにはまだ、わからなかった。
「はい」
ヴィクトリアが逃亡を試みたことは、ルゥから彼に報告されてしまった。
「ここから逃げ出そうなどとは考えるな。……それにこの世界は、お前の体を蝕むかもしれないのだから」
ヴィクトリアは、かつてアルフェリアが魔素中毒になったのを思い出した。
そう考えると、自分が魔素中毒を引き起こさないことはすでにわかってるものの、少しでも可能性がある人間をさらって連れてくるなんて、彼は冷静さにかけているようにもヴィクトリアは思った。
(この言葉が少ない感じ、レイモンドを思い出す……。でも、少し周りが見えてない感じは、ルーファスっぽさもあるのかな?)
レイモンドなら、可能性が僅かでもあるなら、こんな無茶なやり方はしない。
男はヴィクトリアが怪我をしていないかだけ確認すると、ルゥを残してまた部屋を出ていった。
「はあ……」
「すいません。僕のこと、怒っていらっしゃいますか?」
「……怒ってないよ」
つくづく庇護欲を誘う子だ。
ルゥに泣きそうな顔をされると、なんだか自分が、ひどいことをしてしまったような気がしてくる。
本来夜の闇に紛れるコウモリ族の血を引くにも関わらず、白い髪に、まるで朝焼けのような紫がかった瞳。
背中にある小さな羽根は、まるで子どもが大人のふりをして仮装でもしているかのような、立派な仕立ての執事服からぴょっこり覗いている。
羽根は彼の喜怒哀楽を表し、嬉しそうな時はぱたぱたと元気よく動いて、悲しげな表情の時は少し閉じているのだ。
「では、花嫁様は、御主人様をお気に召してくださったということですか?」
期待に輝く瞳。
ヴィクトリアはその目を見ると、強く否定はできなかった。
それに、カーライルからは、吸血鬼族を味方につけろと言われているわけだし――……。ヴィクトリアは、肯定も否定もしない代わりに、ずっと気になっていたことを尋ねた。
「ルゥくん、あのね。実は私、彼の名前もよく知らないんだ」
「御主人様のお名前ですか?」
ルゥはヴィクトリアの質問を聞いて、羽根をパタパタさせた。
「御主人様のお名前は、ヴァージル・ド・ラ・ヴァレンタイン様です!」
(――……『ヴァレンタイン』?)
ヴィクトリアはその名前に聞き覚えがあった。
たしかそれは、吸血鬼一族の当主が引き継ぐ名前だったはずだ。
魔界セレネでは多くの場合、一族の当主は多くの妻を迎え、最も優秀な者がその地位を引き継ぐ。
魔界は実力主義だ。
カーライルやヴィンセントがそうであったように、強い力を持ってさえいれば、先代を『打ち倒す』ことで地位を継ぐことも認められている。
……最も、血族の中で無闇に殺し合うようなことは、歓迎はされていないことなのだが。
「お名前を聞かれたということは、御主人様に興味を持っていただけたということですよね!」
きゃーー!
ルゥは、羽根を元気に上下させながら、まるで恋バナをきいた少女のようにはしゃいでいた。
(うーん。この反応、少しアルフェリアを彷彿とさせる……。まあ、単に恋愛の話にうつつを抜かすような相手が周りにいないせいかもしれないけれど――)
だって、本当に恋愛の話になってしまったら、魔族の三人は自分への執着を見せてくるのだ。笑って話せるような状況にはならない。
(アルフェリア、あのあとちゃんと無事に帰ったかな? 私のこと、心配してないといいけど……)
年の近い唯一の女友だち。
姉のであり、母のようでもある。そんな彼女にヴィクトリアはこれ以上、心配をかけたくはなかった。
それに、アルフェリアは濃い魔素に耐えられない体質だ。どんなに心配しても、アルフェリアはヴィクトリアを探しにセレネに来ることはできない。
(とりあえず、まずはルゥくんから話を聞くとしよう)
幸い髪飾りで、カーライルたちと連絡を取ることはできる。
情報集めは急務だ。
「ルゥくんは、ヴァージルさんといつから一緒にいるの?」
「僕ですか?」
ルゥは可愛らしく、こてんと首を傾げた。
「僕がヴァージル様に拾っていただいたのは、僕がまだ赤子の頃でした」
「? 赤ちゃんの頃から一緒なの?」
「はい。――……あ、そっか。花嫁様は、この世界のことを、あまりご存じないのですよね。僕は、魔族の中でも、コウモリ族という一族なんです。コウモリ族は、『夜の王』である吸血鬼の一族にお使えするために存在しています。コウモリ族は、セレネでは戦闘能力が低い種族で、僕たち一族は吸血鬼族に忠誠を誓う代わりに、外敵から守ってもらいながら血を繋いできました」
ルゥは、自分の胸に手を当てた。
「ですが、僕は白色コウモリ。コウモリ族の中で、『変異種』と呼ばれる存在で、他のコウモリ族からすると、僕は『外れもの』なんです」
「……」
「そんな僕を、御主人様は城に迎えて育ててくださいました。だから僕は、髪の毛一本から足の爪先まで全部、全て御主人様のものなのです」
魔族は普通、力の弱い生き物を認めない。
『変異種は』その典型だ。
特別美しい見目をした彼らは、同族によって幼いうちに殺されるか、もしくは強い力を持つ者に『飼われ』る事が多い。
後者の場合、それは強者における弱者の精神的な支配という意味であり、普通今のルゥのように、瞳を輝かせて生存する例などヴィクトリアは聞いたことがなかった。
ヴァージルを御主人様と呼ぶルゥの瞳には、ヴァージルへの信頼と敬意が宿る。
それだけで、彼がルゥのことを、これまでどれだけ大事に育ててきたのか、ヴィクトリアにはわかる気がした。
だがその関係はきっと、人間界では美談でも、セレネでは理解されない。
ルゥをそばに置くことは、いくらヴァージルに能力があったとしても、はたから見れば『物好き』な行動にしか映らない。
「ご主人様が、僕を救い育ててくださった理由は、僕にもわかりません。ただ、『あの方ならばそうするだろう』と――。御主人様は昔、そうおっしゃっていました」
「……『あの方』?」
「すいません。それがどなたかまでは、僕は存じ上げなくて」
ルゥは苦笑いした。
「ただ、花嫁様には、僕は知っていてほしいのです。御主人様は、本当にお優しい方なのです。僕のようなものを世話して下った。今の僕が居るのは、御主人様のおかげ。……だからあの方ならきっと、この世界の誰よりも花嫁様のことも大事にして幸せにしてくださると、僕はそう思うのです」
◇
「誰より幸せ、かあ……」
夜、就寝のお世話を終えてルゥが部屋を出た後、ようやく部屋に一人になったヴィクトリアは、寝台の上で寝転がりながら今日聞いた話を思い出した。
自分を誘拐した男だとしても、その彼に育てられた子どもを見れば、彼の人柄が決して悪人でないことはすぐにわかった。
だが彼が無許可でデュアルソレイユに渡っていたことは紛れもない事実であり、ヴィクトリアはその現場で、吸血行為さえ目撃している。
(正確に言えば、彼が直接吸血しているところを見たわけじゃないけど……)
だとすると、事件の犯人は他にいるのだろうか?
彼が吸血鬼族の当主の名前を継いでいることを考えると、彼自身、一族の誰かを止めるために、あの場にいた可能性はある。
「でも、だからって、私を無理矢理ここにつれてきて『花嫁』にしようとしてる事実は変わらないし……」
人間界デュアルソレイユでの吸血事件と、永続的な花嫁にするためのデュアルソレイユでの少女誘拐。
人間と魔族の関係を脅かすという点で考えれば、どちらにしても問題があることに変わりはない。
(……でも、あの時自分の一族の尻拭いに犯人を追っていたとしたら、誘拐なんてするものなのかな?)
『初恋童貞なのです!』
その時ヴィクトリアは、ルゥの言葉を思い出した。
百戦錬磨のような外見をしているものの、案外それが原因でヴァージルは自分をここに連れてきたのではと考えると、何故かしっくり来てしまった。
(……一目惚れ? とか? 人間と魔族の関係を良好に保ちたい『魔王』としては、かなり頭がいたいけれど)
「いや、今これはもう考えないようにしよう」
別にヴィクトリアは魔王として、魔族に処罰を下したいわけではないのだ。できれば平和的に、穏便に解決したい。
ヴィクトリアは頭を振った。
しかしその時――ヴァージルではない別の相手のことが、ヴィクトリアの頭に浮かんだ。
(そういえばあの時、ルーファス……)
ルゥの言葉をきいて、ルーファスが笑っていたことを思い出す。
まあ普通、五〇〇年も生きていたなら、多少の経験はあるものなのかもしれないが……。
……なんだか、少しだけ心がモヤッとする。
自分は一人を選べていないのに、彼らに自分だけを思ってほしいと考えてしまった自分に気づいて、ヴィクトリアは胸を押さえた。
(……ルーファスに、自分だけに微笑んでほしいって、そう思ってしまった)
こんなことを願うなんて、欲張りだ。我儘だ。
あの外見に性格だ。
ルーファスの人間界での評価を思えば、魔界人間界問わず、求められても不思議ではないのに。
(ルーファスたちが私を探していたことを、他の魔族は知らなかっただろうし。……違う。私がヴィンセントの生まれ変わりということまではまだ公表してないはずだから、きっと彼らの気持ちは、今は私やアルフェリアとエイルしか知らないんだ)
ヴィクトリア・アシュレイが、ヴィンセント・グレイスの生まれ変わりであり、人間に有効的だった三人の魔族が実はヴィンセントを探すためにデュアルソレイユを訪れていた――このことが発覚すれば、魔族・人間それぞれに、三人が批判される可能性は高い。
『魔王ヴィンセント』の過去を清算できなければ、いくら生まれ変わっても、世界は何も変わりはしない。
(……私は、本当にやってないのに。ディーが愛した世界を、人間を殺そうだなんて思うはずがない。たとえ彼らが、私のことをどんなに蔑んだって、私はこの力を、誰かを傷つけるために使いたくなかった)
確かに魔族によるデュアルソレイユの侵攻を止めるために、ヴィンセント・グレイスがルーファスとレイモンドに魔王として指令をだした過去はある。
でもそれは、誰かを傷つけるためではなく、罪なき人の命を守るためだった。
『言葉は、誰かに伝えるためのものだから。声が、言葉が届くということは、幸せなことだよ。言葉が心に響くなんて――君は、本当に凄い力を持っているんだね』
泣いてしまいたい時はいつだって、遠い日の言葉を思い出す。
幼い頃、自分の頭を撫でて笑ってくれた優しい人のことを。
『君がその力をもって生まれたことに、きっと意味はある筈だよ。――だから。どうか、下を向かないで』
その言葉に対する答えは、今も出せてはいないけれど。
「……ディー」
ヴィクトリアが、その名前を口にした時だった。
髪飾りから声が聞こえてきた。
『ヴィクトリア』
「はいっ!」
思わず声が裏返る。
ヴィクトリアは慌てて、カーライルに返事をした。
『いま少しお時間よろしいでしょうか? わかったことを報告をしてください』
「報告って何も、普通だよ。今のところ私になにかしてくる気配はないし、お世話をしてくれるルゥくんと過ごしてるだけ」
『なるほど、まずは子どもから手懐けていると』
「カーライル? ……別に、そういうんじゃないから。それより、そっちの調査はどうなの?」
『すいません。今回のことはことがことですから、信頼できる相手にしか頼めなくて。まだ全ての調査は終わっていません。ただ、やはり最近、類似性のある事件が起きていたのは事実のようです。事件の調査と並行して、二つの世界を繋いでいる扉の捜索も行っています』
魔王の仕事をこれまで代行してきたカーライルだ。
人間に事件が魔族の仕業であると多く知られることを避けたいという気持ちと、『夜の王』と呼ばれてきた吸血鬼族と余計な荒波を立てたくないという両方の理由で人員をあまり割けないのだろう。
ヴィクトリアはカーライルの話を聞いて、理由を推測した。
「そっちを先に対処するほうがいいよね。もし行き来ができなくなれば、それ以上事件は起きないわけだし」
『はい。私も貴方と同意見です』
「……そっか。わかった。ありがとう」
『ヴィクトリア。なんだか今日は、少し声音が暗いようですが』
「そ、そんなことは……」
『もしかして、ルーファスのことが気になっているのですか?』
「……」
ズバリ言い当てられて、ヴィクトリアは無言になった。
『どうやらあたりのようですね』
この男に隠し事はできないらしい。
勘の鋭い蜘蛛男に、ヴィクトリアははあ、と息を吐いた。
「わかってる。五〇〇年も経ってるんだから、私の知らないルーファスがいたって、何も不思議じゃないのに」
『……ヴィクトリア』
今のルーファスを、ヴィクトリアは心から信じている。
だからこそ彼に、自分には見せない側面《かお》があったということにも、自分はショックを受けているのかもしれないとヴィクトリアは思った。
どちらにしても、ルーファスのことを全部知りたいという、独占欲のような感情によるものかもしれないけれど。
『赤のルーファスという名前で彼が呼ばれているのは知っていますよね? 正確に言うと、彼が広くそう呼ばれるようになったのは、貴方が亡くなってからのことなんです』
「?」
『貴方があの日、命を落として――貴方を追い詰めた者たちが、当時のルーファスは許せなかった。……だから、その魔族の特定や潜入調査のために、少し、彼は個人的にも行動していた時期がありました。その頃の彼は『金色狼』としての身分を隠し、女性に取り入っていたことがあるようで――』
「……」
『……金色狼の一族は、昔から気性が少し荒いですから』
幸福な物語だと、金色狼たちはいう絵本の内容は、ヴィクトリアからすれば血みどろ物語だ。
話の評価の違いは、価値観の違いによるものだろう。
(じゃあルーファスが、そういう経験が多い理由って、もしかして私の――)
そう思うと、ヴィクトリアは胸が痛かった。
『言っておきますがこの件で、貴方が心を痛める必要はありません。それに、過去に何があろうとも、今のルーファスは、貴方の目に映るそのままの彼です』
カーライルは三人の魔族の中で最年長者だ。
そして彼はヴィンセント時代から、ヴィクトリアをずっと支えてきた。
『貴方を一度失った後――私が直接、貴方を守るための剣として、盾として選んだ。その人柄を疑う必要はありません。それに貴方を取り戻した今、彼はもう、あの時の彼ではない』
「……」
『ヴィンセントの転生者を探す』――カーライルはそのために、ルーファスとレイモンドを選んだ。
いずれ再び出会った時に、二人にヴィクトリアを守らせるために。そのために、二人はデュアルソレイユでの評価を上げるためにも活動してきた。
(それは、全部、全部――)
『――ヴィクトリア』
「?」
何故か優しい声音でカーライルに名前を呼ばれ、ヴィクトリアは驚いた。
まるで、ルーファスのような甘さを含む声だった。
『貴方のことを抱きしめたい』
「……へっ?」
まさかのカーライルの言葉に、ヴィクトリアは思わず素っ頓狂な声をあげた。
『貴方の手に私の手を重ねて、私の方へと引き寄せて、貴方のことを抱きしめたい。貴方の手は小さいから、私が手を重ねたら、きっと逃げられなくなってしまうでしょう。そうやって困っている貴方を見つめて、貴方が今私のそばにいてくれるその瞬間がが、現実であることを確かめたい。……貴方の指先に口付けを落として、驚く貴方の顔を見ながら、貴方のそばで笑いたい』
髪飾りの魔法のせいで、まるで耳元で囁かれているかのように、カーライルの声が頭に響く。
「……か、かーらいる?」
(……なんでだろう。すごく、胸がどきどきする……)
まるでカーライルが本当にそばにいて、抱きしめられたような気持ちになって、ヴィクトリアは鼓動を速くした。
ヴィクトリアの想像の中で、カーライルはいつものような意地悪な笑い方ではなくて、優しく彼女に微笑んでいた。
『――……ヴィクトリア。今私が言ったこと、ちゃんと、想像できましたか?』
からかうような、でも甘さを孕んだ声。
ヴィクトリアはその言葉を聞いて、現実に引き戻された。
「な、な、な……っ!」
ヴィクトリアは顔を真っ赤にしながら怒った。
しかし、さっきまでドキドキしていたせいで、怒りのスイッチがすぐには入らない自分にも腹立たしささえ覚える。
(やっぱり、カーライルはカーライルじゃない!!!! この嘘吐き蜘蛛男! 人の心を弄ぶ冷血漢!!!!!!!)
『大丈夫。必ず迎えにいきますから。それまではそこで、大人しくしていてください。その時に、今言ったことと、同じことをしてあげます』
「…………し……しなくていいっ! しなくていいからっ!」
『ははっ!』
一瞬ヴィクトリアは、反応に時間を要した。
カーライルはそれに気づいて笑った。
(もう、なんなの!? 昔から、いつもそう。この男は私のことをなんだと思って――)
「カーライル。いい加減に……!」
『――……愛しています。ヴィクトリア』
魔法のせいか、カーライルのその声は、ひどく甘い声で囁かれたようにヴィクトリアには感じられた。
吐息混じりに、耳元で囁かれているようでくすぐったい。
しかしその言葉の後、カーライルの声は一切聞こえなくなってしまった。
「………………あっ! ちょっと、カーライル!?」
(あの男、最後に爆弾だけ落として……!)
『ヴィクトリア。聞こえているか』
代わりに、落ち着いた声が耳飾りからは聞こえた。
「……れ、レイモンド?」
『ああ。カーライルから変わってもらった。もうすでに聞いただろうが、こちらの調査はまだ少し時間掛かりそうだ。そっちはどうだ?』
相変わらずの業務連絡。
いっそのこと、これでこそレイモンドという気さえして来る。
「とりあえず私のお世話をしてくれる子に話を聞いてるところ。ただ、私をここにつれてきた人が事件に関わっているかどうかは、正直まだよくわからない」
『そうか。わかった』
「うん。そう……。……………」
(どうしよう。さっきのせいで、いつも以上にレイモンドとの接し方がわからない)
『もしかして、カーライルと何かあったのか?』
「え!? ……べ、別に何もないよ」
(とりあえずよかった。レイモンドに聞かれてなくて……!)
ヴィクトリアは心の底から安堵した。
『……困ったことがあれば俺にいえ。アンタは昔から、1人で何でも抱え込もうとするきらいがあるからな』
「……うん。ありがとう。レイモンド」
出会った頃は小さい子どもだったはずなのに、今は何故かその声に安心してしまう。
その時ヴィクトリアは、もしかしたら自分の心の中に欠けたピースがあるとしたら、それを埋めてくれるのは、誰か一人だけじゃないのかもしれないと思った。
ルーファスの自分に向けてくれる真っ直ぐな感情も、カーライルの(意地悪だとは思うが)自分を思っての行動や言葉も、レイモンドの冷静に周囲を見て行動して発言してくれるところも。
きっと、一人だけじゃない――。ヴィンセントとして生きていた頃、一人で全てを背負わなければないのだと思っていたあの頃の自分に、今の彼らは手を差し出してくれているような気がした。
「……ヴァージル・ド・ラ・ヴァレンタイン」
レイモンドとの話を終えて、ヴィクトリアは自分をここにつれてきた男の名前を繰り返した。
ヴィクトリアは今、カーライルたちの後押ししてもらい、新魔王に名乗りを上げようとしている。
本当に魔王となった時――ヴァージルとはどのような関係になるべきなのか。ヴィクトリアにはまだ、わからなかった。